No.23

晴れた日はアイスクリームを食べに
 フレッドたちが小学生になっているふんわりした年齢操作現パロ。

「ただいまー」

 一日の仕事を終えてアパートのドアを開けた。
 そこにはすでに明かりが灯っていて、三和土には小さな運動靴が揃えられている。

「おかえり」

 短い廊下の向こうから、フレッドが顔を覗かせた。まだ十歳にもならない彼は、モランの年の離れた弟……のようなものだ。人から「全然似てない」と言われることもあれば、「言われてみれば似てるかもしれない」と首を傾げられることもある。確率はちょうど半々くらいだ。
 ともかく、二人は一緒に暮らしていた。

「もう晩飯食べたか」
「うん」
「俺がいなくても暑くなったらエアコンつけろよ」
「……まだ平気」

 フレッドは手のかからない子供だった。
 年齢の割に落ち着いていて、わがままらしいわがままを言ったためしがない。包丁やガスコンロにはまだ触らないように言い聞かせているが、モランが作り置きか出来合いのおかずさえ用意しておけば自分で温めて食べるし、自分で食器を洗う。モランが脱ぎ散らかした服を洗濯機に突っ込んでおいてくれることもあった。
 仕事で夜遅くなることの多いモランには非常に有難いことだった。「おとなしい子なんだから、気を遣わせすぎないようにしたまえよ」というのは、歳の離れた弟たちと3人暮らしをしているアルバートの言葉だ。
 水切りカゴの中には、まだ水気のある食器とランチボックスが伏せられている。自分もバッグから出しておかねば、と考えながらシンクで手を洗った。

「あ、フレッド。水筒出し忘れてるぞ」

 ふと気がついてモランが声をかけると、部屋に引っ込もうとしていたフレッドはびくりと肩を跳ねさせた。

「どうした? ついでに洗ってやるから持ってこいよ」
「……」

 フレッドがこちらの呼びかけに特に返事をしないことはよくある。無視しているわけではない。余計なことを喋らないだけで、必ず何らかのアクションがある。今日のような場合は、答えずともすぐに部屋に戻って水筒を取ってくるだろうとモランは考えていた。
 だから、フレッドがリビングの出口のあたりでもじもじと立ちつくしているのをただ不思議に思った。

「? ……学校にでも忘れてきたのか?」

 思いついたことをそのまま口に出してみた。彼を咎めたり、責めるようなつもりはまったく無かった。
 それなのに、フレッドは一言も発しないまま突然泣き出した。大きな目がみるみるうちに潤んで、堪えきれなくなった涙の粒がぽろりと転げ落ちたのだ。

「えっ、おいどうした」

 突然のことにモランは面くらって、キッチンから飛び出した。フレッドのそばに膝をついてから、両手が濡れたままであるのに気がついて慌ててシャツで拭った。

「どうした、腹痛いのか? どっか怪我してるのか? 友だちと喧嘩でもしたか?」
「…………っ、」

 フレッドは自己主張の少ない子供だ。声を上げて笑うことはほとんど無いけれど、逆に泣き出すことも滅多にない。そんな子供が今、肩を震わせてぐすぐすと泣いている。
 何を尋ねてみても、フレッドは首を横に振るばかりで何も答えない。彼の背中をさすりながら、モランは内心混乱していた。





「というわけなんだが、お前何か知らないか?」
「朝一番に『緊急の案件だ』というから何かと思えば……」
「十分緊急だろ!」

 あくる日、モランは出勤と同時に社長室に飛び込んだ。事前にショートメールを受け取って部屋で待っていたアルバートは、仕事絡みの内容でないことに若干肩の力を抜きながら居住まいを正した。

「ああ、そうだね。緊急事態であることには違いない。それで、今朝はどうしたんだい?」
「学校は普通に行った。休むか、とは一応聞いてみたが」

 アパート前の自販機でお茶のペットボトルを買ってやると、フレッドは少し申し訳なさそうな顔をした。しかし、学校に行くのを嫌がる素振りは見せなかった。
 まだ沈んだ様子ではあったが、学校で友達と会えば少しは気が紛れるだろうか。無理に聞き出そうとして昨夜の二の舞になってはたまらない。モランは不安ながらもそれ以上は何も言わずにフレッドを送り出した。

