No.44

彼だけがいない街
 記憶あり転生現パロ。前に書いたものとはまた別軸です。

 屋外に出ると、冬の空気がキンと頬を冷やした。フレッドは顎の上までマフラーを引き上げる。寒いのはあまり得意ではないけれど、温かいものに包まれている感覚は嫌いじゃない。
 ピピ、と電子音がして、鉄製のドア奥で錠が回転した。その音を合図に、フレッドは「お疲れ様でした」と頭を下げる。
「はーいお疲れぇ」
 同じく遅番だった先輩バイトが軽く答えた。彼はポケットからスマートフォンを取り出しながら、さっさと駅の方へ歩きはじめる。
 二十一時を過ぎてなお、駅前の通りには行き交う人が多かった。仕事帰りの会社員や、大声で笑い合う学生、キャリーケースを引いて歩く若い女性。その人波の中に、コーヒーショップのアルバイト店員の姿も紛れて消えた。
 フレッドは踵を返し、店の裏に停めておいた自転車の元に向かった。カゴにリュックサックを放り込み、手袋を持ってくればよかった、と少し後悔しながらサドルにまたがる。
 夕食はすでに終えていた。フレッドが学校帰りにアルバイトをしているコーヒーショップは、まかないと称して消費期限の近いパンやサンドイッチを提供してくれるのだ。今日は食べ応えのあるベーグルが二つも残っていたからラッキーだった。
 ペダルを左右交互に踏み込み、駅から少し離れた大型書店の駐輪場に滑り込む。
 この辺りでは一番遅くまで営業している店で、就業時間に制限のある身とはいえアルバイトで遅くなることが多いフレッドも重宝していた。時計を確認すると、まだ閉店まで三十分はある。
 店内には重苦しくない程度に静かな音楽が流れていた。すでに客はあまり多くなく、店員は退屈そうにチラシの整理をしている。
 雑誌もコミック本も素通りして、フレッドは文芸書のコーナーへと足を運んだ。
 お目当ての本は、「話題の新刊」の台に平積みされていた。今日発売の新刊で、書影はネットで確認済みだ。台の一番端っこだったけれど、隣の本との高低差からして一冊二冊は売れたに違いない。
 その事実に満足感を覚えながら、けれどその本を手には取らず、フレッドは手ぶらのまま引き返してレジへと向かう。
「これ、お願いします」
 ポケットから伝票を取り出して店員に手渡すと、メガネの店員は無言のまま頷いた。伝票とカウンターの中の棚に並んだ本を見比べながら、やがてフレッドが予約していた一冊を引き抜いた。
 先ほど「話題の新刊」コーナーに並んでいた、まさにその本だ。
 わざわざ予約しなくても購入できることは分かっていたが、予約をした方が書店側に「この本には需要がある」と認識してもらえる、と人に聞いたことがある。だからフレッドは、面倒でもこの作者の本だけは予約することにしていた。
「袋は?」
「お願いします」
 店員がカウンターの下から茶色い紙袋を取り出した。大きなリュックサックがあるから持ち運びには困らないが、他の荷物と一緒に詰め込んだりして、真新しい装丁が傷んでしまったら悲しい。
 黒を基調とした表紙には、意匠を凝らした切り絵ふうのイラストが描かれている。十九世紀のロンドンを舞台にした物語らしい、光と影がくっきりと二分された街並みだ。
 著者の名は、L・J・モリアーティ。



 再び自転車を漕いでアパートに帰ると、階段の下にフィーがいた。この辺りで暮らしている野良猫だ。
 彼女はフレッドの姿を見つけるなり、親しげに鳴きながらすり寄ってきた。
「こんばんは、フィー」
 喉の下をくすぐってやると、嬉しそうに目を細めて、もっと撫でろと言わんばかりに頭を押し付けてくる。毛並みは短い方なのにふわふわで温かい。
 SNSに投稿する写真を撮ろうかとポケットに手を伸ばしかけて、やめた。暗すぎるからあまりいい写真は撮れないだろう。
 ひとしきり戯れると、彼女はフレッドへの興味をなくして階段下の寝床に戻っていった。
 このアパートは室内で動物を飼うのが禁止されているのに、大家の老婦人が猫好きで、フィーをはじめとする野良猫が数匹居着いているのだ。フレッドの入居の決め手でもある。
