No.29
The Heavenly Dispensing
フレッド人狼パロ④
その日は、いつもより少し早く大学の授業が終わる曜日だった。ウィリアムが馬車も使わずのんびりと歩いて屋敷に戻る頃には、日も傾きかけていた。
屋敷の門をくぐって玄関でルイスの顔を見たとき、おや、と思った。いつもと同じように出迎えてくれたはずなのに、どこか緊張した面持ちだったからだ。
(何かあったかな)
前を歩く弟の後ろ姿を眺めながら、ウィリアムは思案した。
そして、居心地よく整えられた居間へ一歩足を踏み入れたとき、その違和感は確信に変わる。ソファにはすでに帰宅していたアルバートがくつろいだ様子で掛けていたのだが、テーブルの上には水色のストールが畳んで置かれていた。目の粗い生地のそれは、間違いなく彼のものではない。
アルバートはこちらを見て、困ったように微笑んだ。顔を見合わせた兄たちの表情を見て、ルイスもまた、一つの確信を得たようだった。
「……やっぱり、兄さんも兄様も、ご存知だったのですね、彼のこと」
彼、というのが誰のことか、もはや尋ねるまでもない。先日、彼がいるときにルイスが森番小屋へやって来たとモランから報告を受けたばかりだった。「もうまどろっこしいから会わせた」と開き直るモランに思わず苦笑いが溢れたことは記憶に新しい。
もう一度アルバートと顔を見合わせてから、ウィリアムが口を開く。
「どうしてそう思ったの?」
「あの字は、ウィリアム兄さんのものでした」
「あの字?」
「詩の書き取りです。このストールの持ち主の小屋で、たまたまノートが開いているのを見てしまいました」
「……ああ、なるほど」
ウィリアムは、確かに彼に字を教えていた。
あの森の奥に閉じ籠もって暮らすなら必要のない知識だと彼は考えていたようだけど、素直な子だからちゃんと勉強を続けてくれていたのだろう。
「ランタンの明かりの中で、見えたのはほんの一瞬だけでしたけど……僕は間違えたりしません」
ウィリアムは小さく頷いた。
それはもちろんそうだろう。ルイスに字を教えたのも、ウィリアムなのだから。
「聞こうか聞くまいかずっと迷っていましたが……お二人とも、最初からご存知だったのですね」
「……うん」
「アルバート兄様も?」
「ああ。すまなかったね」
謝罪の言葉に、ルイスは首を振った。
「モランさんが、兄さんたちには黙っていてほしいとおっしゃった時点で何となく察しはついていました。モランさんはいい加減な方ですが、森番としての信用に関わるような違反や隠し事を兄様たちになさるはずがありません。……兄さんと兄様が僕に余計な嘘を重ねずにすむように、ああおっしゃったのでしょう」
「さすがだね、ルイス」
「どうして、僕に黙っていたのですか?」
ルイスは少しだけ眉を下げながら、そう尋ねた。読書に夢中になって夜ふかししているウィリアムを見つけたときと同じ顔だ。
「……怒ってないの?」
「怒ってはいません。でも、どうして僕にだけ……」
「あの子がそう望んだからだよ」
その言葉を聞いた瞬間の、ルイスの可愛らしかったこと!
怒ってない、と口にしたばかりなのに彼はむっとしたように顔をしかめた。
フレッドがルイスに会いたくないと望んだこと。ウィリアムが彼の希望を優先して、ルイスに隠し事をするのを選んだこと。ウィリアムが彼を「あの子」と親しげに呼んだこと。
ルイスがウィリアムと接する他者に焼きもちをやくことは幼い頃から幾度となくあったけれど、今回ばかりは少し様子が違っていた。彼は、ウィリアムに対してもいくらか嫉妬に近い感情を抱いている。そして、そのことに戸惑っているのだ。
ウィリアムはにっこりと笑って、弟の手を取った。
「でも、こうなったなら僕も兄さんもルイスの味方だよ。知りたいのなら、彼に聞いておいで。今すぐに」
「え、今からですか?」
ルイスは戸惑ったようにウィリアムの顔と窓の外を見比べた。暮れかかった大きな夕陽が、山の向こうからうるんだ光を投げかけている。じきに夜が訪れるだろう。
「もう日が暮れてしまいますし、それに、兄さんたちの夕食が……」
「ウィル、たまには二人で外に食べに行こうか」
いつものようにおっとりと、しかし有無を言わさぬ口調でアルバートが割って入った。ウィリアムも「ええ、是非」と微笑み返す。
「だから、いってらっしゃい。ルイス」
兄たちは笑って、ルイスの背中を押した。
*
わけも分からないまま送り出されて、ルイスは屋敷から森へ続く道を走っていた。
急がないと日が暮れてしまう。何より、フレッドの小屋へはあの夜一度訪れたきりで道がよく分からなかった。まず森番小屋へ行って、モランに道案内を頼むべきだろう。闇雲に歩きまわってまた道に迷ってしまったら笑い話にもならない。
頭ではそう理解しているのに、ルイスは記憶を辿りながら森番小屋へ向かう道を外れていた。夕陽に背を向けて、暗い方へ。
「……フレッド、フレッド! いませんか?」
ルイスはあらん限りの声で叫んだ。
木々に囲まれた森の中はすでに薄暗い。明かりも持たずに来てしまったから、これ以上もたもたしていると一歩も動けなくなってしまう。早く彼を見つけて、話をしなくてはならない。
