前夜
 踊り子事件前夜のフレッドとモランの話。

 僕が屋敷に戻った時、ルイスさんは用事で街へ出かけた後だった。
 ウィリアムさんもまだ大学から帰ってきていないらしい。かわりに、居間の窓辺にモランがどっかりと座り込んでいた。

「おう、そっちはどうだ」
「もう済んだ」

 僕は短く答えた。モランも心得ているので、いちいち深く尋ねてきたりはしない。
 開け放った掃き出し窓から足を投げ出して、どうやら銃の整備をしているようだった。こんな所でやる事ではないだろうに、という僕の考えを読み取って、モランは「使用人部屋はまだ湿っぽくて埃が舞うんだよ」と口を尖らせた。
 僕らがこのダラムに呼ばれる前にルイスさんがひと通り掃除を済ませてくれていたとはいえ、この屋敷はしばらく空き家だったのだ。3階の使用人部屋は特に人の出入りが無かったのだから、まぁ、わからない話でもない。
 掃き出し窓が面した庭は高い塀と生け垣に囲まれているし、田舎町の外れにあるこの屋敷のそばをわざわざ通り掛かる者もいないだろう。せめて、モランが煤や油で絨毯を汚さないように見張ることにしよう。そう考えた僕は、窓の桟にもたれて立った。
 モランは僕に構わず、分解したパーツをひとつひとつ確かめて、磨いて、また組み立てていく。
 彼が銃の整備をするところを見るのは、昔から好きだった。その手付きはいい加減に見えて実は限りなく正確で繊細で、一流の職人の手仕事を見ているようなどこか楽しい気分になった。
 しかし、明日の作戦で使う銃は、兵器科が用意した空気銃ではなかったか。彼の手元に広がっているのは、彼愛用の火薬を用いた狙撃銃だ。
 僕の視線に気付いたモランが、また口を開く。

「一流の狙撃手なら、銃のメンテナンスは欠かさないもんだ。『銃の扱い』ってのは的を撃ち抜く腕前だけを指してるわけじゃないからな」
「知ってる。前にも聞いたよ」
「あ? そうだったっけか……」

 淀みなく動かしていた手をちょっとだけ止めて、モランが考えこむように視線をさまよわせる。僕もつられて、その言葉を聞いたのがいつの事だったのかを思い出した。

「あぁ、『鹿狩り』のときか」

 モランがぽつりと呟いて、納得したように頷きながら作業に戻った。 
 『鹿狩り』――数年前、モリアーティ家領内の森へ連れて行ってもらったことがある。いずれ始まる計画に備えて、『銃の扱い』を教わるために。
 モランと、当時すでに軍で訓練を受けていたアルバート様が教官役になり、ウィリアムさんとルイスさんと僕が生徒だった。銃の構造の解説に始まり、メンテナンスや運搬の方法について講義を受けた。
 森に入ればすぐに銃を持たされて撃ち方を教わるとばかり思っていた僕に、モランは先ほどと同じことを言ったのだった。

「あの時はウィリアムから質問責めにあって散々だったっけな……。あの時ばかりはアルバートに感謝したぜ。あいつが止めなけりゃ日が暮れるまで終わらなかったからな」

 モランが懐かしげに呟いた。
 狙撃手には特に、数学や物理学の知識も求められるものらしい。標的との距離の測り方や弾丸の軌道を予測する計算式についてモランが軽く触れると、ウィリアムさんは「モランとこんな話ができるなんて!」と目を輝かせた。
 そこからは即興の弾道学講座だった。モランはウィリアムさんからの質問にしっかりと回答できているように僕には見えていたが、のちに数学教授となったほどの人だ。彼の理解が深まるたび質問はどんどん鋭さを増して、モランは頭を抱えながら唸り声を上げる羽目になった。ルイスさんは二人に付いていこうと必死に食らいついていたが、僕は早々に降参した。学校にすらまともに通った経験のない僕にはあまりにも高度な内容だったからだ。

「確かお前は、鹿を仕留め損ねてしょげてたな」

 モランがくつくつと喉を震わせて笑った。
 あの時の事はよく覚えている。
 座学を切り上げ、木の的を使って練習をした後は、生きた獲物を狙う訓練もした。用いたのが一般的な猟銃ではなかっただけで、撃ったのはもちろん本物の鹿や野鳥だ。猟師でもない僕らが野生動物を相手に拳銃の射程圏内まで接近するのは難しいので、狙撃銃を使った。
 教わった通り、それでもモランと比べるとずっと辿々しい手付きでスコープを覗いて照準を合わせた。
 若いオスの鹿が、遠くから狙われている事も知らずに川辺をのんびりと歩いていた。水を飲もうと彼が足を止めた瞬間を見逃さず、僕は引き金を引いた。
 高い銃声が響いた。発砲の反動でよろけそうになって、僕は慌てて腹に力を込めて踏ん張った。もう一度スコープを覗くと、僕が放った弾丸は鹿の横腹を抉っていた。
 透明だった川の水が、みるみる赤く染まっていく。姿の見えない敵から何とか逃れようと、彼は何度も膝をつきそうになりながら、細い脚を懸命に踏ん張って木立の中へ隠れようとしていた。
 スコープ越しにその怯えた真っ黒い瞳を見たとき、僕はつめたい手で心臓を掴まれたような心地になった。
 再び銃声が響いて、鹿の体がばったりと地面に倒れた。驚いて顔をあげると、隣でモランの構えた銃が細く煙を上げていた。僕が仕留めそこねた鹿の頭を、彼が正確に撃ち抜いたのだ。
 「惜しかったですね」「初めてで当てられたなら上出来だよ。もう数インチずれていれば心臓だった」と、側で双眼鏡を覗いていたルイスさんとアルバート様が話していた。
 僕は確かその時十五歳かそのくらいだったけれど、すでに人を手にかけた経験があった。貧民街での暮らしが長かったから、道端で冷たくなっている人間だって数え切れないほど見てきた。
 それでも、自分や周りの誰かに害を為したわけでもない無垢な生き物を撃つのは、おそろしいと感じた。一撃で仕留めきれず無駄に苦しませてしまった事も、いまだに僕の心を重くしていた。

「フレッド、明日は頼むぞ」

 モランは唐突に、そう言った。
 鹿のことを考えていた僕は、一瞬、モランが何の事を言っているのか分からなかった。
 明日。この国を変える計画のはじまり。
 僕の役目は、死に追いやられたあの女性に扮する事。自分が何故裁きを受けるのかを標的――ダドリーに思い知らせる重要な役割だったが、モランが言っているのはそれだけではないのだろう。
 モランは狙撃位置についているとはいえ、装備は殺傷力の低い空気銃だ。ルイスさんはダドリーを現場まで呼び出す郵便配達員の役なので、そもそも明日の『舞台』には上がらない。
 万が一追い込まれたダドリーがおかしな動きを見せたなら、ウィリアムさんとウィリアムさんの大切な生徒を守れるのは、僕だけだ。
 その事を理解して、僕は「わかった」と短く答えて頷いた。モランは取り外したスコープを手の中で転がしながら、「変わった奴だな」と笑った。

「何が?」
「鹿は可哀想でしょうがないくせに、人を撃つのは躊躇しないところだよ」
「別に……。鹿とダドリーは全然違うし」
「まぁそうなんだがな」

 自分と同じ姿形をした生き物を傷つける事に対して、本能的に忌避感を抱く気持ちは理解できる。
 料理にたかる蝿を叩きつぶす事はできても、ゴミ捨て場を漁る犬や猫を殺すとなると抵抗を覚える人は多いだろう。理屈自体はそれと同じだ。きっと大抵の人にとっては、法律とか社会通念とかを抜きにしても、鹿を撃つより人を撃つ事のほうがつらいのだろう。
 けれど僕は、他人を踏みにじる事に少しも心を痛めない、人を人とも思わない奴らの存在を嫌というほどよく知っていた。
 どれだけ自分とよく似た姿形をしていようと、奴らの本性は獣以下だ。そうした連中に僕は散々ひどい目に遭わされたし、虐げられ、果ては命まで奪われた人たちを大勢見てきた。
 そして、ウィリアムさんは現実に打ちのめされた僕の前に現れて、それでいいと言ってくれた。許せなくていいと、抗っていいのだと教えてくれた。
 その言葉が、僕に力をくれた。

「普通はな、反復するうちに慣れるんだ。殺すのに人間も動物も関係無くなる。相手が悪人かどうかもな。それでもお前は何年も前に撃った鹿のことを思い出して『そんな顔』ができる。その後味の悪さをいつまでも覚えていられる。
 猟師にも兵士にも向いてないが、この仕事にはある意味では向いてるよ。その感覚は、この組織に必要だ。ウィリアムも、そういう性分を承知の上で、お前を組織に入れたんだろうよ」
「ふぅん……」

 そんな顔、というのはどういう顔だろうか。何だかむず痒い気分になって、僕は曖昧に相槌を打った。
 自分が人より表情がおもてに出ない方であることはよく分かっているけれど、モランはよくこうして僕の表情を読んだようなことを言う。口の重たい僕が考えていることを先回りして話す。
 相手が悪人でなくてもモランは撃てるのだろうか。そんな疑問がふと頭を過ぎったが、彼に従軍した経験がある以上は聞くまでもないことで、僕は言葉を胸のうちにしまった。

「さて、そろそろウィリアムたちも帰ってくる頃合いか。撤退だ」

 モランは整備を終えた狙撃銃をしまったケースをバタンと閉じた。
 そして煙草に火をつけて、紫煙を吐き出しながら立ち上がる。歩きながら煙草を吸ったりして、絨毯に灰が落ちるとまたルイスさんに叱られてしまう。そう声をかける前に、モランはさっさと居間を出ていってしまった。煙草の先端の赤い火が、廊下の薄暗がりの中をスッと滑っていった。
 気づけばすっかり日が沈んでいた。開けっぱなしの掃き出し窓から夜の気配をまとった空気がわずかに流れ込んでくる。
 庭の植え込みは葉っぱの一枚もそよがせることなく静かに佇み、雲は重く停滞していた。今夜も霧が出るだろう。
 僕は窓を閉めて、ウィリアムさんたちを迎えるため、暖炉に火を入れた。


初出:Pixiv 2022.01.30

変装談義
 フレッドとボンドが喋ってる話。

 酒に酔った人間というのはタチが悪い。
 もう少し治安の良い道を通るんだったな、と僕は内心歯噛みした。とある貴族主催の夜会に、臨時の雇われメイドとして潜入した帰りだった。後片付けを終えた頃には、すっかり夜も更けていた。
 一日の報酬を受け取り、他の娘たちに混じって屋敷の使用人用出入り口から出て行ったのがつい数十分前。外套の前をかき合わせながら足早に歩いていたところを酔漢に呼び止められた。

