No.48
されど歩みは止めないで
バジリオ視点で、マグナス兄弟とシグナス姉妹のお話。
この傷を負った日のことを俺はあまり覚えていない。ガキだったし、朦朧としてたし、後で知ったことだが轟音で一時的に耳もやられていたらしい。
激しい衝撃に跳ね飛ばされると同時に世界が真っ白になって、すべての音が遠のいた。
次に気がついた時には、魔道器実験施設の薄暗い部屋の片隅に寝かされていて、兄貴やビンカたちが俺の顔を覗き込んでいた。
兄貴たちは口をパクパクさせて何か叫んでいたけれど、始めのうちはよく聞こえなかった。右目も上手く開けられない。
あにき、と呼ぼうとすると胸のあたりが引き攣れたように痛んだ。痛い、身体中が痛い。
俺の口からうめき声が漏れると、兄貴はますます顔を青くした。
「……オ、バジリオ!」
激しい痛みがいくらか意識をはっきりさせてくれて、兄貴の声が聞こえた。兄貴は顔を伏せて、生まれつき垂れた耳をますます小さく縮こまらせていた。
「バジリオ……バジリオ、ごめん。ごめんな……」
兄貴の声は震えていた。ビンカが、そんな兄貴の背中をさすってやっているのが見える。
そんなふうにめそめそするのは兄貴らしくないぜ。俺は大丈夫だ、兄貴。
そう答えたかったのに、喉の奥からゼェゼェと呼吸が漏れるだけで身体はちっとも言うことを聞かなかった。どこか高いところから落っことされて身体がバラバラになったみたいだ。
俺の手を掴んだ兄貴の手を、握り返すこともできなかった。
*
鎧戦車の娯楽室に入ると、隊長とユーファが地べたに座り込んでいて、俺はいくらかぎょっとした。二人は床がガタガタ揺れているのも気に留めず、ぴんと背筋を伸ばして目を閉じている。
すかさずガリカが飛んできて、「しーっ!」と顔の前に針の先みたいに小さな人差し指を突き立てた。
どうやら邪魔しちゃいけないらしい。俺はそーっと部屋を出ようとしたが、それよりも早くユーファがこちらに気がついた。三つの目が同時に開いて、俺の姿を捉える。
「あ、バジリオさん。ご一緒にどうです?」
「え? いや、えーっと、何やってんだ?」
誘われるとは思っていなくて、俺はしどろもどろに尋ねた。
「瞑想です。気持ちが落ち着いて、集中力が高まるのです」
「へー……」
「外界を一時的に遮断し、内なる声と向き合うことで、精神を高める……。きっと魔法の修練にも繋がりますよ」
魔法ね、と俺は口の中で呟いた。
「この『アーキタイプ』ってやつはともかく、俺は魔法は苦手だな」
「そうなんですか?」
ユーファと隊長が姿勢を崩したことで、瞑想会はお開きの流れになった。ガリカがすいっと飛んできて、隊長の肩に腰を下ろしながら口を挟む。
「そういえば、あんたに目覚めたアーキタイプもそうよね。とにかく力でぶん殴る!って感じ」
「ああ。小難しいことは性に合わねぇってのもあるが……ガキの頃、魔道器を使って撃った魔法が自分に跳ね返ってきたことがあってな。大怪我してひでぇ目に遭ったから、そのせいかもしれねぇ」
ユーファが「まぁ」と驚きの声を上げた。
「魔道器は誰でも簡単に魔法を扱えるようになる利器と聞いていましたが……そのような事故が起こる危険も孕んでいるのですね」
「あー、その時俺が使ったのは試作段階の魔道器だったからな。軍で支給されたり、店屋に並んでたりするような魔道器は大丈夫だろ」
「試作、段階?」
ユーファがこてんと首を傾げると同時に、隊長とガリカが気まずそうに顔を見合わせる。しばしの沈黙の後、ガリカが恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「それって……魔道器の人体実験施設での話?」
「ああ」
「思い出したくないことかもしれないけど、そこって、どんな事をしたり……されたりするの?」
嫌なら答えなくてもいいからね、とガリカは早口に付け足した。
この妖精の言う通り、答えたくない質問ではあった。だが島育ちのユーファはその辺りの事情は全く知らないだろうし、隊長はこの国の王になろうという男だ。彼らに知っておいてほしかった。
俺は手近なソファに腰を下ろした。
「魔道器ってのは、マグラ結晶に魔法の回路?ってやつを書き込んで、持ち主が力を込めると魔法が発動するように作られてるそうなんだが……作ってすぐにハイどうぞ、ってわけにはいかねぇんだ。回路の設計が上手くいってるか、図面通りに作れているか、マグラ結晶に傷や不純物がないか……そういうことを、軍や店屋に卸す前にテストしておく必要がある。俺たちパリパスみたいに職にあぶれた連中が、実際に使ってみることでな」
「安全性を確保するために、暴発するような不良品をそうやって弾いているのですね……」
「そうだ。で、怪我でもすれば、今度は治癒魔法用の魔道器のテストに回される。場合によっちゃ、攻撃魔法の暴発よりもこっちの方が酷い。何せ身体に直接干渉する魔法の実験台になる訳だからな。かえって気分が悪くなったり、幻覚が見えたり、感覚が鋭くなりすぎて苦痛が増幅されちまったり……試作段階の魔道器はひどい副作用が出やすいんだ」
「……」
隊長の顔に暗い影が落ちた。ブライハーヴェンでビンカと何度か顔を合わせているから、あいつの事を思い出してくれたのだろう。
だがユーファが連想したのは、別のことだった。
「ひょっとして……フィデリオさんも?」