ぱきり、とどこかで枝を踏むちいさな音がした。慌てて周囲を見回すと、少し離れた木の陰からフレッドが姿を現した。
ルイスは安堵のため息をついた。
「フレッド、」
「モランの小屋は、こっちではありませんよ」
フレッドは硬い声で言った。
「わかっています。君を探しにきたんですから。……忘れ物ですよ」
ルイスはストールを差し出した。けれどフレッドはその場から一歩も動こうとしない。縋るように木の幹に爪を立てていた。
「……今すぐ、引き返してください」
彼の声は強張ったままだ。
「もうすぐ日が暮れます。また、狼が出ますよ」
「……それも、モランさんから聞いたのですか?」
フレッドはもどかしげにかぶりを振った。
「そうじゃなくて……」
泣き出しそうな声だった。彼は苦しげに眉根を寄せ、自身のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
「お願いします、帰ってください。もう二度と、絶対に、人前に出たりしません。……だから、」
「そんなことを聞きにきたのではありません」
ルイスが一歩踏み出すと、フレッドは怯えたように一歩後ずさる。顔を上げてこちらを見た彼の口から「あ……っ」と悲鳴に似た声が漏れた。
彼はルイスの肩越しに何かを見ている。
反射的に振り返ったが、ルイスの背後には何もない。木立の向こうから夕陽の名残が僅かに射し込んでいるだけだ。
「……フレッド? どうし……」
もう一度彼の方へ向き直ったとき、フレッドの身体がぐらりと傾いだ。
咄嗟に手を伸ばしたが、掴み損ねた。フレッドはそのまま地面に倒れ込む。助け起こそうとしたルイスの手を、彼は身体を捩りながら強く払った。
そのことにショックを受ける暇もなく、ルイスは息を呑んだ。
フレッドの顔を、首筋からざわざわとせり上がるように灰色の毛皮が覆い始めていた。
「見ないで……!!」
彼は悲痛な声で叫びながら、手で顔を覆った。
しかしその手も、みるみるうちに形を変えていく。短い毛に覆われ、鋭い爪を備えた手。いや、『手』と呼べるようなものではない。前足、と表現したほうが正確だろう。
ルイスが身動き出来ずにいるうちに、彼は一匹の獣に姿を変えていた。しばらく地面でばたばたともがいた後、彼は用をなさなくなった衣服の中から抜け出した。
「フレディ……?」
あの夜ルイスを守ってくれた、狼犬。
左手首にしっかりと巻かれた包帯だけが、ついさっきまで目の前にいたフレッドと同じだった。彼は尻尾を丸め、ルイスに背を向けた。悲しげに鼻を鳴らすかすかな声を残して、森の奥へと消えていく。
コインの裏表、というモランの言葉が蘇った。
ルイスは立ち上がり、迷わず追いかけた。
不思議と恐ろしいとは思わなかった。ああやっぱり、という想いのほうが強かった。
「フレッド、待って……!」
狼としての姿ならば、ルイスを振り切って走り去ることくらい容易いだろう。今ここで見失ってしまったらもう二度と会えなくなる気がした。足元が悪く全力で走れないことがもどかしい。
「フレッド!」
ルイスの声に応えるように、木々の隙間から、細く、けれど耳の奥に刺さる声が響いた。
前を走るフレッドではない。狼たちの遠吠えだ。
ルイスは思わず身を竦ませたが、より顕著に反応したのはフレッドの方だった。彼は明らかに走る速度を落として、ちらちらとこちらを振り返るようになった。
――ルイスを置き去りにできないのだ。
彼は木立の隙間を縫うように、ルイスの少し前を隠れたり現れたりしながら進んでいった。追いつかれては困る、けれどルイスを一人で置いてはいけない。そんな迷いが見て取れるようだった。
姿が変わっても、彼は彼のままだった。
二人は近づいたり離れたりしながら、森の中を走った。フレッドを見失った、と思ったら、目の前には最初の夜に訪れたあの小屋が現れた。
きっと今夜も、鍵は掛かっていない。
けれどルイスは小屋には入らず、裏手へ回った。
温室のガラス戸は半分開いたままになっている。
「……フレッド?」
中に入ると同時に、がさりと薔薇の茂みが揺れた気がした。
ルイスはそちらへ歩み寄る。
屋敷の温室でさえ、日が暮れてから入ったことなど殆どないはずなのに、何だかとても懐かしい。ガラス張りの狭い空間の中に取り残された温かい昼間の空気と、濃い緑の匂い。自分は、この感覚を知っている。
膝をついて花壇を奥を覗き込むと、薔薇の茂みの向こうに一対の瞳が光っていた。
彼はルイスに見つかったと気付くと、怯えたように鼻を鳴らしながらさらに奥へ隠れようとした。
「出てきてください。隠れないで……」
茨を押しのけて茂みの中に腕を伸ばすと、鋭い棘が手の甲を引っ掻いた。痛みに、思わず顔をしかめる。奥へ逃げ込もうとしていたフレッドは慌ててこちらへ身を乗り出してきた。
厚い毛皮に覆われた身体は薔薇の棘では傷つかないらしい。彼は盾になるように茨とルイスの手の間に身体を割り込ませた。
