No.42

にじむ遠景
 ルイフレ、記憶あり、転生現パロ。フレッドが死んだときの描写を捏造してます。

 ルイスのポケットの中で、スマートフォンがぶぶ、と小さな音を立てて震えた。
 おそらくは電話ではなく、SMSかメッセージアプリの着信だ。少し前を歩くルイスはスマートフォンを何度かタップして、すぐにコートのポケットにしまった。

「誰から……ですか?」

 フレッドは恐る恐る質問した。
 不躾な質問だと思ったが、尋ねずにはいられなかった。送信者が誰か、何となく想像がついたからだ。
 ルイスは「んー」と少しだけ考え込む仕草をしたが、すぐに悪戯っぽく口角を上げた。

「内緒」

 その表情は、遠い記憶の中の彼が見せたことのない類のものだった。彼も自分も、記憶こそ引き継いではいるものの、あの時とはもう違う人間になったのだ。
 その事実に、少しの寂しさを覚えた。しかし同時に、目の前にいる懐かしくも新しい彼の存在に、確かに胸が躍った。



 彼と百数十年ぶりの再会を果たしたのは、つい数十分前。
 現在は平凡な高校生をしているフレッドは、一日の授業を終えてアルバイト先へと向かっていた。冬も深まってきたその日、駅前の通りは既に日が傾き始めている。型落ちのスマートフォンで時刻を確認しながら足早に歩いていると、突然誰かに腕を掴まれた。
 驚いて振り返って、そしてさらに驚かされた。

「ルイスさん」

 意識するより早く、口をついて出た。その名前を口にするのは随分久しぶりだった。

「……フレッド」

 ルイスが泣きそうに眦を歪めた。自分を呼ぶ彼の声も、あの頃と変わりないように思えた。
 年齢は今のフレッドよりも少し上だろうか。フレッドは彼の頭の先からつま先までをまじまじと見つめた。ダッフルコートにトートバッグを提げているあたり、勤め人には見えない。せいぜい大学生くらいだろう。ふちの太い眼鏡が意外とよく似合っている。
 さらりとした金髪はあの頃と変わらなかった。しかし何よりフレッドの目を引いたのは、彼の頬にあの火傷痕が無かったことだ。
 フレッドにまじまじと見つめられて、ルイスは居心地悪そうに、照れくさそうに顔をしかめた。

「少し……話せますか?」

 フレッドは一も二もなく頷いた。
 バイト先にはその場で欠勤する旨を伝えた。後ろめたかったけれど正直それどころではなかったし、普段から真面目に働いていたお陰で仮病はすんなりと信じてもらえた。
 二人は疎らな人混みの中を、どこへ向かうでもなくゆっくりとした足取りで歩いた。

「ルイスさん、こんなに近くに住んでたんですね」

 何から話せばいいのかわからなくて、そんなどうでもいいことを口にしていた。もっと話すべきことがたくさんあるはずなのに。

「近く……というわけでもありません。今日は大学の講義が急に休みになって時間が空いてしまったから、本当にたまたま、途中で電車を降りてみたんです」
「寄り道ですか?」

 少し意外だった。学生が息抜きに遊び歩くこと自体は何もおかしくなかったが、あのルイスが。
 それに、寄り道をするにしても小さな商店街しかないこの駅でわざわざ下車したのは少し不思議だった。もう数駅先に行けば大きなショッピングモールがある。時間をつぶすなら、断然そちらの方がいいはずだ。
 フレッドが首を傾げているのに、ルイスも気がついたようだ。
 彼は立ち止まって、「あそこ」と建物の隙間から覗く小高い丘を指さした。そこには、今ではあまりお目にかかれなくなった古い洋館が建っている。

「電車の窓からいつも見えていて……気になっていたから、寄ってみようかなとふと思いついたんです」
「そうなんですか」
「こんなことなら、もう少し早く来ていればよかった」

 ルイスは残念そうに言った。
 しかしフレッドには、今日この時間に彼が気まぐれにこの町に立ち寄ってくれたことが、何かの導きに思えてならなかった。

「行ってみましょうか」

 そう提案すると、彼はぱっと顔を綻ばせた。



 ルイスのスマートフォンが音を立てて震えたのは、そこへ向かう道すがらのことだった。
 誰からなのかと尋ねてみても、はぐらかされてしまった。けれどその意味ありげな微笑み方を見れば、フレッドにもおおよその見当はついた。

「しゃ、写真とかないんですか」

 食い下がると、ルイスは「ふふふ」と楽しそうに笑った。

「実際に会いに来ればいいでしょう」
「行きます! 次の日曜に……」

 今の身分では、平日は学校に行かなければならないのがもどかしかった。

「君、家はこの辺りですか?」
「はい」
「でしたら、車で迎えに来ますよ。少し遠いから」
「ルイスさん、免許持ってるんですか?」
「一応。車は兄さんのを借りないといけませんが……」