「さすがムツタリの巫女さんだ、鋭いな」
「やはり……フィデリオさんは、その、魔道器実験の影響で、身体の成長が止まってしまっていたのですね」
恐ろしいことです、とユーファが低い声で呟いた。前にちらりとこの話をしたことのある隊長とガリカさえ、沈んだ顔だった。
「兄貴は、パリパス族にしちゃあ珍しく魔法の適性が高かったんだ。施設の連中は兄貴を重宝した。その分報酬も弾んでもらえたが……」
「普通の人にはできないような無理を重ねちゃったのね」とガリカ。
俺は頷き返した。
実際、兄貴は俺やビンカとは別室に連れて行かれることが度々あった。怪我をしていることはほとんどなかったものの、帰ってきた兄貴は青い顔でぐったりと横になっていることが多かった。
大丈夫かと尋ねると「お前たちのよりずっと難しい実験を手伝ってやったから疲れてるんだ」と軽口を叩く。ガキだった俺は「やっぱり兄貴はすごい」とおめでたくその言葉を信じていた。
「フィデリオさん、すごい方なのですね」
唐突に、ユーファが言った。ガリカが「はっ?」と素っ頓狂な声を上げたので、ユーファは自分の失言に気づいて慌てふためいた。
「あ、ごめんなさい! ワタシ……」
「いいよ。兄貴がすげえのは知ってるし」
「あ、あの。ごめんなさい。せめて、説明させてください……ええと、人の……いえ、生きとし生けるものの身体には、血潮と同じようにマグラが流れているのです。ワタシたちがアーキタイプを発動させた時、身体中に光の筋が浮かびあがるでしょう? あれは言わば、マグラの血管なのです」
俺は無意識に自分の手のひらに目をやった。今は何も見えないが、確かに、あの力を発動した時は奇妙な模様が浮かび上がる。
「フィデリオさんに初めてお会いした時、彼のマグラは非常にゆっくり流れて見えたのです。澱んでいる、というよりは、2つの力が拮抗して停滞しているような……」
「魔導器実験の影響で、か?」
「ハイ、おそらく」とユーファはこっくり頷いた。
「これは凄いことです。普通、身体の成長が止まるほど大きくマグラが乱れてしまったら、精神か肉体か、もしくはその両方が破綻してしまいます。ですがフィデリオさんは、乱れてしまった体内のマグラの流れに、どうにかバランスを取って新しい調和を生み出していたのです。おそらくは彼自身も無意識のうちに」
「確かに」とガリカが隊長の肩の上で呟いた。
「人は時間の経過とともに成長して、やがて老いていくものよね。その摂理が乱れるほどの影響って、考えてみたら相当なものよ。それでも、フィデリオは日常生活を……ううん、軍人として活動して、ルイの腹心にまで登りつめた」
「それは確かにすごいな」と隊長。
「そうですよね! フィデリオさんがアーキタイプに目覚めていたら、ものすごい使い手になっていたかも……」
二人から賛同を得て破顔したユーファだったが、俺の顔を見るなり慌てて口をつぐんだ。
「ご、ごめんなさい。ワタシ、浮かれてつい……」
「だからいいって」
申し訳なさそうに縮こまられるのは座りが悪くて、俺は首の後ろをばりばりと掻いた。
「兄貴はすげぇって俺は分かってるけどよ、改めて他人から言葉にしてもらえると結構嬉しいもんなんだよ」
「そ、そうですか……?」
「それに、パリパスは死んだやつの話をする時もそんな辛気臭え面はしないぜ。誰だって、悲しい思い出にされるよりも、『あいつはすげぇ奴だったな』って笑顔と一緒に思い出してもらえる方が嬉しいに決まってるだろ。……だから、ありがとな。ユーファ」
ユーファがはにかみながら頷くと同時に、伝声管からニューラスの声が響いた。
「うお、もう着いちまったのか。邪魔して悪かったな」
「いえ、とても良い時間でした」
「瞑想はまた今度ね。さぁ、今日も頑張りましょ! この迷宮には賞金首もいるのよね?」
「風聞屋の話だと、確か……」
ガタガタと音を立てながらタラップがせり出して、大地に降ろされる。期待と高揚と、微かな緊張感を孕んだこの瞬間が好きだった。
やってやろうぜ、兄貴。
俺は胸の内で呼びかけた。
*
レラ様の手がそっと背中に添えられる。
他人に魔法を向けられるのは、初めは怖くてたまらなかった。だけど、俺たち兄弟を救ってくれたこの人だけは信じられた。
レラ様の手からあたたかい光が溢れて、傷口から俺の身体の中に流れ込んでくる。気を抜くと椅子の上で眠ってしまいそうなほど心地いい。天の国にでも来たような気分だった。
「はい、おしまい。頑張ったわね、バジリオ」
優しく肩を叩かれて、俺ははっと顔を上げた。ウトウトしてよだれを垂らしていなかったかこっそりと確かめて、椅子から飛び降りる。
「ありがとう、レラ様! もうちっとも痛くなくなった!」
「そう? ならよかったわ。……じゃあ、仕上げのおまじない」
レラ様は小さな陶器の容れ物を取り出した。淡いクリーム色の、蝋のようなものが入っている。
レラ様はそれを指先に取って、俺の頬にちょんちょんと乗せてくれた。花のような、甘い匂いがふわりと香る。
「幸運がありますように」
そう呟きながら、レラ様はにっこりと微笑んだ。この人は、俺みたいな薄汚いパリパスのガキ相手にも本当に優しい。
俺は、信じられるのは兄貴と、同じ境遇のパリパスだけだと思っていた。この世の汚いところなんか何一つ知らなさそうな綺麗な人にこんなふうに優しくされると、ふとした瞬間に泣いてしまいそうになる。
