No.21
絵の中のお屋敷
怖い夢を見るルイスの話。
ロックウェル伯爵家に身を寄せた日、ルイスは生まれて初めて『自分の部屋』を得た。
兄たちとは一回りほど小さな部屋で、北向きの薄暗い部屋だった。兄たちはそのことにいくらか不満があるようだったが、他に適当な部屋がないのだから仕方ない。
「ルイス、ちゃんと眠れてるかい?」
三人だけのお茶の時間、ウィリアムが言った。
ウィリアムとルイスは貧民街の貸本屋でも孤児院でも、あの屋敷の屋根裏部屋でも、ずっと一緒だった。一枚の毛布を分けあって眠った夜も数え切れないほどある。個室で、一人で眠るのは初めてのことだった
「僕は大丈夫です、兄さん」
「そう? 僕はルイスと別々の部屋で寂しいな」
「もう、そんなこと仰らないでください。…………僕だって、ちょっとだけ、寂しいです」
カップのふちに唇を押し付けながらそう答えると、ウィリアムはにっこりと笑った。アルバートはその様子を微笑ましげに見つめていた。
あの場で兄たちには言えなかったが、一人寝が嫌な理由はもう一つあった。
ルイスに充てがわれた部屋には、壁に一枚の絵が飾られていた。丘の上にある一軒の屋敷を描いた絵だった。
どうせなら明るい昼間を描けばいいのに、絵の中の景色は真っ暗な夜だった。空には細い三日月が浮かんでいるだけで星もない。
暗い空と丘の曖昧な境界線の間に、うずくまるように建っている屋敷の影。月明かりのためか辛うじて建物の輪郭が見て取れた。
中で誰かが明かりを灯しているのだろう、二階の窓の一部だけが薄く発光するように白く塗られている。けれど、その明かりのもとで屋敷の住人が眠る支度を整えていたり、ベッドに入って本を読んでいる姿が、ルイスにはどうしても想像できなかった。
(これは、幽霊屋敷の絵だ)
そう直感した。
絵の中のあの屋敷には誰も住んでいない。それなのに、夜になるとつめたい光が窓の向こうを行き来する。何かが、いる。
全ては単なる印象であり想像であるはずなのに、ルイスはこの絵を見るたびに不安を掻き立てられた。壁から外してしまいたかったが、与えられた個室とはいえ居候している屋敷の調度を勝手にいじるのは気が引けた。
絵の来歴が分かれば、なんの変哲もないただの風景画であることが確かめられれば、この嫌な気持ちも収まるかもしれない。そう考えて、ジャックに尋ねてみたことがある。けれど、古参の使用人である彼でさえ「さぁ、儂が屋敷に来たときにはもうここに掛かっていたからのぅ」と首を傾げるだけだった。
「ルイス、僕の部屋の絵と交換しようか」
そう言ってくれたのはウィリアムだった。
ルイスがこの絵を嫌っていることを察してくれたのだろう。彼の部屋に飾られているのは、淡いタッチの静物画だった。それなりの値打ち物であろうことを含めてもあくまで普通の絵だ。右下には画家のサインも入っている。
けれど、ルイスはこの申し出を断った。優しい兄に不気味な絵を押し付けるのは嫌だったし、ただの絵を怖がっていると思われたくないという意地もあった。
昼の間はいい。勉強や秘密の訓練に加えて、ルイスには屋敷の仕事の手伝いもある。空いた時間は兄たちと話をしたり本を読んだりしていれば、自分の部屋で過ごす時間などほとんど無い。
しかし、夜になると部屋に戻らざるをえなかった。ルイスはその日も、夜ふかしすることなく決まった時間に寝支度を整えて、ベッドに潜り込んだ。
明かりを消してしまえば、壁の絵は見えなくなる。けれど、子どもじみた不安は胸のうちに小さな染みを作ってなかなか消えてくれなかった。
次に目を覚ますと、真っ暗な部屋にいた。
眠りの浅いルイスは、こうして夜中に目を覚ましてしまうことがときどきあった。もう一度寝入ろうと瞼を下ろしかけて、目をぱちりと開いた。何だか油くさいような、不快な匂いがする。
万が一、ランタンのオイルでも零していたのならいけない。慌てて起き上がって部屋の中を見回したとき、ルイスはどきりと心臓を跳ねさせた。
(僕の部屋じゃない)
室内は真っ暗だったが、間違えるはずもない。
壁に掛かっていたはずのあの忌々しい絵がなかったからだ。代わりに、絵のあった場所に小さな窓が開いていた。手の下にあるシーツの感触も何だかざらざらとしている。ルイスの部屋のものではない。
眠っている間にどこかに連れてこられた?