 フィーを驚かせないように静かに階段を登って、二階の廊下の奥にある自分の部屋へと帰り着いた。ドアの横の小窓から明かりが漏れていたから、おやと思ったが、案の定、室内には人の気配があった。
「ルイスさん、来てたんですか」
「……あ、フレッド」
 フレッドのデスクでノートパソコンに齧りついていたルイスはハッとして顔を上げた。
「もうこんな時間……すみません、長居しすぎました。おかえりなさい」
「た……ただいま、帰りました」
 ぎこちなく挨拶を返す。
 ルイスはノートパソコンを操作して、打ち込んだ文章を保存しているようだった。何を書いているかまでは読み取れなかったが、次回作の原稿なのだろう。
 今日新刊が書店に並んだばかりだというのにまた新しい話を書いているのだから、作家という職業もなかなか大変そうだ。
「捗りました?」
「まぁ、おかげさまで」
「新刊、お店に並んでましたよ」
 リュックサックから紙袋を取り出すと、ルイスは肩を竦めた。
「わざわざ買わなくても、献本をあげたのに」
「僕が買いたかったんです」
「なら、サインでもしましょうか?」
 そう冗談を飛ばす姿に、フレッドは密かに安心する。筆が思うように進まず行き詰まったルイスは迂闊に声もかけられない状態になるからだ。
 フレッドが買ってきた新刊も、今でこそ立派な装丁に包まれ売り出されてはいるが、中身を書き上げるまでは本当に大変だったのだ。こんな駄作は一冊も売れないに違いないだとか、Amazonのレビューでこき下ろされるに決まってるだとか、執筆期間中の彼はほとんど被害妄想と言っていいほどの不安に押しつぶされかけていた。横で見ていたフレッドも、そんなに苦しいなら一度お休みすれば……という言葉を何度飲み込んだかわからない。
 ともかくその本はこうして無事刊行された訳だし、次回作の進行もまだそう深刻な状況ではないようだ。今日の執筆はここで切り上げることにしたようで、ルイスはノートパソコンを自分のトートバッグにしまっている。
「夕食はもう?」
「はい。バイト先で……て、ルイスさん何も食べてないんですか?」
「君が帰ってくる前に切り上げて、簡単に何か作っておこうと思ったんですけど、つい筆がのってしまって」
「アルバートさんが心配しますよ」
 海外出張中の義理の兄の名前を出されて、ルイスは口を尖らせた。
 普段は会社勤めの兄に合わせて几帳面で規則正しい生活を送っているルイスだが、その兄がいなくなってしまうと途端に生活リズムを崩してしまうのだ。作家という職業柄か、部屋に引きこもって昼夜ぶっ通しでパソコンと向き合っていることも多い。
 フレッドが不在の時間帯にアパートを執筆部屋として利用しているのも、そうしないと本当に陽の光を浴びない生活を送ってしまうからだ。幸い、駅からも幹線道路からも遠く離れた平日昼間の安アパートの周囲は閑散としていて、集中するにはもってこいの環境らしかった。
 ルイスが慣れた様子でかぱりと冷蔵庫を開けると、フレッドが買った覚えのない食材が詰まっている。
「キッチン借りますね。お風呂どうぞ」

 シャワーを浴びて戻ると、室内にはすでにえも言われぬいい匂いで満ちていた。夕方にベーグル二つを平らげておきながら、腹の虫がくぅと鳴く。
 鍋をかき混ぜるルイスの肩越しに覗き込むと、ミネストローネがことことと煮立っていた。具材をたっぷり入れすぎて、かき混ぜるのが少し大変そうなほどだ。
「くつ下をはかないと冷えますよ。せっかく暖まったのに」
「はぁい」
 フレッドは踵を返して、箪笥の中から厚手のくつ下を引っ張り出した。
 貧乏学生の部屋には当然、来客用の食器や椅子などない。一つしかないチェアにはルイスが座り、フレッドはベッドに腰を下ろした。
 トマト色の真っ赤なスープがよく映えるように意識して写真を一枚撮ってから、いそいそとスプーンを手に取る。部屋を貸す代わりとして、ルイスはよくこうして何かしら手料理を作ってくれるのだ。
 マグカップについだミネストローネを啜りながら、ルイスが呟く。
「昼間にエージェントから連絡があって、インタビューを受けることになりました。雑誌の」
