No.22
アイリーン・アドラーは死んだのか?
ロンドンで悪さしてるモリ家の話。
墓守の男は、死体安置所へ向かう階段を下りていた。
後ろをついてくる青年は、靴底にゴムでも仕込んでいるのか、猫のように静かに歩く。つめたい石壁に反響する靴音は男のもの一つきりだった。
分厚い鉄扉を開くと、冷えた空気と微かな腐臭が鼻をついた。右手側の壁一面には、埋葬を待つ死体をしまっておく大きな引き出しが作りつけられている。男はそのうちの一つを引っ張り出した。
「ご注文通り、金髪に青い目、二十代前半の女だ。身長はちっと低かったかもしれんが、勘弁してくれ」
「これくらいなら。……死因は?」
聞きながら、青年は死体を覆う布をそっとめくった。状態を確認し、少し躊躇うような仕草を見せてから、瞼をめくって瞳の色を確かめた。
「石段から転げ落ちたらしい。大した高さじゃなかったそうだが、打ちどころが悪くてな。後頭部に傷がある」
死体をうつ伏せにすると、生々しい傷跡が露わになった。幸か不幸か、病院へ担ぎ込む間もなく即死だったらしい。
男は向かいに立つ青年をちらりと盗み見た。
装いは取り立てて特徴のない労働者ふうだ。
淡青色のストールを顔を隠すように巻いてはいるが、その下からのぞく灰色の瞳はごく大人しげで、他人に警戒心を抱かせる質ではない。おそらくまだ二十歳にもなっていないだろう。
女も知らなさそうな幼い顔立ちで、冷静に死体を検分しているのが不気味だった。
「……確かに」
彼は小さく頷いた。
青ざめた死体を丁寧に布にくるみ直してから、懐から硬貨の詰まった革袋を取り出して男に渡した。男は「毎度」と小さく答えた。袋の重みを確かめても、気持ちが浮き立つことはない。
青年が棺の中からそっと彼女を抱え上げる。
涼しい地下に保管していたとはいえ、すでに死後数日経過した死体を相手に顔色一つ変えなかった。自分とほとんど変わらない身の丈の死体を苦もなさそうに抱えて、ただ静かに、淡々とした足取りで階段を登っていった。
その背中を見送りながら、男はそっとため息をついた。
一年ほど前、男は妻を殺した。
些細なことから口論に発展して、カッとなって突き飛ばしたところ運悪く頭をぶつけて死んでしまったのだ。男は露見を恐れて、墓地の片隅に死体を埋めた。
教会の関係者や近所の人間には、妻は自分に愛想を尽かして田舎に帰ったと嘘をつくことにした。実際はサセックスに住む彼女の両親はとっくに他界していて、兄弟姉妹も親しい友人もいない。
唯一の身寄りである男が騒ぎ立てさえしなければ、誰も妻の行方を気に留めはしない。墓守夫婦と親しく交わろうなんて人間はそういないのだから。
死体の処理に関しても、こちらはプロだ。見つかるはずがないとたかを括っていた。
それなのに、奴らはすぐさま嗅ぎつけた。
妻を埋めてから3日と経たないうちに、身長6フィートをゆうに超える黒づくめの大男が家に押し入ってきた。強盗か、ヤードの刑事かと震え上がったが、相手はもっと恐ろしい奴だった。彼は開口一番、男が犯した罪を言い当てたのだ。妻を殺した日時も死体を埋めた場所も、奴は全て知っていた。
番犬のレジーはその晩、ひと声も吠えなかった。翌朝男に蹴飛ばされるまでぐっすりと眠りこけていたところを見るに、おそらく事前に餌に眠り薬でも混ぜられていたのだろう。
そうして、あれよあれよと言う間に奴らの犯罪の片棒を担がされることになり、今に至っている。きっと、ずいぶん前から目を付けられていたのだろう。
逆らえば今度こそ本物の刑事がすっ飛んでくる。
子供もなく、失うものなど無い身ではあったが、だからと言って残りの人生を牢獄で過ごしたいとは思わない。男は彼らに従った。