室内には他に人の気配はない。
不安から、兄さん、と声に出そうとして、ルイスは思わず喉を抑えた。
(声が出ない……)
戸惑ったが、喉がおかしくなったわけではないとすぐに気がついた。
何の音も聞こえない。
真夜中とはいえ、風の音も鳥の声も聞こえなかった。ルイスが身動ぎしても、ベッドの木枠が軋むこともシーツが衣擦れの音を立てることもない。
まだ夢を見ているのだ。
そう結論付けて、ルイスはベッドから降りた。
明晰夢、というのだったか。ウィリアムに教えてもらったことがある。普通の夢とは違って、身体を自由に動かすことができるのだ。
「あ、あ」と声を出してみる。やはり何も聞こえない。壁をこつこつと叩いてみても、その場で飛び跳ねてみても、手応えはあるのに音が響かないのは奇妙な気分だった。
窓の外は真っ暗だ。枕元を探ってみたけれど、ランプは見当たらない。ルイスはドアを開けて、そっと廊下へ出た。
廊下には大きな窓がいくつも並んでいる。部屋の中よりはいくらか明るかったが、窓枠にまとわりつくカーテンが重たげで陰鬱な雰囲気だ。
ルイスは窓ガラスに額がくっつきそうなほど顔を近付けて、外の様子を眺めた。ここは2階のようだ。地面は暗闇の中に沈み込むようで、この建物の周りに何があるかはよく見えない。どうやら少し小高い場所に立っているらしいことが辛うじてわかった。
空を見上げると、三日月が浮かんでいる。
星は一つも見えないのに、月だけは冴え冴えとつめたい光を放っていた。絵筆の先でさっと刷いたような、細い細い三日月。
ルイスはざっと血の気が引くのを感じた。
(あの絵に描かれた月と同じだ)
夜空には星も雲もなく、月以外はのっぺりとした黒一色。ちょうど、平たい筆で絵の具を塗りたくったような。
(僕、あの絵の中にいる)
額縁の外から眺めていた月を見上げている。ルイスが今立っているのは、あの絵の中の屋敷に違いなかった。
そうして、先ほどから何の物音も、自分の声すら聞こえない理由をはっきりと理解した。
絵の中の世界に、音は存在しない。
(ウィリアム兄さん! アルバート兄様!)
力いっぱい叫んだはずの声は、やっぱり音にならなかった。耳が痛いほどの無音。先ほどから鼻をつくこの不快な匂いは、きっと油絵を描くのに使うテレピンの匂いだろう。
例え夢だとしても、目が覚めるまでこの屋敷に留まっているのは怖気が走るほど嫌だった。
外に出よう、とルイスは即座にそう決断した。
まずは階段を探す。一階に下りさえすれば、脱出する方法はいくらでもある。さらに丘を下りて、絵の世界の端っこまで行けば、目が覚めるかもしれない。あの真っ暗な道を行くのは恐ろしいから、できれば明かりがほしい。
深呼吸して身を翻したとき、取り戻しかけた勇気はいとも簡単に吹き飛ばされた。
廊下の、曲がり角の向こうから、光が差していた。
ゆらり、ゆらりと影が揺れている。
誰かが、ランタンを手にこちらに向かってくる。
次の瞬間、ルイスは弾かれたように走り出した。
ここがあの絵に描かれた幽霊屋敷なら。
誰もいないはずの屋敷に、明かりを灯す者がいる。
ルイスは明かりとは反対方向に廊下を駆け抜けた。恐ろしいほどの静寂のおかげで足音を殺す必要がないのがせめてもの救いだった。
角を曲がれば階段に行き当たらないかと期待したが、虚しい結果に終わった。仕方なく手近な部屋のひとつに飛び込んだ。暗闇の中でドアの内側を探る。内鍵は付いていないようだ。ルイスは焦燥に駆られながら、手探りで隠れ場所を探した。粗末なベッドを何とか探り当てて、小さな体をその下に滑り込ませる。
ベッドの木枠と床板の隙間に潜んで息を殺した。意味がないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
(早く覚めろ、早く覚めろ)
ぎゅっと目をつぶって、心の中で何度もそう念じた。
心臓が早鐘を打っている。呼吸が浅くなって、あの頃の発作を思い出した。手を握っていてくれる兄は、今はいない。
自分の力で何とかこの場を切り抜けなければならない。けれど、この異様な世界で、おそらく人間ではない存在にどう立ち向かえばいい?
