No.17

フレッドと猫に関するお話

彼の横顔
 醜聞編の少し後のお話。


「やぁ、フレッドくん。これから仕事かい?」
「あ、いえ……」

 屋敷の廊下で行きあったフレッドくんに片手をあげながら尋ねると、彼は言葉少なに答えた。 
 モリアーティ家に厄介になることはや数カ月。仕事は問題なくこなせているし、銀行強盗事件から皆ともだいぶ打ち解けられた自覚はある。
 フレッドくんのことも、短い受け答えや日々の仕事ぶりから信頼できるいい子だというのはよく分かる。分かるのだけれど、逆に言えばそれ以上のことはまだよく分からなかった。
 思い返せば、僕はこれまでああいう朴訥とした年下の男の子と親しく関わった経験があまりなかったかもしれない。
 さっきの質問にしても仕事なら仕事だとはっきり答えるはずだし、モランくんのように派手に遊び歩くタイプにも見えなかった。友達か、もしかすると女の子と約束でもあるのだろうか。
 その背中を見送りながら何となしに考えこんでいると、ウィルくんがにこにこしながら近寄ってきた。

「気になるかい、ボンド?」
「ウィルくん」
「こっそりついていってごらん。面白いものが見られると思うよ」
「え、いいのかな。君にそう言われると、俄然興味がわいてきちゃったよ」
「フフ、普段着ない服に着替えていくといいよ」
「尾行がバレないように、変装するってこと? OK、わかったよ」

 僕は一度部屋に戻ると、手早く着替えを済ませて尾行を開始した。
 こんな簡単な変装でモリアーティ家の密偵を欺けるとも思っていなかったが、彼は周囲を気にする素振りもなく進んでいく。やはり仕事ではなく個人的な用事のようだ。
 やがて一軒のパン屋に着くと、彼は裏に回り込んで戸を叩いた。もしやここの看板娘と、と淡い期待を抱いてはみたものの、出てきたのは髪の白くなり始めた店主だった。おそらくはパンが詰まっているであろう紙袋を店主から受け取って、フレッドくんはお金を支払っているらしい。
 うーん、パンを抱えて女の子に逢いに行くとも思えないし、これはもうロマンスは期待できそうにない。でも単なるおつかいというわけでもなさそうだし、ウィルくんを信じて調査続行。
 パン屋を後にしたフレッドくんは、大きな通りを外れてどんどん人気のない路地へ入っていく。好奇心と少しの後ろめたさが入りまじって、僕はどこか浮足立った気持ちで尾行を続けた。
 やがて角を曲がった先で不意にフレッドくんが立ち止まったので、僕は慌てて足を止めた。
 塀の影からそっと顔を覗かせると、彼の足元に小さな影がまとわりついている。ミィミィと声を上げているあの生き物は……。

「おや、かわいい」

 僕が声を掛けても、フレッドくんは驚きもしなかった。

「やっぱり付いてきてたんですか、ボンドさん」
「あはは、バレてたか」
「……」
「ごめんって。何の用事か気になってさ。だけど、まさかこんなかわいい子たちとデートだなんて予想もしてなかったよ」

 フレッドくんは特に何も答えなかったけれど気分を害した様子もなく、猫をなでている。このあたりの野良猫たちだろう。大きい子が二匹と、まだ小さい子が一匹。
 家族かなぁ、かわいい。
 フレッドくんによく懐いているようで、野性を忘れてお腹を見せてる子もいた。
 いちばん小さな白猫が僕の方にまで寄ってきて、何かくれるのかと期待に満ちた眼差しでこちらを見上げてくる。顎の下をくすぐってやると、ぐるぐると喉を鳴らして身体を擦り寄せてきた。
 かわいい。けど、これいつものスーツで来てたら毛だらけになってたな……。確かに着替えてきて正解だった。ウィルくん、ありがとう。

「ほら、ごはんだよ」

 フレッドくんがガサガサと音を立てて、抱えていた紙袋の中を探った。猫たちから期待に満ちた鳴き声が上がる。取り出したパンをフレッドくんが細かくちぎって投げてやると、猫たちは一斉に飛びついた。

「うわ、すごい勢い。いつもあげてるの?」
「はい」

 と、その時ミャオウ、と鋭い鳴き声が上がった。
 大きい二匹のうちのどちらかが、仲間のパンを横取りしようとしたのだろう。互いに毛を逆立てて睨みあっている。
 白猫が驚いて身を固くしたのがわかった。

「こら、喧嘩しちゃダメだよ」

 フレッドくんは慣れた手つきで、先に飛びかかろうとしていた猫の首根っこをおさえた。

「仲良くしないともうあげないよ。ほら、爪を引っ込めて」
「ニィ」
「そうそう、いい子だね」

 あ、フレッドくん、猫相手の方がよく喋るんだ。
 普段無口かつ無表情なフレッドくんの口元には僅かながら柔らかい笑みが浮かんでいる。僕は猫を撫でるふりをしつつ彼の横顔を盗み見て、軽い感動を覚えた。
 でもわざわざ指摘したりしたら多分もう二度とこんな顔は見せてくれなくなる。僕はわき上がるいたずら心をぐっと堪えた。
 喧嘩が収まり、猫たちがまたパンを食べ始めたのを見届けてからフレッドくんは立ち上がった。

「おや、もう行くの?」
「はい。他の猫たちのところにも行かないと」
「他にも待ってる子達がいるんだ。やるねぇ」
「今日はあと十か所回ります」
「えっ」

 僕は耳を疑った。

「一応聞くけど、猫に餌をやりに?」
「一か所にあまりたくさん集めるとさっきみたいな喧嘩があちこちではじまって収集がつかなくなりますし、近くの住民に迷惑なので……。猫捕りが来ても困りますし」

 それは確かにそうだろう。
 一匹一匹は可愛くとも、それが何十匹と集まればかわいいを通り越して圧がすごい。野良猫はお世辞にも清潔とは言い難いし、あまり数が増えれば駆除しようと考える者が出ても不思議ではない。不思議ではないのだが……。

「来ますか?」
「いや、遠慮しとこうかな……」
「そうですか。では」

 そう言って頭を下げると、フレッドくんは猫たちがパンに夢中になっている隙に足早に去っていった。
 野良猫の縄張りってどれ位の間隔なんだろう。朝までにすべて回り切ることができるのだろうかと考えて、僕はちょっと途方に暮れた。
 餌代にしたって、顔なじみに売り物にならないパンを安く譲ってもらっているにしても、毎日のこととなると馬鹿にならない金額だろう。
 ただ「猫が可愛くて好きだから」では到底つとまらない大仕事だ。あの家の人達が口を揃えてフレッドくんのことを「優しい」と評する理由を改めて理解した気がする。

「……大したもんだねぇ、あの子も」

 口の周りをパンくずだらけにした猫は、ミャオ、と他人事のような顔で鳴いた。

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