No.7
変装談義
フレッドとボンドが喋ってる話。
酒に酔った人間というのはタチが悪い。
もう少し治安の良い道を通るんだったな、と僕は内心歯噛みした。とある貴族主催の夜会に、臨時の雇われメイドとして潜入した帰りだった。後片付けを終えた頃には、すっかり夜も更けていた。
一日の報酬を受け取り、他の娘たちに混じって屋敷の使用人用出入り口から出て行ったのがつい数十分前。外套の前をかき合わせながら足早に歩いていたところを酔漢に呼び止められた。
「おい! ちょっと付き合えよ嬢ちゃん!」
無視して通り過ぎようとしたのが気に入らなかったらしく、前に回り込んで進路を塞がれた。気の毒なことに、酒のせいで今自分が絡んでいるのが男だということにまるで気付いていないようだ。気がつかれても困るのだが。
大柄な労働者ふうの男だった。手のひらがぶ厚く肩から腕にかけてよく筋肉が乗っているから、荷運び人か何かだろうか。太い眉の下のぎょろりとした目玉は見るからに気性が荒そうで、通行人たちはこちらに心配そうな視線を送りながらもそそくさと立ち去っていく。
さて、どうしたものか。あまりもたもたして警官でも呼ばれたら厄介だ。まさか実力行使に出るわけにはいかないし、走って逃げるにしても、人目がある以上はか弱い女性に見える程度にセーブして走らなくてはならないのが面倒だった。
走り出すタイミングをはかりながら、後ろに足を一歩引く。僕が距離を取ろうとするのを察して、男がこちらに腕を伸ばした。アルコールの影響で足元がふらついている。タイミングよく躱してやれば簡単に体勢を崩すに違いない。
が、男の腕は横から伸びてきた別の手に掴まれた。
「そういうの、流行りませんよ。お兄さん」
ボンドさんだった。
彼はそのまま男の腕を捻りあげると、脛を蹴っ飛ばした。体格差をものともしない、見事な体幹崩しだった。
目にも止まらぬ早さで石畳に叩き付けられた男は苦しげなうめき声を上げた。酔いも手伝って起き上がれないようだった。通行人の間から小さく感嘆の声が上がった。
「さあ、もう大丈夫だよ……って、あれ? 君もしかしてフレ、」
僕の方を振り返って声を上げそうになったボンドさんは、しかし周囲にまだ人の目がある事を思い出した。
「……フレドリカじゃないか! 遅くまでお疲れ様。送っていくよ」
大抵の女性は喜んでついていってしまいそうな人好きのする笑顔だった。
僕も周囲から怪しまれないように、彼とはあくまで親しい間柄であることを示すように微笑み返す。様子を伺っていた通行人たちはほっとした表情でめいめいに散っていった。
男はまだ地面に転がっていたが、置いていく事にした。例えこのまま数時間起き上がれなかったとしても、この時期の気温で凍死することも無いだろう。
肩を並べて歩き始めて、しばらくしてからボンドさんが声を潜めて囁いた。
「気付かなかったよ。君も大した役者だね」
「それはどうも」
「ごめんね、そっち行けなくて」
「いえ。そちらの『仕事』にも穴を空けるわけにはいきません」
ボンドさんはここ数日、MI6の任務に駆り出されていた。機密文書を巡る一件からホームズ卿と影で協力関係を結んでいる以上、政府の信頼を損なうようなことがあってはならない。当然、MI6の任務を疎かにすることはできなかった。
人員の割り振りはウィリアムさんが、MI6を束ねるアルバート様と話し合って決めたことだ。僕には文句などない。
「そう言ってくれると有り難いよ。君の方は? 充実した1日だったかな」
「えぇ。面白いお話がたくさん」
「それは良かった。帰ったら詳しく聞きたいな」
「もちろん」
僕はほんのりと口角を上げながら頷いた。
『面白いお話』というのは、もちろん調査対象の貴族に関するあれこれである。一夜限りの雇われメイド相手となると、普段は忠実な使用人たちの口も多少は軽くなるものだ。仕事の合間の雑談として、僕は彼らのちょっとした愚痴に付き合った。
今夜手に入れた情報が、ウィリアムさんの計画をより緻密に編み上げる助けになるといい。
