No.19

『ルイスさん』
 空き家〜恐怖の谷編あたりのお話。

「誰かいるのですか?」

 ヘルダーは虚空に向かって問いかけた。
 その目線はこちらを向いていない。が、こうして声をかけられてしまっては観念するしかないだろう。だんまりを決め込んでみても、彼は人の気配を察知してしまっているのだから不審がらせるだけだ。
 フレッドは諦めて返事をした。

「……僕です」
「おや、フレッドさんでしたか。あなたに気配を消されてしまうと敵いませんねぇ」

 盲目の技師はカラカラと笑った。

「どうかしましたか? こんな夜中に。どうも私特製の電気冷蔵庫に用があったようですが」
「え、えぇと」
「フフフ、隠さなくてもいいんですよ。冷たい空気がここまで流れてきていますからね。おおかた、お腹でも空いたんでしょう。この匂いは、牛乳ですか?」
「よく分かりますね……」
「夜中でも冷たい牛乳を飲めるなんて素晴らしいでしょう。ルイスさんたちに納得いただけるまで小型化省電力化に心血を注いだ甲斐があったというものです。近頃アメリカ製の電気冷蔵庫も流れてきていますがこのヘルダー製の性能とは天と地の開きがあるのですよ。まず第一に冷やすと言っても……」

 はじまってしまった。
 フレッドは内心で臍を噛んだ。
 この冷蔵庫がヘルダーの自信作であることはよく知っている。三年前に電気冷蔵庫を開発したヘルダーは、主人に褒めてもらいたくて仕方のない大型犬のごとく真っ先にウィリアムにそれを売り込んだ。弟思いのウィリアムはこれがあればルイスの抱える台所仕事が楽になるだろうと考え、食べ物を腐らせず保存できるという点でアルバートも大いに興味を示していた。しかし肝心のルイスに「こんなに大きくて電気を消費するものを屋敷に置いておける訳がないでしょう」と一蹴され、導入は見送られたのだった。
 それから足かけ三年、それは様々な苦労があったのだろう。機械いじりに関して知識のないフレッドにも推察できることだ。しかし今はその苦労話を聞いていられる時ではない。
 話の切れ目を捉えきれずフレッドがじりじりしていると、台所の入り口にルイスが顔を覗かせた。

「明かりもつけないで何をしている?」
「あぁルイスさん! 今ちょうどフレッドさんにこの電気冷蔵庫をルイスさんに認めていただくまでのお話をですね……」
「ヘルダー、マネーペニーが探していたぞ」
「あ、そうでしたそうでした! フレッドさん、申し訳ありませんが続きはまた今度で」
「はぁ……」

 ヘルダーが慌ただしく去っていって、沈黙が降りる。ルイスは腕を組みながらフレッドの方へ向き直った。

「それで……フレッド、君は何を?」
「……」

 ヘルダーは流石に気付いていなかったが、フレッドが牛乳を注いでいたのはグラスでもマグカップでもない。平たい陶器の器だった。もっと言うと、その器はここの棚にしまわれている食器でさえない。ただの植木鉢用の受け皿であることは、ルイスならすぐにわかるだろう。
 フレッドは諦めてすべてを白状した。


 その猫は、クッションの上に寝かせられていた。
 見覚えのある水色のストールに身体を包ませて、ぜぇ、ぜぇ、と苦しげな息を漏らしていた。部屋にルイスが入ってきたのを見て慌てて身体を起こそうとしたのを、フレッドが宥めた。

「貧民街でいつも餌をやってる野良猫がいて……そのうちの一匹です。具合が悪いみたいで、今夜は雨も降ってきたので、その……」

 フレッドがしどろもどろに経緯を説明していると、猫がぷし、と小さなくしゃみをした。ルイスは猫を驚かせないように注意しながらそっと床に膝をついて、珍しそうに呟いた。

「猫も風邪を引くんだな」
「はい……あの、絶対にこの部屋からは出しませんので……」
「別に追い出したりはしないよ。でも、君が仕事の間はどうするんだ? 放っておくわけにもいかないだろう」
「それは……」

