No.11
chapter 2:月夜モリアーティ邸
翌朝、モランは陽が昇る頃にベッドを抜け出して身支度を整えた。
普段に比べると随分早い時間だったが、少年の様子が気になっていたためだ。昨夜は、医者からもらった薬が効いて彼が眠りに落ちたのを見届けてから、各々自室に引き上げた。
おそらくルイスあたりがすでに世話を焼いていることだろうが、朝食の前に一度ゲストルームへ様子を見に行こう。そして昨夜はドタバタしているうちにうやむやになってしまったが、ウィリアムとアルバートにきちんと事情を説明せねばなるまい。
そんなことを考えながら廊下に出た時、視界の端に何かが引っかかった。振り返ると、二階に続く階段の反対側、廊下の行き止まりに小さな人影が見えた。
使用人をほとんど雇い入れないこの屋敷の中で、使用人フロアを利用する者は今のところモランしかいない。たまにルイスが掃除のため立ち入ることはあったが、その人影は随分と小さかった。懸命に背伸びをしながら、突き当たりの窓を覗いている。
「お前……何やってんだ?」
背後から声を掛けると、彼は弾かれたようにこちらを振り向いた。昨日の少年だった。
一階のゲストルームで休んでいたはずなのに、なぜ一人で三階に上がってきているのか。モランは眉間に皺を寄せた。
「部屋を抜け出してきたのか?」
「あ……」
威圧的な態度に、少年の目に怯えの色が浮かんだ。
身につけているのはルイスのお下がりだろうか。清潔なシャツとスラックスは彼が着るには随分と大きかったらしく、袖と裾が何回も折り返されていた。そのアンバランスな格好におかしさが込み上げてきたが、顔には出さずにモランは厳しい声色で続けた。
「親切心でお前を助けて、医者まで呼んで手当てして一晩休ませてやったんだ。そんな恩人の家の中を勝手にうろつくのはマナー違反じゃないか?」
「……ご、ごめんなさい」
「分かればいい。部屋戻るぞ」
「あ、あの、これ……」
少年がおずおずと何かを差し出した。見ると、小さな手のひらの上に銀貨が一枚のっている。
モランは大きくため息をついた。
「だからいらねぇって。そういう意味で言ったんじゃねぇよ」
「えっと、あの……」
「この屋敷を見ればわかるだろ。お前みたいな痩せっぽちのチビからなけなしの金をむしり取るほど、ここの主人は落ちぶれちゃいないんだよ。もちろん、使用人の俺もな」
「……」
「ほら、まだ熱下がってないだろ。部屋に……」
と、そこにルイスがパタパタと階段を駆け上がってきた。彼はモランのすぐそばに少年の姿を見つけて、あっと声をあげた。
「こんな所に……部屋にいなかったから探してたんですよ! どうして勝手に抜け出したりしたんですか。まだゆっくり寝ていないと……」
ルイスの剣幕に驚いて、少年が身を硬くしたのがわかった。
モランからすればルイスがぷりぷりと怒っている様子は子犬が鳴いているようなものだったが、彼から見れば今年十七になるルイスは十分『大人』に分類されるのだろう。萎縮してしまって小言の内容がずいぶんと優しいことも耳に入っていないようだった。
さらにルイスの後ろから、ウィリアムとアルバートが何事かと階段を上がってやってきた。ウィリアムは寝起きのガウン姿だったが、アルバートはすでに一分の隙もなくきっちりと身支度を整えている。
「ルイス、どうしたんだい? 大声を出して」
「兄さん、兄様。この子が部屋を抜け出してこんな所に」
「いや、待て。これはな……」
少年はご当主の登場にすっかり震え上がっていた。さすがに気の毒になってきて助け舟を出そうとしたとき、まだ眠たそうに目を擦っているウィリアムが言った。
「探検がしたかったんだね」
「はい?」
「だから、この子は探検がしたかったんだよ。ほら、僕たちも昔、伯爵のカントリーハウスを探検したじゃないか」
「えぇ、そんなこともありましたけど……」
「うん、そういうこと。じゃあ朝食にしようか。着替えてくるね」
ウィリアムはそれだけ言い残すと、さっさと階段を降りていった。ルイスも慌ててその後を追いかける。
アルバートは苦笑をこぼしながら二人の後ろ姿を見送り、「では後は頼みました」とモランに言いつけてその場を去っていった。
ゲストルームに戻ってしばらくすると、ルイスが二人分の食事を持ってきた。モランもここで朝食をとれということらしい。
メニューはパンとスープ、プレートにはオムレツやサラダが載っていた。少年の分は食べやすいように、パンが粥に変えられている。
