No.43
オリーブの枝
アルバートとフレッドがちょっと気まずかった時のことを思い出す、三年間の話。
マイクロフト・ホームズが予定通りの時刻にディオゲネス・クラブへ立ち寄ると、カウンターの奥のボードに青いピンが立っていた。
青いピンは、主に仕事絡みでの来客を示す。場所は三階の談話室。私語厳禁をモットーとするこのクラブで、マイクロフトが利用するためだけに会話が許された一室だ。もちろん、話し声がクラブの静寂を乱さないように防音対策は抜かり無い。
彼がロビーを通り抜けるとき、受付係は目礼だけを返した。
厚めの絨毯が敷かれた階段を上がって、まっすぐに目的の部屋の扉を開ける。
来客――フレッド・ポーロックはすでに室内で待機していた。と言っても、マイクロフトが予期していたように所在なさげに直立していたわけではなかった。
彼は部屋の隅にしゃがみ込んで、コンソールテーブルの上の鳥籠を一心に覗き込んでいた。何やらぶつぶつと呟いていて、マイクロフトが入室しても気がついた様子がない。
「何をしている?」
「……っ!」
背後から声を掛けると、フレッドはばね仕掛けのおもちゃのような勢いで立ち上がった。籠の中にいたチャーリーが、驚いてバサバサと羽根を鳴らす。
本来ならば情報を盗もうとしているのではないかと疑うべきところだが、フレッドに関してはその心配は無用だろう。その証拠に、立ち上がった拍子に彼の手のひらから小さな黄色っぽい粒が転げ落ちた。
フレッドは凍りついたように動かない。マイクロフトはつかつかと歩み寄り、絨毯の上に落ちたそれを拾い上げた。
乾燥させたトウモロコシの粒だった。
チャーリーが籠の隙間からくちばしを突き出し、ねだるようにくるくると喉を鳴らした。
「なんだ、チャーリー。おやつをもらっていたのか」
「……も、申し訳ありません」
マイクロフトが拾ったトウモロコシを格子の前に持っていくと、チャーリーが素早い動作でついばんだ。こころなしか、普段与えている飼料よりも食いつきがいい。
鳩に好き嫌いがあるなどとは考えたこともなかったが、もしかすると、彼はすり潰した麦の粒よりトウモロコシの方が好みなのかもしれない。
「構わないよ。これから仕事に出るところだったから、いい腹ごしらえになっただろう。ただ、次からは報告してくれ。君が来るときは餌の量を調整しておこう」
「あ、ありがとうございます……」
フレッドは小さく頭を下げた。
「君は無類の猫好きだとルイスから聞いていたが……鳥も好きなのか?」
「え……はい。あの、よく人に慣れていて可愛いなと思ったので……すみませんでした」
今日彼がここを訪れた目的は、街で仕入れた情報の定期報告だ。たまたまポケットにトウモロコシが入っていた訳ではないはずだから、チャーリーにやるチャンスを窺って密かに用意していたのだろう。
前回ここに来てもらったときも、確かにチャーリーの鳥籠をここに置いていた。鳥籠をちらちらと気にしていることには気がついていたが、まさか彼のためのトウモロコシを持参していたとは。
「少し待っていてくれ」
そう断ると、フレッドは小さく頷いて部屋の隅に下がった。机についたマイクロフトの手元が見えない位置だ。
よく教育が行き届いていることに満足を覚えながらマイクロフトは引き出しから小さく切った紙片を取り出した。数秒考えて、短い文章を書きつける。
鳥籠の扉を開けてやると、チャーリーは小さく羽根を動かしてマイクロフトの腕に飛び乗った。足にくくりつけられた筒に、丸めた紙片が押し込まれるのを大人しく待っている。
伝書鳩を使うところを見るのは初めてなのか、フレッドはわずかに首を伸ばしてその様子を観察していた。
今日はよく晴れていて、風も穏やかだから飛行にも支障なさそうだ。窓を開け放つと、表通りのざわめきが心地よく耳に届いた。
マイクロフトは窓の外に腕を伸ばす。
フレッドがあまりに物珍しそうに見つめるものだから、その姿にまだ小さかった頃の弟を連想して、どこか得意な気持ちになると同時に胸の奥がチクリと痛んだ。
チャーリーがマイクロフトの腕を蹴って飛び上がる。小さくも力強い風が巻き起こり、彼はまっすぐに東へ飛んでいった。
だんだんと小さくなっていく白い翼を見送りながら、フレッドは彼の目的地について訊ねようとはしなかった。
