No.38
とある兄弟の話 前編
イートン校時代、ウィリアムが安楽椅子探偵っぽいことをする話。
終業時間を告げる鐘が鳴った。
授業を終えたアルバートは、声を掛けてくる級友たちを振り切って、急ぎ足で寮の部屋に戻った。貴族の子弟が集うここイートン・パブリックにおいて、次期伯爵家当主が人付き合いを疎かにするわけにはいかなかったが、今日の彼には何よりも優先すべき先約がある。
下級生の一団が、黒いガウンをひらめかせながら颯爽と歩くアルバートの姿を畏敬の念を込めた眼差しで見送った。模範的な優等生である彼が階段を一段飛ばしで駆け上がりたい衝動をぐっと堪えているとは、つゆとも思っていないだろう。
ようやく寮の自室にたどり着くと、すでにルイスが待っていた。
「兄様、おかえりなさい」
「早かったね、ルイス。待たせてしまったかな」
「いいえ。まだお茶の準備も終わっていません」
ちょうど茶葉を蒸らし始めたところだったらしい。砂時計をひっくり返しながら、ルイスは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
弟に召使いのような真似をさせるつもりはアルバートにはさらさら無かったが、アルバートは「ありがとう」と礼だけ言って微笑んだ。何かにつけて兄二人の役に立ちたがる、一生懸命なその様子はとても好ましい。
「兄様にお時間を取っていただくのですから、この位当たり前です」
「ふふ、今日は史学の小論文だったかな」
テーブルの端には、ルイスが持ってきたと思しきテキストと紙束が積まれていた。兄たちと同じく入学試験を首席で突破し『王の学徒』に選ばれたルイスであったが、まとまった文章を組み立てることは少々苦手としていた。入学以前から作文の添削をしてやっていた名残りで、今もこうしてアルバートを頼ってやってくるのだ。
ルイスは淹れたての紅茶を恭しく差し出すと、アルバートの向かいに腰を下ろして「よろしくお願いします」とお辞儀した。
小一時間ほどで、弟の論文は申し分ない出来に仕上がった。ルイスはでき上がった文章を読み返して、「ありがとうございます」と満足気に顔を綻ばせる。
アルバートに言わせれば、骨子はすでに組み上げられていたのだから、自分は体裁を整えるのを手伝っただけだ。
「学校にはもう慣れたかい?」
「はい、お陰様で」
「それはよかった。何か困ったことがあったら、すぐに私かウィリアムに言うんだよ」
そう口にしてから、過保護すぎたかと思ったが、当のルイスは頬を赤らめてはにかみながら頷いた。その様子にアルバートも少し安心する。
「あ、アルバート兄様。あの……」
ルイスは視線を彷徨わせ、体の前で組んだ指をもじもじと動かした。単に照れているというより、何か迷っているような動きだった。
アルバートは急かさずに、弟の顔をまっすぐに見返しながら言葉の続きを待った。
「あの、アルバート兄様にお聞きしたいことがあります」
「何だい? 話してごらん」
アルバートは柔らかい声で促した。
ウィリアムと違って、末のルイスはまだアルバートに対してどこか遠慮している節がある。こうして勉強をみてほしいと頼んでくることはままあるけれど、実の兄弟ゆえの気易さからか、何かあったときはまずウィリアムを頼ることの方が多い。
そんなルイスがもう一人の兄として自分を頼ってくれている状況に、アルバートは知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。「ええっと」ルイスは揃えた膝の上で拳を握った。
「アルバート兄様は、何故、僕に優しくしてくださるのでしょうか?」
弟の口から飛び出した質問に、アルバートは思わず眉間にしわを寄せた。
「……誰かに何か言われたのかい?」
伯爵家の人間とはいえ、血の繋がりのない養子の末弟となれば好奇の目は避けられない。加えて、非の打ち所のない優等生のアルバートと、飛び級ですでに卒業目前と噂されているウィリアムは学内で有名すぎた。 ルイスが不当な扱いを受けないよう、彼が入学するまでに摘める芽は摘んで(もしくは潰して)おいた。こうしてなるべく一緒に過ごす時間を作っているのも、牽制という目的も少なからずあった。この子に手を出せば承知しないぞ、と。
そうした兄たちの暗躍もあってか、ルイスは周囲から多少遠巻きにされながらも穏やかに学生生活を送っているように見えた。
それなのに、彼の口からこんな質問が飛び出したのは、一体どういうことか。近頃は教師の目を盗んでギャンブルの真似事に興じたり、どうやって持ち込んだのか隠れて酒を飲む輩がいるとの噂もある。もしそういった連中にルイスが絡まれているのだとしたら、どうしてくれよう……。
一瞬のうちに様々な考えが頭の中を巡り、自分が思っていた以上に硬い表情をしてしまっていたようだ。ぱっと顔を上げて兄の顔を見たルイスは慌てたようにぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ、陰口を叩かれたとか、そういう訳ではありません」
「ならどうして?」
「その……クラスメイトに、僕と同じ養子の立場である人がいるのです」
「あぁ……」
アルバートには一人思い当たる人物がいた。
ジョセフ・ナッシュビル。
ナッシュビル子爵家現当主の妹夫婦が馬車の事故で亡くなったとかで、本家へ引き取られたという生徒だ。ジョセフの従兄であり嫡子であるフィンレー・ナッシュビルがアルバートと同学年であるため、その話を小耳に挟んだことがあった。
