No.33

ダラムの幽霊屋敷 Returns
 ダラムのお屋敷が幽霊屋敷だったら……という話。三年後編。



 月もない真夜中のことだった。
 人々はとうに寝静まり、町外れの暗い道の先に一軒の屋敷が建っていた。生きている人間は誰も住まわず、長らく打ち捨てられている屋敷だ。
 近づく者などいないその屋敷に、コソコソと鼠のように二人の男が忍び込んだ。彼らは音を立てないように気をつけながら窓ガラスを割り、錆びかけた錠をそっと外す。

「兄貴、ほんとに忍び込んだりして大丈夫なのかよぉ?」

 怖怖と室内の様子を伺いながら、覆い付きのランタンを持った一人が言った。もう一人の、帽子を被った男が答える。

「馬鹿。俺たちから取り立てた地代で、今まで散々贅沢してたんだ。おっ死んだなら還元してもらわねぇと」
「でもよぉ……」
「おい、つべこべ言ってないで早く明かりを持って来い。窓の方には向けるなよ。近所の連中に見つかっちまう」

 口ぶりからして、帽子を被った男の方が兄貴分らしい。彼はずかずかと階段を上がり、我が物顔で書斎に入り込むと躊躇いもせず引き出しを下から順に開けていった。

「くそっ、ひと通り漁られた後だな。大したものは残っちゃいねぇ」

 毒づきながら、帽子の男が引き出しから掴みだした小物を床に放り投げる。残っているのは木軸のペンや新聞の切り抜き、ごく少額の切手ばかりで、換金できそうなものはどこにもない。
 引き出しを乱暴に閉めた拍子に、机の上に置いてあったインク壺が転がり落ちた。蓋が外れて、黒いインクが絨毯の上に飛び散る。
 ランタンを持った男が慌てて後ろに飛び退いた。

「兄貴! まずいって、あんまり荒らしちゃ」
「うるさいな。無駄口叩いてる暇があったら、お前も向こうのキャビネットを調べてこいよ」
「ここはヤバいんだって。昔っから何かがいるって、死んだばあちゃんがいつも言ってたんだよ」
「ふん、モリアーティ家の連中は平気な顔で暮らしてたじゃないか」
「それは、あいつらが同じ悪魔だったからさ! 怪物同士で気が合ったんだろうよ。だから……」

 その時、引き出しを漁っていた帽子の男がすっと右手を上げた。ランタンの男が慌てて口をつぐむ。

「……何か聞こえないか?」

 そう問いかけられて、男は耳をそばだてた。
 言われてみると、遠くからかすかに鈴の音が聞こえる。
 二人はそっと天井を見上げた。どうやら上の部屋からだ。

「よ、呼び鈴じゃないですか? 使用人部屋なんかにある……」
「ああ、確かにそんな音だ。金持ちの家によくあるやつだな。主人が自分の部屋の紐を引っ張ると、壁を伝って使用人部屋の鈴が鳴るっていう……」
「…………」

 二人は無言のまま顔を見合わせて、それから隣の部屋に続くドアの方を見た。
 もし上階で鳴っているのが使用人を呼び出すための呼び鈴であるのなら、誰かが紐を引いているということだ。そう、例えばあのドアの向こうの主寝室で……。
 ばんっ。
 何者かがドアを内側から叩いた。
 息を潜めていた二人は飛び上がるほど驚いた。ランタンの男は逃げ出そうとしたが、帽子の男は気丈にも声を荒げてみせた。

「馬鹿野郎、これくらいでビビるんじゃねぇ。俺達より先に潜り込んだやつがいるんだろう。つまらねぇいたずらで人を驚かそうたって、そうはいかねぇぞ! 出てきやがれ!」

 二人は口の中をカラカラにしながら、相手の出方を待った。やがて蝶番が軋んだ音を立てて、ゆっくりとドアが開く。
 ランタンを高く掲げて明かりをドアの方へ向けながら、二人は固唾を呑んで見守った。
 開いたドアの向こうには、誰もいない。
 ランタンの男が悲鳴を上げた。

