No.25
The Heavenly Dispensing
フレッド人狼パロ(CP要素あり)。原作とは何も関係ない。
自分がいつ、どこで生まれたのかもわからない。
気がついたときには僕は『いた』。
太陽が沈み月が昇ると、僕の身体は獣に変わる。そして太陽が昇ると、今度は人間になる。この法則が乱れたことは一度もなく、どちらが本当の姿なのかは僕自身も知らなかった。
人間でも、狼でもなかった。当然、どちらの群れにも属することができなかった。
子どもの頃の僕は弱かった。
牙も爪も貧弱で獲物を狩るのに苦労したし、昼の間はそれすらも失われる。人間の子どもの姿では森の中を歩くことさえままならなかった。狼や鷹のような、他の強い動物たちは最初から僕のことを相手にしなかったから、何とか殺されずに済んだだけだ。
人間の中には優しくしてくれる人もいた。哀れな子ども、みすぼらしい野良犬だとお金や食べ物を分けてくれるのだ。
けれど、それは彼らが僕の正体を知らないからだった。
親切にしてもらえたことに舞い上がって、僕はたびたび失敗をした。時間が経つのを忘れて、昼と夜が入れ替わり姿が転じる瞬間をうっかり人前に晒してしまった。
化け物、と誰かが言った。
石を投げられて、箒でぶたれた。
悲しかったし痛かったけれど、何よりも辛かったのは彼らの怯えた目を見ることだった。
そうして惨めな思いをするたびに人間にはもう二度と関わるまいと心に決めるのに、時間はあっという間に僕の決意をなかったことにしてしまう。木の洞や路地裏でじっと息を潜めていると、数少ない嬉しかった出来事をくり返しくり返し思い出してしまうのだ。
教会で温かいスープを食べさせてもらったこと。同じくらいの歳の子どもが「一緒に遊ぼう」と言ってくれたこと。通りがかった男の人がぴかぴか光るコインをくれたこと。
寒いのも暗いのも、一人では耐えられなかった。人間が恋しくてたまらなかった。ほんのひと時でも彼らの輪の中に混ざっていたくて、ひどい目にあうとわかっていながら僕は街に下りていくのをやめられなかった。
その日も僕は懲りずに同じ失敗を繰り返した。
ぼろを纏って裸足で歩く僕を気の毒がって、通りがかったお婆さんがパンをくれた。その上「もうすぐひどい嵐になるから」と僕を家に入れてくれさえした。暖かい家の中で暖炉の前に座らせてもらうと、頭がぼうっとして涙がこぼれてきた。お婆さんは「辛かったんだね」と頭を撫でてくれた。僕は声を上げて泣いた。
そこで止めにしておくべきだったのだろう。隙を見て、彼女の親切に感謝しながらそっと家から抜け出すべきだった。
お婆さんの腕に抱かれて、僕はうとうとと居眠りをしてしまった。心地よいまどろみは、彼女のけたたましい悲鳴によって破られた。外ではいつの間にか日が暮れて、僕は灰色の獣の姿になっていた。
お婆さんは半狂乱になって、暖炉のそばに立てかけてあった火かき棒を手に取るとめちゃくちゃに振り回した。僕は必死で部屋の中を逃げ回った。しばらく格闘した後、お婆さんの手からすっぽ抜けた火かき棒が窓ガラスを割ったので、そこから何とか逃げ出すことができた。
お婆さんの言った通りひどい嵐になったから、追いかけてくる人間はいなかった。僕は後ろを振り返らずに走った。激しい風と大きな雨粒が顔に吹きつけて前も見えなかった。
僕のせいで窓ガラスが割れてしまったから、あのお婆さんは今夜困るかもしれない。怖い思いをさせて、彼女の優しさに最悪の形で報いてしまった。自分という存在が申し訳なくて、恥ずかしくて、僕は無我夢中で逃げた。
走って、走って、次第に足が動かなくなった。
たくさん走ったはずなのに、寒くてたまらなかった。どこか雨に濡れない場所に隠れなければならないと思ったけれど、横殴りの雨は木陰や軒下ではしのげそうにない。
僕にとって安全な場所はどこにもなかった。
ついに一歩も動けなくなって、僕は柔らかい草の上に倒れ込んだ。雨と風の音が遠のいて、いつしか寒さも感じなくなっていた。不思議と悲しくも怖くもなかった。ただ「もう死ぬのかな」と思っただけだった。
