No.34

消えたひと欠片 後編
 『悪徳貴族を成敗してその謎をホームズに解かせる』話。

五 早朝の来訪者

 翌朝、私はいつもより少し早い時間にベッドから這い出した。
 体が重く、どこかだるい。
 重厚な雰囲気の書斎で物言わぬ姿になっていたセリグマン男爵が、奇怪な夢に形を変えて私の眠りを脅かしたのだ。気怠さを振り払って何とか身支度をし、共用スペースのティーテーブルについた。
 私の同居人、シャーロック・ホームズは、すでにいつものよれたスーツに身を包んで、ハドソン夫人が入れてくれたであろうコーヒーを飲んでいた。事件を抱えているときの彼は、普段のものぐさな彼とは打って変わって活動的になる。しかし、添えられたトーストやゆで卵に手をつける気配はない。砂糖たっぷりのコーヒーが注がれたカップを傾けながら、彼の心は思考の海をさまよっているようだった。

「おはよう、シャーロック」
「おう」

 私が挨拶しても、彼は短くそう答えただけだった。
 昨日の事件について切り出す前に、階下で呼び鈴が鳴った。

「時間通り。勤め人ってのは立派なもんだな」

 やって来たのは、やはりレストレード警部だった。
 私たちが帰ったあとも徹夜で捜査に打ち込んでいたのだろう。スーツもネクタイも昨日と同じものだったし、口の周りには無精ひげが見られた。それでも彼にくたびれたような様子はなく、目は鋭く輝いている。
 テーブルに私たちの分のコーヒーと軽食を並べるハドソン夫人に軽く頭を下げて、警部はきびきびとして口調で切り出した。

「現時点での調査結果を報告する」
「ああ、頼む」
「まずは、事件後のフレドリック・パーシーの足取りだ。昨日の昼十二時頃――男爵が殺された直後に、奴が裏口から出て行ったのを庭師の爺さんが目撃している。一番若くて新入りのパーシーが使い走りに出されることは多かったらしいから、特に気に留めなかったそうだ。大きな持ち物もなく、手ぶらだった。その後サウス・ストリート方面に向かうパーシーらしき人物を見たとの情報もあったが……やや小柄な以外は取り立てて特徴のない男だ。雇われたばかりで近所の人間もまだ顔をろくに覚えていなかったし、聞き込みでの成果は今のところない」

 警部の話を聞きながら、私は少し背筋が寒くなった。昨日、ちょうど私がサウス・ストリートの工事現場で転んでいたとき、心配げにこちらを振り返る通行人たちの中に殺人犯が混ざっていたかもしれなかったわけだ。

「次にパーシーの身元だ。ホーシャム出身の二十歳。職業斡旋所の紹介でセリグマン男爵家の下男として雇われた、という話は昨日執事からも聞いた通りだが……以前の職場に問い合わせてみても、『そんな人間が在籍していた記録はない』という回答だった。今、部下たちに追加の調査をさせてはいるが……」
「名前も経歴もでたらめか」
「おそらく。奴の友人だとか、知り合いだという人間がまだ一人も見つからない。男爵家に住み込みで働き始める前にどこに住んでいたのかもわからない。奴が雇われたのはたった一週間前だというのに、街のどこにも奴の痕跡が残っていない!」

 レストレード警部はお手上げだ、という顔でため息をついた。
 私は言葉を失くした。そんな人間がこのロンドンに存在するのか?
 これだけ大勢の人間の行きかう街で、誰の記憶にも、何の記録にも残らず生活をするのはほぼ不可能と言っていいだろう。私立探偵として、人々よりも一段高い視点から世間を眺める生活を送っているホームズでさえ、私とともに街を歩き、たまには店屋で買い物をし、滞りがちながらもハドソン夫人に家賃を支払っているのだ。
 真っ先に思い浮かべたのは、パーシーが街の裏側とも呼ぶべき場所――例えばホワイトチャペルのような浮浪者が溢れかえる裏通り――からやって来た人間である可能性だ。レストレード警部は私の考えに、ううんと唸った。

「どうでしょう。他の使用人たちの話では、パーシーは読み書きもできて、物静かで勤勉な青年だったようです」
「しかし、彼は実際に書斎に忍び込んで金品を盗んでいたわけでしょう」
「俺なら、真昼間に主人の書斎に忍び込んだりしないがね」

 ホームズが口を挟んだ。

「雇われて一週間じゃ、まだ屋敷の人間たちの行動パターンも掴めてなかったはずだ。仮に見つからなかったとしても、外部から侵入された形跡もなく屋敷内で金目のものが消えたとなりゃ、真っ先に疑われるのはまず間違いなく新入りの使用人。そんな状況で盗みを働くならよほどの馬鹿だが……」
「奴はそう馬鹿ではなかった」とレストレード警部が引き継いだ。「何ともちぐはぐだ。これだけ派手に場当たり的な殺人を犯して逃亡したにも関わらず、いざ追跡しようとすると足跡がふっつりと消えてしまった」

 その言葉に、私の脳裏にひらめくものがあった。

「そうか、やはりパーシーには共犯がいたんだ!」
「共犯?」
「あのニコルソンという執事だよ、シャーロック! 使用人の採用は彼に一任されていたんだから、彼が経歴をでっちあげてパーシーを屋敷に引き入れたのなら説明がつくだろう」
「確かに!」

 レストレード警部が大きく頷いてくれたので、私はますます調子づいた。

「パーシーは執事の協力を得て盗みを働いたが、偶然男爵に現場を抑えられ、彼を殺してしまった。現場の不自然な状況も、屋敷に残った執事が何らかの目的で工作を行ったのなら一応の筋は通る」
「何らかの目的ってなんだよ?」