この世界には音がない。ルイスが廊下を疾走しようと叩きつけるようにドアを閉めようと、敵に気取られる心配はない。けれどそれは、ルイスもまた敵の接近を視覚でしか把握できないことを意味していた。
今この瞬間にも、ドアの前に立っているかもしれない。
その恐ろしい考えが浮かんでしまうと、もうベッドの下から這い出ることができなかった。
(兄さん……兄様……)
どれくらいそうしていただろう。
室内の暗闇が突然揺らいだ。
闇の中に沈んでいた床板の木目がはっきりと見えた。明かりを持った何者かが、部屋に入ってきたのだ。ルイスは咄嗟に両手で口を抑えた。
テレピン油の匂いがいっそう強くなった気がした。
最初に見えたのは、大きな靴だった。つま先がそり返るように尖った、染みだらけのみすぼらしい革靴。裾が破れたスラックスからのぞく足首は骨が浮いている。まともな人間の足だとは思えなかった。
奴はすり足でゆっくりと部屋の中を歩き回った。自分を探しているのだ、とルイスは確信した。
奴の動きにあわせて、明かりがゆらゆらと揺れる。その度に、ルイスはベッドの下で竦み上がった。
不意に、明かりが一際強くなった。
ルイスは眩しさに目を細めて、そして息を呑んだ。明かりの向こうで、奴が床に膝をついているのが見えた。
ベッドの下を覗き込もうとしている。
そのことに気が付いたとき、冷たい水を全身に浴びせられた心地がした。泣いたりするものかと思っていたのに、いつの間にかぼろぼろと涙が頬を伝っている。狭い隙間を必死に這いずって、少しでも奥に隠れようと足掻いた。
ランタンの明かりがさらに床に近づく。傷だらけの白い手が見えた。尖った肩が覗いた。
大きな顔がぬっと突き出された。ランタンの強い光がその相貌に不気味な陰影を描いている。目があった瞬間、奴は顔を歪めて嬉しそうに笑った。
ルイスは自分の悲鳴で飛び起きた。
全身がびっしょりと汗をかいていて、心臓がばくばくと嫌な音を立てていた。
「ルイス! ルイス、どうしたの! まさか、また心臓が……」
普段見せない焦りを顔に浮かべて、ウィリアムがこちらを覗き込んでいた。弟が胸のあたりを抑えるのを見て、心臓の発作が再発したのかと思ったらしい。
窓からは眩しい陽の光が差し込んでいる。
あの不快な臭気は消え失せていたし、自分の荒い息づかいも、ウィリアムの優しい声もはっきりと聞こえる。
兄の身体にしがみついて、ルイスは声を上げて泣いた。
あの絵はすぐに壁から外された。
その場に居合わせなかった者たちは「怖い夢でも見たのだろう」と笑ったけれど、奥方様が「私も、あの絵はずっと厭だった」とぽつりと呟いてからは誰も何も言わなかった。
布でぐるぐる巻きにされた絵を、ジャックがどこかに持っていった。アルバートが伯爵にも口添えしてくれたのだろう。それからあの絵がどうなったのかは知らない。
ただ、今でもルイスは、絵の飾られた部屋では眠らない。
初出:Pixiv 2022.07.25
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怖い夢を見るルイスの話。
ロックウェル伯爵家に身を寄せた日、ルイスは生まれて初めて『自分の部屋』を得た。
兄たちとは一回りほど小さな部屋で、北向きの薄暗い部屋だった。兄たちはそのことにいくらか不満があるようだったが、他に適当な部屋がないのだから仕方ない。
「ルイス、ちゃんと眠れてるかい?」
三人だけのお茶の時間、ウィリアムが言った。
ウィリアムとルイスは貧民街の貸本屋でも孤児院でも、あの屋敷の屋根裏部屋でも、ずっと一緒だった。一枚の毛布を分けあって眠った夜も数え切れないほどある。個室で、一人で眠るのは初めてのことだった