「おい! ちょっと付き合えよ嬢ちゃん!」

 無視して通り過ぎようとしたのが気に入らなかったらしく、前に回り込んで進路を塞がれた。気の毒なことに、酒のせいで今自分が絡んでいるのが男だということにまるで気付いていないようだ。気がつかれても困るのだが。
 大柄な労働者ふうの男だった。手のひらがぶ厚く肩から腕にかけてよく筋肉が乗っているから、荷運び人か何かだろうか。太い眉の下のぎょろりとした目玉は見るからに気性が荒そうで、通行人たちはこちらに心配そうな視線を送りながらもそそくさと立ち去っていく。
 さて、どうしたものか。あまりもたもたして警官でも呼ばれたら厄介だ。まさか実力行使に出るわけにはいかないし、走って逃げるにしても、人目がある以上はか弱い女性に見える程度にセーブして走らなくてはならないのが面倒だった。
 走り出すタイミングをはかりながら、後ろに足を一歩引く。僕が距離を取ろうとするのを察して、男がこちらに腕を伸ばした。アルコールの影響で足元がふらついている。タイミングよく躱してやれば簡単に体勢を崩すに違いない。
 が、男の腕は横から伸びてきた別の手に掴まれた。

「そういうの、流行りませんよ。お兄さん」

 ボンドさんだった。
 彼はそのまま男の腕を捻りあげると、脛を蹴っ飛ばした。体格差をものともしない、見事な体幹崩しだった。
 目にも止まらぬ早さで石畳に叩き付けられた男は苦しげなうめき声を上げた。酔いも手伝って起き上がれないようだった。通行人の間から小さく感嘆の声が上がった。
 
「さあ、もう大丈夫だよ……って、あれ? 君もしかしてフレ、」

 僕の方を振り返って声を上げそうになったボンドさんは、しかし周囲にまだ人の目がある事を思い出した。

「……フレドリカじゃないか! 遅くまでお疲れ様。送っていくよ」

 大抵の女性は喜んでついていってしまいそうな人好きのする笑顔だった。
 僕も周囲から怪しまれないように、彼とはあくまで親しい間柄であることを示すように微笑み返す。様子を伺っていた通行人たちはほっとした表情でめいめいに散っていった。
 男はまだ地面に転がっていたが、置いていく事にした。例えこのまま数時間起き上がれなかったとしても、この時期の気温で凍死することも無いだろう。
 肩を並べて歩き始めて、しばらくしてからボンドさんが声を潜めて囁いた。

「気付かなかったよ。君も大した役者だね」
「それはどうも」
「ごめんね、そっち行けなくて」
「いえ。そちらの『仕事』にも穴を空けるわけにはいきません」

 ボンドさんはここ数日、MI6の任務に駆り出されていた。機密文書を巡る一件からホームズ卿と影で協力関係を結んでいる以上、政府の信頼を損なうようなことがあってはならない。当然、MI6の任務を疎かにすることはできなかった。
 人員の割り振りはウィリアムさんが、MI6を束ねるアルバート様と話し合って決めたことだ。僕には文句などない。

「そう言ってくれると有り難いよ。君の方は? 充実した1日だったかな」
「えぇ。面白いお話がたくさん」
「それは良かった。帰ったら詳しく聞きたいな」
「もちろん」

 僕はほんのりと口角を上げながら頷いた。
 『面白いお話』というのは、もちろん調査対象の貴族に関するあれこれである。一夜限りの雇われメイド相手となると、普段は忠実な使用人たちの口も多少は軽くなるものだ。仕事の合間の雑談として、僕は彼らのちょっとした愚痴に付き合った。
 今夜手に入れた情報が、ウィリアムさんの計画をより緻密に編み上げる助けになるといい。
 そんな事を考えながら歩いていると、いつの間にかボンドさんがじっと僕の顔を覗き込んでいた。

「……何か?」
「あ、ごめんね。いつもと印象違ったからつい」
「はぁ……」
「その口紅、よく似合ってるよ」

 ばちりと見事なウィンクが決まった。
 きっと飛び上がって喜ぶべきところなんだろうな。普通の女性であれば。
 艶のあるブルネットを慎ましく帽子の中に隠していようと、地味なガウンに手編みのレース襟を合わせて精いっぱいのおしゃれをしていようと、僕の中身はどうしようもなく男である。その見事な所作に感心はすれど、ときめく気持ちはこれっぽっちも湧いてこなかった。

「コルセットとか、キツくない?」
「そんなに締めていないので」

 ボンドさんの手が腰に回されるのをやんわりと払いながら答えた。

「え、これで? 女の子の前で言っちゃダメだよ、それ」
「言いませんよ。……それより靴を履き替えたいです」
「あ、そっち。確かに君けっこう足大きいもんね」

 僕は小さく頷いた。
 実際、女性の格好をする際にもっとも苦労するのは女物の靴を履くことだった。
 コルセットも確かにきついけれど、姿勢にさえ気をつけていればそこまで苦ではない。いくら頑張って締め上げたところで身体の構造上限度があるので、胸や腰回りに膨らみを持たせて視覚的に誤魔化す方法を採用していた。
 しかし靴はそうもいかなかった。足の大きさだけはどう足掻いても変えようがない。
 ウィリアムさんに以前聞いた話だが、人間の足の大きさ、特に足の甲の幅は子供の頃に履いていた靴で決まるらしい。
 貴族の子弟や裕福な家庭の子供は成長段階に応じて靴をあつらえるので、足がそこまで大きくならない。逆に、どうせすぐに背が伸びるのだからと大きめの靴をあてがわれていた子供は足が大きく、甲の幅が広くなる傾向にあるらしい。
 半信半疑の僕を見て、ウィリアムさんは通りがかったモランを捕まえて靴を脱ぐように命じた。すると確かに、モランの足は僕のものに比べて縦にふた周りは大きかったのに、足の甲はそう大差ない幅をしていた。おそらくアルバート様にも同じ法則が当てはまるのだろう。彼の裸足を見る機会など一生訪れないと思うが。
 そういうわけで、拾い物の大きな靴を穴が開くまで履き潰すような子供時代を送っていた僕の足は、体格の割には幾分か大きいようだった。
 男物はともかく女物はほっそりとしたデザインの靴が多く、毎回苦労させられている。つま先から踵までのサイズは同じはずなのに、横幅がとてもきついのだ。かといって横幅を優先して靴を選ぶと、今度は踵が余る。踵が余っていると歩き方に影響する上に、大きな靴を履いていることが傍目にも分かりやすい。足の大きさから女装を見破られるとは考えにくかったが、少しでも変な印象を持たれることは避けたかった。
 そうして仕方なく幅の狭い靴に無理矢理足を押し込んでいたのだが、ウエストのように力を入れれば一時的にサイズが小さくなるものでもない。立っていても座っていても足が締め付けられて痛みが伴うというのはかなりの負担だった。
 これまで変装道具は、特殊なもの以外はありふれた既製品で間に合わせることを信条としてきた。それはコスト面の問題であり、何かの拍子に身元を辿られないようにするための対策だった。しかし今後この手の仕事が増えるのであれば、伝手を頼って専用の靴をあつらえた方がいいのかもしれない。

「ボンドさんこそ、大変じゃないですか。ずっとその格好でいるの」
「え、僕? うーん、僕はけっこう楽しんでるよ。スーツも好きだしね。女の子たちが着るドレスと比べるとどうしたってバリエーションが少ないけど、それはスタイルとして完成されてるからだと思うんだ。その枠をどれだけ守って、どれだけ壊すか……そのさじ加減を工夫するのって面白いと思わない?」

 ボンドさんは顎を引いて背筋をピンと伸ばすと、ジャケットの襟をぴっと正した。
 街灯のぼんやりとした明かりの下であってもその仕草は物語の主人公のように様になっていて、人の美醜にはあまり興味のわかない僕でさえため息が溢れるようだった。
 確かに、明るいグレイの三つ揃えにピンクのネクタイという一見奇抜な組み合わせは、ボンドさんの抜けるように白い肌や金髪にとてもよく似合っていた。彼以外の人間が真似をしてみたところで、この華やかな出で立ちを再現することは絶対に不可能だろう。

「やっぱり、今日の任務は僕が行って正解でした」
「えっ何それどういう意味?」

 ボンドさんは子供のように下唇を突き出した。
 たとえ下働き用のお仕着せを身に纏っていようと、彼が備え持つ華やかな空気は隠しきれない。他のメイドたちはおろか貴族の令嬢たちをも押しのけて、会場の視線を一身に集めていた事だろう。彼にはそう思わせるだけの不思議な引力があった。
 今だって、彼は『男性』を演じているというより、彼が作り上げた『ジェームズ・ボンド』というキャラクターを演じていると表現した方が適切に思える。あくまでさりげなく人の中に紛れ込むことに主眼を置いた僕の変装術とは、似ているようでまるで異なるアプローチだ。
 そうした考えを言葉には出さずに黙っていると、ボンドさんはくるりと振り返って僕の頭から爪先までをしげしげと眺めた。

「確かに……その格好で一日働いてきたんだよね。誰にも怪しまれたりしなかった?」
「不安があるなら、ウィリアムさんも僕に任せたりしません」
「……声の作り方も完璧だ。どこで教わったの?」
「特には……」

 変装術も諜報術も生きるために身につけ、ウィリアムさんのお役に立つため磨きあげた技だった。アルバート様がMI6を率いるようになってからも、正式な諜報員ではない僕はきちんとした訓練を受けたことがなかった。
 そのことを話すと、ボンドさんは「えっ」と声を上げた。

「独学ってこと? すごいよ! 死ぬほどレッスンを受けて努力して、それでも芽が出なくて諦めていく役者なんてそれこそ掃いて捨てるほどいるのに……今の君なんて普段の君とはまるで別人だよ」
「……芝居と変装は別でしょう?」
「そうだね。そうだけど、君が舞台に上がったらすっごく面白そう! ね、お芝居に興味ない?」
「ありません」

 あっさりと答えた僕に、ボンドさんは「なんてもったいない!」と大げさに頭を抱えた。
 僕はこれまでの人生の中で、芝居というものをまともに観たことがなかった。強いて言うなら、ノアティック号での任務中に船上オペラをちらりと眺めたくらいだろうか。

