No.4

ルイスがワトソン氏とミス・ハドソンと辻馬車に相乗りする話
 タイトル通りです。


 どこからともなく暗雲が湧いてきて、にわかに雨が振り始めた。
 多少の雨なら気にせず歩くことが多いロンドンの住民たちも慌てて軒先へ駆け込むほど雨脚が強い。たまたま街へ出ていたルイスも例に漏れず、黒く染まる石畳に追い立てられるように歩調を速めた。
 つい寄り道をしてしまったことが災いしたが、用事はすべて終えたので後は屋敷に戻るだけだ。広い通りまで出て辻馬車を捕まえなければ。
 紙袋を濡らさないようしっかりと抱き込んで、帽子を深くかぶり直した。

 いつもならばこの時間帯は賑わっている大通りも、今日ばかりは人もまばらだ。
 運良く向こうから、一台の辻馬車が泥水を跳ね上げながらやって来た。軽く手を上げると、ルイスに気付いた御者が手綱を引いて馬車を減速させる。
 と、その時、すぐ手前のグロサリーストアから暗紅色のドレスをまとった女性が飛び出してきてぶんぶんと手を降った。

「乗ります!乗りまーす!!」

 小さな体をめいっぱい伸ばして声を張り上げる彼女に、御者は困ったように苦笑した。その目が自分の後ろを見ていることに気付いたらしく、女性がぱっと振り返る。

「あっ、いやだ私ったら!ごめんなさい!」

 ルイスと目が合うと、彼女は顔を真っ赤にして目を見開いた。

「いえ……お先にどうぞ」
「いえいえいえ、お気持ちだけで!あなたが先に停めたんですから、私たちは他の馬車を待ちますので!」

 傍から見れば彼女が割り込んだ形になるが、先に手を上げていたルイスに気付いていなかったのだから仕方ない。
 何より、雨の中荷物を抱えた女性を差し置いて自分だけ馬車に乗るのは矜持に反する。ウィリアムやアルバートだって、同じ場面に出くわせば彼女に馬車を譲るに違いなかった。
 しかし相手もなかなか引かない。
 押し問答をしていると、ストアから野菜の詰まった紙袋を両手に抱えた男が、肩でドアを押しながら出てきた。

「馬車捕まりましたか、ハドソンさん……って、あれ?」

 彼女の連れらしいその男は、ルイスの顔を見るなり素っ頓狂な声を上げた。
 やや小柄ながらスーツの上からでも分かるがっしりとした体つきとよく日焼けした肌を持つ頑健そうな男だ。しかし瞳が丸く優しげな顔立ちをしているからか、威圧感のようなものはまるで感じられない。
 ルイスはすっ、と血の気が引くのを感じた。
 男は一拍遅れて「ああ!」と声を上げた。

「モリアーティさん!……の、弟さんですよね? 先日の列車の件ではどうもありがとうございました!」

 ジョン・H・ワトソン医師だった。



 それからルイスは「お知合いでしたら、相乗りでどうです?急な雨で他の辻馬車も出払っておりますし」という親切な御者のおせっかいな申し出により、ワトソンらの手で馬車に押し込められてしまった。
 小さな窓の外は雨で白く煙っていて、雨脚がさらに強くなったことを思わせた。濡れて帰れば兄が心配する、という考えがルイスの判断を鈍らせた。
 ホームズが下宿している221Bの大家がハドソンなる女性であることは聞いていた。
 しかし探偵業に協力しているわけでもない一般人である。フレッドのように監視任務についていなかったルイスには彼女の人相まで把握する機会がなかった。
 まさかここまで見事に、しかもワトソンと一緒のタイミングで鉢合わせるなんて、とルイスは内心頭を抱えた。
 大きな荷物は荷台に預かってもらったが、それでも辻馬車に三人乗りは少し狭い。何故か真ん中に座らされたルイスはなおさら落ち着かなかった。

