No.14
chapter 5:廃屋の子供たち
工房を出て、モランとウィリアムは次にフレッドが書き残したイーストエンドの住所に向かった。
日暮れまではまだ時間があったが、貧民街の往来は狭く、崩れた土壁や割れた煉瓦がそこかしこに放置されて見通しが悪い。
薄暗い物陰に痩せた野良犬が寝そべっていた。もう動く気力もないのか、それとも単に大人しいたちなのか、モランたちが横を通りかかる時パタリと片耳を上げただけだった。
ここは空気が澱んでいる。貧民街で燻っていた時のことが思い出されて、モランは眉を顰めた。通りにたむろする貧しい身なりの子供たちの中に、フレッドの姿はない。
「この辺りは土地勘があるんだ。あの子とは何かと縁があるみたいだ」
そんなモランの機微を知ってか知らずか、前を行くウィリアムはどこか楽しげにそう言った。
仕立てのいいスーツに身を包んだ普段のウィリアムならともかく、今日の彼の出で立ちは物乞いまでとは行かずとも、せいぜい店屋の見習いか新聞売りの少年といったところだろう。
ルイスとともに貧民街で生まれ育ったという過去も、すでに聞かされていた。それでも、理知的な光を宿す瞳とどこか少女めいた面立ちはこの寂れた街とは不釣り合いだった。
ウィリアムの案内もあって、目的の建物はすぐに見つかった。裏ぶれた通りからさらに奥まった場所にある、半木造の二階建て民家だった。
外壁には番地を記した真鍮のプレートが打ち付けられている。フレッドの識字能力がどれほどのものかは定かでなかったが、少なくともこのプレートが住所を示すものであることを理解した上で文字列を丸暗記していたのだろう。
壁はひび割れ、屋根瓦がところどころ剥がれていてひどく雨漏りするであろうことが外から見てもわかる。中の状態も推して知るべし、だ。
雨風に曝され痛んだ扉にドアノッカーが辛うじてくっついてはいたが、錆びついて動かなかった。仕方なく、モランは拳で直接戸板を叩いた。
しばらく待ってみたが、返事はない。痺れを切らしてドアノブに手を掛けると、鍵が壊れていたようで扉はあっさりと開いた。
が、すぐに内側から押し返される。
「入ってこないで!」
若い女の声がキンキンと響いた。
室内から様子を伺っていたのだろう。僅かに開いた隙間から、燃えるように赤い髪が覗いた。年の頃はまだ十四、五歳といったところだが、ひょろりと背の高い娘だった。
扉越しにモランと目があって、彼女は「ひっ」と息を呑んだ。彼女からすると、目つきの悪い大男が家に押し入ろうとしているわけだから、真っ当な反応だ。モランは閉め出されないように戸板を抑えながら、心の中で彼女に侘びた。
そこにすかさずウィリアムが割り込んだ。
「こんにちは。突然お邪魔してしまってごめんなさい。僕たち、フレッドを探して……」
「ここにフレッドなんていない!」
にこやかに話しかけるウィリアムに、少女は噛みつくように声を上げた。
「彼にここの住所を教えられたのですが」
「だから……」
「彼に口止めされているのですね」
断定的な口調に、少女が驚いたように目を見開いた。扉を閉めようとする手から力が抜けたのを見て、モランは主人が挟まれない程度の隙間を確保した。
ウィリアムは一気に畳みかける。
「昨日の夜、ここにいる彼が、暴漢に襲われているフレッドを保護しました。怪我をしている上に熱まで出していたので我が家で看病していたのですが、突然部屋からいなくなってしまって、ここまで探しに来たのです。僕らは、彼が何らかの『犯罪』に巻き込まれているのではないかと考えています」
「え……っ」
あえてストレートな言葉を選んだことで、少女はあきらかに動揺を見せた。フレッドのことを知っていると見て間違いないだろう。
ウィリアムはドアの隙間にするりと肩を入れて、廃屋に半歩踏み込んだ。少女は僅かに身体を反らせて彼を避けたが、もう無理にドアを閉めたりはしなかった。
「……フレディ、メイナード探しに行った」
不意に、足元から小さな声がした。
見ると、少女のスカートの影から、モランの膝ほどまでしかない背丈の子供が顔を覗かせている。