「今さら役者に転向なんてできません」
「僕だってそれは分かってるんだけどね……」

 彼が本気で言っていないことは分かっていたけれど、僕だってこう答えることしかできない。少し気まずくなって僕は外套の襟に顔を半分埋めた。
 しばらくうんうんと唸った後、ボンドさんはパチンと指を弾いた。

「……よし。それじゃあ、今度招待させてもらおうかな」
「え」
「今後の参考に、一回ぐらいきちんと生の舞台を観てみるのも悪くないでしょ? ああ、アル君がたまに付き合いで行くような堅っ苦しいのじゃなくて、もっと気楽なやつね。デートだよ。どう?」
「デートって……」
「どうかした?」
「何というか、あべこべのような」
「あべこべ? 何が?」

 白い歯をのぞかせながら、ボンドさんはいたずらっぽく笑った。とぼけるつもりらしかった。
 彼相手に口で敵うはずもなく、僕は口を噤むことにした。

「いえ、何も……」
「ふふ。じゃあ楽しみに待っててね。可愛いフレドリカ」
「…………はぁ」

 釈然としない思いを抱えながらも、僕は曖昧に返事をした。
 それからボンドさんは、近頃ロンドンで話題の演目や評判の良い役者についてあれやこれやと語り始めた。今でも仕事の合間に庶民向けの小劇場に足を運ぶことがあるらしい。いつにも増して饒舌な様子からは、彼が芝居というものを本気で愛していることがうかがえた。
 その楽しそうな顔を見ていたら、今夜のお礼に一日だけ付き合ってみるのも悪くないかもしれない、という気持ちが湧いた。


初出:Pixiv 2021.09.26

どこまでもともに
 アルバートと、まだウィリアムになる前の少年の話。

 家庭教師の講義を終えたアルバートは、こっそりと使用人フロアに上がった。この時間であれば、皆夕食の支度で忙しくしているだろうと考えたのだ。
 目論見通り、使用人フロアには誰もいなかった。けれど、あのちいさな兄弟の部屋も空っぽだった。
 どこに行ったのだろう、とアルバートは首をひねった。母は芝居を観に出掛けていたし、弟は課題を放り出していたためまだ家庭教師から解放されていない。彼らが余計な用事を言いつけたわけではないだろう。
 屋敷の中をぐるりと回って、最後に訪れた裏庭の厩舎に彼はいた。

「あ、アルバート様……」

 薄暗い厩舎の中で、彼は藁屑に塗れながら掃除をしていた。汚れた藁をかき集めるのに使う大きな熊手は、彼の背丈ほどもあった。そう広い厩舎ではないけれど、子供一人で掃除をするのはどれだけ骨が折れただろう。
 アルバートに見つかったと気づいたとき、何故か彼はばつが悪そうに顔を伏せた。

「下男たちは?」
「えっと、今日は具合が悪いみたいで……」
「全員がかい?」
「…………」
「もしそうだとしても、君が一人でやらないといけない仕事じゃない。僕も手伝うよ」
「アルバート様!」

 靴が汚れるのも構わず馬小屋に踏み込もうとすると、少年は戸口の前に立ち塞がって通せんぼをした。甲高い叫び声に驚いたのか、馬たちがぶるると鼻を鳴らした。

「大丈夫です。もうほとんど終わりましたから」
「朝からずっとやっていたのかい?」
「……僕、馬が好きなので、お世話ができて嬉しいんです。あとはこれを捨てるだけなので、アルバート様は待っていてください。あなたに手伝いをさせたと知られたら、後で僕が怒られてしまいます」

 少年は汚れた藁とボロを積んだ荷車をふらふらと押していった。アルバートはその背中を見送りながら、彼らがここへ来てから何度目になるか分からないため息をついた。
 掃除を終えた少年は、井戸で水をくんで手を洗った。白いハンカチを差し出しても遠慮するので、アルバートはやや強引に小さな手を取って水気を拭ってやった。

「そんな顔なさらないでください。誰かが必ずやらなければいけない仕事なのですから」
「僕たち家族は報酬を支払った上で、彼らを雇っているんだ。それが彼らの働きに見合うものであるかはともかく……その仕事を君に押し付けるのは間違ってる」
「……そうですね。でも一日くらいなら、見逃してあげてもいいでしょう?」
「そんなことを言っていたら……」
「いいんです。それに、馬が好きなのはほんとうですよ。アルバート様は、帯同馬ってご存知ですか?」
「え? いいや……なんだい、それは?」

 はぐらかされていると分かっていたが、彼と議論をするのもお門違いだろう。アルバートは諦めて彼の話に付き合うことにした。
 少年は、知らない事は「知らない」と正直に答えることができるアルバートがとても好きだった。下民だから、子供だからという理由で少年の話を聞こうともしない人間があまりに多かったからだ。

「競走馬がレースに出走するとき、厩舎から会場まで移動しなければならないでしょう? 会場がとても遠いところにある場合は、船や汽車に乗せられることもあります。馬は繊細な生き物だから、移動のストレスで具合を悪くしてしまったり、慣れない環境で寂しがったりするんです。そうならないように、仲のいい馬を一緒に連れていくんです」
「へぇ、その馬のことを『帯同馬』というんだね」
「はい。昨年、女王陛下主催のレースでフランスからヴァロンティンヌ号が招かれた時、初めて帯同馬を見ました。二頭がぴったり寄り添って馬運車から降りてきて、とてもかわいかったんです」
「それは見てみたかったな」

 競馬は庶民の娯楽として人気が高かった。道楽として馬主になる貴族も多い。あまり競馬に興味がある方ではないアルバートでも、その馬の名前は知っていた。けれど、一緒にやってきた馬がいたという話を聞いたのは初めてだった。レースには直接関係がないことなので、新聞にも取り上げられなかったのだろう。
 二頭の馬が暗い馬運車の中で、互いに慰めあい励ましあう姿を想像してみた。住み慣れた土地を離れるのは心細かっただろう。それが例えレースに出走するための一時的なものであったとしても、人間の事情など彼らには知る由もない。どこへ連れて行かれるのかもわからぬまま、彼らはお互いの存在だけを支えにじっと佇んでいるのだ。
 弾んだ声で、少年は続けた。

「あのレースでヴァロンティンヌ号は一等だったんですよ。チケットが手に入らなかったので直接観戦することはできませんでしたが、新聞でその事を知ったときは嬉しかったです。名前も知らないあの帯同馬がいてくれたおかげだと思うんです。だから僕、馬って大好きで……」
「君にとっては、ルイスがそうなんだね」
「え?」
「どんな時も互いに支え合って、いつでも一緒……と聞くと、まるで君とルイスみたいだと思ったんだ。ルイスは、君にとっての帯同馬だ」

 アルバートの言葉に少年は数回瞬きした後、ほんのりと頬を染めた。

「そうでした……。二人でフランスから来た馬を見に行った時、『かわいい』と言ったのは僕じゃなくてルイスでした」

 少年は肩を落としながらそう白状した。
 彼の弟は今、心臓の手術を受けるため入院生活を送っていた。きっと弟の話題をあえて避けようとしたのだろう。そのために無意識のうちに記憶をすり替えて、弟の感想を自分のもののように話してしまってた。彼にしては珍しく、年相応な子供らしさのように思えた。

「僕はそれまで、馬をかわいいだとか好きだとか、考えた事もなかったんです。ただ評判の馬がロンドンに来ると聞いて、ルイスが喜ぶかなと思って、見物に行こうと誘ったんです。馬が二頭降りてきて不思議がっているあの子に帯同馬のことを教えてあげると、『僕と兄さんみたいですね』って嬉しそうに笑ったんです」

 アルバートの前ではいつも、ルイスは兄の後ろに隠れて硬い表情をしていた。仲の良い馬たちを見てはしゃぐ、子供らしく無邪気な彼の姿をまだ知らなかった。

「ルイスは、いつも僕に新しい驚きと発見をくれます。ルイスといると、世界の見え方が変わるんです」
「君にそうまで言わせるなんで、ルイスはすごいんだね。僕も彼とゆっくり話をしてみたくなったよ」
「! そう、そうなんです。ルイスはすごいんです」

 少年は少しだけ声を上ずらせながら、勢いこんで言った。このことに関して、初めての理解者を得たとでも言うように。

「僕はルイスがいればどこにだって行けます。何だってできる……」

 例えそれが腐臭漂う貧民街の路地裏でも。悪魔の棲まうつめたい屋敷でも。少年が言葉の続きを飲み込んだのが、アルバートにはわかった。
 アルバートは目の前の小さな頭にそっと手を伸ばした。自分のものと違ってくせのない細い金糸が、指の間をするりと抜けた。

「あ、アルバート様?」
「あぁ、藁がついていたんだ。金髪に馴染んでいたから、すぐには気づかなかったよ。もう払ったから大丈夫だ」
「ありがとう、ございます……」
「今日は早く休むといい。明日は一緒にルイスのお見舞いに行こう」

 アルバートのこの申し出に、少年はぱっと顔を明るくした。
 屋敷からルイスのいる病院まで、少しばかり距離があった。面会時間いっぱいまで病室にいたために帰りが遅くなり、彼が夕食を食べそこねた事が何度かあったのをアルバートは知っている。辻馬車を拾おうにも、子供一人ではなかなか止まってもらえないそうだ。
 その点、アルバートが一緒なら自家用の馬車を使うことができた。執事長から嫌味の一つももらうかもしれないが、彼は今日一日かけて厩舎の掃除をしたのだ。文句など言わせない。

「ありがとうございます。退屈しているだろうから、新しい本を持っていってあげないと」

 そう感謝の言葉を述べながらも、彼の頭の中はすでに弟のことでいっぱいなようだった。今日はよく表情を変えるな、とアルバートは思った。
 彼の弟に比べると表情豊かな方であると言えなくはなかったが、それは他者の視線を意識し計算されたポーズにすぎないと常日頃から感じていた。アルバート自身にも心当たりがあったから、よくわかった。
 今の彼は良くも悪くも取り繕う余裕が無くなるほど、愛しい帯同馬の不在が堪えているようだった。

「そうだね。馬が出てくる物語はどうだろう。何があったかな……」
「東洋には、馬と結婚した女性の話があるそうですよ」
「馬と? その国では、馬との結婚が認められているのかい?」
「まさか。おとぎ話の類です」
「なんだ、そうなのか。生涯の伴侶にしたくなるほど、馬は魅力的な生き物……ということなのかな」
「きっとそうです」

