No.35
消えたひと欠片 前編
『悪徳貴族を成敗してその謎をホームズに解かせる』話。
〇 ある男が廃屋で出会った人物
男は、足を引きずりながら、往来の隅をとぼとぼと歩いていた。
今日のような寒い曇り空の日には、左膝が軋むように痛んで憂鬱な気分になった。また一人、通行人が迷惑そうな顔をしながら男を追い越していく。本来であれば、こんな日には誰かと顔を合わせることすら嫌だった。
しかし、今日だけは。
男は沈む心を奮い立たせ、痛む足を叱咤してロンドンの雑踏を進んだ。
「サンズ・ティー・ハウス! 寄って行ってね!」
喧騒の中、一際よく通る声がした。
思わず立ち止まって声のした方を見ると、カフェの呼び込みだろう。若いハンサムな青年が、道行く人々ににこやかに声を掛けながらチラシを配っていた。
花の隙間を縫って飛ぶ蝶のように軽やかな足取りだった。彼に微笑みかけられた女たちは、頬を染めながらチラシを受け取っている。
足を止めてこちらを見ている男に気がついて、青年がすっとこちらに近づいてきた。
「お兄さんもどうぞ。このチラシを持ってきてくれたら、お茶を一杯サービスするよ」
青年は、女たちにしてみせたのと変わらない眩しい笑顔を男にも向けた。
サンズ・ティー・ハウスがどんな店だか知らないが、少なくともこのうだつの上がらない男には不釣り合いな洒落たカフェなのだろう。それなのにこうしてチラシを差し出されて、何だか小馬鹿にされているような気分になった。青年にはもちろん全くそんなつもりはないのだろう。ただ自分が卑屈になっているだけだ。そのことがかえって腹立たしい。
男は引ったくるようにチラシを受け取って、広い通りから脇道に逸れた。
うらぶれた路地を進むうちに、男は貧民街に足を踏み入れた。
常にどこか陰鬱な空気が漂う、華やかなロンドンの街のもう一つの顔。すれ違うのは浮浪者や宿無し子ばかりで、この辺りでは自分が一番上等な人間にさえ思える。男はどこか安堵した。
しかし自分もいずれはここの住民になるのだろうかと考えると、知らず知らずのうちにため息が漏れた。どのみちこの足を抱えて、家族もない身としては安定した暮らしなど望めない。
自身をこんな境遇に貶めた悪魔への復讐心がさらに募るのを感じた。
指定された路地で、道端に座り込んでいる老婆を発見した。
男が立ち止まると、老婆はゆっくりと顔を上げる。
顔は土気色で生気がまるで感じられない。瞳はどろりと濁っていて、もしかしたら目が見えていないのではないだろうか。
男が気圧されていると、彼女は黙って手のひらを差し出した。ミイラのように干からびた手だった。男はポケットの中に押し込んでいたチラシを取り出し、老婆の手に押し付けた。
「…………」
老婆は何も言わず、斜向かいの家の扉を指差した。
扉の横には『FOR RENT』と書かれた板が打ち付けてある。窓ガラスはひびが入ったまま放置されているから、管理会社からも忘れ去られた空き家だろう。
「あそこに行けってのか……」
そう尋ねながら振り返ると、老婆の姿はすでになかった。
男は慌てて辺りを見回したが、路地には人影の一つも見当たらない。老婆は魔法のように姿を消してしまった。その事実が、いよいよ「これは本物だ」という確信を男に抱かせた。
老婆が指し示した扉を開けて、埃っぽい空き家に踏み込むと、中は存外すっきりと片付いていた。
空っぽの食器棚に、椅子とテーブルが一組。
テーブルの上に何か置いてある。
足を引きずりながら薄暗い室内を進むと、ティーカップだった。注がれた紅茶はまだ湯気を立てていて、傍らにはクッキーが盛られた皿が添えられている。
「ご足労いただき申し訳ありません」
突然、間近で人の声がして、男は飛び上がるほど驚いた。
部屋の隅に衝立が立っている。決して華美なものではないが、この空き家には不釣り合いなほど品のあるデザインで、どうやらつい最近持ち込まれたばかりのもののようだった。
その裏に、誰かがいる。
「寒い中、大変だったでしょう。私からお伺いできればよかったのですが、仕事柄、大っぴらに外を出歩くわけにはいきませんのでご容赦ください」
若い男の声だった。
物腰は柔らかくとも、こちらにへりくだるような気配は微塵も感じられない。
「お詫びと言ってはなんですが、お茶を一杯サービスしましょう。よろしければ、どうぞ」
「あ、あんたが……」
「ええ。あなたがお考えの通りですよ」
短く、簡潔な答えだった。
本当にいたのか、というのが率直な感想だった。
立ち寄った酒場で聞いた、眉唾ものの噂ではあった。おまけに『窓口』だと名乗る男は拍子抜けするほどの若造で、担がれているのではないかと疑心暗鬼になりながら、男は身の上を語ったのだ。
――犯罪相談役。
衝立一枚隔てた向こう側に、このロンドンで起こる犯罪の半分に加担していると噂される大悪人がいるのだ。
お茶を一杯サービス、と言うからには、あのチラシ配りの青年も彼の手下だったのだろうか? この路地にいる老婆に持ち物を何か一つ渡す、というのが先方の指定してきた接触方法だった。特に指定はなかったので千切れたボタンを渡すつもりでポケットに入れてきたのだが。
男は椅子に腰掛けて、紅茶に手を伸ばした。
毒かもしれない、という考えも頭の中にはあったが、そんな猜疑心は温かい紅茶を一口啜った途端に吹き飛んだ。男はすぐにクッキーにも手を伸ばした。
小麦粉とバターの豊かな風味に頭の奥が痺れた。紅茶で流し込むと腹の底から体全体がじんわりと温まってくるようだ。あっという間に食べ終えてしまって、そういえば、甘いものを口にするのはずいぶん久しぶりのことだったと気が付いた。温かいお茶でもてなしてもらうことも。
男は知らず知らずのうちに涙をこぼしていた。
「ずいぶんお辛い思いをなさったのですね」
「いや……俺は……」
恥ずかしくなって弁解しようとすると、衝立の向こうの声はやんわりと遮った。
「私のもとに相談に来られる方は、一人の例外もなく、胸の内にわだかまりを抱えておられますよ。話してみてはもらえませんか?」
「俺は……俺はいいんだ。そりゃあ暮らしは楽じゃないさ。俺の足をこんなふうにしてこんな暮らしに追い込んだあいつらは憎い。だが、俺は逃げられた。何とか新しい仕事にもありついて食いつないでる。時々あの頃の夢を見ることもあるが、まぁ何とかやっていってる。許せないのは、今もあいつらがのうのうと暮らして、他の誰かを痛めつけてるってことだ……」
胸のつかえが取れたように、口から言葉が流れ出た。
口にして初めて、男は自分の腹の中に渦巻いていた怒りがどこに向いていたのかに気がついた。この未知の相手に対して、自分を良く見せようという考えは少しもなかった。つまらない虚栄心が溶けて、あとに残ったのは紛れもない本心だった。
奴らの悪行を告発する。そして、今も虐げられている弱いものを救う。そのために自分はここに招かれたのだ。
「その悪魔の名前は?」
どこまでも穏やかで、透き通った声だった。この声の前ではきっといかなる隠し事も通用しない。この衝立の向こうにいるのは天使でもあり、悪魔でもあった。
男はいつの間にか、左膝を強く握りしめていた。ぎゅっと目を瞑ると、奴の姿がはっきりと脳裏に浮かんだ。冷たい床に這いつくばって許しを請う自分を嘲笑っている。
男は小さく息を吸い込んで、その名を告げた。
「イーサン・セリグマン男爵――」
*
一 私の同居人
私の同居人、シャーロック・ホームズは――。
この書き出しに続くふさわしい文句を考えながら、私はベイカー街の下宿に帰ってきた。
時刻はちょうど昼下がり。
私の手の中には、ちょっとした偶然から手に入れた有名店のクッキー缶があった。ハドソン夫人も誘って、三人でお茶でも楽しもう。
十七段の階段を登って、ドアを開いた。
「災難だったな、ジョン。サウス・ストリートの工事現場か」
帰ってきた私を一目見るなり、ホームズは唇の片側を持ち上げて皮肉っぽく笑った。
私は入り口のところで突っ立ったまま、『またか』という気持ちでため息をついた。もちろん、本気で不快な気分になったわけではない。
私の同居人、シャーロック・ホームズにはよくあることであった。
「一応聞くけど、どうしてわかった?」
「払ったつもりだろうが、コートの裾に黒土が付いてるぞ。手のひらと顎の下も擦りむいてる。お前が真昼間から喧嘩してきたとは思えないから、大方、派手にすっ転びでもしたんだろう。『書店に顔を出してくる』つって出ていったお前が通ってきたであろうルートの中で、土がむき出しになってるのはサウス・ストリートの工事現場くらいだ。それはお前が、普段自分で買いもしないサウス・ストリートの店のクッキー缶を抱えてることからも明らかだ。人とぶつかってすっ転んで、相手がお詫びとして渡してきたってところだろ?」
私は肩を竦めた。
「当たりだよ。飛び出してきた子どもをかわそうとしてバランスを崩して、補修工事中の路面で派手に転倒してしまった。真っ青になって駆けつけてきたその子の親が、この焼き菓子屋の主人だったわけだ」
「ははっ、怪我の功名じゃないか」
「こら! ハドソンさんも呼んでからだ!」
缶を勝手に開けてクッキーを摘むホームズを制しながら、私は帽子とコートを脱いだ。
その時、階下で呼び鈴が鳴った。
ハドソン夫人が誰何する間もなく勢いよく扉が開いて、「お邪魔します!」という声とともにパタパタと元気の良い足音が階段を駆け上がってくる。我らが名探偵でなくとも、誰が訪ねてきたのかは明白だった。
「よう、ホームズ!」
予想通り。
飛び込んできたのは、ウィギンズ少年だった。後ろには肩をいからせるハドソン夫人の姿も見える。
ホームズが『ベイカー街非正規隊』と称する情報通の宿なし子たちの中でも、大人顔負けの利発さと機転を備えたウィギンズ少年は隊長的存在だ。その彼が意気揚々と部屋に飛び込んできたのだから、私もホームズも、思わず奇怪な事件の報せを期待してしまう。
「よう。その様子じゃ、とっておきのネタが入ったみたいだな」
「ああ、お待ちかねの貴族殺しだ!」
ホームズの目がぎらりと光った。
ウィギンズ少年は小さい手のひらをいっぱいに広げてホームズの前にずいと突き出した。