「僕は大丈夫です、兄さん」
「そう? 僕はルイスと別々の部屋で寂しいな」
「もう、そんなこと仰らないでください。…………僕だって、ちょっとだけ、寂しいです」
カップのふちに唇を押し付けながらそう答えると、ウィリアムはにっこりと笑った。アルバートはその様子を微笑ましげに見つめていた。
あの場で兄たちには言えなかったが、一人寝が嫌な理由はもう一つあった。
ルイスに充てがわれた部屋には、壁に一枚の絵が飾られていた。丘の上にある一軒の屋敷を描いた絵だった。
どうせなら明るい昼間を描けばいいのに、絵の中の景色は真っ暗な夜だった。空には細い三日月が浮かんでいるだけで星もない。
暗い空と丘の曖昧な境界線の間に、うずくまるように建っている屋敷の影。月明かりのためか辛うじて建物の輪郭が見て取れた。
中で誰かが明かりを灯しているのだろう、二階の窓の一部だけが薄く発光するように白く塗られている。けれど、その明かりのもとで屋敷の住人が眠る支度を整えていたり、ベッドに入って本を読んでいる姿が、ルイスにはどうしても想像できなかった。
(これは、幽霊屋敷の絵だ)
そう直感した。
絵の中のあの屋敷には誰も住んでいない。それなのに、夜になるとつめたい光が窓の向こうを行き来する。何かが、いる。
全ては単なる印象であり想像であるはずなのに、ルイスはこの絵を見るたびに不安を掻き立てられた。壁から外してしまいたかったが、与えられた個室とはいえ居候している屋敷の調度を勝手にいじるのは気が引けた。
絵の来歴が分かれば、なんの変哲もないただの風景画であることが確かめられれば、この嫌な気持ちも収まるかもしれない。そう考えて、ジャックに尋ねてみたことがある。けれど、古参の使用人である彼でさえ「さぁ、儂が屋敷に来たときにはもうここに掛かっていたからのぅ」と首を傾げるだけだった。
「ルイス、僕の部屋の絵と交換しようか」
そう言ってくれたのはウィリアムだった。
ルイスがこの絵を嫌っていることを察してくれたのだろう。彼の部屋に飾られているのは、淡いタッチの静物画だった。それなりの値打ち物であろうことを含めてもあくまで普通の絵だ。右下には画家のサインも入っている。
けれど、ルイスはこの申し出を断った。優しい兄に不気味な絵を押し付けるのは嫌だったし、ただの絵を怖がっていると思われたくないという意地もあった。
昼の間はいい。勉強や秘密の訓練に加えて、ルイスには屋敷の仕事の手伝いもある。空いた時間は兄たちと話をしたり本を読んだりしていれば、自分の部屋で過ごす時間などほとんど無い。
しかし、夜になると部屋に戻らざるをえなかった。ルイスはその日も、夜ふかしすることなく決まった時間に寝支度を整えて、ベッドに潜り込んだ。
明かりを消してしまえば、壁の絵は見えなくなる。けれど、子どもじみた不安は胸のうちに小さな染みを作ってなかなか消えてくれなかった。
次に目を覚ますと、真っ暗な部屋にいた。
眠りの浅いルイスは、こうして夜中に目を覚ましてしまうことがときどきあった。もう一度寝入ろうと瞼を下ろしかけて、目をぱちりと開いた。何だか油くさいような、不快な匂いがする。
万が一、ランタンのオイルでも零していたのならいけない。慌てて起き上がって部屋の中を見回したとき、ルイスはどきりと心臓を跳ねさせた。
(僕の部屋じゃない)
室内は真っ暗だったが、間違えるはずもない。
壁に掛かっていたはずのあの忌々しい絵がなかったからだ。代わりに、絵のあった場所に小さな窓が開いていた。手の下にあるシーツの感触も何だかざらざらとしている。ルイスの部屋のものではない。
眠っている間にどこかに連れてこられた?
