No.30
また朝が来たら
人狼パロ本編の前日譚。
僕は部屋の隅の木箱の中で目を覚ました。
窓の外から明るい日差しが差し込んで、その中を小さな埃がきらきらと光りながら舞っている。美しく晴れた朝だった。
毛布をかき分けてのろのろと木箱から這い出すと、ちょうどモランもベッドの上で伸びをしていた。
「おはよう」
「おう」
朝の挨拶をすると、モランは大あくびをしながら答えた。僕もつられて、ふぁ、とあくびをした。
「……お前、やっぱりベッドあった方がいいんじゃないか?」
「? 別に平気だけど……」
「うーん、まぁ、夜は……犬っころの姿のうちは別に何とも思わないんだけどなぁ。こっちの姿だとガキを床で寝かせてる罪悪感が……」
ぶつぶつと何か呟いているモランを尻目に、用意しておいた服を着た。
僕の寝床はモランが用意してくれた木箱だ。狼の姿でも出入りがしやすいくらいの高さに切ってくれて、やわらかい毛布が敷いてある。この中で丸くなると木のいい匂いがしてとてもよく眠れた。
人間用のベッドは爪でマットレスを傷つけてしまいそうだし、地面から離れているのが落ち着かない。僕はこの寝床の方がよっぽど好きだった。
寝室を出て、流し台で顔を洗った。
朝、炉に火を入れるのは僕の仕事だ。
背中にモランの視線を感じながら、マッチを擦った。ぱっと燃え上がる炎に怯まないように肩に力を込めながら、薪の上の新聞紙に火を移した。火は瞬く間に燃え広がって、やがて薪がぱちぱちと音を立て始める。僕は慌てて手を引っ込めた。
炎に包まれた薪が、夕焼け空の太陽のように真っ赤になった。木片ではない、違う何かになったみたいだ。
鼻先と頬にじんわりと熱を感じる。
「前髪焦がすぞ」
いつの間にかすぐ後ろに来ていたモランが、僕のシャツの襟首を掴んで下がらせる。
彼は薪の上に五徳を被せると、その上にやかんを乗せて「カップと皿、出してこい」とぶっきらぼうに僕に指示した。
沸かしたお湯でお茶を淹れ、次にフライパンで卵とパンを焼いた。それらに森でとってきた木の実や果物を添えて、僕らの朝ごはんになる。
パンをかじるモランを見るたび、大きな口だと感心した。
誰かと同じテーブルについて食事をするのは不思議な気持ちだ。これまでは昼も夜もずっと一人で、手に入れた僅かな食べ物を口に詰め込むだけだったから。
あの嵐の夜が明けて、僕は僕を助けてくれた男の子(ルイスさん、というらしい)のお兄さんたちに拾われた。彼らは人でも狼でもない中途半端な僕の身の上話を親身になって聞いてくれて、そして、僕をモランに預けた。
モランは最初こそ、朝と夜とが入れ替わるたびに姿を変える僕に目を白黒させていたが、半年も経てばもうすっかり慣れてしまったようだった。
前に、僕のことが怖くないのかと聞いたとき、モランは大笑いした挙げ句「お前なんかより虎のほうがよっぽど怖い」と答えた。
『トラって何』
『何って……うーん、猛獣だよ。オレンジと黒の縞模様で、噛みつかれたら牛だってひとたまりもない。腕はお前の胴体ぐらい太いな』
僕は自分のお腹のあたりを見下ろした。
トラは知らないけど牛は見たことがある。大きくて、爪も牙もない大人しい生き物だ。寒い夜は彼らの寝床に入れてもらうことも度々あったけど、前にうっかり踏み潰されそうになって以来あまり近寄らないようにしている。あの山のような巨体を倒してしまうのならそれは強くて恐ろしい生き物なのだろう。
『この森にはトラ、いる?』
『いねぇよ。ずっと南の、暑いところに住んでるんだ』
『モランは見たことある?』
『あるさ。こいつで仕留めて絨毯にしてやった』
モランは壁にかけてあった猟銃を顎で示した。
モランは牛よりも強いトラをやっつけたことがあると言う。僕は多分、牛にだって敵わない。だからモランが僕を怖がる理由もない、ということなのだろうか。何かがズレている気がしたけれど、そのときはそれでつい納得してしまった。
「おら、食い終わったなら皿洗え」
モランに肩を叩かれた。
ぼぅっと考え事をしていた僕は、カップに残った冷めたお茶を慌てて飲み干して、テーブルの上の食器をかき集めた。
踏み台に乗り、流しに溜めた水で汚れた食器をじゃぶじゃぶと洗う。多少汚れが残っていてもモランは気にしないけれど、僕は何となく嫌だったので、皿にくっついた目玉焼きの黄身まで綺麗に洗い流した。
「今日は何するの」
濡れた手をタオルで拭いながら、ブーツの手入れをしているモランに尋ねた。
モランは森番だ。
この森の持ち主であるアルバート様に代わって、木々の手入れをしたり道の維持管理をしたりして生活している。時には獣たちが街の近くへ出ていかないように脅かして追い払ったり、道に迷った人間を助けたりすることもあった。
置いてもらう礼として、僕もその仕事を手伝っている。昼間はともかく、狼の姿になった夜の僕は人間よりもできることが多いので多少は役に立っていた。
けれどモランの答えは、それらの仕事とはなんの関係もないものだった。
「今日は買い出しだ」
僕は内心で落胆した。
卵がもう最後の二つだったしお茶の葉も缶の底が見えるほど少なくなっていたから、そんな気はしていた。
「……いってらっしゃい」
「バカ、お前も来るんだよ。荷物持て」
ぴかぴかに磨いたブーツに足を通しながら、モランが呆れたように笑った。
*
人間の街に出るのはいつも緊張する。
モランの小屋で安定した暮らしをさせてもらえるようになってから、その緊張感はかえって増した。僕の正体がばれたら、モランにも、ウィリアムさんやアルバート様にも、迷惑がかかってしまうからだ。
森の出口が近づいてきて、僕は首に巻いていたストールを頭からかぶった。頭上から、モランの声が降ってくる。
「何ビクビクしてんだ。太陽もまだあんな高いところにあるんだから平気だろ」
「でも、僕のこと知ってる人がいるかも」
「んなわけあるか。人間はお前が思ってるよりずっとたくさんいるんだぞ」
「……そうなの?」