ホームズはよれた背広のポケットを探ったが、出てきたのはマッチの箱とくしゃくしゃの紙切れ数枚だけだった。焦れた彼は椅子から立ち上がる手間すら惜しんで、私に向かって叫んだ。
「ジョン!」
「えっ僕が払うのか?」
「後で返す。いいから早く!」
私はしぶしぶ、自分の財布から数枚のコインを取り出した。ウィギンズ少年は「毎度!」と弾んだ声を上げると、つい数時間前に起こったばかりだと言うその『貴族殺し』について語りはじめた。
「殺されたのはイーサン・セリグマン男爵。刃物で喉をかっ切られた上に腹や胸を何か所も刺されてたって話だ。犯人は男爵に相当恨みを持ってたんだろうな。昼飯に男爵を呼びに行った執事が第一発見者だ。現場は血まみれで、男爵夫人は卒倒しちまったってよ」
「シャーロック、こんな小さな子に何てこと調べさせてるの……!」
「真っ昼間に夫人や使用人たちもいる屋敷の中で殺されたってのか? 内部犯か?」
ハドソン夫人の非難の声を無視して、シャーロックが尋ねた。ウィギンズ少年は少しばかり顔をしかめながら答えた。
「……多分。男爵が殺されてるのが見つかってから、使用人が一人、行方知れずになってる」
「何だよ、犯人もう分かってんじゃねぇか」
シャーロックがため息とともに紫煙を天井に向かって吐き出した。
「貴族殺しが起こったら何でもいいから情報持ってこいって言ったのはあんただろ! 新聞社より早く聞きつけてきてやったのに!」
「別に金返せなんて言ってねぇだろ。ご苦労さん」
我らが名探偵はもはや完全に興味をなくした様子で、そばにあった論文の束をめくり始めた。
私は悔しがるウィギンズ少年に、例の缶入りクッキーをすすめた。すると彼はころりと機嫌を直して、クッキーを二、三枚まとめて口の中に放り込む。ハドソン夫人は苦笑しながらも、戸棚からカップをひとつ取り出して彼のために紅茶を注いでくれた。
「ウィギンズくん、こんな男の言うこと聞いてあんまり危ないことに首突っ込んじゃダメよ。それにしても、犯人が逃げたままなんて怖いわね。早くレストレード警部たちに捕まえてもらわないと……」
その時、もう一度階下で呼び鈴が鳴った。
噂をすれば何とやら、やって来たのはレストレード警部だった。応対に出たハドソン夫人も驚いた様子だった。
「ホームズ、お待ちかねの『貴族殺し』だ」
警部はやや皮肉っぽい含みを持たせながらそう切り出した。けれどホームズは視線を論文に落としたままだ。
「知ってる。セリグマン男爵だろ?」
「何故それを?」
「名探偵には凄腕の情報屋がついてるんだぜ!」
ウィギンズ少年が得意満面で口を挟んだ。
私は、彼から聞いた事件の話をレストレード警部に説明した。
「なるほど。実は私がホームズに相談したかったのも、同じ事件なのです。ワトソン先生」
「でも、犯人ははっきりしているのでしょう?」
「ええ。フレドリック・パーシーという青年が、男爵の遺体が発見されて以降行方を眩ませています。奴が犯人であることには疑いの余地はないでしょう」
「それでは何故ここに? この広いロンドンで逃亡犯を探し出すなら、あなた方スコットランド・ヤードの組織力の見せどころでしょう」
「それが、少々面倒なことになっていまして……」
レストレード警部は頬を掻きながら、ホームズの方を横目でちらりと伺った。彼が変わらず煙草をふかしながら論文を読んでいるので、警部は幾分むっとした様子で、私に向かって事件のあらましを説明しはじめた。
「男爵の遺体が発見されたのは今日の午後十二時を少し回ったところでした。昼食の時間になっても男爵が書斎から出てこなかったので、執事が呼びに行ったそうです。書斎は一階にあり、ドアの鍵は掛かっていなかった。また、中庭に面した窓にはカーテンが引かれていましたが、窓自体は開いていました」
「屋敷内からも中庭からも出入りが可能だったということですね」
レストレード警部はひとつ頷いて、続けた。
「遺体は、書斎の机のそばに倒れていました。机の上にあった陶器製のランプが落ちて割れ、本や書類が床に散乱していて、殺される前に犯人と争ったものと思われます」
「犯人……その、行方不明の使用人と?」
「おそらく。つい一週間ほど前に下男として雇われたばかりの青年です。詳しいことは現在調査中ですが、書斎に置いてあった現金や切手類がなくなっています。おそらく、書斎に忍び込んで盗みを働いていたところを男爵に見つかり、揉み合いになった末に殺害に及んだのではないかと……」
「取っ組み合いになった拍子にうっかり殺しちまったんなら、普通はさっさとずらかるだろ。こいつからは、男爵は腹や胸を何か所も刺されてたって聞いたが?」
いつの間にか論文の束から顔を上げて話を聞いていたホームズが口を挟んだ。もっともな指摘に、レストレード警部は「ああ、そこなんだ」と困り果てた表情で頷いた。
「あの現場を見れば、お前でなくてもはっきりと分かるだろう。殺害現場はおそらく書斎ではない。誰かが男爵の遺体を移動させている」
「どういうことだ?」
「……書斎に残された血痕が少なすぎるんだ。致命傷は間違いなく首の傷だが、本棚にも壁紙にも血が飛んでいない。おそらく別の場所で喉を裂かれて殺害されてから、書斎に運ばれたのではないかと推測される」
「嘘だ! 現場は血の海だったんだろ?」
ウィギンズ少年が声を上げると、警部は大きくため息をついた。
「君みたいな子どもが殺人現場の周りを嗅ぎ回っていたら、俺もそう言うだろうな」
彼は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐにその意味を理解して顔を真っ赤にした。
要はただ脅かされただけなのだろう。殺人現場は血みどろで恐ろしいことになっているから、こんなところにいないで早くおうちに帰りなさい、と。
「ちくしょう……あの野郎、馬鹿にしやがって」
「その話は誰から聞いた?」
「知らない。野次馬の中にいた奴だよ。警官たちが話してるのを聞いたって言ってたのに、とんでもない嘘つき野郎だ」
ウィギンズ少年は悔しそうにそう吐き捨てて紅茶を煽った。缶の中のクッキーはいつの間にかほとんどなくなってしまっていたが、私もハドソン夫人も手を伸ばす気にはなれなかった。
ホームズが重ねて問うた。
「そいつは他に何か言ってたか?」
「えーと、セリグマン男爵の屋敷は、もともと使用人がしょっちゅう入れ替わってたらしい。男爵が威張って使用人をいじめるから、恨みを買って殺されたんだろうって……」
「それは事実か、レストレード?」
ホームズに問われて、レストレード警部は考え込むように自分の顎を撫でた。
「いや、確認は取れていない。……だが確かに、使用人の入れ替わりは激しかったんだろうな。パーシーの名前を覚えていなかったメイドもいたくらいだ」
「……………」
ホームズは、何かを考えるようにしばらくの間黙り込んでいた。彼が再び口を開くのを、部屋に集まった全員がどことなく緊張しながら待っていた。
「……話を戻すか。つまりお前は、俺に本当の殺害現場を特定してほしいんだな?」
「ああ、その通りだ。何しろ男爵夫人も第一発見者の執事も、死体が移動されたことを認めないんだ」
「認めない?」
「ああ。通報を受けたヤードが駆けつけるまで誰も遺体に手を触れていないと言い張っている。使用人たちの証言もそれを裏付けるようなものばかり……。十二時少し前に何かが割れるような物音を聞いたが、呼び鈴が鳴らなかったので誰も書斎に近づいていないと。屋敷内の捜査も制限された挙げ句、夫人が『私たちを疑っているのか』と逆上する始末だ」
「パーシーがトンズラする前にわざわざ遺体を書斎へ運んだとは考えにくい。奴が男爵を殺して逃げた後、屋敷に残ったうちの誰かがやったに違いないが、誰もそれを認めないし捜査を邪魔されて特定する材料が見つからない、と。それで打つ手が無くなってここに来たってわけだ」
「面目ない」
レストレード警部はばりばりと頭をかいた。
状況からしてパーシーが犯人である可能性は極めて高いし、相手が貴族である以上、強引に家宅捜索をするわけにもいかないのだろう。
私は自分なりに考えをまとめてから、口を開いた。
「今の話を聞いた限りでは……何だか男爵夫人が怪しいような気がしますね。彼女が男爵を殺してしまい、それを隠蔽するために執事が現場を偽装し、使用人たちも口裏を合わせている、という線はどうでしょう。逆に、夫人以外の誰かが犯人だったなら、庇う理由も見当たりません」
「まぁ……、いやな話ね」
「もし本当に男爵夫人が犯人なら、行方不明のパーシーは? 罪をなすりつけるためにそいつも殺されちゃったとか?」
ウィギンズ少年の物騒な推測に、ハドソン夫人はとうとうホームズを睨みつけた。まだ十代半ばの少年からこんな発想が飛び出すのは間違いなく彼の影響だからだ。
当のホームズは彼女からの圧力などどこ吹く風と言わんばかりの様子で、椅子の上に両膝を立てて座り何やらぶつぶつと呟いている。やがて瞑想状態を脱した彼の瞳には、生き生きとした輝きがあった。
「面白れぇ。やってやるよ」
「できるのか?」
「お前の見立てが正しけりゃ、屋敷の人間のうちの誰かが――下手すりゃ全員が、確実に嘘をついてるってことだろ。突破口は必ずあるさ」
「相手は貴族だぞ。あまり派手にやると……」
「わかってるって。行くぞ、ジョン」
ホームズは椅子から勢いよく立ち上がると、肩にジャケットを引っ掛けて颯爽と出ていってしまった。私とレストレード警部は慌てて彼のあとを追った。
ウィギンズ少年から話を聞いた段階では実に単純な事件に思われたが、裏には複雑な謎が潜んでいそうだ。
これはきっと、彼を主人公とした小説の題材にふさわしい事件になるのではないだろうか。そんな予感を抱きながら、私は表で待っていたスコットランド・ヤードの馬車に乗り込んだ。
*
二 セリグマン男爵邸
私たちが馬車に揺られてセリグマン男爵邸に到着したのは、もう日も傾きかけた時間だった。
街中から比較的近い、当世風の瀟洒な屋敷だった。意匠を凝らした金細工の門を潜り、屋敷前の車止めで馬車を降りると、立っていた警官がびしりと敬礼をした。
