No.37
幸せをはこぶ
三年後、フレッドのお手伝いをする兄様の話。
「報告、以上です」
「ご苦労さま」
ルイスが机の上でとんとんと書類を整えながら、ちらりと柱時計を確認した。時刻は昼過ぎだ。
「今日はもう休むといい。昨日から働き通しだっただろう」
「はい。ありがとうございます」
素直に頭を下げると、ルイスは片眉を上げた。
「やけに聞き分けがいいな」
「休むように言ったの、ルイスさんじゃないですか。……薔薇の植え替えをしようと思って」
「休む気、無いな」
「僕なりの余暇の使い方です」
仕方ない、というふうにルイスが肩を竦めた。三年前からは考えられない、砕けたやり取りだった。
そのまま下がろうとするフレッドに、後ろから声がかかった。
「それなら、私が手伝おうか」
アルバートだった。にこにこと屈託のない表情で微笑んでいる。
固まっているフレッドを尻目に、彼は手に持っていた書類の束をルイスに差し出した。
「はい、ルイス。私が扱った過去の事件資料だ」
「ありがとうございます、アルバート兄さん」
「……で、どうかな。フレッド? 私はこの通り手すきだし、二人でやればその分早く終わると思うんだ」
「……っ」
アルバートに雑用を手伝わせるのか? ビルでの共同生活に関わる家事ですらない、個人の用事を?
判断に迷ってルイスに目配せしたが、彼は苦笑しながら書類に目を通している。自分で判断しろ、ということらしい。
執務室のドアがノックされた。
「ルイスくん、電話だよー」
「今行く」
扉の向こうからボンドのくぐもった声がした。呼ばれたルイスはさっと席を立って部屋を出ていってしまった。
残された二人に沈黙が下りる。
「…………」
「私では、役に立てないだろうか?」
「あ、いえ、あの……よろしくお願いします」
フレッドより頭ひとつ分は背の高い彼が子どものようにしおしおと項垂れてしまうものだから、つい承諾してしまった。
二人はまず倉庫へ向かった。
資材や備蓄に紛れて、園芸用品を置かせてもらっている一角がある。フレッドはそこから園芸用の土が入った袋と、鉢をふたつ引っ張り出した。鉢の中には、小さなシャベルと軍手、ビニールシート、肥料の入った袋を放り込んだ。
「えっと、今日は薔薇の植え替えをします。大きくなったから、ひと回り大きい鉢に移すんです」
「なるほど」
「薔薇の鉢は屋上に置いていますので……すみませんが、アルバート様、鉢の方をお願いします」
よいしょ、と声をかけながらフレッドが土の詰まった袋を持ち上げると、アルバートが気遣わしげな顔をした。
「大丈夫かい? 私がそっちを持とうか?」
「平気です。鉢も結構重たいので、気をつけてください」
「どれ。……本当だ」
二つ重ねた陶器の鉢を持ち上げてみて、アルバートは困ったように微笑んだ。
三年もの間、幽閉されていたのだ。当然筋力も衰えているだろう。少しだけ不安に思ったけれど、アルバートは存外しっかりとした足取りで立ち上がった。
とはいえ、荷物を抱えながら屋上までの階段を上るのはつらい。二人は踊り場で何度か休憩しつつ、アルバートのペースに合わせて階段を上った。
「……逞しくなったね、フレッド」
「いえ……」
「三年間、ルイスを支えてくれてありがとう」
「…………」
気恥ずかしくてどう答えていいか迷っているうちに、階段の一番上までたどり着いてしまった。フレッドは踊り場に一旦袋を下ろして、屋上に続くドアを開ける。
「どうぞ、アルバート様」
「それはもう止めてもらってもいいかな」
「え」
「私はもう、ただの『アルバート』だ」
鉢を抱えたアルバートが、薄暗い階段から陽の光が降り注ぐ屋上へ出る。一瞬だけ視界が眩んだ。
フレッドが土の袋を抱え直す間、今度はアルバートはドアを抑えて待ってくれていた。
「君とも対等……いや、ここでは君のほうが先輩だね。ボンドのように『アルくん』と呼んでくれても構わないよ」
「いえ……じゃあ、アルバート……さん、で」
しどろもどろに答えると、アルバートは満足そうに頷いた。