「結局、水筒はあったのかい?」
「無い。自分の部屋に隠してるなら別だが……」
「理由もなくそんな事をする子じゃないね」

 モランは当然、とばかりに頷いた。

「それでは、やはり単に学校に忘れてきたかどこかで落としてしまったのでは?」
「だとしたらあいつは隠したりしねぇ。ちゃんと俺に言うはずだ」

 以前に、フレッドが卵をうっかり落として割ってしまったことがあった。モランはまだ仕事に出ていて不在だったが、彼は床を綺麗に掃除した上で、帰ってきたモランにわざわざそのことを謝った。大雑把なモランは冷蔵庫に卵がいくつ残っているかなんていちいち覚えていないし、使った覚えのない汚れたキッチンペーパーと卵の残骸がゴミ箱に捨ててあってもおそらく気付かない。
 黙っていればバレないのに、フレッドは正直に申し出たのだ。室内でボール遊びをして母お気に入りの花瓶を粉々にしてしまい、さらに隠蔽工作を図って大目玉を食らった過去を持つモランは素直に感心した。
 もちろん、フレッドのことはそれはもう褒めた。本人が照れて部屋に引きこもってしまうまで褒めちぎった。

「そもそも『水筒どうした』って聞いただけで泣き出すなんて絶対おかしいだろ。ウィリアムやルイスから何か聞いてないか? 意地の悪いクラスメイトにちょっかいかけられてるとか」
「いや、聞いてないな」
「そうかぁ……」

 フレッドとの間に信頼関係がある自負はあった。
 しかし、彼がモランに対して隠し事をする可能性がまったく考えられないわけではない。自分の失敗は正直に申し出るくせに、転んで膝を擦りむいたときは黙って我慢するような子供なのだ。
 今回もフレッド自身に過失があって水筒を紛失したとは思えなかった。いたずら坊主たちの度を越した悪ふざけ、というのがモランの中での最有力候補である。
 学年は違えど、フレッドと同じ学校に通うアルバートの弟たちならば何か知っているのではないかと思ったが、どうやらあてが外れてしまったようだ。
 そばで聞いていた秘書のマネーペニーが口を挟んだ。

「モランさん。もし本当にフレッド君が他の子供から意地悪されていて、それを隠しているのだとしたら、どうするおつもりです?」
「そのガキ締め上げるに決まってんだろ」

 モランが即答すると、「そういうところですよ」とマネーペニーは呆れたように眉を下げた。

「モランさんがすぐオーバーアクションするから、大事にしたくなくて言い出せないんじゃないですか?」
「ぐ……」
「意地悪した子を懲らしめてその場を収めたところで、その後学校で気まずい思いをするのはフレッド君なんですからね。アフターケアもちゃんと考えて対処しないと」
「わかってるよ……」

 モランは苦い顔で頷いた。

「ところで、フレッドが昨日うちに遊びに来ていたことは知っているかい?」

 アルバートに尋ねられて、モランは「え」と声を上げた。

「聞いてねぇ。昨日はそれどころじゃなかったし」
「そうか。学校帰りに、うちの庭の花が見たいと言ってルイスに付いてきたらしい」
「フレッドが?」

 兄同士が親しいこともあって、フレッドとアルバートの弟たちも気の置けない間柄だ。彼が学校帰りに遊びに行く先といえばたいていモリアーティ邸である。数日おきに執事のジャックも顔を出すから、鍵っ子のフレッドが夕飯まで世話になることもよくあった。
 それにしても、事前の約束もなくフレッドの方から遊びに行きたいとねだるのは珍しいことのように思えた。

「どこか元気がなさそうだったらしいからルイスも心配していたよ。『モランさんと喧嘩でもしたのかも』とあの子が言っていたが、その様子では君も心当たりは無いみたいだな」
「ねぇよ」
「そうか。となるとやはり、学校で何かあったか……。改めてウィリアムたちに詳しく聞いておこう」
「あぁ、頼む」

