No.39
とある兄弟の話 後編
イートン校時代、ウィリアムが安楽椅子探偵っぽいことをする話。
翌週の水曜日、ウィリアムは昼食もそこそこに講堂の渡り廊下を外れて、校舎の裏手に回った。
待ち合わせ場所に着くと、間もなくアルバートもやって来た。
「付き合わせてしまってごめんなさい、アルバート兄さん」
「いいさ、私も気分転換がしたかったところだからね。それに、お前のことだから、ただの散歩の誘いというわけではないんだろう?」
「歩きながら話しましょうか」
ウィリアムは、先日のルイスからの『依頼』についてかいつまんで説明した。彼の友人とその兄と、一冊のスケッチブックにまつわる話だ。アルバートは興味深そうに相槌を打っていた。
「なるほど……そんな事が」
「はい。ですが、この依頼はまだ終わりではありません」
「というと?」
「ルイスと別れたあと、美術室の使用スケジュールを調べました。水曜日の午後、ジョセフの兄――フィンレー・ナッシュビルのクラスは美術室を使わないんです」
アルバートは考え込むように顎に手を当てた。
「ということは、そもそもフィンレーが水曜日に美術室で弟のスケッチブックを見つけるのは不可能で……メッセージを書いていたのはフィンレーではなかったということかい?」
「そこはルイスに確かめてもらいました。ジョセフに『これを書いたの、君のお兄さんじゃないですか』と」
「結果は?」
「ふふ。彼はメッセージを二度見三度見したあと……『そうかも』と」
ジョセフとは面識はなかったが、そのきょとんとした顔を想像してアルバートは思わず苦笑した。
同居して、同じ学校に通う兄弟同士となれば、手紙をやり取りすることもそうないだろう(モリアーティ家の三兄弟はもちろん例外である)。すぐに筆跡に思い当たらなくても不思議はない。
「メッセージを書いたのがフィンレーで間違いないのなら……。もう一人、『何らかの理由』で備品棚に紛れ込んだスケッチブックがジョセフのものだと判断できる人物がいたわけか。そしてその人物は何故かジョセフ本人ではなく、兄のフィンレーにスケッチブックを渡した」
「流石はアルバート兄さん」
ウィリアムは満足そうに頷いた。即座に同じ結論に辿り着いてくれる兄との会話は楽しい。
「けれど、それが誰で、どうしてわざわざそんな事をしたのかが私には見当もつかないよ」
肩をすくめるアルバートに、ウィリアムは微笑みかけた。
「僕は実際にジョセフのスケッチブックを見せてもらいましたから」
「順を追って聞かせてもらおうか」
「はい。ええと、そのもう一人の人物のことを、仮に『協力者』と呼びましょうか。まずは、協力者が備品棚に紛れ込んだスケッチブックがジョセフのものであると断定できた理由ですね。一緒に授業を受けていたクラスメイトたちは除外してもいいでしょう。もしも彼らが気づいていたら、その場ですぐにジョセフに声をかけていたはずですから。わざわざ上級生であるお兄さんの方にスケッチブックを渡すのは不自然です。であれば、協力者はそれ以降の時間帯に美術室を利用した者――と言いたいところですが、もっと確実な候補がいます」
「ジョセフに備品の片付けをさせた教員、だね?」
「その通りです。ルイスたちが教室を出た後、次の授業の準備をしていた教員がスケッチブックを見つけた、と仮定しましょう。彼は誰が備品棚に教本を片付けたかを知っていますし、生徒たちの絵の技量も把握しています。スケッチブックの持ち主を特定するのはそう難しくなかったはずです」
「そして、教員であればナッシュビル家の事情を把握していてもおかしくはない。彼はあえて兄であるフィンレーにコンタクトを取ったというわけか」
ウィリアムは頷いた。
「教員の誰かがこの件に関わっていたとすると、今度は『何故フィンレーにスケッチブックを渡したのか?』『何故フィンレーが毎週絵のリクエストを出すように仕向けたのか?』という謎が出てきます。ここから先は、実際にジョセフのスケッチブックを見た僕の想像ですが……」
話をしながらぶらぶらと歩いていると、裏庭の端に行き当たった。
この一角はゴミ捨て場に当たる。
塀沿いには、木箱や使われなくなった長机が積み上げられていた。ウィリアムは木箱のひとつを覗き込み、中に空き瓶や割れた食器の類が乱雑に詰め込まれているのを確認して満足そうに頷いた。
「学内にもごみ処理用の焼却施設はありますが、こういう不燃物や粗大ごみまでは処理できません。契約を交わした業者が決まった日に回収に来ることになってるんです。それがちょうど水曜日の昼休憩の時間帯なんです」
