No.47
ずっとそこにいる
ホラー風味のうろんな話。ルイスがダラムの屋敷で埃まみれの人形を見つけます。
埃を被った人形を見つけた。
引っ越してきてわずか数日の、ダラムの屋敷での出来事だった。
各々の荷解きを終えたある日、ウィリアムを大学へ送り出してから、ルイスは階段下の小さな物置の整理に取り掛かった。それぞれの寝室や食堂、バスルームなど、生活するために必要な最低限のスペースはあらかた掃除を終えていたが、こうしたちょっとしたスペースはまだ手つかずのままだったのだ。
薄い板戸を開けると油の足りていない蝶番が音を立てて軋んで、湿っぽい匂いが鼻をついた。
中には、以前ここに暮らしていた者たちの持ち物が残されているようだった。使われなくなって久しい食器セットや履き古されたゴム靴、シミの浮いたテーブルクロスなどといった雑多なガラクタがごちゃごちゃと乱雑に詰め込まれている。
家具付きで買った屋敷とはいえ、こんな不用品まで残しておくなんて。ルイスは心の中で不動産屋に文句を垂れた。
今後この物置部屋も使う機会があるだろうから、片付けておくに越したことはない。不用品は残らず捨ててしまおう。腕まくりをしながらそう覚悟を決めると、ルイスは狭い物置部屋に足を踏み入れた。
埃を吸い込まないように注意しながら、物置に残されたガラクタを一つ一つ検分しては廊下に積み上げた。ウィリアムが大学から戻るまでに済ませてしまわなくてははならない。廃棄するものは裏庭に積んでおいて、明日不用品の回収業者に来てもらう算段だ。
積み上げられた木箱をどけてみると、奥から小さなキャビネットが顔を出した。大方、他のガラクタと同じく使われなくなってここに押し込まれたのだろう。
一人で運び出すのは少々骨が折れそうだ。せめて中身は空にしてしまおう。ルイスは埃っぽい床に屈み込んで、古ぼけたキャビネットの戸棚を開けた。そして、それまでテキパキと動かしていた手をはたと止めた。
がらんとした戸棚の中に、人形が鎮座していた。
そんなものがそこにあるとは思っていなかったし、不意に目が合ってしまったものだからドキリとして思わず呼吸を止めていた。何も見なかったことにしてこのままキャビネットの扉を閉めてしまいたい。そんな衝動に駆られた。
人形の瞳がじっとこちらを見あげる。
人間の少女をそのまま小さくしたような姿形をした存在が、首を不自然に折り曲げ、髪とドレスの裾を乱したまま薄暗い戸棚の中に押し込まれている。その姿を見て見ぬふりすることはルイスの良心をどうしようもなく責め苛んだ。
一分ほどの逡巡の末、結局ルイスはその人形を戸棚から掴みだした。
明るい廊下で改めて眺めてみると、本当によくできた人形だった。
ビスクドールというのだろうか。小さな女の子の遊び相手になるために作られたような、よくある人形だ。
ルイスは絡み合った彼女の金髪を指先で梳いて整えてやった。
大きさは人間の赤ん坊よりやや小さいくらいだが、頭の小ささや手足の長さからして、十代半ばの少女を模して作られているのだろう。ドレスも靴もこの大きさで仕立てるのは骨が折れただろうに、丁寧な手仕事で再現されていた。
青い目はガラス玉でできていて、瞬きをしないのがかえって不自然に思えるほどだ。
「…………」
他のガラクタと同じようにその人形を不用品置き場に積もうとして、ルイスはまた躊躇った。
この人形はどう考えても『不用品』だ。この屋敷に人形を愛でて楽しむような子供が住まう予定は一切ない。
しかしこれを――彼女を、不用品として処理してしまったらどうなるのだろう。
回収業者の人夫が「おや、うちの娘が喜びそうだ」とこっそり持ち帰ってくれれば幸運だ。けれどおそらくは、木片や布切れなんかと同じ扱いを受けて焼却炉に放り込まれることになるのではないか。
その光景を想像すると、また罪悪感を刺激された。こうも人間そっくりに作られてしまうと、捨てるにはそれなりの覚悟と非情さが要求される。以前の住人が、この人形を捨てずに戸棚に押し込んでおいた心境も何となく察せられた。
*
「あれ、この子、どうしたの?」
大学から帰宅したウィリアムが、居間の隅のコンソールテーブルにちょこんと腰掛けた人形に気がついた。
「あ、階段下の物置で見つけて……」
ルイスはもごもごと答えた。
他のガラクタと一緒に捨ててしまうには忍びない。かと言ってまたあの物置部屋に押し込んでしまうのも気分が悪い。迷った末、ルイスは人形を居間に飾ることにした。
もちろん、埃まみれのドレスは丁寧に洗って、ぼさぼさだった髪はコームで梳いた。顔の汚れを布巾で拭い取ってやると薔薇色の頬は艶めき、ますます生き生きとした輝きを放つようになった。
手入れをしている間、いい歳をした男がお人形遊びをしているようで少し虚しい気分になったが、その苦労の甲斐あって人形は戸棚で眠っていた時とは見違えるほど身奇麗になった。やや古めかしいデザインのドレスも相まって、室内の調度によく馴染んでいる。
「ふぅん、可愛いね」
ウィリアムは微笑みながら頷いた。
男所帯の屋敷に可愛らしい人形を飾ることに対して拒否感はないけれど、だからと言って特に興味もなさそうだった。ルイスはその様子に密かに安堵した。
*
ある朝のことだった。
ルイスはいつものように日の出より少し早い時間に起床して、朝食の準備に取り掛かるため階下へ降りた。
今日は天気が良さそうだから、窓を開けて風を通しておこうか。ふとそう思いたって、ルイスは居間へと立ち寄った。
居間と廊下を繋ぐ両開きの扉を押し開くと、早朝の薄暗い室内で真っ先に目についたのはあの人形だった。壁にぴたりとくっつけて配置された半月型のコンソールテーブルの上で、いつも青い瞳を物憂げに伏せている。
それが何故だか今朝は、居間に入ってきたルイスの方をまっすぐに見つめている気がした。
一瞬、背筋にぴりりとした緊張が走る。
が、すぐに違和感の正体に気がついたルイスはその感覚を振り払った。
彼女の傍らに小さな花瓶が置かれていた。ルイスには置いた覚えがなかったが、おそらく花瓶を置く際に動かしたから、いつもと違う姿勢になっていたのだろう。そしてこういうものを用意する人間は、ルイス以外には一人しかいなかった。
「あ、おはようございます」
ちょうど、ドアの隙間からフレッドが顔を覗かせた。
手には玄関に飾る大きな花瓶を抱えている。朝早くから起き出して、花の入れ替えをしてくれていたようだ。
ルイスは挨拶を返すと、コンソールテーブルを指し示した。
「これは君が?」
「あ、はい」
フレッドは花瓶を抱え直しながら頷いた。
「すみません、勝手に」
「いえ。寂しそうだったので、きっと喜んでいますよ」
そう答えると、フレッドが小さく首を傾げた。
「寂しそう……ですか?」
「え?」
「僕には……怒ってるように見えたので」