彼は今年で三十歳になると聞くが、その容色は少しも衰える様子がない。むしろ何の含みもなく微笑む姿には、あの頃にはない眩しさがあった。
身分とか血筋とかを抜きにしても、この人を前にして気後れせずにいられる人間なんているのだろうか。
屋上の一番日当たりの良い場所には、フレッドが管理している鉢植えが並べられている。直ぐそばに煙草の吸い殻が落ちているのを見つけて、アルバートは眉をしかめた。
「大佐だな? まったく……」
腹を立ててくれているアルバートには悪いが、その様子がフレッドには少し嬉しかった。
植え替えを行う薔薇は、皆でこのビルに移り住んでしばらくしてから植えたものだ。前の屋敷の薔薇は全滅だったから、花屋で新しく苗を買ってきた。それが今は、鉢が窮屈になるほど大きく育ったのだ。
そう思うと何だか感慨深い気がする。どうやってモランを懲らしめてやろうか思案しているアルバートが隣りにいることも。
周りを汚さないように、地面にビニールシートを広げた。
今日はまだ水やりはしていないから、土は乾いている。
薔薇の株はしっかりと育っている分、棘も固く鋭かった。手を傷つけてしまうかもしれないから、作業には軍手が必要だ。でも、爵位を返上したとはいえ生粋の貴族であるアルバートはこんなに粗い生地の手袋をはめたことはないだろう。肌がかぶれたりしないだろうか……。
そんなことを考えながらちらりとアルバートの方を見やると、彼は指先でそっと棘をつついていた。
「アルバート様!」
「大丈夫だよ。血は出ていない」
ほら、と差し出された指先には、赤い痕があるだけで確かに血は滲んでいない。とはいえ危なっかしい。怪我でもさせてしまったらルイスに何と申し開きしたらよいのだろう。
「すまないね。珍しくて、つい」
「珍しいって……」
「私の手元に届く薔薇は、いつも君や誰かが棘を取り除いてくれていたから」
「アルバート様……」
「『さん』だ。フレッド」
「アルバート……さん」
「心配してくれてありがとう、フレッド。君は本当に優しい子だね」
彼はまたおっとりとした調子で微笑んだ。それから手渡された軍手をはめて、ざらざらとした触感すら物珍しそうに手を擦り合わせている。
「……僕が優しいのなら……それは、アルバートさんたちのお陰です」
物心ついたときから一人だった。
親も兄弟もなく、自分以外は誰も信用できなかった。その日食べるもののことだけを考えて過して、誰にも見つかりませんようにと祈りながらごみ捨て場に隠れて眠った。自分のことだけを考えて生きていた。
モリアーティ家に拾われて初めて、誰かに優しくできる自分を知った。花を美しいと思い、猫を可愛いと感じた。
「僕が優しい人でいられるのは、ただ皆さんにしてもらったことを返しているからです」
「……そうか」
フレッドは黙ったまま頷き返して、鉢植えをそっとビニールシートの上に倒した。葉や茎を傷めないように手で抑えながら、土ごと鉢の中から抜き出す。
アルバートも丁寧な手つきでそれに倣った。
それから大きい鉢の底に石を敷いて、新しい土をつぎ足して、薔薇の株を中心に植える。新しく広々とした鉢に引っ越した薔薇は、下ろしたてのドレスにいそいそと袖を通したご令嬢のように、どこか誇らしげに見えた。どこからか「お水はまだ?」という声が聞こえてきそうだ。
フレッドは葉についていた土を払った。
「ありがとうございました、アルバートさん。あとはシートと溢れた土を片付けて、水やりをして、肥料を……」
「フレッド、フレッド」
アルバートが遮るようにフレッドを呼んだ。
滅多に聞かない早口で、二回も。今度こそ棘で手を刺してしまったかと思って、片付けの手を一旦止めて急いで彼の方へ寄った。
「どうされました?」
「テントウムシだ」
「は」
アルバートが指し示す先に、ころんと丸いちいさな虫がいた。植え替えたばかりの薔薇の白い花びらの上で、特徴的な赤と黒の水玉模様が鮮やかな存在感を放っている。