「フィンレーが、スケッチブックを持ってくるよう指定してきた時間だね」
アルバートはポケットから懐中時計を取り出して、時間を確認した。昼休憩が終わるまで、まだ三十分ほど時間がある。
ウィリアムは施錠された木戸を指差した。
「ジョセフのスケッチブックに、ここで立ち話をしている二人の男が描かれているページがありました」
「どうしてわざわざこんな場所を? ……ああ、なるほど」
怪訝そうな顔をしたものの、辺りを見回したアルバートはすぐに得心がいったように頷いた。
ここはちょうど学生寮の裏手にあたる。
「部屋の窓から見た風景というわけか」
「はい。角度からして二階のどこかだと思われます。下級生用の大部屋が並んでいるあたりです」
アルバートは頷いた。
入学当初から『王の学徒』として個室を与えられていた彼らは大部屋には縁が無かったが、建物の構造は把握している。
「ジョセフは、例のリクエストを受けるようになるまでは寮の自室で絵を描いていたようです。あのスケッチブックに描かれているのは部屋の中で用意できるものばかりでしたし、彼は自分の趣味をあまり大っぴらにしたがらなかったそうですから。昼休憩の時間は、大抵は自室に戻って、窓際の机に座って好きな絵を描いていた。例えば、この裏庭で何か悪事を働いている者がいたとして、窓際に座って頻繁にこちらを見下ろしているジョセフに気付いたとしたらどうするでしょう? 悪事の現場を目撃されることを恐れ、彼の目を裏庭から引き離す策を練るはずです」
「そのためにフィンレーを誘導して、スケッチブックにあのメッセージを書かせたと?」
「僕はそう推測しています。ある教員が偶然、備品棚からスケッチブックを見つける。開いてみると、自分たちの悪事の現場が克明にスケッチされているのを発見します。絵を描いた生徒自身はそのことに気づいてはいないかもしれませんが、いずれ勘づく時がくるかもしれない。だから彼はスケッチブックの持ち主ではなく、その兄に声をかけたのです。そして、ナッシュビル兄弟の微妙な心理的距離を利用し、弟の特技を応援してみてはどうか、と言葉巧みにフィンレーを誘導した。自分の本当の目的は隠したまま……」
一通りの推理を聞き終えたアルバートが、改めて寮の建物を見上げた。
美術教室は寮の反対側の棟の三階にある。 どれだけ急いでも、行って戻ってくるのに二十分はかかるだろう。その道中でクラスメイトに食堂へ誘われるかもしれないし、上級生に雑用を言いつけられるかもしれない。
『毎週水曜日の昼休みに、美術教室の備品棚にスケッチブックを入れる』よう約束を取り付けさせれば、確実にこの時間帯はジョセフを寮の窓から引き離すことができる。 事実、今は寮の窓に人の気配は無かった。ジョセフは今頃、ルイスの似顔絵を描いたスケッチブックを持って美術教室へ向かっているのだから。
「けれど、その『悪事』とは一体?」
ウィリアムはその質問には答えず、アルバートの腕を引いて植え込みの影に滑り込んだ。
ちょうど、男がひとり、向こうから歩いてくるところだった。生徒ではない。教員だ。
背が高く体つきは頑丈そうだが、眉は垂れ下がりくたびれた印象を受ける。あの絵の男に間違いない、とウィリアムはジョセフの画力に妙に感心してしまった。
彼がちらりと学生寮の方に視線をやったことで、二人はよいいっそう確信を強めた。彼の注意は二階の窓に向いていて、植え込みの影に隠れているウィリアムとアルバートには気づいていない。
「不要品の回収に際して、裏門の鍵を開けて作業に立ち会う教員が必ずいます。補助教員、ネヴィル・ハザリー。彼がフィンレーの協力者です。美術科も担当していたので、間違いないでしょう」
ウィリアムが囁くと、示し合わせたようなタイミングで、ハザリーが懐から鍵の束を取り出した。
彼が錆びかかった錠前を開けると、戸の外にはすでに回収屋の男が待っていた。二人は片手を上げて気安い様子で挨拶をしている。
回収屋の男が、茶色い紙袋をハザリーに差し出した。受け取ったハザリーは、ポケットから紙幣を何枚か取り出して渡した。
廃品の処理のため学校側は業者に金を支払っているのは間違いないが、作業員と補助教員の間で直接やり取りをするはずがない。
「どうする、ウィル?」
アルバートが短く尋ねた。
今すぐ彼らを問い質すこともできなくはないが、言い逃れの仕方はいくらでもある。「友人にちょっとした買い物を頼んでいた」とでも言われてしまえばそれまでだ。