私とホームズは、レストレード警部の後に続いて真っ直ぐに犯行現場――もとい、遺体発見現場――である書斎へと通された。
一歩足を踏み込んで、私は思わず顔をしかめた。
ヤードの現場検証がちょうど一段落したところらしく、男爵の遺体は部屋の隅で布を被せられていた。しかし、遺体がどこに横たわっていたのかは絨毯に染み込んだ血のおかげで一目瞭然だ。
元軍医として、私は一般市民よりはるかに多くの遺体を見てきた。けれどそれは病院内や戦場に限った話であり、落ち着いた雰囲気の書斎に広がる血痕というのはあまり気持ちのいいものではない。
「遺体が発見されたのはちょうどその辺り……デスクの影に、うつ伏せの状態で倒れていた」
レストレード警部の説明を聞きながら、ホームズは迷いのない足取りでデスクの方へ向かった。彼の革靴のつま先が、絨毯の血をたっぷり含んだ部分を踏んづけたが気にする様子もない。
床には血痕の他に、陶器の破片が散らばっている。犯人と男爵が揉み合った際に落ちて割れたというランプだろう。破片と残った台座から見ても、私にはとても手が出せないような値打ちものだったことが見て取れた。
ホームズは破片の一つをつまみ上げた。
「ランプが置いてあったのは……ここか」
デスクの上に、よく見ると丸い跡が残っていた。
レストレード警部が頷いた。
「そうだ。それから、デスクの引き出しから紙幣や切手、腕時計……とにかく換金できそうなものが根こそぎがなくなっている」
「パーシーが盗んでいったのですか?」
「おそらく」
ホームズは次に窓辺に歩み寄った。
「遺体が見つかった時、この窓は開いてたんだな」
「ああ。だがカーテンは引かれていた」
シャッと音を立ててカーテンを開けると、外には中庭が広がっていた。四方を屋敷の白い壁に囲まれてはいるが、木々に遮られて見通しは意外と良くない。
こっそりと書斎に侵入するなら、廊下を通ってドアから入るより安全なルートかもしれなかった。
その発見を伝えようと隣を見やると、ホームズは私とは対照的に、窓のすぐ下の地面を注視していた。その様子に、レストレード警部がうんうんと頷く。
「お前も気づいたか、ホームズ」
「ああ。誰か花壇に入ったな」
下を見ると、この窓の真下だけ、花壇の土が踏み荒らされていた。植えられたスイセンの茎も数本折れている。
「足跡の照合は?」
「やってみてはいるが、難しいだろうな。見ての通り、足跡をつけてしまったことに気がついてその場で足踏みしたんだろう。すっかり潰されてしまって誰の靴か分からない。あとは花壇を跨いで、芝生の上を歩いて行ったようだ」
「狡猾な奴ですね……」
私がつぶやくと、ホームズがちらりとこちらを見た。
「そいつは誰のことだ、ジョン?」
「え? 誰って……」
パーシーではないのか? そう答えようとして、私は「あっ」と声を上げた。
「そうか……屋敷から逃げ出したパーシーには足跡を偽装する必要もないのか」
「その通りだ」
「書斎から脱出するときではなく、書斎に入り込む前に付けた足跡では?」
「これだけ花壇を踏み荒らせば、必ず靴に土がつく。だが窓枠にも絨毯にも土の跡はない。したがって、これが書斎に入る前に付けられた跡であることはありえない」
ホームズの理論は明解だった。
「つまりこいつは、男爵とパーシー以外の第三者がこの書斎からこっそり出ていったことを示す動かぬ証拠ってわけだ」
彼は両手をすり合わせながら、うきうきとした様子を隠そうともせず振り返った。
「さて、いよいよ死体を見せてもらおうか。レストレード」
セリグマン男爵は、いかめしい鷲鼻をした、五十歳そこそこの紳士であった。
レストレード警部が遺体に掛けられた布をめくると、真っ先に目に飛び込んできたのは赤黒い血の色だった。警部やウィギンズ少年の話通り、男爵は首筋を裂かれ、胸から腹部にかけては無数の刺し傷があった。有り体に言えば『めった刺し』だ。
「どうだ、ジョン?」
ホームズの声に、私は自分の仕事を思いだした。
「ああ……確かに、首の傷が致命傷だろう。頸動脈を綺麗に切り裂かれている。腹や胸の刺し傷は、傷口の状態からして、おそらくは死後につけられたものだ」
「監察医も同じ見解です」
レストレード警部が頷いた。
「遺体のそばに、包丁が落ちていました。この屋敷の調理場から持ち出されたもので、これが凶器で間違いないかと」
私は凄惨な遺体から顔を上げて、室内を見回した。
「ほんとうに、壁に血痕が一つもない……」
「ああ。誰だか知らねぇが、まったく雑な偽装だ」
ホームズはため息をついた。
これだけすっぱりと首を裂かれれば、必ず血が噴き出す。それなのに、部屋中探してみても壁紙や本棚にはしみ一つ見当たらなかった。
被害者に布を被せれば、とも考えたが、布越しに頸動脈の場所を探り当てて正確に切り裂くなんて芸当は我々医者にも難しそうだ。
「ジョン、これは生前についた傷だな?」
ホームズが男爵の右手を持ち上げながら、私に尋ねた。確かに、手の甲に小さな引っかき傷がある。
「そうだな。血が固まりかけているから、生前に負った傷のはずだ。もっとも、事件に関係があるかどうかは……」
私は最後まで話すことができなかった。
書斎のドアがノックの直後に勢いよく開いて、大柄な初老の男性が飛び込んで来たからだ。
「警部! 勝手なことをされては困ります!」
男は部屋に入るなりそう声を上げて、男爵の遺体を検分する私たちを睨みつけた。
「誰ですか、彼らは? 部外者を屋敷に入れるなんて……」
「失礼しました。彼らは我々ヤードの捜査協力者で、私立探偵をしている者です」
「探偵?」
「ええ、独自の情報網を持っていまして、人探しにかけてはこのロンドンで右に出る者はいないほどです。パーシーの足取りを追うためには彼らの協力が不可欠と考えて、ここに呼んだのです。……こちら、執事のニコルソンさん」
最後の一言は私とホームズに向けたものだった。
なるほど、レストレード警部は『人探し専門の私立探偵』という名目でホームズを呼んだらしかった。話を合わせてくれ、と言わんばかりに警部からウインクが送られたが、ホームズはまるで気がついていない。
「あんたが第一発見者か?」
遺体から目を話すことなく、ホームズがぞんざいな口調で尋ねた。
「男爵の姿を最後に見たのは何時ごろだ?」
「それはもう刑事さん方に散々話しましたよ」
「俺はまだ聞いてない」
「……今朝の十時過ぎです。ここで書き物をなさっていた旦那様にお茶をお出ししました」
「そいつは変だ。ティーセットはどこに消えた?」
ホームズは机の上を指し示した。ティーセットはおろか、書類の一枚も広げられていない。
執事に疑いの目を向けようとする私たちに、レストレード警部が慌てて口を挟んだ。
「その一時間後にメイドが書斎に入ってティーセットを下げている。彼女が、生きている男爵の姿を最後に見た人間だ」
「ほー、じゃあ、犯行時刻がだいぶ絞られるな。そのメイドと話せるか?」
ホームズはまるで自分の部下にでも話しかけるようなぞんざいな口調で執事に問うた。人に仕えることを生業とする彼も、さすがに初対面の男にこうも気安い態度で接せられるのは我慢ならないようだった。
「一体何なんですか、あんたたちは」
「だから探偵だって」
「人探し専門の探偵なら、これ以上ここに用もないでしょう。さっさとパーシーの奴を探しにいったらどうなんです?」
「ああ、もう結構。参考になったぜ」
ホームズは執事の居丈高な態度もどこ吹く風といった様子で応じた。
「じゃあ、『捜索』の糸口を得るために、奥様や使用人の皆さんからお話を聞かせてもらおうか。もちろんあんたにも」
私達は半ば書斎を追い出される形で、隣の客間に追いやられた。
*
三 男爵夫人と執事の証言
ソファに腰かけてしばらくしないうちに、メイドが一人、お茶を持ってきてくれた。
ごく大人しそうな若いお嬢さんで、椅子に膝を立てて座り何事かぶつぶつと呟いているホームズに怯えているようだった。そのおどおどとした態度も、仕えている屋敷の主人が殺されたばかりなのだから無理からぬ話だ。
「どうもありがとう」
私はなるべく丁寧にお礼を言った。
メイドは小さく頭を下げた。そのまま私と目を合わせぬように引き下がろうとして、「あ」と小さく声を上げた。
「あの、お怪我を……」
「あ、大丈夫ですよ。今朝少し転んでしまって」
彼女は私が顎をすりむいているのに気が付いたらしかった。
「血がにじんでいますよ。何か、消毒とか……」
「お気遣いありがとうございます。ですが、心配無用ですよ。私はこれでも医者の端くれでね。処置は済んでいますので、あとは自然治癒あるのみです」
冗談めかして笑いかけると、彼女はどう反応していいのかわからないといった顔で曖昧に頷いた。よく気の付く親切な女性であったが、どうやら少し人見知りをするタイプに見えたので、そこで会話を切り上げるつもりだった。私は。
「なぁ、あんたはパーシーのこと知ってるのか?」
唐突に立ち上がったホームズが、メイドの肩を叩いた。
彼女は飛び上がるほど驚いて、持っていた盆を盾のように掲げた。
「シャーロック!」私は思わず声を上げた。
「何やってるんだ、急に。初対面の女性に馴れ馴れしすぎるぞ!」
「ああ、悪い悪い。で、パーシーはどんな奴だった?」
「はい?」
「同僚なんだから、話したことくらいあるだろ。なぁ、どんな奴だった? あ、もしかして、あんたが最後に書斎に入ったメイドか?」
ホームズは悪びれもせず彼女に質問を浴びせかけた。聞いている事自体は何もおかしくはないが、手順を完璧に間違えている。私は彼のジャケットを掴んで引っ張った。
「いいから、一回座れ!」
「何の騒ぎです?」
部屋のドアがガチャリと開いて、先ほどの執事が入ってきた。
背後にはレストレード警部と、年配の婦人の姿も見える。大きな耳飾りをつけた彼女が、おそらくセリグマン男爵夫人なのだろう。痩せた体に目だけが妙に鋭く、その表情は不安そうにも苛立たしげにも見える。
メイドが慌ててホームズと距離を取って顔を伏せた。
「用が済んだなら下がりなさい、リネット」
執事の言葉に、メイドはこくこくと頷いてさっと部屋を出ていった。