ぽつりと呟いて、フレッドは仕事に戻っていった。
その言葉は透明な水の中に一滴落とされた黒いインクのように、ルイスの胸に影を落とした。
*
あくる日の午後、モリアーティ家の屋敷の門前には数名の小作人たちがやって来ていた。
領主の屋敷に小作人たちが詰めかけるのは、大抵の場合は地代の交渉や何らかの嘆願を目的としたことが多い。しかしこのダラムの地となれば話は別で、彼らは地代のかわりとして、各々の農地や牧場で取れた作物を持ってきてくれたのだった。
モリアーティ家がこの地に邸宅を構えた当初、地代を大幅に引き下げたことも相まって、彼らの歓迎ぶりは凄まじかった。次から次へと素朴な貢ぎ物を持ってくるものだから、消費しきれなくて「もう止めてくれ」と逆にこちらから頼んだほどだった。
今ではごく常識的な(けれどルイスが街で買い出しする必要がないくらいの)作物が週に一度、納められるのだった。
「ジャガイモが豊作でね、困ってるくらいなんです」
「いつもありがとうございます」
農夫の一人がずっしりとした袋を差し出した。ルイスはそれを受け取りながら、なるべく愛想よくお礼を言う。
「パースニップと一緒にマッシュするといいですよ。家内は何かハーブを入れてましたけど、何だっけなぁ……」
「ああ、モーザーさんとこのパースニップは美味しいですからね。野菜嫌いなうちの娘も、バターで炒めてやるだけで喜んで食べるんです」
「娘さんがいらっしゃるのですか?」
「え? ええ、まぁ」
「お幾つくらいでしょう?」
「はいっ? え、今年で六つになりますが……」
思いがけないところに食いつかれた農夫はちょっと怪訝な顔をした。
「ああ、すみません」
ルイスは慌てて取り繕った。
「実は屋敷の物置から、女の子の喜びそうな人形が出てきまして。前の住人の持ち物だと思うのですが、何分当家は男所帯ですから……もしよろしければお嬢さんに」
「ああ、なるほど」
横で聞いていた一人が、もう一人に耳打ちした。
「人形で遊ぶような女の子、あの屋敷に住んでたか?」
が、娘がいると話した農夫はそれを無視して、ルイスに愛想よく笑いかけた。
「お心遣いは大変有難いですが、私どもの娘にはもったいないですよ。以前に、家内が端切れでぬいぐるみをこしらえてやったんですがね、それを放り投げて犬に取ってこさせて遊んでるようなお転婆なんでさ」
「あ、そう……ですか」
仕事に戻る農夫たちの背中を見送りながら、ルイスは、犬にくわえられた人形の姿を想像してしまった。
得意げに尻尾を振って、むく犬がこちらに駆け寄ってくる。その口からだらんと垂れ下がった作りものの手足。人形の髪の毛は振り回された拍子にぼさぼさに絡まっていて、透明な唾液で濡れている。
もう一回投げてくれ、と言いたげな様子で、犬がルイスの足元に人形を差し出した。ガラス製の青い瞳が、じっとこちらを見上げている。
*
殺すのか。
物騒な言葉が耳に飛び込んできて、ルイスはドアをノックするために上げていた手をぴたりと止めた。モランの声だ。
ドアの向こうから、尚も低い話し声が聞こえてくる。
悪辣な特権階級の始末について話し合っているのだろう。そういえば、今朝ロンドンにいるアルバートから電報が届いていた。何か新しい動きがあったのかもしれない。電報を受け取ったのはフレッドだったから、ルイスはその内容について把握していなかった。
逡巡したのはほんの一秒ほどだった。どのみち、いつまでもドアの前で立ち聞きしているのははしたない。
三回ノックをすると、話し声はぴたりと止んだ。
「どうぞ」とウィリアムの声に入室を許可されてから、ルイスは恭しくドアを開けた。
「お話し中に申し訳ありません。お茶をお持ちしました」
「構わないよ。ありがとう」
「モランさんも、飲まれますか?」
ウィリアムの前にカップとソーサーを差し出しながら、何気ないふうを装って尋ねた。いつものモランなら「じゃあウィスキーで」とか軽口を叩くところだが、彼は無表情に首を振りながらソファに引っ掛けてあったコートを手に取った。
「いや、いい。晩飯も俺抜きで頼む」
「今から出かけられるのですか?」
モランが何か答える前に、ウィリアムが口を開いた。
「ちょっと、おつかいだよ。僕が頼んだんだ」
「そう、ですか」
その短いやり取りの間に、モランは静かに居間を出ていった。
一瞬振り仰いだその横顔は、張り詰めているようにも凪いでいるようにも見える、冷徹な兵士の顔だった。とても、主人の遣いで街へ出る使用人には見えない。
「あ、いい香り。この間アルバート兄さんが取り寄せてくれた茶葉かな?」
「え、ええ。この夏に収穫されたばかりの……」
ウィリアムはにこにこと微笑みながらカップを傾ける。ついさっきまで血なまぐさい相談事をしていたことなど感じさせないほどに、穏やかに。
廊下からまた低い話し声が聞こえてきた。モランが、廊下で行きあったフレッドと何か話しているのだろう。
だがルイスの意識がそちらに引っ張られそうになる前に、ウィリアムは再び口を開く。
「アルバート兄さんが茶葉を選んでくれて、ルイスがお茶を淹れてくれるんだから、僕はとびきり贅沢者だね」
「ありがとうございます……」
微笑む兄の肩越しに、あの人形と目があった。ガラス製の瞳は瞬きすらせず、ルイスの顔をじっと見つめている。心のうちすら見通されているような錯覚を覚えて、ルイスは慌てて目を逸らした。
*
人形の視線にそこはかとない圧迫感を感じる。
例えば昼下がりの居間で一人掃除をしているとき。夕食後の団欒中、兄のための紅茶を注いでふと視線を上げたとき。青い目がじっとこちらを見ている。
もちろん、作り物の人形に意思などない。それはルイスにもよく分かっている。だが人間の想像力というのは厄介なもので、姿形が人間そっくりに作られているというだけでそこに意思があるかのように感じてしまうのだ。
たまに人形が首を傾けてこちらを見ているような気さえした。知らない間にフレッドが動かして、姿勢が変わっただけだろうと考えることにした。
人形の傍らに置かれた花瓶の水を入れ替えるために、ちょっとどかして座り直させたのだ。
本人に確認したことは、ない。
*
その日もルイスは粛々と家事をこなしていた。
手を動かしながら、頭の中では常に次の段取りを考えている。食材のストック。明日の天気。ウィリアムの帰宅予定。ロンドンに帰ってからのスケジュール。
そうした細々としたことに考えを巡らせながら、昼食に使った食器の片付けを終えた。濡れた両手を布巾で拭って、さて次は二階の掃除を、と足早にキッチンを出ようとした。
そこでルイスはぴたりと足を止める。
キッチンを出てすぐ、廊下の突き当たりに置かれたキャビネットの上に、あの人形が座っていた。ルイスがキッチンから出てくるのを待ち構えていたかのように、まっすぐにこちらを見つめている。
どうして、ここに?