かと言って、多少後ろめたいことがなければこんなにも回りくどい真似をするとも思えなかった。
ウィリアムは簡潔に回答した。
「ルイスから話が伝わったとばれてしまうのは困ります」
「フ……そう言うだろうと思ったよ」
ルイスがこの件に関わっていることをハザリーに知られる可能性がある。今週のリクエストは人物画で、そこに描かれているのはルイスなのだから。
ここでモリアーティ家の兄ふたりが登場して事態を暴き立てれば、どこからどう話が伝わったのかは子供でも分かることだろう。
あの荷物の中身が何なのか分からない以上、下手に出しゃばって報復の矛先がルイスに向くことは避けなければならない。
「であれば、それとなく他の監督生と教員を動かしてみよう」
アルバートからの期待通りの返答に、ウィリアムはにっこりと微笑んだ。
*
数日後、アルバートが職員室を後にして自室に戻ると、すでに弟たちが待っていた。
ウィリアムは読んでいた本を閉じるとアルバートにソファへ座るようすすめ、ルイスはすかさず淹れたての紅茶をサーブしてくれる。彼は早く結果を聞きたくてうずうずしているようだったが、ウィリアムが切り出すまでぐっと堪えて待っていた。
「首尾はいかがでしたか?」
「ああ。補助教員ネヴィル・ハザリー。フィンレーを唆かしたのはやはり彼だった」
アルバートはウィリアムの向かいに腰を下ろしながら答えた。
「ウィルの推理通り、毎週水曜日に廃品回収にやってくる男から『校則で禁止されている嗜好品』を仕入れて、それを不良どもに売りさばいて小銭を稼いでいたそうだ。匿名の情報提供があったことにして教員を動かしたらすぐに白状したよ」
「『禁止されている嗜好品』というと……」
「お酒や煙草じゃないかな」
ルイスの疑問を、ウィリアムがすかさずフォローした。
実際は酒、煙草のほかに持ち込み禁止の菓子類、大衆娯楽雑誌など押収された品は様々だ。中には猥褻本の類も含まれていて、何となく弟たちの耳には入れたくない話だったのでアルバートはあえて婉曲的な表現を使ったのだ。
この様子だとウィリアムには察しがついてしまっているようだが、ルイスは兄の言葉を素直に受け取って「そんなものの為に」とぷりぷり怒っている。
阿片など違法な薬物が学内に持ち込まれている可能性も考慮して出来る限り慎重に行動していたため、アルバートも拍子抜けしたことは否めない。
ハザリーが数日中に自主的に退職することになったと伝えると、ルイスはさらに不満そうに顔をしかめた。
「教員の立場でこんなことをしておいて、解雇ではなくて退職扱いなのですか?」
「ああ……そうなんだけどね」
「アルバート兄さん」とウィリアムが口を挟んだ。「そもそも、ハザリーさんは何故こんなことを? 回収屋の男に代金といくらかの手間賃を渡したら、もう彼の手元にはほとんど残らなかったはずです。お金以外の目的があったということですか?」
「いや。そのわずかな金額こそが、目的だったそうだ」
ネヴィル・ハザリーは補助教員だ。正式な教員と違って、教員免許を持っていない。大学を卒業した(そして、その多くが貴族出身者である)教員たちとはその仕事内容や待遇は大きく異なっていた。
教員や生徒の中には平民出の彼らを「使用人」として捉えるものも多くなかった。
昨年の夏にハザリーの娘婿が急死し、娘とまだ幼い孫たちの生活を助けるために金が必要になった。しかし学校にほとんど住み込みで働く補助教員の給料では満足な援助はできなかった。そんな折に隠れて酒盛りをしている学生たちを見つけ、この副業を思いついたそうだ。
毎週廃品の回収に立ち会ううちにいつしか親しくなった業者の男に協力を持ちかけると、快く引き受けてくれたという。この方法ならば、週末ごとに大量の煙草や酒や菓子を買い込むよりも他の教員たちの目につきにくい。
品物をすべて捌いたところでハザリーの手元に残る儲けは僅かだった。しかしその金があれば大黒柱を失った娘や孫たちはパンを一つ、着替えを一枚買える。雪の降る夜にガスストーブを使うのを我慢せずにすむ。「お金なんかの為に」と彼を批判できるのは、何も知らない、本当に金に困ったことのない人間だけだ。
残飯を漁って食いつないだ経験のあるウィリアムとルイスはその辛さを痛いほど分かっていたし、生まれてこの方食事に困ったことのないアルバートにもそれは察せられた。
「補助教員が忙しく働いているのは知っているつもりだったが、ここまで待遇が悪いとは思ってなかったよ」
