No.31
また朝が来たら
人狼パロ本編①と②の間のお話。
小さな寝息が聞こえてきて、フレッドはそっと身体を起こした。
椅子の上で、ブランケットで首元まですっぽり覆い隠して、ルイスが寝息を立てている。足音を立てないようにそっと近づいて、首を伸ばしてその顔を覗き見る。
記憶の中の彼より背が伸びて、頬の丸みが取れて、声が低くなっている。撫でてくれた手のひらも、あの頃とは違って指先がすらりと伸びた大きな手のひらに変わっていた。
それでも、彼は変わらず優しかった。
フレッドは左の前足に巻いてもらった包帯に鼻先を寄せた。
モランにも怪我の手当をしてもらったことはある。ウィリアムやアルバートだって、夜にこの姿で会うと必ずと言っていいほど頭を撫でてくれた。もちろん、そのどれもが嬉しかった。
けれどこんなふうに、走り出したいほどの衝動に襲われることがあっただろうか。
彼が息をしているのが聞こえる。
間に合って良かった。
狼たちがざわつく気配に嫌な予感がして、様子を見に行ってみたのは偶然だった。彼が追われていると分かったときは心臓が止まるかと思った。
この姿でよかった、と思ったのは生まれて初めてかもしれない。フレッドは声を立てないように注意しながら、しばらく彼の足元にうずくまっていた。
やがてフレッドは静かに立ち上がって、ドアの脇の小さな板戸をくぐった。
小屋の外に出ると、研ぎ澄まされた感覚が瞬時に周囲の状況を把握する。木立の向こう、真っ黒に塗りつぶされた闇の中から、微かな足音と息遣いを感じた。
(いる……)
先ほど追い払った群れの狼たちだ。
フレッドは注意深く小屋の前に腰を据えた。
攻撃の気配はない。が、じっとこちらを窺っている。
怒っているだろうか。それも無理はない話だ。
彼らからすれば、自分たちの領域に踏み込んできた人間に思い知らせてやろうとしただけにすぎない。フレッドはそこにしゃしゃり出てきて噛みついたのだ。
森の中でのフレッドの立場は微妙だった。
狼たちと何回か対話を試みたことはある。けれど――やはりと言うべきか、彼らはフレッドを異物として認識した。中途半端に姿形が似ている分、よりいっそう強い忌避感を抱いているようだった。
結局彼らと歩み寄ることは叶わず、フレッドはおそらく『人間側に属する何か』として認識されている。数年間モランのもとで暮らしていたことも大きいのだろう。
実際には人間たちともそこまで深く関わっているわけではないのだけれど、それは彼らにとってはどうでもいいことだ。
そういうわけで、フレッドと狼たちはお互いに干渉せず、ほどほどの距離を保って暮らしてきた。
今回の一件を彼らはどう捉えるだろう。
もし彼らが獲物を奪い返しにフレッドの縄張りに踏み込んでくるのであれば、戦うつもりだ。この扉は朝まで守り抜く。
フレッドはじっと小屋の前に伏せていた。
怯えも緊張もない、ただ静かな気持ちだった。
どれくらいの間そうしていただろう。木陰から様子をうかがっていた一頭がくるりとこちらに背を向けた。彼に続いて、小屋を取り囲んでいた他の狼たちもゆっくりと去っていく。
気配が完全に消えたのを見届けて、フレッドは立ち上がった。そしてようやく、小さく安堵する。
争わずに済むならそれに越したことはない。ここでフレッドたちに手を出せば、銃を手にした森番や街の人間たちが動くだろう。人間を敵に回すことは彼らも避けたいはずだ。
フレッドはその場で伸びをして、思考を人間の世界へと切り替える。
今、何時だろう。
狼の姿になると時間の感覚がいくらか鈍るが、零時は確実に回っているはずだ。
フレッドは板戸に頭だけを突っ込んで、小屋の中を覗いた。ルイスは先程と同じ姿勢で眠っている。もし目を覚ましたとしても、夜が明ける前にわざわざ小屋の外に出たりはしないだろう。
彼のそばに戻りたい気持ちをぐっとこらえて、フレッドは一気に駆け出した。
今この姿のフレッドには、夜の闇は関係ない。地面を蹴る度、立ち並んだ木々がぐんぐんと後ろに流れていった。
木立を抜け、高台に辿り着いた。坂道を一息に駆け上がったから、少しだけ息が上がっていた。
足元に気を配りながら、首を伸ばして身を乗り出すと、遠くに街の明かりが見える。
(あ、やっぱりウィリアムさん達、起きてる……)
