No.20
On Another's Sorrow
風邪をひいてめそめそしているフレッドの話。
違和感に気付いたのは、いつものストールを首に巻いた時だった。何だか、ざらざらとした不快感がある。
一度、ストールの結び目を解いてみた。
特に汚れていたり、生地が毛羽立ったりしているわけではないのに、いつもと手触りが違う気がした。首の周りがどこか落ち着かない。
今日は巻くのをよそうかとも考えたけれど、数日前からロンドンは急に冷え込んでいた。日のあるうちはいいが、僕の仕事は日が暮れてからが本番だ。ストールがないと、おそらく夜になってから寒い思いをする。
僕は落ち着かない気分を無視して部屋を出た。
「お前、具合悪いのか?」
モランが出し抜けにそういったのは、昼食の席だった。何を言われているのか咄嗟に理解できなくて、僕はモランの顔を見返した。
テーブルについていた皆がぴたりと手を止めて、まじまじと僕の顔を見ている。
隣に座っていたボンドさんが「ちょっとごめんね」と言って、気付いたときには彼の手のひらがぺたりと僕の額に当てられていた。細い指先はひんやりしている。
「あ、ほんとだ。熱あるね」
「え」
「ほら見ろ。あまり食ってねぇと思ったぜ」
「お前さんが珍しい。気温差にやられたか」
「解熱薬ならあるので、すぐに出しますね」
「頼むよ、ルイス。酷くなるようなら医者を呼んでくれ」
ルイスさんが席を立ったのを皮切りに、皆がてきぱきと動き始めた。
食べかけの食事が下げられて、背中にブランケットがかけられる。「オートミールか果物ならすぐに出せるが、まだ食べ足りないか」と師匠が尋ねるので慌てて首を振ると、かわりに薬が出された。
戸惑った僕は、反射的にウィリアムさんへ視線を送った。彼は困ったように眉を下げながら、言った。
「うん、確かにすこし顔色が悪いね。今日はゆっくりお休み、フレッド」
ウィリアムさんにそう言われてしまうとどうすることもできず、僕はあっという間に自室のベッドに押し込められた。
あのモランまでもが「お前の仕事は全部俺らがやってやるから、大人しく寝てろ」と言っていた。そんなに具合が悪そうに見えたのだろうか。
僕は内心首を傾げていたけれど、言われてみれば確かに今日は朝から身体がおかしかった。いつものストールを巻いた首の周りがざらざらと不快で、鉢植えやじょうろがやたらと重たくて、ルイスさんの作った食事がどこか味気なくて……。
それらが全て体調不良に起因していることを、僕はようやく理解した。いったん理解してしまうと倦怠感がどっと襲ってきて、大人しく横になって目を閉じていることにした。
(そう言えば、寝込むほど体調を崩したの、初めてかもしれない……)
子供の頃から、身体は丈夫な方だった。
思い当たる体調不良といえば鼻風邪か、飢えを凌ぐためにちょっとまずいものを食べてしまった時の腹痛くらいなもので、病とは無縁の人生を送ってきた。医者にかかることも難しい、貧しい環境にあったので、そうでなければとっくに死んでしまっていただろう。
身体が重い。
熱が上がってきたのか、ついさっきまで(表面上は)普通に過ごしていられたことが嘘のように思えた。身体中の関節が熱を持って痛んで、起き上がれそうにない。
眠ってしまいたかったけれど、身体の違和感が気になって寝付けなかった。これって、休めば治るものなのだろうか。薬が効くまでどれくらいかかるのだろう。外はまだ明るい時間帯なのに、カーテンを引いた室内は薄暗くてよそよそしい。
ふいに、ウィリアムさんたちに出会う前のことを思い出した。貧民街の片隅で、熱病にかかってうなされている男を見つけた時のことだ。
冷たい地べたに横になってうめき声を上げる様は異様で、死んでしまうのではないかと不安に思って恐る恐る近付いた。けれど声をかける前に、男は充血した目を見開いてこちらを睨みつけた。
小さかった僕はそれで怖気づいてしまって逃げだした。数日経ってから同じ路地に行ってみた時には、男の姿はどこにもなかった。
親切な人が見つけてくれて、病院へ連れて行ってもらえたならいい。元気になって自分の足でどこかへ行ったならもっといい。
だけど、そんな都合のいい奇跡は起きなかっただろう。あの男はきっと助からなかった。
今の僕よりずっと苦しかったはずだ。
夜露もしのげない石畳の上で、毛布もなくて寒かっただろう。一人きりで心細かっただろう。近寄ってきた子供さえ睨みつけずにはいられないほど、追い込まれていたのだ。