 ひときわ大きなじゃがいもとベーコンを咀嚼していたフレッドは、反応が遅れた。
「……えっ、すごいじゃないですか」
「小さいけど、写真も載るそうです。出版社の公式サイトにも記事が出るとか」
「何て雑誌ですか?」
 食べかけのミネストローネの器をサイドテーブルに置いてスマホを取り出すと、ルイスは慌てて首を振った。
「そんな、大したものじゃないですよ。売り出し中の若手作家を何人か集めた特集で、そのうちの一人というだけで」
「でも、そのうちの一人に選ばれたんですよね。すごいですよ」
「うん……」
「……もしかして、あんまり乗り気じゃないです?」
 ルイスがとある新人賞を獲って作家としてデビューした当初、出版社やメディアは、その作品よりもルイス自身をネタに彼を売り出そうとした。容姿端麗な若い小説家、となれば否が応でも大衆の注目を集められる。幼い頃に大きな火事に遭い天涯孤独の身になった、というバックボーンまであれば尚さらだ。
「僕らの目的のためには、もっと積極的にメディアの仕事も受けた方がいいんだろうけど」
「だとしても、ルイスさんが嫌だと思うことまでする必要ありませんよ。今回の新作だって、通販サイトの予約ランキングに入ってますし、知名度は着実に上がってます」
「下の方だけどね」
「来週からは口コミでもっと売れますよ。それに、アルバートさんやモランの方で何か動きがあるかもしれません」
「……モランさんといえば、君、まだあの人の仕事を手伝ってるんですか?」
「えっ。まぁ、バイトがない日に、ちょっとだけ」
「あまり危ないことまで手伝っちゃだめですよ。一応、まだ高校生なんですから」
「や、やってませんって」
「……まぁ、それならいいですけど」
 ルイスはあえて深く追及しなかった。モランの仕事を手伝うことは、フレッドにとって生計を立てる手段の一つでもある。それを理解してくれているのだろう。
「インタビューは受けます。伝統のある文芸誌だから、そう浮ついた記事にはならないはずです。何より……ウィリアム兄さんの目に留まるかもしれない、またとない機会ですから」
「分かりました。でも、無理はしないでください」
「うん……ありがとう」
 そう言いながら、ルイスは頬に手をやった。彼の右頬には、大きな火傷の痕がある。彼が写真を嫌う理由の一つでもあった。
 現代の医療技術なら完全には消せなくとも目立たないようにする方法が無くもないそうだが、彼はその傷痕を残したままにしていた。
 ため息をひとつついて、ルイスはデスクの上の新刊に目をやった。
「……こんな事を続けても、意味なんか無いんじゃないかと思いませんか?」
「ルイスさん」
「すみません、言ってみただけです」
 力なく笑って、ルイスはカップの底に残ったスープを飲み干した。
「今日はもうお暇しますね。食器、お願いしても?」
「はい。流しに置いておいてください。ごちそうさまです」
「こちらこそ、お邪魔しました」
 ノートパソコンをしまったトートバッグを肩から提げて、ルイスは帰っていった。駅までは少し歩く必要があるから送っていくと申し出ても、いつも断られてしまう。
 ドアを開けた拍子に入り込んできた冷たい空気に身震いして、フレッドは温かい室内に引き上げた。



 食器を片付け終えたフレッドは、ベッドに寝転がって、SNSに先ほどのミネストローネの写真をアップした。『夜食』の一語にナイフとフォークの絵文字だけを添えたシンプルな投稿だったが、すぐにひとつふたつといいねが飛んでくる。
 このアカウントはフレッド自身のものではなく、作家『L・J・モリアーティ』名義のアカウントだった。
 ルイスが作家としてデビューした直後に出版社のすすめで開設したアカウントだったが、彼が投稿するのは簡潔な告知ばかりで、当初はまったくフォロワーが増えなかった。もっと人の関心を惹くような投稿をした方がいいと思うのだが何を書けばいいのかわからない、とこぼすルイスに、フレッドは自分が撮った猫の写真を投稿するよう勧めてみた。これなら彼がプライベートを切り売りする必要はなく、誰かの反感を買う危険も少なく、何よりかわいいからだ。