 ちょうどそこで、始業時間を告げるベルが鳴った。モランはマネーペニーに追い立てられながら、社長室を後にした。





 三兄弟揃った、夕食後のお茶の時間だった。
 アルバートがカップを傾けてお茶を一口飲むのを待ってから、ルイスは「兄様」と呼びかけた。

「モランさん、何か言っていましたか?」

 彼の言う「何か」とは、もちろんフレッドのことである。人見知りの強いルイスにとって、家族ぐるみで付き合いのあるフレッドは大事な友だちだった。

「フレッド、今日もうちに来ました。庭のお花が見たいと言って……。今日も元気がなかったです」
「そうか、心配だね」

 その口振りからして、なぜ我が家に来たがったのか、なぜ元気がないのかは聞き出せなかったようだ。
 ともかく、今の段階でルイスに余計な不安を与えるわけにはいかない。アルバートは弟を励ますように微笑んだ。

「モランに直接確認したが、彼と喧嘩をしてしまったわけではないようだよ」
「そうなんですか……」
「ところで、フレッドが水筒を無くしてしまったらしいんだけど、ルイスは知らないかい? うちに忘れていったりしてはいないかな」
「いえ……。あれ、そういえば、昨日うちに来たときから持っていなかったかも……?」

 ルイスが記憶を辿りながら首を傾げた。少し自信なさげな様子であったので、アルバートはもう一人の弟にも尋ねてみた。

「ウィルはどうだい? フレッドは水筒を持っていた?」
「あ、えっと、僕は……」

 ウィリアムが珍しく口ごもるので、ルイスが唇を尖らせながら代わりに答えた。

「兄さんはフレッドとは会っていません。昨日も今日も」
「あぁ、ホームズくんと遊んでいたんだね」
「と、図書館で自習してたんです」
「あまり遅くなってはいけないよ」
「はぁい……」

 ウィリアムは気恥ずかしそうに、間延びした返事をした。その頬の赤さの理由は、弟の前で窘められたからというだけではないだろう。
 ウィリアムは誰とでも親しく交われるたちではあるが、飛び抜けた頭脳を持つ彼が相手のレベルに合わせる必要があることも否めない。対等に話ができる貴重な友人を得て、最近は毎日楽しそうだった。学校の授業があまりに退屈なので飛び級で大学に進みたい、と以前はよくアルバートに零していたが、そういえば近頃はあまり聞かない。
 一方で、まだまだ兄に甘えたいルイスにとってはあまり面白くないらしい。
 ウィリアムは咳払いしながら、弟に尋ねた。

「と、ところでルイス。フレッドとは何して遊んだの?」
「庭のお花を見て、おやつを食べて……一緒に宿題もしました」
「何時くらいに帰っていった?」
「17時にはうちを出ました」
「送っていってあげたんだね。寄り道は?」
「してません。まっすぐフレッドのうちの前まで行って、アパートの階段の下で別れました」
「今日も、昨日も?」

 ウィリアムが念を押すように問を重ねた。ルイスはこくりと頷く。

「何かわかったかな、ウィル」
「はい、兄さん。まだ確かなことはわかりませんが、僕に考えがあります。明日の放課後、フレッドの水筒を見つけて来ますよ」

 自信ありげなその表情に、アルバートは我が弟ながら頼もしさを覚えるのだった。





 翌日の放課後。
 ウィリアムは帰りがけにシャーロックを誘った。「ちょっとした事件があったんだけど」と前置きすると、彼は一も二もなく飛びついてきた。
 歩きながら、昨夜アルバートから聞いた話をした。一昨日、フレッドが突然泣き出したこと。同じ日に彼の水筒が行方不明になっていること。それ以降毎日ウィリアムのうちに遊びに来たがること。