一諜報員として、その態度は正しい。正しいのだが、もしそのことについてフレッドに尋ねられたのならマイクロフトは何と答えるべきだろうか。ふとそんなことを考えた。
「さて、仕事の話をしようか」
窓を閉めながら振り返ると、フレッドは表情を引き締めて頷いた。
フレッドから街での出来事について報告を受けるのはいつも面白い。彼は特別話上手という訳では決して無いが、淡々と語られる市井の出来事に耳を傾けるのはマイクロフトにとって良い息抜きだった。
それに、彼が仕入れた他愛のない噂話が当時ロンドンを騒がせていた金庫破りのアジトを特定する材料になったこともあるのだから、軽視はできない。
だが同時に、噂話がそうした具体的な成果につながる例は稀だ。どんなに些細な内容であってもこつこつと拾い集めてくる根気は見上げたものだった。
報告が一段落したところで、マイクロフトは唐突を装って切り出した。
「君は何か、アルバートに言ってやりたいことはあるか?」
フレッドは丸い目をぱちくりと瞬かせた。
「お会いできるのですか?」
「まさか。何度尋ねても門前払いだ」
「……そうですか」
フレッドはどこかほっとした顔で頷いた。
アルバートは末弟であるルイスの面会さえも断っている。それなのにもしマイクロフトが立場にものを言わせてアルバートと面会していたとなれば、彼にとってあまりいい気はしないのだろう。
「僕からお伝えすることはありません。ずっとお待ちしています、とだけ……皆と同じ気持ちです」
「そうか」
「でも、個人的に一つ……」
「何だね?」
「アルバート様に、謝りたいことがあります」
「ほう」
彼と本格的に仕事を共にするようになってしばらく経つが、彼が『個人的』な話をしてくれたことはまだ一度もない。
マイクロフトはほんの少し椅子を引いた。なるべくリラックスして見えるように座り直して、フレッドの言葉の続きを待つ。
「モリアーティ家にお世話になり始めたばかりの頃、ティーカップを割ってしまいました」
彼があまりに神妙な表情でそう告げるから、思わず笑ってしまいそうになった。しかし彼はこちらの反応など気にもとめず続けた。
「あんなに綺麗な茶器を運ぶのは初めてで、緊張して手元ばかりに注意していたから、絨毯の縁に躓いてしまって……カップが床で砕けた瞬間、何よりもまず、近くに立っていたモランが破片で怪我をしていないか確かめるべきでした。それなのに、僕は咄嗟にアルバート様の方を見てしまったんです」
フレッドは床に視線を落とした。カップの残骸がまだそこに散らばっているかのように。
「僕の視線に気がついた瞬間、アルバート様はとても傷ついた顔をなさいました」
「……」
「アルバート様が僕のことを怒鳴りつけたり鞭で打ったりするはずがないと、わかっていたはずなのに……咄嗟に、顔色を窺ってしまって……。カップを割ってしまったことはその場で謝って、アルバート様も、他の皆さんも許してくれました。でも、その瞬間のことだけは、どんなふうに言葉にすればよいのか分からなくて、どうしても言い出せなくて……」
フレッドはそこで話しすぎたことに気がついて、「すみません」と小さく呟いて言葉を切った。
その気持ちはわかる気がした。不意の出来事だったから尚更、お互いに取り繕うことができなかったのだろう。
アルバートは目下の者や年少者に慕われこそすれ、怯えた目を向けられることはほとんど無かったはずだ。それは彼が横柄な貴族を嫌悪し、ああはなるまいと自身に言い聞かせ、その矜持に違わぬ振る舞いをし続けてきたからだ。
「それは何年くらい前のことだね?」
「ええと……七、八年くらい前かと」
「そんなに昔のことなら、と言いたいところだが……覚えているだろうな、アルバートなら」
フレッドは黙って頷いた。
気まずい空気のままうやむやになってしまった出来事ほど、その後何年もふとした瞬間に思い出してしまうものだ。ましてや、彼はアルバートの中で最も根深いコンプレックスを刺激してしまったのだ。
「アルバート様、その後、冗談を言って笑わせようとしてくれましたけど……うまく反応できなくて。それがますます申し訳なくて……」
「そうか……直接会って話ができる日まで、温めておくといい」
「はい」
フレッドは小さく頭を下げて、退出していった。
一人になった部屋の中で、マイクロフトは椅子の背もたれに身を預けながら考える。