みっともない顔を見せないように、俺はレラ様の方を見ないようにしながらシャツを着た。
「でも、まだ無茶は禁物よ。あまり不安にさせるようなことは言いたくないけれど……」
「大丈夫だよ、レラ様が魔法かけてくれたから」
「ううん。聞いて、バジリオ」
レラ様は俺の手を引いて、もう一度診察用の椅子に座らせた。
「あなたはこれから、うんと背が伸びるわ。身体が大きくなると、古い傷の痛みも増すかもしれない。私がこうやって診てあげられればいいけれど、ここに来られない時は、痛み止めの薬草を煎じて飲むのよ」
「……はい、レラ様」
「薬草の煎じ方、覚えてる?」
「うん。それは大丈夫。でもレラ様……兄貴の背は、もう伸びないの?」
「……」
レラ様は顔を曇らせた。優しくて、嘘がつけない人なのだ。
俺たち兄弟があの実験施設から逃げ出してしばらく経つ。レラ様に助けてもらって安全な寝床と温かい食事を与えられて、俺の身体は自分でも分かるほどの勢いで大きくなり始めた。俺くらいの年齢のパリパスの子供なら、ごく当たり前の成長らしい。
だが兄貴の背は一向に伸びなくて、とうとう俺の方が大きくなってしまった。魔道器実験の後遺症ではないか、と気がついたのはレラ様だ。
「きっと大丈夫……なんて、無責任なことは言えないわ。珍しいケースだから、原因を特定するのも治療するのも、とっても難しいことなの」
「シセツ……に入った方がいいの?」
「本当はね。もちろん、あなた達が想像するような怖いところじゃないわ。病気や怪我を治すための場所よ」
「でも、兄貴は行かないって……」
「そうねぇ」とレラ様は困ったように細い眉を下げた。
「私としては治療施設に入ってもらいたいわね。時間を掛けて調べれば、原因を特定して治療法を見つけられるかもしれないし」
「だったら、俺もそうしてほしいな。金がいるなら俺が稼ぐから」
「フィデリオはそれが嫌なのよ」
レラ様の言葉に、俺はショックを受けた。
「何で? 兄貴の背が伸びなくなっちまったの、俺のせいなのに」
「バジリオ?」
レラ様は片付けようとしていた容器をテーブルの上に押し戻した。その表情に焦りが浮かぶ。
「どうしてそう思ったの? フィデリオのことはあなたのせいなんかじゃないわ」
俺はブルブルと首を横に振った。
「ううん、俺のせいだよ。だって、俺がいたから、二人分の食い扶持を稼がなくちゃいけなくて、兄貴はいっぱい無理しなきゃいけなかったんだ。受けなくていい実験まで受けて、それで……」
「バジリオ」
レラ様が優しく俺の手を取った。
その温かさに、握り締めていた拳から力が抜けていく。また泣きそうになって、俺は歯を食いしばった。レラ様がせっかく塗ってくれた練り香水が流れてしまう。
「ごめんね、びっくりさせてしまったわね。許してちょうだい。……フィデリオはね、治療施設に入れば、あなたと一緒にいられなくなることが嫌だと言ったのよ」
「でも、俺なんかと一緒にいない方が、兄貴は……」
「バジリオ」
レラ様は椅子に座り直して、真剣な表情で俺の顔を覗き込んだ。
「自分なんか、なんて絶対に言わないで。フィデリオが悲しむし、私も悲しい」
「でも……」
「私、あなたたちが魔道器の実験施設から逃げ出して、ここに来てくれて本当によかったと思っているの。逃げる時、怖くなかった? 怖い人たちが追いかけてくるんじゃないか、捕まってお仕置きされるんじゃないかって、思わなかった?」
「……お、思った」
「きっとフィデリオだって怖かった。でも、あなたがいたから勇気を持てたのよ。一人ぼっちじゃ出せなかった力を、あなたがいたから出せたの」
「……」
「あなた達は素晴らしい兄弟よ。お互いに助け合って、ここまで頑張ってきたんでしょう? これから先もずっと変わらないわ」
そうなのだろうか。
実験施設から逃げ出す時、あらかじめ格子の一部を壊しておいたのも、見張りを出し抜く方法を考えたのも、全部兄貴だった。俺はただ手を引かれるままについて行っただけだ。
兄貴も本当は座り込んで泣き出したくなるほどの恐怖を抱えていて、それでも俺なんかの存在が、そんな兄貴の背中を押せていたのだろうか。
「……レラ様も?」
「え?」
「レラ様も、ジュナさんのためなら勇気が持てる? 一人じゃ出せない力、出せる?」
歌の力で皆を惹きつけてやまない、星みたいにきらきら輝くレラ様の妹。レラ様はにっこり笑って頷いてくれるのだと、俺は信じて疑わなかった。
それなのに、次に見上げたレラ様の顔は、呼吸すら忘れてしまったかのように硬く凍りついていた。
イシュキア族は、パリパス族やニディア族ほど感情を表に出さない。どちらかと言うと表情の読みにくい顔立ちをした人たちだ。それでも、レラ様の動揺は空気を震わせてはっきりと俺に伝わってきた。
「れ、レラ様……?」
戸惑った声を上げると、レラ様はぱっと俺の手を離して立ち上がった。固く目を閉じて、俺に背中を向けてしまう。レラ様の柔らかい羽根が俺の膝を掠めた。
「……もちろん」
長い長い沈黙の後、レラ様は絞り出すように言った。
「もちろん、ジュナは、私の一番大事な妹よ」
一語一語、ゆっくりと噛み締めるような話し方だった。レラ様がどんな顔をしてそう言ったのか、椅子に座ったままの俺には見えなかった。
