No.46

フレッドと犬
 ダラムのモリ家にいぬが迷い込む話。

 心地よい秋晴れの日だった。
 ロンドンでは常に頭上に垂れ込めていた鈍色の雲はどこかに消え、ダラムの街には透き通った青空がどこまでも広がっていた。 言いつけられた玄関の掃除を終えたフレッドは、バケツを片手に提げたまま庭へ出た。天気の良いうちに、庭園の手入れもしておきたかったからだ。アーチにからんだつるバラが特に見頃で、今朝なんかは朝食の最中に窓の外に目をやったウィリアムが「絵みたいな景色だね」と褒めてくれたものだから、フレッドは内心で鼻が高かった。
 この景観を少しでも長く維持するべく、葉に虫がついていないか、枯れかけた枝がないかチェックするつもりだった。
 が、フレッドは庭園の入口でぴたりと足を止める。
 つるバラのアーチの下に、見慣れないものが落ちている。最初は、こんもりとしたタオルケットか丸めた毛布の塊かと思った。だがフレッドが近づくと、それはのそりと動いて身を起こした。
「…………!」
 声をあげる程ではなかったものの、フレッドは驚いて言葉を失った。
 アーチの下にいたのは、大きな犬だった。
 白くてふさふさとした毛に全身を覆われていて、湿った鼻をひくひくさせながら、フレッドの姿を見つけるとぱたぱたと尾を振りはじめた。
 しばしの間、フレッドと犬はお互いの出方をうかがった。
 犬は三角座りをしたフレッドと同じくらいの大きさの大型犬だ。地面についた前足はどっしりと大きく、重量はあちらの方が上かもしれない。
 飛びかかってこられたらひとたまりもなさそうだけれど、ひとまず敵意は無さそうだ。はっはっと犬特有の荒い息を吐いている口元は、どこか笑っているようにさえ見える。
 緊張を解きつつ、けれどこんなに大きな犬が一体どこから入り込んだのか疑問だった。野良犬には見えないから、近所の飼い犬が迷い込んだのだろうか。
 ともかく距離を取ろうとフレッドは一歩後ずさった。
 すると、犬が一歩近づく。一歩下がると、一歩近づく。カニ歩きをしてみても同じだった。何か遊びが始まったとでも思っているのか、フレッドが動くたび犬もそれに合わせてついてくる。
 この闖入者から目を離さないよう注意しつつ、フレッドは慎重な動作で庭を移動した。走ったりすれば興奮して追いかけてくるかもしれないから、あくまで慎重に。
 大きな窓から居間を覗き込んだが、そこにモランの姿はない。この時間なら、てっきりソファでごろ寝していると思ったのに。
「…………」
 フレッドはちらりと後ろを振り返った。
 どこかへ行ってくれないかと期待してみたが、犬は変わらずそこにいた。呑気に舌を出したまま、フレッドの方を見上げている。目が合うと愛想よく尻尾を振った。
 仕方なく、フレッドは犬を連れて屋敷の裏手に回り込んだ。

