No.9

おつかい
 ルイスとフレッドが喧嘩と言えない程度の喧嘩をしてモランが話を聞いてあげる話。
 本編5年前くらい。



「どうして言った通りにしなかったんですか」

 廊下の向こうから咎めるような声がして、モランはぎくりとして足を止めた。
 燭台の明かりの中に、ルイスの姿が見える。
 こちらに背を向けているから、街で酒をひっかけてこっそりと裏口から帰宅したモランへの小言ではなさそうだ。その後も何か二言三言話していたが、内容はよく聞き取れない。
 近づいてみると、話し相手はフレッドだった。ルイスの肩越しにモランと目が合うと、彼はちょっと気まずそうに、ごく親しい間柄の人間にしかわからない程度に顔をしかめた。
 フレッドが自分の後ろを見ている事に気が付いて、ルイスもこちらを振り返る。
 その隙に、フレッドはルイスに黙礼してそそくさと去っていった。呼び止めようと口を開きかけたルイスだったが、結局はその場で小さく足踏みしたきり黙ってしまった。

「どうした、喧嘩でもしたか?」

 そう声を掛けると、ルイスはモランの方を軽く睨めつけながら「してません……」ともごもごと答えた。
 普段の彼であればさっさと屋敷の仕事に戻るところであったが、今は肩を落として立ち尽くしたままだった。彼の手には幾枚かのコインが握られている。

「……フレッドが何かやらかしたのか?」
「フレッドさんは悪くないです!」
 
 あえて踏み込んだ言い方をしてみると、間髪入れずに返事がかえってきた。先ほどのきつい物言いは彼にとっても本意ではなかったらしく、きまり悪そうに眉を下げた。
 これは聞いてやったほうが良さそうだ。そう判断して、モランはまだ明かりの灯っている居間に向けてルイスの背中を押した。

「……昼間、兄様たちの新しいスーツを仕立てるために仕立て屋が採寸をしに来ていたんです。その仕立て屋が帰ってしばらくしてから、結婚指輪を忘れていっているのに気が付いて……」

 場所を移すと、ルイスは堰を切ったように喋りだした。モランは戸棚からブランデーを取り出して、ちびちびと飲みながら彼の話に耳を傾けた。
 曰く、ルイスが床に転がっている指輪を見つけたのは、夕食もとうに終えた夜八時近くの事だった。
 作業の際に外したか、落としたかしたらしい。まだ連絡が無いということは、落としたことに気付いていないか探している最中なのだろう。
 貴重品であるし、夫婦間のいらぬもめ事の種になっては気の毒だ。すぐに届けてやらねばと思ったのだが、あいにくルイスにはまだ屋敷の仕事が残っていた。モランは夕食後から姿が見えなかったし、まさか兄たちにおつかいを頼むわけにもいかない。

「それで、フレッドさんにお願いする事にしたんです」

 つい最近使用人として迎えられたばかりの少年は、柔らかい布に包んだ指輪を受け取りながら「わかりました」と神妙に頷いた。
 フレッドの正確な年齢は、彼自身にも分からない。「十四……くらいです。多分」と本人が申告したので、皆そういうものとして受け入れている。
 けれど、もともとそういう体格であるのと、貧民街育ちで栄養が足りていなかったのとで、フレッドはひどく小柄だった。背伸びしてサバを読むような性格でもないのでおおよそ十四歳である事自体は誰も疑っていないのだが、見た目だけならまだほんの十歳程度なのだ。
 ルイスも子供の頃は小柄な方であったが、病から解放されてからはぐんぐんと順調に背を伸ばしている。使用人とはいえ、つむじが見えるほど小さな子どもを、日が暮れてからおつかいに出すのは少々申し訳ない気持ちになった。

「だから、フレッドさんに多めに馬車賃を渡しました。乗り合い馬車でスリが頻発していると新聞にありましたし、この間はウエスト・エンドの方で強盗騒ぎも……。『物騒なので、辻馬車を使ってくださいね』って言ったんです」
「あー……、何となくわかったぞ。フレッドの奴、歩いて帰ってきたのか」
「そうなんです!」

 ルイスは椅子からぐっと身を乗り出した。
 彼は当然、「夜遅くに一人で出歩くのは危ないから、辻馬車で屋敷から仕立て屋までを往復するように」と伝えたつもりだったのだ。
 しかしフレッドは、ルイスからのこの言葉を「大事な指輪を盗られないように、乗り合い馬車を使うのは避けよ」という意味で了解したのだろう。
 彼は言いつけ通り辻馬車を使って仕立て屋へ向かったが、帰りは盗られるものも持っていないのだから辻馬車を使う必要は無いと考えた。運賃の安い乗り合い馬車の最終便に飛び乗り、あとは道のりの大半を歩いて帰ってきたらしい。

「辻馬車で直行すれば往復で一時間もかからないはずなのに、十時になっても帰ってこなくて……。兄さんたちに報告して探しに行くべきか迷っていたら、ついさっき、やっと帰ってきたんです」
「それで、本人はけろっとした顔で釣り銭を返してくるもんだからついキツい言い方をしちまった、と」
「はい……」