フレディ、というのは彼の愛称でいいだろうか。メイナードというのもアルバートからの報告にあった名前だった。
子供はそれだけ言うと、顔を引っ込めてしまった。赤髪の少女がため息をつき、観念したように口を開いた。
「……今の話、本当なの?」
「ええ、僕らも心配で探しに来たのです」
彼女はしばし考え込んだ後、二人を中へ招き入れた。
モランとウィリアムは、短い廊下を右に折れた先にある居間に通された。前を行く少女とウィリアムは平気な顔をしてすたすたと歩いていくが、モランは腐りかけた床板を踏み抜かないよう慎重に歩かねばならなかった。どこからか染み込んだ雨水で壁紙は見る影もなく変色し、饐えた匂いがする。
室内には他にも薄汚れた格好の子供たちがいた。同じくこの空き家に入り込んでいる宿無し子なのだろう。彼らは突然の闖入者に敵意と不安が入りまじったような顔をしていた。
みな十歳になるかならないかといった具合で、どうやらこの赤毛の少女がいちばん年かさらしい。彼女はスカートにまとわりついていた子供を他の仲間に任せて、部屋から追い払った。
室内にはモランとウィリアム、そして少女の三人だけとなった。彼女は「ヒルダ」と名乗った。
ダイニングテーブルの周りには、大小様々な椅子が七つ八つ並べられている。部屋の隅にはカビの生えたマットレスが床に直接敷かれていた。おそらくここで寝起きする者もいるのだろう。
ヒルダはモランたちを座らせてから、こう切り出した。
「フレディ……フレッドは、今はいない。昨日の朝に帰ってきたっきり」
「メイナードさんというのは?」
「……私達と同じ。ここをねじろにしてる孤児よ。北のはずれに廃工場があって、一昨日あの子は、メイナードと一緒にそこに出かけていった」
「廃工場に……廃材集めですか?」
ウィリアムがすぐにそれを思いついたのが意外だったのか、ヒルダは驚いたような顔をしながら頷いた。
「え、ええ。使えそうな釘とか鉄くずを持っていけば、鍛冶屋がお金に替えてくれるから」
「なるほど」
「でも、二人とも夜になっても帰ってこなかった。明け方になってようやくフレッドだけが帰ってきて、『メイナードは?』って聞くの。まだ帰ってないって答えたら、またすぐに出て行っちゃって……」
「その時、誰かが自分たちを尋ねてきても応じないようにと、フレッドが言ったんですね」
少女は不安そうにうなずいた。
モランがまさにその不審者と誤解されていたというわけだ。
「工場で何かあったのかな。探しに行こうと思ったけど、ちびたちを置いてもいけないし、何かあっても私じゃ……。あなたさっき、フレッドが犯罪に巻き込まれてるかもって言ったよね。あれはどういう意味?」
今度はこちらが尋ねる番、とでも言うように、ヒルダは質問を投げた。一旦落ち着いてしまえば、なかなかしっかりした娘のようだった。
ウィリアムは「そうですね……」と考え込むようなそぶりを見せたが、ここまで来ればモランにももうおおよその見当はついていた。
フレッドは二日前、メイナードとともに廃材を拾いに廃工場へ向かった。そこでおそらく、秘密裏に贋金の鋳造が行われていたのだろう。二人は運悪くその現場を目撃してしまった。……もしくは、そうと知らずに銀貨を盗んでしまった。
もし銀貨が本物であれば、たった一枚でもここにいる孤児たち全員が当分の間食べていけるだろう。廃材を拾って得られる小銭など比較にならない。
人気のない廃墟の一室、テーブルの上に銀貨がざらりと積まれていたら、飢えた孤児が誘惑に負けて手を伸ばしてしまうのも無理からぬ話だ。
そして贋金を造っていた者たちに見つかって、追われ、フレッドだけが何とか逃げ延びた。おそらくあの腕の傷は、逃げる際に鉄条網か何かに引っ掛けてしまったんだろう。
彼はどこかに身を隠して一夜をやり過ごした後このねぐらに戻ったものの、まだメイナードが帰っていないと知って再び廃工場に向かった。友人を救い出すために侵入を試みたが、逆に追い回される羽目になる。一日中逃げ回って力尽きかけたところに、偶々モランが居合わせた、といったところか。
