No.32
ダラムの幽霊屋敷
ダラムのお屋敷が幽霊屋敷だったら……という話。
「なあ。あんた、モリアーティ家の?」
そう声をかけられたのは、ルイスの使いでダラムの街に出ていたときだった。
振り返ると、通りで立ち話をしていた街の男たちがこちらを見ている。その視線に宿っているのは、屈託のない興味と好奇心だった。
「はい。……先日から、お世話になっています」
特に嘘をつく理由もないので、フレッドはそう答えた。
男たちは顔を見合わせ、リーダー格らしき男が進み出てにこやかに挨拶をした。
「俺たちはここらで商売やってるもんだ。互いに世話になる機会もあるだろうから、そん時はよろしくな」
「あ、はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
フレッドはぺこりと頭を下げた。
「ところであんた、モリアーティ様のお屋敷に住み込みで働いてるんだろう」
「ええ」
「幸せ者だな。若先生はそこらの貴族様と違って偉ぶったりしないし、良い方だろう」
「はい、それはもう」
「……で、あの屋敷、どうだい?」
「どう?」
フレッドが首を傾げると、男はこちらに顔を寄せながら声を潜めた。
「……『出る』って、ほんとうかい?」
何が、と言われずとも、おおよそ検討はついた。
モリアーティ家が買い取った家具付きの由緒ある――率直に言うと、中古の――屋敷には、『幽霊が出る』と地元の人間たちの間では昔から噂になっていたらしい。つい数年前に先代の所有者がダブリン男爵に追い落とされて悲劇的な末路を辿ったことも、真偽不明の噂話に箔をつけていた。
いかにウィリアムが気さくで街の人間たちとも距離が近いとはいえ、貴族相手に『おたくの屋敷、幽霊が出るってほんとうですか?』とはさすがに聞きづらい。だから、あえて年若い使用人の自分に声をかけてきたのだろう。
「何もおかしなところはありませんよ」
フレッドは首を振った。
「ウィリアム様もその噂を小耳に挟んでいたそうですが『引っ越し以来何も起こらない』とがっかりされているようです。……あ、これは弟のルイスさんから聞いた話で……内緒にしてくださいね」
適当に話を作ってそう付け足すと、男たちは「なんだぁ」と大げさに残念がった。
「俺、確かに見たんだけどなぁ。あの屋敷が無人だった頃、窓辺に女の影があったんだ」
「見間違いじゃないか?」
「あの立派な学者先生の前じゃ、幽霊もさぞや肩身が狭いだろうよ」
「俺はむしろホッとしたな。幽霊騒ぎが起こってモリアーティ様がダラムを離れちまった日にゃ、それこそ俺たち全員化けてでるハメになっちまう」
「違いねぇ!」
フレッドは陽気に笑う男たちの輪から、そっと抜け出した。
それからほどなくして、フレッドは用事を済ませて屋敷に戻った。
門の前で一度立ち止まって、生け垣と塀に囲まれて静かに立つ屋敷を改めて見上げてみた。
時代遅れの外観は、言われてみれば確かに幽霊屋敷らしい鬱々とした雰囲気をまとっているようにも見える。しかしそれは比較の対象が、ロンドン郊外に構える新築のモリアーティ邸だからではないだろうか。町の人々が噂するような不吉な因縁のある場所だとは到底思えない。
もっとも、あと何年か経ってここが稀代の大犯罪者たちの拠点の一つだと知れ渡ったら、もう絶対に買い手はつかないだろうな、ともフレッドは思うのであった。
玄関を抜けて広間に入った。
今日はロンドンからアルバートがやってくる予定だから、ウィリアムが駅まで迎えに行く手筈になっていた。彼はもう出て行ってしまった後だろうか。
ホールはひっそりと静まり返っている。
「うわぁっ!!」
突如、その静寂を破る悲鳴が響いた。
フレッドは特に驚くこともなく、洗面所の方へ顔を覗かせた。
「モランどうしたの?」
「ちっくしょう、またあの女だ!」
悔しそうに悪態をつくモランの顔と手は水で濡れている。おおかた、ついさっき起きたばかりで顔でも洗っていたのだろう。
フレッドは洗面台の横に引っかけられていたタオルを取って、彼に差し出した。ついでにちらりと鏡を覗き込んでみたけれど、そこには無愛想なフレッドの顔が映り込んでいるだけだ。
「ちょっと、モランさんうるさいですよ!」
廊下の向こう、キッチンの方からルイスが出てきた。おつかいを思い出したフレッドは、彼のもとへ駆け寄った。
「お砂糖、買ってきました」
「ああ、ありがとうございます」
紙袋を開けて中身を確かめながら、ルイスが耳打ちした。
「モランさん、またですか?」
「……みたいですね」
ルイスははぁ、とため息をついた。
「まったく……こんな時間まで寝ているからですよ。アルバート兄様が着く前に窓を磨いておいてほしかったのに」
「僕、手伝います」
「ええ、すみませんがお願いします」
ルイスはせかせかとした足取りでキッチンへ引き上げていった。
小一時間後、ウィリアムとともに屋敷にやって来たアルバートは、モランの話を聞くなり声を上げて笑った。
「大佐の背後を取るとは、たいした『お嬢さん』じゃないか」