 ホームズが訊いた。完全に面白がっている口調だ。

「何のためにって、それは……」
「本当に執事がグルなら、パーシーももっと上手いことやっただろ。盗みの最中に男爵と出くわすなんて間抜けな失敗はありえねぇ」
「じゃ、じゃあ、彼らの本当の目的は男爵を殺害することだったんだ!」

 少しばかりむきになってそう叫び返したとき、ホームズの顔から意地の悪いにやにや笑いが消えた。その反応は私にとっても意外であった。苦し紛れに口から飛び出した説だったが、めった刺しにされた遺体の状況を考えるとありえない話ではないだろう。
 しかしホームズはそれについて深く掘り下げようとはせず、レストレード警部の方を向いた。

「で、俺からの『宿題』はどうだった?」
「あ、ああ……割れたランプの復元だな。こっちはすぐに片付いたよ。かさの部分に絵柄が入っていたからな」

 警部は懐から手帳を取り出した。

「部屋中いくら探しても、破片の一つが見つからなかった。ここの黒い部分だ」

 差し出された手帳には、簡単なランプのスケッチが描かれていた。かさの一部分が黒く塗りつぶされている。一つの破片とするならば、私の人差し指くらいの大きさだろうか。片側が、矢じりのように鋭くとがった形をしている。

「まさか、男爵の首筋を裂いた凶器は……」

 私の言葉に、ホームズは目だけで頷いた。
 その確信をもった顔に、私は混乱した。
 しかしその疑問を頭の中で整理するより先に、またしても呼び鈴が鳴った。

「こっちも時間通りだ。ハドソンさん、悪いが通してくれ」

 階下に向かってホームズが大声を出すと、やがて階段を上る足音が聞こえてきた。





六 二人目の客人

 やって来たのは、見覚えのある若い女性だった。
 昨日ホームズが不躾にも肩に触れた、あのメイドだ。確か名前は、リネットといっただろうか。
 すっきりと通った鼻筋と榛色の瞳から、ぱっと見たときは聡明そうな印象を受けるが、背を丸めてどこか自信なさそうに周囲をうかがう仕草が何とももったいない。おまけに私と同じく昨夜はあまりよく眠れなかったと見えて、昨日に比べるといっそう顔色が暗い。慌てて身支度をしてきたのかまとめ髪からは細い毛束がぴょこぴょこと飛び出していた。
 ハドソン夫人に案内されて部屋に通された彼女は、室内にレストレード警部の姿を見つけてぎょっと目を見開いた。

「ど、どうして刑事さんがいらっしゃるんです、ワトソン先生!」
「え?」

 彼女に睨みつけられて、私は心底驚いた。

「先生が私を呼び出したのでしょう、奥様のリウマチに効く薬茶を用意したからすぐに取りに来るようにって、電報で……」
「ま、待ってください、一体何の話を……」
「まぁまぁ、座ってコーヒーでもどうぞ。リネット嬢」

 部屋のドアをばたんと閉めながら、ホームズが割り込んだ。その芝居がかった口調と椅子を勧めるなめらかな手付きに、私はすべてを理解した。

「シャーロック! 君、まさか僕の名前を騙って彼女を呼び出したのか?」
「彼女は重要参考人だからな」

 ホームズは少しも悪びれずに肩を竦めてみせた。
『重要参考人』という言葉にレストレード警部は片眉を上げ、リネット嬢と呼ばれた彼女は真っ青になった。ハドソン夫人が駆け寄って、彼女の肩を抱く。

「ちょっと、シャーロック。どういうつもりなの?」
「別に若いお嬢さんを男三人で取り囲んで尋問しようだなんて俺だって考えてねぇよ。ついでだしハドソンさんも同席してくれ」

 ホームズは暖炉の前の指定席へ腰掛けた。
 ハドソン夫人は彼に訝しげな顔を向けながらも、リネット嬢とともに長椅子へ腰を下ろした。私とレストレード警部も、彼女らにつづいてそれぞれの場所に腰を落ち着ける。
 全員が話を聞ける態勢に入ったことを確認してから、ホームズは口を開いた。

「単刀直入に聞くぞ。昨日、書斎でランプを割ったのはあんただな」
「は?」

 声を出したのは私だった。
 何を言っているのだ? というのが私の率直な感想だった。だが、リネット嬢の方を振り返ると、彼女は今にも泣きだしそうな顔で肩を震わせていた。

「ど、どうして……」
「花壇に残した足跡を消したのは利口だったな。その後、ヤードが駆けつける前に靴についた土も払っておいたんだろう。だが足元ばかりに注意が向いて、肩を汚していたのには気がつかなかったようだ」
「肩?」
「昨日、あんたのブラウスの肩のあたりには白い砂のようなものが付着していた。中庭の白塗りの壁にもたれたんだろう?」

 私は思わず膝を叩いていた。
 昨日彼が馴れ馴れしくリネット嬢の肩に触れたのは、彼女の白いブラウスに付いた砂の存在を確かめるためだったのだ。普段の彼はむやみに女性の身体に触れたりしない人間ではあったが、それは彼が紳士であるというよりは女性というものに全く興味関心がないからだ。そんな彼のあの突飛な行動に意味がないはずがなかった。
 リネット嬢はしばらくの間、椅子の上で背中を丸めて小さくなっていたが、やがて観念したように頷いた。

「はい……。おっしゃる通り、ランプを割ったのは私です。窓を通って書斎から抜け出したのも」

 レストレード警部が、私の隣で小さく息をのんだのがわかった。たった今、ランプの破片がセリグマン男爵の命を奪った本当の凶器である可能性が浮上したからだ。
 彼女の絶望ぶりはほとんど死刑判決を言い渡された被告人のようだった。膝の上で握りしめられた彼女の手の上にぱたぱたと涙の粒が落ちたのを見て、ハドソン夫人が彼女の背中をさすった。その優しい手つきに励まされて、リネット嬢は何とか勇気を振り絞って続きを話す。