「そうだ。この街だけで何万人と住んでるんだ。皆いちいちお前の顔なんて覚えてねぇよ。もし言いがかりつけられたら『俺の甥におかしなこと言うんじゃねえ』って言ってやるよ」
「うん……」
僕はしぶしぶ、ストールを首に巻き直した。
モランはそう言ったけれど、街の入り口で僕らはすぐによく知った人間に出くわした。
「やぁ、モラン、フレッド」
ウィリアムさんだった。
彼は丸い帽子をちょっと持ち上げて、にこやかに挨拶してみせた。モランも「おう」と片手を上げて応じる。どうやら待ち合わせをしていたらしい。
慌てて周囲を見回す僕に、ウィリアムさんは言った。
「大丈夫、ルイスは今日は学校に行っているよ」
その言葉に、僕はほっと息をついた。
ルイスさんは僕の正体を知らない。あの夜、ずぶ濡れで凍えかけていた僕を助けてくれたきりだ。
今この姿であればもし顔を合わせてしまっても大丈夫だと思う反面、ばれてしまった時のことを思うと恐ろしかった。
「ウィリアムさんは、行かなくていいんですか?」
「学校? 僕とルイスは学年が違うからね。今日学校で行事があるのは、ルイスの学年だけなんだ。僕はお休み」
「ルイスさん、だけ……」
「ああ、もちろん他の生徒たちもいるから、ルイス一人で学校にいるわけではないよ。心配してくれてありがとう」
「……」
僕は黙って首を振った。
そうだ、人間はたくさんいるのだ。
僕はウィリアムさんの背後の大通りを見やった。
大人も子どもも年寄りも、すでに数えきれないくらいたくさんの人たちが行き来している。通りに軒を連ねる建物のひとつひとつがみんな誰かの家だとしたら、この街にはどれくらいの人が住んでいるのだろう。
学校には同じ年頃の子どもたちが集められるそうだから、そこにはルイスさんの友だちもきっとたくさんいるのだろう。
「フレッド、ここでの生活は慣れたかい?」
「え……ええと、はい」
「朝ごはんは何を食べた?」
「パンと目玉焼き……」
僕の答えに、ウィリアムさんはにっこりと笑った。「心配しなくてもちゃんと食わせてるよ」とモランが口を尖らせた。
それからも彼は、森番小屋での生活についてあれこれと質問をした。普段は何をして過ごしているか。一番気に入っている食べ物は何か。モランはお酒を飲みすぎていないか。困っていることはないか。
たびたび答えに詰まる僕を、ウィリアムさんもモランも急かさなかった。
歩きながら話していると、やがて何度か訪れたことがある店に到着した。石鹸とかオイルとか、食べ物以外ならたいていのものが揃っている店だ。
モランは品物と引き換えに、店主にコインを幾枚か渡した。僕もそのうち一人でできるようにならないといけないから、そのやり取りをじっと見ていた。
「フレッド、お会計は六シリングです」
ウィリアムさんが僕に耳打ちした。
彼が広げた手のひらの上に、形も大きさのばらばらのコインが数枚乗っている。僕は教えてもらったことを思い出しながら、コインを指さした。
「これと……これ?」
「正解。じゃあ十シリングは?」
「え。ええと……」
聞かれて、僕は少し焦った。
ウィリアムさんの手の上にあるコインをどう足してみても、十シリングにならなかったからだ。見落としはないかと僕が頭をひねっていると、ウィリアムさんはくすくす笑った。
「ごめんごめん、意地悪な問題だったね。ここにあるコインでは十シリングちょうどになる組み合わせは作れないから、多めに出してお釣りをもらうんだよ」
「お釣り……」
「そう。もらいすぎても少なすぎてもいけないから、しっかり計算しようね」
僕がうなずくと「終わったか?」とモランの声がした。いつの間にか支払いも済んだようで、店主までもがカウンターの向こうでにこにこしながらこちらを見ている。恥ずかしくなってウィリアムさんの後ろに隠れた。
「モランさんに似てなくってかわいいねえ。ぼく、いくつだい?」
「フレッドは今年で九つになります」
僕のかわりにウィリアムさんがはきはきと答えた。
「じゃあ、ルイス坊っちゃんの四つ下ですかい」
店主はあごひげを撫でながら目を細めた。
モリアーティ家の三兄弟がこの街の人たちからとても慕われているのは知っていたけれど、ルイスさんの名前が出てきて僕は少しどきりとした。
「昔、二人でうちに買い物にきてくれたときのことを思い出しましたよ。そうやってちっちゃい手のひらを突き合わせて、ルイス坊っちゃんにお釣りの計算を教えてあげていたでしょう」
「ふふ、そうでしたね」
それはいくつくらいの頃の話なのか、二人で何を買ったのか、聞きたかったけど、言い出せなかった。
「ぼく、そこのブリキの馬、かっこいいだろう。そいつは一シリング七ペンスだよ。ぴったり出せるかな?」
「余計なもの買わせようとすんな!」
店主の軽口に、モランがカウンターを拳で叩いた。彼はさっさと荷物を受け取ると「ほら、お前も持て」と、僕に小さい方の袋を押し付けた。
*
それからも三人で街をぐるぐると歩いた。
街には色んな種類の店がある。
一軒目の店のように雑多な品物が棚という棚に詰め込まれたところもあれば、魚しか売ってない店、野菜しか売ってない店もあった。道端に敷物をしいて品物を並べただけの店もある。ウィリアムさんは天井近くまで本がぎっしり詰まった店に入っていったきりしばらく出てこなかったし、彼を待っている間モランの足元には吸い殻の山ができていた。
くたびれてきた頃、屋台でサンドイッチを買って食べた。
天気が良かったので広場のベンチに座ったのだが、大きな口であっという間に食べ終えてしまったモランは「煙草吸ってくる」と向こうに行ってしまった。
次にウィリアムさんが食べ終わったのだけれど、僕の方がまだ時間がかかりそうだと見るや「慌てなくていいからね」と言って、買ったばかりの本を開いて読み始めた。しばらくして僕がようやく食べ終えても、全く気がついていない。
退屈になって椅子の上で足をぶらぶらさせていると、鉢に植えられた花が目についた。読書に没頭しているウィリアムさんの邪魔をしないように、僕はそっと椅子から飛び降りた。