「貴族の子弟にとってはお小遣い程度の金額でも、ハザリーさんにとっては喉から手が出るほどほしいお金だったというわけですね」
「そう思うと、仕事を無くしてしまったのは、何だかお気の毒ですね……」
ルイスが顔を曇らせた。
アルバートはこの数日のうちに、ハザリーの『顧客』だった生徒を何人か捕まえて証言を集めた。中には彼の事情を知っていて、カンパのつもりで品物を買っていた生徒もいたのだ。
「先生方には、寛大な処分をなさるようお願いしてはみたのだけれど……。問題を起こしてしまった以上このまま雇い続けるのは難しい、というのが結論だった」
肩を落とすアルバートに、ウィリアムは「大丈夫です」と微笑んだ。
「ハザリーさんは、ここの下宿を引き払った後、一人の男に出会うでしょう」
「男?」
「はい。まだ若いけれどどこか疲れ切った顔をした、片手のない傷痍軍人です。路地に力なく座り込んだ彼はハザリーさんに頼みごとをます。『煙草を一本もらえないか』と。もしハザリーさんが親切な対応をするのであれば、喜んだその男が意外なツテを使って彼に仕事を紹介してくれるでしょう」
アルバートとルイスは顔を見合わせた。片手のない元軍人、と言われれば、それが誰かは聞くまでもない。
「……あの人は、煙草をもらえるまで付きまといそうだな」
少しの沈黙の後、しつこく煙草をねだる大男の姿を想像して三人はくすくすと笑い声をあげた。
根は人情に厚いモランのことだから、きっとハザリーがこのささやかなテストを合格するまで粘るだろう。もし彼が煙草を持っていなければ、代わりに小銭や飴玉を要求するかもしれない。
「とある画廊で、ちょうど雑用係を探しているそうだったので。もちろん雑用係と言っても、芸術を見る目があるに越したことはありません。ハザリーさんにとっても申し分ない再就職先でしょう」
「まったく、手回しのいいことだね」
アルバートが肩を竦めてみせると、ウィリアムは控えめに、けれど誇らしそうに笑った。
「さて、ナッシュビル兄弟の件もハザリーさんの件も丸く収まったことだし……僕らの相談役に報酬をお支払いしないといけないね」
いたずらっぽく笑いながら、アルバートは懐から折りたたまれた紙切れを取り出した。
両手で恭しく差し出すと、ウィリアムはそれが何なのか予想がついたらしくにこにこと笑いながら受け取った。紙切れを丁寧に広げてみて、ますます笑みを深くする。
すると当然、ルイスもその紙に何が書かれているのか気になったようだ。
その紙切れは分厚くざらついていて、片側に小さな丸い穴が並んでいて、ちょうどスケッチブックから破り取ったページに似ている。何かを勘づいたらしいルイスは、身を乗り出して兄の持つ紙切れを横からのぞき込んだ。
「なっ……どうして兄様がこれを持っているのですか!?」
彼の予想通り、アルバートがウィリアムに渡したのは先日ジョセフがルイスをモデルに描いた絵だった。
絵の中のルイスは描き手の方をまっすぐ見つめ返すのを恥ずかしがったのか、頬の火傷を描かれるのを嫌ったのか、心持ち右を向いて椅子に腰掛けている。『王の学徒』の証たる黒いローブは彼の身体にはまだ少しだけ大きく、首筋や手首は頼りないほどほっそりして見えた。
顔を真っ赤にするルイスが可笑しくて、アルバートはくすくすと笑った。
「フィンレーの部屋を訪ねて、弟に名乗り出るよう話してみたんだ。もちろん、ハザリーさんの件は伏せてね。『どうしてそれを知っているんだ』と慌てていたけれど、この絵に描かれているのが誰なのかを教えてあげると納得してくれたよ」
快く、とまではいかなかったが、経緯を説明するとフィンレーは絵を譲ってくれた。「弟に謝っておくよ。君の弟にもよろしく」と眉を下げて笑いながら。
「フフ、そっけない表情のルイスは何だか懐かしいな」
「ほんとうに良く描けていますね。少し緊張して顔が強張っているのが伝わってきます。兄さん、額縁を買いに行きましょう」
「それはいい。肖像画なんて見栄のためだけのものだと思っていたが……彼にカンバスと画材一式を進呈して本格的に描いてもらうのもいいかもしれないな」
「兄さん! 兄様まで!」
ルイスが珍しく慌てるので、二人の兄はますます可笑しくなった。
額に入れて飾るアイデアはルイスによって阻止されたが、この絵は今でもウィリアムの手帳に挟まれている。折り畳まれたぶ厚い紙は少しばかり嵩張ったが、今のところ手放す気は無い様だった。
初出:Pixiv 2023.08.20
