No.27
The Heavenly Dispensing
フレッド人狼パロ②
翌朝目を覚ますと、狼犬の姿はなかった。
あの小さいドアから朝の散歩にでも行ってしまったのだろうか。
ブランケットのおかけで冷えることはなかったが、椅子で寝たせいで少し身体が痛い。伸びをしながら、そういえばこの部屋にはベッドがないな、とぼんやりと考えた。
ルイスは小屋の外に出た。日はすでに登っているようだが、森の奥はまだ薄暗くて夜気の冷ややかさが残っている。
あの狼犬か、でなければこの小屋の主人が戻ってきてはいないだろうか。ウィリアムとアルバートが心配しているだろうがこのまま黙って出ていくのも不作法に思えて、ルイスは小屋の周りを歩いてみた。
昨夜は気が付かなかったが、小屋のすぐ裏手にもう一つ、ガラス張りの小屋があった。
「温室……?」
好奇心からそっとガラス戸を押し開けて中をのぞき込み、ルイスは息を呑んだ。
温室の中には、こんな森の奥とは思えないほど色とりどりの薔薇がところ狭しと咲き乱れていた。一歩中に足を踏み入れた途端、豊かな芳香が鼻先をくすぐる。
屋敷の庭にも薔薇園はあったが、こちらの温室のほうが小さい分だけ花に包まれている心地がした。思いがけず出くわした色鮮やかな光景は、どこか夢を見ているようだった。
初めて来る場所なのに、どこか懐かしいような――
「ルイス」
「わ……、モランさん」
背後から声をかけられて、ルイスは小さく飛び上がった。
温室の入り口でいくらか身を屈めながら、モランがこちらをのぞき込んでいる。彼はルイスの顔を見るなり大きなため息をついた。
「こんなところにいやがった。大丈夫か?」
「あ、はい……」
「怪我もないな」
「してません。……僕は」
「帰るぞ、ウィリアムたちが大騒ぎしてる」
彼がさっさと出ていってしまったので、慌てて後を追った。小屋の正面の小道に出たところで、ルイスは「あっ」と声を上げた。
「どうした?」
「僕の万年筆……」
小道の真ん中に、昨夜なくしたはずの万年筆が落ちていた。
万年筆がなくなったことに気がついたのは森の入り口近くだったから、ここに落としたはずがない。先ほど小屋を出たときにも落ちてはいなかったはずだら、誰かがここに置いたとしか考えられなかった。
ルイスは少し先で待っていたモランの方へ駆け寄った。
「モランさん、あの小屋には誰が住んでいるのですか? 兄様たちはご存知なのですか?」
「…………」
「モランさん?」
「あー、何つうか……。ちょっと訳アリなんだ」
「……どういうことですか?」
ルイスの声が険しくなったので、モランは苦笑しながらひらひらと手を振った。歩調は緩めないまま、彼はまっすぐに街の方へ進んでいく。大柄な彼の歩幅に合わせなくてはならないので、ついていく方は必死だった。
ルイスは肩越しにちらりと背後を振り返った。三角屋根の小屋は、木立に隠れてもう見えない。
「別にお尋ね者を匿ってるわけじゃねぇよ。ただ事情があって、俺がある奴に貸してる小屋なんだ。悪いようにはしねぇから他の連中には……アルバートとウィリアムにも黙っといてくれねぇか」
「兄様にも内緒で、領主の森に人を住まわせているのですか?」
「頼む」
モランがいつになく真剣な顔でそう言うので、ルイスはぐっと気圧された。「悪いようにはしない」といいながら否定も肯定もしないところに少し引っかかるものを覚えたが、ルイスは頷いた。
「……わかりました、黙っておきます。その代わり、あそこに住んでいる方のこと、教えてください。あの犬のことも」
「あー……」
