No.41

ディオゲネス・クラブ殺人事件 後編
 タイトル通り。



 この新しい事実に、一同は騒然となった。グレッグソン警部補はホームズに先に発見されてしまったことに悔しげに顔を歪ませながらも、吸い殻を調べるよう部下たちに指示を飛ばしている。
 狼狽える男たちを尻目に、オルコット女史が冷静に口を開いた。

「毒が仕込まれていたのは彼の煙草だった……であれば、私たちの容疑も晴れたと考えてよろしいかしら」
「確かに。彼の屋敷の使用人ならいくらでも毒入りの煙草を仕込めたはずですよ」

 ウェルティ氏もこの意見に同意した。
 カーライル氏のテーブルの上には、ヒナギクの意匠をあしらった銀のシガレットケースが放り出されている。煙草が十二本入るケースの中に、残されているのは十本。そして灰皿には二本の吸い殻があった。見たところ、他の煙草には毒を注入した痕跡は無いようだった。
 もし彼の執事が毒入りの煙草をシガレットケースに仕込んだのなら、主人が『当たり』を引くまで犯行の発覚を遅らせ、容疑者を絞り込みにくくすることができるだろう。
 しかしホームズはすかさずこの考えを否定した。

「そうなるとマホーニーさんのポケットから毒の小瓶が出てきたことの説明がつかなくなる。第一、使用人がやったのなら家の中で吸うよう仕向けるはずだ。警察が来る前に灰皿を片付けちまえば、吸い殻を調べられるリスクを回避できるからな」
「それは、確かに……」

 再び容疑者候補へと引きずり戻されて、三人の会員は不安げに顔を見合わせた。

「儂がここに来たのは十七時十分だ。カーライルが死んだのが十七時三十分以降なら、儂には煙草に毒を仕込む時間は殆どなかった」
「あら。ここに来た時間なんて関係あるのでしょうか」
「どういう意味かね?」
「ウェルティさん、貴方、廊下でカーライルさんと睨み合っていたじゃありませんか。何かトラブルでもあったのではなくて?」
「本当ですか、ウェルティさん? 何のお話を……あ、ここでは会話ができませんでしたねぇ」
「いや、それは……。そ、そんなことより、オルコットくん。私達のことを盗み見していたのかね?」
「盗み見なんて。たまたまお手洗いに立ったとき、廊下で貴方がたをお見かけしただけです」
「ふむ。しかしオルコットくんもラウンジを出ていたということは、すなわち……」
「あ。な、何ですかその目は? まさか私を疑っておいでか?」
「あー待て待て、三人で勝手に喋らないでくれ」

 ホームズが手を叩いて会員たちを制した。

「事件前後のあんたたちの行動を、時系列に沿って説明してくれ」




 三人の会員たちの証言を総括すると、こうだ。
 この日、一番最初にディオゲネス・クラブにやってきたのはレストン医師だった。
 時刻は十六時を少し過ぎた頃。彼はラウンジに入って左手の壁沿いの席に掛けて、パイプをふかしたり医学誌を読んだりして一人の時間を楽しんだ。
 十六時半ごろになると、後に待ち受ける運命などつゆ知らず、カーライル氏がやって来た。彼は入り口近くのテーブルについた。暖炉の前の暖かい場所で、彼が好んでよく使っていた席だという。
 その次にオルコット女史、最後にウェルティ氏が十分と間隔を開けずやって来た。オルコット女史は表通りの景色を楽しめる窓際の席に、ウェルティ氏は壁に飾られた風景画を眺められる一番奥の席にそれぞれ座った。
 四人の会員はラウンジの中で菱形を描くように、それぞれ離れたテーブルを使っていたわけだ。そして椅子はすべて入り口に背を向ける格好で配置されている。ラウンジに入ってきた人間がいちいち視界に写ったり、他の利用者と目が合ったりするのを防ぐための、徹底した配慮だった。

「ウェイターが紅茶を持ってくる前だったから、あれは十七時二十分頃だったと思う。カーライルが席を立ったんだ」

 ウェルティ氏が顎髭を引っ張りながら語った。
 彼はカーライル氏に金を貸していた。一週間ほど前、酒場でトランプに興じた際、負けが込んで手持ちが足りなくなったカーライル氏のために支払いの一部を肩代わりをしてやったそうだ。
 金額はさほど大きくなかった。しかし特別高給取りというわけでもないウェルティ氏にとっては少々惜しい金額でもあった。
 だから彼は席を立ったカーライル氏の後を追いかけ、『忘れていないだろうな?』という意味も込めて彼の肩を叩いたのだ。カーライル氏は『わかっている』と言いたげな顔で頷き返した。クラブハウス内で会話をすることはできなかったので、ウェルティ氏もその場は納得して引き下がった。
 彼らに続いてトイレに向かったオルコット女史が目撃したのは、まさにその場面だったようだ。
 用を済ませたウェルティ氏はそのままラウンジに引き返し、カーライル氏とオルコット女史はそれぞれトイレに寄ってから席に戻った。