「シャーリーは、どう思う?」

 シャーロックは腕組みをしながら「うーん」と唸った。
 二人の少し前を、小さな影が並んで歩いている。ルイスとフレッドだ。やはり彼は今日もルイスについて行きたがったようで、手を繋いで帰路についていた。
 遠目にも分かるほど俯きがちなフレッドに気を遣って、ルイスはあれこれと話しかけてやっているらしい。自分のあとを一生懸命ついてくるルイスは可愛いけれど、年下の子相手にお兄さんらしく振る舞おうとするルイスも可愛い、とウィリアムは思った。

「あのちっちゃいのがフレッド? 一年生?」
「二年生だよ」

 ウィリアムは笑って訂正した。
 シャーロックはフレッドとはまだ直接の面識がない。しかし、よく知らないからこそ先入観を取り払ってあらゆる可能性を検討できることもある。

「いじめられてるってセンはないのか?」
「んー……」

 多分、モランやアルバートが一番危惧しているのはその可能性だろう。昨夜はモランからウィリアムのスマホへ、直接メッセージが飛んできたくらいだ。

「僕は、あまりその心配はしていない」
「何で? 泣いてたんだろ?」
「たしかに大人しい子だけど、モランに……お兄さんに買ってもらったものを隠されたり壊されたりして、黙っているような子だとは思えないんだ」
「誰にやられたか分からなくて困ってるとか」
「そんな狡猾に立ち回れる子、低学年のクラスにいると思う?」
「いないよなぁ。じゃあ上級生?」
「そこまで考え始めたらキリが無いよ」
「……リアム、お前もう何か掴んでるんだろ」
「さぁ、どうだろうね」
「考えてみりゃ、そもそもお前が俺に声かけたのは放課後になってからだ。水筒は学校には無いって踏んでるんだろ?」

 シャーロックがにやりと笑った。ウィリアムは「当ててごらん」とばかりににっこりと微笑み返す。
 その時、前を歩いていたルイスとフレッドが、ポストのある角に差し掛かった。彼らは少し立ち止まって何ごとか話してから、左に曲がっていった。

「あ、今日もうちに来るみたいだね」

 そうつぶやくと、シャーロックはピンときたようだ。

「フレッドのうちに帰るには、そこを右に曲がるのか?」
「そうだよ。あの先のアパートだ」
「ってことは、これで三日連続、リアムの弟にくっついてあの角を左に曲がってるわけだ……」

 シャーロックは心持ち顔を俯けながら両手の指先をぴたりと合わせた。彼が考えるときの癖だった。
 ウィリアムはわくわくしながら彼の出す答えを待った。

「そうか! フレッドは本当はリアムのうちの花が見たかったんじゃなくて、「普段の通学路を通りたくなかった」」

 後半は、二人の声がぴったり重なった。「やった!」と嬉しそうに声を上げたのはシャーロックだ。

「フレッドはこの先の道で何かトラブルがあって水筒をなくしたってことか!」
「うん、僕もおんなじ考え」
「行ってみようぜ!」

 シャーロックがウィリアムの手を引いて駆け出した。

「やっぱ水筒が鍵だな。下校中に無くしたとしたら、ある程度可能性は絞られる。この先に公園とかあるだろ?」
「あるよ。流石だね」

 ウィリアムが指差す先に、背の低い植え込みに囲まれた広場があった。時間帯も相まって、子どもたちで賑わっている。サッカーボールを抱えた一団が歓声を上げながらウィリアムたちを追い抜いていった。

「フレッドはサッカーとか、するか?」
「しないね。やったらきっと上手だと思うけど、学校帰りに友達と集まって遊ぶようなタイプではないかな」
「じゃあ誰かが間違って持って帰っちまってるってセンもナシか」
「泣きだしてしまったことともつじつまが合わないね。『返して』って言えば済むんだから」
「だよなぁ……。そもそも、フレッドは水筒をなくしたから泣いたのか? それとも何か悲しくなるようなことがあって、水筒がなくなったのはあくまでそのおまけなのか」
「本人が話そうとしないから、彼のお兄さんも困ってるみたいだったよ」
「……あっ」