課せられた仕事は、注文に応じた死体を用意すること。身寄りのない浮浪者であっても埋葬の際は司祭が立ち会って祈りを捧げる決まりだったので、埋めた後からこっそり掘り返す必要があった。大抵の場合は、あの陰気な青年が窓口役だった。
初めて彼がやって来た時は、こんな若者まで弱味を握られ従わされているのかと少し気の毒に思ったが、あの落ち着きぶりを見るにどうやらそうではないらしい。
青年は口数が少ない方ではあったが、一度だけ雑談めいたことを口にしたことがある。「あそこにあったイチイの木、植え替えたんですね」と。
確かにその日の昼間、男は木の植え替えを行っていた。「景観が悪いから」と気まぐれな司祭に頼まれたものの、処分が面倒だったので墓地の裏手に植え直したのだ。
その場では適当に相槌を打ったが、彼が帰ってからその意味を考えてぞっとした。
青年は人目を忍んで夜にしかやって来ない。街灯もない墓地の片隅に植えられていた木がイチイであると分かるはずもなかった。そして彼は「伐った」ではなく「植え替えた」と言った。昼間の動向も監視しているぞと、言外にほのめかしていたのだ。
妻の死体を移動させてしまえば奴らを煙に巻けるのではないかと思案していた矢先のことだ。
あの大男とはまた違った意味で、掴みどころのない恐ろしい相手だった。
女の死体を引き渡してから一週間ほど経ったある日、男は街の食料品店に来ていた。
「卵一ダース、パンと玉ねぎ。紅茶を一ポンド。あと、何でもいいから肉を適当に」
「あいよ。犬にやるやつだね」
店主は冷蔵ケースから包みを引っ張り出した。売り物にならない切れ端や骨を、レジーのためにこうして取っておいてくれるのだ。
袋詰を待っている間、男はカウンターの上に放り出されていた新聞を眺めていた。『イーストエンドで娼婦惨殺 姿なき連続殺人鬼の恐怖』、『急死の男爵にまつわる黒い噂』、『シティ・アンド・サバーバン銀行で強盗団確保』といった見出しが躍っている。新聞社は今日も事件の話題に事欠かないようだ。
ここに自分の名前が並ぶのを想像して、男は暗澹たる気分になった。罪悪感ではない。奴らの気分次第でいつそうなるとも分からない現状が落ち着かなかった。自分の命運を他人に握られている不快感だ。
苦々しくため息をつく男に、店主が片頬を上げて顔を寄せた。
「おい、あんた知ってるかい」
「あ?」
「アイリーン・アドラーが死んだってよ」
「誰だいそりゃあ」
「知らねぇのか! 米国きっての大女優だよ」
男は「へぇ」と気のない返事をした。
オペラ鑑賞など高尚な趣味は持ち合わせていなかったし、それはこのしがない食料品店の店主も同じだろう。
しかし彼はお構いなしに目を輝かせながら話を続けた。噂話をする者特有の、下卑た笑みだった。
「テムズ川から死体が上がったそうだ。妙だと思わないかい? ついこの間、かの名探偵シャーロック・ホームズとの熱愛が新聞で騒がれたばかりなのによ」
「あぁ、あのゴシップ記事の女優かい」
「そうそう。まだどの新聞も触れちゃいないが、あの名探偵に煮え湯を飲まされた悪党どもが、腹いせにさらって嬲り殺しにしたんじゃねえかって噂だよ。あの金髪碧眼の美女を……」
「何だって?」
「だから、あの名探偵に悪巧みを邪魔された連中が……」
「違う。その後だ。金髪碧眼だって?」
「え? あぁ、俺だって実物を拝んだことがあるわけじゃねぇけどよ。アイリーン・アドラーって言ったら金髪碧眼の絶世の美女で有名だぞ……どうかしたか?」
「いや……」
聞けばそのアイリーン・アドラーとかいう女優は、年齢も背格好も男が用意した死体の特徴にぴたりと一致する。
奴らが死体を何のために使うのかなど、深く考えることはあえて避けていた。けれど、これは単なる偶然の一致と言えるのだろうか。
もし先日引き渡したあの死体が、アイリーン・アドラーの死を偽装するために使われたのだとしたら?
