フレッドと犬
ダラムのモリ家にいぬが迷い込む話。
心地よい秋晴れの日だった。
ロンドンでは常に頭上に垂れ込めていた鈍色の雲はどこかに消え、ダラムの街には透き通った青空がどこまでも広がっていた。 言いつけられた玄関の掃除を終えたフレッドは、バケツを片手に提げたまま庭へ出た。天気の良いうちに、庭園の手入れもしておきたかったからだ。アーチにからんだつるバラが特に見頃で、今朝なんかは朝食の最中に窓の外に目をやったウィリアムが「絵みたいな景色だね」と褒めてくれたものだから、フレッドは内心で鼻が高かった。
この景観を少しでも長く維持するべく、葉に虫がついていないか、枯れかけた枝がないかチェックするつもりだった。
が、フレッドは庭園の入口でぴたりと足を止める。
つるバラのアーチの下に、見慣れないものが落ちている。最初は、こんもりとしたタオルケットか丸めた毛布の塊かと思った。だがフレッドが近づくと、それはのそりと動いて身を起こした。
「…………!」
声をあげる程ではなかったものの、フレッドは驚いて言葉を失った。
アーチの下にいたのは、大きな犬だった。
白くてふさふさとした毛に全身を覆われていて、湿った鼻をひくひくさせながら、フレッドの姿を見つけるとぱたぱたと尾を振りはじめた。
しばしの間、フレッドと犬はお互いの出方をうかがった。
犬は三角座りをしたフレッドと同じくらいの大きさの大型犬だ。地面についた前足はどっしりと大きく、重量はあちらの方が上かもしれない。
飛びかかってこられたらひとたまりもなさそうだけれど、ひとまず敵意は無さそうだ。はっはっと犬特有の荒い息を吐いている口元は、どこか笑っているようにさえ見える。
緊張を解きつつ、けれどこんなに大きな犬が一体どこから入り込んだのか疑問だった。野良犬には見えないから、近所の飼い犬が迷い込んだのだろうか。
ともかく距離を取ろうとフレッドは一歩後ずさった。
すると、犬が一歩近づく。一歩下がると、一歩近づく。カニ歩きをしてみても同じだった。何か遊びが始まったとでも思っているのか、フレッドが動くたび犬もそれに合わせてついてくる。
この闖入者から目を離さないよう注意しつつ、フレッドは慎重な動作で庭を移動した。走ったりすれば興奮して追いかけてくるかもしれないから、あくまで慎重に。
大きな窓から居間を覗き込んだが、そこにモランの姿はない。この時間なら、てっきりソファでごろ寝していると思ったのに。
「…………」
フレッドはちらりと後ろを振り返った。
どこかへ行ってくれないかと期待してみたが、犬は変わらずそこにいた。呑気に舌を出したまま、フレッドの方を見上げている。目が合うと愛想よく尻尾を振った。
仕方なく、フレッドは犬を連れて屋敷の裏手に回り込んだ。
勝手口のドアをノックすると、すぐにルイスが顔を出した。この時間帯は、彼はたいてい夕食の支度のためにキッチンにいる。
「どうかしまし……」
ルイスの語尾が不自然に途切れる。フレッドの背後にいる犬の姿に気づいたようだった。
「……うちでは飼えませんよ」
「い、いえ。あの、拾ってきたわけではなくて……庭に入り込んでいたんです」
フレッドは慌てて説明した。
料理中に動物には近づきたくないようで、ルイスの視線は冷ややかだ。ドアもいつでも閉められるよう、半分だけ開いたままである。
「門の隙間を通り抜けられる体格ではないですね。垣根に壊れたところでもあったんでしょうか。……ちょっと待っていてください」
口の中で呟いて、ルイスはドアを閉めてしまった。
犬が残念そうにくぅ、と鼻を鳴らした。そういえばこの犬が鳴くところはまだ見ていなかった。やはり野良犬ではなく、ある程度躾けられた飼い犬らしい。
犬とともに取り残されて、フレッドは気まずい思いで待っていた。屋敷の中を歩く靴音と話し声がドア越しに聞こえる。
やがて、モランが顔を出した。
「おお、本当に犬だ」
どこか嬉しそうに声を上げた彼は、躊躇いなく犬に近づくと首周りをわしゃわしゃと撫でた。構ってもらえて、犬も嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振る。
「ちょっと、モランさん。噛まれたら大変ですよ」
「大丈夫だろ、大人しいぞ。それに……ほら」
犬の首の周りの毛をかき分けると、その下から革製の首輪が覗いていた。
「飼い犬ですか」
「だな。名前が刻印してあるような上等な首輪ではなさそうだが……」
「そう遠くから来たわけではありませんよね。フレッド、この子の家を探して、連れて行ってあげてください」
「えっ」
フレッドは思わず声を上げた。
「……僕がですか?」
「モランさんはこれから垣根の修理をしますので」
「勝手に決めんなよ……ったく」
モランはぶつぶつ言いながらも立ち上がった。
侵入してきたのが犬だからよかったものの、このまま壊れた垣根を放置していたら良からぬ考えを抱いた人間が入りこまないとも限らないからだろう。掃除には不満たらたらなのに、こういう時は素早い。
モランが動き出したのを見届けて、ルイスはさっさとキッチンに戻ってしまった。
フレッドは背後の犬を気にしつつ、慌ててモランを追う。
「垣根、僕が直そうか?」
「あ? お前は犬を帰してくるんだろ?」
「だから、僕が垣根直すから……」
「……? なんだ、お前、犬は嫌いか?」
「別に……そういうわけじゃないけど」
「じゃあそっち頼むわ。町の連中のことなら、お前の方がよく知ってるだろ」
「…………」
モランは片手を上げながら、道具を取りに物置の方へ向かっていった。犬は相変わらず、舌を垂らしたぼんやり顔でフレッドを見上げていた。
*
屋敷を出て、フレッドは街へ向かう道をとぼとぼと歩いていた。
犬はつかず離れずの距離でフレッドの後をついてくる。黒い瞳に一心に見つめられると、どうにも落ち着かなかった。
「……お前、どこから来たの?」
話しかけてみても、犬は答えない。
フレッドは手に持っていた新聞紙の包みを開けた。出発する前にルイスが持たせてくれたもので、夕食の支度に使ったチキンの残りだ。
ほとんどは骨だが、ところどころ肉や筋が残っている。もし犬が言うことを聞かなくなったら、これをやってなだめろということだ。
「これあげるから、お前のうちまで案内してよ」
そう呟きながら、フレッドは犬の鼻先に骨を差し出した。
いつからモリアーティ家の庭にいたか分からないが、近所をさまよい歩いていたならお腹が空いているだろう。
しかし犬は、鼻をひくひくさせて骨のにおいを嗅ぐなり、ぷいと顔を背けてしまった。
「……食べないの?」
回り込んでもう一度突きつけてみても、犬は逃げるように顔を背けた。どう見ても、食べるのを拒否している。
人見知りの強い動物は、信頼する飼い主以外の人間からの餌は口にしないと聞く。だが、見ず知らずのフレッドに警戒心なくついてきたこの犬がそうだとは到底思えなかった。
不可解な態度に首を傾げていると、背後から歓声が上がった。
「わー! おっきいワンちゃん!」
振り返ると、幼い少年がぱたぱたと駆けてきた。
後ろにはバスケットを提げた母親らしき女性の姿も見えるから、二人で買い物に出ていた帰りだろう。
「可愛い! 撫でていい?」
「こら、止めなさい!」
犬に向かって手を伸ばそうとする少年を母親が慌てて引き止めた。
大きな犬に危険を感じているのかと思ったが、彼女はフレッドに向かって深々とお辞儀をした。
「大変失礼いたしました。モリアーティ様の犬に……」
「あ……いえ。違うんです」
どうやら彼女は、フレッドがモリアーティ家の使用人であることを知っているらしい。フレッドは手短に、この犬を連れて歩いている経緯を説明した。
「まぁ。モリアーティ様のお庭に入り込んでいたんですか」
「はい。だからおうちまで送り届けようと思いまして……飼い主さんをご存じないですか?」
「いえ。申し訳ありませんが……」
「僕知ってるよ!」
横で犬を撫でていた少年が声を上げた。
「本当? どこの家の子かな?」
「市場にいるのを何度か見たよ。日曜の朝に」
「あ。言われてみれば、こんなふうに大きな犬を連れて歩いている人を見たような……」
「どんな人でした?」
「ええと、すみません。そこまでは……」
「おじさんだったよ」
犬のふさふさの背中を撫でながら、少年が答えた。
市場で見かけたおじさん。ロンドンに比べれば小さな町とはいえ、それだけの特徴をもとにこの犬の飼い主を絞り込むのは困難だろう。
「すみません。お役に立たず……」
「とんでもないです。市場のあたりを探してみますね。ありがとうございました」
フレッドがその場を辞そうとしたとき、少年がふと立ち上がって道端に生えた木に駆け寄った。
まだ若いブルーベリーの木で、少年の手が届く高さにもいくつか実をつけている。彼は実のいくつかをもぎ取って口に放り込んだ。
「お前も食べる?」
犬は、鼻先に突き出された小さな木の実をふんふんと嗅いだ。
その様子を横で見ていたフレッドは、犬はそんなものを食べないだろうと考えていた。しかし予想に反して、犬は舌でぺろりと木の実をすくい取った。さらには「もっとほしい」と言いたげに少年の反対側の手に向かって鼻をひくつかせている。
「もうないってばぁ!」
大きな舌で手のひらをべろりと舐められて、少年が甲高い笑い声をあげた。
*
親子と別れて、フレッドと犬は市場を目指して歩いた。通りがかる人たちがちらちらとこちらを気にするが、誰も声をかけてはこない。この犬のことを知っているというよりは、大きな犬を連れて歩くフレッドのことを珍しがっているようだった。
犬も犬で、周囲の人や建物には頓着せず、フレッドの後をのしのしとついてくる。
このまま飼い主が見つからなくて、ずっと僕の後をついてきたらどうしよう。
次第にそんな不安に襲われた。
犬が嫌いなわけでも、怖いわけでもない。だが、自分を慕って一心に後を追ってくる存在というのは、フレッドをどこか居心地悪い気分にさせた。
まだ子供だった頃、フレッドは子犬を拾ったことがある。貧民街の片隅で心細げに鼻を鳴らしているのを不憫に思って、持っていたパンを半分やったのだ。