ルイスは少し歩調を落としながら人形に近づいた。
居間に置いてあったはずだ。昼食の後片付けの際も、居間の前を通るとき、この厭な視線を感じたのを覚えている。
「あ、その子」
伸ばしかけた手をルイスは慌てて引っ込めた。
廊下の反対側からやって来たフレッドが、キャビネットの上の人形を凝視している。こちらから何か問いかけるより早く、彼は両手で人形を抱き上げた。人間の赤ん坊にでもするような、丁重な手つきだった。
彼は立ち尽くすルイスの脇をすり抜け、廊下をずんずんと突き進むと、普段は出さない大声で兄貴分の名を呼んだ。
「モラン!」
「げ」
人形を抱いたフレッドが居間に飛び込むなり、ソファで寛いでいたモランが顔をしかめた。その表情を見て、ルイスも大方の事情を察することができた。
どうやらモランがあの人形を動かしたらしい。
ルイスは内心でほっと胸をなでおろすと同時に、人形が一人でに歩いて屋敷内を移動したという馬鹿げた妄想を描いていた自分自身を自覚した。
「勝手に動かしちゃ駄目だよ」
「いいじゃねぇか。じーっと見られてるみたいで、酒飲んでても落ち着かないんだよ」
「それはモランがちゃんと自分の仕事をしてないから、そんなふうに感じるだけだろ」
「うるせ」
「怒ってるよ」
「はいはい」
モランはうるさそうに生返事をしながら、部屋を出ていった。対するフレッドはまだ何か言いたげだったが、それ以上は追及せず人形をコンソールテーブルへ戻した。
「怒ってるんですか?」
尋ねると、フレッドがぴたりと手の動きを止める。
先ほどの言葉を、モランはフレッド自身が怒っているという意味に捉えたようだったが、ルイスは先日の彼の言葉を覚えていた。
この人形が、怒っているように見える、と。
フレッドはルイスの顔と人形を交互に見比べて、やがて言いにくそうに口を開いた。
「いえ……僕がそう見えた、というだけです。こういう人形、見慣れてなくて」
フレッドの言う『こういう人形』というのは、何となくわかる。
彼がどういう環境で生まれ育ったのかはまだよく知らなかったが、貧民街育ちの自分とあまり変わらないであろうことは何となく察せられた。そして、そういう場所で生まれ育った子供にとっての『人形』といえば、端切れをかき集めてそれらしい形に整えたぬいぐるみのことだった。
フレッドはちらりと横目で人形の方を見やってから、静かに話し始めた。彼女の機嫌を損ねないよう、様子を伺っているかのような仕草だった。
「服を着て、髪を結って……手足の関節まで人間そっくりに作られてるのに、自分の意思では絶対に動けなくて……とても不自由そうに見えます」
「……」
「ただの作りものだという事は分かっています。でも、あまりに人間そっくりだから、もしかすると……動かせない身体の内側で、僕らと同じように、何か考えているんじゃないかって……そんな気がして、何だか……」
フレッドは最後まで言わなかった。だが、何を言おうとしたのかは、おおよそ察せられた。
怖い、のだ。
*
その夜、夢を見た。
ルイスは床に打ち捨てられている。
倒れている、とは少し違う。四肢をだらりと投げ出して、ぼんやりとした意識で絨毯の毛並みを眺めている。疲れて横になっている訳でも、傷ついて倒れ伏している訳でもない以上、やはり打ち捨てられていると表現するしかないだろう。
やがて、誰かの足が視界に入り込んだ。
見覚えのある靴だ。ウィリアムに違いないとすぐに気がついた。けれどルイスは起き上がることも、視線を上げることもできなかった。
彼はルイスの脇に両手を入れて抱きかかえると、手近な椅子に座らせた。
姿勢が変化したことで、ようやくウィリアムの顔を見ることが出来た。兄はルイスの目を覗き込み、いつものように優しく微笑みかけてくれた。
兄さん。
呼びかけようとして、声が出ないことに気がついた。声帯が震える気配もない。ルイスはそこでようやく、自分が息をしていないことに気がついた。
誰かがルイスの頭を撫でた。
いつの間にか、ウィリアムの隣に別の人物が立っている。服装からして、おそらくはアルバートだ。確かめたかったが、今のルイスは顔を上げることすらできなかった。
やがて、二人はルイスに背を向ける。
待って。兄さん、兄様。
声が出ない。立ち上がって彼らを追いかけたいのに、指一本動かせなかった。ルイスの身体はそういうふうには出来ていないのだ。
遠ざかっていく背中をただ見送るしかないルイスの前に、黒い影が割り込んできた。モランだ。
そこをどいてください。兄さんと兄様が行ってしまう。
必死に叫んだけれど、声なき訴えなど届くはずもない。モランは大きな手をルイスの頭に乗せた。アルバートのように撫でるつもりなのかと思ったが、違った。彼はルイスの頭をぐいと押して下を向かせた。
何をするのですか、という抗議も声にはならない。もうルイスの視界には、床と自分の膝しか見えなかった。
その膝の上に、数本の薔薇の花が置かれた。この手はきっとフレッドだ。
見当違いの気遣いに怒りが湧いた。こんなものはいらない。だから、兄さんたちのところへ。
しかしそう訴えかけようとしたところで、いつの間にかモランとフレッドの影さえ消えていることに気がついた。
ルイスは必死に辺りの気配を探る。しかし、ただ自分ががらんとした部屋の中で、顔を俯けた姿勢のまま椅子に腰掛けていることが分かっただけだった。
身体はぴくりとも動かせない。恐ろしいほど静かだった。
そうしているうちに、膝の上の薔薇が徐々に水分を失いはじめたことに気がついた。真紅の花びらも、瑞々しかった葉と茎も、かさかさに乾いていく。
瞬きすらできないルイスは、その様子から目を離すことができない。フレッドのくれた薔薇が枯れてしまう。
ルイスは疲労も空腹も感じていなかった。それなのに、薔薇はみるみるうちに萎れていく。花弁が茶色く変色してルイスの膝の上からはらりはらりと落ちる。
何が起こっている? 皆はどこに?