「うわぁ、出た!」
「な、何が『出た』だ。どうせ隠れてやがるんだろ。俺がとっちめて……」

 帽子の男は強がりながらも果敢に主寝室に乗り込もうとした。が、背後で連れが再び悲鳴を上げたので、慌てて振り返る。

「あ、開かない! 閉じ込められた!」

 ランタンの男は半狂乱になって、廊下に続くドアをガチャガチャと揺らしている。これにはさすがに帽子の男も泡をくって駆けつけた。

「ど、どうしよう、兄貴……閉じ込められちまったよぉ!」
「落ち着け馬鹿野郎。見ろ、ドアノブは動くぞ」

 帽子の男の言う通り、ドアノブは途中までは動く。だが途中で何かに引っかかってそれ以上は動かない。鍵を掛けられたわけではないようだった。
 二人はえいやっと掛け声の後、同時にドアへ体当たりをした。
 ガタンと大きな音を立てて、つかえが外れたような手応えがあった。間髪入れずにドアが勢いよく開く。 二人は勢い余って転がるように廊下へ飛び出した。

「はぁっ、た、助かった……」
「見てみろ。こいつがドアノブに引っかかってたんだ」

 帽子の男が指差す先に、一脚の椅子が倒れていた。おそらく、背もたれのところをドアノブに噛ませていたのだろう。

「でも俺たち、このドアから忍び込んだんですよ? 一体誰が椅子を?」
「ふん、寝室に隠れてる奴だろうよ。捕まえてぶん殴ってやれ、ば……」

 言葉が中途半端に途切れた。
 二人の眼の前で、床に倒れていた椅子がひとりでに立ち上がったのだ。さらに、開けっ放しだったドアが大きな音を立てて勢いよく閉まった。
 男たちはぎゃっと悲鳴を上げ、後ろに飛び退った。ランタンを持った方の男が、バランスを崩して壁に激突する。

「いてっ」
「おい、何やってる!」
「あれ? 兄貴、ここの壁、何か書いて……」
「そんなのどうだっていいだろうが! さっさとずらかるぞ!」

 帽子の男が、連れの襟首を引っ掴んだ。二人は大慌てで廊下を駆け抜け、階段を駆け下りていく。
 振り返ると、椅子がすーっと床を滑って追いかけてくる。二人はもう一度悲鳴を上げた。
 正面玄関には鍵が掛かっている。
 二人は我先にと居間へ駆け込んで、大きな窓から庭へと飛び出した。割れたガラスで引っかき傷を作ったが、構ってはいられなかった。
 冷たい夜風が頬をなで、ほっと一息ついた矢先、今度は帽子の男がうわっと声を上げて地面に倒れた。

「だ、大丈夫ですか!?」
「ああ、悪い。大丈夫だ。ちくしょう、靴紐が解けてて踏んづけちまった」
「はは……、兄貴にしちゃ珍しい。ま、あんなもの見ちまったら仕方ないですよ」

 ランタンの男はいまだ飛び跳ねる心臓を押さえつけながら、帽子の男へ手を差しのべた。
 帽子の男は悪態をつきながら連れの手を掴もうとして、ふと彼の背後にある屋敷を見上げた。その表情がみるみるうちに凍りつく。

「? どうしたんですか?」

 ランタンを持った男が怪訝な顔で首をかしげる。
 帽子の男はそれには答えず、再び尻もちをつくと脇目も振らず逃げ出した。不思議に思って背後を振り返ったランタンの男も、ぎゃっと悲鳴を上げて後を追った。
 二階の窓に、彼らをじっと見下ろす女の顔が見えたのだ。





 数年ぶりに訪れたダラムの墓所は、あの頃と変わらずしんと静まり返っていて、時間の経過を感じさせなかった。
 フレッドがフリーダの墓標の前に膝をついて、花を供えた。つい先程、駅前で花売から買い求めたものだ。
 彼が「ダラムの屋敷に向かう前に寄り道したい」と言い出したとき、どこへ寄るつもりなのか俺には見当もつかなかった。ひょっとして、計画の最中も時折こうして花を添えに訪れていたのだろうか。だとすると律儀な彼らしかった。
 あのルシアンとかいう学生はとっくに大学を出て実家へ戻っているはずだ。けれど墓石の周囲は綺麗に掃き清められ、定期的に手入れがされている様子が窺えた。
 三人の中で唯一当時の経緯を知らないボンドは、刻まれた碑文に目を通してぽつりと呟いた。