「笑いごとじゃねぇぞ、アルバート! よりによもよってこんな幽霊屋敷を買いやがって!」
モランは苛立たしげに頭を掻きむしった。
街の人々が噂していた通り、モリアーティ家が買い取ったこのダラムの屋敷はいわゆる『幽霊屋敷』だった。
それらしい逸話は色々あったが、特に頻繁に姿を見せるのは深緑色の格子柄のドレスを着た女性の幽霊だ。モリアーティ家ではとりあえず、彼女のことを『お嬢さん』とあだ名している。
ふとした瞬間――例えば、顔を洗ってタオルを取ろうと視線を上げた時や、深夜に暗い廊下を歩いていた時なんかに――鏡や窓ガラスに映り込んでいるのだという。
ちなみに、主に被害を受けているのはモランだ。フレッドはまだ一度も見たことがない。
アルバートがわざわざこちらの屋敷にやって来た目的も、言ってしまえば物見遊山だった。ロンドンに戻るたびモランが大騒ぎで苦情を並べ立てるので、それなら私も見てみたい、と。
「いつも同じ女性なのかい?」
「何人もいてたまるかっつの」
「大佐に何か恨みがあるとか?」
「んなわけあるか! そんな知り合いいねぇし、そもそもこのダラムの屋敷にしか出ないんだぞ」
「アルバート兄さん、その『お嬢さん』なら僕も見たことがあるんですよ」
ウィリアムが助け舟を出した。
「そうなのかい?」
「ええ。ここに越してきて数日経った頃でしょうか。ロンドンへ戻られる兄さんを見送った夜だったと思います」
「その時は僕も一緒でした。兄さんが突然『今、女の子がいなかった?』と言い出されるから驚きました」
「そうそう、鏡に写った僕の後ろに女の子が立っていたから驚いてしまって。でもそれからは見かけなかったから見間違いだったのかと思っていたんだけど……」
その数週間後にモランとフレッドが屋敷に招かれ、再び姿を見せるようになったというわけだ。
「何で俺のとこにばっかり出るんだよ……。お前らが鈍すぎて気づいてねぇだけだろ、絶対」
「モランさん、気に入られたんじゃないですか?」
「やめろ!」
「ほんの一瞬しか見てないけど、にこにこしてて可愛らしい人だったよ?」
「笑ってんのが逆に怖えよ!! それにどんな美女でもいきなり背後に立たれてたら普通に驚くだろ、殴って追い払える相手じゃないからどうしようもねぇし!!」
モランは自分の膝を拳で打ちながら熱弁した。
毎度これだけ良いリアクションをしてくれたら幽霊も喜ぶのではないだろうか。気に入られたという説もあながち間違っていないように思える。
「ルイスとフレッドは、彼女を見たことはないのかい?」
アルバートの問いに、二人は揃って頷いた。
「あ、でも、僕は彼女でなければ見たことがありますよ」
「はぁ!?」
「ほう。それはどんな?」
「ほんの数日前の、深夜です。兄さんがお休みになられたのを見届けて僕も部屋に下がったのですが、ティーセットを流しに置いたまま、片付けるのを忘れていたことを思い出したんです」
モランが「それくらい次の日でいいじゃねぇか」と茶々を入れたが、ルイスは無視して話を続ける。
「自分の部屋を出て一階に下りると、キッチンの方から人の気配がしました。食器が触れあうような物音も……。てっきり、モランさんがまた盗み食いでもしているのかと思って、現場を抑えようと足音を殺してキッチンへ向かいました。
廊下からそっとキッチンを覗き込むと、そこに人影は無く……、かわりに、一対の白い手が浮かんでいました」
「手?」
「はい。暗闇の中に、真っ白い、女性の手だけが。水道の蛇口をひねって、僕がしまい忘れていたティーセットを洗ってくれていたんです」
アルバートが興味深げに、ほぅ、と顎に手を当てた。
「それで、どうなったんだい?」
「それだけです。食器を洗い終えて、蛇口を締めて水が止まると同時に白い手もふっと消えてしまいました」
「へぇ、不思議な話だね」
「ちなみに、今お使いいただいているのがそのときのティーセットです」
「そういうオチはいらねぇんだよ!!」
がちゃんと音を立てて、モランが叩きつけるようにカップをソーサーに戻した。ルイスが眉を吊り上げる前にフレッドはふきんを手にとって駆け寄った。大丈夫、割れてはいない。
「不思議だけど、なんだが心温まる話だね」
「ああ、ルイスの紅茶がますます味わい深くなったようだよ。この屋敷のメイドだったのかな?」
「正気かお前ら……」
モランが頭を抱えながら呻いた。
「ふむ。となると、この屋敷には少なくとも二人の先住者がいるのかな?」
「あ、兄さん。『旦那様』のお話はされなくてもよいのですか?」
「『旦那様』?」
モランとアルバートが声を揃えて問い返した。どうやら、初耳なのはフレッドだけではなかったらしい。
ウィリアムはうーん、と首を捻っている。
「僕、別に幽霊だとは思ってないんだけどなぁ」
「まだいんのかよ!? 勘弁してくれ……」
「聞かせてくれないか、ウィル」
「はい。ええと……このダラムに来てから、二階にある僕の書斎で夜更かししていると、よく同じ夢を見るんです」