「昨夜、道に迷って狼に襲われたんです。あの子が助けにきてくれなかったら噛み殺されるところでした。お礼がしたいんです。それに、僕のせいで怪我を……。飼い主の方にも勝手に小屋を使わせてもらったお詫びをしないと」
「……わかった。あのフィッシュパイ、分けておいてやるよ」
「もう! ごまかさないでください!」
声を上げるルイスを無視して、モランは前方に向けて手を振った。
見ると、森の入り口あたりに数人の人だかりが出来ている。近づいて来るモランに気がついて、その中心にいた人物が一目散に駆け寄ってきた。
「ルイス!」
「兄さん」
「あぁ、ルイス……。よかった、本当によかった。怪我はない? 一晩どこに行ってたの?」
ルイスをぎゅうぎゅう抱きしめながら、一つ年上の兄は「よかった、よかった」としきりに繰り返した。
ウィリアムに続いて、アルバートも早足に歩み寄ってきた。領民たちの前である以上平静を保ってはいたが、表情には隠しきれない安堵の色が浮かんでいる。
「ルイス、お前が戻らないから心配したよ」
「ごめんなさい。兄さん、兄様」
ウィリアムとアルバートの後ろには、朝早い時間にも関わらず街の人間が何人かいた。森に入ってルイスの捜索をするつもりで集まってくれたのだろう。ルイスが姿を見せたことで、皆一様にほっとした顔をして朗らかに微笑んでいる。
「モランのところにいたのかい?」
「えっと……」
「森で道に迷ったそうだが、運良く使ってない物置小屋を見つけてな。そこで一晩明かしたんだとよ」
モランがすかさず補足した。ルイスが小さく頷くとウィリアムとアルバートも納得したようで、それ以上は追及されなかった。
集まってくれた者たちに心配をかけてしまったことを詫びて、その場は解散となった。
*
翌日、買い出しから帰ってくると、屋敷の庭で通いの庭師が植え込みの剪定作業をしていた。彼はルイスの姿を見るなり、帽子を取って軽く頭を下げた。
「ルイスさん、おかえりなさい」
「ただいま戻りました、クリントさん」
もう何年も前から庭の手入れをしてくれている気心の知れた者なので、ルイスも気軽に応えた。
「あ、ついさっきモランさんがいらしていましたよ。バスケットを返しに」
彼が指差したガーデンテーブルの上に、先日彼に渡したバスケットが置かれていた。フィッシュパイを入れていたものだ。クリントに礼を言いながらバスケットを取り上げると、中には綺麗に洗われた皿と、薔薇が一輪入っていた。
「見事な薔薇ですねぇ。わざわざ買ってこられたんでしょうか」
クリントは首を傾げていたが、ルイスはそれがモランからの贈り物ではないことがすぐにわかった。
あの温室に咲いていた薔薇だった。
*
一輪挿しの花瓶を探し出してきて、キッチンの窓辺に飾った。夕食用のパイが焼けるのを待ちながら、ルイスはスツールに腰掛けてぼんやりとその花を眺めていた。
紫がかった濃い赤の薔薇だった。
偶然にも、ルイスの瞳に似た色をしていた。
モランがルイス宛にわざわざ花を用意するとは思えないから、やはりあの温室に咲いていたもので間違いない。花びらには優雅な厚みがあり、棘は丁寧に取り除かれていた。
モランは言った通りに、あの狼犬の飼い主にフィッシュパイを分けてくれたのだろう。そしてその人物はささやかなお礼のしるしとして、あの温室の薔薇を添えてくれたに違いない。
どんな人物なのだろう。
あんな森の奥で隠れて暮らすなんて、よほどの事情があるように思えた。少なくとも、街で暮らしていけないような犯罪者ではないことは分かる。モランが否定していたし、あの利口な狼犬と共に花を育てて暮らしている人間が悪人とは思えなかった。
であれば、彼――あるいは彼女――が森の奥に隠れ住む理由とはなんだろう?