 初めは半信半疑だったルイスも、数ヶ月でフォロワーが二桁増えたことによって考えを改めた。もちろん彼の本が売れ始めたことも要因の一つではあったが、今ではフレッドは作家『L・J・モリアーティ』のSNSアカウントの共同管理を任されている。
  通知欄をスワイプして、直近の投稿についたコメントをひと通りチェックする。ルイスのファンからの他愛のない応援コメントばかりで、めぼしいものは見当たらない。
 スマホを放り出して、今度は買ってきたばかりの小説に手を伸ばした。
 草稿の段階で意見を求められたこともあったので内容はおおよそ把握していたが、フレッドは冒頭からゆっくりと読み始めた。
 十九世紀末の大英帝国を舞台とした犯罪小説だ。繁栄を極める大都市の裏側で、主人公は差別と貧困に喘ぐ人々のために立ち上がり、腐敗した権力者たちに一矢報いるべく策略を巡らせる……という筋書きだった。
 ルイスはこれまでに数冊の本を発表しているが、どの作品も大筋は共通している。十九世紀の英国が舞台で、主人公は悪を以て悪に立ち向かう。

 フレッドには、前世の記憶がある。
 今は何処にでもいる高校生でしかなかったが、かつては大英帝国の路地裏に生まれて大貴族モリアーティ家に拾われ……と、なかなかに数奇な人生を歩んでいた。
 そしてこの記憶がフレッド個人の妄想ではないという証拠に、ルイスを始めとするかつての仲間たちと再び巡り会った。お互いの記憶や現代に残る記録を照合した結果、この記憶は間違いなく『前世』のものである、と結論づけた。
 彼らと再会を喜びあったことは紛れもない事実だ。だが一つ、そこには大きな問題が横たわっていた。
 ウィリアムが、どこにもいないのだ。
 かつて忠誠を誓った主であり、家族。かつての自分たちは、間違いなく彼を中心に結束していた。
 にも関わらず、肝心要のウィリアムだけが現代に見当たらない。フレッドたちが彼を探して動き出したのは、至極当然の流れだった。
 ルイスが小説なんてものを書いているのも、その活動の一環だった。おそらくはコナン・ドイル――ワトソン博士に倣ったのだろう。
 大衆向けのエンターテインメントとして焼き直されてはいるが、読む人が読めば、彼の作品は実際にあった出来事を下敷きに書かれた物語であることが一目で分かるようになっている。
 いつかきっと、ウィリアムが見つけてくれる。
 そう信じて、ルイスはあの頃の事件を題材にした物語を書き続けていた。

 数十ページ読んだところで、瞼が重くなってきた。時刻はすでに零時前だ。そろそろ眠らないと、明日の授業中に居眠りしてしまう。
 フレッドは本を閉じて、電気を消した。
 夢うつつの頭の中に、前世の記憶とも、ついさっきまで読んでいた物語の一場面ともつかない光景が浮かんでは消える。
 フレッドは寂れた路地裏で膝を抱えて座っている。寒くて、お腹が空いていた。穴の開いたズボンのポケットには小銭の一枚も入っていない。通行人たちが迷惑そうにこちらを睨むが、他に行く場所がなかった。感情はとうの昔に擦り切れて、ただ自分のつま先だけに視線を落としている。
 彼がフレッドを見つけてくれたのは、そんな時だった。
 彼は、フレッドがそれまでの人生で受け取れなかった多くのものを与えてくれた。そしてフレッド自身もまた、他者に分け与えることができるのだと教えてくれた。
 彼にもう一度会いたかった。
 もし、今の彼がかつてのフレッドと同じように一人で迷っているのなら。どこにも行くあてが無くて困っているのなら、彼の力になりたかった。
 今のフレッドは法や制度に守られた子どもでしかないけれど、それでも、かつての彼が与えてくれたものの半分だけでも返したかった。
 自分に何ができるだろう。取り留めのない考えに耽りながら、フレッドは眠りに落ちていく。

[newpage]

 冬の雨というのは厄介で、いっそ雪に変わってくれた方がマシなのではないかと思ってしまうほど陰鬱で冷たい。