ルイスが後ろに下がって促すと、優しい狼犬は大人しく花壇から下りて血の滲んだルイスの手の甲をぺろぺろと舐めた。
彼は主人に叱られるのを待つ犬のように、耳と尻尾を垂らして地面に身を伏せた。ルイスもまた、スラックスが汚れるのも構わず座り込む。
――やっぱり、知っている。
ルイスは彼の首を抱き寄せて、ふさふさとした手触りを堪能した。温かい。厚い毛皮の下に、血が通っているのがわかる。
「……すっかり大きくなっていたからわかりませんでした。フレッド、君だったんですね」
もう十年以上前の、ひどい嵐の夜。
一匹の子犬が庭に迷い込んできた。
眠れなくて窓の外を眺めていたルイスはそっと部屋を抜け出して、兄たちに内緒でその子犬を抱き上げて庭の温室に隠れた。
「親切な人に貰われていったと聞いていたのに、こんなに近くにいたなんて。僕にだけ黙っているなんてひどいです。どうして会いに来てくれなかったんですか?」
真っ暗な温室の中は、薔薇の香りに混じって土と緑の匂いがした。当時のルイスは夜に一人で部屋の外に出るのが苦手だったが、ちいさなぬくもりを感じていると不思議と怖くはなかった。
薔薇の花の中に隠れて、かわいい子犬をお供にして、兄たちにさえも秘密の冒険をしている気分だった。あの夜の出来事は一枚の美しい絵のように、ルイスの記憶に焼き付いていた。
身体を離して、フレッドの目を真正面から見つめた。
彼が顔を伏せようとするのを、両手で頬を挟んで押し止める。そして彼の額に自分の額を押し当てた。人間の姿だったら少し恥ずかしくなってしまうくらい親密な触れ方かもしれない。今の彼の姿なら、許してもらえるだろうか。
「……狼から守ってくれた君も、一緒にタルトを食べた君も、どちらも僕の友だちですよ」
そう告げると、フレッドがクゥ、クゥンと鼻を鳴らした。言っていることはわからないけれど、言いたいことはわかる気がした。
あまりに切なそうな声だったので、ルイスは彼の首を抱き直した。
「……朝になったら、全部聞かせてくださいね。会いに来てくれなかった理由も、こんな素敵な薔薇園を作ってしまった理由も全部。君のこと、教えて……」
視界の端で、彼の尻尾がぱたぱたと揺れた。
◇◇◇◇◇◇
てっきり僕はもう死ぬものだとばかり思っていたから、次に暖かくて静かな場所で気がついたとき、天国に来たのかと思った。
見たことないくらい綺麗な花がたくさん咲いていて、辺りにはうっとりするほど心地よい匂いが満ちていた。建物の中らしかったけれど、壁も天井もガラスでできているので空がまだ暗いことがわかった。雨粒がガラスを叩く音は聞こえなかったから、嵐はほとんど通り過ぎてしまったようだ。
泥だらけだった僕の身体をたっぷりとした布に包み込んで、誰かがさすってくれている。冷えて固まっていた手足は、いつの間にかすっかり温かくほどけていた。
身体の向きを変えてそっちの方を見ると、僕を抱えているのは人間の男の子だった。紫がかった紅い瞳と金の髪は暗闇の中でも輝いて見えて、いつか教会で見た天使の絵を思い出させた。
「あ、よかった」
僕と目が合うと、彼は小さく微笑んだ。
「首輪がないから、野良犬でしょうか。まだ小さいのに大変でしたね」
小さくて柔らかい手が僕の頭を撫でてくれた。
神様はひどい。
人間とは一緒にいられない僕を、優しい人間にばかり会わせてくれる。人間がもっと乱暴で意地悪で怖い存在なら、こんな思いをしなくてすんだのに。
狼の姿では涙が出ない。代わりに、僕はクゥクゥと鼻を鳴らした。男の子はこちらの気持ちを知ってか知らずか、僕の肉球をぷにぷにと押して遊んでいる。
「お風呂に入れてあげたいけど、絨毯を汚してしまうとアルバート兄様に申し訳ないから……。ここで我慢してくださいね」
我慢? こんなに素敵なところなのに。
僕らの頭上でゆっくりと雲が流れて、隙間から月明かりが射しこんだ。彼が顔を上げた拍子に金色の髪もさらりと流れた。彼の顔に大きな傷があることに、その時はじめて気がついた。
「わっ、こら」
身を乗り出して頬を舐めると、彼は声を上げて笑った。
しばらくくすぐったそうに笑っていた彼だったが、やがて僕が頬の傷を舐めているのに気がついたらしかった。ちょっと驚いたように目を丸くして、それから泣きそうに顔を歪めた。
「……ありがとう、もう痛くないですよ」
彼は膝に抱えた僕をぎゅうと抱きしめてくれた。
たしかに彼の言う通り、傷口はすでに乾いていた。怪我をしてからしばらく経っているのだろう。それでも、こんなに大きな傷なのだから痛かったに違いない。
労る気持ちをこめてもう一度頬をぺろりと舐めると、彼も僕の背中を撫でてくれた。
「優しい、いい子ですね。お利口そうだし、芸を覚えたら兄さんたちも飼っていいって言ってくれるかな……」
彼が僕の顎の下をくすぐりながら、呟いた。
もしも僕が普通の犬だったなら、彼の友だちになれただろうか。それはとても素敵な空想だった。
「新聞受けから新聞を取ってきたり、泥棒を追い払ったりするんですよ。できますか?」
できる、と答える代わりに、僕はクゥと鳴いた。