動かせない体の奥で、思考だけが目まぐるしく回転していた。
膝の上の薔薇はとうとう完全に干からびてしまった。何故こんなにも急激に枯れてしまったのか。自身が感知できていないだけで、それに見合うだけの時間が経過しているということか? 他に時間を推し量る材料がない。もしそうだとすれば去っていった兄と仲間たちは。もしこのまま身体を動かせなかったら。身体的な感覚や時間の流れから切り離されてただ自意識だけと向き合い続ける孤独。想像しただけでいっそのこと発狂してしまいたかった。だが身体に震えが走ることも、呼吸が浅くなることもない。相変わらず身体はぴくりとも動かなかった。自分の着ている服や絨毯の模様が色あせてきたような気がするそしてすぐにその考えを必死に打ち消す。そんなはずはないそんなはずはない。だが身体は動かせない。皆は。僕はこのままずっとここで。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ兄さん。
兄さん。
*
そこでルイスは跳ね起きた。
まだ真夜中だった。
暗い部屋の中に、荒い呼吸音だけが響いている。それが自分の喉から漏れる音だと気がついてひどく安心した。
背中にびっしょりと汗をかいていた。額に張り付いた髪の毛を払おうとして、手が、身体が動くことに心の底から安堵した。
みっともなく震える指先も、今は心地いい。自分の意志でちゃんと動かせる。
手を握ったり開いたりを繰り返して感覚をひとしきり確かめた後、ルイスはベッドを降りた。こんな夢を見た原因は分かりきっている。
暗い廊下を足早に歩く。慣れた屋敷の中だから支障はない。明かりを用意する時間も惜しかった。
今は何時だろうか。感覚からして、夜明け前というよりは、まだ深夜と呼ぶべき時間帯と思われた。
居間のドアは開いていた。
コンソールテーブルの上には、あの人形が鎮座している。
立ち止まりかけたのは、ほんの一瞬だった。ルイスはコンソールテーブルへ駆け寄ると、できる限りぞんざいで無関心な手つきで人形を掴み上げた。
これはここに在ってはいけない。
玄関へ回る手間すら惜しんで、ルイスは居間の掃き出し窓を開け放った。霧とともに湿ったぬるい空気が流れ込んできて、カーテンがさわさわと揺れた。空はどんよりと曇って、月も星も、空明かりさえない。
そのまま庭に飛び出して、芝生の上を駆けた。靴底に、絨毯とは違う、湿った地面のぐにゃりとした感触が伝わって気持ち悪い。今にも足を取られそうな感覚に陥った。
屋敷の北側に回り込むと、庭の隅に黒い影が蹲っている。よかった、ちゃんとあった。ルイスは何とか自分を奮い立たせて、黒い影へと駆け寄った。
それは古井戸だった。屋敷に水道管が引かれたことで用が済んだのか、それともとっくの昔に枯れ果ててしまったのか。ともかく、モリアーティ家がここに越してきてからは一度も使われていない古い井戸だ。今は石組みの上に、丸い形の蓋が被せてある。
ルイスは人形の胴体を掴んだまま、その蓋に手をかけた。木製の板は分厚く見た目よりも重かったが、片手が塞がっていても動かせない重さではない。力を込めて押しやると、板はがたんと音を立てて横にずれた。
蓋を取り払うと、井戸の底からひんやりとした風が吹いた。どれくらいの間封じられていたのだろう。ようやく呼吸がしやすくなった、とばかりに井戸そのものがほぅと息を吐いたようだった。
冷たい空気が頬を撫でる感覚に身震いしながら、ルイスは人形を持った右手を高く振り上げた。
このまま手を振り下ろせば、指先から力を抜けば、この忌々しい人形は井戸の底の真っ暗闇へと消えて無くなる。少なくとも、居間の片隅から冷え冷えとした視線を投げかけてくることはなくなる。何もかも、何もかもが上手くいくはずだ。
しかしルイスは手を振り上げた姿勢のまま、動けなくなった。
ルイスの両目はまっすぐに、暗い穴を見つめている。頭上に覆いかぶさる夜の闇よりさらに深く、濃く、重たい闇が広がっている穴。
振り上げた手の親指のあたりに、柔らかくまとわりつくような感触がある。きっと人形の髪が触れているのだ。手首のあたりに当たっている硬い感触は、小さな靴のつま先だろうか。人形はだらりと四肢を投げ出している。けれどもたもたしていると、今にも自らの運命を悟って、死物狂いでルイスの手にしがみついて来るのではないか。
そんな想像が頭を過って、焦燥が増す。早く、早く。
しかしルイスは片手を振り上げた姿勢のまま動けない。
「ルイス」
突然背後から声をかけられて、肩が跳ねた。
いつの間にか、すぐそばにウィリアムが立っていた。
「何してるの?」
そう問いかけながらも、真夜中に古井戸を覗き込んでいる弟を不審がっている様子はない。ルイスが何をしようとしていたのか、兄にはすべて分かっているようだった。
ルイスの手から、ウィリアムがそっと人形を取り上げる。伏せられた瞳にかかる睫毛が、繊細で美しかった。
彼は人形のもつれた髪を手ぐしで整えると、それと同じくらい自然な動作で、人形を井戸へと放り込んだ。
「あっ」
ルイスは思わず声を上げた。凍りつくルイスを尻目に、ウィリアムは「よいしょ」と呑気な掛け声とともに井戸の蓋を閉じてしまった。
蓋がぴったりと井戸の口を塞ぐと、あたりの冷気が少しだけ和らいだ気がした。
「ね。これでもう大丈夫」
ウィリアムの手が優しく肩に置かれた。
兄の目を見る。作りもののガラス製ではない、温かい血の色をしていた。全身から力が抜けていく。
「さぁ、もう休もう」
手を引かれて、ルイスはふらふらと歩きだす。
視線を感じて屋敷の方を見上げると、使用人フロアの窓辺にフレッドがいた。一部始終を見ていたのだろうか。子供のように窓ガラスに両手をついて、食い入るようにこちらを見下ろしていた。
ガラスに手の跡が残ってしまう。
思わず顔をしかめると、彼は何故だか悲しそうな顔をして、暗がりに消えていった。
初出:Pixiv 2025.03.06
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ホラー風味のうろんな話。ルイスがダラムの屋敷で埃まみれの人形を見つけます。
埃を被った人形を見つけた。
引っ越してきてわずか数日の、ダラムの屋敷での出来事だった。
各々の荷解きを終えたある日、ウィリアムを大学へ送り出してから、ルイスは階段下の小さな物置の整理に取り掛かった。それぞれの寝室や食堂、バスルームなど、生活するために必要な最低限のスペースはあらかた掃除を終えていたが、こうしたちょっとしたスペースはまだ手つかずのままだったのだ。