 モランが愛車のベントレーで空港の立体駐車場に滑り込んでから、一時間以上が経過していた。どうやらこの雨のせいで飛行機が遅れているらしい。到着予定時刻はとっくに過ぎているというのに、アルバートからはまだ何の連絡もなかった。
 モランがいるのは車内とはいえ、エンジンを切っているから屋外よりいくらか温かい程度だ。耐えられない気温ではないが、寒いものは寒い。
 空港内のカフェにでも移動しようかと何度も考えた。だがエレベーターを使い連絡通路を通って、立体駐車場の向かいにそびえる建物まではるばる歩いていくのも面倒だ。
 あの男のことだから、モランがコーヒーを受け取って席に腰を落ち着けた途端に「待たせたね。車を回してくれるかい?」なんて電話を寄越してくるに決まっている。そうすればまた来た道を逆戻りだ。
 何本目かになる煙草に火をつけ、助手席に放りだしていた本を手に取る。先日発売された、ルイスが書いた小説だ。
 彼が作家だなんて前世では想像もつかなかったが、凝り性で妥協せずこつこつと地道に仕事をこなすという点ではまぁ向いていたらしい。何かしらの賞を獲ってデビューした作家がその一作きりで消えていくことの多い中、ルイスは安定したペースで作品を書き上げ、着実に実績を積んでいた。フレッドの話では、熱心な読者もつき始めているらしい。
 本文にはざっと目を通してある。かつての自分たちが経験した事件に大幅な脚色を加え、登場人物を置き換え、現代人にウケるように上手く再構成してあった。
 何も知らない読者であれば、あっという間に整然とした物語の世界に引き込まれることだろう。うめき声を上げながらキーボードを叩きまくっている作者の姿など想像もつかないはずだ。
 ぱらぱらとページをめくっていると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。待ちに待った到着の報せだ。
 モランは小説をダッシュボードにしまい、差しっぱなしだったキーを回してエンジンを始動した。



 空港前の車寄せレーンは、悪天候の影響もあってか、平日だというのに混み合っていた。遅れていた便の乗客がいっせいに空港を脱出しているのだろう。
 列の隙間を縫って車を停車させると、少し離れた屋根の下から、こちらに向かって歩いてくる人影があった。
 アルバートだ。疲れた顔で大きなスーツケースを引いている。
「遅い」
 開口一番、これだ。
「こっちの台詞だ。二時間も待たせやがって」
「飛行機が遅れたんだ、仕方ないだろう」
 トランクを開けて、一週間分の着替えは余裕で入りそうなスーツケースを中へ押し込む。その間に、アルバートはさっさと後部座席に収まっていた。
「あとで駐車場代払えよ」
「分かっているさ。あちらで手に入れたウィスキーを進呈しよう。標高の高い土地で造られたものだから、我が国のウィスキーとは味わいがまったく違うらしい」
「お前、今回はスイスだっけか。ウィスキーの醸造は禁止されてたんじゃなかったか?」
 アルバートは呆れたように鼻を鳴らした。
「いつの話をしているんだね。とっくの昔に解禁されているよ」
「そりゃあそうか」
 モランは確か、『前世』でその報せを新聞で目にしたのだ。言われてみれば、大戦下の食糧難に備えて穀物を確保するためだとか書いてあった気がする。解禁されていて当然か。
 二人の乗るベントレーはゆっくりと滑り出した。
 鈍色の空は重く頭上にのしかかり、雨粒がひっきりなしにフロントガラスを叩いていた。モランはワイパーの速度を一段階上げる。
「ったく厭な天気だな」
「あぁ、ロンドンに帰ってきたという気がするよ」
 後部座席のアルバートが皮肉っぽく呟いた。頭が痛いのか、こめかみの辺りを抑えている。
 モランはスイスには行ったことがなかったが、その名前から連想する高い山々と澄んだ青空は、確かにロンドンとはほど遠いものだろう。ラジオから流れる天気予報によると、明日の朝まで降り続けるらしい。
「その様子だと、今回も空振りみてぇだな」
「分かっているなら聞かないでくれ」
「……」
 あまりご機嫌がよくないようだ。モランは黙って、運転手としての役割に徹することにした。
