No.45
緋色の証明
犯罪卿が暗躍して221B組が事件解決に奔走するお話。
「……それが、証拠品なのですね」
告解室の格子の向こうから、低い声が響く。半ばまで溶けた蝋燭が室内を照らしているが、格子の奥に座る相手の顔までは見えなかった。
女は「はい」と震える声で答えた。
「あの事故……いいえ、『事件』のあった夜に、旦那様が書斎の暖炉で燃やそうとしていたのです。ゴミの処理など、普段であれば私たち使用人にさせるはずなのに」
格子の向こうから白い手が伸びてきて、女が差し出した包みを開いた。若い男の手だった。あまりじろじろと見てはいけない気がして、女は目を伏せる。
包みの中には、半分焼け焦げた、緋色の布切れが入っていた。何か問われるより先に、女の口が勝手に動いて補足する。
「テーブルクロスです。旦那様はこっそりと燃やそうとしたのでしょうけど、ひどく煙が出たようです。悪態をつきながら書斎から出てきました。私は何かあるのだと確信して、書斎に忍び込み……」
「そして、炎の中から苦心してこれを取り出した?」
「はい」
「その事を、あなたの主人は勘づいていますか?」「いいえ。代わりに別のテーブルクロスを燃やしておいたので、気づいていないはずです」
「……いいでしょう」
長い指先が音もなく動いて、包みを元の通りに戻すと格子の向こうに引き込んだ。
受け取ってもらえた。信じてもらえたのだ。
女は思わず椅子から腰を浮かせた。
「では……!」
「貴女のお話の裏を取る必要があります。これが、真に罪の証であるかどうかを。結果は、追ってご連絡します」
蝋燭の炎が僅かに揺れた。格子の向こうの男が席を立ったらしい。
立ち去る足音は聞こえなかった。けれど男の気配はふっつりと消えてしまった。深夜の廃教会に広がる静寂が、今になって押し寄せてくるようだった。
女は身震いしながらその場を後にした。たった今まで自分が誰かと話していた事に、急激に自信が持てなくなっていた。それくらい、格子の向こうの相手には現実味が無かった。
あの人は本当に犯罪卿だったのだろうか?
私の願いを聞き入れて、兄の無念を晴らしてくれるのだろうか?
確信は少しも持てなかった。だが、あの事故の後、彼女の話にまともに耳を傾けてくれた者はいなかった。警察は始めから貴族の味方だったし、他の使用人たちも、職を失うことを恐れて口をつぐんだ。
あの時のことを思い出すと、彼女の目に自然と悔し涙が滲んだ。
もう誰だっていい。
あの男に天罰を下してくれるなら。
*
ある日の夜、二二一Bの大家ミス・ハドソンは夕食の後片付けをしていた。
時刻はすでに八時を過ぎていたが、シャーロック・ホームズと私――ジョン・H・ワトソンが、予定の時刻を過ぎても戻らず、落ち着かない気持ちだったという。三人前のスープを煮込んだ鍋に蓋をしながらため息をついた時、呼び鈴が鳴った。
彼女は急いで玄関へ向かった。
「もう! 遅くなるなら連絡してって、いつも……」
言葉は尻すぼみになって地面に落ちた。
玄関のドアを開けた先に立っていたのは、見知らぬ青年だったのだ。礼儀正しく帽子を取った青年は、困惑の表情を浮かべている。
ミス・ハドソンは慌てて取り繕った。
「あら! ごめんなさい。てっきりシャーロックたちが帰ってきたのかと……」
「え、シャーロック・ホームズさんはご在宅ではないのですか?」
「ええ。七時の列車でロンドンに戻ると聞いていたのですけど」
そう答えてから、ところでこの人は誰なのかしら、とハドソン夫人は気になった。視線に気づいた青年は、背筋を伸ばしてお辞儀をした。
「私はクリス・ソーンダーズと申します。マーカム男爵家の使用人で、シャーロック・ホームズさんにお伝えしたい事件がありましてお伺いした次第です。……よろしければ、お戻りになるまで、中で待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
ハドソン夫人は、この青年の言葉を疑わなかった。
ホームズ不在の二二一Bで依頼人を待たせることはこれまでも度々あったし、何より目の前の青年の物腰は丁寧で、きちんと教育の行き届いた使用人に見えたからだ。
男爵の使いだと言ったから、このまま追い返せば主人に叱られてしまうだろう。どうせ、シャーロックたちはもうじき戻ってくるはずなのだ。中に通して、待たせてあげればいい。
そうしたごく当たり前の親切心から、ハドソン夫人は青年を二二一Bに招き入れた。
「散らかっていますけどお気になさらず。お茶を入れてきますから、そこに掛けて待っててくださいな」
「いえ、どうかお構いなく」
青年ははにかみながら椅子に腰を下ろした。
ハドソン夫人はにこりと微笑み返して、一階のキッチンへ下りていった。お湯が沸くのを待つ間、何かお菓子でも出してあげようかと戸棚を探っていると、また呼び鈴が鳴った。
今度こそ帰ってきたかと玄関へ急いだが、訪ねてきたのは郵便配達人だった。
「ミス・ハドソン。電報です」「どうもありがとう。遅くまでご苦労様です」
受け取った紙片に目を通して、ハドソン夫人は「あらやだ」と声を上げた。
それは、例によってシャーロックとともに事件の調査に出かけていた私からの電報だった。事件を無事解決させたところ依頼人がいたく喜び、夕食会へ招待されることになったため今夜は戻らない……といった内容だった。
事件解決の報にハドソン夫人は安堵したが、同時に二階で待たせているソーンダーズ青年のことが気にかかった。仕方がないので今日のところは帰ってもらって、明日以降に出直してもらうしかないだろう。
「ソーンダーズさん。今電報が届きまして、すみませんが今夜は……あら?」
ハドソン夫人はドアの前で立ち尽くした。クリス・ソーンダーズの姿がどこにもなかったからだ。
家主不在のリビングルームを、石油ランプの明かりが侘しげに照らしている。ソファの上にも、本棚の前にも、隣の寝室にさえ、ソーンダーズはいなかった。 夜風がひゅうと吹き込んできて、ハドソン夫人は窓が開け放たれていることに気がついた。
*
私たちが帰宅したのは、その翌日の昼近くになってからだった。
キングスクロス駅で待ち構えていたベイカー街非正規隊のウィギンズ少年から事の次第を聞かされ、私とホームズは辻馬車を飛ばして二二一Bへ帰り着いた。
ハドソン夫人は青い顔で私たちを出迎えた。
「二人ともごめんなさい、私……」
「馬車の中でウィギンズくんから聞きましたよ。怖かったでしょう。ハドソンさんが無事でよかったですよ」
玄関口で話していると、奥からレストレード警部が顔を出した。
「お、帰ってきたか」
「お前も来てたのか、レストレード」「私が来てもらったの。非番なのにごめんなさい」
「いえいえ、お安い御用ですよ」
「ちゃっかり朝飯まで食ってるんだから、タダ働きってわけでもねぇだろ」
レストレード警部のシャツの襟についたトーストのくずを見やりながら、シャーロックが呟いた
「ゴホン。……部下たちにざっと周囲で聞き込みをさせたが、不審な人物は目撃されていない。ともかく、盗まれているものでも無いか、上で確認してくれ。調書を取るのはそれからだ」
私たちは二階へ上がった。
ハドソンさんが目を離した隙に依頼人が忽然と姿を消したというが、ぱっと見た感じ、室内に荒らされた形跡はない。もちろん、普段からシャーロックが散らかし放題にしているから、見た目だけでは何とも言い難かったが。
私は手早く自分の持ち物を調べた。だが現金や懐中時計といった貴重品はおろか、書きかけの新作原稿に至っても手を付けられた痕跡はない。
「シャーロック。僕の方は大丈夫そうだ。そっちはどうだい?」
返事はない。シャーロックはキャビネットの前で固まっていた。
「どうした? やっぱり何か盗まれてたのか?」
「ジョン、あの本はどこにある?」
「え? あの本?」
「お前が書いた小説だよ! 緋色の……」
私が自分の書棚から『緋色の研究』を取ってくると、シャーロックはひったくるように奪ってページをめくり始めた。
「やっぱりだ! お前、書いたんだな!」
シャーロックは私の鼻先に開いた本を突きつけた。二人の男が握手を交わしている挿絵がある。私とホームズが初めて出会うシーンだった。
「そ、そりゃあ書くさ。あれほど印象深い出会いもなかったから……」
「だからって血液試薬のことまで書く必要なかったろ!」
「試薬?」
「一度血が付着すれば、それが何ヶ月前のものであろうと血の痕を浮かび上がらせる試薬だよ。くそっ、そのクリス・ソーンダーズって野郎の目的は血液試薬だったんだ」
シャーロックはがしがしと髪をかきむしった。
キャビネットには無数の小瓶がひしめいていたが、確かによく見ると一本分の空きがある。
私とシャーロックが初めて出会ったあの日、彼は牛の血を使った実験をしていた。あの時開発された薬が盗まれたとシャーロックは言う。
だが、何のために?