シンブンもドロボウもその時の僕にはよく分からなかったけれど、あなたの探しものは僕が見つけてみせる。危ない目にあっていたら必ず助けに行く。
張り切って尻尾を振る僕に、彼は満足そうに頷いた。
「朝になったら、兄さんたちにお願いしてみましょうね」
朝になったら。
その言葉で、僕は現実に引き戻された。
じきに東の空が白みはじめるだろう。つい数時間前に驚かせてしまったお婆さんのことを思い出した。一日に二度も同じ失敗をしたくはないし、何より、この優しい男の子を怖がらせたくない。
もう行かなくてはならなかった。
僕がいなくなったら、彼は少しでも残念がってくれるだろうか。申し訳ないけれど、そうだったら嬉しい。この夜の思い出があれば、僕はまたしばらくの間一人で生きていけるだろう。
彼の腕の中から抜け出そうと身をよじったとき、彼が小さくくしゃみをした。ぶるりと身を震わせて、僕の身体を抱え直す。いつの間にか、彼の手や頬がとても熱くなっていた。
寒い、と呟いて彼が目を閉じてしまったので、僕は動けなくなってしまった。
◇◇◇◇◇◇
夜明け前、一日の中で最も暗い時間だった。
ねぐらに戻っていく梟の声を聞きながら、ウィリアムはアルバート、モランとともに森の奥のちいさな小屋を訪れた。明かりがついていなかったのでおやと思ったが、裏手に回ったモランがランタンを振って合図した。
「こっちだ。……ったく、こんなところで寝てやがる」
「おやおや」
アルバートがくすくすと笑った。
温室の中で、ルイスとフレッドが眠っていた。
フレッドは狼の姿のまま、地べたに座り込んだルイスの膝に頭をのせている。彼が呼吸するたびに、背中に添えられたルイスの手もゆっくりと上下していた。
「まったく、人騒がせな奴らだな」
「あの日とおんなじですね」
モランはぶつぶつと言っていたが、ウィリアムは懐かしい気持ちになった。
十年と少し前。ひどい嵐が通り過ぎた後だった。
夜中にルイスが部屋にいないことに気がついたウィリアムとアルバートは、屋敷の庭の温室で同じ光景を目にしたのだ。もっとも、あの時のルイスは雨に濡れて熱を出してしまっていたし、子犬同然だったフレッドはおろおろと不安そうに鼻を鳴らしていたが。
「話、できたかな」
「どうだかな。十年分の話なんか、たった一晩でできるもんでもないだろ。こいつは日が暮れちまうとこの通りだし」
「それもそうだね、これからゆっくり話していけるといいな」
熱で朦朧としていたルイスは、あの朝のことを覚えていなかった。ウィリアムとアルバートの目の前で人間の子どもに姿を変えたフレッドは、ごめんなさい、ごめんなさいと泣きながら繰り返した。彼が弟に何かしたわけではないことは明らかで、驚きこそしたものの、彼を責める気にはならなかった。
ルイスが寝込んでいるうちに彼の話を聞いて、当時森番の仕事に就いたばかりだったモランに彼を預けることにした。「あの子犬は親切な人に引き取られていった」とルイスには嘘をついて。
「うちで飼いたかったのに」ととても残念がっていたことを伝えたとき、フレッドはわずかに微笑んだ。けれど、ルイスに会いたいとはただの一度も言わなかった。
「……おや、夜が明けるようだよ」
アルバートが呟いた。
つられて振り返ると、木立の向こうに薄っすらと光が射しはじめている。
すると、ルイスに寄り添っていた狼の身体に異変が起こった。それは音もなく緩やかな変化だった。
灰色の毛皮がつるりとした肌に変わり、鋭い獣の爪は短く整えられた楕円形の爪になった。特徴的な鼻先と尖った耳はしゅるしゅると小さくなり、やがてごくありふれた、幼さの残る青年の横顔に変わった。
瞬きほんの数回分の時間のうちに、灰色の狼は人間の青年に姿を変えていた。
ウィリアムがほう、とため息をつく。
「何回見ても不思議ですね。どういう原理なんだろう」
「ウィル、それより何か羽織るものを……」
「こいつはそうそう風邪なんかひかねぇよ」
と言いつつ、モランは自分のコートを脱いで裸のフレッドにかけてやった。
分厚いコートの重みに「うぅん」とフレッドが呻いた。包帯を巻かれた彼の左手が、ごそごそと何かを探すように動く。やがて地面に投げ出されていた方のルイスの手を見つけて、ぎゅうと握った。反射なのか、眠っているはずのルイスの手もゆるく握り返したように見えた。
モランがはぁーっと深くため息をついた。
「……なぁ、もう起こしちまってもよくないか? じれったいったらありゃしねぇ。最初っから会いに行ってりゃよかったのに」
「そういうところが可愛いじゃない」
「フフ、ウィルの言う通りだ。それに、ちょうど我が家も新しい庭師を探していたところだからね。なるべくしてこうなった――まさに天の配剤、といったところかな」
アルバートは薔薇の花を引き寄せ、ワイングラスを揺らすような優雅な仕草でその香りを楽しんでいた。
黄金色の柔らかな光が、少しずつ森の空気を温めていく。また新しい一日が始まるのだ。二人は大切そうにお互いの手を握りあったまま、朝焼けの中で微睡んでいた。
初出:Pixiv 2022.11.22