「若いね」
「若かった、だ」
「うん……」

 三人でしばらくの間、黙祷を捧げた。
 頃合いを見て、俺は煙草を取り出して火をつけた。

「さて、そろそろ行くぞ。あいつらも着いてる頃だ」

 墓前を離れようとしたとき、向こうから腰の曲がった老婆が歩いてきた。ボンドが愛想よく会釈して通り過ぎようとすると、老婆は俺たちの顔を見上げながら歯の抜けた口を開いた。

「あんたら、この辺りのもんじゃないね? いや……だがどこか見覚えが……」

 老婆の視線が記憶を探るようにふらふらと彷徨う。俺は煙を吐き出しながら、何食わぬ顔で答えた。

「ここに来るのは初めてだよ」
「だがそこの墓に花を供えてただろう」
「人に頼まれてな」
「ああ」老婆は納得したように頷いた。「アトウッド家の使用人かい。あの坊っちゃん、自分が来られない時はたまに人をやって墓の掃除をさせているからね」
「そうだな」と、適当に相槌を打っておく。
「おたくの坊っちゃんは何度かここで見かけたことがあるが、身分を鼻にかけないいい子だね。数年前までここら一帯を治めてた男爵様とは大違いさ……もちろん、モリアーティ家ともね」

 背後でフレッドが小さく息を呑んだのが聞こえた。その反応に気を良くした老婆はさらに喋り続ける。

 「犯罪卿がダラムの大学で教壇に立ってたのはあんたらも知ってるだろ? ルシアンの坊っちゃんだって、何も知らずに奴の講義を受けてたって話じゃないか。恐ろしい話さね。領民の中にはあの家を称える者もいるにはいるけどね、あたしはずっと胡散臭い連中だと思ってたよ」
「へえ」

 俺ははあくまで興味がなさそうなふりをした。後ろの二人も、黙って老婆の話に耳を傾けている。
 当時はモリアーティ家がこの地を治めることになったのを有り難がっていたくせに、調子のいい連中だ。しかしモリアーティ家への非難の声が上がるということは、今の領主がそれなりにうまくやっているという証拠でもある。それで良しとするしかないだろう。

「かつてモリアーティ家が所有していた屋敷は、ここらじゃ『悪魔の屋敷』ってもっぱらの噂だよ。夜な夜な、犯罪卿に惨たらしく殺された連中だか犯罪卿本人だかの亡霊がうろつき回ってるのさ」
「『亡霊』ね……」

 呟きながら、俺は短くなった煙草を足元で踏み消した。
 以前から幽霊屋敷の噂はあったが、あの事件を経てそういうふうに話が捻じ曲がってしまっていても不思議はないだろう。
 犯罪卿の亡霊。つい数ヶ月前の自分が聞けば、亡霊の存在を信じるかどうかは別としても、狂おしいほどの衝動に駆られて屋敷へと忍び込んでいただろう。
 だがウィリアムに再会した今となっては、鼻で笑い飛ばせるだけの余裕があった。





 屋敷へたどり着いた時、すでに正面玄関の鍵は開いていた。先に馬車で向かったウィリアムたちが開けたのだろう。
 世間的には死んだはずのウィリアムは念を入れて女装までしたが、屋敷にモリアーティ家の人間が戻ったとなれば人目を引くのは間違いない。不測の事態に備えて、(説得するのにかなり骨を折ったが)俺たちも随行することにしたのだ。
 屋敷は、不在の間に随分好き勝手されたようだった。ポーチにはゴミが散乱し、マホガニー材の重厚な扉には赤い塗料で罵詈雑言が書き殴られていた。