 二人はもう一度、顔を見合わせて笑いあった。
 無事を祈ることしかできないのは苦しいけれど、アルバートの苦しみなど彼の比ではないのだろう。そのことに一抹の寂しさを覚えながらも、それでもルイスのために、彼のために祈らずにはいられなかった。
 今はただ、ぴったりと寄り添って支え合う美しい兄弟の姿を、一番近くで見ていたいと思った。
 アルバートは想像する。
 異国からやってきた名馬を一目見ようと、街には大勢の見物人が押し寄せている。彼ら兄弟もその雑踏の中に混じっていた。はぐれないようにしっかりと手を繋いで、背伸びをしながら馬運車の扉が開くのを心待ちにしていた。今だけは厳しい生活のことも何もかも忘れて、そっくりな緋色の瞳を輝かせているのだ。
 アルバートはただ眩しさに目を細めながら、彼らの後ろ姿を眺めている。僕も君たちの旅路に加えてほしい。そう望みを口にすることは、まだできそうになかった。


初出:Pixiv 2021.08.21

薔薇の君
 ある日のフレッドとアルバートの話。


 フレッドは疲れていた。
 犯罪相談役窓口としての仕事は非常に神経を使う。
 ヤードやシャーロック・ホームズに素性を掴まれてはならない事はもちろん、フレッドのもとにやってくる相談者とて信用できる人間とは言えない場合が多い。力無き市民とはいえ、その困りごとの解決を犯罪によって成そうと考える人間なのだ。真に追い込まれ犯罪に走らざるを得ないのか、それともただ安易な解決手段として犯罪を選んだのか、ウィリアムに報告を上げる前に見極め、ふるいに掛けなければならない。
 この日フレッドは、巷で話題の犯罪卿の正体に迫らんとするジャーナリストにつかまり、そのあしらいに非常に難渋させられた。報道関係者だけあって嘘の相談内容も妙に作り込まれていて、彼をすぐに振り払うことができなかった。その結果、危うく彼の仲間が待ち構える場所へ誘い出されるところだった。捕らえられるという最悪の事態は免れたが、その後始末にかなり手間取ってしまった。
 ひと晩中街を駆けずり回り、疲労と寝不足で頭がズキズキと痛む。重い足を引きずり屋敷への帰路をたどる今も、尾行がついていないか気を抜くことはできなかった。
 もうあのルートは使えないな。ウィリアムさんに報告しなければ。今日は確かアルバート様も屋敷にいらっしゃったはず。あのジャーナリストたちが関わっている報道機関は今後要注意だ……。
 どれほど疲れていても、頭の中では冷静な思考がぐるぐると渦巻く。
 ああ、一度眠らなければ。もうすぐ夜が明ける。
 周囲に人の気配がないことを確かめてから、鍵を使って屋敷の裏門を抜けた。三階使用人フロアの自分の部屋が妙に遠く感じられて、フレッドは庭の温室に入った。そこは、フレッドにとってもうひとつの部屋だった。いや、むしろ与えられた自室よりもこの温室で過ごした時間のほうがよほど長いかもしれない。
 この時間であれば、ウィリアムたちもまだ休んでいるだろう。報告は日が昇ってからにしよう。
 三階の自室に戻って、服を着替えて、ベッドに入るのは億劫だった。フレッドは温室の片隅に腰を下ろし、膝を抱えた。
 風も吹かない温室の中は静かであたたかい。薔薇の芳香に混じって、土と緑の匂いがした。緊張の連続で熱を持った頭がじんわりと冷えていくのを感じながら、空色のストールに顔を埋めて、フレッドは目を閉じた。

✳︎

「……レッド。フレッド」

 どのくらい眠っていただろうか。
 誰かに優しく、肩を揺すられている。

「フレッド、大丈夫かい?」
「ん……あっ、アルバート様!?」

 鮮やかな翠玉の瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいて、フレッドは眠りの淵から一気に覚醒した。いつの間にかとうに日は昇り、温室の薔薇たちは降り注ぐ日差しに負けじとまばゆく咲き誇っている。ずいぶん長いこと眠り込んでしまったようだった。
 フレッドが意識を取り戻したのを見て、アルバートは安心したように「よかった」と微笑んだ。

「こんなところに座り込んで……気分が悪いのかい?」
「いえ、あの……眠ってしまって……」
「こんなところで?」

 アルバートは驚いたように目を丸くした。
 この温室はフレッドにとっては自室のベッドと同じくらい安心できる場所ではあるが、アルバートにとってはそうではないだろう。屋敷の敷地内とは言え、屋外で眠るなど伯爵家の使用人としてありえないことだ。
 フレッドは慌てて立ち上がり、昨夜の経緯を説明し、庭で眠っていた無作法を侘びた。

「ということは、朝食は食べてないんだね」

 屋敷の主人が気遣わしげにそう尋ねるので、叱責の言葉を覚悟していたフレッドは少々面食らった。

「え、はい……」
「それはご苦労だったね。昼食には少し早いが、ルイスに何か出してもらえないか頼んでこよう。一度部屋に戻って顔を洗ってくるといい。それとも、まだ寝ていたいかい?」
「いえ、アルバート様のお手を煩わせるわけには」
「ちょうど退屈で庭を散歩していたところだったんだ。夜通し働いてくれた使用人を労うのは、屋敷の主として当然のことだろう?」

 庭で居眠りをしていた使用人を叱責するどころか気遣ってくれる主人の優しさに、申し訳なさがこみ上げた。頭を下げると、彼のスラックスが砂で汚れているのが目についた。花壇の影でうずくまっていたフレッドを心配して、地べたに膝をついたのだろう。汚れを払うために身を屈めようとするフレッドを、アルバートはやんわりと押し留めた。
 顔をあげると、フレッドの肩に手を置いたアルバートはどこか遠い目をしていた。どうかなさいましたか、と尋ねるより少し早く、彼は唐突に呟いた。

「……君は薔薇が似合うね」
「はい?」

 言葉をかける相手を間違えていないか。

「君が先日用意してくれた花束はとても評判だったよ。さるご令嬢がいたく喜んでくれてね。彼女のおかげで、社交界では私のことを『薔薇の伯爵』なんて呼ぶご婦人方もいるくらいだ」
「は、はぁ……」

 フレッドにしてみれば、口にするのも憚られるほど気恥ずかしい通り名だった。しかしその名がこの気品に満ちた美しい男のためのものであると言われると、確かに似合いのように思われた。人を惹きつける蠱惑的な色香と近付くことを躊躇わせる気高さ、アルバートにはそのどちらもが備わっていた。
 ますますわけが分からなくて呆然とするフレッドに、アルバートは小首をかしげながら微笑みかけた。常人にはおいそれと再現できない、完璧な角度だった。

「おかしな話だと思わないかい? あの花束も、ここで咲き誇っている薔薇も、全て君が育てたものだというのに」
「え、あの、」
「いつもありがとう、フレッド」

 肩に掛けられていた手が、首筋を伝って頬を撫でた。
 フレッドはぞわりと肌が粟立つのを感じた。それが決して不快な感覚などではないと自覚して、少し遅れて頬がかっと熱くなるのを自覚した。人との接触なんて、したたかに酔っ払ったモランが肩を組んでくる時くらいだ。彼の袖口から、薔薇とは違う深みのあるコロンの香りがした。アルバートの手を振り払うこともできず、フレッドは硬直した。初めて真正面から覗き込んだ緑色の瞳が陽光の中で美しくきらめいていた。特別な宝石をはめ込んで作られたのかもしれない、とばかげた空想が頭をよぎった。
 時間にしてほんの数秒のことだっただろう。アルバートはあっさりと手を引いた。

「さあ、お腹が空いただろう。引き止めて悪かったね。部屋に戻って身支度をしてくるといい」
「は、はい……失礼します……」

 彼がパタパタと温室を飛び出していくのと入れ替わりで、モランが顔を覗かせた。

「おい、あんまり揶揄うなよ、アルバート」
「おや大佐、ルイスに玄関の掃除を頼まれていたのでは?」
「珍しい組み合わせだと思って覗いただけだ」
「そうだね。言われてみれば、彼と二人で話したことはあまりなかったな。ちょうどいい機会だったから、日頃の礼を言っていただけだよ」
「……自覚なくやってんだったら怖いわ」

 モランが吐き出した煙草の煙が空に溶けて、消えていく。
 吸い殻はちゃんと始末したまえよ、とアルバートの小言が飛んだ。


初出:Pixiv 2021.08.16

ルイスがワトソン氏とミス・ハドソンと辻馬車に相乗りする話
 タイトル通りです。


 どこからともなく暗雲が湧いてきて、にわかに雨が振り始めた。
 多少の雨なら気にせず歩くことが多いロンドンの住民たちも慌てて軒先へ駆け込むほど雨脚が強い。たまたま街へ出ていたルイスも例に漏れず、黒く染まる石畳に追い立てられるように歩調を速めた。
 つい寄り道をしてしまったことが災いしたが、用事はすべて終えたので後は屋敷に戻るだけだ。広い通りまで出て辻馬車を捕まえなければ。
 紙袋を濡らさないようしっかりと抱き込んで、帽子を深くかぶり直した。

 いつもならばこの時間帯は賑わっている大通りも、今日ばかりは人もまばらだ。
 運良く向こうから、一台の辻馬車が泥水を跳ね上げながらやって来た。軽く手を上げると、ルイスに気付いた御者が手綱を引いて馬車を減速させる。
 と、その時、すぐ手前のグロサリーストアから暗紅色のドレスをまとった女性が飛び出してきてぶんぶんと手を降った。

「乗ります!乗りまーす!!」

 小さな体をめいっぱい伸ばして声を張り上げる彼女に、御者は困ったように苦笑した。その目が自分の後ろを見ていることに気付いたらしく、女性がぱっと振り返る。

「あっ、いやだ私ったら!ごめんなさい!」

 ルイスと目が合うと、彼女は顔を真っ赤にして目を見開いた。

「いえ……お先にどうぞ」
「いえいえいえ、お気持ちだけで!あなたが先に停めたんですから、私たちは他の馬車を待ちますので!」

 傍から見れば彼女が割り込んだ形になるが、先に手を上げていたルイスに気付いていなかったのだから仕方ない。
 何より、雨の中荷物を抱えた女性を差し置いて自分だけ馬車に乗るのは矜持に反する。ウィリアムやアルバートだって、同じ場面に出くわせば彼女に馬車を譲るに違いなかった。
 しかし相手もなかなか引かない。
 押し問答をしていると、ストアから野菜の詰まった紙袋を両手に抱えた男が、肩でドアを押しながら出てきた。