その鉢植えは、広場の隅の店先にそっと置かれていた。新聞や煙草や飴を売っている店のようだから、誰も花には見向きしない。
しゃがみこんで顔を寄せると、甘いような重たいような、不思議な匂いがした。
この匂いを知っている。
ルイスさんに出会ったあの夜に咲いていた花だ。
ピンク色の薄い花びらが何枚も重なって、花弁はころんとまん丸い。茎には小さな棘があった。明るい場所で見るのはほとんど初めてだったけれど、とても可愛い花だった。
「綺麗でしょう? 最近の生きがいなのよ」
店先の椅子に腰掛けていたおばあさんが、にこにこしながら僕に話しかけてきた。
「あなたが育てたんですか?」
「そうよ」
「すごいですね」
「あら、ありがとう。昔っから大好きなの」
おばあさんは顔をしわくちゃにして笑った。
「若い頃は花壇や温室を作ってたんだけど、この歳になると庭に出るのも大変でね……。坊やにはまだ分からないでしょうけど。鉢植えなら、こうしてすぐそばに置いておけるでしょう?」
僕はしばらくの間、おばあさんのガーデニング談議兼思い出話を聞かせてもらった。背中が曲がって髪も真っ白なのに、楽しそうに話す姿は小さな女の子みたいだった。
話しているうちに、次のお客さんがやってきた。
おばあさんは「はいはい」と明るい声で答えながら、杖をついて大儀そうに立ち上がった。
「また見に来てちょうだいね」
彼女が覚束ない足取りでお客さんの方へ向かうのを見送っていると、大きな手でわしっと頭を掴まれた。
「わ」
「わ、じゃねぇよ。一人でふらふらするな」
「ごめんね、フレッド。ほったらかしにしちゃって」
いつの間にかモランとウィリアムさんが荷物を抱えて後ろに立っていた。
買い物をひと通り済ませて森番小屋へ帰ろうとする僕らを、ウィリアムさんは「あ、待って」と呼び止めた。彼は抱え持った本の中から、ひときわ薄い一冊を抜き取った。
「はい、これ。僕からフレッドに」
おそらく、子供向けの本だ。
あまり詳しくはなかったけれど、ウィリアムさんがよく読んでいるような、分厚くて文字の小さな本とは明らかに違う。
表紙には人間の男の子の絵が描かれていた。木の下に腰掛けて、ひと休みしているところらしい。
「そろそろ読み書きもできるようにならなきゃね。僕も時間を見つけて教えてあげるけど、ひとまずはモランに教わるといい」
「……よみかき」
僕は彼の言葉をオウム返しした。
「そう。できるに越したことはないと思うから」
「…………」
差し出された本を見つめながら、僕は小さく首を傾げた。
読み書きとは――文字とは、人間たちが情報を伝え合うための道具ではないのだろうか。少なくとも僕はそう理解している。モランの小屋に住まわせてもらってから、彼が新聞を読んで外の世界の情報を仕入れたり、遠くに住んでいる人と手紙でやり取りしているのを見てきた。
僕はモランに一人で生きていく術を教わって、もう誰にも迷惑をかけないように静かに暮らすのだ。人間たちの間で何が起こっているのかを知る必要はないし、手紙を送りあう相手もいない。
文字を覚えたところで、何の意味もない。
「フレッド、聞いて」
ウィリアムさんの赤い瞳が、僕の目をまっすぐに覗き込んだ。僕は思わず背筋を伸ばす。
「読むことも書くことも、孤独と戦うためには欠かせない武器だ」
「……こどくと、戦う」
「そう。少なくとも僕はそう考えている。この先どんな人生を選ぶかは君の自由だけど、一人で生きていくことを選ぶなら、読み書きはできたほうがいい。きっと君の助けになってくれるから」
「……?」
逆ではないだろうか、と思った。
一人で生きていくのだから、文字なんか読めなくても困らない。
それなのに。
「これ、小さかった頃ルイスが好きだった本なんだよ」
「…………」
ウィリアムさんがそんなことを言うものだから、僕はついその本を受け取ってしまった。
*
ウィリアムさんと別れて、僕とモランは家路についた。
日暮れまではまだ時間がある。
小道の脇に、ペンキで塗られた小さな看板が立っていた。『街まで二百ヤード』と書かれている。
ヤードは距離を表す単位で、板の尖っている方が街の方角を示しているのだ。モランに教えてもらった。
もっと奥の方へ行けば、『この先立ち入り禁止』とか『蛇に注意』とか書かれた看板もある。
確かに文字が読めないと、道に迷ったり蛇に襲われたりして困ることもあるかもしれない。一人で生きていくのなら、誰かに尋ねるわけにもいかない。
ウィリアムさんが言っていたのは、そういうことなのだろうか。
小屋に帰って、買ったものをあるべき場所に片付けてから、僕はその本を開いた。
ほとんどのページに表紙と同じ男の子が描かれていたから、これはきっとこの男の子に関する話なのだろう。並んだ文字はほとんど読めなかったので、とりあえず絵だけを見てみることにした。
モランがこちらを気にしているようだったけど、僕が自分から声をかけないので彼も放っておいてくれた。
はじめのうちは「絵が上手だな」と思って眺めていたはずなのに、いつしかそんなことは気にならなくなっていた。紙の上に描かれた絵にすぎないはずの男の子や動物たちが、実際に僕の目の前で生きて動いているような気がしてきた。
狐にいじめられて泣いていたうさぎが、次のページではなぜか楽しそうにしていて少しほっとした。この小屋ほどもありそうな大きなトカゲ(に似た生き物)に男の子たちが食べられてしまうのではないかとはらはらした。
こんな生き物がほんとうにいるのだろうか。この森にも住んでいないか、後でモランに聞かないといけない。男の子の足元に咲いている、この花の名前はなんだろう……。
「……あっ」
僕は小さく声を上げた。
本に夢中になるうちに、いつの間にか窓の外は暗くなっていたようだ。ページをめくっていた手にみるみる間に短い毛皮に覆われていく。そのうち椅子にも座っていられなくなって、床の上に這いつくばった。
「お、もうそんな時間か」
猟銃の手入れをしていたモランが窓の外を見た。
人を時計代わりにしないでほしい。僕は不満の声を上げたようとしたが、もう「ウゥ」という唸り声にしかならなかった。
