No.5

薔薇の君
 ある日のフレッドとアルバートの話。


 フレッドは疲れていた。
 犯罪相談役窓口としての仕事は非常に神経を使う。
 ヤードやシャーロック・ホームズに素性を掴まれてはならない事はもちろん、フレッドのもとにやってくる相談者とて信用できる人間とは言えない場合が多い。力無き市民とはいえ、その困りごとの解決を犯罪によって成そうと考える人間なのだ。真に追い込まれ犯罪に走らざるを得ないのか、それともただ安易な解決手段として犯罪を選んだのか、ウィリアムに報告を上げる前に見極め、ふるいに掛けなければならない。
 この日フレッドは、巷で話題の犯罪卿の正体に迫らんとするジャーナリストにつかまり、そのあしらいに非常に難渋させられた。報道関係者だけあって嘘の相談内容も妙に作り込まれていて、彼をすぐに振り払うことができなかった。その結果、危うく彼の仲間が待ち構える場所へ誘い出されるところだった。捕らえられるという最悪の事態は免れたが、その後始末にかなり手間取ってしまった。
 ひと晩中街を駆けずり回り、疲労と寝不足で頭がズキズキと痛む。重い足を引きずり屋敷への帰路をたどる今も、尾行がついていないか気を抜くことはできなかった。
 もうあのルートは使えないな。ウィリアムさんに報告しなければ。今日は確かアルバート様も屋敷にいらっしゃったはず。あのジャーナリストたちが関わっている報道機関は今後要注意だ……。
 どれほど疲れていても、頭の中では冷静な思考がぐるぐると渦巻く。
 ああ、一度眠らなければ。もうすぐ夜が明ける。
 周囲に人の気配がないことを確かめてから、鍵を使って屋敷の裏門を抜けた。三階使用人フロアの自分の部屋が妙に遠く感じられて、フレッドは庭の温室に入った。そこは、フレッドにとってもうひとつの部屋だった。いや、むしろ与えられた自室よりもこの温室で過ごした時間のほうがよほど長いかもしれない。
 この時間であれば、ウィリアムたちもまだ休んでいるだろう。報告は日が昇ってからにしよう。
 三階の自室に戻って、服を着替えて、ベッドに入るのは億劫だった。フレッドは温室の片隅に腰を下ろし、膝を抱えた。
 風も吹かない温室の中は静かであたたかい。薔薇の芳香に混じって、土と緑の匂いがした。緊張の連続で熱を持った頭がじんわりと冷えていくのを感じながら、空色のストールに顔を埋めて、フレッドは目を閉じた。

✳︎

「……レッド。フレッド」

 どのくらい眠っていただろうか。
 誰かに優しく、肩を揺すられている。

「フレッド、大丈夫かい?」
「ん……あっ、アルバート様!?」

 鮮やかな翠玉の瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいて、フレッドは眠りの淵から一気に覚醒した。いつの間にかとうに日は昇り、温室の薔薇たちは降り注ぐ日差しに負けじとまばゆく咲き誇っている。ずいぶん長いこと眠り込んでしまったようだった。
 フレッドが意識を取り戻したのを見て、アルバートは安心したように「よかった」と微笑んだ。

「こんなところに座り込んで……気分が悪いのかい?」
「いえ、あの……眠ってしまって……」
「こんなところで?」

 アルバートは驚いたように目を丸くした。
 この温室はフレッドにとっては自室のベッドと同じくらい安心できる場所ではあるが、アルバートにとってはそうではないだろう。屋敷の敷地内とは言え、屋外で眠るなど伯爵家の使用人としてありえないことだ。
 フレッドは慌てて立ち上がり、昨夜の経緯を説明し、庭で眠っていた無作法を侘びた。

「ということは、朝食は食べてないんだね」

 屋敷の主人が気遣わしげにそう尋ねるので、叱責の言葉を覚悟していたフレッドは少々面食らった。

「え、はい……」
「それはご苦労だったね。昼食には少し早いが、ルイスに何か出してもらえないか頼んでこよう。一度部屋に戻って顔を洗ってくるといい。それとも、まだ寝ていたいかい?」
「いえ、アルバート様のお手を煩わせるわけには」
「ちょうど退屈で庭を散歩していたところだったんだ。夜通し働いてくれた使用人を労うのは、屋敷の主として当然のことだろう?」

 庭で居眠りをしていた使用人を叱責するどころか気遣ってくれる主人の優しさに、申し訳なさがこみ上げた。頭を下げると、彼のスラックスが砂で汚れているのが目についた。花壇の影でうずくまっていたフレッドを心配して、地べたに膝をついたのだろう。汚れを払うために身を屈めようとするフレッドを、アルバートはやんわりと押し留めた。
 顔をあげると、フレッドの肩に手を置いたアルバートはどこか遠い目をしていた。どうかなさいましたか、と尋ねるより少し早く、彼は唐突に呟いた。

「……君は薔薇が似合うね」
「はい?」

 言葉をかける相手を間違えていないか。

「君が先日用意してくれた花束はとても評判だったよ。さるご令嬢がいたく喜んでくれてね。彼女のおかげで、社交界では私のことを『薔薇の伯爵』なんて呼ぶご婦人方もいるくらいだ」
「は、はぁ……」

 フレッドにしてみれば、口にするのも憚られるほど気恥ずかしい通り名だった。しかしその名がこの気品に満ちた美しい男のためのものであると言われると、確かに似合いのように思われた。人を惹きつける蠱惑的な色香と近付くことを躊躇わせる気高さ、アルバートにはそのどちらもが備わっていた。
 ますますわけが分からなくて呆然とするフレッドに、アルバートは小首をかしげながら微笑みかけた。常人にはおいそれと再現できない、完璧な角度だった。

「おかしな話だと思わないかい? あの花束も、ここで咲き誇っている薔薇も、全て君が育てたものだというのに」
「え、あの、」
「いつもありがとう、フレッド」

 肩に掛けられていた手が、首筋を伝って頬を撫でた。
 フレッドはぞわりと肌が粟立つのを感じた。それが決して不快な感覚などではないと自覚して、少し遅れて頬がかっと熱くなるのを自覚した。人との接触なんて、したたかに酔っ払ったモランが肩を組んでくる時くらいだ。彼の袖口から、薔薇とは違う深みのあるコロンの香りがした。アルバートの手を振り払うこともできず、フレッドは硬直した。初めて真正面から覗き込んだ緑色の瞳が陽光の中で美しくきらめいていた。特別な宝石をはめ込んで作られたのかもしれない、とばかげた空想が頭をよぎった。
 時間にしてほんの数秒のことだっただろう。アルバートはあっさりと手を引いた。

「さあ、お腹が空いただろう。引き止めて悪かったね。部屋に戻って身支度をしてくるといい」
「は、はい……失礼します……」

 彼がパタパタと温室を飛び出していくのと入れ替わりで、モランが顔を覗かせた。

「おい、あんまり揶揄うなよ、アルバート」
「おや大佐、ルイスに玄関の掃除を頼まれていたのでは?」
「珍しい組み合わせだと思って覗いただけだ」
「そうだね。言われてみれば、彼と二人で話したことはあまりなかったな。ちょうどいい機会だったから、日頃の礼を言っていただけだよ」
「……自覚なくやってんだったら怖いわ」

 モランが吐き出した煙草の煙が空に溶けて、消えていく。
 吸い殻はちゃんと始末したまえよ、とアルバートの小言が飛んだ。


初出:Pixiv 2021.08.16

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