「庭、見てくる」

 フレッドはそれだけ告げると、玄関には入らず屋敷の西側に回っていった。
 俺とボンドは玄関ホールへと足を踏み入れた。
 長らく閉め切られていたためか、空気は埃っぽく冷えていた。だが年月による荒廃など問題にならないほど、屋敷の内部は荒らされていた。本来であれば手を触れることすら躊躇うはずの調度品の数々を蹴倒し壁に叩きつけるのは、さぞ胸がスッとしたことだろう。

「あーあ、ひどいね」

 ボンドが軽い調子で声を上げた。
 ホールの大鏡はひび割れてはいたが、奇跡的に踏みとどまっていた。今は煤けた鏡面に写るのは、暗い室内に佇む俺とボンドの姿だけだ。
 俺たち以外の人影は、無い。その事実を確かめた俺は内心でほっとすると同時に、どこか物足りない気持ちになった。

 一階をひと通り見回った俺とボンドは、連れ立って階段を上がった。
 ウィリアムたち三兄弟はかつてのルイスの部屋で何やら話し込んでいる。どうやら思い出話に花を咲かせているらしかった。邪魔をするのも悪いかと思い、俺たちはドアの隙間からひと声だけ掛けてその場を後にした。
 廊下の窓ガラスは所々割れて、ガラス片と石ころが床に散らばっている。
 拳ほどの大きさのある石ころを、ボンドが廊下の端に向かって蹴飛ばした。割れたガラスを踏みつけるたび、靴底がジャリジャリと鳴った。
 顔にかかる蜘蛛の巣を払いながら、ため息が漏れた。

「人様の屋敷の窓で、的あてゲームでもしやがったのかよ」
「ははっ。最上階の窓と主寝室の窓、どっちが高得点だったと思う?」
「知るか」

 そんな軽口を叩きながら、俺たちは三階へと上がった。ボンドはあの頃の習慣をなぞるように、まっすぐに自分の部屋へと向かっていく。
 俺は別段自室に用はないので、廊下で煙草をふかしていた。あの当時は屋敷内で喫煙してはルイスに叱責を受けていたが、今さら灰を落としたところで彼も気にはしないだろう。
 しばらくして、廊下の端の部屋からボンドが顔を覗かせた。おいでおいでと手招きをしている。

「何だよ?」

 近寄っていって訊ねると、ボンドは部屋のドアを大きく開いた。

「僕の部屋、綺麗すぎない?」
「はぁ?」

 そう言われて室内を覗き込んでみると、確かに彼の部屋は廊下とは比べ物にならないほど整然としている。
 窓が一枚割れて風雨が吹き込んではいるようだったが、床にはガラス片や石ころの一つも見当たらない。その違和感を無視しつつ、俺は言った。

「ゴロツキどもも、ここまで上がって来なかったんだろ。荒らすなら、金目のものが置いてある二階だ」
「じゃあ、誰がベッドメイクしたの?」
「え?」
「最後の計画が動き始めた時期さ、こっちに来るのはもうこれが最後になるかもしれないからって、ロンドンに戻る時にベッドメイクしなかったはずなんだ。それなのに……」
「お前がやらなくても、ルイス辺りがやったんだろ」

 そう口にしてから、モランは「いや」と思い直した。
 ボンドが仲間に加わったばかりの頃、ルイスが彼に「洗濯から返ってきたシャツやシーツは部屋に届けたほうが良いか」と訊ねたことがあった。ボンドは確か「自分で取りに行くから大丈夫」と答えたはずだ。
 ボンドを男性として扱うことに決めたとはいえ、部屋に勝手に立ち入るのは遠慮した方が良いかルイスなりに遠回しに確認したのだ。(彼はモランやフレッドの部屋には勝手に入って洗濯物を置いていくし、そのついでにベッドメイクや掃除も済ませてくれる)
 あの真面目なルイスがそれを無視してボンドの部屋に立ち入ったとは思えない。
 であれば、一体誰が?
 それからボンドに引っ張られて他の部屋も確かめてみたが、結局、綺麗に整えられていたのはボンドの部屋だけだった。