 アルバートは小さな貿易商社を経営している。裏では政府の秘密機関として活動しているようなペーパーカンパニーではなく、れっきとした一般企業だ。どういう手品を使っているのか分からないが、規模の割には利益を上げている。
 だが当の社長は事業規模拡大にはあまり興味がないらしい。買い付けやら商談やら、何かしらの理由をつけては社長自ら国内外を渡り歩いていた。
 そのお陰で、社員や取引先の大半は『金持ちの御曹司が道楽で会社経営をやっている』と認識しているようだった。実際のアルバートは永らく実家とは連絡を絶っていて、家族と呼べる存在は義弟のルイスくらいだというのに。
 ともかく、そうして誰にも干渉されない地位と居場所を確保したアルバートの本当の目的は、言うまでもなくウィリアムの捜索だ。出張先で暇を見つけては人通りの多い場所を練り歩いたり、地元のイベントに参加してみたり。
 アルバートは子供の頃、慈善団体が主催するチャリティバザーへ連れて行かれ、そこでたまたまルイスを見つけたらしい。モランがフレッドと再会した経緯も似たようなものだ。
 ウィリアムとの再会を期待してひたすらに足を使う方法は、決して無意味とはいい切れなかった。今のところ、徒労でしかなくとも。
 後部座席のアルバートは、俯いて目を閉じている。二時間足らずの搭乗時間ではまともに眠れなかっただろう。モランは手元のつまみを回して、ラジオのボリュームを抑えた。
 


 車は静かに走り続けた。霧が出ていないだけましだが、それでも雨の日の運転は気を配ることが多くて面倒だ。
 途中、ポケットの中の携帯が何度か震えたが、おおかた、アルバートの帰りを待っているルイスかフレッドだろう。どうせすぐに会えるのだから、放っておいた。
 後部座席のアルバートはすっかり寝入っていたが、高速道路を下りて市街地に入るとむくりと身体を起こした。
 ミラー越しに見やると、彼はスマートフォンの通知を手早くチェックしてからは、一心に窓の外を見ていた。
 道行く人々の顔を一つずつ、確認している。まるで誰かを探しているかのように。
 これは何もこの男だけに限った話ではない。モラン自身もそうだったし、ルイスやフレッドだって同じだ。
 例えば、初めて入ったカフェやレストランで。混み合った地下鉄駅で。賑わうショッピングモールで。どこかに彼がいるのではないかと期待して、つい視線を彷徨わせる。
 着くまで寝ていればいいのに、と思ったが、彼の気持ちはよく分かるので好きにさせておく。
「停めてくれ」
 突如後部座席から声が飛んで、モランは慌ててブレーキを踏んだ。
「なんだよ、何か……」
「すぐ戻る」
 路肩に車を寄せると、アルバートは雨も気にせず後部座席のドアを開けた。
 モランはアルバートの視線の先を追う。
 もしやと緊張が走ったが、アルバートが入っていったのは通りに面した書店だった。肩から力が抜けていく。
 窓を細く開けて煙草を蒸していると、アルバートは十分足らずで戻ってきた。雨避けのビニール袋に包まれた、一冊の本を抱えている。
「ありがとう、出してくれ」
「何買ってきたんだよ……って、聞くまでもないか」
「ルイスの新作だよ。もちろん買っただろうな?」
「あー、まぁ一応」
 普段行きもしない書店へわざわざ発売日に買いに行ったとは、何となく言いづらかった。
「帰国したらすぐに買おうと思っていたんだが、空港の書店には置いていなくてね」
「だろうな」
 空港内の書店といえば売り場の面積も限られているから、駆け出しの作家が入り込む隙は無いだろう。
 アルバートは袋から取り出した本の表紙を満足気に撫でていた。モランはウィンカーを点けて、再び車道へと滑り出す。うっとうしい雨はいまだに降り続けていた。
「ルイスのSNS、見てるか?」
「もちろん」
「フォロワーがもうじき三万人だとよ」
「それは多い方なのか?」
「デビューして二、三年の作家にしちゃ上々だろ」
「そうなのか。フレッドも手伝ってくれているお陰だね」
「……いつまで続けさせるつもりだ?」
「何を?」