「夢?」
「はい。僕は書斎で論文を書いたり、本を読んだりしています。すると、誰かが部屋をノックします。僕はてっきりルイスだろうと思って『どうぞ』と返事をするのですが、入ってくるのは口ひげを生やした紳士なんです。
何というか、色褪せた肖像画から飛び出してきたような……威厳があるけれどどこか古めかしい雰囲気の方でした。服装や髪型がそう思わせるのかもしれません。彼は暖炉の前のソファに腰掛けて、僕に話しかけてきます。内容はよく覚えていないのですが……歴史や文学に造形が深くて、僕の数学の話も面白そうに聞いてくれたとおぼろげに記憶しています。とにかく博学な方で、気がつけばつい話し込んでしまうんです」
「ほう」
「だけど最後はいつも同じで、誰かがまたドアをノックするんです。そして、部屋の外から『旦那様、お時間ですよ』と年配の女性の声がして、そこでいつも目が覚めます」
「………」
これといった何かが起こっているわけでもないのに、なんだか不気味な後味だ。さすがのアルバートも、静かに紅茶を啜っている。
しかし当のウィリアムは、犯罪相談役として見せる怜悧さを欠片も感じさせないほど、のんびりとした仕草で首をひねっていた。
「その声だけは何故かはっきり耳に残るんですよね。『旦那様』の話はほとんど覚えていないのに」
「これで少なくとも四人か。なかなか賑やかだね」
「いやいやいや。ウィリアムが聞いたその『声』ってのが、ルイスの見た『手だけのメイド』と同じやつかもしれないだろ。少なくとも三人、だ」
四人も三人も変わらないように思えるが、モランは一応抵抗した。
「フレッドは?」
「え」
「フレッドはどうだい? そういう不思議なものを見たことがあるかな?」
「……いえ。僕は何も、見ていません」
フレッドは首を振った。
「そうなのか。幼い子供や動物のほうが、霊的な存在には敏感だとよく聞くのだが」
「アルバート兄さん、フレッドだってもうそう幼くはありませんよ」
「ぼーっとしてるから気づいてないだけだろ」
「しかし、我が家が本物の幽霊屋敷だと広まってしまうのはあまり都合が良くないのではないでしょうか」
ルイスの言葉に、一同は深く頷いた。
「街でも、少し噂になっているようでした。その場では否定しましたが……」
「悪ガキどもが肝試しに潜り込んできたら厄介だな。機密資料の大半はロンドンの屋敷とはいえ、こっちにも見られちゃマズいもんはある」
「それならちょうどいい。僕にプランがあるんだ」
「と、言うと?」
「新しい心霊スポットをでっち上げるんだよ」
ウィリアムは人差し指をぴっと立てながら、言った。その表情は新しい悪戯を提案する少年のようで、皆も自然と彼の話に惹きつけられる。
「学生たちの間でも、フリーダさんが身投げした橋で似たような噂が持ち上がってるみたいでね。面白半分に騒がれるのは彼女にとっても本意ではないだろうし、何とかしたいと思っていたんだ」
「それは面白そうなプランだね」
「同感だ。ついでにここの連中もそっちに引越していってくれたらいいんだが……」
犯罪卿とその仲間たちは、普段とは打って変わってどこか和やかな雰囲気で『計画』を練り始めた。
*
その夜、フレッドが屋敷に戻ったのは深夜に近い時間帯だった。情報収集のため街に出ていたらすっかり遅くなってしまったのだ。偽心霊スポットに仕立て上げられそうな候補地の情報もいくつか仕入れられたから、明日さっそくウィリアムに報告しよう。
三階の使用人フロアに上がると、廊下に人影があった。明かりも持たずに突っ立っていたから、自分と同じく三階で寝起きしているモランかと思ったが、違っていた。
「アルバート様?」
「ご苦労様、フレッド。早かったね」
「え?」
「ああ、庭にいる君の影が見えてね。上がってくるのが早かったね、という意味だよ。遅くまで大変だったね」
「……どうかされましたか? こんな所で……」
「いや、なに。こうしていれば例の『お嬢さん』に会えないものかと思ったんだがね。まさか私が女性に待ちぼうけを食らわされる日が来るとは」
アルバートは冗談めかして笑ったが、彼に秋波を送るご令嬢たちが耳にしたらさぞ悔しがるだろう。
「……おそらくですが、『お嬢さん』は三階には姿を見せませんよ」
「おや、そうなのかい?」
「えぇ。モランから聞いた限りでは、三階に出たことは一度もありません。ウィリアムさんが彼女を見たのも、広間の大鏡だったそうです」
「そうだったのか」
「服装からして身分のある女性だったようですし、使用人フロアには上がってこないのではないでしょうか」
「なるほど、生前の行動範囲か」
アルバートがぽんと手を叩いた。
モランが文句を言いつつこの屋敷での暮らしに何とか耐えているのも、寝室の周りに彼女が現れないことが大きいだろう。幽霊といえど異性の寝室にまでは入り込まないあたり、彼女はやはり立派な淑女であった。
「あくまで推測なのですが……」