子犬はまだ短い尻尾をちぎれんばかりの勢いで振って、以来、フレッドの後をとてとてと拙い歩き方でついてくるようになった。
初めは嬉しかった。親もなくひとりぼっちなのはフレッドも同じだったから、兄弟ができた気分だった。
けれど、嬉しい気持ちは次第に不安に取って代わった。その頃のフレッドは物乞いをしたり残飯を漁ることで辛うじて食いつないでいた孤児だった。数日まともな食事にありつけないことは当たり前にあって、ちょっとした怪我や病気で簡単に命を落としかねない状況にあった。
それなのに、子犬はこんなフレッドを無邪気に慕って追いかけてくる。パンのひと欠片すら手に入れられない日でも、文句も言わずに寄り添ってくれた。
このまま一緒にいたのでは、この子を飢え死にさせてしまうかもしれない。
そんな不安を抑えきれなくなったフレッドは、ある夜、そっと寝床を抜け出した。無防備にお腹を出して眠っている子犬を置いて逃げた。その時は、他にどうしようもなかった。
もしフレッドの身体が動かなくなったとしても、あの子犬はきっとフレッドのそばを離れようとしないだろう。薄汚れた浮浪児の死体のそばで不安げにうろうろしている子犬の姿を想像すると、叫びだしたくなるほど恐ろしかった。あの子が自分よりもマシな人間に拾ってもらうか、野良犬仲間に見つけてもらうことを祈るしかなかった。
「フレッド?」
不意に名前を呼ばれて、フレッドは我に返った。
いつの間にか市場の手前まで差し掛かっていて、道の向こうからウィリアムが歩いてくる。シルクハットにステッキ。大学の帰りなのだろう。
フレッドは慌てて後ろを振り返った。白い大きな犬は相変わらずそこにいて、フレッドと目が合うとまた尻尾を振る。その姿にほっと息をついた。
「どうしたの、その子? 大きいね」
「その、屋敷の庭に入り込んでいて。飼い犬みたいだから、飼い主を探しているんです」
ウィリアムは「そうなんだ」と頷きながら屈み込んで、犬の顎の下をくすぐった。
「そのお肉はあげないの?」
「えっ……ああ、この子、食べないんです。ルイスさんがせっかくくれたのに」
ウィリアムはフレッドが手に持っている包みの中身を見抜いているようだった。改めて包みを開いてチキンを差し出してみても、犬はぷいと顔を背ける。
「変わった子ですよね。ブルーベリーは食べたのに」
「ブルーベリー?」
フレッドは、道中で出会った親子のことを話した。
「だから、市場のあたりを回ってみるつもりです。ウィリアムさんは先にお帰りください」
「うーん……。フレッド」
「はい」
「この子がどこの子か、分かったかもしれない。僕に任せてもらえないかな?」
「えっ……本当ですか?」
「飼い主の名前までは分からないけど、あの家かな、という見当はついたよ。答え合わせがしたいから、付き合ってもらえるかな?」
他でもないウィリアムにそう言われて、断れるはずもなかった。
*
ウィリアムは市場とは反対方向に歩いていった。
不思議に思ったけれど、聡明な彼の行動に間違いはないはずだ。フレッドは迷いなく彼の後についていった。そのさらに後ろを、犬がのんびりとした足取りで追う。
一行が辿りついたのは、ありふれた民家だった。平屋建てで、正面からは見えないが裏に鶏小屋があるのだろう。ここからでもニワトリの鳴き声がさかんに聞こえてきた。
ノッカーを握ってドアを叩くと、若い娘が姿を現した。
「はい。何か御用ですか?」
ウィリアムがどこの誰かまでは知らないようだったが、明らかに貴族然とした彼の来訪に戸惑いを覚えているようだった。
だが、フレッドとウィリアムの足の隙間から犬が顔を突き出したとき、彼女はぱっと顔を明るくした。
「まぁ、ベラ! どこに行ってたの!」
犬が答えるように一声鳴いた。
女の子だったのか。
娘に撫でられて、犬は嬉しそうに尻尾を振って彼女の顔を舐めた。フレッドたちに見せたお愛想とは違う、本気の喜び方だった。この家の飼い犬に違いない。娘が明るい笑い声を弾けさせた。
その時、騒ぎに気づいて、家の奥からもう一人の住人が顔を出した。この娘の父親らしい、中年の男性だった。彼はウィリアムの姿を見るなりひゅっと息を呑んだ。
「も、モリアーティ様!?」
「えっ!?」
犬とじゃれていた娘も慌てて立ち上がった。もっと撫でてほしそうに、犬が彼女のエプロンの裾を噛んで引っ張っている。
「な、何故モリアーティ様がうちのベラを……」
「道で迷子になっていたところを見つけたので、お連れしただけですよ。ね?」
ウィリアムに目配せされて、フレッドもこくりと頷いた。屋敷の庭で昼寝をしていたと正直に告げたら、この父娘が卒倒しかねない。 父と娘は恐縮しながら頭を下げた。
「今朝から行方知れずだったんです。どうもありがとうございました。……でも、どうしてうちの犬だとお分かりになったのです?」
父親の方が汗をふきふき訊ねた。フレッドも気になっていたことだ。
ウィリアムはにこりと笑って答えた。
「この子は鶏肉を食べないように躾けられていますね。猟犬が獣の肉を食べないように訓練されることもあると聞きますが、人懐っこくて物静かなベラはとても猟犬には見えません。おまけに、この子を朝の市場で見かけたという情報もありました。ということは、この子は市場へ鶏肉や卵を卸しに行く養鶏家の犬なのではないか、と考えたのです。そこで、このあたりで一番多くニワトリを飼っているお宅を訪ねてみました」
「お、おっしゃる通りです! 娘がまだ小さかった頃、犬を飼いたいと泣きわめいたものですから……」
「お、お父さんっ」
「コホン。……ともかく、それで子犬をもらってきたのですが、商売道具のニワトリたちに手を出されてはたまらないので、鶏肉だけは絶対食べないように躾けたんです」
「とても利口な犬ですね。ご主人の目が無くとも、立派に言いつけを守ったのですから」
ウィリアムからの褒め言葉に、父娘は恐縮しきりだった。唯一ベラだけが、舌を垂らした呑気な顔で人間たちを見上げている。
*
帰り道、フレッドの手にはカゴいっぱいの新鮮な卵があった。あの父娘から、どうしてもとお礼に渡されたものだ。
「ルイスに何を作ってもらおうかな」
前を歩くウィリアムの足取りは軽い。つられて、フレッドも知らぬうちに笑みをこぼした。
これだけあれば、しばらく卵料理が続きそうだ。お馴染みのスクランブルエッグやゆで卵も美味しいけれど、たまにはカスタードたっぷりのエッグタルトなんかを作ってもらえると嬉しい……などと考えながら歩いていると、前を歩くウィリアムがくるりと振り返った。
「フレッド。猫は好きなのに、犬はあまり得意じゃないんだね」
「う」
「噛みつかれたり、怖い目に遭わされた経験があるようには見えなかったけど……ベラの方を見ないようにしていたから」
「……」
彼には何でもお見通しのようだった。
フレッドは仕方なく、子供の頃に出会った子犬の話をした。気まぐれに餌をあげて仲良くなったこと、けれど共倒れになるのが怖くなったこと、ついには子犬を置いて逃げてしまったこと。 一通り話し終えると、ウィリアムは納得したように頷いた。
「なるほど。大変だったね」
「いえ……」
フレッドは曖昧に首を振った。中途半端に餌付けして、無責任に逃げ出しただけだ。
「その点で言うと、猫は何軒かの家を渡り歩いて餌をもらうだけの強かさがあるからね。もしそのうちの一つがだめになってしまったとしても、すぐに飢えてしまうとは限らない」
「そうなんです。犬は……さっきのベラみたいに、お腹が空いていても言いつけを守って鶏肉を食べなかったり……人間をまっすぐに信頼して、約束を忘れずにいてくれるところが、少し、」
なんと表現していいのか分からなくて、フレッドは口籠った。彼らのことが嫌いなわけでも、苦手なわけでもない。
結局のところ、子供の頃に抱いた罪悪感が遠因だった。あの出来事を通して、力がなければどんな小さな命も救えないのだと子供ながらに痛感した。あの子犬がすぐにフレッドのことを忘れて元気に暮らしていてくれればいい、と願っていた。
「……でも、フレッドも食べなさそうだね」
「え?」
「鶏肉」
何のことか分からず一瞬面食らったが、すぐに彼が、フレッドとベラを重ね合わせていることがわかった。
前を歩くウィリアムの背筋はすっとまっすぐに伸びていて、その足取りに迷いはない。例え汚泥の底にいようと彼の周囲は常にあたたかい光に満たされている。少なくともフレッドはそう信じていた。
「……もちろん。ウィリアムさんからの言いつけなら、絶対に食べたりしませんよ」
「そう。……そうだね」
彼はもう一度、静かな声で呟く。
この返答は、彼にとって満足のいくものだっただろうか。
シルクハットをかぶった彼の影が、地面に長く伸びている。フレッドは夕陽の眩しさに目を細めながら、その影を踏み踏み、屋敷に向かう彼の後をついていった。
初出:Pixiv 2025.02.16
ダラムのモリ家にいぬが迷い込む話。
心地よい秋晴れの日だった。
ロンドンでは常に頭上に垂れ込めていた鈍色の雲はどこかに消え、ダラムの街には透き通った青空がどこまでも広がっていた。 言いつけられた玄関の掃除を終えたフレッドは、バケツを片手に提げたまま庭へ出た。天気の良いうちに、庭園の手入れもしておきたかったからだ。アーチにからんだつるバラが特に見頃で、今朝なんかは朝食の最中に窓の外に目をやったウィリアムが「絵みたいな景色だね」と褒めてくれたものだから、フレッドは内心で鼻が高かった。
この景観を少しでも長く維持するべく、葉に虫がついていないか、枯れかけた枝がないかチェックするつもりだった。
が、フレッドは庭園の入口でぴたりと足を止める。
つるバラのアーチの下に、見慣れないものが落ちている。最初は、こんもりとしたタオルケットか丸めた毛布の塊かと思った。だがフレッドが近づくと、それはのそりと動いて身を起こした。
「…………!」
声をあげる程ではなかったものの、フレッドは驚いて言葉を失った。
アーチの下にいたのは、大きな犬だった。