薄い板戸を開けると油の足りていない蝶番が音を立てて軋んで、湿っぽい匂いが鼻をついた。
中には、以前ここに暮らしていた者たちの持ち物が残されているようだった。使われなくなって久しい食器セットや履き古されたゴム靴、シミの浮いたテーブルクロスなどといった雑多なガラクタがごちゃごちゃと乱雑に詰め込まれている。
家具付きで買った屋敷とはいえ、こんな不用品まで残しておくなんて。ルイスは心の中で不動産屋に文句を垂れた。
今後この物置部屋も使う機会があるだろうから、片付けておくに越したことはない。不用品は残らず捨ててしまおう。腕まくりをしながらそう覚悟を決めると、ルイスは狭い物置部屋に足を踏み入れた。
埃を吸い込まないように注意しながら、物置に残されたガラクタを一つ一つ検分しては廊下に積み上げた。ウィリアムが大学から戻るまでに済ませてしまわなくてははならない。廃棄するものは裏庭に積んでおいて、明日不用品の回収業者に来てもらう算段だ。
積み上げられた木箱をどけてみると、奥から小さなキャビネットが顔を出した。大方、他のガラクタと同じく使われなくなってここに押し込まれたのだろう。
一人で運び出すのは少々骨が折れそうだ。せめて中身は空にしてしまおう。ルイスは埃っぽい床に屈み込んで、古ぼけたキャビネットの戸棚を開けた。そして、それまでテキパキと動かしていた手をはたと止めた。
がらんとした戸棚の中に、人形が鎮座していた。
そんなものがそこにあるとは思っていなかったし、不意に目が合ってしまったものだからドキリとして思わず呼吸を止めていた。何も見なかったことにしてこのままキャビネットの扉を閉めてしまいたい。そんな衝動に駆られた。
人形の瞳がじっとこちらを見あげる。
人間の少女をそのまま小さくしたような姿形をした存在が、首を不自然に折り曲げ、髪とドレスの裾を乱したまま薄暗い戸棚の中に押し込まれている。その姿を見て見ぬふりすることはルイスの良心をどうしようもなく責め苛んだ。
一分ほどの逡巡の末、結局ルイスはその人形を戸棚から掴みだした。
明るい廊下で改めて眺めてみると、本当によくできた人形だった。
ビスクドールというのだろうか。小さな女の子の遊び相手になるために作られたような、よくある人形だ。
ルイスは絡み合った彼女の金髪を指先で梳いて整えてやった。
大きさは人間の赤ん坊よりやや小さいくらいだが、頭の小ささや手足の長さからして、十代半ばの少女を模して作られているのだろう。ドレスも靴もこの大きさで仕立てるのは骨が折れただろうに、丁寧な手仕事で再現されていた。
青い目はガラス玉でできていて、瞬きをしないのがかえって不自然に思えるほどだ。
「…………」
他のガラクタと同じようにその人形を不用品置き場に積もうとして、ルイスはまた躊躇った。
この人形はどう考えても『不用品』だ。この屋敷に人形を愛でて楽しむような子供が住まう予定は一切ない。
しかしこれを――彼女を、不用品として処理してしまったらどうなるのだろう。
回収業者の人夫が「おや、うちの娘が喜びそうだ」とこっそり持ち帰ってくれれば幸運だ。けれどおそらくは、木片や布切れなんかと同じ扱いを受けて焼却炉に放り込まれることになるのではないか。
その光景を想像すると、また罪悪感を刺激された。こうも人間そっくりに作られてしまうと、捨てるにはそれなりの覚悟と非情さが要求される。以前の住人が、この人形を捨てずに戸棚に押し込んでおいた心境も何となく察せられた。
*
「あれ、この子、どうしたの?」
大学から帰宅したウィリアムが、居間の隅のコンソールテーブルにちょこんと腰掛けた人形に気がついた。
「あ、階段下の物置で見つけて……」
ルイスはもごもごと答えた。
他のガラクタと一緒に捨ててしまうには忍びない。かと言ってまたあの物置部屋に押し込んでしまうのも気分が悪い。迷った末、ルイスは人形を居間に飾ることにした。
もちろん、埃まみれのドレスは丁寧に洗って、ぼさぼさだった髪はコームで梳いた。顔の汚れを布巾で拭い取ってやると薔薇色の頬は艶めき、ますます生き生きとした輝きを放つようになった。
手入れをしている間、いい歳をした男がお人形遊びをしているようで少し虚しい気分になったが、その苦労の甲斐あって人形は戸棚で眠っていた時とは見違えるほど身奇麗になった。やや古めかしいデザインのドレスも相まって、室内の調度によく馴染んでいる。
「ふぅん、可愛いね」
ウィリアムは微笑みながら頷いた。
男所帯の屋敷に可愛らしい人形を飾ることに対して拒否感はないけれど、だからと言って特に興味もなさそうだった。ルイスはその様子に密かに安堵した。
*
ある朝のことだった。
ルイスはいつものように日の出より少し早い時間に起床して、朝食の準備に取り掛かるため階下へ降りた。
今日は天気が良さそうだから、窓を開けて風を通しておこうか。ふとそう思いたって、ルイスは居間へと立ち寄った。
居間と廊下を繋ぐ両開きの扉を押し開くと、早朝の薄暗い室内で真っ先に目についたのはあの人形だった。壁にぴたりとくっつけて配置された半月型のコンソールテーブルの上で、いつも青い瞳を物憂げに伏せている。
それが何故だか今朝は、居間に入ってきたルイスの方をまっすぐに見つめている気がした。
一瞬、背筋にぴりりとした緊張が走る。
が、すぐに違和感の正体に気がついたルイスはその感覚を振り払った。
彼女の傍らに小さな花瓶が置かれていた。ルイスには置いた覚えがなかったが、おそらく花瓶を置く際に動かしたから、いつもと違う姿勢になっていたのだろう。そしてこういうものを用意する人間は、ルイス以外には一人しかいなかった。
「あ、おはようございます」
ちょうど、ドアの隙間からフレッドが顔を覗かせた。
手には玄関に飾る大きな花瓶を抱えている。朝早くから起き出して、花の入れ替えをしてくれていたようだ。
ルイスは挨拶を返すと、コンソールテーブルを指し示した。
「これは君が?」
「あ、はい」
フレッドは花瓶を抱え直しながら頷いた。
「すみません、勝手に」
「いえ。寂しそうだったので、きっと喜んでいますよ」
そう答えると、フレッドが小さく首を傾げた。
「寂しそう……ですか?」
「え?」
「僕には……怒ってるように見えたので」
ぽつりと呟いて、フレッドは仕事に戻っていった。
その言葉は透明な水の中に一滴落とされた黒いインクのように、ルイスの胸に影を落とした。
*
あくる日の午後、モリアーティ家の屋敷の門前には数名の小作人たちがやって来ていた。