老婦人はやはり、セリグマン男爵夫人であった。
「こちら、私立探偵をしている、我々の協力者です」
レストレード警部は私たちのことをごく簡単に紹介した。幸い、男爵夫人は興味なさそうに首を傾げて見せただけで、私とホームズが名乗っても大した反応を見せなかった。
「あなた方があの恩知らずの人殺しを見つけてくださるんですの?」
「ええ、もちろん。この度はご愁傷様です」
ホームズが黙っているので、私はなるべく愛想よく挨拶をした。
「早速お話を伺いたいのですが」
「ヤードだろうと探偵だろうと構いませんから、とにかく早くあの男を捕まえてくださいな。ああ、かわいそうなヘンリー!」
セリグマン夫人は扇で口元を覆いながら嘆いた。
私はざっと記憶をひっくり返してみたが、たしか殺された男爵はヘンリーなんていう名前ではなかった。
「失礼ですが、ヘンリーさんというのは?」
「息子です。まだ学生ですの。エディンバラの大学に通っておりまして・・・・・・先ほどニコルソンに言って電報を打たせましたわ。今頃列車に飛び乗っている頃でしょうけど、あの子が今どんな気持ちでいるのか想像しただけで、胸が張り裂けそうで……」
「それは、ご愁傷様です……」
私は同じ言葉を繰り返した。
ここに来る前の私は男爵夫人をなんとなく怪しんでいたが、いざ実物に相対してみるとこの小柄な老婦人に犯行は難しい気がしてきた。床に横たわった状態だったから定かではないが男爵の身長は私と変わらないくらいだったように思う。
私はホームズの方をちらりと盗み見た。
彼は夫人をじろじろと値踏みするように観察している。今のところ会話をする気がないのは明らかで、彼女の注意を引く意味でも、私が場を繋ぐ必要があるようだった。
会話の取っ掛かりとして、私は夫人が先ほどから指先を何度もこすり合わせる仕草をしているのに目をとめた。
「失礼ですが、神経痛を患っていらっしゃるのですね」
「え。ええ、よくおわかりになりましたね」
「観察するのが私の仕事ですから」
レストレード警部の機転を無駄にしないためにも、私はあえて医者であることをぼかして答えた。我が親友の台詞を真似て少々格好をつけてみると、夫人の態度が少しばかり和らいだ。
「最近どうもひどくって・・・・・・。今日はお天気もいいからマシな方ですけど」
「いい薬茶がありますので、後でお渡ししましょう。私も古傷が痛むときに飲むのですが、気持ちが落ちついて痛みが和らぎますよ」
「まあ、それはご親切に」
「ところで、奥様がパーシーについてご存じのことを教えていただけないでしょうか。彼の行方を追うために、少しでも手がかりがほしいのです」
「手がかり、と言われましても・・・・・・使用人の差配はすべてニコルソンに任せていますの。長く仕えている者ならまだしも、あんな無教養な労働者階級のこと、知ってどうするんですの?」
なぜそんなことを聞くのか、と言いたげな口ぶりに私は少しばかりの戸惑いを覚えた。
「でも、同じ屋根の下で一緒に暮らしている人間でしょう?」
「まあ、なんてことおっしゃるの。一緒に暮らしているだなんて・・・・・・私どもは彼らに仕事を与えて屋根を貸してやっているだけですよ、ワトソンさん!」
夫人は私を追い払うように扇を振った。私がこの老婦人にとってとんでもなく無礼で非常識な発言をしたかのように。彼女の目には純粋な不快感と侮蔑しか浮かんでいなくて、私は少し途方に暮れた。この国で暮らしていると度々ぶつかる壁だった。
「お気持ちはお察ししますよ、奥様。彼らの英語は汚くて、仕事じゃなければ話をするのもお断りしたいくらいだ」
ホームズが口を開いた。普段のコックニーからは想像もつかないほど美しいクイーンズ・イングリッシュだった。
「この部屋に来る途中、廊下の絨毯に大きなシミがありましたね。スープか何かをこぼしたのでしょうか?」
「ええ、のろまなメイドがおりましてね」
「それはお気の毒に・・・・・・」
ホームズは慇懃に手のひらを擦り合わせた。
「それでは、ニコルソンさんにお尋ねしましょうか。パーシーはどういった経緯でこの屋敷で働くことになったんです?」
執事が、ホームズが先ほどとは打って変わって非常に丁寧な言葉遣いをするのに面食らっているのが感じ取れた。だが女主人の手前、そのような態度はおくびにも出さず答えた。
「リージェントの職業斡旋所からの紹介です」
後ろでレストレード警部が小さく頷くのが見えた。すでに手は回しているのだろう。
「健康面に問題もなく、よその屋敷にしばらく勤めていたので若くとも経験があるという話だったのですが……」
「少々手癖の悪い青年だった、というわけですか」
「ええ、我々は何も聞かされていませんでしたがね!」
執事は苛立たしげに首を振った。
「以前に勤めていたという屋敷はどちらに?」
「さあ、私どももそこまでは……出身はサセックスかどこか、南の方だとは聞いていましたが。それは今、警察の方で調査してくださっているんでしょう?」
「ええ、もちろん」
レストレード警部が請け負った。
であれば、遅かれ早かれパーシーがいざというときに頼りそうな逃亡先――かつての同僚や、地元の家族――が見つかるだろう。
ホームズは少し考えたのち、椅子からすっくと立ち上がった。
「貴重なお話をありがとうございました。それではさっそく仕事に取り掛かりたいと思いますので、これで失礼します」
そう言い残して、彼はさっさと玄関に向かって歩き始めた。
気の毒なレストレード警部は顎が外れそうなほどあんぐりと口を開けていたが、すぐに気を取り直してホームズの後を追った。男爵夫人と執事に会釈して、私も二人の後に続いた。
*
四 ホームズの宿題
「ホームズ! お前、ここまで来ておいて興味が失せたなんて言わないよな!?」
屋敷の前で待っていた辻馬車に乗り込もうとするホームズに、警部は必死の形相で詰め寄った。
「バカ、そんな無責任なことしねぇよ」
「だったら……」
「いいか、レストレード。宿題を出す。一つは、明日の昼までこの屋敷に警官を配置しておくこと。殺人事件が起こってその犯人が逃亡中となりゃ、そう難しい話でもないだろ。もう一つは、あのランプの破片を拾い集めて元通りに繋ぎなおすことだ」
「一つ目はともかく……二つ目は何のために?」
「いいから。それさえやってくれれば後はこっちで何とかしてやるよ。夫人を刺激しすぎるなよ。あ、パーシーの身元も、何かわかったら報告してくれ」
彼はそれだけ言うと馬車の座席の奥に詰めて、私が座るためのスペースを空けた。レストレード警部は戸惑いながら引き下がり、私もまた戸惑いながら辻馬車に乗り込んだ。
御者が馬に鞭をくれて、馬車がゆっくりと走り出す。
辺りはすでに夕闇に包まれ始めていた。屋敷と警部を後ろに見送りながら、私はがたがたと揺れる座席に身を預けた。
「……シャーロック、よかったのか?」
「何が?」
「何がって……こんなにあっさり出てきてしまったことだよ。もっと詳細な調査や聞き込みをしなくてよかったのか? まだ使用人たちにもちっとも話を聞いていないじゃないか」
「見るべきもんはだいたい見たさ」
「でも、レストレード警部からの頼み事も果たせていないじゃないか。男爵が本当に殺された場所を特定するっていう……」
「アタリはつけた。が、あの場じゃ難しそうだったからな」
ホームズはいつも通りの自信ありげな態度だった。
「なぁジョン、煙草吸っていいか?」
「……勝手にしろ」
私はため息をついて、馬車のガラス窓を開けた。
ホームズも私に倣って反対側の窓を開けると、マッチを擦って煙草に火をつけた。彼が愛用しているきつい銘柄だ。窓を開けているからといって煙がすべて外へ流れ出てくれるはずもなく、車内はたちまち紫煙で煙たくなった。しかし勝手にしろと言った手前、今さら吸うのをやめろとは言えない。私は気を逸らせるためにも、この奇妙な事件のことを頭の中で反芻した。
書斎に横たわる男爵の死体。綺麗なままの壁紙に、粉々に砕けたランプ。花壇に残された痕跡。わが子の心配をする男爵夫人の言葉と、軽蔑に満ちた表情……。
「……パーシーは、何のために男爵を殺したのだろう」
「気になるか?」
独り言のつもりで漏らした呟きに、思いがけずホームズが反応した。
「当然気になるさ。パーシーの動機によっては、事件の性質が全く変わってくるだろう。あんな風に遺体をめった刺しにしていたら『盗みを働いていたところを見つかって、揉み合ううちにうっかり殺してしまった』では、もう説明がつかないじゃないか」
「そうだな」
「それに、書斎の壁に血痕が残っていなかった件についてもだ。遺体を移動させたにしろ、何らかの偽装を行ったにしろ、どうしてそのことを男爵夫人と執事に尋ねなかった?」
「あいつらは確実に何か知ってるだろう。でも、だからって直接聞けばいいってもんじゃねぇよ」
「じゃあ誰に聞くんだ?」
しかし、ホームズはまたしても私の質問には答えなかった。
「その薬茶ってのは、すぐに用意できるのか?」
「はぁ?」
脈絡のない質問に思わす声を上げても、彼は窓枠に肘をついたままこちらを見ようともしない。私の質問に答える気はないし考えのすべてを話すつもりはない、という意思表示だろう。
その勝手気ままな態度に私はいくらかの不満を覚えたが、こうなってしまった彼に話しかけるのは得策ではない。私と彼との付き合いはまだそう長くなかったが、『謎』に取り組んでいるときの彼の取り扱いは心得ているつもりだ。
私たちを乗せた馬車が二二一Bに到着しても、ホームズは黙ったままだった。
彼は夕食の後、無言で暖炉の前に座っていた。
微動だにしないホームズの顔が赤々とした炎に照らされて、彫刻のような陰影を描いている。眉間の皺は彫り込まれたように深く、苦悩しているようにも見えたが、瞳はらんらんと輝いている。
私は彼の邪魔をしないように自分の書き物机に向かっていたが、何も手に付かず、結局はただ座っていただけだった。
「乗りかかった船だ。最後までやるさ」
時計の鐘が深夜十二時を打つ頃、ホームズがぽつりと呟いた。
その晩はそれきりだった。
初出:Pixiv 2023.02.19