次にこちらを振り返った時、レラ様はもういつものレラ様だった。
「……そうだ、今日はジュナが遊びに来ているんだったわ。すっかり話し込んじゃったから、きっと今ごろ、フィデリオと二人で待ちくたびれてるわね」
「う、うん……」
「それにね、何と今日は、信徒の方が下さったお菓子もあるの。あまぁい蜜菓子よ。お茶を淹れて、皆でいただきましょうね」
レラ様はいそいそと戸棚を開けた。「じゃーん!」と芝居がかった仕草で皿に並んだお菓子を俺に見せつける。妙にはしゃいだ様子だった。
きっと、俺たちには黙っているだけで、レラ様にも辛いことがたくさんあるのだ。
俺はレラ様の態度をそう解釈することにした。
「レラ様。何か、俺に手伝えること無い?」
「え?」
「魔法のお礼。俺、何でもする」
「お礼なんて、そんなの……そうね。じゃあ、両手が塞がっちゃったから、代わりにドアを開けてもらえるかしら?」
「そういうのじゃなくって!」
「ふふ。……なら、さっきの話の続きになるけど」
レラ様はドアの前で振り返り、俺の目をまっすぐに覗き込んだ。
「フィデリオの体調は、今は安定しているけれど、これから何が起こるか分からない。特にあの子は、お兄ちゃんなんだから頑張らなきゃって無茶をしてしまうから……弟のあなたが、ちゃんと見ていてあげて。もしフィデリオの具合が悪くなったりしたら、引きずってでもここに連れてきてちょうだい。私が必ず何とかするから」
「わ、わかった」
「そのためにも、フィデリオの後ろにぴったりくっついているのよ」
俺は何度も頷いた。
兄貴のためにできることがあると教えてもらってほっとしたし、レラ様が俺に頼ってくれたことも嬉しかった。
「それじゃ、早く行きましょ。二人が待ってるわ」
「……もうちょっと、ゆっくりしててもいいと思うけど」
「え? どうして?」
「どうしてって……」
答えを言いそうになって、俺は慌てて口をつぐんだ。
俺たちがここにいる間は兄貴はジュナさんと二人きりだということで、兄貴にとっては嬉しい時間に違いない。でも、もしレラ様にバラしたりしたら、兄貴に一生恨まれる。
「だ、ダメだ。俺の口からは言えねぇ」
「教えてくれないの? 意地悪ね、バジリオ」
口では俺のことを詰りながら、レラ様の声は笑っていた。もうすっかりいつものレラ様だ。安心して尻尾がゆらゆらと左右に揺れる。
俺は少しもったいぶってから、お菓子の皿を持ったレラ様の代わりに、診察室のドアを開けた。
*
山脈に冷たい風が吹き抜けて、俺は思わず身震いする。戦いの最中には気にならなかった寒さも、一度興奮が覚めてしまえば容赦なく身体を襲った。
ぴんと立った耳の先が痛い。兄貴みたいに垂れたままの耳だったら、いくらかマシだっただろうか。
高い山の上は空気が鋭く澄んでいて、そびえ立つ王立魔法学院の尖塔がいやにはっきりと見えた。
「何と声をかければ良いものか……」
ハイザメが唸った。
鎧戦車から少し離れた場所に、ぽつんと立ち尽くしたジュナさんの後ろ姿がある。その視線は、永遠に凍りついたレラ様がいる方角へ向けられていた。
ストロールがもどかしそうに頷いた。
「落ち着くまでそっとしておいてやりたいが……長居はできないぞ。夜間の飛行は危険すぎる」
「転移魔法を使えばいい。エト・リアならこの混乱の余波も少ないはずだから、いざとなったらエディンを頼ろう」
こんな時でも、隊長は冷静だった。
「だがこのまま放っておくのも……」
「ジュナさん! 出発だってよ!」
俺が声を張り上げると、ジュナさんはようやくこちらを振り向いた。
様子をうかがっていたのを悟られないように、ストロールとハイザメが慌てて明後日の方を向く。そんな事をしても、あの人にはお見通しだってのに。
俺はザクザクと雪を踏みしめてジュナさんのところへ駆け寄った。できる限り、いつもの調子と変わらないように。
「早く中入ろうぜ。そんな薄着で、風邪引いちまう」
「……気の利かない子ね。フィデリオならこういう時、上着の一枚でも掛けてくれるとこだけど?」
ジュナさんは涙に濡れた声で、そんな強がりを言った。俺の肩から少し力が抜ける。
「冗談。このクソ寒い中で、ジュナさんのためにそんな痩せ我慢できるの、兄貴くらいだぜ」
「……それもそうね」
ジュナさんはわずかに口角を上げた。指先で目元を拭っているのを見て、せめてハンカチくらい持っていればよかった、と少し後悔した。
「ごめん、待たせちゃってるわね。戻りましょ」
「ジュナさん、無理は……」
しないでくれ、と言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。無理しなければ、立っていられないはずだ。俺だって、多分、今まさに無理をしてる。
でもジュナさんには、俺が飲み込んだ言葉も、考えていることも、すべて分かっているようだった。
「私、姉さんの妹でよかったわ」
「……ああ。俺もだ」
ジュナさんが鎧戦車に向かって歩き出す。胸を張り、顎をつんと上げて。どこまでも気丈な人だった。
寒さに縮こまらせていた背中を、俺も意識して伸ばす。凍てついた空気が肺の中まで凍えさせるかと思ったが、案外、身体の内側は熱いままだ。
まだやれる。生きていける。
そう自分に言い聞かせながら、霜雪を踏みしめて、俺は歩き出した。
