No.40

ディオゲネス・クラブ殺人事件 前編
 タイトル通り。

 一

「めんどくせぇ……」

 我らが名探偵シャーロック・ホームズは、届いた電報をちらりと見るなりそう吐き捨てて天井を仰いだ。
 夕食を終えて二二一Bの共同リビングで寛ぎながら、頭の中でぼんやりと次回作の構想を練っていた時のことだった。

「どうした、シャーロック? マイクロフトさんからの電報なんだろう?」

 訊ねると、ホームズは「読んでみろ」と言うようにテーブルの上に広げられた紙片を指し示した。持ち主の許可が出たので、好奇心に駆られた私は遠慮なくその紙片をつまみ上げた。

「『ディオゲネス・クラブで毒殺事件発生。すぐに来い』……!?」

 何気なく読み上げて、私は飛び上がるほど驚いた。ディオゲネス・クラブといえば、ホームズの兄であるマイクロフト・ホームズ氏が運営する会員制クラブのことだ。

「大変だ、シャーロック! すぐに行かないと!」
「ヤだよ、めんっどくせぇ……」

 ホームズは気怠そうな仕草で煙草に火をつけると、天井に向かって煙を吹きつけた。

「何を言ってるんだ、人が殺されてるんだぞ。マイクロフトさんがこうして電報を寄越してきたということは、お前の頭脳を頼らなくちゃならない難解な事件ということだろう?」
「……俺が見抜ける真相をあいつが見抜けないはずがない。それなのにわざわざ俺を呼びつけるってことは、厄介事に巻き込みたいか俺に難題をふっかけて面白がりたいか、どっちかに決まってんだろ……」
「まさか。いくらマイクロフトさんでも殺人事件をそんなふうに利用するわけないだろう。ほら、早く立って身支度しろ」

 私は自分の帽子とステッキを用意しながら、ポールハンガーに引っ掛けたままのホームズの上着を手に取った。それを彼に向けて突き出すと、ホームズは観念したようにしぶしぶと椅子から立ち上がる。
 大きなため息をつく彼の背中を叩きながら、私たちは連れ立って二二一Bを後にした。


 二

 私たちの乗る馬車がクラブハウス前に到着した時には、すでにスコットランド・ヤードが駆けつけた後だった。このクラブには『何人たりともクラブ内で口を開いてはならない』という一風変わった規則があると聞いていたが、今日この時ばかりはそのルールも解禁されているらしい。制服を着た警官たちが忙しそうに行ったり来たりしている。
 ホームズが勝手知ってる様子で入口を抜けると、受付ロビーのところでさっそくマイクロフト氏に出くわした。殺人事件が起きたばかりのクラブの主とは思えないほど、彼はいつもの超然とした態度を崩していなかった。
 彼は私達の姿を見るなりぴくりと片眉を上げた。が、すぐに唇の端を吊り上げて不敵に微笑んでみせた。

「遅かったな、シャーリー。大方、行きたくないと駄々をこねてワトソン先生を困らせたんだろう」

 学校に行くのを渋っている子どもにでもするような物言いに私は思わず苦笑し、ホームズは舌打ちをした。
 我々の登場に慌てたのは、マイクロフト氏と話し込んでいた警察官の方だった。小柄で、髪を左右にぴっちりと撫でつけた出で立ちには見覚えがある。

「お前が担当かよ、グレッグソン」
「ホームズ卿、彼を呼ばれたのですか?」

 憎まれ口を無視して、グレッグソン警部補はマイクロフト氏に向かって訊ねた。

「ええ」

 マイクロフト氏は短く、それ以上何も付け加えることなど無いといった態度で頷く。
 対する警部補は言いたいことが山程ありそうだったが、さすがにこの政府高官に直接苦情を述べる勇敢さは持ち合わせていなかったらしい。「現場は?」と遠慮なしに訊ねるホームズに青筋を立てながらも、我々を二階へと案内してくれた。


 三

 二階に上がると、すぐ目の前にドアが一つ現れた。普段は締め切られているであろう両開きの扉は今は開け放たれて、脇に厳しい顔をした制服警官が仁王立ちしている。
 どうやら中はラウンジらしい。
 広々とした室内にテーブルと椅子がぽつぽつと並べられている。平時であれば、変わり者の会員たちが私語厳禁のルールの下、思い思いの時間を過ごすのだろう。
 しかし今、部屋の中央には警官たちとともに数人の男女の姿が見えた。

「私ではありません! ケーキに毒を仕込むなんて……」

 部屋に足を踏み入れるなり、女性の悲鳴のような泣き声のような痛々しい金切り声が響いた。見ると、エプロン姿の中年女性が泣き腫らした顔で髪を振り乱している。

「見ての通り、厨房係に容疑がかかっている」

 マイクロフト氏が私たちに耳打ちした。

「ケーキに毒を盛って、あの男を毒殺したわけか」

 ホームズの指し示す方を見やって、私は思わず後ずさりした。
 入り口近くのテーブルに、三十代半ばと思しき男性が座っている。肘掛けからだらりと両手を投げ出して首を傾げた姿勢は居眠りをしているかのようだったが、瞬きもせず見開かれた虚ろな目を見れば、彼が間違いなく息絶えていることがわかった。