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フレッド人狼パロ④
その日は、いつもより少し早く大学の授業が終わる曜日だった。ウィリアムが馬車も使わずのんびりと歩いて屋敷に戻る頃には、日も傾きかけていた。
屋敷の門をくぐって玄関でルイスの顔を見たとき、おや、と思った。いつもと同じように出迎えてくれたはずなのに、どこか緊張した面持ちだったからだ。
(何かあったかな)
前を歩く弟の後ろ姿を眺めながら、ウィリアムは思案した。
そして、居心地よく整えられた居間へ一歩足を踏み入れたとき、その違和感は確信に変わる。ソファにはすでに帰宅していたアルバートがくつろいだ様子で掛けていたのだが、テーブルの上には水色のストールが畳んで置かれていた。目の粗い生地のそれは、間違いなく彼のものではない。
アルバートはこちらを見て、困ったように微笑んだ。顔を見合わせた兄たちの表情を見て、ルイスもまた、一つの確信を得たようだった。
「……やっぱり、兄さんも兄様も、ご存知だったのですね、彼のこと」
彼、というのが誰のことか、もはや尋ねるまでもない。先日、彼がいるときにルイスが森番小屋へやって来たとモランから報告を受けたばかりだった。「もうまどろっこしいから会わせた」と開き直るモランに思わず苦笑いが溢れたことは記憶に新しい。
もう一度アルバートと顔を見合わせてから、ウィリアムが口を開く。
「どうしてそう思ったの?」
「あの字は、ウィリアム兄さんのものでした」
「あの字?」
「詩の書き取りです。このストールの持ち主の小屋で、たまたまノートが開いているのを見てしまいました」
「……ああ、なるほど」
ウィリアムは、確かに彼に字を教えていた。
あの森の奥に閉じ籠もって暮らすなら必要のない知識だと彼は考えていたようだけど、素直な子だからちゃんと勉強を続けてくれていたのだろう。
「ランタンの明かりの中で、見えたのはほんの一瞬だけでしたけど……僕は間違えたりしません」
ウィリアムは小さく頷いた。
それはもちろんそうだろう。ルイスに字を教えたのも、ウィリアムなのだから。
「聞こうか聞くまいかずっと迷っていましたが……お二人とも、最初からご存知だったのですね」
「……うん」
「アルバート兄様も?」
「ああ。すまなかったね」
謝罪の言葉に、ルイスは首を振った。
「モランさんが、兄さんたちには黙っていてほしいとおっしゃった時点で何となく察しはついていました。モランさんはいい加減な方ですが、森番としての信用に関わるような違反や隠し事を兄様たちになさるはずがありません。……兄さんと兄様が僕に余計な嘘を重ねずにすむように、ああおっしゃったのでしょう」
「さすがだね、ルイス」
「どうして、僕に黙っていたのですか?」
ルイスは少しだけ眉を下げながら、そう尋ねた。読書に夢中になって夜ふかししているウィリアムを見つけたときと同じ顔だ。
「……怒ってないの?」
「怒ってはいません。でも、どうして僕にだけ……」
「あの子がそう望んだからだよ」
その言葉を聞いた瞬間の、ルイスの可愛らしかったこと!
怒ってない、と口にしたばかりなのに彼はむっとしたように顔をしかめた。
フレッドがルイスに会いたくないと望んだこと。ウィリアムが彼の希望を優先して、ルイスに隠し事をするのを選んだこと。ウィリアムが彼を「あの子」と親しげに呼んだこと。
ルイスがウィリアムと接する他者に焼きもちをやくことは幼い頃から幾度となくあったけれど、今回ばかりは少し様子が違っていた。彼は、ウィリアムに対してもいくらか嫉妬に近い感情を抱いている。そして、そのことに戸惑っているのだ。
ウィリアムはにっこりと笑って、弟の手を取った。
「でも、こうなったなら僕も兄さんもルイスの味方だよ。知りたいのなら、彼に聞いておいで。今すぐに」
「え、今からですか?」
ルイスは戸惑ったようにウィリアムの顔と窓の外を見比べた。暮れかかった大きな夕陽が、山の向こうからうるんだ光を投げかけている。じきに夜が訪れるだろう。
「もう日が暮れてしまいますし、それに、兄さんたちの夕食が……」
「ウィル、たまには二人で外に食べに行こうか」
いつものようにおっとりと、しかし有無を言わさぬ口調でアルバートが割って入った。ウィリアムも「ええ、是非」と微笑み返す。
「だから、いってらっしゃい。ルイス」
兄たちは笑って、ルイスの背中を押した。
*
わけも分からないまま送り出されて、ルイスは屋敷から森へ続く道を走っていた。
急がないと日が暮れてしまう。何より、フレッドの小屋へはあの夜一度訪れたきりで道がよく分からなかった。まず森番小屋へ行って、モランに道案内を頼むべきだろう。闇雲に歩きまわってまた道に迷ってしまったら笑い話にもならない。
頭ではそう理解しているのに、ルイスは記憶を辿りながら森番小屋へ向かう道を外れていた。夕陽に背を向けて、暗い方へ。
「……フレッド、フレッド! いませんか?」
ルイスはあらん限りの声で叫んだ。