考えられるのは、女の身を案じたホームズが犯罪者どもの目をくらますために身代わりの死体を用意した、という筋書きだ。
すると、これまでの話ががらりと変わる。あの陰気な青年は恐ろしい犯罪組織の構成員だとばかり思っていたが、実は正義の名探偵の手先だったのか? あの黒づくめの大男も?
様々な憶測が男の頭の中を駆け巡った。
逆のパターンもあり得る。
実際、奴らは悪党だ。ホームズの手先などでなく、反対に彼からあの女を奪うために適当な身代わりを立てたとも考えられる。
しかしその場合、ヤードとも繋がりのあるホームズが遺体の顔を確認すればあっという間に偽装を見破られてしまうのではないか? そもそも、それなりの器量よしだったとはいえ街の娘と著名な大女優を警察が間違えたりするものだろうか……。
深入りするのはまずい、と危機感を覚えたが止められなかった。男は暇さえあれば彼らの正体についてあれこれと想像を巡らせるようになっていた。
そんな矢先、新しい注文が入った。
『解剖済みの若い女の遺体を3つ』
暗号で書かれたこの電報を受け取ったとき、男の体に恐怖とも興奮ともつかない震えが走った。
まさにその朝、男のもとに解剖済みの遺体たちが転がり込んできたからだ。とある大学で医学生の解剖実習に使われた献体らしい。珍しいことに若い女のものばかりだった。
糸だ、と男は思った。
見えない糸がこのロンドン中に張り巡らされている。自分はきっとそのささやかな網目のひとつに過ぎないのだろうが、あの青年と大男はおそらく重要な結び目だ。
編み上げられた糸の先は、どこへ繋がっているのだろう。
掃除をしてくれる妻がいなくなり荒れた家の中で、男は言い様のない高揚感を覚えていた。
次の日の夜、約束通りの時間に彼らは来た。
普段は青年一人であったが、今夜は死体の数が多いためか例の大男も一緒だった。墓地の入口近くには荷車が停めてあって、そばには見覚えのない若い男の姿もあった。
荷車へ死体を積み込む間、彼らは一言も口をきかなかった。少し多めの報酬を男に手渡して、「じゃあ」と青年が頭を下げた。
立ち去ろうとする彼に、男は思い切って尋ねた。
「アイリーン・アドラーは死んだのか?」
渾身の力で切り込んだつもりだったのに、振り返った青年は顔色ひとつ変えていなかった。
黒づくめの大男も、新顔の若い男も似たようなものだ。ただじっと、無表情にこちらを見ている。その瞳は深い穴のようで、考えがまったく読み取れなかった。
いつの間にか背中にじっとりと汗をかいていた。まずいことを口走ったのだと即座に理解したが、取り繕おうにも声が出なかった。
沈黙を破ったのは、にゃお、と場違いなほどのんきな鳴き声だった。
青年の足元に、小さな黒猫がすり寄っていた。
耳から爪先まで真っ黒な猫だ。彼はさっと屈んで子猫を抱き上げた。
「……こんなところまでついて来ちゃ駄目だよ。犬もいるんだから。好奇心は猫をも、って言うでしょ」
彼は猫の喉をくすぐった。その優しげな手付きとは裏腹に、声色はどこまでも冷えていた。
そばで聞いていた新顔の男がくすりと笑った。
「猫に九生あり、とも言うね」
男にしては妙に艶のある声だった。
深く被った鳥打ち帽の下で、青い瞳がランタンの明かりにきらめいている。背筋にぞわりと悪寒が走った。
地下の遺体安置所に横たわっていた金髪の女。彼女の横顔は美しくも青ざめたまま、二度とその青い目を開くことはないはずなのに。
アイリーン・アドラーは死んだのか?