「でも、私、旦那様を殺してなんていません。それは本当です……」
「ああ。あんたにできる犯行とは思えねぇ。第一、男爵が殺されたのはあの書斎じゃない。そうだろ?」
「…………」

 言おうか、言うまいか。
 リネット嬢の目に動揺が浮かんだ。彼女は明らかに何かを知っていて、迷っている。不安になった時の癖なのだろう、右手で自分の左手首をしきりにさすっていた。
 口を開きかけたレストレード警部を、ホームズが目で制した。ここで詰め方を誤れば、彼女はもう自発的には口を開いてくれなくなる。そんな緊張が、私たちの間を走った。
 ホームズがどのように出るのか固唾をのんで見守っていた私たちだったが、口を開いたのはハドソン夫人だった。彼女はリネット嬢の背中を優しく撫でながら、言った。

「リネットさん、あなたが犯人でないのなら、この男も刑事さんも悪いようにはしないわよ。ゆっくりでいいから、話してみてちょうだい」

 他者に寄り添う、という点においてやはり女性というのは優秀だ。事件とも警察とも何の関係もないハドソン夫人に背中を押されて、リネット嬢の肩からわずかに力が抜けた。

「さぁ、もう泣かないで。顔を拭いて、しゃんとしなきゃ」

 ハドソン夫人は明るく笑って、ポケットから取り出したハンカチでリネット嬢の濡れた頬を拭った。母親が幼い娘にするような、ほほえましい光景だった。
 そうして涙が落ち着いてから、彼女は次のように語った。

「……あの美しい陶器のランプを割ってしまったのは私です。昨日、ティーセットを下げに書斎に伺ったとき、旦那様に書斎の掃除を言いつけられたのです。旦那様はそのまま書斎を出て行ってしまったので、私一人で掃除をしていました。でも私、昔から、粗相をしてはいけないと思えば思うほど、緊張して失敗してしまうんです。昨日も、棚の上の埃を払って、後ろに一歩下がった拍子にデスクにぶつかってしまって……。しまったと思った次の瞬間には、ランプは大きな音を立てて床の上で砕け散りました。
 やってしまったと気づいたときには、手の震えが止まりませんでした。決してわざとやったわけではありません。それでも取り返しのつかない失敗に、目の前が真っ暗になって、しばらくその場から動けませんでした。
 その時、背後でドアが開く音がして、私は小さく悲鳴を上げました。部屋に入ってきたのは、旦那様ではなくパーシーでした。たまたま廊下を通りかかって、物音を聞きつけたのでしょう。割れたランプに気づいて、彼の丸い目が大きく見開かれました。彼は後ろ手で素早くドアを閉めると、座り込んで呆然とする私に音もなく駆け寄りました。

『大丈夫。行ってください』

 彼はそう言いました。勇気づけるように、私の背中に手を添えて。

『そこの窓から庭へ出て。誰にも見つからないように、裏口から自分の部屋に戻るんです』

 当然私はためらいました。逃げたとしても、私が書斎の掃除をしていたことを旦那様は知っているのですから誤魔化しようがありません。よりいっそう旦那様の怒りを買うことになるでしょう。それでも、パーシーは私のその考えもわかっている、と言いたげに微笑みました。

『大丈夫です。……誰か来る、急いで』

 大丈夫、と彼は繰り返しました。戸惑う私の手を引いて立ち上がらせると、開いていた窓から庭へと半ば無理やり押し出したのです。そして私に続いて庭へ出るものとばかり思っていた彼は『行って』ともう一度囁いてから、カーテンを閉めてしまいました。
 え、と私が間の抜けた声を出すのとほとんど同時に、部屋の中でドアが開いて怒号が響きました。

『貴様、何をしている!』

 旦那様の声です。
 私はカーテンが閉まっていることも忘れてその場にしゃがみこみ、窓枠の下に身を隠しました。おそらくその時、白塗りの壁に肩を擦りつけてしまったのでしょう。ですがそんなことにも気づかないほど、私は震えあがっていました。心臓が破れそうなほど激しく脈打って、部屋の中の旦那様に聞こえるのではないかと思ったくらい。

『申し訳ありません。旦那さ、』

 パーシーの言葉が中途半端に途切れ、鈍い音がカーテン越しでもしっかりと聞こえました。旦那様が彼を殴りつけたのです。私の代わりに。すぐに部屋の中に戻って、旦那様に説明しなければならないと思いました。ランプを落として壊したのは彼ではありません、悪いのは私です、と。それなのに、身体が動きませんでした。喉が引きつって声も上げられなくて……。
 きっと、屋敷に来て間もない彼は、まだ旦那様の恐ろしさを知らなかったのでしょう。今すぐ名乗り出なければ、あの子が殺されてしまう。でも名乗り出れば私が殺されるかもしれないと思うと……。立て、立て、と頭でいくら命令しても、私は地面に膝をついたまま立ち上がれませんでした。乱暴にドアが閉まる音がして、彼が部屋の外に引きずられていくのがわかりました。私はしばらくその場から動けずにいたのですが、何とか気を持ち直して、彼に言われた通りに中庭から自室に戻ったんです。花壇に付けてしまった足跡も消して。それがまさか、こんなことになってしまうなんて……」

 しゃべり終えたリネット嬢はまたしくしくと泣き始めた。





七 男爵家の秘密

「ちょ……ちょっとまって、リネットさん」

 ようやく口を開いたのは、ハドソン夫人だった。

「『殺されるかもしれない』ってどういうこと? 貴族のお屋敷のランプなんてそりゃあ、私たち庶民には想像もつかないくらい高価なものでしょうけど」
「……リネットさん、その左の袖、めくって見せてみてくれないか」