どうせ怪物に生まれたのなら、ひとりぼっちで生きていけるくらい強ければよかった。
◇◇◇◇◇◇
モリアーティ領内にある森は、オークやブナの木が生い茂る自然豊かな森だった。
かつては森の恵みを狙った密猟者が跡を絶たなかったそうだが、現領主であるアルバートに代替わりしてからはそういった話は聞いたことがない。
街が穏やかになれば、それを取り囲む森の中も長閑なものだった。木々の隙間から明るい日差しが降り注ぎ、そこかしこから小鳥のさえずりが響いている。時折木の上をちょこまかと走るリスの影が見えて、ルイスはその度足を止めて頭上を見上げた。
通い慣れた小道をたどって着いた先は、森番小屋だ。
扉をノックすると、森番を務めるモランが出迎えた。彼はルイスの顔を見るなり「おう」と気安い態度で片手を上げた。兄の遣いで訪れることも多かったから、彼もルイスも慣れたものだった。
「こんにちは、モランさん」
「美味そうな匂いだな……なんだ?」
「フィッシュパイです。イワシをたくさん頂いたのでおすそ分けしようかと」
持っていたバスケットを掲げてみせると、モランは「げ」と顔をしかめた。
「またそれか……。せめて塩漬けにしてくれよ」
「なんですかその言い草は! じゃあこれも必要ありませんね」
アルバートから預かっていた赤ワインのボトルをちらつかせると、モランは慌てたように手を振った。
「おいおい冗談だって。ありがたく頂戴するよ」
「まったくもう……」
ルイスは鼻を鳴らしながらボトルとバスケットを渡した。
それからしばらくの間、他愛のない世間話をした。話題は主に、付近一帯を治めるアルバートの近況であったり、近くの大学で数学を教えているウィリアムのことだ。
「じゃあ、僕はこれで。また夕食を食べにいらしてください」
「おう、あいつらにもよろしくな。送ってくか?」
「大丈夫です」
「わかった、じゃあ気をつけてな」
しばらく歩いて、森の出口近くまで差しかかったところだった。街に寄って買い物をするつもりだったので、ルイスは買い物のメモを確かめようとポケットの中を探った。
「あれ?」
メモはすぐに見つかった。けれど、一緒に胸ポケットに入れていたはずの万年筆がなくなっていた。すぐに他のポケットも探ってみたが、やはり無い。
家を出る前にメモを書いて、メモとあわせてポケットにしまったことは覚えている。けれど、家を出てからは万年筆をポケットから取り出した覚えはない。
歩いている途中にどこかに落としてしまったのだろうか。ルイスは急激に不安に襲われた。あの万年筆は兄たちが誕生日に送ってくれた大切なものだ。モランの家に置き忘れてしまったのならまだしも、どこか森の小道に落としてしまっていたとしたら……。
ルイスは辺りを見回した。
日が傾きはじめてはいるが、日没まではまだ時間がある。万年筆を探しながら来た道を引き返そう。もし途中で日が暮れてしまったら、モランに泊めてもらえばいい。以前にも、ウィリアムが彼の家で寝落ちてしまってそのまま泊めてもらったことがある。その時は屋敷で待っていたアルバートにはずいぶん心配をさせてしまったけれど、ルイスだってもう大人だ。モランの家に行くことは事前に伝えてある。万が一帰れなくなっても大丈夫なはずだ。
ルイスは踵を返して、歩いてきた道を引き返した。
草木や石ころの陰に万年筆が落ちていないか、注意深く探しながら歩いた。
はたと気づいて顔をあげると、辺りはずいぶん暗くなっていた。夕陽は立ち並ぶ木々に遮られて、もうほとんど消えかかっている。けれど、かなり歩いたから体感的にはそろそろモランの小屋に着くはずだ。
「あれ、ここは……?」
ルイスは、いつの間にか自分が見覚えのない場所に立っていることに気がついた。明るい昼間の森しか知らないから、夕暮れ時の光の加減で違った景色に見えているだけだと思いたかった。
森の出入り口から森番小屋までは、行き来する人も多いからある程度踏み固められた道がある。けれど今ルイスの足元に伸びている道は、見慣れたものよりかなり細く頼りなく見えた。
そもそも、これは本当に道なのだろうか?