白くてふさふさとした毛に全身を覆われていて、湿った鼻をひくひくさせながら、フレッドの姿を見つけるとぱたぱたと尾を振りはじめた。
しばしの間、フレッドと犬はお互いの出方をうかがった。
犬は三角座りをしたフレッドと同じくらいの大きさの大型犬だ。地面についた前足はどっしりと大きく、重量はあちらの方が上かもしれない。
飛びかかってこられたらひとたまりもなさそうだけれど、ひとまず敵意は無さそうだ。はっはっと犬特有の荒い息を吐いている口元は、どこか笑っているようにさえ見える。
緊張を解きつつ、けれどこんなに大きな犬が一体どこから入り込んだのか疑問だった。野良犬には見えないから、近所の飼い犬が迷い込んだのだろうか。
ともかく距離を取ろうとフレッドは一歩後ずさった。
すると、犬が一歩近づく。一歩下がると、一歩近づく。カニ歩きをしてみても同じだった。何か遊びが始まったとでも思っているのか、フレッドが動くたび犬もそれに合わせてついてくる。
この闖入者から目を離さないよう注意しつつ、フレッドは慎重な動作で庭を移動した。走ったりすれば興奮して追いかけてくるかもしれないから、あくまで慎重に。
大きな窓から居間を覗き込んだが、そこにモランの姿はない。この時間なら、てっきりソファでごろ寝していると思ったのに。
「…………」
フレッドはちらりと後ろを振り返った。
どこかへ行ってくれないかと期待してみたが、犬は変わらずそこにいた。呑気に舌を出したまま、フレッドの方を見上げている。目が合うと愛想よく尻尾を振った。
仕方なく、フレッドは犬を連れて屋敷の裏手に回り込んだ。
勝手口のドアをノックすると、すぐにルイスが顔を出した。この時間帯は、彼はたいてい夕食の支度のためにキッチンにいる。
「どうかしまし……」
ルイスの語尾が不自然に途切れる。フレッドの背後にいる犬の姿に気づいたようだった。
「……うちでは飼えませんよ」
「い、いえ。あの、拾ってきたわけではなくて……庭に入り込んでいたんです」
フレッドは慌てて説明した。
料理中に動物には近づきたくないようで、ルイスの視線は冷ややかだ。ドアもいつでも閉められるよう、半分だけ開いたままである。
「門の隙間を通り抜けられる体格ではないですね。垣根に壊れたところでもあったんでしょうか。……ちょっと待っていてください」
口の中で呟いて、ルイスはドアを閉めてしまった。
犬が残念そうにくぅ、と鼻を鳴らした。そういえばこの犬が鳴くところはまだ見ていなかった。やはり野良犬ではなく、ある程度躾けられた飼い犬らしい。
犬とともに取り残されて、フレッドは気まずい思いで待っていた。屋敷の中を歩く靴音と話し声がドア越しに聞こえる。
やがて、モランが顔を出した。
「おお、本当に犬だ」
どこか嬉しそうに声を上げた彼は、躊躇いなく犬に近づくと首周りをわしゃわしゃと撫でた。構ってもらえて、犬も嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振る。
「ちょっと、モランさん。噛まれたら大変ですよ」
「大丈夫だろ、大人しいぞ。それに……ほら」
犬の首の周りの毛をかき分けると、その下から革製の首輪が覗いていた。
「飼い犬ですか」
「だな。名前が刻印してあるような上等な首輪ではなさそうだが……」
「そう遠くから来たわけではありませんよね。フレッド、この子の家を探して、連れて行ってあげてください」
「えっ」
フレッドは思わず声を上げた。
「……僕がですか?」
「モランさんはこれから垣根の修理をしますので」
「勝手に決めんなよ……ったく」
モランはぶつぶつ言いながらも立ち上がった。
侵入してきたのが犬だからよかったものの、このまま壊れた垣根を放置していたら良からぬ考えを抱いた人間が入りこまないとも限らないからだろう。掃除には不満たらたらなのに、こういう時は素早い。
モランが動き出したのを見届けて、ルイスはさっさとキッチンに戻ってしまった。
フレッドは背後の犬を気にしつつ、慌ててモランを追う。
「垣根、僕が直そうか?」
「あ? お前は犬を帰してくるんだろ?」
「だから、僕が垣根直すから……」
「……? なんだ、お前、犬は嫌いか?」
「別に……そういうわけじゃないけど」
「じゃあそっち頼むわ。町の連中のことなら、お前の方がよく知ってるだろ」
「…………」
モランは片手を上げながら、道具を取りに物置の方へ向かっていった。犬は相変わらず、舌を垂らしたぼんやり顔でフレッドを見上げていた。
*
屋敷を出て、フレッドは街へ向かう道をとぼとぼと歩いていた。
犬はつかず離れずの距離でフレッドの後をついてくる。黒い瞳に一心に見つめられると、どうにも落ち着かなかった。
「……お前、どこから来たの?」
話しかけてみても、犬は答えない。
フレッドは手に持っていた新聞紙の包みを開けた。出発する前にルイスが持たせてくれたもので、夕食の支度に使ったチキンの残りだ。
ほとんどは骨だが、ところどころ肉や筋が残っている。もし犬が言うことを聞かなくなったら、これをやってなだめろということだ。
「これあげるから、お前のうちまで案内してよ」
そう呟きながら、フレッドは犬の鼻先に骨を差し出した。
いつからモリアーティ家の庭にいたか分からないが、近所をさまよい歩いていたならお腹が空いているだろう。
しかし犬は、鼻をひくひくさせて骨のにおいを嗅ぐなり、ぷいと顔を背けてしまった。
「……食べないの?」
回り込んでもう一度突きつけてみても、犬は逃げるように顔を背けた。どう見ても、食べるのを拒否している。
人見知りの強い動物は、信頼する飼い主以外の人間からの餌は口にしないと聞く。だが、見ず知らずのフレッドに警戒心なくついてきたこの犬がそうだとは到底思えなかった。
不可解な態度に首を傾げていると、背後から歓声が上がった。
「わー! おっきいワンちゃん!」
振り返ると、幼い少年がぱたぱたと駆けてきた。
後ろにはバスケットを提げた母親らしき女性の姿も見えるから、二人で買い物に出ていた帰りだろう。
「可愛い! 撫でていい?」
「こら、止めなさい!」
犬に向かって手を伸ばそうとする少年を母親が慌てて引き止めた。
大きな犬に危険を感じているのかと思ったが、彼女はフレッドに向かって深々とお辞儀をした。
「大変失礼いたしました。モリアーティ様の犬に……」
「あ……いえ。違うんです」
どうやら彼女は、フレッドがモリアーティ家の使用人であることを知っているらしい。フレッドは手短に、この犬を連れて歩いている経緯を説明した。
「まぁ。モリアーティ様のお庭に入り込んでいたんですか」
「はい。だからおうちまで送り届けようと思いまして……飼い主さんをご存じないですか?」
「いえ。申し訳ありませんが……」
「僕知ってるよ!」
横で犬を撫でていた少年が声を上げた。
「本当? どこの家の子かな?」
「市場にいるのを何度か見たよ。日曜の朝に」
「あ。言われてみれば、こんなふうに大きな犬を連れて歩いている人を見たような……」
「どんな人でした?」
「ええと、すみません。そこまでは……」
「おじさんだったよ」
犬のふさふさの背中を撫でながら、少年が答えた。
市場で見かけたおじさん。ロンドンに比べれば小さな町とはいえ、それだけの特徴をもとにこの犬の飼い主を絞り込むのは困難だろう。
「すみません。お役に立たず……」
「とんでもないです。市場のあたりを探してみますね。ありがとうございました」
フレッドがその場を辞そうとしたとき、少年がふと立ち上がって道端に生えた木に駆け寄った。
まだ若いブルーベリーの木で、少年の手が届く高さにもいくつか実をつけている。彼は実のいくつかをもぎ取って口に放り込んだ。
「お前も食べる?」
犬は、鼻先に突き出された小さな木の実をふんふんと嗅いだ。
その様子を横で見ていたフレッドは、犬はそんなものを食べないだろうと考えていた。しかし予想に反して、犬は舌でぺろりと木の実をすくい取った。さらには「もっとほしい」と言いたげに少年の反対側の手に向かって鼻をひくつかせている。
「もうないってばぁ!」
大きな舌で手のひらをべろりと舐められて、少年が甲高い笑い声をあげた。
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親子と別れて、フレッドと犬は市場を目指して歩いた。通りがかる人たちがちらちらとこちらを気にするが、誰も声をかけてはこない。この犬のことを知っているというよりは、大きな犬を連れて歩くフレッドのことを珍しがっているようだった。
犬も犬で、周囲の人や建物には頓着せず、フレッドの後をのしのしとついてくる。
このまま飼い主が見つからなくて、ずっと僕の後をついてきたらどうしよう。
次第にそんな不安に襲われた。
犬が嫌いなわけでも、怖いわけでもない。だが、自分を慕って一心に後を追ってくる存在というのは、フレッドをどこか居心地悪い気分にさせた。
まだ子供だった頃、フレッドは子犬を拾ったことがある。貧民街の片隅で心細げに鼻を鳴らしているのを不憫に思って、持っていたパンを半分やったのだ。
子犬はまだ短い尻尾をちぎれんばかりの勢いで振って、以来、フレッドの後をとてとてと拙い歩き方でついてくるようになった。
初めは嬉しかった。親もなくひとりぼっちなのはフレッドも同じだったから、兄弟ができた気分だった。
けれど、嬉しい気持ちは次第に不安に取って代わった。その頃のフレッドは物乞いをしたり残飯を漁ることで辛うじて食いつないでいた孤児だった。数日まともな食事にありつけないことは当たり前にあって、ちょっとした怪我や病気で簡単に命を落としかねない状況にあった。
それなのに、子犬はこんなフレッドを無邪気に慕って追いかけてくる。パンのひと欠片すら手に入れられない日でも、文句も言わずに寄り添ってくれた。
このまま一緒にいたのでは、この子を飢え死にさせてしまうかもしれない。
そんな不安を抑えきれなくなったフレッドは、ある夜、そっと寝床を抜け出した。無防備にお腹を出して眠っている子犬を置いて逃げた。その時は、他にどうしようもなかった。