もう一度そう口にしようとした時、黒いコートの大男が舌打ちをした。
その音で現実に引き戻され、男はひゅっと息を吸い込んだ。思い出したように、心臓がばくばくと音を立てている。
青い目の男は声を上げて笑った。
「冗談だよ、冗談」
そう、男だ。
いつの間にか足が震えていて、立っていられなくなるような心地がした。口の中でおかしな味がする。墓地を取り囲む木々がざわざわと鳴って、男の頭上に迫ってきた。
「おしまいだ」と頭の中で声がした。
軽率に口を開いたことを後悔したがもう遅い。おしまいだ、おしまいだ。その言葉が調子外れの歌のようにぐるぐると繰り返された。
思い出したのは、土の中からうつろな目でこちらを見上げる妻の死に顔だった。
*
墓地から離れたところで、ボンドが「どうするの?」と後ろを見やりながら尋ねた。墓守の男はまだ呆然と立ち尽くしたままだ。
モランは煙草をくわえたまま、つまらなさそうに答えた。
「証拠は揃えてある。電報を一本打てば終わりだ」
「うわ、悪党だね」
「今さらだろ」
荷台の中で子猫が鳴いた。
フレッドを慕って足元にまとわりつくので、荷車で轢いてしまわないようにモランが放り込んだのだ。
ボンドが手を伸ばして撫でてやると、子猫は喉を鳴らした。遊んでもらえて嬉しいのだろう。荷台に折り重なる死体などお構いなしに、無邪気に転げ回っている。
フレッドがぽつりと呟いた。
「レジーの里親、探さないと」
「は? 誰だって?」
彼は何も答えず、物憂げに目を伏せていた。
初出:Pixiv 2022.08.13
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ロンドンで悪さしてるモリ家の話。
墓守の男は、死体安置所へ向かう階段を下りていた。
後ろをついてくる青年は、靴底にゴムでも仕込んでいるのか、猫のように静かに歩く。つめたい石壁に反響する靴音は男のもの一つきりだった。
分厚い鉄扉を開くと、冷えた空気と微かな腐臭が鼻をついた。右手側の壁一面には、埋葬を待つ死体をしまっておく大きな引き出しが作りつけられている。男はそのうちの一つを引っ張り出した。
「ご注文通り、金髪に青い目、二十代前半の女だ。身長はちっと低かったかもしれんが、勘弁してくれ」
「これくらいなら。……死因は?」
聞きながら、青年は死体を覆う布をそっとめくった。状態を確認し、少し躊躇うような仕草を見せてから、瞼をめくって瞳の色を確かめた。
「石段から転げ落ちたらしい。大した高さじゃなかったそうだが、打ちどころが悪くてな。後頭部に傷がある」
死体をうつ伏せにすると、生々しい傷跡が露わになった。幸か不幸か、病院へ担ぎ込む間もなく即死だったらしい。
男は向かいに立つ青年をちらりと盗み見た。
装いは取り立てて特徴のない労働者ふうだ。
淡青色のストールを顔を隠すように巻いてはいるが、その下からのぞく灰色の瞳はごく大人しげで、他人に警戒心を抱かせる質ではない。おそらくまだ二十歳にもなっていないだろう。
女も知らなさそうな幼い顔立ちで、冷静に死体を検分しているのが不気味だった。
「……確かに」
彼は小さく頷いた。
青ざめた死体を丁寧に布にくるみ直してから、懐から硬貨の詰まった革袋を取り出して男に渡した。男は「毎度」と小さく答えた。袋の重みを確かめても、気持ちが浮き立つことはない。
青年が棺の中からそっと彼女を抱え上げる。
涼しい地下に保管していたとはいえ、すでに死後数日経過した死体を相手に顔色一つ変えなかった。自分とほとんど変わらない身の丈の死体を苦もなさそうに抱えて、ただ静かに、淡々とした足取りで階段を登っていった。