ひときわ大きなお屋敷の窓から、煌々と明かりが漏れているのがわかった。ルイスが戻らないから、きっと心配しているのだろう。
さて、どうしようか。
フレッドは尻尾をゆらゆら揺らしながら考えた。
ルイスが無事でいることをすぐに知らせに行くべきだろうが、今街まで下りていくのはリスクが大きい。ウィリアムたち以外にも起きている人間がいるかもしれないからだ。狼の姿で彼らに見つかってしまうと大騒ぎになる。
人目につかずに屋敷まで行くルートはいくつか知っていたが、人間たちがルイスを探して普段通らない道をうろついている可能性は十分にあった。
となると、やはりモランを頼るのが無難だろう。
フレッドはもう一度森の中を走った。
モランの森番小屋には、明かりが灯っていなかった。切り株に刺さったままの薪割り用の手斧がなんだかもの寂しい。
裏手に回って、ひっそりと取り付けられたフレッド用の板戸に身を潜り込ませた。
また酒場に出かけて留守だろうかという不安は、部屋の中に残る香ばしい匂いを嗅いだ瞬間に消え去った。彼が数時間以内にここで食事を摂った証拠だ。
台所を抜けて暗い廊下を進むと、ぐぅぐぅとモランのいびきが聞こえてくる。
モランは寝室のドアを閉めない。
それはおそらく、フレッドと暮らしていた頃の習慣の名残だ。おかげでドアノブに煩わされることもなく、すんなりと彼の枕元までやって来ることができた。
どうやって起こそうかと逡巡したが、彼はフレッドがベッドに近づくとすぐさま身を起こした。まだ開ききっていない目が、フレッドの姿を捉える。
「……何だ、お前か」
寝起きとは思えない、明瞭な発音だった。
お酒にも女性にもだらしないようで、いざという時は目をみはるほど機敏に動く。フレッドはモランのこういうところを信頼していた。
「狼に寝室に潜り込まれるって心臓に悪ぃな……で、どうかしたか? 火事か?」
(ちがう)フレッドは首を振った。
何の用事もなく、フレッドが夜中にわざわざ訪ねてくることはない。そのことを分かっているから、モランは眠い目を擦りながら明かりを点けた。
「じゃあ怪我人か」
(ちがう)
「密猟者?」
(ちがう)
「遭難者」
(おしい)
「遭難か? 場所は?」
モランは壁に貼りつけてあった地図を剥がして、床に広げた。フレッドは前足で位置を指し示す。
「お前んちじゃねーか」
(そう)
「危険な状況ってわけでもなさそうだな」
頷くと、モランは姿勢を崩して床に胡座をかいた。ふぁあ、とひとつ大あくび。
「道に迷ったやつに居座られてんのか? こんな時間に森に入り込むなんて、密猟者じゃねーのか」
(ちがう)
「街の人間? 知ってる奴か?」
フレッドは頷いた。
それがルイスであることをどう伝えようかと迷った時、アルコールの匂いが鼻をついた。窓辺のテーブルの上に、ワインボトルと空のグラスがある。寝る前に飲んだまま、出しっぱなしなのだろう。
モランは普段ワインをあまり飲まない。おそらく誰かにもらったもののはずだ。そしてボトルの中の赤い液体がグラス一杯分だけ減っているところを見るに、どうやら開けたばかりらしい。
フレッドはテーブルに駆け寄って、ワインボトルを指し示した。
モランは眉根を寄せる。
「ワイン? アルバート……いや、ルイスか!」
肯定するように一声吠えた。
この時間帯、狼の姿のフレッドは当然喋れない。不便ではないかと心配されることもあったけれど、普段から無口なフレッドが夜の間だけ喋れなくなったところで思ったより意思疎通には困らなかった。今ではもう慣れたもので、昔アルバートにもらったアルファベット表は、折り畳まれて棚の隅で埃を被っていた。
モランがため息をつきながらがしがしと頭を掻く。
「はーっ、何やってんだあいつ。後でウィリアム達にどやされるな……やっぱり送っていくんだった……」
重い腰を上げて、モランは身支度を始めた。
「それで、お前とうとうバレたのか」
(バレてはない……一応)フレッドは首を振った。
「まぁ時間の問題だろ。いい機会だし、もう名乗りでちまえよ……あー、わかったわかった。黙っとくから噛むなって」
モランは手にしていたベルトを軽く振って、フレッドを追い払った。
「ったく……うわ、もう三時過ぎてるのか。先にルイス迎えに行った方がいいな」