 勝手口のドアをノックすると、すぐにルイスが顔を出した。この時間帯は、彼はたいてい夕食の支度のためにキッチンにいる。
「どうかしまし……」
 ルイスの語尾が不自然に途切れる。フレッドの背後にいる犬の姿に気づいたようだった。
「……うちでは飼えませんよ」
「い、いえ。あの、拾ってきたわけではなくて……庭に入り込んでいたんです」
 フレッドは慌てて説明した。
 料理中に動物には近づきたくないようで、ルイスの視線は冷ややかだ。ドアもいつでも閉められるよう、半分だけ開いたままである。
「門の隙間を通り抜けられる体格ではないですね。垣根に壊れたところでもあったんでしょうか。……ちょっと待っていてください」
 口の中で呟いて、ルイスはドアを閉めてしまった。
 犬が残念そうにくぅ、と鼻を鳴らした。そういえばこの犬が鳴くところはまだ見ていなかった。やはり野良犬ではなく、ある程度躾けられた飼い犬らしい。
 犬とともに取り残されて、フレッドは気まずい思いで待っていた。屋敷の中を歩く靴音と話し声がドア越しに聞こえる。
 やがて、モランが顔を出した。
「おお、本当に犬だ」
 どこか嬉しそうに声を上げた彼は、躊躇いなく犬に近づくと首周りをわしゃわしゃと撫でた。構ってもらえて、犬も嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振る。
「ちょっと、モランさん。噛まれたら大変ですよ」
「大丈夫だろ、大人しいぞ。それに……ほら」
 犬の首の周りの毛をかき分けると、その下から革製の首輪が覗いていた。
「飼い犬ですか」
「だな。名前が刻印してあるような上等な首輪ではなさそうだが……」
「そう遠くから来たわけではありませんよね。フレッド、この子の家を探して、連れて行ってあげてください」
「えっ」
 フレッドは思わず声を上げた。
「……僕がですか?」
「モランさんはこれから垣根の修理をしますので」
「勝手に決めんなよ……ったく」
 モランはぶつぶつ言いながらも立ち上がった。
 侵入してきたのが犬だからよかったものの、このまま壊れた垣根を放置していたら良からぬ考えを抱いた人間が入りこまないとも限らないからだろう。掃除には不満たらたらなのに、こういう時は素早い。
 モランが動き出したのを見届けて、ルイスはさっさとキッチンに戻ってしまった。
 フレッドは背後の犬を気にしつつ、慌ててモランを追う。
「垣根、僕が直そうか?」
「あ? お前は犬を帰してくるんだろ?」
「だから、僕が垣根直すから……」
「……? なんだ、お前、犬は嫌いか?」
「別に……そういうわけじゃないけど」
「じゃあそっち頼むわ。町の連中のことなら、お前の方がよく知ってるだろ」
「…………」
 モランは片手を上げながら、道具を取りに物置の方へ向かっていった。犬は相変わらず、舌を垂らしたぼんやり顔でフレッドを見上げていた。



 屋敷を出て、フレッドは街へ向かう道をとぼとぼと歩いていた。
 犬はつかず離れずの距離でフレッドの後をついてくる。黒い瞳に一心に見つめられると、どうにも落ち着かなかった。
「……お前、どこから来たの?」
 話しかけてみても、犬は答えない。
 フレッドは手に持っていた新聞紙の包みを開けた。出発する前にルイスが持たせてくれたもので、夕食の支度に使ったチキンの残りだ。
 ほとんどは骨だが、ところどころ肉や筋が残っている。もし犬が言うことを聞かなくなったら、これをやってなだめろということだ。
「これあげるから、お前のうちまで案内してよ」
 そう呟きながら、フレッドは犬の鼻先に骨を差し出した。
 いつからモリアーティ家の庭にいたか分からないが、近所をさまよい歩いていたならお腹が空いているだろう。
 しかし犬は、鼻をひくひくさせて骨のにおいを嗅ぐなり、ぷいと顔を背けてしまった。
「……食べないの?」
 回り込んでもう一度突きつけてみても、犬は逃げるように顔を背けた。どう見ても、食べるのを拒否している。
 人見知りの強い動物は、信頼する飼い主以外の人間からの餌は口にしないと聞く。だが、見ず知らずのフレッドに警戒心なくついてきたこの犬がそうだとは到底思えなかった。
 不可解な態度に首を傾げていると、背後から歓声が上がった。
「わー! おっきいワンちゃん!」
 振り返ると、幼い少年がぱたぱたと駆けてきた。
 後ろにはバスケットを提げた母親らしき女性の姿も見えるから、二人で買い物に出ていた帰りだろう。
「可愛い! 撫でていい?」
「こら、止めなさい!」
 犬に向かって手を伸ばそうとする少年を母親が慌てて引き止めた。
 大きな犬に危険を感じているのかと思ったが、彼女はフレッドに向かって深々とお辞儀をした。
「大変失礼いたしました。モリアーティ様の犬に……」
「あ……いえ。違うんです」
 どうやら彼女は、フレッドがモリアーティ家の使用人であることを知っているらしい。フレッドは手短に、この犬を連れて歩いている経緯を説明した。
「まぁ。モリアーティ様のお庭に入り込んでいたんですか」
「はい。だからおうちまで送り届けようと思いまして……飼い主さんをご存じないですか?」
「いえ。申し訳ありませんが……」
「僕知ってるよ!」
 横で犬を撫でていた少年が声を上げた。
「本当? どこの家の子かな?」
「市場にいるのを何度か見たよ。日曜の朝に」
「あ。言われてみれば、こんなふうに大きな犬を連れて歩いている人を見たような……」
「どんな人でした?」
「ええと、すみません。そこまでは……」
「おじさんだったよ」
 犬のふさふさの背中を撫でながら、少年が答えた。
 市場で見かけたおじさん。ロンドンに比べれば小さな町とはいえ、それだけの特徴をもとにこの犬の飼い主を絞り込むのは困難だろう。
「すみません。お役に立たず……」
「とんでもないです。市場のあたりを探してみますね。ありがとうございました」
 フレッドがその場を辞そうとしたとき、少年がふと立ち上がって道端に生えた木に駆け寄った。
 まだ若いブルーベリーの木で、少年の手が届く高さにもいくつか実をつけている。彼は実のいくつかをもぎ取って口に放り込んだ。
「お前も食べる?」
 犬は、鼻先に突き出された小さな木の実をふんふんと嗅いだ。
 その様子を横で見ていたフレッドは、犬はそんなものを食べないだろうと考えていた。しかし予想に反して、犬は舌でぺろりと木の実をすくい取った。さらには「もっとほしい」と言いたげに少年の反対側の手に向かって鼻をひくつかせている。
「もうないってばぁ!」
 大きな舌で手のひらをべろりと舐められて、少年が甲高い笑い声をあげた。