「ほら見ろ。どうせ忘れてるだけで、お前が自分でベッドメイクしたんだろ? で、たまたまお前の部屋だけは荒らされなかった」
「えー、そんなぁ」
「何が『そんなぁ』だ。他の可能性なんてあるわけ無いだろ」
「あるかもしれないじゃん! モランくんこそ、何でそんなムキになって否定するわけ?」
「ぐ……」

 言い合いながら、俺たちは再び階段を降りた。
 と、そこでボンドがふいに足を止めた。彼は割れた窓とは反対側の、壁の方を見ている。
 先程は割れた窓と足元のガラスに気を取られて気がつかなかったが、そこには滴る血のような赤色で文字が綴られていた。玄関ドアにあったような殴り書きとは違う、きちきちとした文字だった。

「ね、これなんて書いてあるの? ラテン語っぽいけど……」

 ボンドの視線に促され、俺はイートンでテキストとにらめっこしていた頃の古い記憶を引っ張り出した。

「あー、"Eramus quod estis. Sumus quod eritis."……『かつての我々が今日のお前であり、今日の我々が明日のお前だ』ってところか?」
「わぁ、さすがインテリ! で、どういう意味?」
「そりゃあお前……」

 改めてその意味を咀嚼してみて、俺たちは顔を見合わせた。

「……不法侵入したゴロツキの中に、たまたま教養のある奴がいたんだろ」
「えー、まっさかぁ」

 ボンドは声を上げて笑い、そしてすぐに青い瞳をいたずらっぽく光らせた。

「ね。もしかしてさ、ウィリアムくんの書斎に出るっていうインテリお爺さんのユウレイが書いたんじゃない? ゴロツキへの脅し文句にしてはちょっと洒落すぎてるけど」
「そんな訳ないだろ」

 俺は早口に言い切った。
 霊だの魂だの、くだらない。人間なんて所詮、血と肉と骨の塊だ。壊れて機能を失えばそこで終わり、続きなど存在しない。 はっきりとそう言い切ってしまいたかったが、残念ながら頭ごなしに否定できない事象が世の中には存在することを俺は知っている。特にこの、ダラムの幽霊屋敷では。
 俺はちらりとルイスの部屋の様子を窺った。ウィリアムたちはまだ、楽しそうに談笑を続けている。

「ボンド。お前、ここにいろ」
「え、何? どうしたの?」

 呼び止める声を無視して、俺は階段を駆け下りた。





 階段を下りて、俺は居間へと駆け込んだ。
 大きな掃き出し窓のガラスが派手に割られていて、錠が外されている。ゴロツキどもはここから屋敷に入り込んだのだろう。
 割れた破片に注意しながら窓枠を押し開けて、庭へと出る。美しかった花壇は長らく放置されて見る影もなく、芝生は所々剥がれて雑草が繁茂していた。
 地面には薔薇園まで続くタイルの小道が敷かれている。
 その途中に、フレッドがしゃがみ込んでいた。寛いでいるという様子ではなく、必要があればすぐにでも立ち上がれるよう片膝を立てた姿勢だ。

「フレッド……」

 背後から呼びかけると、フレッドは片手を上げた。「静かに」と促すような仕草だった。
 俺は素早く周囲に目を走らせた。が、荒れ果てた庭で動くものといえば風に揺れてざわざわと鳴る木の葉くらいなもので、人の気配は感じられない。植え込みの陰に野良猫が潜んでいるというわけでもなさそうだ。

「どうしたんだよ?」
「静かにして」

 フレッドは短く答えた。
 またしても俺は黙り込む。フレッドの背中は小さく丸まっているようでいて、ピンと張りつめた緊張感を纏っていた。
 すぐにでも彼の腕を引いてこの場を離れたかったが、その真剣な様子を目のあたりにすると声がかけられなくなってしまった。仕方がないので邪魔をしないようになるべく気配を消して待っていると、しばらくしてフレッドは諦めたようにため息をついた。