私とシャーロックは部屋中をもう一度探し直してみたが、血液試薬の瓶はどこにも見当たらなかった。
私たちが一階に下りて事情を説明すると、ハドソン夫人はますます困惑した様子だった。
「えっと、血の痕を調べる薬……が盗まれたの? どうして?」
「それは分かりません。でも、他になくなった物も無さそうで……」
「本人に聞きに行けばいい」と警部。
「その男は、マーカム男爵家のクリス・ソーンダーズと名乗ったのですよね?」
「ええ……」
「マーカム男爵の屋敷はメイフェア通りにある。警察官の俺が同行すれば、話くらい聞かせてもらえるだろう。それで構わないよな、ホームズ? ……ホームズ?」
シャーロックは両手の指の先を突き合わせて、考えに耽っていた。私たち三人の視線が集まっていることに気がついて、ようやく顔を上げる。
「……ん? ああ、それでいい。行こう」
シャーロックはさっさと歩き始めた。
「あ、待てよシャーロック! ……すみません、ハドソンさん。行ってきます」
「え、ええ。行ってらっしゃい。気をつけてね」
「部下に見回りをさせていますので、何かあればすぐに呼んでください」
私と警部はばたばたと慌ただしくシャーロックの後を追った。
*
「犯罪卿だ。奴の仕業に違いない」
ベイカー街で辻馬車を捕まえて乗り込むなり、シャーロックは確信を込めた声でそう断言した。
私とレストレード警部は顔を見合わせる。警部はあからさまに「またそれか」と言いたげな表情を浮かべていた。
「シャーロック。いくらなんでも判断を下すのが早すぎるんじゃないか?」
「いいや。この周到さは間違いなく奴だ」
「周到さ?」
私が声を上げると、シャーロックは呆れたようにため息をついた。
「気づかなかったのか? 俺たちがこの馬車に乗るのと入れ違いに、二二一Bの前に工具を抱えた修理人が来てただろ。昨日の夜、二二一B前のガス燈だけが壊れてたんだ。そうだろ、レストレード?」
「む……確かに」
「二二一B前のガス燈だけが何故か壊れていて、辺りはいつも以上に薄暗かったはずだ。そしてまだ人通りの多い夜八時に、窓から逃げ出したはずのソーンダーズの姿を誰も見ていない。偶然のはずがないだろ?」
「だが……それだけで犯罪卿の仕業だとは断定できないんじゃないか? 例えば、ソーンダーズは何か重大な事件の犯人で、シャーロックが発明した血液試薬が捜査に使われると有罪判決を下されてしまうような立場にあったから、自分の罪を隠すために盗みを……」
「それなら、製法ごと盗んだ上で俺を殺さなきゃ意味ないだろ。試薬の瓶ひとつ盗んで何になるって言うんだ」
「う。まぁそうなんだが……だとしたら、何故奴は血液試薬を盗んだんだ?」
「試薬そのものに用があったとしか考えられないが、現時点では断定できない」
「だよな。男爵家で本人に直接話を聞けるといいんだが……」
「それもだ」とシャーロック。
「奴は何故、わざわざマーカム男爵家の使用人だと名乗った? ハドソンさんを騙したかったなら適当な会社や団体をでっち上げるだけでよかったはずだ。あえて実在する貴族の名を使うなんて『ここに訪ねてこい』と言っているようなものだ」「まさか、俺たちは今まさに誘い出されているのか?」
「どうだ? これでもまだ、裏で糸を引いている奴はいないと思うか?」
「…………」
私と警部はもう一度顔を見合わせた。
御者が手綱を引き、私たちの乗る馬車はメイフェア通りのマーカム男爵家に到着した。
*
呼び鈴を鳴らすと、すぐに生真面目そうな執事が出てきて応対した。
「このお宅にクリス・ソーンダーズさんはいらっしゃいますか?」
レストレード警部が身分証を提示しながらそう尋ねると、執事は怪訝そうに眉根を寄せた。
「く、クリスですか? ここには……おりません」
「クリスさんのことはご存じのようですね。彼は今どこに?」
「あの、どのようなご用件でしょう?」
「彼が昨夜、ここにいる二人の家で盗みを働いた疑いがあります。その件でお話を伺いに」
「盗みですって? クリスが、昨夜?」
「彼はどこに?」
執事の受け答えが要領を得ないので、レストレード警部が口調を強くした。執事はしどろもどろになりながら答える。
「彼は……死にました。三ヶ月も前に」
「なんだって!?」
今度は私たちが困惑する番だった。
クリス・ソーンダーズがすでに死んでいたのなら、昨夜二二一Bを訪ねてきたのは一体誰だったのだ?
唯一、シャーロックだけは驚いた様子も見せずに険しい顔で考え込んでいる。
「あの。ですから、その件は何かの間違いかと思われますので……」
執事がやんわりと私たちを帰らせようとした時、どこかで何かが割れる音がした。見計らったようなタイミングだった。
「何だ?」
ぱたぱたと室内を駆ける足音がした。
使用人の誰かが皿でも割ったのかと思われたが、続いて上がった甲高い悲鳴に、そうではないことを悟った。
すかさず、シャーロックが執事の脇をすり抜けて屋敷の中へ飛び込んだ。尋常でない事態が起こっている。私たちもその後に続いた。
広々とした玄関ホールを抜けて、シャーロックが階段を一段飛ばしで駆け上がる。二階の廊下に、年老いたメイドが腰を抜かして座り込んでいた。彼女はわなわなと震えながら、開いたドアの向こうを指さしている。
「あ、だ、旦那様が……!」
部屋へ駆け込んで私たちが見たものは、暖炉に頭を突っ込むようにして倒れ込んだ男の姿だった。
ゆったりとしたスモーキング・ガウンを羽織り、床に投げ出された左手には豪奢な指輪が輝いている。間違いなく、彼がこの屋敷の主であるマーカム男爵だろう。
暖炉に火は入っていないものの、煤と灰に塗れた男爵はぴくりとも動かない。その頭部には大きな穴が空いていて、鮮血がとめどなく溢れていた。
「ジョン!」
シャーロックが叫んで、私の腕を引いた。私は無意識のうちに、倒れている男爵のもとに駆け寄ろうとしていたのだ。
何故止めるのかと怪訝に思うより先に、シャーロックは部屋に入ろうとしていたレストレード警部に向かって怒鳴った。
「死体に近づくな! 狙撃だ!」
廊下に座り込んでいたメイドがもう一度悲鳴を上げた。
倒れた男爵から部屋の反対側へと視線を移すと、砕け散った窓ガラスが床に散乱していた。さらに窓の向こうには、遠くに教会の鐘楼と思しき建物が見える。
暖炉と窓と鐘楼。この三つが頭の中で一本の直線によって結ばれ、私は慌てて後ずさった。
暖炉の前で倒れ伏した男爵は明らかに事切れている。彼はロンドン市内からそう遠くないこの屋敷で、白昼堂々狙撃されたというのか?
「どうしたの? 何かあったの?」
不意に、場違いな甲高い声が響いた。
子供が一人、階段を上がってくるところだった。まだ十歳にもならないような可愛らしい男の子だ。おそらくは男爵の息子なのだろう。
腰を抜かしていた老メイドが我を取り戻し、恐ろしい死体が目に入らぬよう少年をその場に押し留めた。
「あの鐘楼に狙撃手がいる。レストレード、ヤードに連絡して応援を……」
「いや、この距離なら直接行った方が早い。執事さん、馬か自転車を貸してください。あと通報も頼みます!」
「は、はいっ」
レストレード警部は猛然とした勢いで屋敷を飛び出していった。非番の日に我々に付き合ってくれただけの彼は拳銃も所持していないはずだったが、止める暇もなかった。
やがて異常事態を察した使用人たちが、不安げな顔をしながら集まってきた。シャーロックは執事に指示をして、警察が到着するまで誰も屋敷から出ないよう厳命した。
動転した執事は私たちが警察関係者ではないことをすっかり忘れてしまっているようだった。おかげで、シャーロックは大手を振って現場検証を始めることができた。
彼は壁伝いに窓辺へ近づくと、さっとカーテンを閉めた。
「そ、それだけで大丈夫なのかシャーロック? せめて鉄板でも立てないと……」
この距離で、それも窓ガラス越しの狙撃を成功させたのだ。相手が狙撃手としてかなりの手練れであることは私でも分かった。
「見えない的を狙うほど馬鹿じゃないだろ。それに、まだあの鐘楼の上でモタモタしてくれてるならレストレードがふん縛ってくれる。願ったり叶ったりだ」
シャーロックは平気な顔で死体を検分し始めた。カーテン一枚が盾とは何とも心許ないが、私もおっかなびっくり、彼に続く。
男爵の死体は、暖炉の中に突っ伏すように倒れていた。ここしばらくは暖かい日が続いていたから、暖炉に火が入っていなかったのは不幸中の幸いだ。
遺体にはまだ温かさが残っていた。傷口から溢れた血は乾いてすらいない。後頭部から飛び込んだ弾丸は、男爵の頭の中をめちゃくちゃに破壊したらしかった。
シャーロックは、男爵の足の位置と暖炉との距離を確かめた。
「もしこの位置に立っていて狙撃されたなら、倒れた拍子にマントルピースに頭をぶつけていただろう。だが頭部には銃創以外の傷跡はない」
「つまり?」
「男爵は撃たれる直前、暖炉の前に屈み込んでたってことだ。寒くて暖炉に薪を焚べようとしたわけじゃなさそうだが……」
死体のそばに屈み込んだシャーロックは、すぐに奇妙なものを見つけた。
「ジョン、ちょっとそっちを持って、こいつの体を持ち上げてくれ」
「えっ、冗談だろ」
「いいから、早くしろ」
シャーロックの指図で、私は恐る恐る男爵の肩を掴んで、床から少しだけ浮かせた。その隙間に、シャーロックが素早く手を突っ込む。
「何だこれは?」
シャーロックが引っ張り出したのは、紅い布だった。男爵の身体の下敷きになっていたらしい。
焼け焦げて大きな穴がそこら中に空いているが、案外しっかりとした生地だったようで、床に広げてみてもばらばらにはならなかった。
元は大きな布の一部だったらしい。布の中央の辺りには、いくつかの小さな穴と黒っぽい染みが広がっている。
「何だろう。焼けているということは、男爵はこれを暖炉で燃やしていたのか?」
「いや。暖炉にはしばらく使われた形跡がない。むしろこれから燃やそうとして、暖炉の前に屈み込んだんじゃないか?」
「だが焦げ跡がついてるぞ。一度燃やそうとして、やっぱり止めて、もう一度燃やそうとしたって言うのか?」
「…………」
シャーロックは答えなかった。彼の視線は、焼け焦げた緋色の布に釘付けになっている。