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イートン校時代、ウィリアムが安楽椅子探偵っぽいことをする話。
翌週の水曜日、ウィリアムは昼食もそこそこに講堂の渡り廊下を外れて、校舎の裏手に回った。
待ち合わせ場所に着くと、間もなくアルバートもやって来た。
「付き合わせてしまってごめんなさい、アルバート兄さん」
「いいさ、私も気分転換がしたかったところだからね。それに、お前のことだから、ただの散歩の誘いというわけではないんだろう?」
「歩きながら話しましょうか」
ウィリアムは、先日のルイスからの『依頼』についてかいつまんで説明した。彼の友人とその兄と、一冊のスケッチブックにまつわる話だ。アルバートは興味深そうに相槌を打っていた。
「なるほど……そんな事が」
「はい。ですが、この依頼はまだ終わりではありません」
「というと?」
「ルイスと別れたあと、美術室の使用スケジュールを調べました。水曜日の午後、ジョセフの兄――フィンレー・ナッシュビルのクラスは美術室を使わないんです」
アルバートは考え込むように顎に手を当てた。
「ということは、そもそもフィンレーが水曜日に美術室で弟のスケッチブックを見つけるのは不可能で……メッセージを書いていたのはフィンレーではなかったということかい?」
「そこはルイスに確かめてもらいました。ジョセフに『これを書いたの、君のお兄さんじゃないですか』と」
「結果は?」
「ふふ。彼はメッセージを二度見三度見したあと……『そうかも』と」
ジョセフとは面識はなかったが、そのきょとんとした顔を想像してアルバートは思わず苦笑した。
同居して、同じ学校に通う兄弟同士となれば、手紙をやり取りすることもそうないだろう(モリアーティ家の三兄弟はもちろん例外である)。すぐに筆跡に思い当たらなくても不思議はない。
「メッセージを書いたのがフィンレーで間違いないのなら……。もう一人、『何らかの理由』で備品棚に紛れ込んだスケッチブックがジョセフのものだと判断できる人物がいたわけか。そしてその人物は何故かジョセフ本人ではなく、兄のフィンレーにスケッチブックを渡した」
「流石はアルバート兄さん」
ウィリアムは満足そうに頷いた。即座に同じ結論に辿り着いてくれる兄との会話は楽しい。
「けれど、それが誰で、どうしてわざわざそんな事をしたのかが私には見当もつかないよ」
肩をすくめるアルバートに、ウィリアムは微笑みかけた。
「僕は実際にジョセフのスケッチブックを見せてもらいましたから」
「順を追って聞かせてもらおうか」
「はい。ええと、そのもう一人の人物のことを、仮に『協力者』と呼びましょうか。まずは、協力者が備品棚に紛れ込んだスケッチブックがジョセフのものであると断定できた理由ですね。一緒に授業を受けていたクラスメイトたちは除外してもいいでしょう。もしも彼らが気づいていたら、その場ですぐにジョセフに声をかけていたはずですから。わざわざ上級生であるお兄さんの方にスケッチブックを渡すのは不自然です。であれば、協力者はそれ以降の時間帯に美術室を利用した者――と言いたいところですが、もっと確実な候補がいます」
「ジョセフに備品の片付けをさせた教員、だね?」
「その通りです。ルイスたちが教室を出た後、次の授業の準備をしていた教員がスケッチブックを見つけた、と仮定しましょう。彼は誰が備品棚に教本を片付けたかを知っていますし、生徒たちの絵の技量も把握しています。スケッチブックの持ち主を特定するのはそう難しくなかったはずです」
「そして、教員であればナッシュビル家の事情を把握していてもおかしくはない。彼はあえて兄であるフィンレーにコンタクトを取ったというわけか」
ウィリアムは頷いた。
「教員の誰かがこの件に関わっていたとすると、今度は『何故フィンレーにスケッチブックを渡したのか?』『何故フィンレーが毎週絵のリクエストを出すように仕向けたのか?』という謎が出てきます。ここから先は、実際にジョセフのスケッチブックを見た僕の想像ですが……」
話をしながらぶらぶらと歩いていると、裏庭の端に行き当たった。
この一角はゴミ捨て場に当たる。
塀沿いには、木箱や使われなくなった長机が積み上げられていた。ウィリアムは木箱のひとつを覗き込み、中に空き瓶や割れた食器の類が乱雑に詰め込まれているのを確認して満足そうに頷いた。
「学内にもごみ処理用の焼却施設はありますが、こういう不燃物や粗大ごみまでは処理できません。契約を交わした業者が決まった日に回収に来ることになってるんです。それがちょうど水曜日の昼休憩の時間帯なんです」