「こっちの皿はお前のだ。全部食っていいからな。……食欲ないか?」
尋ねると、少年はぶんぶんと首を横に振った。
「ならいい。せっかく作ってくれたんだからな、食える時に食っとけ」
さっさと先に食べ始めると、彼も慌ててスプーンを手に取った。
ルイスが帰ってきているタイミングだったのは運がよかったな、とモランは思った。
まだイートン校に在籍しているルイスは、普段は学生寮で生活している。彼の手料理にありつけるのは、週末か長期休暇の間だけだ。
ウィリアムとアルバートだけで過ごしている間は外食か出来合いのものだけで済ませているようだし、モランも料理はできなくはないが、「野外で火を起こして煮炊きができる」という次元の話である。明らかに食うに事欠く生活を送っている子供に、まともなものを食べさせられてよかった。
モランは自分のことを特別子供好きだとは思ったことが無いが、彼の手にはやや大きなカトラリーを使って一生懸命に食事を頬張る姿はなんだか微笑ましかった。
「自己紹介が遅れたが、俺はセバスチャン・モラン。一応ここの使用人だ。お前は?」
話しかけると、少年はぴたりと手を止めた。上目遣いにモランの顔色を伺いながらこわごわと答えた。
「…………フレッド」
「フレッドか。昨日は何であんなことになってたんだ?」
「…………」
「あいつらから財布でも盗んだのか?」
「…………」
ややあって、彼はこくりと頷いた。
「そうか。盗った財布はどうしたんだ?」
「えっ、と……」
「逃げてるうちに落としちまったのか」
フレッドはもう一度頷いた。
嘘だな、とモランは確信した。
財布を盗られて腹を立てているだけの男が、通りがかったモランにまでナイフをちらつかせるというのは理屈が通らない。
下手に言葉を重ねないだけ利口だが、ふらふらと泳ぐ目線が何よりも雄弁に物語っている。普段アルバートやウィリアムの権謀術数を間近で眺めている身からすると、年相応で可愛らしいくらいだ。
「そう、か……。だが証拠が無いんじゃ、お前をヤードに突きだすわけにもいかねぇな。ここのご主人にも黙っといてやるから、もうするんじゃねぇぞ」
モランがそう告げると、フレッドは明らさまにほっとした表情を浮かべた。
もう少しつつけばすぐにボロを出すだろうが、別にこの子供を苛めたいわけではない。重要なのは、「盗みを働いた」という嘘をついてまで何かを隠そうとした事実だ。モランの気分次第では、「盗人を屋敷に置いてはおけない」と即座に叩き出される可能性だってあったのだから。
まだこちらを信用しきっていないのか、何か話せない事情があるのか。
考え込んでいると、向かいに座った少年がじっとモランの手元を見ているのに気がついた。
「何だよ、パンも食うか?」
彼は黙って首を横に振った。しかしまだ何か言いたげにしているので、モランはそのまま言葉の続きを待った。
「……それ、どうやってつけたの?」
「は?」
「て」
「て? ……あぁ、義手のことか?」
フレッドは小さく頷いた。
昨夜抱きかかえた時の感触を覚えていたのか、食事中も手袋を外さない事に違和感を覚えたか。傍目には義手と分からないほど使いこなせていると自覚していただけに、どちらにせよ目敏いことだと感心した。
「昨日のお医者様?」
「いや……あー、何でもいいだろ」
「……」
「ほら、食い終わったならとっととベッドに戻れ。まだ熱下がってないだろ。絵本でも読んでやろうか?」
「自分で読める。……少しなら」
冗談で言ったつもりだったが、むっとしたような顔で言い返されてしまって、モランは喉の奥で小さく笑った。
食事をきれいに平らげて、フレッドはモランに追い立てられながらベッドに潜り込んだ。上等なシーツの肌触りと体が沈み込む感覚が落ち着かないらしく、しばらくもぞもぞと体を動かしていた。ちょうどいい体勢に落ち着いてからも、毛布から顔の上半分だけを出してじっとこちらを見上げてくる。
曇りのない大きな瞳には、顔立ちの幼さに似つかわしくない沈着さも見て取れて、見つめられている側としては居心地の悪さすら感じる程だった。もう少し頬に肉がつけば、このどこか痛々しい険も取れるだろうか。
モランはポケットの煙草に手を伸ばしかけて、ここではまずいかと思いとどまった。
「……まだ何かあるのか?」
「ううん。……あの、ありがとう」
「礼なら、ここのご主人たちに言うんだな」
「うん」と素直で幼げな返事が返ってきた。
彼がうとうとと目蓋を閉じたのを見届けてから、モランは部屋を後にした。
« No.10