「あの時は本当にありがとうございました!お二人とも、お礼を伝える前に立ち去ってしまったのでずっと心残りだったんです。お二人の協力が無ければ、僕はあのまま無実の罪で投獄されるところでしたよ」
「……いえ、事件を解決したのは私ではなく兄です」
「そうでしたね、お兄さんに是非よろしくお伝えください」

 ワトソンはしきりに感謝の言葉を並べた。
 ルイスの両手が空いていれば手さえ握りかねない勢いである。これだけは荷台に預けなくてよかった、と紙袋を膝の上で抱え直した。
 それにしてもこのワトソンという男も、ホームズとは違った意味で馴れ馴れしい。
 ルイスは横目でワトソンの様子を伺った。
 モランやジャックのように前線で戦う兵ではなかったせいももちろんあるだろうが、この人懐っこい笑顔からは従軍経験者であるとはとても思えなかった。医学生と言われても信じたかもしれない。

「先ほどはごめんなさいね、ルイスさん。あの辺りって、隣の通りに比べてお店が少ないからあまり辻馬車が通らないでしょう?雨も降ってきたし、この馬車を逃してしまったらいけないと思って……私ったらほんとうにそそっかしくて恥ずかしいわ」
「……お気になさらず」

 そしてハドソンもハドソンで、初対面のルイスに対して昔からの知人のような気安さだ。下宿の女主人として自活しホームズのような難物と渡り合うにはこれくらいの気風が必要なのかもしれない。
 自らの力で人生を切り開く女性という点ではマネーペニーやアドラー(今はあえてこの名で呼ぶ)に性質が近いのかもしれないが、彼女らが持つある意味男性的とも言える怜悧さはハドソンには見当たらない。年齢はルイスよりも上だろうが、振る舞いはお喋りな少女のようだ。
 要は二人とも、ルイスが普段接する人間とはあまりにタイプが違いすぎた。
 ルイスはポケットの懐中時計に手を伸ばす。
 イートン校への入学祝いとしてアルバートとウィリアムが贈ってくれたもので、兄達と同じ名門校に通うことになった誇らしさと不安の中にいた当時から、ルイスにとってはお守り代わりだ。真鍮の蓋に彫り込まれた自分の名前を撫でると不思議と気持ちが落ち着くのだ。
 時刻を確認すると、多少遠回りにはなるが、ベイカー街を経由しても15時には屋敷に戻ることができるだろう。

「そうだ!ルイスさん、上着を乾かすついでにお茶でも飲んでいかれませんか?ジョンくんもゆっくりお話したいんでしょう?」
「えっ?」

 いかにも名案だ、と言わんばかりにハドソンが手を叩いた。

「わぁ、それはいいですね。お礼も兼ねて是非!シャーロックの奴は事件の捜査だと言って2日ほど前に出ていったきりですが……」
「シャーロックはいいのよ、満足するかお腹が空くかしたら戻ってくるわよ」

 何なんだこの人たちは。
 シャーロック・ホームズから何か入れ知恵でもされているのかと一瞬勘繰ったが、彼らの表情からはまったくの善意であることがわかってしまう。
 これがウィリアムであれば彼らの誘いに乗ったのかもしれないが、そんな大胆さをルイスは持ち合わせていない。221Bでのんきにアフタヌーンティーを楽しむ自分の姿などまるで想像ができなかった。もしそんな場面を目撃すれば監視任務についているフレッドが泡を食って兄達に電報を飛ばすだろう。
 この遭遇についてはどのみち報告しなければならないが、そのような事態は絶対に避けなければならない。

「申し訳ありませんが、急いでおりますので」
「あら、そうですか……」
「うーん確かに、今夜ダラムに向かうのであれば、あまり時間がありませんね」

 ルイスがはたと顔を上げると、ワトソンは悪戯っぽくにやりと笑った。

「何故それを、というお顔ですね」
「……」
「こら、ジョンくん!いきなりズケズケ言い当てるのは失礼だって言ってるでしょ!すみません、ルイスさん。この頃ジョンくんまであの男のろくでもない悪癖を真似るようになってしまって……」
「あぁ……」