「いや、大佐にばかり顔を見せると聞いたから、彼の部屋のそばの方が可能性があると思い込んでいたよ。ありがとう、フレッド」
「いえ……」
「となると、『お嬢さん』にお目通りするのは諦めて、ウィルの部屋で『旦那様』を待ってみようかな。『手だけのメイド』を探そうにも、わざと食器を出しっぱなしにしておくのは忍びないからね」
「……そんなに、会ってみたいものですか?」
フレッドの質問に、アルバートは「信じてはいないよ」と唇の端を上げながら答えた。
「もし本当に幽霊なんてものがいるとしたら、真っ先に私のところにやって来るだろうからね。……だからこそ、本当にいるのなら見てみたいと思ったんだ」
アルバートはそう言って、踵を返した。
「じゃあ、おやすみ、フレッド。君の熱心さには庭の花たちも喜んでいるだろうけど、あまり無理はしないようにね」
「……はい、おやすみなさい。アルバート様」
*
あくる朝、フレッドは日の出とともにベッドを出た。
身支度を整えて一階へ降りると、ルイスもすでに起きているらしい。キッチンの方から温かい空気とパンの焼けるいい匂いが流れてくる。
フレッドはまっすぐに庭へ出た。
ウィリアムたちが起きてくる前に、花瓶の花を入れ替えておきたかったからだ。芝生はまだ夜露に湿っていて、朝のしんと冷えた空気を吸い込むと、すっきりと気分が良くなる。
このダラムの屋敷の温室は、ロンドンの本邸のそれに比べると小さく、まだ花も疎らであった。それでも、気のいい住民たちに株ごと分けてもらった薔薇たちが少しずつ元気を出し始めたところだ。
フレッドは特に美しく咲いた薔薇の幾本かを切り取り、温室の隅の小さな作業台に運んだ。花瓶にさす前に、棘を落としておかなければならなかった。
ハサミを茎に滑らせる。軽く力を込めると、小さな棘がぷちぷちと落ちていった。葉の影に落とし忘れがないか確認し、次の一輪へ手を伸ばす。
その時、ちゃぷん、と水の跳ねる音がした。
フレッドは思わず振り返る。
蛇口を締め忘れただろうか?
しかし水道は温室の外だ。水が漏れていたとしてもここまで水音が聞こえるはずがない。そもそも今朝はまだ水やりはしていないので水道に触れてもいなかった。
訝しんでいると、またちゃぷりと水が跳ねた。
息を潜めていたから、今度は音の発生源がわかった。すぐ足元だ。フレッドは作業台の下を覗き込んだ。
「……あ」
足元に置いてあったじょうろに水が並々と注がれていて、その中を魚が泳いでいた。二、三匹はいる。フレッドの親指ほどの大きさしかない魚とはいえ、じょうろの中に押し込められて窮屈そうだ。
魚たちが飛び出さないように注ぎ口を手で抑えながら、小走りに温室を出た。
屋敷の裏庭には、石を組んで作られた小さな溜め池がある。水の中にじょうろごと浸けこむと、魚たちはすいすいと泳いで出ていった。その姿は濁った水の中に紛れてすぐに見えなくなる。
じょうろが空になったのを確かめてほっと息をつくと、背後からくすくすと忍び笑いが聞こえた。
「……もう。駄目だよ、生き物にいたずらしちゃ」
指先から適当に水気を払って、フレッドは温室に戻った。さくさくと芝生を踏む足音が、後ろからもうひとつ付いてくる。
「じょうろみたいに狭いところに押し込められると、魚でも息ができなくなって死んじゃうんだよ」
口にしてから、無神経な言葉だっただろうかと少し後悔した。
この庭にも、幽霊と呼ばれるべき存在はいた。
庭仕事をしているといつの間にか後ろをついてきて、フレッドの手袋やハサミを隠したり、タイルの上に泥の手形を残したりと、時折かわいい悪戯をしかけてくる。おそらくはまだ小さな男の子だ。姿を見たことはなかったから、「何も見ていない」という言葉は嘘ではない。
昨夜アルバートに姿を見られていたことを教えてあげた方がいいだろうかと逡巡したが、結局やめにしておいた。アルバートは彼の影をフレッドと勘違いしていたし、自分の胸のうちにしまっておけば問題ないだろう。恥ずかしがりの彼が、この庭にまで居づらくなってしまったら可哀想だ。
作業台に戻ったフレッドは、棘取りを再開した。
斜め後ろに、気配を感じる。姿は見えなくてもそこにいるのがわかる。フレッドの背中越しに作業台を覗き込んで、熱心に見学しているようだった。
彼が――彼らが、何を思ってこの場所に留まって、何のために自分たちにその存在をアピールするのかはわからない。それでも、フレッドは別段彼らのことを恐ろしいとは思わなかった。
フレッドは池には魚が泳いでいたほうが嬉しいし、花壇には花がないと寂しいと思う。きっと彼らも、空き家よりも人が住んでる家のほうが好きなのだろう。
「きれいに咲いたよ」
呟くと、背後の彼が笑みを漏らすのがわかった。
温室を出て扉を閉めると、作業台の上に一輪だけ残された薔薇が、風もないのにころりと転がった。
さて、アルバートは幽霊に会えただろうか。
フレッドはまだ朝露に濡れた薔薇を腕に抱えて、朝食の席に向かった。
初出:Pixiv 2023.01.30