 ホームズが低い声でそう口にすると、彼女はびくりと肩を震わせた。動こうとしない彼女に焦れたハドソン夫人が、半ば無理やり手を引き剥がして、彼女のブラウスの袖をめくった。

「これは……!」

 思わずそう漏らしたのは、レストレード警部だった。彼はすぐにしまった、という顔で口をつぐんだ。
 リネット嬢の左の手首には、痛々しい火傷の跡があった。
 ハドソン夫人はすぐに袖をもとの形に戻して、俯くリネット嬢を抱きしめた。

「男爵か?」

 ホームズの問いに、彼女は小さく頷いた。

「前に、旦那様にお出しする紅茶をこぼしてしまって……」
「なんてことを……」

 そんなささいな失敗への罰として、腕に熱湯をかけられたというのか。ハドソン夫人が怒りに顔をゆがめたが、リネット嬢は気づかない。

「あの、パーシーは悪くないんです。そもそも私が旦那様のランプを割ってしまったのが原因で……彼は私を庇ってくれただけで。きっと、殺されそうになって、抵抗しようとして旦那様を……」
「ああ、そんなところだろうな」

 ホームズは煙草に火をつけながら、苦虫を嚙みつぶした顔をした。

「これでだいたいわかったろ。男爵を殺したのはパーシーだ。だが奴は男爵の首を――おそらくはあのランプの欠片で――かっ切って殺害しただけ。死体はおそらく、男爵夫人の指示で執事が移動させたんだろ。使用人を虐待した挙句、返り討ちにあって殺されたとなりゃ醜聞もいいところだからな」
「じゃあ、胸や腹の刺し傷は……」
「書斎を殺害現場に見せかけるための偽装だろう。死体は運べても、床に流れた血までは動かせないからな。現場を血で汚しておく必要があると考えて、調理場から持ってきたナイフで死体を刺した。だが男爵の心臓はとっくに止まってるんだから出血もしない。刺しちまってからそのことに気づいて、苦肉の策として死体をうつ伏せにしたってところだろう。傷口を下に向けさえすれば血も多少は流れ出るからな。まったく、素人丸出しの偽装だよ。
 あ、そうそう。廊下にこぼれてたスープも、絨毯にうっかり落としちまった血痕を誤魔化すためにわざとこぼしたんだろうな。それからパーシーが盗みを働こうとしていたと見せかけるために、書斎の引き出しから金目のものを抜き取った、と」

 ホームズは淡々と推理を述べたが、私はなんだか気分が悪くなってきた。医者のくせに情けないと思われるかもしれないが、命を救うための神聖な医療行為とは対極の、想像するのもおぞましい所業だ。ハドソン夫人も、ついさっき朝食をとったことを後悔しているようだった。
 レストレード警部は眉間のしわを抑えながら、苦々しげに口を開いた。

「リネットさん。一応お尋ねしますが……その、今ホームズが言ったことは事実なのでしょうか?」
「え、いえ……わかりません。昨日の昼食の後は、私たち使用人は全員部屋に戻されて、警察の方が来られるまで一歩も外に出ないように指示されていましたので……」

 つまり、それらの工作を行う時間は十分あったわけだ。

「まったく、従順すぎるってもの考えもんだな」

 ホームズは背中を反らし、天井に向かって煙を吐き出した。
 当のリネット嬢はそれが自分のことを指しているとわかっているのかいないのか、どこかぼんやりした顔で我々の顔を見回している。

「何故……何故、昨日その話をしなかったのですか!」

 とうとう、レストレード警部が声を上げた。
 が、リネット嬢はおどおどと肩を縮こまらせるだけだ。

「だ、だって……余計なことを言ったら奥様に叱られてしまう……」
「人が殺されているんですよ!?」
「言っても無駄だ、レストレード」

 ホームズが遮った。

「虐待に関しては男爵夫人も、それからあの執事もグルだったんだろ。こいつも他の使用人たちも日常的に虐待されて、反抗しようって考えがそもそも浮かばないところまで洗脳されちまってるんだろうよ。それこそ、男爵自身が死のうとな」

 私たちは言葉に詰まった。
 そのような非道な行いを知らん顔できるところまで、彼女も他の使用人たちも追い込まれていた。自分たちの身を守ることで頭がいっぱいだったのだ。彼女らの置かれた状況がどれほどひどいものだったのか、それは当事者である彼女らにしか分からないだろう。

「リネットさん。私は以前、軍医をしていたんですがね」

 彼女の胸に届くように、言葉を選びながら私は切り出した。

「戦場はそれはひどいところです。銃弾一つ、砲弾一つで人がばたばたと死んでいく。同時に、人を殺す役目を課せられる。普通の神経ではまず耐えられない過酷な環境です。でも人間の心とは不思議なもので、戦場に身を置き続けるうちに、いつしか慣れてしまうんです」

 室内はしんと静まり返っている。表の通りをゆく馬車の車輪の音だけが、がたがたとやけに響いて聞こえた。

「今のあなたも、そうなのではありませんか。自分の心を守るために、自分の良心を曲げてしまってはいませんか。あなたが本当はとても親切な方だということを、私は知っています。だって、昨日あなたは、私の怪我に気がついて心配してくれたではありませんか」
「…………」
「……関係ねぇよ、ジョン」

 ホームズがどこか苛立たしげに首を振った。

「そもそもこいつが自分から真実を話すメリットなんか皆無だろ。このままパーシーが男爵殺しの罪でお尋ね者になってくれれば、ランプを割っちまった自分のドジについても奴になすりつけられる。現にレストレード達も、犯人と被害者が揉みあった拍子に割れた程度にしか考えてなかったんだからな。殺人罪に比べりゃ大した罪でもねぇから、パーシーも別に気にしやしない。厄介な雇い主が死んで、自分の失敗はうやむやのままお咎めなし。一石二鳥じゃねぇか」
「シャーロック!」