領主の屋敷に小作人たちが詰めかけるのは、大抵の場合は地代の交渉や何らかの嘆願を目的としたことが多い。しかしこのダラムの地となれば話は別で、彼らは地代のかわりとして、各々の農地や牧場で取れた作物を持ってきてくれたのだった。
モリアーティ家がこの地に邸宅を構えた当初、地代を大幅に引き下げたことも相まって、彼らの歓迎ぶりは凄まじかった。次から次へと素朴な貢ぎ物を持ってくるものだから、消費しきれなくて「もう止めてくれ」と逆にこちらから頼んだほどだった。
今ではごく常識的な(けれどルイスが街で買い出しする必要がないくらいの)作物が週に一度、納められるのだった。
「ジャガイモが豊作でね、困ってるくらいなんです」
「いつもありがとうございます」
農夫の一人がずっしりとした袋を差し出した。ルイスはそれを受け取りながら、なるべく愛想よくお礼を言う。
「パースニップと一緒にマッシュするといいですよ。家内は何かハーブを入れてましたけど、何だっけなぁ……」
「ああ、モーザーさんとこのパースニップは美味しいですからね。野菜嫌いなうちの娘も、バターで炒めてやるだけで喜んで食べるんです」
「娘さんがいらっしゃるのですか?」
「え? ええ、まぁ」
「お幾つくらいでしょう?」
「はいっ? え、今年で六つになりますが……」
思いがけないところに食いつかれた農夫はちょっと怪訝な顔をした。
「ああ、すみません」
ルイスは慌てて取り繕った。
「実は屋敷の物置から、女の子の喜びそうな人形が出てきまして。前の住人の持ち物だと思うのですが、何分当家は男所帯ですから……もしよろしければお嬢さんに」
「ああ、なるほど」
横で聞いていた一人が、もう一人に耳打ちした。
「人形で遊ぶような女の子、あの屋敷に住んでたか?」
が、娘がいると話した農夫はそれを無視して、ルイスに愛想よく笑いかけた。
「お心遣いは大変有難いですが、私どもの娘にはもったいないですよ。以前に、家内が端切れでぬいぐるみをこしらえてやったんですがね、それを放り投げて犬に取ってこさせて遊んでるようなお転婆なんでさ」
「あ、そう……ですか」
仕事に戻る農夫たちの背中を見送りながら、ルイスは、犬にくわえられた人形の姿を想像してしまった。
得意げに尻尾を振って、むく犬がこちらに駆け寄ってくる。その口からだらんと垂れ下がった作りものの手足。人形の髪の毛は振り回された拍子にぼさぼさに絡まっていて、透明な唾液で濡れている。
もう一回投げてくれ、と言いたげな様子で、犬がルイスの足元に人形を差し出した。ガラス製の青い瞳が、じっとこちらを見上げている。
*
殺すのか。
物騒な言葉が耳に飛び込んできて、ルイスはドアをノックするために上げていた手をぴたりと止めた。モランの声だ。
ドアの向こうから、尚も低い話し声が聞こえてくる。
悪辣な特権階級の始末について話し合っているのだろう。そういえば、今朝ロンドンにいるアルバートから電報が届いていた。何か新しい動きがあったのかもしれない。電報を受け取ったのはフレッドだったから、ルイスはその内容について把握していなかった。
逡巡したのはほんの一秒ほどだった。どのみち、いつまでもドアの前で立ち聞きしているのははしたない。
三回ノックをすると、話し声はぴたりと止んだ。
「どうぞ」とウィリアムの声に入室を許可されてから、ルイスは恭しくドアを開けた。
「お話し中に申し訳ありません。お茶をお持ちしました」
「構わないよ。ありがとう」
「モランさんも、飲まれますか?」
ウィリアムの前にカップとソーサーを差し出しながら、何気ないふうを装って尋ねた。いつものモランなら「じゃあウィスキーで」とか軽口を叩くところだが、彼は無表情に首を振りながらソファに引っ掛けてあったコートを手に取った。
「いや、いい。晩飯も俺抜きで頼む」
「今から出かけられるのですか?」
モランが何か答える前に、ウィリアムが口を開いた。
「ちょっと、おつかいだよ。僕が頼んだんだ」
「そう、ですか」
その短いやり取りの間に、モランは静かに居間を出ていった。
一瞬振り仰いだその横顔は、張り詰めているようにも凪いでいるようにも見える、冷徹な兵士の顔だった。とても、主人の遣いで街へ出る使用人には見えない。
「あ、いい香り。この間アルバート兄さんが取り寄せてくれた茶葉かな?」
「え、ええ。この夏に収穫されたばかりの……」
ウィリアムはにこにこと微笑みながらカップを傾ける。ついさっきまで血なまぐさい相談事をしていたことなど感じさせないほどに、穏やかに。
廊下からまた低い話し声が聞こえてきた。モランが、廊下で行きあったフレッドと何か話しているのだろう。
だがルイスの意識がそちらに引っ張られそうになる前に、ウィリアムは再び口を開く。
「アルバート兄さんが茶葉を選んでくれて、ルイスがお茶を淹れてくれるんだから、僕はとびきり贅沢者だね」
「ありがとうございます……」
微笑む兄の肩越しに、あの人形と目があった。ガラス製の瞳は瞬きすらせず、ルイスの顔をじっと見つめている。心のうちすら見通されているような錯覚を覚えて、ルイスは慌てて目を逸らした。
*
人形の視線にそこはかとない圧迫感を感じる。
例えば昼下がりの居間で一人掃除をしているとき。夕食後の団欒中、兄のための紅茶を注いでふと視線を上げたとき。青い目がじっとこちらを見ている。
もちろん、作り物の人形に意思などない。それはルイスにもよく分かっている。だが人間の想像力というのは厄介なもので、姿形が人間そっくりに作られているというだけでそこに意思があるかのように感じてしまうのだ。
たまに人形が首を傾けてこちらを見ているような気さえした。知らない間にフレッドが動かして、姿勢が変わっただけだろうと考えることにした。
人形の傍らに置かれた花瓶の水を入れ替えるために、ちょっとどかして座り直させたのだ。
本人に確認したことは、ない。
*
その日もルイスは粛々と家事をこなしていた。
手を動かしながら、頭の中では常に次の段取りを考えている。食材のストック。明日の天気。ウィリアムの帰宅予定。ロンドンに帰ってからのスケジュール。
そうした細々としたことに考えを巡らせながら、昼食に使った食器の片付けを終えた。濡れた両手を布巾で拭って、さて次は二階の掃除を、と足早にキッチンを出ようとした。
そこでルイスはぴたりと足を止める。
キッチンを出てすぐ、廊下の突き当たりに置かれたキャビネットの上に、あの人形が座っていた。ルイスがキッチンから出てくるのを待ち構えていたかのように、まっすぐにこちらを見つめている。
どうして、ここに?