 フレッドが答える前に、猫が鼻の詰まった声でニィニィと鳴いて彼のズボンを引っかいたので、話はそこで一旦途切れた。器を口元に持っていってやると、猫は嬉しそうに牛乳を舐めた。背中を撫でるフレッドの手に、安心して身を任せている。

「食欲はあるみたいだな」
「ええ」
「名前は何ていうんだ?」
「…………」
「つけていないのか」
「…………ルイスさん」
「何だ?」
「ルイスさん……と、呼んでいます」
「この猫を?」
「あの、名前というか、あだ名というか……その子も頬のところに傷があって、ルイスさんと同じだなって思ったから、僕が勝手に、そう呼んでいて……」

 毛に埋もれて分かりづらいが、この猫は右目の下辺りに小さな古傷があった。おそらく、他の猫と喧嘩をして引っかかれたか何かしたのだろう。白に濃灰色のぶち模様や青みがかったアーモンド型の瞳はルイスとは似ても似つかない。しかしこの猫の右頬に小さな傷跡を見つけたとき、フレッドは確かに彼のことを連想したのだった。
 それからこの『ルイスさん』はフレッドの中で少しだけ特別な猫になった。今夜だって、いつもの路地裏でぐったりと横たわっている彼を放っておけなくて、ジャケットの中に隠してこっそりと屋敷に連れ込んたのだ。
 とはいえ、フレッドは口に出したことを後悔した。いくらルイスが火傷痕のことを気にしていないとはいえ、さすがに失礼だったと思えてきた。
 フレッドは恐る恐る、ルイスの顔色をうかがった。

「そうか、そんな名前を……」

 ルイスは笑っていた。
 ゆるく握った拳が口元に添えられていて、その下から覗いているのは確かにちいさく弧を描いた唇だった。その隙間からふふ、と呼気が漏れた。
 ルイスが気を悪くしていない事にいくらか安堵しつつ、けれどこの反応は怒られるよりもよっぽどいたたまれなかった。ルイスの顔を見ていられなくなって、フレッドは『ルイスさん』の背を撫でるのに集中するふりをした。当の猫は我関せずといった顔で、口の周りを白く汚しながら牛乳を舐めている。あとで拭いてあげなくては。

「さっきの話だけど、この子の世話は兄さんたちにお願いしようか」
「えっ」

 フレッドは耳を疑った。ルイスの言う「兄さんたち」といえば、ウィリアムとアルバートしかいない。

「……いいんでしょうか?」
「お二人とも動物はお嫌いではないから大丈夫だ。何かしていないと落ち着かないと漏らしていらっしゃったが、公的な仕事に参加するにはまだ時間がかかるし、かと言って屋敷の雑用をしていただくのも心苦しい。この子の看病ならうってつけだ。明日さっそくお願いしてみよう」
「それはありがたい、のですが……」
「どうかしたか?」
「いえ……、『ルイスさん』なんて名前をつけてしまうと、ウィリアムさんもアルバート様も愛着が湧いてしまって手放せなくなるのでは、と……」
「まさか。二人とももういい大人なんだから」
「…………」

 ルイスは笑って取り合わなかったが、フレッドのこの予感は的中する。一週間後、回復したルイス(猫)を里親のもとに引き渡すにあたって、ウィリアムとアルバートから非常な抵抗があったが、それはまた別の話。


(アルバート兄さん、ウィリアム兄さん。そろそろその子を離してください)
(考え直そう、ルイス。ルイスはとても賢くていい子だよ。この数日間粗相もしなかったし、Mr.チャールズ・ディケンズに対してもとても紳士的だった)
(賢かろうと紳士的だろうと、先方とは既に話がついているんです。ご心配なさらなくとも、熱心な愛猫家であることは確認済みです)
(フレッドの調査結果を疑ってるわけじゃないよ。でももうルイスはうちの子じゃないか。今さら他所の家に連れて行くなんて可哀想だよ)
(ミャア)
(ほら、ルイスも僕らと離れたくないって言ってる)
(言ってません。いいから早く離してください。モリアーティ家のルイスは僕だけなんですからね)
(うぅ………)

初出:Pixiv 2022.04.11

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