「馬車捕まりましたか、ハドソンさん……って、あれ?」

 彼女の連れらしいその男は、ルイスの顔を見るなり素っ頓狂な声を上げた。
 やや小柄ながらスーツの上からでも分かるがっしりとした体つきとよく日焼けした肌を持つ頑健そうな男だ。しかし瞳が丸く優しげな顔立ちをしているからか、威圧感のようなものはまるで感じられない。
 ルイスはすっ、と血の気が引くのを感じた。
 男は一拍遅れて「ああ!」と声を上げた。

「モリアーティさん!……の、弟さんですよね? 先日の列車の件ではどうもありがとうございました!」

 ジョン・H・ワトソン医師だった。



 それからルイスは「お知合いでしたら、相乗りでどうです?急な雨で他の辻馬車も出払っておりますし」という親切な御者のおせっかいな申し出により、ワトソンらの手で馬車に押し込められてしまった。
 小さな窓の外は雨で白く煙っていて、雨脚がさらに強くなったことを思わせた。濡れて帰れば兄が心配する、という考えがルイスの判断を鈍らせた。
 ホームズが下宿している221Bの大家がハドソンなる女性であることは聞いていた。
 しかし探偵業に協力しているわけでもない一般人である。フレッドのように監視任務についていなかったルイスには彼女の人相まで把握する機会がなかった。
 まさかここまで見事に、しかもワトソンと一緒のタイミングで鉢合わせるなんて、とルイスは内心頭を抱えた。
 大きな荷物は荷台に預かってもらったが、それでも辻馬車に三人乗りは少し狭い。何故か真ん中に座らされたルイスはなおさら落ち着かなかった。

「あの時は本当にありがとうございました!お二人とも、お礼を伝える前に立ち去ってしまったのでずっと心残りだったんです。お二人の協力が無ければ、僕はあのまま無実の罪で投獄されるところでしたよ」
「……いえ、事件を解決したのは私ではなく兄です」
「そうでしたね、お兄さんに是非よろしくお伝えください」

 ワトソンはしきりに感謝の言葉を並べた。
 ルイスの両手が空いていれば手さえ握りかねない勢いである。これだけは荷台に預けなくてよかった、と紙袋を膝の上で抱え直した。
 それにしてもこのワトソンという男も、ホームズとは違った意味で馴れ馴れしい。
 ルイスは横目でワトソンの様子を伺った。
 モランやジャックのように前線で戦う兵ではなかったせいももちろんあるだろうが、この人懐っこい笑顔からは従軍経験者であるとはとても思えなかった。医学生と言われても信じたかもしれない。

「先ほどはごめんなさいね、ルイスさん。あの辺りって、隣の通りに比べてお店が少ないからあまり辻馬車が通らないでしょう?雨も降ってきたし、この馬車を逃してしまったらいけないと思って……私ったらほんとうにそそっかしくて恥ずかしいわ」
「……お気になさらず」

 そしてハドソンもハドソンで、初対面のルイスに対して昔からの知人のような気安さだ。下宿の女主人として自活しホームズのような難物と渡り合うにはこれくらいの気風が必要なのかもしれない。
 自らの力で人生を切り開く女性という点ではマネーペニーやアドラー(今はあえてこの名で呼ぶ)に性質が近いのかもしれないが、彼女らが持つある意味男性的とも言える怜悧さはハドソンには見当たらない。年齢はルイスよりも上だろうが、振る舞いはお喋りな少女のようだ。
 要は二人とも、ルイスが普段接する人間とはあまりにタイプが違いすぎた。
 ルイスはポケットの懐中時計に手を伸ばす。
 イートン校への入学祝いとしてアルバートとウィリアムが贈ってくれたもので、兄達と同じ名門校に通うことになった誇らしさと不安の中にいた当時から、ルイスにとってはお守り代わりだ。真鍮の蓋に彫り込まれた自分の名前を撫でると不思議と気持ちが落ち着くのだ。
 時刻を確認すると、多少遠回りにはなるが、ベイカー街を経由しても15時には屋敷に戻ることができるだろう。

「そうだ!ルイスさん、上着を乾かすついでにお茶でも飲んでいかれませんか?ジョンくんもゆっくりお話したいんでしょう?」
「えっ?」

 いかにも名案だ、と言わんばかりにハドソンが手を叩いた。

「わぁ、それはいいですね。お礼も兼ねて是非!シャーロックの奴は事件の捜査だと言って2日ほど前に出ていったきりですが……」
「シャーロックはいいのよ、満足するかお腹が空くかしたら戻ってくるわよ」

 何なんだこの人たちは。
 シャーロック・ホームズから何か入れ知恵でもされているのかと一瞬勘繰ったが、彼らの表情からはまったくの善意であることがわかってしまう。
 これがウィリアムであれば彼らの誘いに乗ったのかもしれないが、そんな大胆さをルイスは持ち合わせていない。221Bでのんきにアフタヌーンティーを楽しむ自分の姿などまるで想像ができなかった。もしそんな場面を目撃すれば監視任務についているフレッドが泡を食って兄達に電報を飛ばすだろう。
 この遭遇についてはどのみち報告しなければならないが、そのような事態は絶対に避けなければならない。

「申し訳ありませんが、急いでおりますので」
「あら、そうですか……」
「うーん確かに、今夜ダラムに向かうのであれば、あまり時間がありませんね」

 ルイスがはたと顔を上げると、ワトソンは悪戯っぽくにやりと笑った。

「何故それを、というお顔ですね」
「……」
「こら、ジョンくん!いきなりズケズケ言い当てるのは失礼だって言ってるでしょ!すみません、ルイスさん。この頃ジョンくんまであの男のろくでもない悪癖を真似るようになってしまって……」
「あぁ……」

 そういえば彼の小説にもそんなくだりがあったか。
 小説の中でホームズは、初めて会ったワトソンをアフガン帰りの元軍医だとぴたりと言い当てていた。他にも、依頼人を観察してその身なりやわずかな仕草から職業、出身、生活環境までも読み取ってしまうという不躾極まりない芸当を披露していた。
 ウィリアムも同じく数学者であることを見抜かれたと話していたので、今さら驚くことではない。
ワトソンは今、ルイスに対してそれを真似てみせたというわけだ。
 口ではたしなめておきながら、ハドソンは興味津々といった顔でワトソンの方を見た。

「で、どうしてそんなことがわかったの?」
「それはですね……」
「この紙袋ですね」

 得意げに口を開こうとしたワトソンを制して、ルイスは抱えていた紙袋を掲げた。
 表面には書店のロゴマークが印刷されている。

「学術書を専門に取り扱っている書店のものです。ミス・ハドソンにはあまり馴染みがないかもしれませんが、ワトソン氏は作家である以前に医者です。この店を利用したことがあったとしても不思議ではありません」
「なるほど……?でも、そのことと今夜ダラムに出発するってことはどう繋がるのかしら」
「私の二番目の兄はダラム大学で教鞭をとっています。ホームズさんから話を聞いていれば、ワトソン氏もご存知の事でしょう。したがって、この本は私のものではなく兄のものであると推測できます。
そして大学教授ともなれば書店にとっては上得意。本など頼めばいくらでも屋敷に配達してもらえるはずです。しかし私がわざわざ店に出向いて受け取ってきたということは、配達を待っていられなくなった……つまり、数日に渡って家を空ける用事ができたということです。ダラム大学の教授がロンドンを離れる理由としては、『ダラムに向かうから』と考えるのが最も自然でしょう。
そして『今夜』という部分については、あまり時間に余裕が無いという私の発言から推測なさった」

 最後に「違いますか?」と問いかけると、ワトソンはぽかんと口を開けて、素直に驚きを表現していた。
 彼の推理は大筋で当たりだ。
 今朝電報が届き、ウィリアムの仕事の都合で明日どうしても大学に顔を出さねばならなくなった。
 もとよりロンドンとダラムを往復する生活をしているので移動が早まっただけではあるが、今日はアルバートがMI6の任務でロンドンを離れている。ルイスは彼に電報を打つため郵便局へ向かい、ついでに街でいくつかの用事を済ませた。
 その帰り道、今日はウィリアムが購読している学術誌の発売日であることを思い出した。
 明日の昼には屋敷に配達してもらえる手筈になってはいたが、このままでは入れ違いになってしまいウィリアムの手に渡るのは来週になる。列車の中で読む物があった方が兄も喜ぶだろうと考え、書店に立ち寄ることにしたのだ。
 彼の推理に一点間違いを指摘するとすれば、実際に出発するのは今夜ではなく明日の早朝である。
 モランはアルバートの任務について行っているし、フレッドも仕事で明け方にならないと戻ってこられない。屋敷を一晩無人にするわけにもいかないので、ウィリアムとルイスはフレッドを待って明日の朝一番の列車でダラムに向かう予定である。
 ルイスが時間を気にしていたのは、早く屋敷に帰って前倒しで家事を片付けなければならないからだ。宵っ張りで朝に弱いウィリアムを早く寝かしつけるという使命もある。
 しかし万が一にもこの事がホームズの耳に入って駅で待ち伏せでもされてはたまらないので、あえて訂正はしてやらない。

「いやぁ、まいったなぁ。逆にこちらが驚かされてしまいました。お兄さん譲りの推理力ですね」
「ほんとうに。ジョンくんが考えた道筋をすぐに見抜いてしまうなんて……。頭のいい男の人って皆こうなのかしら?」
「いえ……推理と呼べるほどのものではありません」

 実際、ホームズのこの得意技は手品のようなものだ。
 一足飛びに結果だけを開示して、それがあたかも驚くべき神業か超能力であるかのように見せかけているにすぎない。
 タネを指摘して鼻を明かしてやったつもりであったが、彼らはホームズの同居人と大家であり、ルイスが敵視するホームズではない。
 二人があまりに素直に感心しているのでかえってきまりが悪かった。

「ところでルイスさん」
「……何でしょう」
「先ほどの口ぶりだと、私が医者であることをご存知のようでしたが……」

 ワトソンが黒く丸い瞳を輝かせながら、じっとこちらを見つめている。
 その勢いにルイスは内心たじろいだ。

「……もしかして、『緋色の研究』を読んでいただけたのでしょうか!?」
「え、えぇ……まぁ」

 一瞬背筋が冷えたが、彼自身が小説の中で書いていたことだ。彼の著書『緋色の研究』はもちろん目を通しているので、何もおかしいことはない。
 ルイスは頭を高速で回転させて、小説に書かれていたことと書かれていなかったこと――つまりルイスが知っていてもおかしくない情報と知り得ない情報を整理する。
 この二人であれば丸め込む自信はあったがホームズに漏れ伝わる可能性がある以上、下手なことを口走るわけにはいかなかった。
 著者の判断かホームズの指示か、あの小説に『犯罪相談役』は登場しない。あの事件は愛する者を殺されたジェファーソン・ホープの執念が仕掛けた犯罪であり、彼がシャーロックに例の取引を持ちかけることはない。
 仲間内では老婆に変装したフレッドのみがホープの協力者として登場していたが、彼に関しても詳しく言及されずに終わる。
 事件の真相を暴いたシャーロック・ホームズの活躍と、その裏に隠されたホープの悲しい過去が強調された構成である。