その時私はようやく、シャーロックが指先でなぞっている箇所の異変に気がついた。
「何だろう? この部分だけ、染みが青っぽく変色しているな」
「ああ……」
生返事をして数秒黙り込んだ後、シャーロックはぐるりと廊下の方を振り返った。先ほどから、使用人たちが怯えた様子で室内を伺っていたのだ。
「最後にこの部屋に入ったのは誰だ? もちろん、男爵本人を抜きにして」
問われて、使用人たちにかすかな動揺が走る。だが即座に、若いメイドが手を挙げた。
「私です。朝食の後に掃除をしました」
「その時、この布はあったか?」
「いいえ、ありませんでした。暖炉の中までは見なかったので断言はできませんが」
「カーテンは?」
「私が開けました」
「部屋を出る時も、閉めなかったか?」
「はい。今日はお天気も良かったので」
シャーロックから投げられる問いに、メイドは淀みなく回答した。
その淀みのなさに、私は少し違和感を覚える。
たいていの人間は、殺人事件の現場で探偵に質問を投げかけられると多少なりとも動揺するはずだ。記憶違いが無かっただろうか、まずい答え方をして自分が疑われたりしないだろうか、と不安になるのだ。
しかし目の前の若い娘は、挑みかかるような目つきでシャーロックの顔をまっすぐに見据えている。
私が気づいた違和感に、シャーロックが気づかないはずがない。彼は何か確信を得た鋭い目つきで、彼女に向かって問いかけた。
「……あんたの名前は?」
「マリアです。マリア・ソーンダーズ」
「ソーンダーズだって?」
私は驚きの声を上げた。
「あなたは、クリス・ソーンダーズさんの?」
「ええ、妹です。それが何か?」
彼女は堂々とした態度で頷いた。勝利宣言のような、どこか攻撃的な口調だった。
兄妹で同じ屋敷に仕えていることなど、別段珍しくもない。だが、三ヶ月も前に死んだはずの兄の方が昨晩二二一Bに現れたことと、目の前の彼女が無関係だとは思えなかった。
戸惑っているうちに、階下から人の話し声が聞こえてきた。スコットランド・ヤードから応援の警察官たちが到着したらしい。
シャーロックは深いため息をつきながら立ち上がった。
「戻るぞ、ジョン。あとはヤードに任せよう」
「シャーロック……だが、」
「何が起こったかは明白だ。ここに解くべき謎はない」
私たちは駆けつけた警察官にひと通りの説明を済ませてから、屋敷を去った。その間あの若いメイドは一言も口を挟まなかったが、頬を紅潮させ、どこか興奮した様子だった。
馬車の中で、シャーロックは終始無言であった。
*
二二一Bに帰り着くなり、シャーロックは古新聞の山を漁り始めた。何を探しているのかと私が問いかけるより早く、彼は目当ての記事を見つけ出したようだった。
「……あった。日付もちょうど三ヶ月前だ。読んでみろジョン」
それだけ言われると、私にも何となく予測がついた。クリス・ソーンダーズが死亡した事故を報じた記事だった。
「ハンティングの最中に、か……」
三ヶ月前、マーカム男爵領の森で鹿撃ちが催された。幾人かのゲストも招かれ狩りに参加したが、使用人のクリス・ソーンダーズは随伴せず、同僚たちとともに別荘に残って仕事をこなしていた。
だが、正午近くなった頃、九歳になる男爵の一人息子の姿が見えないと騒ぎになった。彼は前夜、夫人や他の女性たちとともに別荘で留守番をすることを不満がっていたという。
もしや、父親たちの後を追ってこっそりと森に行ったのではないか。
最悪の事態が頭を過ったクリス・ソーンダーズは大慌てで別荘を飛び出し、少年を探しに行った。
「『そうして森に入ったクリスは、誤って猟銃で撃たれ、即死した。事故発生時、彼は地味な焦げ茶色のジャケットを着用しており、男爵は視界の悪い木立の中で彼を鹿と誤認して発砲してしまった』……ああ、『男爵の息子は屋根裏部屋に隠れて遊んでいただけだった』とある。なんて不運な……」
「『不運』? 不運なもんか。そんな言葉で片付けていい話じゃない」
シャーロックが低い声で唸った。
私は昨晩から今日にかけて起こったことをもう一度振り返ってみた。
三ヶ月前に死んだはずの男が二二一Bに現れ、血液試薬の小瓶を盗んで消えた。彼を追って訪れた男爵家で、男爵本人が何者かにより狙撃され、死亡した。暖炉からは焼け焦げた紅い布が発見され、その朝現場を掃除したメイドは、死亡した男の妹だった。
「シャーロック。お前には何が見えている?」
「…………」
シャーロックは長い間黙り込んでいた。
私を部屋から追い出さないということは、話す気が無くはないようだ。私は彼の向かいに腰掛けて、辛抱強く待った。
やがて、シャーロックは髪を掻きむしりながら呻いた。
「……ああくそっ、ダメだ! ジョン、とにかく俺の推理を聞いてくれ」
「わかった。何でも聴くよ」
「結論から言う。三ヶ月前、マーカム男爵がクリス・ソーンダーズを撃ち殺したのは不幸な事故じゃねぇ。明確な悪意のある殺人だった。そして事実に気づいた被害者の妹……マリア・ソーンダーズは、犯罪卿に報復を依頼した」
「いささか飛躍しすぎているように思えるが……そう考える根拠は何だ?」
「順を追って説明する。まずは三ヶ月前、クリス・ソーンダーズが死んだ件だ。彼は男爵の息子を探して、まさにハンティングが行われている最中の森に入った。そして、男爵に誤って射殺された。原因はクリスが目立たない地味な上着を着ていて、男爵が彼を鹿と見間違えたからだ、と新聞にはある」
実際、ハンティング中の事故は少なくない。
原則として、狩りの参加者や勢子たちはお互いに射線に入らないように移動することが徹底される。だからこそ、そこから外れて動くものがあれば、獲物が飛び出してきたに違いないと反射的に銃を構えてしまう。人間でなくとも、猟犬が誤射されることもある。
「事実はそうではなかったと?」
「暖炉から出てきた、あの紅い布だよ。カーテンだかテーブルクロスだかわからないが、あれは元は一枚の大きな布だった。クリスはおそらく別荘を飛び出す直前にあの布に目をつけたんだろう。人並みの分別があれば、猟銃を持った連中がうろついている森に目立たない格好で入っていくのがどれだけ危険かは分かっていたはずだ。だから、あの真っ赤な布をマントみたいに羽織って森へ入った」
「それが事実だとしたら……」
「ああ。いくら視界が悪かろうが、野生動物と見間違えるはずがない。男爵は故意にクリスを射殺した。そして、警察にその事を疑われないように紅い布だけを回収した」
私は、暖炉から見つかった紅い布にべったりと染みた黒い染みを思い出して身震いした。あれは気の毒なクリスの血だったのだ。
「じゃあ、布についた染みの一部が青く変色していたのは……?」
「それはこれから説明する」
シャーロックは落ち着かなさそうに椅子に座り直した。
「事件の後、男爵は密かにあの紅い布を燃やして処分しようとしたんだろう。だがそれをマリアが見つけて回収したんだ。彼女も、兄の死が不幸な事故だったと一度は納得したのかもしれない。だが、男爵が血のついた紅い布をコソコソと燃やそうとしていたのなら話は別だ。彼女は真実に気がついた。兄は故意に撃ち殺されたのだと」
シャーロックはそこで一度言葉を切って唇を舐めた。話が核心に迫ろうとしているのだ。
「だが、布を回収したところでマリアに打てる手はなかった。クリスの死は事故として処理された後だったし、布に残された黒い染みが血痕である証拠はない。『ワインをこぼしてしまった』とか、言い逃れはいくらでもできる。警察に訴え出たところで再調査すらしてもらえないだろう」
「……だから彼女は犯罪卿を頼った、と?」
「そうだ。マリアが犯罪卿とどうやって接触したかは分からねぇ。ともかくマリアは奴に会って、兄の死の真実を訴えた。だが犯罪卿にとっても、マリアの話が事実であるという確証はなかった。不幸な事故で家族を亡くした人間が、事実を受け入れられず妄想を膨らませているだけとも考えられる。そこで奴が思い出したのが、俺が作った血液試薬だ」
「じゃあ、昨夜ハドソンさんの前に現れたクリスは……」
「おそらくは犯罪卿の手下の一人だろう。ホープの事件の時、老婆に化けてた男か……今度は大胆にも俺たちの留守を狙って上がり込んできたわけだ」
背筋が寒くなった。それでは私たちは、これから出会うすべての人を疑わなければならないではないか。
「じゃ、じゃあ、犯罪卿は紅い布に残された染みが血痕であることを確かめるために、血液試薬を盗んだって言うのか?」
「ああ。お前の言いたいことは分かるぜジョン。あの染みが血痕だったからといって、男爵が殺意を持ってクリスを撃った証拠にはならない、だろ?」
「その通りだ。確かに状況からしていかにも怪しいが、たったそれだけで断定することはできない。あの日のハンティングの最中に仕留めた鹿の血だったかもしれないし、それこそ、クリスに応急処置をしようとして付着した血かもしれないだろ」
「そうだな……だから、犯罪卿は二つ目のチェックポイントを用意したんだ」
「チェックポイント?」
「犯罪卿はマリアに紅い布を返却し、彼女にこう指示した。『これを男爵の部屋の暖炉の前に落とせ』と。ジョン。もし自分の部屋の暖炉の前に薄汚い布がばら撒かれてたら、どうする?」
「もちろん、拾って片付けるが……」
「お前が貴族だったとしたら?」
「……そうだな、もし俺が貴族だったなら、自分で掃除をしたりしない。使用人を呼んで片付けてもらうだろう」
「そうだ。マーカム男爵も当然そうするはずだった。だが男爵にとってあの紅い布は、三ヶ月前に焼き捨てたはずの罪の証に他ならなかった。だからあえて人を呼ばず、自らの手で片付けようと暖炉の前に屈み込んだんだ。数百ヤード離れた鐘楼の上から、狙撃手に狙われているとも知らずに」
「それが、二つ目のチェックポイント……」
「ああ。俺の推理は以上だ」
シャーロックはもう一度大きくため息をついて、背もたれにだらりと背を預けた。
私はシャーロックの推理を頭の中で反芻した。
シャーロックは、「犯罪卿は義賊である」と言う。奴はホワイトチャペルの殺人鬼たちを皆殺しにし、冤罪事件を解決させるため暗躍していた。
そして今回は、身勝手に兄を殺された女性の復讐を代行したというのか?