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バジリオ視点で、マグナス兄弟とシグナス姉妹のお話。
この傷を負った日のことを俺はあまり覚えていない。ガキだったし、朦朧としてたし、後で知ったことだが轟音で一時的に耳もやられていたらしい。
激しい衝撃に跳ね飛ばされると同時に世界が真っ白になって、すべての音が遠のいた。
次に気がついた時には、魔道器実験施設の薄暗い部屋の片隅に寝かされていて、兄貴やビンカたちが俺の顔を覗き込んでいた。
兄貴たちは口をパクパクさせて何か叫んでいたけれど、始めのうちはよく聞こえなかった。右目も上手く開けられない。
あにき、と呼ぼうとすると胸のあたりが引き攣れたように痛んだ。痛い、身体中が痛い。
俺の口からうめき声が漏れると、兄貴はますます顔を青くした。
「……オ、バジリオ!」
激しい痛みがいくらか意識をはっきりさせてくれて、兄貴の声が聞こえた。兄貴は顔を伏せて、生まれつき垂れた耳をますます小さく縮こまらせていた。
「バジリオ……バジリオ、ごめん。ごめんな……」
兄貴の声は震えていた。ビンカが、そんな兄貴の背中をさすってやっているのが見える。
そんなふうにめそめそするのは兄貴らしくないぜ。俺は大丈夫だ、兄貴。
そう答えたかったのに、喉の奥からゼェゼェと呼吸が漏れるだけで身体はちっとも言うことを聞かなかった。どこか高いところから落っことされて身体がバラバラになったみたいだ。
俺の手を掴んだ兄貴の手を、握り返すこともできなかった。
*
鎧戦車の娯楽室に入ると、隊長とユーファが地べたに座り込んでいて、俺はいくらかぎょっとした。二人は床がガタガタ揺れているのも気に留めず、ぴんと背筋を伸ばして目を閉じている。
すかさずガリカが飛んできて、「しーっ!」と顔の前に針の先みたいに小さな人差し指を突き立てた。
どうやら邪魔しちゃいけないらしい。俺はそーっと部屋を出ようとしたが、それよりも早くユーファがこちらに気がついた。三つの目が同時に開いて、俺の姿を捉える。
「あ、バジリオさん。ご一緒にどうです?」
「え? いや、えーっと、何やってんだ?」
誘われるとは思っていなくて、俺はしどろもどろに尋ねた。
「瞑想です。気持ちが落ち着いて、集中力が高まるのです」
「へー……」
「外界を一時的に遮断し、内なる声と向き合うことで、精神を高める……。きっと魔法の修練にも繋がりますよ」
魔法ね、と俺は口の中で呟いた。
「この『アーキタイプ』ってやつはともかく、俺は魔法は苦手だな」
「そうなんですか?」
ユーファと隊長が姿勢を崩したことで、瞑想会はお開きの流れになった。ガリカがすいっと飛んできて、隊長の肩に腰を下ろしながら口を挟む。
「そういえば、あんたに目覚めたアーキタイプもそうよね。とにかく力でぶん殴る!って感じ」
「ああ。小難しいことは性に合わねぇってのもあるが……ガキの頃、魔道器を使って撃った魔法が自分に跳ね返ってきたことがあってな。大怪我してひでぇ目に遭ったから、そのせいかもしれねぇ」
ユーファが「まぁ」と驚きの声を上げた。
「魔道器は誰でも簡単に魔法を扱えるようになる利器と聞いていましたが……そのような事故が起こる危険も孕んでいるのですね」
「あー、その時俺が使ったのは試作段階の魔道器だったからな。軍で支給されたり、店屋に並んでたりするような魔道器は大丈夫だろ」
「試作、段階?」
ユーファがこてんと首を傾げると同時に、隊長とガリカが気まずそうに顔を見合わせる。しばしの沈黙の後、ガリカが恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「それって……魔道器の人体実験施設での話?」
「ああ」
「思い出したくないことかもしれないけど、そこって、どんな事をしたり……されたりするの?」
嫌なら答えなくてもいいからね、とガリカは早口に付け足した。
この妖精の言う通り、答えたくない質問ではあった。だが島育ちのユーファはその辺りの事情は全く知らないだろうし、隊長はこの国の王になろうという男だ。彼らに知っておいてほしかった。
俺は手近なソファに腰を下ろした。
「魔道器ってのは、マグラ結晶に魔法の回路?ってやつを書き込んで、持ち主が力を込めると魔法が発動するように作られてるそうなんだが……作ってすぐにハイどうぞ、ってわけにはいかねぇんだ。回路の設計が上手くいってるか、図面通りに作れているか、マグラ結晶に傷や不純物がないか……そういうことを、軍や店屋に卸す前にテストしておく必要がある。俺たちパリパスみたいに職にあぶれた連中が、実際に使ってみることでな」
「安全性を確保するために、暴発するような不良品をそうやって弾いているのですね……」
「そうだ。で、怪我でもすれば、今度は治癒魔法用の魔道器のテストに回される。場合によっちゃ、攻撃魔法の暴発よりもこっちの方が酷い。何せ身体に直接干渉する魔法の実験台になる訳だからな。かえって気分が悪くなったり、幻覚が見えたり、感覚が鋭くなりすぎて苦痛が増幅されちまったり……試作段階の魔道器はひどい副作用が出やすいんだ」
「……」
隊長の顔に暗い影が落ちた。ブライハーヴェンでビンカと何度か顔を合わせているから、あいつの事を思い出してくれたのだろう。
だがユーファが連想したのは、別のことだった。
