アイリーン・アドラーは死んだのか?
 ロンドンで悪さしてるモリ家の話。

 墓守の男は、死体安置所へ向かう階段を下りていた。
 後ろをついてくる青年は、靴底にゴムでも仕込んでいるのか、猫のように静かに歩く。つめたい石壁に反響する靴音は男のもの一つきりだった。
 分厚い鉄扉を開くと、冷えた空気と微かな腐臭が鼻をついた。右手側の壁一面には、埋葬を待つ死体をしまっておく大きな引き出しが作りつけられている。男はそのうちの一つを引っ張り出した。

「ご注文通り、金髪に青い目、二十代前半の女だ。身長はちっと低かったかもしれんが、勘弁してくれ」
「これくらいなら。……死因は?」

 聞きながら、青年は死体を覆う布をそっとめくった。状態を確認し、少し躊躇うような仕草を見せてから、瞼をめくって瞳の色を確かめた。

「石段から転げ落ちたらしい。大した高さじゃなかったそうだが、打ちどころが悪くてな。後頭部に傷がある」

 死体をうつ伏せにすると、生々しい傷跡が露わになった。幸か不幸か、病院へ担ぎ込む間もなく即死だったらしい。
 男は向かいに立つ青年をちらりと盗み見た。
 装いは取り立てて特徴のない労働者ふうだ。
 淡青色のストールを顔を隠すように巻いてはいるが、その下からのぞく灰色の瞳はごく大人しげで、他人に警戒心を抱かせる質ではない。おそらくまだ二十歳にもなっていないだろう。
 女も知らなさそうな幼い顔立ちで、冷静に死体を検分しているのが不気味だった。

「……確かに」

 彼は小さく頷いた。
 青ざめた死体を丁寧に布にくるみ直してから、懐から硬貨の詰まった革袋を取り出して男に渡した。男は「毎度」と小さく答えた。袋の重みを確かめても、気持ちが浮き立つことはない。
 青年が棺の中からそっと彼女を抱え上げる。
 涼しい地下に保管していたとはいえ、すでに死後数日経過した死体を相手に顔色一つ変えなかった。自分とほとんど変わらない身の丈の死体を苦もなさそうに抱えて、ただ静かに、淡々とした足取りで階段を登っていった。
 その背中を見送りながら、男はそっとため息をついた。

 一年ほど前、男は妻を殺した。
 些細なことから口論に発展して、カッとなって突き飛ばしたところ運悪く頭をぶつけて死んでしまったのだ。男は露見を恐れて、墓地の片隅に死体を埋めた。
 教会の関係者や近所の人間には、妻は自分に愛想を尽かして田舎に帰ったと嘘をつくことにした。実際はサセックスに住む彼女の両親はとっくに他界していて、兄弟姉妹も親しい友人もいない。
 唯一の身寄りである男が騒ぎ立てさえしなければ、誰も妻の行方を気に留めはしない。墓守夫婦と親しく交わろうなんて人間はそういないのだから。
 死体の処理に関しても、こちらはプロだ。見つかるはずがないとたかを括っていた。
 それなのに、奴らはすぐさま嗅ぎつけた。
 妻を埋めてから3日と経たないうちに、身長6フィートをゆうに超える黒づくめの大男が家に押し入ってきた。強盗か、ヤードの刑事かと震え上がったが、相手はもっと恐ろしい奴だった。彼は開口一番、男が犯した罪を言い当てたのだ。妻を殺した日時も死体を埋めた場所も、奴は全て知っていた。
 番犬のレジーはその晩、ひと声も吠えなかった。翌朝男に蹴飛ばされるまでぐっすりと眠りこけていたところを見るに、おそらく事前に餌に眠り薬でも混ぜられていたのだろう。
 そうして、あれよあれよと言う間に奴らの犯罪の片棒を担がされることになり、今に至っている。きっと、ずいぶん前から目を付けられていたのだろう。
 逆らえば今度こそ本物の刑事がすっ飛んでくる。
 子供もなく、失うものなど無い身ではあったが、だからと言って残りの人生を牢獄で過ごしたいとは思わない。男は彼らに従った。
 課せられた仕事は、注文に応じた死体を用意すること。身寄りのない浮浪者であっても埋葬の際は司祭が立ち会って祈りを捧げる決まりだったので、埋めた後からこっそり掘り返す必要があった。大抵の場合は、あの陰気な青年が窓口役だった。
 初めて彼がやって来た時は、こんな若者まで弱味を握られ従わされているのかと少し気の毒に思ったが、あの落ち着きぶりを見るにどうやらそうではないらしい。
 青年は口数が少ない方ではあったが、一度だけ雑談めいたことを口にしたことがある。「あそこにあったイチイの木、植え替えたんですね」と。
 確かにその日の昼間、男は木の植え替えを行っていた。「景観が悪いから」と気まぐれな司祭に頼まれたものの、処分が面倒だったので墓地の裏手に植え直したのだ。
 その場では適当に相槌を打ったが、彼が帰ってからその意味を考えてぞっとした。
 青年は人目を忍んで夜にしかやって来ない。街灯もない墓地の片隅に植えられていた木がイチイであると分かるはずもなかった。そして彼は「伐った」ではなく「植え替えた」と言った。昼間の動向も監視しているぞと、言外にほのめかしていたのだ。
 妻の死体を移動させてしまえば奴らを煙に巻けるのではないかと思案していた矢先のことだ。
 あの大男とはまた違った意味で、掴みどころのない恐ろしい相手だった。


 女の死体を引き渡してから一週間ほど経ったある日、男は街の食料品店に来ていた。

「卵一ダース、パンと玉ねぎ。紅茶を一ポンド。あと、何でもいいから肉を適当に」
「あいよ。犬にやるやつだね」

 店主は冷蔵ケースから包みを引っ張り出した。売り物にならない切れ端や骨を、レジーのためにこうして取っておいてくれるのだ。
 袋詰を待っている間、男はカウンターの上に放り出されていた新聞を眺めていた。『イーストエンドで娼婦惨殺 姿なき連続殺人鬼の恐怖』、『急死の男爵にまつわる黒い噂』、『シティ・アンド・サバーバン銀行で強盗団確保』といった見出しが躍っている。新聞社は今日も事件の話題に事欠かないようだ。
 ここに自分の名前が並ぶのを想像して、男は暗澹たる気分になった。罪悪感ではない。奴らの気分次第でいつそうなるとも分からない現状が落ち着かなかった。自分の命運を他人に握られている不快感だ。
 苦々しくため息をつく男に、店主が片頬を上げて顔を寄せた。

「おい、あんた知ってるかい」
「あ?」
「アイリーン・アドラーが死んだってよ」
「誰だいそりゃあ」
「知らねぇのか! 米国きっての大女優だよ」

 男は「へぇ」と気のない返事をした。
 オペラ鑑賞など高尚な趣味は持ち合わせていなかったし、それはこのしがない食料品店の店主も同じだろう。
 しかし彼はお構いなしに目を輝かせながら話を続けた。噂話をする者特有の、下卑た笑みだった。

「テムズ川から死体が上がったそうだ。妙だと思わないかい? ついこの間、かの名探偵シャーロック・ホームズとの熱愛が新聞で騒がれたばかりなのによ」
「あぁ、あのゴシップ記事の女優かい」
「そうそう。まだどの新聞も触れちゃいないが、あの名探偵に煮え湯を飲まされた悪党どもが、腹いせにさらって嬲り殺しにしたんじゃねえかって噂だよ。あの金髪碧眼の美女を……」
「何だって?」
「だから、あの名探偵に悪巧みを邪魔された連中が……」
「違う。その後だ。金髪碧眼だって?」
「え? あぁ、俺だって実物を拝んだことがあるわけじゃねぇけどよ。アイリーン・アドラーって言ったら金髪碧眼の絶世の美女で有名だぞ……どうかしたか?」
「いや……」
 
 聞けばそのアイリーン・アドラーとかいう女優は、年齢も背格好も男が用意した死体の特徴にぴたりと一致する。
 奴らが死体を何のために使うのかなど、深く考えることはあえて避けていた。けれど、これは単なる偶然の一致と言えるのだろうか。
 もし先日引き渡したあの死体が、アイリーン・アドラーの死を偽装するために使われたのだとしたら?
 考えられるのは、女の身を案じたホームズが犯罪者どもの目をくらますために身代わりの死体を用意した、という筋書きだ。
 すると、これまでの話ががらりと変わる。あの陰気な青年は恐ろしい犯罪組織の構成員だとばかり思っていたが、実は正義の名探偵の手先だったのか? あの黒づくめの大男も?
 様々な憶測が男の頭の中を駆け巡った。
 逆のパターンもあり得る。
 実際、奴らは悪党だ。ホームズの手先などでなく、反対に彼からあの女を奪うために適当な身代わりを立てたとも考えられる。
 しかしその場合、ヤードとも繋がりのあるホームズが遺体の顔を確認すればあっという間に偽装を見破られてしまうのではないか? そもそも、それなりの器量よしだったとはいえ街の娘と著名な大女優を警察が間違えたりするものだろうか……。
 深入りするのはまずい、と危機感を覚えたが止められなかった。男は暇さえあれば彼らの正体についてあれこれと想像を巡らせるようになっていた。
 そんな矢先、新しい注文が入った。
 『解剖済みの若い女の遺体を3つ』
 暗号で書かれたこの電報を受け取ったとき、男の体に恐怖とも興奮ともつかない震えが走った。
 まさにその朝、男のもとに解剖済みの遺体たちが転がり込んできたからだ。とある大学で医学生の解剖実習に使われた献体らしい。珍しいことに若い女のものばかりだった。
 糸だ、と男は思った。
 見えない糸がこのロンドン中に張り巡らされている。自分はきっとそのささやかな網目のひとつに過ぎないのだろうが、あの青年と大男はおそらく重要な結び目だ。
 編み上げられた糸の先は、どこへ繋がっているのだろう。
 掃除をしてくれる妻がいなくなり荒れた家の中で、男は言い様のない高揚感を覚えていた。


 次の日の夜、約束通りの時間に彼らは来た。
 普段は青年一人であったが、今夜は死体の数が多いためか例の大男も一緒だった。墓地の入口近くには荷車が停めてあって、そばには見覚えのない若い男の姿もあった。
 荷車へ死体を積み込む間、彼らは一言も口をきかなかった。少し多めの報酬を男に手渡して、「じゃあ」と青年が頭を下げた。
 立ち去ろうとする彼に、男は思い切って尋ねた。

「アイリーン・アドラーは死んだのか?」

 渾身の力で切り込んだつもりだったのに、振り返った青年は顔色ひとつ変えていなかった。
 黒づくめの大男も、新顔の若い男も似たようなものだ。ただじっと、無表情にこちらを見ている。その瞳は深い穴のようで、考えがまったく読み取れなかった。
 いつの間にか背中にじっとりと汗をかいていた。まずいことを口走ったのだと即座に理解したが、取り繕おうにも声が出なかった。
 沈黙を破ったのは、にゃお、と場違いなほどのんきな鳴き声だった。
 青年の足元に、小さな黒猫がすり寄っていた。
 耳から爪先まで真っ黒な猫だ。彼はさっと屈んで子猫を抱き上げた。

「……こんなところまでついて来ちゃ駄目だよ。犬もいるんだから。好奇心は猫をも、って言うでしょ」

 彼は猫の喉をくすぐった。その優しげな手付きとは裏腹に、声色はどこまでも冷えていた。
 そばで聞いていた新顔の男がくすりと笑った。

「猫に九生あり、とも言うね」

 男にしては妙に艶のある声だった。
 深く被った鳥打ち帽の下で、青い瞳がランタンの明かりにきらめいている。背筋にぞわりと悪寒が走った。
 地下の遺体安置所に横たわっていた金髪の女。彼女の横顔は美しくも青ざめたまま、二度とその青い目を開くことはないはずなのに。
 アイリーン・アドラーは死んだのか?
 もう一度そう口にしようとした時、黒いコートの大男が舌打ちをした。
 その音で現実に引き戻され、男はひゅっと息を吸い込んだ。思い出したように、心臓がばくばくと音を立てている。
 青い目の男は声を上げて笑った。

「冗談だよ、冗談」

 そう、男だ。
 いつの間にか足が震えていて、立っていられなくなるような心地がした。口の中でおかしな味がする。墓地を取り囲む木々がざわざわと鳴って、男の頭上に迫ってきた。
 「おしまいだ」と頭の中で声がした。
 軽率に口を開いたことを後悔したがもう遅い。おしまいだ、おしまいだ。その言葉が調子外れの歌のようにぐるぐると繰り返された。
 思い出したのは、土の中からうつろな目でこちらを見上げる妻の死に顔だった。





 墓地から離れたところで、ボンドが「どうするの?」と後ろを見やりながら尋ねた。墓守の男はまだ呆然と立ち尽くしたままだ。
 モランは煙草をくわえたまま、つまらなさそうに答えた。

「証拠は揃えてある。電報を一本打てば終わりだ」
「うわ、悪党だね」
「今さらだろ」

 荷台の中で子猫が鳴いた。
 フレッドを慕って足元にまとわりつくので、荷車で轢いてしまわないようにモランが放り込んだのだ。
 ボンドが手を伸ばして撫でてやると、子猫は喉を鳴らした。遊んでもらえて嬉しいのだろう。荷台に折り重なる死体などお構いなしに、無邪気に転げ回っている。
 フレッドがぽつりと呟いた。

「レジーの里親、探さないと」
「は? 誰だって?」

 彼は何も答えず、物憂げに目を伏せていた。


初出:Pixiv 2022.08.13

絵の中のお屋敷
 怖い夢を見るルイスの話。

 ロックウェル伯爵家に身を寄せた日、ルイスは生まれて初めて『自分の部屋』を得た。
 兄たちとは一回りほど小さな部屋で、北向きの薄暗い部屋だった。兄たちはそのことにいくらか不満があるようだったが、他に適当な部屋がないのだから仕方ない。

「ルイス、ちゃんと眠れてるかい?」

 三人だけのお茶の時間、ウィリアムが言った。
 ウィリアムとルイスは貧民街の貸本屋でも孤児院でも、あの屋敷の屋根裏部屋でも、ずっと一緒だった。一枚の毛布を分けあって眠った夜も数え切れないほどある。個室で、一人で眠るのは初めてのことだった
「僕は大丈夫です、兄さん」
「そう? 僕はルイスと別々の部屋で寂しいな」
「もう、そんなこと仰らないでください。…………僕だって、ちょっとだけ、寂しいです」

 カップのふちに唇を押し付けながらそう答えると、ウィリアムはにっこりと笑った。アルバートはその様子を微笑ましげに見つめていた。


 あの場で兄たちには言えなかったが、一人寝が嫌な理由はもう一つあった。
 ルイスに充てがわれた部屋には、壁に一枚の絵が飾られていた。丘の上にある一軒の屋敷を描いた絵だった。
 どうせなら明るい昼間を描けばいいのに、絵の中の景色は真っ暗な夜だった。空には細い三日月が浮かんでいるだけで星もない。
 暗い空と丘の曖昧な境界線の間に、うずくまるように建っている屋敷の影。月明かりのためか辛うじて建物の輪郭が見て取れた。
 中で誰かが明かりを灯しているのだろう、二階の窓の一部だけが薄く発光するように白く塗られている。けれど、その明かりのもとで屋敷の住人が眠る支度を整えていたり、ベッドに入って本を読んでいる姿が、ルイスにはどうしても想像できなかった。

(これは、幽霊屋敷の絵だ)

 そう直感した。
 絵の中のあの屋敷には誰も住んでいない。それなのに、夜になるとつめたい光が窓の向こうを行き来する。何かが、いる。
 全ては単なる印象であり想像であるはずなのに、ルイスはこの絵を見るたびに不安を掻き立てられた。壁から外してしまいたかったが、与えられた個室とはいえ居候している屋敷の調度を勝手にいじるのは気が引けた。
 絵の来歴が分かれば、なんの変哲もないただの風景画であることが確かめられれば、この嫌な気持ちも収まるかもしれない。そう考えて、ジャックに尋ねてみたことがある。けれど、古参の使用人である彼でさえ「さぁ、儂が屋敷に来たときにはもうここに掛かっていたからのぅ」と首を傾げるだけだった。

「ルイス、僕の部屋の絵と交換しようか」

 そう言ってくれたのはウィリアムだった。
 ルイスがこの絵を嫌っていることを察してくれたのだろう。彼の部屋に飾られているのは、淡いタッチの静物画だった。それなりの値打ち物であろうことを含めてもあくまで普通の絵だ。右下には画家のサインも入っている。
 けれど、ルイスはこの申し出を断った。優しい兄に不気味な絵を押し付けるのは嫌だったし、ただの絵を怖がっていると思われたくないという意地もあった。
 昼の間はいい。勉強や秘密の訓練に加えて、ルイスには屋敷の仕事の手伝いもある。空いた時間は兄たちと話をしたり本を読んだりしていれば、自分の部屋で過ごす時間などほとんど無い。
 しかし、夜になると部屋に戻らざるをえなかった。ルイスはその日も、夜ふかしすることなく決まった時間に寝支度を整えて、ベッドに潜り込んだ。
 明かりを消してしまえば、壁の絵は見えなくなる。けれど、子どもじみた不安は胸のうちに小さな染みを作ってなかなか消えてくれなかった。


 次に目を覚ますと、真っ暗な部屋にいた。
 眠りの浅いルイスは、こうして夜中に目を覚ましてしまうことがときどきあった。もう一度寝入ろうと瞼を下ろしかけて、目をぱちりと開いた。何だか油くさいような、不快な匂いがする。
 万が一、ランタンのオイルでも零していたのならいけない。慌てて起き上がって部屋の中を見回したとき、ルイスはどきりと心臓を跳ねさせた。

(僕の部屋じゃない)

 室内は真っ暗だったが、間違えるはずもない。
 壁に掛かっていたはずのあの忌々しい絵がなかったからだ。代わりに、絵のあった場所に小さな窓が開いていた。手の下にあるシーツの感触も何だかざらざらとしている。ルイスの部屋のものではない。
 眠っている間にどこかに連れてこられた?
 室内には他に人の気配はない。
 不安から、兄さん、と声に出そうとして、ルイスは思わず喉を抑えた。

(声が出ない……)

 戸惑ったが、喉がおかしくなったわけではないとすぐに気がついた。
 何の音も聞こえない。
 真夜中とはいえ、風の音も鳥の声も聞こえなかった。ルイスが身動ぎしても、ベッドの木枠が軋むこともシーツが衣擦れの音を立てることもない。
 まだ夢を見ているのだ。
 そう結論付けて、ルイスはベッドから降りた。
 明晰夢、というのだったか。ウィリアムに教えてもらったことがある。普通の夢とは違って、身体を自由に動かすことができるのだ。
 「あ、あ」と声を出してみる。やはり何も聞こえない。壁をこつこつと叩いてみても、その場で飛び跳ねてみても、手応えはあるのに音が響かないのは奇妙な気分だった。
 窓の外は真っ暗だ。枕元を探ってみたけれど、ランプは見当たらない。ルイスはドアを開けて、そっと廊下へ出た。
 廊下には大きな窓がいくつも並んでいる。部屋の中よりはいくらか明るかったが、窓枠にまとわりつくカーテンが重たげで陰鬱な雰囲気だ。
 ルイスは窓ガラスに額がくっつきそうなほど顔を近付けて、外の様子を眺めた。ここは2階のようだ。地面は暗闇の中に沈み込むようで、この建物の周りに何があるかはよく見えない。どうやら少し小高い場所に立っているらしいことが辛うじてわかった。
 空を見上げると、三日月が浮かんでいる。
 星は一つも見えないのに、月だけは冴え冴えとつめたい光を放っていた。絵筆の先でさっと刷いたような、細い細い三日月。
 ルイスはざっと血の気が引くのを感じた。

(あの絵に描かれた月と同じだ)

 夜空には星も雲もなく、月以外はのっぺりとした黒一色。ちょうど、平たい筆で絵の具を塗りたくったような。

(僕、あの絵の中にいる)

 額縁の外から眺めていた月を見上げている。ルイスが今立っているのは、あの絵の中の屋敷に違いなかった。
 そうして、先ほどから何の物音も、自分の声すら聞こえない理由をはっきりと理解した。
 絵の中の世界に、音は存在しない。

(ウィリアム兄さん! アルバート兄様!)

 力いっぱい叫んだはずの声は、やっぱり音にならなかった。耳が痛いほどの無音。先ほどから鼻をつくこの不快な匂いは、きっと油絵を描くのに使うテレピンの匂いだろう。
 例え夢だとしても、目が覚めるまでこの屋敷に留まっているのは怖気が走るほど嫌だった。
 外に出よう、とルイスは即座にそう決断した。
 まずは階段を探す。一階に下りさえすれば、脱出する方法はいくらでもある。さらに丘を下りて、絵の世界の端っこまで行けば、目が覚めるかもしれない。あの真っ暗な道を行くのは恐ろしいから、できれば明かりがほしい。
 深呼吸して身を翻したとき、取り戻しかけた勇気はいとも簡単に吹き飛ばされた。
 廊下の、曲がり角の向こうから、光が差していた。
 ゆらり、ゆらりと影が揺れている。
 誰かが、ランタンを手にこちらに向かってくる。
 次の瞬間、ルイスは弾かれたように走り出した。
 ここがあの絵に描かれた幽霊屋敷なら。
 誰もいないはずの屋敷に、明かりを灯す者がいる。
 ルイスは明かりとは反対方向に廊下を駆け抜けた。恐ろしいほどの静寂のおかげで足音を殺す必要がないのがせめてもの救いだった。
 角を曲がれば階段に行き当たらないかと期待したが、虚しい結果に終わった。仕方なく手近な部屋のひとつに飛び込んだ。暗闇の中でドアの内側を探る。内鍵は付いていないようだ。ルイスは焦燥に駆られながら、手探りで隠れ場所を探した。粗末なベッドを何とか探り当てて、小さな体をその下に滑り込ませる。
 ベッドの木枠と床板の隙間に潜んで息を殺した。意味がないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。

(早く覚めろ、早く覚めろ)

 ぎゅっと目をつぶって、心の中で何度もそう念じた。
 心臓が早鐘を打っている。呼吸が浅くなって、あの頃の発作を思い出した。手を握っていてくれる兄は、今はいない。
 自分の力で何とかこの場を切り抜けなければならない。けれど、この異様な世界で、おそらく人間ではない存在にどう立ち向かえばいい?
 この世界には音がない。ルイスが廊下を疾走しようと叩きつけるようにドアを閉めようと、敵に気取られる心配はない。けれどそれは、ルイスもまた敵の接近を視覚でしか把握できないことを意味していた。
 今この瞬間にも、ドアの前に立っているかもしれない。
 その恐ろしい考えが浮かんでしまうと、もうベッドの下から這い出ることができなかった。

(兄さん……兄様……)

 どれくらいそうしていただろう。
 室内の暗闇が突然揺らいだ。
 闇の中に沈んでいた床板の木目がはっきりと見えた。明かりを持った何者かが、部屋に入ってきたのだ。ルイスは咄嗟に両手で口を抑えた。
 テレピン油の匂いがいっそう強くなった気がした。
 最初に見えたのは、大きな靴だった。つま先がそり返るように尖った、染みだらけのみすぼらしい革靴。裾が破れたスラックスからのぞく足首は骨が浮いている。まともな人間の足だとは思えなかった。
 奴はすり足でゆっくりと部屋の中を歩き回った。自分を探しているのだ、とルイスは確信した。
 奴の動きにあわせて、明かりがゆらゆらと揺れる。その度に、ルイスはベッドの下で竦み上がった。
 不意に、明かりが一際強くなった。
 ルイスは眩しさに目を細めて、そして息を呑んだ。明かりの向こうで、奴が床に膝をついているのが見えた。
 ベッドの下を覗き込もうとしている。
 そのことに気が付いたとき、冷たい水を全身に浴びせられた心地がした。泣いたりするものかと思っていたのに、いつの間にかぼろぼろと涙が頬を伝っている。狭い隙間を必死に這いずって、少しでも奥に隠れようと足掻いた。
 ランタンの明かりがさらに床に近づく。傷だらけの白い手が見えた。尖った肩が覗いた。
 大きな顔がぬっと突き出された。ランタンの強い光がその相貌に不気味な陰影を描いている。目があった瞬間、奴は顔を歪めて嬉しそうに笑った。

 ルイスは自分の悲鳴で飛び起きた。
 全身がびっしょりと汗をかいていて、心臓がばくばくと嫌な音を立てていた。

「ルイス! ルイス、どうしたの! まさか、また心臓が……」

 普段見せない焦りを顔に浮かべて、ウィリアムがこちらを覗き込んでいた。弟が胸のあたりを抑えるのを見て、心臓の発作が再発したのかと思ったらしい。
 窓からは眩しい陽の光が差し込んでいる。
 あの不快な臭気は消え失せていたし、自分の荒い息づかいも、ウィリアムの優しい声もはっきりと聞こえる。
 兄の身体にしがみついて、ルイスは声を上げて泣いた。


 あの絵はすぐに壁から外された。
 その場に居合わせなかった者たちは「怖い夢でも見たのだろう」と笑ったけれど、奥方様が「私も、あの絵はずっと厭だった」とぽつりと呟いてからは誰も何も言わなかった。
 布でぐるぐる巻きにされた絵を、ジャックがどこかに持っていった。アルバートが伯爵にも口添えしてくれたのだろう。それからあの絵がどうなったのかは知らない。
 ただ、今でもルイスは、絵の飾られた部屋では眠らない。

初出:Pixiv 2022.07.25

On Another's Sorrow
 風邪をひいてめそめそしているフレッドの話。

 違和感に気付いたのは、いつものストールを首に巻いた時だった。何だか、ざらざらとした不快感がある。
 一度、ストールの結び目を解いてみた。
 特に汚れていたり、生地が毛羽立ったりしているわけではないのに、いつもと手触りが違う気がした。首の周りがどこか落ち着かない。
 今日は巻くのをよそうかとも考えたけれど、数日前からロンドンは急に冷え込んでいた。日のあるうちはいいが、僕の仕事は日が暮れてからが本番だ。ストールがないと、おそらく夜になってから寒い思いをする。
 僕は落ち着かない気分を無視して部屋を出た。

「お前、具合悪いのか?」

 モランが出し抜けにそういったのは、昼食の席だった。何を言われているのか咄嗟に理解できなくて、僕はモランの顔を見返した。
 テーブルについていた皆がぴたりと手を止めて、まじまじと僕の顔を見ている。
 隣に座っていたボンドさんが「ちょっとごめんね」と言って、気付いたときには彼の手のひらがぺたりと僕の額に当てられていた。細い指先はひんやりしている。

「あ、ほんとだ。熱あるね」
「え」
「ほら見ろ。あまり食ってねぇと思ったぜ」
「お前さんが珍しい。気温差にやられたか」
「解熱薬ならあるので、すぐに出しますね」
「頼むよ、ルイス。酷くなるようなら医者を呼んでくれ」

 ルイスさんが席を立ったのを皮切りに、皆がてきぱきと動き始めた。
 食べかけの食事が下げられて、背中にブランケットがかけられる。「オートミールか果物ならすぐに出せるが、まだ食べ足りないか」と師匠が尋ねるので慌てて首を振ると、かわりに薬が出された。
 戸惑った僕は、反射的にウィリアムさんへ視線を送った。彼は困ったように眉を下げながら、言った。

「うん、確かにすこし顔色が悪いね。今日はゆっくりお休み、フレッド」

 ウィリアムさんにそう言われてしまうとどうすることもできず、僕はあっという間に自室のベッドに押し込められた。
 あのモランまでもが「お前の仕事は全部俺らがやってやるから、大人しく寝てろ」と言っていた。そんなに具合が悪そうに見えたのだろうか。
 僕は内心首を傾げていたけれど、言われてみれば確かに今日は朝から身体がおかしかった。いつものストールを巻いた首の周りがざらざらと不快で、鉢植えやじょうろがやたらと重たくて、ルイスさんの作った食事がどこか味気なくて……。
 それらが全て体調不良に起因していることを、僕はようやく理解した。いったん理解してしまうと倦怠感がどっと襲ってきて、大人しく横になって目を閉じていることにした。

(そう言えば、寝込むほど体調を崩したの、初めてかもしれない……)