室内には他に人の気配はない。
不安から、兄さん、と声に出そうとして、ルイスは思わず喉を抑えた。
(声が出ない……)
戸惑ったが、喉がおかしくなったわけではないとすぐに気がついた。
何の音も聞こえない。
真夜中とはいえ、風の音も鳥の声も聞こえなかった。ルイスが身動ぎしても、ベッドの木枠が軋むこともシーツが衣擦れの音を立てることもない。
まだ夢を見ているのだ。
そう結論付けて、ルイスはベッドから降りた。
明晰夢、というのだったか。ウィリアムに教えてもらったことがある。普通の夢とは違って、身体を自由に動かすことができるのだ。
「あ、あ」と声を出してみる。やはり何も聞こえない。壁をこつこつと叩いてみても、その場で飛び跳ねてみても、手応えはあるのに音が響かないのは奇妙な気分だった。
窓の外は真っ暗だ。枕元を探ってみたけれど、ランプは見当たらない。ルイスはドアを開けて、そっと廊下へ出た。
廊下には大きな窓がいくつも並んでいる。部屋の中よりはいくらか明るかったが、窓枠にまとわりつくカーテンが重たげで陰鬱な雰囲気だ。
ルイスは窓ガラスに額がくっつきそうなほど顔を近付けて、外の様子を眺めた。ここは2階のようだ。地面は暗闇の中に沈み込むようで、この建物の周りに何があるかはよく見えない。どうやら少し小高い場所に立っているらしいことが辛うじてわかった。
空を見上げると、三日月が浮かんでいる。
星は一つも見えないのに、月だけは冴え冴えとつめたい光を放っていた。絵筆の先でさっと刷いたような、細い細い三日月。
ルイスはざっと血の気が引くのを感じた。
(あの絵に描かれた月と同じだ)
夜空には星も雲もなく、月以外はのっぺりとした黒一色。ちょうど、平たい筆で絵の具を塗りたくったような。
(僕、あの絵の中にいる)
額縁の外から眺めていた月を見上げている。ルイスが今立っているのは、あの絵の中の屋敷に違いなかった。
そうして、先ほどから何の物音も、自分の声すら聞こえない理由をはっきりと理解した。
絵の中の世界に、音は存在しない。
(ウィリアム兄さん! アルバート兄様!)
力いっぱい叫んだはずの声は、やっぱり音にならなかった。耳が痛いほどの無音。先ほどから鼻をつくこの不快な匂いは、きっと油絵を描くのに使うテレピンの匂いだろう。
例え夢だとしても、目が覚めるまでこの屋敷に留まっているのは怖気が走るほど嫌だった。
外に出よう、とルイスは即座にそう決断した。
まずは階段を探す。一階に下りさえすれば、脱出する方法はいくらでもある。さらに丘を下りて、絵の世界の端っこまで行けば、目が覚めるかもしれない。あの真っ暗な道を行くのは恐ろしいから、できれば明かりがほしい。
深呼吸して身を翻したとき、取り戻しかけた勇気はいとも簡単に吹き飛ばされた。
廊下の、曲がり角の向こうから、光が差していた。
ゆらり、ゆらりと影が揺れている。
誰かが、ランタンを手にこちらに向かってくる。
次の瞬間、ルイスは弾かれたように走り出した。
ここがあの絵に描かれた幽霊屋敷なら。
誰もいないはずの屋敷に、明かりを灯す者がいる。
ルイスは明かりとは反対方向に廊下を駆け抜けた。恐ろしいほどの静寂のおかげで足音を殺す必要がないのがせめてもの救いだった。
角を曲がれば階段に行き当たらないかと期待したが、虚しい結果に終わった。仕方なく手近な部屋のひとつに飛び込んだ。暗闇の中でドアの内側を探る。内鍵は付いていないようだ。ルイスは焦燥に駆られながら、手探りで隠れ場所を探した。粗末なベッドを何とか探り当てて、小さな体をその下に滑り込ませる。
ベッドの木枠と床板の隙間に潜んで息を殺した。意味がないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
(早く覚めろ、早く覚めろ)
ぎゅっと目をつぶって、心の中で何度もそう念じた。
心臓が早鐘を打っている。呼吸が浅くなって、あの頃の発作を思い出した。手を握っていてくれる兄は、今はいない。
自分の力で何とかこの場を切り抜けなければならない。けれど、この異様な世界で、おそらく人間ではない存在にどう立ち向かえばいい?