木々に囲まれた森の中はすでに薄暗い。明かりも持たずに来てしまったから、これ以上もたもたしていると一歩も動けなくなってしまう。早く彼を見つけて、話をしなくてはならない。
ぱきり、とどこかで枝を踏むちいさな音がした。慌てて周囲を見回すと、少し離れた木の陰からフレッドが姿を現した。
ルイスは安堵のため息をついた。
「フレッド、」
「モランの小屋は、こっちではありませんよ」
フレッドは硬い声で言った。
「わかっています。君を探しにきたんですから。……忘れ物ですよ」
ルイスはストールを差し出した。けれどフレッドはその場から一歩も動こうとしない。縋るように木の幹に爪を立てていた。
「……今すぐ、引き返してください」
彼の声は強張ったままだ。
「もうすぐ日が暮れます。また、狼が出ますよ」
「……それも、モランさんから聞いたのですか?」
フレッドはもどかしげにかぶりを振った。
「そうじゃなくて……」
泣き出しそうな声だった。彼は苦しげに眉根を寄せ、自身のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
「お願いします、帰ってください。もう二度と、絶対に、人前に出たりしません。……だから、」
「そんなことを聞きにきたのではありません」
ルイスが一歩踏み出すと、フレッドは怯えたように一歩後ずさる。顔を上げてこちらを見た彼の口から「あ……っ」と悲鳴に似た声が漏れた。
彼はルイスの肩越しに何かを見ている。
反射的に振り返ったが、ルイスの背後には何もない。木立の向こうから夕陽の名残が僅かに射し込んでいるだけだ。
「……フレッド? どうし……」
もう一度彼の方へ向き直ったとき、フレッドの身体がぐらりと傾いだ。
咄嗟に手を伸ばしたが、掴み損ねた。フレッドはそのまま地面に倒れ込む。助け起こそうとしたルイスの手を、彼は身体を捩りながら強く払った。
そのことにショックを受ける暇もなく、ルイスは息を呑んだ。
フレッドの顔を、首筋からざわざわとせり上がるように灰色の毛皮が覆い始めていた。
「見ないで……!!」
彼は悲痛な声で叫びながら、手で顔を覆った。
しかしその手も、みるみるうちに形を変えていく。短い毛に覆われ、鋭い爪を備えた手。いや、『手』と呼べるようなものではない。前足、と表現したほうが正確だろう。
ルイスが身動き出来ずにいるうちに、彼は一匹の獣に姿を変えていた。しばらく地面でばたばたともがいた後、彼は用をなさなくなった衣服の中から抜け出した。
「フレディ……?」
あの夜ルイスを守ってくれた、狼犬。
左手首にしっかりと巻かれた包帯だけが、ついさっきまで目の前にいたフレッドと同じだった。彼は尻尾を丸め、ルイスに背を向けた。悲しげに鼻を鳴らすかすかな声を残して、森の奥へと消えていく。
コインの裏表、というモランの言葉が蘇った。
ルイスは立ち上がり、迷わず追いかけた。
不思議と恐ろしいとは思わなかった。ああやっぱり、という想いのほうが強かった。
「フレッド、待って……!」
狼としての姿ならば、ルイスを振り切って走り去ることくらい容易いだろう。今ここで見失ってしまったらもう二度と会えなくなる気がした。足元が悪く全力で走れないことがもどかしい。
「フレッド!」
ルイスの声に応えるように、木々の隙間から、細く、けれど耳の奥に刺さる声が響いた。
前を走るフレッドではない。狼たちの遠吠えだ。
ルイスは思わず身を竦ませたが、より顕著に反応したのはフレッドの方だった。彼は明らかに走る速度を落として、ちらちらとこちらを振り返るようになった。
――ルイスを置き去りにできないのだ。
彼は木立の隙間を縫うように、ルイスの少し前を隠れたり現れたりしながら進んでいった。追いつかれては困る、けれどルイスを一人で置いてはいけない。そんな迷いが見て取れるようだった。
姿が変わっても、彼は彼のままだった。
二人は近づいたり離れたりしながら、森の中を走った。フレッドを見失った、と思ったら、目の前には最初の夜に訪れたあの小屋が現れた。
きっと今夜も、鍵は掛かっていない。
けれどルイスは小屋には入らず、裏手へ回った。
温室のガラス戸は半分開いたままになっている。
「……フレッド?」
中に入ると同時に、がさりと薔薇の茂みが揺れた気がした。
ルイスはそちらへ歩み寄る。
屋敷の温室でさえ、日が暮れてから入ったことなど殆どないはずなのに、何だかとても懐かしい。ガラス張りの狭い空間の中に取り残された温かい昼間の空気と、濃い緑の匂い。自分は、この感覚を知っている。
膝をついて花壇を奥を覗き込むと、薔薇の茂みの向こうに一対の瞳が光っていた。
彼はルイスに見つかったと気付くと、怯えたように鼻を鳴らしながらさらに奥へ隠れようとした。
「出てきてください。隠れないで……」
茨を押しのけて茂みの中に腕を伸ばすと、鋭い棘が手の甲を引っ掻いた。痛みに、思わず顔をしかめる。奥へ逃げ込もうとしていたフレッドは慌ててこちらへ身を乗り出してきた。
厚い毛皮に覆われた身体は薔薇の棘では傷つかないらしい。彼は盾になるように茨とルイスの手の間に身体を割り込ませた。