 そこでルイスは慌てて口を噤んだ。
 会ってからのお楽しみにしておくつもりが、あっさり口を滑らせてしまったようだ。フレッドが思わず噴き出すと、ルイスもつられて笑った。

 取り留めのないことを話しているうちにあっという間に小さな町を横断して、二人は目的地に到着した。
 洋館の周囲はちょっとした公園になっている。日が暮れかけていたけれど、園内には犬を連れて散歩をする人や、散策を楽しむ利用者の姿が見てとれた。
 しかし時期が時期だけに、さすがに人影は疎らだ。温かい季節には色とりどりの花が咲き誇る花壇も、今はがらんとしていて物寂しい。
 誰もいない歩道に、二人分の影が長く伸びていた。

「向こうは植物園になってます」
「よく来るんですか?」
「うーん、たまに」

 洋館を見学するには入場料が必要だった。門をくぐった先にある小屋の中に、受付係の老人が退屈そうに座っていた。
 高校生までなら、学生証を見せれば割引が受けられる。自由に使えるお金には限りがあるのだから、利用しない手はなかった。
 フレッドは小銭と一緒に学生証を取り出して、受付係の老人に提示した。
 老人は皺に埋もれた小さな目で学生証を一瞥すると、入場チケットに日付入りのスタンプを押してくれた。先にチケットを購入してそのやり取りを横で見ていたルイスは、フレッドの肩を掴んでぐいと引いた。

「フレッド」
「はい」
「学生証、見てください」
「え」

 突然そんなことを言われて、フレッドはちょっと戸惑った。別に見られて困るものではないけれど、写りの悪い証明写真をわざわざ見せるのはちょっと恥ずかしい。
 まごついているうちに痺れを切らしたルイスが、フレッドの手から学生証を掠め取った。

「あっ」

 ルイスは真面目な顔つきで、数秒の間、フレッドの身分証明書に見入っていた。
 そんなに珍しそうに眺めるほどのものだろうか。そわそわと落ち着かない気持ちで待っていると、やがてルイスは満足したらしい。
 フレッドに向かって学生証を差し出した。

「誕生日、覚えましたから」
「……あっ」

 フレッドは思わず声を上げた。
 写真にばかり気を取られていたが、そういえば学生証には生年月日の記載もある。そして、以前のフレッド・ポーロックは自分の誕生日を知らなかったのだった。

「お祝いしますからね」
「い、いいです、別に……」

 照れくさくて、口の中でもごもご呟いた。ルイスは気にした様子もなく、機嫌良さそうに夕暮れの前庭を歩いていった。

 館の扉は開け放たれていた。
 もう夕方も遅い時間だったから、見物に訪れているのは自分達だけのようだ。
 屋内に一歩足を踏み入れると、古い木の匂いがした。
 短い廊下の先に、食堂へ繋がる扉と二階への階段が並んでいる。薄暗い室内にぽつりぽつりと明かりを落としている燭台やシャンデリアは、どれもそれらしく装った電灯だった。
 食堂を覗いてみると、マントルピースの脇に背の高い女性の彫像が取ってつけたように置かれている。この屋敷に縁のあるものではなく、地元出身の芸術家の作品らしい。
 分かりきってはいたが、モリアーティ家の屋敷とは似ても似つかなかった。
 辛うじて空気感らしきものを残してはいるものの、実際にあの時代を生きた記憶を持っているフレッドたちにしてみれば、改装に改装を重ねられたこの館は抜け殻も同然だった。
 入り口脇には、見学者のための簡単な見取り図と屋敷の来歴を記した案内板まで掛けられている。ルイスはその細々とした紹介文を真面目に読み込みながら、呟いた。

「あまり懐かしい感じはしないですね」

 彼も同じことを考えていたようだ。

「そうですね。エアコンもついてますよ」
「wi-fiまで飛んでる」

 くだらないことでくすくすと笑いあいながら、二人は二階へ上がった。無数の見物人が昇り降りしてきたであろう木の階段は、中央のところがすり減って少しだけ窪んでいた。
 古い建物だけあって、階段は狭くて急だ。一番上の段まで登って廊下に出ると、視界がぱっと開けた気がした。
 突き当りの窓から夕陽が差し込んで、色褪せた壁紙が鮮やかに照っていた。
 二人はどちらともなくその窓の方へ歩み寄っていた。小高い場所に立っているだけあって、景観はなかなか悪くない。

「あ、あの電車」

 フレッドが窓の向こうを指さした。
 おもちゃのように小さく見える街の中に、オレンジ色の夕陽を反射しながら、これまたよくできた模型のような電車がカタコトと走っているのが見える。