小屋は森の出入り口から東に位置する。夕陽を背にして、暗い方に向かって歩けば辿り着けるはず。ルイスは万年筆を探すことを一旦諦め、モランの小屋を目指して歩調を早めた。
と、その時、木立の隙間に黒い影が見えた。
こんな森の中にいるのだからてっきりモランかと思ったが、違う。
人間の影ではない。
狼だ。
そう理解した瞬間、背筋に悪寒が走った。
狼は人の出入りの多い場所には現れない。ルイスは自分がいつの間にか森のずいぶん深くまで入り込んでしまっていたことを悟った。松明でもあればたいていの獣は怖がって近づいてこないはずだが、今のルイスはマッチすら持っていない。
小屋があると思われる方向に向けてひた走った。
狼はもう足音が聞こえるほどの距離まで迫っている。木立が邪魔をして何頭いるのか把握できないが、一頭や二頭ではないはずだ。
木の上に逃げようにも、周囲の木はどれもまっすぐに幹を伸ばしていて足掛かりにできそうな枝が見当たらなかった。それに、狼たちは先ほどから適度な距離を保ちながらじわじわとルイスを包囲しようと動いている。きっと足を止めた瞬間に飛びかかってくるだろう。手頃な木を見極めている余裕はなかった。
大人しく明日出直すべきだった、と後悔してももう遅い。
「……あっ!」
木の根に足を取られた。
夢中で走っていたため受け身を取る余裕もなく、ルイスは地面に倒れ込んだ。転んだ拍子に眼鏡が外れて草むらへ落ちたが、拾っている余裕はない。
周囲の暗闇から、獣の低い唸り声と息づかいが聞こえる。目前まで迫っているであろう狼たちの姿を直視できなくて、ルイスは思わず身を固くして顔を伏せた。
無数の牙に噛み殺される自分の姿を想像して、血の気が引いた。単純な死の恐怖ももちろんある。しかしそれ以上に、ずたずたに引き裂かれた死体をウィリアムやアルバートの前に晒したくはなかった。
昔、別荘の火事でルイスが火傷を負ったときも、彼らはひどく悲しんでくれた。きっとあの時よりももっと惨い姿を見せることになってしまう。
優しい兄たちに心の中で詫びながら、ルイスは迫りくる時を待った。
その時、真っ黒い影が狼たちの前に躍りでた。
別の群れの狼だろうか。銀色に近い明るい灰色の毛並みが月明かりにきらめいた。
彼は目にも留まらぬ速さでルイスを取り囲んでいた先頭の一匹に襲いかかった。
ぎゃん、と悲鳴が上がる。
灰色の狼は周りの狼たちよりも一回りほど小さかったが、そのすばしこさで彼らを圧倒していた。数の不利などものともせず、次々と飛びかかってくる狼たちを撃退していく。
群れのリーダーと思しき一際大きな狼を下すと、やがて敵わないと悟った狼たちが一匹、また一匹と逃げ去っていった。文字通り、しっぽを巻いて。
ルイスはその光景を信じられない思いで呆然と眺めていた。
狼たちが去り、その灰色の狼はルイスの方を振り返った。一瞬身体が竦んだが、たった今まで歯をむき出しにして唸り声を上げていたのが嘘のように大人しかった。
彼は怪我が無いか確かめるように、座り込んだルイスの周りをぐるりと一周すると、地面に身を伏せた。こちらを見上げる黒目がちの目に敵意は感じられない。
「…………ありがとう」
どうやら獲物を横取りしに来たわけではないらしい。狼かと思ったが、こうして見ると犬に近いのかもしれない。そんな話は聞いてはいなかったが、モランが飼っている猟犬だろうか。
恐る恐る手を伸ばすと、彼の耳がぺたりと倒れた。頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を閉じる。小さく尻尾を振る姿は、人に慣れた飼い犬と同じだ。
つい先ほどまで狼に噛み殺される寸前だったのに、今は別の狼に助けられてその頭を撫でている。そのあまりの落差に戸惑いながらも、もふもふとした毛皮に手を滑らせているうちに緊張で強ばっていた心身が解けていくのがわかった。
ルイスがふぅと息を吐いたのをきっかけに、狼犬はすっくと立ち上がった。数歩歩いて立ち止まり、こちらを振り返る。ついてこい、とでも言いたげな仕草だった。
ぼんやりしていて先ほどの狼たちが戻ってきてはたまらない。ルイスは慌てて彼の後を追った。
この不思議な狼犬の先導で、五分と歩かないうちに、ルイスは小さな小屋を発見した。
モランが使っている倉庫か何かだろうか。彼が自宅にしている森番小屋の半分ほどの大きさしかない、こぢんまりとした小屋だった。三角屋根が可愛らしい。
「案内してくれたんですね、ありがとう」
もう一度頭を撫でてやると、彼はいっそう嬉しそうに尻尾を振った。
ここなら一晩安全に過ごせるだろう。ルイスは救われた気持ちで小屋へ駆け寄った。
窓にカーテンは引かれていないが、明かりも灯っておらず、中に人の気配は無い。けれど一応の礼儀として、ルイスはドアをノックした。