 子供の頃から、身体は丈夫な方だった。
 思い当たる体調不良といえば鼻風邪か、飢えを凌ぐためにちょっとまずいものを食べてしまった時の腹痛くらいなもので、病とは無縁の人生を送ってきた。医者にかかることも難しい、貧しい環境にあったので、そうでなければとっくに死んでしまっていただろう。
 身体が重い。
 熱が上がってきたのか、ついさっきまで(表面上は)普通に過ごしていられたことが嘘のように思えた。身体中の関節が熱を持って痛んで、起き上がれそうにない。
 眠ってしまいたかったけれど、身体の違和感が気になって寝付けなかった。これって、休めば治るものなのだろうか。薬が効くまでどれくらいかかるのだろう。外はまだ明るい時間帯なのに、カーテンを引いた室内は薄暗くてよそよそしい。
 ふいに、ウィリアムさんたちに出会う前のことを思い出した。貧民街の片隅で、熱病にかかってうなされている男を見つけた時のことだ。
 冷たい地べたに横になってうめき声を上げる様は異様で、死んでしまうのではないかと不安に思って恐る恐る近付いた。けれど声をかける前に、男は充血した目を見開いてこちらを睨みつけた。
 小さかった僕はそれで怖気づいてしまって逃げだした。数日経ってから同じ路地に行ってみた時には、男の姿はどこにもなかった。
 親切な人が見つけてくれて、病院へ連れて行ってもらえたならいい。元気になって自分の足でどこかへ行ったならもっといい。
 だけど、そんな都合のいい奇跡は起きなかっただろう。あの男はきっと助からなかった。
 今の僕よりずっと苦しかったはずだ。
 夜露もしのげない石畳の上で、毛布もなくて寒かっただろう。一人きりで心細かっただろう。近寄ってきた子供さえ睨みつけずにはいられないほど、追い込まれていたのだ。
 どうして逃げてしまったんだろう。あの時の僕に何かできたとも思わないけれど、どうして水の一杯でも運んでやらなかったんだろう。どうしてそばにいてやらなかったんだろう。
 取りとめのない後悔が、後から後から押し寄せてきた。
 あの男はきっと一人で死んだのだ。彼がどんな人間だったのかこれっぽっちも知らないけれど、あまりにも報われない。
 目の奥からじんわりと涙が溢れてきて、枕にしみを作った。泣いたってどうにもならないのに、悔しい、やるせない気持ちを抑えることはできなかった。
 不意に、何かを叩くような音がこつこつと響いた。僕が眠っていてもいいように、気遣ってくれたのだろう。ほんとうにささやかな音だったから、すぐにはノックの音だと気がつかなくて反応が遅れた。
 一拍遅れて部屋のドアが開く。泣いている顔を見られたくなくて、僕はあわてて頭から毛布をかぶった。

「フレッド?」

 ルイスさんの訝しげな声がした。
 変に思われただろうか。手にトレイを持っているのが見えたから、水か何かを持ってきてくれたのだ。お礼を言って、大丈夫だと伝えなくてはいけないのに、今はいつも通りの声が出そうになかった。

「嫌な夢でも見ましたか」

 ルイスさんは何でもなさそうに、ひとり言のような調子で呟きながらサイドボードにトレイを置いた。ちいさくガラスがぶつかる音がする。

「身体の具合が悪いと、良くないことばかり考えたり、思い出したりしてしまうものですよ。辛かったことや、恥ずかしい失敗が何倍にもなって」

 僕はおそるおそる、毛布から顔を出した。

「……ルイスさんも、同じですか」
「えぇ、誰だってそうですよ。これだけは、兄さんが言うより僕が言う方が説得力があるでしょう?」

 ルイスさんはそう言って肩をすくめた。
 その言葉で、彼は生まれつき心臓が弱かったと聞いたことを思い出した。大きな手術を受けて完治したものの、子供の頃はずいぶん病弱だったと。
 心臓が悪いって、どういう感覚なんだろう。苦しかっただろうし、心臓が止まれば死んでしまうのだから何より恐ろしかっただろう。
 冷たい石畳の上に横たわる男の姿に、小さなルイスさんの姿が重なった。子供の頃のルイスさんなんて見たこともないはずなのに。
 引っ込んだと思った涙がまた滲んできて、僕は目もとを拭った。ルイスさんが驚いたように目を丸くする。
 あぁ、これじゃあルイスさんがいつまで経っても立ち去れない。屋敷にいるときは誰よりも忙しい人なのに。
 けれど、止めなければと思えば思うほど、涙が溢れて止まらなかった。自分でももう、何が悲しくて泣いているのかよくわからない。
 そうしてぐずぐずと泣き続けていると、ルイスさんが僕の手を掴んだ。

「僕が苦しんでいたとき、兄さんがいつもこうしてくれました」

 ルイスさんは気恥ずかしそうに目を伏せながら、祈るように僕の両手を握った。
 乾いた温かい手だった。
 手のひらに硬い感触があるのは、ナイフを握ってできたまめだろう。僕の手のひらにも同じものがあるからすぐに分かった。
 目を瞬かせると、新しい涙の粒が転げ落ちた。

「……いつも?」
「えぇ、いつも。僕が具合が悪くなったのを隠そうとしても、兄さんはいつもすぐに気がつくんです。孤児院で他の子供たちに本を読んであげている時も、夜眠っている時も。そして、僕が落ち着くまでずっと手を握っていてくれました」

 兄弟のことを語るルイスさんの顔はいつもどこか誇らしげで、それは今この時も例外ではなかった。
 彼が一人きりで心細い思いをすることは、ほんとうにただの一度だってなかったのだろう。あの方は、いつでもどんな苦しみにも寄り添ってくれるから。
 握り込まれた指先から気持ちがほどけていくようで、僕はゆるゆると息を吐いた。

「神さま、みたいですね」
「……えぇ、そうですね」
「ルイスさんに、ウィリアムさんがいてくれてよかった……」

 僕がそう言うと、ルイスさんは少しだけ驚いたような顔をして、それからちいさく笑った。
 眼鏡の向こうの瞳が三日月のように細くなって、その目もとがウィリアムさんに似ていると思った。
 その発見を伝えればきっとルイスさんは喜ぶと思ったけれど、眠気で頭がぼんやりとして言葉が出てこない。視界がだんだんと狭まってきて、僕の手に重ねられた彼の手だけがよく見えた。

「おやすみ、フレッド」

 いつもより低められたルイスさんの声が心地よく鼓膜に響く。熱を持った頭の芯を、ゆっくりと冷やしてくれるようだった。

初出:Pixiv 2022.04.28

『ルイスさん』
 空き家〜恐怖の谷編あたりのお話。

「誰かいるのですか?」

 ヘルダーは虚空に向かって問いかけた。
 その目線はこちらを向いていない。が、こうして声をかけられてしまっては観念するしかないだろう。だんまりを決め込んでみても、彼は人の気配を察知してしまっているのだから不審がらせるだけだ。
 フレッドは諦めて返事をした。

「……僕です」
「おや、フレッドさんでしたか。あなたに気配を消されてしまうと敵いませんねぇ」

 盲目の技師はカラカラと笑った。

「どうかしましたか? こんな夜中に。どうも私特製の電気冷蔵庫に用があったようですが」
「え、えぇと」
「フフフ、隠さなくてもいいんですよ。冷たい空気がここまで流れてきていますからね。おおかた、お腹でも空いたんでしょう。この匂いは、牛乳ですか?」
「よく分かりますね……」
「夜中でも冷たい牛乳を飲めるなんて素晴らしいでしょう。ルイスさんたちに納得いただけるまで小型化省電力化に心血を注いだ甲斐があったというものです。近頃アメリカ製の電気冷蔵庫も流れてきていますがこのヘルダー製の性能とは天と地の開きがあるのですよ。まず第一に冷やすと言っても……」

 はじまってしまった。
 フレッドは内心で臍を噛んだ。
 この冷蔵庫がヘルダーの自信作であることはよく知っている。三年前に電気冷蔵庫を開発したヘルダーは、主人に褒めてもらいたくて仕方のない大型犬のごとく真っ先にウィリアムにそれを売り込んだ。弟思いのウィリアムはこれがあればルイスの抱える台所仕事が楽になるだろうと考え、食べ物を腐らせず保存できるという点でアルバートも大いに興味を示していた。しかし肝心のルイスに「こんなに大きくて電気を消費するものを屋敷に置いておける訳がないでしょう」と一蹴され、導入は見送られたのだった。
 それから足かけ三年、それは様々な苦労があったのだろう。機械いじりに関して知識のないフレッドにも推察できることだ。しかし今はその苦労話を聞いていられる時ではない。
 話の切れ目を捉えきれずフレッドがじりじりしていると、台所の入り口にルイスが顔を覗かせた。

「明かりもつけないで何をしている?」
「あぁルイスさん! 今ちょうどフレッドさんにこの電気冷蔵庫をルイスさんに認めていただくまでのお話をですね……」
「ヘルダー、マネーペニーが探していたぞ」
「あ、そうでしたそうでした! フレッドさん、申し訳ありませんが続きはまた今度で」
「はぁ……」

 ヘルダーが慌ただしく去っていって、沈黙が降りる。ルイスは腕を組みながらフレッドの方へ向き直った。

「それで……フレッド、君は何を?」
「……」

 ヘルダーは流石に気付いていなかったが、フレッドが牛乳を注いでいたのはグラスでもマグカップでもない。平たい陶器の器だった。もっと言うと、その器はここの棚にしまわれている食器でさえない。ただの植木鉢用の受け皿であることは、ルイスならすぐにわかるだろう。
 フレッドは諦めてすべてを白状した。


 その猫は、クッションの上に寝かせられていた。
 見覚えのある水色のストールに身体を包ませて、ぜぇ、ぜぇ、と苦しげな息を漏らしていた。部屋にルイスが入ってきたのを見て慌てて身体を起こそうとしたのを、フレッドが宥めた。

「貧民街でいつも餌をやってる野良猫がいて……そのうちの一匹です。具合が悪いみたいで、今夜は雨も降ってきたので、その……」

 フレッドがしどろもどろに経緯を説明していると、猫がぷし、と小さなくしゃみをした。ルイスは猫を驚かせないように注意しながらそっと床に膝をついて、珍しそうに呟いた。

「猫も風邪を引くんだな」
「はい……あの、絶対にこの部屋からは出しませんので……」
「別に追い出したりはしないよ。でも、君が仕事の間はどうするんだ? 放っておくわけにもいかないだろう」
「それは……」

 フレッドが答える前に、猫が鼻の詰まった声でニィニィと鳴いて彼のズボンを引っかいたので、話はそこで一旦途切れた。器を口元に持っていってやると、猫は嬉しそうに牛乳を舐めた。背中を撫でるフレッドの手に、安心して身を任せている。

「食欲はあるみたいだな」
「ええ」
「名前は何ていうんだ?」
「…………」
「つけていないのか」
「…………ルイスさん」
「何だ?」
「ルイスさん……と、呼んでいます」
「この猫を?」
「あの、名前というか、あだ名というか……その子も頬のところに傷があって、ルイスさんと同じだなって思ったから、僕が勝手に、そう呼んでいて……」

 毛に埋もれて分かりづらいが、この猫は右目の下辺りに小さな古傷があった。おそらく、他の猫と喧嘩をして引っかかれたか何かしたのだろう。白に濃灰色のぶち模様や青みがかったアーモンド型の瞳はルイスとは似ても似つかない。しかしこの猫の右頬に小さな傷跡を見つけたとき、フレッドは確かに彼のことを連想したのだった。
 それからこの『ルイスさん』はフレッドの中で少しだけ特別な猫になった。今夜だって、いつもの路地裏でぐったりと横たわっている彼を放っておけなくて、ジャケットの中に隠してこっそりと屋敷に連れ込んたのだ。
 とはいえ、フレッドは口に出したことを後悔した。いくらルイスが火傷痕のことを気にしていないとはいえ、さすがに失礼だったと思えてきた。
 フレッドは恐る恐る、ルイスの顔色をうかがった。

「そうか、そんな名前を……」

 ルイスは笑っていた。
 ゆるく握った拳が口元に添えられていて、その下から覗いているのは確かにちいさく弧を描いた唇だった。その隙間からふふ、と呼気が漏れた。
 ルイスが気を悪くしていない事にいくらか安堵しつつ、けれどこの反応は怒られるよりもよっぽどいたたまれなかった。ルイスの顔を見ていられなくなって、フレッドは『ルイスさん』の背を撫でるのに集中するふりをした。当の猫は我関せずといった顔で、口の周りを白く汚しながら牛乳を舐めている。あとで拭いてあげなくては。

「さっきの話だけど、この子の世話は兄さんたちにお願いしようか」
「えっ」

 フレッドは耳を疑った。ルイスの言う「兄さんたち」といえば、ウィリアムとアルバートしかいない。

「……いいんでしょうか?」
「お二人とも動物はお嫌いではないから大丈夫だ。何かしていないと落ち着かないと漏らしていらっしゃったが、公的な仕事に参加するにはまだ時間がかかるし、かと言って屋敷の雑用をしていただくのも心苦しい。この子の看病ならうってつけだ。明日さっそくお願いしてみよう」
「それはありがたい、のですが……」
「どうかしたか?」
「いえ……、『ルイスさん』なんて名前をつけてしまうと、ウィリアムさんもアルバート様も愛着が湧いてしまって手放せなくなるのでは、と……」
「まさか。二人とももういい大人なんだから」
「…………」

 ルイスは笑って取り合わなかったが、フレッドのこの予感は的中する。一週間後、回復したルイス(猫)を里親のもとに引き渡すにあたって、ウィリアムとアルバートから非常な抵抗があったが、それはまた別の話。


(アルバート兄さん、ウィリアム兄さん。そろそろその子を離してください)
(考え直そう、ルイス。ルイスはとても賢くていい子だよ。この数日間粗相もしなかったし、Mr.チャールズ・ディケンズに対してもとても紳士的だった)
(賢かろうと紳士的だろうと、先方とは既に話がついているんです。ご心配なさらなくとも、熱心な愛猫家であることは確認済みです)
(フレッドの調査結果を疑ってるわけじゃないよ。でももうルイスはうちの子じゃないか。今さら他所の家に連れて行くなんて可哀想だよ)
(ミャア)
(ほら、ルイスも僕らと離れたくないって言ってる)
(言ってません。いいから早く離してください。モリアーティ家のルイスは僕だけなんですからね)
(うぅ………)

初出:Pixiv 2022.04.11

凍て星
 本編数年前のお話。

 モランが酒場を出ると、猫の鳴き声が聞こえた。
 こんなところに珍しい、と声の方に視線をやると、空き地の草むらの中にフレッドが座り込んでいたのでモランはぎょっとした。

「おい、フレッド」

 モランがずかずかと近づいていくと、フレッドの足元にまとわりついていた猫が逃げ出した。モランが情報収集のために酒場に入り、フレッドと別れたのは二時間ほど前だ。それからずっとこの寒空の下で猫を構っていたのか。
 彼の腕にも、ストールに包まれた黒猫が抱かれている。モランは呆れてため息をついた。

「寒いのに何やってんだ。先に戻ってろっつったろ」
「……」
「そいつももう放してやれ」

 フレッドは反応しない。
 彼の腕の中の猫も、先ほどからぴくりとも動かなかった。眠っているのかと思ったが、野良猫がこんな状況でぐうすか寝ているはずもない。
 フレッドが身動ぎしても、猫は前足を中途半端に上げた格好のまま微動だにしなかった。

「……死んじまってるのか?」

 もしやと思って尋ねると、フレッドは小さくうなずいた。

「寒そうに、してたから……温めようと思ったけど、駄目だった」

 言いながら、それでも諦めきれないようで、フレッドはしきりにストールの上から猫の身体をさすっていた。その指先も、冷えて真っ赤だった。

「ちょっと見せてみろ」

 フレッドの隣にかがみ込んで、猫に手を伸ばす。小さな口を指でこじ開けると、フレッドは驚いてモランの腕を強く引いた。

「何やってるの」
「よく見てみろ。こいつ、歯が欠けてるだろ」
「……病気、だったの?」
「違う。年寄りだったんだ。人間と同じで、猫も年を取ると歯が悪くなるんだよ」

 歯の抜けたじいさん見たことあるだろ、と問いかけると、フレッドはきょとんとしながらうなずいた。

「寿命だったんだ。仕方ない。最期にお前が抱いててくれて、嬉しかったろうよ」

 モランはフレッドの小さい頭に手を載せた。
 髪をわしゃわしゃとかき混ぜてやってようやく、彼は少しだけ表情を歪めた。赤くなった鼻をすんと鳴らして、もう一度猫をぎゅうと抱きしめた。

「埋めてやろうぜ。向こうの公園ならちょうどいいだろ」

 モランの提案に、フレッドは首を横に振った。「ここに埋める」と宣言する声は、消え入りそうに頼りなかった。
 この空き地でも、確かに穴を掘って猫の遺骸を埋めることはできるだろう。しかし空き地は空き地だ。伸び放題の草むらの影にはゴミが散乱している。埋葬するなら静かな公園の木の下の方が……と考えたところで、フレッドがじっと明後日の方向を見つめているのに気がついた。
 その視線の先を追うと、向こうの路地の暗がりに、黄色い光が二つ浮かんでいた。先ほど逃げていった猫が、こちらをうかがっているのだ。
 死んだ猫とよく似た黒猫だった。親子か、兄弟だろうか。

「……そうだな、遠くに埋めたら気の毒だ。野犬がきて掘り返すといけねぇから、そこの酒場の親父にスコップ借りてきてやる。ちょっと待ってろ」

 立ち上がりざまに、モランはコートを脱いで、フレッドの頭からばさりと被せた。「うわ」と小さな声が上がった。

フレッドと猫に関するお話

彼の横顔
 醜聞編の少し後のお話。


「やぁ、フレッドくん。これから仕事かい?」
「あ、いえ……」

 屋敷の廊下で行きあったフレッドくんに片手をあげながら尋ねると、彼は言葉少なに答えた。 
 モリアーティ家に厄介になることはや数カ月。仕事は問題なくこなせているし、銀行強盗事件から皆ともだいぶ打ち解けられた自覚はある。
 フレッドくんのことも、短い受け答えや日々の仕事ぶりから信頼できるいい子だというのはよく分かる。分かるのだけれど、逆に言えばそれ以上のことはまだよく分からなかった。
 思い返せば、僕はこれまでああいう朴訥とした年下の男の子と親しく関わった経験があまりなかったかもしれない。
 さっきの質問にしても仕事なら仕事だとはっきり答えるはずだし、モランくんのように派手に遊び歩くタイプにも見えなかった。友達か、もしかすると女の子と約束でもあるのだろうか。
 その背中を見送りながら何となしに考えこんでいると、ウィルくんがにこにこしながら近寄ってきた。

「気になるかい、ボンド?」
「ウィルくん」
「こっそりついていってごらん。面白いものが見られると思うよ」
「え、いいのかな。君にそう言われると、俄然興味がわいてきちゃったよ」
「フフ、普段着ない服に着替えていくといいよ」
「尾行がバレないように、変装するってこと? OK、わかったよ」

 僕は一度部屋に戻ると、手早く着替えを済ませて尾行を開始した。
 こんな簡単な変装でモリアーティ家の密偵を欺けるとも思っていなかったが、彼は周囲を気にする素振りもなく進んでいく。やはり仕事ではなく個人的な用事のようだ。
 やがて一軒のパン屋に着くと、彼は裏に回り込んで戸を叩いた。もしやここの看板娘と、と淡い期待を抱いてはみたものの、出てきたのは髪の白くなり始めた店主だった。おそらくはパンが詰まっているであろう紙袋を店主から受け取って、フレッドくんはお金を支払っているらしい。
 うーん、パンを抱えて女の子に逢いに行くとも思えないし、これはもうロマンスは期待できそうにない。でも単なるおつかいというわけでもなさそうだし、ウィルくんを信じて調査続行。
 パン屋を後にしたフレッドくんは、大きな通りを外れてどんどん人気のない路地へ入っていく。好奇心と少しの後ろめたさが入りまじって、僕はどこか浮足立った気持ちで尾行を続けた。
 やがて角を曲がった先で不意にフレッドくんが立ち止まったので、僕は慌てて足を止めた。
 塀の影からそっと顔を覗かせると、彼の足元に小さな影がまとわりついている。ミィミィと声を上げているあの生き物は……。

「おや、かわいい」

 僕が声を掛けても、フレッドくんは驚きもしなかった。

「やっぱり付いてきてたんですか、ボンドさん」
「あはは、バレてたか」
「……」
「ごめんって。何の用事か気になってさ。だけど、まさかこんなかわいい子たちとデートだなんて予想もしてなかったよ」

 フレッドくんは特に何も答えなかったけれど気分を害した様子もなく、猫をなでている。このあたりの野良猫たちだろう。大きい子が二匹と、まだ小さい子が一匹。
 家族かなぁ、かわいい。
 フレッドくんによく懐いているようで、野性を忘れてお腹を見せてる子もいた。
 いちばん小さな白猫が僕の方にまで寄ってきて、何かくれるのかと期待に満ちた眼差しでこちらを見上げてくる。顎の下をくすぐってやると、ぐるぐると喉を鳴らして身体を擦り寄せてきた。
 かわいい。けど、これいつものスーツで来てたら毛だらけになってたな……。確かに着替えてきて正解だった。ウィルくん、ありがとう。

「ほら、ごはんだよ」

 フレッドくんがガサガサと音を立てて、抱えていた紙袋の中を探った。猫たちから期待に満ちた鳴き声が上がる。取り出したパンをフレッドくんが細かくちぎって投げてやると、猫たちは一斉に飛びついた。

「うわ、すごい勢い。いつもあげてるの?」
「はい」

 と、その時ミャオウ、と鋭い鳴き声が上がった。
 大きい二匹のうちのどちらかが、仲間のパンを横取りしようとしたのだろう。互いに毛を逆立てて睨みあっている。
 白猫が驚いて身を固くしたのがわかった。

「こら、喧嘩しちゃダメだよ」

 フレッドくんは慣れた手つきで、先に飛びかかろうとしていた猫の首根っこをおさえた。

「仲良くしないともうあげないよ。ほら、爪を引っ込めて」
「ニィ」
「そうそう、いい子だね」

 あ、フレッドくん、猫相手の方がよく喋るんだ。
 普段無口かつ無表情なフレッドくんの口元には僅かながら柔らかい笑みが浮かんでいる。僕は猫を撫でるふりをしつつ彼の横顔を盗み見て、軽い感動を覚えた。
 でもわざわざ指摘したりしたら多分もう二度とこんな顔は見せてくれなくなる。僕はわき上がるいたずら心をぐっと堪えた。
 喧嘩が収まり、猫たちがまたパンを食べ始めたのを見届けてからフレッドくんは立ち上がった。

「おや、もう行くの?」
「はい。他の猫たちのところにも行かないと」
「他にも待ってる子達がいるんだ。やるねぇ」
「今日はあと十か所回ります」
「えっ」

 僕は耳を疑った。

「一応聞くけど、猫に餌をやりに?」
「一か所にあまりたくさん集めるとさっきみたいな喧嘩があちこちではじまって収集がつかなくなりますし、近くの住民に迷惑なので……。猫捕りが来ても困りますし」

 それは確かにそうだろう。
 一匹一匹は可愛くとも、それが何十匹と集まればかわいいを通り越して圧がすごい。野良猫はお世辞にも清潔とは言い難いし、あまり数が増えれば駆除しようと考える者が出ても不思議ではない。不思議ではないのだが……。

「来ますか?」
「いや、遠慮しとこうかな……」
「そうですか。では」

 そう言って頭を下げると、フレッドくんは猫たちがパンに夢中になっている隙に足早に去っていった。
 野良猫の縄張りってどれ位の間隔なんだろう。朝までにすべて回り切ることができるのだろうかと考えて、僕はちょっと途方に暮れた。
 餌代にしたって、顔なじみに売り物にならないパンを安く譲ってもらっているにしても、毎日のこととなると馬鹿にならない金額だろう。
 ただ「猫が可愛くて好きだから」では到底つとまらない大仕事だ。あの家の人達が口を揃えてフレッドくんのことを「優しい」と評する理由を改めて理解した気がする。

「……大したもんだねぇ、あの子も」

 口の周りをパンくずだらけにした猫は、ミャオ、と他人事のような顔で鳴いた。

chapter 7:事件の顛末

 数日後、モランは居間で新聞を読んでいた。
 『贋金づくりの一味逮捕――貧民街での恐るべき犯罪』という見出しで始まる記事だ。

「『廃材を拾いに工場跡地へ行った仲間が戻らないことを不審に思い、貧民街の孤児が巡回中のホワイトチャペル署の警官に訴えでた。ザック・パターソン巡査はこの小さな市民の要請に応じ、足を踏み入れた廃工場で偶然にも贋金づくりの現場を取り押さえるお手柄。』……なんだよ、結局パターソンの奴が手柄総取りかよ」

 廃工場での一件は、じつに呆気ない形で処理された。
 モランたちが廃工場に忍び込んだのと同じ頃、ウィリアムの指示で、ヒルダが警官を呼びに走った。
 もちろん彼女は、パターソンがウィリアムの息のかかった警官であることは知らない。たまたま話のわかる警官に行き当たって、彼が廃工場に潜んでいた犯罪者たちを取り押さえ、メイナードを保護してくれたと信じている。

「事が事だけに、警察で処理してもらうのが一番だったからね。フレッドが撃ってしまった弾については『犯人を取り押さえるため警官が発砲した』ということにしてしまえば、何も問題ないでしょ?」

 ウィリアムはちょっと首を傾げながら、そう言って笑った。
 確かに、贋金づくりの一味のうち一名は抵抗したためやむを得ず射殺されたと報道されている。

「連中が仲間割れした設定はどこ行ったんだよ。パターソンが撃ったことにしなくても、逃がした奴の仕業にしちまえば」
「拳銃を持った殺人犯が逃げたことにしちゃったら、それこそ大騒ぎじゃないか」
「……まぁ、確かに」
「パターソンには面倒をかけてしまったけど、これを機に本庁への栄転の話も上がっているみたいだし、悪くない結果じゃないかな」

 つまり、ウィリアムは二つの筋書きを用意していたというわけだ。
 犯人グループからあえて一人を逃がして仲間割れがあった事にしてしまうプランAと、現場に駆けつけたパターソンが連中を取り押さえた事にするプランB。ウィリアムはプランAで進める方針であったが、結果としてはフレッドの乱入によってその両方を取り入れる形となった。
 細かく調べられれば不自然な点が見つかるかもしれないが、警察や世間の関心は射殺の正当性云々よりも『造られた贋金が街に出回っていないか』の一点だろう。
 モランは記事の続きを読み上げる。
 犯人グループの中から一名、現場から逃げ出した者がいる。スコットランドヤードが全力で捜索にあたっているが、いまだ逮捕には至っていない。
 また、同日深夜、貧民街の一角から火の手が上がった。小火で済んだものの、明らかに放火の痕跡があった事、被害にあったのが贋金事件に関わった孤児たちがねじろにしていた廃屋であった事から、逃げた男が報復として火を放ったのではないかと推測される。

「『幸い子供たちに怪我はなく、現在はスコットランドヤード庁舎にて保護されている。逃げた男の行方は、ヤードが総力を挙げて捜索中。ロンドン市民の皆様はくれぐれも用心を』……とまぁ、こんなところか」

 モランは、横から真剣な面持ちで紙面を覗き込んでいるフレッドを見やった。
 最低限の読み書きはできるようであるが、新聞記事のようなまとまった文章を読むのはまだまだ難しいらしい。読めないくせに、モランが読み上げてやっている内容に嘘偽りがないか確かめようと必死になってわかる単語を拾っているのだ。
 彼は事件以降、モリアーティ家で匿われていた。ガラスで切った傷が治りきらないので手足はまだ包帯だらけだったが、熱が下がったおかげで頬には子供らしい赤みがさしている。
 
「火事って……」
「それもウィリアムの差し金だ」

 もちろん、万が一にも逃げ遅れる者が出ないよう、事前にヒルダには子どもたちを起こしておいてもらっていた。
 普通であれば貧民街での小火など大した騒ぎにはならないが、逃走中の犯罪者による放火の可能性が浮上すれば話は別だ。パターソンと、一足先にヤードに保護されていたメイナードのおかげで二つの事件は結びつき、焼け出された子どもたちは首尾よくスコットランドヤードの保護下に入ったというわけだ。

「後の事も心配しなくていい。もうすぐさる慈善家が、彼ら全員が孤児院に入れるように融通してくれるだろうからね」
「……アルバート、その人の善意につけこむやり口はどうなんだ?」
「さぁ、何のことだか?」