ルイスは無意識のうちに自分の頬に触れていた。
(人前に出られないほど醜い傷がある、とか……)
ルイスの頬には、子どもの頃別荘の火事で負った火傷の痕があった。その時のことはあまりよく覚えていない。髪や服に燃え移らなかっただけ幸運と言えたが、右頬の皮膚は十年以上経った今でも歪に引き攣れたままだった。
年若い娘ならまだしも、ルイスは自分の美醜に対する執着はさほど持ち合わせていなかった。けれど、あまり人前に顔を晒したくないという気持ちはよくわかる。美しい兄たちを褒めそやしていた人間がルイスからは気まずそうにそっと目を逸らす、そんな場面がこれまで幾度となくあった。
「…………」
根拠なくあれこれと考えたところで仕方のないことだ。今はモランと、自分の受けた印象を信じよう。
そこで一旦思考を打ち切ったが、しかしルイスにはもうひとつ気がかりがあった。
(フィッシュパイ、玉ねぎが入っていたから、あの子は食べられなかっただろうな……)
狼をはじめとする犬科の動物にとって、玉ねぎは猛毒だ。彼がありつけたのはせいぜいイワシの頭くらいで、パイはほとんどモランと飼い主の胃袋に収まってしまっただろう。
怪我は大丈夫だろうか。
思えば、いくら人に飼い慣らされているからといって、狼の群れにたった一匹で立ち向かうとはなんて勇敢な犬だろう。勝ち目なしと判断してルイスを見捨てたとしても仕方ない状況だったはずだ。
モランから黙っていろと言われたということはそれがあの犬の飼い主の意向でもあるはずなのだが、勇戦したご褒美がイワシの頭だけというのはあまりに可哀想だった。
考えた結果、ルイスは財布を手に奮然と立ち上がった。
*
ノッカーを掴んで森番小屋の扉を叩くと、モランはすぐに出てきた。彼はルイスを見るなりぎょっとした顔をした。
「おまっ……昨日の今日で来たのかよ。一人か?」
「はい。約束通り、兄さんにも兄様にも話していません。すぐに帰りますよ」
「あ? じゃあ何しに……」
来たのか、と言いかけたところで、モランはルイスがまた同じバスケットを下げていることに気がついたようだった。
「モランさんのじゃありませんよ。あの森の奥の小屋の持ち主に渡してください」
ルイスは念を押しながら、それを彼の鼻先に突きつけた。
中にはずっしりとしたローストビーフがひとかたまり入っている。肉屋で買ってきた一番いいもも肉を、低温でじっくりと焼いたものだ。香草で臭み取りこそしてあるが、あの犬がそのまま食べられるように味付けはしていない。人間用のソースは一応小瓶に詰めて添えてあった。
ルイスがそのことを説明しようとすると、モランはガシガシと頭をかいた。
「あー、そうだよなぁ……」
「モランさん?」
「……ちょっと待ってろ。おい、フレッド!」
モランが急に部屋の奥に向かって大声で怒鳴ったので、ルイスは目を丸くした。
「誰かいたのですか? 来客中にすみません」
「いや、いい。待ってろ。おぉい、フレッド! ちょっと来い! …………ったく。おい、ルイスあがれ」
「え? ちょ、モランさん?」
焦れたモランに腕を掴まれ、ルイスは小屋の中に引っ張り込まれた。短い廊下を二、三歩で通り越して、客間を兼ねた居間へ踏み込んだ。
「…………っ!」
部屋の窓の前に、一人の青年が立っていた。
ルイスよりはいくつか年下だろうか。短くて黒い髪はモランに似ていたが、それ以外は彼とは正反対だ。小柄で、頬の輪郭にはまだ幼げな丸みが残っている。
彼はルイスと目が合わないようにぱっと顔を背けて、首に巻いた水色のストールを口元まで引き上げた。
「玄関はこっちだ。窓から出るなよ」
「…………」
モランがからかうと、彼は何も言わずにじとりと睨み返した。本気で怒っているようには見えない。気心知れた相手に対する目つきに見えた。
「ほら、ルイスがお前にって」
モランがずいとバスケットを突き出したので、ルイスと青年は同時に「えっ」と声を上げた。
「モラン……!!」
「彼が、あの小屋の?」
「おう、フレッドだ。いいタイミングだったな」
ルイスはもう一度、まじまじと彼を観察した。
醜い傷があるわけでもない、ごく普通の青年だ。もちろん凶悪な犯罪者にも見えない。ルイスの視線に居心地悪そうにしながらも、かといって今から逃げるのも背中を向けるのも失礼だし……と戸惑う様子がありありと見て取れた。
「フレッドさん、あの、ルイスといいます。勝手に家に上がってしまってすみませんでした。それから、あの子にも怪我をさせてしまって……。これ、ささやかですがそのお礼です」
「…………」
「ほんとうに、ありがとうございました」
ルイスは深々と頭を下げた。
「あの子の怪我の具合はいかがですか?」
「あの子……?」
「あのワンちゃんです」
「わ、ワンちゃん」
「ぶっ」
横で聞いていたモランが何故か吹き出した。
他所様の飼い犬を「あの犬」呼ばわりするのも気が引けたのだが、そんなにおかしな言葉だっただろうか。ルイスは少し口を尖らせながら尋ねた。
「あの子、何という名前なんですか?」
「え……っと、あの」
「フレディ、な」
口ごもるフレッドに、モランが横から助け舟を出した。
フレッドに、フレッドの飼い犬のフレディ?