あの事件に関わった者は誰しも、伝えたい言葉を無数に抱えている。あの寡黙なフレッドさえ、思わずマイクロフト相手に漏らしてしまうほど。
チャーリーの翼に託せる手紙はごくささやかなものでしかない。けれど、彼の遠い祖先が方舟に持ち帰ったオリーブの枝のように、アルバートの元にも限りない希望を運ぶことができると信じたかった。
*
ロンドン塔でアルバートに与えられた部屋には、書物も絵画も何も無い。椅子に腰掛けて物思いに沈む間は、冷たい石壁か小さな窓を眺める他なかった。
高い塔の周囲には遮るものが無く、窓からはタワーブリッジを一望することができる。その光景は常にアルバートを苛んでやまなかった。夜ごと、橋の上から真っ逆さまに落ちていく弟たちの姿を幻視しては心をかき乱された。
この日もアルバートは、幽鬼のように青白い顔で窓辺の椅子に腰掛けていた。昨夜もほとんど一睡もせず、二度と戻らない過去を顧みてはどうにもならない後悔に苦悶していた。
外はよく晴れていて、曇った窓ガラス越しに差し込む僅かな日差しが、暗闇に慣れた目を刺した。そびえ立つタワーブリッジの影が網膜に焼き付くようだった。
しばらくの間まんじりともせず窓の外を眺めていたアルバートだったが、ふいに立ち上がった。
少し前に、塔を守る看守の一人が食事を持ってきてくれたのだ。つい数分前だったかもしれないし、数時間前だったかもしれない。ともかくそのことを思い出したアルバートは機械的な動作で立ち上がり、扉の横に置かれた小さなテーブルから食事の載ったトレイを取ってきた。
自らここに閉じこもるようになって以来、アルバートは与えられる食事を残したことはない。無理に押し込んで吐き戻してしまうことも度々あったが、食事を断って緩やかに自殺することなど許されるはずもないと考えていた。
パンひと欠片を、冷めたスープで何とか流し込んだ。
もしこの塔の看守か炊事係の中に自分を恨む者がいたのなら、この食事に毒でも仕込んではもらえないだろうか――そんなふと妄想が頭を過ったが、すぐに首を振って打ち消した。
自分はここで少しでも長く苦しまなくてはならない。何より、こんな考えは誠実に職務をまっとうしてくれている彼らに対して無礼極まりない。
同じく冷めた紅茶を飲んで食事を終えてしまおうとカップを傾けたとき、カップの縁が欠けていることに気がついた。
持ち手の部分の直ぐそばで、うっかり口をつけて唇を切ってしまうような位置ではないから、まだ使用できると判断されたのだろう。
白い断面をぼんやり眺めているうちに、ふと、脳裏に過る出来事があった。
ずいぶん前の話になるが、懐かしいモリアーティの屋敷で、フレッドがカップを落として割ってしまったことがあった。
カップは特に思い入れのある品ではなかったし、熱い紅茶ごとぶちまけてしまったわけでもない。しかし真っ青になって謝るフレッドが気の毒になって、アルバートは冗談のつもりで言ったのだ。
『大丈夫だよ、モラン大佐に弁償してもらうから』と。
あれは我ながら最悪だった、とアルバートは振り返る。
本当に冗談のつもりだったのだ。事実、モラン本人とて真に受けたりはしないだろう。しかし、顔を上げた時の、フレッドの絶望した瞳が忘れられなかった。
あれは特別な由緒があるわけでもない、モリアーティ家の食器棚に無数にひしめいていたティーカップのうちの一つに過ぎなかった。アルバートにとっては割れてしまっても少しも惜しくない品だった。
だが、それは幼かった彼にとっては知る由もないことだ。自分のせいでモランが莫大な負債を背負うことになってしまった。純真なフレッドはアルバートの冗談を真剣に受け止めて、強いショックを受けていた。
『も、モランは悪くないです』
フレッドが震える声で、絞り出すように言った。そこでようやく、アルバートは自分の失敗を悟った。
すぐに気まずい空気を察知したモランが飛んできて『そうだそうだ、俺関係ねぇだろうが。下らねぇ冗談言ってないで、ほら、片付けるぞ』とフレッドの背中を叩いた。冗談、という言葉をあえて強調しながら。
我に返ったフレッドは、慌てて踵を返すと、箒とちり取りを持ってきたルイスの方へと駆け寄っていった。
身を焦がす程の後悔とはまた異なるが、苦い思い出の一つであることには違いなかった。謝る機会を逃してしまったことも含めて。
縁の欠けたカップを揺らしながらそんなことを思い返していると、コツコツと、小さく窓を叩く音がした。