ルイスが後ろに下がって促すと、優しい狼犬は大人しく花壇から下りて血の滲んだルイスの手の甲をぺろぺろと舐めた。
彼は主人に叱られるのを待つ犬のように、耳と尻尾を垂らして地面に身を伏せた。ルイスもまた、スラックスが汚れるのも構わず座り込む。
――やっぱり、知っている。
ルイスは彼の首を抱き寄せて、ふさふさとした手触りを堪能した。温かい。厚い毛皮の下に、血が通っているのがわかる。
「……すっかり大きくなっていたからわかりませんでした。フレッド、君だったんですね」
もう十年以上前の、ひどい嵐の夜。
一匹の子犬が庭に迷い込んできた。
眠れなくて窓の外を眺めていたルイスはそっと部屋を抜け出して、兄たちに内緒でその子犬を抱き上げて庭の温室に隠れた。
「親切な人に貰われていったと聞いていたのに、こんなに近くにいたなんて。僕にだけ黙っているなんてひどいです。どうして会いに来てくれなかったんですか?」
真っ暗な温室の中は、薔薇の香りに混じって土と緑の匂いがした。当時のルイスは夜に一人で部屋の外に出るのが苦手だったが、ちいさなぬくもりを感じていると不思議と怖くはなかった。
薔薇の花の中に隠れて、かわいい子犬をお供にして、兄たちにさえも秘密の冒険をしている気分だった。あの夜の出来事は一枚の美しい絵のように、ルイスの記憶に焼き付いていた。
身体を離して、フレッドの目を真正面から見つめた。
彼が顔を伏せようとするのを、両手で頬を挟んで押し止める。そして彼の額に自分の額を押し当てた。人間の姿だったら少し恥ずかしくなってしまうくらい親密な触れ方かもしれない。今の彼の姿なら、許してもらえるだろうか。
「……狼から守ってくれた君も、一緒にタルトを食べた君も、どちらも僕の友だちですよ」
そう告げると、フレッドがクゥ、クゥンと鼻を鳴らした。言っていることはわからないけれど、言いたいことはわかる気がした。
あまりに切なそうな声だったので、ルイスは彼の首を抱き直した。
「……朝になったら、全部聞かせてくださいね。会いに来てくれなかった理由も、こんな素敵な薔薇園を作ってしまった理由も全部。君のこと、教えて……」
視界の端で、彼の尻尾がぱたぱたと揺れた。
◇◇◇◇◇◇
てっきり僕はもう死ぬものだとばかり思っていたから、次に暖かくて静かな場所で気がついたとき、天国に来たのかと思った。
見たことないくらい綺麗な花がたくさん咲いていて、辺りにはうっとりするほど心地よい匂いが満ちていた。建物の中らしかったけれど、壁も天井もガラスでできているので空がまだ暗いことがわかった。雨粒がガラスを叩く音は聞こえなかったから、嵐はほとんど通り過ぎてしまったようだ。
泥だらけだった僕の身体をたっぷりとした布に包み込んで、誰かがさすってくれている。冷えて固まっていた手足は、いつの間にかすっかり温かくほどけていた。
身体の向きを変えてそっちの方を見ると、僕を抱えているのは人間の男の子だった。紫がかった紅い瞳と金の髪は暗闇の中でも輝いて見えて、いつか教会で見た天使の絵を思い出させた。
「あ、よかった」
僕と目が合うと、彼は小さく微笑んだ。
「首輪がないから、野良犬でしょうか。まだ小さいのに大変でしたね」
小さくて柔らかい手が僕の頭を撫でてくれた。
神様はひどい。
人間とは一緒にいられない僕を、優しい人間にばかり会わせてくれる。人間がもっと乱暴で意地悪で怖い存在なら、こんな思いをしなくてすんだのに。
狼の姿では涙が出ない。代わりに、僕はクゥクゥと鼻を鳴らした。男の子はこちらの気持ちを知ってか知らずか、僕の肉球をぷにぷにと押して遊んでいる。
「お風呂に入れてあげたいけど、絨毯を汚してしまうとアルバート兄様に申し訳ないから……。ここで我慢してくださいね」
我慢? こんなに素敵なところなのに。
僕らの頭上でゆっくりと雲が流れて、隙間から月明かりが射しこんだ。彼が顔を上げた拍子に金色の髪もさらりと流れた。彼の顔に大きな傷があることに、その時はじめて気がついた。
「わっ、こら」
身を乗り出して頬を舐めると、彼は声を上げて笑った。
しばらくくすぐったそうに笑っていた彼だったが、やがて僕が頬の傷を舐めているのに気がついたらしかった。ちょっと驚いたように目を丸くして、それから泣きそうに顔を歪めた。
「……ありがとう、もう痛くないですよ」
彼は膝に抱えた僕をぎゅうと抱きしめてくれた。
たしかに彼の言う通り、傷口はすでに乾いていた。怪我をしてからしばらく経っているのだろう。それでも、こんなに大きな傷なのだから痛かったに違いない。
労る気持ちをこめてもう一度頬をぺろりと舐めると、彼も僕の背中を撫でてくれた。
「優しい、いい子ですね。お利口そうだし、芸を覚えたら兄さんたちも飼っていいって言ってくれるかな……」
彼が僕の顎の下をくすぐりながら、呟いた。
もしも僕が普通の犬だったなら、彼の友だちになれただろうか。それはとても素敵な空想だった。
「新聞受けから新聞を取ってきたり、泥棒を追い払ったりするんですよ。できますか?」
できる、と答える代わりに、僕はクゥと鳴いた。