偉人や物語の登場人物の名前を飼い犬につけることはよくあるらしいが、自分の愛称をつけるのはあまり聞いたことがない。ルイスは首を傾げた。
「コインの裏表みたいなもんだからな」
「……」
フレッドが無言でモランの背中を殴った。
それくらい仲がいい、ということだろうか。
「……もう帰る」
フレッドはモランに短くそう告げると、ルイスに黙礼してそそくさと出ていこうとした。
「あっ、待って……」
「痛っ……!」
とっさに腕を掴むと、彼が短く悲鳴を上げた。
「あ……、ごめんなさい! 怪我してたんですね」
ルイスは慌てて手を離した。よく見ると、左の袖口から包帯が覗いている。
「大丈夫ですか? すみません、気が付かずに……」
「いえ……、平気です」
フレッドは気まずそうに袖を隠した。
足早に玄関に向かおうとする彼を、今度はモランが捕まえた。
「おいフレッド、帰るならちょうどよかった。ルイスを送ってやってくれ」
「えっ」
「また一人で森に入ったって知ったらこいつの兄貴たちが心配するだろ」
「……モランが行けば……」
「なんだよ、ルイスと二人は嫌か?」
「…………」
なんだか妙な流れになってきた。初対面の相手を無理に付き合わせるのも申し訳ない。ルイスは辞去しようとしたが、それよりも早くフレッドがこちらを向いた。
「……ご一緒します」
*
結局モランに押し負けて、彼に送っていってもらうことになってしまった。前を歩く、頭一つ分背の低い彼に話しかける。
「あの、すみません、モランさんが……。この間はたまたま迷ってしまっただけで、道はわかります。途中までで結構ですよ」
「いえ、出口までは……」
それだけ答えて、また彼は黙ってしまった。
口数が少なく表情にあまり変化が見られないが、ルイスとの会話を拒んでいるようには見えない。むしろ、彼の方が賢明に言葉を探してくれているように思えた。
ルイスとてお喋りな方ではなかったが、もう少し、彼と話がしてみたかった。
「薔薇、ありがとうございました。君が育てたんですか?」
「あ……はい」
「すごいですね。あの温室もとても綺麗でした。あ、勝手に入ってごめんなさい」
「いえ、それは全然。……ありがとう、ございます」
「また見に行ってもいいですか? フレディにも会いたいので」
「…………」
しばしの沈黙の後、フレッドは口を開いた。
「……フレディ、は……いつも昼の間はどこかに行って、いないんです」
「そうなんですか。夜には帰ってくるのなら、自分のうちだとちゃんと理解しているんでしょうね」
そういえば、この青年はあの夜どこにいたのだろう。ふとそんな疑問が頭を過ぎった。
「じゃあ、僕はここで。……これ、ありがとうございます」
そのことについて尋ねる前に、いつの間にか森の出口に着いていたようだ。フレッドはバスケットを胸のあたりまで持ち上げてぺこりと頭を下げた。
「お礼ですから。フレディと一緒に食べてください」
「……はい。フィッシュパイも、おいしかったです」
「それはよかった」
もう一度頭を下げると、彼は足早に来た道を引き返していった。
いつの間にか太陽は傾いて、その色を徐々に濃くしながら山の向こうに消えようとしている。じきにウィリアムが大学から帰ってくる時間だ。早く屋敷に戻って夕飯の支度をしなくては。
温室を見に行ってもいいか、という問いに対して彼は「いい」とも「駄目だ」とも答えなかった。そのことが少しだけ寂しかった。
初出:Pixiv 2022.11.05
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フレッド人狼パロ②