振り返ると、窓枠の外側に鳩が止まっていた。真っ白い翼が、昼間の日差しの中で輝いて見える。
「やあ、チャーリー。よく来たね」
窓を細く開けてやると、彼は待ち切れないといった様子で室内に身を滑り込ませてアルバートの肩に飛び乗った。くるくると喉を鳴らすのが、甘えられているようでくすぐったい。
アルバートはチャーリーを肩に乗せたままテーブルまで戻ると、皿の上に取っておいたパンの欠片を彼に与えた。が、今日はいつもほど勢いが良くない。すぐに食べずに、欠片をつついて遊んでいる様子さえ見受けられた。
「お腹が空いていないのかな?」
ふわふわとした背中を撫でると、チャーリーの興味はすぐさまパンの欠片からアルバートの方へと移った。
アルバートは左手でチャーリーの相手をしながら、右手でそっと彼の足の筒から書簡を抜き取った。
チャーリーはぴょこぴょこと飛び跳ねてアルバートの腕へとよじ登る。忙しなく首を動かしてアルバートの顔を覗き込んだり、白い翼を見せつけるように羽根を広げてみたり、その仕草の一つ一つが可愛らしくて、アルバートは思わず頬を緩めた。
しばらくの間そうして戯れていたが、やがてチャーリーがちらちらと窓の方を気にするようになった。
「もう、帰る時間かい?」
本音を言えばもう少しだけいてほしかったが、この狭い部屋にいつまでも閉じ込めておくのは可哀想だろう。彼には彼の帰る場所があり、仕事があるのだ。
アルバートは腰を上げ、窓を開けた。
「またおいで」
そう言葉をかけると、チャーリーはコトリと首を傾げた。また笑みが漏れる。
チャーリーはアルバートの腕を蹴って飛び上がった。翼を大きくはためかせた拍子に白い羽根が一枚抜け落ち、ひらひらと風に舞いながら落ちていく。それに気を取られた一瞬のうちに、チャーリーはあっという間に飛び去ってしまった。
後にはテムズ川の向こうにタワーブリッジがそびえ立つ、元の景色だけが残された。一抹の寂しさが過るが、先ほどとは比べ物にならないほど胸が軽くなっているのも確かだ。
丸められた書簡を手の中で転がしながら、アルバートは椅子へ戻った。
チャーリーの飛行に支障を来さない大きさの紙片に綴られる文章は、そう長いものではない。精々新聞記事の見出し程度だ。しかしマイクロフトが選ぶ話題は、どれも明るいものばかりだった。
誰でも無償で通える学校が開かれたとか、参政権の拡大を謳った法案が可決目前だとか。そしてそうしたニュースの隙間に、残してきたルイスたちの話題も挟まれる。
チャーリーがもたらす報せは間違いなく暗い幽閉生活に投げかけられた光で、アルバートは辛うじて世界と繋がりを保っていられた。タワーブリッジが佇む窓の向こうに、幾らかの希望を見出すことができた。
こちらから返事を書いたことは一度もない。看守に頼めば紙と筆記具くらいは用意してもらえるはずだが、用意してもらったところで何を書けばいいのかアルバートには分からなかった。
そっと指を滑らせて、紙片を開く。
書簡を開く瞬間は、いつも少し緊張する。
マイクロフトがあえて明るいニュースばかりを選んでいることは分かっていたが、つい身構えてしまう。もしルイスたちの身に何かあれば……とつい考えてしまうのだ。
恐る恐る小さな紙切れに詰め込まれた文字に目を通して、アルバートはふっと吹き出した。
「そうか、チャーリー。今日はおやつをもらっていたんだね」
皿の上には、チャーリーがつついたパンくずが疎らに残っている。いつもは喜んで食べるのに、今日はあまり気が進まない様子だったことに得心がいった。
フレッドは以前からあちこちで野良猫に餌をやっているようだったが、ついにチャーリーにまで。そしてそのことをマイクロフトがわざわざ書いて寄越したと思うと、可笑しくてたまらなかった。
久しぶりに声を立てて笑うと、自身の声が石壁に反響して思ったより大きく響いた。空虚な部屋にいることをまざまざと突きつけられ、不意に身を刺すような孤独感がアルバートを襲った。
チャーリーの来訪に少しだけ上向いたかと思われた心がまた冷え込んで、目の奥がじわりと熱くなる。
小さな紙片を強く握り締め、アルバートは椅子の上で項垂れた。窓の向こうに佇むタワーブリッジの影だけが、その姿を見下ろしていた。
初出:Pixiv 2024.05.09