「ごめんください……モランさん? どなたかいませんか?」
反応はない。
狼犬がするりとルイスの脇を抜けて、ドアの横にあった小さな板戸から中に入り込んだ。
この狼犬のために造り付けられたものなのだろうか。身体で板を押せば彼でも簡単に出入りできる、専用のドアだった。彼はその小さな戸口から頭だけ出して、入らないの?と言うようにこちらを見上げてきた。
ドアノブに手をかけると、あっさりと回った。鍵はかかっていない。
「お邪魔します……」
室内にはやはり誰もいなかった。
窓から辛うじて差し込む月明かりで、おぼろげながらこの小屋の内部がほとんど正方形の箱と同じ構造をしていることがわかった。
中の状態は暗くてよくわからないが、埃や蜘蛛の巣が顔に掛かる感覚はない。少なくとも定期的に人が出入りしているようだ。ひとまず安心しながら壁伝いに移動しようと足を踏み出したとき、またしても狼犬がルイスの脇をすり抜けて暗い部屋の中を進んでいった。その足取りに少しの迷いもないことが、固い爪が床板を弾く軽い音でわかった。
たいていの動物は人間よりも目が悪い代わりに、他のあらゆる感覚が人間よりも遥かに優れていると聞く。明かりが無いだけでまともに歩くこともできない自分に苦笑していると、狼犬が軽い足取りで戻ってきた。口に何かをくわえている。
ランタンだった。
輪っかになった持ち手の部分を器用にくわえ、顎を上げてルイスへ差し出している。
暗い場所ではこれが必要だと知っているのだ。
驚きながらそれを受け取ると、彼はまた部屋の中に戻っていって、今度はマッチ箱を持ってきてくれた。
外から帰ってきたときはランタンとマッチを持ってくるように躾けられているのだろうか。どちらにせよ、舌を巻くほど利口な犬だった。潰れないようにきちんと加減してくわえたらしく、マッチの外箱は少しも痛んでいない。
だから、ルイスが椅子に腰を落ち着けたとき、彼がブランケットをずるずると引っ張ってきてくれたことにはもう驚かなかった。
「ありがとう」
ブランケットを受け取ったついでに顎の下をくすぐってやると彼は気持ちよさそうに目を閉じた。さっきから彼にはお礼を言ってばかりで、なんだかおかしくなってきた。
「お利口でお行儀も良くて……いい子ですね、君は」
狼の血が濃い猟犬は忠実で仲間意識が強い分、群れの外の相手に対しては攻撃的な態度を取りやすいと聞いたことがある。しかしこの狼犬は突然現れたルイスにもここまで尽くしてくれる。
普段よほど人に可愛がられているのか、元来優しい性格なのか。むやみに吠えたりじゃれついたりしないのに、構ってやると控えめにぱたぱたと尻尾を振るのがいじらしくて可愛かった。
ルイスは改めて室内を見渡した。
古びたランタンのぼんやりとした明かりではあったが、この小さな部屋には十分な明るさだろう。
キャビネットがひとつと、小さな薪ストーブ、タイル張りの簡素な流し台。脱ぎっぱなしの服や開いたままの本も見受けられる。生活感のある空間だったが、おそらくここを使っているのはモランではない。煙草や、猟銃に使う火薬の匂いが全くしないからだ。
この小屋の持ち主は、一体何者なのだろう。
少し不審に思いながらブランケットを引き上げたとき、左手にぬるりとした感触があった。何気なく手元を見やると、柔らかい布地の一部が赤黒い液体で汚れていた。
ルイスは慌てて立ち上がった。自分はどこも怪我をしていない。ということは――。
「君、怪我を……!」
部屋の隅の自分の寝床に引っ込もうとしていた狼犬に駆け寄った。
よく見ると、左の前足が血に濡れていた。
先ほど狼たちと格闘したとき、噛まれていたのだ。そんな素振りを少しも見せなかったから気がつかなかった。
人間であれば、野生動物に噛みつかれれば感染症の危険がある。同じ動物の場合はどうなのだろう。とにかく傷口を洗って消毒するに越したことはないはずだ。
ルイスはざっと部屋の中を見回して、窓際の書き物机の方へ向かった。そばに小さな棚があったので、そこに薬や消毒液がないかと考えたのだ。手にしたランタンを机の上に置いたとき、広げっぱなしのノートに目が止まった。
「…………」
詩か何かの、書き取りだった。流れるような筆跡の美しい文字と、子供のような辿々しい文字が交互に並んでいる。ちょうど、教師が書いたお手本を真似て生徒が字の練習をしたような――。
「わ、こら。じっとしてないとダメですよ」
いつの間にかそばに寄ってきた狼犬が、ルイスの腰のあたりにぐりぐりと頭を押しつけてきた。
「早く傷口を消毒しないと……。それから、包帯とかどこかにないでしょうか」
半分ひとり言をつぶやきながら、ポケットの中を探った。ハンカチ一枚で間に合うだろうか。できれば、洗った傷口を拭う布と包帯は別にしたい。