 不意に、シャーロックがウィリアムを肘でつついた。「あいつ」と彼は前方を顎で示した。
 公園の前にアイスクリーム屋がある。
 その店先に、一人の女性が立っていた。涼し気なストライプ柄のエプロンは、軒先を飾る庇と同じ色合いだ。店員で間違いないだろう。

「何かおかしくねぇ?」

 シャーロックがウィリアムに耳打ちした。ウィリアムも小さくうなずき返す。
 この道はウィリアムの通学路から外れるけれど、家からそう遠く離れてはいない。あのアイスクリーム屋にも、兄やモランに何度か連れて行ってもらったことがある。それでも、店員が店先に出て呼び込みをしているところは見たことがなかった。
 エプロン姿の店員は前を通りかかる人々ににこやかに声をかけてこそいたが、チラシを配っているわけでもない。

「子供の顔を確認してる。誰か探してるんだ」

 シャーロックがまたひそひそ声で囁いた。
 店の前の人通りが途切れるたび、彼女はじっと公園の方を見ていた。出入りする小学生たちを視線で追っている。
 ウィリアムたちの学校では買い食いは原則禁止されているから、彼らがお客になる可能性はあまり高くない。にもかかわらず、ああも熱心に見つめているということは何かあるに違いなかった。

「あの人が、僕らが探してた人みたいだね」
「だな」

 シャーロックは獲物を見つけた猟犬のように、というよりは、ボールを追いかける子犬のようにその女性店員のもとへ駆け寄った。

「あんた、フレッドを探してるんだろ!」
「えっ?」

 開口一番、シャーロックが元気よくそう叫ぶものだから、彼女は目を丸くした。テリアを散歩させていた通行人が、ちらりと彼らのほうを振り向く。
 苦笑しながら後を追ったウィリアムは、礼儀正しく切り出した。

「あの、お仕事中にごめんなさい。僕たち、友達がなくしてしまった水筒を探しているんですが……」

 彼女は合点がいったように「ああ!」と表情を明るくした。

「よかった。なかなか見かけなかったから返せないかと思ってたよ!」





 階段の下からルイスが手を振ってくれているので、フレッドも踊り場に立ち止まって手を振り返した。彼の姿が見えなくなってから、ポケットから鍵を取り出す。
 結局、今日も水筒を探しに行く勇気が出なかった。
 ルイスはフレッドの様子がおかしいことにとっくに気がついているようだったし、モランだって心配してくれている。普段ざっくばらんな性格の彼が、何か言いたげな顔をしながらフレッドを傷つけないよう出方をうかがってくれている。
 気を遣わせてしまっていることが申し訳なかった。フレッドが助けを求めればモランはすぐに応えてくれるとわかっていたが、今回ばかりはそういうわけにもいかない。
 沈んだ気持ちで玄関の扉を開けると、三和土に大きな革靴が揃えられていた。
 フレッドはどきりとして、しばらくドアを開けたまま立ちつくしていたが、慌てて家の中に駆け込んだ。

「おう、おかえり」
「なんで……」

 モランがいた。
 フレッドは思わず壁に掛かった時計を確認した。17時を少し回ったところだ。普段ならまだ会社にいる時間だった。
 しかし、それよりももっと驚くことがあった。ダイニングテーブルの上に、水筒が置かれている。以前モランに買ってもらった、青い水筒だ。

「ついさっきウィリアムたちが持ってきてくれた。入れ違いだったな」

 モランは悪戯に成功した子供のようにニヤニヤと笑っている。

「あいつらから全部聞いた。偉かったな」

 モランがウィリアムたちから聞いた経緯はこうだ。
 一昨日の放課後、帰宅中のフレッドは公園前の通りで、前を歩いていた老人が突然うずくまる場面に遭遇した。後で分かったことだが、どうやら軽い熱中症だったらしい。
 フレッドは慌てて駆け寄った。老人の状態から熱中症だと判断することはまだ小学生の彼にはできなかったが、赤い顔をして息を切らせているのを見てとっさに水筒に残ったお茶を差し出した。
 しかし多少水分を摂ったところでその老人はすぐには回復しなかった。良くない状態であることはフレッドにも見て取れた。彼はパニックを起こしそうになりながらもすぐ近くのアイスクリーム屋に助けを求めた。半泣きの子供が店に飛び込んできたとき、アルバイトの女性店員は変質者でも出たのかと身構えたそうだ。
 歩道にうずくまった老人を見つけて、彼女はすぐさま救急車を呼んだ。そこからはアイスクリーム屋の店長も出てきて老人に水を飲ませたり、アイスクリーム用の保冷剤で首や脇を冷やしたりと対処をしてくれたらしい。
 しかし、駆けつけた救急隊に老人を引き渡して、やれやれとひと息ついたときには、事態を知らせてくれた子供は姿を消していた。