もしフレッドの身体が動かなくなったとしても、あの子犬はきっとフレッドのそばを離れようとしないだろう。薄汚れた浮浪児の死体のそばで不安げにうろうろしている子犬の姿を想像すると、叫びだしたくなるほど恐ろしかった。あの子が自分よりもマシな人間に拾ってもらうか、野良犬仲間に見つけてもらうことを祈るしかなかった。
「フレッド?」
不意に名前を呼ばれて、フレッドは我に返った。
いつの間にか市場の手前まで差し掛かっていて、道の向こうからウィリアムが歩いてくる。シルクハットにステッキ。大学の帰りなのだろう。
フレッドは慌てて後ろを振り返った。白い大きな犬は相変わらずそこにいて、フレッドと目が合うとまた尻尾を振る。その姿にほっと息をついた。
「どうしたの、その子? 大きいね」
「その、屋敷の庭に入り込んでいて。飼い犬みたいだから、飼い主を探しているんです」
ウィリアムは「そうなんだ」と頷きながら屈み込んで、犬の顎の下をくすぐった。
「そのお肉はあげないの?」
「えっ……ああ、この子、食べないんです。ルイスさんがせっかくくれたのに」
ウィリアムはフレッドが手に持っている包みの中身を見抜いているようだった。改めて包みを開いてチキンを差し出してみても、犬はぷいと顔を背ける。
「変わった子ですよね。ブルーベリーは食べたのに」
「ブルーベリー?」
フレッドは、道中で出会った親子のことを話した。
「だから、市場のあたりを回ってみるつもりです。ウィリアムさんは先にお帰りください」
「うーん……。フレッド」
「はい」
「この子がどこの子か、分かったかもしれない。僕に任せてもらえないかな?」
「えっ……本当ですか?」
「飼い主の名前までは分からないけど、あの家かな、という見当はついたよ。答え合わせがしたいから、付き合ってもらえるかな?」
他でもないウィリアムにそう言われて、断れるはずもなかった。
*
ウィリアムは市場とは反対方向に歩いていった。
不思議に思ったけれど、聡明な彼の行動に間違いはないはずだ。フレッドは迷いなく彼の後についていった。そのさらに後ろを、犬がのんびりとした足取りで追う。
一行が辿りついたのは、ありふれた民家だった。平屋建てで、正面からは見えないが裏に鶏小屋があるのだろう。ここからでもニワトリの鳴き声がさかんに聞こえてきた。
ノッカーを握ってドアを叩くと、若い娘が姿を現した。
「はい。何か御用ですか?」
ウィリアムがどこの誰かまでは知らないようだったが、明らかに貴族然とした彼の来訪に戸惑いを覚えているようだった。
だが、フレッドとウィリアムの足の隙間から犬が顔を突き出したとき、彼女はぱっと顔を明るくした。
「まぁ、ベラ! どこに行ってたの!」
犬が答えるように一声鳴いた。
女の子だったのか。
娘に撫でられて、犬は嬉しそうに尻尾を振って彼女の顔を舐めた。フレッドたちに見せたお愛想とは違う、本気の喜び方だった。この家の飼い犬に違いない。娘が明るい笑い声を弾けさせた。
その時、騒ぎに気づいて、家の奥からもう一人の住人が顔を出した。この娘の父親らしい、中年の男性だった。彼はウィリアムの姿を見るなりひゅっと息を呑んだ。
「も、モリアーティ様!?」
「えっ!?」
犬とじゃれていた娘も慌てて立ち上がった。もっと撫でてほしそうに、犬が彼女のエプロンの裾を噛んで引っ張っている。
「な、何故モリアーティ様がうちのベラを……」
「道で迷子になっていたところを見つけたので、お連れしただけですよ。ね?」
ウィリアムに目配せされて、フレッドもこくりと頷いた。屋敷の庭で昼寝をしていたと正直に告げたら、この父娘が卒倒しかねない。 父と娘は恐縮しながら頭を下げた。
「今朝から行方知れずだったんです。どうもありがとうございました。……でも、どうしてうちの犬だとお分かりになったのです?」
父親の方が汗をふきふき訊ねた。フレッドも気になっていたことだ。
ウィリアムはにこりと笑って答えた。
「この子は鶏肉を食べないように躾けられていますね。猟犬が獣の肉を食べないように訓練されることもあると聞きますが、人懐っこくて物静かなベラはとても猟犬には見えません。おまけに、この子を朝の市場で見かけたという情報もありました。ということは、この子は市場へ鶏肉や卵を卸しに行く養鶏家の犬なのではないか、と考えたのです。そこで、このあたりで一番多くニワトリを飼っているお宅を訪ねてみました」
「お、おっしゃる通りです! 娘がまだ小さかった頃、犬を飼いたいと泣きわめいたものですから……」
「お、お父さんっ」
「コホン。……ともかく、それで子犬をもらってきたのですが、商売道具のニワトリたちに手を出されてはたまらないので、鶏肉だけは絶対食べないように躾けたんです」
「とても利口な犬ですね。ご主人の目が無くとも、立派に言いつけを守ったのですから」
ウィリアムからの褒め言葉に、父娘は恐縮しきりだった。唯一ベラだけが、舌を垂らした呑気な顔で人間たちを見上げている。
*
帰り道、フレッドの手にはカゴいっぱいの新鮮な卵があった。あの父娘から、どうしてもとお礼に渡されたものだ。
「ルイスに何を作ってもらおうかな」
前を歩くウィリアムの足取りは軽い。つられて、フレッドも知らぬうちに笑みをこぼした。
これだけあれば、しばらく卵料理が続きそうだ。お馴染みのスクランブルエッグやゆで卵も美味しいけれど、たまにはカスタードたっぷりのエッグタルトなんかを作ってもらえると嬉しい……などと考えながら歩いていると、前を歩くウィリアムがくるりと振り返った。
「フレッド。猫は好きなのに、犬はあまり得意じゃないんだね」
「う」
「噛みつかれたり、怖い目に遭わされた経験があるようには見えなかったけど……ベラの方を見ないようにしていたから」
「……」
彼には何でもお見通しのようだった。
フレッドは仕方なく、子供の頃に出会った子犬の話をした。気まぐれに餌をあげて仲良くなったこと、けれど共倒れになるのが怖くなったこと、ついには子犬を置いて逃げてしまったこと。 一通り話し終えると、ウィリアムは納得したように頷いた。
「なるほど。大変だったね」
「いえ……」
フレッドは曖昧に首を振った。中途半端に餌付けして、無責任に逃げ出しただけだ。
「その点で言うと、猫は何軒かの家を渡り歩いて餌をもらうだけの強かさがあるからね。もしそのうちの一つがだめになってしまったとしても、すぐに飢えてしまうとは限らない」
「そうなんです。犬は……さっきのベラみたいに、お腹が空いていても言いつけを守って鶏肉を食べなかったり……人間をまっすぐに信頼して、約束を忘れずにいてくれるところが、少し、」
なんと表現していいのか分からなくて、フレッドは口籠った。彼らのことが嫌いなわけでも、苦手なわけでもない。
結局のところ、子供の頃に抱いた罪悪感が遠因だった。あの出来事を通して、力がなければどんな小さな命も救えないのだと子供ながらに痛感した。あの子犬がすぐにフレッドのことを忘れて元気に暮らしていてくれればいい、と願っていた。
「……でも、フレッドも食べなさそうだね」
「え?」
「鶏肉」
何のことか分からず一瞬面食らったが、すぐに彼が、フレッドとベラを重ね合わせていることがわかった。
前を歩くウィリアムの背筋はすっとまっすぐに伸びていて、その足取りに迷いはない。例え汚泥の底にいようと彼の周囲は常にあたたかい光に満たされている。少なくともフレッドはそう信じていた。
「……もちろん。ウィリアムさんからの言いつけなら、絶対に食べたりしませんよ」
「そう。……そうだね」
彼はもう一度、静かな声で呟く。
この返答は、彼にとって満足のいくものだっただろうか。
シルクハットをかぶった彼の影が、地面に長く伸びている。フレッドは夕陽の眩しさに目を細めながら、その影を踏み踏み、屋敷に向かう彼の後をついていった。
初出:Pixiv 2025.02.16
緋色の証明
犯罪卿が暗躍して221B組が事件解決に奔走するお話。
「……それが、証拠品なのですね」
告解室の格子の向こうから、低い声が響く。半ばまで溶けた蝋燭が室内を照らしているが、格子の奥に座る相手の顔までは見えなかった。
女は「はい」と震える声で答えた。
「あの事故……いいえ、『事件』のあった夜に、旦那様が書斎の暖炉で燃やそうとしていたのです。ゴミの処理など、普段であれば私たち使用人にさせるはずなのに」
格子の向こうから白い手が伸びてきて、女が差し出した包みを開いた。若い男の手だった。あまりじろじろと見てはいけない気がして、女は目を伏せる。
包みの中には、半分焼け焦げた、緋色の布切れが入っていた。何か問われるより先に、女の口が勝手に動いて補足する。
「テーブルクロスです。旦那様はこっそりと燃やそうとしたのでしょうけど、ひどく煙が出たようです。悪態をつきながら書斎から出てきました。私は何かあるのだと確信して、書斎に忍び込み……」
「そして、炎の中から苦心してこれを取り出した?」
「はい」
「その事を、あなたの主人は勘づいていますか?」「いいえ。代わりに別のテーブルクロスを燃やしておいたので、気づいていないはずです」
「……いいでしょう」
長い指先が音もなく動いて、包みを元の通りに戻すと格子の向こうに引き込んだ。
受け取ってもらえた。信じてもらえたのだ。
女は思わず椅子から腰を浮かせた。
「では……!」
「貴女のお話の裏を取る必要があります。これが、真に罪の証であるかどうかを。結果は、追ってご連絡します」
蝋燭の炎が僅かに揺れた。格子の向こうの男が席を立ったらしい。
立ち去る足音は聞こえなかった。けれど男の気配はふっつりと消えてしまった。深夜の廃教会に広がる静寂が、今になって押し寄せてくるようだった。
女は身震いしながらその場を後にした。たった今まで自分が誰かと話していた事に、急激に自信が持てなくなっていた。それくらい、格子の向こうの相手には現実味が無かった。
あの人は本当に犯罪卿だったのだろうか?
私の願いを聞き入れて、兄の無念を晴らしてくれるのだろうか?