狼犬はとてとてと部屋の隅へ歩いていって、キャビネットをかりかりと引っかいた。もしやと思って開けてみると、中に救急箱が入っていた。包帯もちゃんとある。
「……君、僕の言っていることが分かるんですか?」
狼犬の方を振り向くと、彼は数回ぱちぱちと瞬きしてからこてんと首を傾げた。
「…………」
誤魔化されている気がする。
一人と一匹はしばらくじっと睨みあっていたが、やがてルイスの方が折れた。
「……犬相手に何を言ってるんでしょうね、僕は」
流し台で濡らしたハンカチを絞りながら、ひとりごちた。傷の手当をする間、狼犬は嫌がる素振りを見せるどころかひと声も上げなかった。
左前足にしっかりと包帯を巻いてふと顔をあげると、狼犬と真正面から目があった。と思ったら、あちらがぱっと顔を伏せて目をそらす。恥ずかしがりな人間の相手をしている気分になって、ルイスはふふふと笑みを漏らした。
「……今日は本当にありがとう」
呟いてから、ルイスはもう一度、狼犬のもふもふを堪能した。首の周りは特に毛量が多くて、手を差し入れると撫でている側も気持ちいい。
「……万年筆、明日見つかるといいんですが」
ひとしきり毛皮の手触りを楽しんでから、ルイスは椅子に戻って目を閉じた。
初出:Pixiv 2022.10.28
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フレッド人狼パロ(CP要素あり)。原作とは何も関係ない。
自分がいつ、どこで生まれたのかもわからない。
気がついたときには僕は『いた』。
太陽が沈み月が昇ると、僕の身体は獣に変わる。そして太陽が昇ると、今度は人間になる。この法則が乱れたことは一度もなく、どちらが本当の姿なのかは僕自身も知らなかった。
人間でも、狼でもなかった。当然、どちらの群れにも属することができなかった。
子どもの頃の僕は弱かった。
牙も爪も貧弱で獲物を狩るのに苦労したし、昼の間はそれすらも失われる。人間の子どもの姿では森の中を歩くことさえままならなかった。狼や鷹のような、他の強い動物たちは最初から僕のことを相手にしなかったから、何とか殺されずに済んだだけだ。
人間の中には優しくしてくれる人もいた。哀れな子ども、みすぼらしい野良犬だとお金や食べ物を分けてくれるのだ。
けれど、それは彼らが僕の正体を知らないからだった。
親切にしてもらえたことに舞い上がって、僕はたびたび失敗をした。時間が経つのを忘れて、昼と夜が入れ替わり姿が転じる瞬間をうっかり人前に晒してしまった。
化け物、と誰かが言った。
石を投げられて、箒でぶたれた。
悲しかったし痛かったけれど、何よりも辛かったのは彼らの怯えた目を見ることだった。
そうして惨めな思いをするたびに人間にはもう二度と関わるまいと心に決めるのに、時間はあっという間に僕の決意をなかったことにしてしまう。木の洞や路地裏でじっと息を潜めていると、数少ない嬉しかった出来事をくり返しくり返し思い出してしまうのだ。
教会で温かいスープを食べさせてもらったこと。同じくらいの歳の子どもが「一緒に遊ぼう」と言ってくれたこと。通りがかった男の人がぴかぴか光るコインをくれたこと。
寒いのも暗いのも、一人では耐えられなかった。人間が恋しくてたまらなかった。ほんのひと時でも彼らの輪の中に混ざっていたくて、ひどい目にあうとわかっていながら僕は街に下りていくのをやめられなかった。
その日も僕は懲りずに同じ失敗を繰り返した。
ぼろを纏って裸足で歩く僕を気の毒がって、通りがかったお婆さんがパンをくれた。その上「もうすぐひどい嵐になるから」と僕を家に入れてくれさえした。暖かい家の中で暖炉の前に座らせてもらうと、頭がぼうっとして涙がこぼれてきた。お婆さんは「辛かったんだね」と頭を撫でてくれた。僕は声を上げて泣いた。
そこで止めにしておくべきだったのだろう。隙を見て、彼女の親切に感謝しながらそっと家から抜け出すべきだった。
お婆さんの腕に抱かれて、僕はうとうとと居眠りをしてしまった。心地よいまどろみは、彼女のけたたましい悲鳴によって破られた。外ではいつの間にか日が暮れて、僕は灰色の獣の姿になっていた。
お婆さんは半狂乱になって、暖炉のそばに立てかけてあった火かき棒を手に取るとめちゃくちゃに振り回した。僕は必死で部屋の中を逃げ回った。しばらく格闘した後、お婆さんの手からすっぽ抜けた火かき棒が窓ガラスを割ったので、そこから何とか逃げ出すことができた。
お婆さんの言った通りひどい嵐になったから、追いかけてくる人間はいなかった。僕は後ろを振り返らずに走った。激しい風と大きな雨粒が顔に吹きつけて前も見えなかった。