従兄――兄の方は主張の少ない温和な性格であったと記憶しているが、数えるほどにしか口を利いたことが無かったので、アルバートは何も言わずルイスの言葉の続きを待った。
「彼に訊かれたんです。血の繋がらない兄様たちとどうやって仲良くなったのか、と。数年前に子爵家に迎えてもらったものの、新しい家にうまく馴染めなくて悩んでいるようです。それで僕に相談を」
心無い言葉を投げつけられたわけではないことがわかり、アルバートは少し肩の力を抜いた。もう一度、努めて優しい声を出す。
「それで、ルイスは何と答えたんだい?」
「何も……答えられませんでした」
ルイスはますます顔を曇らせた。
「僕はウィリアム兄さんと違って何も特別なことはできません。僕が良くしていただいているのは、ただ兄様がお優しかったからです」
「……そう」
その答えが、アルバートは少しだけ寂しかった。
確かにウィリアムの類稀な頭脳に惹かれたことは事実であったが、アルバートは能力の多寡に関係なく、弟として彼とルイスを愛している。同じ想いを分かち合って、互いを尊重しあいながら側にいられる存在はアルバートにとって充分『特別』なのだ。
「……この件について、ルイスが彼にしてあげられることは何も無いよ」
率直な意見を述べると、ルイスはわかりやすく眉を下げた。
「アルバート兄様でも、難しいですか?」
「私?」
「兄様は、人と親しく付き合うのがお上手ですから」
「ありがとう。でも、表面上上手く付き合うことと、家族として打ち解けることはまるで別物だよ」
言いながら、アルバートは内心で自嘲した。これではまるで、最後まで肉親と分かりあえなかった自分自身への皮肉だ。
「こればかりは当人同士の問題だからね。他人がお節介を焼いて良い結果が得られるとは限らない」
「そう、ですね……」
「ただ、彼と彼のお兄さんの仲を取り持つのは難しくても、ルイスにできることが無いわけじゃない」
「本当ですか?」
「あぁ」とアルバートは頷いた。「彼の話を聞いて、仲良くしておやり。彼はきっと、よく似た立場にあるルイスになら自分の気持ちを分かってもらえると考えて、相談してくれたんだろう? ルイスが話を聞いて共感を示してあげればそれだけで気持ちがとても楽になるはずだし、前向きに行動するきっかけを与えられるかもしれないよ」
他人の思考や行動を思い通りに操ることは、普通の人間にはできない。たとえできたとしても、いずれ何処かで綻びが生じてしまうだろう。
けれど、その心に寄り添うだけであれば、ほんの少しの想像力と思いやりさえ持ち合わせていれば、そう難しくはないはずだ。
ルイスは兄の言葉をゆっくりと反芻して、やがて表情を明るくしながら頷いた。
その表情に、アルバートは密かに胸をなで下ろす。心の距離を一足飛びに縮めてしまう魔法の言葉があるのなら、アルバート自身が知りたいくらいだ。
しかしまぁ、他ならぬルイスの友人であるのなら、気に留めておいて然るべきだろう。二杯目の紅茶をすすりながら、アルバートは思案した。
*
それから数日後の、昼休憩の時間だった。
昼食を終えたウィリアムは、午後の授業が始まる前に図書室にでも行こうか、と考えながら廊下をぶらぶらと歩いていた。
と、そこに、背後から声がかかる。
「ウィリアム兄さん」
振り返ると、教員に見咎められない程度の速度でルイスがこちらに駆け寄ってくるところだった。
「ああ、よかった。食堂にもいらっしゃらなかったから」
「ごめんね、探してくれていたの?」
「いえ、僕の勝手な用事でお探ししていただけで……。あの、少しお時間をいただけますか?」
「もちろん、構わないよ。ジョセフ・ナッシュビルの件かな?」
どうやら当たりだったようで、ルイスは「えっ」と声を上げた。
「どうして、そのことを……」
「簡単なことだよ。そのスケッチブックはルイスのものじゃないだろう? それなら、絵の得意な君の友だちのものかなって」
胸に抱えたスケッチブックを指さされ、ルイスの瞳が驚きと尊敬の色に輝く。今よりずっと幼い頃から変わらないその眼差しに、ウィリアムはほんの少し得意になって胸を反らした。
「……あれ? 僕、兄さんにジョセフのことを話しましたっけ」
尋ねられて、ウィリアムは内心でほんの少し焦った。
「あぁ……彼のご両親のことを、前に新聞で読んで覚えていたんだ。だから、ルイスと同じクラスになったことは知っていたよ」
「兄さんの記憶力はすごいですね」
何食わぬ顔で答えるとルイスは納得したようだったが、実際は先日アルバートから話を聞いていたのだ。どうやらルイスに友達ができたらしい、と。
それなら僕にも話してほしかった、という子供っぽい焼きもちのせいで、つい先走ってしまった。らしくない失敗にウィリアムはこっそりと自嘲した。
二人は中庭の隅のベンチに場所を移した。
人に聞かれたくない話であるならどちらかの部屋に移動すれば良かったのだが、ルイスは寮までの移動時間を惜しんだ。聞けば、友人が教師に用事を言いつけられたタイミングを見計らってスケッチブックを拝借してウィリアムのもとにやって来たらしい。
寒さは徐々にやわらぎ始めたとはいえ、まだまだ冷えることには変わりない。
「寒くない? ルイス」
「大丈夫です。……まずは、これを見てください」
ベンチに腰を落ち着けると、ルイスはスケッチブックをウィリアムに手渡した。何気なくページをめくって、ウィリアムは目を瞬かせた。
「これもそのジョセフが描いたのかい? ずいぶん上手だね」