「フィンレーが、スケッチブックを持ってくるよう指定してきた時間だね」
アルバートはポケットから懐中時計を取り出して、時間を確認した。昼休憩が終わるまで、まだ三十分ほど時間がある。
ウィリアムは施錠された木戸を指差した。
「ジョセフのスケッチブックに、ここで立ち話をしている二人の男が描かれているページがありました」
「どうしてわざわざこんな場所を? ……ああ、なるほど」
怪訝そうな顔をしたものの、辺りを見回したアルバートはすぐに得心がいったように頷いた。
ここはちょうど学生寮の裏手にあたる。
「部屋の窓から見た風景というわけか」
「はい。角度からして二階のどこかだと思われます。下級生用の大部屋が並んでいるあたりです」
アルバートは頷いた。
入学当初から『王の学徒』として個室を与えられていた彼らは大部屋には縁が無かったが、建物の構造は把握している。
「ジョセフは、例のリクエストを受けるようになるまでは寮の自室で絵を描いていたようです。あのスケッチブックに描かれているのは部屋の中で用意できるものばかりでしたし、彼は自分の趣味をあまり大っぴらにしたがらなかったそうですから。昼休憩の時間は、大抵は自室に戻って、窓際の机に座って好きな絵を描いていた。例えば、この裏庭で何か悪事を働いている者がいたとして、窓際に座って頻繁にこちらを見下ろしているジョセフに気付いたとしたらどうするでしょう? 悪事の現場を目撃されることを恐れ、彼の目を裏庭から引き離す策を練るはずです」
「そのためにフィンレーを誘導して、スケッチブックにあのメッセージを書かせたと?」
「僕はそう推測しています。ある教員が偶然、備品棚からスケッチブックを見つける。開いてみると、自分たちの悪事の現場が克明にスケッチされているのを発見します。絵を描いた生徒自身はそのことに気づいてはいないかもしれませんが、いずれ勘づく時がくるかもしれない。だから彼はスケッチブックの持ち主ではなく、その兄に声をかけたのです。そして、ナッシュビル兄弟の微妙な心理的距離を利用し、弟の特技を応援してみてはどうか、と言葉巧みにフィンレーを誘導した。自分の本当の目的は隠したまま……」
一通りの推理を聞き終えたアルバートが、改めて寮の建物を見上げた。
美術教室は寮の反対側の棟の三階にある。 どれだけ急いでも、行って戻ってくるのに二十分はかかるだろう。その道中でクラスメイトに食堂へ誘われるかもしれないし、上級生に雑用を言いつけられるかもしれない。
『毎週水曜日の昼休みに、美術教室の備品棚にスケッチブックを入れる』よう約束を取り付けさせれば、確実にこの時間帯はジョセフを寮の窓から引き離すことができる。 事実、今は寮の窓に人の気配は無かった。ジョセフは今頃、ルイスの似顔絵を描いたスケッチブックを持って美術教室へ向かっているのだから。
「けれど、その『悪事』とは一体?」
ウィリアムはその質問には答えず、アルバートの腕を引いて植え込みの影に滑り込んだ。
ちょうど、男がひとり、向こうから歩いてくるところだった。生徒ではない。教員だ。
背が高く体つきは頑丈そうだが、眉は垂れ下がりくたびれた印象を受ける。あの絵の男に間違いない、とウィリアムはジョセフの画力に妙に感心してしまった。
彼がちらりと学生寮の方に視線をやったことで、二人はよいいっそう確信を強めた。彼の注意は二階の窓に向いていて、植え込みの影に隠れているウィリアムとアルバートには気づいていない。
「不要品の回収に際して、裏門の鍵を開けて作業に立ち会う教員が必ずいます。補助教員、ネヴィル・ハザリー。彼がフィンレーの協力者です。美術科も担当していたので、間違いないでしょう」
ウィリアムが囁くと、示し合わせたようなタイミングで、ハザリーが懐から鍵の束を取り出した。
彼が錆びかかった錠前を開けると、戸の外にはすでに回収屋の男が待っていた。二人は片手を上げて気安い様子で挨拶をしている。
回収屋の男が、茶色い紙袋をハザリーに差し出した。受け取ったハザリーは、ポケットから紙幣を何枚か取り出して渡した。
廃品の処理のため学校側は業者に金を支払っているのは間違いないが、作業員と補助教員の間で直接やり取りをするはずがない。
「どうする、ウィル?」
アルバートが短く尋ねた。
今すぐ彼らを問い質すこともできなくはないが、言い逃れの仕方はいくらでもある。「友人にちょっとした買い物を頼んでいた」とでも言われてしまえばそれまでだ。