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ダラムのお屋敷が幽霊屋敷だったら……という話。
「なあ。あんた、モリアーティ家の?」
そう声をかけられたのは、ルイスの使いでダラムの街に出ていたときだった。
振り返ると、通りで立ち話をしていた街の男たちがこちらを見ている。その視線に宿っているのは、屈託のない興味と好奇心だった。
「はい。……先日から、お世話になっています」
特に嘘をつく理由もないので、フレッドはそう答えた。
男たちは顔を見合わせ、リーダー格らしき男が進み出てにこやかに挨拶をした。
「俺たちはここらで商売やってるもんだ。互いに世話になる機会もあるだろうから、そん時はよろしくな」
「あ、はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
フレッドはぺこりと頭を下げた。
「ところであんた、モリアーティ様のお屋敷に住み込みで働いてるんだろう」
「ええ」
「幸せ者だな。若先生はそこらの貴族様と違って偉ぶったりしないし、良い方だろう」
「はい、それはもう」
「……で、あの屋敷、どうだい?」
「どう?」
フレッドが首を傾げると、男はこちらに顔を寄せながら声を潜めた。
「……『出る』って、ほんとうかい?」
何が、と言われずとも、おおよそ検討はついた。
モリアーティ家が買い取った家具付きの由緒ある――率直に言うと、中古の――屋敷には、『幽霊が出る』と地元の人間たちの間では昔から噂になっていたらしい。つい数年前に先代の所有者がダブリン男爵に追い落とされて悲劇的な末路を辿ったことも、真偽不明の噂話に箔をつけていた。
いかにウィリアムが気さくで街の人間たちとも距離が近いとはいえ、貴族相手に『おたくの屋敷、幽霊が出るってほんとうですか?』とはさすがに聞きづらい。だから、あえて年若い使用人の自分に声をかけてきたのだろう。
「何もおかしなところはありませんよ」
フレッドは首を振った。
「ウィリアム様もその噂を小耳に挟んでいたそうですが『引っ越し以来何も起こらない』とがっかりされているようです。……あ、これは弟のルイスさんから聞いた話で……内緒にしてくださいね」
適当に話を作ってそう付け足すと、男たちは「なんだぁ」と大げさに残念がった。
「俺、確かに見たんだけどなぁ。あの屋敷が無人だった頃、窓辺に女の影があったんだ」
「見間違いじゃないか?」
「あの立派な学者先生の前じゃ、幽霊もさぞや肩身が狭いだろうよ」
「俺はむしろホッとしたな。幽霊騒ぎが起こってモリアーティ様がダラムを離れちまった日にゃ、それこそ俺たち全員化けてでるハメになっちまう」
「違いねぇ!」
フレッドは陽気に笑う男たちの輪から、そっと抜け出した。
それからほどなくして、フレッドは用事を済ませて屋敷に戻った。
門の前で一度立ち止まって、生け垣と塀に囲まれて静かに立つ屋敷を改めて見上げてみた。
時代遅れの外観は、言われてみれば確かに幽霊屋敷らしい鬱々とした雰囲気をまとっているようにも見える。しかしそれは比較の対象が、ロンドン郊外に構える新築のモリアーティ邸だからではないだろうか。町の人々が噂するような不吉な因縁のある場所だとは到底思えない。
もっとも、あと何年か経ってここが稀代の大犯罪者たちの拠点の一つだと知れ渡ったら、もう絶対に買い手はつかないだろうな、ともフレッドは思うのであった。
玄関を抜けて広間に入った。
今日はロンドンからアルバートがやってくる予定だから、ウィリアムが駅まで迎えに行く手筈になっていた。彼はもう出て行ってしまった後だろうか。
ホールはひっそりと静まり返っている。
「うわぁっ!!」
突如、その静寂を破る悲鳴が響いた。
フレッドは特に驚くこともなく、洗面所の方へ顔を覗かせた。
「モランどうしたの?」
「ちっくしょう、またあの女だ!」
悔しそうに悪態をつくモランの顔と手は水で濡れている。おおかた、ついさっき起きたばかりで顔でも洗っていたのだろう。
フレッドは洗面台の横に引っかけられていたタオルを取って、彼に差し出した。ついでにちらりと鏡を覗き込んでみたけれど、そこには無愛想なフレッドの顔が映り込んでいるだけだ。
「ちょっと、モランさんうるさいですよ!」
廊下の向こう、キッチンの方からルイスが出てきた。おつかいを思い出したフレッドは、彼のもとへ駆け寄った。
「お砂糖、買ってきました」
「ああ、ありがとうございます」
紙袋を開けて中身を確かめながら、ルイスが耳打ちした。
「モランさん、またですか?」
「……みたいですね」
ルイスははぁ、とため息をついた。
「まったく……こんな時間まで寝ているからですよ。アルバート兄様が着く前に窓を磨いておいてほしかったのに」
「僕、手伝います」
「ええ、すみませんがお願いします」
ルイスはせかせかとした足取りでキッチンへ引き上げていった。
小一時間後、ウィリアムとともに屋敷にやって来たアルバートは、モランの話を聞くなり声を上げて笑った。