「読んでみて、いかがでしたか?」
「……えぇ、たいへん面白く拝読しました」

 とりあえず当たり障りのない回答をする。
 ウィリアムの影響もあって子供の頃から読書量は大人顔負けに多かったし、モリアーティ家に迎えられてからはその名に恥じぬだけの知識と教養を身につけた。しかしルイスは最近の大衆小説にはどうにも疎く、あの作品が面白いものなのかどうかいまいち判断がつかなかった。
 老婆に化けた謎の男が名探偵を出し抜いて指輪を取り戻す場面はなかなか痛快で面白いと感じたが、完全に身内の贔屓目である。あのくだりが気に入ったと言う一般読者はあまりいない気がする。

「すごいじゃない、ジョンくん! 伯爵家の方にまで読んでもらえるなんて」
「あの事件は話題になりましたので……」
「と言うことは、お兄さんも関心を持ってくれていたりしますか?」
「はい?」
「あの列車での事件を是非作品にしたいと思っているんです! 列車という特殊な閉鎖環境で起こった殺人、次の停車駅までに犯人を見つけなければならない時間的制約の中、容疑者として捕らえられたのはなんと名探偵の相棒。絶体絶命のシャーロック・ホームズの前に突如として現れたもう一人の探偵……! どうです、すごく面白くなりそうでしょう!?」
「はぁ……その、もう一人の探偵というのが」
「ウィリアムさんです! 彼に是非、僕の小説に登場していただきたいんです!」

 やはり来たか。
 ワトソンは『緋色の研究』以降もシャーロックが手掛けた事件を題材にした小説をいくつか発表している。
 彼自身にとっても印象深いであろう列車での殺人事件をいつかテーマに選ぶことは容易に想像できた。そうなれば必然的にシャーロックとともに事件に挑んだウィリアムが作品に登場する展開になることも。

「あの事件をウィリアムさん抜きに語ることはできません。かと言ってご本人にことわりを入れないわけにもいかないとも思ってまして、今日はほんとうに幸運でした。サイン本でも何でもご用意しますので、どうかルイスさんからお兄さんにお話をしていただけないでしょうか……?」

 別に貴方の小説のファンではない。
 喉元まで出かかった言葉をルイスは何とか押し込んだ。
 こういったとき、アルバートならば相手をうまく乗せて気持ちよく喋らせるだけ喋らせて、肝心の要求事項に関しては煙に巻いてしまうだろう。ウィリアムであれば悟られぬほどの巧妙さで会話の流れをコントロールして、そもそも不都合な話題を持ち出させない。
 あいにく彼らのような巧みな話術を持ち合わせていない自分は、きっちり切り返して処理するほかない。
 ルイスは腹を括って、困ったように苦笑してみせる。

「兄は目立つことを嫌いますし、あなたの作品に取り上げてほしいとはきっと思わないでしょう。それに、『上の兄』が何と言うか……」

 あえて語尾を濁すと、ワトソンの眉が分かりやすく下がった。
 『緋色の研究』において、『犯罪相談役』の存在の他にワトソンがあえて実際の事件から取り除いた要素がもうひとつある。被害者イーノック・J・ドレッバー氏が『伯爵』であったことだ。
 婚約者を奪われたことに対する復讐殺人という大筋は変わらないが、ドレッバー氏はアメリカ西部開拓団の権力者であることになっている。
 もちろん事件の真相は新聞で連日大々的に報じられていたので、彼が伯爵位を持つ貴族であった事はこのロンドンでは周知の事実だ。
 であれば、彼がこの改変を行った理由は関係者への配慮、そして貴族院からの圧力回避に他ならない。
 ワトソンがこの小説を執筆した動機はシャーロック・ホームズの活躍を世間に広めることだ、というのがウィリアムの見立てである。彼の創作活動の根底にあるものは歪んだ階級社会への怒りではない。
 そのため、彼は作品を出版に漕ぎ着けることを優先して事実に手を加えた。
 つまり、ウィリアムを小説に登場させないためには、同じように横槍が入る可能性をほのめかせてやればいい。

「ご存知の通り、長兄は貴族院議員を務めております。ドレッバー伯爵の一件で議会がいまだに混乱している中、家の者がワトソン先生の作品に登場するのは……申し上げにくいのですが、差し支える事が出てくるかと」
「そう……ですよね。貴族の中にはよく思わない方もきっと出てきますよね。モリアーティ家そのものにご迷惑がかかってしまうかもしれないわけだ」
「ご賢察、感謝します」

 予想通り、ワトソンがすっかり勢いを無くしてしまったので、ルイスは眼鏡の位置を正すふりをしながらちいさく笑った。
 権力を笠に着るようなやり方は少々不本意だが、ウィリアムの計画のためにも彼には引き続きシャーロック・ホームズの広告塔であってもらわねばならない。
 それに、『ジェームズ・モリアーティ』の役柄はとっくに決まっているのだ。

「兄は困っている方がいたから、知恵をお貸ししたまでです。それを世間に報じてほしいとは思わないでしょう」
「まぁ、『ノブレス・オブリージュ』ですね。ご立派だわ」
「うーん……であれば、ますますウィリアムさんには僕の小説に登場してほしかったなぁ。『弱き者に手を差し伸べる心優しき貴公子、その正体は名探偵の好敵手にして、若き天才数学者!』……なんて、どうでしょう」
「ちょっと、それじゃあきっとシャーロックより人気が出ちゃうわよ」

 主役の座を取って代わられるシャーロック・ホームズを想像して、ハドソンがころころと笑った。

「シャーロックは、世間では『貴族の悪行を暴くヒーロー』なんて言われていますが、貴族だって悪人ばかりというわけではないでしょう?ウィリアムさんに助けられて、ますますそう思いました」
「それはどうも」

 ルイスは控えめに礼を述べたが、口調とは裏腹に口角が上がるのを抑えられなかった。
 兄が褒められることは何よりも誇らしい。彼(正確には、彼とホームズ)が救った人間からの賛辞であるなら尚更だ。

「庶民と貴族、異なる立場にある二人の探偵が力を合わせて悪に立ち向かう……そんな物語を書くことができればと考えていたんです」
「……!」
「ウィリアムさんを連想させないようにもっと違ったキャラクターにしてみようかとも思ったんですが、どうもしっくりいかなくて。ライバル役としてシャーロックとのバランスを考えると、やっぱり……」
「はいはい。それ以上は帰ってからにして下さいね、コナン・ドイル先生」

 この男は今何と言った?
 彼が語ったアイデアは、誰より尊敬する兄の掲げたプランと一致する点がある。何と言うことはない小説の構想の話ではあるが、その事実はルイスに衝撃を与えた。
 人の良さだけが取り柄の凡庸な男だとばかり思っていたジョン・H・ワトソンが、途端に非凡な才を秘めた作家に見えてきた。

「ルイスさん?」
「え?あぁ、いえ。何でもありません」
 
 ハドソンが不思議そうにこちらを覗き込んでいて、ルイスは慌てて居住まいを正した。

「……兄に関する部分は省いて、いつもの通りホームズさんの活躍を描かれては如何でしょうか。その方が、彼も喜ばれるのでは?」
「どうでしょう。彼は僕の小説にはあまり興味がないみたいで」
「あら!そんなことないわよ、ジョンくん」

 ウィリアムから話が逸れるようそれとなく水を向けると、ハドソンから援護射撃が入った。

「興味なさそうなのはフリよ、フリ!あの男ったら、ジョンくんがいない間に共同リビングに置いてある本をこっそり読んでるんだから」
「そうなんですか?あいつにも世間の評判を気にするようなところがあったんだな……」
「『世間の評判』じゃなくて、『ジョンくんにどう思われてるか』じゃないかしら」

 そこからは二人の他愛のない話に相槌を打つばかりだった。シャーロック・ホームズについて役立てられそうな情報を得る間もなく、馬車は221Bにたどり着いた。
「次は是非寄っていってくださいね」と笑顔を見せるワトソンに、ルイスは曖昧に頷いた。
 嵐、というほどではないが彼らはまさに通り雨のように去っていった。

 ワトソンらがいなくなった車内は、雨音に包まれて妙に静かだ。馬車に揺られながら、ルイスは目を閉じた。
 あの列車を降りながら、「彼ら、けっこういいコンビだと思うよ」とウィリアムは言った。
 あの時は兄の言葉の意味を測りかねたが、今なら何となくルイスにも理解できる気がした。
 彼がホームズと共に挑んだ事件を、彼の目と感性を通して物語にし、民衆がそれを追体験する。人々を理想の世界へ導くにしては気が遠くなるほど緩やかな方法だが、それにより目を開く人間もきっと少なくないだろう。
 ホームズのことは相変わらず受け入れ難いが、ああいう男がホームズのそばについているのは面白いことだとも思った。同時に、「面白い」などという不確かな感覚で判断を下そうとしている自分に苦笑した。

 屋敷の前で馬車を降りると、2階の窓辺に兄がいた。
 弟が雨に降られていることを心配してくれていたのだろう。ルイスの姿を見つけてちいさく手を振ると、そのまま部屋の奥へと消えていった。
 彼が民衆の希望を背負って悪に立ち向かう、そんな物語があったかもしれないのだろうか。掲げた理想を絵空事で終わらせるつもりはないけれど、そんな物語を読んでみたいとも思った。
 門をくぐってから玄関で兄に出迎えられるまでの短い間、永遠に世に出ることのないコナン・ドイルの新作について、ルイスは夢想した。