 若き伯爵家当主は、モランの言葉などどこ吹く風といった様子で優雅にカップを傾けた。
 『さる慈善家』とは、少し前まで彼ら兄弟の後見人をつとめていたロックウェル伯爵の事である。
 アルバートは昨夜伯爵のもとを訪ねていって、世間話として、新聞を騒がせているこの事件の話をした。焼け出された孤児、と聞いて、かつて自分たち兄弟に降りかかったあの痛ましい火事を思い出してしまった。彼らを他人とは思えない、不憫でならないので何かしてやれる事はないだろうか……と。
 人のいい伯爵はその言葉に大いに胸を打たれ、それならば寄付をしている孤児院に当てがあるから手配しよう、と請け負ってくれたのだ。

「フレッド。僕らとしては、君にも彼らと同じ孤児院に入ってほしかったんだけど……」

 ウィリアムが言った。
 新聞報道では、フレッドについてはほとんど触れられていない。逮捕された犯人たちですら彼の行方を知らないのだ。これも逃げた一人に疑惑がかかるところではあるが、実際死体が見つかったわけでもないので『行方不明』として処理されている。
 フレッドが今もこうして生きていることは、ヒルダやメイナードすら知らなかった。おかげでパターソンは、子どもたちから「早くフレディを見つけてくれ」と毎日のようにせっつかれて参っているようだった。
 しかし、フレッドは硬い表情で首を振った。

「人を撃ちました。皆と一緒には……」
「それじゃ、ヒルダさんからの依頼が果たせなかったことになってしまうな」
「パターソンから聞いたが、そもそも銀貨を盗んだのはメイナードなんだろ?」

 入り込んだ廃工場の中で、幸か不幸か誰にも出くわすことなく見つけてしまったらしい。これだけあるならバレることもないだろう、と彼は銀貨を一掴み持ち出してしまったのだ。
 
「……僕が、返しに行こうって言った。だからメイナードが捕まって、こんなことになったのは僕のせい」
「廃工場に引き返したのですか?」

 ルイスの問いに、フレッドは頷いた。
 メイナードがポケットに詰め込んだ銀貨を見せてきた時点で、フレッドも贋金とは想像しなかったらしい。しかしそもそも廃墟に大金があること自体が異常である。明らかに普通の金ではないのだから持っていては危険だと、渋るメイナードを説き伏せて廃工場へ引き返したという。
 おそらく二人とも大金を前にして動転していたのだろう。身の安全を最優先するなら、テムズ川にでも投げ捨ててしまえばよかったのだ。

「それでも、君たちの行動がなければ街に贋金が出回っていた。本当にたいへんなことになるところだったんだよ。背後関係は市警が洗っているところだけど、どうやら君が撃った男は英国人ではなさそうだ。治安判事たちも、犯罪者から友達を助けようとした君に同情こそすれ、牢に入れるようなことはまずありえないだろう。ロンドン中の市民がきっと君の味方になる」
「…………」

 ウィリアムが甘い言葉をぶら下げてみても、フレッドは黙ったままだった。

「おい、このまま出ていかなければお前は世間的に死んだも同然だ。それでいいのか?」

 モランは思わず口を出していた。仲間から離れて、人殺しの業だけを背負ったままたった一人で生きていくのはあまりに酷に思えた。しかしフレッドは、透明な無表情のままだった。

「……エディが、煙突の中で焼け死んだとき」

 彼は言葉を慎重に選びながら、ぽつりぽつりと語り始めた。

「煙突掃除屋の親方とその家の住人が、大声で言い争っていました。エディの死体を取り出すには壁を壊さないといけないから、どちらがお金を払うのか、って。僕らはそれを、屋根の上で聞いていました」

 ウィリアムのカップに紅茶のおかわりを注ごうとしていたルイスも、手を止めて耳を澄ませていた。

「ヒルダにも、会ったんですよね。あの子は八歳のときに紡績工場に奉公に出されて、一生懸命働いたけど、機械に腕を巻き込まれてしまいました。それで、あんなふうに……。まともに働けなくなって、工場をくびにされました。
 『家がうんと遠いところにあるから、帰りの列車賃が足りないんだ』って笑ってましたけど、僕は嘘だって知ってました。口減らしで奉公に出されたから、家に帰っても邪魔ものにされるだけだって」

 生きているのに、生きている者として扱ってもらえない。それが彼の見てきた地獄だった。
 フレッドは顔を上げて、一同を見回した。おずおずと控えめな仕草だったが、その幼い相貌にはどこか決然とした表情が浮かんでいる。

「皆が、これから普通に暮らせるなら、僕はそれでいいです」
「…………」
「人を殺したのに、皆と同じようには暮らせません」
「そう」

 ウィリアムは軽く頷いた。そうして、何でもないような調子で、深く切り込む。

「逃げた男の行方を追うつもりなんだね」

 フレッドはハッとしたように目を見開いた。瞳におそれに似た色の影が過ぎる。

「そうだね。奴は、計画を台無しにした君の仲間たちに復讐をしようと考えるかもしれない。特にメイナードははっきりと顔を知られてしまっているからね。市警もその事は当然考慮しているけれど、いつまでも守ってくれるわけじゃない」

 緋色の瞳に射抜くように見つめられて、フレッドが椅子の上で身を縮ませた。隣に座るモランにも、その震えが伝わってくるようだった。
 報復。
 贋金づくりが行われていることを知らなかったとはいえ、『迷い込んだ孤児たち』が廃工場に市警を呼び込むきっかけを作ったことに変わりはない。理不尽な怒りの矛先が彼らに向かないとは言い切れなかった。
 その可能性を、モランも考えなかったわけではない。当然、ウィリアムだって『後始末』の策を練っているに違いない。けれどそれはこちら側の仕事であって、フレッドがこれ以上危険を冒す必要はどこにもない。
 「馬鹿げてる」とモランは呻くように漏らした。

「敵が逃げた一人だけとは限らねぇ。贋金づくりなんて大それた犯罪、それなりの組織が背後についてたはずだ。ガキがのこのこ首突っ込んだところで、あっという間に殺されてテムズ川に沈められるのがオチだ」
「それでも、」
「それでも、やる?」

 ウィリアムの涼しげな声がするりと滑り込む。

「闇に潜った犯罪者たちを見つけ出して、事を起こす前に押さえるなんて、それこそ英国中の犯罪ネットワークに通じでもしない限り到底無理な話だよ。それを、明日食べるパンひと切れを手に入れるのもやっとの君が?」
「…………」

 フレッドは目に涙を溜めて、しかしそれでも否とは言わずに床を睨んだ。その頑なな態度に、モランはまた声を荒げそうになった。が、ちらりとこちらを見上げたウィリアムと目があって、言葉を飲み込んだ。
 厳しい言葉とは裏腹に、ウィリアムはどこか楽しそうな、愛しいものでも見るような笑みを浮かべていた。モランには、その表情に見覚えがあった。

「そうだ、ルイス。あの枝が折れた庭の木はどうしたのかな?」

 ウィリアムが唐突に話題を転換した。話を振られた弟はほんの少し目を泳がせながら、言葉を探しているようだった。

「えっと……そういえば、折れたままでした。すぐに庭木屋に連絡しますね」
「うん、そうだね。お願いするよ。折れたままにしておくのはよくないからね。でも、こんな時すぐに対応してくれる使用人がいると助かると思わないかい?」

 問いかけるように語尾を上げておきながら、ウィリアムの言葉は問いかけではなかった。その意味を測りかねて、ルイスの紫がかった紅い瞳がぱちぱちと瞬いた。
 ウィリアムは「ふふ」と息だけで笑いながら、紅茶のカップに手を伸ばした。そうして気軽な雑談のような調子で、今度は兄に向けて微笑みかけた。

「アルバート兄さん、どうでしょう。庭師をひとり雇ってみるというのは?」

[newpage]

[chapter:新しい使用人]

「モラン」

 裏庭で煙草をふかしていると、植木の影からフレッドがひょっこりと顔を出した。

「おう、どうした」
「これ」

 フレッドが差し出したのは、紙ナプキンに包まれた焼き菓子だった。

「アルバート様にいただいた」
「へぇ、よかったじゃねぇか」

 ウィリアムが彼を新しい使用人として迎え入れたいと言い出した時はアルバートもルイスも驚いていたが、この幼いながら物静かで素直な働き者を二人が気に入らないはずもなかった。フレッドもフレッドで、受けた恩に報いるにはいくら働いても働き足りないといった勢いで屋敷の仕事に精を出している。おかげでモランはここ数日少々肩身が狭かった。
 それにしても、基本的に弟たち以外眼中に無いアルバートがずいぶん打ち解けたものだ、と感心しながら煙草をふかした。

「……」
「……」

 沈黙が流れる。
 フレッドはまだ何か言いたげに紙ナプキンを差し出している。もしやと思って「俺にくれるのか?」と尋ねると、彼はこくりと頷いた。

「ウィリアムさんとルイスさんの分は別に取ってあるって」
「……そうか」

 アルバートはおそらく、「弟たちの分はあるから遠慮せずに食べなさい」と言いたかったのではないだろうか。菓子を配分するにあたって彼がモランを頭数に入れているとは思えないし、モランだって別にその事に腹を立てたりはしない。
 三兄弟と同じテーブルについて食事をする事に、フレッドは毎回ひどく恐縮していた。主人であろうと使用人であろうと、階級に関わらず分け隔てなく扱うことがモリアーティ家の方針だ。当然食事も皆で一緒に取るし、メニューに差を付けられることもない。
 しかし生まれてこの方しみったれた食事にしかありついてこなかったであろうフレッドには、貴族と同じテーブルで食事をするなど気詰まりでしかない。食事の席のフレッドは無作法にならないよう周りの手付きを真似ようと真剣だったし、それに気づかない顔をしながら殊更ゆっくりとした動作でナイフとフォークを使う三兄弟がモランには可笑しかった。
 弟たちと別に菓子を与えたのは、お茶の時間まで同席させるよりも一人で気楽に食べた方がいいだろうというアルバートからの配慮に違いない。おそらくウィリアムやルイスも同じことを考えただろう。
 しかしどうやらフレッドは、アルバートの言葉を「君はモランと分け合って食べなさい」と解釈したか、モランだけがお菓子を貰えないのはかわいそうだと考えたかしたようだった。
 フレッドがこちらを見下ろしながらじっと待っているので、モランは仕方なく焼き菓子をひとつつまんだ。別に欲しくもなかったが、彼の厚意を無碍にすることもない。
 モランが菓子を口に運んだのを見て、フレッドもモランの隣に腰をおろした。丸かったり四角かったり、ココアが練り込まれていたりする焼き菓子をひとつひとつ吟味して、これと決めたものを慎重な手つきでつまみあげる。
 さくさくと菓子をかじる横顔はいつもの無表情ながらもどこか嬉しげだった。
 甘いものを食べる機会などほとんどなかったはずだ。ひとり占めしたって誰も咎めないというのにわざわざモランを探すなど、こんなに気が優しくてよく今まで生きてこられたものだ。
 きっとあのあばら家でもそうだったのだろう。僅かな食べ物を仲間たちと分け合って、最後に自分の分が残っていなくても、じっと黙って耐えているような。

「甘。煙草にはあわねぇな……。俺はもういらないから、後はお前が食ってくれ」
 
 フレッドはぱちくりと目を瞬かせた。

「いらないの?」
「おう。俺はこっちの方が好きだ」
「……美味しいの?」
「吸ってみるか?」
「いらない」

 そっけない。
 もう少し愛想よくしてくれてもいいと思うのだが、大人に甘えられるような環境にいなかったのだから仕方のない話だ。
 フレッドは菓子をかじりながら、庭の隅のトネリコの木を見つめていた。先日、彼が屋敷から脱走する際に足場に使った木だ。
 今は折れた枝には癒合剤が塗られ、麻布が巻かれている。ルイスが呼んだ庭木屋に見守られながら行った、新任庭師の初仕事だった。やはりフレッドは相当に身が軽いらしい。脚立の高さが少々足りなくとも、てっぺんで立ち上がって危なげなく作業をこなしていた。
 
「気にすることないぞ。枝が一本折れただけで木がダメになったりはしない」

 どうやら当たりだったようだ。フレッドはぱっとモランの方を向くと、少しだけばつが悪そうに口をへの字に曲げた。
 ああいう場所で育った子供の例に漏れず表情に乏しいたちであったが、ここ数日で多少なりとも顔色を読めるようになったように思う。

「……元に戻る?」
「そのうち元気になるさ。人間と同じだ」
「人間は元通りにはならないよ」

 フレッドはちらりと横目でモランの右手を見た。
 モランとしては「時間が経てば良くなる」という意味で言ったつもりだったのだが、ずいぶん生々しい捉えられ方をしてしまったようだ。

「……まぁ、そうだな。木だって前と全く同じ枝が生えてくるわけじゃない。でも生きてさえいりゃ、元通りとはいかなくとも、新しい芽が出てくるもんだ」
「……うん」
「ところでお前、怪我はもういいのか」
「うん」
「肩は?」
「動く」

 フレッドは右腕をぐるりと回してみせた。

「ならいい。でも、もっと食って身体作らないとな。銃撃つたびにいちいち後ろにひっくり返ってたら身が保たねぇぞ」

 からかったつもりだったが、フレッドはこくりと頷いた。その真面目くさった表情に思わず苦笑しながら、モランは足元の煉瓦に吸い殻を擦り付けた。
 ウィリアムからは直々に彼の新人教育を言いつけられている。彼に充分な素質があることは先の事件でよく分かっていた。教育を受ける機会に恵まれなかっただけで物覚えは悪くないし、度胸もある。特に運動神経は相当なもので、ジャックに見せるのが今から楽しみなくらいだ。
 戦闘術や銃の扱いは教えてやれる。しかし、彼の目指す英国一の情報屋になるための道筋は、モランにもまださっぱり見当がつかなかった。それについては、これから共に模索していくしかないのだろう。

「あ、そうだ。これも言っとかねぇとな」

 ポケットから新しい煙草を取り出しながら、モランは付け足した。

「今後は困ったらまず俺を頼れ。一人で無茶はするな。こないだみたいなのは絶対にナシだ」
「……こないだ?」

 フレッドは首を傾げたが、ややあって、一人で廃工場に突撃したことを言っているのだと気付いたようだった。

「あの時は、モランが強いことも、ウィリアムさんがあんなにすごいことも知らなかったし。それに……」
「それに?」
「助けて、くれたから……」
「は?」

 助けてくれたから、頼れなかった?
 一瞬言葉の意味を図りかねたが、この少年の優しい性格を考えればすぐに答えは出た。
 巻き込みたくない、と思ったのだろう。危険な連中から自分を救ってくれたモランや、温かい食事とベッドを与えてくれたこの屋敷の兄弟たちを。
 思わず、呆れとも感心ともつかないため息が漏れた。

「わかった。でも、これからはもう変な気ィ回すなよ。お前と俺とは兄弟分なんだからな」
「兄弟……」
「何だよ、文句あるか?」

 フレッドが不思議そうにこちらを見上げる。その頭を軽く小突いてやると、彼は二、三度ゆっくり瞬きした。それから、小さく首を振った。

「……兄弟、いいなって思ってた」
「そうか」

 モランが片頬を上げて笑うと、フレッドはくすぐったそうに目を伏せた。モラン自身は、ウィリアムたちの関係を羨ましいと感じたことはない。それでも何故だか、フレッドの言葉は心の中にストンと落ちてきた。
 さて、何から始めようか。
 黙々と菓子を頬張りはじめた彼の小さい頭を眺めながら、マッチを擦って新しい煙草に火をつけた。

初出:Pixiv 2022.06.11

chapter 6:銃声

 モランとウィリアムは、日没と同時に廃工場へ踏み込むことにした。
 日暮れまでの僅かな時間、ヒルダを始めとする子供たちには、廃工場には近付かないよう言い含めた上でフレッドを捜索させた。彼だけでも抑えられればと考えていたが、とうとう彼は見つからなかった。
 どこかに身を隠しているかもしれなかったし、屋敷からここまで子供の足ではまだ辿り着けないだけという可能性もある。後者であることを祈った。
 問題の廃工場は、まだ辛うじて操業を続けているらしい工場と打ち捨てたれた廃墟とが交互に並んでいるような場所にあった。
 割れっぱなしの窓ガラスからして、明らかに長らく放置されている様子だったが、裏口付近のぬかるんだ地面には真新しい轍がいくつも刻まれていた。車輪の幅は広く、ウィリアムの親指ほどの深さがある。かなり重量がある何かが運び込まれた痕跡だった。

「そろそろ行こうか」

 ウィリアムが腰を上げた。夕食でも食べに行こうとしているような、軽い調子だった。モランはベルトに挿したリボルバーの感触を確かめた。

 門の側を、煙草をふかしながら歩く男がいた。
 フェルトの帽子の下から、伸び放題の髭と髪が顔を覆っている。この工場の従業員、というわけではなさそうだ。
 暗がりの中ではあったが、背中を丸めて足を引きずるような覇気のない歩き方には覚えがあった。昨夜フレッドを追い回していた男の一人だ。
 一人で見張り番をしているのか、たまたま相方が外しているのかはわからない。モランは周囲に人の気配がない事を確かめると、さっと飛び出してリボルバーのグリップで男の後頭部を殴りつけた。
 ウィリアムが「さすが」と小さくつぶやいた。
 昏倒した男は物陰に引きずり込んで縛っておいた。持ち物を簡単に検めてみたが、出てきたのは煙草や小銭くらいで、鍵の類は持っていなかった。
 辺りを探っていたウィリアムがするりと戻ってきて、モランの腕を叩いた。

「あっちから入れそうだ」
 
 ウィリアムの指差す先には通用口があった。錆びた蝶番がきしんで嫌な音を立てた。
 一階の大部分は作業場になっていて、その周りを長い廊下がぐるりと取り囲んでいるようだ。モランとウィリアムはそっと内扉を開けて、作業場に潜り込んだ。廊下をまっすぐ進んだのでは、敵と鉢合わせたとき隠れる場所がないからだ。幸いなことに、作業場は工員たちの働きぶりを監視するためか、ほとんど全面に大きなガラス窓が取り付けられている。
 煤けて曇ったガラス越しに廊下の様子を伺いつつ、大型機械や作業台の影を踏みながら進んでいくと、作業場の奥に薄い光が見えた。廊下を挟んだ反対側にドアがあって、そこから明かりが漏れているのだ。モランはより一層慎重に、明かりの方へにじり寄った。
 部屋の中から、数人の話し声がする。
 そう広くはない部屋だが、机と椅子が何組か揃っていて、壁には黒板とボロボロの羊皮紙が貼り付けられているのが見えた。おそらくは事務室か何かだったのだろう。
 事務長よろしく奥の椅子に腰掛けていた赤ら顔の男が、苛立たしげにコツコツと机を叩いた。

「……まだ見つからないのか?」
「すみません、どうにもはしっこい奴で、昨夜は邪魔も入ったもので」
「あんなガキがヤードに訴えでたところで、何ともありゃしませんよ……」
「ばか野郎!」

 乱暴に机を叩く音が響いた。

「あのガキが金が手に入ったと浮かれてパンでも買いに行ったらどうするんだ!? どんな間抜けでも商売人なら、みすぼらしいガキが銀貨を持って買い物にきたら怪しむに決まってるだろうが。どこから盗んできやがった、そもそも本物か?ってな。それでガキがしょっぴかれて贋金が表に出ちまったらどう始末をつけるつもりだ!」

 リーダーらしき男は尚もわぁわぁと喚いている。
 モランはウィリアムに「まだ聞くか?」と視線を送ってみたが、彼は苦笑して首を振った。ひとつ頷き返して、モランは中途半端に開きっぱなしだった扉を蹴り開けた。
 誰だ、と狼狽えた声が上がる。室内には三人。
 ヒュッと空を切る音が響いて、机の上のランタンが音を立てて割れた。ウィリアムの投げた石が命中したのだ。
 室内は暗闇に包まれたが、明かりが消える一瞬前に男たちの立ち位置と家具の配置は記憶した。モランは一番手前に立っていた一人の鳩尾に拳を叩き込んで、素早く昏倒させた。

「この……!」

 ガチ、と金属音が響いた。部屋の奥に立っていた、リーダーらしき男の方だ。
 僅かな音だったが、聞き間違えるはずもない。撃鉄を起こす音だ。敵味方入りまじった暗闇の中で発砲する馬鹿がいるものかと思いたかったが、そう利口な方ではなかったらしい。
 これにはウィリアムが素早く反応し、音のした方に向けて第二投を放った。
 鈍い音と短い悲鳴。これも命中だ。
 その隙を逃さず、モランは銃を取り落とした男を埃のかぶったソファへ押し倒し、ナイフを振りかぶる。
 鈍い手応えがあった。倒れた男の体がびくりと強張って、やがて弛緩した。力の抜けた手がだらりと床に落ちる。残る一人の男から「ひいっ」と情けない悲鳴が上がった。
 次はお前だ、と言わんばかりに声のした方を睨みつけてやると、彼はウィリアムの脇をすり抜けて、どたどたと大慌てで逃げていった。

「……いいのか、追わなくて?」

 倒れたランタンから燃料が漏れていないことを確認しているウィリアムに尋ねると、彼は首を振った。

「いいよ。全員逮捕させちゃったら、第三者が介入したことが明らかになってしまうからね。一人逃して、仲間割れがあったという事にしてしまおう」
「俺たちは裏切り者が金で雇ったゴロツキってところか」

 モランはソファの座面からナイフを引き抜いた。
 顔の真横に勢いよくナイフを振り下ろされた男は、だらしなく気絶している。先ほど逃げていった男からは、部屋の暗がりも相まって無惨に刺し殺されたようにしか見えなかっただろう。
 持ち込んだランプに明かりを灯して、モランは改めて部屋の中を見回した。男たちはここを詰所にしていたらしい。引き出しが一段抜き出されて、トレイ代わりに机の上に放り出されていた。中には銀貨が無造作に詰められている。

「これ全部贋金か?」
「うん……暗くてよくわからないけど、そうだろう。さっきの作業場を探せば鋳型が見つかるかもね」
「メイナードは……見当たらないな」
「工場なら、鍵の掛かる倉庫があるはずだ。あとは出入り口が限定される地下か上階か……」

 そうウィリアムが口にした直後、頭上で物音がした。ガラスの割れるような音と、どたばたと床を踏み鳴らす音。
 
「上みたいだ」

 モランはウィリアムに先立って廊下へ飛び出した。幸いなことに、二階へ登る階段は事務室のすぐ隣にあった。数段飛ばしで駆け上がると、先ほどの事務室のちょうど真上に部屋があった。

「……この、クソガキが!」

 部屋に踏み込むなり、罵声が響いた。
 男が一人、こちらに背を向けて床にうずくまっている。先ほどの物音は、彼が転倒した際のもののようだった。腰の辺りに手をやって呻いている。
 彼のすぐ側に子供が倒れている。
 フレッドだった。
 窓を割って部屋に飛び込んだらしく、ガラスの散乱した床の上を転がって傷だらけになっている。白いシャツに血が滲んで見るも痛ましい姿だった。
 けれどモランが状況を把握するより早く、フレッドは動物じみた機敏さで体勢を立て直した。
 床に拳銃が落ちている。おそらくは贋金づくりの男のものだろう。
 フレッドはそれを引っ掴むと、胸の前で構えた。

「待て、フレッド!」

 咄嗟に、モランは叫んでいた。
 即座に飛び出して男を伏せさせるか、フレッドを直接抑えるかすれば、あるいは最悪の事態を防げたかもしれない。
 しかしモランの後ろにはウィリアムがいた。モランたちがいる戸口は射線から外れてはいたが、子どもが見様見真似で発砲すればどこに弾が飛ぶかわかったものではない。
 今自分が動けば、背後のウィリアムが被弾するかもしれない。その考えが、モランの足を地面に縫い止めた。
 がん、と轟音が天井を揺らした。
 立ちつくした男の口から、「あ……?」と意味のない呻き声が漏れた。一拍遅れて、その体がぐらりと傾ぐ。モランはすぐさま部屋に飛び込んで、発砲の反動でひっくり返っていたフレッドの手から拳銃を取り上げた。
 弾丸は、男の眼窩に吸い込まれていた。背後の壁には彼の脳漿が散っていて、即死であることがすぐに見てとれた。
 
「……フレッド」

 身を起こそうとした彼は、痛みに顔を歪めた。
 子供の腕で、しっかり構えず発砲したからだろう。銃身が跳ね上がった勢いで右肩を脱臼しているようだった。
 モランはフレッドを助け起こそうとしたが、彼はこちらには目もくれず、部屋の隅に這いずっていく。
 朽ちかけたデスクの裏に、縛り上げられた少年が転がっていた。ひどく殴られたようで、顔は腫れ上がって切れた唇から血が滲んでいる。首の後ろ辺りには、煙草でも押し付けられたのだろう、真新しい火傷の跡がいくつもあった。
 おそらく彼がメイナードなのだろう。

「うぅ……、う、」

 フレッドが、横たわった少年に縋りついて静かに嗚咽を漏らした。モランは一瞬ひやりとしたが、彼の胸はかすかに上下している。
 まだ生きている。
 モランは胸をなで下ろしながらメイナードの拘束を解いた。その間も、フレッドは泣き続けていた。彼の涙が友を失わずに済んだ安堵によるものなのか、人を殺めてしまった後悔によるものなのか、モランにはわからなかった。

「頑張ったね」

 ウィリアムが、フレッドの隣にしゃがみこんだ。
 彼はポケットの中を探って、少しばつの悪そうな顔をした。いつものジャケットでなかったから、ハンカチを持つのを忘れたのだろう。首に巻いていた空色のストールを、泣きじゃくるフレッドを覆い隠すように被せてやった。
 階段を昇ってくる足音が聞こえて、モランは反射的に先ほどフレッドから取り上げた銃を構え直した。まだ敵が残っていたか、先ほど逃がした一人が戻ってきたか。
 子供たちを机の裏に隠れさせて迎え撃つ態勢をとろうとしたが、ウィリアムは片手をあげてモランを制す。
 上がってきたのは、長身の制服警官だった。帽子を被っているにも関わらず左右にぴっちりと撫でつけられた髪が、見る者に神経質そうな印象を与えている。

「パターソンか」

 モランは肩の力を抜いて、構えを解いた。
 彼は、素早く室内の状況を観察した。床に転がる死体を見つけても驚いた様子は見せなかったが、傷だらけの子供たちを認めるとわずかに細い眉を顰めた。

「あの、ウィリアム様……これは、一体?」
「来てくれてありがとう、パターソン。お仕事中に悪いんだけど、ちょっと手伝ってくれるかな、」

chapter 5:廃屋の子供たち

 工房を出て、モランとウィリアムは次にフレッドが書き残したイーストエンドの住所に向かった。
 日暮れまではまだ時間があったが、貧民街の往来は狭く、崩れた土壁や割れた煉瓦がそこかしこに放置されて見通しが悪い。
 薄暗い物陰に痩せた野良犬が寝そべっていた。もう動く気力もないのか、それとも単に大人しいたちなのか、モランたちが横を通りかかる時パタリと片耳を上げただけだった。
 ここは空気が澱んでいる。貧民街で燻っていた時のことが思い出されて、モランは眉を顰めた。通りにたむろする貧しい身なりの子供たちの中に、フレッドの姿はない。

「この辺りは土地勘があるんだ。あの子とは何かと縁があるみたいだ」

 そんなモランの機微を知ってか知らずか、前を行くウィリアムはどこか楽しげにそう言った。
 仕立てのいいスーツに身を包んだ普段のウィリアムならともかく、今日の彼の出で立ちは物乞いまでとは行かずとも、せいぜい店屋の見習いか新聞売りの少年といったところだろう。
 ルイスとともに貧民街で生まれ育ったという過去も、すでに聞かされていた。それでも、理知的な光を宿す瞳とどこか少女めいた面立ちはこの寂れた街とは不釣り合いだった。

 ウィリアムの案内もあって、目的の建物はすぐに見つかった。裏ぶれた通りからさらに奥まった場所にある、半木造の二階建て民家だった。
 外壁には番地を記した真鍮のプレートが打ち付けられている。フレッドの識字能力がどれほどのものかは定かでなかったが、少なくともこのプレートが住所を示すものであることを理解した上で文字列を丸暗記していたのだろう。
 壁はひび割れ、屋根瓦がところどころ剥がれていてひどく雨漏りするであろうことが外から見てもわかる。中の状態も推して知るべし、だ。
 雨風に曝され痛んだ扉にドアノッカーが辛うじてくっついてはいたが、錆びついて動かなかった。仕方なく、モランは拳で直接戸板を叩いた。
 しばらく待ってみたが、返事はない。痺れを切らしてドアノブに手を掛けると、鍵が壊れていたようで扉はあっさりと開いた。
 が、すぐに内側から押し返される。