「大佐の背後を取るとは、たいした『お嬢さん』じゃないか」
「笑いごとじゃねぇぞ、アルバート! よりによもよってこんな幽霊屋敷を買いやがって!」
モランは苛立たしげに頭を掻きむしった。
街の人々が噂していた通り、モリアーティ家が買い取ったこのダラムの屋敷はいわゆる『幽霊屋敷』だった。
それらしい逸話は色々あったが、特に頻繁に姿を見せるのは深緑色の格子柄のドレスを着た女性の幽霊だ。モリアーティ家ではとりあえず、彼女のことを『お嬢さん』とあだ名している。
ふとした瞬間――例えば、顔を洗ってタオルを取ろうと視線を上げた時や、深夜に暗い廊下を歩いていた時なんかに――鏡や窓ガラスに映り込んでいるのだという。
ちなみに、主に被害を受けているのはモランだ。フレッドはまだ一度も見たことがない。
アルバートがわざわざこちらの屋敷にやって来た目的も、言ってしまえば物見遊山だった。ロンドンに戻るたびモランが大騒ぎで苦情を並べ立てるので、それなら私も見てみたい、と。
「いつも同じ女性なのかい?」
「何人もいてたまるかっつの」
「大佐に何か恨みがあるとか?」
「んなわけあるか! そんな知り合いいねぇし、そもそもこのダラムの屋敷にしか出ないんだぞ」
「アルバート兄さん、その『お嬢さん』なら僕も見たことがあるんですよ」
ウィリアムが助け舟を出した。
「そうなのかい?」
「ええ。ここに越してきて数日経った頃でしょうか。ロンドンへ戻られる兄さんを見送った夜だったと思います」
「その時は僕も一緒でした。兄さんが突然『今、女の子がいなかった?』と言い出されるから驚きました」
「そうそう、鏡に写った僕の後ろに女の子が立っていたから驚いてしまって。でもそれからは見かけなかったから見間違いだったのかと思っていたんだけど……」
その数週間後にモランとフレッドが屋敷に招かれ、再び姿を見せるようになったというわけだ。
「何で俺のとこにばっかり出るんだよ……。お前らが鈍すぎて気づいてねぇだけだろ、絶対」
「モランさん、気に入られたんじゃないですか?」
「やめろ!」
「ほんの一瞬しか見てないけど、にこにこしてて可愛らしい人だったよ?」
「笑ってんのが逆に怖えよ!! それにどんな美女でもいきなり背後に立たれてたら普通に驚くだろ、殴って追い払える相手じゃないからどうしようもねぇし!!」
モランは自分の膝を拳で打ちながら熱弁した。
毎度これだけ良いリアクションをしてくれたら幽霊も喜ぶのではないだろうか。気に入られたという説もあながち間違っていないように思える。
「ルイスとフレッドは、彼女を見たことはないのかい?」
アルバートの問いに、二人は揃って頷いた。
「あ、でも、僕は彼女でなければ見たことがありますよ」
「はぁ!?」
「ほう。それはどんな?」
「ほんの数日前の、深夜です。兄さんがお休みになられたのを見届けて僕も部屋に下がったのですが、ティーセットを流しに置いたまま、片付けるのを忘れていたことを思い出したんです」
モランが「それくらい次の日でいいじゃねぇか」と茶々を入れたが、ルイスは無視して話を続ける。
「自分の部屋を出て一階に下りると、キッチンの方から人の気配がしました。食器が触れあうような物音も……。てっきり、モランさんがまた盗み食いでもしているのかと思って、現場を抑えようと足音を殺してキッチンへ向かいました。
廊下からそっとキッチンを覗き込むと、そこに人影は無く……、かわりに、一対の白い手が浮かんでいました」
「手?」
「はい。暗闇の中に、真っ白い、女性の手だけが。水道の蛇口をひねって、僕がしまい忘れていたティーセットを洗ってくれていたんです」
アルバートが興味深げに、ほぅ、と顎に手を当てた。
「それで、どうなったんだい?」
「それだけです。食器を洗い終えて、蛇口を締めて水が止まると同時に白い手もふっと消えてしまいました」
「へぇ、不思議な話だね」
「ちなみに、今お使いいただいているのがそのときのティーセットです」
「そういうオチはいらねぇんだよ!!」
がちゃんと音を立てて、モランが叩きつけるようにカップをソーサーに戻した。ルイスが眉を吊り上げる前にフレッドはふきんを手にとって駆け寄った。大丈夫、割れてはいない。
「不思議だけど、なんだが心温まる話だね」
「ああ、ルイスの紅茶がますます味わい深くなったようだよ。この屋敷のメイドだったのかな?」
「正気かお前ら……」
モランが頭を抱えながら呻いた。
「ふむ。となると、この屋敷には少なくとも二人の先住者がいるのかな?」
「あ、兄さん。『旦那様』のお話はされなくてもよいのですか?」
「『旦那様』?」
モランとアルバートが声を揃えて問い返した。どうやら、初耳なのはフレッドだけではなかったらしい。
ウィリアムはうーん、と首を捻っている。
「僕、別に幽霊だとは思ってないんだけどなぁ」
「まだいんのかよ!? 勘弁してくれ……」
「聞かせてくれないか、ウィル」