初出:Pixiv 2021.06.19

秋の庭にて
 ダラムに越してきたばかりの頃のフレッドとルイスの話。


 朝の水やりを終えて、フレッドは一息ついた。
 ダラムにあるウィリアムの屋敷にモランとフレッドが呼び寄せられてしばらく経つ。
 表向きの仕事として庭の管理を任されたときはどうなることかと不安に思ったが、自分には案外こうした仕事も向いているらしい。あの方はきっとフレッド自身気付いていなかった適性をも見抜いていたのだろうと思うと感心を通り越して畏怖さえ覚えた。
 ズボンについた土を払いながら立ち上がり、庭を見渡す。
 季節が秋に差しかかったため彩りこそ少ないが、ちらほらと咲いたつるバラは春よりも色に深みがある。以前住んでいた貴族が立ち退いてからは長らく放置されていたものの、今はフレッドの奮闘により程良く整えられ田舎らしいコテージガーデンといった趣だ。
 これからさらに手を入れていくとしても、人工的に整然と整えるよりは今ある野趣を残したほうがこの田舎町の空気に馴染むだろう。春に向けて球根の植え付けに取り掛からねばならないし、そうなると品種の選定も必要だ。
 今度ウィリアムに相談してみよう、とフレッドはほんの少し浮き立った気持ちで考えた。
 空いているテラコッタ鉢はどのくらいあっただろうかとふと気になって、倉庫に向かうことにした。庭の管理を一任されるにあたって、「中のものは好きに使って構わない」とウィリアムから言い渡されている。
 屋敷の裏手に回ると、井戸のそばの洗い場にルイスがいた。
 普段きっちりと着込んだジャケットを脱いで、腕まくりさえしている。彼が桶をひっくり返すと、濁った水がざぶんと音を立てて排水口に消えていった。
 フレッドは慌てて駆け寄った。

「手伝います」
「フレッドさん……? じゃあ、皮を剥いてくださいますか」

 かごの中にはフレッドの拳よりも大きいじゃがいもが山と盛られている。
 食事の支度をしていたらしい。
 ルイスさん、じゃがいも似合わないな……と思いながら、手渡されたナイフを受け取った。ルイスは手を拭きながら勝手口から台所へ引っ込むと、すぐにもうひとつナイフを手に戻ってくる。

「あの、僕がやっておきますのでルイスさんは」
「二人でやったほうが早いですよ」

 気を遣ったつもりだったが素っ気無く返され、フレッドは僅かに気圧される。
 普段はたとえモランのような厳つい大男に凄まれても動じないフレッドも、ルイスの冷然とした態度は少し苦手だった。

「庭の仕事はもういいのですか?」
「あっ……はい、ちょうど一段落したところです」
「それなら良かった」
「……これ、全部食べるのですか?」

 フレッドは恐る恐る尋ねた。
 夕食の仕込みも兼ねているとしても、この屋敷の住人は4人しかいないのだ。

「街の方にたくさん頂いたので、サラダとシェパードパイにでもしようかと……そんなに多かったでしょうか。フレッドさんとモランさんがいれば大丈夫でしょう?」
「でも……」
「誰かに比べてあなたはよく働いてくれていますし……兄さんの召し上がる量に合わせていたら体がもちませんよ」

 フレッドは頬に僅かに血が昇るのを感じた。
 モリアーティ家では使用人だろうと関係なく、全員が同じテーブルで食事をとる。
 モランなどは気兼ねなくその体格に見合った量を要求していたが、フレッドには主人よりも多く食べるわけにはいかないという妙な遠慮があった。
 常に細やかな気配りを欠かさないルイスにはとっくに見抜かれていたらしい。

「兄さんは『適度な空腹状態のほうが集中力を維持できるから』と言って一度の食事であまり多く召し上がらないんですよ。家にいらっしゃる間はお茶の時間にお菓子をお出ししますが、大学ではちゃんと昼食をとられているのかどうか。食堂の料理がお口に合わないのならお弁当を用意しようかとも思ったのですが、モランさんに『過保護すぎる』と笑われてしまって……」

 照れてうつむくフレッドを気にせず、ルイスはぶつぶつと呟いている。
 どうやらこの人は兄弟の事となるといくらか饒舌になるらしい。嬉しくなって、フレッドは自分から話を振ってみた。

「お弁当、きっと喜ばれると思います。ウィリアムさんは何でも美味しそうに召し上がりますよね」
「そうですね……。そういえば兄さんの嫌いな食べ物は僕も知りません」
「貴族の方は野菜をあまり食べないと聞いていました」

 野菜、特に安く手に入って腹を満たしやすいじゃがいもは庶民の食べ物というイメージが強かった。貴族の中には土に塗れたものを食べるなんて穢らわしいと考える者さえいると聞く。

「それこそ兄さんにも僕にも理解できない感覚ですね。食べ物にまで位をつけたがるなんて、馬鹿馬鹿しい話です」

 せっかく農家の方が丹精込めて育ててくれたのに、とルイスはじゃがいもに刃を滑らせながら呟いた。その動作は淀みなく、するすると無駄なく皮が削ぎ落とされていく。フレッドも刃物の扱いに慣れてはいたが、皮剥きとなるとルイスの手際の良さには及ばなかった。
 また一つ、つるんと剝かれたじゃがいもがかごに落とされる。

「アルバート兄様だって、ウィリアム兄さんに比べれば味にうるさい方ですが、妙なえり好みはなさいませんよ」
「アルバート様も、じゃがいもを召し上がりますか?」
「もちろん。学生の頃に屋台でフィッシュ・アンド・チップスを召し上がった事もあります」
「えぇ……っ」
「領地の視察に地方を訪れたとき、兄様が『あれが食べてみたい』と言い出して……。ロンドンを離れて知らない街を歩くのは初めてだったので、きっと兄様もどこか浮かれていたのでしょうね」
「歩きながら手掴みでものを食べるアルバート様なんて、ちっとも想像できません」
「ふふ、さすがに近くのベンチに座りましたよ。でも兄様に屋台で買い物をさせるわけにもいかなくて、僕が代わりに買ってきました。そうしたら兄さんが……」

 当時の事が懐かしく思い出されたのか、眼鏡の奥でルイスの紅い瞳が弧を描いた。
 あ、と思った。
 思いがけない表情に吸い寄せられるようにフレッドが顔を上げると、ぱちりと視線が合う。ルイスはきまり悪そうに顔をしかめた。

「……喋りすぎましたね。兄さんたちには……いえ、フレッドさんなら口止めをする必要もありませんか」

 ルイスがパチンとナイフを畳む。
 いつの間にか二人の間にあったかごは空になっていた。剥き終わったいもをルイスがひとつのかごにまとめ、フレッドが散らばった皮をかき集める。

「助かりました、フレッドさん」
「あ、ルイスさん」

 かごを抱えて台所に戻ろうとするルイスを思わず呼び止めていた。

「あの……フレッド、と呼んでください」

 言ってしまうと、何故だか途端に照れ臭い気持ちがこみ上げてきた。「さん」はつけなくて構いません、と続けたつもりだったが、口の中でもごもごと呟くだけになってしまった。
 不審に思われなかっただろうかとルイスの様子を覗うと、彼は驚いたように一瞬動きを止めて、それからふわりと目を細めた。

「わかりました。ありがとう、フレッド」

 ルイスがそう言い残して勝手口へ消えていったあとも、フレッドはしばらくその場に立ち尽くしていた。彼とこんなに長く話したのはおそらく出会って以来初めてで、不思議な達成感があった。
 見た目ほど冷たい人ではないと、わかった。

 今度、彼の好きな花も聞いておかなければ。
 それとも、実用性のあるハーブの方が彼の好みに合うだろうか。
 弾む気持ちを抑えながら、フレッドはテラコッタ鉢を数えに倉庫へと向かった。


初出:Pixiv 2021.06.05

内緒話をする子どもたち
 三兄弟の幼少時代の話。


 屋敷の火事から3ヶ月が経った。
 どんよりとした曇り空の多いロンドンの街も、日中は蒸し暑い日が増えてきた。焼け出された三兄弟が身を寄せたロックウェル伯爵家の応接室も、今は窓が開け放たれている。
 往診にやってきた医者の手で頬からガーゼが丁寧に剥がされたとき、真新しい皮膚に外気がひやりと感じられた。
 年老いた医者は眼鏡と皺の奥に隠されたちいさな目を細めながら「ふむ」とつぶやく。

「だいぶ良くなりました。よく我慢しましたね。もうガーゼはいらないでしょう」

 その言葉に、ルイスはほっと息を吐いた。
 傷口を保護するためとはいえ四六時中ガーゼを顔に貼り付けておくのはやはり不快感があり、本格的に夏に入る前に医者のお墨付きをもらえたことが、内心嬉しかったのだ。

「先生、やはり痕が残りますか?」

 診察を見守っていたアルバートが気遣わしげに尋ねた。その目線は弟の頬に注がれている。
 痛々しい火傷はあの日から徐々に回復を見せ、今はみずみずしいピンク色の皮膚になっていたが、ひきつれた様な歪な質感を残したままだ。

「えぇ。時間が経てば肌の色も多少は馴染みましょうが、痕が消えはしないでしょう」
「そうですか……」
「皮膚を移植するという手もありますが」
「いいえ、必要ありません」

 内気な彼にしては珍しく、ルイスがきっぱりとした口調で言い切った。

「こんなに丁寧に診察していただけて、先生にもロックウェル伯爵にも心から感謝しています。僕なんかの為にこれ以上をのことをしていただく訳にはいきません」
「ルイス……」
「痕が残っても僕は気にしません、アルバート兄様」

 あの夜、ルイスは自らの手で焼けた木片を頬に押し付けた。この火傷は兄たちへの報酬であり、ルイスにとっての勲章だ。
 さすがに部外者のいる前でそう口に出すことは出来なかったが、共犯者たる兄には伝わったらしい。アルバートは眉を下げながら微笑んでみせた。もちろん、内心ではこの可愛らしくまろい頬に痛々しい傷痕が残ることに胸が痛む。
 しかし、年端も行かぬ弟が見せた覚悟の証を無かったことにする訳にはいかなかった。

「あぁ、ルイス様は……。とても仲がよろしいのですね」

 医者はそのやり取りを聞いて、ルイスが伯爵家に拾われた孤児であったことを思い出したらしい。しかしそこに彼の出自を蔑む気配はなく、ただ義兄弟の仲睦まじい様を微笑ましく感じているようだった。
 ルイスはアルバートの顔を見上げ、はにかんだように頬を緩めた。

 それから医者は、剥がしたガーゼの処分を看護婦に任せながら、いくつかの注意事項を述べた。
 もうしばらくは日に一度、軟膏を塗るのを続けること。これから汗ばむ季節になるが、傷口は清潔に保つこと。寝ている間にうっかり引っかいたりしてしまわないよう気を付けること。
 椅子にちょんと腰掛けたルイスは、その言葉のひとつひとつに神妙に頷いていた。
 と、そこにノックの音が響いた。