 ルイスはしおしおとうなだれた。

「往復の馬車賃くらい、僕がアルバート兄様から任せてもらっているお金の範囲内です。兄様だって、決して無駄なお金とは考えたりなさらないはずです」

 それはモランも同意見であった。アルバートが使用人のための必要経費を惜しむとは到底思えない。
 しかしそれはこのモリアーティ家が少々特殊だからであって、普通の貴族家であれば、卑しい出自の使用人の扱いなど知れている。夜中であろうと叩き起こされ「今から歩いて行ってこい」と放り出されることもざらにあるだろう。
 自分の正確な年齢すら把握していない子供が、貧民街でろくな生活を送っていなかった事など想像に難くない。未だこの屋敷の生活に慣れないフレッドには、ルイスが馬車賃を多めに持たせてくれた理由など想像もつかないのだった。

「……モランさん、フレッドさんの様子を見てきてくれませんか」

 ルイスがいつになくしおらしくそう頼んできた。
 モランはグラスを傾けながら考える。ルイスとて、貧民街の生まれだ。フレッドのその感覚が理解できてしまうからこそ、もどかしいのだろう。

「フレッドさんがそこまで弱くない事はわかっています。彼の運動能力は素晴らしいと、あのジャック先生も褒めていらっしゃいましたから。きっと強盗にだって負けないでしょう。それでも、自分より年下の子を心配するのは当たり前のことではないですか。何かあってはいけないと思ったから、僕は……」
「ふっ、クク……」
「な、何で笑うんですか」
「いや、それとよく似た言い分をウィリアムやアルバートから散々聞かされたもんだからな。『ルイスにはまだ早い』『一人で行かせるのは心配だ』ってよ」
「う……」
「そういう時、お前の兄貴たちはどうした?」
「僕が納得できるまで、理由を説明してくれました……」
「なら、お前もそうすべきじゃねぇのか?」
「…………」
「なに、あいつだって、お前にちょっと怒られたくらいでしくしく泣いてるようなタマじゃねぇよ。むしろお前と同じで、素直に見えて実は頑固で我が強い。ちゃんと言って聞かせてやれ」
「……そう、ですね。モランさんの言う通りです。行ってきます」
「おう」

 ルイスはすっくと立ち上がった。
 去り際にはいつもの調子を取り戻して、「今日はこれでおしまいですよ」とブランデーの瓶を取り上げて戸棚に戻していった。
 これならば心配することもないだろう。モランはグラスに残ったブランデーを喉の奥に流し込んだ。


※※※※※


「……ってな事があったんだ」

 明くる日、モランは昨夜と同じ居間のソファに腰掛けながら、アルバートとウィリアムに昨晩の出来事を語って聞かせた。
 二人は顔を見合わせて、くすくすと笑いあった。

「そうだったの。ルイスがそんな事を」
「フフ、これであの子も私たちの気持ちをわかってくれたかな」
「朝食の時にはぎくしゃくした様子もありませんでしたし、きっとうまく仲直りできたんでしょう。モラン、取り持ってくれてありがとう」

 ウィリアムからの素直な感謝の言葉に、モランはくすぐったい気持ちになった。彼への個人的な忠誠心とは別としても、こうして彼らの助けになれることは嬉しいのだ。
 モランがテーブルから紅茶のカップを手に取ったタイミングを見計らって、長兄が口を開く。

「……しかし、この話にはもっと根本的な問題があると思わないかね? 大佐」
「ん?」
「ルイスもフレッドも優しいから、あえて何も言わなかったみたいだけど……ね?」
「あ、えーっと……」

 アルバートから不穏な問いが投げかけられる。
 雲行きが怪しくなってきたことを察知してモランは腰を上げかけたが、ウィリアムからすかさず追撃が入り、逃亡のチャンスを逸した。
 アルバートは優雅に脚を組み直し、さらに畳み掛ける。

「そもそも大佐が遅くまで飲み歩いてさえいなければ、フレッドが夜中に一人で出歩く必要も、ルイスが余計な気を揉むこともなかったのだよ。大佐が行ってくれば済む話だったのだから。二人にいらぬ苦労をかけて、年長者として何も思うところはないのかね? これを機に生活態度を改めたまえ」
「僕としても、いざという時に大人のモランがいてくれた方が安心かな」
「ぐっ……わーったよ、しばらくは控える!」
「『しばらく』? まったく反省の色が見えないな。頻度の話をしているのではないのだよ。だいたい……」

 滔々とお説教は続いた。
 さらにはウィリアムが「そうですね」「兄さんの言う通り」と絶妙なタイミングで合いの手を入れるので、モランも逃げるに逃げられない。
 と、そんな居間の様子をドアの隙間から覗き見する人影があるのに、ウィリアムは気がついた。ルイスとフレッドだ。
 モランが自分のせいで主人から叱られているとでも思っているのだろうか、フレッドはおろおろとこちらの様子を伺っている。
 そんな彼の肩を、ルイスがぽんぽんと叩いて何事か囁きかけた。内容まではウィリアムの耳まで届かなかったけれど、その呆れたような表情からして「放っておいて仕事に戻りましょう」とでも言ったのだろう。
 フレッドはもう一度室内に視線をやったが、結局はルイスの後について廊下の向こうへ消えていった。
 これは兄貴分としての威厳が失墜する日もそう遠くないな。ウィリアムは苦笑した。

初出:Pixiv 2022.02.06

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