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『悪徳貴族を成敗してその謎をホームズに解かせる』話。
〇 ある男が廃屋で出会った人物
男は、足を引きずりながら、往来の隅をとぼとぼと歩いていた。
今日のような寒い曇り空の日には、左膝が軋むように痛んで憂鬱な気分になった。また一人、通行人が迷惑そうな顔をしながら男を追い越していく。本来であれば、こんな日には誰かと顔を合わせることすら嫌だった。
しかし、今日だけは。
男は沈む心を奮い立たせ、痛む足を叱咤してロンドンの雑踏を進んだ。
「サンズ・ティー・ハウス! 寄って行ってね!」
喧騒の中、一際よく通る声がした。
思わず立ち止まって声のした方を見ると、カフェの呼び込みだろう。若いハンサムな青年が、道行く人々ににこやかに声を掛けながらチラシを配っていた。
花の隙間を縫って飛ぶ蝶のように軽やかな足取りだった。彼に微笑みかけられた女たちは、頬を染めながらチラシを受け取っている。
足を止めてこちらを見ている男に気がついて、青年がすっとこちらに近づいてきた。
「お兄さんもどうぞ。このチラシを持ってきてくれたら、お茶を一杯サービスするよ」
青年は、女たちにしてみせたのと変わらない眩しい笑顔を男にも向けた。
サンズ・ティー・ハウスがどんな店だか知らないが、少なくともこのうだつの上がらない男には不釣り合いな洒落たカフェなのだろう。それなのにこうしてチラシを差し出されて、何だか小馬鹿にされているような気分になった。青年にはもちろん全くそんなつもりはないのだろう。ただ自分が卑屈になっているだけだ。そのことがかえって腹立たしい。
男は引ったくるようにチラシを受け取って、広い通りから脇道に逸れた。
うらぶれた路地を進むうちに、男は貧民街に足を踏み入れた。
常にどこか陰鬱な空気が漂う、華やかなロンドンの街のもう一つの顔。すれ違うのは浮浪者や宿無し子ばかりで、この辺りでは自分が一番上等な人間にさえ思える。男はどこか安堵した。
しかし自分もいずれはここの住民になるのだろうかと考えると、知らず知らずのうちにため息が漏れた。どのみちこの足を抱えて、家族もない身としては安定した暮らしなど望めない。
自身をこんな境遇に貶めた悪魔への復讐心がさらに募るのを感じた。
指定された路地で、道端に座り込んでいる老婆を発見した。
男が立ち止まると、老婆はゆっくりと顔を上げる。
顔は土気色で生気がまるで感じられない。瞳はどろりと濁っていて、もしかしたら目が見えていないのではないだろうか。
男が気圧されていると、彼女は黙って手のひらを差し出した。ミイラのように干からびた手だった。男はポケットの中に押し込んでいたチラシを取り出し、老婆の手に押し付けた。
「…………」
老婆は何も言わず、斜向かいの家の扉を指差した。
扉の横には『FOR RENT』と書かれた板が打ち付けてある。窓ガラスはひびが入ったまま放置されているから、管理会社からも忘れ去られた空き家だろう。
「あそこに行けってのか……」
そう尋ねながら振り返ると、老婆の姿はすでになかった。
男は慌てて辺りを見回したが、路地には人影の一つも見当たらない。老婆は魔法のように姿を消してしまった。その事実が、いよいよ「これは本物だ」という確信を男に抱かせた。
老婆が指し示した扉を開けて、埃っぽい空き家に踏み込むと、中は存外すっきりと片付いていた。
空っぽの食器棚に、椅子とテーブルが一組。
テーブルの上に何か置いてある。
足を引きずりながら薄暗い室内を進むと、ティーカップだった。注がれた紅茶はまだ湯気を立てていて、傍らにはクッキーが盛られた皿が添えられている。
「ご足労いただき申し訳ありません」
突然、間近で人の声がして、男は飛び上がるほど驚いた。
部屋の隅に衝立が立っている。決して華美なものではないが、この空き家には不釣り合いなほど品のあるデザインで、どうやらつい最近持ち込まれたばかりのもののようだった。
その裏に、誰かがいる。
「寒い中、大変だったでしょう。私からお伺いできればよかったのですが、仕事柄、大っぴらに外を出歩くわけにはいきませんのでご容赦ください」
若い男の声だった。
物腰は柔らかくとも、こちらにへりくだるような気配は微塵も感じられない。
「お詫びと言ってはなんですが、お茶を一杯サービスしましょう。よろしければ、どうぞ」
「あ、あんたが……」
「ええ。あなたがお考えの通りですよ」
短く、簡潔な答えだった。
本当にいたのか、というのが率直な感想だった。
立ち寄った酒場で聞いた、眉唾ものの噂ではあった。おまけに『窓口』だと名乗る男は拍子抜けするほどの若造で、担がれているのではないかと疑心暗鬼になりながら、男は身の上を語ったのだ。
――犯罪相談役。
衝立一枚隔てた向こう側に、このロンドンで起こる犯罪の半分に加担していると噂される大悪人がいるのだ。
お茶を一杯サービス、と言うからには、あのチラシ配りの青年も彼の手下だったのだろうか? この路地にいる老婆に持ち物を何か一つ渡す、というのが先方の指定してきた接触方法だった。特に指定はなかったので千切れたボタンを渡すつもりでポケットに入れてきたのだが。
男は椅子に腰掛けて、紅茶に手を伸ばした。
毒かもしれない、という考えも頭の中にはあったが、そんな猜疑心は温かい紅茶を一口啜った途端に吹き飛んだ。男はすぐにクッキーにも手を伸ばした。
小麦粉とバターの豊かな風味に頭の奥が痺れた。紅茶で流し込むと腹の底から体全体がじんわりと温まってくるようだ。あっという間に食べ終えてしまって、そういえば、甘いものを口にするのはずいぶん久しぶりのことだったと気が付いた。温かいお茶でもてなしてもらうことも。
男は知らず知らずのうちに涙をこぼしていた。
「ずいぶんお辛い思いをなさったのですね」
「いや……俺は……」
恥ずかしくなって弁解しようとすると、衝立の向こうの声はやんわりと遮った。
「私のもとに相談に来られる方は、一人の例外もなく、胸の内にわだかまりを抱えておられますよ。話してみてはもらえませんか?」
「俺は……俺はいいんだ。そりゃあ暮らしは楽じゃないさ。俺の足をこんなふうにしてこんな暮らしに追い込んだあいつらは憎い。だが、俺は逃げられた。何とか新しい仕事にもありついて食いつないでる。時々あの頃の夢を見ることもあるが、まぁ何とかやっていってる。許せないのは、今もあいつらがのうのうと暮らして、他の誰かを痛めつけてるってことだ……」
胸のつかえが取れたように、口から言葉が流れ出た。
口にして初めて、男は自分の腹の中に渦巻いていた怒りがどこに向いていたのかに気がついた。この未知の相手に対して、自分を良く見せようという考えは少しもなかった。つまらない虚栄心が溶けて、あとに残ったのは紛れもない本心だった。
奴らの悪行を告発する。そして、今も虐げられている弱いものを救う。そのために自分はここに招かれたのだ。
「その悪魔の名前は?」
どこまでも穏やかで、透き通った声だった。この声の前ではきっといかなる隠し事も通用しない。この衝立の向こうにいるのは天使でもあり、悪魔でもあった。
男はいつの間にか、左膝を強く握りしめていた。ぎゅっと目を瞑ると、奴の姿がはっきりと脳裏に浮かんだ。冷たい床に這いつくばって許しを請う自分を嘲笑っている。
男は小さく息を吸い込んで、その名を告げた。
「イーサン・セリグマン男爵――」
*
一 私の同居人
私の同居人、シャーロック・ホームズは――。
この書き出しに続くふさわしい文句を考えながら、私はベイカー街の下宿に帰ってきた。
時刻はちょうど昼下がり。
私の手の中には、ちょっとした偶然から手に入れた有名店のクッキー缶があった。ハドソン夫人も誘って、三人でお茶でも楽しもう。
十七段の階段を登って、ドアを開いた。
「災難だったな、ジョン。サウス・ストリートの工事現場か」
帰ってきた私を一目見るなり、ホームズは唇の片側を持ち上げて皮肉っぽく笑った。
私は入り口のところで突っ立ったまま、『またか』という気持ちでため息をついた。もちろん、本気で不快な気分になったわけではない。
私の同居人、シャーロック・ホームズにはよくあることであった。
「一応聞くけど、どうしてわかった?」
「払ったつもりだろうが、コートの裾に黒土が付いてるぞ。手のひらと顎の下も擦りむいてる。お前が真昼間から喧嘩してきたとは思えないから、大方、派手にすっ転びでもしたんだろう。『書店に顔を出してくる』つって出ていったお前が通ってきたであろうルートの中で、土がむき出しになってるのはサウス・ストリートの工事現場くらいだ。それはお前が、普段自分で買いもしないサウス・ストリートの店のクッキー缶を抱えてることからも明らかだ。人とぶつかってすっ転んで、相手がお詫びとして渡してきたってところだろ?」
私は肩を竦めた。
「当たりだよ。飛び出してきた子どもをかわそうとしてバランスを崩して、補修工事中の路面で派手に転倒してしまった。真っ青になって駆けつけてきたその子の親が、この焼き菓子屋の主人だったわけだ」
「ははっ、怪我の功名じゃないか」
「こら! ハドソンさんも呼んでからだ!」
缶を勝手に開けてクッキーを摘むホームズを制しながら、私は帽子とコートを脱いだ。
その時、階下で呼び鈴が鳴った。
ハドソン夫人が誰何する間もなく勢いよく扉が開いて、「お邪魔します!」という声とともにパタパタと元気の良い足音が階段を駆け上がってくる。我らが名探偵でなくとも、誰が訪ねてきたのかは明白だった。
「よう、ホームズ!」
予想通り。
飛び込んできたのは、ウィギンズ少年だった。後ろには肩をいからせるハドソン夫人の姿も見える。
ホームズが『ベイカー街非正規隊』と称する情報通の宿なし子たちの中でも、大人顔負けの利発さと機転を備えたウィギンズ少年は隊長的存在だ。その彼が意気揚々と部屋に飛び込んできたのだから、私もホームズも、思わず奇怪な事件の報せを期待してしまう。
「よう。その様子じゃ、とっておきのネタが入ったみたいだな」
「ああ、お待ちかねの貴族殺しだ!」
ホームズの目がぎらりと光った。