「ルイス、終わったかい?」
「ウィリアム兄さん」

 扉の向こうから、ひょこりともう一人の兄─ウィリアムが顔を覗かせた。
 イートン校への入学に向けて、最近は家庭教師による集中講義が課せられている。といっても、彼の頭脳にかかれば何の心配もいらないことは現役生にして首席のアルバートも認めるところだ。おそらくはルイスの診察に立ち会うため、家庭教師を言いくるめて無理やり時間を繰り上げたのだろう。
 入室の許可を出す前にドアを開けてしまうウィリアムにアルバートは苦笑したが、多少の不作法には目をつぶることにした。

「もうガーゼをつけなくてもいいそうです」
「そう、よかったね」

 ウィリアムは心から嬉しそうに破顔して、弟のおそろいの金髪にキスを落とした。
 その愛らしい仕草に、年配の看護婦は「まぁ」と顔を綻ばせる。

「よく似たお兄さんね」

 そう呟いた看護婦は、しかしすぐさま少しだけ眉をしかめる。自分の言葉に違和感を覚えているようだった。ルイスは心臓の底がひやりと冷えるのを感じた。
 実の兄弟なのだから、自分たちの容姿が似通っていることに何ら不思議はない。しかし先の火事以降、ルイスの兄はそれまでの人生と名前を捨てて伯爵家次男の『ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ』に成り代わった。表向きには血の繋がらぬ元孤児のルイスが、ウィリアムと似ていることなどありえない。
 けれど今目の前にいる医者と看護婦は、ウィリアムとルイスの顔立ちからはっきりと血の繋がりを感じてしまっているようだ。
 ロックウェル家での生活もようやく落ち着いてきたというのに、ここまできて事実を露見させるわけにはいかない。
 どう出るべきか、緊張で冷え切った手のひらを握りしめた。兄の計画をより完璧にするために、周囲の人間に疑問を抱かせないために、ルイスは顔まで焼いたのだから。
 数瞬の静寂の後、真っ先に動いたのはウィリアムだった。

「そんなに似ていますか?」

 彼はソファに腰掛けたルイスの背後に回り込み、少し屈んでそのよく似た相貌を並べてみせた。
 ルイスの髪が、ウィリアムの頬に触れるほどの距離。凍りついた表情のルイスとは対照的に、ウィリアムは完璧に計算された柔らかな笑みを浮かべている。彼は弟の動揺に気付かないふりをして続けた。

「確かに、赤の他人にしては僕とルイスは似ていますよね。……もしかすると、赤の他人ではないのかもしれません」

 ルイスは声を上げそうになるのをすんでのところで堪えた。ウィリアムはルイスの肩に手を置くと、ふと表情を陰らせ、声のトーンを落とす。

「父はこの子を「慈善活動の一環だ」と言って我が家に連れてきました。でも、もしかすると」
「よさないか、ウィリアム」

 アルバートが硬い声で遮った。
 その表情はつい先刻まで末の弟を見守っていたときとは別人のように険しい。ウィリアムは「ごめんなさい、兄さん」と小さく謝罪するとばつが悪そうに顔を伏せた。
 そこでようやく、ルイスはウィリアムの発言の意図に気付いた。
 ウィリアムは『疑惑』に『より真実らしい別の疑惑』を被せることで、彼らの疑いの目を逸らそうとしているのだ。
 『長男であるアルバートさえも結託した上で、火事の騒ぎに乗じてモリアーティ家の次男と養子の三男がすり替わった』という荒唐無稽な真実より、『先代伯爵が下層階級の女に産ませた子供を、慈善活動の名目で引き取った』というありえそうな筋書きを人は信じるだろう。事実、医者と看護婦は驚いたようにウィリアムとルイスの顔を見比べている。
 そしてアルバートはその意図を素早く汲んで、『弟の軽率な発言を咎める兄』として芝居をうってみせた。彼が硬い表情のままに視線をやると、看護婦はそそくさと診察道具の片付けに取りかかり、年老いた医者は心得ましたと言わんばかりに瞑目した。
 まだ幼さが残る年齢とはいえ、ゆくゆくは伯爵位を継ぐ人間だ。彼の翡翠色の双眸にはどこか少年らしからぬ、人を従わせる凄みのようなものがあった。

「とにかく、どんな事情があれ、ルイスはルイスです。僕とアルバート兄さんの弟ですよ」

 ウィリアムはぼすん、と弾みをつけてルイスの隣に座った。普段の彼をよく知る兄弟たちにとってはわざとらしく感じられてしまうほど子供っぽい振る舞いだったが、たまに顔を合わせる程度の医者と看護婦にはそうは感じられなかったらしい。
 アルバートが呆れたように苦笑しながら肩を竦めると、室内に漂っていた緊張感が幾分か和らいだようだった。
 しかしルイスは、ウィリアムの無邪気な笑みの奥にどこか苦い感情があるのを見逃さなかった。二人の兄ほど他人の機微を読み取ることが得意ではなかったが、生まれた時から常にウィリアムの側にいたルイスにはわかった。

(ほんとうの弟じゃないなんて言って、ごめんね)

 兄の緋色の瞳は、確かにそうルイスに語りかけていた。
 血の繋がらぬ他人として振る舞わねばならないことは、ルイスとて承知していることだというのに。自分はほんとうの名前すら捨ててしまったというのに。
 湧き上がるこの感情が伝わるように、ルイスは精一杯の愛しさを込めて、ウィリアムに微笑み返した。


 *


「うまくかわしたね、ウィル」

 部屋に戻って3人だけになった途端、堪えきれなくなったアルバートは、いたずらに成功した子供のようにくすくすと笑った。ウィリアムも兄につられて照れくさそうに頭を傾けた。

「話を合わせてくれてありがとうございました、アルバート兄さん」
「僕は何も言っていないよ。彼らが勝手に解釈しただけだ」
「語られなかった空白にこそ、人は複雑な背景を想像してしまうものです。あれくらいがちょうどいいですよ。もっとも、僕自身が『お父様』に似ている訳ではないので深く突っ込まれるとボロが出てしまいますが……」
「問題ないさ」

 アルバートは窓の側に歩み寄り、庭を見下ろす。ちょうど診察カバンを提げた医者と看護婦が、執事長に見送られながら門を出て行くところだった。

「彼らは父と面識が無いし、写真も肖像画も屋敷と一緒に焼いてしまった。それに何より、彼らだって貴族相手に仕事をしている人間だ。こちら側の事情に首を突っ込むような馬鹿な真似はしないよ」

 弟たちの方を振り返って、アルバートは部屋に入ってからルイスが黙り込んだままであったことに気付いた。
 先ほどの芝居でとっさに兄二人に合わせられなかったことを気にしているのかもしれないと考えたが、どうやらそうではないらしい。遠くを見つめるような、考え込むような顔をしていた。

「ルイス、どうかしたのかい?」
「いえ……ほんとうに誰も気づかないものなのだな、と思いまして。ウィリアム様……死んだあの方もそうでした。お友達をたくさん呼んでお誕生日のお祝いをされると聞いていましたが、火事の後『ウィリアム様』に直接お見舞いに来られたら方は一人もいません。手紙の一通も届きませんでした。僕たちにとってはその方が都合が良かったのですが……」

 二人の兄の視線に気付いて、ルイスはぱっと頬を赤らめ「ごめんなさい」と早口に言った。

「同情しているわけではありません。あの人は罰されるべき人間でした。……それでも、少しだけ、哀れだなと思ったんです。死んでも、誰にも気付いてもらえないなんて……」

 ルイスは服の上から左胸を抑えた。病が癒えてもなお、心臓を庇うようなこの仕草はルイスの癖だった。
 ウィリアムが優しくその手を握った。

「ルイスは優しいね」
「優しい、わけではありません」

 俯くルイスに、ウィリアムは「そんなことないよ、ルイスは世界いち優しいいい子だ」となお言い募った。
 美しい金髪を持つ彼らが額を寄せて囁きあう様を、天使のようだとアルバートは思った。情け深く純真な心を持つ弟と、そんな弟を守りたいと願う兄。
 美しい兄弟の姿に心が満たされると同時に、ひどくざわめいた。おそらくは、かつての『ウィリアム』との関係を思い出して。

「誰も『ウィリアム』の誕生日を祝いたくてパーティの招待を受けたわけじゃなかった……それだけだよ」

 気付けば、吐き捨てるようにそう言っていた。
 誰のことも省みなかったかわりに、誰からも、実の兄であるアルバートにさえも省みられなかった弟。
 遺体は『養子の三男』のものとして処理されたため、父母とは離され、今は共同墓地の片隅に一人ぼっちで葬られている。なるほど、確かに「哀れ」としか言いようがないだろう。この歪んだ世界に生まれ落ちさえしなければ、自分たちも互いを慈しみあえる兄弟になることができたのだろうか。
 実弟への情などとうの昔に消え失せたと思っていたアルバートだったが、ルイスに感化されたのか、そう自問せずにはいられなかった。

「アルバート兄様のお誕生日はいつなのですか?」

 もの思いに沈むアルバートにどう声を掛けるべきかウィリアムが逡巡していると、先にルイスが無邪気に尋ねた。

「え?」
「あっ……ごめんなさい、その、お祝いをしたいな、と思ったので……。大した贈り物は用意できないのですが……」

 アルバートが目を瞬かせていると、「あぁ、そうか」とウィリアムが手を叩いた。

「去年のアルバート兄さんの誕生日は、ちょうどルイスが手術で入院していた時期だったね」
「えっ、そうだったのですか? 兄さんは兄様のお祝いをされたのですか?」
「まさか。邪魔だから一日部屋から出るなと言われていたよ。夜に兄さんがこっそり余ったケーキを持ってきてくださったけど……病院には持ち込めなかったから黙ってたんだ。ごめんね」
「け、ケーキが食べたかったわけではありません!」
「ふふ、わかってるよ。今年は三人でお祝いしようね」
「はい!」

 声を弾ませながら誕生日パーティの相談をする彼らの姿は、ごくありふれた兄弟のそれだった。 ウィリアムは静かに微笑みながら、ルイスは期待に満ちた表情を浮べながらアルバートを振り返る。
 二人の顔を見た途端、アルバートは何故だか目の奥がツキンと痛んだ。あの日、孤児院の礼拝堂で理想の世界を語る彼を見たときに湧き上がった鮮烈な感動とはまた異なる、あたたかい歓喜だった。

「ありがとう。誕生日がこんなに楽しみなのは生まれて初めてだよ」

 理想の世界ともうひとつ、自分が何を欲していたのか、アルバートは知った。


初出:Pixiv 2021.05.05

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