 私は思わず声を上げた。
 リネット嬢は目を丸く見開いて固まっている。私もレストレード警部もハドソン夫人も、また彼女の心にいらぬ傷を増やしてしまったのではないかと冷や冷やした。しかしどうやら彼女には、優しい言葉よりもホームズのきつい物言いの方が効いたらしい。
 彼女は胸に手を当てて考え込んだのち、決然と顔を上げた。

「そう……そうですね。ホームズさんのおっしゃる通り、卑怯な振る舞いでした」
「別に卑怯だなんて一言も言ってねぇだろ」
「シャーロック……」
「だが、もうだんまりを決め込まないって言うんなら、本当のところを教えてもらおうか」
「ええ、お話します。私の証言で正当防衛だったことが証明できれば、パーシーの罪も軽くなりますよね?」

 先ほどまでとは打って変わって、リネット嬢は積極的な姿勢を見せた。目には溌溂とした光が宿り、しゃべり方にも淀みがない。おそらくは、ようやく本来の彼女が顔を出したのだろう。
 しかし、パーシーの減刑、という点は法律家ではない私にもいささか難しいことのように思われた。雇われたばかりだったとはいえ自分の主人を、それも貴族を殺害したのだ。どれだけうまく転んだとしても絞首刑が終身刑になるかどうか、といったところではないだろうか。こればかりはレストレード警部も難しげな顔で首をひねっている。
 ホームズは短くなってきた煙草を灰皿に押し付けた。

「ま、あんたを庇った上での正当防衛となれば、多少の情状酌量はあるかもな。それじゃあ、さっきの話について詳しく聞かせてもらおうか」
「はい、何でも」
「あんた確か『ドアが閉まる音がして、彼が部屋の外に引きずられていった』って言ってたな。具体的に、パーシーがどこに連れていかれて、どこで男爵を殺したのか分かるか?」

 その質問に、リネット嬢はやや勢いを失くしてまたブラウスの腕から左の手首をさすり始めた。

「……おそらく、地下室ではないかと」
「地下室?」
「はい。私たち使用人が罰を受けるのは大抵がそこです。どれだけ悲鳴を上げても外へは聞こえないから……」

 ホームズは素早くレストレード警部へ視線をやった。

「地下室には、まだ立ち入らせてもらっていない。地下にはワインセラーがあるだけで事件とは関係ないし、温度管理のためにもむやみに人を入れたくないと言って……」
「それは嘘です。旦那様も奥様もお酒を召し上がらないから、ワインセラーはもう何年も使っていません」
「なら、その地下室とやらにまだ男爵殺害の痕跡が残っていると見ていいだろうな。でなきゃ、立ち入りを拒む理由もない」

 私はマントルピースの上の置時計で現在時刻を確認した。すでに九時を回っているから、事件発生から二十時間以上が経過しているはずだ。

「今こうしている間にも、痕跡を隠滅されてしまっているのでは?」
「それは大丈夫です」とレストレード警部が請け負った。「ホームズの指示通り、男爵邸には警官を数名残してきています。パーシーが確保されるまでの警護という名目でね。特に男爵夫人と執事には必ず誰か一人が張り付く手筈になっているので、彼らも下手な動きはできないでしょう」
「リネットさん、その地下室は水道が通ってるか?」
「え? いいえ……」
「好都合だ。地下室に大量に残されているであろう血痕を処理するためには、バケツとモップを抱えて何往復かする必要がある。ヤードを地下室に近づけさせないようにやり過ごして、あとでゆっくり片づければいいとタカをくくっていたんだろう」

 ホームズの言葉に、ハドソン夫人がちいさく呻いた。おそらくは血に汚れた床をせっせとモップで拭う様子を想像してしまったのだろう。

「それで、どうやって男爵夫人たちを丸め込んで地下室に踏み込む? 部下たちをいつまでも男爵邸に置いておくわけにはいかないぞ」
「方法がないことはない」

 即答して、ホームズは引き出しの中をガサゴソと漁った。しばらくしてようやく、無造作に詰め込まれたガラクタの奥から筒状の何かを引っ張り出した。手のひらに収まるくらいの握りやすそうな長さで、片側の先端からは短い紐が飛び出している――。
 私と二人の女性はそれが何かとっさに理解できず固まっていたが、レストレード警部はさすがの機敏さで飛び上がるように椅子から立ち上がった。

「お前! 男爵邸を爆破する気か!」
「ちげぇよ、発煙筒だ!」

 ホームズが迷惑千万、とでも言いたげに顔をしかめた。
 同居人の私としては、ダイナマイトにしろ発煙筒にしろ、そんなふうに適当な保管をしないでほしいものなのだが。この事件が片付いたら、今一度ホームズの荷物を検めよう。私とハドソン夫人は無言のうちに頷きあった。

「こいつでニセの火事騒ぎを起こせば、男爵夫人や執事を強制的に屋敷から引き剥がすことができる。ただ、今回はお前らヤードの目の前でやらなきゃなんねぇからな。この方法で地下室に踏み込めたとしても後がめんどくせぇ。別の方法を考えなきゃならねぇが……」

 発煙筒を手の中でもてあそびながら、ホームズは部屋中をうろうろと歩き回った。
 真の犯行現場が地下室であることは確定した。地下室に残された犯行の痕跡をおさえることができれば、男爵夫人と執事が現場を偽装し虚偽の証言をしていたことを証明できる。
 あとは、いかにして二人を言いくるめて地下室へ踏み込むかだ。
 ホームズが言ったような強引な手法も取れなくはないが……。
 私たちがうんうんと頭をひねっていると、窓辺で通りを見下ろしていたホームズが鋭く声を上げた。