かと言って、多少後ろめたいことがなければこんなにも回りくどい真似をするとも思えなかった。
ウィリアムは簡潔に回答した。
「ルイスから話が伝わったとばれてしまうのは困ります」
「フ……そう言うだろうと思ったよ」
ルイスがこの件に関わっていることをハザリーに知られる可能性がある。今週のリクエストは人物画で、そこに描かれているのはルイスなのだから。
ここでモリアーティ家の兄ふたりが登場して事態を暴き立てれば、どこからどう話が伝わったのかは子供でも分かることだろう。
あの荷物の中身が何なのか分からない以上、下手に出しゃばって報復の矛先がルイスに向くことは避けなければならない。
「であれば、それとなく他の監督生と教員を動かしてみよう」
アルバートからの期待通りの返答に、ウィリアムはにっこりと微笑んだ。
*
数日後、アルバートが職員室を後にして自室に戻ると、すでに弟たちが待っていた。
ウィリアムは読んでいた本を閉じるとアルバートにソファへ座るようすすめ、ルイスはすかさず淹れたての紅茶をサーブしてくれる。彼は早く結果を聞きたくてうずうずしているようだったが、ウィリアムが切り出すまでぐっと堪えて待っていた。
「首尾はいかがでしたか?」
「ああ。補助教員ネヴィル・ハザリー。フィンレーを唆かしたのはやはり彼だった」
アルバートはウィリアムの向かいに腰を下ろしながら答えた。
「ウィルの推理通り、毎週水曜日に廃品回収にやってくる男から『校則で禁止されている嗜好品』を仕入れて、それを不良どもに売りさばいて小銭を稼いでいたそうだ。匿名の情報提供があったことにして教員を動かしたらすぐに白状したよ」
「『禁止されている嗜好品』というと……」
「お酒や煙草じゃないかな」
ルイスの疑問を、ウィリアムがすかさずフォローした。
実際は酒、煙草のほかに持ち込み禁止の菓子類、大衆娯楽雑誌など押収された品は様々だ。中には猥褻本の類も含まれていて、何となく弟たちの耳には入れたくない話だったのでアルバートはあえて婉曲的な表現を使ったのだ。
この様子だとウィリアムには察しがついてしまっているようだが、ルイスは兄の言葉を素直に受け取って「そんなものの為に」とぷりぷり怒っている。
阿片など違法な薬物が学内に持ち込まれている可能性も考慮して出来る限り慎重に行動していたため、アルバートも拍子抜けしたことは否めない。
ハザリーが数日中に自主的に退職することになったと伝えると、ルイスはさらに不満そうに顔をしかめた。
「教員の立場でこんなことをしておいて、解雇ではなくて退職扱いなのですか?」
「ああ……そうなんだけどね」
「アルバート兄さん」とウィリアムが口を挟んだ。「そもそも、ハザリーさんは何故こんなことを? 回収屋の男に代金といくらかの手間賃を渡したら、もう彼の手元にはほとんど残らなかったはずです。お金以外の目的があったということですか?」
「いや。そのわずかな金額こそが、目的だったそうだ」
ネヴィル・ハザリーは補助教員だ。正式な教員と違って、教員免許を持っていない。大学を卒業した(そして、その多くが貴族出身者である)教員たちとはその仕事内容や待遇は大きく異なっていた。
教員や生徒の中には平民出の彼らを「使用人」として捉えるものも多くなかった。
昨年の夏にハザリーの娘婿が急死し、娘とまだ幼い孫たちの生活を助けるために金が必要になった。しかし学校にほとんど住み込みで働く補助教員の給料では満足な援助はできなかった。そんな折に隠れて酒盛りをしている学生たちを見つけ、この副業を思いついたそうだ。
毎週廃品の回収に立ち会ううちにいつしか親しくなった業者の男に協力を持ちかけると、快く引き受けてくれたという。この方法ならば、週末ごとに大量の煙草や酒や菓子を買い込むよりも他の教員たちの目につきにくい。
品物をすべて捌いたところでハザリーの手元に残る儲けは僅かだった。しかしその金があれば大黒柱を失った娘や孫たちはパンを一つ、着替えを一枚買える。雪の降る夜にガスストーブを使うのを我慢せずにすむ。「お金なんかの為に」と彼を批判できるのは、何も知らない、本当に金に困ったことのない人間だけだ。
残飯を漁って食いつないだ経験のあるウィリアムとルイスはその辛さを痛いほど分かっていたし、生まれてこの方食事に困ったことのないアルバートにもそれは察せられた。
「補助教員が忙しく働いているのは知っているつもりだったが、ここまで待遇が悪いとは思ってなかったよ」