僕のせいで窓ガラスが割れてしまったから、あのお婆さんは今夜困るかもしれない。怖い思いをさせて、彼女の優しさに最悪の形で報いてしまった。自分という存在が申し訳なくて、恥ずかしくて、僕は無我夢中で逃げた。
走って、走って、次第に足が動かなくなった。
たくさん走ったはずなのに、寒くてたまらなかった。どこか雨に濡れない場所に隠れなければならないと思ったけれど、横殴りの雨は木陰や軒下ではしのげそうにない。
僕にとって安全な場所はどこにもなかった。
ついに一歩も動けなくなって、僕は柔らかい草の上に倒れ込んだ。雨と風の音が遠のいて、いつしか寒さも感じなくなっていた。不思議と悲しくも怖くもなかった。ただ「もう死ぬのかな」と思っただけだった。
どうせ怪物に生まれたのなら、ひとりぼっちで生きていけるくらい強ければよかった。
◇◇◇◇◇◇
モリアーティ領内にある森は、オークやブナの木が生い茂る自然豊かな森だった。
かつては森の恵みを狙った密猟者が跡を絶たなかったそうだが、現領主であるアルバートに代替わりしてからはそういった話は聞いたことがない。
街が穏やかになれば、それを取り囲む森の中も長閑なものだった。木々の隙間から明るい日差しが降り注ぎ、そこかしこから小鳥のさえずりが響いている。時折木の上をちょこまかと走るリスの影が見えて、ルイスはその度足を止めて頭上を見上げた。
通い慣れた小道をたどって着いた先は、森番小屋だ。
扉をノックすると、森番を務めるモランが出迎えた。彼はルイスの顔を見るなり「おう」と気安い態度で片手を上げた。兄の遣いで訪れることも多かったから、彼もルイスも慣れたものだった。
「こんにちは、モランさん」
「美味そうな匂いだな……なんだ?」
「フィッシュパイです。イワシをたくさん頂いたのでおすそ分けしようかと」
持っていたバスケットを掲げてみせると、モランは「げ」と顔をしかめた。
「またそれか……。せめて塩漬けにしてくれよ」
「なんですかその言い草は! じゃあこれも必要ありませんね」
アルバートから預かっていた赤ワインのボトルをちらつかせると、モランは慌てたように手を振った。
「おいおい冗談だって。ありがたく頂戴するよ」
「まったくもう……」
ルイスは鼻を鳴らしながらボトルとバスケットを渡した。
それからしばらくの間、他愛のない世間話をした。話題は主に、付近一帯を治めるアルバートの近況であったり、近くの大学で数学を教えているウィリアムのことだ。
「じゃあ、僕はこれで。また夕食を食べにいらしてください」
「おう、あいつらにもよろしくな。送ってくか?」
「大丈夫です」
「わかった、じゃあ気をつけてな」
しばらく歩いて、森の出口近くまで差しかかったところだった。街に寄って買い物をするつもりだったので、ルイスは買い物のメモを確かめようとポケットの中を探った。
「あれ?」
メモはすぐに見つかった。けれど、一緒に胸ポケットに入れていたはずの万年筆がなくなっていた。すぐに他のポケットも探ってみたが、やはり無い。
家を出る前にメモを書いて、メモとあわせてポケットにしまったことは覚えている。けれど、家を出てからは万年筆をポケットから取り出した覚えはない。
歩いている途中にどこかに落としてしまったのだろうか。ルイスは急激に不安に襲われた。あの万年筆は兄たちが誕生日に送ってくれた大切なものだ。モランの家に置き忘れてしまったのならまだしも、どこか森の小道に落としてしまっていたとしたら……。
ルイスは辺りを見回した。
日が傾きはじめてはいるが、日没まではまだ時間がある。万年筆を探しながら来た道を引き返そう。もし途中で日が暮れてしまったら、モランに泊めてもらえばいい。以前にも、ウィリアムが彼の家で寝落ちてしまってそのまま泊めてもらったことがある。その時は屋敷で待っていたアルバートにはずいぶん心配をさせてしまったけれど、ルイスだってもう大人だ。モランの家に行くことは事前に伝えてある。万が一帰れなくなっても大丈夫なはずだ。
ルイスは踵を返して、歩いてきた道を引き返した。
草木や石ころの陰に万年筆が落ちていないか、注意深く探しながら歩いた。
はたと気づいて顔をあげると、辺りはずいぶん暗くなっていた。夕陽は立ち並ぶ木々に遮られて、もうほとんど消えかかっている。けれど、かなり歩いたから体感的にはそろそろモランの小屋に着くはずだ。
「あれ、ここは……?」
ルイスは、いつの間にか自分が見覚えのない場所に立っていることに気がついた。明るい昼間の森しか知らないから、夕暮れ時の光の加減で違った景色に見えているだけだと思いたかった。
森の出入り口から森番小屋までは、行き来する人も多いからある程度踏み固められた道がある。けれど今ルイスの足元に伸びている道は、見慣れたものよりかなり細く頼りなく見えた。
そもそも、これは本当に道なのだろうか?