翌朝目を覚ますと、狼犬の姿はなかった。
あの小さいドアから朝の散歩にでも行ってしまったのだろうか。
ブランケットのおかけで冷えることはなかったが、椅子で寝たせいで少し身体が痛い。伸びをしながら、そういえばこの部屋にはベッドがないな、とぼんやりと考えた。
ルイスは小屋の外に出た。日はすでに登っているようだが、森の奥はまだ薄暗くて夜気の冷ややかさが残っている。
あの狼犬か、でなければこの小屋の主人が戻ってきてはいないだろうか。ウィリアムとアルバートが心配しているだろうがこのまま黙って出ていくのも不作法に思えて、ルイスは小屋の周りを歩いてみた。
昨夜は気が付かなかったが、小屋のすぐ裏手にもう一つ、ガラス張りの小屋があった。
「温室……?」
好奇心からそっとガラス戸を押し開けて中をのぞき込み、ルイスは息を呑んだ。
温室の中には、こんな森の奥とは思えないほど色とりどりの薔薇がところ狭しと咲き乱れていた。一歩中に足を踏み入れた途端、豊かな芳香が鼻先をくすぐる。
屋敷の庭にも薔薇園はあったが、こちらの温室のほうが小さい分だけ花に包まれている心地がした。思いがけず出くわした色鮮やかな光景は、どこか夢を見ているようだった。
初めて来る場所なのに、どこか懐かしいような――
「ルイス」
「わ……、モランさん」
背後から声をかけられて、ルイスは小さく飛び上がった。
温室の入り口でいくらか身を屈めながら、モランがこちらをのぞき込んでいる。彼はルイスの顔を見るなり大きなため息をついた。
「こんなところにいやがった。大丈夫か?」
「あ、はい……」
「怪我もないな」
「してません。……僕は」
「帰るぞ、ウィリアムたちが大騒ぎしてる」
彼がさっさと出ていってしまったので、慌てて後を追った。小屋の正面の小道に出たところで、ルイスは「あっ」と声を上げた。
「どうした?」
「僕の万年筆……」
小道の真ん中に、昨夜なくしたはずの万年筆が落ちていた。
万年筆がなくなったことに気がついたのは森の入り口近くだったから、ここに落としたはずがない。先ほど小屋を出たときにも落ちてはいなかったはずだら、誰かがここに置いたとしか考えられなかった。
ルイスは少し先で待っていたモランの方へ駆け寄った。
「モランさん、あの小屋には誰が住んでいるのですか? 兄様たちはご存知なのですか?」
「…………」
「モランさん?」
「あー、何つうか……。ちょっと訳アリなんだ」
「……どういうことですか?」
ルイスの声が険しくなったので、モランは苦笑しながらひらひらと手を振った。歩調は緩めないまま、彼はまっすぐに街の方へ進んでいく。大柄な彼の歩幅に合わせなくてはならないので、ついていく方は必死だった。
ルイスは肩越しにちらりと背後を振り返った。三角屋根の小屋は、木立に隠れてもう見えない。
「別にお尋ね者を匿ってるわけじゃねぇよ。ただ事情があって、俺がある奴に貸してる小屋なんだ。悪いようにはしねぇから他の連中には……アルバートとウィリアムにも黙っといてくれねぇか」
「兄様にも内緒で、領主の森に人を住まわせているのですか?」
「頼む」
モランがいつになく真剣な顔でそう言うので、ルイスはぐっと気圧された。「悪いようにはしない」といいながら否定も肯定もしないところに少し引っかかるものを覚えたが、ルイスは頷いた。
「……わかりました、黙っておきます。その代わり、あそこに住んでいる方のこと、教えてください。あの犬のことも」
「あー……」
「昨夜、道に迷って狼に襲われたんです。あの子が助けにきてくれなかったら噛み殺されるところでした。お礼がしたいんです。それに、僕のせいで怪我を……。飼い主の方にも勝手に小屋を使わせてもらったお詫びをしないと」