「……テントウムシ、ですね」
少し脱力しながら繰り返すと、アルバートはテントウムシをじっと見つめながら顔を綻ばせた。
「生きているのは初めて見たよ」
「そうなんですか?」
「ああ」
頷いた横顔は、新しい発見に胸を躍らせるちいさな子どものようだった。
かつて社交界の花と呼ばれ、裏では女王陛下直属の諜報部隊を束ねたほどの人物が、今は地べたに膝をつき、軍手をはめたままちいさな虫一匹に目を輝かせている。
「こんなに小さいんだね」
ため息のような呟きだった。テントウムシを驚かせてしまわないように気遣っているのだろうか?
「……テントウムシは、花や作物につく悪い虫を食べてくれるんです。幸せを運ぶ虫とも言われていますね」
「そうなのか」とアルバートはテントウムシから目を離さないまま頷いた。「昔、母がテントウムシのブローチを付けていたよ。お守りでもあったんだね」
そう話してから、アルバートは目を見開いた。彼の口から『家族』の話を聞くのは、フレッドには初めてのことだった。
彼自身、言うつもりもなかったのだろう。口をついて出てしまった昔話に自分でも驚いているようだった。
フレッドは軍手を外して、花びらの上のテントウムシへそっと手を伸ばした。ちょいちょいと花びらを揺らしてやると、慌てたテントウムシはフレッドの指先へと移動した。
「アルバートさん、手を」
呼びかけると、彼はフレッドの意図を察して軍手を外した。おずおずと、彼の手が差し出される。
フレッドの指先からアルバートの指先へ、テントウムシはちょこちょこと前進していった。普段取り澄ましたアルバートが「わ」と小さく声を上げたので、フレッドはなんだか可笑しくなった。
「指を立ててみて下さい」
こう、と人差し指を立ててみせると、彼は素直にそれにならった。するとどうだろう。テントウムシはくるりと方向転換して、爪の先を目指してアルバートの人差し指をよじ登っていく。二人はそれを息を潜めて見守っていた。
てっぺんにたどり着くと同時に、テントウムシは小さな羽を広げて飛び立った。
アルバートが今度は「あっ」と小さく声を上げた。
羽音は小さすぎて聞き取れなかった。赤と黒のちいさな虫は、青空に吸い込まれるように高く高く飛び上がって、すぐに見えなくなった。
「……飛んでいってしまった」
「幸せを届けにいったんですよ」
そう言うと、アルバートはやっと表情を緩めた。
「ブローチのこと、ずっと忘れていた。……いや、覚えていたはずなのに、思い出そうともしなかった……」
彼の母親がどんな人物だったのかは知らない。
おおよその顛末はずいぶん前に聞かされていたから、彼にとってあまり良い母親ではなかったことはみなし子のフレッドにも察せられた。
それでも今は、まだ幼いアルバートが母親の膝に抱かれている光景が目に浮かぶようだった。彼は母の胸元を飾るブローチを指さして「これは何?」と緑の瞳を無邪気に輝かせるのだ。
「思い出せて、よかったですか?」
「どうだろう。…………いや、そうだね。思い出せてよかったよ」
晴れ晴れとした、それでいてどこか苦い表情だった。彼は出しっぱなしのシャベルと、土に汚れた空っぽの鉢に手を伸ばした。
「さぁ、片付けようか。早く君を休ませないとルイスに叱られてしまう」
初出:Pixiv 2023.04.09
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三年後、フレッドのお手伝いをする兄様の話。
「報告、以上です」
「ご苦労さま」
ルイスが机の上でとんとんと書類を整えながら、ちらりと柱時計を確認した。時刻は昼過ぎだ。
「今日はもう休むといい。昨日から働き通しだっただろう」
「はい。ありがとうございます」
素直に頭を下げると、ルイスは片眉を上げた。
「やけに聞き分けがいいな」
「休むように言ったの、ルイスさんじゃないですか。……薔薇の植え替えをしようと思って」
「休む気、無いな」
「僕なりの余暇の使い方です」