確信は少しも持てなかった。だが、あの事故の後、彼女の話にまともに耳を傾けてくれた者はいなかった。警察は始めから貴族の味方だったし、他の使用人たちも、職を失うことを恐れて口をつぐんだ。
あの時のことを思い出すと、彼女の目に自然と悔し涙が滲んだ。
もう誰だっていい。
あの男に天罰を下してくれるなら。
*
ある日の夜、二二一Bの大家ミス・ハドソンは夕食の後片付けをしていた。
時刻はすでに八時を過ぎていたが、シャーロック・ホームズと私――ジョン・H・ワトソンが、予定の時刻を過ぎても戻らず、落ち着かない気持ちだったという。三人前のスープを煮込んだ鍋に蓋をしながらため息をついた時、呼び鈴が鳴った。
彼女は急いで玄関へ向かった。
「もう! 遅くなるなら連絡してって、いつも……」
言葉は尻すぼみになって地面に落ちた。
玄関のドアを開けた先に立っていたのは、見知らぬ青年だったのだ。礼儀正しく帽子を取った青年は、困惑の表情を浮かべている。
ミス・ハドソンは慌てて取り繕った。
「あら! ごめんなさい。てっきりシャーロックたちが帰ってきたのかと……」
「え、シャーロック・ホームズさんはご在宅ではないのですか?」
「ええ。七時の列車でロンドンに戻ると聞いていたのですけど」
そう答えてから、ところでこの人は誰なのかしら、とハドソン夫人は気になった。視線に気づいた青年は、背筋を伸ばしてお辞儀をした。
「私はクリス・ソーンダーズと申します。マーカム男爵家の使用人で、シャーロック・ホームズさんにお伝えしたい事件がありましてお伺いした次第です。……よろしければ、お戻りになるまで、中で待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
ハドソン夫人は、この青年の言葉を疑わなかった。
ホームズ不在の二二一Bで依頼人を待たせることはこれまでも度々あったし、何より目の前の青年の物腰は丁寧で、きちんと教育の行き届いた使用人に見えたからだ。
男爵の使いだと言ったから、このまま追い返せば主人に叱られてしまうだろう。どうせ、シャーロックたちはもうじき戻ってくるはずなのだ。中に通して、待たせてあげればいい。
そうしたごく当たり前の親切心から、ハドソン夫人は青年を二二一Bに招き入れた。
「散らかっていますけどお気になさらず。お茶を入れてきますから、そこに掛けて待っててくださいな」
「いえ、どうかお構いなく」
青年ははにかみながら椅子に腰を下ろした。
ハドソン夫人はにこりと微笑み返して、一階のキッチンへ下りていった。お湯が沸くのを待つ間、何かお菓子でも出してあげようかと戸棚を探っていると、また呼び鈴が鳴った。
今度こそ帰ってきたかと玄関へ急いだが、訪ねてきたのは郵便配達人だった。
「ミス・ハドソン。電報です」「どうもありがとう。遅くまでご苦労様です」
受け取った紙片に目を通して、ハドソン夫人は「あらやだ」と声を上げた。
それは、例によってシャーロックとともに事件の調査に出かけていた私からの電報だった。事件を無事解決させたところ依頼人がいたく喜び、夕食会へ招待されることになったため今夜は戻らない……といった内容だった。
事件解決の報にハドソン夫人は安堵したが、同時に二階で待たせているソーンダーズ青年のことが気にかかった。仕方がないので今日のところは帰ってもらって、明日以降に出直してもらうしかないだろう。
「ソーンダーズさん。今電報が届きまして、すみませんが今夜は……あら?」
ハドソン夫人はドアの前で立ち尽くした。クリス・ソーンダーズの姿がどこにもなかったからだ。
家主不在のリビングルームを、石油ランプの明かりが侘しげに照らしている。ソファの上にも、本棚の前にも、隣の寝室にさえ、ソーンダーズはいなかった。 夜風がひゅうと吹き込んできて、ハドソン夫人は窓が開け放たれていることに気がついた。
*
私たちが帰宅したのは、その翌日の昼近くになってからだった。
キングスクロス駅で待ち構えていたベイカー街非正規隊のウィギンズ少年から事の次第を聞かされ、私とホームズは辻馬車を飛ばして二二一Bへ帰り着いた。
ハドソン夫人は青い顔で私たちを出迎えた。
「二人ともごめんなさい、私……」
「馬車の中でウィギンズくんから聞きましたよ。怖かったでしょう。ハドソンさんが無事でよかったですよ」
玄関口で話していると、奥からレストレード警部が顔を出した。
「お、帰ってきたか」
「お前も来てたのか、レストレード」「私が来てもらったの。非番なのにごめんなさい」
「いえいえ、お安い御用ですよ」
「ちゃっかり朝飯まで食ってるんだから、タダ働きってわけでもねぇだろ」
レストレード警部のシャツの襟についたトーストのくずを見やりながら、シャーロックが呟いた
「ゴホン。……部下たちにざっと周囲で聞き込みをさせたが、不審な人物は目撃されていない。ともかく、盗まれているものでも無いか、上で確認してくれ。調書を取るのはそれからだ」
私たちは二階へ上がった。
ハドソンさんが目を離した隙に依頼人が忽然と姿を消したというが、ぱっと見た感じ、室内に荒らされた形跡はない。もちろん、普段からシャーロックが散らかし放題にしているから、見た目だけでは何とも言い難かったが。
私は手早く自分の持ち物を調べた。だが現金や懐中時計といった貴重品はおろか、書きかけの新作原稿に至っても手を付けられた痕跡はない。
「シャーロック。僕の方は大丈夫そうだ。そっちはどうだい?」
返事はない。シャーロックはキャビネットの前で固まっていた。
「どうした? やっぱり何か盗まれてたのか?」
「ジョン、あの本はどこにある?」
「え? あの本?」
「お前が書いた小説だよ! 緋色の……」
私が自分の書棚から『緋色の研究』を取ってくると、シャーロックはひったくるように奪ってページをめくり始めた。
「やっぱりだ! お前、書いたんだな!」
シャーロックは私の鼻先に開いた本を突きつけた。二人の男が握手を交わしている挿絵がある。私とホームズが初めて出会うシーンだった。
「そ、そりゃあ書くさ。あれほど印象深い出会いもなかったから……」
「だからって血液試薬のことまで書く必要なかったろ!」
「試薬?」
「一度血が付着すれば、それが何ヶ月前のものであろうと血の痕を浮かび上がらせる試薬だよ。くそっ、そのクリス・ソーンダーズって野郎の目的は血液試薬だったんだ」
シャーロックはがしがしと髪をかきむしった。
キャビネットには無数の小瓶がひしめいていたが、確かによく見ると一本分の空きがある。
私とシャーロックが初めて出会ったあの日、彼は牛の血を使った実験をしていた。あの時開発された薬が盗まれたとシャーロックは言う。
だが、何のために?
私とシャーロックは部屋中をもう一度探し直してみたが、血液試薬の瓶はどこにも見当たらなかった。
私たちが一階に下りて事情を説明すると、ハドソン夫人はますます困惑した様子だった。
「えっと、血の痕を調べる薬……が盗まれたの? どうして?」
「それは分かりません。でも、他になくなった物も無さそうで……」
「本人に聞きに行けばいい」と警部。
「その男は、マーカム男爵家のクリス・ソーンダーズと名乗ったのですよね?」
「ええ……」
「マーカム男爵の屋敷はメイフェア通りにある。警察官の俺が同行すれば、話くらい聞かせてもらえるだろう。それで構わないよな、ホームズ? ……ホームズ?」
シャーロックは両手の指の先を突き合わせて、考えに耽っていた。私たち三人の視線が集まっていることに気がついて、ようやく顔を上げる。
「……ん? ああ、それでいい。行こう」
シャーロックはさっさと歩き始めた。
「あ、待てよシャーロック! ……すみません、ハドソンさん。行ってきます」
「え、ええ。行ってらっしゃい。気をつけてね」
「部下に見回りをさせていますので、何かあればすぐに呼んでください」
私と警部はばたばたと慌ただしくシャーロックの後を追った。
*
「犯罪卿だ。奴の仕業に違いない」
ベイカー街で辻馬車を捕まえて乗り込むなり、シャーロックは確信を込めた声でそう断言した。
私とレストレード警部は顔を見合わせる。警部はあからさまに「またそれか」と言いたげな表情を浮かべていた。
「シャーロック。いくらなんでも判断を下すのが早すぎるんじゃないか?」
「いいや。この周到さは間違いなく奴だ」
「周到さ?」
私が声を上げると、シャーロックは呆れたようにため息をついた。
「気づかなかったのか? 俺たちがこの馬車に乗るのと入れ違いに、二二一Bの前に工具を抱えた修理人が来てただろ。昨日の夜、二二一B前のガス燈だけが壊れてたんだ。そうだろ、レストレード?」
「む……確かに」
「二二一B前のガス燈だけが何故か壊れていて、辺りはいつも以上に薄暗かったはずだ。そしてまだ人通りの多い夜八時に、窓から逃げ出したはずのソーンダーズの姿を誰も見ていない。偶然のはずがないだろ?」
「だが……それだけで犯罪卿の仕業だとは断定できないんじゃないか? 例えば、ソーンダーズは何か重大な事件の犯人で、シャーロックが発明した血液試薬が捜査に使われると有罪判決を下されてしまうような立場にあったから、自分の罪を隠すために盗みを……」
「それなら、製法ごと盗んだ上で俺を殺さなきゃ意味ないだろ。試薬の瓶ひとつ盗んで何になるって言うんだ」
「う。まぁそうなんだが……だとしたら、何故奴は血液試薬を盗んだんだ?」
「試薬そのものに用があったとしか考えられないが、現時点では断定できない」
「だよな。男爵家で本人に直接話を聞けるといいんだが……」
「それもだ」とシャーロック。
「奴は何故、わざわざマーカム男爵家の使用人だと名乗った? ハドソンさんを騙したかったなら適当な会社や団体をでっち上げるだけでよかったはずだ。あえて実在する貴族の名を使うなんて『ここに訪ねてこい』と言っているようなものだ」「まさか、俺たちは今まさに誘い出されているのか?」
「どうだ? これでもまだ、裏で糸を引いている奴はいないと思うか?」
「…………」
私と警部はもう一度顔を見合わせた。
御者が手綱を引き、私たちの乗る馬車はメイフェア通りのマーカム男爵家に到着した。
*
呼び鈴を鳴らすと、すぐに生真面目そうな執事が出てきて応対した。
「このお宅にクリス・ソーンダーズさんはいらっしゃいますか?」
レストレード警部が身分証を提示しながらそう尋ねると、執事は怪訝そうに眉根を寄せた。
「く、クリスですか? ここには……おりません」
「クリスさんのことはご存じのようですね。彼は今どこに?」
「あの、どのようなご用件でしょう?」
「彼が昨夜、ここにいる二人の家で盗みを働いた疑いがあります。その件でお話を伺いに」
「盗みですって? クリスが、昨夜?」
「彼はどこに?」
執事の受け答えが要領を得ないので、レストレード警部が口調を強くした。執事はしどろもどろになりながら答える。
「彼は……死にました。三ヶ月も前に」
「なんだって!?」
今度は私たちが困惑する番だった。
クリス・ソーンダーズがすでに死んでいたのなら、昨夜二二一Bを訪ねてきたのは一体誰だったのだ?