 親子と別れて、フレッドと犬は市場を目指して歩いた。通りがかる人たちがちらちらとこちらを気にするが、誰も声をかけてはこない。この犬のことを知っているというよりは、大きな犬を連れて歩くフレッドのことを珍しがっているようだった。
 犬も犬で、周囲の人や建物には頓着せず、フレッドの後をのしのしとついてくる。
 このまま飼い主が見つからなくて、ずっと僕の後をついてきたらどうしよう。
 次第にそんな不安に襲われた。
 犬が嫌いなわけでも、怖いわけでもない。だが、自分を慕って一心に後を追ってくる存在というのは、フレッドをどこか居心地悪い気分にさせた。
 まだ子供だった頃、フレッドは子犬を拾ったことがある。貧民街の片隅で心細げに鼻を鳴らしているのを不憫に思って、持っていたパンを半分やったのだ。
 子犬はまだ短い尻尾をちぎれんばかりの勢いで振って、以来、フレッドの後をとてとてと拙い歩き方でついてくるようになった。
 初めは嬉しかった。親もなくひとりぼっちなのはフレッドも同じだったから、兄弟ができた気分だった。
 けれど、嬉しい気持ちは次第に不安に取って代わった。その頃のフレッドは物乞いをしたり残飯を漁ることで辛うじて食いつないでいた孤児だった。数日まともな食事にありつけないことは当たり前にあって、ちょっとした怪我や病気で簡単に命を落としかねない状況にあった。
 それなのに、子犬はこんなフレッドを無邪気に慕って追いかけてくる。パンのひと欠片すら手に入れられない日でも、文句も言わずに寄り添ってくれた。
 このまま一緒にいたのでは、この子を飢え死にさせてしまうかもしれない。
 そんな不安を抑えきれなくなったフレッドは、ある夜、そっと寝床を抜け出した。無防備にお腹を出して眠っている子犬を置いて逃げた。その時は、他にどうしようもなかった。
 もしフレッドの身体が動かなくなったとしても、あの子犬はきっとフレッドのそばを離れようとしないだろう。薄汚れた浮浪児の死体のそばで不安げにうろうろしている子犬の姿を想像すると、叫びだしたくなるほど恐ろしかった。あの子が自分よりもマシな人間に拾ってもらうか、野良犬仲間に見つけてもらうことを祈るしかなかった。
「フレッド?」
 不意に名前を呼ばれて、フレッドは我に返った。
 いつの間にか市場の手前まで差し掛かっていて、道の向こうからウィリアムが歩いてくる。シルクハットにステッキ。大学の帰りなのだろう。
 フレッドは慌てて後ろを振り返った。白い大きな犬は相変わらずそこにいて、フレッドと目が合うとまた尻尾を振る。その姿にほっと息をついた。
「どうしたの、その子? 大きいね」
「その、屋敷の庭に入り込んでいて。飼い犬みたいだから、飼い主を探しているんです」
 ウィリアムは「そうなんだ」と頷きながら屈み込んで、犬の顎の下をくすぐった。
「そのお肉はあげないの?」
「えっ……ああ、この子、食べないんです。ルイスさんがせっかくくれたのに」
 ウィリアムはフレッドが手に持っている包みの中身を見抜いているようだった。改めて包みを開いてチキンを差し出してみても、犬はぷいと顔を背ける。
「変わった子ですよね。ブルーベリーは食べたのに」
「ブルーベリー?」
 フレッドは、道中で出会った親子のことを話した。
「だから、市場のあたりを回ってみるつもりです。ウィリアムさんは先にお帰りください」
「うーん……。フレッド」
「はい」
「この子がどこの子か、分かったかもしれない。僕に任せてもらえないかな?」
「えっ……本当ですか?」
「飼い主の名前までは分からないけど、あの家かな、という見当はついたよ。答え合わせがしたいから、付き合ってもらえるかな?」
 他でもないウィリアムにそう言われて、断れるはずもなかった。