小屋は森の出入り口から東に位置する。夕陽を背にして、暗い方に向かって歩けば辿り着けるはず。ルイスは万年筆を探すことを一旦諦め、モランの小屋を目指して歩調を早めた。
と、その時、木立の隙間に黒い影が見えた。
こんな森の中にいるのだからてっきりモランかと思ったが、違う。
人間の影ではない。
狼だ。
そう理解した瞬間、背筋に悪寒が走った。
狼は人の出入りの多い場所には現れない。ルイスは自分がいつの間にか森のずいぶん深くまで入り込んでしまっていたことを悟った。松明でもあればたいていの獣は怖がって近づいてこないはずだが、今のルイスはマッチすら持っていない。
小屋があると思われる方向に向けてひた走った。
狼はもう足音が聞こえるほどの距離まで迫っている。木立が邪魔をして何頭いるのか把握できないが、一頭や二頭ではないはずだ。
木の上に逃げようにも、周囲の木はどれもまっすぐに幹を伸ばしていて足掛かりにできそうな枝が見当たらなかった。それに、狼たちは先ほどから適度な距離を保ちながらじわじわとルイスを包囲しようと動いている。きっと足を止めた瞬間に飛びかかってくるだろう。手頃な木を見極めている余裕はなかった。
大人しく明日出直すべきだった、と後悔してももう遅い。
「……あっ!」
木の根に足を取られた。
夢中で走っていたため受け身を取る余裕もなく、ルイスは地面に倒れ込んだ。転んだ拍子に眼鏡が外れて草むらへ落ちたが、拾っている余裕はない。
周囲の暗闇から、獣の低い唸り声と息づかいが聞こえる。目前まで迫っているであろう狼たちの姿を直視できなくて、ルイスは思わず身を固くして顔を伏せた。
無数の牙に噛み殺される自分の姿を想像して、血の気が引いた。単純な死の恐怖ももちろんある。しかしそれ以上に、ずたずたに引き裂かれた死体をウィリアムやアルバートの前に晒したくはなかった。
昔、別荘の火事でルイスが火傷を負ったときも、彼らはひどく悲しんでくれた。きっとあの時よりももっと惨い姿を見せることになってしまう。
優しい兄たちに心の中で詫びながら、ルイスは迫りくる時を待った。
その時、真っ黒い影が狼たちの前に躍りでた。
別の群れの狼だろうか。銀色に近い明るい灰色の毛並みが月明かりにきらめいた。
彼は目にも留まらぬ速さでルイスを取り囲んでいた先頭の一匹に襲いかかった。
ぎゃん、と悲鳴が上がる。
灰色の狼は周りの狼たちよりも一回りほど小さかったが、そのすばしこさで彼らを圧倒していた。数の不利などものともせず、次々と飛びかかってくる狼たちを撃退していく。
群れのリーダーと思しき一際大きな狼を下すと、やがて敵わないと悟った狼たちが一匹、また一匹と逃げ去っていった。文字通り、しっぽを巻いて。
ルイスはその光景を信じられない思いで呆然と眺めていた。
狼たちが去り、その灰色の狼はルイスの方を振り返った。一瞬身体が竦んだが、たった今まで歯をむき出しにして唸り声を上げていたのが嘘のように大人しかった。
彼は怪我が無いか確かめるように、座り込んだルイスの周りをぐるりと一周すると、地面に身を伏せた。こちらを見上げる黒目がちの目に敵意は感じられない。
「…………ありがとう」
どうやら獲物を横取りしに来たわけではないらしい。狼かと思ったが、こうして見ると犬に近いのかもしれない。そんな話は聞いてはいなかったが、モランが飼っている猟犬だろうか。
恐る恐る手を伸ばすと、彼の耳がぺたりと倒れた。頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を閉じる。小さく尻尾を振る姿は、人に慣れた飼い犬と同じだ。
つい先ほどまで狼に噛み殺される寸前だったのに、今は別の狼に助けられてその頭を撫でている。そのあまりの落差に戸惑いながらも、もふもふとした毛皮に手を滑らせているうちに緊張で強ばっていた心身が解けていくのがわかった。
ルイスがふぅと息を吐いたのをきっかけに、狼犬はすっくと立ち上がった。数歩歩いて立ち止まり、こちらを振り返る。ついてこい、とでも言いたげな仕草だった。
ぼんやりしていて先ほどの狼たちが戻ってきてはたまらない。ルイスは慌てて彼の後を追った。
この不思議な狼犬の先導で、五分と歩かないうちに、ルイスは小さな小屋を発見した。
モランが使っている倉庫か何かだろうか。彼が自宅にしている森番小屋の半分ほどの大きさしかない、こぢんまりとした小屋だった。三角屋根が可愛らしい。
「案内してくれたんですね、ありがとう」
もう一度頭を撫でてやると、彼はいっそう嬉しそうに尻尾を振った。
ここなら一晩安全に過ごせるだろう。ルイスは救われた気持ちで小屋へ駆け寄った。
窓にカーテンは引かれていないが、明かりも灯っておらず、中に人の気配は無い。けれど一応の礼儀として、ルイスはドアをノックした。
「ごめんください……モランさん? どなたかいませんか?」
反応はない。
狼犬がするりとルイスの脇を抜けて、ドアの横にあった小さな板戸から中に入り込んだ。
この狼犬のために造り付けられたものなのだろうか。身体で板を押せば彼でも簡単に出入りできる、専用のドアだった。彼はその小さな戸口から頭だけ出して、入らないの?と言うようにこちらを見上げてきた。
ドアノブに手をかけると、あっさりと回った。鍵はかかっていない。
「お邪魔します……」
室内にはやはり誰もいなかった。