仕方ない、というふうにルイスが肩を竦めた。三年前からは考えられない、砕けたやり取りだった。
そのまま下がろうとするフレッドに、後ろから声がかかった。
「それなら、私が手伝おうか」
アルバートだった。にこにこと屈託のない表情で微笑んでいる。
固まっているフレッドを尻目に、彼は手に持っていた書類の束をルイスに差し出した。
「はい、ルイス。私が扱った過去の事件資料だ」
「ありがとうございます、アルバート兄さん」
「……で、どうかな。フレッド? 私はこの通り手すきだし、二人でやればその分早く終わると思うんだ」
「……っ」
アルバートに雑用を手伝わせるのか? ビルでの共同生活に関わる家事ですらない、個人の用事を?
判断に迷ってルイスに目配せしたが、彼は苦笑しながら書類に目を通している。自分で判断しろ、ということらしい。
執務室のドアがノックされた。
「ルイスくん、電話だよー」
「今行く」
扉の向こうからボンドのくぐもった声がした。呼ばれたルイスはさっと席を立って部屋を出ていってしまった。
残された二人に沈黙が下りる。
「…………」
「私では、役に立てないだろうか?」
「あ、いえ、あの……よろしくお願いします」
フレッドより頭ひとつ分は背の高い彼が子どものようにしおしおと項垂れてしまうものだから、つい承諾してしまった。
二人はまず倉庫へ向かった。
資材や備蓄に紛れて、園芸用品を置かせてもらっている一角がある。フレッドはそこから園芸用の土が入った袋と、鉢をふたつ引っ張り出した。鉢の中には、小さなシャベルと軍手、ビニールシート、肥料の入った袋を放り込んだ。
「えっと、今日は薔薇の植え替えをします。大きくなったから、ひと回り大きい鉢に移すんです」
「なるほど」
「薔薇の鉢は屋上に置いていますので……すみませんが、アルバート様、鉢の方をお願いします」
よいしょ、と声をかけながらフレッドが土の詰まった袋を持ち上げると、アルバートが気遣わしげな顔をした。
「大丈夫かい? 私がそっちを持とうか?」
「平気です。鉢も結構重たいので、気をつけてください」
「どれ。……本当だ」
二つ重ねた陶器の鉢を持ち上げてみて、アルバートは困ったように微笑んだ。
三年もの間、幽閉されていたのだ。当然筋力も衰えているだろう。少しだけ不安に思ったけれど、アルバートは存外しっかりとした足取りで立ち上がった。
とはいえ、荷物を抱えながら屋上までの階段を上るのはつらい。二人は踊り場で何度か休憩しつつ、アルバートのペースに合わせて階段を上った。
「……逞しくなったね、フレッド」
「いえ……」
「三年間、ルイスを支えてくれてありがとう」
「…………」
気恥ずかしくてどう答えていいか迷っているうちに、階段の一番上までたどり着いてしまった。フレッドは踊り場に一旦袋を下ろして、屋上に続くドアを開ける。
「どうぞ、アルバート様」
「それはもう止めてもらってもいいかな」
「え」
「私はもう、ただの『アルバート』だ」
鉢を抱えたアルバートが、薄暗い階段から陽の光が降り注ぐ屋上へ出る。一瞬だけ視界が眩んだ。
フレッドが土の袋を抱え直す間、今度はアルバートはドアを抑えて待ってくれていた。
「君とも対等……いや、ここでは君のほうが先輩だね。ボンドのように『アルくん』と呼んでくれても構わないよ」
「いえ……じゃあ、アルバート……さん、で」
しどろもどろに答えると、アルバートは満足そうに頷いた。
彼は今年で三十歳になると聞くが、その容色は少しも衰える様子がない。むしろ何の含みもなく微笑む姿には、あの頃にはない眩しさがあった。
身分とか血筋とかを抜きにしても、この人を前にして気後れせずにいられる人間なんているのだろうか。
屋上の一番日当たりの良い場所には、フレッドが管理している鉢植えが並べられている。直ぐそばに煙草の吸い殻が落ちているのを見つけて、アルバートは眉をしかめた。
「大佐だな? まったく……」
腹を立ててくれているアルバートには悪いが、その様子がフレッドには少し嬉しかった。