 ウィリアムは市場とは反対方向に歩いていった。
 不思議に思ったけれど、聡明な彼の行動に間違いはないはずだ。フレッドは迷いなく彼の後についていった。そのさらに後ろを、犬がのんびりとした足取りで追う。
 一行が辿りついたのは、ありふれた民家だった。平屋建てで、正面からは見えないが裏に鶏小屋があるのだろう。ここからでもニワトリの鳴き声がさかんに聞こえてきた。
 ノッカーを握ってドアを叩くと、若い娘が姿を現した。
「はい。何か御用ですか?」
 ウィリアムがどこの誰かまでは知らないようだったが、明らかに貴族然とした彼の来訪に戸惑いを覚えているようだった。
 だが、フレッドとウィリアムの足の隙間から犬が顔を突き出したとき、彼女はぱっと顔を明るくした。
「まぁ、ベラ! どこに行ってたの!」
 犬が答えるように一声鳴いた。
 女の子だったのか。
 娘に撫でられて、犬は嬉しそうに尻尾を振って彼女の顔を舐めた。フレッドたちに見せたお愛想とは違う、本気の喜び方だった。この家の飼い犬に違いない。娘が明るい笑い声を弾けさせた。
 その時、騒ぎに気づいて、家の奥からもう一人の住人が顔を出した。この娘の父親らしい、中年の男性だった。彼はウィリアムの姿を見るなりひゅっと息を呑んだ。
「も、モリアーティ様!?」
「えっ!?」
 犬とじゃれていた娘も慌てて立ち上がった。もっと撫でてほしそうに、犬が彼女のエプロンの裾を噛んで引っ張っている。
「な、何故モリアーティ様がうちのベラを……」
「道で迷子になっていたところを見つけたので、お連れしただけですよ。ね?」
 ウィリアムに目配せされて、フレッドもこくりと頷いた。屋敷の庭で昼寝をしていたと正直に告げたら、この父娘が卒倒しかねない。 父と娘は恐縮しながら頭を下げた。
「今朝から行方知れずだったんです。どうもありがとうございました。……でも、どうしてうちの犬だとお分かりになったのです?」
 父親の方が汗をふきふき訊ねた。フレッドも気になっていたことだ。
 ウィリアムはにこりと笑って答えた。
「この子は鶏肉を食べないように躾けられていますね。猟犬が獣の肉を食べないように訓練されることもあると聞きますが、人懐っこくて物静かなベラはとても猟犬には見えません。おまけに、この子を朝の市場で見かけたという情報もありました。ということは、この子は市場へ鶏肉や卵を卸しに行く養鶏家の犬なのではないか、と考えたのです。そこで、このあたりで一番多くニワトリを飼っているお宅を訪ねてみました」
「お、おっしゃる通りです! 娘がまだ小さかった頃、犬を飼いたいと泣きわめいたものですから……」
「お、お父さんっ」
「コホン。……ともかく、それで子犬をもらってきたのですが、商売道具のニワトリたちに手を出されてはたまらないので、鶏肉だけは絶対食べないように躾けたんです」
「とても利口な犬ですね。ご主人の目が無くとも、立派に言いつけを守ったのですから」
 ウィリアムからの褒め言葉に、父娘は恐縮しきりだった。唯一ベラだけが、舌を垂らした呑気な顔で人間たちを見上げている。