ウィギンズ少年は小さい手のひらをいっぱいに広げてホームズの前にずいと突き出した。
ホームズはよれた背広のポケットを探ったが、出てきたのはマッチの箱とくしゃくしゃの紙切れ数枚だけだった。焦れた彼は椅子から立ち上がる手間すら惜しんで、私に向かって叫んだ。
「ジョン!」
「えっ僕が払うのか?」
「後で返す。いいから早く!」
私はしぶしぶ、自分の財布から数枚のコインを取り出した。ウィギンズ少年は「毎度!」と弾んだ声を上げると、つい数時間前に起こったばかりだと言うその『貴族殺し』について語りはじめた。
「殺されたのはイーサン・セリグマン男爵。刃物で喉をかっ切られた上に腹や胸を何か所も刺されてたって話だ。犯人は男爵に相当恨みを持ってたんだろうな。昼飯に男爵を呼びに行った執事が第一発見者だ。現場は血まみれで、男爵夫人は卒倒しちまったってよ」
「シャーロック、こんな小さな子に何てこと調べさせてるの……!」
「真っ昼間に夫人や使用人たちもいる屋敷の中で殺されたってのか? 内部犯か?」
ハドソン夫人の非難の声を無視して、シャーロックが尋ねた。ウィギンズ少年は少しばかり顔をしかめながら答えた。
「……多分。男爵が殺されてるのが見つかってから、使用人が一人、行方知れずになってる」
「何だよ、犯人もう分かってんじゃねぇか」
シャーロックがため息とともに紫煙を天井に向かって吐き出した。
「貴族殺しが起こったら何でもいいから情報持ってこいって言ったのはあんただろ! 新聞社より早く聞きつけてきてやったのに!」
「別に金返せなんて言ってねぇだろ。ご苦労さん」
我らが名探偵はもはや完全に興味をなくした様子で、そばにあった論文の束をめくり始めた。
私は悔しがるウィギンズ少年に、例の缶入りクッキーをすすめた。すると彼はころりと機嫌を直して、クッキーを二、三枚まとめて口の中に放り込む。ハドソン夫人は苦笑しながらも、戸棚からカップをひとつ取り出して彼のために紅茶を注いでくれた。
「ウィギンズくん、こんな男の言うこと聞いてあんまり危ないことに首突っ込んじゃダメよ。それにしても、犯人が逃げたままなんて怖いわね。早くレストレード警部たちに捕まえてもらわないと……」
その時、もう一度階下で呼び鈴が鳴った。
噂をすれば何とやら、やって来たのはレストレード警部だった。応対に出たハドソン夫人も驚いた様子だった。
「ホームズ、お待ちかねの『貴族殺し』だ」
警部はやや皮肉っぽい含みを持たせながらそう切り出した。けれどホームズは視線を論文に落としたままだ。
「知ってる。セリグマン男爵だろ?」
「何故それを?」
「名探偵には凄腕の情報屋がついてるんだぜ!」
ウィギンズ少年が得意満面で口を挟んだ。
私は、彼から聞いた事件の話をレストレード警部に説明した。
「なるほど。実は私がホームズに相談したかったのも、同じ事件なのです。ワトソン先生」
「でも、犯人ははっきりしているのでしょう?」
「ええ。フレドリック・パーシーという青年が、男爵の遺体が発見されて以降行方を眩ませています。奴が犯人であることには疑いの余地はないでしょう」
「それでは何故ここに? この広いロンドンで逃亡犯を探し出すなら、あなた方スコットランド・ヤードの組織力の見せどころでしょう」
「それが、少々面倒なことになっていまして……」
レストレード警部は頬を掻きながら、ホームズの方を横目でちらりと伺った。彼が変わらず煙草をふかしながら論文を読んでいるので、警部は幾分むっとした様子で、私に向かって事件のあらましを説明しはじめた。
「男爵の遺体が発見されたのは今日の午後十二時を少し回ったところでした。昼食の時間になっても男爵が書斎から出てこなかったので、執事が呼びに行ったそうです。書斎は一階にあり、ドアの鍵は掛かっていなかった。また、中庭に面した窓にはカーテンが引かれていましたが、窓自体は開いていました」
「屋敷内からも中庭からも出入りが可能だったということですね」
レストレード警部はひとつ頷いて、続けた。
「遺体は、書斎の机のそばに倒れていました。机の上にあった陶器製のランプが落ちて割れ、本や書類が床に散乱していて、殺される前に犯人と争ったものと思われます」
「犯人……その、行方不明の使用人と?」
「おそらく。つい一週間ほど前に下男として雇われたばかりの青年です。詳しいことは現在調査中ですが、書斎に置いてあった現金や切手類がなくなっています。おそらく、書斎に忍び込んで盗みを働いていたところを男爵に見つかり、揉み合いになった末に殺害に及んだのではないかと……」
「取っ組み合いになった拍子にうっかり殺しちまったんなら、普通はさっさとずらかるだろ。こいつからは、男爵は腹や胸を何か所も刺されてたって聞いたが?」
いつの間にか論文の束から顔を上げて話を聞いていたホームズが口を挟んだ。もっともな指摘に、レストレード警部は「ああ、そこなんだ」と困り果てた表情で頷いた。
「あの現場を見れば、お前でなくてもはっきりと分かるだろう。殺害現場はおそらく書斎ではない。誰かが男爵の遺体を移動させている」
「どういうことだ?」
「……書斎に残された血痕が少なすぎるんだ。致命傷は間違いなく首の傷だが、本棚にも壁紙にも血が飛んでいない。おそらく別の場所で喉を裂かれて殺害されてから、書斎に運ばれたのではないかと推測される」
「嘘だ! 現場は血の海だったんだろ?」
ウィギンズ少年が声を上げると、警部は大きくため息をついた。
「君みたいな子どもが殺人現場の周りを嗅ぎ回っていたら、俺もそう言うだろうな」
彼は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐにその意味を理解して顔を真っ赤にした。
要はただ脅かされただけなのだろう。殺人現場は血みどろで恐ろしいことになっているから、こんなところにいないで早くおうちに帰りなさい、と。
「ちくしょう……あの野郎、馬鹿にしやがって」
「その話は誰から聞いた?」
「知らない。野次馬の中にいた奴だよ。警官たちが話してるのを聞いたって言ってたのに、とんでもない嘘つき野郎だ」
ウィギンズ少年は悔しそうにそう吐き捨てて紅茶を煽った。缶の中のクッキーはいつの間にかほとんどなくなってしまっていたが、私もハドソン夫人も手を伸ばす気にはなれなかった。
ホームズが重ねて問うた。
「そいつは他に何か言ってたか?」
「えーと、セリグマン男爵の屋敷は、もともと使用人がしょっちゅう入れ替わってたらしい。男爵が威張って使用人をいじめるから、恨みを買って殺されたんだろうって……」
「それは事実か、レストレード?」
ホームズに問われて、レストレード警部は考え込むように自分の顎を撫でた。
「いや、確認は取れていない。……だが確かに、使用人の入れ替わりは激しかったんだろうな。パーシーの名前を覚えていなかったメイドもいたくらいだ」
「……………」
ホームズは、何かを考えるようにしばらくの間黙り込んでいた。彼が再び口を開くのを、部屋に集まった全員がどことなく緊張しながら待っていた。
「……話を戻すか。つまりお前は、俺に本当の殺害現場を特定してほしいんだな?」
「ああ、その通りだ。何しろ男爵夫人も第一発見者の執事も、死体が移動されたことを認めないんだ」
「認めない?」
「ああ。通報を受けたヤードが駆けつけるまで誰も遺体に手を触れていないと言い張っている。使用人たちの証言もそれを裏付けるようなものばかり……。十二時少し前に何かが割れるような物音を聞いたが、呼び鈴が鳴らなかったので誰も書斎に近づいていないと。屋敷内の捜査も制限された挙げ句、夫人が『私たちを疑っているのか』と逆上する始末だ」
「パーシーがトンズラする前にわざわざ遺体を書斎へ運んだとは考えにくい。奴が男爵を殺して逃げた後、屋敷に残ったうちの誰かがやったに違いないが、誰もそれを認めないし捜査を邪魔されて特定する材料が見つからない、と。それで打つ手が無くなってここに来たってわけだ」
「面目ない」
レストレード警部はばりばりと頭をかいた。
状況からしてパーシーが犯人である可能性は極めて高いし、相手が貴族である以上、強引に家宅捜索をするわけにもいかないのだろう。
私は自分なりに考えをまとめてから、口を開いた。
「今の話を聞いた限りでは……何だか男爵夫人が怪しいような気がしますね。彼女が男爵を殺してしまい、それを隠蔽するために執事が現場を偽装し、使用人たちも口裏を合わせている、という線はどうでしょう。逆に、夫人以外の誰かが犯人だったなら、庇う理由も見当たりません」
「まぁ……、いやな話ね」
「もし本当に男爵夫人が犯人なら、行方不明のパーシーは? 罪をなすりつけるためにそいつも殺されちゃったとか?」
ウィギンズ少年の物騒な推測に、ハドソン夫人はとうとうホームズを睨みつけた。まだ十代半ばの少年からこんな発想が飛び出すのは間違いなく彼の影響だからだ。
当のホームズは彼女からの圧力などどこ吹く風と言わんばかりの様子で、椅子の上に両膝を立てて座り何やらぶつぶつと呟いている。やがて瞑想状態を脱した彼の瞳には、生き生きとした輝きがあった。
「面白れぇ。やってやるよ」
「できるのか?」
「お前の見立てが正しけりゃ、屋敷の人間のうちの誰かが――下手すりゃ全員が、確実に嘘をついてるってことだろ。突破口は必ずあるさ」
「相手は貴族だぞ。あまり派手にやると……」
「わかってるって。行くぞ、ジョン」
ホームズは椅子から勢いよく立ち上がると、肩にジャケットを引っ掛けて颯爽と出ていってしまった。私とレストレード警部は慌てて彼のあとを追った。
ウィギンズ少年から話を聞いた段階では実に単純な事件に思われたが、裏には複雑な謎が潜んでいそうだ。
これはきっと、彼を主人公とした小説の題材にふさわしい事件になるのではないだろうか。そんな予感を抱きながら、私は表で待っていたスコットランド・ヤードの馬車に乗り込んだ。
*
二 セリグマン男爵邸
私たちが馬車に揺られてセリグマン男爵邸に到着したのは、もう日も傾きかけた時間だった。
街中から比較的近い、当世風の瀟洒な屋敷だった。意匠を凝らした金細工の門を潜り、屋敷前の車止めで馬車を降りると、立っていた警官がびしりと敬礼をした。