/
No.12 »
Novels Top
expand_less
翌朝、モランは陽が昇る頃にベッドを抜け出して身支度を整えた。
普段に比べると随分早い時間だったが、少年の様子が気になっていたためだ。昨夜は、医者からもらった薬が効いて彼が眠りに落ちたのを見届けてから、各々自室に引き上げた。
おそらくルイスあたりがすでに世話を焼いていることだろうが、朝食の前に一度ゲストルームへ様子を見に行こう。そして昨夜はドタバタしているうちにうやむやになってしまったが、ウィリアムとアルバートにきちんと事情を説明せねばなるまい。
そんなことを考えながら廊下に出た時、視界の端に何かが引っかかった。振り返ると、二階に続く階段の反対側、廊下の行き止まりに小さな人影が見えた。
使用人をほとんど雇い入れないこの屋敷の中で、使用人フロアを利用する者は今のところモランしかいない。たまにルイスが掃除のため立ち入ることはあったが、その人影は随分と小さかった。懸命に背伸びをしながら、突き当たりの窓を覗いている。
「お前……何やってんだ?」
背後から声を掛けると、彼は弾かれたようにこちらを振り向いた。昨日の少年だった。
一階のゲストルームで休んでいたはずなのに、なぜ一人で三階に上がってきているのか。モランは眉間に皺を寄せた。
「部屋を抜け出してきたのか?」
「あ……」
威圧的な態度に、少年の目に怯えの色が浮かんだ。
身につけているのはルイスのお下がりだろうか。清潔なシャツとスラックスは彼が着るには随分と大きかったらしく、袖と裾が何回も折り返されていた。そのアンバランスな格好におかしさが込み上げてきたが、顔には出さずにモランは厳しい声色で続けた。
「親切心でお前を助けて、医者まで呼んで手当てして一晩休ませてやったんだ。そんな恩人の家の中を勝手にうろつくのはマナー違反じゃないか?」
「……ご、ごめんなさい」
「分かればいい。部屋戻るぞ」
「あ、あの、これ……」
少年がおずおずと何かを差し出した。見ると、小さな手のひらの上に銀貨が一枚のっている。
モランは大きくため息をついた。
「だからいらねぇって。そういう意味で言ったんじゃねぇよ」
「えっと、あの……」
「この屋敷を見ればわかるだろ。お前みたいな痩せっぽちのチビからなけなしの金をむしり取るほど、ここの主人は落ちぶれちゃいないんだよ。もちろん、使用人の俺もな」
「……」
「ほら、まだ熱下がってないだろ。部屋に……」
と、そこにルイスがパタパタと階段を駆け上がってきた。彼はモランのすぐそばに少年の姿を見つけて、あっと声をあげた。
「こんな所に……部屋にいなかったから探してたんですよ! どうして勝手に抜け出したりしたんですか。まだゆっくり寝ていないと……」
ルイスの剣幕に驚いて、少年が身を硬くしたのがわかった。
モランからすればルイスがぷりぷりと怒っている様子は子犬が鳴いているようなものだったが、彼から見れば今年十七になるルイスは十分『大人』に分類されるのだろう。萎縮してしまって小言の内容がずいぶんと優しいことも耳に入っていないようだった。
さらにルイスの後ろから、ウィリアムとアルバートが何事かと階段を上がってやってきた。ウィリアムは寝起きのガウン姿だったが、アルバートはすでに一分の隙もなくきっちりと身支度を整えている。
「ルイス、どうしたんだい? 大声を出して」
「兄さん、兄様。この子が部屋を抜け出してこんな所に」
「いや、待て。これはな……」
少年はご当主の登場にすっかり震え上がっていた。さすがに気の毒になってきて助け舟を出そうとしたとき、まだ眠たそうに目を擦っているウィリアムが言った。
「探検がしたかったんだね」
「はい?」
「だから、この子は探検がしたかったんだよ。ほら、僕たちも昔、伯爵のカントリーハウスを探検したじゃないか」
「えぇ、そんなこともありましたけど……」
「うん、そういうこと。じゃあ朝食にしようか。着替えてくるね」
ウィリアムはそれだけ言い残すと、さっさと階段を降りていった。ルイスも慌ててその後を追いかける。
アルバートは苦笑をこぼしながら二人の後ろ姿を見送り、「では後は頼みました」とモランに言いつけてその場を去っていった。
ゲストルームに戻ってしばらくすると、ルイスが二人分の食事を持ってきた。モランもここで朝食をとれということらしい。
メニューはパンとスープ、プレートにはオムレツやサラダが載っていた。少年の分は食べやすいように、パンが粥に変えられている。