「ルイスさんがいつも乗ってる路線ですか?」
「そうですね。いつもあそこから、この窓を眺めていたんですね……」

 ルイスはしみじみとした口調で呟いた。

「フレッドの家はどの辺りですか?」
「うーん、ここからじゃ見えないです。あ、学校なら見えますよ」
「どれ?」
「あの、川の向こうの白い建物です」

 しばらくの間、二人は肩を寄せ合って外の景色を眺めていた。
 やがて、フレッドの方が先に窓枠から身体を引いた。

「そろそろ出ないと。ここ、確か十七時までですから」

 閉園の時間までまだいくらか余裕はあったが、窓の外はすでに暗くなり始めていた。この洋館は公園の中でも奥まった場所にあったので、門まで歩く時間を考えればそろそろ出ないといけないだろう。
 廊下を引き返そうとしたフレッドの腕を、ルイスが掴んだ。

「……ルイスさん?」

 彼は何も答えない。
 振り返ってみても、夕陽を背にして立つ彼の表情はよく見えなかった。
 ぱち、と瞬きすると同時に、フレッドの頭の中で小さな火花が閃いた。
 前にも、こんなことがあった気がする。
 いつのことだっただろう。今より少し背が高くて、厳しい顔つきをしたルイスが、真剣な表情でこちらを見下ろしている。あれも、冬の夕暮れ時のことだった。こうして、廊下に立って二人で話をした。
 そうだ。サウサンプトンから大陸行の船に乗る、前の日だった。

「ごめんなさい」

 思い出した途端、そう口走っていた。
 その言葉に、ルイスの張りつめていた表情がぐしゃりと歪んだ。右目の端から、ぽろりと涙の粒が転がり落ちたのが、逆光の中でも分かった。
 濡れた目元を拭う素振りすら見せず、フレッドの腕を掴んだまま、ルイスは口を開いた。

「僕、待ってたんですよ」
「はい」
「必ず帰ってくるように言いました」
「……はい」

 何も言えなくて、フレッドはその場で項垂れた。親に叱られた子供のように。
 ひとつ前の人生で、二人は大英帝国の諜報機関に所属していた。理想のためにありとあらゆる罪を犯し、その計画が幕を引いた後も、国とそこに生きる人々のために身を捧げて戦った――と言えば聞こえはいいが、その終わりはあまり劇的なものではなかった。
 とある任務でロンドンを離れたフレッドは、そのまま帰って来られなかったのだ。

「ごめんなさい」

 フレッドはもう一度謝った。
 あの後世界がどうなったのか、図書館の本や歴史の教科書でおおよそ把握していた。もちろんそこに仲間達の名前は見当たらなかったけれど、自分が死んだ後、遺された彼らに課せられた苦難は想像に難くなかった。
 フレッドはちらりとルイスの方を見上げた。
 彼はいまや隠そうともせず、ぐすぐすと鼻を鳴らしていた。前世では彼が泣くところなどついぞ見たことがなかったが、今の彼はちゃんと人前でも泣けるようで、そのことに少しだけ安心する。

「大変だったんですからね、あの後。君からの連絡が急に途絶えて、行方が分からなくなって、皆どれだけ心配したか。モランさんなんて現地まで探しに行くって大騒ぎして、でもすぐに渡航するのも難しい情勢になってしまって……」
「……」
「まったく、信じられない。現地の子供を庇って死ぬなんて……」
「え、何で知ってるんですか」
「探したからに決まってるじゃないですか!」

 思わず尋ねると、ルイスが噛みつくように答えた。

「探しに行くことができたのは、ずいぶん経ってからでしたけど……現地の住人たちに聞いて回って、子どもの頃、過激派のごたごたに巻き込まれて危なくなったところを白人の青年に助けられたという方を見つけて……」
「あ、あの子、無事だったんですか」

 ほっとしたのが顔に出てしまったのか、ルイスに「ばかっ」と怒鳴られた。

 全くもって、彼には似つかわしくない罵り文句だった。

「僕が見つけたときにはもういいおじさんでしたよ! 奥さんも子どももいました!」
「そ、そうなんですか」
「結局その白人の身元は判らなかったから、地元の墓地に葬られたって……『遅くなってしまったけど家族が来てくれて良かった』って、異国の墓石の前に案内された僕の気持ちが分かりますか」
「…………」