「そのじいさん、一晩入院したけどすぐに元気になったってよ。家族と一緒にアイスクリーム屋にお礼を言いに来たそうだ」

 モランのその言葉に、フレッドは大きく目を見開いて、そしてへなへなと座り込んだ。
 目の前で人が倒れて、救急車まで出動する騒ぎになったのだ。幼いフレッドが受けた衝撃は計り知れなかった。あの老人がどうなったのか、確かめるのが怖かったのだ。
 下校の時間にはアイスクリーム屋が開いている。だから店の前を迂回するための口実として、ルイスのうちに行きたいとせがんだ。一人で帰るのが不安だったというのも、おそらくあっただろう。
 モランが大股でずかずかと近づいてきて、フレッドを勢いよく抱き上げた。頭が天井にぶつかるのではないかと驚いて、フレッドは慌てて首を竦めた。

「お前のおかげで何ともなかったってよ! じいさんもじいさんの家族もみんな、お前に感謝してたそうだ」

 モランのまっ黒な瞳が、まっすぐにフレッドを見上げている。そのいつになく優しげな顔を見ているだけで、この二日間ずっと胸の中でわだかまっていた不安が溶けてなくなっていくようだった。悲しくないのに涙が溢れてきて、フレッドはモランの首にしがみついた。
 彼は「泣くな泣くな」と明るい声で笑いながら、大きな手で背中を撫でてくれた。
 水筒は、患者の持ち物だと勘違いした救急隊員が病院に持っていってしまっていたらしい。回復した老人がアイスクリーム屋を訪れて、水筒の持ち主に是非お礼をしたいと申し出たのだが、困ったことになった。その子供がどこの誰だか、アイスクリーム屋の店員たちも知らなかったのだ。
 唯一の手がかりである水筒には名前が書かれていない。そもそも夕方の出来事だったので、隣の校区から公園へ遊びに来ていた子供の可能性もある。名前もわからないのに近隣の学校へ手あたり次第に問い合わせるわけにもいかなかった。
 苦肉の策として、かろうじて子供の顔を覚えていたアルバイト店員が店先に立って水筒の持ち主を探していたというわけだ。

「お礼したいから、見つかったら連絡くれってアイスクリーム屋に頼んでたそうだ。今週末にでも会いに行くぞ!」

 モランはフレッドを抱き上げたままその場でぐるぐると回った。彼があんまり嬉しそうにはしゃぐので、フレッドはくすぐったい気持ちをごまかすように口を尖らせて答えた。

「いいよ、別に」
「いいわけあるか! 俺の弟分は優しくて勇敢なすっげぇ奴なんだって、じいさん一家にもアイスクリーム屋の全従業員にもアルバートにも自慢しまくってやる!」
「えっ、やめてってば……! 僕、何もしてないし。それに何でアルバートさんまで出てくるの」
「普段自慢されまくってるからに決まってるだろ! あ、アイスクリーム屋にもらった無料券、ウィリアムたちに何枚かやっちまったけどいいよな?」
「それは別にいいけど、もう、下ろしてってば……」

 そう言いながらも、フレッドは暴れたり腕を突っ張ったりして無理に下ろさせようとはしない。
 アイスクリームの券、モランはウィリアムさんに何枚渡したんだろう。ルイスさんの分ももうあげちゃったかな。
 大人しくモランに振り回されながら、フレッドはそんなことを考えていた。

初出:Pixiv 2022.08.28

expand_less