獣の体には合わなくなった人間用の服をその場に脱ぎ捨てて、落ちた拍子にページが閉じてしまった絵本を眺めた。
(……まだ、続きがあったのに)
名残惜しいけれど、今の僕の手ではページをめくれない。爪で紙を傷つけてしまうのは嫌だ。続きは明日、日が昇ってからにしよう。
モランが手を伸ばして、床に落ちた本を拾い上げた。その表紙を一瞥した彼は「お」と声を上げた。
「懐かしいな。まだ読まれてるのか、これ」
モランは椅子に腰掛けて、一ページずつゆっくりと絵本をめくり始めた。足元で見上げている僕に気がつくと、彼は僕の頭をくしゃりと撫でた。
「俺も子供の頃読んでたよ。あぁ、そういえばこんなだったな。ルイスの好きそうな話だ。確か……」
話の続きを聞きたくなくて、僕は部屋の外へ飛び出した。「おい、どこ行くんだ」とモランの声が追いかけてきたけれど、構わず廊下を走り抜けて僕専用の小さなドアから外へ出た。
木々に囲まれた森番小屋の周囲は、すでに真っ暗だった。
モランはただ話をしようとしてくれただけなのに、嫌な態度を取ってしまった。謝りたかったけれど、飛び出した手前すぐに戻るのも気が引けた。少しの間だけ散歩でもすることにして、僕はぶらぶらと森の中を歩いた。
ルイスさんが好きだったというあの本のことを、モランは知っているらしい。僕は知らない。
歩きながら考えた。
ルイスさんには学校に大勢の友だちがいて、ウィリアムさんやアルバート様と数え切れないほどの思い出がある。誰が悪いわけでもないのに、そのことがむしょうに悲しかった。
僕は彼の友だちでも何でもないし、彼と共有できるものを何も持っていない。
あるとすれば、あの夜だけだ。
すっかり日の落ちた森の中を歩き続けるうちに、小さな廃屋に行き当たった。
モランの前の森番が使っていた小屋らしい。
森のかなり深いところにあって街への行き来が不便なので、もう何年も前に捨てられた建物だ。
一人で身の周りのことができるようになったら、僕はここに移り住むと決めていた。モランは「ずっとここにいればいい」と遠回しに言ってくれたけれど、それだけは譲れなかった。
僕は自分の正体を人に知られるのが怖い。
そして他の誰よりも、ルイスさんにだけは知られたくなかった。
凍えながら一人で死ぬところだった僕を助けてくれた。膝の上に乗せて、頭を撫でてくれて嬉しかった。僕のせいで風邪をひいて苦しい思いをさせてしまった。
お礼を言って、謝りに行かなければならないと何度も何度も考えたけれど、彼に何と説明すればいい。人でも狼でもない怪物であることを告白して、それで何になるだろう。
僕を普通の子犬だと思い込んでいた彼は、僕のことを飼いたがっていた。友だちになれたかもしれなかった。彼に正体を知られて拒絶されない限り、あの言葉はいつまでも嘘にはならないと思いたかった。
廃屋の周りをぐるぐる歩いているうちに、大きめのカップのようなものが地面に転がっているのに気がついた。
ぼろぼろになってひび割れた植木鉢だった。
鼻先でつついて転がすと、下から小さな虫が這い出した。長い間放置されるうちに植えられていた植物は朽ちてしまったらしい。底の方に干からびた土だけが残っている。
「…………」
汚れた植木鉢を眺めながら、昼間に会ったおばあさんのことを思い出した。
花というものは自然の恵みか、僕には想像もつかないような魔法の産物だと思いこんでいた。けれど、あの小さなおばあさんはそれをやってのけたと言う。
それなら、僕にだってできないだろうか。
小屋の周りには狭くとも開けた土地がある。ここを均して、花を植えるのだ。あの可愛い花がたくさん咲けば、この寂しい空き地もきっと素敵な庭になるだろう。花の香りを胸いっぱいに吸い込めば、あの夜の嬉しかった出来事をいつでも思い出せる。
想像してみただけで、自然としっぽがゆらゆらと揺れた。
遠くから近づいてくる足音があった。
よく知っている音だったから、隠れたりしない。
木立の隙間に揺れていた明かりがゆっくり近づいてきて、やがてモランが顔を覗かせた。彼は空き地に座り込んだ僕を見て、呆れたようにため息をつく。
「何やってんだ、いっちょ前に家出か?」
モランが僕の首の後ろを掴んで持ち上げた。
足が地面から浮いて、思わずばたばたともがく。モランはそんな僕を宥めながら軽々と片腕で抱えた。
「……お前、やっぱりここに移るのか」
廃屋を見上げて、彼が言った。
「無理にコソコソ生きることないと思うぞ。今日だってお前、街のばあさんと普通に話せてたじゃないか。ヤバくなったら俺たちだってフォローする。ルイスだって……」
モランは口ごもって、ぼりぼりと頭をかいた。
「ま、一人でメシの支度ができるようになってからだな」
そう言って、くるりと踵を返した。
モランの顔を見上げると、彼の頭上に夜空が見えた。ちらちらと星が瞬いている。
前にモランは、星は道標だと言った。
星さえ見えれば海の上でも砂漠の真ん中でも方角を見失うことはないと。
ウィリアムさんは、あの星は人が一生かけてもたどり着けないほど遠く暗い空の彼方に浮かんでいるのだと言った。アルバート様は、あの光は天に昇った人たちの魂だとも言っていた。
皆違うことを言うから最初は混乱したけど、きっとどの考えも正しいのだろう。今はどの考えも好きだった。
あの人なら、何と言うのだろう。
確かめることはできない。けれどそのことについて考えて、想像していたいと思った。
あの本を好きだと思った理由を尋ねることはできなくても、自分で読むことができればその理由を考えることができる。彼の好きだったものを、僕も好きになれたら嬉しい。
今日だけでやりたいことが二つもできた。
モランに話せば、むなしいだけだと顔をしかめるだろうか。それでも、彼が頭ごなしに「駄目だ」と言うことはないともう知っている。
昼間の外出もあって歩き疲れていた僕は、大人しく小脇に抱えられたまま、うとうとと舟を漕いだ。
初出:Pixiv 2023.01.13