紅い布に残された血痕と、それを隠蔽しようとした男爵の行動。この二つが揃った時点で、犯罪卿は男爵を『有罪』と見なし、即座に死刑を執行したというのか。
「……こんなやり方は、間違ってる」
私の口から言葉が漏れた。
「確かに、正攻法で男爵を裁くのは難しかったかもしれない。これは僕が当事者でないから言えるだけなのかもしれない。だけど……男爵にだって言い分はあったかもしれないだろう。もしかしたら、本物の鹿を撃とうとした瞬間にクリスが飛び出してきたのかもしれないじゃないか」
シャーロックは姿勢を直して、真剣な表情でまっすぐに私の目を見ている。
「あれは本当に不幸な事故で、だけど故意に撃ったのではないかと疑われることを恐れて、クリスが身に着けていた、目立つ紅い布を隠してしまったのかもしれない。男爵には小さな息子もいたんだ。もちろん、だからと言って許されることではないが……でも、本当のところは誰にも分からない。貴族だって人間だ。嘘や隠し事だってするだろう。犯罪卿は、その間違いを正す機会を奪った。それもまた、許されることじゃない」
「……お前もそう思うか、ジョン」
「ああ」と私は頷き返した。
「そうだよな。……お前も、そう思うよな」
シャーロックが深く頷いたとき、控えめなノックの音がした。ハドソンさんだ。
「シャーロック。電報よ」
「……ああ、ありがとう」
小さな紙片に書かれた文字をシャーロックが読んでいる間、ハドソンさんはどこか落ち着かない様子だった。彼女には何の落ち度もないが、物盗りを部屋に通してしまった負い目があるのだろう。
「もしかして、昨日の泥棒のこと……?」
「……ああ。あんなもん盗んだってどうにもならねぇのに、馬鹿なやつだよ。ま、じきにレストレードが捕まえるだろ」
ごく軽い調子で、シャーロックは答えた。
あからさまな嘘だったが、ハドソンさんはそれをころりと信じた。「そう? なら良かったわ」と表情を明るくして、ようやく肩の荷が下りたといった様子で胸を撫で下ろしている。
「レストレードに用が出来た。ちょっと出てくる」
シャーロックは電報を胸ポケットにしまうと、手にしていた古新聞を無造作に――だがハドソンさんがうっかり読んでしまわないように、書類の山に押し込んだ。
「さっき帰ってきたばかりなのに、また出ていくの? 忙しないわね」
「夕食までには戻るよ。いくぞ、ジョン」
私たちは二二一Bを後にして、再びベイカー街へと繰り出した。
*
シャーロックは辻馬車を捕まえるでもなく、すたすたと通りを歩いていった。二二一Bを十分離れた辺りで、私は思い切ってその背中に声をかけた。
「シャーロック……」
「電報はレストレードからだ。鐘楼に駆けつけた時には狙撃手の姿は無かったと。だが、狙撃地点と思われる場所に真新しい煙草の吸い殻が捨ててあったそうだ。あの場に何者かがいたのは間違いない」
シャーロックは電報の紙切れをひらひらと振ってみせた。
「お前なら、その煙草の灰から犯人を特定できるんじゃないか?」
「どうだかな。一応後でヤードに行って見せてもらうが、どこの店でも取り扱ってる安煙草だそうだ」
「望み薄か……。だが、犯罪卿は結局何がしたかったんだろう。奴なら、誰にも見つからない方法で男爵を殺すことだってできたはずだろう?」
前を歩くシャーロックは、苦い顔で頷いた。
「……犯罪卿は二二一Bに手下を送り込んで、わざわざ『クリス・ソーンダーズ』と名乗らせた。ハドソンさんの話を覚えてるか? 奴は『ホームズさんにお伝えしたい事件がありまして』と言ったそうだ。おかしいだろ? 普通の依頼人なら『解決してほしい事件が』とか『解いてほしい謎が』とか言うはずだ」「確かに……。つまり、犯罪卿の目的は、この事件を俺たちに伝えることだったのか?」
「奴は、俺たちに正義を問うている。法で裁けない悪に直面した時どうするか、を」
「正義……」
言われてみれば、私たちは今、三ヶ月前のマリアとよく似た状況にあるのかもしれない。
目の前に罪を犯した者が確かにいるのに、手元にあるのは状況証拠ばかりで、相手を告発するには材料が足りない。
マリアには確かに男爵を殺す動機があるが、狙撃犯を手引きした確たる証拠は今のところ無い。昨夜二二一Bに現れた偽クリスだって、事件とは無関係なイタズラであった可能性は否定しきれない。
そもそも、犯罪卿が実在するかどうかさえ疑わしいのだ。犯罪界の王が裏で糸を引いているというシャーロックの推理さえ、事情を知らぬ者が聞けば一笑に付されるだけだろう。
「奴は……犯罪卿は、俺たちを翻弄して嘲笑っているということか? いくら犯罪卿のやり方が間違っていると主張したところでできる事なんてないだろう、と」
「……証拠を探そう。結局、俺たちにできるのはそれしかねぇ」
そう言ったシャーロックの目には、強い決意が籠もっているように感じられた。普段、謎を追う彼の目は常に未知への探求心に輝いているはずなのに。
「狙撃手が残していった痕跡が他にもあるかもしれねぇし、クリスに化けた男の足取りが掴めるかもしれねぇ。一番望みがあるのは、マリアがボロを出すことだ。もっとも、犯罪卿もそれを見越して余計な情報は与えていないだろうが……。貴族が白昼堂々狙撃されたとなりゃ、スコットランド・ヤードも黙っちゃいない。証拠が出るまで地面を這いつくばってでも調べ尽くして、必ず奴らの尻尾を掴む。それが俺たちの回答だ。そうだろ?」
目の前に光明が差した気がした。
状況が好転したわけではないのだから、もちろんそれは錯覚だ。だがシャーロックには、常に光の射す道を選び取る才覚と勇気がある。少なくとも私はそう考えていた。
「そうだな、俺ももっと頑張るよ」
「あ? ジョンは別に……」
「お前の相棒としての仕事ももちろんだが、作家コナン・ドイルとして。お前の活躍をたくさん小説にして、もっともっと多くの人に読んでもらう。マリアさんのように追い詰められてしまった人が、犯罪卿なんかじゃなく、名探偵を頼ってみようと思える世の中になるように」
シャーロックは豆鉄砲をくらった鳩のように、目を丸くして私の方を見返した。だがすぐに、片頬を上げて皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「デカい口叩きやがる。来週の締切、伸ばしてもらったばっかのくせに」
「う。タイプライターでも買ってみようかな……」
「やめとけ。持て余すだけだ」
普段と変わらない軽口を叩き合いながら、私たちは歩いていく。
事件の解決が常に劇的で華麗であるとは限らない。長い戦いになりそうだった。
***
「今日も陸軍省にスコットランド・ヤードの刑事が尋ねてきたそうだ。狙撃手のリストを渡せと」
アルバートがそう報告したのは、マーカム男爵を葬ってから一ヶ月が経過したある日、夕食を終えて、居間で談話を楽しんでいる時のことだった。
ウィリアムは目を通していた新聞から顔を上げる。
「男爵殺しの容疑者探しですか?」
「ああ。軍属の狙撃手をしらみ潰しに当たるのは悪くない手だが……まったく、ご苦労なことだ」
アルバートの口ぶりからは余裕が感じられた。
例え陸軍省がヤードに狙撃手リストを渡したとしても、真犯人へたどり着くことは難しいだろう。何しろ、その名はもはや戦死者リストにしか載っていないのだから。
「フレッドの方も、問題なく?」
「はい。ベイカー街の人の流れは、今や彼が誰よりもよく知悉していますから。二二一Bの窓から抜け出した彼を目撃した者は一人もいませんよ」
「お前の計画はいつも完璧だ」
「優秀な彼らが、手足となって働いてくれるお陰です」
謙遜しながらも、ウィリアムは心持ち頬を染めた。最初のクライアントたるこの人からの称賛は、いつだって心地良い。
「だが、ホームズはまだ諦めていないようだね」
「ええ。ですがそれも想定通りです」
シャーロック・ホームズは、いまだ警察と協力してこの事件の捜査に当たっている。
「……マリア・ソーンダーズに捜査の手が及ぶのも、時間の問題でしょう」
「ウィル」とアルバートが労るように名を呼んだ。
「その点については彼女自身が望んだことだろう。彼女が法廷に引き出されることになれば、クリスの死にまつわる疑惑が必ず争点となるからね」
「それは、そうなのですが……」
「お前のせいではないよ」
遮るアルバートの声はこの上なく優しい。
この人だけが、僕の罪悪感を知っている。
その事実に心が安らぐのと同時に、それを利用して優しい言葉を引き出すような振る舞いをしてしまったことへの自己嫌悪が湧いた。
ウィリアムは新聞をテーブルに戻し、立ち上がった。
「もう休みますね。昨夜も夜更かししてルイスに心配をかけてしまいましたから」
アルバートはまだ何か言いたげだったが、すぐに物憂げな表情を引っ込めて「ああ、お休み」と微笑んでくれた。
部屋に戻って一人になると、ウィリアムはデスクの引き出しを開けた。
中に、液体の入った小瓶がある。フレッドに指示して二二一Bから盗み出させた、血液試薬の小瓶だ。
ウィリアムは小瓶を手の中で転がしたり、光に透かして眺めたりしながら、しばらくぼんやりと物思いに耽っていた。
科学薬品に関して彼ほどの知識を持ってはいないから、これがどんな成分でできているのかは分からない。だがこの小瓶の中の液体を振りかけると、真っ赤な血はたちまち青く変色し、くっきりと浮かび上がった。
その青を目にした時、ウィリアムはそばにいる仲間の存在も忘れてしまうほど高揚した。
もしこの液体を、自らの指先に振りかけたらどうなるだろう。
両手が真っ青に染まる光景を夢想して、ウィリアムは知らず知らずのうちに恍惚のため息をついた。
何度拭い落としても消えない血の跡。彼の作った薬品が、この罪を白日のもとに晒してくれる。そうなったら、どんなにいいだろう。
「Catch me if you can……」
呟いたのは、いつかの列車で彼に向かって投げかけた言葉だった。
早く、この罪を証明してみせて。
ひんやりと冷たい小瓶の中の、無色透明な液体を、ウィリアムは飽きることなくいつまでも眺めていた。
初出:Pixiv 2025.02.16
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犯罪卿が暗躍して221B組が事件解決に奔走するお話。
「……それが、証拠品なのですね」
告解室の格子の向こうから、低い声が響く。半ばまで溶けた蝋燭が室内を照らしているが、格子の奥に座る相手の顔までは見えなかった。
女は「はい」と震える声で答えた。
「あの事故……いいえ、『事件』のあった夜に、旦那様が書斎の暖炉で燃やそうとしていたのです。ゴミの処理など、普段であれば私たち使用人にさせるはずなのに」
格子の向こうから白い手が伸びてきて、女が差し出した包みを開いた。若い男の手だった。あまりじろじろと見てはいけない気がして、女は目を伏せる。
包みの中には、半分焼け焦げた、緋色の布切れが入っていた。何か問われるより先に、女の口が勝手に動いて補足する。
「テーブルクロスです。旦那様はこっそりと燃やそうとしたのでしょうけど、ひどく煙が出たようです。悪態をつきながら書斎から出てきました。私は何かあるのだと確信して、書斎に忍び込み……」
「そして、炎の中から苦心してこれを取り出した?」
「はい」
「その事を、あなたの主人は勘づいていますか?」「いいえ。代わりに別のテーブルクロスを燃やしておいたので、気づいていないはずです」
「……いいでしょう」
長い指先が音もなく動いて、包みを元の通りに戻すと格子の向こうに引き込んだ。
受け取ってもらえた。信じてもらえたのだ。
女は思わず椅子から腰を浮かせた。
「では……!」
「貴女のお話の裏を取る必要があります。これが、真に罪の証であるかどうかを。結果は、追ってご連絡します」
蝋燭の炎が僅かに揺れた。格子の向こうの男が席を立ったらしい。
立ち去る足音は聞こえなかった。けれど男の気配はふっつりと消えてしまった。深夜の廃教会に広がる静寂が、今になって押し寄せてくるようだった。
女は身震いしながらその場を後にした。たった今まで自分が誰かと話していた事に、急激に自信が持てなくなっていた。それくらい、格子の向こうの相手には現実味が無かった。
あの人は本当に犯罪卿だったのだろうか?