そんな事を考えながら歩いていると、いつの間にかボンドさんがじっと僕の顔を覗き込んでいた。
「……何か?」
「あ、ごめんね。いつもと印象違ったからつい」
「はぁ……」
「その口紅、よく似合ってるよ」
ばちりと見事なウィンクが決まった。
きっと飛び上がって喜ぶべきところなんだろうな。普通の女性であれば。
艶のあるブルネットを慎ましく帽子の中に隠していようと、地味なガウンに手編みのレース襟を合わせて精いっぱいのおしゃれをしていようと、僕の中身はどうしようもなく男である。その見事な所作に感心はすれど、ときめく気持ちはこれっぽっちも湧いてこなかった。
「コルセットとか、キツくない?」
「そんなに締めていないので」
ボンドさんの手が腰に回されるのをやんわりと払いながら答えた。
「え、これで? 女の子の前で言っちゃダメだよ、それ」
「言いませんよ。……それより靴を履き替えたいです」
「あ、そっち。確かに君けっこう足大きいもんね」
僕は小さく頷いた。
実際、女性の格好をする際にもっとも苦労するのは女物の靴を履くことだった。
コルセットも確かにきついけれど、姿勢にさえ気をつけていればそこまで苦ではない。いくら頑張って締め上げたところで身体の構造上限度があるので、胸や腰回りに膨らみを持たせて視覚的に誤魔化す方法を採用していた。
しかし靴はそうもいかなかった。足の大きさだけはどう足掻いても変えようがない。
ウィリアムさんに以前聞いた話だが、人間の足の大きさ、特に足の甲の幅は子供の頃に履いていた靴で決まるらしい。
貴族の子弟や裕福な家庭の子供は成長段階に応じて靴をあつらえるので、足がそこまで大きくならない。逆に、どうせすぐに背が伸びるのだからと大きめの靴をあてがわれていた子供は足が大きく、甲の幅が広くなる傾向にあるらしい。
半信半疑の僕を見て、ウィリアムさんは通りがかったモランを捕まえて靴を脱ぐように命じた。すると確かに、モランの足は僕のものに比べて縦にふた周りは大きかったのに、足の甲はそう大差ない幅をしていた。おそらくアルバート様にも同じ法則が当てはまるのだろう。彼の裸足を見る機会など一生訪れないと思うが。
そういうわけで、拾い物の大きな靴を穴が開くまで履き潰すような子供時代を送っていた僕の足は、体格の割には幾分か大きいようだった。
男物はともかく女物はほっそりとしたデザインの靴が多く、毎回苦労させられている。つま先から踵までのサイズは同じはずなのに、横幅がとてもきついのだ。かといって横幅を優先して靴を選ぶと、今度は踵が余る。踵が余っていると歩き方に影響する上に、大きな靴を履いていることが傍目にも分かりやすい。足の大きさから女装を見破られるとは考えにくかったが、少しでも変な印象を持たれることは避けたかった。
そうして仕方なく幅の狭い靴に無理矢理足を押し込んでいたのだが、ウエストのように力を入れれば一時的にサイズが小さくなるものでもない。立っていても座っていても足が締め付けられて痛みが伴うというのはかなりの負担だった。
これまで変装道具は、特殊なもの以外はありふれた既製品で間に合わせることを信条としてきた。それはコスト面の問題であり、何かの拍子に身元を辿られないようにするための対策だった。しかし今後この手の仕事が増えるのであれば、伝手を頼って専用の靴をあつらえた方がいいのかもしれない。
「ボンドさんこそ、大変じゃないですか。ずっとその格好でいるの」
「え、僕? うーん、僕はけっこう楽しんでるよ。スーツも好きだしね。女の子たちが着るドレスと比べるとどうしたってバリエーションが少ないけど、それはスタイルとして完成されてるからだと思うんだ。その枠をどれだけ守って、どれだけ壊すか……そのさじ加減を工夫するのって面白いと思わない?」
ボンドさんは顎を引いて背筋をピンと伸ばすと、ジャケットの襟をぴっと正した。
街灯のぼんやりとした明かりの下であってもその仕草は物語の主人公のように様になっていて、人の美醜にはあまり興味のわかない僕でさえため息が溢れるようだった。