「……わかった。あのフィッシュパイ、分けておいてやるよ」
「もう! ごまかさないでください!」
声を上げるルイスを無視して、モランは前方に向けて手を振った。
見ると、森の入り口あたりに数人の人だかりが出来ている。近づいて来るモランに気がついて、その中心にいた人物が一目散に駆け寄ってきた。
「ルイス!」
「兄さん」
「あぁ、ルイス……。よかった、本当によかった。怪我はない? 一晩どこに行ってたの?」
ルイスをぎゅうぎゅう抱きしめながら、一つ年上の兄は「よかった、よかった」としきりに繰り返した。
ウィリアムに続いて、アルバートも早足に歩み寄ってきた。領民たちの前である以上平静を保ってはいたが、表情には隠しきれない安堵の色が浮かんでいる。
「ルイス、お前が戻らないから心配したよ」
「ごめんなさい。兄さん、兄様」
ウィリアムとアルバートの後ろには、朝早い時間にも関わらず街の人間が何人かいた。森に入ってルイスの捜索をするつもりで集まってくれたのだろう。ルイスが姿を見せたことで、皆一様にほっとした顔をして朗らかに微笑んでいる。
「モランのところにいたのかい?」
「えっと……」
「森で道に迷ったそうだが、運良く使ってない物置小屋を見つけてな。そこで一晩明かしたんだとよ」
モランがすかさず補足した。ルイスが小さく頷くとウィリアムとアルバートも納得したようで、それ以上は追及されなかった。
集まってくれた者たちに心配をかけてしまったことを詫びて、その場は解散となった。
*
翌日、買い出しから帰ってくると、屋敷の庭で通いの庭師が植え込みの剪定作業をしていた。彼はルイスの姿を見るなり、帽子を取って軽く頭を下げた。
「ルイスさん、おかえりなさい」
「ただいま戻りました、クリントさん」
もう何年も前から庭の手入れをしてくれている気心の知れた者なので、ルイスも気軽に応えた。
「あ、ついさっきモランさんがいらしていましたよ。バスケットを返しに」
彼が指差したガーデンテーブルの上に、先日彼に渡したバスケットが置かれていた。フィッシュパイを入れていたものだ。クリントに礼を言いながらバスケットを取り上げると、中には綺麗に洗われた皿と、薔薇が一輪入っていた。
「見事な薔薇ですねぇ。わざわざ買ってこられたんでしょうか」
クリントは首を傾げていたが、ルイスはそれがモランからの贈り物ではないことがすぐにわかった。
あの温室に咲いていた薔薇だった。
*
一輪挿しの花瓶を探し出してきて、キッチンの窓辺に飾った。夕食用のパイが焼けるのを待ちながら、ルイスはスツールに腰掛けてぼんやりとその花を眺めていた。
紫がかった濃い赤の薔薇だった。
偶然にも、ルイスの瞳に似た色をしていた。
モランがルイス宛にわざわざ花を用意するとは思えないから、やはりあの温室に咲いていたもので間違いない。花びらには優雅な厚みがあり、棘は丁寧に取り除かれていた。
モランは言った通りに、あの狼犬の飼い主にフィッシュパイを分けてくれたのだろう。そしてその人物はささやかなお礼のしるしとして、あの温室の薔薇を添えてくれたに違いない。
どんな人物なのだろう。
あんな森の奥で隠れて暮らすなんて、よほどの事情があるように思えた。少なくとも、街で暮らしていけないような犯罪者ではないことは分かる。モランが否定していたし、あの利口な狼犬と共に花を育てて暮らしている人間が悪人とは思えなかった。
であれば、彼――あるいは彼女――が森の奥に隠れ住む理由とはなんだろう?