「ヤードの馬車だ。レストレード!」

 警部が素早く反応して、階段の方へ駆け出した。しかし彼が玄関から飛び出すより早く、窓から顔をのぞかせたホームズに気づいた警官が声を張り上げた。

「レストレード警部はいらっしゃいますか! 至急、お戻りください!」
「何があった!」

 ホームズが叫び返した。
 ベイカー街の住民たちが何事かと軒先から顔を出し、通行人たちは足を止めて振り返る。やって来た警官は、さすがにその場で事態を大声で叫ぶほど無分別ではなかった。
 ホームズと私も、大急ぎでレストレード警部に続いて階段を駆け下りた。
 セリグマン男爵邸が、パーシーによって襲撃されたのだった。





八 事件の終幕

 私たちはヤードの馬車にぎゅうぎゅう詰めになってセリグマン男爵邸に到着した。レストレード警部とホームズと私、そしてリネット嬢まで乗り込んできたからだ。
 危険だからと警部は待機しているように言ったのだが、彼女は承知しなかった。パーシーがその場で逮捕されようものなら警官の足にしがみついてでも止めてやろうという決意がその顔には見え隠れしていたが、結局は警部も押し負けて彼女の同乗を許した。
 馬車が屋敷の前に着くと、待機していた警官が駆け寄ってきた。

「警部!」
「状況は?」
「つい数十分前です。まだ若い男が刃物を持って押し入ってきました。屋敷の前を通りがかった馬車の屋根の上に潜んでいたようで、塀に直接飛び移って来たんです」
「その馬車は?」
「そのまま走り去りました。侵入してきた男に気を取られて、とても追う余裕がなかったので。黒塗りで紋章もなにもない二頭立てだったことだけ……。ですが、侵入者については使用人数名が顔を見ています。パーシーで間違いありません」

 我々の後ろでリネット嬢が息をのんだのが分かった。

「そいつは今どこにいる?」
「それが……」

 警官は急に勢いをなくした。
 同時に、玄関扉が開かれた。広々としたホールの隅に、不安そうな顔をした使用人たちが肩を寄せ合っている。壁際には来客が腰を掛けるためのカウチが備えられていたのだが、そこには執事のニコルソンがうめき声を上げながら横たわっていた。

「奴は屋敷の中を逃げ回って、数人がかりで追ったのですが、恐ろしくすばしっこい奴で、その……」
「まさかとり逃がしたのか!?」
「いえ、あの、実はついさっき、奴はニコルソンさんを突き飛ばして階段から落としたのです。それに我々が気を取られた一瞬のうちに、見失ってしまって……」
「何をやっている!」
「も、もうしわけありません」

 警官は腰を直角に曲げて頭を下げた。

「ですが、正門も裏口も、サンソンたちが固めています。先ほどは馬車に乗っていたから塀を越えられたものの、塀の内側から脱出するにはロープでもないと普通の人間には難しいでしょう」

 面目がつぶれるのを何とか回避しようとしているのか、警官はそこだけは自信ありげに頷いた。
 しかし彼は、いったい何のために舞い戻ってきたのだ?
 例えば証拠を隠滅するといった目的で、犯人が殺人現場に後からこっそりと戻ってくるケースは少なくない。ホームズが見事その現場を抑えて解決した事件を私はいくつか知っている。けれど、この事件に関してはパーシーが犯人であることは誰の目にも明らかだ。このまま逃げていればいいところを、リスクを冒して屋敷に舞い戻る目的とは――。

「……つまり、まだ奴が屋敷から逃げ出したところを誰も見てないんだな?」

 ホームズが大きなため息とともに、そう尋ねた。
 警官たちがお互いに顔を見合わせる。誰からも返事はなかった。
 ホームズはもう一度大きく息を吐くと、意を決したように顎を引いて胸を張った。次の瞬間には、別人のように朗々とした声が、ホール中に響き渡った。

「容疑者フレドリック・パーシーはまだ屋敷内に潜伏してる! 屋敷中を"くまなく"捜索しろ!」

 ホームズはそう叫ぶと、稲妻のような速さで駆け出した。
 一呼吸遅れて、レストレード警部がはっと息をのんで彼の意図を汲み取った。部下たちに短く鋭い指示が飛ばされる。すぐに警官たちが各々行動を開始した。
 ホームズがまっすぐに向かうのは、当然、例の地下室だ。
 私はすぐさま彼の後を追って駆け出しそうになった。もちろん、普段であればそうしていただろう。しかし今回は、私には私にしかできない役割があった。

「動いてはいけません!」

 私はホールに引き返し、カウチから身を起こそうとしていた執事を座面へ押し戻した。そして、患者を安心させるためによく使う、めいっぱいの誠意と温かみを込めた表情と声でこう告げた。

「どうぞご安心ください。ここはホームズと優秀な刑事さんたちにお任せしましょう」
「し、しかし……」
「ご心配でしょうが、ここは堪えてください。あなたに執事としての責任があるように、私にも医師としての責任があります。階段から転げ落ちたのですから安静にしなければなりません。頭を打った直後は何ともなくても、後から状態が急変した症例はいくつもあります。脳へのダメージはとても恐ろしいものなのですよ」

 もちろん、この言葉はでたらめではない。私は思いつく限りの症例を次から次へと並べ立てた。
 見たところ彼は意識もはっきりしているようだし、そう深刻なことにはならないだろう。それでも、地下室へ踏み込む絶好の大義名分を得たホームズたちの邪魔をさせるわけにはいかなかった。
 執事がカウチに釘付けにされたのを見て、男爵夫人自らが腰を上げようとした。だが、そこに頼もしい増援が駆けつけた。リネット嬢だ。