私の願いを聞き入れて、兄の無念を晴らしてくれるのだろうか?
確信は少しも持てなかった。だが、あの事故の後、彼女の話にまともに耳を傾けてくれた者はいなかった。警察は始めから貴族の味方だったし、他の使用人たちも、職を失うことを恐れて口をつぐんだ。
あの時のことを思い出すと、彼女の目に自然と悔し涙が滲んだ。
もう誰だっていい。
あの男に天罰を下してくれるなら。
*
ある日の夜、二二一Bの大家ミス・ハドソンは夕食の後片付けをしていた。
時刻はすでに八時を過ぎていたが、シャーロック・ホームズと私――ジョン・H・ワトソンが、予定の時刻を過ぎても戻らず、落ち着かない気持ちだったという。三人前のスープを煮込んだ鍋に蓋をしながらため息をついた時、呼び鈴が鳴った。
彼女は急いで玄関へ向かった。
「もう! 遅くなるなら連絡してって、いつも……」
言葉は尻すぼみになって地面に落ちた。
玄関のドアを開けた先に立っていたのは、見知らぬ青年だったのだ。礼儀正しく帽子を取った青年は、困惑の表情を浮かべている。
ミス・ハドソンは慌てて取り繕った。
「あら! ごめんなさい。てっきりシャーロックたちが帰ってきたのかと……」
「え、シャーロック・ホームズさんはご在宅ではないのですか?」
「ええ。七時の列車でロンドンに戻ると聞いていたのですけど」
そう答えてから、ところでこの人は誰なのかしら、とハドソン夫人は気になった。視線に気づいた青年は、背筋を伸ばしてお辞儀をした。
「私はクリス・ソーンダーズと申します。マーカム男爵家の使用人で、シャーロック・ホームズさんにお伝えしたい事件がありましてお伺いした次第です。……よろしければ、お戻りになるまで、中で待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
ハドソン夫人は、この青年の言葉を疑わなかった。
ホームズ不在の二二一Bで依頼人を待たせることはこれまでも度々あったし、何より目の前の青年の物腰は丁寧で、きちんと教育の行き届いた使用人に見えたからだ。
男爵の使いだと言ったから、このまま追い返せば主人に叱られてしまうだろう。どうせ、シャーロックたちはもうじき戻ってくるはずなのだ。中に通して、待たせてあげればいい。
そうしたごく当たり前の親切心から、ハドソン夫人は青年を二二一Bに招き入れた。
「散らかっていますけどお気になさらず。お茶を入れてきますから、そこに掛けて待っててくださいな」
「いえ、どうかお構いなく」
青年ははにかみながら椅子に腰を下ろした。
ハドソン夫人はにこりと微笑み返して、一階のキッチンへ下りていった。お湯が沸くのを待つ間、何かお菓子でも出してあげようかと戸棚を探っていると、また呼び鈴が鳴った。
今度こそ帰ってきたかと玄関へ急いだが、訪ねてきたのは郵便配達人だった。
「ミス・ハドソン。電報です」「どうもありがとう。遅くまでご苦労様です」
受け取った紙片に目を通して、ハドソン夫人は「あらやだ」と声を上げた。
それは、例によってシャーロックとともに事件の調査に出かけていた私からの電報だった。事件を無事解決させたところ依頼人がいたく喜び、夕食会へ招待されることになったため今夜は戻らない……といった内容だった。
事件解決の報にハドソン夫人は安堵したが、同時に二階で待たせているソーンダーズ青年のことが気にかかった。仕方がないので今日のところは帰ってもらって、明日以降に出直してもらうしかないだろう。
「ソーンダーズさん。今電報が届きまして、すみませんが今夜は……あら?」
ハドソン夫人はドアの前で立ち尽くした。クリス・ソーンダーズの姿がどこにもなかったからだ。
家主不在のリビングルームを、石油ランプの明かりが侘しげに照らしている。ソファの上にも、本棚の前にも、隣の寝室にさえ、ソーンダーズはいなかった。 夜風がひゅうと吹き込んできて、ハドソン夫人は窓が開け放たれていることに気がついた。
*
私たちが帰宅したのは、その翌日の昼近くになってからだった。
キングスクロス駅で待ち構えていたベイカー街非正規隊のウィギンズ少年から事の次第を聞かされ、私とホームズは辻馬車を飛ばして二二一Bへ帰り着いた。
ハドソン夫人は青い顔で私たちを出迎えた。
「二人ともごめんなさい、私……」
「馬車の中でウィギンズくんから聞きましたよ。怖かったでしょう。ハドソンさんが無事でよかったですよ」
玄関口で話していると、奥からレストレード警部が顔を出した。
「お、帰ってきたか」
「お前も来てたのか、レストレード」「私が来てもらったの。非番なのにごめんなさい」
「いえいえ、お安い御用ですよ」
「ちゃっかり朝飯まで食ってるんだから、タダ働きってわけでもねぇだろ」
レストレード警部のシャツの襟についたトーストのくずを見やりながら、シャーロックが呟いた
「ゴホン。……部下たちにざっと周囲で聞き込みをさせたが、不審な人物は目撃されていない。ともかく、盗まれているものでも無いか、上で確認してくれ。調書を取るのはそれからだ」
私たちは二階へ上がった。
ハドソンさんが目を離した隙に依頼人が忽然と姿を消したというが、ぱっと見た感じ、室内に荒らされた形跡はない。もちろん、普段からシャーロックが散らかし放題にしているから、見た目だけでは何とも言い難かったが。
私は手早く自分の持ち物を調べた。だが現金や懐中時計といった貴重品はおろか、書きかけの新作原稿に至っても手を付けられた痕跡はない。
「シャーロック。僕の方は大丈夫そうだ。そっちはどうだい?」
返事はない。シャーロックはキャビネットの前で固まっていた。
「どうした? やっぱり何か盗まれてたのか?」
「ジョン、あの本はどこにある?」
「え? あの本?」
「お前が書いた小説だよ! 緋色の……」
私が自分の書棚から『緋色の研究』を取ってくると、シャーロックはひったくるように奪ってページをめくり始めた。
「やっぱりだ! お前、書いたんだな!」
シャーロックは私の鼻先に開いた本を突きつけた。二人の男が握手を交わしている挿絵がある。私とホームズが初めて出会うシーンだった。
「そ、そりゃあ書くさ。あれほど印象深い出会いもなかったから……」
「だからって血液試薬のことまで書く必要なかったろ!」
「試薬?」
「一度血が付着すれば、それが何ヶ月前のものであろうと血の痕を浮かび上がらせる試薬だよ。くそっ、そのクリス・ソーンダーズって野郎の目的は血液試薬だったんだ」
シャーロックはがしがしと髪をかきむしった。
キャビネットには無数の小瓶がひしめいていたが、確かによく見ると一本分の空きがある。
私とシャーロックが初めて出会ったあの日、彼は牛の血を使った実験をしていた。あの時開発された薬が盗まれたとシャーロックは言う。
だが、何のために?