ウィリアムとモランの間にしばしの沈黙が流れる。それを見て、彼女は何か心当たりがあるに違いないと確信を強めたようだった。
「ねぇ、お願い。知ってる事を教えて。二人を助けられるなら、私なんだってするから」
ヒルダは頬を紅潮させながら立ち上がって、テーブルの上に身を乗り出した。が、途端にバランスを崩してよろけた。「あっ」と短い悲鳴が上がって、彼女の身体に押されてテーブルがガタリと音を立てた。
彼女の左腕は、肘から下が欠損していた。
薄汚れたブラウスの袖は、空っぽのままテーブルの上でくしゃりと丸まっている。ウィリアムが痛ましそうに眉をしかめた。
ついテーブルに両手をつこうとして、失敗したのだろう。その一連の動作には、モランも覚えがあった。体の一部を失ったことを頭では理解していても、生まれてからずっと当たり前だった感覚は、そう簡単に抜けるものではない。
ヒルダはきまり悪そうに顔を伏せた。
「フレディはね、行くあてもなかった私をここの仲間に入れてくれたの。あんな優しい子、他に知らない……」
モランとて右手を失ってはいたが、元軍人である自分と生活のあてもない子供とでは、その意味合いはまるで異なる。ここに至るまで相当な苦労があり、そしてこれからも待ち受けているのだろう。
「分かりました、ヒルダ。僕らに任せてください」
ウィリアムの柔らかな声が響いた。隣を見やると、彼はすっかりいつもの『相談役』の顔をしていた。
困っている人間を絶対に見捨てない。
それはモランの主たる彼の、最も尊ぶべき性質だった。本音を言えば、どんな小さな困り事にも耳を貸さずにはいられないその性分には、感心を通り越して呆れる思いすらある。
しかし今この時は、その横顔がこの上なく頼もしく感じられた。
「フレッドとメイナードは必ず助けます。その代わり、君にも手伝ってほしいことがあるのだけれど」
ウィリアムの言葉に、ヒルダは迷わず頷いた。
※※※※
廃屋を出ると、徐々に日が傾きつつあった。もともと日当たりの悪い路地はすでに薄暗い。
モランは思い切って、彼に問うた。
「……なぁ、ウィリアム。お前本当は気付いてたんじゃないか? 今朝、フレッドが部屋を抜け出して三階にいた理由」
「どういう意味?」
言わんとするところをわかっているのかいないのか、ウィリアムはこてりと首を傾げてみせた。モランは言葉を選びながら、「お前が気付かない筈がないって意味だ」と切り出した。
「フレッドは昨日の夜、ほとんど気絶した状態で屋敷に連れてこられた。屋敷がロンドンのどの辺りにあるのか、あいつにはわからなかった。そして、一階のゲストルームの窓からは塀に囲まれた庭しか見えない。だからあいつは、俺たちの目を盗んで三階に上がった。テムズ川なり特徴的な教会の尖塔なりが見えればおおよその現在地がつかめるからだ。煙突掃除屋として屋根の上に上がる機会が多かったなら尚更だ。
つまりあいつは、今朝の時点ですでに一人で屋敷を抜け出す算段を立ててたって事だ。お前はあの時『探検がしたかったんだろう』なんて言ってたが、本当は……あ〜っ、いや、違う!」
モランは頭をガシガシと掻いた。
「悪い。そういう事が言いたいんじゃないんだ。フレッドが一人で無茶しようとしてるのをお前がわざと見逃したとか、そういう事じゃなくてだな……」
「うん、モラン。わかってるよ」
「俺が馬鹿だったってだけだ。あいつは俺にこの銀貨を渡そうとした。二回もだ。それなのに俺は二回とも、あいつの話をろくに聞こうとしなかった」
助けられた礼のつもりで、有り金を差し出しているのだと思い込んでいた。
けれど違った。フレッドは助けを求めていた。
贋金づくりは重罪だ。単に店屋を騙して損をさせるだけでは済まない。貨幣の価値が揺らげば、回り回って国の経済が大混乱に陥る危険もある。
それをフレッドがどこまで理解しているかは分からない。ともかく贋金づくりの一味は、逮捕されればただでは済まないだろう。つまり、犯罪を隠し通すためにはたとえ相手が子供であろうと容赦するはずがない。