「テーブルには残り半分の紅茶のカップ、空っぽの皿、煙草の吸殻……毒を盛られたのがケーキだと断定する根拠は何だ?」

 ホームズは死体や証拠品に触れないように注意しながら、いそいそと検分を始めた。
 すると、部屋の中にいた者たちも私たちの存在に気がついたようだった。初老の男性が声を上げる。

「何ですか、彼らは? 警察の人間ではないようですが……」
「おや、もしかして……ワトソン先生?」
「えっ?」

 いきなり名前を呼ばれて、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。その場で正体を見破られるほどの有名人といえば、どう考えてもしがない作家の私ではなく有名な名探偵の方だとばかり思っていたからだ。
 しかし相手の顔を見返して、私は思わず額に手をやった。

「あ、レストン先生!」
「あぁ、やっぱり。お久しぶりです。まさかこんなところで再会しようとは」
「シャーロック、彼は……」
「見りゃわかる。病院勤めしてた頃の元同僚だろ」

 紹介しようとする私を、ホームズはいつもの調子で先回りした。私はいくらかむっとしながら意地悪く言ってみせた。

「『先生』としか言ってないんだ。医者ではなく、作家仲間かもしれないぞ?」
「へぇ。消毒液の匂いをぷんぷんさせて、向こうのテーブルで医学雑誌を読むような医者兼作家がお前以外にもいるんだな。立てかけてあるステッキや靴底のすり減り具合からして、てっきり往診鞄を抱えてあちこち歩き回る開業医かと思ったんだが。袖口のシミは薬品の類じゃなければ珍しい色のインクか何かか?」
「……分かった、もういい。正解だよ、シャーロック。彼は私が聖トーマス病院にいた頃の知り合いで、今は独立して自分の診療所を持っている」

 私がやれやれと首を横に振ると、横で聞いていた面々から驚きの声が上がった。

「シャーロック? もしかして、シャーロック・ホームズ?」
「いかにも。かの有名な、シャーロック・ホームズですよ」

 本人に代わって、グレッグソン警部補が皮肉っぽく答えた。一同は軽くどよめいたが、そもそもここはマイクロフト氏が運営するクラブなのだ。彼の弟が現れたところで、何ら不思議はないだろう。犯人にとっては気の毒なことであるが。


 四

 警部補が説明してくれた事件のあらましは次の通りだ。
 殺されたのはカーライル子爵。三十歳独身。
 このクラブの会員で、普段は貴族らしく社交的な男ではあるが、週に一度はここを訪れて羽休めをしていたという。
 死因は何らかの毒を服用してしまったことによる中毒死と思われる。毒の種類はヤードが解析している最中だが、カーライル氏には大きな持病もなく、その見解には私もレストン医師も賛成した。
 事件当時、同じラウンジにいた会員は三名。
 一人は私の元同僚、レストン医師。
 基本的に人当たりのいい男だが、思い返せば一人でぼんやりと思索にふける姿を病院内で何度か見かけたことがある。彼がこのクラブに所属していたことを、私はさして意外には思わなかった。
 もう一人は大学で講師をしているというウェルティ氏。
 論文を執筆するためにこのクラブを利用することが間々あるらしい。髭面の気難しそうな男で、私たちに自己紹介をしている間もすぱすぱと煙草をふかしていた。
 そして意外なことに、利用客の中には女性もいた。クレア・オルコット女史。
 父親が金融業で成功を収めたいわゆるジェントリ階級で、元々会員であった父にせがんでこのクラブに出入りしているらしい。ディオゲネス・クラブであれば下心を持った男に声をかけられる心配もないのだから、ある意味では女性も安心して利用できるに違いなかった。
 この三名の会員の他に、クラブハウス内にはさらに数名の裏方がいた。
 今日勤務していたのは、今まさに容疑をかけられている厨房係のマホーニーさん。それからウェイターが二名、受付係が一名。

「上は?」

 ホームズが短く、兄であるマイクロフト氏に向かって訊ねた。
 この建物の三階にはマイクロフト氏が個人的に利用する書斎と、特別に会話が許された談話室――いわゆるVIPルームがあるらしい。

「いや。今日は私以外の利用者はいない」

 氏が短く答えながら目配せをすると、受付係も無言で頷いた。

「カーライル氏が死亡していることが発覚したのはつい二時間ほど前――ちょうど午後六時頃だった」

 グレッグソン警部補が手帳をめくりながら説明を開始した。

「紅茶をサーブしに来たウェイターが、微動だにしないカーライル氏を不審に思って顔を覗き込んだことで、彼が死んでいるのに気がついた。ここでは、三十分おきにウェイターが紅茶のおかわりを持ってテーブルを回ることになっているのだが……五時三十分の巡回では氏はまだ生きていたんだな?」
「はい、確かに」