私とシャーロックは部屋中をもう一度探し直してみたが、血液試薬の瓶はどこにも見当たらなかった。
私たちが一階に下りて事情を説明すると、ハドソン夫人はますます困惑した様子だった。
「えっと、血の痕を調べる薬……が盗まれたの? どうして?」
「それは分かりません。でも、他になくなった物も無さそうで……」
「本人に聞きに行けばいい」と警部。
「その男は、マーカム男爵家のクリス・ソーンダーズと名乗ったのですよね?」
「ええ……」
「マーカム男爵の屋敷はメイフェア通りにある。警察官の俺が同行すれば、話くらい聞かせてもらえるだろう。それで構わないよな、ホームズ? ……ホームズ?」
シャーロックは両手の指の先を突き合わせて、考えに耽っていた。私たち三人の視線が集まっていることに気がついて、ようやく顔を上げる。
「……ん? ああ、それでいい。行こう」
シャーロックはさっさと歩き始めた。
「あ、待てよシャーロック! ……すみません、ハドソンさん。行ってきます」
「え、ええ。行ってらっしゃい。気をつけてね」
「部下に見回りをさせていますので、何かあればすぐに呼んでください」
私と警部はばたばたと慌ただしくシャーロックの後を追った。
*
「犯罪卿だ。奴の仕業に違いない」
ベイカー街で辻馬車を捕まえて乗り込むなり、シャーロックは確信を込めた声でそう断言した。
私とレストレード警部は顔を見合わせる。警部はあからさまに「またそれか」と言いたげな表情を浮かべていた。
「シャーロック。いくらなんでも判断を下すのが早すぎるんじゃないか?」
「いいや。この周到さは間違いなく奴だ」
「周到さ?」
私が声を上げると、シャーロックは呆れたようにため息をついた。
「気づかなかったのか? 俺たちがこの馬車に乗るのと入れ違いに、二二一Bの前に工具を抱えた修理人が来てただろ。昨日の夜、二二一B前のガス燈だけが壊れてたんだ。そうだろ、レストレード?」
「む……確かに」
「二二一B前のガス燈だけが何故か壊れていて、辺りはいつも以上に薄暗かったはずだ。そしてまだ人通りの多い夜八時に、窓から逃げ出したはずのソーンダーズの姿を誰も見ていない。偶然のはずがないだろ?」
「だが……それだけで犯罪卿の仕業だとは断定できないんじゃないか? 例えば、ソーンダーズは何か重大な事件の犯人で、シャーロックが発明した血液試薬が捜査に使われると有罪判決を下されてしまうような立場にあったから、自分の罪を隠すために盗みを……」
「それなら、製法ごと盗んだ上で俺を殺さなきゃ意味ないだろ。試薬の瓶ひとつ盗んで何になるって言うんだ」
「う。まぁそうなんだが……だとしたら、何故奴は血液試薬を盗んだんだ?」
「試薬そのものに用があったとしか考えられないが、現時点では断定できない」
「だよな。男爵家で本人に直接話を聞けるといいんだが……」
「それもだ」とシャーロック。
「奴は何故、わざわざマーカム男爵家の使用人だと名乗った? ハドソンさんを騙したかったなら適当な会社や団体をでっち上げるだけでよかったはずだ。あえて実在する貴族の名を使うなんて『ここに訪ねてこい』と言っているようなものだ」「まさか、俺たちは今まさに誘い出されているのか?」
「どうだ? これでもまだ、裏で糸を引いている奴はいないと思うか?」
「…………」
私と警部はもう一度顔を見合わせた。
御者が手綱を引き、私たちの乗る馬車はメイフェア通りのマーカム男爵家に到着した。
*
呼び鈴を鳴らすと、すぐに生真面目そうな執事が出てきて応対した。
「このお宅にクリス・ソーンダーズさんはいらっしゃいますか?」
レストレード警部が身分証を提示しながらそう尋ねると、執事は怪訝そうに眉根を寄せた。
「く、クリスですか? ここには……おりません」
「クリスさんのことはご存じのようですね。彼は今どこに?」
「あの、どのようなご用件でしょう?」
「彼が昨夜、ここにいる二人の家で盗みを働いた疑いがあります。その件でお話を伺いに」
「盗みですって? クリスが、昨夜?」
「彼はどこに?」
執事の受け答えが要領を得ないので、レストレード警部が口調を強くした。執事はしどろもどろになりながら答える。
「彼は……死にました。三ヶ月も前に」
「なんだって!?」
今度は私たちが困惑する番だった。
クリス・ソーンダーズがすでに死んでいたのなら、昨夜二二一Bを訪ねてきたのは一体誰だったのだ?
唯一、シャーロックだけは驚いた様子も見せずに険しい顔で考え込んでいる。
「あの。ですから、その件は何かの間違いかと思われますので……」
執事がやんわりと私たちを帰らせようとした時、どこかで何かが割れる音がした。見計らったようなタイミングだった。
「何だ?」
ぱたぱたと室内を駆ける足音がした。
使用人の誰かが皿でも割ったのかと思われたが、続いて上がった甲高い悲鳴に、そうではないことを悟った。
すかさず、シャーロックが執事の脇をすり抜けて屋敷の中へ飛び込んだ。尋常でない事態が起こっている。私たちもその後に続いた。
広々とした玄関ホールを抜けて、シャーロックが階段を一段飛ばしで駆け上がる。二階の廊下に、年老いたメイドが腰を抜かして座り込んでいた。彼女はわなわなと震えながら、開いたドアの向こうを指さしている。
「あ、だ、旦那様が……!」
部屋へ駆け込んで私たちが見たものは、暖炉に頭を突っ込むようにして倒れ込んだ男の姿だった。
ゆったりとしたスモーキング・ガウンを羽織り、床に投げ出された左手には豪奢な指輪が輝いている。間違いなく、彼がこの屋敷の主であるマーカム男爵だろう。
暖炉に火は入っていないものの、煤と灰に塗れた男爵はぴくりとも動かない。その頭部には大きな穴が空いていて、鮮血がとめどなく溢れていた。
「ジョン!」
シャーロックが叫んで、私の腕を引いた。私は無意識のうちに、倒れている男爵のもとに駆け寄ろうとしていたのだ。
何故止めるのかと怪訝に思うより先に、シャーロックは部屋に入ろうとしていたレストレード警部に向かって怒鳴った。
「死体に近づくな! 狙撃だ!」
廊下に座り込んでいたメイドがもう一度悲鳴を上げた。
倒れた男爵から部屋の反対側へと視線を移すと、砕け散った窓ガラスが床に散乱していた。さらに窓の向こうには、遠くに教会の鐘楼と思しき建物が見える。
暖炉と窓と鐘楼。この三つが頭の中で一本の直線によって結ばれ、私は慌てて後ずさった。
暖炉の前で倒れ伏した男爵は明らかに事切れている。彼はロンドン市内からそう遠くないこの屋敷で、白昼堂々狙撃されたというのか?
「どうしたの? 何かあったの?」
不意に、場違いな甲高い声が響いた。
子供が一人、階段を上がってくるところだった。まだ十歳にもならないような可愛らしい男の子だ。おそらくは男爵の息子なのだろう。
腰を抜かしていた老メイドが我を取り戻し、恐ろしい死体が目に入らぬよう少年をその場に押し留めた。
「あの鐘楼に狙撃手がいる。レストレード、ヤードに連絡して応援を……」
「いや、この距離なら直接行った方が早い。執事さん、馬か自転車を貸してください。あと通報も頼みます!」
「は、はいっ」
レストレード警部は猛然とした勢いで屋敷を飛び出していった。非番の日に我々に付き合ってくれただけの彼は拳銃も所持していないはずだったが、止める暇もなかった。
やがて異常事態を察した使用人たちが、不安げな顔をしながら集まってきた。シャーロックは執事に指示をして、警察が到着するまで誰も屋敷から出ないよう厳命した。
動転した執事は私たちが警察関係者ではないことをすっかり忘れてしまっているようだった。おかげで、シャーロックは大手を振って現場検証を始めることができた。
彼は壁伝いに窓辺へ近づくと、さっとカーテンを閉めた。
「そ、それだけで大丈夫なのかシャーロック? せめて鉄板でも立てないと……」
この距離で、それも窓ガラス越しの狙撃を成功させたのだ。相手が狙撃手としてかなりの手練れであることは私でも分かった。
「見えない的を狙うほど馬鹿じゃないだろ。それに、まだあの鐘楼の上でモタモタしてくれてるならレストレードがふん縛ってくれる。願ったり叶ったりだ」
シャーロックは平気な顔で死体を検分し始めた。カーテン一枚が盾とは何とも心許ないが、私もおっかなびっくり、彼に続く。
男爵の死体は、暖炉の中に突っ伏すように倒れていた。ここしばらくは暖かい日が続いていたから、暖炉に火が入っていなかったのは不幸中の幸いだ。
遺体にはまだ温かさが残っていた。傷口から溢れた血は乾いてすらいない。後頭部から飛び込んだ弾丸は、男爵の頭の中をめちゃくちゃに破壊したらしかった。
シャーロックは、男爵の足の位置と暖炉との距離を確かめた。
「もしこの位置に立っていて狙撃されたなら、倒れた拍子にマントルピースに頭をぶつけていただろう。だが頭部には銃創以外の傷跡はない」
「つまり?」
「男爵は撃たれる直前、暖炉の前に屈み込んでたってことだ。寒くて暖炉に薪を焚べようとしたわけじゃなさそうだが……」
死体のそばに屈み込んだシャーロックは、すぐに奇妙なものを見つけた。
「ジョン、ちょっとそっちを持って、こいつの体を持ち上げてくれ」
「えっ、冗談だろ」
「いいから、早くしろ」
シャーロックの指図で、私は恐る恐る男爵の肩を掴んで、床から少しだけ浮かせた。その隙間に、シャーロックが素早く手を突っ込む。
「何だこれは?」
シャーロックが引っ張り出したのは、紅い布だった。男爵の身体の下敷きになっていたらしい。
焼け焦げて大きな穴がそこら中に空いているが、案外しっかりとした生地だったようで、床に広げてみてもばらばらにはならなかった。
元は大きな布の一部だったらしい。布の中央の辺りには、いくつかの小さな穴と黒っぽい染みが広がっている。
「何だろう。焼けているということは、男爵はこれを暖炉で燃やしていたのか?」
「いや。暖炉にはしばらく使われた形跡がない。むしろこれから燃やそうとして、暖炉の前に屈み込んだんじゃないか?」
「だが焦げ跡がついてるぞ。一度燃やそうとして、やっぱり止めて、もう一度燃やそうとしたって言うのか?」
「…………」
シャーロックは答えなかった。彼の視線は、焼け焦げた緋色の布に釘付けになっている。