どうして逃げてしまったんだろう。あの時の僕に何かできたとも思わないけれど、どうして水の一杯でも運んでやらなかったんだろう。どうしてそばにいてやらなかったんだろう。
取りとめのない後悔が、後から後から押し寄せてきた。
あの男はきっと一人で死んだのだ。彼がどんな人間だったのかこれっぽっちも知らないけれど、あまりにも報われない。
目の奥からじんわりと涙が溢れてきて、枕にしみを作った。泣いたってどうにもならないのに、悔しい、やるせない気持ちを抑えることはできなかった。
不意に、何かを叩くような音がこつこつと響いた。僕が眠っていてもいいように、気遣ってくれたのだろう。ほんとうにささやかな音だったから、すぐにはノックの音だと気がつかなくて反応が遅れた。
一拍遅れて部屋のドアが開く。泣いている顔を見られたくなくて、僕はあわてて頭から毛布をかぶった。
「フレッド?」
ルイスさんの訝しげな声がした。
変に思われただろうか。手にトレイを持っているのが見えたから、水か何かを持ってきてくれたのだ。お礼を言って、大丈夫だと伝えなくてはいけないのに、今はいつも通りの声が出そうになかった。
「嫌な夢でも見ましたか」
ルイスさんは何でもなさそうに、ひとり言のような調子で呟きながらサイドボードにトレイを置いた。ちいさくガラスがぶつかる音がする。
「身体の具合が悪いと、良くないことばかり考えたり、思い出したりしてしまうものですよ。辛かったことや、恥ずかしい失敗が何倍にもなって」
僕はおそるおそる、毛布から顔を出した。
「……ルイスさんも、同じですか」
「えぇ、誰だってそうですよ。これだけは、兄さんが言うより僕が言う方が説得力があるでしょう?」
ルイスさんはそう言って肩をすくめた。
その言葉で、彼は生まれつき心臓が弱かったと聞いたことを思い出した。大きな手術を受けて完治したものの、子供の頃はずいぶん病弱だったと。
心臓が悪いって、どういう感覚なんだろう。苦しかっただろうし、心臓が止まれば死んでしまうのだから何より恐ろしかっただろう。
冷たい石畳の上に横たわる男の姿に、小さなルイスさんの姿が重なった。子供の頃のルイスさんなんて見たこともないはずなのに。
引っ込んだと思った涙がまた滲んできて、僕は目もとを拭った。ルイスさんが驚いたように目を丸くする。
あぁ、これじゃあルイスさんがいつまで経っても立ち去れない。屋敷にいるときは誰よりも忙しい人なのに。
けれど、止めなければと思えば思うほど、涙が溢れて止まらなかった。自分でももう、何が悲しくて泣いているのかよくわからない。
そうしてぐずぐずと泣き続けていると、ルイスさんが僕の手を掴んだ。
「僕が苦しんでいたとき、兄さんがいつもこうしてくれました」
ルイスさんは気恥ずかしそうに目を伏せながら、祈るように僕の両手を握った。
乾いた温かい手だった。
手のひらに硬い感触があるのは、ナイフを握ってできたまめだろう。僕の手のひらにも同じものがあるからすぐに分かった。
目を瞬かせると、新しい涙の粒が転げ落ちた。
「……いつも?」
「えぇ、いつも。僕が具合が悪くなったのを隠そうとしても、兄さんはいつもすぐに気がつくんです。孤児院で他の子供たちに本を読んであげている時も、夜眠っている時も。そして、僕が落ち着くまでずっと手を握っていてくれました」
兄弟のことを語るルイスさんの顔はいつもどこか誇らしげで、それは今この時も例外ではなかった。
彼が一人きりで心細い思いをすることは、ほんとうにただの一度だってなかったのだろう。あの方は、いつでもどんな苦しみにも寄り添ってくれるから。
握り込まれた指先から気持ちがほどけていくようで、僕はゆるゆると息を吐いた。
「神さま、みたいですね」
「……えぇ、そうですね」
「ルイスさんに、ウィリアムさんがいてくれてよかった……」
僕がそう言うと、ルイスさんは少しだけ驚いたような顔をして、それからちいさく笑った。
眼鏡の向こうの瞳が三日月のように細くなって、その目もとがウィリアムさんに似ていると思った。
その発見を伝えればきっとルイスさんは喜ぶと思ったけれど、眠気で頭がぼんやりとして言葉が出てこない。視界がだんだんと狭まってきて、僕の手に重ねられた彼の手だけがよく見えた。
「おやすみ、フレッド」
いつもより低められたルイスさんの声が心地よく鼓膜に響く。熱を持った頭の芯を、ゆっくりと冷やしてくれるようだった。
初出:Pixiv 2022.04.28