確かに、明るいグレイの三つ揃えにピンクのネクタイという一見奇抜な組み合わせは、ボンドさんの抜けるように白い肌や金髪にとてもよく似合っていた。彼以外の人間が真似をしてみたところで、この華やかな出で立ちを再現することは絶対に不可能だろう。
「やっぱり、今日の任務は僕が行って正解でした」
「えっ何それどういう意味?」
ボンドさんは子供のように下唇を突き出した。
たとえ下働き用のお仕着せを身に纏っていようと、彼が備え持つ華やかな空気は隠しきれない。他のメイドたちはおろか貴族の令嬢たちをも押しのけて、会場の視線を一身に集めていた事だろう。彼にはそう思わせるだけの不思議な引力があった。
今だって、彼は『男性』を演じているというより、彼が作り上げた『ジェームズ・ボンド』というキャラクターを演じていると表現した方が適切に思える。あくまでさりげなく人の中に紛れ込むことに主眼を置いた僕の変装術とは、似ているようでまるで異なるアプローチだ。
そうした考えを言葉には出さずに黙っていると、ボンドさんはくるりと振り返って僕の頭から爪先までをしげしげと眺めた。
「確かに……その格好で一日働いてきたんだよね。誰にも怪しまれたりしなかった?」
「不安があるなら、ウィリアムさんも僕に任せたりしません」
「……声の作り方も完璧だ。どこで教わったの?」
「特には……」
変装術も諜報術も生きるために身につけ、ウィリアムさんのお役に立つため磨きあげた技だった。アルバート様がMI6を率いるようになってからも、正式な諜報員ではない僕はきちんとした訓練を受けたことがなかった。
そのことを話すと、ボンドさんは「えっ」と声を上げた。
「独学ってこと? すごいよ! 死ぬほどレッスンを受けて努力して、それでも芽が出なくて諦めていく役者なんてそれこそ掃いて捨てるほどいるのに……今の君なんて普段の君とはまるで別人だよ」
「……芝居と変装は別でしょう?」
「そうだね。そうだけど、君が舞台に上がったらすっごく面白そう! ね、お芝居に興味ない?」
「ありません」
あっさりと答えた僕に、ボンドさんは「なんてもったいない!」と大げさに頭を抱えた。
僕はこれまでの人生の中で、芝居というものをまともに観たことがなかった。強いて言うなら、ノアティック号での任務中に船上オペラをちらりと眺めたくらいだろうか。
「今さら役者に転向なんてできません」
「僕だってそれは分かってるんだけどね……」
彼が本気で言っていないことは分かっていたけれど、僕だってこう答えることしかできない。少し気まずくなって僕は外套の襟に顔を半分埋めた。
しばらくうんうんと唸った後、ボンドさんはパチンと指を弾いた。
「……よし。それじゃあ、今度招待させてもらおうかな」
「え」
「今後の参考に、一回ぐらいきちんと生の舞台を観てみるのも悪くないでしょ? ああ、アル君がたまに付き合いで行くような堅っ苦しいのじゃなくて、もっと気楽なやつね。デートだよ。どう?」
「デートって……」
「どうかした?」
「何というか、あべこべのような」
「あべこべ? 何が?」
白い歯をのぞかせながら、ボンドさんはいたずらっぽく笑った。とぼけるつもりらしかった。
彼相手に口で敵うはずもなく、僕は口を噤むことにした。
「いえ、何も……」
「ふふ。じゃあ楽しみに待っててね。可愛いフレドリカ」
「…………はぁ」
釈然としない思いを抱えながらも、僕は曖昧に返事をした。
それからボンドさんは、近頃ロンドンで話題の演目や評判の良い役者についてあれやこれやと語り始めた。今でも仕事の合間に庶民向けの小劇場に足を運ぶことがあるらしい。いつにも増して饒舌な様子からは、彼が芝居というものを本気で愛していることがうかがえた。
その楽しそうな顔を見ていたら、今夜のお礼に一日だけ付き合ってみるのも悪くないかもしれない、という気持ちが湧いた。
初出:Pixiv 2021.09.26