「入ってこないで!」

 若い女の声がキンキンと響いた。
 室内から様子を伺っていたのだろう。僅かに開いた隙間から、燃えるように赤い髪が覗いた。年の頃はまだ十四、五歳といったところだが、ひょろりと背の高い娘だった。
 扉越しにモランと目があって、彼女は「ひっ」と息を呑んだ。彼女からすると、目つきの悪い大男が家に押し入ろうとしているわけだから、真っ当な反応だ。モランは閉め出されないように戸板を抑えながら、心の中で彼女に侘びた。
 そこにすかさずウィリアムが割り込んだ。

「こんにちは。突然お邪魔してしまってごめんなさい。僕たち、フレッドを探して……」
「ここにフレッドなんていない!」

 にこやかに話しかけるウィリアムに、少女は噛みつくように声を上げた。

「彼にここの住所を教えられたのですが」
「だから……」
「彼に口止めされているのですね」

 断定的な口調に、少女が驚いたように目を見開いた。扉を閉めようとする手から力が抜けたのを見て、モランは主人が挟まれない程度の隙間を確保した。
 ウィリアムは一気に畳みかける。

「昨日の夜、ここにいる彼が、暴漢に襲われているフレッドを保護しました。怪我をしている上に熱まで出していたので我が家で看病していたのですが、突然部屋からいなくなってしまって、ここまで探しに来たのです。僕らは、彼が何らかの『犯罪』に巻き込まれているのではないかと考えています」
「え……っ」

 あえてストレートな言葉を選んだことで、少女はあきらかに動揺を見せた。フレッドのことを知っていると見て間違いないだろう。
 ウィリアムはドアの隙間にするりと肩を入れて、廃屋に半歩踏み込んだ。少女は僅かに身体を反らせて彼を避けたが、もう無理にドアを閉めたりはしなかった。

「……フレディ、メイナード探しに行った」

 不意に、足元から小さな声がした。
 見ると、少女のスカートの影から、モランの膝ほどまでしかない背丈の子供が顔を覗かせている。
 フレディ、というのは彼の愛称でいいだろうか。メイナードというのもアルバートからの報告にあった名前だった。
 子供はそれだけ言うと、顔を引っ込めてしまった。赤髪の少女がため息をつき、観念したように口を開いた。

「……今の話、本当なの?」
「ええ、僕らも心配で探しに来たのです」

 彼女はしばし考え込んだ後、二人を中へ招き入れた。

 モランとウィリアムは、短い廊下を右に折れた先にある居間に通された。前を行く少女とウィリアムは平気な顔をしてすたすたと歩いていくが、モランは腐りかけた床板を踏み抜かないよう慎重に歩かねばならなかった。どこからか染み込んだ雨水で壁紙は見る影もなく変色し、饐えた匂いがする。
 室内には他にも薄汚れた格好の子供たちがいた。同じくこの空き家に入り込んでいる宿無し子なのだろう。彼らは突然の闖入者に敵意と不安が入りまじったような顔をしていた。
 みな十歳になるかならないかといった具合で、どうやらこの赤毛の少女がいちばん年かさらしい。彼女はスカートにまとわりついていた子供を他の仲間に任せて、部屋から追い払った。
 室内にはモランとウィリアム、そして少女の三人だけとなった。彼女は「ヒルダ」と名乗った。
 ダイニングテーブルの周りには、大小様々な椅子が七つ八つ並べられている。部屋の隅にはカビの生えたマットレスが床に直接敷かれていた。おそらくここで寝起きする者もいるのだろう。
 ヒルダはモランたちを座らせてから、こう切り出した。

「フレディ……フレッドは、今はいない。昨日の朝に帰ってきたっきり」
「メイナードさんというのは?」
「……私達と同じ。ここをねじろにしてる孤児よ。北のはずれに廃工場があって、一昨日あの子は、メイナードと一緒にそこに出かけていった」
「廃工場に……廃材集めですか?」

 ウィリアムがすぐにそれを思いついたのが意外だったのか、ヒルダは驚いたような顔をしながら頷いた。

「え、ええ。使えそうな釘とか鉄くずを持っていけば、鍛冶屋がお金に替えてくれるから」
「なるほど」
「でも、二人とも夜になっても帰ってこなかった。明け方になってようやくフレッドだけが帰ってきて、『メイナードは?』って聞くの。まだ帰ってないって答えたら、またすぐに出て行っちゃって……」
「その時、誰かが自分たちを尋ねてきても応じないようにと、フレッドが言ったんですね」

 少女は不安そうにうなずいた。
 モランがまさにその不審者と誤解されていたというわけだ。

「工場で何かあったのかな。探しに行こうと思ったけど、ちびたちを置いてもいけないし、何かあっても私じゃ……。あなたさっき、フレッドが犯罪に巻き込まれてるかもって言ったよね。あれはどういう意味?」

 今度はこちらが尋ねる番、とでも言うように、ヒルダは質問を投げた。一旦落ち着いてしまえば、なかなかしっかりした娘のようだった。
 ウィリアムは「そうですね……」と考え込むようなそぶりを見せたが、ここまで来ればモランにももうおおよその見当はついていた。
 フレッドは二日前、メイナードとともに廃材を拾いに廃工場へ向かった。そこでおそらく、秘密裏に贋金の鋳造が行われていたのだろう。二人は運悪くその現場を目撃してしまった。……もしくは、そうと知らずに銀貨を盗んでしまった。
 もし銀貨が本物であれば、たった一枚でもここにいる孤児たち全員が当分の間食べていけるだろう。廃材を拾って得られる小銭など比較にならない。
 人気のない廃墟の一室、テーブルの上に銀貨がざらりと積まれていたら、飢えた孤児が誘惑に負けて手を伸ばしてしまうのも無理からぬ話だ。
 そして贋金を造っていた者たちに見つかって、追われ、フレッドだけが何とか逃げ延びた。おそらくあの腕の傷は、逃げる際に鉄条網か何かに引っ掛けてしまったんだろう。
 彼はどこかに身を隠して一夜をやり過ごした後このねぐらに戻ったものの、まだメイナードが帰っていないと知って再び廃工場に向かった。友人を救い出すために侵入を試みたが、逆に追い回される羽目になる。一日中逃げ回って力尽きかけたところに、偶々モランが居合わせた、といったところか。
 ウィリアムとモランの間にしばしの沈黙が流れる。それを見て、彼女は何か心当たりがあるに違いないと確信を強めたようだった。

「ねぇ、お願い。知ってる事を教えて。二人を助けられるなら、私なんだってするから」

 ヒルダは頬を紅潮させながら立ち上がって、テーブルの上に身を乗り出した。が、途端にバランスを崩してよろけた。「あっ」と短い悲鳴が上がって、彼女の身体に押されてテーブルがガタリと音を立てた。
 彼女の左腕は、肘から下が欠損していた。
 薄汚れたブラウスの袖は、空っぽのままテーブルの上でくしゃりと丸まっている。ウィリアムが痛ましそうに眉をしかめた。
 ついテーブルに両手をつこうとして、失敗したのだろう。その一連の動作には、モランも覚えがあった。体の一部を失ったことを頭では理解していても、生まれてからずっと当たり前だった感覚は、そう簡単に抜けるものではない。
 ヒルダはきまり悪そうに顔を伏せた。

「フレディはね、行くあてもなかった私をここの仲間に入れてくれたの。あんな優しい子、他に知らない……」

 モランとて右手を失ってはいたが、元軍人である自分と生活のあてもない子供とでは、その意味合いはまるで異なる。ここに至るまで相当な苦労があり、そしてこれからも待ち受けているのだろう。

「分かりました、ヒルダ。僕らに任せてください」

 ウィリアムの柔らかな声が響いた。隣を見やると、彼はすっかりいつもの『相談役』の顔をしていた。
 困っている人間を絶対に見捨てない。
 それはモランの主たる彼の、最も尊ぶべき性質だった。本音を言えば、どんな小さな困り事にも耳を貸さずにはいられないその性分には、感心を通り越して呆れる思いすらある。
 しかし今この時は、その横顔がこの上なく頼もしく感じられた。

「フレッドとメイナードは必ず助けます。その代わり、君にも手伝ってほしいことがあるのだけれど」

 ウィリアムの言葉に、ヒルダは迷わず頷いた。

※※※※

 廃屋を出ると、徐々に日が傾きつつあった。もともと日当たりの悪い路地はすでに薄暗い。
 モランは思い切って、彼に問うた。
 
「……なぁ、ウィリアム。お前本当は気付いてたんじゃないか? 今朝、フレッドが部屋を抜け出して三階にいた理由」
「どういう意味?」

 言わんとするところをわかっているのかいないのか、ウィリアムはこてりと首を傾げてみせた。モランは言葉を選びながら、「お前が気付かない筈がないって意味だ」と切り出した。

「フレッドは昨日の夜、ほとんど気絶した状態で屋敷に連れてこられた。屋敷がロンドンのどの辺りにあるのか、あいつにはわからなかった。そして、一階のゲストルームの窓からは塀に囲まれた庭しか見えない。だからあいつは、俺たちの目を盗んで三階に上がった。テムズ川なり特徴的な教会の尖塔なりが見えればおおよその現在地がつかめるからだ。煙突掃除屋として屋根の上に上がる機会が多かったなら尚更だ。
 つまりあいつは、今朝の時点ですでに一人で屋敷を抜け出す算段を立ててたって事だ。お前はあの時『探検がしたかったんだろう』なんて言ってたが、本当は……あ〜っ、いや、違う!」

 モランは頭をガシガシと掻いた。

「悪い。そういう事が言いたいんじゃないんだ。フレッドが一人で無茶しようとしてるのをお前がわざと見逃したとか、そういう事じゃなくてだな……」
「うん、モラン。わかってるよ」
「俺が馬鹿だったってだけだ。あいつは俺にこの銀貨を渡そうとした。二回もだ。それなのに俺は二回とも、あいつの話をろくに聞こうとしなかった」

 助けられた礼のつもりで、有り金を差し出しているのだと思い込んでいた。
 けれど違った。フレッドは助けを求めていた。
 贋金づくりは重罪だ。単に店屋を騙して損をさせるだけでは済まない。貨幣の価値が揺らげば、回り回って国の経済が大混乱に陥る危険もある。
 それをフレッドがどこまで理解しているかは分からない。ともかく贋金づくりの一味は、逮捕されればただでは済まないだろう。つまり、犯罪を隠し通すためにはたとえ相手が子供であろうと容赦するはずがない。
 フレッドは、彼らが巻き込まれた重大犯罪の証拠品を提示して、友人の危機を伝えようとしていた。しかしモランはその意図を汲み取ることができなかった。
 結果として、彼はモランたちに助けを求めることを諦め、ひとりで戦おうとしている。彼はメイナードを諦めてはいない。ヒルダに口止めして出ていったきりねじろに戻っていない事が、何よりの証拠だった。

「まだ間に合うよ、モラン。フレッドが仕掛けるとすれば日が落ちてからだ。数でも力でも劣る以上、闇に乗じて忍び込むしかない」 
「それにしたって無謀すぎる」
「そうだね。彼の体調が万全だったとしても難しいだろう」
「……メイナードは、まだ無事だと思うか」
「犯人たちは秘密を知ってしまった子供たちを二人まとめて始末する必要がある。メイナードを生かしておけば、フレッドの居場所を吐かせることも、誘い出すための餌にすることもできる。フレッドが捕まらないうちから彼を殺す理由は無いよ」

 連中がそこまで利口だったらいいんだが。
 そう思わずにはいられなかったが、あえて口には出さなかった。理屈としてはウィリアムの言う通りであるが、この国ではみなし子の命の重さなど知れている。
 モランは、フレッドがこの機械式の義手を見て、「どうやって付けたのか」と問うてきた事を思い出した。物珍しさからくる興味本位の質問だとばかり思っていたが、彼はヒルダにも同じものをつけてやりたいと考えていたのではないだろうか。
 あのフレッドという少年は、どうしようもなく優しいやつなのだ。
 自分たちだけで食いつなぐことすらやっとだろうに、身体的なハンデを負ったヒルダや同じような境遇の子供たちを放っておけなかったほどに。わざわざモリアーティ家に書き置きを残していったのだって、あわよくば彼らを助けてもらえたら、という思いがあったのではないだろうか。
 彼も、彼の友人も、銀貨一枚盗んだ罪で殺されていいはずがなかった。

chapter 4:フレッドを探して

 昼食の後はルイスがフレッドのそばに付いていたが、アルバートが帰ってきたのに気付いて部屋を出たらしい。てっきり眠っていると思っていたそうだし、見張り番をしていたわけでもないのだからルイスに非は無い。
 彼はそのままアルバートとともに居間に入ったから、フレッドから目を離していた時間は三十分も無い。
 四人はすぐさま手分けして屋敷内を捜索した。
 ウィリアムは二階を、アルバートは一階を、ルイスは庭を。モランはまた三階に上がっているのではないかと考えて、使用人エリアをぐるりと見回ってみたが、彼はどこにも見当たらなかった。
 諦めて一旦ゲストルームに戻ると、三兄弟も空振りだったらしくすでに戻ってきていた。

「どこ行ったんだ、あのガキ……」
「一階には見当たらなかったな」
「僕やアルバート兄さんの部屋に立ち入った形跡もありませんでした」
「正門も裏の通用口も、内側から施錠したままでした。……ただ、庭木の枝が一本折れていました。塀のそばの、トネリコの木です」

 ルイスが、窓の外を指さす。
 庭の隅に、うす紫色のルピナスに囲まれて小さな木が一本植っている。ここからでは判別しづらいが、確かに梢に近いあたりの枝がぽっかりと欠けているように見える。

「風で折れたんじゃないのかい?」
「今日は特別風が強くありませんし、朝食の後に水やりをしに庭へ出た時は何ともありませんでした」
「……フレッドがあの木を足場にして塀を越えた可能性があるってことか」
「あんな細い木を?」

 普通、背の高い庭木を塀のそばに植えることは防犯の観点からよろしくない。けれどあの木はまだ若く、樹高はモランの背丈より高いくらいだが塀よりは少し低いので、庭師もこの屋敷の住民たちも特に気にしてはいなかったのだ。
 おまけに枝も細くて、あの木を伝って庭を出入りするような輩がいるとすれば、それは野良猫くらいなものだろう。
 モランは昨夜フレッドをおぶった時のことを思い出そうとした。あの小柄さと、煙突掃除人として働いていた経験があれば、素早く木を登って塀に飛び移ることも不可能ではないのだろうか。

「これは?」

 ウィリアムが声を上げた。振り返ると、彼はベッドの枕元に立っていた。
 シーツの上に鉛筆が転がっている。先ほどウィリアムが探していたものだろう。さらに枕の下には、一枚の紙切れが隠すように挟まれていた。

「これ、昨夜アルバート兄さんがモランに渡したメモだよね。医者の住所が書いてある」
「あ、兄さん。裏にも何か書いています」

 ウィリアムが紙切れを裏返すと、アルバートの流麗な文字とは対象的な、たどたどしい鉛筆書きの文字が並んでいた。

「あの子が書いたのでしょうか」
「イーストエンドの住所だね……。モラン、何か聞いてる?」
「いや……」

 モランは曖昧に首を振った。
 昨夜医者を呼んで戻ってきて、用が済んだ紙切れをどこにやったかも覚えていなかった。部屋のどこかに何気なく置いたか落としたかしたのを、フレッドが拾っていたのだろう。

「じゃあ、こっちは?」

 彼は次に、ベッド横のサイドテーブルに置かれていた銀貨をつまみ上げた。女王陛下の横顔が、うららかな昼下がりの陽光を反射して鈍い光を放っている。

「それはフレッドのだ。あいつ、いらねぇって言ったのに置いていったのか」
「そう……」

 ウィリアムはちょっと考え込むような仕草をした。

「じゃあ、忘れ物を届けてあげないといけないね。とりあえず、この住所へ行ってみようか。モラン、ついて来てくれる?」
「あぁ」
「兄さん、僕も行きます」
「ルイスはアルバート兄さんと一緒にここで待っていて。もしかしたら戻って来るかもしれないし」
「ルイスは私ともう少し屋敷内を探してみよう。出ていったと見せかけて、まだどこかに隠れている可能性もあるからね」
「わかりました」

 二人を屋敷に残して、モランとウィリアムは屋敷を出た。
 ウィリアムはいつもの仕立ての良い服を着替えて、いつの間に用意していたのか安っぽい労働者階級ふうの服を身に纏っていた。鮮やかな金髪を隠すようにハンチング帽を被り、粗い生地のストールはどこか垢抜けない印象を与える。
 靴に至っては、泥にまみれて程よく履き潰されている徹底ぶりだ。モランと並ぶと、とても主人と使用人には見えないだろう。

 通りに出て馬車を拾い、ウィリアムの「ちょっと寄り道するね」という一言で到着したのは、町外れにある小さな工房だった。
 錆びついた看板が風に揺られて時折ギィギィと音を立てている。店内は真っ暗で営業しているようには到底見えない。モランも何度か訪れたことがある場所だったが、今この時に一体何の用があるのか、モランには見当もつかなかった。
 ウィリアムは躊躇なく扉を押し開けて中に入っていく。モランも黙って後に続いた。
 カウンターに据え付けられたベルを鳴らすより少し早く、工房の奥からヌッと背の高い男が現れた。

「これはこれは、ウィリアム様!!」
「やぁ、ヘルダー。よく僕が来たってわかったね」
「一度ここへ来られた方であれば、ドアを開いた音で誰だかわかりますとも。モランさんがご一緒ということは、義手のメンテナンスのご用命でしょうか? それとも……」

 彼は機械油に塗れた両手をもみ合わせながら、ウィリアムの顔を覗き込むようにひょろ長い身体を折り曲げた。ウィリアムの来訪が嬉しくて仕方がない、といった様子だ。
 モランはまだ一言も発していないし物音を立てたつもりもないのだが、このドイツ人技師は本当に目が見えていないのだろうか。
 彼が開発した機械式義手には大いに助けられてはいたものの、モランはこの男のテンションに未だ慣れなかった。人のことを言えた立場ではないが、ウィリアムはこうも一風変わった人間ばかりをどこで見つけてくるのだろう。

「今日は別件でね。これを見てほしいんだけど」

 ウィリアムがポケットから取り出したのは、フレッドが置いていった、あの銀貨だった。それを手のひらの上に載せられるなり、ヘルダーは「おやっ」と素っ頓狂な声を上げた。

「これはよくできた贋金ですねぇ」
「……は?」
「やっぱり、そう?」
「ええ、ええ、明白ですよこれは。まず手触りが銀ではありません。錫と……ニッケルか何かで作った合金でしょうか。本物の銀貨よりわずかに軽い。加工も甘いですね。多くの人の手を渡るうちに擦り切れたのではなく鋳型そのものの問題だ。……はぁ、しかしこれはなかなか。贋金としては会心の出来と言っていいでしょう」

 彼は「へえぇ」とか「はあぁ」とか呟きながら、指先で銀貨の表面をなでたり、弾いたりしていた。
 モランもカウンター越しに身を乗り出して彼の手元を覗き込んだが、表面の意匠すら判然とせず舌打ちした。盲人のアトリエゆえに、室内の光源は薄汚れた窓から差し込む光と炉にくべられた火しかなかったからだ。

「ウィリアム様、これをどちらで?」
「うん。ちょっとね」

 ウィリアムは曖昧に濁した。
 そうだ。これはフレッドが持っていたものだった。浮浪児が持っているにしては額面が大きい硬貨だったので妙に引っかかったのを覚えている。彼がたまたま偽物を摑まされただけとは考えにくかった。

「ヘルダー、こういうものを作れそうな場所や人間に心当たりは?」
「いいえ、とんでもない! むしろ、知っていたら教えていただきたいくらいです」
「そう……。じゃあ、次に来る時、そうするよ」

 鳥打帽のつばをちょっと持ち上げて、ウィリアムは紅い瞳を細めた。

chapter 3:ウィリアムの推理

 居間に入ると、ウィリアムが一人で部屋の中をうろうろと歩き回っていた。

「ああ、モラン。あの子は?」
「飯食って寝たよ。お前はさっきから何やってるんだ?」
「うん……鉛筆がどこかに行っちゃって」
「どこにでも置くからだろ」
「モランには言われたくないなぁ」
「前にルイスがぼやいてたぞ」
「うそ」

 ウィリアムは何か思いつく事があるとアイデアやら数式やらを紙に走り書きし始める癖があった。そういう時の彼は思索に沈み込むあまり周りが見えなくなっていて、ついさっきまで手に持っていたはずのペンまでどこかにやってしまうことがままあるそうだ。

「確かここに予備が……ほら」
「わぁ、ありがとうモラン。君もうちの使用人らしくなってきたね」
「やめろって、ガラでもねぇ」

 棚の引き出しからルイスが用意していた鉛筆を出すと、ウィリアムは子供のように顔を綻ばせた。
 彼は今日の新聞に目を通しながら、手帳にさらさらと何か書きつけていた。別にメモを取っているわけではない。新聞を読みながら別の考え事(例えば、小難しい数式をこね回したり)をしているのだから、まったく常人には理解し難い。

「アルバートは?」
「さっき出かけたよ。僕がちょっと調べ物をお願いして」
「調べ物? フレッド絡みか?」
「フレッドって、あの子のこと?」
「あ、悪い。さっきそう聞いたんだ」
「そう。それで……他には何か話してくれた?」
「いや……それ以外のことは話したがらないふうだったな」

 モランは昨夜の経緯と、先ほどの会話をウィリアムに話した。

「なるほど。助けてくれたモランにも話せないようなことがあるみたいだ、と」
「あぁ。ただチンピラに絡まれてたってわけでもなさそうなんだ」
「単に連れ戻されることを恐れてる可能性もある……かな」
「連れ戻される? どういう事だ?」

 聞くと、ウィリアムは話そうかどうしようか、考え込むように鉛筆を頬にあてた。

「うん……これはまだ僕の推測なんだけど」
「聞かせてくれ。俺には推測も何もあったもんじゃない」
「うん。あの子は五年前ほどまでアッシュフィールド地区の孤児院に身を寄せていたけれど、事情があって煙突掃除の仕事をすることになった。そして数ヶ月前にその仕事をクビになったか逃げ出したかした……と思うんだ。もし彼がその煙突掃除屋のもとから逃げ出していた場合、僕らに素性を明かしたがらないのも納得できるな、って」
「……はぁ? えーっと、順を追って説明してくれ。お前はあいつと……フレッドとまだほとんど話してないよな?」
「そうだね。昨夜も熱でぼぅっとしてたみたいだし、今朝はずっとモランと一緒だったでしょ?」
「じゃあ、何でそう推測できる?」
「ええと……そうだね、まずひとつ目。これはほんとうに偶然だったんだけど……」

 ウィリアムは汚れたジャケットを差し出した。あの子供が身に着けていたものだ。昨夜と違っているのは、破れた箇所に丁寧にツギをあてられていることだ。おそらくルイスだろう。
 その仕事の速さには感動すら覚えるが、しかしその程度の処置ではもうどうしようもないほど、衣類としての耐用年数を大きくオーバーしている。いわば襤褸だ。

「内ポケットのところを見てごらん。ネームが刺繍してある」

 ウィリアムはにこにこと笑いながら、そう促した。
 あの子供がネーム入りのジャケットを仕立てられるような経済状況にあるとは到底思えない。つまりこのジャケットは古着で、そこには前の持ち主の名前が縫い付けられているのだろう。
 そこから一体何が分かるというのだろう。モランは明るい窓辺に寄って、すっかり褪色してしまったその刺繍に目を凝らした。
 William J Moriarty
 そこに刺繍されていたのは、他でもないウィリアムの名前だった。

「これは……」
「びっくりしたでしょ。ルイスが見つけてくれたんだ」
「お前のお下がりかよ」
「そう。サイズと仕立てからして、まだロックウェル伯爵のお屋敷でお世話になっていた頃のもので間違いない。慈善団体を通じて、アッシュフィールド地区内の孤児院に古着を寄付した事があったんだ。それが今から五年前の話。フレッドの手に渡る前に何人か経由した可能性はもちろんあるけど、ともかくあの子は地区内の孤児院に在籍していたことがわかる」
「つっても、孤児院なんて地区内にいくつかあるんじゃねぇか?」
「ここ数年で閉鎖されたのは一か所だけだよ」
「閉鎖?」
「あの子は煙突掃除人だ。不運にも孤児院が閉鎖になって、煙突掃除屋へ徒弟に出されることになったんだろう」
「なんでそう言い切れる?」
「あの子の肘と膝を見ればわかるよ。煙突掃除のように、幼い子供が狭い場所で無理な姿勢のまま長時間作業をしていると、骨がちょっと特徴的に歪んでしまうんだ」
「そういう話は聞いたことがあるが……。じゃあクビになったか逃げたか、ってのは?」
「普通、煙突掃除をしている子供は頭を丸刈りにされる。作業の邪魔になるし、煤がこびりついて不衛生だからね。でもあの子の髪は目にかかるほど伸びていたし、煤が絡んでもいなかった。ここ数ヶ月、煙突掃除の仕事から離れている証拠だ」
「なるほど、な……」

 頭の切れる奴だということはとっくにわかっていたつもりだったが、モランは唸るしかなかった。
 フレッド本人に事実を確かめたいと思ったが、彼は結局昼食の時間まで眠ったままだった。食べている最中も頭がはっきりしないようで、スプーンを握ったままうつらうつらとしている。相当疲れが溜まっていたのだろう。
 モランは追及を諦めて、再び彼をベッドに戻した。

※※※※※

 昼過ぎになって、アルバートが帰ってきた。
 居間に入ってきた彼の後ろには、兄を出迎えていたらしいルイスがハットとコートを抱えて付いている。

「やぁ、ウィル。ただいま」
「お帰りなさい、アルバート兄さん。面倒なお願いをしてすみません」
「いいや。どのみち今日は孤児院に顔を出す予定だったしね。何人か知り合いのシスターを当たってみたが、お前の言った通りだったよ」

 アルバートは彼専用の一人がけソファに腰を下ろした。

「それとなく尋ねてみたら、その経営難で閉鎖になった孤児院に勤めていらしたシスターを紹介してもらえたよ。あの子の名前はフレッド・ポーロックで間違い無いだろう。三年前、施設の閉鎖に際して煙突掃除屋の徒弟に出された少年が三人。そのうち黒髪は一人だけだったそうだ」

 アルバートの報告を受けて、ウィリアムは頷いた。

「モランが聞き出してくれた名前とも一致しますね。その後のことは?」
「やはりお前の推測通り、四ヶ月ほど前にその煙突掃除屋の元から行方をくらませているそうだ」
「さすが兄さんです!」
「しかし、その経緯というのが惨いものだった」

 アルバートは顔を曇らせて続けた。

「徒弟に出された三人のうちの一人、エディ・ライランズという少年が亡くなっている。煙突掃除の作業中に、誤って暖炉に火を入れられてしまって焼死したそうだ。いや、この場合は窒息死なのかな……。ともかく、フレッドたちが姿を消したのはその直後だったらしい」
「それはまた……」
「その煙突掃除屋はどうなった?」
「注意義務違反ということで、罰金刑だそうです。今も仕事は続けているらしいですよ」

 よくある話だった。
 子供を守れ、労働者に人権を、と声高に叫ばれ法整備が徐々に進められてはいたが、いまだに罰則は驚くほど軽く過重労働が横行している。
 煙突掃除などはその代表格と言っていいだろう。小柄な子供が重宝される割に、仕事内容は常に命の危険と隣り合わせだ。焼死、転落死といった物理的なリスク以外にも、煤を大量に吸い込んで気管や肺をやられる子供も多いと聞く。
 モランはあの子供がずいぶんと痩せこけていたことを思い出した。煙突掃除をする子供は極端に食事を制限されるというのは事実らしい。身体が大きくなって煙突に入れなくなると困るからだ。
 友人が悲惨な死を遂げて、雇い主が大した咎めも受けずのうのうと過ごしているのであれば、逃げだしたくなるのも無理はないだろう。

「ということは、フレッドは今はそのもう一人の少年と行動を共にしているということでしょうか?」
「ああ、おそらくそうだろう。メイナード・ハマートンという少年だ」
「あの様子を見るに、路上で生活をしているのは明らかです。そのメイナードと共にどこか孤児院に入れるよう手配してあげましょう」
「そうだね。私もそれが良いと思う」
「ルイス、あの子を呼んできてくれるかい? まだ寝ているなら無理に起こさなくてもいいから」
「はい、兄さん」

 ルイスが居間を出て行った後も、モランはじっと考え込んでいた。
 アルバートが裏を取ったことにより、ウィリアムの推理が正しかったことは証明された。しかし、まだ疑問は残っている。
 あの男たちは、結局何者だ?
 彼らは風体からして煙突掃除人とは思えなかったし、煙突掃除屋から頼まれてフレッドたちを探しているようにも見えなかった。何より、いくらでも替えのきく孤児を数ヶ月に渡って追い回すというのはどうもしっくりこない。
 あの男たちは何か別の目的をもってフレッドを追っていたのだ。では、その目的とは何か?