 そういえば彼の小説にもそんなくだりがあったか。
 小説の中でホームズは、初めて会ったワトソンをアフガン帰りの元軍医だとぴたりと言い当てていた。他にも、依頼人を観察してその身なりやわずかな仕草から職業、出身、生活環境までも読み取ってしまうという不躾極まりない芸当を披露していた。
 ウィリアムも同じく数学者であることを見抜かれたと話していたので、今さら驚くことではない。
ワトソンは今、ルイスに対してそれを真似てみせたというわけだ。
 口ではたしなめておきながら、ハドソンは興味津々といった顔でワトソンの方を見た。

「で、どうしてそんなことがわかったの?」
「それはですね……」
「この紙袋ですね」

 得意げに口を開こうとしたワトソンを制して、ルイスは抱えていた紙袋を掲げた。
 表面には書店のロゴマークが印刷されている。

「学術書を専門に取り扱っている書店のものです。ミス・ハドソンにはあまり馴染みがないかもしれませんが、ワトソン氏は作家である以前に医者です。この店を利用したことがあったとしても不思議ではありません」
「なるほど……?でも、そのことと今夜ダラムに出発するってことはどう繋がるのかしら」
「私の二番目の兄はダラム大学で教鞭をとっています。ホームズさんから話を聞いていれば、ワトソン氏もご存知の事でしょう。したがって、この本は私のものではなく兄のものであると推測できます。
そして大学教授ともなれば書店にとっては上得意。本など頼めばいくらでも屋敷に配達してもらえるはずです。しかし私がわざわざ店に出向いて受け取ってきたということは、配達を待っていられなくなった……つまり、数日に渡って家を空ける用事ができたということです。ダラム大学の教授がロンドンを離れる理由としては、『ダラムに向かうから』と考えるのが最も自然でしょう。
そして『今夜』という部分については、あまり時間に余裕が無いという私の発言から推測なさった」

 最後に「違いますか?」と問いかけると、ワトソンはぽかんと口を開けて、素直に驚きを表現していた。
 彼の推理は大筋で当たりだ。
 今朝電報が届き、ウィリアムの仕事の都合で明日どうしても大学に顔を出さねばならなくなった。
 もとよりロンドンとダラムを往復する生活をしているので移動が早まっただけではあるが、今日はアルバートがMI6の任務でロンドンを離れている。ルイスは彼に電報を打つため郵便局へ向かい、ついでに街でいくつかの用事を済ませた。
 その帰り道、今日はウィリアムが購読している学術誌の発売日であることを思い出した。
 明日の昼には屋敷に配達してもらえる手筈になってはいたが、このままでは入れ違いになってしまいウィリアムの手に渡るのは来週になる。列車の中で読む物があった方が兄も喜ぶだろうと考え、書店に立ち寄ることにしたのだ。
 彼の推理に一点間違いを指摘するとすれば、実際に出発するのは今夜ではなく明日の早朝である。
 モランはアルバートの任務について行っているし、フレッドも仕事で明け方にならないと戻ってこられない。屋敷を一晩無人にするわけにもいかないので、ウィリアムとルイスはフレッドを待って明日の朝一番の列車でダラムに向かう予定である。
 ルイスが時間を気にしていたのは、早く屋敷に帰って前倒しで家事を片付けなければならないからだ。宵っ張りで朝に弱いウィリアムを早く寝かしつけるという使命もある。
 しかし万が一にもこの事がホームズの耳に入って駅で待ち伏せでもされてはたまらないので、あえて訂正はしてやらない。