私とホームズは、レストレード警部の後に続いて真っ直ぐに犯行現場――もとい、遺体発見現場――である書斎へと通された。
一歩足を踏み込んで、私は思わず顔をしかめた。
ヤードの現場検証がちょうど一段落したところらしく、男爵の遺体は部屋の隅で布を被せられていた。しかし、遺体がどこに横たわっていたのかは絨毯に染み込んだ血のおかげで一目瞭然だ。
元軍医として、私は一般市民よりはるかに多くの遺体を見てきた。けれどそれは病院内や戦場に限った話であり、落ち着いた雰囲気の書斎に広がる血痕というのはあまり気持ちのいいものではない。
「遺体が発見されたのはちょうどその辺り……デスクの影に、うつ伏せの状態で倒れていた」
レストレード警部の説明を聞きながら、ホームズは迷いのない足取りでデスクの方へ向かった。彼の革靴のつま先が、絨毯の血をたっぷり含んだ部分を踏んづけたが気にする様子もない。
床には血痕の他に、陶器の破片が散らばっている。犯人と男爵が揉み合った際に落ちて割れたというランプだろう。破片と残った台座から見ても、私にはとても手が出せないような値打ちものだったことが見て取れた。
ホームズは破片の一つをつまみ上げた。
「ランプが置いてあったのは……ここか」
デスクの上に、よく見ると丸い跡が残っていた。
レストレード警部が頷いた。
「そうだ。それから、デスクの引き出しから紙幣や切手、腕時計……とにかく換金できそうなものが根こそぎがなくなっている」
「パーシーが盗んでいったのですか?」
「おそらく」
ホームズは次に窓辺に歩み寄った。
「遺体が見つかった時、この窓は開いてたんだな」
「ああ。だがカーテンは引かれていた」
シャッと音を立ててカーテンを開けると、外には中庭が広がっていた。四方を屋敷の白い壁に囲まれてはいるが、木々に遮られて見通しは意外と良くない。
こっそりと書斎に侵入するなら、廊下を通ってドアから入るより安全なルートかもしれなかった。
その発見を伝えようと隣を見やると、ホームズは私とは対照的に、窓のすぐ下の地面を注視していた。その様子に、レストレード警部がうんうんと頷く。
「お前も気づいたか、ホームズ」
「ああ。誰か花壇に入ったな」
下を見ると、この窓の真下だけ、花壇の土が踏み荒らされていた。植えられたスイセンの茎も数本折れている。
「足跡の照合は?」
「やってみてはいるが、難しいだろうな。見ての通り、足跡をつけてしまったことに気がついてその場で足踏みしたんだろう。すっかり潰されてしまって誰の靴か分からない。あとは花壇を跨いで、芝生の上を歩いて行ったようだ」
「狡猾な奴ですね……」
私がつぶやくと、ホームズがちらりとこちらを見た。
「そいつは誰のことだ、ジョン?」
「え? 誰って……」
パーシーではないのか? そう答えようとして、私は「あっ」と声を上げた。
「そうか……屋敷から逃げ出したパーシーには足跡を偽装する必要もないのか」
「その通りだ」
「書斎から脱出するときではなく、書斎に入り込む前に付けた足跡では?」
「これだけ花壇を踏み荒らせば、必ず靴に土がつく。だが窓枠にも絨毯にも土の跡はない。したがって、これが書斎に入る前に付けられた跡であることはありえない」
ホームズの理論は明解だった。
「つまりこいつは、男爵とパーシー以外の第三者がこの書斎からこっそり出ていったことを示す動かぬ証拠ってわけだ」
彼は両手をすり合わせながら、うきうきとした様子を隠そうともせず振り返った。
「さて、いよいよ死体を見せてもらおうか。レストレード」
セリグマン男爵は、いかめしい鷲鼻をした、五十歳そこそこの紳士であった。
レストレード警部が遺体に掛けられた布をめくると、真っ先に目に飛び込んできたのは赤黒い血の色だった。警部やウィギンズ少年の話通り、男爵は首筋を裂かれ、胸から腹部にかけては無数の刺し傷があった。有り体に言えば『めった刺し』だ。
「どうだ、ジョン?」
ホームズの声に、私は自分の仕事を思いだした。
「ああ……確かに、首の傷が致命傷だろう。頸動脈を綺麗に切り裂かれている。腹や胸の刺し傷は、傷口の状態からして、おそらくは死後につけられたものだ」
「監察医も同じ見解です」
レストレード警部が頷いた。
「遺体のそばに、包丁が落ちていました。この屋敷の調理場から持ち出されたもので、これが凶器で間違いないかと」
私は凄惨な遺体から顔を上げて、室内を見回した。
「ほんとうに、壁に血痕が一つもない……」
「ああ。誰だか知らねぇが、まったく雑な偽装だ」
ホームズはため息をついた。
これだけすっぱりと首を裂かれれば、必ず血が噴き出す。それなのに、部屋中探してみても壁紙や本棚にはしみ一つ見当たらなかった。
被害者に布を被せれば、とも考えたが、布越しに頸動脈の場所を探り当てて正確に切り裂くなんて芸当は我々医者にも難しそうだ。
「ジョン、これは生前についた傷だな?」
ホームズが男爵の右手を持ち上げながら、私に尋ねた。確かに、手の甲に小さな引っかき傷がある。
「そうだな。血が固まりかけているから、生前に負った傷のはずだ。もっとも、事件に関係があるかどうかは……」
私は最後まで話すことができなかった。
書斎のドアがノックの直後に勢いよく開いて、大柄な初老の男性が飛び込んで来たからだ。
「警部! 勝手なことをされては困ります!」
男は部屋に入るなりそう声を上げて、男爵の遺体を検分する私たちを睨みつけた。
「誰ですか、彼らは? 部外者を屋敷に入れるなんて……」
「失礼しました。彼らは我々ヤードの捜査協力者で、私立探偵をしている者です」
「探偵?」
「ええ、独自の情報網を持っていまして、人探しにかけてはこのロンドンで右に出る者はいないほどです。パーシーの足取りを追うためには彼らの協力が不可欠と考えて、ここに呼んだのです。……こちら、執事のニコルソンさん」
最後の一言は私とホームズに向けたものだった。
なるほど、レストレード警部は『人探し専門の私立探偵』という名目でホームズを呼んだらしかった。話を合わせてくれ、と言わんばかりに警部からウインクが送られたが、ホームズはまるで気がついていない。
「あんたが第一発見者か?」
遺体から目を話すことなく、ホームズがぞんざいな口調で尋ねた。
「男爵の姿を最後に見たのは何時ごろだ?」
「それはもう刑事さん方に散々話しましたよ」
「俺はまだ聞いてない」
「……今朝の十時過ぎです。ここで書き物をなさっていた旦那様にお茶をお出ししました」
「そいつは変だ。ティーセットはどこに消えた?」
ホームズは机の上を指し示した。ティーセットはおろか、書類の一枚も広げられていない。
執事に疑いの目を向けようとする私たちに、レストレード警部が慌てて口を挟んだ。
「その一時間後にメイドが書斎に入ってティーセットを下げている。彼女が、生きている男爵の姿を最後に見た人間だ」
「ほー、じゃあ、犯行時刻がだいぶ絞られるな。そのメイドと話せるか?」
ホームズはまるで自分の部下にでも話しかけるようなぞんざいな口調で執事に問うた。人に仕えることを生業とする彼も、さすがに初対面の男にこうも気安い態度で接せられるのは我慢ならないようだった。
「一体何なんですか、あんたたちは」
「だから探偵だって」
「人探し専門の探偵なら、これ以上ここに用もないでしょう。さっさとパーシーの奴を探しにいったらどうなんです?」
「ああ、もう結構。参考になったぜ」
ホームズは執事の居丈高な態度もどこ吹く風といった様子で応じた。
「じゃあ、『捜索』の糸口を得るために、奥様や使用人の皆さんからお話を聞かせてもらおうか。もちろんあんたにも」
私達は半ば書斎を追い出される形で、隣の客間に追いやられた。
*
三 男爵夫人と執事の証言
ソファに腰かけてしばらくしないうちに、メイドが一人、お茶を持ってきてくれた。
ごく大人しそうな若いお嬢さんで、椅子に膝を立てて座り何事かぶつぶつと呟いているホームズに怯えているようだった。そのおどおどとした態度も、仕えている屋敷の主人が殺されたばかりなのだから無理からぬ話だ。
「どうもありがとう」
私はなるべく丁寧にお礼を言った。
メイドは小さく頭を下げた。そのまま私と目を合わせぬように引き下がろうとして、「あ」と小さく声を上げた。
「あの、お怪我を……」
「あ、大丈夫ですよ。今朝少し転んでしまって」
彼女は私が顎をすりむいているのに気が付いたらしかった。
「血がにじんでいますよ。何か、消毒とか……」
「お気遣いありがとうございます。ですが、心配無用ですよ。私はこれでも医者の端くれでね。処置は済んでいますので、あとは自然治癒あるのみです」
冗談めかして笑いかけると、彼女はどう反応していいのかわからないといった顔で曖昧に頷いた。よく気の付く親切な女性であったが、どうやら少し人見知りをするタイプに見えたので、そこで会話を切り上げるつもりだった。私は。
「なぁ、あんたはパーシーのこと知ってるのか?」
唐突に立ち上がったホームズが、メイドの肩を叩いた。
彼女は飛び上がるほど驚いて、持っていた盆を盾のように掲げた。
「シャーロック!」私は思わず声を上げた。
「何やってるんだ、急に。初対面の女性に馴れ馴れしすぎるぞ!」
「ああ、悪い悪い。で、パーシーはどんな奴だった?」
「はい?」
「同僚なんだから、話したことくらいあるだろ。なぁ、どんな奴だった? あ、もしかして、あんたが最後に書斎に入ったメイドか?」
ホームズは悪びれもせず彼女に質問を浴びせかけた。聞いている事自体は何もおかしくはないが、手順を完璧に間違えている。私は彼のジャケットを掴んで引っ張った。
「いいから、一回座れ!」
「何の騒ぎです?」
部屋のドアがガチャリと開いて、先ほどの執事が入ってきた。
背後にはレストレード警部と、年配の婦人の姿も見える。大きな耳飾りをつけた彼女が、おそらくセリグマン男爵夫人なのだろう。痩せた体に目だけが妙に鋭く、その表情は不安そうにも苛立たしげにも見える。
メイドが慌ててホームズと距離を取って顔を伏せた。
「用が済んだなら下がりなさい、リネット」