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アルバートとフレッドがちょっと気まずかった時のことを思い出す、三年間の話。
マイクロフト・ホームズが予定通りの時刻にディオゲネス・クラブへ立ち寄ると、カウンターの奥のボードに青いピンが立っていた。
青いピンは、主に仕事絡みでの来客を示す。場所は三階の談話室。私語厳禁をモットーとするこのクラブで、マイクロフトが利用するためだけに会話が許された一室だ。もちろん、話し声がクラブの静寂を乱さないように防音対策は抜かり無い。
彼がロビーを通り抜けるとき、受付係は目礼だけを返した。
厚めの絨毯が敷かれた階段を上がって、まっすぐに目的の部屋の扉を開ける。
来客――フレッド・ポーロックはすでに室内で待機していた。と言っても、マイクロフトが予期していたように所在なさげに直立していたわけではなかった。
彼は部屋の隅にしゃがみ込んで、コンソールテーブルの上の鳥籠を一心に覗き込んでいた。何やらぶつぶつと呟いていて、マイクロフトが入室しても気がついた様子がない。
「何をしている?」
「……っ!」
背後から声を掛けると、フレッドはばね仕掛けのおもちゃのような勢いで立ち上がった。籠の中にいたチャーリーが、驚いてバサバサと羽根を鳴らす。
本来ならば情報を盗もうとしているのではないかと疑うべきところだが、フレッドに関してはその心配は無用だろう。その証拠に、立ち上がった拍子に彼の手のひらから小さな黄色っぽい粒が転げ落ちた。
フレッドは凍りついたように動かない。マイクロフトはつかつかと歩み寄り、絨毯の上に落ちたそれを拾い上げた。
乾燥させたトウモロコシの粒だった。
チャーリーが籠の隙間からくちばしを突き出し、ねだるようにくるくると喉を鳴らした。
「なんだ、チャーリー。おやつをもらっていたのか」
「……も、申し訳ありません」
マイクロフトが拾ったトウモロコシを格子の前に持っていくと、チャーリーが素早い動作でついばんだ。こころなしか、普段与えている飼料よりも食いつきがいい。
鳩に好き嫌いがあるなどとは考えたこともなかったが、もしかすると、彼はすり潰した麦の粒よりトウモロコシの方が好みなのかもしれない。
「構わないよ。これから仕事に出るところだったから、いい腹ごしらえになっただろう。ただ、次からは報告してくれ。君が来るときは餌の量を調整しておこう」
「あ、ありがとうございます……」
フレッドは小さく頭を下げた。
「君は無類の猫好きだとルイスから聞いていたが……鳥も好きなのか?」
「え……はい。あの、よく人に慣れていて可愛いなと思ったので……すみませんでした」
今日彼がここを訪れた目的は、街で仕入れた情報の定期報告だ。たまたまポケットにトウモロコシが入っていた訳ではないはずだから、チャーリーにやるチャンスを窺って密かに用意していたのだろう。
前回ここに来てもらったときも、確かにチャーリーの鳥籠をここに置いていた。鳥籠をちらちらと気にしていることには気がついていたが、まさか彼のためのトウモロコシを持参していたとは。
「少し待っていてくれ」
そう断ると、フレッドは小さく頷いて部屋の隅に下がった。机についたマイクロフトの手元が見えない位置だ。
よく教育が行き届いていることに満足を覚えながらマイクロフトは引き出しから小さく切った紙片を取り出した。数秒考えて、短い文章を書きつける。
鳥籠の扉を開けてやると、チャーリーは小さく羽根を動かしてマイクロフトの腕に飛び乗った。足にくくりつけられた筒に、丸めた紙片が押し込まれるのを大人しく待っている。
伝書鳩を使うところを見るのは初めてなのか、フレッドはわずかに首を伸ばしてその様子を観察していた。
今日はよく晴れていて、風も穏やかだから飛行にも支障なさそうだ。窓を開け放つと、表通りのざわめきが心地よく耳に届いた。
マイクロフトは窓の外に腕を伸ばす。
フレッドがあまりに物珍しそうに見つめるものだから、その姿にまだ小さかった頃の弟を連想して、どこか得意な気持ちになると同時に胸の奥がチクリと痛んだ。
チャーリーがマイクロフトの腕を蹴って飛び上がる。小さくも力強い風が巻き起こり、彼はまっすぐに東へ飛んでいった。
だんだんと小さくなっていく白い翼を見送りながら、フレッドは彼の目的地について訊ねようとはしなかった。