 背の高い方のウェイターが答えた。こういったクラブで給仕をするにふさわしい、ハンサムな青年だった。

「もちろん、ここの規則にのっとって言葉は交わしていませんが……おかわりを注いでくれ、と手振りでカップを示してくださいましたので、間違いありません」
「つまり、死亡推定時刻は五時半から六時の間というわけだ。……そして、その時サーブしたのは、紅茶だけか?」
「いえ。ワゴンでチョコレート・ケーキもお持ちしていました。カーライル様が『それも』と指を差されましたので、ケーキもお出ししています」

 グレッグソン警部補はこの答えに満足げな様子で頷いた。

「紅茶は、他の三名の会員たちも同じポットから注がれたものを飲んでいる。しかしケーキを食べたのはカーライル氏だけだ。そこで毒が盛られていたのはこのチョコレート・ケーキに違いないと目星を付けたところ……」
「マホーニーさんのエプロンのポケットから、これが」

 制服の警官が、布切れで包んだ小瓶を取り出した。親指ほどの大きさの小さな茶色の瓶だったが、ご丁寧に毒薬であることを示すラベルが貼ってある。

「これは私のものではありません、誰かが私のポケットに入れたとしか……!」

 マホーニーと呼ばれた厨房係が、わっと声を上げた。

「あぁ、カーライルさん。甘いものと煙草は控えるようにと忠告申し上げたのに……」

 レストン医師が小さく呟いた。どうやら二人はクラブの外でも親交があったらしい。
 マイクロフト氏が肩を竦めながら弟の方を見やった。クラブの使用人が毒殺事件を起こしたとなれば、彼としても困ったことになるだろう。


 五

「どう思う、シャーロック? 毒薬の瓶を持っていたなんて、いささかマホーニーさんに不利な状況だが……」
「『毒薬の瓶をポケットに入れてた』ってだけだろ? ケーキに毒を盛って被害者を殺害した証拠にはならない」
「それはそうだが……」
「通報を受けてここに駆けつけてすぐ、ここにいる者全員に持ち物検査を実施した。その結果、毒の容器を持っていたのは彼女だけだったのだ!」

 グレッグソン警部補が噛みついた。が、ホームズは平気な顔だ。

「ワゴンに残ったケーキから毒は検出されたのか?」
「そ、それは鋭意調査中だ!」
「ケーキをラウンジに運んだのはウェイターで、被害者がケーキを注文したのはたまたまだろ? そこの医者先生の口ぶりじゃ被害者は甘いもの好きで、ケーキを注文する可能性は高かった。とはいえ、被害者が確実にケーキを食べる保証はなかったわけだし、他の会員が注文してしまう可能性も大いにあった。殺害方法としては不確実この上ない。まぁ、マホーニーさんが『誰でもいいからとりあえず毒殺したかった』っつー快楽殺人鬼なら話は別だが」

 私はちらりとマホーニーさんの方を見やったが、顔を真っ赤にしてエプロンで鼻をすすっている小肥りの中年女性が恐ろしいシリアル・キラーだとは到底思えなかった。それに、もし彼女がそのようなおぞましい動機を持っていたのなら、ケーキを口にした被害者の死にゆく様子を見たがったはずではないだろうか?

「貴様、この小瓶は真犯人が彼女に濡れ衣を着せるためにポケットに滑り込ませたと主張するのか?」
「説得力がないって言ってるんだよ、お前らの仮説は」
「ならば、これ以上に説得力のある仮説を提示してもらいたいものだな」
「今考えてる」

 ホームズはうるさそうに手を振って、カーライル氏のテーブルを調べ始めた。
 ホームズの考えが正しければ……ウェイターが怪しいのではないだろうか? 私はカーライル氏にケーキを出した、背の高い方のウェイターの顔を盗み見た。
 ティーワゴンを押して厨房からラウンジに向かう間、ケーキに毒を盛る機会はいくらでもあったはずだ。同じ裏方である彼なら、マホーニーさんにそっと近づいてポケットに毒の小瓶を仕込むこともできただろう。
 このクラブの規則上、カーライル氏がラウンジで他の会員とおしゃべりを楽しむ可能性はまず無い。気の毒な被害者の死亡が発覚するまで、毒の小瓶を処理するための猶予はたっぷり三十分はあったわけだ。
 そんなふうに頭の中で自分なりの推理をしていると、ふいに、ホームズが弾んだ声を上げた。

「あった、こいつだ」

 私たちは恐ろしい死体の存在も忘れ、身を乗り出してテーブルを覗き込んだ。彼は灰皿から煙草の吸殻を一つつまみ上げた。

「ジョン、見てみろ。注射器の痕だ」

 紙巻き煙草の吸口の近く――ホームズの指し示す先に、指摘されなければ気が付かないほどのごく小さな穴が開いていた。

「カーライル氏を殺した毒はケーキじゃない。注射器で煙草に注入されていたんだ」

初出:Pixiv 2024.02.12

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