フレッドは、彼らが巻き込まれた重大犯罪の証拠品を提示して、友人の危機を伝えようとしていた。しかしモランはその意図を汲み取ることができなかった。
結果として、彼はモランたちに助けを求めることを諦め、ひとりで戦おうとしている。彼はメイナードを諦めてはいない。ヒルダに口止めして出ていったきりねじろに戻っていない事が、何よりの証拠だった。
「まだ間に合うよ、モラン。フレッドが仕掛けるとすれば日が落ちてからだ。数でも力でも劣る以上、闇に乗じて忍び込むしかない」
「それにしたって無謀すぎる」
「そうだね。彼の体調が万全だったとしても難しいだろう」
「……メイナードは、まだ無事だと思うか」
「犯人たちは秘密を知ってしまった子供たちを二人まとめて始末する必要がある。メイナードを生かしておけば、フレッドの居場所を吐かせることも、誘い出すための餌にすることもできる。フレッドが捕まらないうちから彼を殺す理由は無いよ」
連中がそこまで利口だったらいいんだが。
そう思わずにはいられなかったが、あえて口には出さなかった。理屈としてはウィリアムの言う通りであるが、この国ではみなし子の命の重さなど知れている。
モランは、フレッドがこの機械式の義手を見て、「どうやって付けたのか」と問うてきた事を思い出した。物珍しさからくる興味本位の質問だとばかり思っていたが、彼はヒルダにも同じものをつけてやりたいと考えていたのではないだろうか。
あのフレッドという少年は、どうしようもなく優しいやつなのだ。
自分たちだけで食いつなぐことすらやっとだろうに、身体的なハンデを負ったヒルダや同じような境遇の子供たちを放っておけなかったほどに。わざわざモリアーティ家に書き置きを残していったのだって、あわよくば彼らを助けてもらえたら、という思いがあったのではないだろうか。
彼も、彼の友人も、銀貨一枚盗んだ罪で殺されていいはずがなかった。
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工房を出て、モランとウィリアムは次にフレッドが書き残したイーストエンドの住所に向かった。
日暮れまではまだ時間があったが、貧民街の往来は狭く、崩れた土壁や割れた煉瓦がそこかしこに放置されて見通しが悪い。
薄暗い物陰に痩せた野良犬が寝そべっていた。もう動く気力もないのか、それとも単に大人しいたちなのか、モランたちが横を通りかかる時パタリと片耳を上げただけだった。
ここは空気が澱んでいる。貧民街で燻っていた時のことが思い出されて、モランは眉を顰めた。通りにたむろする貧しい身なりの子供たちの中に、フレッドの姿はない。
「この辺りは土地勘があるんだ。あの子とは何かと縁があるみたいだ」
そんなモランの機微を知ってか知らずか、前を行くウィリアムはどこか楽しげにそう言った。
仕立てのいいスーツに身を包んだ普段のウィリアムならともかく、今日の彼の出で立ちは物乞いまでとは行かずとも、せいぜい店屋の見習いか新聞売りの少年といったところだろう。
ルイスとともに貧民街で生まれ育ったという過去も、すでに聞かされていた。それでも、理知的な光を宿す瞳とどこか少女めいた面立ちはこの寂れた街とは不釣り合いだった。
ウィリアムの案内もあって、目的の建物はすぐに見つかった。裏ぶれた通りからさらに奥まった場所にある、半木造の二階建て民家だった。
外壁には番地を記した真鍮のプレートが打ち付けられている。フレッドの識字能力がどれほどのものかは定かでなかったが、少なくともこのプレートが住所を示すものであることを理解した上で文字列を丸暗記していたのだろう。
壁はひび割れ、屋根瓦がところどころ剥がれていてひどく雨漏りするであろうことが外から見てもわかる。中の状態も推して知るべし、だ。
雨風に曝され痛んだ扉にドアノッカーが辛うじてくっついてはいたが、錆びついて動かなかった。仕方なく、モランは拳で直接戸板を叩いた。