一諜報員として、その態度は正しい。正しいのだが、もしそのことについてフレッドに尋ねられたのならマイクロフトは何と答えるべきだろうか。ふとそんなことを考えた。
「さて、仕事の話をしようか」
窓を閉めながら振り返ると、フレッドは表情を引き締めて頷いた。
フレッドから街での出来事について報告を受けるのはいつも面白い。彼は特別話上手という訳では決して無いが、淡々と語られる市井の出来事に耳を傾けるのはマイクロフトにとって良い息抜きだった。
それに、彼が仕入れた他愛のない噂話が当時ロンドンを騒がせていた金庫破りのアジトを特定する材料になったこともあるのだから、軽視はできない。
だが同時に、噂話がそうした具体的な成果につながる例は稀だ。どんなに些細な内容であってもこつこつと拾い集めてくる根気は見上げたものだった。
報告が一段落したところで、マイクロフトは唐突を装って切り出した。
「君は何か、アルバートに言ってやりたいことはあるか?」
フレッドは丸い目をぱちくりと瞬かせた。
「お会いできるのですか?」
「まさか。何度尋ねても門前払いだ」
「……そうですか」
フレッドはどこかほっとした顔で頷いた。
アルバートは末弟であるルイスの面会さえも断っている。それなのにもしマイクロフトが立場にものを言わせてアルバートと面会していたとなれば、彼にとってあまりいい気はしないのだろう。
「僕からお伝えすることはありません。ずっとお待ちしています、とだけ……皆と同じ気持ちです」
「そうか」
「でも、個人的に一つ……」
「何だね?」
「アルバート様に、謝りたいことがあります」
「ほう」
彼と本格的に仕事を共にするようになってしばらく経つが、彼が『個人的』な話をしてくれたことはまだ一度もない。
マイクロフトはほんの少し椅子を引いた。なるべくリラックスして見えるように座り直して、フレッドの言葉の続きを待つ。
「モリアーティ家にお世話になり始めたばかりの頃、ティーカップを割ってしまいました」
彼があまりに神妙な表情でそう告げるから、思わず笑ってしまいそうになった。しかし彼はこちらの反応など気にもとめず続けた。
「あんなに綺麗な茶器を運ぶのは初めてで、緊張して手元ばかりに注意していたから、絨毯の縁に躓いてしまって……カップが床で砕けた瞬間、何よりもまず、近くに立っていたモランが破片で怪我をしていないか確かめるべきでした。それなのに、僕は咄嗟にアルバート様の方を見てしまったんです」
フレッドは床に視線を落とした。カップの残骸がまだそこに散らばっているかのように。
「僕の視線に気がついた瞬間、アルバート様はとても傷ついた顔をなさいました」
「……」
「アルバート様が僕のことを怒鳴りつけたり鞭で打ったりするはずがないと、わかっていたはずなのに……咄嗟に、顔色を窺ってしまって……。カップを割ってしまったことはその場で謝って、アルバート様も、他の皆さんも許してくれました。でも、その瞬間のことだけは、どんなふうに言葉にすればよいのか分からなくて、どうしても言い出せなくて……」
フレッドはそこで話しすぎたことに気がついて、「すみません」と小さく呟いて言葉を切った。
その気持ちはわかる気がした。不意の出来事だったから尚更、お互いに取り繕うことができなかったのだろう。
アルバートは目下の者や年少者に慕われこそすれ、怯えた目を向けられることはほとんど無かったはずだ。それは彼が横柄な貴族を嫌悪し、ああはなるまいと自身に言い聞かせ、その矜持に違わぬ振る舞いをし続けてきたからだ。
「それは何年くらい前のことだね?」
「ええと……七、八年くらい前かと」
「そんなに昔のことなら、と言いたいところだが……覚えているだろうな、アルバートなら」
フレッドは黙って頷いた。
気まずい空気のままうやむやになってしまった出来事ほど、その後何年もふとした瞬間に思い出してしまうものだ。ましてや、彼はアルバートの中で最も根深いコンプレックスを刺激してしまったのだ。
「アルバート様、その後、冗談を言って笑わせようとしてくれましたけど……うまく反応できなくて。それがますます申し訳なくて……」
「そうか……直接会って話ができる日まで、温めておくといい」
「はい」
フレッドは小さく頭を下げて、退出していった。
一人になった部屋の中で、マイクロフトは椅子の背もたれに身を預けながら考える。