「そう難しく考えなくても、僕らが彼の味方だっていうことを示してあげれば、本当のことを話してくれるんじゃないかな」

 モランの考えを読んだように、ウィリアムが言った。いくら彼が聡明だと分かってはいても十代の子供に見透かされるのは少々決まりが悪く、モランは顔を顰めた。

「……だといいがな」
「確かに、警戒心が強そうな子だから切り出し方は慎重に行かないとね。私は少し怖がられているようだったし、ここは大佐から話してもらおうか」
「何で俺が」
「おや、今朝は懐かれているように見えましたよ。違うのですか?」
「どこがだよ……」

 長男は長男で、こちらをからかっているのか本気で言っているのか分からない。しかし確実に「子供に懐かれるモラン」を面白がっている空気を醸し出している。ムキになって言い返すとさらに遊ばれるのが目に見えているので、モランはそれ以上は何も言わなかった。
 そこへ、ルイスが居間に駆け込んできた。
 普段の彼らしからぬ、どこか慌てた様子だった。彼は室内をさっと見回すと、当惑したように眉を下げた。

「兄さん、またあの子がいません!」

chapter 2:月夜モリアーティ邸

 翌朝、モランは陽が昇る頃にベッドを抜け出して身支度を整えた。
 普段に比べると随分早い時間だったが、少年の様子が気になっていたためだ。昨夜は、医者からもらった薬が効いて彼が眠りに落ちたのを見届けてから、各々自室に引き上げた。
 おそらくルイスあたりがすでに世話を焼いていることだろうが、朝食の前に一度ゲストルームへ様子を見に行こう。そして昨夜はドタバタしているうちにうやむやになってしまったが、ウィリアムとアルバートにきちんと事情を説明せねばなるまい。
 そんなことを考えながら廊下に出た時、視界の端に何かが引っかかった。振り返ると、二階に続く階段の反対側、廊下の行き止まりに小さな人影が見えた。
 使用人をほとんど雇い入れないこの屋敷の中で、使用人フロアを利用する者は今のところモランしかいない。たまにルイスが掃除のため立ち入ることはあったが、その人影は随分と小さかった。懸命に背伸びをしながら、突き当たりの窓を覗いている。

「お前……何やってんだ?」

 背後から声を掛けると、彼は弾かれたようにこちらを振り向いた。昨日の少年だった。
 一階のゲストルームで休んでいたはずなのに、なぜ一人で三階に上がってきているのか。モランは眉間に皺を寄せた。

「部屋を抜け出してきたのか?」
「あ……」

 威圧的な態度に、少年の目に怯えの色が浮かんだ。
 身につけているのはルイスのお下がりだろうか。清潔なシャツとスラックスは彼が着るには随分と大きかったらしく、袖と裾が何回も折り返されていた。そのアンバランスな格好におかしさが込み上げてきたが、顔には出さずにモランは厳しい声色で続けた。

「親切心でお前を助けて、医者まで呼んで手当てして一晩休ませてやったんだ。そんな恩人の家の中を勝手にうろつくのはマナー違反じゃないか?」
「……ご、ごめんなさい」
「分かればいい。部屋戻るぞ」
「あ、あの、これ……」

 少年がおずおずと何かを差し出した。見ると、小さな手のひらの上に銀貨が一枚のっている。
 モランは大きくため息をついた。

「だからいらねぇって。そういう意味で言ったんじゃねぇよ」
「えっと、あの……」
「この屋敷を見ればわかるだろ。お前みたいな痩せっぽちのチビからなけなしの金をむしり取るほど、ここの主人は落ちぶれちゃいないんだよ。もちろん、使用人の俺もな」
「……」
「ほら、まだ熱下がってないだろ。部屋に……」

 と、そこにルイスがパタパタと階段を駆け上がってきた。彼はモランのすぐそばに少年の姿を見つけて、あっと声をあげた。

「こんな所に……部屋にいなかったから探してたんですよ! どうして勝手に抜け出したりしたんですか。まだゆっくり寝ていないと……」

 ルイスの剣幕に驚いて、少年が身を硬くしたのがわかった。
 モランからすればルイスがぷりぷりと怒っている様子は子犬が鳴いているようなものだったが、彼から見れば今年十七になるルイスは十分『大人』に分類されるのだろう。萎縮してしまって小言の内容がずいぶんと優しいことも耳に入っていないようだった。
 さらにルイスの後ろから、ウィリアムとアルバートが何事かと階段を上がってやってきた。ウィリアムは寝起きのガウン姿だったが、アルバートはすでに一分の隙もなくきっちりと身支度を整えている。

「ルイス、どうしたんだい? 大声を出して」
「兄さん、兄様。この子が部屋を抜け出してこんな所に」
「いや、待て。これはな……」

 少年はご当主の登場にすっかり震え上がっていた。さすがに気の毒になってきて助け舟を出そうとしたとき、まだ眠たそうに目を擦っているウィリアムが言った。

「探検がしたかったんだね」
「はい?」
「だから、この子は探検がしたかったんだよ。ほら、僕たちも昔、伯爵のカントリーハウスを探検したじゃないか」
「えぇ、そんなこともありましたけど……」
「うん、そういうこと。じゃあ朝食にしようか。着替えてくるね」

 ウィリアムはそれだけ言い残すと、さっさと階段を降りていった。ルイスも慌ててその後を追いかける。
 アルバートは苦笑をこぼしながら二人の後ろ姿を見送り、「では後は頼みました」とモランに言いつけてその場を去っていった。

 ゲストルームに戻ってしばらくすると、ルイスが二人分の食事を持ってきた。モランもここで朝食をとれということらしい。
 メニューはパンとスープ、プレートにはオムレツやサラダが載っていた。少年の分は食べやすいように、パンが粥に変えられている。

「こっちの皿はお前のだ。全部食っていいからな。……食欲ないか?」

 尋ねると、少年はぶんぶんと首を横に振った。

「ならいい。せっかく作ってくれたんだからな、食える時に食っとけ」

 さっさと先に食べ始めると、彼も慌ててスプーンを手に取った。
 ルイスが帰ってきているタイミングだったのは運がよかったな、とモランは思った。
 まだイートン校に在籍しているルイスは、普段は学生寮で生活している。彼の手料理にありつけるのは、週末か長期休暇の間だけだ。
 ウィリアムとアルバートだけで過ごしている間は外食か出来合いのものだけで済ませているようだし、モランも料理はできなくはないが、「野外で火を起こして煮炊きができる」という次元の話である。明らかに食うに事欠く生活を送っている子供に、まともなものを食べさせられてよかった。
 モランは自分のことを特別子供好きだとは思ったことが無いが、彼の手にはやや大きなカトラリーを使って一生懸命に食事を頬張る姿はなんだか微笑ましかった。

「自己紹介が遅れたが、俺はセバスチャン・モラン。一応ここの使用人だ。お前は?」

 話しかけると、少年はぴたりと手を止めた。上目遣いにモランの顔色を伺いながらこわごわと答えた。

「…………フレッド」
「フレッドか。昨日は何であんなことになってたんだ?」
「…………」
「あいつらから財布でも盗んだのか?」
「…………」

 ややあって、彼はこくりと頷いた。

「そうか。盗った財布はどうしたんだ?」
「えっ、と……」
「逃げてるうちに落としちまったのか」

 フレッドはもう一度頷いた。
 嘘だな、とモランは確信した。
 財布を盗られて腹を立てているだけの男が、通りがかったモランにまでナイフをちらつかせるというのは理屈が通らない。
 下手に言葉を重ねないだけ利口だが、ふらふらと泳ぐ目線が何よりも雄弁に物語っている。普段アルバートやウィリアムの権謀術数を間近で眺めている身からすると、年相応で可愛らしいくらいだ。

「そう、か……。だが証拠が無いんじゃ、お前をヤードに突きだすわけにもいかねぇな。ここのご主人にも黙っといてやるから、もうするんじゃねぇぞ」

 モランがそう告げると、フレッドは明らさまにほっとした表情を浮かべた。
 もう少しつつけばすぐにボロを出すだろうが、別にこの子供を苛めたいわけではない。重要なのは、「盗みを働いた」という嘘をついてまで何かを隠そうとした事実だ。モランの気分次第では、「盗人を屋敷に置いてはおけない」と即座に叩き出される可能性だってあったのだから。
 まだこちらを信用しきっていないのか、何か話せない事情があるのか。
 考え込んでいると、向かいに座った少年がじっとモランの手元を見ているのに気がついた。

「何だよ、パンも食うか?」

 彼は黙って首を横に振った。しかしまだ何か言いたげにしているので、モランはそのまま言葉の続きを待った。

「……それ、どうやってつけたの?」
「は?」
「て」
「て? ……あぁ、義手のことか?」

 フレッドは小さく頷いた。
 昨夜抱きかかえた時の感触を覚えていたのか、食事中も手袋を外さない事に違和感を覚えたか。傍目には義手と分からないほど使いこなせていると自覚していただけに、どちらにせよ目敏いことだと感心した。

「昨日のお医者様?」
「いや……あー、何でもいいだろ」
「……」
「ほら、食い終わったならとっととベッドに戻れ。まだ熱下がってないだろ。絵本でも読んでやろうか?」
「自分で読める。……少しなら」

 冗談で言ったつもりだったが、むっとしたような顔で言い返されてしまって、モランは喉の奥で小さく笑った。
 食事をきれいに平らげて、フレッドはモランに追い立てられながらベッドに潜り込んだ。上等なシーツの肌触りと体が沈み込む感覚が落ち着かないらしく、しばらくもぞもぞと体を動かしていた。ちょうどいい体勢に落ち着いてからも、毛布から顔の上半分だけを出してじっとこちらを見上げてくる。
 曇りのない大きな瞳には、顔立ちの幼さに似つかわしくない沈着さも見て取れて、見つめられている側としては居心地の悪さすら感じる程だった。もう少し頬に肉がつけば、このどこか痛々しい険も取れるだろうか。
 モランはポケットの煙草に手を伸ばしかけて、ここではまずいかと思いとどまった。

「……まだ何かあるのか?」
「ううん。……あの、ありがとう」
「礼なら、ここのご主人たちに言うんだな」

 「うん」と素直で幼げな返事が返ってきた。
 彼がうとうとと目蓋を閉じたのを見届けてから、モランは部屋を後にした。

彼の手には銀貨だけ
 フレッド過去捏造。

 chapter 1:月夜

 八月にしては肌寒い夜だった。
 ひんやりとした空気がアルコールで熱った肌に心地よく、モランは気分良く夜道を歩いていた。
 今夜はカードで調子良く勝ち続け、ひと儲けすることができた。いつもならもう一軒酒場を回るか、女を買うかしたところだったが、何だか今日は歩きたい気分だった。珍しく街の空気が澄んだ夜だったからかもしれない。ウィリアムの勧めで怪しげなドイツ人技師に取り付けてもらった義手がようやく体に馴染み始め、ここのところは体の調子もすこぶる良かった。
 こうして月を眺めながら歩いていると、あの悪夢のような光景が遠い昔の事のように思われた。忘れるつもりはないし到底忘れられるものでもないけれど、それでも今この瞬間モランの心は凪いでいた。こんなにも穏やかな気分になる瞬間などもう一生訪れないと思っていた。
 しかし、軍人として鍛えあげられたモランの五感は、いつ如何なる時でも鋭敏だった。
 煙草を吸おうと外套のポケットに手を入れた時、路地の奥から争うような声と物音が聞こえた。
 はじめは酔っぱらい同士の喧嘩かと思った。しかしどうも様子がおかしい。足を止めて耳をそばだてると、低い話し声が聞こえてきた。

「……こいつで間違いないのか?」
「あぁ。くそっ、手こずらせやがって」

 暗がりに二人の男が立っていた。二人の足元にうずくまる影が随分と小さいものだったので、最初は犬か猫でもいたぶっているのかと思った。男の一人が、足元の何かを踏みつけるように蹴った。ぐぅ、と苦しげな声が聞こえた気がした。続いて、ひび割れた石畳の上に白い手が投げ出されるのが見えた。
 小さな、子供の手だった。

「おい! その辺でいいだろ」

 声をかけると、男たちの背中がぴくりと震えた。彼らはゆっくりとモランの方を振り返る。

「財布でも盗られたか? だからってガキ相手にそこまでするこたぁねェだろ。返すもん返してもらったら手打ちにしようぜ」

 男たちは何も答えない。互いに顔を見合わせて、突然現れたモランに対してどうすべきか迷っているようだった。その表情には怯えのような、焦りのような色が浮かんでいる。男の一人、伸び放題の髭を顔に貼りつけた男はその間も、逃げられないように倒れた子供の足を踏みつけていた。
 しばらくして、背の高い方の男が答えた。

「あんたには関係ない」
「あぁそうかもな。だが俺だってせっかく良い気分だったんだ。子供が痛めつけられてるのを素通りするってのは寝覚めが悪いんだよ」

 モランが路地に踏み込むと、男たちの瞳にちらついていた怯えの色が、怒りの炎に変わった。
 間違いない。こいつらには何かやましい事がある。モランの勘がそう告げた。
 適当にいさめるだけのつもりだったが、こうも様子がおかしいとなるとますます放っておけない。モランは大げさに足を踏み鳴らしながら男たちに歩み寄った。

「来るんじゃねぇ」

 男の一人が、懐から鈍色に光るナイフを取り出した。ごく一般的な市民であれば恐れをなして退散するところであったが、幾度となく死線をかい潜ってきた元軍人相手では脅しにすらならない。
 むしろ相手が刃物を出してくれるのであれば好都合だ。遠慮なくやり返せるのだから。
 モランは男に得物を振るう隙すら与えず、腕を捻り上げて煉瓦造りの壁に叩きつけた。背中と後頭部を強かに打った男は「がっ」と声をあげると、ずるりとその場に崩れ落ちる。

「お前もやるか?」

 顎を上げながら挑発すると、髭づらの男はひっと息を呑んだ。
 仲間がこうもあっけなく昏倒させられ、この目の前の大男には敵わないと悟ったのだろう。彼は仕方なく子供を踏みつけていた足をどかすと、倒れた仲間に駆け寄った。
 慌てて逃げていく男たちの背中を見送って、モランは倒れた子供へ向き直った。
 まだ十歳ほどの少年だった。擦り切れたジャケットに、つぎはぎだらけのズボン。どこかで落としたのか靴は片方しか履いていない。小さな頭に、モランを見上げる瞳だけがやけに大きく見えた。

「大丈夫か?」

 助け起こすと、少年は「いっ」と小さく悲鳴を上げた。見ると、ジャケットの二の腕辺りが大きく裂けていた。
 切りつけられたのかとひやりとしたが、傷は浅く出血もすでに治まっている。刃物による切り傷というよりは、先の尖ったもので引っかいてしまったことでできた傷痕に見えた。
 モランはぼさぼさに絡まった黒髪をかき上げて、彼の額に手を当てた。傷自体は大した事はない。しかしろくに手当せずに放置したために発熱しているようだった。

「おい、わかるか? しっかりしろ」
「ぁ………」 

 少年は数回瞬きすると、緩慢な動作で上着のポケットから何かを取り出した。
 これ、と小さく呟きながらそれをモランに差し出す。右手の義手にのせられたのは、一枚の銀貨だった。助けた礼のつもりだろうか。モランは思わずため息をついた。

「いらねぇよ、取っとけ」

 モランは銀貨を彼のポケットへ押し込んだ。
 腕の傷口に触れないように注意しながら、彼を背負う。何度かこうして寝落ちたウィリアムを運んだ事もあったが、彼とは比べ物にならないほど軽い。外套越しでも骨が当たる感触がわかる程だ。
 街灯もない狭い路地を、モランは早足で駆けていった。しばらく歩くうちに少年は眠ったらしく、モランの背中に身体を預けたまま動かない。
 思ったより面倒なことに首を突っ込んでしまったようだ。
 この子供は見るからに浮浪児だ。てっきり盗みか何かをやらかしたところを捕まって小突き回されているのかと思ったが、そうであればあの男たちがモランにまで襲いかかる理由はない。彼らの暴力にある程度の正当性があったのであれば、モランにそう弁解すればいいのだから。奴らの方にこそ後ろ暗い事情があったから、ナイフを取り出したのだ。
 この後は適当に馴染みの酒場にでもこの子供を預けていけばいいと考えていたが、どうにもきな臭い。
 モランはしばし思案した後、ロンドン郊外へと足を向けた。

※※※※※※

 モリアーティ邸は、長子アルバートの成人に合わせて再建したまだ真新しい屋敷だ。ウィリアムに見出され拾われたモランも、表向きは使用人として厄介になっていた。
 見上げると、二階には明かりが灯っていた。ウィリアムもアルバートもまだ起きている。
 使用人用の通用口からそっと屋敷に入ると、ルイスに出くわした。戸締まりをして回っていたらしい。
 
「モランさん?」

 ルイスはきょとりと大きな目を瞬かせた。人より少し遅いばかり成長期を迎えてようやく体つきが大人びてきたと思っていたが、ふとした瞬間に見せる表情はまだまだ幼なげだ。
 夕食後にモランが屋敷を抜け出していくと、大抵の場合は翌朝まで戻らない。常よりも早い帰宅に訝しげな顔をしていたルイスだったが、モランが背中に子供を背負っているのに気付いてさっと顔色を変えた。

「その子は? 具合が悪そうですがまさかモランさん……」
「俺のせいじゃねぇって! ちょっと面倒な事があって……ウィリアムとアルバートはまだ起きてるな?」
「えぇ、先ほどお部屋に戻られたばかりなので」
「悪いが部屋貸してくれ。使用人部屋のどれかで構わないから……」
「一階のゲストルームの方が近いです。そちらへ運んでください。兄さんと兄様を呼んできます」

 ルイスはてきぱきとモランの手に鍵束を押し付けると、音もなく廊下を駆けていった。

 アルバートのそつのない立ち回りにより、この屋敷に外部の人間が招かれることは皆無と言っていい。このゲストルームが使われることもこれまでほぼ無かったはずであるが、室内は十分に掃除が行き届いていた。
 品の良い調度品には埃の一つもなく、ベッドには糊のきいたシーツがかけられている。働き者の末の弟には感服するばかりだった。
 ベッドに横たえた少年はまだうとうとと眠っているようだった。傷の具合を確認するため、モランは彼のジャケットを脱がせた。と、ポケットから先ほどのコインが転がり出る。モランはそれを拾ってサイドテーブルの上に置いた。
 やはり腕の引っかき傷は深くない。しかしそんな傷でも、あともう少し深ければ骨が見えるのではないかとさえ思えてしまうほどに痩せていた。先ほどの男たちに殴られた際に出来たであろう打撲もいくつがあったが、熱が下がるまで栄養のあるものを取らせて休ませるのが一番だろう。
 そうこうしている間に、ルイスがウィリアムとアルバートを連れて戻った。ウィリアムは救急箱を、ルイスは水差しとコップが載った盆を手にしている。

「お帰りモラン。その子が?」
「あぁ、悪ぃな……」
「大佐が珍しく善行をなそうとしているのだから、我々だって手を貸さないわけにはいきませんよ」
「そりゃどういう意味だアルバート!」

 兄たちが軽口を叩いている間にも、ルイスは段取り良く少年の傷口を検分し、救急箱から清潔なガーゼと消毒液を用意していた。
 すると、人の気配に気づいたのだろうか。少年がうっすらと目を開いた。まだ熱と眠気でぼんやりとしているようで、どこか視線が定まらない。

「……」
「大丈夫? まだ横になっていていいからね」
「熱もあるみたいですね」
「大佐、医者を呼んできてください。当家の名前を出せばすぐに来てくれます」

 アルバートは手帳に住所を書きつけると、そのページを破いてモランに渡した。その言葉を聞いて、少年ははっとしたように目を見開いてふらふらと身を起こした。

「……あの、ごめんなさい。大丈夫です。すぐに出ていきます」
「何言ってるの。寝ていないと」
「もう、平気です。お医者様を呼んでいただいても、お金が払えません。もう行かないと……」
「こんな夜中にどこへ行くんだい。お金の事は気にしなくていいから、休んでいきなさい。君の家には明朝連絡しよう」
「え、あの」
「起き上がる元気があるなら、先に着替えて何か食べた方がいいですね。準備してきます」
「着替えは僕が取ってくるよ、ルイス」
「ありがとうございます、兄さん」

 三兄弟から矢継ぎ早に畳み掛けられて、少年はベッドに押し戻された。彼に毛布を掛けてやりながら、アルバートは「早く行け」と言いたげにモランへ目配せした。
 廊下に出てから、モランは着替えを取りに二階へ上がろうとするウィリアムを呼び止めた。

「悪いな。厄介ごと持ち込んじまって」
「いいよ。モランが僕らを頼ってくれて嬉しい」

 彼が嫌な顔をするとは少しも考えていなかったが、その迷いのない答えにモランは表情を緩めた。

おつかい
 ルイスとフレッドが喧嘩と言えない程度の喧嘩をしてモランが話を聞いてあげる話。
 本編5年前くらい。



「どうして言った通りにしなかったんですか」

 廊下の向こうから咎めるような声がして、モランはぎくりとして足を止めた。
 燭台の明かりの中に、ルイスの姿が見える。
 こちらに背を向けているから、街で酒をひっかけてこっそりと裏口から帰宅したモランへの小言ではなさそうだ。その後も何か二言三言話していたが、内容はよく聞き取れない。
 近づいてみると、話し相手はフレッドだった。ルイスの肩越しにモランと目が合うと、彼はちょっと気まずそうに、ごく親しい間柄の人間にしかわからない程度に顔をしかめた。
 フレッドが自分の後ろを見ている事に気が付いて、ルイスもこちらを振り返る。
 その隙に、フレッドはルイスに黙礼してそそくさと去っていった。呼び止めようと口を開きかけたルイスだったが、結局はその場で小さく足踏みしたきり黙ってしまった。

「どうした、喧嘩でもしたか?」

 そう声を掛けると、ルイスはモランの方を軽く睨めつけながら「してません……」ともごもごと答えた。
 普段の彼であればさっさと屋敷の仕事に戻るところであったが、今は肩を落として立ち尽くしたままだった。彼の手には幾枚かのコインが握られている。

「……フレッドが何かやらかしたのか?」
「フレッドさんは悪くないです!」
 
 あえて踏み込んだ言い方をしてみると、間髪入れずに返事がかえってきた。先ほどのきつい物言いは彼にとっても本意ではなかったらしく、きまり悪そうに眉を下げた。
 これは聞いてやったほうが良さそうだ。そう判断して、モランはまだ明かりの灯っている居間に向けてルイスの背中を押した。

「……昼間、兄様たちの新しいスーツを仕立てるために仕立て屋が採寸をしに来ていたんです。その仕立て屋が帰ってしばらくしてから、結婚指輪を忘れていっているのに気が付いて……」

 場所を移すと、ルイスは堰を切ったように喋りだした。モランは戸棚からブランデーを取り出して、ちびちびと飲みながら彼の話に耳を傾けた。
 曰く、ルイスが床に転がっている指輪を見つけたのは、夕食もとうに終えた夜八時近くの事だった。
 作業の際に外したか、落としたかしたらしい。まだ連絡が無いということは、落としたことに気付いていないか探している最中なのだろう。
 貴重品であるし、夫婦間のいらぬもめ事の種になっては気の毒だ。すぐに届けてやらねばと思ったのだが、あいにくルイスにはまだ屋敷の仕事が残っていた。モランは夕食後から姿が見えなかったし、まさか兄たちにおつかいを頼むわけにもいかない。

「それで、フレッドさんにお願いする事にしたんです」

 つい最近使用人として迎えられたばかりの少年は、柔らかい布に包んだ指輪を受け取りながら「わかりました」と神妙に頷いた。
 フレッドの正確な年齢は、彼自身にも分からない。「十四……くらいです。多分」と本人が申告したので、皆そういうものとして受け入れている。
 けれど、もともとそういう体格であるのと、貧民街育ちで栄養が足りていなかったのとで、フレッドはひどく小柄だった。背伸びしてサバを読むような性格でもないのでおおよそ十四歳である事自体は誰も疑っていないのだが、見た目だけならまだほんの十歳程度なのだ。
 ルイスも子供の頃は小柄な方であったが、病から解放されてからはぐんぐんと順調に背を伸ばしている。使用人とはいえ、つむじが見えるほど小さな子どもを、日が暮れてからおつかいに出すのは少々申し訳ない気持ちになった。

「だから、フレッドさんに多めに馬車賃を渡しました。乗り合い馬車でスリが頻発していると新聞にありましたし、この間はウエスト・エンドの方で強盗騒ぎも……。『物騒なので、辻馬車を使ってくださいね』って言ったんです」
「あー……、何となくわかったぞ。フレッドの奴、歩いて帰ってきたのか」
「そうなんです!」

 ルイスは椅子からぐっと身を乗り出した。
 彼は当然、「夜遅くに一人で出歩くのは危ないから、辻馬車で屋敷から仕立て屋までを往復するように」と伝えたつもりだったのだ。
 しかしフレッドは、ルイスからのこの言葉を「大事な指輪を盗られないように、乗り合い馬車を使うのは避けよ」という意味で了解したのだろう。
 彼は言いつけ通り辻馬車を使って仕立て屋へ向かったが、帰りは盗られるものも持っていないのだから辻馬車を使う必要は無いと考えた。運賃の安い乗り合い馬車の最終便に飛び乗り、あとは道のりの大半を歩いて帰ってきたらしい。

「辻馬車で直行すれば往復で一時間もかからないはずなのに、十時になっても帰ってこなくて……。兄さんたちに報告して探しに行くべきか迷っていたら、ついさっき、やっと帰ってきたんです」
「それで、本人はけろっとした顔で釣り銭を返してくるもんだからついキツい言い方をしちまった、と」
「はい……」

 ルイスはしおしおとうなだれた。

「往復の馬車賃くらい、僕がアルバート兄様から任せてもらっているお金の範囲内です。兄様だって、決して無駄なお金とは考えたりなさらないはずです」

 それはモランも同意見であった。アルバートが使用人のための必要経費を惜しむとは到底思えない。
 しかしそれはこのモリアーティ家が少々特殊だからであって、普通の貴族家であれば、卑しい出自の使用人の扱いなど知れている。夜中であろうと叩き起こされ「今から歩いて行ってこい」と放り出されることもざらにあるだろう。
 自分の正確な年齢すら把握していない子供が、貧民街でろくな生活を送っていなかった事など想像に難くない。未だこの屋敷の生活に慣れないフレッドには、ルイスが馬車賃を多めに持たせてくれた理由など想像もつかないのだった。

「……モランさん、フレッドさんの様子を見てきてくれませんか」

 ルイスがいつになくしおらしくそう頼んできた。
 モランはグラスを傾けながら考える。ルイスとて、貧民街の生まれだ。フレッドのその感覚が理解できてしまうからこそ、もどかしいのだろう。

「フレッドさんがそこまで弱くない事はわかっています。彼の運動能力は素晴らしいと、あのジャック先生も褒めていらっしゃいましたから。きっと強盗にだって負けないでしょう。それでも、自分より年下の子を心配するのは当たり前のことではないですか。何かあってはいけないと思ったから、僕は……」
「ふっ、クク……」
「な、何で笑うんですか」
「いや、それとよく似た言い分をウィリアムやアルバートから散々聞かされたもんだからな。『ルイスにはまだ早い』『一人で行かせるのは心配だ』ってよ」
「う……」
「そういう時、お前の兄貴たちはどうした?」
「僕が納得できるまで、理由を説明してくれました……」
「なら、お前もそうすべきじゃねぇのか?」
「…………」
「なに、あいつだって、お前にちょっと怒られたくらいでしくしく泣いてるようなタマじゃねぇよ。むしろお前と同じで、素直に見えて実は頑固で我が強い。ちゃんと言って聞かせてやれ」
「……そう、ですね。モランさんの言う通りです。行ってきます」
「おう」

 ルイスはすっくと立ち上がった。
 去り際にはいつもの調子を取り戻して、「今日はこれでおしまいですよ」とブランデーの瓶を取り上げて戸棚に戻していった。
 これならば心配することもないだろう。モランはグラスに残ったブランデーを喉の奥に流し込んだ。