「はい、美術の成績もとても良いんです」
ウィリアムは芸術にさほど興味があるわけではない。それでも、学生が描いたにしては申し分ない絵だと素直に感心した。黒々とした鉛筆画ながら、林檎のみずみずしい張りや、磨かれた陶器のつやが伝わってくるような生き生きとしたスケッチだった。
「彼は美術クラブにでも入っているのかな」
「いいえ。クラブには入っていませんし、授業以外では指導を受けたことも無いそうです」
「じゃあ全くの趣味なんだね。それはますますすごいな。きちんとした先生のもとで教われば、もっと上手くなれるだろうに」
「兄さんもご存知の通り、ジョセフは子爵家の傍系で……子爵家に引き取られたのですが、義理の両親や兄さんに迷惑をかけないように、卒業したら早く仕事に就いて独立しなければならないといつも言っています。だから絵を描くのはあくまで遊びだと」
「そう、もったいないな……で、ルイスは彼に絵のモデルを頼まれでもしたのかい?」
「えっ」
またしても言いたかった事をピタリと言い当てられ、ルイスは瞳が零れ落ちそうなほど目を見開いた。
「どうしてわかったんですか?」
「ふふ、だって僕に相談事があったんでしょ? ジョセフが絵を描くことに関係していて、ルイスが困るようなことといったらそれくらいしか思いつかないよ」
「うう……確かに、僕はジョセフに絵のモデルを頼まれました。でも、事情はもっと複雑なんです。だから、兄さんのお知恵をお借りしたくて」
「へぇ、それはどんなふうに?」
ルイスの説明はこうだ。
クリスマス休暇が明けた最初の美術の授業のときだった。
ジョセフは授業用のスケッチブックと間違えて、今ウィリアムが眺めている私用のスケッチブックを持ってきてしまった。幸いその日は講義だけで終わったのでスケッチブックを使わずに済んだが、迂闊なことに彼はそれを美術教室に忘れてきてしまった。授業で使った画集の片付けを教員に命じられた際、一緒に備品棚に入れてしまったのだ。
ジョセフは教室を出てすぐ忘れ物に気付いたが、次の授業があったので取りに戻ることができなかった。放課後も美術クラブの活動があって何となく立ち入りづらく、結局彼がスケッチブックを回収できたのは翌朝のことだった。
「そして、部屋に戻ってスケッチブックを開くとこんな書き込みがあったんです」
ルイスは横から手を伸ばして、スケッチブックをめくった。 ジョセフは右利きらしく、右側のページにだけ絵が描かれている。見開きの両側に鉛筆で絵を描けば、スケッチブックを閉じた際にページ同士が擦れて汚れてしまうからだろう。
しかし空白だったはずの左側のとあるページに、文字が書き込まれていた。
『とても上手だね』
青黒いインクで書かれた、流れるような筆記体だった。
「これは……誰かが備品棚に紛れ込んだスケッチブックを見つけて書き込んだのかな?」
「はい、おそらく。ジョセフは気になって、翌々日の授業の折に、もう一度教室の備品棚にスケッチブックを滑り込ませました。この下の、『どうもありがとう。あなたは誰ですか?』というのはジョセフが書いたものです」
「で、さらにその下が相手からの返事か」
鉛筆書きのジョセフの文字の下に、同じ筆跡で書き込みがある。
『それは秘密です。それより、ジョセフ、もっと君の絵を見せてくれませんか? 水曜日の昼休み、誰にも見つからないように、またこの棚にスケッチブックを入れてください。その時間であれば、美術室には誰もいません。僕は君が描いた礼拝堂の天使像が見てみたいです』
ウィリアムがそのメッセージを読んだことを確認して、ルイスが黙って次のページを捲る。
予想通り、天使像のスケッチが描かれていた。左側のページには、さらにメッセージのやり取りが続いている。
「こんな調子で、週に1度、正体不明の人物が絵のリクエストを出してくるようになって……。彼は毎週水曜日の昼休みになると、美術室へスケッチブックを持っていくようになりました」
「昼休みに、ね」
「はい。授業のついでに隠すと他の生徒や教員に見咎められる可能性があるので。休み時間に特別教室に立ち入ることは原則禁止されていますが、ここに書かれている通り、水曜日の昼休みは担当の教員が外しているので、美術室は無人になるんです」
「なるほど。となると、相手はそれ以降の時間帯にスケッチブックを回収しているのかな」
「おそらく。木曜日の朝一番に備品棚を覗くと、必ずスケッチブックに返事が書き込まれているそうです」
「そして、今週のリクエストは人物画だったわけだね」
「そうなんです」
「これは確かに妙だね」
ルイスはこくこくと一生懸命に頷いた。
「ジョセフにもそう言ったのですが、絵を褒めてくれる人が現れたことに舞い上がってしまっているようで、ちっとも聞いてくれないんです」
「それでルイスは断りきれずにいるんだね」
「友人は大切にしなさいと、兄様も仰っていましたし……」
ルイスは困り果てたように俯いてしまった。
ただの絵のモデルであれば彼も引き受けただろうが、その絵がどこの誰とも分からない者に見られるというのは何となく座りが悪い。
「つまりこれは『メッセージの送り主を特定してほしい』という、ルイスから僕への依頼だね?」
『依頼』という単語を強調しながら尋ねると、ルイスは目を輝かせてこくこくと頷いた。
であれば、完璧に解決せねばなるまい。
ウィリアムは一度スケッチブックを閉じると、表紙と裏表紙を改めた。兄が何を確かめようとしているのか、ルイスにはすぐに察しがついたようだった。