「……何か用?」
「いやお前こそ何やってるんだよ、こんなところに座り込んで。ウィリアムたちの用事が済んだらすぐに出るぞ。もう中に入れ」
「迎えの馬車はまだでしょ? それまで、ここで待ってるから」
「待ってるって……」

 言いかけて、俺は口を噤んだ。
 フレッドは花壇の真ん中に設えられた小さな天使像の方を見ている。可愛らしく微笑んでいたはずの天使は、煉瓦を打ち付けられたのか、鼻が砕けて翼がぽっきりと折れていた。花壇の中には投げ込まれた空の酒瓶やゴミが散乱している。

「こんなにされる間、ずっと我慢してたのかな」

 フレッドがぽつりと呟いた。

「知らない人たちが自分たちの場所に入り込んできて、好き勝手暴れて、怖かったんじゃないかなって……驚かせて追い払うことだってできたはずなのに……」
「……誰の話をしてるんだ?」
「ここにいた男の子だよ」
「は? 近所の子供か?」

 フレッドは首を横に振った。

「違うよ、『ここ』にいたんだ。いつからかは分からないけど。男の子……だと思う。多分。いたずら好きな子で、僕が庭で仕事をしてるとそばで眺めたり、僕の手袋やはさみを隠したりするんだ。でも、ある時に僕が『生き物にはいたずらしちゃ駄目だ』って言ったんだ。だから、屋敷をめちゃくちゃにされても反撃せずにずっと我慢してたのかもしれない。僕のせいで、三年間ずっと……」
「待て。お前何を言ってる? そんな子ども、いるはず無いだろう」
「いるよ。いたんだ、ここに……」

 フレッドはきっぱりと言い切った。言っていることは支離滅裂だがその目は真剣そのもので、かえってぞっとさせられた。

「謝りたかったんだ。僕らを憎む人たちが屋敷を荒らすのは仕方のないことかもしれないけど、あの子達は何も関係なかったのに」
「馬鹿言うな。そんな子どもいない。いもしない奴に何を謝るって言うんだ」
「いるよ。モランだって、何回も見たんだろ」

 フレッドはむっとした顔をした。
 彼が言っているのは、三年前たびたびモランを悩ませたあの幽霊嬢のことだろう。だがその実在を信じたくない気持ちと、フレッドの頑なな態度に俺もいくらか苛立ってきた。

「いいや、いない。実際俺は今日一度もあの女を見てない。最初からいなかったんだよ、そんな連中」
「嘘だ。そんなこと……」

 フレッドは俺に言い返そうと口を開きかけて、ふいに黙り込んだ。
 不意にひやりとした風が吹き抜けて、ぺた、と湿った音がした。
 座り込んだフレッドのすぐそば、タイルの上に小さな手形が現れていた。
 俺たちは口をぽかんと開けたままそれを凝視した。
 小さな右手だ。フレッドのものではないだろう。ちょうど、子供が泥の中に突っ込んだ手を乾いたタイルに押し付けたような。
 そんなはず無い。俺は無意識のうちに首を横に振っていた。
 見落としていただけで、この手形はさっきからずっとそこにあったのだ。近所の子供が度胸試しに潜り込んで、記念の手形を残していったに違いない。
 濡れてつやつや光る手形の表面に気づかないふりをしながら、そう自分に言い聞かせた。
 俺はフレッドの腕を引いて立たせようとしたが、彼は頑としてその場を動かない。

「まだ、いるの?」

 フレッドが震える声で問いかけた。
 話しかけている相手は俺ではない。
 答えるように、ぺた、ともう一つ手形が現れた。
 今度こそ疑いようもなく突きつけられた事実に、俺は震え上がった。

「来るんじゃねぇ!」

 叫びながら、俺は無理やりフレッドを抱え上げた。驚いたフレッドが「うわっ」と悲鳴を上げる。

「俺たちはまだ生きてるんだ。お前らとは違う!」
「モランやめて! 大きい声出さないで!」
「冗談じゃねぇ、連れてなんて行かせねぇぞ! 恨むなら勝手に恨んどけ。呪うなら勝手に呪っとけ! こいつは連れて行かせねぇぞ! 絶対……絶対……」