「奥様、ワトソン先生は軍医をなさっていたこともあるんですって。もしパーシーが戻ってきても、先生の側にいれば安心ですよ」

 彼女は立ち上がろうとする男爵夫人の肩を、安心させるようにやんわりと、しかし有無を言わせぬ強さで押さえつけた。その瞳に恐れの色はなかったし、指先はちっとも震えていなかった。
 そう言われてしまえば、さしもの男爵夫人も、このメイドを振り払う口実を咄嗟に思いつかないようだった。事実、ここを一人で離れれば物陰に潜んだパーシーに不意打ちをくらわされる可能性は決して低くない。
 他のメイドたちもおろおろと顔を見合わせながらも、羊飼いの周りに寄り集まる羊のように、私たちのそばを離れようとしなかった。
 間もなく、廊下の向こうから警官たちのざわめきが聞こえてきた。
 おそらく、あちらに地下へと続く階段があるのだろう。ホームズの後を追った警官が大慌てでホールへ引き返してきて、そのまま玄関から飛び出していった。おそらく、スコットランド・ヤード本庁へ応援を呼びに行ったのだろう。
 カウチに身を沈めた執事は痛みによるものではないうめき声を上げ、男爵夫人はへなへなとその場に崩折れて顔を覆った。

 この後の顛末は連日新聞で報じられた通りである。
 読者諸賢もよくご存知のことだろうから、ここでくどくどと説明はしない。
 まっすぐに地下室に踏み込んだホームズは、そこにおびただしい量の血痕と、血に汚れたランプの破片を発見した。リネット嬢の証言の通り、男爵が殺害されたのは書斎ではなく、彼が日々使用人たちを痛めつけていた地下室だったのである。
 男爵夫人は遺体を偽装し虚偽の証言をしたかどで、ヤードへ連行された。執事はいったん病院に送られたが、すぐに夫人の従犯として身柄を移された。
 しかし結局、パーシー青年は見つからなかった。彼は煙のように屋敷から姿を消してしまった。彼が危険を冒して屋敷に舞い戻った真の目的は未だにわからない。ホームズがそれについて何も語ろうとしないのだから、私にもレストレード警部もお手上げだった。
 スコットランド・ヤードによる捜索はまだ続いているが、私がこの原稿をしたためている今日に至るまで、彼の行方は杳として知れない。
 そのことを憂うべきか喜ぶべきか、私はいまだに判断しかねている。


***


 ストランド・マガジンの最新号をぱたりと閉じたアルバートは、ふぅと息をついて紅茶のカップに手を伸ばした。

「結末を知っていても、なかなか面白いものだね」
「ええ。売り切れ続出ですぐさま増刷がかかったらしいですよ」

 ウィリアムが微笑みながら頷いた。この一冊も、彼が懇意にしている書店に頼んで取り置いてもらったものだった。
 アルバートがこうした大衆向けの軽い読み物を手にするのは普段あまり無いことであったが、気づけば夢中になって物語の世界に没頭してしまっていた。居間に集まっていた屋敷の面々をそっちのけで読みふけっていたから、少しバツが悪い。と言っても、他のメンバーはアルバートが貿易会社の仕事に出ている間に一通り回し読みした後らしかった。
 ウィリアムは雑誌の表紙をどこか嬉しそうに撫でている。

「コナン・ドイル氏の小説が掲載される号はいつも飛ぶように売れるとはいえ、今回は『緋色の研究』事件に次ぐ売れ行きだそうです」
「そりゃあそうだ。何てったって、裁判の真っ最中だからな」

 モランは新聞の束をばさばさと鳴らした。
 セリグマン男爵夫人の裁判に関する記事がその一面を飾っている。
 使用人が貴族を殺害しただけでも十分センセーショナルな事件だが、その原因が使用人への度重なる虐待であったとなれば否が応にも市民たちの関心が集まる。さらには虐待に加担していた夫人が、その醜聞を隠すために夫の死体をめった刺しにさせた上に警察に虚偽の証言をし、それをホームズに暴かれたとなっては、もうお祭り騒ぎだった。
 憶測、批判、擁護、とにかく様々な立場から様々な意見が飛び交った。

「ほんっと、どこに行ってもこの話で持ちきりだよ。このタイミングで作品を出すなんて、ドイル先生も思い切ったよね」
「議論が持ち上がるのはいいことだよ、ボンド。誰か一人を叩く流れになるのいただけないけどね」
「ホームズは、事件の背後に我々の存在があったことに気づいているのでしょうか?」

 ウィリアムのティーカップに目を配りながら、ルイスが呟いた。
「きっとね」とウィリアム。
 長椅子に行儀悪く足を組んで腰かけたモランが、得意そうにふんと鼻を鳴らした。

「ホワイトチャペルの時と同じだ。いくら天下の名探偵様だろうと、いもしない人間をとっ捕まえるのは無理な相談だろうよ。なぁ、フレドリック・パーシー?」
「……勝手をして、すみませんでした」

 モランからのからかいの言葉を受けて、部屋の隅に立っていたフレッドが神妙な面持ちで頭を下げた。
 小説の最後にワトソンが記していた通り、男爵を殺害し逃亡した『フレドリック・パーシー』はいまだ見つかっていない。それもそのはず、彼の正体は変装したフレッドだったからだ。左膝に傷を負った元使用人からの依頼を受け、ウィリアムの命でセリグマン男爵家に潜入していたのだ。
 当初の予定ではもう少し時間をかけて調査しその罪状を見極めるはずであったが、メイドの一人が高価なランプを割るというとんでもない失敗をやらかしたため、優しい性分の彼は庇わずにはいられなかった。
 多少の体罰であれば甘んじて受け入れるつもりだった。虐待があったという事実に裏を取ることもできる。しかし地下室に引きずり込まれて首を絞められそうになった時点で、手を振りほどき隠し持っていたランプの破片で反撃してしまったのだ。