コートのポケットに入れっぱなしの懐中時計を取り出して、モランがつぶやいた。
「お前、ウィリアムたちのとこに知らせに行けるか?」
(多分無理)
今は街に近づかない方が得策だろう。フレッドが首を振ると、モランも理由に思い当たったようだった。
ウィリアムもアルバートも、帰らない弟を心配して街中探し回っているだろう。昼間にモランのところを訪ねていたことは知っているはずだから、今頃は街の人たちが、彼らが夜の森に踏み込まないように必死に宥めているはずだ。
「わかった、俺がルイスを迎えに行く。あいつにはうまく言っとくから、お前は後でウィリアムたちに説明しとけよ」
外に出た途端モランが煙草に火を点けたので、フレッドはさり気なく風上に移動する。彼と暮らすうちに多少匂いには慣れたけれど、やはり苦手なものは苦手だ。この姿のうちはなおさら。
「ったく、あいつ何でまっすぐ帰らなかったんだ……」
紫煙を吐きながら、モランがつぶやいた。
そういえば。
フレッドはその理由について思い当たることがあった。ルイスはきっと、万年筆を探していたのだ。眠る前にそんなことを話していた。
夜明けまでまだ時間はある。今のフレッドなら、ルイスが昼間に通ってきた道が何となく分かった。夜目も利くから、落とし物探しもお手の物だ。
先を行くモランは用心として、きっちりと整備された猟銃を背負っていた。彼のことは心配ないだろう。
「おい、どこ行くんだ」
道を外れると、モランが声を上げた。
フレッドは立てた尻尾をくるりと回して応える。二人で決めた、「大丈夫」や「問題なし」の合図だ。
モランがため息をつきながら片手を上げたので、フレッドは振り返らず駆け出した。
万年筆の一本くらい、朝になってからゆっくり探すこともできただろう。それでも、彼ががっかりしながら家に帰らずに済むように、なるべく早く見つけて渡してあげたかった。
あと一時間と少しで夜が明ける。
夜の森を吹き抜ける風のように、音もなく、フレッドは走った。
初出:Pixiv 2023.06.11
« No.30
/
No.32 »
Novels Top
expand_less
人狼パロ本編①と②の間のお話。
小さな寝息が聞こえてきて、フレッドはそっと身体を起こした。
椅子の上で、ブランケットで首元まですっぽり覆い隠して、ルイスが寝息を立てている。足音を立てないようにそっと近づいて、首を伸ばしてその顔を覗き見る。
記憶の中の彼より背が伸びて、頬の丸みが取れて、声が低くなっている。撫でてくれた手のひらも、あの頃とは違って指先がすらりと伸びた大きな手のひらに変わっていた。
それでも、彼は変わらず優しかった。
フレッドは左の前足に巻いてもらった包帯に鼻先を寄せた。
モランにも怪我の手当をしてもらったことはある。ウィリアムやアルバートだって、夜にこの姿で会うと必ずと言っていいほど頭を撫でてくれた。もちろん、そのどれもが嬉しかった。
けれどこんなふうに、走り出したいほどの衝動に襲われることがあっただろうか。
彼が息をしているのが聞こえる。
間に合って良かった。
狼たちがざわつく気配に嫌な予感がして、様子を見に行ってみたのは偶然だった。彼が追われていると分かったときは心臓が止まるかと思った。
この姿でよかった、と思ったのは生まれて初めてかもしれない。フレッドは声を立てないように注意しながら、しばらく彼の足元にうずくまっていた。
やがてフレッドは静かに立ち上がって、ドアの脇の小さな板戸をくぐった。
小屋の外に出ると、研ぎ澄まされた感覚が瞬時に周囲の状況を把握する。木立の向こう、真っ黒に塗りつぶされた闇の中から、微かな足音と息遣いを感じた。
(いる……)
先ほど追い払った群れの狼たちだ。
フレッドは注意深く小屋の前に腰を据えた。
攻撃の気配はない。が、じっとこちらを窺っている。
怒っているだろうか。それも無理はない話だ。
彼らからすれば、自分たちの領域に踏み込んできた人間に思い知らせてやろうとしただけにすぎない。フレッドはそこにしゃしゃり出てきて噛みついたのだ。
森の中でのフレッドの立場は微妙だった。