※※※※※


「……ってな事があったんだ」

 明くる日、モランは昨夜と同じ居間のソファに腰掛けながら、アルバートとウィリアムに昨晩の出来事を語って聞かせた。
 二人は顔を見合わせて、くすくすと笑いあった。

「そうだったの。ルイスがそんな事を」
「フフ、これであの子も私たちの気持ちをわかってくれたかな」
「朝食の時にはぎくしゃくした様子もありませんでしたし、きっとうまく仲直りできたんでしょう。モラン、取り持ってくれてありがとう」

 ウィリアムからの素直な感謝の言葉に、モランはくすぐったい気持ちになった。彼への個人的な忠誠心とは別としても、こうして彼らの助けになれることは嬉しいのだ。
 モランがテーブルから紅茶のカップを手に取ったタイミングを見計らって、長兄が口を開く。

「……しかし、この話にはもっと根本的な問題があると思わないかね? 大佐」
「ん?」
「ルイスもフレッドも優しいから、あえて何も言わなかったみたいだけど……ね?」
「あ、えーっと……」

 アルバートから不穏な問いが投げかけられる。
 雲行きが怪しくなってきたことを察知してモランは腰を上げかけたが、ウィリアムからすかさず追撃が入り、逃亡のチャンスを逸した。
 アルバートは優雅に脚を組み直し、さらに畳み掛ける。

「そもそも大佐が遅くまで飲み歩いてさえいなければ、フレッドが夜中に一人で出歩く必要も、ルイスが余計な気を揉むこともなかったのだよ。大佐が行ってくれば済む話だったのだから。二人にいらぬ苦労をかけて、年長者として何も思うところはないのかね? これを機に生活態度を改めたまえ」
「僕としても、いざという時に大人のモランがいてくれた方が安心かな」
「ぐっ……わーったよ、しばらくは控える!」
「『しばらく』? まったく反省の色が見えないな。頻度の話をしているのではないのだよ。だいたい……」

 滔々とお説教は続いた。
 さらにはウィリアムが「そうですね」「兄さんの言う通り」と絶妙なタイミングで合いの手を入れるので、モランも逃げるに逃げられない。
 と、そんな居間の様子をドアの隙間から覗き見する人影があるのに、ウィリアムは気がついた。ルイスとフレッドだ。
 モランが自分のせいで主人から叱られているとでも思っているのだろうか、フレッドはおろおろとこちらの様子を伺っている。
 そんな彼の肩を、ルイスがぽんぽんと叩いて何事か囁きかけた。内容まではウィリアムの耳まで届かなかったけれど、その呆れたような表情からして「放っておいて仕事に戻りましょう」とでも言ったのだろう。
 フレッドはもう一度室内に視線をやったが、結局はルイスの後について廊下の向こうへ消えていった。
 これは兄貴分としての威厳が失墜する日もそう遠くないな。ウィリアムは苦笑した。

初出:Pixiv 2022.02.06

前夜
 踊り子事件前夜のフレッドとモランの話。

 僕が屋敷に戻った時、ルイスさんは用事で街へ出かけた後だった。
 ウィリアムさんもまだ大学から帰ってきていないらしい。かわりに、居間の窓辺にモランがどっかりと座り込んでいた。

「おう、そっちはどうだ」
「もう済んだ」

 僕は短く答えた。モランも心得ているので、いちいち深く尋ねてきたりはしない。
 開け放った掃き出し窓から足を投げ出して、どうやら銃の整備をしているようだった。こんな所でやる事ではないだろうに、という僕の考えを読み取って、モランは「使用人部屋はまだ湿っぽくて埃が舞うんだよ」と口を尖らせた。
 僕らがこのダラムに呼ばれる前にルイスさんがひと通り掃除を済ませてくれていたとはいえ、この屋敷はしばらく空き家だったのだ。3階の使用人部屋は特に人の出入りが無かったのだから、まぁ、わからない話でもない。
 掃き出し窓が面した庭は高い塀と生け垣に囲まれているし、田舎町の外れにあるこの屋敷のそばをわざわざ通り掛かる者もいないだろう。せめて、モランが煤や油で絨毯を汚さないように見張ることにしよう。そう考えた僕は、窓の桟にもたれて立った。
 モランは僕に構わず、分解したパーツをひとつひとつ確かめて、磨いて、また組み立てていく。
 彼が銃の整備をするところを見るのは、昔から好きだった。その手付きはいい加減に見えて実は限りなく正確で繊細で、一流の職人の手仕事を見ているようなどこか楽しい気分になった。
 しかし、明日の作戦で使う銃は、兵器科が用意した空気銃ではなかったか。彼の手元に広がっているのは、彼愛用の火薬を用いた狙撃銃だ。
 僕の視線に気付いたモランが、また口を開く。

「一流の狙撃手なら、銃のメンテナンスは欠かさないもんだ。『銃の扱い』ってのは的を撃ち抜く腕前だけを指してるわけじゃないからな」
「知ってる。前にも聞いたよ」
「あ? そうだったっけか……」

 淀みなく動かしていた手をちょっとだけ止めて、モランが考えこむように視線をさまよわせる。僕もつられて、その言葉を聞いたのがいつの事だったのかを思い出した。

「あぁ、『鹿狩り』のときか」

 モランがぽつりと呟いて、納得したように頷きながら作業に戻った。 
 『鹿狩り』――数年前、モリアーティ家領内の森へ連れて行ってもらったことがある。いずれ始まる計画に備えて、『銃の扱い』を教わるために。
 モランと、当時すでに軍で訓練を受けていたアルバート様が教官役になり、ウィリアムさんとルイスさんと僕が生徒だった。銃の構造の解説に始まり、メンテナンスや運搬の方法について講義を受けた。
 森に入ればすぐに銃を持たされて撃ち方を教わるとばかり思っていた僕に、モランは先ほどと同じことを言ったのだった。

「あの時はウィリアムから質問責めにあって散々だったっけな……。あの時ばかりはアルバートに感謝したぜ。あいつが止めなけりゃ日が暮れるまで終わらなかったからな」

 モランが懐かしげに呟いた。
 狙撃手には特に、数学や物理学の知識も求められるものらしい。標的との距離の測り方や弾丸の軌道を予測する計算式についてモランが軽く触れると、ウィリアムさんは「モランとこんな話ができるなんて!」と目を輝かせた。
 そこからは即興の弾道学講座だった。モランはウィリアムさんからの質問にしっかりと回答できているように僕には見えていたが、のちに数学教授となったほどの人だ。彼の理解が深まるたび質問はどんどん鋭さを増して、モランは頭を抱えながら唸り声を上げる羽目になった。ルイスさんは二人に付いていこうと必死に食らいついていたが、僕は早々に降参した。学校にすらまともに通った経験のない僕にはあまりにも高度な内容だったからだ。

「確かお前は、鹿を仕留め損ねてしょげてたな」

 モランがくつくつと喉を震わせて笑った。
 あの時の事はよく覚えている。
 座学を切り上げ、木の的を使って練習をした後は、生きた獲物を狙う訓練もした。用いたのが一般的な猟銃ではなかっただけで、撃ったのはもちろん本物の鹿や野鳥だ。猟師でもない僕らが野生動物を相手に拳銃の射程圏内まで接近するのは難しいので、狙撃銃を使った。
 教わった通り、それでもモランと比べるとずっと辿々しい手付きでスコープを覗いて照準を合わせた。
 若いオスの鹿が、遠くから狙われている事も知らずに川辺をのんびりと歩いていた。水を飲もうと彼が足を止めた瞬間を見逃さず、僕は引き金を引いた。
 高い銃声が響いた。発砲の反動でよろけそうになって、僕は慌てて腹に力を込めて踏ん張った。もう一度スコープを覗くと、僕が放った弾丸は鹿の横腹を抉っていた。
 透明だった川の水が、みるみる赤く染まっていく。姿の見えない敵から何とか逃れようと、彼は何度も膝をつきそうになりながら、細い脚を懸命に踏ん張って木立の中へ隠れようとしていた。
 スコープ越しにその怯えた真っ黒い瞳を見たとき、僕はつめたい手で心臓を掴まれたような心地になった。
 再び銃声が響いて、鹿の体がばったりと地面に倒れた。驚いて顔をあげると、隣でモランの構えた銃が細く煙を上げていた。僕が仕留めそこねた鹿の頭を、彼が正確に撃ち抜いたのだ。
 「惜しかったですね」「初めてで当てられたなら上出来だよ。もう数インチずれていれば心臓だった」と、側で双眼鏡を覗いていたルイスさんとアルバート様が話していた。
 僕は確かその時十五歳かそのくらいだったけれど、すでに人を手にかけた経験があった。貧民街での暮らしが長かったから、道端で冷たくなっている人間だって数え切れないほど見てきた。
 それでも、自分や周りの誰かに害を為したわけでもない無垢な生き物を撃つのは、おそろしいと感じた。一撃で仕留めきれず無駄に苦しませてしまった事も、いまだに僕の心を重くしていた。

「フレッド、明日は頼むぞ」

 モランは唐突に、そう言った。
 鹿のことを考えていた僕は、一瞬、モランが何の事を言っているのか分からなかった。
 明日。この国を変える計画のはじまり。
 僕の役目は、死に追いやられたあの女性に扮する事。自分が何故裁きを受けるのかを標的――ダドリーに思い知らせる重要な役割だったが、モランが言っているのはそれだけではないのだろう。
 モランは狙撃位置についているとはいえ、装備は殺傷力の低い空気銃だ。ルイスさんはダドリーを現場まで呼び出す郵便配達員の役なので、そもそも明日の『舞台』には上がらない。
 万が一追い込まれたダドリーがおかしな動きを見せたなら、ウィリアムさんとウィリアムさんの大切な生徒を守れるのは、僕だけだ。
 その事を理解して、僕は「わかった」と短く答えて頷いた。モランは取り外したスコープを手の中で転がしながら、「変わった奴だな」と笑った。

「何が?」
「鹿は可哀想でしょうがないくせに、人を撃つのは躊躇しないところだよ」
「別に……。鹿とダドリーは全然違うし」
「まぁそうなんだがな」

 自分と同じ姿形をした生き物を傷つける事に対して、本能的に忌避感を抱く気持ちは理解できる。
 料理にたかる蝿を叩きつぶす事はできても、ゴミ捨て場を漁る犬や猫を殺すとなると抵抗を覚える人は多いだろう。理屈自体はそれと同じだ。きっと大抵の人にとっては、法律とか社会通念とかを抜きにしても、鹿を撃つより人を撃つ事のほうがつらいのだろう。
 けれど僕は、他人を踏みにじる事に少しも心を痛めない、人を人とも思わない奴らの存在を嫌というほどよく知っていた。
 どれだけ自分とよく似た姿形をしていようと、奴らの本性は獣以下だ。そうした連中に僕は散々ひどい目に遭わされたし、虐げられ、果ては命まで奪われた人たちを大勢見てきた。
 そして、ウィリアムさんは現実に打ちのめされた僕の前に現れて、それでいいと言ってくれた。許せなくていいと、抗っていいのだと教えてくれた。
 その言葉が、僕に力をくれた。

「普通はな、反復するうちに慣れるんだ。殺すのに人間も動物も関係無くなる。相手が悪人かどうかもな。それでもお前は何年も前に撃った鹿のことを思い出して『そんな顔』ができる。その後味の悪さをいつまでも覚えていられる。
 猟師にも兵士にも向いてないが、この仕事にはある意味では向いてるよ。その感覚は、この組織に必要だ。ウィリアムも、そういう性分を承知の上で、お前を組織に入れたんだろうよ」
「ふぅん……」

 そんな顔、というのはどういう顔だろうか。何だかむず痒い気分になって、僕は曖昧に相槌を打った。
 自分が人より表情がおもてに出ない方であることはよく分かっているけれど、モランはよくこうして僕の表情を読んだようなことを言う。口の重たい僕が考えていることを先回りして話す。
 相手が悪人でなくてもモランは撃てるのだろうか。そんな疑問がふと頭を過ぎったが、彼に従軍した経験がある以上は聞くまでもないことで、僕は言葉を胸のうちにしまった。

「さて、そろそろウィリアムたちも帰ってくる頃合いか。撤退だ」

 モランは整備を終えた狙撃銃をしまったケースをバタンと閉じた。
 そして煙草に火をつけて、紫煙を吐き出しながら立ち上がる。歩きながら煙草を吸ったりして、絨毯に灰が落ちるとまたルイスさんに叱られてしまう。そう声をかける前に、モランはさっさと居間を出ていってしまった。煙草の先端の赤い火が、廊下の薄暗がりの中をスッと滑っていった。
 気づけばすっかり日が沈んでいた。開けっぱなしの掃き出し窓から夜の気配をまとった空気がわずかに流れ込んでくる。
 庭の植え込みは葉っぱの一枚もそよがせることなく静かに佇み、雲は重く停滞していた。今夜も霧が出るだろう。
 僕は窓を閉めて、ウィリアムさんたちを迎えるため、暖炉に火を入れた。


初出:Pixiv 2022.01.30

変装談義
 フレッドとボンドが喋ってる話。

 酒に酔った人間というのはタチが悪い。
 もう少し治安の良い道を通るんだったな、と僕は内心歯噛みした。とある貴族主催の夜会に、臨時の雇われメイドとして潜入した帰りだった。後片付けを終えた頃には、すっかり夜も更けていた。
 一日の報酬を受け取り、他の娘たちに混じって屋敷の使用人用出入り口から出て行ったのがつい数十分前。外套の前をかき合わせながら足早に歩いていたところを酔漢に呼び止められた。

「おい! ちょっと付き合えよ嬢ちゃん!」

 無視して通り過ぎようとしたのが気に入らなかったらしく、前に回り込んで進路を塞がれた。気の毒なことに、酒のせいで今自分が絡んでいるのが男だということにまるで気付いていないようだ。気がつかれても困るのだが。
 大柄な労働者ふうの男だった。手のひらがぶ厚く肩から腕にかけてよく筋肉が乗っているから、荷運び人か何かだろうか。太い眉の下のぎょろりとした目玉は見るからに気性が荒そうで、通行人たちはこちらに心配そうな視線を送りながらもそそくさと立ち去っていく。
 さて、どうしたものか。あまりもたもたして警官でも呼ばれたら厄介だ。まさか実力行使に出るわけにはいかないし、走って逃げるにしても、人目がある以上はか弱い女性に見える程度にセーブして走らなくてはならないのが面倒だった。
 走り出すタイミングをはかりながら、後ろに足を一歩引く。僕が距離を取ろうとするのを察して、男がこちらに腕を伸ばした。アルコールの影響で足元がふらついている。タイミングよく躱してやれば簡単に体勢を崩すに違いない。
 が、男の腕は横から伸びてきた別の手に掴まれた。

「そういうの、流行りませんよ。お兄さん」

 ボンドさんだった。
 彼はそのまま男の腕を捻りあげると、脛を蹴っ飛ばした。体格差をものともしない、見事な体幹崩しだった。
 目にも止まらぬ早さで石畳に叩き付けられた男は苦しげなうめき声を上げた。酔いも手伝って起き上がれないようだった。通行人の間から小さく感嘆の声が上がった。
 
「さあ、もう大丈夫だよ……って、あれ? 君もしかしてフレ、」

 僕の方を振り返って声を上げそうになったボンドさんは、しかし周囲にまだ人の目がある事を思い出した。

「……フレドリカじゃないか! 遅くまでお疲れ様。送っていくよ」

 大抵の女性は喜んでついていってしまいそうな人好きのする笑顔だった。
 僕も周囲から怪しまれないように、彼とはあくまで親しい間柄であることを示すように微笑み返す。様子を伺っていた通行人たちはほっとした表情でめいめいに散っていった。
 男はまだ地面に転がっていたが、置いていく事にした。例えこのまま数時間起き上がれなかったとしても、この時期の気温で凍死することも無いだろう。
 肩を並べて歩き始めて、しばらくしてからボンドさんが声を潜めて囁いた。

「気付かなかったよ。君も大した役者だね」
「それはどうも」
「ごめんね、そっち行けなくて」
「いえ。そちらの『仕事』にも穴を空けるわけにはいきません」

 ボンドさんはここ数日、MI6の任務に駆り出されていた。機密文書を巡る一件からホームズ卿と影で協力関係を結んでいる以上、政府の信頼を損なうようなことがあってはならない。当然、MI6の任務を疎かにすることはできなかった。
 人員の割り振りはウィリアムさんが、MI6を束ねるアルバート様と話し合って決めたことだ。僕には文句などない。

「そう言ってくれると有り難いよ。君の方は? 充実した1日だったかな」
「えぇ。面白いお話がたくさん」
「それは良かった。帰ったら詳しく聞きたいな」
「もちろん」

 僕はほんのりと口角を上げながら頷いた。
 『面白いお話』というのは、もちろん調査対象の貴族に関するあれこれである。一夜限りの雇われメイド相手となると、普段は忠実な使用人たちの口も多少は軽くなるものだ。仕事の合間の雑談として、僕は彼らのちょっとした愚痴に付き合った。
 今夜手に入れた情報が、ウィリアムさんの計画をより緻密に編み上げる助けになるといい。
 そんな事を考えながら歩いていると、いつの間にかボンドさんがじっと僕の顔を覗き込んでいた。

「……何か?」
「あ、ごめんね。いつもと印象違ったからつい」
「はぁ……」
「その口紅、よく似合ってるよ」

 ばちりと見事なウィンクが決まった。
 きっと飛び上がって喜ぶべきところなんだろうな。普通の女性であれば。
 艶のあるブルネットを慎ましく帽子の中に隠していようと、地味なガウンに手編みのレース襟を合わせて精いっぱいのおしゃれをしていようと、僕の中身はどうしようもなく男である。その見事な所作に感心はすれど、ときめく気持ちはこれっぽっちも湧いてこなかった。

「コルセットとか、キツくない?」
「そんなに締めていないので」

 ボンドさんの手が腰に回されるのをやんわりと払いながら答えた。

「え、これで? 女の子の前で言っちゃダメだよ、それ」
「言いませんよ。……それより靴を履き替えたいです」
「あ、そっち。確かに君けっこう足大きいもんね」

 僕は小さく頷いた。
 実際、女性の格好をする際にもっとも苦労するのは女物の靴を履くことだった。
 コルセットも確かにきついけれど、姿勢にさえ気をつけていればそこまで苦ではない。いくら頑張って締め上げたところで身体の構造上限度があるので、胸や腰回りに膨らみを持たせて視覚的に誤魔化す方法を採用していた。
 しかし靴はそうもいかなかった。足の大きさだけはどう足掻いても変えようがない。
 ウィリアムさんに以前聞いた話だが、人間の足の大きさ、特に足の甲の幅は子供の頃に履いていた靴で決まるらしい。
 貴族の子弟や裕福な家庭の子供は成長段階に応じて靴をあつらえるので、足がそこまで大きくならない。逆に、どうせすぐに背が伸びるのだからと大きめの靴をあてがわれていた子供は足が大きく、甲の幅が広くなる傾向にあるらしい。
 半信半疑の僕を見て、ウィリアムさんは通りがかったモランを捕まえて靴を脱ぐように命じた。すると確かに、モランの足は僕のものに比べて縦にふた周りは大きかったのに、足の甲はそう大差ない幅をしていた。おそらくアルバート様にも同じ法則が当てはまるのだろう。彼の裸足を見る機会など一生訪れないと思うが。
 そういうわけで、拾い物の大きな靴を穴が開くまで履き潰すような子供時代を送っていた僕の足は、体格の割には幾分か大きいようだった。
 男物はともかく女物はほっそりとしたデザインの靴が多く、毎回苦労させられている。つま先から踵までのサイズは同じはずなのに、横幅がとてもきついのだ。かといって横幅を優先して靴を選ぶと、今度は踵が余る。踵が余っていると歩き方に影響する上に、大きな靴を履いていることが傍目にも分かりやすい。足の大きさから女装を見破られるとは考えにくかったが、少しでも変な印象を持たれることは避けたかった。
 そうして仕方なく幅の狭い靴に無理矢理足を押し込んでいたのだが、ウエストのように力を入れれば一時的にサイズが小さくなるものでもない。立っていても座っていても足が締め付けられて痛みが伴うというのはかなりの負担だった。
 これまで変装道具は、特殊なもの以外はありふれた既製品で間に合わせることを信条としてきた。それはコスト面の問題であり、何かの拍子に身元を辿られないようにするための対策だった。しかし今後この手の仕事が増えるのであれば、伝手を頼って専用の靴をあつらえた方がいいのかもしれない。

「ボンドさんこそ、大変じゃないですか。ずっとその格好でいるの」
「え、僕? うーん、僕はけっこう楽しんでるよ。スーツも好きだしね。女の子たちが着るドレスと比べるとどうしたってバリエーションが少ないけど、それはスタイルとして完成されてるからだと思うんだ。その枠をどれだけ守って、どれだけ壊すか……そのさじ加減を工夫するのって面白いと思わない?」

 ボンドさんは顎を引いて背筋をピンと伸ばすと、ジャケットの襟をぴっと正した。
 街灯のぼんやりとした明かりの下であってもその仕草は物語の主人公のように様になっていて、人の美醜にはあまり興味のわかない僕でさえため息が溢れるようだった。
 確かに、明るいグレイの三つ揃えにピンクのネクタイという一見奇抜な組み合わせは、ボンドさんの抜けるように白い肌や金髪にとてもよく似合っていた。彼以外の人間が真似をしてみたところで、この華やかな出で立ちを再現することは絶対に不可能だろう。

「やっぱり、今日の任務は僕が行って正解でした」
「えっ何それどういう意味?」

 ボンドさんは子供のように下唇を突き出した。
 たとえ下働き用のお仕着せを身に纏っていようと、彼が備え持つ華やかな空気は隠しきれない。他のメイドたちはおろか貴族の令嬢たちをも押しのけて、会場の視線を一身に集めていた事だろう。彼にはそう思わせるだけの不思議な引力があった。
 今だって、彼は『男性』を演じているというより、彼が作り上げた『ジェームズ・ボンド』というキャラクターを演じていると表現した方が適切に思える。あくまでさりげなく人の中に紛れ込むことに主眼を置いた僕の変装術とは、似ているようでまるで異なるアプローチだ。
 そうした考えを言葉には出さずに黙っていると、ボンドさんはくるりと振り返って僕の頭から爪先までをしげしげと眺めた。

「確かに……その格好で一日働いてきたんだよね。誰にも怪しまれたりしなかった?」
「不安があるなら、ウィリアムさんも僕に任せたりしません」
「……声の作り方も完璧だ。どこで教わったの?」
「特には……」

 変装術も諜報術も生きるために身につけ、ウィリアムさんのお役に立つため磨きあげた技だった。アルバート様がMI6を率いるようになってからも、正式な諜報員ではない僕はきちんとした訓練を受けたことがなかった。
 そのことを話すと、ボンドさんは「えっ」と声を上げた。

「独学ってこと? すごいよ! 死ぬほどレッスンを受けて努力して、それでも芽が出なくて諦めていく役者なんてそれこそ掃いて捨てるほどいるのに……今の君なんて普段の君とはまるで別人だよ」
「……芝居と変装は別でしょう?」
「そうだね。そうだけど、君が舞台に上がったらすっごく面白そう! ね、お芝居に興味ない?」
「ありません」

 あっさりと答えた僕に、ボンドさんは「なんてもったいない!」と大げさに頭を抱えた。
 僕はこれまでの人生の中で、芝居というものをまともに観たことがなかった。強いて言うなら、ノアティック号での任務中に船上オペラをちらりと眺めたくらいだろうか。

「今さら役者に転向なんてできません」
「僕だってそれは分かってるんだけどね……」

 彼が本気で言っていないことは分かっていたけれど、僕だってこう答えることしかできない。少し気まずくなって僕は外套の襟に顔を半分埋めた。
 しばらくうんうんと唸った後、ボンドさんはパチンと指を弾いた。

「……よし。それじゃあ、今度招待させてもらおうかな」
「え」
「今後の参考に、一回ぐらいきちんと生の舞台を観てみるのも悪くないでしょ? ああ、アル君がたまに付き合いで行くような堅っ苦しいのじゃなくて、もっと気楽なやつね。デートだよ。どう?」
「デートって……」
「どうかした?」
「何というか、あべこべのような」
「あべこべ? 何が?」

 白い歯をのぞかせながら、ボンドさんはいたずらっぽく笑った。とぼけるつもりらしかった。
 彼相手に口で敵うはずもなく、僕は口を噤むことにした。

「いえ、何も……」
「ふふ。じゃあ楽しみに待っててね。可愛いフレドリカ」
「…………はぁ」

 釈然としない思いを抱えながらも、僕は曖昧に返事をした。
 それからボンドさんは、近頃ロンドンで話題の演目や評判の良い役者についてあれやこれやと語り始めた。今でも仕事の合間に庶民向けの小劇場に足を運ぶことがあるらしい。いつにも増して饒舌な様子からは、彼が芝居というものを本気で愛していることがうかがえた。
 その楽しそうな顔を見ていたら、今夜のお礼に一日だけ付き合ってみるのも悪くないかもしれない、という気持ちが湧いた。


初出:Pixiv 2021.09.26

どこまでもともに
 アルバートと、まだウィリアムになる前の少年の話。

 家庭教師の講義を終えたアルバートは、こっそりと使用人フロアに上がった。この時間であれば、皆夕食の支度で忙しくしているだろうと考えたのだ。
 目論見通り、使用人フロアには誰もいなかった。けれど、あのちいさな兄弟の部屋も空っぽだった。
 どこに行ったのだろう、とアルバートは首をひねった。母は芝居を観に出掛けていたし、弟は課題を放り出していたためまだ家庭教師から解放されていない。彼らが余計な用事を言いつけたわけではないだろう。
 屋敷の中をぐるりと回って、最後に訪れた裏庭の厩舎に彼はいた。

「あ、アルバート様……」

 薄暗い厩舎の中で、彼は藁屑に塗れながら掃除をしていた。汚れた藁をかき集めるのに使う大きな熊手は、彼の背丈ほどもあった。そう広い厩舎ではないけれど、子供一人で掃除をするのはどれだけ骨が折れただろう。
 アルバートに見つかったと気づいたとき、何故か彼はばつが悪そうに顔を伏せた。

「下男たちは?」
「えっと、今日は具合が悪いみたいで……」
「全員がかい?」
「…………」
「もしそうだとしても、君が一人でやらないといけない仕事じゃない。僕も手伝うよ」
「アルバート様!」

 靴が汚れるのも構わず馬小屋に踏み込もうとすると、少年は戸口の前に立ち塞がって通せんぼをした。甲高い叫び声に驚いたのか、馬たちがぶるると鼻を鳴らした。

「大丈夫です。もうほとんど終わりましたから」
「朝からずっとやっていたのかい?」
「……僕、馬が好きなので、お世話ができて嬉しいんです。あとはこれを捨てるだけなので、アルバート様は待っていてください。あなたに手伝いをさせたと知られたら、後で僕が怒られてしまいます」

 少年は汚れた藁とボロを積んだ荷車をふらふらと押していった。アルバートはその背中を見送りながら、彼らがここへ来てから何度目になるか分からないため息をついた。
 掃除を終えた少年は、井戸で水をくんで手を洗った。白いハンカチを差し出しても遠慮するので、アルバートはやや強引に小さな手を取って水気を拭ってやった。

「そんな顔なさらないでください。誰かが必ずやらなければいけない仕事なのですから」
「僕たち家族は報酬を支払った上で、彼らを雇っているんだ。それが彼らの働きに見合うものであるかはともかく……その仕事を君に押し付けるのは間違ってる」
「……そうですね。でも一日くらいなら、見逃してあげてもいいでしょう?」
「そんなことを言っていたら……」
「いいんです。それに、馬が好きなのはほんとうですよ。アルバート様は、帯同馬ってご存知ですか?」
「え? いいや……なんだい、それは?」

 はぐらかされていると分かっていたが、彼と議論をするのもお門違いだろう。アルバートは諦めて彼の話に付き合うことにした。
 少年は、知らない事は「知らない」と正直に答えることができるアルバートがとても好きだった。下民だから、子供だからという理由で少年の話を聞こうともしない人間があまりに多かったからだ。

「競走馬がレースに出走するとき、厩舎から会場まで移動しなければならないでしょう? 会場がとても遠いところにある場合は、船や汽車に乗せられることもあります。馬は繊細な生き物だから、移動のストレスで具合を悪くしてしまったり、慣れない環境で寂しがったりするんです。そうならないように、仲のいい馬を一緒に連れていくんです」
「へぇ、その馬のことを『帯同馬』というんだね」
「はい。昨年、女王陛下主催のレースでフランスからヴァロンティンヌ号が招かれた時、初めて帯同馬を見ました。二頭がぴったり寄り添って馬運車から降りてきて、とてもかわいかったんです」
「それは見てみたかったな」