「はい。ええと……このダラムに来てから、二階にある僕の書斎で夜更かししていると、よく同じ夢を見るんです」
「夢?」
「はい。僕は書斎で論文を書いたり、本を読んだりしています。すると、誰かが部屋をノックします。僕はてっきりルイスだろうと思って『どうぞ』と返事をするのですが、入ってくるのは口ひげを生やした紳士なんです。
何というか、色褪せた肖像画から飛び出してきたような……威厳があるけれどどこか古めかしい雰囲気の方でした。服装や髪型がそう思わせるのかもしれません。彼は暖炉の前のソファに腰掛けて、僕に話しかけてきます。内容はよく覚えていないのですが……歴史や文学に造形が深くて、僕の数学の話も面白そうに聞いてくれたとおぼろげに記憶しています。とにかく博学な方で、気がつけばつい話し込んでしまうんです」
「ほう」
「だけど最後はいつも同じで、誰かがまたドアをノックするんです。そして、部屋の外から『旦那様、お時間ですよ』と年配の女性の声がして、そこでいつも目が覚めます」
「………」
これといった何かが起こっているわけでもないのに、なんだか不気味な後味だ。さすがのアルバートも、静かに紅茶を啜っている。
しかし当のウィリアムは、犯罪相談役として見せる怜悧さを欠片も感じさせないほど、のんびりとした仕草で首をひねっていた。
「その声だけは何故かはっきり耳に残るんですよね。『旦那様』の話はほとんど覚えていないのに」
「これで少なくとも四人か。なかなか賑やかだね」
「いやいやいや。ウィリアムが聞いたその『声』ってのが、ルイスの見た『手だけのメイド』と同じやつかもしれないだろ。少なくとも三人、だ」
四人も三人も変わらないように思えるが、モランは一応抵抗した。
「フレッドは?」
「え」
「フレッドはどうだい? そういう不思議なものを見たことがあるかな?」
「……いえ。僕は何も、見ていません」
フレッドは首を振った。
「そうなのか。幼い子供や動物のほうが、霊的な存在には敏感だとよく聞くのだが」
「アルバート兄さん、フレッドだってもうそう幼くはありませんよ」
「ぼーっとしてるから気づいてないだけだろ」
「しかし、我が家が本物の幽霊屋敷だと広まってしまうのはあまり都合が良くないのではないでしょうか」
ルイスの言葉に、一同は深く頷いた。
「街でも、少し噂になっているようでした。その場では否定しましたが……」
「悪ガキどもが肝試しに潜り込んできたら厄介だな。機密資料の大半はロンドンの屋敷とはいえ、こっちにも見られちゃマズいもんはある」
「それならちょうどいい。僕にプランがあるんだ」
「と、言うと?」
「新しい心霊スポットをでっち上げるんだよ」
ウィリアムは人差し指をぴっと立てながら、言った。その表情は新しい悪戯を提案する少年のようで、皆も自然と彼の話に惹きつけられる。
「学生たちの間でも、フリーダさんが身投げした橋で似たような噂が持ち上がってるみたいでね。面白半分に騒がれるのは彼女にとっても本意ではないだろうし、何とかしたいと思っていたんだ」
「それは面白そうなプランだね」
「同感だ。ついでにここの連中もそっちに引越していってくれたらいいんだが……」
犯罪卿とその仲間たちは、普段とは打って変わってどこか和やかな雰囲気で『計画』を練り始めた。
*
その夜、フレッドが屋敷に戻ったのは深夜に近い時間帯だった。情報収集のため街に出ていたらすっかり遅くなってしまったのだ。偽心霊スポットに仕立て上げられそうな候補地の情報もいくつか仕入れられたから、明日さっそくウィリアムに報告しよう。
三階の使用人フロアに上がると、廊下に人影があった。明かりも持たずに突っ立っていたから、自分と同じく三階で寝起きしているモランかと思ったが、違っていた。
「アルバート様?」
「ご苦労様、フレッド。早かったね」
「え?」
「ああ、庭にいる君の影が見えてね。上がってくるのが早かったね、という意味だよ。遅くまで大変だったね」
「……どうかされましたか? こんな所で……」
「いや、なに。こうしていれば例の『お嬢さん』に会えないものかと思ったんだがね。まさか私が女性に待ちぼうけを食らわされる日が来るとは」
アルバートは冗談めかして笑ったが、彼に秋波を送るご令嬢たちが耳にしたらさぞ悔しがるだろう。
「……おそらくですが、『お嬢さん』は三階には姿を見せませんよ」
「おや、そうなのかい?」
「えぇ。モランから聞いた限りでは、三階に出たことは一度もありません。ウィリアムさんが彼女を見たのも、広間の大鏡だったそうです」
「そうだったのか」
「服装からして身分のある女性だったようですし、使用人フロアには上がってこないのではないでしょうか」
「なるほど、生前の行動範囲か」
アルバートがぽんと手を叩いた。
モランが文句を言いつつこの屋敷での暮らしに何とか耐えているのも、寝室の周りに彼女が現れないことが大きいだろう。幽霊といえど異性の寝室にまでは入り込まないあたり、彼女はやはり立派な淑女であった。
「あくまで推測なのですが……」
