No.8

前夜
 踊り子事件前夜のフレッドとモランの話。

 僕が屋敷に戻った時、ルイスさんは用事で街へ出かけた後だった。
 ウィリアムさんもまだ大学から帰ってきていないらしい。かわりに、居間の窓辺にモランがどっかりと座り込んでいた。

「おう、そっちはどうだ」
「もう済んだ」

 僕は短く答えた。モランも心得ているので、いちいち深く尋ねてきたりはしない。
 開け放った掃き出し窓から足を投げ出して、どうやら銃の整備をしているようだった。こんな所でやる事ではないだろうに、という僕の考えを読み取って、モランは「使用人部屋はまだ湿っぽくて埃が舞うんだよ」と口を尖らせた。
 僕らがこのダラムに呼ばれる前にルイスさんがひと通り掃除を済ませてくれていたとはいえ、この屋敷はしばらく空き家だったのだ。3階の使用人部屋は特に人の出入りが無かったのだから、まぁ、わからない話でもない。
 掃き出し窓が面した庭は高い塀と生け垣に囲まれているし、田舎町の外れにあるこの屋敷のそばをわざわざ通り掛かる者もいないだろう。せめて、モランが煤や油で絨毯を汚さないように見張ることにしよう。そう考えた僕は、窓の桟にもたれて立った。
 モランは僕に構わず、分解したパーツをひとつひとつ確かめて、磨いて、また組み立てていく。
 彼が銃の整備をするところを見るのは、昔から好きだった。その手付きはいい加減に見えて実は限りなく正確で繊細で、一流の職人の手仕事を見ているようなどこか楽しい気分になった。
 しかし、明日の作戦で使う銃は、兵器科が用意した空気銃ではなかったか。彼の手元に広がっているのは、彼愛用の火薬を用いた狙撃銃だ。
 僕の視線に気付いたモランが、また口を開く。

「一流の狙撃手なら、銃のメンテナンスは欠かさないもんだ。『銃の扱い』ってのは的を撃ち抜く腕前だけを指してるわけじゃないからな」
「知ってる。前にも聞いたよ」
「あ? そうだったっけか……」

 淀みなく動かしていた手をちょっとだけ止めて、モランが考えこむように視線をさまよわせる。僕もつられて、その言葉を聞いたのがいつの事だったのかを思い出した。

「あぁ、『鹿狩り』のときか」

 モランがぽつりと呟いて、納得したように頷きながら作業に戻った。 
 『鹿狩り』――数年前、モリアーティ家領内の森へ連れて行ってもらったことがある。いずれ始まる計画に備えて、『銃の扱い』を教わるために。
 モランと、当時すでに軍で訓練を受けていたアルバート様が教官役になり、ウィリアムさんとルイスさんと僕が生徒だった。銃の構造の解説に始まり、メンテナンスや運搬の方法について講義を受けた。
 森に入ればすぐに銃を持たされて撃ち方を教わるとばかり思っていた僕に、モランは先ほどと同じことを言ったのだった。

「あの時はウィリアムから質問責めにあって散々だったっけな……。あの時ばかりはアルバートに感謝したぜ。あいつが止めなけりゃ日が暮れるまで終わらなかったからな」

 モランが懐かしげに呟いた。
 狙撃手には特に、数学や物理学の知識も求められるものらしい。標的との距離の測り方や弾丸の軌道を予測する計算式についてモランが軽く触れると、ウィリアムさんは「モランとこんな話ができるなんて!」と目を輝かせた。
 そこからは即興の弾道学講座だった。モランはウィリアムさんからの質問にしっかりと回答できているように僕には見えていたが、のちに数学教授となったほどの人だ。彼の理解が深まるたび質問はどんどん鋭さを増して、モランは頭を抱えながら唸り声を上げる羽目になった。ルイスさんは二人に付いていこうと必死に食らいついていたが、僕は早々に降参した。学校にすらまともに通った経験のない僕にはあまりにも高度な内容だったからだ。

「確かお前は、鹿を仕留め損ねてしょげてたな」

 モランがくつくつと喉を震わせて笑った。
 あの時の事はよく覚えている。
 座学を切り上げ、木の的を使って練習をした後は、生きた獲物を狙う訓練もした。用いたのが一般的な猟銃ではなかっただけで、撃ったのはもちろん本物の鹿や野鳥だ。猟師でもない僕らが野生動物を相手に拳銃の射程圏内まで接近するのは難しいので、狙撃銃を使った。
 教わった通り、それでもモランと比べるとずっと辿々しい手付きでスコープを覗いて照準を合わせた。
 若いオスの鹿が、遠くから狙われている事も知らずに川辺をのんびりと歩いていた。水を飲もうと彼が足を止めた瞬間を見逃さず、僕は引き金を引いた。
 高い銃声が響いた。発砲の反動でよろけそうになって、僕は慌てて腹に力を込めて踏ん張った。もう一度スコープを覗くと、僕が放った弾丸は鹿の横腹を抉っていた。
 透明だった川の水が、みるみる赤く染まっていく。姿の見えない敵から何とか逃れようと、彼は何度も膝をつきそうになりながら、細い脚を懸命に踏ん張って木立の中へ隠れようとしていた。
 スコープ越しにその怯えた真っ黒い瞳を見たとき、僕はつめたい手で心臓を掴まれたような心地になった。
 再び銃声が響いて、鹿の体がばったりと地面に倒れた。驚いて顔をあげると、隣でモランの構えた銃が細く煙を上げていた。僕が仕留めそこねた鹿の頭を、彼が正確に撃ち抜いたのだ。
 「惜しかったですね」「初めてで当てられたなら上出来だよ。もう数インチずれていれば心臓だった」と、側で双眼鏡を覗いていたルイスさんとアルバート様が話していた。
 僕は確かその時十五歳かそのくらいだったけれど、すでに人を手にかけた経験があった。貧民街での暮らしが長かったから、道端で冷たくなっている人間だって数え切れないほど見てきた。
 それでも、自分や周りの誰かに害を為したわけでもない無垢な生き物を撃つのは、おそろしいと感じた。一撃で仕留めきれず無駄に苦しませてしまった事も、いまだに僕の心を重くしていた。