 競馬は庶民の娯楽として人気が高かった。道楽として馬主になる貴族も多い。あまり競馬に興味がある方ではないアルバートでも、その馬の名前は知っていた。けれど、一緒にやってきた馬がいたという話を聞いたのは初めてだった。レースには直接関係がないことなので、新聞にも取り上げられなかったのだろう。
 二頭の馬が暗い馬運車の中で、互いに慰めあい励ましあう姿を想像してみた。住み慣れた土地を離れるのは心細かっただろう。それが例えレースに出走するための一時的なものであったとしても、人間の事情など彼らには知る由もない。どこへ連れて行かれるのかもわからぬまま、彼らはお互いの存在だけを支えにじっと佇んでいるのだ。
 弾んだ声で、少年は続けた。

「あのレースでヴァロンティンヌ号は一等だったんですよ。チケットが手に入らなかったので直接観戦することはできませんでしたが、新聞でその事を知ったときは嬉しかったです。名前も知らないあの帯同馬がいてくれたおかげだと思うんです。だから僕、馬って大好きで……」
「君にとっては、ルイスがそうなんだね」
「え?」
「どんな時も互いに支え合って、いつでも一緒……と聞くと、まるで君とルイスみたいだと思ったんだ。ルイスは、君にとっての帯同馬だ」

 アルバートの言葉に少年は数回瞬きした後、ほんのりと頬を染めた。

「そうでした……。二人でフランスから来た馬を見に行った時、『かわいい』と言ったのは僕じゃなくてルイスでした」

 少年は肩を落としながらそう白状した。
 彼の弟は今、心臓の手術を受けるため入院生活を送っていた。きっと弟の話題をあえて避けようとしたのだろう。そのために無意識のうちに記憶をすり替えて、弟の感想を自分のもののように話してしまってた。彼にしては珍しく、年相応な子供らしさのように思えた。

「僕はそれまで、馬をかわいいだとか好きだとか、考えた事もなかったんです。ただ評判の馬がロンドンに来ると聞いて、ルイスが喜ぶかなと思って、見物に行こうと誘ったんです。馬が二頭降りてきて不思議がっているあの子に帯同馬のことを教えてあげると、『僕と兄さんみたいですね』って嬉しそうに笑ったんです」

 アルバートの前ではいつも、ルイスは兄の後ろに隠れて硬い表情をしていた。仲の良い馬たちを見てはしゃぐ、子供らしく無邪気な彼の姿をまだ知らなかった。

「ルイスは、いつも僕に新しい驚きと発見をくれます。ルイスといると、世界の見え方が変わるんです」
「君にそうまで言わせるなんで、ルイスはすごいんだね。僕も彼とゆっくり話をしてみたくなったよ」
「! そう、そうなんです。ルイスはすごいんです」

 少年は少しだけ声を上ずらせながら、勢いこんで言った。このことに関して、初めての理解者を得たとでも言うように。

「僕はルイスがいればどこにだって行けます。何だってできる……」

 例えそれが腐臭漂う貧民街の路地裏でも。悪魔の棲まうつめたい屋敷でも。少年が言葉の続きを飲み込んだのが、アルバートにはわかった。
 アルバートは目の前の小さな頭にそっと手を伸ばした。自分のものと違ってくせのない細い金糸が、指の間をするりと抜けた。

「あ、アルバート様?」
「あぁ、藁がついていたんだ。金髪に馴染んでいたから、すぐには気づかなかったよ。もう払ったから大丈夫だ」
「ありがとう、ございます……」
「今日は早く休むといい。明日は一緒にルイスのお見舞いに行こう」

 アルバートのこの申し出に、少年はぱっと顔を明るくした。
 屋敷からルイスのいる病院まで、少しばかり距離があった。面会時間いっぱいまで病室にいたために帰りが遅くなり、彼が夕食を食べそこねた事が何度かあったのをアルバートは知っている。辻馬車を拾おうにも、子供一人ではなかなか止まってもらえないそうだ。
 その点、アルバートが一緒なら自家用の馬車を使うことができた。執事長から嫌味の一つももらうかもしれないが、彼は今日一日かけて厩舎の掃除をしたのだ。文句など言わせない。

「ありがとうございます。退屈しているだろうから、新しい本を持っていってあげないと」

 そう感謝の言葉を述べながらも、彼の頭の中はすでに弟のことでいっぱいなようだった。今日はよく表情を変えるな、とアルバートは思った。
 彼の弟に比べると表情豊かな方であると言えなくはなかったが、それは他者の視線を意識し計算されたポーズにすぎないと常日頃から感じていた。アルバート自身にも心当たりがあったから、よくわかった。
 今の彼は良くも悪くも取り繕う余裕が無くなるほど、愛しい帯同馬の不在が堪えているようだった。

「そうだね。馬が出てくる物語はどうだろう。何があったかな……」
「東洋には、馬と結婚した女性の話があるそうですよ」
「馬と? その国では、馬との結婚が認められているのかい?」
「まさか。おとぎ話の類です」
「なんだ、そうなのか。生涯の伴侶にしたくなるほど、馬は魅力的な生き物……ということなのかな」
「きっとそうです」

 二人はもう一度、顔を見合わせて笑いあった。
 無事を祈ることしかできないのは苦しいけれど、アルバートの苦しみなど彼の比ではないのだろう。そのことに一抹の寂しさを覚えながらも、それでもルイスのために、彼のために祈らずにはいられなかった。
 今はただ、ぴったりと寄り添って支え合う美しい兄弟の姿を、一番近くで見ていたいと思った。
 アルバートは想像する。
 異国からやってきた名馬を一目見ようと、街には大勢の見物人が押し寄せている。彼ら兄弟もその雑踏の中に混じっていた。はぐれないようにしっかりと手を繋いで、背伸びをしながら馬運車の扉が開くのを心待ちにしていた。今だけは厳しい生活のことも何もかも忘れて、そっくりな緋色の瞳を輝かせているのだ。
 アルバートはただ眩しさに目を細めながら、彼らの後ろ姿を眺めている。僕も君たちの旅路に加えてほしい。そう望みを口にすることは、まだできそうになかった。


初出:Pixiv 2021.08.21

薔薇の君
 ある日のフレッドとアルバートの話。


 フレッドは疲れていた。
 犯罪相談役窓口としての仕事は非常に神経を使う。
 ヤードやシャーロック・ホームズに素性を掴まれてはならない事はもちろん、フレッドのもとにやってくる相談者とて信用できる人間とは言えない場合が多い。力無き市民とはいえ、その困りごとの解決を犯罪によって成そうと考える人間なのだ。真に追い込まれ犯罪に走らざるを得ないのか、それともただ安易な解決手段として犯罪を選んだのか、ウィリアムに報告を上げる前に見極め、ふるいに掛けなければならない。
 この日フレッドは、巷で話題の犯罪卿の正体に迫らんとするジャーナリストにつかまり、そのあしらいに非常に難渋させられた。報道関係者だけあって嘘の相談内容も妙に作り込まれていて、彼をすぐに振り払うことができなかった。その結果、危うく彼の仲間が待ち構える場所へ誘い出されるところだった。捕らえられるという最悪の事態は免れたが、その後始末にかなり手間取ってしまった。
 ひと晩中街を駆けずり回り、疲労と寝不足で頭がズキズキと痛む。重い足を引きずり屋敷への帰路をたどる今も、尾行がついていないか気を抜くことはできなかった。
 もうあのルートは使えないな。ウィリアムさんに報告しなければ。今日は確かアルバート様も屋敷にいらっしゃったはず。あのジャーナリストたちが関わっている報道機関は今後要注意だ……。
 どれほど疲れていても、頭の中では冷静な思考がぐるぐると渦巻く。
 ああ、一度眠らなければ。もうすぐ夜が明ける。
 周囲に人の気配がないことを確かめてから、鍵を使って屋敷の裏門を抜けた。三階使用人フロアの自分の部屋が妙に遠く感じられて、フレッドは庭の温室に入った。そこは、フレッドにとってもうひとつの部屋だった。いや、むしろ与えられた自室よりもこの温室で過ごした時間のほうがよほど長いかもしれない。
 この時間であれば、ウィリアムたちもまだ休んでいるだろう。報告は日が昇ってからにしよう。
 三階の自室に戻って、服を着替えて、ベッドに入るのは億劫だった。フレッドは温室の片隅に腰を下ろし、膝を抱えた。
 風も吹かない温室の中は静かであたたかい。薔薇の芳香に混じって、土と緑の匂いがした。緊張の連続で熱を持った頭がじんわりと冷えていくのを感じながら、空色のストールに顔を埋めて、フレッドは目を閉じた。

✳︎

「……レッド。フレッド」

 どのくらい眠っていただろうか。
 誰かに優しく、肩を揺すられている。

「フレッド、大丈夫かい?」
「ん……あっ、アルバート様!?」

 鮮やかな翠玉の瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいて、フレッドは眠りの淵から一気に覚醒した。いつの間にかとうに日は昇り、温室の薔薇たちは降り注ぐ日差しに負けじとまばゆく咲き誇っている。ずいぶん長いこと眠り込んでしまったようだった。
 フレッドが意識を取り戻したのを見て、アルバートは安心したように「よかった」と微笑んだ。

「こんなところに座り込んで……気分が悪いのかい?」
「いえ、あの……眠ってしまって……」
「こんなところで?」

 アルバートは驚いたように目を丸くした。
 この温室はフレッドにとっては自室のベッドと同じくらい安心できる場所ではあるが、アルバートにとってはそうではないだろう。屋敷の敷地内とは言え、屋外で眠るなど伯爵家の使用人としてありえないことだ。
 フレッドは慌てて立ち上がり、昨夜の経緯を説明し、庭で眠っていた無作法を侘びた。

「ということは、朝食は食べてないんだね」

 屋敷の主人が気遣わしげにそう尋ねるので、叱責の言葉を覚悟していたフレッドは少々面食らった。

「え、はい……」
「それはご苦労だったね。昼食には少し早いが、ルイスに何か出してもらえないか頼んでこよう。一度部屋に戻って顔を洗ってくるといい。それとも、まだ寝ていたいかい?」
「いえ、アルバート様のお手を煩わせるわけには」
「ちょうど退屈で庭を散歩していたところだったんだ。夜通し働いてくれた使用人を労うのは、屋敷の主として当然のことだろう?」

 庭で居眠りをしていた使用人を叱責するどころか気遣ってくれる主人の優しさに、申し訳なさがこみ上げた。頭を下げると、彼のスラックスが砂で汚れているのが目についた。花壇の影でうずくまっていたフレッドを心配して、地べたに膝をついたのだろう。汚れを払うために身を屈めようとするフレッドを、アルバートはやんわりと押し留めた。
 顔をあげると、フレッドの肩に手を置いたアルバートはどこか遠い目をしていた。どうかなさいましたか、と尋ねるより少し早く、彼は唐突に呟いた。

「……君は薔薇が似合うね」
「はい?」

 言葉をかける相手を間違えていないか。

「君が先日用意してくれた花束はとても評判だったよ。さるご令嬢がいたく喜んでくれてね。彼女のおかげで、社交界では私のことを『薔薇の伯爵』なんて呼ぶご婦人方もいるくらいだ」
「は、はぁ……」

 フレッドにしてみれば、口にするのも憚られるほど気恥ずかしい通り名だった。しかしその名がこの気品に満ちた美しい男のためのものであると言われると、確かに似合いのように思われた。人を惹きつける蠱惑的な色香と近付くことを躊躇わせる気高さ、アルバートにはそのどちらもが備わっていた。
 ますますわけが分からなくて呆然とするフレッドに、アルバートは小首をかしげながら微笑みかけた。常人にはおいそれと再現できない、完璧な角度だった。

「おかしな話だと思わないかい? あの花束も、ここで咲き誇っている薔薇も、全て君が育てたものだというのに」
「え、あの、」
「いつもありがとう、フレッド」

 肩に掛けられていた手が、首筋を伝って頬を撫でた。
 フレッドはぞわりと肌が粟立つのを感じた。それが決して不快な感覚などではないと自覚して、少し遅れて頬がかっと熱くなるのを自覚した。人との接触なんて、したたかに酔っ払ったモランが肩を組んでくる時くらいだ。彼の袖口から、薔薇とは違う深みのあるコロンの香りがした。アルバートの手を振り払うこともできず、フレッドは硬直した。初めて真正面から覗き込んだ緑色の瞳が陽光の中で美しくきらめいていた。特別な宝石をはめ込んで作られたのかもしれない、とばかげた空想が頭をよぎった。
 時間にしてほんの数秒のことだっただろう。アルバートはあっさりと手を引いた。

「さあ、お腹が空いただろう。引き止めて悪かったね。部屋に戻って身支度をしてくるといい」
「は、はい……失礼します……」

 彼がパタパタと温室を飛び出していくのと入れ替わりで、モランが顔を覗かせた。

「おい、あんまり揶揄うなよ、アルバート」
「おや大佐、ルイスに玄関の掃除を頼まれていたのでは?」
「珍しい組み合わせだと思って覗いただけだ」
「そうだね。言われてみれば、彼と二人で話したことはあまりなかったな。ちょうどいい機会だったから、日頃の礼を言っていただけだよ」
「……自覚なくやってんだったら怖いわ」

 モランが吐き出した煙草の煙が空に溶けて、消えていく。
 吸い殻はちゃんと始末したまえよ、とアルバートの小言が飛んだ。


初出:Pixiv 2021.08.16

ルイスがワトソン氏とミス・ハドソンと辻馬車に相乗りする話
 タイトル通りです。


 どこからともなく暗雲が湧いてきて、にわかに雨が振り始めた。
 多少の雨なら気にせず歩くことが多いロンドンの住民たちも慌てて軒先へ駆け込むほど雨脚が強い。たまたま街へ出ていたルイスも例に漏れず、黒く染まる石畳に追い立てられるように歩調を速めた。
 つい寄り道をしてしまったことが災いしたが、用事はすべて終えたので後は屋敷に戻るだけだ。広い通りまで出て辻馬車を捕まえなければ。
 紙袋を濡らさないようしっかりと抱き込んで、帽子を深くかぶり直した。

 いつもならばこの時間帯は賑わっている大通りも、今日ばかりは人もまばらだ。
 運良く向こうから、一台の辻馬車が泥水を跳ね上げながらやって来た。軽く手を上げると、ルイスに気付いた御者が手綱を引いて馬車を減速させる。
 と、その時、すぐ手前のグロサリーストアから暗紅色のドレスをまとった女性が飛び出してきてぶんぶんと手を降った。

「乗ります!乗りまーす!!」

 小さな体をめいっぱい伸ばして声を張り上げる彼女に、御者は困ったように苦笑した。その目が自分の後ろを見ていることに気付いたらしく、女性がぱっと振り返る。

「あっ、いやだ私ったら!ごめんなさい!」

 ルイスと目が合うと、彼女は顔を真っ赤にして目を見開いた。

「いえ……お先にどうぞ」
「いえいえいえ、お気持ちだけで!あなたが先に停めたんですから、私たちは他の馬車を待ちますので!」

 傍から見れば彼女が割り込んだ形になるが、先に手を上げていたルイスに気付いていなかったのだから仕方ない。
 何より、雨の中荷物を抱えた女性を差し置いて自分だけ馬車に乗るのは矜持に反する。ウィリアムやアルバートだって、同じ場面に出くわせば彼女に馬車を譲るに違いなかった。
 しかし相手もなかなか引かない。
 押し問答をしていると、ストアから野菜の詰まった紙袋を両手に抱えた男が、肩でドアを押しながら出てきた。

「馬車捕まりましたか、ハドソンさん……って、あれ?」

 彼女の連れらしいその男は、ルイスの顔を見るなり素っ頓狂な声を上げた。
 やや小柄ながらスーツの上からでも分かるがっしりとした体つきとよく日焼けした肌を持つ頑健そうな男だ。しかし瞳が丸く優しげな顔立ちをしているからか、威圧感のようなものはまるで感じられない。
 ルイスはすっ、と血の気が引くのを感じた。
 男は一拍遅れて「ああ!」と声を上げた。

「モリアーティさん!……の、弟さんですよね? 先日の列車の件ではどうもありがとうございました!」

 ジョン・H・ワトソン医師だった。



 それからルイスは「お知合いでしたら、相乗りでどうです?急な雨で他の辻馬車も出払っておりますし」という親切な御者のおせっかいな申し出により、ワトソンらの手で馬車に押し込められてしまった。
 小さな窓の外は雨で白く煙っていて、雨脚がさらに強くなったことを思わせた。濡れて帰れば兄が心配する、という考えがルイスの判断を鈍らせた。
 ホームズが下宿している221Bの大家がハドソンなる女性であることは聞いていた。
 しかし探偵業に協力しているわけでもない一般人である。フレッドのように監視任務についていなかったルイスには彼女の人相まで把握する機会がなかった。
 まさかここまで見事に、しかもワトソンと一緒のタイミングで鉢合わせるなんて、とルイスは内心頭を抱えた。
 大きな荷物は荷台に預かってもらったが、それでも辻馬車に三人乗りは少し狭い。何故か真ん中に座らされたルイスはなおさら落ち着かなかった。

「あの時は本当にありがとうございました!お二人とも、お礼を伝える前に立ち去ってしまったのでずっと心残りだったんです。お二人の協力が無ければ、僕はあのまま無実の罪で投獄されるところでしたよ」
「……いえ、事件を解決したのは私ではなく兄です」
「そうでしたね、お兄さんに是非よろしくお伝えください」

 ワトソンはしきりに感謝の言葉を並べた。
 ルイスの両手が空いていれば手さえ握りかねない勢いである。これだけは荷台に預けなくてよかった、と紙袋を膝の上で抱え直した。
 それにしてもこのワトソンという男も、ホームズとは違った意味で馴れ馴れしい。
 ルイスは横目でワトソンの様子を伺った。
 モランやジャックのように前線で戦う兵ではなかったせいももちろんあるだろうが、この人懐っこい笑顔からは従軍経験者であるとはとても思えなかった。医学生と言われても信じたかもしれない。

「先ほどはごめんなさいね、ルイスさん。あの辺りって、隣の通りに比べてお店が少ないからあまり辻馬車が通らないでしょう?雨も降ってきたし、この馬車を逃してしまったらいけないと思って……私ったらほんとうにそそっかしくて恥ずかしいわ」
「……お気になさらず」

 そしてハドソンもハドソンで、初対面のルイスに対して昔からの知人のような気安さだ。下宿の女主人として自活しホームズのような難物と渡り合うにはこれくらいの気風が必要なのかもしれない。
 自らの力で人生を切り開く女性という点ではマネーペニーやアドラー(今はあえてこの名で呼ぶ)に性質が近いのかもしれないが、彼女らが持つある意味男性的とも言える怜悧さはハドソンには見当たらない。年齢はルイスよりも上だろうが、振る舞いはお喋りな少女のようだ。
 要は二人とも、ルイスが普段接する人間とはあまりにタイプが違いすぎた。
 ルイスはポケットの懐中時計に手を伸ばす。
 イートン校への入学祝いとしてアルバートとウィリアムが贈ってくれたもので、兄達と同じ名門校に通うことになった誇らしさと不安の中にいた当時から、ルイスにとってはお守り代わりだ。真鍮の蓋に彫り込まれた自分の名前を撫でると不思議と気持ちが落ち着くのだ。
 時刻を確認すると、多少遠回りにはなるが、ベイカー街を経由しても15時には屋敷に戻ることができるだろう。

「そうだ!ルイスさん、上着を乾かすついでにお茶でも飲んでいかれませんか?ジョンくんもゆっくりお話したいんでしょう?」
「えっ?」

 いかにも名案だ、と言わんばかりにハドソンが手を叩いた。

「わぁ、それはいいですね。お礼も兼ねて是非!シャーロックの奴は事件の捜査だと言って2日ほど前に出ていったきりですが……」
「シャーロックはいいのよ、満足するかお腹が空くかしたら戻ってくるわよ」

 何なんだこの人たちは。
 シャーロック・ホームズから何か入れ知恵でもされているのかと一瞬勘繰ったが、彼らの表情からはまったくの善意であることがわかってしまう。
 これがウィリアムであれば彼らの誘いに乗ったのかもしれないが、そんな大胆さをルイスは持ち合わせていない。221Bでのんきにアフタヌーンティーを楽しむ自分の姿などまるで想像ができなかった。もしそんな場面を目撃すれば監視任務についているフレッドが泡を食って兄達に電報を飛ばすだろう。
 この遭遇についてはどのみち報告しなければならないが、そのような事態は絶対に避けなければならない。

「申し訳ありませんが、急いでおりますので」
「あら、そうですか……」
「うーん確かに、今夜ダラムに向かうのであれば、あまり時間がありませんね」

 ルイスがはたと顔を上げると、ワトソンは悪戯っぽくにやりと笑った。

「何故それを、というお顔ですね」
「……」
「こら、ジョンくん!いきなりズケズケ言い当てるのは失礼だって言ってるでしょ!すみません、ルイスさん。この頃ジョンくんまであの男のろくでもない悪癖を真似るようになってしまって……」
「あぁ……」

 そういえば彼の小説にもそんなくだりがあったか。
 小説の中でホームズは、初めて会ったワトソンをアフガン帰りの元軍医だとぴたりと言い当てていた。他にも、依頼人を観察してその身なりやわずかな仕草から職業、出身、生活環境までも読み取ってしまうという不躾極まりない芸当を披露していた。
 ウィリアムも同じく数学者であることを見抜かれたと話していたので、今さら驚くことではない。
ワトソンは今、ルイスに対してそれを真似てみせたというわけだ。
 口ではたしなめておきながら、ハドソンは興味津々といった顔でワトソンの方を見た。

「で、どうしてそんなことがわかったの?」
「それはですね……」
「この紙袋ですね」

 得意げに口を開こうとしたワトソンを制して、ルイスは抱えていた紙袋を掲げた。
 表面には書店のロゴマークが印刷されている。

「学術書を専門に取り扱っている書店のものです。ミス・ハドソンにはあまり馴染みがないかもしれませんが、ワトソン氏は作家である以前に医者です。この店を利用したことがあったとしても不思議ではありません」
「なるほど……?でも、そのことと今夜ダラムに出発するってことはどう繋がるのかしら」
「私の二番目の兄はダラム大学で教鞭をとっています。ホームズさんから話を聞いていれば、ワトソン氏もご存知の事でしょう。したがって、この本は私のものではなく兄のものであると推測できます。
そして大学教授ともなれば書店にとっては上得意。本など頼めばいくらでも屋敷に配達してもらえるはずです。しかし私がわざわざ店に出向いて受け取ってきたということは、配達を待っていられなくなった……つまり、数日に渡って家を空ける用事ができたということです。ダラム大学の教授がロンドンを離れる理由としては、『ダラムに向かうから』と考えるのが最も自然でしょう。
そして『今夜』という部分については、あまり時間に余裕が無いという私の発言から推測なさった」

 最後に「違いますか?」と問いかけると、ワトソンはぽかんと口を開けて、素直に驚きを表現していた。
 彼の推理は大筋で当たりだ。
 今朝電報が届き、ウィリアムの仕事の都合で明日どうしても大学に顔を出さねばならなくなった。
 もとよりロンドンとダラムを往復する生活をしているので移動が早まっただけではあるが、今日はアルバートがMI6の任務でロンドンを離れている。ルイスは彼に電報を打つため郵便局へ向かい、ついでに街でいくつかの用事を済ませた。
 その帰り道、今日はウィリアムが購読している学術誌の発売日であることを思い出した。
 明日の昼には屋敷に配達してもらえる手筈になってはいたが、このままでは入れ違いになってしまいウィリアムの手に渡るのは来週になる。列車の中で読む物があった方が兄も喜ぶだろうと考え、書店に立ち寄ることにしたのだ。
 彼の推理に一点間違いを指摘するとすれば、実際に出発するのは今夜ではなく明日の早朝である。
 モランはアルバートの任務について行っているし、フレッドも仕事で明け方にならないと戻ってこられない。屋敷を一晩無人にするわけにもいかないので、ウィリアムとルイスはフレッドを待って明日の朝一番の列車でダラムに向かう予定である。
 ルイスが時間を気にしていたのは、早く屋敷に帰って前倒しで家事を片付けなければならないからだ。宵っ張りで朝に弱いウィリアムを早く寝かしつけるという使命もある。
 しかし万が一にもこの事がホームズの耳に入って駅で待ち伏せでもされてはたまらないので、あえて訂正はしてやらない。

「いやぁ、まいったなぁ。逆にこちらが驚かされてしまいました。お兄さん譲りの推理力ですね」
「ほんとうに。ジョンくんが考えた道筋をすぐに見抜いてしまうなんて……。頭のいい男の人って皆こうなのかしら?」
「いえ……推理と呼べるほどのものではありません」

 実際、ホームズのこの得意技は手品のようなものだ。
 一足飛びに結果だけを開示して、それがあたかも驚くべき神業か超能力であるかのように見せかけているにすぎない。
 タネを指摘して鼻を明かしてやったつもりであったが、彼らはホームズの同居人と大家であり、ルイスが敵視するホームズではない。
 二人があまりに素直に感心しているのでかえってきまりが悪かった。

「ところでルイスさん」
「……何でしょう」
「先ほどの口ぶりだと、私が医者であることをご存知のようでしたが……」

 ワトソンが黒く丸い瞳を輝かせながら、じっとこちらを見つめている。
 その勢いにルイスは内心たじろいだ。

「……もしかして、『緋色の研究』を読んでいただけたのでしょうか!?」
「え、えぇ……まぁ」

 一瞬背筋が冷えたが、彼自身が小説の中で書いていたことだ。彼の著書『緋色の研究』はもちろん目を通しているので、何もおかしいことはない。
 ルイスは頭を高速で回転させて、小説に書かれていたことと書かれていなかったこと――つまりルイスが知っていてもおかしくない情報と知り得ない情報を整理する。
 この二人であれば丸め込む自信はあったがホームズに漏れ伝わる可能性がある以上、下手なことを口走るわけにはいかなかった。
 著者の判断かホームズの指示か、あの小説に『犯罪相談役』は登場しない。あの事件は愛する者を殺されたジェファーソン・ホープの執念が仕掛けた犯罪であり、彼がシャーロックに例の取引を持ちかけることはない。
 仲間内では老婆に変装したフレッドのみがホープの協力者として登場していたが、彼に関しても詳しく言及されずに終わる。
 事件の真相を暴いたシャーロック・ホームズの活躍と、その裏に隠されたホープの悲しい過去が強調された構成である。

「読んでみて、いかがでしたか?」
「……えぇ、たいへん面白く拝読しました」

 とりあえず当たり障りのない回答をする。
 ウィリアムの影響もあって子供の頃から読書量は大人顔負けに多かったし、モリアーティ家に迎えられてからはその名に恥じぬだけの知識と教養を身につけた。しかしルイスは最近の大衆小説にはどうにも疎く、あの作品が面白いものなのかどうかいまいち判断がつかなかった。
 老婆に化けた謎の男が名探偵を出し抜いて指輪を取り戻す場面はなかなか痛快で面白いと感じたが、完全に身内の贔屓目である。あのくだりが気に入ったと言う一般読者はあまりいない気がする。

「すごいじゃない、ジョンくん! 伯爵家の方にまで読んでもらえるなんて」
「あの事件は話題になりましたので……」
「と言うことは、お兄さんも関心を持ってくれていたりしますか?」
「はい?」
「あの列車での事件を是非作品にしたいと思っているんです! 列車という特殊な閉鎖環境で起こった殺人、次の停車駅までに犯人を見つけなければならない時間的制約の中、容疑者として捕らえられたのはなんと名探偵の相棒。絶体絶命のシャーロック・ホームズの前に突如として現れたもう一人の探偵……! どうです、すごく面白くなりそうでしょう!?」
「はぁ……その、もう一人の探偵というのが」
「ウィリアムさんです! 彼に是非、僕の小説に登場していただきたいんです!」

 やはり来たか。
 ワトソンは『緋色の研究』以降もシャーロックが手掛けた事件を題材にした小説をいくつか発表している。
 彼自身にとっても印象深いであろう列車での殺人事件をいつかテーマに選ぶことは容易に想像できた。そうなれば必然的にシャーロックとともに事件に挑んだウィリアムが作品に登場する展開になることも。

「あの事件をウィリアムさん抜きに語ることはできません。かと言ってご本人にことわりを入れないわけにもいかないとも思ってまして、今日はほんとうに幸運でした。サイン本でも何でもご用意しますので、どうかルイスさんからお兄さんにお話をしていただけないでしょうか……?」