ルイスは少し歩調を落としながら人形に近づいた。
居間に置いてあったはずだ。昼食の後片付けの際も、居間の前を通るとき、この厭な視線を感じたのを覚えている。
「あ、その子」
伸ばしかけた手をルイスは慌てて引っ込めた。
廊下の反対側からやって来たフレッドが、キャビネットの上の人形を凝視している。こちらから何か問いかけるより早く、彼は両手で人形を抱き上げた。人間の赤ん坊にでもするような、丁重な手つきだった。
彼は立ち尽くすルイスの脇をすり抜け、廊下をずんずんと突き進むと、普段は出さない大声で兄貴分の名を呼んだ。
「モラン!」
「げ」
人形を抱いたフレッドが居間に飛び込むなり、ソファで寛いでいたモランが顔をしかめた。その表情を見て、ルイスも大方の事情を察することができた。
どうやらモランがあの人形を動かしたらしい。
ルイスは内心でほっと胸をなでおろすと同時に、人形が一人でに歩いて屋敷内を移動したという馬鹿げた妄想を描いていた自分自身を自覚した。
「勝手に動かしちゃ駄目だよ」
「いいじゃねぇか。じーっと見られてるみたいで、酒飲んでても落ち着かないんだよ」
「それはモランがちゃんと自分の仕事をしてないから、そんなふうに感じるだけだろ」
「うるせ」
「怒ってるよ」
「はいはい」
モランはうるさそうに生返事をしながら、部屋を出ていった。対するフレッドはまだ何か言いたげだったが、それ以上は追及せず人形をコンソールテーブルへ戻した。
「怒ってるんですか?」
尋ねると、フレッドがぴたりと手の動きを止める。
先ほどの言葉を、モランはフレッド自身が怒っているという意味に捉えたようだったが、ルイスは先日の彼の言葉を覚えていた。
この人形が、怒っているように見える、と。
フレッドはルイスの顔と人形を交互に見比べて、やがて言いにくそうに口を開いた。
「いえ……僕がそう見えた、というだけです。こういう人形、見慣れてなくて」
フレッドの言う『こういう人形』というのは、何となくわかる。
彼がどういう環境で生まれ育ったのかはまだよく知らなかったが、貧民街育ちの自分とあまり変わらないであろうことは何となく察せられた。そして、そういう場所で生まれ育った子供にとっての『人形』といえば、端切れをかき集めてそれらしい形に整えたぬいぐるみのことだった。
フレッドはちらりと横目で人形の方を見やってから、静かに話し始めた。彼女の機嫌を損ねないよう、様子を伺っているかのような仕草だった。
「服を着て、髪を結って……手足の関節まで人間そっくりに作られてるのに、自分の意思では絶対に動けなくて……とても不自由そうに見えます」
「……」
「ただの作りものだという事は分かっています。でも、あまりに人間そっくりだから、もしかすると……動かせない身体の内側で、僕らと同じように、何か考えているんじゃないかって……そんな気がして、何だか……」
フレッドは最後まで言わなかった。だが、何を言おうとしたのかは、おおよそ察せられた。
怖い、のだ。
*
その夜、夢を見た。
ルイスは床に打ち捨てられている。
倒れている、とは少し違う。四肢をだらりと投げ出して、ぼんやりとした意識で絨毯の毛並みを眺めている。疲れて横になっている訳でも、傷ついて倒れ伏している訳でもない以上、やはり打ち捨てられていると表現するしかないだろう。
やがて、誰かの足が視界に入り込んだ。
見覚えのある靴だ。ウィリアムに違いないとすぐに気がついた。けれどルイスは起き上がることも、視線を上げることもできなかった。
彼はルイスの脇に両手を入れて抱きかかえると、手近な椅子に座らせた。
姿勢が変化したことで、ようやくウィリアムの顔を見ることが出来た。兄はルイスの目を覗き込み、いつものように優しく微笑みかけてくれた。
兄さん。
呼びかけようとして、声が出ないことに気がついた。声帯が震える気配もない。ルイスはそこでようやく、自分が息をしていないことに気がついた。
誰かがルイスの頭を撫でた。
いつの間にか、ウィリアムの隣に別の人物が立っている。服装からして、おそらくはアルバートだ。確かめたかったが、今のルイスは顔を上げることすらできなかった。
やがて、二人はルイスに背を向ける。
待って。兄さん、兄様。
声が出ない。立ち上がって彼らを追いかけたいのに、指一本動かせなかった。ルイスの身体はそういうふうには出来ていないのだ。
遠ざかっていく背中をただ見送るしかないルイスの前に、黒い影が割り込んできた。モランだ。
そこをどいてください。兄さんと兄様が行ってしまう。
必死に叫んだけれど、声なき訴えなど届くはずもない。モランは大きな手をルイスの頭に乗せた。アルバートのように撫でるつもりなのかと思ったが、違った。彼はルイスの頭をぐいと押して下を向かせた。
何をするのですか、という抗議も声にはならない。もうルイスの視界には、床と自分の膝しか見えなかった。
その膝の上に、数本の薔薇の花が置かれた。この手はきっとフレッドだ。
見当違いの気遣いに怒りが湧いた。こんなものはいらない。だから、兄さんたちのところへ。
しかしそう訴えかけようとしたところで、いつの間にかモランとフレッドの影さえ消えていることに気がついた。
ルイスは必死に辺りの気配を探る。しかし、ただ自分ががらんとした部屋の中で、顔を俯けた姿勢のまま椅子に腰掛けていることが分かっただけだった。
身体はぴくりとも動かせない。恐ろしいほど静かだった。
そうしているうちに、膝の上の薔薇が徐々に水分を失いはじめたことに気がついた。真紅の花びらも、瑞々しかった葉と茎も、かさかさに乾いていく。
瞬きすらできないルイスは、その様子から目を離すことができない。フレッドのくれた薔薇が枯れてしまう。
ルイスは疲労も空腹も感じていなかった。それなのに、薔薇はみるみるうちに萎れていく。花弁が茶色く変色してルイスの膝の上からはらりはらりと落ちる。
何が起こっている? 皆はどこに?