その背中を見送りながら、男はそっとため息をついた。
一年ほど前、男は妻を殺した。
些細なことから口論に発展して、カッとなって突き飛ばしたところ運悪く頭をぶつけて死んでしまったのだ。男は露見を恐れて、墓地の片隅に死体を埋めた。
教会の関係者や近所の人間には、妻は自分に愛想を尽かして田舎に帰ったと嘘をつくことにした。実際はサセックスに住む彼女の両親はとっくに他界していて、兄弟姉妹も親しい友人もいない。
唯一の身寄りである男が騒ぎ立てさえしなければ、誰も妻の行方を気に留めはしない。墓守夫婦と親しく交わろうなんて人間はそういないのだから。
死体の処理に関しても、こちらはプロだ。見つかるはずがないとたかを括っていた。
それなのに、奴らはすぐさま嗅ぎつけた。
妻を埋めてから3日と経たないうちに、身長6フィートをゆうに超える黒づくめの大男が家に押し入ってきた。強盗か、ヤードの刑事かと震え上がったが、相手はもっと恐ろしい奴だった。彼は開口一番、男が犯した罪を言い当てたのだ。妻を殺した日時も死体を埋めた場所も、奴は全て知っていた。
番犬のレジーはその晩、ひと声も吠えなかった。翌朝男に蹴飛ばされるまでぐっすりと眠りこけていたところを見るに、おそらく事前に餌に眠り薬でも混ぜられていたのだろう。
そうして、あれよあれよと言う間に奴らの犯罪の片棒を担がされることになり、今に至っている。きっと、ずいぶん前から目を付けられていたのだろう。
逆らえば今度こそ本物の刑事がすっ飛んでくる。
子供もなく、失うものなど無い身ではあったが、だからと言って残りの人生を牢獄で過ごしたいとは思わない。男は彼らに従った。
課せられた仕事は、注文に応じた死体を用意すること。身寄りのない浮浪者であっても埋葬の際は司祭が立ち会って祈りを捧げる決まりだったので、埋めた後からこっそり掘り返す必要があった。大抵の場合は、あの陰気な青年が窓口役だった。
初めて彼がやって来た時は、こんな若者まで弱味を握られ従わされているのかと少し気の毒に思ったが、あの落ち着きぶりを見るにどうやらそうではないらしい。
青年は口数が少ない方ではあったが、一度だけ雑談めいたことを口にしたことがある。「あそこにあったイチイの木、植え替えたんですね」と。
確かにその日の昼間、男は木の植え替えを行っていた。「景観が悪いから」と気まぐれな司祭に頼まれたものの、処分が面倒だったので墓地の裏手に植え直したのだ。
その場では適当に相槌を打ったが、彼が帰ってからその意味を考えてぞっとした。
青年は人目を忍んで夜にしかやって来ない。街灯もない墓地の片隅に植えられていた木がイチイであると分かるはずもなかった。そして彼は「伐った」ではなく「植え替えた」と言った。昼間の動向も監視しているぞと、言外にほのめかしていたのだ。
妻の死体を移動させてしまえば奴らを煙に巻けるのではないかと思案していた矢先のことだ。
あの大男とはまた違った意味で、掴みどころのない恐ろしい相手だった。
女の死体を引き渡してから一週間ほど経ったある日、男は街の食料品店に来ていた。
「卵一ダース、パンと玉ねぎ。紅茶を一ポンド。あと、何でもいいから肉を適当に」
「あいよ。犬にやるやつだね」
店主は冷蔵ケースから包みを引っ張り出した。売り物にならない切れ端や骨を、レジーのためにこうして取っておいてくれるのだ。