唯一、シャーロックだけは驚いた様子も見せずに険しい顔で考え込んでいる。
「あの。ですから、その件は何かの間違いかと思われますので……」
執事がやんわりと私たちを帰らせようとした時、どこかで何かが割れる音がした。見計らったようなタイミングだった。
「何だ?」
ぱたぱたと室内を駆ける足音がした。
使用人の誰かが皿でも割ったのかと思われたが、続いて上がった甲高い悲鳴に、そうではないことを悟った。
すかさず、シャーロックが執事の脇をすり抜けて屋敷の中へ飛び込んだ。尋常でない事態が起こっている。私たちもその後に続いた。
広々とした玄関ホールを抜けて、シャーロックが階段を一段飛ばしで駆け上がる。二階の廊下に、年老いたメイドが腰を抜かして座り込んでいた。彼女はわなわなと震えながら、開いたドアの向こうを指さしている。
「あ、だ、旦那様が……!」
部屋へ駆け込んで私たちが見たものは、暖炉に頭を突っ込むようにして倒れ込んだ男の姿だった。
ゆったりとしたスモーキング・ガウンを羽織り、床に投げ出された左手には豪奢な指輪が輝いている。間違いなく、彼がこの屋敷の主であるマーカム男爵だろう。
暖炉に火は入っていないものの、煤と灰に塗れた男爵はぴくりとも動かない。その頭部には大きな穴が空いていて、鮮血がとめどなく溢れていた。
「ジョン!」
シャーロックが叫んで、私の腕を引いた。私は無意識のうちに、倒れている男爵のもとに駆け寄ろうとしていたのだ。
何故止めるのかと怪訝に思うより先に、シャーロックは部屋に入ろうとしていたレストレード警部に向かって怒鳴った。
「死体に近づくな! 狙撃だ!」
廊下に座り込んでいたメイドがもう一度悲鳴を上げた。
倒れた男爵から部屋の反対側へと視線を移すと、砕け散った窓ガラスが床に散乱していた。さらに窓の向こうには、遠くに教会の鐘楼と思しき建物が見える。
暖炉と窓と鐘楼。この三つが頭の中で一本の直線によって結ばれ、私は慌てて後ずさった。
暖炉の前で倒れ伏した男爵は明らかに事切れている。彼はロンドン市内からそう遠くないこの屋敷で、白昼堂々狙撃されたというのか?
「どうしたの? 何かあったの?」
不意に、場違いな甲高い声が響いた。
子供が一人、階段を上がってくるところだった。まだ十歳にもならないような可愛らしい男の子だ。おそらくは男爵の息子なのだろう。
腰を抜かしていた老メイドが我を取り戻し、恐ろしい死体が目に入らぬよう少年をその場に押し留めた。
「あの鐘楼に狙撃手がいる。レストレード、ヤードに連絡して応援を……」
「いや、この距離なら直接行った方が早い。執事さん、馬か自転車を貸してください。あと通報も頼みます!」
「は、はいっ」
レストレード警部は猛然とした勢いで屋敷を飛び出していった。非番の日に我々に付き合ってくれただけの彼は拳銃も所持していないはずだったが、止める暇もなかった。
やがて異常事態を察した使用人たちが、不安げな顔をしながら集まってきた。シャーロックは執事に指示をして、警察が到着するまで誰も屋敷から出ないよう厳命した。
動転した執事は私たちが警察関係者ではないことをすっかり忘れてしまっているようだった。おかげで、シャーロックは大手を振って現場検証を始めることができた。
彼は壁伝いに窓辺へ近づくと、さっとカーテンを閉めた。
「そ、それだけで大丈夫なのかシャーロック? せめて鉄板でも立てないと……」
この距離で、それも窓ガラス越しの狙撃を成功させたのだ。相手が狙撃手としてかなりの手練れであることは私でも分かった。
「見えない的を狙うほど馬鹿じゃないだろ。それに、まだあの鐘楼の上でモタモタしてくれてるならレストレードがふん縛ってくれる。願ったり叶ったりだ」
シャーロックは平気な顔で死体を検分し始めた。カーテン一枚が盾とは何とも心許ないが、私もおっかなびっくり、彼に続く。
男爵の死体は、暖炉の中に突っ伏すように倒れていた。ここしばらくは暖かい日が続いていたから、暖炉に火が入っていなかったのは不幸中の幸いだ。
遺体にはまだ温かさが残っていた。傷口から溢れた血は乾いてすらいない。後頭部から飛び込んだ弾丸は、男爵の頭の中をめちゃくちゃに破壊したらしかった。
シャーロックは、男爵の足の位置と暖炉との距離を確かめた。
「もしこの位置に立っていて狙撃されたなら、倒れた拍子にマントルピースに頭をぶつけていただろう。だが頭部には銃創以外の傷跡はない」
「つまり?」
「男爵は撃たれる直前、暖炉の前に屈み込んでたってことだ。寒くて暖炉に薪を焚べようとしたわけじゃなさそうだが……」
死体のそばに屈み込んだシャーロックは、すぐに奇妙なものを見つけた。
「ジョン、ちょっとそっちを持って、こいつの体を持ち上げてくれ」
「えっ、冗談だろ」
「いいから、早くしろ」
シャーロックの指図で、私は恐る恐る男爵の肩を掴んで、床から少しだけ浮かせた。その隙間に、シャーロックが素早く手を突っ込む。
「何だこれは?」
シャーロックが引っ張り出したのは、紅い布だった。男爵の身体の下敷きになっていたらしい。
焼け焦げて大きな穴がそこら中に空いているが、案外しっかりとした生地だったようで、床に広げてみてもばらばらにはならなかった。
元は大きな布の一部だったらしい。布の中央の辺りには、いくつかの小さな穴と黒っぽい染みが広がっている。
「何だろう。焼けているということは、男爵はこれを暖炉で燃やしていたのか?」
「いや。暖炉にはしばらく使われた形跡がない。むしろこれから燃やそうとして、暖炉の前に屈み込んだんじゃないか?」
「だが焦げ跡がついてるぞ。一度燃やそうとして、やっぱり止めて、もう一度燃やそうとしたって言うのか?」
「…………」
シャーロックは答えなかった。彼の視線は、焼け焦げた緋色の布に釘付けになっている。
その時私はようやく、シャーロックが指先でなぞっている箇所の異変に気がついた。
「何だろう? この部分だけ、染みが青っぽく変色しているな」
「ああ……」
生返事をして数秒黙り込んだ後、シャーロックはぐるりと廊下の方を振り返った。先ほどから、使用人たちが怯えた様子で室内を伺っていたのだ。
「最後にこの部屋に入ったのは誰だ? もちろん、男爵本人を抜きにして」
問われて、使用人たちにかすかな動揺が走る。だが即座に、若いメイドが手を挙げた。
「私です。朝食の後に掃除をしました」
「その時、この布はあったか?」
「いいえ、ありませんでした。暖炉の中までは見なかったので断言はできませんが」
「カーテンは?」
「私が開けました」
「部屋を出る時も、閉めなかったか?」
「はい。今日はお天気も良かったので」
シャーロックから投げられる問いに、メイドは淀みなく回答した。
その淀みのなさに、私は少し違和感を覚える。
たいていの人間は、殺人事件の現場で探偵に質問を投げかけられると多少なりとも動揺するはずだ。記憶違いが無かっただろうか、まずい答え方をして自分が疑われたりしないだろうか、と不安になるのだ。
しかし目の前の若い娘は、挑みかかるような目つきでシャーロックの顔をまっすぐに見据えている。
私が気づいた違和感に、シャーロックが気づかないはずがない。彼は何か確信を得た鋭い目つきで、彼女に向かって問いかけた。
「……あんたの名前は?」
「マリアです。マリア・ソーンダーズ」
「ソーンダーズだって?」
私は驚きの声を上げた。
「あなたは、クリス・ソーンダーズさんの?」
「ええ、妹です。それが何か?」
彼女は堂々とした態度で頷いた。勝利宣言のような、どこか攻撃的な口調だった。
兄妹で同じ屋敷に仕えていることなど、別段珍しくもない。だが、三ヶ月も前に死んだはずの兄の方が昨晩二二一Bに現れたことと、目の前の彼女が無関係だとは思えなかった。
戸惑っているうちに、階下から人の話し声が聞こえてきた。スコットランド・ヤードから応援の警察官たちが到着したらしい。
シャーロックは深いため息をつきながら立ち上がった。
「戻るぞ、ジョン。あとはヤードに任せよう」
「シャーロック……だが、」
「何が起こったかは明白だ。ここに解くべき謎はない」
私たちは駆けつけた警察官にひと通りの説明を済ませてから、屋敷を去った。その間あの若いメイドは一言も口を挟まなかったが、頬を紅潮させ、どこか興奮した様子だった。
馬車の中で、シャーロックは終始無言であった。
*
二二一Bに帰り着くなり、シャーロックは古新聞の山を漁り始めた。何を探しているのかと私が問いかけるより早く、彼は目当ての記事を見つけ出したようだった。
「……あった。日付もちょうど三ヶ月前だ。読んでみろジョン」
それだけ言われると、私にも何となく予測がついた。クリス・ソーンダーズが死亡した事故を報じた記事だった。
「ハンティングの最中に、か……」
三ヶ月前、マーカム男爵領の森で鹿撃ちが催された。幾人かのゲストも招かれ狩りに参加したが、使用人のクリス・ソーンダーズは随伴せず、同僚たちとともに別荘に残って仕事をこなしていた。
だが、正午近くなった頃、九歳になる男爵の一人息子の姿が見えないと騒ぎになった。彼は前夜、夫人や他の女性たちとともに別荘で留守番をすることを不満がっていたという。
もしや、父親たちの後を追ってこっそりと森に行ったのではないか。
最悪の事態が頭を過ったクリス・ソーンダーズは大慌てで別荘を飛び出し、少年を探しに行った。
「『そうして森に入ったクリスは、誤って猟銃で撃たれ、即死した。事故発生時、彼は地味な焦げ茶色のジャケットを着用しており、男爵は視界の悪い木立の中で彼を鹿と誤認して発砲してしまった』……ああ、『男爵の息子は屋根裏部屋に隠れて遊んでいただけだった』とある。なんて不運な……」
「『不運』? 不運なもんか。そんな言葉で片付けていい話じゃない」
シャーロックが低い声で唸った。
私は昨晩から今日にかけて起こったことをもう一度振り返ってみた。
三ヶ月前に死んだはずの男が二二一Bに現れ、血液試薬の小瓶を盗んで消えた。彼を追って訪れた男爵家で、男爵本人が何者かにより狙撃され、死亡した。暖炉からは焼け焦げた紅い布が発見され、その朝現場を掃除したメイドは、死亡した男の妹だった。
「シャーロック。お前には何が見えている?」
「…………」