「いやぁ、まいったなぁ。逆にこちらが驚かされてしまいました。お兄さん譲りの推理力ですね」
「ほんとうに。ジョンくんが考えた道筋をすぐに見抜いてしまうなんて……。頭のいい男の人って皆こうなのかしら?」
「いえ……推理と呼べるほどのものではありません」

 実際、ホームズのこの得意技は手品のようなものだ。
 一足飛びに結果だけを開示して、それがあたかも驚くべき神業か超能力であるかのように見せかけているにすぎない。
 タネを指摘して鼻を明かしてやったつもりであったが、彼らはホームズの同居人と大家であり、ルイスが敵視するホームズではない。
 二人があまりに素直に感心しているのでかえってきまりが悪かった。

「ところでルイスさん」
「……何でしょう」
「先ほどの口ぶりだと、私が医者であることをご存知のようでしたが……」

 ワトソンが黒く丸い瞳を輝かせながら、じっとこちらを見つめている。
 その勢いにルイスは内心たじろいだ。

「……もしかして、『緋色の研究』を読んでいただけたのでしょうか!?」
「え、えぇ……まぁ」

 一瞬背筋が冷えたが、彼自身が小説の中で書いていたことだ。彼の著書『緋色の研究』はもちろん目を通しているので、何もおかしいことはない。
 ルイスは頭を高速で回転させて、小説に書かれていたことと書かれていなかったこと――つまりルイスが知っていてもおかしくない情報と知り得ない情報を整理する。
 この二人であれば丸め込む自信はあったがホームズに漏れ伝わる可能性がある以上、下手なことを口走るわけにはいかなかった。
 著者の判断かホームズの指示か、あの小説に『犯罪相談役』は登場しない。あの事件は愛する者を殺されたジェファーソン・ホープの執念が仕掛けた犯罪であり、彼がシャーロックに例の取引を持ちかけることはない。
 仲間内では老婆に変装したフレッドのみがホープの協力者として登場していたが、彼に関しても詳しく言及されずに終わる。
 事件の真相を暴いたシャーロック・ホームズの活躍と、その裏に隠されたホープの悲しい過去が強調された構成である。

「読んでみて、いかがでしたか?」
「……えぇ、たいへん面白く拝読しました」

 とりあえず当たり障りのない回答をする。
 ウィリアムの影響もあって子供の頃から読書量は大人顔負けに多かったし、モリアーティ家に迎えられてからはその名に恥じぬだけの知識と教養を身につけた。しかしルイスは最近の大衆小説にはどうにも疎く、あの作品が面白いものなのかどうかいまいち判断がつかなかった。
 老婆に化けた謎の男が名探偵を出し抜いて指輪を取り戻す場面はなかなか痛快で面白いと感じたが、完全に身内の贔屓目である。あのくだりが気に入ったと言う一般読者はあまりいない気がする。

「すごいじゃない、ジョンくん! 伯爵家の方にまで読んでもらえるなんて」
「あの事件は話題になりましたので……」
「と言うことは、お兄さんも関心を持ってくれていたりしますか?」
「はい?」
「あの列車での事件を是非作品にしたいと思っているんです! 列車という特殊な閉鎖環境で起こった殺人、次の停車駅までに犯人を見つけなければならない時間的制約の中、容疑者として捕らえられたのはなんと名探偵の相棒。絶体絶命のシャーロック・ホームズの前に突如として現れたもう一人の探偵……! どうです、すごく面白くなりそうでしょう!?」
「はぁ……その、もう一人の探偵というのが」
「ウィリアムさんです! 彼に是非、僕の小説に登場していただきたいんです!」

 やはり来たか。
 ワトソンは『緋色の研究』以降もシャーロックが手掛けた事件を題材にした小説をいくつか発表している。
 彼自身にとっても印象深いであろう列車での殺人事件をいつかテーマに選ぶことは容易に想像できた。そうなれば必然的にシャーロックとともに事件に挑んだウィリアムが作品に登場する展開になることも。