「おかしいでしょう? このスケッチブックにはどこにもジョセフの名前が書かれていないのに、向こうは二回目のメッセージの時点でこのスケッチブックが誰のものか分かっていたんです」
ウィリアムは頷いて同意を示した。
このスケッチブックはジョセフが個人的に使っていたものだから、どこにも持ち主の名前が書かれていない。絵の下はそれを書いたらしい日付だけは記されているが、サインは見当たらない。
それなのに、メッセージの送り主は二回目のメッセージでジョセフの名を呼んでいる。
「彼は美術の授業の時にこのスケッチブックを棚に隠していたんだよね。クラスの誰かに見られていた可能性は?」
「それはおそらくありません」
ルイスはきっぱりと断言した。
「どうしてそう思うの?」
「僕も同じように考えて、メッセージの筆跡を調べてみましたから。少なくとも僕らのクラスの生徒には、同じ筆跡の者がいないことが確認できました」
「そこまでやったのかい、ルイス?」
「当番が回ってきたときにクラス全員分のレポートを集めましたので、その時に」
「なるほど。じゃあ、ジョセフがスケッチブックを忘れていった場面を、一緒に授業を受けていたクラスの誰かが見ていた線は消えたわけだね」
「はい。ですが、さすがに他の学年の生徒の筆跡までは調べられなくて……」
「『同じクラスの誰かではなかった』という可能性さえ排除できれば十分だよ、ルイス。ヒントはすべてここにある」
ウィリアムはスケッチブックを丁寧に、今度は後ろから前へ逆上るようにめくっていった。
「ところでルイス、さっき僕が『このスケッチブックはルイスのものじゃない』って、どうしてわかったと思う?」
「え? それは……僕が持っているスケッチブックを兄さんが知っていたからでは? 僕の入学前に、兄様と一緒に学用品を買い揃えるのに付き合って下さいましたから」
「そうだね。家族だからね」
「……?」
首を傾げるルイスを横目に見ながら、ウィリアムはさらにページをさかのぼり、初めてメッセージが書かれたページを通り過ぎてから手を止めた。
瓶の中に閉じ込められた帆船の絵が描かれている。
「これはボトルシップだね」
「ええ、クリスマスのプレゼントにご両親からもらったと聞きました」
さらにもう一ページさかのぼる。
「こっちはティーセットだ。細かい絵柄までよく描けてるね」
「はい……」
相槌を打ちながら疑問符を浮かべるルイス。「この絵がどうかしたのですか」とその顔に書かれているようで、ウィリアムは小さく微笑んだ。
「この二枚の絵が描かれた日付を見てごらん」
「ええっと……ティーセットの絵が十二月二十三日。ボトルシップの絵が、その二日後の二十五日ですね」
そう答えてから、ルイスは「あっ」と声を上げた。
「気づいたかな。この二枚はクリスマス休暇中に、おそらくは彼の実家で描かれた絵なんだ。彼もクリスマスは実家で過ごしたんだろう? となれば、これがジョセフのスケッチブックだと断定することができた者がこの学校内に一人だけいた事になるね」
「家族なら同じティーセットを使うのは当たり前で、クリスマスプレゼントに何を貰ったのかも当然知っている……」
「そう。『家族だから』ね。つまりメッセージの送り主はジョセフの兄、フィンレー・ナッシュビルだ」
「絵そのものがヒントだったんですね。こんなに簡単に当ててしまうなんてさすがです、兄さん」
「ルイスが、僕がほしい情報を用意してくれていたお陰だよ」
兄の推理に感心しながらも、けれどルイスにはまだ腑に落ちない事があるようだった。
「でも、ジョセフのお兄さんはどうしてこんな回りくどいことをしたのでしょう? 絵を褒めたいなら本人に直接言えばいいのに」
「さぁ。それは本人に聞いてみないとわからないね。……でも、このスケッチブックを見れば分かることもある」
ウィリアムは、兄弟のやり取りが書かれたページを指先でなぞった。
「ジョセフのお兄さんからのメッセージは、すべてインクで書かれているね。文字が灰色がかっているのは吸い取り紙を使ったからだ。鉛筆だと擦れて隣のページの絵を汚してしまうこともあるけれど、インクなら一度乾いてしまえばその心配もない。それにほら、ここ」
ウィリアムがとあるページの隅を指差した。爪の先ほどの短い斜線が何本か走っている。
「インクが裏抜けしないか、確かめた跡……?」
ルイスの推理に、ウィリアムは微笑みながら頷いた。
「そう。彼はジョセフの絵を汚してしまわないように、最大限の配慮をしてくれていた。つまり、少なくとも悪戯としてこんなことをしたわけじゃない。ジョセフの絵が好きだという言葉は本物だと思うよ」
「そうですね。僕、ジョセフに話してみます。……あ、もしかして、ジョセフも薄々気が付いていたのでしょうか?」
「そうかもしれないね。ともあれ、これをきっかけに仲良くできるといいね」
ウィリアムはスケッチブックを閉じて、ルイスに返した。
「モデルの件、受けてあげる気になったかい?」
「うーん、そう……ですね」
まだどこか恥ずかしそうだったけれど、ルイスは頷いた。
弟に気のおけない友だちができれば、兄は喜ぶものだ。
「ところでルイス、もう一つ聞いていい?」
もうすぐ休憩時間の終わりを告げる鐘が鳴る。
礼を言って教室に戻ろうとするルイスを、ウィリアムは呼び止めた。
「ジョセフの部屋は、寮の東側の二階かな?」
初出:Pixiv 2023.08.20