「ひょっとして……フィデリオさんも?」
「さすがムツタリの巫女さんだ、鋭いな」
「やはり……フィデリオさんは、その、魔道器実験の影響で、身体の成長が止まってしまっていたのですね」
恐ろしいことです、とユーファが低い声で呟いた。前にちらりとこの話をしたことのある隊長とガリカさえ、沈んだ顔だった。
「兄貴は、パリパス族にしちゃあ珍しく魔法の適性が高かったんだ。施設の連中は兄貴を重宝した。その分報酬も弾んでもらえたが……」
「普通の人にはできないような無理を重ねちゃったのね」とガリカ。
俺は頷き返した。
実際、兄貴は俺やビンカとは別室に連れて行かれることが度々あった。怪我をしていることはほとんどなかったものの、帰ってきた兄貴は青い顔でぐったりと横になっていることが多かった。
大丈夫かと尋ねると「お前たちのよりずっと難しい実験を手伝ってやったから疲れてるんだ」と軽口を叩く。ガキだった俺は「やっぱり兄貴はすごい」とおめでたくその言葉を信じていた。
「フィデリオさん、すごい方なのですね」
唐突に、ユーファが言った。ガリカが「はっ?」と素っ頓狂な声を上げたので、ユーファは自分の失言に気づいて慌てふためいた。
「あ、ごめんなさい! ワタシ……」
「いいよ。兄貴がすげえのは知ってるし」
「あ、あの。ごめんなさい。せめて、説明させてください……ええと、人の……いえ、生きとし生けるものの身体には、血潮と同じようにマグラが流れているのです。ワタシたちがアーキタイプを発動させた時、身体中に光の筋が浮かびあがるでしょう? あれは言わば、マグラの血管なのです」
俺は無意識に自分の手のひらに目をやった。今は何も見えないが、確かに、あの力を発動した時は奇妙な模様が浮かび上がる。
「フィデリオさんに初めてお会いした時、彼のマグラは非常にゆっくり流れて見えたのです。澱んでいる、というよりは、2つの力が拮抗して停滞しているような……」
「魔導器実験の影響で、か?」
「ハイ、おそらく」とユーファはこっくり頷いた。
「これは凄いことです。普通、身体の成長が止まるほど大きくマグラが乱れてしまったら、精神か肉体か、もしくはその両方が破綻してしまいます。ですがフィデリオさんは、乱れてしまった体内のマグラの流れに、どうにかバランスを取って新しい調和を生み出していたのです。おそらくは彼自身も無意識のうちに」
「確かに」とガリカが隊長の肩の上で呟いた。
「人は時間の経過とともに成長して、やがて老いていくものよね。その摂理が乱れるほどの影響って、考えてみたら相当なものよ。それでも、フィデリオは日常生活を……ううん、軍人として活動して、ルイの腹心にまで登りつめた」
「それは確かにすごいな」と隊長。
「そうですよね! フィデリオさんがアーキタイプに目覚めていたら、ものすごい使い手になっていたかも……」
二人から賛同を得て破顔したユーファだったが、俺の顔を見るなり慌てて口をつぐんだ。
「ご、ごめんなさい。ワタシ、浮かれてつい……」
「だからいいって」
申し訳なさそうに縮こまられるのは座りが悪くて、俺は首の後ろをばりばりと掻いた。
「兄貴はすげぇって俺は分かってるけどよ、改めて他人から言葉にしてもらえると結構嬉しいもんなんだよ」
「そ、そうですか……?」
「それに、パリパスは死んだやつの話をする時もそんな辛気臭え面はしないぜ。誰だって、悲しい思い出にされるよりも、『あいつはすげぇ奴だったな』って笑顔と一緒に思い出してもらえる方が嬉しいに決まってるだろ。……だから、ありがとな。ユーファ」
ユーファがはにかみながら頷くと同時に、伝声管からニューラスの声が響いた。
「うお、もう着いちまったのか。邪魔して悪かったな」
「いえ、とても良い時間でした」
「瞑想はまた今度ね。さぁ、今日も頑張りましょ! この迷宮には賞金首もいるのよね?」
「風聞屋の話だと、確か……」
ガタガタと音を立てながらタラップがせり出して、大地に降ろされる。期待と高揚と、微かな緊張感を孕んだこの瞬間が好きだった。
やってやろうぜ、兄貴。
俺は胸の内で呼びかけた。
*
レラ様の手がそっと背中に添えられる。
他人に魔法を向けられるのは、初めは怖くてたまらなかった。だけど、俺たち兄弟を救ってくれたこの人だけは信じられた。
レラ様の手からあたたかい光が溢れて、傷口から俺の身体の中に流れ込んでくる。気を抜くと椅子の上で眠ってしまいそうなほど心地いい。天の国にでも来たような気分だった。
「はい、おしまい。頑張ったわね、バジリオ」
優しく肩を叩かれて、俺ははっと顔を上げた。ウトウトしてよだれを垂らしていなかったかこっそりと確かめて、椅子から飛び降りる。
「ありがとう、レラ様! もうちっとも痛くなくなった!」
「そう? ならよかったわ。……じゃあ、仕上げのおまじない」
レラ様は小さな陶器の容れ物を取り出した。淡いクリーム色の、蝋のようなものが入っている。
レラ様はそれを指先に取って、俺の頬にちょんちょんと乗せてくれた。花のような、甘い匂いがふわりと香る。
「幸運がありますように」
そう呟きながら、レラ様はにっこりと微笑んだ。この人は、俺みたいな薄汚いパリパスのガキ相手にも本当に優しい。