あの事件に関わった者は誰しも、伝えたい言葉を無数に抱えている。あの寡黙なフレッドさえ、思わずマイクロフト相手に漏らしてしまうほど。
チャーリーの翼に託せる手紙はごくささやかなものでしかない。けれど、彼の遠い祖先が方舟に持ち帰ったオリーブの枝のように、アルバートの元にも限りない希望を運ぶことができると信じたかった。
*
ロンドン塔でアルバートに与えられた部屋には、書物も絵画も何も無い。椅子に腰掛けて物思いに沈む間は、冷たい石壁か小さな窓を眺める他なかった。
高い塔の周囲には遮るものが無く、窓からはタワーブリッジを一望することができる。その光景は常にアルバートを苛んでやまなかった。夜ごと、橋の上から真っ逆さまに落ちていく弟たちの姿を幻視しては心をかき乱された。
この日もアルバートは、幽鬼のように青白い顔で窓辺の椅子に腰掛けていた。昨夜もほとんど一睡もせず、二度と戻らない過去を顧みてはどうにもならない後悔に苦悶していた。
外はよく晴れていて、曇った窓ガラス越しに差し込む僅かな日差しが、暗闇に慣れた目を刺した。そびえ立つタワーブリッジの影が網膜に焼き付くようだった。
しばらくの間まんじりともせず窓の外を眺めていたアルバートだったが、ふいに立ち上がった。
少し前に、塔を守る看守の一人が食事を持ってきてくれたのだ。つい数分前だったかもしれないし、数時間前だったかもしれない。ともかくそのことを思い出したアルバートは機械的な動作で立ち上がり、扉の横に置かれた小さなテーブルから食事の載ったトレイを取ってきた。
自らここに閉じこもるようになって以来、アルバートは与えられる食事を残したことはない。無理に押し込んで吐き戻してしまうことも度々あったが、食事を断って緩やかに自殺することなど許されるはずもないと考えていた。
パンひと欠片を、冷めたスープで何とか流し込んだ。
もしこの塔の看守か炊事係の中に自分を恨む者がいたのなら、この食事に毒でも仕込んではもらえないだろうか――そんなふと妄想が頭を過ったが、すぐに首を振って打ち消した。
自分はここで少しでも長く苦しまなくてはならない。何より、こんな考えは誠実に職務をまっとうしてくれている彼らに対して無礼極まりない。
同じく冷めた紅茶を飲んで食事を終えてしまおうとカップを傾けたとき、カップの縁が欠けていることに気がついた。
持ち手の部分の直ぐそばで、うっかり口をつけて唇を切ってしまうような位置ではないから、まだ使用できると判断されたのだろう。
白い断面をぼんやり眺めているうちに、ふと、脳裏に過る出来事があった。
ずいぶん前の話になるが、懐かしいモリアーティの屋敷で、フレッドがカップを落として割ってしまったことがあった。
カップは特に思い入れのある品ではなかったし、熱い紅茶ごとぶちまけてしまったわけでもない。しかし真っ青になって謝るフレッドが気の毒になって、アルバートは冗談のつもりで言ったのだ。
『大丈夫だよ、モラン大佐に弁償してもらうから』と。
あれは我ながら最悪だった、とアルバートは振り返る。
本当に冗談のつもりだったのだ。事実、モラン本人とて真に受けたりはしないだろう。しかし、顔を上げた時の、フレッドの絶望した瞳が忘れられなかった。
あれは特別な由緒があるわけでもない、モリアーティ家の食器棚に無数にひしめいていたティーカップのうちの一つに過ぎなかった。アルバートにとっては割れてしまっても少しも惜しくない品だった。
だが、それは幼かった彼にとっては知る由もないことだ。自分のせいでモランが莫大な負債を背負うことになってしまった。純真なフレッドはアルバートの冗談を真剣に受け止めて、強いショックを受けていた。
『も、モランは悪くないです』
フレッドが震える声で、絞り出すように言った。そこでようやく、アルバートは自分の失敗を悟った。
すぐに気まずい空気を察知したモランが飛んできて『そうだそうだ、俺関係ねぇだろうが。下らねぇ冗談言ってないで、ほら、片付けるぞ』とフレッドの背中を叩いた。冗談、という言葉をあえて強調しながら。
我に返ったフレッドは、慌てて踵を返すと、箒とちり取りを持ってきたルイスの方へと駆け寄っていった。
身を焦がす程の後悔とはまた異なるが、苦い思い出の一つであることには違いなかった。謝る機会を逃してしまったことも含めて。