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イートン校時代、ウィリアムが安楽椅子探偵っぽいことをする話。
終業時間を告げる鐘が鳴った。
授業を終えたアルバートは、声を掛けてくる級友たちを振り切って、急ぎ足で寮の部屋に戻った。貴族の子弟が集うここイートン・パブリックにおいて、次期伯爵家当主が人付き合いを疎かにするわけにはいかなかったが、今日の彼には何よりも優先すべき先約がある。
下級生の一団が、黒いガウンをひらめかせながら颯爽と歩くアルバートの姿を畏敬の念を込めた眼差しで見送った。模範的な優等生である彼が階段を一段飛ばしで駆け上がりたい衝動をぐっと堪えているとは、つゆとも思っていないだろう。
ようやく寮の自室にたどり着くと、すでにルイスが待っていた。
「兄様、おかえりなさい」
「早かったね、ルイス。待たせてしまったかな」
「いいえ。まだお茶の準備も終わっていません」
ちょうど茶葉を蒸らし始めたところだったらしい。砂時計をひっくり返しながら、ルイスは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
弟に召使いのような真似をさせるつもりはアルバートにはさらさら無かったが、アルバートは「ありがとう」と礼だけ言って微笑んだ。何かにつけて兄二人の役に立ちたがる、一生懸命なその様子はとても好ましい。
「兄様にお時間を取っていただくのですから、この位当たり前です」
「ふふ、今日は史学の小論文だったかな」
テーブルの端には、ルイスが持ってきたと思しきテキストと紙束が積まれていた。兄たちと同じく入学試験を首席で突破し『王の学徒』に選ばれたルイスであったが、まとまった文章を組み立てることは少々苦手としていた。入学以前から作文の添削をしてやっていた名残りで、今もこうしてアルバートを頼ってやってくるのだ。
ルイスは淹れたての紅茶を恭しく差し出すと、アルバートの向かいに腰を下ろして「よろしくお願いします」とお辞儀した。
小一時間ほどで、弟の論文は申し分ない出来に仕上がった。ルイスはでき上がった文章を読み返して、「ありがとうございます」と満足気に顔を綻ばせる。
アルバートに言わせれば、骨子はすでに組み上げられていたのだから、自分は体裁を整えるのを手伝っただけだ。
「学校にはもう慣れたかい?」
「はい、お陰様で」
「それはよかった。何か困ったことがあったら、すぐに私かウィリアムに言うんだよ」
そう口にしてから、過保護すぎたかと思ったが、当のルイスは頬を赤らめてはにかみながら頷いた。その様子にアルバートも少し安心する。
「あ、アルバート兄様。あの……」
ルイスは視線を彷徨わせ、体の前で組んだ指をもじもじと動かした。単に照れているというより、何か迷っているような動きだった。
アルバートは急かさずに、弟の顔をまっすぐに見返しながら言葉の続きを待った。
「あの、アルバート兄様にお聞きしたいことがあります」
「何だい? 話してごらん」
アルバートは柔らかい声で促した。
ウィリアムと違って、末のルイスはまだアルバートに対してどこか遠慮している節がある。こうして勉強をみてほしいと頼んでくることはままあるけれど、実の兄弟ゆえの気易さからか、何かあったときはまずウィリアムを頼ることの方が多い。
そんなルイスがもう一人の兄として自分を頼ってくれている状況に、アルバートは知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。「ええっと」ルイスは揃えた膝の上で拳を握った。
「アルバート兄様は、何故、僕に優しくしてくださるのでしょうか?」
弟の口から飛び出した質問に、アルバートは思わず眉間にしわを寄せた。
「……誰かに何か言われたのかい?」
伯爵家の人間とはいえ、血の繋がりのない養子の末弟となれば好奇の目は避けられない。加えて、非の打ち所のない優等生のアルバートと、飛び級ですでに卒業目前と噂されているウィリアムは学内で有名すぎた。 ルイスが不当な扱いを受けないよう、彼が入学するまでに摘める芽は摘んで(もしくは潰して)おいた。こうしてなるべく一緒に過ごす時間を作っているのも、牽制という目的も少なからずあった。この子に手を出せば承知しないぞ、と。
そうした兄たちの暗躍もあってか、ルイスは周囲から多少遠巻きにされながらも穏やかに学生生活を送っているように見えた。
それなのに、彼の口からこんな質問が飛び出したのは、一体どういうことか。近頃は教師の目を盗んでギャンブルの真似事に興じたり、どうやって持ち込んだのか隠れて酒を飲む輩がいるとの噂もある。もしそういった連中にルイスが絡まれているのだとしたら、どうしてくれよう……。
一瞬のうちに様々な考えが頭の中を巡り、自分が思っていた以上に硬い表情をしてしまっていたようだ。ぱっと顔を上げて兄の顔を見たルイスは慌てたようにぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ、陰口を叩かれたとか、そういう訳ではありません」
「ならどうして?」
「その……クラスメイトに、僕と同じ養子の立場である人がいるのです」
「あぁ……」
アルバートには一人思い当たる人物がいた。
ジョセフ・ナッシュビル。
ナッシュビル子爵家現当主の妹夫婦が馬車の事故で亡くなったとかで、本家へ引き取られたという生徒だ。ジョセフの従兄であり嫡子であるフィンレー・ナッシュビルがアルバートと同学年であるため、その話を小耳に挟んだことがあった。