俺は、信じられるのは兄貴と、同じ境遇のパリパスだけだと思っていた。この世の汚いところなんか何一つ知らなさそうな綺麗な人にこんなふうに優しくされると、ふとした瞬間に泣いてしまいそうになる。
みっともない顔を見せないように、俺はレラ様の方を見ないようにしながらシャツを着た。
「でも、まだ無茶は禁物よ。あまり不安にさせるようなことは言いたくないけれど……」
「大丈夫だよ、レラ様が魔法かけてくれたから」
「ううん。聞いて、バジリオ」
レラ様は俺の手を引いて、もう一度診察用の椅子に座らせた。
「あなたはこれから、うんと背が伸びるわ。身体が大きくなると、古い傷の痛みも増すかもしれない。私がこうやって診てあげられればいいけれど、ここに来られない時は、痛み止めの薬草を煎じて飲むのよ」
「……はい、レラ様」
「薬草の煎じ方、覚えてる?」
「うん。それは大丈夫。でもレラ様……兄貴の背は、もう伸びないの?」
「……」
レラ様は顔を曇らせた。優しくて、嘘がつけない人なのだ。
俺たち兄弟があの実験施設から逃げ出してしばらく経つ。レラ様に助けてもらって安全な寝床と温かい食事を与えられて、俺の身体は自分でも分かるほどの勢いで大きくなり始めた。俺くらいの年齢のパリパスの子供なら、ごく当たり前の成長らしい。
だが兄貴の背は一向に伸びなくて、とうとう俺の方が大きくなってしまった。魔道器実験の後遺症ではないか、と気がついたのはレラ様だ。
「きっと大丈夫……なんて、無責任なことは言えないわ。珍しいケースだから、原因を特定するのも治療するのも、とっても難しいことなの」
「シセツ……に入った方がいいの?」
「本当はね。もちろん、あなた達が想像するような怖いところじゃないわ。病気や怪我を治すための場所よ」
「でも、兄貴は行かないって……」
「そうねぇ」とレラ様は困ったように細い眉を下げた。
「私としては治療施設に入ってもらいたいわね。時間を掛けて調べれば、原因を特定して治療法を見つけられるかもしれないし」
「だったら、俺もそうしてほしいな。金がいるなら俺が稼ぐから」
「フィデリオはそれが嫌なのよ」
レラ様の言葉に、俺はショックを受けた。
「何で? 兄貴の背が伸びなくなっちまったの、俺のせいなのに」
「バジリオ?」
レラ様は片付けようとしていた容器をテーブルの上に押し戻した。その表情に焦りが浮かぶ。
「どうしてそう思ったの? フィデリオのことはあなたのせいなんかじゃないわ」
俺はブルブルと首を横に振った。
「ううん、俺のせいだよ。だって、俺がいたから、二人分の食い扶持を稼がなくちゃいけなくて、兄貴はいっぱい無理しなきゃいけなかったんだ。受けなくていい実験まで受けて、それで……」
「バジリオ」
レラ様が優しく俺の手を取った。
その温かさに、握り締めていた拳から力が抜けていく。また泣きそうになって、俺は歯を食いしばった。レラ様がせっかく塗ってくれた練り香水が流れてしまう。
「ごめんね、びっくりさせてしまったわね。許してちょうだい。……フィデリオはね、治療施設に入れば、あなたと一緒にいられなくなることが嫌だと言ったのよ」
「でも、俺なんかと一緒にいない方が、兄貴は……」
「バジリオ」
レラ様は椅子に座り直して、真剣な表情で俺の顔を覗き込んだ。
「自分なんか、なんて絶対に言わないで。フィデリオが悲しむし、私も悲しい」
「でも……」
「私、あなたたちが魔道器の実験施設から逃げ出して、ここに来てくれて本当によかったと思っているの。逃げる時、怖くなかった? 怖い人たちが追いかけてくるんじゃないか、捕まってお仕置きされるんじゃないかって、思わなかった?」
「……お、思った」
「きっとフィデリオだって怖かった。でも、あなたがいたから勇気を持てたのよ。一人ぼっちじゃ出せなかった力を、あなたがいたから出せたの」
「……」
「あなた達は素晴らしい兄弟よ。お互いに助け合って、ここまで頑張ってきたんでしょう? これから先もずっと変わらないわ」
そうなのだろうか。
実験施設から逃げ出す時、あらかじめ格子の一部を壊しておいたのも、見張りを出し抜く方法を考えたのも、全部兄貴だった。俺はただ手を引かれるままについて行っただけだ。
兄貴も本当は座り込んで泣き出したくなるほどの恐怖を抱えていて、それでも俺なんかの存在が、そんな兄貴の背中を押せていたのだろうか。
「……レラ様も?」
「え?」
「レラ様も、ジュナさんのためなら勇気が持てる? 一人じゃ出せない力、出せる?」
歌の力で皆を惹きつけてやまない、星みたいにきらきら輝くレラ様の妹。レラ様はにっこり笑って頷いてくれるのだと、俺は信じて疑わなかった。
それなのに、次に見上げたレラ様の顔は、呼吸すら忘れてしまったかのように硬く凍りついていた。
イシュキア族は、パリパス族やニディア族ほど感情を表に出さない。どちらかと言うと表情の読みにくい顔立ちをした人たちだ。それでも、レラ様の動揺は空気を震わせてはっきりと俺に伝わってきた。
「れ、レラ様……?」
戸惑った声を上げると、レラ様はぱっと俺の手を離して立ち上がった。固く目を閉じて、俺に背中を向けてしまう。レラ様の柔らかい羽根が俺の膝を掠めた。
「……もちろん」
長い長い沈黙の後、レラ様は絞り出すように言った。
「もちろん、ジュナは、私の一番大事な妹よ」
一語一語、ゆっくりと噛み締めるような話し方だった。レラ様がどんな顔をしてそう言ったのか、椅子に座ったままの俺には見えなかった。