「こっちの皿はお前のだ。全部食っていいからな。……食欲ないか?」
尋ねると、少年はぶんぶんと首を横に振った。
「ならいい。せっかく作ってくれたんだからな、食える時に食っとけ」
さっさと先に食べ始めると、彼も慌ててスプーンを手に取った。
ルイスが帰ってきているタイミングだったのは運がよかったな、とモランは思った。
まだイートン校に在籍しているルイスは、普段は学生寮で生活している。彼の手料理にありつけるのは、週末か長期休暇の間だけだ。
ウィリアムとアルバートだけで過ごしている間は外食か出来合いのものだけで済ませているようだし、モランも料理はできなくはないが、「野外で火を起こして煮炊きができる」という次元の話である。明らかに食うに事欠く生活を送っている子供に、まともなものを食べさせられてよかった。
モランは自分のことを特別子供好きだとは思ったことが無いが、彼の手にはやや大きなカトラリーを使って一生懸命に食事を頬張る姿はなんだか微笑ましかった。
「自己紹介が遅れたが、俺はセバスチャン・モラン。一応ここの使用人だ。お前は?」
話しかけると、少年はぴたりと手を止めた。上目遣いにモランの顔色を伺いながらこわごわと答えた。
「…………フレッド」
「フレッドか。昨日は何であんなことになってたんだ?」
「…………」
「あいつらから財布でも盗んだのか?」
「…………」
ややあって、彼はこくりと頷いた。
「そうか。盗った財布はどうしたんだ?」
「えっ、と……」
「逃げてるうちに落としちまったのか」
フレッドはもう一度頷いた。
嘘だな、とモランは確信した。
財布を盗られて腹を立てているだけの男が、通りがかったモランにまでナイフをちらつかせるというのは理屈が通らない。
下手に言葉を重ねないだけ利口だが、ふらふらと泳ぐ目線が何よりも雄弁に物語っている。普段アルバートやウィリアムの権謀術数を間近で眺めている身からすると、年相応で可愛らしいくらいだ。
「そう、か……。だが証拠が無いんじゃ、お前をヤードに突きだすわけにもいかねぇな。ここのご主人にも黙っといてやるから、もうするんじゃねぇぞ」
モランがそう告げると、フレッドは明らさまにほっとした表情を浮かべた。
もう少しつつけばすぐにボロを出すだろうが、別にこの子供を苛めたいわけではない。重要なのは、「盗みを働いた」という嘘をついてまで何かを隠そうとした事実だ。モランの気分次第では、「盗人を屋敷に置いてはおけない」と即座に叩き出される可能性だってあったのだから。
まだこちらを信用しきっていないのか、何か話せない事情があるのか。
考え込んでいると、向かいに座った少年がじっとモランの手元を見ているのに気がついた。
「何だよ、パンも食うか?」
彼は黙って首を横に振った。しかしまだ何か言いたげにしているので、モランはそのまま言葉の続きを待った。
「……それ、どうやってつけたの?」
「は?」
「て」
「て? ……あぁ、義手のことか?」
フレッドは小さく頷いた。
昨夜抱きかかえた時の感触を覚えていたのか、食事中も手袋を外さない事に違和感を覚えたか。傍目には義手と分からないほど使いこなせていると自覚していただけに、どちらにせよ目敏いことだと感心した。
「昨日のお医者様?」
「いや……あー、何でもいいだろ」
「……」
「ほら、食い終わったならとっととベッドに戻れ。まだ熱下がってないだろ。絵本でも読んでやろうか?」
「自分で読める。……少しなら」
冗談で言ったつもりだったが、むっとしたような顔で言い返されてしまって、モランは喉の奥で小さく笑った。
食事をきれいに平らげて、フレッドはモランに追い立てられながらベッドに潜り込んだ。上等なシーツの肌触りと体が沈み込む感覚が落ち着かないらしく、しばらくもぞもぞと体を動かしていた。ちょうどいい体勢に落ち着いてからも、毛布から顔の上半分だけを出してじっとこちらを見上げてくる。
曇りのない大きな瞳には、顔立ちの幼さに似つかわしくない沈着さも見て取れて、見つめられている側としては居心地の悪さすら感じる程だった。もう少し頬に肉がつけば、このどこか痛々しい険も取れるだろうか。
モランはポケットの煙草に手を伸ばしかけて、ここではまずいかと思いとどまった。
「……まだ何かあるのか?」
「ううん。……あの、ありがとう」
「礼なら、ここのご主人たちに言うんだな」
「うん」と素直で幼げな返事が返ってきた。
彼がうとうとと目蓋を閉じたのを見届けてから、モランは部屋を後にした。