「放っておけば彼女がどんな目に合わされたかわからない。いいアドリブだったよ、フレッド」
「まったく、お前が前倒しで殺っちまった時は焦ったぜ」
「冒頭に出てくる、ウィギンズくんに情報渡した野次馬ってモランくんのことだよね? シャーロックにちょっと怪しまれちゃってない?」
「そうでしょうね。警部とワトソン博士が都合よく解釈してくれたから良かったものの……」
「うるせぇ、まさか連中が死体動かしてるなんて思わねぇだろ」

 ボンドとルイスに指摘されて、モランは顔をしかめた。
 セリグマン男爵への『裁き』が早まってしまったとはいえ、潜入前の下準備に抜かりはなかった。ホームズを事件に引き込んで派手に解決させるために野次馬を装ってイレギュラーズの少年に情報を渡したのであるが、慌ただしく動いたためウィリアムの指示が間に合わなかった。「男爵が殺されたのは地下室」とまでは口にしなかったため何とか難を逃れた形だ。

「ともかく、この一件はもう我々の手を離れたと見ていいかな?」
「あの、それが、もうひとつ……」

 アルバートの言葉に、フレッドがおずおずと手を上げた。

「セリグマン男爵夫人が、リネットさんにランプを弁償するよう請求書を回しているようで……」
「マジかよ、懲りてねぇなぁ」

 モランが乾いた笑い声をあげた。
 作中でホームズが言っていた通り、ランプの件については彼女の過失であることは変えられないだろう。しかし裁判の真っ最中に、よくも臆面もなく請求書など回せたものだ。

「リネットさんの経済状況ではとても払える額ではありません。せっかく……」
「大丈夫だよ、フレッド」

 我らが相談役は、彼を安心させるように微笑んだ。

「まずはその事実を噂として街に広めてほしい。この小説の売れ行きを考えればそう難しいことじゃないだろう」
「世間の話題にして、訴えを取り下げるよう圧力をかけるということですか?」
「それでもいいけど、もっといい方法がある。出版社に、匿名でリネット嬢宛の寄付金を送るんだ」
「え」とフレッドは声を上げた。「いいのですか?」
「もちろん。ただし、全額肩代わりするわけじゃないよ。僕らが出すのはほんの少しだ」

 その意味するところをいち早く汲み取って、アルバートは思わず口角を上げた。

「なるほど、市民たちに自ら動いてもらおうというわけか」
「ええ。この小説や報道を読んだ市民たちの中には、彼女の助けになればと後に続く者たちがきっと現れるでしょう。金銭という形ではありますが、声を上げ、隣人を救う――そのための一歩を、彼ら自身に踏み出してもらいましょう」

 コナン・ドイル氏によるホームズの冒険譚は、すでにこのロンドンの市民たちにとって愛すべき娯楽としてその地位を確立している。ホームズの手がける事件に間接的にでも関わることができるのなら、――その動機が義憤にしろ野次馬根性にしろ――リネット嬢への寄付に協力したいと考える者は少なくないだろう。

「そりゃあいい。この過熱ぶりなら一週間とかからずに集まるだろ」
「えー、そうかなぁ。あの男爵、骨董品集めが趣味だったみたいだし意外と値打ちものかもよ?」
「どうなんだ、フレッド?」
「え、わかんないよ……」

 上流階級の好みそうな調度品の類にも詳しいボンドの頭の中では、すでに目標金額の見積もりが始まっているようだった。彼とモランの間で、どれくらいの期間でランプを賄えるだけの金額が集まるのか賭けをするつもりらしい。

「ふむ。私も個人的に一口乗ろうかな」
「お前はやめろ!」
「アルくんそれ一気に金額読めなくなるから!」
「皆さん、不謹慎ですよ……」

 ルイスが呆れたようにため息をついた。

「なんじゃ、賑やかだな」

 ジャックががらがらとワゴンを押しながら居間に入ってきた。
 ワゴンに乗せられた皿の上には焼きたてのクッキーやマドレーヌやクラフティが山と盛られていた。甘く香ばしい匂いが部屋中に広がる。アフタヌーンティーのお茶うけにしては、ずいぶんと気合の入った量だった。
 ボンドが顔を輝かせて駆け寄り、フレッドも控えめにその後に続いた。

「わぁ、すごい!」
「はっは、好きなだけ食え。若いもんがいると張り合いがあってつい作りすぎてしもうたわ」
「さすが先生、どれも美味しそうですね」

 ルイスが手際よく皿の準備を手伝いながら、言った。
 アルバートやウィリアムに言わせればルイスの作るスコーンも絶品だったが、意外に甘党なジャックが菓子作りに注ぐ情熱は人一倍強い。ジャックの手ほどきを受けて一通りの料理をマスターしているルイスも、ジャックの作る菓子には一目も二目も置いているようだった。

「兄さん、どうぞ」

 ウィリアムが皿をこちらに回してくれた。
 アルバートは彼に礼を言って、四角い形のクッキーを一枚摘まんだ。まだ温かい。歯を立てればさくりと簡単に崩れて、口の中に甘みが広がった。よく味わうようにゆっくりと咀嚼して、今度は紅茶のカップに手を伸ばす。
 モランとボンドは賭けの話を再開したようだ。ジャックは、小説に登場するメイドが美人だったのかどうか尋ねてフレッドを困らせている。ルイスはどちらから先に止めに入るだろうか。アルバートはウィリアムと顔を見合わせて笑った。
 仲間たちの笑いさざめく声が、耳に心地よかった。

初出:Pixiv 2023.02.26

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