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風邪をひいてめそめそしているフレッドの話。
違和感に気付いたのは、いつものストールを首に巻いた時だった。何だか、ざらざらとした不快感がある。
一度、ストールの結び目を解いてみた。
特に汚れていたり、生地が毛羽立ったりしているわけではないのに、いつもと手触りが違う気がした。首の周りがどこか落ち着かない。
今日は巻くのをよそうかとも考えたけれど、数日前からロンドンは急に冷え込んでいた。日のあるうちはいいが、僕の仕事は日が暮れてからが本番だ。ストールがないと、おそらく夜になってから寒い思いをする。
僕は落ち着かない気分を無視して部屋を出た。
「お前、具合悪いのか?」
モランが出し抜けにそういったのは、昼食の席だった。何を言われているのか咄嗟に理解できなくて、僕はモランの顔を見返した。
テーブルについていた皆がぴたりと手を止めて、まじまじと僕の顔を見ている。
隣に座っていたボンドさんが「ちょっとごめんね」と言って、気付いたときには彼の手のひらがぺたりと僕の額に当てられていた。細い指先はひんやりしている。
「あ、ほんとだ。熱あるね」
「え」
「ほら見ろ。あまり食ってねぇと思ったぜ」
「お前さんが珍しい。気温差にやられたか」
「解熱薬ならあるので、すぐに出しますね」
「頼むよ、ルイス。酷くなるようなら医者を呼んでくれ」
ルイスさんが席を立ったのを皮切りに、皆がてきぱきと動き始めた。
食べかけの食事が下げられて、背中にブランケットがかけられる。「オートミールか果物ならすぐに出せるが、まだ食べ足りないか」と師匠が尋ねるので慌てて首を振ると、かわりに薬が出された。
戸惑った僕は、反射的にウィリアムさんへ視線を送った。彼は困ったように眉を下げながら、言った。
「うん、確かにすこし顔色が悪いね。今日はゆっくりお休み、フレッド」
ウィリアムさんにそう言われてしまうとどうすることもできず、僕はあっという間に自室のベッドに押し込められた。
あのモランまでもが「お前の仕事は全部俺らがやってやるから、大人しく寝てろ」と言っていた。そんなに具合が悪そうに見えたのだろうか。
僕は内心首を傾げていたけれど、言われてみれば確かに今日は朝から身体がおかしかった。いつものストールを巻いた首の周りがざらざらと不快で、鉢植えやじょうろがやたらと重たくて、ルイスさんの作った食事がどこか味気なくて……。
それらが全て体調不良に起因していることを、僕はようやく理解した。いったん理解してしまうと倦怠感がどっと襲ってきて、大人しく横になって目を閉じていることにした。
(そう言えば、寝込むほど体調を崩したの、初めてかもしれない……)
子供の頃から、身体は丈夫な方だった。
思い当たる体調不良といえば鼻風邪か、飢えを凌ぐためにちょっとまずいものを食べてしまった時の腹痛くらいなもので、病とは無縁の人生を送ってきた。医者にかかることも難しい、貧しい環境にあったので、そうでなければとっくに死んでしまっていただろう。
身体が重い。
熱が上がってきたのか、ついさっきまで(表面上は)普通に過ごしていられたことが嘘のように思えた。身体中の関節が熱を持って痛んで、起き上がれそうにない。
眠ってしまいたかったけれど、身体の違和感が気になって寝付けなかった。これって、休めば治るものなのだろうか。薬が効くまでどれくらいかかるのだろう。外はまだ明るい時間帯なのに、カーテンを引いた室内は薄暗くてよそよそしい。
ふいに、ウィリアムさんたちに出会う前のことを思い出した。貧民街の片隅で、熱病にかかってうなされている男を見つけた時のことだ。
冷たい地べたに横になってうめき声を上げる様は異様で、死んでしまうのではないかと不安に思って恐る恐る近付いた。けれど声をかける前に、男は充血した目を見開いてこちらを睨みつけた。
小さかった僕はそれで怖気づいてしまって逃げだした。数日経ってから同じ路地に行ってみた時には、男の姿はどこにもなかった。
親切な人が見つけてくれて、病院へ連れて行ってもらえたならいい。元気になって自分の足でどこかへ行ったならもっといい。
だけど、そんな都合のいい奇跡は起きなかっただろう。あの男はきっと助からなかった。
今の僕よりずっと苦しかったはずだ。
夜露もしのげない石畳の上で、毛布もなくて寒かっただろう。一人きりで心細かっただろう。近寄ってきた子供さえ睨みつけずにはいられないほど、追い込まれていたのだ。