「フレッド、明日は頼むぞ」

 モランは唐突に、そう言った。
 鹿のことを考えていた僕は、一瞬、モランが何の事を言っているのか分からなかった。
 明日。この国を変える計画のはじまり。
 僕の役目は、死に追いやられたあの女性に扮する事。自分が何故裁きを受けるのかを標的――ダドリーに思い知らせる重要な役割だったが、モランが言っているのはそれだけではないのだろう。
 モランは狙撃位置についているとはいえ、装備は殺傷力の低い空気銃だ。ルイスさんはダドリーを現場まで呼び出す郵便配達員の役なので、そもそも明日の『舞台』には上がらない。
 万が一追い込まれたダドリーがおかしな動きを見せたなら、ウィリアムさんとウィリアムさんの大切な生徒を守れるのは、僕だけだ。
 その事を理解して、僕は「わかった」と短く答えて頷いた。モランは取り外したスコープを手の中で転がしながら、「変わった奴だな」と笑った。

「何が?」
「鹿は可哀想でしょうがないくせに、人を撃つのは躊躇しないところだよ」
「別に……。鹿とダドリーは全然違うし」
「まぁそうなんだがな」

 自分と同じ姿形をした生き物を傷つける事に対して、本能的に忌避感を抱く気持ちは理解できる。
 料理にたかる蝿を叩きつぶす事はできても、ゴミ捨て場を漁る犬や猫を殺すとなると抵抗を覚える人は多いだろう。理屈自体はそれと同じだ。きっと大抵の人にとっては、法律とか社会通念とかを抜きにしても、鹿を撃つより人を撃つ事のほうがつらいのだろう。
 けれど僕は、他人を踏みにじる事に少しも心を痛めない、人を人とも思わない奴らの存在を嫌というほどよく知っていた。
 どれだけ自分とよく似た姿形をしていようと、奴らの本性は獣以下だ。そうした連中に僕は散々ひどい目に遭わされたし、虐げられ、果ては命まで奪われた人たちを大勢見てきた。
 そして、ウィリアムさんは現実に打ちのめされた僕の前に現れて、それでいいと言ってくれた。許せなくていいと、抗っていいのだと教えてくれた。
 その言葉が、僕に力をくれた。

「普通はな、反復するうちに慣れるんだ。殺すのに人間も動物も関係無くなる。相手が悪人かどうかもな。それでもお前は何年も前に撃った鹿のことを思い出して『そんな顔』ができる。その後味の悪さをいつまでも覚えていられる。
 猟師にも兵士にも向いてないが、この仕事にはある意味では向いてるよ。その感覚は、この組織に必要だ。ウィリアムも、そういう性分を承知の上で、お前を組織に入れたんだろうよ」
「ふぅん……」

 そんな顔、というのはどういう顔だろうか。何だかむず痒い気分になって、僕は曖昧に相槌を打った。
 自分が人より表情がおもてに出ない方であることはよく分かっているけれど、モランはよくこうして僕の表情を読んだようなことを言う。口の重たい僕が考えていることを先回りして話す。
 相手が悪人でなくてもモランは撃てるのだろうか。そんな疑問がふと頭を過ぎったが、彼に従軍した経験がある以上は聞くまでもないことで、僕は言葉を胸のうちにしまった。

「さて、そろそろウィリアムたちも帰ってくる頃合いか。撤退だ」

 モランは整備を終えた狙撃銃をしまったケースをバタンと閉じた。
 そして煙草に火をつけて、紫煙を吐き出しながら立ち上がる。歩きながら煙草を吸ったりして、絨毯に灰が落ちるとまたルイスさんに叱られてしまう。そう声をかける前に、モランはさっさと居間を出ていってしまった。煙草の先端の赤い火が、廊下の薄暗がりの中をスッと滑っていった。
 気づけばすっかり日が沈んでいた。開けっぱなしの掃き出し窓から夜の気配をまとった空気がわずかに流れ込んでくる。
 庭の植え込みは葉っぱの一枚もそよがせることなく静かに佇み、雲は重く停滞していた。今夜も霧が出るだろう。
 僕は窓を閉めて、ウィリアムさんたちを迎えるため、暖炉に火を入れた。


初出:Pixiv 2022.01.30

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