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人狼パロ本編の前日譚。
僕は部屋の隅の木箱の中で目を覚ました。
窓の外から明るい日差しが差し込んで、その中を小さな埃がきらきらと光りながら舞っている。美しく晴れた朝だった。
毛布をかき分けてのろのろと木箱から這い出すと、ちょうどモランもベッドの上で伸びをしていた。
「おはよう」
「おう」
朝の挨拶をすると、モランは大あくびをしながら答えた。僕もつられて、ふぁ、とあくびをした。
「……お前、やっぱりベッドあった方がいいんじゃないか?」
「? 別に平気だけど……」
「うーん、まぁ、夜は……犬っころの姿のうちは別に何とも思わないんだけどなぁ。こっちの姿だとガキを床で寝かせてる罪悪感が……」
ぶつぶつと何か呟いているモランを尻目に、用意しておいた服を着た。
僕の寝床はモランが用意してくれた木箱だ。狼の姿でも出入りがしやすいくらいの高さに切ってくれて、やわらかい毛布が敷いてある。この中で丸くなると木のいい匂いがしてとてもよく眠れた。
人間用のベッドは爪でマットレスを傷つけてしまいそうだし、地面から離れているのが落ち着かない。僕はこの寝床の方がよっぽど好きだった。
寝室を出て、流し台で顔を洗った。
朝、炉に火を入れるのは僕の仕事だ。
背中にモランの視線を感じながら、マッチを擦った。ぱっと燃え上がる炎に怯まないように肩に力を込めながら、薪の上の新聞紙に火を移した。火は瞬く間に燃え広がって、やがて薪がぱちぱちと音を立て始める。僕は慌てて手を引っ込めた。
炎に包まれた薪が、夕焼け空の太陽のように真っ赤になった。木片ではない、違う何かになったみたいだ。
鼻先と頬にじんわりと熱を感じる。
「前髪焦がすぞ」
いつの間にかすぐ後ろに来ていたモランが、僕のシャツの襟首を掴んで下がらせる。
彼は薪の上に五徳を被せると、その上にやかんを乗せて「カップと皿、出してこい」とぶっきらぼうに僕に指示した。
沸かしたお湯でお茶を淹れ、次にフライパンで卵とパンを焼いた。それらに森でとってきた木の実や果物を添えて、僕らの朝ごはんになる。
パンをかじるモランを見るたび、大きな口だと感心した。
誰かと同じテーブルについて食事をするのは不思議な気持ちだ。これまでは昼も夜もずっと一人で、手に入れた僅かな食べ物を口に詰め込むだけだったから。
あの嵐の夜が明けて、僕は僕を助けてくれた男の子(ルイスさん、というらしい)のお兄さんたちに拾われた。彼らは人でも狼でもない中途半端な僕の身の上話を親身になって聞いてくれて、そして、僕をモランに預けた。
モランは最初こそ、朝と夜とが入れ替わるたびに姿を変える僕に目を白黒させていたが、半年も経てばもうすっかり慣れてしまったようだった。
前に、僕のことが怖くないのかと聞いたとき、モランは大笑いした挙げ句「お前なんかより虎のほうがよっぽど怖い」と答えた。
『トラって何』
『何って……うーん、猛獣だよ。オレンジと黒の縞模様で、噛みつかれたら牛だってひとたまりもない。腕はお前の胴体ぐらい太いな』
僕は自分のお腹のあたりを見下ろした。
トラは知らないけど牛は見たことがある。大きくて、爪も牙もない大人しい生き物だ。寒い夜は彼らの寝床に入れてもらうことも度々あったけど、前にうっかり踏み潰されそうになって以来あまり近寄らないようにしている。あの山のような巨体を倒してしまうのならそれは強くて恐ろしい生き物なのだろう。
『この森にはトラ、いる?』
『いねぇよ。ずっと南の、暑いところに住んでるんだ』
『モランは見たことある?』
『あるさ。こいつで仕留めて絨毯にしてやった』
モランは壁にかけてあった猟銃を顎で示した。
モランは牛よりも強いトラをやっつけたことがあると言う。僕は多分、牛にだって敵わない。だからモランが僕を怖がる理由もない、ということなのだろうか。何かがズレている気がしたけれど、そのときはそれでつい納得してしまった。
「おら、食い終わったなら皿洗え」
モランに肩を叩かれた。
ぼぅっと考え事をしていた僕は、カップに残った冷めたお茶を慌てて飲み干して、テーブルの上の食器をかき集めた。
踏み台に乗り、流しに溜めた水で汚れた食器をじゃぶじゃぶと洗う。多少汚れが残っていてもモランは気にしないけれど、僕は何となく嫌だったので、皿にくっついた目玉焼きの黄身まで綺麗に洗い流した。
「今日は何するの」
濡れた手をタオルで拭いながら、ブーツの手入れをしているモランに尋ねた。
モランは森番だ。
この森の持ち主であるアルバート様に代わって、木々の手入れをしたり道の維持管理をしたりして生活している。時には獣たちが街の近くへ出ていかないように脅かして追い払ったり、道に迷った人間を助けたりすることもあった。
置いてもらう礼として、僕もその仕事を手伝っている。昼間はともかく、狼の姿になった夜の僕は人間よりもできることが多いので多少は役に立っていた。
けれどモランの答えは、それらの仕事とはなんの関係もないものだった。
「今日は買い出しだ」
僕は内心で落胆した。
卵がもう最後の二つだったしお茶の葉も缶の底が見えるほど少なくなっていたから、そんな気はしていた。
「……いってらっしゃい」
「バカ、お前も来るんだよ。荷物持て」
ぴかぴかに磨いたブーツに足を通しながら、モランが呆れたように笑った。
*
人間の街に出るのはいつも緊張する。
モランの小屋で安定した暮らしをさせてもらえるようになってから、その緊張感はかえって増した。僕の正体がばれたら、モランにも、ウィリアムさんやアルバート様にも、迷惑がかかってしまうからだ。
森の出口が近づいてきて、僕は首に巻いていたストールを頭からかぶった。頭上から、モランの声が降ってくる。
「何ビクビクしてんだ。太陽もまだあんな高いところにあるんだから平気だろ」
「でも、僕のこと知ってる人がいるかも」
「んなわけあるか。人間はお前が思ってるよりずっとたくさんいるんだぞ」
「……そうなの?」