 俺は自分でも何を言っているのか分からなくなりながら、虚空に向かって吠えた。
 フレッドの体を抱え直して荒れ果てた庭を見渡してみても、敵の姿はどこにも見えない。半分砕けた天使像だけがじっとこちらを見上げていた。
 背後に人の気配を感じて飛び退ると、そこにはボンドがいた。彼は怪訝な顔で首を傾げている。

「大声出して、どうしたの? なんでフレッドくんのこと抱っこしてるの?」
「ボンド、すぐにここを出るぞ。ウィリアムたちは……」

 その時、側頭部にぽこ、と軽い衝撃が走った。
 俺は再びフレッドを抱えたまま飛び上がる。腹に回した腕を急に締めてしまって、フレッドが「ぐぇ」と声を漏らした。
 恐る恐る足元に視線を落とすと、丸めた布の塊が落ちていた。それが飛んできたと思われる先には、当然ながら誰もいない。
 ボンドが回り込んで、ひょいとその塊を拾い上げた。広げてみると、それは薄汚れた白い手袋だった。

「あれ、これモランくんの手袋じゃない?」
「は?」
「だって、ほら。こんな大きな手袋、君以外に使わないでしょ。しかも片手だけ」

 ボンドは躊躇う様子も見せずにその手袋を右手にはめてみせた。確かに彼の手にはかなり大きく、指先が余っている。 その瞬間、俺の脳裏にある夜の出来事が過った。
 ルイスの目を逃れて、この庭の隅で煙草をふかしていた時のことだ。そろそろ義手のメンテナンスに行くべきかと考えながら、俺は何気なく手袋を外して傍らに置いたのだ。
 だがその数分後、義手の検分を終えて再び手袋をはめ直そうとすると、それは忽然と姿を消していた。
 風のない夜で、遠くに飛ばされたとも思えない。俺はしばらく辺りをきょろきょろと見回したが、どこにも見当たらない。仕方がないので、夜が明けたら探そうと部屋に引き上げて、それきり忘れていたのだ。
 あの時、姿の見えない少年が俺の背後に忍び寄って、手袋をくすねていたのか?
 その場面を想像するとぞっと怖気が走った。

「返してくれるの?」

 フレッドが虚空に向かって問いかけた。当然ながら、返事はない。だが彼はちょっとだけ微笑んで「ありがとう」と続けた。

「ば、馬鹿、礼なんて言うな。人の手袋盗みやがって」
「盗んでなんかいないよ。きっとモランと遊びたかっただけだ。宝探しだよ。モラン、植木鉢の下とか花壇の奥まで、ちゃんと探さなかったでしょ?」
「それは……」
「返そうと思って、ずっと持っててくれたんだよ」

 フレッドが確信を込めてそう言うので、つい納得してしまいそうになった。





 庭を引き上げてホールで待っていると、程なくして三兄弟たちも二階から降りてきた。

「ごめんね。付き合ってもらって」
「全然! お目当てのものは見つかった?」

 ボンドがにこやかに応じる。

「モランさんどうしたんですか? 幽霊でも見たような顔をして」
「……別に」

 ルイスの言葉にどこかおちょくられているような気がするのは、考えすぎだろうか。庭で起こったことを思うと、あながち見当違いな比喩でもないのだからたちが悪い。
 ちらりとフレッドの方へ視線をやってみても、彼は何の異常にも遭遇しなかったとでも言うようにけろりとした顔をしている。適応力の高いボンドは言うまでもなく。

「アルバート様、大丈夫ですか?」

 俺の葛藤を無視して、フレッドが心配そうに尋ねた。言われてみると、アルバートはどこか疲れた顔で、一人だけ椅子に腰掛けている。

「ああ、ありがとう。大丈夫だよ。久しぶりに遠出をしたから、疲れてしまってね」
「お前、その椅子、どこから持ってきたんだ?」
「ん? 降りてきた時にはここにあったよ」