窓から辛うじて差し込む月明かりで、おぼろげながらこの小屋の内部がほとんど正方形の箱と同じ構造をしていることがわかった。
中の状態は暗くてよくわからないが、埃や蜘蛛の巣が顔に掛かる感覚はない。少なくとも定期的に人が出入りしているようだ。ひとまず安心しながら壁伝いに移動しようと足を踏み出したとき、またしても狼犬がルイスの脇をすり抜けて暗い部屋の中を進んでいった。その足取りに少しの迷いもないことが、固い爪が床板を弾く軽い音でわかった。
たいていの動物は人間よりも目が悪い代わりに、他のあらゆる感覚が人間よりも遥かに優れていると聞く。明かりが無いだけでまともに歩くこともできない自分に苦笑していると、狼犬が軽い足取りで戻ってきた。口に何かをくわえている。
ランタンだった。
輪っかになった持ち手の部分を器用にくわえ、顎を上げてルイスへ差し出している。
暗い場所ではこれが必要だと知っているのだ。
驚きながらそれを受け取ると、彼はまた部屋の中に戻っていって、今度はマッチ箱を持ってきてくれた。
外から帰ってきたときはランタンとマッチを持ってくるように躾けられているのだろうか。どちらにせよ、舌を巻くほど利口な犬だった。潰れないようにきちんと加減してくわえたらしく、マッチの外箱は少しも痛んでいない。
だから、ルイスが椅子に腰を落ち着けたとき、彼がブランケットをずるずると引っ張ってきてくれたことにはもう驚かなかった。
「ありがとう」
ブランケットを受け取ったついでに顎の下をくすぐってやると彼は気持ちよさそうに目を閉じた。さっきから彼にはお礼を言ってばかりで、なんだかおかしくなってきた。
「お利口でお行儀も良くて……いい子ですね、君は」
狼の血が濃い猟犬は忠実で仲間意識が強い分、群れの外の相手に対しては攻撃的な態度を取りやすいと聞いたことがある。しかしこの狼犬は突然現れたルイスにもここまで尽くしてくれる。
普段よほど人に可愛がられているのか、元来優しい性格なのか。むやみに吠えたりじゃれついたりしないのに、構ってやると控えめにぱたぱたと尻尾を振るのがいじらしくて可愛かった。
ルイスは改めて室内を見渡した。
古びたランタンのぼんやりとした明かりではあったが、この小さな部屋には十分な明るさだろう。
キャビネットがひとつと、小さな薪ストーブ、タイル張りの簡素な流し台。脱ぎっぱなしの服や開いたままの本も見受けられる。生活感のある空間だったが、おそらくここを使っているのはモランではない。煙草や、猟銃に使う火薬の匂いが全くしないからだ。
この小屋の持ち主は、一体何者なのだろう。
少し不審に思いながらブランケットを引き上げたとき、左手にぬるりとした感触があった。何気なく手元を見やると、柔らかい布地の一部が赤黒い液体で汚れていた。
ルイスは慌てて立ち上がった。自分はどこも怪我をしていない。ということは――。
「君、怪我を……!」
部屋の隅の自分の寝床に引っ込もうとしていた狼犬に駆け寄った。
よく見ると、左の前足が血に濡れていた。
先ほど狼たちと格闘したとき、噛まれていたのだ。そんな素振りを少しも見せなかったから気がつかなかった。
人間であれば、野生動物に噛みつかれれば感染症の危険がある。同じ動物の場合はどうなのだろう。とにかく傷口を洗って消毒するに越したことはないはずだ。
ルイスはざっと部屋の中を見回して、窓際の書き物机の方へ向かった。そばに小さな棚があったので、そこに薬や消毒液がないかと考えたのだ。手にしたランタンを机の上に置いたとき、広げっぱなしのノートに目が止まった。
「…………」
詩か何かの、書き取りだった。流れるような筆跡の美しい文字と、子供のような辿々しい文字が交互に並んでいる。ちょうど、教師が書いたお手本を真似て生徒が字の練習をしたような――。
「わ、こら。じっとしてないとダメですよ」
いつの間にかそばに寄ってきた狼犬が、ルイスの腰のあたりにぐりぐりと頭を押しつけてきた。
「早く傷口を消毒しないと……。それから、包帯とかどこかにないでしょうか」
半分ひとり言をつぶやきながら、ポケットの中を探った。ハンカチ一枚で間に合うだろうか。できれば、洗った傷口を拭う布と包帯は別にしたい。
狼犬はとてとてと部屋の隅へ歩いていって、キャビネットをかりかりと引っかいた。もしやと思って開けてみると、中に救急箱が入っていた。包帯もちゃんとある。
「……君、僕の言っていることが分かるんですか?」
狼犬の方を振り向くと、彼は数回ぱちぱちと瞬きしてからこてんと首を傾げた。
「…………」
誤魔化されている気がする。
一人と一匹はしばらくじっと睨みあっていたが、やがてルイスの方が折れた。
「……犬相手に何を言ってるんでしょうね、僕は」
流し台で濡らしたハンカチを絞りながら、ひとりごちた。傷の手当をする間、狼犬は嫌がる素振りを見せるどころかひと声も上げなかった。
左前足にしっかりと包帯を巻いてふと顔をあげると、狼犬と真正面から目があった。と思ったら、あちらがぱっと顔を伏せて目をそらす。恥ずかしがりな人間の相手をしている気分になって、ルイスはふふふと笑みを漏らした。
「……今日は本当にありがとう」
呟いてから、ルイスはもう一度、狼犬のもふもふを堪能した。首の周りは特に毛量が多くて、手を差し入れると撫でている側も気持ちいい。
「……万年筆、明日見つかるといいんですが」
ひとしきり毛皮の手触りを楽しんでから、ルイスは椅子に戻って目を閉じた。
初出:Pixiv 2022.10.28