ルイスは無意識のうちに自分の頬に触れていた。
(人前に出られないほど醜い傷がある、とか……)
ルイスの頬には、子どもの頃別荘の火事で負った火傷の痕があった。その時のことはあまりよく覚えていない。髪や服に燃え移らなかっただけ幸運と言えたが、右頬の皮膚は十年以上経った今でも歪に引き攣れたままだった。
年若い娘ならまだしも、ルイスは自分の美醜に対する執着はさほど持ち合わせていなかった。けれど、あまり人前に顔を晒したくないという気持ちはよくわかる。美しい兄たちを褒めそやしていた人間がルイスからは気まずそうにそっと目を逸らす、そんな場面がこれまで幾度となくあった。
「…………」
根拠なくあれこれと考えたところで仕方のないことだ。今はモランと、自分の受けた印象を信じよう。
そこで一旦思考を打ち切ったが、しかしルイスにはもうひとつ気がかりがあった。
(フィッシュパイ、玉ねぎが入っていたから、あの子は食べられなかっただろうな……)
狼をはじめとする犬科の動物にとって、玉ねぎは猛毒だ。彼がありつけたのはせいぜいイワシの頭くらいで、パイはほとんどモランと飼い主の胃袋に収まってしまっただろう。
怪我は大丈夫だろうか。
思えば、いくら人に飼い慣らされているからといって、狼の群れにたった一匹で立ち向かうとはなんて勇敢な犬だろう。勝ち目なしと判断してルイスを見捨てたとしても仕方ない状況だったはずだ。
モランから黙っていろと言われたということはそれがあの犬の飼い主の意向でもあるはずなのだが、勇戦したご褒美がイワシの頭だけというのはあまりに可哀想だった。
考えた結果、ルイスは財布を手に奮然と立ち上がった。
*
ノッカーを掴んで森番小屋の扉を叩くと、モランはすぐに出てきた。彼はルイスを見るなりぎょっとした顔をした。
「おまっ……昨日の今日で来たのかよ。一人か?」
「はい。約束通り、兄さんにも兄様にも話していません。すぐに帰りますよ」
「あ? じゃあ何しに……」
来たのか、と言いかけたところで、モランはルイスがまた同じバスケットを下げていることに気がついたようだった。
「モランさんのじゃありませんよ。あの森の奥の小屋の持ち主に渡してください」
ルイスは念を押しながら、それを彼の鼻先に突きつけた。
中にはずっしりとしたローストビーフがひとかたまり入っている。肉屋で買ってきた一番いいもも肉を、低温でじっくりと焼いたものだ。香草で臭み取りこそしてあるが、あの犬がそのまま食べられるように味付けはしていない。人間用のソースは一応小瓶に詰めて添えてあった。
ルイスがそのことを説明しようとすると、モランはガシガシと頭をかいた。
「あー、そうだよなぁ……」
「モランさん?」
「……ちょっと待ってろ。おい、フレッド!」
モランが急に部屋の奥に向かって大声で怒鳴ったので、ルイスは目を丸くした。
「誰かいたのですか? 来客中にすみません」
「いや、いい。待ってろ。おぉい、フレッド! ちょっと来い! …………ったく。おい、ルイスあがれ」
「え? ちょ、モランさん?」
焦れたモランに腕を掴まれ、ルイスは小屋の中に引っ張り込まれた。短い廊下を二、三歩で通り越して、客間を兼ねた居間へ踏み込んだ。
「…………っ!」
部屋の窓の前に、一人の青年が立っていた。
ルイスよりはいくつか年下だろうか。短くて黒い髪はモランに似ていたが、それ以外は彼とは正反対だ。小柄で、頬の輪郭にはまだ幼げな丸みが残っている。
彼はルイスと目が合わないようにぱっと顔を背けて、首に巻いた水色のストールを口元まで引き上げた。
「玄関はこっちだ。窓から出るなよ」
「…………」
モランがからかうと、彼は何も言わずにじとりと睨み返した。本気で怒っているようには見えない。気心知れた相手に対する目つきに見えた。
「ほら、ルイスがお前にって」
モランがずいとバスケットを突き出したので、ルイスと青年は同時に「えっ」と声を上げた。
「モラン……!!」
「彼が、あの小屋の?」
「おう、フレッドだ。いいタイミングだったな」
ルイスはもう一度、まじまじと彼を観察した。
醜い傷があるわけでもない、ごく普通の青年だ。もちろん凶悪な犯罪者にも見えない。ルイスの視線に居心地悪そうにしながらも、かといって今から逃げるのも背中を向けるのも失礼だし……と戸惑う様子がありありと見て取れた。
「フレッドさん、あの、ルイスといいます。勝手に家に上がってしまってすみませんでした。それから、あの子にも怪我をさせてしまって……。これ、ささやかですがそのお礼です」
「…………」
「ほんとうに、ありがとうございました」
ルイスは深々と頭を下げた。
「あの子の怪我の具合はいかがですか?」
「あの子……?」
「あのワンちゃんです」
「わ、ワンちゃん」
「ぶっ」
横で聞いていたモランが何故か吹き出した。
他所様の飼い犬を「あの犬」呼ばわりするのも気が引けたのだが、そんなにおかしな言葉だっただろうか。ルイスは少し口を尖らせながら尋ねた。
「あの子、何という名前なんですか?」
「え……っと、あの」
「フレディ、な」
口ごもるフレッドに、モランが横から助け舟を出した。
フレッドに、フレッドの飼い犬のフレディ?