植え替えを行う薔薇は、皆でこのビルに移り住んでしばらくしてから植えたものだ。前の屋敷の薔薇は全滅だったから、花屋で新しく苗を買ってきた。それが今は、鉢が窮屈になるほど大きく育ったのだ。
そう思うと何だか感慨深い気がする。どうやってモランを懲らしめてやろうか思案しているアルバートが隣りにいることも。
周りを汚さないように、地面にビニールシートを広げた。
今日はまだ水やりはしていないから、土は乾いている。
薔薇の株はしっかりと育っている分、棘も固く鋭かった。手を傷つけてしまうかもしれないから、作業には軍手が必要だ。でも、爵位を返上したとはいえ生粋の貴族であるアルバートはこんなに粗い生地の手袋をはめたことはないだろう。肌がかぶれたりしないだろうか……。
そんなことを考えながらちらりとアルバートの方を見やると、彼は指先でそっと棘をつついていた。
「アルバート様!」
「大丈夫だよ。血は出ていない」
ほら、と差し出された指先には、赤い痕があるだけで確かに血は滲んでいない。とはいえ危なっかしい。怪我でもさせてしまったらルイスに何と申し開きしたらよいのだろう。
「すまないね。珍しくて、つい」
「珍しいって……」
「私の手元に届く薔薇は、いつも君や誰かが棘を取り除いてくれていたから」
「アルバート様……」
「『さん』だ。フレッド」
「アルバート……さん」
「心配してくれてありがとう、フレッド。君は本当に優しい子だね」
彼はまたおっとりとした調子で微笑んだ。それから手渡された軍手をはめて、ざらざらとした触感すら物珍しそうに手を擦り合わせている。
「……僕が優しいのなら……それは、アルバートさんたちのお陰です」
物心ついたときから一人だった。
親も兄弟もなく、自分以外は誰も信用できなかった。その日食べるもののことだけを考えて過して、誰にも見つかりませんようにと祈りながらごみ捨て場に隠れて眠った。自分のことだけを考えて生きていた。
モリアーティ家に拾われて初めて、誰かに優しくできる自分を知った。花を美しいと思い、猫を可愛いと感じた。
「僕が優しい人でいられるのは、ただ皆さんにしてもらったことを返しているからです」
「……そうか」
フレッドは黙ったまま頷き返して、鉢植えをそっとビニールシートの上に倒した。葉や茎を傷めないように手で抑えながら、土ごと鉢の中から抜き出す。
アルバートも丁寧な手つきでそれに倣った。
それから大きい鉢の底に石を敷いて、新しい土をつぎ足して、薔薇の株を中心に植える。新しく広々とした鉢に引っ越した薔薇は、下ろしたてのドレスにいそいそと袖を通したご令嬢のように、どこか誇らしげに見えた。どこからか「お水はまだ?」という声が聞こえてきそうだ。
フレッドは葉についていた土を払った。
「ありがとうございました、アルバートさん。あとはシートと溢れた土を片付けて、水やりをして、肥料を……」
「フレッド、フレッド」
アルバートが遮るようにフレッドを呼んだ。
滅多に聞かない早口で、二回も。今度こそ棘で手を刺してしまったかと思って、片付けの手を一旦止めて急いで彼の方へ寄った。
「どうされました?」
「テントウムシだ」
「は」
アルバートが指し示す先に、ころんと丸いちいさな虫がいた。植え替えたばかりの薔薇の白い花びらの上で、特徴的な赤と黒の水玉模様が鮮やかな存在感を放っている。
「……テントウムシ、ですね」
少し脱力しながら繰り返すと、アルバートはテントウムシをじっと見つめながら顔を綻ばせた。
「生きているのは初めて見たよ」
「そうなんですか?」
「ああ」
頷いた横顔は、新しい発見に胸を躍らせるちいさな子どものようだった。
かつて社交界の花と呼ばれ、裏では女王陛下直属の諜報部隊を束ねたほどの人物が、今は地べたに膝をつき、軍手をはめたままちいさな虫一匹に目を輝かせている。
「こんなに小さいんだね」
ため息のような呟きだった。テントウムシを驚かせてしまわないように気遣っているのだろうか?