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フレッドとボンドが喋ってる話。
酒に酔った人間というのはタチが悪い。
もう少し治安の良い道を通るんだったな、と僕は内心歯噛みした。とある貴族主催の夜会に、臨時の雇われメイドとして潜入した帰りだった。後片付けを終えた頃には、すっかり夜も更けていた。
一日の報酬を受け取り、他の娘たちに混じって屋敷の使用人用出入り口から出て行ったのがつい数十分前。外套の前をかき合わせながら足早に歩いていたところを酔漢に呼び止められた。
「おい! ちょっと付き合えよ嬢ちゃん!」
無視して通り過ぎようとしたのが気に入らなかったらしく、前に回り込んで進路を塞がれた。気の毒なことに、酒のせいで今自分が絡んでいるのが男だということにまるで気付いていないようだ。気がつかれても困るのだが。
大柄な労働者ふうの男だった。手のひらがぶ厚く肩から腕にかけてよく筋肉が乗っているから、荷運び人か何かだろうか。太い眉の下のぎょろりとした目玉は見るからに気性が荒そうで、通行人たちはこちらに心配そうな視線を送りながらもそそくさと立ち去っていく。
さて、どうしたものか。あまりもたもたして警官でも呼ばれたら厄介だ。まさか実力行使に出るわけにはいかないし、走って逃げるにしても、人目がある以上はか弱い女性に見える程度にセーブして走らなくてはならないのが面倒だった。
走り出すタイミングをはかりながら、後ろに足を一歩引く。僕が距離を取ろうとするのを察して、男がこちらに腕を伸ばした。アルコールの影響で足元がふらついている。タイミングよく躱してやれば簡単に体勢を崩すに違いない。
が、男の腕は横から伸びてきた別の手に掴まれた。
「そういうの、流行りませんよ。お兄さん」
ボンドさんだった。
彼はそのまま男の腕を捻りあげると、脛を蹴っ飛ばした。体格差をものともしない、見事な体幹崩しだった。
目にも止まらぬ早さで石畳に叩き付けられた男は苦しげなうめき声を上げた。酔いも手伝って起き上がれないようだった。通行人の間から小さく感嘆の声が上がった。
「さあ、もう大丈夫だよ……って、あれ? 君もしかしてフレ、」
僕の方を振り返って声を上げそうになったボンドさんは、しかし周囲にまだ人の目がある事を思い出した。
「……フレドリカじゃないか! 遅くまでお疲れ様。送っていくよ」
大抵の女性は喜んでついていってしまいそうな人好きのする笑顔だった。
僕も周囲から怪しまれないように、彼とはあくまで親しい間柄であることを示すように微笑み返す。様子を伺っていた通行人たちはほっとした表情でめいめいに散っていった。
男はまだ地面に転がっていたが、置いていく事にした。例えこのまま数時間起き上がれなかったとしても、この時期の気温で凍死することも無いだろう。
肩を並べて歩き始めて、しばらくしてからボンドさんが声を潜めて囁いた。
「気付かなかったよ。君も大した役者だね」
「それはどうも」
「ごめんね、そっち行けなくて」
「いえ。そちらの『仕事』にも穴を空けるわけにはいきません」
ボンドさんはここ数日、MI6の任務に駆り出されていた。機密文書を巡る一件からホームズ卿と影で協力関係を結んでいる以上、政府の信頼を損なうようなことがあってはならない。当然、MI6の任務を疎かにすることはできなかった。
人員の割り振りはウィリアムさんが、MI6を束ねるアルバート様と話し合って決めたことだ。僕には文句などない。
「そう言ってくれると有り難いよ。君の方は? 充実した1日だったかな」
「えぇ。面白いお話がたくさん」
「それは良かった。帰ったら詳しく聞きたいな」
「もちろん」
僕はほんのりと口角を上げながら頷いた。
『面白いお話』というのは、もちろん調査対象の貴族に関するあれこれである。一夜限りの雇われメイド相手となると、普段は忠実な使用人たちの口も多少は軽くなるものだ。仕事の合間の雑談として、僕は彼らのちょっとした愚痴に付き合った。