「あの事件をウィリアムさん抜きに語ることはできません。かと言ってご本人にことわりを入れないわけにもいかないとも思ってまして、今日はほんとうに幸運でした。サイン本でも何でもご用意しますので、どうかルイスさんからお兄さんにお話をしていただけないでしょうか……?」

 別に貴方の小説のファンではない。
 喉元まで出かかった言葉をルイスは何とか押し込んだ。
 こういったとき、アルバートならば相手をうまく乗せて気持ちよく喋らせるだけ喋らせて、肝心の要求事項に関しては煙に巻いてしまうだろう。ウィリアムであれば悟られぬほどの巧妙さで会話の流れをコントロールして、そもそも不都合な話題を持ち出させない。
 あいにく彼らのような巧みな話術を持ち合わせていない自分は、きっちり切り返して処理するほかない。
 ルイスは腹を括って、困ったように苦笑してみせる。

「兄は目立つことを嫌いますし、あなたの作品に取り上げてほしいとはきっと思わないでしょう。それに、『上の兄』が何と言うか……」

 あえて語尾を濁すと、ワトソンの眉が分かりやすく下がった。
 『緋色の研究』において、『犯罪相談役』の存在の他にワトソンがあえて実際の事件から取り除いた要素がもうひとつある。被害者イーノック・J・ドレッバー氏が『伯爵』であったことだ。
 婚約者を奪われたことに対する復讐殺人という大筋は変わらないが、ドレッバー氏はアメリカ西部開拓団の権力者であることになっている。
 もちろん事件の真相は新聞で連日大々的に報じられていたので、彼が伯爵位を持つ貴族であった事はこのロンドンでは周知の事実だ。
 であれば、彼がこの改変を行った理由は関係者への配慮、そして貴族院からの圧力回避に他ならない。
 ワトソンがこの小説を執筆した動機はシャーロック・ホームズの活躍を世間に広めることだ、というのがウィリアムの見立てである。彼の創作活動の根底にあるものは歪んだ階級社会への怒りではない。
 そのため、彼は作品を出版に漕ぎ着けることを優先して事実に手を加えた。
 つまり、ウィリアムを小説に登場させないためには、同じように横槍が入る可能性をほのめかせてやればいい。

「ご存知の通り、長兄は貴族院議員を務めております。ドレッバー伯爵の一件で議会がいまだに混乱している中、家の者がワトソン先生の作品に登場するのは……申し上げにくいのですが、差し支える事が出てくるかと」
「そう……ですよね。貴族の中にはよく思わない方もきっと出てきますよね。モリアーティ家そのものにご迷惑がかかってしまうかもしれないわけだ」
「ご賢察、感謝します」

 予想通り、ワトソンがすっかり勢いを無くしてしまったので、ルイスは眼鏡の位置を正すふりをしながらちいさく笑った。
 権力を笠に着るようなやり方は少々不本意だが、ウィリアムの計画のためにも彼には引き続きシャーロック・ホームズの広告塔であってもらわねばならない。
 それに、『ジェームズ・モリアーティ』の役柄はとっくに決まっているのだ。

「兄は困っている方がいたから、知恵をお貸ししたまでです。それを世間に報じてほしいとは思わないでしょう」
「まぁ、『ノブレス・オブリージュ』ですね。ご立派だわ」
「うーん……であれば、ますますウィリアムさんには僕の小説に登場してほしかったなぁ。『弱き者に手を差し伸べる心優しき貴公子、その正体は名探偵の好敵手にして、若き天才数学者!』……なんて、どうでしょう」
「ちょっと、それじゃあきっとシャーロックより人気が出ちゃうわよ」

 主役の座を取って代わられるシャーロック・ホームズを想像して、ハドソンがころころと笑った。

「シャーロックは、世間では『貴族の悪行を暴くヒーロー』なんて言われていますが、貴族だって悪人ばかりというわけではないでしょう?ウィリアムさんに助けられて、ますますそう思いました」
「それはどうも」