「……テントウムシは、花や作物につく悪い虫を食べてくれるんです。幸せを運ぶ虫とも言われていますね」
「そうなのか」とアルバートはテントウムシから目を離さないまま頷いた。「昔、母がテントウムシのブローチを付けていたよ。お守りでもあったんだね」
そう話してから、アルバートは目を見開いた。彼の口から『家族』の話を聞くのは、フレッドには初めてのことだった。
彼自身、言うつもりもなかったのだろう。口をついて出てしまった昔話に自分でも驚いているようだった。
フレッドは軍手を外して、花びらの上のテントウムシへそっと手を伸ばした。ちょいちょいと花びらを揺らしてやると、慌てたテントウムシはフレッドの指先へと移動した。
「アルバートさん、手を」
呼びかけると、彼はフレッドの意図を察して軍手を外した。おずおずと、彼の手が差し出される。
フレッドの指先からアルバートの指先へ、テントウムシはちょこちょこと前進していった。普段取り澄ましたアルバートが「わ」と小さく声を上げたので、フレッドはなんだか可笑しくなった。
「指を立ててみて下さい」
こう、と人差し指を立ててみせると、彼は素直にそれにならった。するとどうだろう。テントウムシはくるりと方向転換して、爪の先を目指してアルバートの人差し指をよじ登っていく。二人はそれを息を潜めて見守っていた。
てっぺんにたどり着くと同時に、テントウムシは小さな羽を広げて飛び立った。
アルバートが今度は「あっ」と小さく声を上げた。
羽音は小さすぎて聞き取れなかった。赤と黒のちいさな虫は、青空に吸い込まれるように高く高く飛び上がって、すぐに見えなくなった。
「……飛んでいってしまった」
「幸せを届けにいったんですよ」
そう言うと、アルバートはやっと表情を緩めた。
「ブローチのこと、ずっと忘れていた。……いや、覚えていたはずなのに、思い出そうともしなかった……」
彼の母親がどんな人物だったのかは知らない。
おおよその顛末はずいぶん前に聞かされていたから、彼にとってあまり良い母親ではなかったことはみなし子のフレッドにも察せられた。
それでも今は、まだ幼いアルバートが母親の膝に抱かれている光景が目に浮かぶようだった。彼は母の胸元を飾るブローチを指さして「これは何?」と緑の瞳を無邪気に輝かせるのだ。
「思い出せて、よかったですか?」
「どうだろう。…………いや、そうだね。思い出せてよかったよ」
晴れ晴れとした、それでいてどこか苦い表情だった。彼は出しっぱなしのシャベルと、土に汚れた空っぽの鉢に手を伸ばした。
「さぁ、片付けようか。早く君を休ませないとルイスに叱られてしまう」
初出:Pixiv 2023.04.09