今夜手に入れた情報が、ウィリアムさんの計画をより緻密に編み上げる助けになるといい。
そんな事を考えながら歩いていると、いつの間にかボンドさんがじっと僕の顔を覗き込んでいた。
「……何か?」
「あ、ごめんね。いつもと印象違ったからつい」
「はぁ……」
「その口紅、よく似合ってるよ」
ばちりと見事なウィンクが決まった。
きっと飛び上がって喜ぶべきところなんだろうな。普通の女性であれば。
艶のあるブルネットを慎ましく帽子の中に隠していようと、地味なガウンに手編みのレース襟を合わせて精いっぱいのおしゃれをしていようと、僕の中身はどうしようもなく男である。その見事な所作に感心はすれど、ときめく気持ちはこれっぽっちも湧いてこなかった。
「コルセットとか、キツくない?」
「そんなに締めていないので」
ボンドさんの手が腰に回されるのをやんわりと払いながら答えた。
「え、これで? 女の子の前で言っちゃダメだよ、それ」
「言いませんよ。……それより靴を履き替えたいです」
「あ、そっち。確かに君けっこう足大きいもんね」
僕は小さく頷いた。
実際、女性の格好をする際にもっとも苦労するのは女物の靴を履くことだった。
コルセットも確かにきついけれど、姿勢にさえ気をつけていればそこまで苦ではない。いくら頑張って締め上げたところで身体の構造上限度があるので、胸や腰回りに膨らみを持たせて視覚的に誤魔化す方法を採用していた。
しかし靴はそうもいかなかった。足の大きさだけはどう足掻いても変えようがない。
ウィリアムさんに以前聞いた話だが、人間の足の大きさ、特に足の甲の幅は子供の頃に履いていた靴で決まるらしい。
貴族の子弟や裕福な家庭の子供は成長段階に応じて靴をあつらえるので、足がそこまで大きくならない。逆に、どうせすぐに背が伸びるのだからと大きめの靴をあてがわれていた子供は足が大きく、甲の幅が広くなる傾向にあるらしい。
半信半疑の僕を見て、ウィリアムさんは通りがかったモランを捕まえて靴を脱ぐように命じた。すると確かに、モランの足は僕のものに比べて縦にふた周りは大きかったのに、足の甲はそう大差ない幅をしていた。おそらくアルバート様にも同じ法則が当てはまるのだろう。彼の裸足を見る機会など一生訪れないと思うが。
そういうわけで、拾い物の大きな靴を穴が開くまで履き潰すような子供時代を送っていた僕の足は、体格の割には幾分か大きいようだった。
男物はともかく女物はほっそりとしたデザインの靴が多く、毎回苦労させられている。つま先から踵までのサイズは同じはずなのに、横幅がとてもきついのだ。かといって横幅を優先して靴を選ぶと、今度は踵が余る。踵が余っていると歩き方に影響する上に、大きな靴を履いていることが傍目にも分かりやすい。足の大きさから女装を見破られるとは考えにくかったが、少しでも変な印象を持たれることは避けたかった。
そうして仕方なく幅の狭い靴に無理矢理足を押し込んでいたのだが、ウエストのように力を入れれば一時的にサイズが小さくなるものでもない。立っていても座っていても足が締め付けられて痛みが伴うというのはかなりの負担だった。
これまで変装道具は、特殊なもの以外はありふれた既製品で間に合わせることを信条としてきた。それはコスト面の問題であり、何かの拍子に身元を辿られないようにするための対策だった。しかし今後この手の仕事が増えるのであれば、伝手を頼って専用の靴をあつらえた方がいいのかもしれない。
「ボンドさんこそ、大変じゃないですか。ずっとその格好でいるの」
「え、僕? うーん、僕はけっこう楽しんでるよ。スーツも好きだしね。女の子たちが着るドレスと比べるとどうしたってバリエーションが少ないけど、それはスタイルとして完成されてるからだと思うんだ。その枠をどれだけ守って、どれだけ壊すか……そのさじ加減を工夫するのって面白いと思わない?」
ボンドさんは顎を引いて背筋をピンと伸ばすと、ジャケットの襟をぴっと正した。