従兄――兄の方は主張の少ない温和な性格であったと記憶しているが、数えるほどにしか口を利いたことが無かったので、アルバートは何も言わずルイスの言葉の続きを待った。
「彼に訊かれたんです。血の繋がらない兄様たちとどうやって仲良くなったのか、と。数年前に子爵家に迎えてもらったものの、新しい家にうまく馴染めなくて悩んでいるようです。それで僕に相談を」
心無い言葉を投げつけられたわけではないことがわかり、アルバートは少し肩の力を抜いた。もう一度、努めて優しい声を出す。
「それで、ルイスは何と答えたんだい?」
「何も……答えられませんでした」
ルイスはますます顔を曇らせた。
「僕はウィリアム兄さんと違って何も特別なことはできません。僕が良くしていただいているのは、ただ兄様がお優しかったからです」
「……そう」
その答えが、アルバートは少しだけ寂しかった。
確かにウィリアムの類稀な頭脳に惹かれたことは事実であったが、アルバートは能力の多寡に関係なく、弟として彼とルイスを愛している。同じ想いを分かち合って、互いを尊重しあいながら側にいられる存在はアルバートにとって充分『特別』なのだ。
「……この件について、ルイスが彼にしてあげられることは何も無いよ」
率直な意見を述べると、ルイスはわかりやすく眉を下げた。
「アルバート兄様でも、難しいですか?」
「私?」
「兄様は、人と親しく付き合うのがお上手ですから」
「ありがとう。でも、表面上上手く付き合うことと、家族として打ち解けることはまるで別物だよ」
言いながら、アルバートは内心で自嘲した。これではまるで、最後まで肉親と分かりあえなかった自分自身への皮肉だ。
「こればかりは当人同士の問題だからね。他人がお節介を焼いて良い結果が得られるとは限らない」
「そう、ですね……」
「ただ、彼と彼のお兄さんの仲を取り持つのは難しくても、ルイスにできることが無いわけじゃない」
「本当ですか?」
「あぁ」とアルバートは頷いた。「彼の話を聞いて、仲良くしておやり。彼はきっと、よく似た立場にあるルイスになら自分の気持ちを分かってもらえると考えて、相談してくれたんだろう? ルイスが話を聞いて共感を示してあげればそれだけで気持ちがとても楽になるはずだし、前向きに行動するきっかけを与えられるかもしれないよ」
他人の思考や行動を思い通りに操ることは、普通の人間にはできない。たとえできたとしても、いずれ何処かで綻びが生じてしまうだろう。
けれど、その心に寄り添うだけであれば、ほんの少しの想像力と思いやりさえ持ち合わせていれば、そう難しくはないはずだ。
ルイスは兄の言葉をゆっくりと反芻して、やがて表情を明るくしながら頷いた。
その表情に、アルバートは密かに胸をなで下ろす。心の距離を一足飛びに縮めてしまう魔法の言葉があるのなら、アルバート自身が知りたいくらいだ。
しかしまぁ、他ならぬルイスの友人であるのなら、気に留めておいて然るべきだろう。二杯目の紅茶をすすりながら、アルバートは思案した。
*
それから数日後の、昼休憩の時間だった。
昼食を終えたウィリアムは、午後の授業が始まる前に図書室にでも行こうか、と考えながら廊下をぶらぶらと歩いていた。
と、そこに、背後から声がかかる。
「ウィリアム兄さん」
振り返ると、教員に見咎められない程度の速度でルイスがこちらに駆け寄ってくるところだった。
「ああ、よかった。食堂にもいらっしゃらなかったから」
「ごめんね、探してくれていたの?」
「いえ、僕の勝手な用事でお探ししていただけで……。あの、少しお時間をいただけますか?」
「もちろん、構わないよ。ジョセフ・ナッシュビルの件かな?」
どうやら当たりだったようで、ルイスは「えっ」と声を上げた。
「どうして、そのことを……」
「簡単なことだよ。そのスケッチブックはルイスのものじゃないだろう? それなら、絵の得意な君の友だちのものかなって」
胸に抱えたスケッチブックを指さされ、ルイスの瞳が驚きと尊敬の色に輝く。今よりずっと幼い頃から変わらないその眼差しに、ウィリアムはほんの少し得意になって胸を反らした。
「……あれ? 僕、兄さんにジョセフのことを話しましたっけ」
尋ねられて、ウィリアムは内心でほんの少し焦った。
「あぁ……彼のご両親のことを、前に新聞で読んで覚えていたんだ。だから、ルイスと同じクラスになったことは知っていたよ」
「兄さんの記憶力はすごいですね」
何食わぬ顔で答えるとルイスは納得したようだったが、実際は先日アルバートから話を聞いていたのだ。どうやらルイスに友達ができたらしい、と。
それなら僕にも話してほしかった、という子供っぽい焼きもちのせいで、つい先走ってしまった。らしくない失敗にウィリアムはこっそりと自嘲した。
二人は中庭の隅のベンチに場所を移した。
人に聞かれたくない話であるならどちらかの部屋に移動すれば良かったのだが、ルイスは寮までの移動時間を惜しんだ。聞けば、友人が教師に用事を言いつけられたタイミングを見計らってスケッチブックを拝借してウィリアムのもとにやって来たらしい。
寒さは徐々にやわらぎ始めたとはいえ、まだまだ冷えることには変わりない。
「寒くない? ルイス」
「大丈夫です。……まずは、これを見てください」
ベンチに腰を落ち着けると、ルイスはスケッチブックをウィリアムに手渡した。何気なくページをめくって、ウィリアムは目を瞬かせた。
