No.10

彼の手には銀貨だけ
 フレッド過去捏造。

 chapter 1:月夜

 八月にしては肌寒い夜だった。
 ひんやりとした空気がアルコールで熱った肌に心地よく、モランは気分良く夜道を歩いていた。
 今夜はカードで調子良く勝ち続け、ひと儲けすることができた。いつもならもう一軒酒場を回るか、女を買うかしたところだったが、何だか今日は歩きたい気分だった。珍しく街の空気が澄んだ夜だったからかもしれない。ウィリアムの勧めで怪しげなドイツ人技師に取り付けてもらった義手がようやく体に馴染み始め、ここのところは体の調子もすこぶる良かった。
 こうして月を眺めながら歩いていると、あの悪夢のような光景が遠い昔の事のように思われた。忘れるつもりはないし到底忘れられるものでもないけれど、それでも今この瞬間モランの心は凪いでいた。こんなにも穏やかな気分になる瞬間などもう一生訪れないと思っていた。
 しかし、軍人として鍛えあげられたモランの五感は、いつ如何なる時でも鋭敏だった。
 煙草を吸おうと外套のポケットに手を入れた時、路地の奥から争うような声と物音が聞こえた。
 はじめは酔っぱらい同士の喧嘩かと思った。しかしどうも様子がおかしい。足を止めて耳をそばだてると、低い話し声が聞こえてきた。

「……こいつで間違いないのか?」
「あぁ。くそっ、手こずらせやがって」

 暗がりに二人の男が立っていた。二人の足元にうずくまる影が随分と小さいものだったので、最初は犬か猫でもいたぶっているのかと思った。男の一人が、足元の何かを踏みつけるように蹴った。ぐぅ、と苦しげな声が聞こえた気がした。続いて、ひび割れた石畳の上に白い手が投げ出されるのが見えた。
 小さな、子供の手だった。

「おい! その辺でいいだろ」

 声をかけると、男たちの背中がぴくりと震えた。彼らはゆっくりとモランの方を振り返る。

「財布でも盗られたか? だからってガキ相手にそこまでするこたぁねェだろ。返すもん返してもらったら手打ちにしようぜ」

 男たちは何も答えない。互いに顔を見合わせて、突然現れたモランに対してどうすべきか迷っているようだった。その表情には怯えのような、焦りのような色が浮かんでいる。男の一人、伸び放題の髭を顔に貼りつけた男はその間も、逃げられないように倒れた子供の足を踏みつけていた。
 しばらくして、背の高い方の男が答えた。

「あんたには関係ない」
「あぁそうかもな。だが俺だってせっかく良い気分だったんだ。子供が痛めつけられてるのを素通りするってのは寝覚めが悪いんだよ」

 モランが路地に踏み込むと、男たちの瞳にちらついていた怯えの色が、怒りの炎に変わった。
 間違いない。こいつらには何かやましい事がある。モランの勘がそう告げた。
 適当にいさめるだけのつもりだったが、こうも様子がおかしいとなるとますます放っておけない。モランは大げさに足を踏み鳴らしながら男たちに歩み寄った。

「来るんじゃねぇ」

 男の一人が、懐から鈍色に光るナイフを取り出した。ごく一般的な市民であれば恐れをなして退散するところであったが、幾度となく死線をかい潜ってきた元軍人相手では脅しにすらならない。
 むしろ相手が刃物を出してくれるのであれば好都合だ。遠慮なくやり返せるのだから。
 モランは男に得物を振るう隙すら与えず、腕を捻り上げて煉瓦造りの壁に叩きつけた。背中と後頭部を強かに打った男は「がっ」と声をあげると、ずるりとその場に崩れ落ちる。

「お前もやるか?」

 顎を上げながら挑発すると、髭づらの男はひっと息を呑んだ。
 仲間がこうもあっけなく昏倒させられ、この目の前の大男には敵わないと悟ったのだろう。彼は仕方なく子供を踏みつけていた足をどかすと、倒れた仲間に駆け寄った。
 慌てて逃げていく男たちの背中を見送って、モランは倒れた子供へ向き直った。
 まだ十歳ほどの少年だった。擦り切れたジャケットに、つぎはぎだらけのズボン。どこかで落としたのか靴は片方しか履いていない。小さな頭に、モランを見上げる瞳だけがやけに大きく見えた。

「大丈夫か?」

 助け起こすと、少年は「いっ」と小さく悲鳴を上げた。見ると、ジャケットの二の腕辺りが大きく裂けていた。
 切りつけられたのかとひやりとしたが、傷は浅く出血もすでに治まっている。刃物による切り傷というよりは、先の尖ったもので引っかいてしまったことでできた傷痕に見えた。
 モランはぼさぼさに絡まった黒髪をかき上げて、彼の額に手を当てた。傷自体は大した事はない。しかしろくに手当せずに放置したために発熱しているようだった。

「おい、わかるか? しっかりしろ」
「ぁ………」 

 少年は数回瞬きすると、緩慢な動作で上着のポケットから何かを取り出した。
 これ、と小さく呟きながらそれをモランに差し出す。右手の義手にのせられたのは、一枚の銀貨だった。助けた礼のつもりだろうか。モランは思わずため息をついた。