しばらく待ってみたが、返事はない。痺れを切らしてドアノブに手を掛けると、鍵が壊れていたようで扉はあっさりと開いた。
が、すぐに内側から押し返される。
「入ってこないで!」
若い女の声がキンキンと響いた。
室内から様子を伺っていたのだろう。僅かに開いた隙間から、燃えるように赤い髪が覗いた。年の頃はまだ十四、五歳といったところだが、ひょろりと背の高い娘だった。
扉越しにモランと目があって、彼女は「ひっ」と息を呑んだ。彼女からすると、目つきの悪い大男が家に押し入ろうとしているわけだから、真っ当な反応だ。モランは閉め出されないように戸板を抑えながら、心の中で彼女に侘びた。
そこにすかさずウィリアムが割り込んだ。
「こんにちは。突然お邪魔してしまってごめんなさい。僕たち、フレッドを探して……」
「ここにフレッドなんていない!」
にこやかに話しかけるウィリアムに、少女は噛みつくように声を上げた。
「彼にここの住所を教えられたのですが」
「だから……」
「彼に口止めされているのですね」
断定的な口調に、少女が驚いたように目を見開いた。扉を閉めようとする手から力が抜けたのを見て、モランは主人が挟まれない程度の隙間を確保した。
ウィリアムは一気に畳みかける。
「昨日の夜、ここにいる彼が、暴漢に襲われているフレッドを保護しました。怪我をしている上に熱まで出していたので我が家で看病していたのですが、突然部屋からいなくなってしまって、ここまで探しに来たのです。僕らは、彼が何らかの『犯罪』に巻き込まれているのではないかと考えています」
「え……っ」
あえてストレートな言葉を選んだことで、少女はあきらかに動揺を見せた。フレッドのことを知っていると見て間違いないだろう。
ウィリアムはドアの隙間にするりと肩を入れて、廃屋に半歩踏み込んだ。少女は僅かに身体を反らせて彼を避けたが、もう無理にドアを閉めたりはしなかった。
「……フレディ、メイナード探しに行った」
不意に、足元から小さな声がした。
見ると、少女のスカートの影から、モランの膝ほどまでしかない背丈の子供が顔を覗かせている。
フレディ、というのは彼の愛称でいいだろうか。メイナードというのもアルバートからの報告にあった名前だった。
子供はそれだけ言うと、顔を引っ込めてしまった。赤髪の少女がため息をつき、観念したように口を開いた。
「……今の話、本当なの?」
「ええ、僕らも心配で探しに来たのです」
彼女はしばし考え込んだ後、二人を中へ招き入れた。
モランとウィリアムは、短い廊下を右に折れた先にある居間に通された。前を行く少女とウィリアムは平気な顔をしてすたすたと歩いていくが、モランは腐りかけた床板を踏み抜かないよう慎重に歩かねばならなかった。どこからか染み込んだ雨水で壁紙は見る影もなく変色し、饐えた匂いがする。
室内には他にも薄汚れた格好の子供たちがいた。同じくこの空き家に入り込んでいる宿無し子なのだろう。彼らは突然の闖入者に敵意と不安が入りまじったような顔をしていた。
みな十歳になるかならないかといった具合で、どうやらこの赤毛の少女がいちばん年かさらしい。彼女はスカートにまとわりついていた子供を他の仲間に任せて、部屋から追い払った。
室内にはモランとウィリアム、そして少女の三人だけとなった。彼女は「ヒルダ」と名乗った。
ダイニングテーブルの周りには、大小様々な椅子が七つ八つ並べられている。部屋の隅にはカビの生えたマットレスが床に直接敷かれていた。おそらくここで寝起きする者もいるのだろう。
ヒルダはモランたちを座らせてから、こう切り出した。
「フレディ……フレッドは、今はいない。昨日の朝に帰ってきたっきり」
「メイナードさんというのは?」
「……私達と同じ。ここをねじろにしてる孤児よ。北のはずれに廃工場があって、一昨日あの子は、メイナードと一緒にそこに出かけていった」
「廃工場に……廃材集めですか?」
ウィリアムがすぐにそれを思いついたのが意外だったのか、ヒルダは驚いたような顔をしながら頷いた。