「これもそのジョセフが描いたのかい? ずいぶん上手だね」
「はい、美術の成績もとても良いんです」
ウィリアムは芸術にさほど興味があるわけではない。それでも、学生が描いたにしては申し分ない絵だと素直に感心した。黒々とした鉛筆画ながら、林檎のみずみずしい張りや、磨かれた陶器のつやが伝わってくるような生き生きとしたスケッチだった。
「彼は美術クラブにでも入っているのかな」
「いいえ。クラブには入っていませんし、授業以外では指導を受けたことも無いそうです」
「じゃあ全くの趣味なんだね。それはますますすごいな。きちんとした先生のもとで教われば、もっと上手くなれるだろうに」
「兄さんもご存知の通り、ジョセフは子爵家の傍系で……子爵家に引き取られたのですが、義理の両親や兄さんに迷惑をかけないように、卒業したら早く仕事に就いて独立しなければならないといつも言っています。だから絵を描くのはあくまで遊びだと」
「そう、もったいないな……で、ルイスは彼に絵のモデルを頼まれでもしたのかい?」
「えっ」
またしても言いたかった事をピタリと言い当てられ、ルイスは瞳が零れ落ちそうなほど目を見開いた。
「どうしてわかったんですか?」
「ふふ、だって僕に相談事があったんでしょ? ジョセフが絵を描くことに関係していて、ルイスが困るようなことといったらそれくらいしか思いつかないよ」
「うう……確かに、僕はジョセフに絵のモデルを頼まれました。でも、事情はもっと複雑なんです。だから、兄さんのお知恵をお借りしたくて」
「へぇ、それはどんなふうに?」
ルイスの説明はこうだ。
クリスマス休暇が明けた最初の美術の授業のときだった。
ジョセフは授業用のスケッチブックと間違えて、今ウィリアムが眺めている私用のスケッチブックを持ってきてしまった。幸いその日は講義だけで終わったのでスケッチブックを使わずに済んだが、迂闊なことに彼はそれを美術教室に忘れてきてしまった。授業で使った画集の片付けを教員に命じられた際、一緒に備品棚に入れてしまったのだ。
ジョセフは教室を出てすぐ忘れ物に気付いたが、次の授業があったので取りに戻ることができなかった。放課後も美術クラブの活動があって何となく立ち入りづらく、結局彼がスケッチブックを回収できたのは翌朝のことだった。
「そして、部屋に戻ってスケッチブックを開くとこんな書き込みがあったんです」
ルイスは横から手を伸ばして、スケッチブックをめくった。 ジョセフは右利きらしく、右側のページにだけ絵が描かれている。見開きの両側に鉛筆で絵を描けば、スケッチブックを閉じた際にページ同士が擦れて汚れてしまうからだろう。
しかし空白だったはずの左側のとあるページに、文字が書き込まれていた。
『とても上手だね』
青黒いインクで書かれた、流れるような筆記体だった。
「これは……誰かが備品棚に紛れ込んだスケッチブックを見つけて書き込んだのかな?」
「はい、おそらく。ジョセフは気になって、翌々日の授業の折に、もう一度教室の備品棚にスケッチブックを滑り込ませました。この下の、『どうもありがとう。あなたは誰ですか?』というのはジョセフが書いたものです」
「で、さらにその下が相手からの返事か」
鉛筆書きのジョセフの文字の下に、同じ筆跡で書き込みがある。
『それは秘密です。それより、ジョセフ、もっと君の絵を見せてくれませんか? 水曜日の昼休み、誰にも見つからないように、またこの棚にスケッチブックを入れてください。その時間であれば、美術室には誰もいません。僕は君が描いた礼拝堂の天使像が見てみたいです』
ウィリアムがそのメッセージを読んだことを確認して、ルイスが黙って次のページを捲る。
予想通り、天使像のスケッチが描かれていた。左側のページには、さらにメッセージのやり取りが続いている。
「こんな調子で、週に1度、正体不明の人物が絵のリクエストを出してくるようになって……。彼は毎週水曜日の昼休みになると、美術室へスケッチブックを持っていくようになりました」
「昼休みに、ね」
「はい。授業のついでに隠すと他の生徒や教員に見咎められる可能性があるので。休み時間に特別教室に立ち入ることは原則禁止されていますが、ここに書かれている通り、水曜日の昼休みは担当の教員が外しているので、美術室は無人になるんです」
「なるほど。となると、相手はそれ以降の時間帯にスケッチブックを回収しているのかな」
「おそらく。木曜日の朝一番に備品棚を覗くと、必ずスケッチブックに返事が書き込まれているそうです」
「そして、今週のリクエストは人物画だったわけだね」
「そうなんです」
「これは確かに妙だね」
ルイスはこくこくと一生懸命に頷いた。
「ジョセフにもそう言ったのですが、絵を褒めてくれる人が現れたことに舞い上がってしまっているようで、ちっとも聞いてくれないんです」
「それでルイスは断りきれずにいるんだね」
「友人は大切にしなさいと、兄様も仰っていましたし……」
ルイスは困り果てたように俯いてしまった。
ただの絵のモデルであれば彼も引き受けただろうが、その絵がどこの誰とも分からない者に見られるというのは何となく座りが悪い。
「つまりこれは『メッセージの送り主を特定してほしい』という、ルイスから僕への依頼だね?」
『依頼』という単語を強調しながら尋ねると、ルイスは目を輝かせてこくこくと頷いた。
であれば、完璧に解決せねばなるまい。