 別に貴方の小説のファンではない。
 喉元まで出かかった言葉をルイスは何とか押し込んだ。
 こういったとき、アルバートならば相手をうまく乗せて気持ちよく喋らせるだけ喋らせて、肝心の要求事項に関しては煙に巻いてしまうだろう。ウィリアムであれば悟られぬほどの巧妙さで会話の流れをコントロールして、そもそも不都合な話題を持ち出させない。
 あいにく彼らのような巧みな話術を持ち合わせていない自分は、きっちり切り返して処理するほかない。
 ルイスは腹を括って、困ったように苦笑してみせる。

「兄は目立つことを嫌いますし、あなたの作品に取り上げてほしいとはきっと思わないでしょう。それに、『上の兄』が何と言うか……」

 あえて語尾を濁すと、ワトソンの眉が分かりやすく下がった。
 『緋色の研究』において、『犯罪相談役』の存在の他にワトソンがあえて実際の事件から取り除いた要素がもうひとつある。被害者イーノック・J・ドレッバー氏が『伯爵』であったことだ。
 婚約者を奪われたことに対する復讐殺人という大筋は変わらないが、ドレッバー氏はアメリカ西部開拓団の権力者であることになっている。
 もちろん事件の真相は新聞で連日大々的に報じられていたので、彼が伯爵位を持つ貴族であった事はこのロンドンでは周知の事実だ。
 であれば、彼がこの改変を行った理由は関係者への配慮、そして貴族院からの圧力回避に他ならない。
 ワトソンがこの小説を執筆した動機はシャーロック・ホームズの活躍を世間に広めることだ、というのがウィリアムの見立てである。彼の創作活動の根底にあるものは歪んだ階級社会への怒りではない。
 そのため、彼は作品を出版に漕ぎ着けることを優先して事実に手を加えた。
 つまり、ウィリアムを小説に登場させないためには、同じように横槍が入る可能性をほのめかせてやればいい。

「ご存知の通り、長兄は貴族院議員を務めております。ドレッバー伯爵の一件で議会がいまだに混乱している中、家の者がワトソン先生の作品に登場するのは……申し上げにくいのですが、差し支える事が出てくるかと」
「そう……ですよね。貴族の中にはよく思わない方もきっと出てきますよね。モリアーティ家そのものにご迷惑がかかってしまうかもしれないわけだ」
「ご賢察、感謝します」

 予想通り、ワトソンがすっかり勢いを無くしてしまったので、ルイスは眼鏡の位置を正すふりをしながらちいさく笑った。
 権力を笠に着るようなやり方は少々不本意だが、ウィリアムの計画のためにも彼には引き続きシャーロック・ホームズの広告塔であってもらわねばならない。
 それに、『ジェームズ・モリアーティ』の役柄はとっくに決まっているのだ。

「兄は困っている方がいたから、知恵をお貸ししたまでです。それを世間に報じてほしいとは思わないでしょう」
「まぁ、『ノブレス・オブリージュ』ですね。ご立派だわ」
「うーん……であれば、ますますウィリアムさんには僕の小説に登場してほしかったなぁ。『弱き者に手を差し伸べる心優しき貴公子、その正体は名探偵の好敵手にして、若き天才数学者!』……なんて、どうでしょう」
「ちょっと、それじゃあきっとシャーロックより人気が出ちゃうわよ」

 主役の座を取って代わられるシャーロック・ホームズを想像して、ハドソンがころころと笑った。

「シャーロックは、世間では『貴族の悪行を暴くヒーロー』なんて言われていますが、貴族だって悪人ばかりというわけではないでしょう?ウィリアムさんに助けられて、ますますそう思いました」
「それはどうも」

 ルイスは控えめに礼を述べたが、口調とは裏腹に口角が上がるのを抑えられなかった。
 兄が褒められることは何よりも誇らしい。彼(正確には、彼とホームズ)が救った人間からの賛辞であるなら尚更だ。

「庶民と貴族、異なる立場にある二人の探偵が力を合わせて悪に立ち向かう……そんな物語を書くことができればと考えていたんです」
「……!」
「ウィリアムさんを連想させないようにもっと違ったキャラクターにしてみようかとも思ったんですが、どうもしっくりいかなくて。ライバル役としてシャーロックとのバランスを考えると、やっぱり……」
「はいはい。それ以上は帰ってからにして下さいね、コナン・ドイル先生」

 この男は今何と言った?
 彼が語ったアイデアは、誰より尊敬する兄の掲げたプランと一致する点がある。何と言うことはない小説の構想の話ではあるが、その事実はルイスに衝撃を与えた。
 人の良さだけが取り柄の凡庸な男だとばかり思っていたジョン・H・ワトソンが、途端に非凡な才を秘めた作家に見えてきた。

「ルイスさん?」
「え?あぁ、いえ。何でもありません」
 
 ハドソンが不思議そうにこちらを覗き込んでいて、ルイスは慌てて居住まいを正した。

「……兄に関する部分は省いて、いつもの通りホームズさんの活躍を描かれては如何でしょうか。その方が、彼も喜ばれるのでは?」
「どうでしょう。彼は僕の小説にはあまり興味がないみたいで」
「あら!そんなことないわよ、ジョンくん」

 ウィリアムから話が逸れるようそれとなく水を向けると、ハドソンから援護射撃が入った。

「興味なさそうなのはフリよ、フリ!あの男ったら、ジョンくんがいない間に共同リビングに置いてある本をこっそり読んでるんだから」
「そうなんですか?あいつにも世間の評判を気にするようなところがあったんだな……」
「『世間の評判』じゃなくて、『ジョンくんにどう思われてるか』じゃないかしら」

 そこからは二人の他愛のない話に相槌を打つばかりだった。シャーロック・ホームズについて役立てられそうな情報を得る間もなく、馬車は221Bにたどり着いた。
「次は是非寄っていってくださいね」と笑顔を見せるワトソンに、ルイスは曖昧に頷いた。
 嵐、というほどではないが彼らはまさに通り雨のように去っていった。

 ワトソンらがいなくなった車内は、雨音に包まれて妙に静かだ。馬車に揺られながら、ルイスは目を閉じた。
 あの列車を降りながら、「彼ら、けっこういいコンビだと思うよ」とウィリアムは言った。
 あの時は兄の言葉の意味を測りかねたが、今なら何となくルイスにも理解できる気がした。
 彼がホームズと共に挑んだ事件を、彼の目と感性を通して物語にし、民衆がそれを追体験する。人々を理想の世界へ導くにしては気が遠くなるほど緩やかな方法だが、それにより目を開く人間もきっと少なくないだろう。
 ホームズのことは相変わらず受け入れ難いが、ああいう男がホームズのそばについているのは面白いことだとも思った。同時に、「面白い」などという不確かな感覚で判断を下そうとしている自分に苦笑した。

 屋敷の前で馬車を降りると、2階の窓辺に兄がいた。
 弟が雨に降られていることを心配してくれていたのだろう。ルイスの姿を見つけてちいさく手を振ると、そのまま部屋の奥へと消えていった。
 彼が民衆の希望を背負って悪に立ち向かう、そんな物語があったかもしれないのだろうか。掲げた理想を絵空事で終わらせるつもりはないけれど、そんな物語を読んでみたいとも思った。
 門をくぐってから玄関で兄に出迎えられるまでの短い間、永遠に世に出ることのないコナン・ドイルの新作について、ルイスは夢想した。


初出:Pixiv 2021.06.19

秋の庭にて
 ダラムに越してきたばかりの頃のフレッドとルイスの話。


 朝の水やりを終えて、フレッドは一息ついた。
 ダラムにあるウィリアムの屋敷にモランとフレッドが呼び寄せられてしばらく経つ。
 表向きの仕事として庭の管理を任されたときはどうなることかと不安に思ったが、自分には案外こうした仕事も向いているらしい。あの方はきっとフレッド自身気付いていなかった適性をも見抜いていたのだろうと思うと感心を通り越して畏怖さえ覚えた。
 ズボンについた土を払いながら立ち上がり、庭を見渡す。
 季節が秋に差しかかったため彩りこそ少ないが、ちらほらと咲いたつるバラは春よりも色に深みがある。以前住んでいた貴族が立ち退いてからは長らく放置されていたものの、今はフレッドの奮闘により程良く整えられ田舎らしいコテージガーデンといった趣だ。
 これからさらに手を入れていくとしても、人工的に整然と整えるよりは今ある野趣を残したほうがこの田舎町の空気に馴染むだろう。春に向けて球根の植え付けに取り掛からねばならないし、そうなると品種の選定も必要だ。
 今度ウィリアムに相談してみよう、とフレッドはほんの少し浮き立った気持ちで考えた。
 空いているテラコッタ鉢はどのくらいあっただろうかとふと気になって、倉庫に向かうことにした。庭の管理を一任されるにあたって、「中のものは好きに使って構わない」とウィリアムから言い渡されている。
 屋敷の裏手に回ると、井戸のそばの洗い場にルイスがいた。
 普段きっちりと着込んだジャケットを脱いで、腕まくりさえしている。彼が桶をひっくり返すと、濁った水がざぶんと音を立てて排水口に消えていった。
 フレッドは慌てて駆け寄った。

「手伝います」
「フレッドさん……? じゃあ、皮を剥いてくださいますか」

 かごの中にはフレッドの拳よりも大きいじゃがいもが山と盛られている。
 食事の支度をしていたらしい。
 ルイスさん、じゃがいも似合わないな……と思いながら、手渡されたナイフを受け取った。ルイスは手を拭きながら勝手口から台所へ引っ込むと、すぐにもうひとつナイフを手に戻ってくる。

「あの、僕がやっておきますのでルイスさんは」
「二人でやったほうが早いですよ」

 気を遣ったつもりだったが素っ気無く返され、フレッドは僅かに気圧される。
 普段はたとえモランのような厳つい大男に凄まれても動じないフレッドも、ルイスの冷然とした態度は少し苦手だった。

「庭の仕事はもういいのですか?」
「あっ……はい、ちょうど一段落したところです」
「それなら良かった」
「……これ、全部食べるのですか?」

 フレッドは恐る恐る尋ねた。
 夕食の仕込みも兼ねているとしても、この屋敷の住人は4人しかいないのだ。

「街の方にたくさん頂いたので、サラダとシェパードパイにでもしようかと……そんなに多かったでしょうか。フレッドさんとモランさんがいれば大丈夫でしょう?」
「でも……」
「誰かに比べてあなたはよく働いてくれていますし……兄さんの召し上がる量に合わせていたら体がもちませんよ」

 フレッドは頬に僅かに血が昇るのを感じた。
 モリアーティ家では使用人だろうと関係なく、全員が同じテーブルで食事をとる。
 モランなどは気兼ねなくその体格に見合った量を要求していたが、フレッドには主人よりも多く食べるわけにはいかないという妙な遠慮があった。
 常に細やかな気配りを欠かさないルイスにはとっくに見抜かれていたらしい。

「兄さんは『適度な空腹状態のほうが集中力を維持できるから』と言って一度の食事であまり多く召し上がらないんですよ。家にいらっしゃる間はお茶の時間にお菓子をお出ししますが、大学ではちゃんと昼食をとられているのかどうか。食堂の料理がお口に合わないのならお弁当を用意しようかとも思ったのですが、モランさんに『過保護すぎる』と笑われてしまって……」

 照れてうつむくフレッドを気にせず、ルイスはぶつぶつと呟いている。
 どうやらこの人は兄弟の事となるといくらか饒舌になるらしい。嬉しくなって、フレッドは自分から話を振ってみた。

「お弁当、きっと喜ばれると思います。ウィリアムさんは何でも美味しそうに召し上がりますよね」
「そうですね……。そういえば兄さんの嫌いな食べ物は僕も知りません」
「貴族の方は野菜をあまり食べないと聞いていました」

 野菜、特に安く手に入って腹を満たしやすいじゃがいもは庶民の食べ物というイメージが強かった。貴族の中には土に塗れたものを食べるなんて穢らわしいと考える者さえいると聞く。

「それこそ兄さんにも僕にも理解できない感覚ですね。食べ物にまで位をつけたがるなんて、馬鹿馬鹿しい話です」

 せっかく農家の方が丹精込めて育ててくれたのに、とルイスはじゃがいもに刃を滑らせながら呟いた。その動作は淀みなく、するすると無駄なく皮が削ぎ落とされていく。フレッドも刃物の扱いに慣れてはいたが、皮剥きとなるとルイスの手際の良さには及ばなかった。
 また一つ、つるんと剝かれたじゃがいもがかごに落とされる。

「アルバート兄様だって、ウィリアム兄さんに比べれば味にうるさい方ですが、妙なえり好みはなさいませんよ」
「アルバート様も、じゃがいもを召し上がりますか?」
「もちろん。学生の頃に屋台でフィッシュ・アンド・チップスを召し上がった事もあります」
「えぇ……っ」
「領地の視察に地方を訪れたとき、兄様が『あれが食べてみたい』と言い出して……。ロンドンを離れて知らない街を歩くのは初めてだったので、きっと兄様もどこか浮かれていたのでしょうね」
「歩きながら手掴みでものを食べるアルバート様なんて、ちっとも想像できません」
「ふふ、さすがに近くのベンチに座りましたよ。でも兄様に屋台で買い物をさせるわけにもいかなくて、僕が代わりに買ってきました。そうしたら兄さんが……」

 当時の事が懐かしく思い出されたのか、眼鏡の奥でルイスの紅い瞳が弧を描いた。
 あ、と思った。
 思いがけない表情に吸い寄せられるようにフレッドが顔を上げると、ぱちりと視線が合う。ルイスはきまり悪そうに顔をしかめた。

「……喋りすぎましたね。兄さんたちには……いえ、フレッドさんなら口止めをする必要もありませんか」

 ルイスがパチンとナイフを畳む。
 いつの間にか二人の間にあったかごは空になっていた。剥き終わったいもをルイスがひとつのかごにまとめ、フレッドが散らばった皮をかき集める。

「助かりました、フレッドさん」
「あ、ルイスさん」

 かごを抱えて台所に戻ろうとするルイスを思わず呼び止めていた。

「あの……フレッド、と呼んでください」

 言ってしまうと、何故だか途端に照れ臭い気持ちがこみ上げてきた。「さん」はつけなくて構いません、と続けたつもりだったが、口の中でもごもごと呟くだけになってしまった。
 不審に思われなかっただろうかとルイスの様子を覗うと、彼は驚いたように一瞬動きを止めて、それからふわりと目を細めた。

「わかりました。ありがとう、フレッド」

 ルイスがそう言い残して勝手口へ消えていったあとも、フレッドはしばらくその場に立ち尽くしていた。彼とこんなに長く話したのはおそらく出会って以来初めてで、不思議な達成感があった。
 見た目ほど冷たい人ではないと、わかった。

 今度、彼の好きな花も聞いておかなければ。
 それとも、実用性のあるハーブの方が彼の好みに合うだろうか。
 弾む気持ちを抑えながら、フレッドはテラコッタ鉢を数えに倉庫へと向かった。


初出:Pixiv 2021.06.05

内緒話をする子どもたち
 三兄弟の幼少時代の話。


 屋敷の火事から3ヶ月が経った。
 どんよりとした曇り空の多いロンドンの街も、日中は蒸し暑い日が増えてきた。焼け出された三兄弟が身を寄せたロックウェル伯爵家の応接室も、今は窓が開け放たれている。
 往診にやってきた医者の手で頬からガーゼが丁寧に剥がされたとき、真新しい皮膚に外気がひやりと感じられた。
 年老いた医者は眼鏡と皺の奥に隠されたちいさな目を細めながら「ふむ」とつぶやく。

「だいぶ良くなりました。よく我慢しましたね。もうガーゼはいらないでしょう」

 その言葉に、ルイスはほっと息を吐いた。
 傷口を保護するためとはいえ四六時中ガーゼを顔に貼り付けておくのはやはり不快感があり、本格的に夏に入る前に医者のお墨付きをもらえたことが、内心嬉しかったのだ。

「先生、やはり痕が残りますか?」

 診察を見守っていたアルバートが気遣わしげに尋ねた。その目線は弟の頬に注がれている。
 痛々しい火傷はあの日から徐々に回復を見せ、今はみずみずしいピンク色の皮膚になっていたが、ひきつれた様な歪な質感を残したままだ。

「えぇ。時間が経てば肌の色も多少は馴染みましょうが、痕が消えはしないでしょう」
「そうですか……」
「皮膚を移植するという手もありますが」
「いいえ、必要ありません」

 内気な彼にしては珍しく、ルイスがきっぱりとした口調で言い切った。

「こんなに丁寧に診察していただけて、先生にもロックウェル伯爵にも心から感謝しています。僕なんかの為にこれ以上をのことをしていただく訳にはいきません」
「ルイス……」
「痕が残っても僕は気にしません、アルバート兄様」

 あの夜、ルイスは自らの手で焼けた木片を頬に押し付けた。この火傷は兄たちへの報酬であり、ルイスにとっての勲章だ。
 さすがに部外者のいる前でそう口に出すことは出来なかったが、共犯者たる兄には伝わったらしい。アルバートは眉を下げながら微笑んでみせた。もちろん、内心ではこの可愛らしくまろい頬に痛々しい傷痕が残ることに胸が痛む。
 しかし、年端も行かぬ弟が見せた覚悟の証を無かったことにする訳にはいかなかった。

「あぁ、ルイス様は……。とても仲がよろしいのですね」

 医者はそのやり取りを聞いて、ルイスが伯爵家に拾われた孤児であったことを思い出したらしい。しかしそこに彼の出自を蔑む気配はなく、ただ義兄弟の仲睦まじい様を微笑ましく感じているようだった。
 ルイスはアルバートの顔を見上げ、はにかんだように頬を緩めた。

 それから医者は、剥がしたガーゼの処分を看護婦に任せながら、いくつかの注意事項を述べた。
 もうしばらくは日に一度、軟膏を塗るのを続けること。これから汗ばむ季節になるが、傷口は清潔に保つこと。寝ている間にうっかり引っかいたりしてしまわないよう気を付けること。
 椅子にちょんと腰掛けたルイスは、その言葉のひとつひとつに神妙に頷いていた。
 と、そこにノックの音が響いた。

「ルイス、終わったかい?」
「ウィリアム兄さん」

 扉の向こうから、ひょこりともう一人の兄─ウィリアムが顔を覗かせた。
 イートン校への入学に向けて、最近は家庭教師による集中講義が課せられている。といっても、彼の頭脳にかかれば何の心配もいらないことは現役生にして首席のアルバートも認めるところだ。おそらくはルイスの診察に立ち会うため、家庭教師を言いくるめて無理やり時間を繰り上げたのだろう。
 入室の許可を出す前にドアを開けてしまうウィリアムにアルバートは苦笑したが、多少の不作法には目をつぶることにした。

「もうガーゼをつけなくてもいいそうです」
「そう、よかったね」

 ウィリアムは心から嬉しそうに破顔して、弟のおそろいの金髪にキスを落とした。
 その愛らしい仕草に、年配の看護婦は「まぁ」と顔を綻ばせる。

「よく似たお兄さんね」

 そう呟いた看護婦は、しかしすぐさま少しだけ眉をしかめる。自分の言葉に違和感を覚えているようだった。ルイスは心臓の底がひやりと冷えるのを感じた。
 実の兄弟なのだから、自分たちの容姿が似通っていることに何ら不思議はない。しかし先の火事以降、ルイスの兄はそれまでの人生と名前を捨てて伯爵家次男の『ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ』に成り代わった。表向きには血の繋がらぬ元孤児のルイスが、ウィリアムと似ていることなどありえない。
 けれど今目の前にいる医者と看護婦は、ウィリアムとルイスの顔立ちからはっきりと血の繋がりを感じてしまっているようだ。
 ロックウェル家での生活もようやく落ち着いてきたというのに、ここまできて事実を露見させるわけにはいかない。
 どう出るべきか、緊張で冷え切った手のひらを握りしめた。兄の計画をより完璧にするために、周囲の人間に疑問を抱かせないために、ルイスは顔まで焼いたのだから。
 数瞬の静寂の後、真っ先に動いたのはウィリアムだった。

「そんなに似ていますか?」

 彼はソファに腰掛けたルイスの背後に回り込み、少し屈んでそのよく似た相貌を並べてみせた。
 ルイスの髪が、ウィリアムの頬に触れるほどの距離。凍りついた表情のルイスとは対照的に、ウィリアムは完璧に計算された柔らかな笑みを浮かべている。彼は弟の動揺に気付かないふりをして続けた。

「確かに、赤の他人にしては僕とルイスは似ていますよね。……もしかすると、赤の他人ではないのかもしれません」

 ルイスは声を上げそうになるのをすんでのところで堪えた。ウィリアムはルイスの肩に手を置くと、ふと表情を陰らせ、声のトーンを落とす。

「父はこの子を「慈善活動の一環だ」と言って我が家に連れてきました。でも、もしかすると」
「よさないか、ウィリアム」

 アルバートが硬い声で遮った。
 その表情はつい先刻まで末の弟を見守っていたときとは別人のように険しい。ウィリアムは「ごめんなさい、兄さん」と小さく謝罪するとばつが悪そうに顔を伏せた。
 そこでようやく、ルイスはウィリアムの発言の意図に気付いた。
 ウィリアムは『疑惑』に『より真実らしい別の疑惑』を被せることで、彼らの疑いの目を逸らそうとしているのだ。
 『長男であるアルバートさえも結託した上で、火事の騒ぎに乗じてモリアーティ家の次男と養子の三男がすり替わった』という荒唐無稽な真実より、『先代伯爵が下層階級の女に産ませた子供を、慈善活動の名目で引き取った』というありえそうな筋書きを人は信じるだろう。事実、医者と看護婦は驚いたようにウィリアムとルイスの顔を見比べている。
 そしてアルバートはその意図を素早く汲んで、『弟の軽率な発言を咎める兄』として芝居をうってみせた。彼が硬い表情のままに視線をやると、看護婦はそそくさと診察道具の片付けに取りかかり、年老いた医者は心得ましたと言わんばかりに瞑目した。
 まだ幼さが残る年齢とはいえ、ゆくゆくは伯爵位を継ぐ人間だ。彼の翡翠色の双眸にはどこか少年らしからぬ、人を従わせる凄みのようなものがあった。

「とにかく、どんな事情があれ、ルイスはルイスです。僕とアルバート兄さんの弟ですよ」

 ウィリアムはぼすん、と弾みをつけてルイスの隣に座った。普段の彼をよく知る兄弟たちにとってはわざとらしく感じられてしまうほど子供っぽい振る舞いだったが、たまに顔を合わせる程度の医者と看護婦にはそうは感じられなかったらしい。
 アルバートが呆れたように苦笑しながら肩を竦めると、室内に漂っていた緊張感が幾分か和らいだようだった。
 しかしルイスは、ウィリアムの無邪気な笑みの奥にどこか苦い感情があるのを見逃さなかった。二人の兄ほど他人の機微を読み取ることが得意ではなかったが、生まれた時から常にウィリアムの側にいたルイスにはわかった。

(ほんとうの弟じゃないなんて言って、ごめんね)

 兄の緋色の瞳は、確かにそうルイスに語りかけていた。
 血の繋がらぬ他人として振る舞わねばならないことは、ルイスとて承知していることだというのに。自分はほんとうの名前すら捨ててしまったというのに。
 湧き上がるこの感情が伝わるように、ルイスは精一杯の愛しさを込めて、ウィリアムに微笑み返した。


 *


「うまくかわしたね、ウィル」

 部屋に戻って3人だけになった途端、堪えきれなくなったアルバートは、いたずらに成功した子供のようにくすくすと笑った。ウィリアムも兄につられて照れくさそうに頭を傾けた。

「話を合わせてくれてありがとうございました、アルバート兄さん」
「僕は何も言っていないよ。彼らが勝手に解釈しただけだ」
「語られなかった空白にこそ、人は複雑な背景を想像してしまうものです。あれくらいがちょうどいいですよ。もっとも、僕自身が『お父様』に似ている訳ではないので深く突っ込まれるとボロが出てしまいますが……」
「問題ないさ」

 アルバートは窓の側に歩み寄り、庭を見下ろす。ちょうど診察カバンを提げた医者と看護婦が、執事長に見送られながら門を出て行くところだった。

「彼らは父と面識が無いし、写真も肖像画も屋敷と一緒に焼いてしまった。それに何より、彼らだって貴族相手に仕事をしている人間だ。こちら側の事情に首を突っ込むような馬鹿な真似はしないよ」

 弟たちの方を振り返って、アルバートは部屋に入ってからルイスが黙り込んだままであったことに気付いた。
 先ほどの芝居でとっさに兄二人に合わせられなかったことを気にしているのかもしれないと考えたが、どうやらそうではないらしい。遠くを見つめるような、考え込むような顔をしていた。

「ルイス、どうかしたのかい?」
「いえ……ほんとうに誰も気づかないものなのだな、と思いまして。ウィリアム様……死んだあの方もそうでした。お友達をたくさん呼んでお誕生日のお祝いをされると聞いていましたが、火事の後『ウィリアム様』に直接お見舞いに来られたら方は一人もいません。手紙の一通も届きませんでした。僕たちにとってはその方が都合が良かったのですが……」

 二人の兄の視線に気付いて、ルイスはぱっと頬を赤らめ「ごめんなさい」と早口に言った。

「同情しているわけではありません。あの人は罰されるべき人間でした。……それでも、少しだけ、哀れだなと思ったんです。死んでも、誰にも気付いてもらえないなんて……」

 ルイスは服の上から左胸を抑えた。病が癒えてもなお、心臓を庇うようなこの仕草はルイスの癖だった。
 ウィリアムが優しくその手を握った。

「ルイスは優しいね」
「優しい、わけではありません」

 俯くルイスに、ウィリアムは「そんなことないよ、ルイスは世界いち優しいいい子だ」となお言い募った。
 美しい金髪を持つ彼らが額を寄せて囁きあう様を、天使のようだとアルバートは思った。情け深く純真な心を持つ弟と、そんな弟を守りたいと願う兄。
 美しい兄弟の姿に心が満たされると同時に、ひどくざわめいた。おそらくは、かつての『ウィリアム』との関係を思い出して。

「誰も『ウィリアム』の誕生日を祝いたくてパーティの招待を受けたわけじゃなかった……それだけだよ」

 気付けば、吐き捨てるようにそう言っていた。
 誰のことも省みなかったかわりに、誰からも、実の兄であるアルバートにさえも省みられなかった弟。
 遺体は『養子の三男』のものとして処理されたため、父母とは離され、今は共同墓地の片隅に一人ぼっちで葬られている。なるほど、確かに「哀れ」としか言いようがないだろう。この歪んだ世界に生まれ落ちさえしなければ、自分たちも互いを慈しみあえる兄弟になることができたのだろうか。
 実弟への情などとうの昔に消え失せたと思っていたアルバートだったが、ルイスに感化されたのか、そう自問せずにはいられなかった。

「アルバート兄様のお誕生日はいつなのですか?」

 もの思いに沈むアルバートにどう声を掛けるべきかウィリアムが逡巡していると、先にルイスが無邪気に尋ねた。

「え?」
「あっ……ごめんなさい、その、お祝いをしたいな、と思ったので……。大した贈り物は用意できないのですが……」

 アルバートが目を瞬かせていると、「あぁ、そうか」とウィリアムが手を叩いた。

「去年のアルバート兄さんの誕生日は、ちょうどルイスが手術で入院していた時期だったね」
「えっ、そうだったのですか? 兄さんは兄様のお祝いをされたのですか?」
「まさか。邪魔だから一日部屋から出るなと言われていたよ。夜に兄さんがこっそり余ったケーキを持ってきてくださったけど……病院には持ち込めなかったから黙ってたんだ。ごめんね」
「け、ケーキが食べたかったわけではありません!」
「ふふ、わかってるよ。今年は三人でお祝いしようね」
「はい!」

 声を弾ませながら誕生日パーティの相談をする彼らの姿は、ごくありふれた兄弟のそれだった。 ウィリアムは静かに微笑みながら、ルイスは期待に満ちた表情を浮べながらアルバートを振り返る。
 二人の顔を見た途端、アルバートは何故だか目の奥がツキンと痛んだ。あの日、孤児院の礼拝堂で理想の世界を語る彼を見たときに湧き上がった鮮烈な感動とはまた異なる、あたたかい歓喜だった。

「ありがとう。誕生日がこんなに楽しみなのは生まれて初めてだよ」

 理想の世界ともうひとつ、自分が何を欲していたのか、アルバートは知った。


初出:Pixiv 2021.05.05

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