「え、ええ。使えそうな釘とか鉄くずを持っていけば、鍛冶屋がお金に替えてくれるから」
「なるほど」
「でも、二人とも夜になっても帰ってこなかった。明け方になってようやくフレッドだけが帰ってきて、『メイナードは?』って聞くの。まだ帰ってないって答えたら、またすぐに出て行っちゃって……」
「その時、誰かが自分たちを尋ねてきても応じないようにと、フレッドが言ったんですね」
少女は不安そうにうなずいた。
モランがまさにその不審者と誤解されていたというわけだ。
「工場で何かあったのかな。探しに行こうと思ったけど、ちびたちを置いてもいけないし、何かあっても私じゃ……。あなたさっき、フレッドが犯罪に巻き込まれてるかもって言ったよね。あれはどういう意味?」
今度はこちらが尋ねる番、とでも言うように、ヒルダは質問を投げた。一旦落ち着いてしまえば、なかなかしっかりした娘のようだった。
ウィリアムは「そうですね……」と考え込むようなそぶりを見せたが、ここまで来ればモランにももうおおよその見当はついていた。
フレッドは二日前、メイナードとともに廃材を拾いに廃工場へ向かった。そこでおそらく、秘密裏に贋金の鋳造が行われていたのだろう。二人は運悪くその現場を目撃してしまった。……もしくは、そうと知らずに銀貨を盗んでしまった。
もし銀貨が本物であれば、たった一枚でもここにいる孤児たち全員が当分の間食べていけるだろう。廃材を拾って得られる小銭など比較にならない。
人気のない廃墟の一室、テーブルの上に銀貨がざらりと積まれていたら、飢えた孤児が誘惑に負けて手を伸ばしてしまうのも無理からぬ話だ。
そして贋金を造っていた者たちに見つかって、追われ、フレッドだけが何とか逃げ延びた。おそらくあの腕の傷は、逃げる際に鉄条網か何かに引っ掛けてしまったんだろう。
彼はどこかに身を隠して一夜をやり過ごした後このねぐらに戻ったものの、まだメイナードが帰っていないと知って再び廃工場に向かった。友人を救い出すために侵入を試みたが、逆に追い回される羽目になる。一日中逃げ回って力尽きかけたところに、偶々モランが居合わせた、といったところか。
ウィリアムとモランの間にしばしの沈黙が流れる。それを見て、彼女は何か心当たりがあるに違いないと確信を強めたようだった。
「ねぇ、お願い。知ってる事を教えて。二人を助けられるなら、私なんだってするから」
ヒルダは頬を紅潮させながら立ち上がって、テーブルの上に身を乗り出した。が、途端にバランスを崩してよろけた。「あっ」と短い悲鳴が上がって、彼女の身体に押されてテーブルがガタリと音を立てた。
彼女の左腕は、肘から下が欠損していた。
薄汚れたブラウスの袖は、空っぽのままテーブルの上でくしゃりと丸まっている。ウィリアムが痛ましそうに眉をしかめた。
ついテーブルに両手をつこうとして、失敗したのだろう。その一連の動作には、モランも覚えがあった。体の一部を失ったことを頭では理解していても、生まれてからずっと当たり前だった感覚は、そう簡単に抜けるものではない。
ヒルダはきまり悪そうに顔を伏せた。
「フレディはね、行くあてもなかった私をここの仲間に入れてくれたの。あんな優しい子、他に知らない……」
モランとて右手を失ってはいたが、元軍人である自分と生活のあてもない子供とでは、その意味合いはまるで異なる。ここに至るまで相当な苦労があり、そしてこれからも待ち受けているのだろう。
「分かりました、ヒルダ。僕らに任せてください」
ウィリアムの柔らかな声が響いた。隣を見やると、彼はすっかりいつもの『相談役』の顔をしていた。
困っている人間を絶対に見捨てない。
それはモランの主たる彼の、最も尊ぶべき性質だった。本音を言えば、どんな小さな困り事にも耳を貸さずにはいられないその性分には、感心を通り越して呆れる思いすらある。
しかし今この時は、その横顔がこの上なく頼もしく感じられた。
「フレッドとメイナードは必ず助けます。その代わり、君にも手伝ってほしいことがあるのだけれど」
ウィリアムの言葉に、ヒルダは迷わず頷いた。