狼たちと何回か対話を試みたことはある。けれど――やはりと言うべきか、彼らはフレッドを異物として認識した。中途半端に姿形が似ている分、よりいっそう強い忌避感を抱いているようだった。
結局彼らと歩み寄ることは叶わず、フレッドはおそらく『人間側に属する何か』として認識されている。数年間モランのもとで暮らしていたことも大きいのだろう。
実際には人間たちともそこまで深く関わっているわけではないのだけれど、それは彼らにとってはどうでもいいことだ。
そういうわけで、フレッドと狼たちはお互いに干渉せず、ほどほどの距離を保って暮らしてきた。
今回の一件を彼らはどう捉えるだろう。
もし彼らが獲物を奪い返しにフレッドの縄張りに踏み込んでくるのであれば、戦うつもりだ。この扉は朝まで守り抜く。
フレッドはじっと小屋の前に伏せていた。
怯えも緊張もない、ただ静かな気持ちだった。
どれくらいの間そうしていただろう。木陰から様子をうかがっていた一頭がくるりとこちらに背を向けた。彼に続いて、小屋を取り囲んでいた他の狼たちもゆっくりと去っていく。
気配が完全に消えたのを見届けて、フレッドは立ち上がった。そしてようやく、小さく安堵する。
争わずに済むならそれに越したことはない。ここでフレッドたちに手を出せば、銃を手にした森番や街の人間たちが動くだろう。人間を敵に回すことは彼らも避けたいはずだ。
フレッドはその場で伸びをして、思考を人間の世界へと切り替える。
今、何時だろう。
狼の姿になると時間の感覚がいくらか鈍るが、零時は確実に回っているはずだ。
フレッドは板戸に頭だけを突っ込んで、小屋の中を覗いた。ルイスは先程と同じ姿勢で眠っている。もし目を覚ましたとしても、夜が明ける前にわざわざ小屋の外に出たりはしないだろう。
彼のそばに戻りたい気持ちをぐっとこらえて、フレッドは一気に駆け出した。
今この姿のフレッドには、夜の闇は関係ない。地面を蹴る度、立ち並んだ木々がぐんぐんと後ろに流れていった。
木立を抜け、高台に辿り着いた。坂道を一息に駆け上がったから、少しだけ息が上がっていた。
足元に気を配りながら、首を伸ばして身を乗り出すと、遠くに街の明かりが見える。
(あ、やっぱりウィリアムさん達、起きてる……)
ひときわ大きなお屋敷の窓から、煌々と明かりが漏れているのがわかった。ルイスが戻らないから、きっと心配しているのだろう。
さて、どうしようか。
フレッドは尻尾をゆらゆら揺らしながら考えた。
ルイスが無事でいることをすぐに知らせに行くべきだろうが、今街まで下りていくのはリスクが大きい。ウィリアムたち以外にも起きている人間がいるかもしれないからだ。狼の姿で彼らに見つかってしまうと大騒ぎになる。
人目につかずに屋敷まで行くルートはいくつか知っていたが、人間たちがルイスを探して普段通らない道をうろついている可能性は十分にあった。
となると、やはりモランを頼るのが無難だろう。
フレッドはもう一度森の中を走った。
モランの森番小屋には、明かりが灯っていなかった。切り株に刺さったままの薪割り用の手斧がなんだかもの寂しい。
裏手に回って、ひっそりと取り付けられたフレッド用の板戸に身を潜り込ませた。
また酒場に出かけて留守だろうかという不安は、部屋の中に残る香ばしい匂いを嗅いだ瞬間に消え去った。彼が数時間以内にここで食事を摂った証拠だ。
台所を抜けて暗い廊下を進むと、ぐぅぐぅとモランのいびきが聞こえてくる。
モランは寝室のドアを閉めない。
それはおそらく、フレッドと暮らしていた頃の習慣の名残だ。おかげでドアノブに煩わされることもなく、すんなりと彼の枕元までやって来ることができた。
どうやって起こそうかと逡巡したが、彼はフレッドがベッドに近づくとすぐさま身を起こした。まだ開ききっていない目が、フレッドの姿を捉える。
「……何だ、お前か」
寝起きとは思えない、明瞭な発音だった。
お酒にも女性にもだらしないようで、いざという時は目をみはるほど機敏に動く。フレッドはモランのこういうところを信頼していた。
「狼に寝室に潜り込まれるって心臓に悪ぃな……で、どうかしたか? 火事か?」
(ちがう)フレッドは首を振った。
何の用事もなく、フレッドが夜中にわざわざ訪ねてくることはない。そのことを分かっているから、モランは眠い目を擦りながら明かりを点けた。