「という事は、その時レストン医師はラウンジに一人きりだったわけですね?」
「えっ、いや、確かにそうでしたが……」
「その時、カーライルのシガレットケースはどこにあったんだ?」
「テーブルの上に置いてあった!」

 ウェルティ氏が力強く断言した。

「カーライルくんはもともと、持ち物をテーブルに置いたまま席を立つことが多かった。ついさっきも、彼の後を追って入り口の方に向かいながら『会員制のクラブとはいえ不用心な』と思ったのを覚えているから間違いない」
「それでは、ラウンジに一人きりだったレストン医師には、テーブルに放置されたシガレットケースに細工をするチャンスがあったわけですね?」

 グレッグソン警部補に睨まれて、レストン医師は可哀想なほど慌てはじめた。

「えっまさか、私が犯人だと!?」
「そもそも貴方は医者ですよね。毒薬も注射器も、簡単に用意できるはずだ」
「そ、そんな、待ってください! 確かに私はラウンジで一人になった時間がありました。けど、いつ誰が入ってくるかも分からない状況で彼のテーブルに近付いて、シガレットケースを開けて、煙草に注射器で毒を注入する……そんな細工ができたでしょうか? それに、細工をするチャンスがあったのはオルコット嬢も同じではありませんか?」
「え、なぜ私が?」
「私はカーライルさんのテーブルに背を向けて座っていたんです。トイレに行くふりをして、私が気づかないうちに細工を施すチャンスがあったはずでしょう?」
「言いがかりです。貴方が振り返りでもしたら、あっという間に見つかってしまうじゃありませんか」

 オルコット女史は話にならない、といった顔で首を振った。しかしこのままでは犯人にされかねないレストン医師は必死に抗弁する。

「それに……毒を仕込んだ注射器! 私はこのラウンジから一歩も出ていませんが、オルコット嬢はトイレに行っている。そこでこの決定的な証拠品を隠滅したのではありませんか?」
「確かに……このラウンジは一通り調べたが、トイレまではまだ調べていない。すぐに調べさせましょう」

 グレッグソン警部補は大きく頷いて、部下に指示を出した。「どうぞお好きに」とオルコット女史がうんざりした様子でため息をついた。




 三十分後。
 トイレの調査に向かった警官たちはすごすごと引き上げてきた。

「注射器とか毒薬の瓶とか、犯行を裏付けるような物証は何も出ませんでした。男子トイレからも」

 オルコット女史が、そら見たことかと言わんばかりに鼻を鳴らした。

「外部に共犯者がいて、窓越しに凶器を受け渡したりしたなら別ですが」
「周辺で聞き込みだけでもしておくか。ターナーたちの班で……」
「いや、その必要はない」

 部下に新たな指示を出そうとするグレッグソン警部補を、ホームズが遮った。名探偵がしばらく振りに口を開いたことで、室内に緊張とも期待ともつかないぴりりとした空気が走る。
 彼はいつもの考え事をするときの癖で、両手の指先を突き合わせていた。兄が腕組みしながら興味深げに見守っていることももはや気にならない様子だった。

「あんた方が探して見つからないって言うんなら、注射器はそもそもこのクラブハウスに持ち込まれてないんだろ」
「どういうことだ、シャーロック? 注射器が無ければ、どうやって煙草に毒を仕込むんだ」
「その方法を一つ思いついた。……グレッグソン、ここに来たとき、全員の持ち物検査はしたんだろう」
「当たり前だ」と警部補は鼻を鳴らした。
「シガレットケースは全員持ってただろ?」
「ん? ああ。確かに全員……あっ!」

 グレッグソン警部補が唐突に声を上げた。何か思い当たるところがあるようだった。その反応に、ホームズは獲物を追い詰める狩人さながらの、どこか高揚した表情で三人の会員たちの方を振り返った。