「そうだ。この街だけで何万人と住んでるんだ。皆いちいちお前の顔なんて覚えてねぇよ。もし言いがかりつけられたら『俺の甥におかしなこと言うんじゃねえ』って言ってやるよ」
「うん……」
僕はしぶしぶ、ストールを首に巻き直した。
モランはそう言ったけれど、街の入り口で僕らはすぐによく知った人間に出くわした。
「やぁ、モラン、フレッド」
ウィリアムさんだった。
彼は丸い帽子をちょっと持ち上げて、にこやかに挨拶してみせた。モランも「おう」と片手を上げて応じる。どうやら待ち合わせをしていたらしい。
慌てて周囲を見回す僕に、ウィリアムさんは言った。
「大丈夫、ルイスは今日は学校に行っているよ」
その言葉に、僕はほっと息をついた。
ルイスさんは僕の正体を知らない。あの夜、ずぶ濡れで凍えかけていた僕を助けてくれたきりだ。
今この姿であればもし顔を合わせてしまっても大丈夫だと思う反面、ばれてしまった時のことを思うと恐ろしかった。
「ウィリアムさんは、行かなくていいんですか?」
「学校? 僕とルイスは学年が違うからね。今日学校で行事があるのは、ルイスの学年だけなんだ。僕はお休み」
「ルイスさん、だけ……」
「ああ、もちろん他の生徒たちもいるから、ルイス一人で学校にいるわけではないよ。心配してくれてありがとう」
「……」
僕は黙って首を振った。
そうだ、人間はたくさんいるのだ。
僕はウィリアムさんの背後の大通りを見やった。
大人も子どもも年寄りも、すでに数えきれないくらいたくさんの人たちが行き来している。通りに軒を連ねる建物のひとつひとつがみんな誰かの家だとしたら、この街にはどれくらいの人が住んでいるのだろう。
学校には同じ年頃の子どもたちが集められるそうだから、そこにはルイスさんの友だちもきっとたくさんいるのだろう。
「フレッド、ここでの生活は慣れたかい?」
「え……ええと、はい」
「朝ごはんは何を食べた?」
「パンと目玉焼き……」
僕の答えに、ウィリアムさんはにっこりと笑った。「心配しなくてもちゃんと食わせてるよ」とモランが口を尖らせた。
それからも彼は、森番小屋での生活についてあれこれと質問をした。普段は何をして過ごしているか。一番気に入っている食べ物は何か。モランはお酒を飲みすぎていないか。困っていることはないか。
たびたび答えに詰まる僕を、ウィリアムさんもモランも急かさなかった。
歩きながら話していると、やがて何度か訪れたことがある店に到着した。石鹸とかオイルとか、食べ物以外ならたいていのものが揃っている店だ。
モランは品物と引き換えに、店主にコインを幾枚か渡した。僕もそのうち一人でできるようにならないといけないから、そのやり取りをじっと見ていた。
「フレッド、お会計は六シリングです」
ウィリアムさんが僕に耳打ちした。
彼が広げた手のひらの上に、形も大きさのばらばらのコインが数枚乗っている。僕は教えてもらったことを思い出しながら、コインを指さした。
「これと……これ?」
「正解。じゃあ十シリングは?」
「え。ええと……」
聞かれて、僕は少し焦った。
ウィリアムさんの手の上にあるコインをどう足してみても、十シリングにならなかったからだ。見落としはないかと僕が頭をひねっていると、ウィリアムさんはくすくす笑った。
「ごめんごめん、意地悪な問題だったね。ここにあるコインでは十シリングちょうどになる組み合わせは作れないから、多めに出してお釣りをもらうんだよ」
「お釣り……」
「そう。もらいすぎても少なすぎてもいけないから、しっかり計算しようね」
僕がうなずくと「終わったか?」とモランの声がした。いつの間にか支払いも済んだようで、店主までもがカウンターの向こうでにこにこしながらこちらを見ている。恥ずかしくなってウィリアムさんの後ろに隠れた。
「モランさんに似てなくってかわいいねえ。ぼく、いくつだい?」
「フレッドは今年で九つになります」
僕のかわりにウィリアムさんがはきはきと答えた。
「じゃあ、ルイス坊っちゃんの四つ下ですかい」
店主はあごひげを撫でながら目を細めた。
モリアーティ家の三兄弟がこの街の人たちからとても慕われているのは知っていたけれど、ルイスさんの名前が出てきて僕は少しどきりとした。
「昔、二人でうちに買い物にきてくれたときのことを思い出しましたよ。そうやってちっちゃい手のひらを突き合わせて、ルイス坊っちゃんにお釣りの計算を教えてあげていたでしょう」
「ふふ、そうでしたね」
それはいくつくらいの頃の話なのか、二人で何を買ったのか、聞きたかったけど、言い出せなかった。
「ぼく、そこのブリキの馬、かっこいいだろう。そいつは一シリング七ペンスだよ。ぴったり出せるかな?」
「余計なもの買わせようとすんな!」
店主の軽口に、モランがカウンターを拳で叩いた。彼はさっさと荷物を受け取ると「ほら、お前も持て」と、僕に小さい方の袋を押し付けた。
*
それからも三人で街をぐるぐると歩いた。
街には色んな種類の店がある。
一軒目の店のように雑多な品物が棚という棚に詰め込まれたところもあれば、魚しか売ってない店、野菜しか売ってない店もあった。道端に敷物をしいて品物を並べただけの店もある。ウィリアムさんは天井近くまで本がぎっしり詰まった店に入っていったきりしばらく出てこなかったし、彼を待っている間モランの足元には吸い殻の山ができていた。
くたびれてきた頃、屋台でサンドイッチを買って食べた。
天気が良かったので広場のベンチに座ったのだが、大きな口であっという間に食べ終えてしまったモランは「煙草吸ってくる」と向こうに行ってしまった。
次にウィリアムさんが食べ終わったのだけれど、僕の方がまだ時間がかかりそうだと見るや「慌てなくていいからね」と言って、買ったばかりの本を開いて読み始めた。しばらくして僕がようやく食べ終えても、全く気がついていない。
退屈になって椅子の上で足をぶらぶらさせていると、鉢に植えられた花が目についた。読書に没頭しているウィリアムさんの邪魔をしないように、僕はそっと椅子から飛び降りた。
