No.36

死んでも、言わない
 ルイスがフレッドにちょっと薄暗い感情を抱いている話。

 その夜遅く、明け方が近い時間になってようやく帰ってきた二人からは血と硝煙の匂いがした。
 裏口を開けると同時に霧をまとった冷たい空気が流れ込んできて、ルイスは顔をしかめた。寒い中を追っ手を撒きながら歩いてきたのだろう。二人の髪はびしょびしょに濡れていて、フレッドの唇は真っ白だった。

「居間で火にあたっていてください。温かいものを持ってきますから」
「茶よりブランデーの方が有り難いんだが……その前にこいつの手当て頼む」

 肩を軽く叩かれたフレッドは痛みに顔をしかめて、モランをじとりと睨んだ。

「……平気」
「馬鹿。そんな青い顔で何言ってんだ」

 改めて彼の方をよく見ると、黒いジャケットの左肩のあたりが裂けてぐっしょりと濡れていた。雨ではない。
 ルイスは驚愕に目を見開いた。

「撃たれたんですか!?」
「……」
「掠っただけだ。あの間合いでよく躱した方だよ」

 黙り込むフレッドに代わって、モランが答えた。
 彼は一瞬浮かべた笑みをすぐに消した。廊下の奥から、ウィリアムとアルバートが連れ立って歩いてきたからだ。

「おかえり。フレッド、怪我を?」
「すみません、大丈夫です。もう、事切れていると思って……」

 フレッドが青い顔で弁解した。

「……大事なくてよかったよ。ご苦労さま」

 ウィリアムは柔らかい笑みを浮かべながら、労るようにフレッドの傷ついていない方の肩に手を置いた。フレッドがほっと表情を緩める。
 モランであれば倒れた相手であろうと容赦なくもう一発撃ち込むところであるが、彼はそれをしないだろう。――甘すぎる。

「ウィリアム、報告する」
「うん、お願い。上で聞こうか」

 後を追おうとしたルイスだったが、ウィリアムが階段の半ばで立ち止まって、こちらを振り返った。

「ルイス、フレッドのことよろしくね」
「…………はい」

 ルイスは二階へ上がっていく兄たちの姿を、取り残されたような気持ちで見送った。
 ――また、自分だけ爪弾きだ。
 同じ部屋で報告と手当を行えばいいはずなのにわざわざそう釘を刺したということは、暗についてこないようにという意思表示だ。ウィリアムはルイスが手を汚すことはおろか、血なまぐさい会話を耳に入れることさえも忌避しているようだった。アルバートもモランも、それがウィリアムの意向であれば異を唱えることはない。
 兄のためにすべてを捧げる覚悟はとうにある。もう一度この顔を焼いてみせたって構わない。
 アルバートが、モランが、フレッドが、そして誰よりもウィリアムが、身と心を削りながら戦っているというのに。
 彼らの姿が見えなくなってから、フレッドが気遣わしげな視線を向けてくるのを振り払って居間へと足を向けた。

「あの、自分でできます。ルイスさんも、上に……」
「できないでしょう。いいから脱いで」

 赤々と燃えている暖炉の前にスツールを置いて、そこに座るよう指で示した。

「すみません」と消え入りそうな声で呟いて、フレッドはぎこちない動作で上着を脱いで傷口を晒した。抉られた肩に、ルイスは眉をひそめた。弾は残っていないし、傷はそう深くない。それでも、あとほんの少し弾が逸れていたら頭か胸を直撃していたはずだ。

「縫う必要は……なさそうですね」
「はい。あの、ほんとうに大したことないので……」
「いいから。じっとして」

 早口にそう言うと、フレッドが小さく肩を竦めた。
 自身のきつい口調やぞんざいな態度が、苛立ちを加速させる。フレッドが申し訳なさそうにすることさえ気に食わなかった。

(僕を行かせてくれていれば――)

 濡らしたガーゼでフレッドの傷口を拭いながら、頭をよぎるのはそんなことだった。
 体格の良いモランと比べるまでもなく、薄い肩をしている。これだけ小柄で、正確な年齢は分からないと言えど確実にルイスよりは年下だ。それなのに、ウィリアムは彼を信頼して計画に関わるいくつもの『仕事』を任せている。

(僕と彼とでは、何が違う?)