その時私はようやく、シャーロックが指先でなぞっている箇所の異変に気がついた。
「何だろう? この部分だけ、染みが青っぽく変色しているな」
「ああ……」
生返事をして数秒黙り込んだ後、シャーロックはぐるりと廊下の方を振り返った。先ほどから、使用人たちが怯えた様子で室内を伺っていたのだ。
「最後にこの部屋に入ったのは誰だ? もちろん、男爵本人を抜きにして」
問われて、使用人たちにかすかな動揺が走る。だが即座に、若いメイドが手を挙げた。
「私です。朝食の後に掃除をしました」
「その時、この布はあったか?」
「いいえ、ありませんでした。暖炉の中までは見なかったので断言はできませんが」
「カーテンは?」
「私が開けました」
「部屋を出る時も、閉めなかったか?」
「はい。今日はお天気も良かったので」
シャーロックから投げられる問いに、メイドは淀みなく回答した。
その淀みのなさに、私は少し違和感を覚える。
たいていの人間は、殺人事件の現場で探偵に質問を投げかけられると多少なりとも動揺するはずだ。記憶違いが無かっただろうか、まずい答え方をして自分が疑われたりしないだろうか、と不安になるのだ。
しかし目の前の若い娘は、挑みかかるような目つきでシャーロックの顔をまっすぐに見据えている。
私が気づいた違和感に、シャーロックが気づかないはずがない。彼は何か確信を得た鋭い目つきで、彼女に向かって問いかけた。
「……あんたの名前は?」
「マリアです。マリア・ソーンダーズ」
「ソーンダーズだって?」
私は驚きの声を上げた。
「あなたは、クリス・ソーンダーズさんの?」
「ええ、妹です。それが何か?」
彼女は堂々とした態度で頷いた。勝利宣言のような、どこか攻撃的な口調だった。
兄妹で同じ屋敷に仕えていることなど、別段珍しくもない。だが、三ヶ月も前に死んだはずの兄の方が昨晩二二一Bに現れたことと、目の前の彼女が無関係だとは思えなかった。
戸惑っているうちに、階下から人の話し声が聞こえてきた。スコットランド・ヤードから応援の警察官たちが到着したらしい。
シャーロックは深いため息をつきながら立ち上がった。
「戻るぞ、ジョン。あとはヤードに任せよう」
「シャーロック……だが、」
「何が起こったかは明白だ。ここに解くべき謎はない」
私たちは駆けつけた警察官にひと通りの説明を済ませてから、屋敷を去った。その間あの若いメイドは一言も口を挟まなかったが、頬を紅潮させ、どこか興奮した様子だった。
馬車の中で、シャーロックは終始無言であった。
*
二二一Bに帰り着くなり、シャーロックは古新聞の山を漁り始めた。何を探しているのかと私が問いかけるより早く、彼は目当ての記事を見つけ出したようだった。
「……あった。日付もちょうど三ヶ月前だ。読んでみろジョン」
それだけ言われると、私にも何となく予測がついた。クリス・ソーンダーズが死亡した事故を報じた記事だった。
「ハンティングの最中に、か……」
三ヶ月前、マーカム男爵領の森で鹿撃ちが催された。幾人かのゲストも招かれ狩りに参加したが、使用人のクリス・ソーンダーズは随伴せず、同僚たちとともに別荘に残って仕事をこなしていた。
だが、正午近くなった頃、九歳になる男爵の一人息子の姿が見えないと騒ぎになった。彼は前夜、夫人や他の女性たちとともに別荘で留守番をすることを不満がっていたという。
もしや、父親たちの後を追ってこっそりと森に行ったのではないか。
最悪の事態が頭を過ったクリス・ソーンダーズは大慌てで別荘を飛び出し、少年を探しに行った。
「『そうして森に入ったクリスは、誤って猟銃で撃たれ、即死した。事故発生時、彼は地味な焦げ茶色のジャケットを着用しており、男爵は視界の悪い木立の中で彼を鹿と誤認して発砲してしまった』……ああ、『男爵の息子は屋根裏部屋に隠れて遊んでいただけだった』とある。なんて不運な……」
「『不運』? 不運なもんか。そんな言葉で片付けていい話じゃない」
シャーロックが低い声で唸った。
私は昨晩から今日にかけて起こったことをもう一度振り返ってみた。
三ヶ月前に死んだはずの男が二二一Bに現れ、血液試薬の小瓶を盗んで消えた。彼を追って訪れた男爵家で、男爵本人が何者かにより狙撃され、死亡した。暖炉からは焼け焦げた紅い布が発見され、その朝現場を掃除したメイドは、死亡した男の妹だった。
「シャーロック。お前には何が見えている?」
「…………」
シャーロックは長い間黙り込んでいた。
私を部屋から追い出さないということは、話す気が無くはないようだ。私は彼の向かいに腰掛けて、辛抱強く待った。
やがて、シャーロックは髪を掻きむしりながら呻いた。
「……ああくそっ、ダメだ! ジョン、とにかく俺の推理を聞いてくれ」
「わかった。何でも聴くよ」
「結論から言う。三ヶ月前、マーカム男爵がクリス・ソーンダーズを撃ち殺したのは不幸な事故じゃねぇ。明確な悪意のある殺人だった。そして事実に気づいた被害者の妹……マリア・ソーンダーズは、犯罪卿に報復を依頼した」
「いささか飛躍しすぎているように思えるが……そう考える根拠は何だ?」
「順を追って説明する。まずは三ヶ月前、クリス・ソーンダーズが死んだ件だ。彼は男爵の息子を探して、まさにハンティングが行われている最中の森に入った。そして、男爵に誤って射殺された。原因はクリスが目立たない地味な上着を着ていて、男爵が彼を鹿と見間違えたからだ、と新聞にはある」
実際、ハンティング中の事故は少なくない。
原則として、狩りの参加者や勢子たちはお互いに射線に入らないように移動することが徹底される。だからこそ、そこから外れて動くものがあれば、獲物が飛び出してきたに違いないと反射的に銃を構えてしまう。人間でなくとも、猟犬が誤射されることもある。
「事実はそうではなかったと?」
「暖炉から出てきた、あの紅い布だよ。カーテンだかテーブルクロスだかわからないが、あれは元は一枚の大きな布だった。クリスはおそらく別荘を飛び出す直前にあの布に目をつけたんだろう。人並みの分別があれば、猟銃を持った連中がうろついている森に目立たない格好で入っていくのがどれだけ危険かは分かっていたはずだ。だから、あの真っ赤な布をマントみたいに羽織って森へ入った」
「それが事実だとしたら……」
「ああ。いくら視界が悪かろうが、野生動物と見間違えるはずがない。男爵は故意にクリスを射殺した。そして、警察にその事を疑われないように紅い布だけを回収した」
私は、暖炉から見つかった紅い布にべったりと染みた黒い染みを思い出して身震いした。あれは気の毒なクリスの血だったのだ。
「じゃあ、布についた染みの一部が青く変色していたのは……?」
「それはこれから説明する」
シャーロックは落ち着かなさそうに椅子に座り直した。
「事件の後、男爵は密かにあの紅い布を燃やして処分しようとしたんだろう。だがそれをマリアが見つけて回収したんだ。彼女も、兄の死が不幸な事故だったと一度は納得したのかもしれない。だが、男爵が血のついた紅い布をコソコソと燃やそうとしていたのなら話は別だ。彼女は真実に気がついた。兄は故意に撃ち殺されたのだと」
シャーロックはそこで一度言葉を切って唇を舐めた。話が核心に迫ろうとしているのだ。
「だが、布を回収したところでマリアに打てる手はなかった。クリスの死は事故として処理された後だったし、布に残された黒い染みが血痕である証拠はない。『ワインをこぼしてしまった』とか、言い逃れはいくらでもできる。警察に訴え出たところで再調査すらしてもらえないだろう」
「……だから彼女は犯罪卿を頼った、と?」
「そうだ。マリアが犯罪卿とどうやって接触したかは分からねぇ。ともかくマリアは奴に会って、兄の死の真実を訴えた。だが犯罪卿にとっても、マリアの話が事実であるという確証はなかった。不幸な事故で家族を亡くした人間が、事実を受け入れられず妄想を膨らませているだけとも考えられる。そこで奴が思い出したのが、俺が作った血液試薬だ」
「じゃあ、昨夜ハドソンさんの前に現れたクリスは……」
「おそらくは犯罪卿の手下の一人だろう。ホープの事件の時、老婆に化けてた男か……今度は大胆にも俺たちの留守を狙って上がり込んできたわけだ」
背筋が寒くなった。それでは私たちは、これから出会うすべての人を疑わなければならないではないか。
「じゃ、じゃあ、犯罪卿は紅い布に残された染みが血痕であることを確かめるために、血液試薬を盗んだって言うのか?」
「ああ。お前の言いたいことは分かるぜジョン。あの染みが血痕だったからといって、男爵が殺意を持ってクリスを撃った証拠にはならない、だろ?」
「その通りだ。確かに状況からしていかにも怪しいが、たったそれだけで断定することはできない。あの日のハンティングの最中に仕留めた鹿の血だったかもしれないし、それこそ、クリスに応急処置をしようとして付着した血かもしれないだろ」
「そうだな……だから、犯罪卿は二つ目のチェックポイントを用意したんだ」
「チェックポイント?」
「犯罪卿はマリアに紅い布を返却し、彼女にこう指示した。『これを男爵の部屋の暖炉の前に落とせ』と。ジョン。もし自分の部屋の暖炉の前に薄汚い布がばら撒かれてたら、どうする?」
「もちろん、拾って片付けるが……」
「お前が貴族だったとしたら?」
「……そうだな、もし俺が貴族だったなら、自分で掃除をしたりしない。使用人を呼んで片付けてもらうだろう」
「そうだ。マーカム男爵も当然そうするはずだった。だが男爵にとってあの紅い布は、三ヶ月前に焼き捨てたはずの罪の証に他ならなかった。だからあえて人を呼ばず、自らの手で片付けようと暖炉の前に屈み込んだんだ。数百ヤード離れた鐘楼の上から、狙撃手に狙われているとも知らずに」
「それが、二つ目のチェックポイント……」
「ああ。俺の推理は以上だ」
シャーロックはもう一度大きくため息をついて、背もたれにだらりと背を預けた。
私はシャーロックの推理を頭の中で反芻した。
シャーロックは、「犯罪卿は義賊である」と言う。奴はホワイトチャペルの殺人鬼たちを皆殺しにし、冤罪事件を解決させるため暗躍していた。
そして今回は、身勝手に兄を殺された女性の復讐を代行したというのか?