 分かっているくせに、アルバートはわざと問い返した。モランは苛立って指でハンドルを叩く。折悪く、信号は赤だ。
「ルイスだよ。世間に名を売ってウィリアムからのコンタクトを待つっていうのは、確かに手としちゃ悪くない。だがあいつを見つけるのがウィリアムだけとは限らないだろ」
「……」
 ルイスの書いた本は誰でも買って読む事ができる。電子書籍化もされているし、今の時代、ネットを通じればそれこそ世界中の人間が作品にアクセスできるだろう。
 そして前世の記憶を持っている者が読めば、そこに書かれている内容は実際にあった出来事だと確実に理解できる構成になっている。
「俺たちはかなり悪どいことをやってきて、それなりに恨みも買った。もし『前』の記憶を持って現代に生きてるのが俺たちだけじゃなかったらどうする? 万が一そいつがモリアーティと因縁のある相手だった日には……」
「わかっている」
 アルバートはぴしゃりと遮った。
 彼自身、当然理解しているだろう。だが兄を探そうとするルイスを止められないのも事実だ。
 内気なようでいて、ルイスは一度思い切るとどこまでも大胆に行動する。焼けた木片を自らの顔に押し付けた時然り、Mを継ぐと決めた時然り。
 彼が作家としてデビューすることをモランやアルバートが知ったのも、すでに出版社と話がついた後だった。
「恨みの記憶を抱えた者が、今生では満ち足りた生活を送っていることを祈るしかない」
「馬鹿言え。いくら満ち足りてようが、頭のネジが外れた野郎には関係ない。それこそミルヴァートンみてぇな……」
「わかっている。だが、私たちがこれまでにどんな成果を挙げられた? あの子に繋がる手がかりを何か一つでも掴んだか?」
「っ、それは……」
 黙るしかなかった。
 アルバートは国内外の主要都市を休みなしに飛び回る一方で、モランはモランで非合法な手段に手を染めてでもウィリアムの情報を探し続けた。
 闇に流れた公的機関の個人情報リストを片っ端から買い漁ったり、あるいは警備会社が保管している各地の防犯カメラのデータを盗み出したり。アルバート達には話していないが、そのいくつかはフレッドにも手伝わせていた。
 気の遠くなるような作業を何年と続けて、だが現在に至るまで、収穫はない。
「信じよう。あの子だって子供じゃない」
「……まぁ、そうなんだが」
「少なくとも、自宅を特定されて襲撃される、なんて事にはならないだろう」
 それはモランも同感だった。
 悪意ある者がルイスの正体に気づいたとして、彼のもとにたどり着くには、作家としてのルイスのSNSアカウントから情報を得るしかない。
 だがルイス自身はプライベートな内容は一切投稿していないし、写真はすべてフレッドが撮影したものだ。投稿のタイミングも意図的にずらしている。あの投稿内容からルイスの生活圏を割り出すことは不可能と言っていいだろう。 
「もう一度ウィリアムに会いたい。その気持ちは、皆同じだろう」
「…………」
 アルバート自身も『気鋭の若手実業家』だとかでその手の雑誌に何度か取り上げられたことがあった。ウィリアムからの接触がない代わりに、前世の記憶を持つ者からの連絡もない。
 かつて生きた時代からは想像もつかないほど世界が変わっていたとしても、相変わらず、世の中は案外広いのだ。ウィリアムを探してアンテナを高くしているつもりでも、際限なく広がる情報の海から拾い上げられるのはごくわずか。その大半は一瞥することすらなく消えていく。
 いるかどうかも分からない相手を恐れて手を拱いているのは愚かだと、そう言いたいのだろう。
「……俺には何とも言えねぇ。ウィリアムの考えが分からねぇと」
「それはそうだ。今どこで何をしているのか……私たちと同じように記憶を引き継いで生まれているのかどうかすら分からないからな」
「悪くすりゃ、赤ん坊や老人の可能性だってある」
 これまで何度も議論したことだった。
 これだけ探しても見つからないということは、ウィリアムは現代に転生していないのではないか? していたとしても、自力でこちらに接触することができないような、老人や子供である可能性はないか?