「そういうことだ。御三方、もう一度シガレットケースを出してみてくれ」

 ウェルティ氏とレストン医師はこの指示に素直に従った。もっとも、レストン医師が所持していたのはパイプ入れだったが。
 二人にやや遅れて、オルコット女史がハンドバッグを開けてシガレットケースを取り出した。
 彼女が取り出したそれを見て、私は思わず声を上げていた。

「あれ? これは……」

 表面にヒナギクの浅浮き彫りを施した、銀のシガレットケース。殺害されたカーライル氏のテーブルに置かれていたものと、全く同じデザインだった。

「あらかじめ毒煙草を仕込んだシガレットケースを、そっくりそのまま入れ替える。この方法ならテーブルの横でごそごそと小細工をする必要はない、だろ?」
「っくぅうう……」

 悔しげにうめき声を上げたのは、オルコット女史ではなくグレッグソン警部補だった。
 彼らが持ち物検査をした時点では、まだ煙草に毒が仕込まれていた事実は判明していなかったのだ。被害者のものと全く同じシガレットケースを持っている者より、毒の小瓶を持っていた者の方が怪しく見えてしまっても不思議はないだろう。
 私はちらりと視線を上げて、オルコット女史の表情を伺った。彼女は冷たい無表情でホームズを睨みつけた。

「あの。まさか私がカーライルさんを殺害したと仰っているのですか? たまたま同じシガレットケースを持っていただけで?」
「えっ」

 私はつい驚きの声を上げてしまった。まさかこの期に及んで反論してくるとは思っていなかったからだ。
 彼女は今度は私の方に噛みついた。

「私、何かおかしなことを言いまして? 毒の小瓶を持っていたからといって、それが毒を盛った証拠にはならないと仰ったのはあちらの探偵さんではありませんか」
「え……それは……」

 私は言葉に詰まった。
 確かに、彼女は『たまたま』被害者と同じデザインのシガレットケースを持っていただけだ。見たところ、中に入っている煙草も被害者のものと同じ銘柄だ。
 偶然にしては出来すぎている。だが、あり得ないとは言い切れないのも事実だった。




 オルコット女史のシガレットケースを検分していたグレッグソン警部補が歯噛みしながら首を横に振った。
 毒が注入されていた煙草は、カーライル氏が吸ってしまったあの一本のみ。彼女がシガレットケースのすり替えを行った証拠を示さなければ、彼女の犯行を証明することはできない。
 私はレストン医師の腕を叩いて耳打ちした。

「れ、レストンさん。彼女が席を立ったとき、何か気がついたことはありませんでしたか? 彼女がシガレットケースを入れ替えたとしたら、トイレに立った時しかあり得ないはずだ。その時、貴方は同じラウンジ内にいたんですから」
「……な、何も、見ておりません。だって、入り口に背を向けて座っておりましたし……」

 彼はもごもごと答えるだけだった。
 分かってはいたが、私はその答えに落胆した。彼もまさか自分がのんびりと寛いでいる背後でそんな恐ろしい企みが行われていたとは夢にも思っていなかっただろうから、大した注意も払っていなかったはずだ。
 しかし状況からして、犯人は彼女以外にありえない。私とレストン医師は縋るようにホームズの方を見た。ホームズはどこからか取り出した拡大鏡で、テーブルの上の灰皿を覗き込んでいる。
 やがて一つの結論を出したらしい彼は、オルコット女史の方を振り返った。

「……あんた、普段煙草なんて吸わないんだろう」
「だったら何だと言うんです?」

 彼女の強気な返答を無視して、ホームズはレストン医師の方を見やった。

「レストンさん。あんた前に、カーライルさんに『甘いものと煙草は控えるように』って言ったんだよな」
「え? えぇ……」
「彼はあんたの忠告に多少は耳を貸してたわけだ。……煙草の銘柄を、いつも吸ってるものより軽いのに変えてたんだからな」
「は?」

 声を上げたのはオルコット女史だった。

「灰皿に残された吸い殻をよく見てみろ。灰の形と大きさが、二種類あるのがわかるはずだ」
「た、確かに……粒の大きいものと小さいものがある」

 身を乗り出して灰皿を覗き込んだグレッグソン警部補が、信じられないと言った様子で答えた。
 ホームズは二つのシガレットケースからそれぞれ一本ずつ煙草を取り出して、彼に渡した。