執事の言葉に、メイドはこくこくと頷いてさっと部屋を出ていった。
老婦人はやはり、セリグマン男爵夫人であった。
「こちら、私立探偵をしている、我々の協力者です」
レストレード警部は私たちのことをごく簡単に紹介した。幸い、男爵夫人は興味なさそうに首を傾げて見せただけで、私とホームズが名乗っても大した反応を見せなかった。
「あなた方があの恩知らずの人殺しを見つけてくださるんですの?」
「ええ、もちろん。この度はご愁傷様です」
ホームズが黙っているので、私はなるべく愛想よく挨拶をした。
「早速お話を伺いたいのですが」
「ヤードだろうと探偵だろうと構いませんから、とにかく早くあの男を捕まえてくださいな。ああ、かわいそうなヘンリー!」
セリグマン夫人は扇で口元を覆いながら嘆いた。
私はざっと記憶をひっくり返してみたが、たしか殺された男爵はヘンリーなんていう名前ではなかった。
「失礼ですが、ヘンリーさんというのは?」
「息子です。まだ学生ですの。エディンバラの大学に通っておりまして・・・・・・先ほどニコルソンに言って電報を打たせましたわ。今頃列車に飛び乗っている頃でしょうけど、あの子が今どんな気持ちでいるのか想像しただけで、胸が張り裂けそうで……」
「それは、ご愁傷様です……」
私は同じ言葉を繰り返した。
ここに来る前の私は男爵夫人をなんとなく怪しんでいたが、いざ実物に相対してみるとこの小柄な老婦人に犯行は難しい気がしてきた。床に横たわった状態だったから定かではないが男爵の身長は私と変わらないくらいだったように思う。
私はホームズの方をちらりと盗み見た。
彼は夫人をじろじろと値踏みするように観察している。今のところ会話をする気がないのは明らかで、彼女の注意を引く意味でも、私が場を繋ぐ必要があるようだった。
会話の取っ掛かりとして、私は夫人が先ほどから指先を何度もこすり合わせる仕草をしているのに目をとめた。
「失礼ですが、神経痛を患っていらっしゃるのですね」
「え。ええ、よくおわかりになりましたね」
「観察するのが私の仕事ですから」
レストレード警部の機転を無駄にしないためにも、私はあえて医者であることをぼかして答えた。我が親友の台詞を真似て少々格好をつけてみると、夫人の態度が少しばかり和らいだ。
「最近どうもひどくって・・・・・・。今日はお天気もいいからマシな方ですけど」
「いい薬茶がありますので、後でお渡ししましょう。私も古傷が痛むときに飲むのですが、気持ちが落ちついて痛みが和らぎますよ」
「まあ、それはご親切に」
「ところで、奥様がパーシーについてご存じのことを教えていただけないでしょうか。彼の行方を追うために、少しでも手がかりがほしいのです」
「手がかり、と言われましても・・・・・・使用人の差配はすべてニコルソンに任せていますの。長く仕えている者ならまだしも、あんな無教養な労働者階級のこと、知ってどうするんですの?」
なぜそんなことを聞くのか、と言いたげな口ぶりに私は少しばかりの戸惑いを覚えた。
「でも、同じ屋根の下で一緒に暮らしている人間でしょう?」
「まあ、なんてことおっしゃるの。一緒に暮らしているだなんて・・・・・・私どもは彼らに仕事を与えて屋根を貸してやっているだけですよ、ワトソンさん!」
夫人は私を追い払うように扇を振った。私がこの老婦人にとってとんでもなく無礼で非常識な発言をしたかのように。彼女の目には純粋な不快感と侮蔑しか浮かんでいなくて、私は少し途方に暮れた。この国で暮らしていると度々ぶつかる壁だった。
「お気持ちはお察ししますよ、奥様。彼らの英語は汚くて、仕事じゃなければ話をするのもお断りしたいくらいだ」
ホームズが口を開いた。普段のコックニーからは想像もつかないほど美しいクイーンズ・イングリッシュだった。
「この部屋に来る途中、廊下の絨毯に大きなシミがありましたね。スープか何かをこぼしたのでしょうか?」
「ええ、のろまなメイドがおりましてね」
「それはお気の毒に・・・・・・」
ホームズは慇懃に手のひらを擦り合わせた。
「それでは、ニコルソンさんにお尋ねしましょうか。パーシーはどういった経緯でこの屋敷で働くことになったんです?」
執事が、ホームズが先ほどとは打って変わって非常に丁寧な言葉遣いをするのに面食らっているのが感じ取れた。だが女主人の手前、そのような態度はおくびにも出さず答えた。
「リージェントの職業斡旋所からの紹介です」
後ろでレストレード警部が小さく頷くのが見えた。すでに手は回しているのだろう。
「健康面に問題もなく、よその屋敷にしばらく勤めていたので若くとも経験があるという話だったのですが……」
「少々手癖の悪い青年だった、というわけですか」
「ええ、我々は何も聞かされていませんでしたがね!」
執事は苛立たしげに首を振った。
「以前に勤めていたという屋敷はどちらに?」
「さあ、私どももそこまでは……出身はサセックスかどこか、南の方だとは聞いていましたが。それは今、警察の方で調査してくださっているんでしょう?」
「ええ、もちろん」
レストレード警部が請け負った。
であれば、遅かれ早かれパーシーがいざというときに頼りそうな逃亡先――かつての同僚や、地元の家族――が見つかるだろう。
ホームズは少し考えたのち、椅子からすっくと立ち上がった。
「貴重なお話をありがとうございました。それではさっそく仕事に取り掛かりたいと思いますので、これで失礼します」
そう言い残して、彼はさっさと玄関に向かって歩き始めた。
気の毒なレストレード警部は顎が外れそうなほどあんぐりと口を開けていたが、すぐに気を取り直してホームズの後を追った。男爵夫人と執事に会釈して、私も二人の後に続いた。
*
四 ホームズの宿題
「ホームズ! お前、ここまで来ておいて興味が失せたなんて言わないよな!?」
屋敷の前で待っていた辻馬車に乗り込もうとするホームズに、警部は必死の形相で詰め寄った。
「バカ、そんな無責任なことしねぇよ」
「だったら……」
「いいか、レストレード。宿題を出す。一つは、明日の昼までこの屋敷に警官を配置しておくこと。殺人事件が起こってその犯人が逃亡中となりゃ、そう難しい話でもないだろ。もう一つは、あのランプの破片を拾い集めて元通りに繋ぎなおすことだ」
「一つ目はともかく……二つ目は何のために?」
「いいから。それさえやってくれれば後はこっちで何とかしてやるよ。夫人を刺激しすぎるなよ。あ、パーシーの身元も、何かわかったら報告してくれ」
彼はそれだけ言うと馬車の座席の奥に詰めて、私が座るためのスペースを空けた。レストレード警部は戸惑いながら引き下がり、私もまた戸惑いながら辻馬車に乗り込んだ。
御者が馬に鞭をくれて、馬車がゆっくりと走り出す。
辺りはすでに夕闇に包まれ始めていた。屋敷と警部を後ろに見送りながら、私はがたがたと揺れる座席に身を預けた。
「……シャーロック、よかったのか?」
「何が?」
「何がって……こんなにあっさり出てきてしまったことだよ。もっと詳細な調査や聞き込みをしなくてよかったのか? まだ使用人たちにもちっとも話を聞いていないじゃないか」
「見るべきもんはだいたい見たさ」
「でも、レストレード警部からの頼み事も果たせていないじゃないか。男爵が本当に殺された場所を特定するっていう……」
「アタリはつけた。が、あの場じゃ難しそうだったからな」
ホームズはいつも通りの自信ありげな態度だった。
「なぁジョン、煙草吸っていいか?」
「……勝手にしろ」
私はため息をついて、馬車のガラス窓を開けた。
ホームズも私に倣って反対側の窓を開けると、マッチを擦って煙草に火をつけた。彼が愛用しているきつい銘柄だ。窓を開けているからといって煙がすべて外へ流れ出てくれるはずもなく、車内はたちまち紫煙で煙たくなった。しかし勝手にしろと言った手前、今さら吸うのをやめろとは言えない。私は気を逸らせるためにも、この奇妙な事件のことを頭の中で反芻した。
書斎に横たわる男爵の死体。綺麗なままの壁紙に、粉々に砕けたランプ。花壇に残された痕跡。わが子の心配をする男爵夫人の言葉と、軽蔑に満ちた表情……。
「……パーシーは、何のために男爵を殺したのだろう」
「気になるか?」
独り言のつもりで漏らした呟きに、思いがけずホームズが反応した。
「当然気になるさ。パーシーの動機によっては、事件の性質が全く変わってくるだろう。あんな風に遺体をめった刺しにしていたら『盗みを働いていたところを見つかって、揉み合ううちにうっかり殺してしまった』では、もう説明がつかないじゃないか」
「そうだな」
「それに、書斎の壁に血痕が残っていなかった件についてもだ。遺体を移動させたにしろ、何らかの偽装を行ったにしろ、どうしてそのことを男爵夫人と執事に尋ねなかった?」
「あいつらは確実に何か知ってるだろう。でも、だからって直接聞けばいいってもんじゃねぇよ」
「じゃあ誰に聞くんだ?」
しかし、ホームズはまたしても私の質問には答えなかった。
「その薬茶ってのは、すぐに用意できるのか?」
「はぁ?」
脈絡のない質問に思わす声を上げても、彼は窓枠に肘をついたままこちらを見ようともしない。私の質問に答える気はないし考えのすべてを話すつもりはない、という意思表示だろう。
その勝手気ままな態度に私はいくらかの不満を覚えたが、こうなってしまった彼に話しかけるのは得策ではない。私と彼との付き合いはまだそう長くなかったが、『謎』に取り組んでいるときの彼の取り扱いは心得ているつもりだ。
私たちを乗せた馬車が二二一Bに到着しても、ホームズは黙ったままだった。
彼は夕食の後、無言で暖炉の前に座っていた。
微動だにしないホームズの顔が赤々とした炎に照らされて、彫刻のような陰影を描いている。眉間の皺は彫り込まれたように深く、苦悩しているようにも見えたが、瞳はらんらんと輝いている。
私は彼の邪魔をしないように自分の書き物机に向かっていたが、何も手に付かず、結局はただ座っていただけだった。
「乗りかかった船だ。最後までやるさ」
時計の鐘が深夜十二時を打つ頃、ホームズがぽつりと呟いた。
その晩はそれきりだった。
初出:Pixiv 2023.02.19