シャーロックは長い間黙り込んでいた。
私を部屋から追い出さないということは、話す気が無くはないようだ。私は彼の向かいに腰掛けて、辛抱強く待った。
やがて、シャーロックは髪を掻きむしりながら呻いた。
「……ああくそっ、ダメだ! ジョン、とにかく俺の推理を聞いてくれ」
「わかった。何でも聴くよ」
「結論から言う。三ヶ月前、マーカム男爵がクリス・ソーンダーズを撃ち殺したのは不幸な事故じゃねぇ。明確な悪意のある殺人だった。そして事実に気づいた被害者の妹……マリア・ソーンダーズは、犯罪卿に報復を依頼した」
「いささか飛躍しすぎているように思えるが……そう考える根拠は何だ?」
「順を追って説明する。まずは三ヶ月前、クリス・ソーンダーズが死んだ件だ。彼は男爵の息子を探して、まさにハンティングが行われている最中の森に入った。そして、男爵に誤って射殺された。原因はクリスが目立たない地味な上着を着ていて、男爵が彼を鹿と見間違えたからだ、と新聞にはある」
実際、ハンティング中の事故は少なくない。
原則として、狩りの参加者や勢子たちはお互いに射線に入らないように移動することが徹底される。だからこそ、そこから外れて動くものがあれば、獲物が飛び出してきたに違いないと反射的に銃を構えてしまう。人間でなくとも、猟犬が誤射されることもある。
「事実はそうではなかったと?」
「暖炉から出てきた、あの紅い布だよ。カーテンだかテーブルクロスだかわからないが、あれは元は一枚の大きな布だった。クリスはおそらく別荘を飛び出す直前にあの布に目をつけたんだろう。人並みの分別があれば、猟銃を持った連中がうろついている森に目立たない格好で入っていくのがどれだけ危険かは分かっていたはずだ。だから、あの真っ赤な布をマントみたいに羽織って森へ入った」
「それが事実だとしたら……」
「ああ。いくら視界が悪かろうが、野生動物と見間違えるはずがない。男爵は故意にクリスを射殺した。そして、警察にその事を疑われないように紅い布だけを回収した」
私は、暖炉から見つかった紅い布にべったりと染みた黒い染みを思い出して身震いした。あれは気の毒なクリスの血だったのだ。
「じゃあ、布についた染みの一部が青く変色していたのは……?」
「それはこれから説明する」
シャーロックは落ち着かなさそうに椅子に座り直した。
「事件の後、男爵は密かにあの紅い布を燃やして処分しようとしたんだろう。だがそれをマリアが見つけて回収したんだ。彼女も、兄の死が不幸な事故だったと一度は納得したのかもしれない。だが、男爵が血のついた紅い布をコソコソと燃やそうとしていたのなら話は別だ。彼女は真実に気がついた。兄は故意に撃ち殺されたのだと」
シャーロックはそこで一度言葉を切って唇を舐めた。話が核心に迫ろうとしているのだ。
「だが、布を回収したところでマリアに打てる手はなかった。クリスの死は事故として処理された後だったし、布に残された黒い染みが血痕である証拠はない。『ワインをこぼしてしまった』とか、言い逃れはいくらでもできる。警察に訴え出たところで再調査すらしてもらえないだろう」
「……だから彼女は犯罪卿を頼った、と?」
「そうだ。マリアが犯罪卿とどうやって接触したかは分からねぇ。ともかくマリアは奴に会って、兄の死の真実を訴えた。だが犯罪卿にとっても、マリアの話が事実であるという確証はなかった。不幸な事故で家族を亡くした人間が、事実を受け入れられず妄想を膨らませているだけとも考えられる。そこで奴が思い出したのが、俺が作った血液試薬だ」
「じゃあ、昨夜ハドソンさんの前に現れたクリスは……」
「おそらくは犯罪卿の手下の一人だろう。ホープの事件の時、老婆に化けてた男か……今度は大胆にも俺たちの留守を狙って上がり込んできたわけだ」
背筋が寒くなった。それでは私たちは、これから出会うすべての人を疑わなければならないではないか。
「じゃ、じゃあ、犯罪卿は紅い布に残された染みが血痕であることを確かめるために、血液試薬を盗んだって言うのか?」
「ああ。お前の言いたいことは分かるぜジョン。あの染みが血痕だったからといって、男爵が殺意を持ってクリスを撃った証拠にはならない、だろ?」
「その通りだ。確かに状況からしていかにも怪しいが、たったそれだけで断定することはできない。あの日のハンティングの最中に仕留めた鹿の血だったかもしれないし、それこそ、クリスに応急処置をしようとして付着した血かもしれないだろ」
「そうだな……だから、犯罪卿は二つ目のチェックポイントを用意したんだ」
「チェックポイント?」
「犯罪卿はマリアに紅い布を返却し、彼女にこう指示した。『これを男爵の部屋の暖炉の前に落とせ』と。ジョン。もし自分の部屋の暖炉の前に薄汚い布がばら撒かれてたら、どうする?」
「もちろん、拾って片付けるが……」
「お前が貴族だったとしたら?」
「……そうだな、もし俺が貴族だったなら、自分で掃除をしたりしない。使用人を呼んで片付けてもらうだろう」
「そうだ。マーカム男爵も当然そうするはずだった。だが男爵にとってあの紅い布は、三ヶ月前に焼き捨てたはずの罪の証に他ならなかった。だからあえて人を呼ばず、自らの手で片付けようと暖炉の前に屈み込んだんだ。数百ヤード離れた鐘楼の上から、狙撃手に狙われているとも知らずに」
「それが、二つ目のチェックポイント……」
「ああ。俺の推理は以上だ」
シャーロックはもう一度大きくため息をついて、背もたれにだらりと背を預けた。
私はシャーロックの推理を頭の中で反芻した。
シャーロックは、「犯罪卿は義賊である」と言う。奴はホワイトチャペルの殺人鬼たちを皆殺しにし、冤罪事件を解決させるため暗躍していた。
そして今回は、身勝手に兄を殺された女性の復讐を代行したというのか?
紅い布に残された血痕と、それを隠蔽しようとした男爵の行動。この二つが揃った時点で、犯罪卿は男爵を『有罪』と見なし、即座に死刑を執行したというのか。
「……こんなやり方は、間違ってる」
私の口から言葉が漏れた。
「確かに、正攻法で男爵を裁くのは難しかったかもしれない。これは僕が当事者でないから言えるだけなのかもしれない。だけど……男爵にだって言い分はあったかもしれないだろう。もしかしたら、本物の鹿を撃とうとした瞬間にクリスが飛び出してきたのかもしれないじゃないか」
シャーロックは姿勢を直して、真剣な表情でまっすぐに私の目を見ている。
「あれは本当に不幸な事故で、だけど故意に撃ったのではないかと疑われることを恐れて、クリスが身に着けていた、目立つ紅い布を隠してしまったのかもしれない。男爵には小さな息子もいたんだ。もちろん、だからと言って許されることではないが……でも、本当のところは誰にも分からない。貴族だって人間だ。嘘や隠し事だってするだろう。犯罪卿は、その間違いを正す機会を奪った。それもまた、許されることじゃない」
「……お前もそう思うか、ジョン」
「ああ」と私は頷き返した。
「そうだよな。……お前も、そう思うよな」
シャーロックが深く頷いたとき、控えめなノックの音がした。ハドソンさんだ。
「シャーロック。電報よ」
「……ああ、ありがとう」
小さな紙片に書かれた文字をシャーロックが読んでいる間、ハドソンさんはどこか落ち着かない様子だった。彼女には何の落ち度もないが、物盗りを部屋に通してしまった負い目があるのだろう。
「もしかして、昨日の泥棒のこと……?」
「……ああ。あんなもん盗んだってどうにもならねぇのに、馬鹿なやつだよ。ま、じきにレストレードが捕まえるだろ」
ごく軽い調子で、シャーロックは答えた。
あからさまな嘘だったが、ハドソンさんはそれをころりと信じた。「そう? なら良かったわ」と表情を明るくして、ようやく肩の荷が下りたといった様子で胸を撫で下ろしている。
「レストレードに用が出来た。ちょっと出てくる」
シャーロックは電報を胸ポケットにしまうと、手にしていた古新聞を無造作に――だがハドソンさんがうっかり読んでしまわないように、書類の山に押し込んだ。
「さっき帰ってきたばかりなのに、また出ていくの? 忙しないわね」
「夕食までには戻るよ。いくぞ、ジョン」
私たちは二二一Bを後にして、再びベイカー街へと繰り出した。
*
シャーロックは辻馬車を捕まえるでもなく、すたすたと通りを歩いていった。二二一Bを十分離れた辺りで、私は思い切ってその背中に声をかけた。
「シャーロック……」
「電報はレストレードからだ。鐘楼に駆けつけた時には狙撃手の姿は無かったと。だが、狙撃地点と思われる場所に真新しい煙草の吸い殻が捨ててあったそうだ。あの場に何者かがいたのは間違いない」
シャーロックは電報の紙切れをひらひらと振ってみせた。
「お前なら、その煙草の灰から犯人を特定できるんじゃないか?」
「どうだかな。一応後でヤードに行って見せてもらうが、どこの店でも取り扱ってる安煙草だそうだ」
「望み薄か……。だが、犯罪卿は結局何がしたかったんだろう。奴なら、誰にも見つからない方法で男爵を殺すことだってできたはずだろう?」
前を歩くシャーロックは、苦い顔で頷いた。
「……犯罪卿は二二一Bに手下を送り込んで、わざわざ『クリス・ソーンダーズ』と名乗らせた。ハドソンさんの話を覚えてるか? 奴は『ホームズさんにお伝えしたい事件がありまして』と言ったそうだ。おかしいだろ? 普通の依頼人なら『解決してほしい事件が』とか『解いてほしい謎が』とか言うはずだ」「確かに……。つまり、犯罪卿の目的は、この事件を俺たちに伝えることだったのか?」
「奴は、俺たちに正義を問うている。法で裁けない悪に直面した時どうするか、を」
「正義……」
言われてみれば、私たちは今、三ヶ月前のマリアとよく似た状況にあるのかもしれない。
目の前に罪を犯した者が確かにいるのに、手元にあるのは状況証拠ばかりで、相手を告発するには材料が足りない。
マリアには確かに男爵を殺す動機があるが、狙撃犯を手引きした確たる証拠は今のところ無い。昨夜二二一Bに現れた偽クリスだって、事件とは無関係なイタズラであった可能性は否定しきれない。
そもそも、犯罪卿が実在するかどうかさえ疑わしいのだ。犯罪界の王が裏で糸を引いているというシャーロックの推理さえ、事情を知らぬ者が聞けば一笑に付されるだけだろう。