 ルイスは控えめに礼を述べたが、口調とは裏腹に口角が上がるのを抑えられなかった。
 兄が褒められることは何よりも誇らしい。彼(正確には、彼とホームズ)が救った人間からの賛辞であるなら尚更だ。

「庶民と貴族、異なる立場にある二人の探偵が力を合わせて悪に立ち向かう……そんな物語を書くことができればと考えていたんです」
「……!」
「ウィリアムさんを連想させないようにもっと違ったキャラクターにしてみようかとも思ったんですが、どうもしっくりいかなくて。ライバル役としてシャーロックとのバランスを考えると、やっぱり……」
「はいはい。それ以上は帰ってからにして下さいね、コナン・ドイル先生」

 この男は今何と言った?
 彼が語ったアイデアは、誰より尊敬する兄の掲げたプランと一致する点がある。何と言うことはない小説の構想の話ではあるが、その事実はルイスに衝撃を与えた。
 人の良さだけが取り柄の凡庸な男だとばかり思っていたジョン・H・ワトソンが、途端に非凡な才を秘めた作家に見えてきた。

「ルイスさん?」
「え?あぁ、いえ。何でもありません」
 
 ハドソンが不思議そうにこちらを覗き込んでいて、ルイスは慌てて居住まいを正した。

「……兄に関する部分は省いて、いつもの通りホームズさんの活躍を描かれては如何でしょうか。その方が、彼も喜ばれるのでは?」
「どうでしょう。彼は僕の小説にはあまり興味がないみたいで」
「あら!そんなことないわよ、ジョンくん」

 ウィリアムから話が逸れるようそれとなく水を向けると、ハドソンから援護射撃が入った。

「興味なさそうなのはフリよ、フリ!あの男ったら、ジョンくんがいない間に共同リビングに置いてある本をこっそり読んでるんだから」
「そうなんですか?あいつにも世間の評判を気にするようなところがあったんだな……」
「『世間の評判』じゃなくて、『ジョンくんにどう思われてるか』じゃないかしら」

 そこからは二人の他愛のない話に相槌を打つばかりだった。シャーロック・ホームズについて役立てられそうな情報を得る間もなく、馬車は221Bにたどり着いた。
「次は是非寄っていってくださいね」と笑顔を見せるワトソンに、ルイスは曖昧に頷いた。
 嵐、というほどではないが彼らはまさに通り雨のように去っていった。

 ワトソンらがいなくなった車内は、雨音に包まれて妙に静かだ。馬車に揺られながら、ルイスは目を閉じた。
 あの列車を降りながら、「彼ら、けっこういいコンビだと思うよ」とウィリアムは言った。
 あの時は兄の言葉の意味を測りかねたが、今なら何となくルイスにも理解できる気がした。
 彼がホームズと共に挑んだ事件を、彼の目と感性を通して物語にし、民衆がそれを追体験する。人々を理想の世界へ導くにしては気が遠くなるほど緩やかな方法だが、それにより目を開く人間もきっと少なくないだろう。
 ホームズのことは相変わらず受け入れ難いが、ああいう男がホームズのそばについているのは面白いことだとも思った。同時に、「面白い」などという不確かな感覚で判断を下そうとしている自分に苦笑した。

 屋敷の前で馬車を降りると、2階の窓辺に兄がいた。
 弟が雨に降られていることを心配してくれていたのだろう。ルイスの姿を見つけてちいさく手を振ると、そのまま部屋の奥へと消えていった。
 彼が民衆の希望を背負って悪に立ち向かう、そんな物語があったかもしれないのだろうか。掲げた理想を絵空事で終わらせるつもりはないけれど、そんな物語を読んでみたいとも思った。
 門をくぐってから玄関で兄に出迎えられるまでの短い間、永遠に世に出ることのないコナン・ドイルの新作について、ルイスは夢想した。


初出:Pixiv 2021.06.19

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