「いや、大佐にばかり顔を見せると聞いたから、彼の部屋のそばの方が可能性があると思い込んでいたよ。ありがとう、フレッド」
「いえ……」
「となると、『お嬢さん』にお目通りするのは諦めて、ウィルの部屋で『旦那様』を待ってみようかな。『手だけのメイド』を探そうにも、わざと食器を出しっぱなしにしておくのは忍びないからね」
「……そんなに、会ってみたいものですか?」
フレッドの質問に、アルバートは「信じてはいないよ」と唇の端を上げながら答えた。
「もし本当に幽霊なんてものがいるとしたら、真っ先に私のところにやって来るだろうからね。……だからこそ、本当にいるのなら見てみたいと思ったんだ」
アルバートはそう言って、踵を返した。
「じゃあ、おやすみ、フレッド。君の熱心さには庭の花たちも喜んでいるだろうけど、あまり無理はしないようにね」
「……はい、おやすみなさい。アルバート様」
*
あくる朝、フレッドは日の出とともにベッドを出た。
身支度を整えて一階へ降りると、ルイスもすでに起きているらしい。キッチンの方から温かい空気とパンの焼けるいい匂いが流れてくる。
フレッドはまっすぐに庭へ出た。
ウィリアムたちが起きてくる前に、花瓶の花を入れ替えておきたかったからだ。芝生はまだ夜露に湿っていて、朝のしんと冷えた空気を吸い込むと、すっきりと気分が良くなる。
このダラムの屋敷の温室は、ロンドンの本邸のそれに比べると小さく、まだ花も疎らであった。それでも、気のいい住民たちに株ごと分けてもらった薔薇たちが少しずつ元気を出し始めたところだ。
フレッドは特に美しく咲いた薔薇の幾本かを切り取り、温室の隅の小さな作業台に運んだ。花瓶にさす前に、棘を落としておかなければならなかった。
ハサミを茎に滑らせる。軽く力を込めると、小さな棘がぷちぷちと落ちていった。葉の影に落とし忘れがないか確認し、次の一輪へ手を伸ばす。
その時、ちゃぷん、と水の跳ねる音がした。
フレッドは思わず振り返る。
蛇口を締め忘れただろうか?
しかし水道は温室の外だ。水が漏れていたとしてもここまで水音が聞こえるはずがない。そもそも今朝はまだ水やりはしていないので水道に触れてもいなかった。
訝しんでいると、またちゃぷりと水が跳ねた。
息を潜めていたから、今度は音の発生源がわかった。すぐ足元だ。フレッドは作業台の下を覗き込んだ。
「……あ」
足元に置いてあったじょうろに水が並々と注がれていて、その中を魚が泳いでいた。二、三匹はいる。フレッドの親指ほどの大きさしかない魚とはいえ、じょうろの中に押し込められて窮屈そうだ。
魚たちが飛び出さないように注ぎ口を手で抑えながら、小走りに温室を出た。
屋敷の裏庭には、石を組んで作られた小さな溜め池がある。水の中にじょうろごと浸けこむと、魚たちはすいすいと泳いで出ていった。その姿は濁った水の中に紛れてすぐに見えなくなる。
じょうろが空になったのを確かめてほっと息をつくと、背後からくすくすと忍び笑いが聞こえた。
「……もう。駄目だよ、生き物にいたずらしちゃ」
指先から適当に水気を払って、フレッドは温室に戻った。さくさくと芝生を踏む足音が、後ろからもうひとつ付いてくる。
「じょうろみたいに狭いところに押し込められると、魚でも息ができなくなって死んじゃうんだよ」
口にしてから、無神経な言葉だっただろうかと少し後悔した。
この庭にも、幽霊と呼ばれるべき存在はいた。
庭仕事をしているといつの間にか後ろをついてきて、フレッドの手袋やハサミを隠したり、タイルの上に泥の手形を残したりと、時折かわいい悪戯をしかけてくる。おそらくはまだ小さな男の子だ。姿を見たことはなかったから、「何も見ていない」という言葉は嘘ではない。
昨夜アルバートに姿を見られていたことを教えてあげた方がいいだろうかと逡巡したが、結局やめにしておいた。アルバートは彼の影をフレッドと勘違いしていたし、自分の胸のうちにしまっておけば問題ないだろう。恥ずかしがりの彼が、この庭にまで居づらくなってしまったら可哀想だ。
作業台に戻ったフレッドは、棘取りを再開した。
斜め後ろに、気配を感じる。姿は見えなくてもそこにいるのがわかる。フレッドの背中越しに作業台を覗き込んで、熱心に見学しているようだった。
彼が――彼らが、何を思ってこの場所に留まって、何のために自分たちにその存在をアピールするのかはわからない。それでも、フレッドは別段彼らのことを恐ろしいとは思わなかった。
フレッドは池には魚が泳いでいたほうが嬉しいし、花壇には花がないと寂しいと思う。きっと彼らも、空き家よりも人が住んでる家のほうが好きなのだろう。
「きれいに咲いたよ」
呟くと、背後の彼が笑みを漏らすのがわかった。
温室を出て扉を閉めると、作業台の上に一輪だけ残された薔薇が、風もないのにころりと転がった。
さて、アルバートは幽霊に会えただろうか。
フレッドはまだ朝露に濡れた薔薇を腕に抱えて、朝食の席に向かった。
初出:Pixiv 2023.01.30