 どちらも確たる証拠はない。だがあり得ない話でもなかった。今すでに再会を果たした四人の中にも、年齢のずれがあるからだ。
 モランは今年で三十五歳になる。アルバートは二十七、ルイスは二十三。ここまではいい。しかし、フレッドはまだ十七歳だった。他の三人に比べて、『前』より二歳若い計算になる。
 この事から、モランたち三人がたまたま同じ間隔で生まれてきただけで、転生するタイミングがずれることもあり得るのではないか、という推論が成り立つ。
 しかしこの年齢のずれがフレッドにだけ発生しているのがまた厄介だった。何せ、前世の彼の正確な年齢は、彼自身にも分からなかったからだ。
 前世で「これくらいだろう」と考えられていた年齢が誤っていただけで、フレッドもまた以前と同じタイミングで生まれてきている可能性も大いにある。であれば、現代に生まれたウィリアムもまた、今は二十四歳前後なはずだ。
 推測に推測を重ねるような話ではあるが、これはウィリアムを探すうえでかなり重大な問題だった。何しろ、もし転生するタイミングに法則性が無いのであれば、捜索対象は天文学的数字にまで膨れ上がることになってしまうからだ。
 この話題が持ち上がるたび、四人は堂々巡りを繰り返していた。その点では、自らの手や目を使ってウィリアムを『探す』方法ではなく、自らを人目に晒すことでウィリアムに『見つけてもらう』策を取ったルイスは利口だった。問題は、彼があまり目立ちたがりではなかったことであるが。
「ウィリアムじゃなくても、せめて他の連中が見つかればなぁ。ボンドとかパターソンとか」
「その希望も持てなくはないね。もしボンドが現代に生まれていたとすれば、案外すぐにルイスのSNSを見つけてくれるんじゃないか?」
「あぁ、そういう事には目も耳も敏い奴だったな」
 ルイスのSNSアカウントは、誰からでもメッセージを送れるようオープンにしてある。執筆が差し迫ってくると何日もSNSを開かないこともあるそうだが、彼に代わってフレッドが逐一チェックしているそうだから見落とす心配はないだろう。
「俺たちのやることは変わらない、か」
「そうだな。いつだって運命はあちらからやって来るものだ。だが、それを掴み取る努力だけは絶やしてはならない」
「大げさだな。今さら止めにするわけにもいかねぇって話だろ?」
 モランはハンドルを切り、テムズ川を臨むマンションの地下駐車場へ入った。
 雨の音が少しだけ遠のき、代わりにヘッドライトが自動的に点灯される。今日のように運転手役をさせられることも一度や二度ではなかったから、指定の駐車スペースの場所はすっかり覚えていた。
「誰かさんが待たせるから腹が減った」
「航空会社へ苦情を入れるといい」
 トランクを開けながら嫌味を言うと、すかさず切り返される。そんなやり取りが今は心地いい。
 チン、と軽い音がして、エレベーターが降りてきた。「早くしたまえ」とエレベーターのドアを抑えているアルバートの声が打ちっぱなしのコンクリートにこだまする。
 モランは大きなスーツケースを引きなから、足早に駆けていく。車内の暖房で身体はいくらか暖まっていたが、相変わらず腹は減っていた。
 最上階のアルバートたちの住まいでは、ルイスが遅い昼食を用意して待ちかねていることだろう。フレッドも来ているはずだから、今日の食事は賑やかになりそうだ。
 早く来ないと無くなるぞ。
 モランは、誰にともなく呟いた。

 初出:Pixiv 2024.11.20

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