この世界には音がない。ルイスが廊下を疾走しようと叩きつけるようにドアを閉めようと、敵に気取られる心配はない。けれどそれは、ルイスもまた敵の接近を視覚でしか把握できないことを意味していた。
今この瞬間にも、ドアの前に立っているかもしれない。
その恐ろしい考えが浮かんでしまうと、もうベッドの下から這い出ることができなかった。
(兄さん……兄様……)
どれくらいそうしていただろう。
室内の暗闇が突然揺らいだ。
闇の中に沈んでいた床板の木目がはっきりと見えた。明かりを持った何者かが、部屋に入ってきたのだ。ルイスは咄嗟に両手で口を抑えた。
テレピン油の匂いがいっそう強くなった気がした。
最初に見えたのは、大きな靴だった。つま先がそり返るように尖った、染みだらけのみすぼらしい革靴。裾が破れたスラックスからのぞく足首は骨が浮いている。まともな人間の足だとは思えなかった。
奴はすり足でゆっくりと部屋の中を歩き回った。自分を探しているのだ、とルイスは確信した。
奴の動きにあわせて、明かりがゆらゆらと揺れる。その度に、ルイスはベッドの下で竦み上がった。
不意に、明かりが一際強くなった。
ルイスは眩しさに目を細めて、そして息を呑んだ。明かりの向こうで、奴が床に膝をついているのが見えた。
ベッドの下を覗き込もうとしている。
そのことに気が付いたとき、冷たい水を全身に浴びせられた心地がした。泣いたりするものかと思っていたのに、いつの間にかぼろぼろと涙が頬を伝っている。狭い隙間を必死に這いずって、少しでも奥に隠れようと足掻いた。
ランタンの明かりがさらに床に近づく。傷だらけの白い手が見えた。尖った肩が覗いた。
大きな顔がぬっと突き出された。ランタンの強い光がその相貌に不気味な陰影を描いている。目があった瞬間、奴は顔を歪めて嬉しそうに笑った。
ルイスは自分の悲鳴で飛び起きた。
全身がびっしょりと汗をかいていて、心臓がばくばくと嫌な音を立てていた。
「ルイス! ルイス、どうしたの! まさか、また心臓が……」
普段見せない焦りを顔に浮かべて、ウィリアムがこちらを覗き込んでいた。弟が胸のあたりを抑えるのを見て、心臓の発作が再発したのかと思ったらしい。
窓からは眩しい陽の光が差し込んでいる。
あの不快な臭気は消え失せていたし、自分の荒い息づかいも、ウィリアムの優しい声もはっきりと聞こえる。
兄の身体にしがみついて、ルイスは声を上げて泣いた。
あの絵はすぐに壁から外された。
その場に居合わせなかった者たちは「怖い夢でも見たのだろう」と笑ったけれど、奥方様が「私も、あの絵はずっと厭だった」とぽつりと呟いてからは誰も何も言わなかった。
布でぐるぐる巻きにされた絵を、ジャックがどこかに持っていった。アルバートが伯爵にも口添えしてくれたのだろう。それからあの絵がどうなったのかは知らない。
ただ、今でもルイスは、絵の飾られた部屋では眠らない。
初出:Pixiv 2022.07.25