街灯のぼんやりとした明かりの下であってもその仕草は物語の主人公のように様になっていて、人の美醜にはあまり興味のわかない僕でさえため息が溢れるようだった。
確かに、明るいグレイの三つ揃えにピンクのネクタイという一見奇抜な組み合わせは、ボンドさんの抜けるように白い肌や金髪にとてもよく似合っていた。彼以外の人間が真似をしてみたところで、この華やかな出で立ちを再現することは絶対に不可能だろう。
「やっぱり、今日の任務は僕が行って正解でした」
「えっ何それどういう意味?」
ボンドさんは子供のように下唇を突き出した。
たとえ下働き用のお仕着せを身に纏っていようと、彼が備え持つ華やかな空気は隠しきれない。他のメイドたちはおろか貴族の令嬢たちをも押しのけて、会場の視線を一身に集めていた事だろう。彼にはそう思わせるだけの不思議な引力があった。
今だって、彼は『男性』を演じているというより、彼が作り上げた『ジェームズ・ボンド』というキャラクターを演じていると表現した方が適切に思える。あくまでさりげなく人の中に紛れ込むことに主眼を置いた僕の変装術とは、似ているようでまるで異なるアプローチだ。
そうした考えを言葉には出さずに黙っていると、ボンドさんはくるりと振り返って僕の頭から爪先までをしげしげと眺めた。
「確かに……その格好で一日働いてきたんだよね。誰にも怪しまれたりしなかった?」
「不安があるなら、ウィリアムさんも僕に任せたりしません」
「……声の作り方も完璧だ。どこで教わったの?」
「特には……」
変装術も諜報術も生きるために身につけ、ウィリアムさんのお役に立つため磨きあげた技だった。アルバート様がMI6を率いるようになってからも、正式な諜報員ではない僕はきちんとした訓練を受けたことがなかった。
そのことを話すと、ボンドさんは「えっ」と声を上げた。
「独学ってこと? すごいよ! 死ぬほどレッスンを受けて努力して、それでも芽が出なくて諦めていく役者なんてそれこそ掃いて捨てるほどいるのに……今の君なんて普段の君とはまるで別人だよ」
「……芝居と変装は別でしょう?」
「そうだね。そうだけど、君が舞台に上がったらすっごく面白そう! ね、お芝居に興味ない?」
「ありません」
あっさりと答えた僕に、ボンドさんは「なんてもったいない!」と大げさに頭を抱えた。
僕はこれまでの人生の中で、芝居というものをまともに観たことがなかった。強いて言うなら、ノアティック号での任務中に船上オペラをちらりと眺めたくらいだろうか。
「今さら役者に転向なんてできません」
「僕だってそれは分かってるんだけどね……」
彼が本気で言っていないことは分かっていたけれど、僕だってこう答えることしかできない。少し気まずくなって僕は外套の襟に顔を半分埋めた。
しばらくうんうんと唸った後、ボンドさんはパチンと指を弾いた。
「……よし。それじゃあ、今度招待させてもらおうかな」
「え」
「今後の参考に、一回ぐらいきちんと生の舞台を観てみるのも悪くないでしょ? ああ、アル君がたまに付き合いで行くような堅っ苦しいのじゃなくて、もっと気楽なやつね。デートだよ。どう?」
「デートって……」
「どうかした?」
「何というか、あべこべのような」
「あべこべ? 何が?」
白い歯をのぞかせながら、ボンドさんはいたずらっぽく笑った。とぼけるつもりらしかった。
彼相手に口で敵うはずもなく、僕は口を噤むことにした。
「いえ、何も……」
「ふふ。じゃあ楽しみに待っててね。可愛いフレドリカ」
「…………はぁ」
釈然としない思いを抱えながらも、僕は曖昧に返事をした。
それからボンドさんは、近頃ロンドンで話題の演目や評判の良い役者についてあれやこれやと語り始めた。今でも仕事の合間に庶民向けの小劇場に足を運ぶことがあるらしい。いつにも増して饒舌な様子からは、彼が芝居というものを本気で愛していることがうかがえた。
その楽しそうな顔を見ていたら、今夜のお礼に一日だけ付き合ってみるのも悪くないかもしれない、という気持ちが湧いた。
初出:Pixiv 2021.09.26