「切って、中身を比べてみりゃ一目瞭然だ。同じメーカーが作ったものだから巻紙もチップペーパーもよく似ているが、間違いなく別種の煙草だよ」
「それは、つまり……」
「別々のシガレットケースに入っていたはずの二種類の煙草の灰が、被害者の灰皿に残ってる。となれば、答えは明白だ。あのご婦人がシガレットケースのすり替えを行った動かぬ証拠だろ?」
「お、おい。これを鑑識に……」
「その必要はありませんよ」

 部下に指示を飛ばそうとする警部補を遮ったのは、他ならぬオルコット女史だった。
 彼女は深々とため息をつくと、レストン医師を軽く睨んだ。

「先生、余計なことを言って下さいましたね」
「お、オルコットさん。それはつまり……」
「ええ、私がやりました」

 毒殺魔はあっさりと自白した。
 衝撃を受ける私たちを尻目に、彼女は部屋の隅に佇んでいたウェイターの方を向いた。例の、ケーキを運んだ背の高い方のウェイターだ。

「ごめんなさいね、ゴレッジさん。でもあなたの方はそう重い罪にはならないでしょう。私に頼まれて、そこの料理人さんのポケットに小瓶を入れただけなんだから。お金のことは、父に頼んでおきますから心配しないで。……あなたが受け取れるかどうかはともかく」

 また一つ爆弾を落とされて、ウェイターは大いに狼狽えた。マイクロフト氏は眉をしかめて額に手を当てている。クラブの使用人が犯罪に関わっていたという結末は、とうとう避けられなかったわけだ。

「何故……何故こんなことを」

 レストン医師がわなわなしながら声を漏らした。彼も医者として多くの人の死に立ち会ってきたが、知人が知人を殺してしまった場面に出くわしたのは初めてなのではないだろうか。
 オルコット女史は「別に」とそっけなく答えたが、すぐに堪えきれなくなったように呟いた。

「……私の友人が、あそこで死体になってる男に手ひどく捨てられた挙げ句死んでしまった、ただそれだけの理由です。彼に言わせると、爵位もない成り上がりの娘には価値がないそうですよ。彼のと全く同じシガレットケースを用意するのは簡単でした。だって、彼女がショーケースの前で真剣に頭を悩ませているのを、私、隣で見ていましたもの」

 オルコット女史は何も無い壁の方を睨みつけていた。人前で涙を零すまいと眦に力を込めているのだ。
 私の脳裏に、連れ立って買い物に出かける二人の女性の姿がありありと浮かんだ。賑わう百貨店の売り場で、どんな贈り物なら想い人に喜んでもらえるかあれこれ吟味する友人と、その様子に呆れながらも時折アドバイスをしてやるオルコット女史――。
 その結末がこんなにも虚しいものだとは信じたくなくて、私は必死に言葉を探した。

「しかし、それでも……カーライル氏は貴女のお友達からの贈り物を、今も大切に使っていた。彼女への愛情が、多少なりともあったということではありませんか?」
「だったら尚更、毒入り煙草を吸う前に気がついているはずでしょう。私がつい先日購入したばかりの新品のケースにすり替えられていたんですから。手元にちょうどいい道具があったから、何の愛着もなく利用していただけですよ」

 オルコット女史はぴしゃりと言い返すと、ヒールを鳴らしながらラウンジを出ていった。グレッグソン警部補と制服の警官たちが慌ててその後を追う。もちろん、あの背の高いウェイターも引っ張られていった。
 こうして、ディオゲネス・クラブでの殺人事件は幕を閉じた。




 後始末にはもう少し時間が掛かりそうだったが、いい加減夜も更けてきたので、ホームズと私は一足先に二二一Bへ引き上げさせてもらうことにした。表通りへ一歩出たところで、見送りに来てくれたマイクロフト氏が珍しく喉を鳴らして笑いながら言った。

「いいハッタリだったな、シャーリー」
「うるせーよ」

 ホームズは無愛想にそう答えると、さっさと歩きだしてしまった。いつものことであるが、彼が兄に対して向ける態度は生意気盛りの少年のようだ。
 私はマイクロフト氏に一礼してから、早足でホームズの後を追いかけた。

「ハッタリって、何のことだ、シャーロック?」
「……被害者は煙草の銘柄なんて変えてなかった。あれはもともと二種類の葉をブレンドした煙草なんだよ」
「えっ」
「オルコットにその知識があれば、反論されて逃げられてたかもしれねぇ。とはいえ彼女に喫煙の習慣がないのは一目瞭然だったし、うまく引っかかってくれて助かったよ」
「そ、そうだったのか……」