その鉢植えは、広場の隅の店先にそっと置かれていた。新聞や煙草や飴を売っている店のようだから、誰も花には見向きしない。
しゃがみこんで顔を寄せると、甘いような重たいような、不思議な匂いがした。
この匂いを知っている。
ルイスさんに出会ったあの夜に咲いていた花だ。
ピンク色の薄い花びらが何枚も重なって、花弁はころんとまん丸い。茎には小さな棘があった。明るい場所で見るのはほとんど初めてだったけれど、とても可愛い花だった。
「綺麗でしょう? 最近の生きがいなのよ」
店先の椅子に腰掛けていたおばあさんが、にこにこしながら僕に話しかけてきた。
「あなたが育てたんですか?」
「そうよ」
「すごいですね」
「あら、ありがとう。昔っから大好きなの」
おばあさんは顔をしわくちゃにして笑った。
「若い頃は花壇や温室を作ってたんだけど、この歳になると庭に出るのも大変でね……。坊やにはまだ分からないでしょうけど。鉢植えなら、こうしてすぐそばに置いておけるでしょう?」
僕はしばらくの間、おばあさんのガーデニング談議兼思い出話を聞かせてもらった。背中が曲がって髪も真っ白なのに、楽しそうに話す姿は小さな女の子みたいだった。
話しているうちに、次のお客さんがやってきた。
おばあさんは「はいはい」と明るい声で答えながら、杖をついて大儀そうに立ち上がった。
「また見に来てちょうだいね」
彼女が覚束ない足取りでお客さんの方へ向かうのを見送っていると、大きな手でわしっと頭を掴まれた。
「わ」
「わ、じゃねぇよ。一人でふらふらするな」
「ごめんね、フレッド。ほったらかしにしちゃって」
いつの間にかモランとウィリアムさんが荷物を抱えて後ろに立っていた。
買い物をひと通り済ませて森番小屋へ帰ろうとする僕らを、ウィリアムさんは「あ、待って」と呼び止めた。彼は抱え持った本の中から、ひときわ薄い一冊を抜き取った。
「はい、これ。僕からフレッドに」
おそらく、子供向けの本だ。
あまり詳しくはなかったけれど、ウィリアムさんがよく読んでいるような、分厚くて文字の小さな本とは明らかに違う。
表紙には人間の男の子の絵が描かれていた。木の下に腰掛けて、ひと休みしているところらしい。
「そろそろ読み書きもできるようにならなきゃね。僕も時間を見つけて教えてあげるけど、ひとまずはモランに教わるといい」
「……よみかき」
僕は彼の言葉をオウム返しした。
「そう。できるに越したことはないと思うから」
「…………」
差し出された本を見つめながら、僕は小さく首を傾げた。
読み書きとは――文字とは、人間たちが情報を伝え合うための道具ではないのだろうか。少なくとも僕はそう理解している。モランの小屋に住まわせてもらってから、彼が新聞を読んで外の世界の情報を仕入れたり、遠くに住んでいる人と手紙でやり取りしているのを見てきた。
僕はモランに一人で生きていく術を教わって、もう誰にも迷惑をかけないように静かに暮らすのだ。人間たちの間で何が起こっているのかを知る必要はないし、手紙を送りあう相手もいない。
文字を覚えたところで、何の意味もない。
「フレッド、聞いて」
ウィリアムさんの赤い瞳が、僕の目をまっすぐに覗き込んだ。僕は思わず背筋を伸ばす。
「読むことも書くことも、孤独と戦うためには欠かせない武器だ」
「……こどくと、戦う」
「そう。少なくとも僕はそう考えている。この先どんな人生を選ぶかは君の自由だけど、一人で生きていくことを選ぶなら、読み書きはできたほうがいい。きっと君の助けになってくれるから」
「……?」
逆ではないだろうか、と思った。
一人で生きていくのだから、文字なんか読めなくても困らない。
それなのに。
「これ、小さかった頃ルイスが好きだった本なんだよ」
「…………」
ウィリアムさんがそんなことを言うものだから、僕はついその本を受け取ってしまった。
*
ウィリアムさんと別れて、僕とモランは家路についた。
日暮れまではまだ時間がある。
小道の脇に、ペンキで塗られた小さな看板が立っていた。『街まで二百ヤード』と書かれている。
ヤードは距離を表す単位で、板の尖っている方が街の方角を示しているのだ。モランに教えてもらった。
もっと奥の方へ行けば、『この先立ち入り禁止』とか『蛇に注意』とか書かれた看板もある。
確かに文字が読めないと、道に迷ったり蛇に襲われたりして困ることもあるかもしれない。一人で生きていくのなら、誰かに尋ねるわけにもいかない。
ウィリアムさんが言っていたのは、そういうことなのだろうか。
小屋に帰って、買ったものをあるべき場所に片付けてから、僕はその本を開いた。
ほとんどのページに表紙と同じ男の子が描かれていたから、これはきっとこの男の子に関する話なのだろう。並んだ文字はほとんど読めなかったので、とりあえず絵だけを見てみることにした。
モランがこちらを気にしているようだったけど、僕が自分から声をかけないので彼も放っておいてくれた。
はじめのうちは「絵が上手だな」と思って眺めていたはずなのに、いつしかそんなことは気にならなくなっていた。紙の上に描かれた絵にすぎないはずの男の子や動物たちが、実際に僕の目の前で生きて動いているような気がしてきた。
狐にいじめられて泣いていたうさぎが、次のページではなぜか楽しそうにしていて少しほっとした。この小屋ほどもありそうな大きなトカゲ(に似た生き物)に男の子たちが食べられてしまうのではないかとはらはらした。
こんな生き物がほんとうにいるのだろうか。この森にも住んでいないか、後でモランに聞かないといけない。男の子の足元に咲いている、この花の名前はなんだろう……。
「……あっ」
僕は小さく声を上げた。
本に夢中になるうちに、いつの間にか窓の外は暗くなっていたようだ。ページをめくっていた手にみるみる間に短い毛皮に覆われていく。そのうち椅子にも座っていられなくなって、床の上に這いつくばった。
「お、もうそんな時間か」
猟銃の手入れをしていたモランが窓の外を見た。