※※※※
廃屋を出ると、徐々に日が傾きつつあった。もともと日当たりの悪い路地はすでに薄暗い。
モランは思い切って、彼に問うた。
「……なぁ、ウィリアム。お前本当は気付いてたんじゃないか? 今朝、フレッドが部屋を抜け出して三階にいた理由」
「どういう意味?」
言わんとするところをわかっているのかいないのか、ウィリアムはこてりと首を傾げてみせた。モランは言葉を選びながら、「お前が気付かない筈がないって意味だ」と切り出した。
「フレッドは昨日の夜、ほとんど気絶した状態で屋敷に連れてこられた。屋敷がロンドンのどの辺りにあるのか、あいつにはわからなかった。そして、一階のゲストルームの窓からは塀に囲まれた庭しか見えない。だからあいつは、俺たちの目を盗んで三階に上がった。テムズ川なり特徴的な教会の尖塔なりが見えればおおよその現在地がつかめるからだ。煙突掃除屋として屋根の上に上がる機会が多かったなら尚更だ。
つまりあいつは、今朝の時点ですでに一人で屋敷を抜け出す算段を立ててたって事だ。お前はあの時『探検がしたかったんだろう』なんて言ってたが、本当は……あ〜っ、いや、違う!」
モランは頭をガシガシと掻いた。
「悪い。そういう事が言いたいんじゃないんだ。フレッドが一人で無茶しようとしてるのをお前がわざと見逃したとか、そういう事じゃなくてだな……」
「うん、モラン。わかってるよ」
「俺が馬鹿だったってだけだ。あいつは俺にこの銀貨を渡そうとした。二回もだ。それなのに俺は二回とも、あいつの話をろくに聞こうとしなかった」
助けられた礼のつもりで、有り金を差し出しているのだと思い込んでいた。
けれど違った。フレッドは助けを求めていた。
贋金づくりは重罪だ。単に店屋を騙して損をさせるだけでは済まない。貨幣の価値が揺らげば、回り回って国の経済が大混乱に陥る危険もある。
それをフレッドがどこまで理解しているかは分からない。ともかく贋金づくりの一味は、逮捕されればただでは済まないだろう。つまり、犯罪を隠し通すためにはたとえ相手が子供であろうと容赦するはずがない。
フレッドは、彼らが巻き込まれた重大犯罪の証拠品を提示して、友人の危機を伝えようとしていた。しかしモランはその意図を汲み取ることができなかった。
結果として、彼はモランたちに助けを求めることを諦め、ひとりで戦おうとしている。彼はメイナードを諦めてはいない。ヒルダに口止めして出ていったきりねじろに戻っていない事が、何よりの証拠だった。
「まだ間に合うよ、モラン。フレッドが仕掛けるとすれば日が落ちてからだ。数でも力でも劣る以上、闇に乗じて忍び込むしかない」
「それにしたって無謀すぎる」
「そうだね。彼の体調が万全だったとしても難しいだろう」
「……メイナードは、まだ無事だと思うか」
「犯人たちは秘密を知ってしまった子供たちを二人まとめて始末する必要がある。メイナードを生かしておけば、フレッドの居場所を吐かせることも、誘い出すための餌にすることもできる。フレッドが捕まらないうちから彼を殺す理由は無いよ」
連中がそこまで利口だったらいいんだが。
そう思わずにはいられなかったが、あえて口には出さなかった。理屈としてはウィリアムの言う通りであるが、この国ではみなし子の命の重さなど知れている。
モランは、フレッドがこの機械式の義手を見て、「どうやって付けたのか」と問うてきた事を思い出した。物珍しさからくる興味本位の質問だとばかり思っていたが、彼はヒルダにも同じものをつけてやりたいと考えていたのではないだろうか。
あのフレッドという少年は、どうしようもなく優しいやつなのだ。
自分たちだけで食いつなぐことすらやっとだろうに、身体的なハンデを負ったヒルダや同じような境遇の子供たちを放っておけなかったほどに。わざわざモリアーティ家に書き置きを残していったのだって、あわよくば彼らを助けてもらえたら、という思いがあったのではないだろうか。
彼も、彼の友人も、銀貨一枚盗んだ罪で殺されていいはずがなかった。