「じゃあ怪我人か」
(ちがう)
「密猟者?」
(ちがう)
「遭難者」
(おしい)
「遭難か? 場所は?」
モランは壁に貼りつけてあった地図を剥がして、床に広げた。フレッドは前足で位置を指し示す。
「お前んちじゃねーか」
(そう)
「危険な状況ってわけでもなさそうだな」
頷くと、モランは姿勢を崩して床に胡座をかいた。ふぁあ、とひとつ大あくび。
「道に迷ったやつに居座られてんのか? こんな時間に森に入り込むなんて、密猟者じゃねーのか」
(ちがう)
「街の人間? 知ってる奴か?」
フレッドは頷いた。
それがルイスであることをどう伝えようかと迷った時、アルコールの匂いが鼻をついた。窓辺のテーブルの上に、ワインボトルと空のグラスがある。寝る前に飲んだまま、出しっぱなしなのだろう。
モランは普段ワインをあまり飲まない。おそらく誰かにもらったもののはずだ。そしてボトルの中の赤い液体がグラス一杯分だけ減っているところを見るに、どうやら開けたばかりらしい。
フレッドはテーブルに駆け寄って、ワインボトルを指し示した。
モランは眉根を寄せる。
「ワイン? アルバート……いや、ルイスか!」
肯定するように一声吠えた。
この時間帯、狼の姿のフレッドは当然喋れない。不便ではないかと心配されることもあったけれど、普段から無口なフレッドが夜の間だけ喋れなくなったところで思ったより意思疎通には困らなかった。今ではもう慣れたもので、昔アルバートにもらったアルファベット表は、折り畳まれて棚の隅で埃を被っていた。
モランがため息をつきながらがしがしと頭を掻く。
「はーっ、何やってんだあいつ。後でウィリアム達にどやされるな……やっぱり送っていくんだった……」
重い腰を上げて、モランは身支度を始めた。
「それで、お前とうとうバレたのか」
(バレてはない……一応)フレッドは首を振った。
「まぁ時間の問題だろ。いい機会だし、もう名乗りでちまえよ……あー、わかったわかった。黙っとくから噛むなって」
モランは手にしていたベルトを軽く振って、フレッドを追い払った。
「ったく……うわ、もう三時過ぎてるのか。先にルイス迎えに行った方がいいな」
コートのポケットに入れっぱなしの懐中時計を取り出して、モランがつぶやいた。
「お前、ウィリアムたちのとこに知らせに行けるか?」
(多分無理)
今は街に近づかない方が得策だろう。フレッドが首を振ると、モランも理由に思い当たったようだった。
ウィリアムもアルバートも、帰らない弟を心配して街中探し回っているだろう。昼間にモランのところを訪ねていたことは知っているはずだから、今頃は街の人たちが、彼らが夜の森に踏み込まないように必死に宥めているはずだ。
「わかった、俺がルイスを迎えに行く。あいつにはうまく言っとくから、お前は後でウィリアムたちに説明しとけよ」
外に出た途端モランが煙草に火を点けたので、フレッドはさり気なく風上に移動する。彼と暮らすうちに多少匂いには慣れたけれど、やはり苦手なものは苦手だ。この姿のうちはなおさら。
「ったく、あいつ何でまっすぐ帰らなかったんだ……」
紫煙を吐きながら、モランがつぶやいた。
そういえば。
フレッドはその理由について思い当たることがあった。ルイスはきっと、万年筆を探していたのだ。眠る前にそんなことを話していた。
夜明けまでまだ時間はある。今のフレッドなら、ルイスが昼間に通ってきた道が何となく分かった。夜目も利くから、落とし物探しもお手の物だ。
先を行くモランは用心として、きっちりと整備された猟銃を背負っていた。彼のことは心配ないだろう。
「おい、どこ行くんだ」
道を外れると、モランが声を上げた。
フレッドは立てた尻尾をくるりと回して応える。二人で決めた、「大丈夫」や「問題なし」の合図だ。
モランがため息をつきながら片手を上げたので、フレッドは振り返らず駆け出した。
万年筆の一本くらい、朝になってからゆっくり探すこともできただろう。それでも、彼ががっかりしながら家に帰らずに済むように、なるべく早く見つけて渡してあげたかった。
あと一時間と少しで夜が明ける。
夜の森を吹き抜ける風のように、音もなく、フレッドは走った。
初出:Pixiv 2023.06.11