紅い布に残された血痕と、それを隠蔽しようとした男爵の行動。この二つが揃った時点で、犯罪卿は男爵を『有罪』と見なし、即座に死刑を執行したというのか。
「……こんなやり方は、間違ってる」
私の口から言葉が漏れた。
「確かに、正攻法で男爵を裁くのは難しかったかもしれない。これは僕が当事者でないから言えるだけなのかもしれない。だけど……男爵にだって言い分はあったかもしれないだろう。もしかしたら、本物の鹿を撃とうとした瞬間にクリスが飛び出してきたのかもしれないじゃないか」
シャーロックは姿勢を直して、真剣な表情でまっすぐに私の目を見ている。
「あれは本当に不幸な事故で、だけど故意に撃ったのではないかと疑われることを恐れて、クリスが身に着けていた、目立つ紅い布を隠してしまったのかもしれない。男爵には小さな息子もいたんだ。もちろん、だからと言って許されることではないが……でも、本当のところは誰にも分からない。貴族だって人間だ。嘘や隠し事だってするだろう。犯罪卿は、その間違いを正す機会を奪った。それもまた、許されることじゃない」
「……お前もそう思うか、ジョン」
「ああ」と私は頷き返した。
「そうだよな。……お前も、そう思うよな」
シャーロックが深く頷いたとき、控えめなノックの音がした。ハドソンさんだ。
「シャーロック。電報よ」
「……ああ、ありがとう」
小さな紙片に書かれた文字をシャーロックが読んでいる間、ハドソンさんはどこか落ち着かない様子だった。彼女には何の落ち度もないが、物盗りを部屋に通してしまった負い目があるのだろう。
「もしかして、昨日の泥棒のこと……?」
「……ああ。あんなもん盗んだってどうにもならねぇのに、馬鹿なやつだよ。ま、じきにレストレードが捕まえるだろ」
ごく軽い調子で、シャーロックは答えた。
あからさまな嘘だったが、ハドソンさんはそれをころりと信じた。「そう? なら良かったわ」と表情を明るくして、ようやく肩の荷が下りたといった様子で胸を撫で下ろしている。
「レストレードに用が出来た。ちょっと出てくる」
シャーロックは電報を胸ポケットにしまうと、手にしていた古新聞を無造作に――だがハドソンさんがうっかり読んでしまわないように、書類の山に押し込んだ。
「さっき帰ってきたばかりなのに、また出ていくの? 忙しないわね」
「夕食までには戻るよ。いくぞ、ジョン」
私たちは二二一Bを後にして、再びベイカー街へと繰り出した。
*
シャーロックは辻馬車を捕まえるでもなく、すたすたと通りを歩いていった。二二一Bを十分離れた辺りで、私は思い切ってその背中に声をかけた。
「シャーロック……」
「電報はレストレードからだ。鐘楼に駆けつけた時には狙撃手の姿は無かったと。だが、狙撃地点と思われる場所に真新しい煙草の吸い殻が捨ててあったそうだ。あの場に何者かがいたのは間違いない」
シャーロックは電報の紙切れをひらひらと振ってみせた。
「お前なら、その煙草の灰から犯人を特定できるんじゃないか?」
「どうだかな。一応後でヤードに行って見せてもらうが、どこの店でも取り扱ってる安煙草だそうだ」
「望み薄か……。だが、犯罪卿は結局何がしたかったんだろう。奴なら、誰にも見つからない方法で男爵を殺すことだってできたはずだろう?」
前を歩くシャーロックは、苦い顔で頷いた。
「……犯罪卿は二二一Bに手下を送り込んで、わざわざ『クリス・ソーンダーズ』と名乗らせた。ハドソンさんの話を覚えてるか? 奴は『ホームズさんにお伝えしたい事件がありまして』と言ったそうだ。おかしいだろ? 普通の依頼人なら『解決してほしい事件が』とか『解いてほしい謎が』とか言うはずだ」「確かに……。つまり、犯罪卿の目的は、この事件を俺たちに伝えることだったのか?」
「奴は、俺たちに正義を問うている。法で裁けない悪に直面した時どうするか、を」
「正義……」
言われてみれば、私たちは今、三ヶ月前のマリアとよく似た状況にあるのかもしれない。
目の前に罪を犯した者が確かにいるのに、手元にあるのは状況証拠ばかりで、相手を告発するには材料が足りない。
マリアには確かに男爵を殺す動機があるが、狙撃犯を手引きした確たる証拠は今のところ無い。昨夜二二一Bに現れた偽クリスだって、事件とは無関係なイタズラであった可能性は否定しきれない。
そもそも、犯罪卿が実在するかどうかさえ疑わしいのだ。犯罪界の王が裏で糸を引いているというシャーロックの推理さえ、事情を知らぬ者が聞けば一笑に付されるだけだろう。
「奴は……犯罪卿は、俺たちを翻弄して嘲笑っているということか? いくら犯罪卿のやり方が間違っていると主張したところでできる事なんてないだろう、と」
「……証拠を探そう。結局、俺たちにできるのはそれしかねぇ」
そう言ったシャーロックの目には、強い決意が籠もっているように感じられた。普段、謎を追う彼の目は常に未知への探求心に輝いているはずなのに。
「狙撃手が残していった痕跡が他にもあるかもしれねぇし、クリスに化けた男の足取りが掴めるかもしれねぇ。一番望みがあるのは、マリアがボロを出すことだ。もっとも、犯罪卿もそれを見越して余計な情報は与えていないだろうが……。貴族が白昼堂々狙撃されたとなりゃ、スコットランド・ヤードも黙っちゃいない。証拠が出るまで地面を這いつくばってでも調べ尽くして、必ず奴らの尻尾を掴む。それが俺たちの回答だ。そうだろ?」
目の前に光明が差した気がした。
状況が好転したわけではないのだから、もちろんそれは錯覚だ。だがシャーロックには、常に光の射す道を選び取る才覚と勇気がある。少なくとも私はそう考えていた。
「そうだな、俺ももっと頑張るよ」
「あ? ジョンは別に……」
「お前の相棒としての仕事ももちろんだが、作家コナン・ドイルとして。お前の活躍をたくさん小説にして、もっともっと多くの人に読んでもらう。マリアさんのように追い詰められてしまった人が、犯罪卿なんかじゃなく、名探偵を頼ってみようと思える世の中になるように」
シャーロックは豆鉄砲をくらった鳩のように、目を丸くして私の方を見返した。だがすぐに、片頬を上げて皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「デカい口叩きやがる。来週の締切、伸ばしてもらったばっかのくせに」
「う。タイプライターでも買ってみようかな……」
「やめとけ。持て余すだけだ」
普段と変わらない軽口を叩き合いながら、私たちは歩いていく。
事件の解決が常に劇的で華麗であるとは限らない。長い戦いになりそうだった。
***
「今日も陸軍省にスコットランド・ヤードの刑事が尋ねてきたそうだ。狙撃手のリストを渡せと」
アルバートがそう報告したのは、マーカム男爵を葬ってから一ヶ月が経過したある日、夕食を終えて、居間で談話を楽しんでいる時のことだった。
ウィリアムは目を通していた新聞から顔を上げる。
「男爵殺しの容疑者探しですか?」
「ああ。軍属の狙撃手をしらみ潰しに当たるのは悪くない手だが……まったく、ご苦労なことだ」
アルバートの口ぶりからは余裕が感じられた。
例え陸軍省がヤードに狙撃手リストを渡したとしても、真犯人へたどり着くことは難しいだろう。何しろ、その名はもはや戦死者リストにしか載っていないのだから。
「フレッドの方も、問題なく?」
「はい。ベイカー街の人の流れは、今や彼が誰よりもよく知悉していますから。二二一Bの窓から抜け出した彼を目撃した者は一人もいませんよ」
「お前の計画はいつも完璧だ」
「優秀な彼らが、手足となって働いてくれるお陰です」
謙遜しながらも、ウィリアムは心持ち頬を染めた。最初のクライアントたるこの人からの称賛は、いつだって心地良い。
「だが、ホームズはまだ諦めていないようだね」
「ええ。ですがそれも想定通りです」
シャーロック・ホームズは、いまだ警察と協力してこの事件の捜査に当たっている。
「……マリア・ソーンダーズに捜査の手が及ぶのも、時間の問題でしょう」
「ウィル」とアルバートが労るように名を呼んだ。
「その点については彼女自身が望んだことだろう。彼女が法廷に引き出されることになれば、クリスの死にまつわる疑惑が必ず争点となるからね」
「それは、そうなのですが……」
「お前のせいではないよ」
遮るアルバートの声はこの上なく優しい。
この人だけが、僕の罪悪感を知っている。
その事実に心が安らぐのと同時に、それを利用して優しい言葉を引き出すような振る舞いをしてしまったことへの自己嫌悪が湧いた。
ウィリアムは新聞をテーブルに戻し、立ち上がった。
「もう休みますね。昨夜も夜更かししてルイスに心配をかけてしまいましたから」
アルバートはまだ何か言いたげだったが、すぐに物憂げな表情を引っ込めて「ああ、お休み」と微笑んでくれた。
部屋に戻って一人になると、ウィリアムはデスクの引き出しを開けた。
中に、液体の入った小瓶がある。フレッドに指示して二二一Bから盗み出させた、血液試薬の小瓶だ。
ウィリアムは小瓶を手の中で転がしたり、光に透かして眺めたりしながら、しばらくぼんやりと物思いに耽っていた。
科学薬品に関して彼ほどの知識を持ってはいないから、これがどんな成分でできているのかは分からない。だがこの小瓶の中の液体を振りかけると、真っ赤な血はたちまち青く変色し、くっきりと浮かび上がった。
その青を目にした時、ウィリアムはそばにいる仲間の存在も忘れてしまうほど高揚した。
もしこの液体を、自らの指先に振りかけたらどうなるだろう。
両手が真っ青に染まる光景を夢想して、ウィリアムは知らず知らずのうちに恍惚のため息をついた。
何度拭い落としても消えない血の跡。彼の作った薬品が、この罪を白日のもとに晒してくれる。そうなったら、どんなにいいだろう。
「Catch me if you can……」
呟いたのは、いつかの列車で彼に向かって投げかけた言葉だった。
早く、この罪を証明してみせて。
ひんやりと冷たい小瓶の中の、無色透明な液体を、ウィリアムは飽きることなくいつまでも眺めていた。
初出:Pixiv 2025.02.16