袋詰を待っている間、男はカウンターの上に放り出されていた新聞を眺めていた。『イーストエンドで娼婦惨殺 姿なき連続殺人鬼の恐怖』、『急死の男爵にまつわる黒い噂』、『シティ・アンド・サバーバン銀行で強盗団確保』といった見出しが躍っている。新聞社は今日も事件の話題に事欠かないようだ。
ここに自分の名前が並ぶのを想像して、男は暗澹たる気分になった。罪悪感ではない。奴らの気分次第でいつそうなるとも分からない現状が落ち着かなかった。自分の命運を他人に握られている不快感だ。
苦々しくため息をつく男に、店主が片頬を上げて顔を寄せた。
「おい、あんた知ってるかい」
「あ?」
「アイリーン・アドラーが死んだってよ」
「誰だいそりゃあ」
「知らねぇのか! 米国きっての大女優だよ」
男は「へぇ」と気のない返事をした。
オペラ鑑賞など高尚な趣味は持ち合わせていなかったし、それはこのしがない食料品店の店主も同じだろう。
しかし彼はお構いなしに目を輝かせながら話を続けた。噂話をする者特有の、下卑た笑みだった。
「テムズ川から死体が上がったそうだ。妙だと思わないかい? ついこの間、かの名探偵シャーロック・ホームズとの熱愛が新聞で騒がれたばかりなのによ」
「あぁ、あのゴシップ記事の女優かい」
「そうそう。まだどの新聞も触れちゃいないが、あの名探偵に煮え湯を飲まされた悪党どもが、腹いせにさらって嬲り殺しにしたんじゃねえかって噂だよ。あの金髪碧眼の美女を……」
「何だって?」
「だから、あの名探偵に悪巧みを邪魔された連中が……」
「違う。その後だ。金髪碧眼だって?」
「え? あぁ、俺だって実物を拝んだことがあるわけじゃねぇけどよ。アイリーン・アドラーって言ったら金髪碧眼の絶世の美女で有名だぞ……どうかしたか?」
「いや……」
聞けばそのアイリーン・アドラーとかいう女優は、年齢も背格好も男が用意した死体の特徴にぴたりと一致する。
奴らが死体を何のために使うのかなど、深く考えることはあえて避けていた。けれど、これは単なる偶然の一致と言えるのだろうか。
もし先日引き渡したあの死体が、アイリーン・アドラーの死を偽装するために使われたのだとしたら?
考えられるのは、女の身を案じたホームズが犯罪者どもの目をくらますために身代わりの死体を用意した、という筋書きだ。
すると、これまでの話ががらりと変わる。あの陰気な青年は恐ろしい犯罪組織の構成員だとばかり思っていたが、実は正義の名探偵の手先だったのか? あの黒づくめの大男も?
様々な憶測が男の頭の中を駆け巡った。
逆のパターンもあり得る。
実際、奴らは悪党だ。ホームズの手先などでなく、反対に彼からあの女を奪うために適当な身代わりを立てたとも考えられる。
しかしその場合、ヤードとも繋がりのあるホームズが遺体の顔を確認すればあっという間に偽装を見破られてしまうのではないか? そもそも、それなりの器量よしだったとはいえ街の娘と著名な大女優を警察が間違えたりするものだろうか……。
深入りするのはまずい、と危機感を覚えたが止められなかった。男は暇さえあれば彼らの正体についてあれこれと想像を巡らせるようになっていた。
そんな矢先、新しい注文が入った。
『解剖済みの若い女の遺体を3つ』
暗号で書かれたこの電報を受け取ったとき、男の体に恐怖とも興奮ともつかない震えが走った。
まさにその朝、男のもとに解剖済みの遺体たちが転がり込んできたからだ。とある大学で医学生の解剖実習に使われた献体らしい。珍しいことに若い女のものばかりだった。
糸だ、と男は思った。
見えない糸がこのロンドン中に張り巡らされている。自分はきっとそのささやかな網目のひとつに過ぎないのだろうが、あの青年と大男はおそらく重要な結び目だ。