 ホームズは歩きながら器用にマッチを擦って、煙草に火をつけた。すっかり遅い時間になってしまったので、往来を歩いているのは私たち二人だけだ。

「何だか、やるせないな。もちろん、彼女が許されないことをしたのは分かっているが……」
「そう感じるのは、ジョンが作家だからだ」

 夜空に向かって紫煙を吐きながら、ホームズは飄々とした足取りで私の少し前を歩いている。
 ふいにホームズが立ち止まって、こちらを振り返った。

「吸うか?」

 彼は私の方にシガレットケースを突き出した。
 気むずかし屋の友人にしては珍しいことだったが、そんな気分にもなれなくて私は首を横に振った。その心遣いだけ、受け取っておこうと思う。



***

「事件は解決しましたか?」

 マイクロフトが部屋に入るなり、楽しげな声が飛んできた。
 窓辺のティーテーブルに腰掛けて、アルバートがにこりと微笑んでいる。石油ランプの明かりに浮かび上がるその端正な相貌は、微妙な色彩の加減でますます作りものめいて見えた。

「噂に名高いホームズ卿のクラブにせっかくお邪魔したというのに……まったく、とんだ足止めです」

 少しも残念そうには見えない顔でそう嘯くと、彼は窓の外に目をやって、表通りを見下ろした。ちょうど、オルコットを乗せたスコットランド・ヤードの馬車が出ていくところなのだろう。
 その芝居がかった仕草と台詞に、マイクロフトはやや辟易してため息をついた。

「どの口が言うんだね。私の名前を騙って弟をここに呼んだのは君だろう」
「おや。どうせ貴方もそうされるだろうと思ったので、気を利かせたつもりでしたが」

 少しも悪びれない態度に、マイクロフトはまたため息をつきそうになるのを何とか押し留めた。うんざりした態度を表に出すと、アルバートに余計に面白がられるのは目に見えている。
 VIPルームには誰もいない、と有能な受付係が咄嗟に口裏を合わせてくれたのは幸いだった。
 弟であるシャーロックをアルバートに会わせるわけにはいかない。つい先日のアイリーン・アドラーの一件で、アルバートはまさに『犯罪卿』として彼と言葉を交わしたばかりだったからだ。

「それで、今回の一件も君たちの『計画』の一環かね?」

 向かいの席に腰掛けながら、マイクロフトはやや皮肉を込めて訊ねた。
 クラブの沈黙を破った不可解な死、発見された毒の小瓶。混迷を極める現場に名探偵シャーロック・ホームズが登場し、鮮やかな推理で真犯人を暴き出す――。
 アルバートが突然マイクロフトを訪ねてやってきたのは、事件が起こるほんの数時間前だ。間もなくカーライルが死んでいるのが発見され、スコットランド・ヤードが駆けつけてから、彼は一歩もこのVIPルームの外には出ていない。
 今日に限ってこのクラブを訪れたアルバートが、この一連の騒動に関わっていないとは到底思えなかった。
 しかし、アルバートは機嫌を損ねたようにぷいと顔を背けた。

「私の弟が、無実の人間に罪を着せるような計画を立てるとお思いですか?」
「それは確かに、君たちの掲げる理想とそれを実現するためのプランには反するだろう。……しかし、カーライルには人身売買の斡旋に関わっていた疑惑があり、私が彼を泳がせていたのも事実だ」

 マイクロフトが正攻法で尻尾をつかむ前に、カーライルが『彼ら』の手に掛かったのだとしても何ら不思議ではない。そのために奴に恨みを持つオルコットに目をつけたことも――。
 アルバートがちらりと柱時計の針を確認した。

「紅茶を淹れ直させよう」
「いえ、お気持ちだけで。弟たちが心配しておりますので、そろそろお暇いたしましょう」

 引き止めるつもりで口を開いたが、するりとかわされてしまう。
 窓の外に目をやると、ちょうど黒塗りの馬車が一台、クラブの前に横付けされたところだった。この角度から御者の顔は確認できないが、おそらくはモリアーティ家の使用人なのだろう。アルバートは音もなく立ち上がるとコートに袖を通し、ハットを手に取った。
 納得していない表情をしているのが伝わったのか、立ち去り際、アルバートはこちらを振り返ってくすりと微笑んだ。

「まぁ……つまらない即興(アドリブ)で素晴らしい脚本を台無しにしてしまうような役者には、ご退場願うのが一番……とだけ、申しておきましょうか」

初出:Pixiv 2024.02.12

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