人を時計代わりにしないでほしい。僕は不満の声を上げたようとしたが、もう「ウゥ」という唸り声にしかならなかった。
獣の体には合わなくなった人間用の服をその場に脱ぎ捨てて、落ちた拍子にページが閉じてしまった絵本を眺めた。
(……まだ、続きがあったのに)
名残惜しいけれど、今の僕の手ではページをめくれない。爪で紙を傷つけてしまうのは嫌だ。続きは明日、日が昇ってからにしよう。
モランが手を伸ばして、床に落ちた本を拾い上げた。その表紙を一瞥した彼は「お」と声を上げた。
「懐かしいな。まだ読まれてるのか、これ」
モランは椅子に腰掛けて、一ページずつゆっくりと絵本をめくり始めた。足元で見上げている僕に気がつくと、彼は僕の頭をくしゃりと撫でた。
「俺も子供の頃読んでたよ。あぁ、そういえばこんなだったな。ルイスの好きそうな話だ。確か……」
話の続きを聞きたくなくて、僕は部屋の外へ飛び出した。「おい、どこ行くんだ」とモランの声が追いかけてきたけれど、構わず廊下を走り抜けて僕専用の小さなドアから外へ出た。
木々に囲まれた森番小屋の周囲は、すでに真っ暗だった。
モランはただ話をしようとしてくれただけなのに、嫌な態度を取ってしまった。謝りたかったけれど、飛び出した手前すぐに戻るのも気が引けた。少しの間だけ散歩でもすることにして、僕はぶらぶらと森の中を歩いた。
ルイスさんが好きだったというあの本のことを、モランは知っているらしい。僕は知らない。
歩きながら考えた。
ルイスさんには学校に大勢の友だちがいて、ウィリアムさんやアルバート様と数え切れないほどの思い出がある。誰が悪いわけでもないのに、そのことがむしょうに悲しかった。
僕は彼の友だちでも何でもないし、彼と共有できるものを何も持っていない。
あるとすれば、あの夜だけだ。
すっかり日の落ちた森の中を歩き続けるうちに、小さな廃屋に行き当たった。
モランの前の森番が使っていた小屋らしい。
森のかなり深いところにあって街への行き来が不便なので、もう何年も前に捨てられた建物だ。
一人で身の周りのことができるようになったら、僕はここに移り住むと決めていた。モランは「ずっとここにいればいい」と遠回しに言ってくれたけれど、それだけは譲れなかった。
僕は自分の正体を人に知られるのが怖い。
そして他の誰よりも、ルイスさんにだけは知られたくなかった。
凍えながら一人で死ぬところだった僕を助けてくれた。膝の上に乗せて、頭を撫でてくれて嬉しかった。僕のせいで風邪をひいて苦しい思いをさせてしまった。
お礼を言って、謝りに行かなければならないと何度も何度も考えたけれど、彼に何と説明すればいい。人でも狼でもない怪物であることを告白して、それで何になるだろう。
僕を普通の子犬だと思い込んでいた彼は、僕のことを飼いたがっていた。友だちになれたかもしれなかった。彼に正体を知られて拒絶されない限り、あの言葉はいつまでも嘘にはならないと思いたかった。
廃屋の周りをぐるぐる歩いているうちに、大きめのカップのようなものが地面に転がっているのに気がついた。
ぼろぼろになってひび割れた植木鉢だった。
鼻先でつついて転がすと、下から小さな虫が這い出した。長い間放置されるうちに植えられていた植物は朽ちてしまったらしい。底の方に干からびた土だけが残っている。
「…………」
汚れた植木鉢を眺めながら、昼間に会ったおばあさんのことを思い出した。
花というものは自然の恵みか、僕には想像もつかないような魔法の産物だと思いこんでいた。けれど、あの小さなおばあさんはそれをやってのけたと言う。
それなら、僕にだってできないだろうか。
小屋の周りには狭くとも開けた土地がある。ここを均して、花を植えるのだ。あの可愛い花がたくさん咲けば、この寂しい空き地もきっと素敵な庭になるだろう。花の香りを胸いっぱいに吸い込めば、あの夜の嬉しかった出来事をいつでも思い出せる。
想像してみただけで、自然としっぽがゆらゆらと揺れた。
遠くから近づいてくる足音があった。
よく知っている音だったから、隠れたりしない。
木立の隙間に揺れていた明かりがゆっくり近づいてきて、やがてモランが顔を覗かせた。彼は空き地に座り込んだ僕を見て、呆れたようにため息をつく。
「何やってんだ、いっちょ前に家出か?」
モランが僕の首の後ろを掴んで持ち上げた。
足が地面から浮いて、思わずばたばたともがく。モランはそんな僕を宥めながら軽々と片腕で抱えた。
「……お前、やっぱりここに移るのか」
廃屋を見上げて、彼が言った。
「無理にコソコソ生きることないと思うぞ。今日だってお前、街のばあさんと普通に話せてたじゃないか。ヤバくなったら俺たちだってフォローする。ルイスだって……」
モランは口ごもって、ぼりぼりと頭をかいた。
「ま、一人でメシの支度ができるようになってからだな」
そう言って、くるりと踵を返した。
モランの顔を見上げると、彼の頭上に夜空が見えた。ちらちらと星が瞬いている。
前にモランは、星は道標だと言った。
星さえ見えれば海の上でも砂漠の真ん中でも方角を見失うことはないと。
ウィリアムさんは、あの星は人が一生かけてもたどり着けないほど遠く暗い空の彼方に浮かんでいるのだと言った。アルバート様は、あの光は天に昇った人たちの魂だとも言っていた。
皆違うことを言うから最初は混乱したけど、きっとどの考えも正しいのだろう。今はどの考えも好きだった。
あの人なら、何と言うのだろう。
確かめることはできない。けれどそのことについて考えて、想像していたいと思った。
あの本を好きだと思った理由を尋ねることはできなくても、自分で読むことができればその理由を考えることができる。彼の好きだったものを、僕も好きになれたら嬉しい。
今日だけでやりたいことが二つもできた。
モランに話せば、むなしいだけだと顔をしかめるだろうか。それでも、彼が頭ごなしに「駄目だ」と言うことはないともう知っている。
昼間の外出もあって歩き疲れていた僕は、大人しく小脇に抱えられたまま、うとうとと舟を漕いだ。
初出:Pixiv 2023.01.13