編み上げられた糸の先は、どこへ繋がっているのだろう。
掃除をしてくれる妻がいなくなり荒れた家の中で、男は言い様のない高揚感を覚えていた。
次の日の夜、約束通りの時間に彼らは来た。
普段は青年一人であったが、今夜は死体の数が多いためか例の大男も一緒だった。墓地の入口近くには荷車が停めてあって、そばには見覚えのない若い男の姿もあった。
荷車へ死体を積み込む間、彼らは一言も口をきかなかった。少し多めの報酬を男に手渡して、「じゃあ」と青年が頭を下げた。
立ち去ろうとする彼に、男は思い切って尋ねた。
「アイリーン・アドラーは死んだのか?」
渾身の力で切り込んだつもりだったのに、振り返った青年は顔色ひとつ変えていなかった。
黒づくめの大男も、新顔の若い男も似たようなものだ。ただじっと、無表情にこちらを見ている。その瞳は深い穴のようで、考えがまったく読み取れなかった。
いつの間にか背中にじっとりと汗をかいていた。まずいことを口走ったのだと即座に理解したが、取り繕おうにも声が出なかった。
沈黙を破ったのは、にゃお、と場違いなほどのんきな鳴き声だった。
青年の足元に、小さな黒猫がすり寄っていた。
耳から爪先まで真っ黒な猫だ。彼はさっと屈んで子猫を抱き上げた。
「……こんなところまでついて来ちゃ駄目だよ。犬もいるんだから。好奇心は猫をも、って言うでしょ」
彼は猫の喉をくすぐった。その優しげな手付きとは裏腹に、声色はどこまでも冷えていた。
そばで聞いていた新顔の男がくすりと笑った。
「猫に九生あり、とも言うね」
男にしては妙に艶のある声だった。
深く被った鳥打ち帽の下で、青い瞳がランタンの明かりにきらめいている。背筋にぞわりと悪寒が走った。
地下の遺体安置所に横たわっていた金髪の女。彼女の横顔は美しくも青ざめたまま、二度とその青い目を開くことはないはずなのに。
アイリーン・アドラーは死んだのか?
もう一度そう口にしようとした時、黒いコートの大男が舌打ちをした。
その音で現実に引き戻され、男はひゅっと息を吸い込んだ。思い出したように、心臓がばくばくと音を立てている。
青い目の男は声を上げて笑った。
「冗談だよ、冗談」
そう、男だ。
いつの間にか足が震えていて、立っていられなくなるような心地がした。口の中でおかしな味がする。墓地を取り囲む木々がざわざわと鳴って、男の頭上に迫ってきた。
「おしまいだ」と頭の中で声がした。
軽率に口を開いたことを後悔したがもう遅い。おしまいだ、おしまいだ。その言葉が調子外れの歌のようにぐるぐると繰り返された。
思い出したのは、土の中からうつろな目でこちらを見上げる妻の死に顔だった。
*
墓地から離れたところで、ボンドが「どうするの?」と後ろを見やりながら尋ねた。墓守の男はまだ呆然と立ち尽くしたままだ。
モランは煙草をくわえたまま、つまらなさそうに答えた。
「証拠は揃えてある。電報を一本打てば終わりだ」
「うわ、悪党だね」
「今さらだろ」
荷台の中で子猫が鳴いた。
フレッドを慕って足元にまとわりつくので、荷車で轢いてしまわないようにモランが放り込んだのだ。
ボンドが手を伸ばして撫でてやると、子猫は喉を鳴らした。遊んでもらえて嬉しいのだろう。荷台に折り重なる死体などお構いなしに、無邪気に転げ回っている。
フレッドがぽつりと呟いた。
「レジーの里親、探さないと」
「は? 誰だって?」
彼は何も答えず、物憂げに目を伏せていた。
初出:Pixiv 2022.08.13