ウィリアムは一度スケッチブックを閉じると、表紙と裏表紙を改めた。兄が何を確かめようとしているのか、ルイスにはすぐに察しがついたようだった。
「おかしいでしょう? このスケッチブックにはどこにもジョセフの名前が書かれていないのに、向こうは二回目のメッセージの時点でこのスケッチブックが誰のものか分かっていたんです」
ウィリアムは頷いて同意を示した。
このスケッチブックはジョセフが個人的に使っていたものだから、どこにも持ち主の名前が書かれていない。絵の下はそれを書いたらしい日付だけは記されているが、サインは見当たらない。
それなのに、メッセージの送り主は二回目のメッセージでジョセフの名を呼んでいる。
「彼は美術の授業の時にこのスケッチブックを棚に隠していたんだよね。クラスの誰かに見られていた可能性は?」
「それはおそらくありません」
ルイスはきっぱりと断言した。
「どうしてそう思うの?」
「僕も同じように考えて、メッセージの筆跡を調べてみましたから。少なくとも僕らのクラスの生徒には、同じ筆跡の者がいないことが確認できました」
「そこまでやったのかい、ルイス?」
「当番が回ってきたときにクラス全員分のレポートを集めましたので、その時に」
「なるほど。じゃあ、ジョセフがスケッチブックを忘れていった場面を、一緒に授業を受けていたクラスの誰かが見ていた線は消えたわけだね」
「はい。ですが、さすがに他の学年の生徒の筆跡までは調べられなくて……」
「『同じクラスの誰かではなかった』という可能性さえ排除できれば十分だよ、ルイス。ヒントはすべてここにある」
ウィリアムはスケッチブックを丁寧に、今度は後ろから前へ逆上るようにめくっていった。
「ところでルイス、さっき僕が『このスケッチブックはルイスのものじゃない』って、どうしてわかったと思う?」
「え? それは……僕が持っているスケッチブックを兄さんが知っていたからでは? 僕の入学前に、兄様と一緒に学用品を買い揃えるのに付き合って下さいましたから」
「そうだね。家族だからね」
「……?」
首を傾げるルイスを横目に見ながら、ウィリアムはさらにページをさかのぼり、初めてメッセージが書かれたページを通り過ぎてから手を止めた。
瓶の中に閉じ込められた帆船の絵が描かれている。
「これはボトルシップだね」
「ええ、クリスマスのプレゼントにご両親からもらったと聞きました」
さらにもう一ページさかのぼる。
「こっちはティーセットだ。細かい絵柄までよく描けてるね」
「はい……」
相槌を打ちながら疑問符を浮かべるルイス。「この絵がどうかしたのですか」とその顔に書かれているようで、ウィリアムは小さく微笑んだ。
「この二枚の絵が描かれた日付を見てごらん」
「ええっと……ティーセットの絵が十二月二十三日。ボトルシップの絵が、その二日後の二十五日ですね」
そう答えてから、ルイスは「あっ」と声を上げた。
「気づいたかな。この二枚はクリスマス休暇中に、おそらくは彼の実家で描かれた絵なんだ。彼もクリスマスは実家で過ごしたんだろう? となれば、これがジョセフのスケッチブックだと断定することができた者がこの学校内に一人だけいた事になるね」
「家族なら同じティーセットを使うのは当たり前で、クリスマスプレゼントに何を貰ったのかも当然知っている……」
「そう。『家族だから』ね。つまりメッセージの送り主はジョセフの兄、フィンレー・ナッシュビルだ」
「絵そのものがヒントだったんですね。こんなに簡単に当ててしまうなんてさすがです、兄さん」
「ルイスが、僕がほしい情報を用意してくれていたお陰だよ」
兄の推理に感心しながらも、けれどルイスにはまだ腑に落ちない事があるようだった。
「でも、ジョセフのお兄さんはどうしてこんな回りくどいことをしたのでしょう? 絵を褒めたいなら本人に直接言えばいいのに」
「さぁ。それは本人に聞いてみないとわからないね。……でも、このスケッチブックを見れば分かることもある」
ウィリアムは、兄弟のやり取りが書かれたページを指先でなぞった。
「ジョセフのお兄さんからのメッセージは、すべてインクで書かれているね。文字が灰色がかっているのは吸い取り紙を使ったからだ。鉛筆だと擦れて隣のページの絵を汚してしまうこともあるけれど、インクなら一度乾いてしまえばその心配もない。それにほら、ここ」
ウィリアムがとあるページの隅を指差した。爪の先ほどの短い斜線が何本か走っている。
「インクが裏抜けしないか、確かめた跡……?」
ルイスの推理に、ウィリアムは微笑みながら頷いた。
「そう。彼はジョセフの絵を汚してしまわないように、最大限の配慮をしてくれていた。つまり、少なくとも悪戯としてこんなことをしたわけじゃない。ジョセフの絵が好きだという言葉は本物だと思うよ」
「そうですね。僕、ジョセフに話してみます。……あ、もしかして、ジョセフも薄々気が付いていたのでしょうか?」
「そうかもしれないね。ともあれ、これをきっかけに仲良くできるといいね」
ウィリアムはスケッチブックを閉じて、ルイスに返した。
「モデルの件、受けてあげる気になったかい?」
「うーん、そう……ですね」
まだどこか恥ずかしそうだったけれど、ルイスは頷いた。
弟に気のおけない友だちができれば、兄は喜ぶものだ。
「ところでルイス、もう一つ聞いていい?」
もうすぐ休憩時間の終わりを告げる鐘が鳴る。
礼を言って教室に戻ろうとするルイスを、ウィリアムは呼び止めた。
「ジョセフの部屋は、寮の東側の二階かな?」
初出:Pixiv 2023.08.20