「いらねぇよ、取っとけ」

 モランは銀貨を彼のポケットへ押し込んだ。
 腕の傷口に触れないように注意しながら、彼を背負う。何度かこうして寝落ちたウィリアムを運んだ事もあったが、彼とは比べ物にならないほど軽い。外套越しでも骨が当たる感触がわかる程だ。
 街灯もない狭い路地を、モランは早足で駆けていった。しばらく歩くうちに少年は眠ったらしく、モランの背中に身体を預けたまま動かない。
 思ったより面倒なことに首を突っ込んでしまったようだ。
 この子供は見るからに浮浪児だ。てっきり盗みか何かをやらかしたところを捕まって小突き回されているのかと思ったが、そうであればあの男たちがモランにまで襲いかかる理由はない。彼らの暴力にある程度の正当性があったのであれば、モランにそう弁解すればいいのだから。奴らの方にこそ後ろ暗い事情があったから、ナイフを取り出したのだ。
 この後は適当に馴染みの酒場にでもこの子供を預けていけばいいと考えていたが、どうにもきな臭い。
 モランはしばし思案した後、ロンドン郊外へと足を向けた。

※※※※※※

 モリアーティ邸は、長子アルバートの成人に合わせて再建したまだ真新しい屋敷だ。ウィリアムに見出され拾われたモランも、表向きは使用人として厄介になっていた。
 見上げると、二階には明かりが灯っていた。ウィリアムもアルバートもまだ起きている。
 使用人用の通用口からそっと屋敷に入ると、ルイスに出くわした。戸締まりをして回っていたらしい。
 
「モランさん?」

 ルイスはきょとりと大きな目を瞬かせた。人より少し遅いばかり成長期を迎えてようやく体つきが大人びてきたと思っていたが、ふとした瞬間に見せる表情はまだまだ幼なげだ。
 夕食後にモランが屋敷を抜け出していくと、大抵の場合は翌朝まで戻らない。常よりも早い帰宅に訝しげな顔をしていたルイスだったが、モランが背中に子供を背負っているのに気付いてさっと顔色を変えた。

「その子は? 具合が悪そうですがまさかモランさん……」
「俺のせいじゃねぇって! ちょっと面倒な事があって……ウィリアムとアルバートはまだ起きてるな?」
「えぇ、先ほどお部屋に戻られたばかりなので」
「悪いが部屋貸してくれ。使用人部屋のどれかで構わないから……」
「一階のゲストルームの方が近いです。そちらへ運んでください。兄さんと兄様を呼んできます」

 ルイスはてきぱきとモランの手に鍵束を押し付けると、音もなく廊下を駆けていった。

 アルバートのそつのない立ち回りにより、この屋敷に外部の人間が招かれることは皆無と言っていい。このゲストルームが使われることもこれまでほぼ無かったはずであるが、室内は十分に掃除が行き届いていた。
 品の良い調度品には埃の一つもなく、ベッドには糊のきいたシーツがかけられている。働き者の末の弟には感服するばかりだった。
 ベッドに横たえた少年はまだうとうとと眠っているようだった。傷の具合を確認するため、モランは彼のジャケットを脱がせた。と、ポケットから先ほどのコインが転がり出る。モランはそれを拾ってサイドテーブルの上に置いた。
 やはり腕の引っかき傷は深くない。しかしそんな傷でも、あともう少し深ければ骨が見えるのではないかとさえ思えてしまうほどに痩せていた。先ほどの男たちに殴られた際に出来たであろう打撲もいくつがあったが、熱が下がるまで栄養のあるものを取らせて休ませるのが一番だろう。
 そうこうしている間に、ルイスがウィリアムとアルバートを連れて戻った。ウィリアムは救急箱を、ルイスは水差しとコップが載った盆を手にしている。

「お帰りモラン。その子が?」
「あぁ、悪ぃな……」
「大佐が珍しく善行をなそうとしているのだから、我々だって手を貸さないわけにはいきませんよ」
「そりゃどういう意味だアルバート!」

 兄たちが軽口を叩いている間にも、ルイスは段取り良く少年の傷口を検分し、救急箱から清潔なガーゼと消毒液を用意していた。
 すると、人の気配に気づいたのだろうか。少年がうっすらと目を開いた。まだ熱と眠気でぼんやりとしているようで、どこか視線が定まらない。

「……」
「大丈夫? まだ横になっていていいからね」
「熱もあるみたいですね」
「大佐、医者を呼んできてください。当家の名前を出せばすぐに来てくれます」

 アルバートは手帳に住所を書きつけると、そのページを破いてモランに渡した。その言葉を聞いて、少年ははっとしたように目を見開いてふらふらと身を起こした。

「……あの、ごめんなさい。大丈夫です。すぐに出ていきます」
「何言ってるの。寝ていないと」
「もう、平気です。お医者様を呼んでいただいても、お金が払えません。もう行かないと……」
「こんな夜中にどこへ行くんだい。お金の事は気にしなくていいから、休んでいきなさい。君の家には明朝連絡しよう」
「え、あの」
「起き上がる元気があるなら、先に着替えて何か食べた方がいいですね。準備してきます」
「着替えは僕が取ってくるよ、ルイス」
「ありがとうございます、兄さん」

 三兄弟から矢継ぎ早に畳み掛けられて、少年はベッドに押し戻された。彼に毛布を掛けてやりながら、アルバートは「早く行け」と言いたげにモランへ目配せした。
 廊下に出てから、モランは着替えを取りに二階へ上がろうとするウィリアムを呼び止めた。

「悪いな。厄介ごと持ち込んじまって」
「いいよ。モランが僕らを頼ってくれて嬉しい」

 彼が嫌な顔をするとは少しも考えていなかったが、その迷いのない答えにモランは表情を緩めた。

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