 ここ数ヶ月、自分だけ計画に参加させてもらえないことへの焦りと不安がずっと胸の中に渦巻いていた。けれどそれらの感情をウィリアムに吐露することが、ルイスにはどうしてもできなかった。無理やりせき止めてきた暗い感情は、もはや溢れ出す一歩手前のところまで来ていた。
 救急箱の中に、ガーゼや包帯を切るための鋏がある。
 ルイスはそれをそっと手に取ると、刃の強度と長さを指先で確かめた。薄く短く、おおよそ刃物とは呼べないほど小さな鋏ではあるが、ルイスはすでにこれで人を殺す方法を知っている。
 フレッドは相変わらず傷口を晒したままこちらに背を向けて、ルイスの準備ができるのを待っていた。

(今、なら――)

 志を共にする仲間として、お互いの実力はある程度把握しているつもりだ。だが、ルイスはフレッドの本気を知らない。
 ジャックのように、全く強さの底を見せてもらえないほどの実力差があるとは思わない。何度か手合わせをしたことはあったが、フレッドは『ウィリアムの弟』であるルイスの相手をするときはいつもどこか手を抜いていた。
 ここで力を示せば。彼よりも、自分の方が有用であることをウィリアムに示せば――。

「っくし、」

 その時、フレッドが小さくくしゃみをした。
 ルイスは弾かれたように鋏を救急箱の中へ押し込んだ。代わりにソファに掛けてあったブランケットをひっ掴んで、暖炉に向かって座る彼の前に回り込んだ。

「すぐ……すぐ、手当をするので、もう少し我慢してくださいね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「終わったら、温かい紅茶を淹れますね。ブランデーも垂らして、あと、何か甘いものも……」

 フレッドの膝にブランケットを掛けながら、彼の顔をまともに見ることができなかった。それでも、何も知らない彼はきっと嬉しそうに、ほんの僅かに口角をあげていたのだろう。





 あ、と思った次の瞬間には、世界が反転していた。
 辛うじて受け身はとったが、背中を地面にしたたかに打ちつけて、一瞬だけ息が詰まった。

「……っ、僕の勝ち、ですね」

 フレッドは肩で息をしながらそう言った。
 仕事の合間の息抜きだった。他の『社員』たちの不在をいいことに、社屋の屋上に出て組手を始めた。始めのうちはデスクワークで凝り固まった体を少しでも動かせたら程度にしか考えていなかったが、いつの間にかずいぶんと白熱してしまったようだ。
 繰り出されるナイフ(もちろん訓練用の摸造ナイフだ)に気を取られて、足元への警戒が疎かになった。その瞬間に見事に軸足を取られた。
 もともと体格で不利を取ることが多かった彼は、相手の力をうまく流して反撃する戦法を得意としていた。加えて、同じく男性に力で劣るボンドやマネーペニーと訓練をする機会が増えたここ数年は、その技にさらに磨きがかかったように思える。

「……ルイスさん?」

 地面に倒れ込んだ姿勢のまま彼の方を見上げていると、フレッドの顔に不安の色が過ぎった。まさか打ちどころが悪くて起き上がれないのでは、と心配してくれているのだろう。

「……いや、大丈夫。昔の自分を恥ずかしく思っていた」
「昔?」

 起き上がって、地べたにあぐらをかいて座ると、フレッドも隣に腰を下ろした。
 ルイスが何か話をするつもりだと思ったのだろう。主人の命令を待つ犬のように、じっとこちらを見上げている。もちろん、口が裂けても言うつもりはなかった。
 しばらく黙ったまま、並んで腰を下ろしていた。
 今日はよく晴れていて、雲がゆっくりと頭上を横切っていく。
 不意に、フレッドが「あ」と声を上げて立ち上がった。そうして、小走りに屋上の縁へと駆けていく。

「マネーペニーさん、帰ってきましたよ」

 手すり越しに、社屋の前の通りを見下ろしながら、彼が言った。
 おそらく、その視線の先にはマネーペニーの乗る馬車があるのだろう。彼の腰ほどの高さしかない手すりから、上半身を乗り出している。よく晴れた空に、同じ色のストールが透けるようだった。
 ルイスはそっと歩み寄って、彼の背中に手を添える。

「ルイスさん?」

 こちらを見上げる丸い瞳には、何の疑いも浮かんでいない。ただ純真に真っ直ぐに、あどけなさすら湛えてルイスの姿を映している。このまま突き飛ばされるかもしれない、なんて夢にも思っていない顔だ。
 ルイスは彼の肩をつかんで、自分の方へ引き寄せた。

「……危ないよ、身を乗り出したら」
「落ちても、着地してみせます」

 彼は自信ありげに言うものだから、ルイスは思わず笑みを漏らした。

「……戻ろうか」
「はい」

 彼は手すりから手を離すと、くるりと踵を返した。
 その背中を見送って、ルイスはもう一度、屋上をぐるりと取り囲む手すりの方を振り返った。暖かい日差しとは裏腹に、ひやりとした風が吹き抜けていく。
「ルイスさん」と階段の下からフレッドの声がした。今行く、と短く答えて、ルイスは屋上を後にした。

初出:Pixiv 2023.04.09

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