どうして逃げてしまったんだろう。あの時の僕に何かできたとも思わないけれど、どうして水の一杯でも運んでやらなかったんだろう。どうしてそばにいてやらなかったんだろう。
取りとめのない後悔が、後から後から押し寄せてきた。
あの男はきっと一人で死んだのだ。彼がどんな人間だったのかこれっぽっちも知らないけれど、あまりにも報われない。
目の奥からじんわりと涙が溢れてきて、枕にしみを作った。泣いたってどうにもならないのに、悔しい、やるせない気持ちを抑えることはできなかった。
不意に、何かを叩くような音がこつこつと響いた。僕が眠っていてもいいように、気遣ってくれたのだろう。ほんとうにささやかな音だったから、すぐにはノックの音だと気がつかなくて反応が遅れた。
一拍遅れて部屋のドアが開く。泣いている顔を見られたくなくて、僕はあわてて頭から毛布をかぶった。
「フレッド?」
ルイスさんの訝しげな声がした。
変に思われただろうか。手にトレイを持っているのが見えたから、水か何かを持ってきてくれたのだ。お礼を言って、大丈夫だと伝えなくてはいけないのに、今はいつも通りの声が出そうになかった。
「嫌な夢でも見ましたか」
ルイスさんは何でもなさそうに、ひとり言のような調子で呟きながらサイドボードにトレイを置いた。ちいさくガラスがぶつかる音がする。
「身体の具合が悪いと、良くないことばかり考えたり、思い出したりしてしまうものですよ。辛かったことや、恥ずかしい失敗が何倍にもなって」
僕はおそるおそる、毛布から顔を出した。
「……ルイスさんも、同じですか」
「えぇ、誰だってそうですよ。これだけは、兄さんが言うより僕が言う方が説得力があるでしょう?」
ルイスさんはそう言って肩をすくめた。
その言葉で、彼は生まれつき心臓が弱かったと聞いたことを思い出した。大きな手術を受けて完治したものの、子供の頃はずいぶん病弱だったと。
心臓が悪いって、どういう感覚なんだろう。苦しかっただろうし、心臓が止まれば死んでしまうのだから何より恐ろしかっただろう。
冷たい石畳の上に横たわる男の姿に、小さなルイスさんの姿が重なった。子供の頃のルイスさんなんて見たこともないはずなのに。
引っ込んだと思った涙がまた滲んできて、僕は目もとを拭った。ルイスさんが驚いたように目を丸くする。
あぁ、これじゃあルイスさんがいつまで経っても立ち去れない。屋敷にいるときは誰よりも忙しい人なのに。
けれど、止めなければと思えば思うほど、涙が溢れて止まらなかった。自分でももう、何が悲しくて泣いているのかよくわからない。
そうしてぐずぐずと泣き続けていると、ルイスさんが僕の手を掴んだ。
「僕が苦しんでいたとき、兄さんがいつもこうしてくれました」
ルイスさんは気恥ずかしそうに目を伏せながら、祈るように僕の両手を握った。
乾いた温かい手だった。
手のひらに硬い感触があるのは、ナイフを握ってできたまめだろう。僕の手のひらにも同じものがあるからすぐに分かった。
目を瞬かせると、新しい涙の粒が転げ落ちた。
「……いつも?」
「えぇ、いつも。僕が具合が悪くなったのを隠そうとしても、兄さんはいつもすぐに気がつくんです。孤児院で他の子供たちに本を読んであげている時も、夜眠っている時も。そして、僕が落ち着くまでずっと手を握っていてくれました」
兄弟のことを語るルイスさんの顔はいつもどこか誇らしげで、それは今この時も例外ではなかった。
彼が一人きりで心細い思いをすることは、ほんとうにただの一度だってなかったのだろう。あの方は、いつでもどんな苦しみにも寄り添ってくれるから。
握り込まれた指先から気持ちがほどけていくようで、僕はゆるゆると息を吐いた。
「神さま、みたいですね」
「……えぇ、そうですね」
「ルイスさんに、ウィリアムさんがいてくれてよかった……」
僕がそう言うと、ルイスさんは少しだけ驚いたような顔をして、それからちいさく笑った。
眼鏡の向こうの瞳が三日月のように細くなって、その目もとがウィリアムさんに似ていると思った。
その発見を伝えればきっとルイスさんは喜ぶと思ったけれど、眠気で頭がぼんやりとして言葉が出てこない。視界がだんだんと狭まってきて、僕の手に重ねられた彼の手だけがよく見えた。
「おやすみ、フレッド」
いつもより低められたルイスさんの声が心地よく鼓膜に響く。熱を持った頭の芯を、ゆっくりと冷やしてくれるようだった。
初出:Pixiv 2022.04.28