 アルバートは事もなげに答えた。

「……誰がここに置いたんだ?」

 尋ねてみても、誰からも答えは返ってこない。
 ホールのど真ん中に、馬車を待つ間ひと休みするのにちょうどいい椅子など置いていなかったはずだ。そもそも、三年間放置された屋敷のどこに、潔癖症のアルバートが腰を下ろせるくらい綺麗な椅子があるというのだ?
 アルバートは、考え込む俺の顔からつま先までをしげしげと眺めて呆れたように顔をしかめた。

「それよりも大佐、いい年をしてどろんこ遊びかい?」
「は? うわっ」

 自分の足元を見て、俺は声を上げた。
 スラックスの裾にべったりと泥がこびりついていた。同じく庭にいて、しかも地べたに座り込んでいたはずのフレッドは何ともない。
 となると、もう心当たりは一つしかなかった。
 ボンドがおかしそうにケラケラと笑う。

「あーあ、モランくん、やられたね」
「畜生、あのクソガキいつの間に……」
「え? 子どもがいたんですか?」
「あっ、いや……」
「わ。モラン、背中も泥だらけだよ」

 俺の背中を覗き込んだウィリアムが言った。

「なんだって? くそっ……」

 俺は身をよじりながら、反射的に大鏡の方を見た。煤けた鏡面にちょうど俺の背中が写っている。確かに、腰のあたりに泥で汚れた手を擦り付けたような跡があった。

「誰かにいたずらされたの? モラン」

 ウィリアムが笑いを含んだ声で尋ねた。
 笑い事じゃないと抗議をしてやりたかった。
 だがその時、視線を自分の背中から外して初めて、俺は大鏡に写ったものの全体像をちゃんと見た。
 鏡に背を向けて立った俺の後ろ姿。椅子に腰掛けたアルバート。そして、俺を取り囲んで立つウィリアム、フレッド、ボンド、ルイス……。
 ルイスの隣、鏡に写る俺のすぐそばに、深緑色のドレスを来た娘が立っていた。さらに彼女のそばにはよく似た顔立ちの少年が立っている。
 鏡越しに目が合うと、二人はこちらに向かってにっこりと微笑んだ。
 心臓が止まるかと思ったが、何とか悲鳴はあげずに持ちこたえた。俺は他の面々に悟られないように、深く、ゆっくりと息を吐き出す。
 唇の片端を持ち上げて不格好に笑い返して見せると、姉弟の姿は煙のようにかき消えた。





おまけ ダラムの屋敷の幽霊たち

■書斎の旦那様
屋敷の幽霊の中ででいちばん偉いけど、物質に干渉できるほど強くない。壁の文字もメイドに頼んで書いてもらったが、誰も読んでくれなくてちょっと落ち込んでいる。
話し好きで、ウィリアムが寝落ちしたらまた夢に出て話し相手になってほしいと思っている。

■手だけのメイド
ものを自由に動かせるので、家具を揺らしたりドアを開け閉めしたりして侵入者たちを驚かせる係。掃除だけは「幽霊屋敷らしくなくなるから」という理由で旦那様に禁じられていたが、自分の部屋(現ボンドの部屋)だけはこっそり綺麗にしていた。
ウィリアムたちが急に屋敷を訪れたので「こんな荒れた屋敷でお迎えするなんて…」と内心悔しく思っている。

■深緑色のドレスのお嬢さん
気に入った男性の前にしか姿を現さない。相手が驚き慌てる姿を見るのが好きだったが、屋敷に入り込んだゴロツキたちにはいまいちピンと来なかったので放置していた。
しかし侵入者たちが庭に向かった時だけは弟が心配で窓から顔を覗かせ、彼らを震え上がらせていた。

■庭の男の子
いつも庭で遊んでいる。「生き物にいたずらしちゃ駄目」と言われたことを覚えてはいたが、根がいたずらっ子なので庭を荒らす侵入者たちの靴紐を解いたりポケットに泥団子を詰め込んだりしていた。
三年前、見たことないくらい大きなモランの手袋が珍しくてつい手を伸ばしてしまった。



初出:Pixiv 2024.04.14

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