シンブンもドロボウもその時の僕にはよく分からなかったけれど、あなたの探しものは僕が見つけてみせる。危ない目にあっていたら必ず助けに行く。
張り切って尻尾を振る僕に、彼は満足そうに頷いた。
「朝になったら、兄さんたちにお願いしてみましょうね」
朝になったら。
その言葉で、僕は現実に引き戻された。
じきに東の空が白みはじめるだろう。つい数時間前に驚かせてしまったお婆さんのことを思い出した。一日に二度も同じ失敗をしたくはないし、何より、この優しい男の子を怖がらせたくない。
もう行かなくてはならなかった。
僕がいなくなったら、彼は少しでも残念がってくれるだろうか。申し訳ないけれど、そうだったら嬉しい。この夜の思い出があれば、僕はまたしばらくの間一人で生きていけるだろう。
彼の腕の中から抜け出そうと身をよじったとき、彼が小さくくしゃみをした。ぶるりと身を震わせて、僕の身体を抱え直す。いつの間にか、彼の手や頬がとても熱くなっていた。
寒い、と呟いて彼が目を閉じてしまったので、僕は動けなくなってしまった。
◇◇◇◇◇◇
夜明け前、一日の中で最も暗い時間だった。
ねぐらに戻っていく梟の声を聞きながら、ウィリアムはアルバート、モランとともに森の奥のちいさな小屋を訪れた。明かりがついていなかったのでおやと思ったが、裏手に回ったモランがランタンを振って合図した。
「こっちだ。……ったく、こんなところで寝てやがる」
「おやおや」
アルバートがくすくすと笑った。
温室の中で、ルイスとフレッドが眠っていた。
フレッドは狼の姿のまま、地べたに座り込んだルイスの膝に頭をのせている。彼が呼吸するたびに、背中に添えられたルイスの手もゆっくりと上下していた。
「まったく、人騒がせな奴らだな」
「あの日とおんなじですね」
モランはぶつぶつと言っていたが、ウィリアムは懐かしい気持ちになった。
十年と少し前。ひどい嵐が通り過ぎた後だった。
夜中にルイスが部屋にいないことに気がついたウィリアムとアルバートは、屋敷の庭の温室で同じ光景を目にしたのだ。もっとも、あの時のルイスは雨に濡れて熱を出してしまっていたし、子犬同然だったフレッドはおろおろと不安そうに鼻を鳴らしていたが。
「話、できたかな」
「どうだかな。十年分の話なんか、たった一晩でできるもんでもないだろ。こいつは日が暮れちまうとこの通りだし」
「それもそうだね、これからゆっくり話していけるといいな」
熱で朦朧としていたルイスは、あの朝のことを覚えていなかった。ウィリアムとアルバートの目の前で人間の子どもに姿を変えたフレッドは、ごめんなさい、ごめんなさいと泣きながら繰り返した。彼が弟に何かしたわけではないことは明らかで、驚きこそしたものの、彼を責める気にはならなかった。
ルイスが寝込んでいるうちに彼の話を聞いて、当時森番の仕事に就いたばかりだったモランに彼を預けることにした。「あの子犬は親切な人に引き取られていった」とルイスには嘘をついて。
「うちで飼いたかったのに」ととても残念がっていたことを伝えたとき、フレッドはわずかに微笑んだ。けれど、ルイスに会いたいとはただの一度も言わなかった。
「……おや、夜が明けるようだよ」
アルバートが呟いた。
つられて振り返ると、木立の向こうに薄っすらと光が射しはじめている。
すると、ルイスに寄り添っていた狼の身体に異変が起こった。それは音もなく緩やかな変化だった。
灰色の毛皮がつるりとした肌に変わり、鋭い獣の爪は短く整えられた楕円形の爪になった。特徴的な鼻先と尖った耳はしゅるしゅると小さくなり、やがてごくありふれた、幼さの残る青年の横顔に変わった。
瞬きほんの数回分の時間のうちに、灰色の狼は人間の青年に姿を変えていた。
ウィリアムがほう、とため息をつく。
「何回見ても不思議ですね。どういう原理なんだろう」
「ウィル、それより何か羽織るものを……」
「こいつはそうそう風邪なんかひかねぇよ」
と言いつつ、モランは自分のコートを脱いで裸のフレッドにかけてやった。
分厚いコートの重みに「うぅん」とフレッドが呻いた。包帯を巻かれた彼の左手が、ごそごそと何かを探すように動く。やがて地面に投げ出されていた方のルイスの手を見つけて、ぎゅうと握った。反射なのか、眠っているはずのルイスの手もゆるく握り返したように見えた。
モランがはぁーっと深くため息をついた。
「……なぁ、もう起こしちまってもよくないか? じれったいったらありゃしねぇ。最初っから会いに行ってりゃよかったのに」
「そういうところが可愛いじゃない」
「フフ、ウィルの言う通りだ。それに、ちょうど我が家も新しい庭師を探していたところだからね。なるべくしてこうなった――まさに天の配剤、といったところかな」
アルバートは薔薇の花を引き寄せ、ワイングラスを揺らすような優雅な仕草でその香りを楽しんでいた。
黄金色の柔らかな光が、少しずつ森の空気を温めていく。また新しい一日が始まるのだ。二人は大切そうにお互いの手を握りあったまま、朝焼けの中で微睡んでいた。
初出:Pixiv 2022.11.22