縁の欠けたカップを揺らしながらそんなことを思い返していると、コツコツと、小さく窓を叩く音がした。
振り返ると、窓枠の外側に鳩が止まっていた。真っ白い翼が、昼間の日差しの中で輝いて見える。
「やあ、チャーリー。よく来たね」
窓を細く開けてやると、彼は待ち切れないといった様子で室内に身を滑り込ませてアルバートの肩に飛び乗った。くるくると喉を鳴らすのが、甘えられているようでくすぐったい。
アルバートはチャーリーを肩に乗せたままテーブルまで戻ると、皿の上に取っておいたパンの欠片を彼に与えた。が、今日はいつもほど勢いが良くない。すぐに食べずに、欠片をつついて遊んでいる様子さえ見受けられた。
「お腹が空いていないのかな?」
ふわふわとした背中を撫でると、チャーリーの興味はすぐさまパンの欠片からアルバートの方へと移った。
アルバートは左手でチャーリーの相手をしながら、右手でそっと彼の足の筒から書簡を抜き取った。
チャーリーはぴょこぴょこと飛び跳ねてアルバートの腕へとよじ登る。忙しなく首を動かしてアルバートの顔を覗き込んだり、白い翼を見せつけるように羽根を広げてみたり、その仕草の一つ一つが可愛らしくて、アルバートは思わず頬を緩めた。
しばらくの間そうして戯れていたが、やがてチャーリーがちらちらと窓の方を気にするようになった。
「もう、帰る時間かい?」
本音を言えばもう少しだけいてほしかったが、この狭い部屋にいつまでも閉じ込めておくのは可哀想だろう。彼には彼の帰る場所があり、仕事があるのだ。
アルバートは腰を上げ、窓を開けた。
「またおいで」
そう言葉をかけると、チャーリーはコトリと首を傾げた。また笑みが漏れる。
チャーリーはアルバートの腕を蹴って飛び上がった。翼を大きくはためかせた拍子に白い羽根が一枚抜け落ち、ひらひらと風に舞いながら落ちていく。それに気を取られた一瞬のうちに、チャーリーはあっという間に飛び去ってしまった。
後にはテムズ川の向こうにタワーブリッジがそびえ立つ、元の景色だけが残された。一抹の寂しさが過るが、先ほどとは比べ物にならないほど胸が軽くなっているのも確かだ。
丸められた書簡を手の中で転がしながら、アルバートは椅子へ戻った。
チャーリーの飛行に支障を来さない大きさの紙片に綴られる文章は、そう長いものではない。精々新聞記事の見出し程度だ。しかしマイクロフトが選ぶ話題は、どれも明るいものばかりだった。
誰でも無償で通える学校が開かれたとか、参政権の拡大を謳った法案が可決目前だとか。そしてそうしたニュースの隙間に、残してきたルイスたちの話題も挟まれる。
チャーリーがもたらす報せは間違いなく暗い幽閉生活に投げかけられた光で、アルバートは辛うじて世界と繋がりを保っていられた。タワーブリッジが佇む窓の向こうに、幾らかの希望を見出すことができた。
こちらから返事を書いたことは一度もない。看守に頼めば紙と筆記具くらいは用意してもらえるはずだが、用意してもらったところで何を書けばいいのかアルバートには分からなかった。
そっと指を滑らせて、紙片を開く。
書簡を開く瞬間は、いつも少し緊張する。
マイクロフトがあえて明るいニュースばかりを選んでいることは分かっていたが、つい身構えてしまう。もしルイスたちの身に何かあれば……とつい考えてしまうのだ。
恐る恐る小さな紙切れに詰め込まれた文字に目を通して、アルバートはふっと吹き出した。
「そうか、チャーリー。今日はおやつをもらっていたんだね」
皿の上には、チャーリーがつついたパンくずが疎らに残っている。いつもは喜んで食べるのに、今日はあまり気が進まない様子だったことに得心がいった。
フレッドは以前からあちこちで野良猫に餌をやっているようだったが、ついにチャーリーにまで。そしてそのことをマイクロフトがわざわざ書いて寄越したと思うと、可笑しくてたまらなかった。
久しぶりに声を立てて笑うと、自身の声が石壁に反響して思ったより大きく響いた。空虚な部屋にいることをまざまざと突きつけられ、不意に身を刺すような孤独感がアルバートを襲った。
チャーリーの来訪に少しだけ上向いたかと思われた心がまた冷え込んで、目の奥がじわりと熱くなる。
小さな紙片を強く握り締め、アルバートは椅子の上で項垂れた。窓の向こうに佇むタワーブリッジの影だけが、その姿を見下ろしていた。
初出:Pixiv 2024.05.09