「貴族の子弟にとってはお小遣い程度の金額でも、ハザリーさんにとっては喉から手が出るほどほしいお金だったというわけですね」
「そう思うと、仕事を無くしてしまったのは、何だかお気の毒ですね……」
ルイスが顔を曇らせた。
アルバートはこの数日のうちに、ハザリーの『顧客』だった生徒を何人か捕まえて証言を集めた。中には彼の事情を知っていて、カンパのつもりで品物を買っていた生徒もいたのだ。
「先生方には、寛大な処分をなさるようお願いしてはみたのだけれど……。問題を起こしてしまった以上このまま雇い続けるのは難しい、というのが結論だった」
肩を落とすアルバートに、ウィリアムは「大丈夫です」と微笑んだ。
「ハザリーさんは、ここの下宿を引き払った後、一人の男に出会うでしょう」
「男?」
「はい。まだ若いけれどどこか疲れ切った顔をした、片手のない傷痍軍人です。路地に力なく座り込んだ彼はハザリーさんに頼みごとをます。『煙草を一本もらえないか』と。もしハザリーさんが親切な対応をするのであれば、喜んだその男が意外なツテを使って彼に仕事を紹介してくれるでしょう」
アルバートとルイスは顔を見合わせた。片手のない元軍人、と言われれば、それが誰かは聞くまでもない。
「……あの人は、煙草をもらえるまで付きまといそうだな」
少しの沈黙の後、しつこく煙草をねだる大男の姿を想像して三人はくすくすと笑い声をあげた。
根は人情に厚いモランのことだから、きっとハザリーがこのささやかなテストを合格するまで粘るだろう。もし彼が煙草を持っていなければ、代わりに小銭や飴玉を要求するかもしれない。
「とある画廊で、ちょうど雑用係を探しているそうだったので。もちろん雑用係と言っても、芸術を見る目があるに越したことはありません。ハザリーさんにとっても申し分ない再就職先でしょう」
「まったく、手回しのいいことだね」
アルバートが肩を竦めてみせると、ウィリアムは控えめに、けれど誇らしそうに笑った。
「さて、ナッシュビル兄弟の件もハザリーさんの件も丸く収まったことだし……僕らの相談役に報酬をお支払いしないといけないね」
いたずらっぽく笑いながら、アルバートは懐から折りたたまれた紙切れを取り出した。
両手で恭しく差し出すと、ウィリアムはそれが何なのか予想がついたらしくにこにこと笑いながら受け取った。紙切れを丁寧に広げてみて、ますます笑みを深くする。
すると当然、ルイスもその紙に何が書かれているのか気になったようだ。
その紙切れは分厚くざらついていて、片側に小さな丸い穴が並んでいて、ちょうどスケッチブックから破り取ったページに似ている。何かを勘づいたらしいルイスは、身を乗り出して兄の持つ紙切れを横からのぞき込んだ。
「なっ……どうして兄様がこれを持っているのですか!?」
彼の予想通り、アルバートがウィリアムに渡したのは先日ジョセフがルイスをモデルに描いた絵だった。
絵の中のルイスは描き手の方をまっすぐ見つめ返すのを恥ずかしがったのか、頬の火傷を描かれるのを嫌ったのか、心持ち右を向いて椅子に腰掛けている。『王の学徒』の証たる黒いローブは彼の身体にはまだ少しだけ大きく、首筋や手首は頼りないほどほっそりして見えた。
顔を真っ赤にするルイスが可笑しくて、アルバートはくすくすと笑った。
「フィンレーの部屋を訪ねて、弟に名乗り出るよう話してみたんだ。もちろん、ハザリーさんの件は伏せてね。『どうしてそれを知っているんだ』と慌てていたけれど、この絵に描かれているのが誰なのかを教えてあげると納得してくれたよ」
快く、とまではいかなかったが、経緯を説明するとフィンレーは絵を譲ってくれた。「弟に謝っておくよ。君の弟にもよろしく」と眉を下げて笑いながら。
「フフ、そっけない表情のルイスは何だか懐かしいな」
「ほんとうに良く描けていますね。少し緊張して顔が強張っているのが伝わってきます。兄さん、額縁を買いに行きましょう」
「それはいい。肖像画なんて見栄のためだけのものだと思っていたが……彼にカンバスと画材一式を進呈して本格的に描いてもらうのもいいかもしれないな」
「兄さん! 兄様まで!」
ルイスが珍しく慌てるので、二人の兄はますます可笑しくなった。
額に入れて飾るアイデアはルイスによって阻止されたが、この絵は今でもウィリアムの手帳に挟まれている。折り畳まれたぶ厚い紙は少しばかり嵩張ったが、今のところ手放す気は無い様だった。
初出:Pixiv 2023.08.20