 帰り道、フレッドの手にはカゴいっぱいの新鮮な卵があった。あの父娘から、どうしてもとお礼に渡されたものだ。
「ルイスに何を作ってもらおうかな」
 前を歩くウィリアムの足取りは軽い。つられて、フレッドも知らぬうちに笑みをこぼした。
 これだけあれば、しばらく卵料理が続きそうだ。お馴染みのスクランブルエッグやゆで卵も美味しいけれど、たまにはカスタードたっぷりのエッグタルトなんかを作ってもらえると嬉しい……などと考えながら歩いていると、前を歩くウィリアムがくるりと振り返った。
「フレッド。猫は好きなのに、犬はあまり得意じゃないんだね」
「う」
「噛みつかれたり、怖い目に遭わされた経験があるようには見えなかったけど……ベラの方を見ないようにしていたから」
「……」
 彼には何でもお見通しのようだった。
 フレッドは仕方なく、子供の頃に出会った子犬の話をした。気まぐれに餌をあげて仲良くなったこと、けれど共倒れになるのが怖くなったこと、ついには子犬を置いて逃げてしまったこと。 一通り話し終えると、ウィリアムは納得したように頷いた。
「なるほど。大変だったね」
「いえ……」
 フレッドは曖昧に首を振った。中途半端に餌付けして、無責任に逃げ出しただけだ。
「その点で言うと、猫は何軒かの家を渡り歩いて餌をもらうだけの強かさがあるからね。もしそのうちの一つがだめになってしまったとしても、すぐに飢えてしまうとは限らない」
「そうなんです。犬は……さっきのベラみたいに、お腹が空いていても言いつけを守って鶏肉を食べなかったり……人間をまっすぐに信頼して、約束を忘れずにいてくれるところが、少し、」
 なんと表現していいのか分からなくて、フレッドは口籠った。彼らのことが嫌いなわけでも、苦手なわけでもない。
 結局のところ、子供の頃に抱いた罪悪感が遠因だった。あの出来事を通して、力がなければどんな小さな命も救えないのだと子供ながらに痛感した。あの子犬がすぐにフレッドのことを忘れて元気に暮らしていてくれればいい、と願っていた。
「……でも、フレッドも食べなさそうだね」
「え?」
「鶏肉」
 何のことか分からず一瞬面食らったが、すぐに彼が、フレッドとベラを重ね合わせていることがわかった。
 前を歩くウィリアムの背筋はすっとまっすぐに伸びていて、その足取りに迷いはない。例え汚泥の底にいようと彼の周囲は常にあたたかい光に満たされている。少なくともフレッドはそう信じていた。
「……もちろん。ウィリアムさんからの言いつけなら、絶対に食べたりしませんよ」
「そう。……そうだね」
 彼はもう一度、静かな声で呟く。
 この返答は、彼にとって満足のいくものだっただろうか。
 シルクハットをかぶった彼の影が、地面に長く伸びている。フレッドは夕陽の眩しさに目を細めながら、その影を踏み踏み、屋敷に向かう彼の後をついていった。

 初出:Pixiv 2025.02.16

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