動かせない体の奥で、思考だけが目まぐるしく回転していた。
膝の上の薔薇はとうとう完全に干からびてしまった。何故こんなにも急激に枯れてしまったのか。自身が感知できていないだけで、それに見合うだけの時間が経過しているということか? 他に時間を推し量る材料がない。もしそうだとすれば去っていった兄と仲間たちは。もしこのまま身体を動かせなかったら。身体的な感覚や時間の流れから切り離されてただ自意識だけと向き合い続ける孤独。想像しただけでいっそのこと発狂してしまいたかった。だが身体に震えが走ることも、呼吸が浅くなることもない。相変わらず身体はぴくりとも動かなかった。自分の着ている服や絨毯の模様が色あせてきたような気がするそしてすぐにその考えを必死に打ち消す。そんなはずはないそんなはずはない。だが身体は動かせない。皆は。僕はこのままずっとここで。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ兄さん。
兄さん。
*
そこでルイスは跳ね起きた。
まだ真夜中だった。
暗い部屋の中に、荒い呼吸音だけが響いている。それが自分の喉から漏れる音だと気がついてひどく安心した。
背中にびっしょりと汗をかいていた。額に張り付いた髪の毛を払おうとして、手が、身体が動くことに心の底から安堵した。
みっともなく震える指先も、今は心地いい。自分の意志でちゃんと動かせる。
手を握ったり開いたりを繰り返して感覚をひとしきり確かめた後、ルイスはベッドを降りた。こんな夢を見た原因は分かりきっている。
暗い廊下を足早に歩く。慣れた屋敷の中だから支障はない。明かりを用意する時間も惜しかった。
今は何時だろうか。感覚からして、夜明け前というよりは、まだ深夜と呼ぶべき時間帯と思われた。
居間のドアは開いていた。
コンソールテーブルの上には、あの人形が鎮座している。
立ち止まりかけたのは、ほんの一瞬だった。ルイスはコンソールテーブルへ駆け寄ると、できる限りぞんざいで無関心な手つきで人形を掴み上げた。
これはここに在ってはいけない。
玄関へ回る手間すら惜しんで、ルイスは居間の掃き出し窓を開け放った。霧とともに湿ったぬるい空気が流れ込んできて、カーテンがさわさわと揺れた。空はどんよりと曇って、月も星も、空明かりさえない。
そのまま庭に飛び出して、芝生の上を駆けた。靴底に、絨毯とは違う、湿った地面のぐにゃりとした感触が伝わって気持ち悪い。今にも足を取られそうな感覚に陥った。
屋敷の北側に回り込むと、庭の隅に黒い影が蹲っている。よかった、ちゃんとあった。ルイスは何とか自分を奮い立たせて、黒い影へと駆け寄った。
それは古井戸だった。屋敷に水道管が引かれたことで用が済んだのか、それともとっくの昔に枯れ果ててしまったのか。ともかく、モリアーティ家がここに越してきてからは一度も使われていない古い井戸だ。今は石組みの上に、丸い形の蓋が被せてある。
ルイスは人形の胴体を掴んだまま、その蓋に手をかけた。木製の板は分厚く見た目よりも重かったが、片手が塞がっていても動かせない重さではない。力を込めて押しやると、板はがたんと音を立てて横にずれた。
蓋を取り払うと、井戸の底からひんやりとした風が吹いた。どれくらいの間封じられていたのだろう。ようやく呼吸がしやすくなった、とばかりに井戸そのものがほぅと息を吐いたようだった。
冷たい空気が頬を撫でる感覚に身震いしながら、ルイスは人形を持った右手を高く振り上げた。
このまま手を振り下ろせば、指先から力を抜けば、この忌々しい人形は井戸の底の真っ暗闇へと消えて無くなる。少なくとも、居間の片隅から冷え冷えとした視線を投げかけてくることはなくなる。何もかも、何もかもが上手くいくはずだ。
しかしルイスは手を振り上げた姿勢のまま、動けなくなった。
ルイスの両目はまっすぐに、暗い穴を見つめている。頭上に覆いかぶさる夜の闇よりさらに深く、濃く、重たい闇が広がっている穴。
振り上げた手の親指のあたりに、柔らかくまとわりつくような感触がある。きっと人形の髪が触れているのだ。手首のあたりに当たっている硬い感触は、小さな靴のつま先だろうか。人形はだらりと四肢を投げ出している。けれどもたもたしていると、今にも自らの運命を悟って、死物狂いでルイスの手にしがみついて来るのではないか。
そんな想像が頭を過って、焦燥が増す。早く、早く。
しかしルイスは片手を振り上げた姿勢のまま動けない。
「ルイス」
突然背後から声をかけられて、肩が跳ねた。
いつの間にか、すぐそばにウィリアムが立っていた。
「何してるの?」
そう問いかけながらも、真夜中に古井戸を覗き込んでいる弟を不審がっている様子はない。ルイスが何をしようとしていたのか、兄にはすべて分かっているようだった。
ルイスの手から、ウィリアムがそっと人形を取り上げる。伏せられた瞳にかかる睫毛が、繊細で美しかった。
彼は人形のもつれた髪を手ぐしで整えると、それと同じくらい自然な動作で、人形を井戸へと放り込んだ。
「あっ」
ルイスは思わず声を上げた。凍りつくルイスを尻目に、ウィリアムは「よいしょ」と呑気な掛け声とともに井戸の蓋を閉じてしまった。
蓋がぴったりと井戸の口を塞ぐと、あたりの冷気が少しだけ和らいだ気がした。
「ね。これでもう大丈夫」
ウィリアムの手が優しく肩に置かれた。
兄の目を見る。作りもののガラス製ではない、温かい血の色をしていた。全身から力が抜けていく。
「さぁ、もう休もう」
手を引かれて、ルイスはふらふらと歩きだす。
視線を感じて屋敷の方を見上げると、使用人フロアの窓辺にフレッドがいた。一部始終を見ていたのだろうか。子供のように窓ガラスに両手をついて、食い入るようにこちらを見下ろしていた。
ガラスに手の跡が残ってしまう。
思わず顔をしかめると、彼は何故だか悲しそうな顔をして、暗がりに消えていった。
初出:Pixiv 2025.03.06