偉人や物語の登場人物の名前を飼い犬につけることはよくあるらしいが、自分の愛称をつけるのはあまり聞いたことがない。ルイスは首を傾げた。
「コインの裏表みたいなもんだからな」
「……」
フレッドが無言でモランの背中を殴った。
それくらい仲がいい、ということだろうか。
「……もう帰る」
フレッドはモランに短くそう告げると、ルイスに黙礼してそそくさと出ていこうとした。
「あっ、待って……」
「痛っ……!」
とっさに腕を掴むと、彼が短く悲鳴を上げた。
「あ……、ごめんなさい! 怪我してたんですね」
ルイスは慌てて手を離した。よく見ると、左の袖口から包帯が覗いている。
「大丈夫ですか? すみません、気が付かずに……」
「いえ……、平気です」
フレッドは気まずそうに袖を隠した。
足早に玄関に向かおうとする彼を、今度はモランが捕まえた。
「おいフレッド、帰るならちょうどよかった。ルイスを送ってやってくれ」
「えっ」
「また一人で森に入ったって知ったらこいつの兄貴たちが心配するだろ」
「……モランが行けば……」
「なんだよ、ルイスと二人は嫌か?」
「…………」
なんだか妙な流れになってきた。初対面の相手を無理に付き合わせるのも申し訳ない。ルイスは辞去しようとしたが、それよりも早くフレッドがこちらを向いた。
「……ご一緒します」
*
結局モランに押し負けて、彼に送っていってもらうことになってしまった。前を歩く、頭一つ分背の低い彼に話しかける。
「あの、すみません、モランさんが……。この間はたまたま迷ってしまっただけで、道はわかります。途中までで結構ですよ」
「いえ、出口までは……」
それだけ答えて、また彼は黙ってしまった。
口数が少なく表情にあまり変化が見られないが、ルイスとの会話を拒んでいるようには見えない。むしろ、彼の方が賢明に言葉を探してくれているように思えた。
ルイスとてお喋りな方ではなかったが、もう少し、彼と話がしてみたかった。
「薔薇、ありがとうございました。君が育てたんですか?」
「あ……はい」
「すごいですね。あの温室もとても綺麗でした。あ、勝手に入ってごめんなさい」
「いえ、それは全然。……ありがとう、ございます」
「また見に行ってもいいですか? フレディにも会いたいので」
「…………」
しばしの沈黙の後、フレッドは口を開いた。
「……フレディ、は……いつも昼の間はどこかに行って、いないんです」
「そうなんですか。夜には帰ってくるのなら、自分のうちだとちゃんと理解しているんでしょうね」
そういえば、この青年はあの夜どこにいたのだろう。ふとそんな疑問が頭を過ぎった。
「じゃあ、僕はここで。……これ、ありがとうございます」
そのことについて尋ねる前に、いつの間にか森の出口に着いていたようだ。フレッドはバスケットを胸のあたりまで持ち上げてぺこりと頭を下げた。
「お礼ですから。フレディと一緒に食べてください」
「……はい。フィッシュパイも、おいしかったです」
「それはよかった」
もう一度頭を下げると、彼は足早に来た道を引き返していった。
いつの間にか太陽は傾いて、その色を徐々に濃くしながら山の向こうに消えようとしている。じきにウィリアムが大学から帰ってくる時間だ。早く屋敷に戻って夕飯の支度をしなくては。
温室を見に行ってもいいか、という問いに対して彼は「いい」とも「駄目だ」とも答えなかった。そのことが少しだけ寂しかった。
初出:Pixiv 2022.11.05