 何も言えなかった。
 あの時、市街地で突然銃撃戦が始まった。
 近くにある英国人居留地に紛れ込んで隠密行動をしていたフレッドは、速やかにその場を離れるべきだったのだろう。けれど騒然とする往来の真ん中で呆然と立ち尽くす小さな男の子の姿を目にした途端、任務とか、贖罪とか、待っている仲間たちのこととかが、一瞬だけ頭から吹き飛んでしまった。
 飛び出した先に銃弾の雨が降ってきた、のだと思う。
 少年が足をもつれさせながら建物の方へ逃げていくのが、何とか視認できた。フレッドは彼の無事に安堵しつつ、これはまずいことになったなぁ、とぼんやり考えた。
 もう指の一本も動かせなくなっていた。ここはフレッドの故郷よりもはるかに温暖な土地であるはずだったのに、寒くてたまらなかった。視線だけを動かすと、ロンドンではちょっとお目にかかれないほど眩しい青空が広がっている。
 帰りたい。
 フレッド・ポーロックが最期に思ったのは、ただそれだけだった。
 そこにはきっと、後悔とか無念とかいった感情が多分に含まれていただろう。こんな遠い異国の地で、誰にも知られず死にたくない。まだやらなければならないことが残っている。せめてもう一度だけみんなに会いたい――。
 しかし、彼の中にあったのは悲嘆の情だけではなかった、と今のフレッドは思うのだった。
 最期の瞬間に出てくる言葉が「帰りたい」だなんて、自分にとっては上出来の締めくくりなのではないだろうか。家も家族もないところからスタートした人生だったのだから。
 抜けるように青い空を見上げながら、フレッドの意識は懐かしいロンドンの街へと飛んでいた。
 苦しいことも多かった人生の中で、それでも手に入れた自分だけの居場所。巡り合った家族。

「帰れなかったこと、僕は……フレッド・ポーロックは、ずっと後悔してました。でも、ルイスさんが迎えに来てくれていたんですね」

 腕を掴んだままだったルイスの手に、フレッドはそっと自分の手を重ねた。
 あの時助けた少年がすっかり大人になっていたというのだから、五年や十年ではきかないだろう。その時、ルイスは何歳くらいだったのだろう。あの遠い街まで一人で来てくれたのだろうか。それとも、誰か一緒にいてくれたのだろうか。

「……ルイスさんは、長生きできました?」
「しましたよ。……したくもなかった」

 ルイスは拗ねたように、口を尖らせながら答えた。涙に濡れた目で、こちらを恨みがましく睨めつけている。
 彼が少しでも長く生きられたならよかった。それはきっと彼の兄たちが何より願ったことに違いないし、いつの間にかフレッドもまたそう願うようになっていたからだ。
 しかしそれを口にすると彼をますます怒らせてしまうのは目に見えているから、黙っていた。


 何となく手をつないだまま、二人は洋館を後にした。
 受付係の老人は、小屋の中でぼんやりとラジオか何かを聴いているようだった。二人が出ていくのを横目でちらりと見やって、やれやれやっと戸締りができる、といった様子で腰を上げた。
 空気がだんだんと冷えてきた。小高く開けた場所にいるせいか、日暮れはいつもより遅い気がした。
 ルイスはフレッドの後ろを大人しくついてくる。
 もう少し温かくなったらまた一緒に来たいな、と寂しい花壇を眺めながら考えた。シーズンになると、ここの薔薇園は毎年ちょっとした行楽スポットになるのだ。

「帰りたくない……」

 公園の門が見えてきたところで、ルイスがぽつりと呟いた。これもまた、あまり彼らしくない発言に思えた。

「遅くなると、ウィリアムさん達が心配されるんじゃないですか?」
「今日は留守なんです。アルバート兄様は週末まで帰って来られないし……」

 ルイスはもう秘密にするつもりもないようだった。フレッドは「そうなんですね」と相槌をうちながら、だから今日は寄り道する気になったんだな、と内心で納得していた。

「どこかで、もう少し話しましょうか」

 そう提案してみたが、ルイスはきっぱりと首を横に振った。

「いえ。やっぱり高校生を遅くまで連れ回すわけにはいきません」
「僕は別に構わないですよ」
「君がよくても……」

 言いかけて、ルイスは語尾を濁した。彼が言おうとしたことを察して、フレッドは小さく微笑んでみせた。

「少しくらい帰りが遅くなっても、怒る人はいません」
「……一人、なんですか?」
「まぁ、色々あって」

 生まれたときの状況も、前世と似るものなのだろうか。ルイスとウィリアムがまた兄弟として生まれたのであれば、その可能性は高いだろう。フレッドは今回の人生でも、家族というものと縁が薄かった。
 気づかわしげな視線を向けるルイスに、フレッドは努めて明るく言った。

「お互い、話したいことも聞きたいことも、たくさんありますね」
「……送っていきます」
「え、大丈夫ですよ。駅から反対方向ですし」
「週末、迎えに来ますから。場所を覚えておかないと」

 彼があまりにも真剣な顔でそう言うから、フレッドもつい「そういうことなら」と頷いていた。
 今日は何曜日だっけ。早く週末になればいい、と思った。
 それと同時に、彼と並んで歩くこの時間がもう少し長く続けばいいとも思った。

初出:Pixiv 2024.03.03

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