次にこちらを振り返った時、レラ様はもういつものレラ様だった。
「……そうだ、今日はジュナが遊びに来ているんだったわ。すっかり話し込んじゃったから、きっと今ごろ、フィデリオと二人で待ちくたびれてるわね」
「う、うん……」
「それにね、何と今日は、信徒の方が下さったお菓子もあるの。あまぁい蜜菓子よ。お茶を淹れて、皆でいただきましょうね」
レラ様はいそいそと戸棚を開けた。「じゃーん!」と芝居がかった仕草で皿に並んだお菓子を俺に見せつける。妙にはしゃいだ様子だった。
きっと、俺たちには黙っているだけで、レラ様にも辛いことがたくさんあるのだ。
俺はレラ様の態度をそう解釈することにした。
「レラ様。何か、俺に手伝えること無い?」
「え?」
「魔法のお礼。俺、何でもする」
「お礼なんて、そんなの……そうね。じゃあ、両手が塞がっちゃったから、代わりにドアを開けてもらえるかしら?」
「そういうのじゃなくって!」
「ふふ。……なら、さっきの話の続きになるけど」
レラ様はドアの前で振り返り、俺の目をまっすぐに覗き込んだ。
「フィデリオの体調は、今は安定しているけれど、これから何が起こるか分からない。特にあの子は、お兄ちゃんなんだから頑張らなきゃって無茶をしてしまうから……弟のあなたが、ちゃんと見ていてあげて。もしフィデリオの具合が悪くなったりしたら、引きずってでもここに連れてきてちょうだい。私が必ず何とかするから」
「わ、わかった」
「そのためにも、フィデリオの後ろにぴったりくっついているのよ」
俺は何度も頷いた。
兄貴のためにできることがあると教えてもらってほっとしたし、レラ様が俺に頼ってくれたことも嬉しかった。
「それじゃ、早く行きましょ。二人が待ってるわ」
「……もうちょっと、ゆっくりしててもいいと思うけど」
「え? どうして?」
「どうしてって……」
答えを言いそうになって、俺は慌てて口をつぐんだ。
俺たちがここにいる間は兄貴はジュナさんと二人きりだということで、兄貴にとっては嬉しい時間に違いない。でも、もしレラ様にバラしたりしたら、兄貴に一生恨まれる。
「だ、ダメだ。俺の口からは言えねぇ」
「教えてくれないの? 意地悪ね、バジリオ」
口では俺のことを詰りながら、レラ様の声は笑っていた。もうすっかりいつものレラ様だ。安心して尻尾がゆらゆらと左右に揺れる。
俺は少しもったいぶってから、お菓子の皿を持ったレラ様の代わりに、診察室のドアを開けた。
*
山脈に冷たい風が吹き抜けて、俺は思わず身震いする。戦いの最中には気にならなかった寒さも、一度興奮が覚めてしまえば容赦なく身体を襲った。
ぴんと立った耳の先が痛い。兄貴みたいに垂れたままの耳だったら、いくらかマシだっただろうか。
高い山の上は空気が鋭く澄んでいて、そびえ立つ王立魔法学院の尖塔がいやにはっきりと見えた。
「何と声をかければ良いものか……」
ハイザメが唸った。
鎧戦車から少し離れた場所に、ぽつんと立ち尽くしたジュナさんの後ろ姿がある。その視線は、永遠に凍りついたレラ様がいる方角へ向けられていた。
ストロールがもどかしそうに頷いた。
「落ち着くまでそっとしておいてやりたいが……長居はできないぞ。夜間の飛行は危険すぎる」
「転移魔法を使えばいい。エト・リアならこの混乱の余波も少ないはずだから、いざとなったらエディンを頼ろう」
こんな時でも、隊長は冷静だった。
「だがこのまま放っておくのも……」
「ジュナさん! 出発だってよ!」
俺が声を張り上げると、ジュナさんはようやくこちらを振り向いた。
様子をうかがっていたのを悟られないように、ストロールとハイザメが慌てて明後日の方を向く。そんな事をしても、あの人にはお見通しだってのに。
俺はザクザクと雪を踏みしめてジュナさんのところへ駆け寄った。できる限り、いつもの調子と変わらないように。
「早く中入ろうぜ。そんな薄着で、風邪引いちまう」
「……気の利かない子ね。フィデリオならこういう時、上着の一枚でも掛けてくれるとこだけど?」
ジュナさんは涙に濡れた声で、そんな強がりを言った。俺の肩から少し力が抜ける。
「冗談。このクソ寒い中で、ジュナさんのためにそんな痩せ我慢できるの、兄貴くらいだぜ」
「……それもそうね」
ジュナさんはわずかに口角を上げた。指先で目元を拭っているのを見て、せめてハンカチくらい持っていればよかった、と少し後悔した。
「ごめん、待たせちゃってるわね。戻りましょ」
「ジュナさん、無理は……」
しないでくれ、と言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。無理しなければ、立っていられないはずだ。俺だって、多分、今まさに無理をしてる。
でもジュナさんには、俺が飲み込んだ言葉も、考えていることも、すべて分かっているようだった。
「私、姉さんの妹でよかったわ」
「……ああ。俺もだ」
ジュナさんが鎧戦車に向かって歩き出す。胸を張り、顎をつんと上げて。どこまでも気丈な人だった。
寒さに縮こまらせていた背中を、俺も意識して伸ばす。凍てついた空気が肺の中まで凍えさせるかと思ったが、案外、身体の内側は熱いままだ。
まだやれる。生きていける。
そう自分に言い聞かせながら、霜雪を踏みしめて、俺は歩き出した。