「奴は……犯罪卿は、俺たちを翻弄して嘲笑っているということか? いくら犯罪卿のやり方が間違っていると主張したところでできる事なんてないだろう、と」
「……証拠を探そう。結局、俺たちにできるのはそれしかねぇ」
そう言ったシャーロックの目には、強い決意が籠もっているように感じられた。普段、謎を追う彼の目は常に未知への探求心に輝いているはずなのに。
「狙撃手が残していった痕跡が他にもあるかもしれねぇし、クリスに化けた男の足取りが掴めるかもしれねぇ。一番望みがあるのは、マリアがボロを出すことだ。もっとも、犯罪卿もそれを見越して余計な情報は与えていないだろうが……。貴族が白昼堂々狙撃されたとなりゃ、スコットランド・ヤードも黙っちゃいない。証拠が出るまで地面を這いつくばってでも調べ尽くして、必ず奴らの尻尾を掴む。それが俺たちの回答だ。そうだろ?」
目の前に光明が差した気がした。
状況が好転したわけではないのだから、もちろんそれは錯覚だ。だがシャーロックには、常に光の射す道を選び取る才覚と勇気がある。少なくとも私はそう考えていた。
「そうだな、俺ももっと頑張るよ」
「あ? ジョンは別に……」
「お前の相棒としての仕事ももちろんだが、作家コナン・ドイルとして。お前の活躍をたくさん小説にして、もっともっと多くの人に読んでもらう。マリアさんのように追い詰められてしまった人が、犯罪卿なんかじゃなく、名探偵を頼ってみようと思える世の中になるように」
シャーロックは豆鉄砲をくらった鳩のように、目を丸くして私の方を見返した。だがすぐに、片頬を上げて皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「デカい口叩きやがる。来週の締切、伸ばしてもらったばっかのくせに」
「う。タイプライターでも買ってみようかな……」
「やめとけ。持て余すだけだ」
普段と変わらない軽口を叩き合いながら、私たちは歩いていく。
事件の解決が常に劇的で華麗であるとは限らない。長い戦いになりそうだった。
***
「今日も陸軍省にスコットランド・ヤードの刑事が尋ねてきたそうだ。狙撃手のリストを渡せと」
アルバートがそう報告したのは、マーカム男爵を葬ってから一ヶ月が経過したある日、夕食を終えて、居間で談話を楽しんでいる時のことだった。
ウィリアムは目を通していた新聞から顔を上げる。
「男爵殺しの容疑者探しですか?」
「ああ。軍属の狙撃手をしらみ潰しに当たるのは悪くない手だが……まったく、ご苦労なことだ」
アルバートの口ぶりからは余裕が感じられた。
例え陸軍省がヤードに狙撃手リストを渡したとしても、真犯人へたどり着くことは難しいだろう。何しろ、その名はもはや戦死者リストにしか載っていないのだから。
「フレッドの方も、問題なく?」
「はい。ベイカー街の人の流れは、今や彼が誰よりもよく知悉していますから。二二一Bの窓から抜け出した彼を目撃した者は一人もいませんよ」
「お前の計画はいつも完璧だ」
「優秀な彼らが、手足となって働いてくれるお陰です」
謙遜しながらも、ウィリアムは心持ち頬を染めた。最初のクライアントたるこの人からの称賛は、いつだって心地良い。
「だが、ホームズはまだ諦めていないようだね」
「ええ。ですがそれも想定通りです」
シャーロック・ホームズは、いまだ警察と協力してこの事件の捜査に当たっている。
「……マリア・ソーンダーズに捜査の手が及ぶのも、時間の問題でしょう」
「ウィル」とアルバートが労るように名を呼んだ。
「その点については彼女自身が望んだことだろう。彼女が法廷に引き出されることになれば、クリスの死にまつわる疑惑が必ず争点となるからね」
「それは、そうなのですが……」
「お前のせいではないよ」
遮るアルバートの声はこの上なく優しい。
この人だけが、僕の罪悪感を知っている。
その事実に心が安らぐのと同時に、それを利用して優しい言葉を引き出すような振る舞いをしてしまったことへの自己嫌悪が湧いた。
ウィリアムは新聞をテーブルに戻し、立ち上がった。
「もう休みますね。昨夜も夜更かししてルイスに心配をかけてしまいましたから」
アルバートはまだ何か言いたげだったが、すぐに物憂げな表情を引っ込めて「ああ、お休み」と微笑んでくれた。
部屋に戻って一人になると、ウィリアムはデスクの引き出しを開けた。
中に、液体の入った小瓶がある。フレッドに指示して二二一Bから盗み出させた、血液試薬の小瓶だ。
ウィリアムは小瓶を手の中で転がしたり、光に透かして眺めたりしながら、しばらくぼんやりと物思いに耽っていた。
科学薬品に関して彼ほどの知識を持ってはいないから、これがどんな成分でできているのかは分からない。だがこの小瓶の中の液体を振りかけると、真っ赤な血はたちまち青く変色し、くっきりと浮かび上がった。
その青を目にした時、ウィリアムはそばにいる仲間の存在も忘れてしまうほど高揚した。
もしこの液体を、自らの指先に振りかけたらどうなるだろう。
両手が真っ青に染まる光景を夢想して、ウィリアムは知らず知らずのうちに恍惚のため息をついた。
何度拭い落としても消えない血の跡。彼の作った薬品が、この罪を白日のもとに晒してくれる。そうなったら、どんなにいいだろう。
「Catch me if you can……」
呟いたのは、いつかの列車で彼に向かって投げかけた言葉だった。
早く、この罪を証明してみせて。
ひんやりと冷たい小瓶の中の、無色透明な液体を、ウィリアムは飽きることなくいつまでも眺めていた。
初出:Pixiv 2025.02.16
犯罪卿が暗躍して221B組が事件解決に奔走するお話。
「……それが、証拠品なのですね」
告解室の格子の向こうから、低い声が響く。半ばまで溶けた蝋燭が室内を照らしているが、格子の奥に座る相手の顔までは見えなかった。
女は「はい」と震える声で答えた。
「あの事故……いいえ、『事件』のあった夜に、旦那様が書斎の暖炉で燃やそうとしていたのです。ゴミの処理など、普段であれば私たち使用人にさせるはずなのに」
格子の向こうから白い手が伸びてきて、女が差し出した包みを開いた。若い男の手だった。あまりじろじろと見てはいけない気がして、女は目を伏せる。
包みの中には、半分焼け焦げた、緋色の布切れが入っていた。何か問われるより先に、女の口が勝手に動いて補足する。
「テーブルクロスです。旦那様はこっそりと燃やそうとしたのでしょうけど、ひどく煙が出たようです。悪態をつきながら書斎から出てきました。私は何かあるのだと確信して、書斎に忍び込み……」
「そして、炎の中から苦心してこれを取り出した?」
「はい」
「その事を、あなたの主人は勘づいていますか?」「いいえ。代わりに別のテーブルクロスを燃やしておいたので、気づいていないはずです」
「……いいでしょう」
長い指先が音もなく動いて、包みを元の通りに戻すと格子の向こうに引き込んだ。
受け取ってもらえた。信じてもらえたのだ。
女は思わず椅子から腰を浮かせた。
「では……!」
「貴女のお話の裏を取る必要があります。これが、真に罪の証であるかどうかを。結果は、追ってご連絡します」
蝋燭の炎が僅かに揺れた。格子の向こうの男が席を立ったらしい。
立ち去る足音は聞こえなかった。けれど男の気配はふっつりと消えてしまった。深夜の廃教会に広がる静寂が、今になって押し寄せてくるようだった。
女は身震いしながらその場を後にした。たった今まで自分が誰かと話していた事に、急激に自信が持てなくなっていた。それくらい、格子の向こうの相手には現実味が無かった。
あの人は本当に犯罪卿だったのだろうか?
私の願いを聞き入れて、兄の無念を晴らしてくれるのだろうか?
確信は少しも持てなかった。だが、あの事故の後、彼女の話にまともに耳を傾けてくれた者はいなかった。警察は始めから貴族の味方だったし、他の使用人たちも、職を失うことを恐れて口をつぐんだ。
あの時のことを思い出すと、彼女の目に自然と悔し涙が滲んだ。
もう誰だっていい。
あの男に天罰を下してくれるなら。
*
ある日の夜、二二一Bの大家ミス・ハドソンは夕食の後片付けをしていた。
時刻はすでに八時を過ぎていたが、シャーロック・ホームズと私――ジョン・H・ワトソンが、予定の時刻を過ぎても戻らず、落ち着かない気持ちだったという。三人前のスープを煮込んだ鍋に蓋をしながらため息をついた時、呼び鈴が鳴った。
彼女は急いで玄関へ向かった。
「もう! 遅くなるなら連絡してって、いつも……」
言葉は尻すぼみになって地面に落ちた。
玄関のドアを開けた先に立っていたのは、見知らぬ青年だったのだ。礼儀正しく帽子を取った青年は、困惑の表情を浮かべている。
ミス・ハドソンは慌てて取り繕った。
「あら! ごめんなさい。てっきりシャーロックたちが帰ってきたのかと……」
「え、シャーロック・ホームズさんはご在宅ではないのですか?」
「ええ。七時の列車でロンドンに戻ると聞いていたのですけど」
そう答えてから、ところでこの人は誰なのかしら、とハドソン夫人は気になった。視線に気づいた青年は、背筋を伸ばしてお辞儀をした。
「私はクリス・ソーンダーズと申します。マーカム男爵家の使用人で、シャーロック・ホームズさんにお伝えしたい事件がありましてお伺いした次第です。……よろしければ、お戻りになるまで、中で待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
ハドソン夫人は、この青年の言葉を疑わなかった。
ホームズ不在の二二一Bで依頼人を待たせることはこれまでも度々あったし、何より目の前の青年の物腰は丁寧で、きちんと教育の行き届いた使用人に見えたからだ。
男爵の使いだと言ったから、このまま追い返せば主人に叱られてしまうだろう。どうせ、シャーロックたちはもうじき戻ってくるはずなのだ。中に通して、待たせてあげればいい。
そうしたごく当たり前の親切心から、ハドソン夫人は青年を二二一Bに招き入れた。
「散らかっていますけどお気になさらず。お茶を入れてきますから、そこに掛けて待っててくださいな」
「いえ、どうかお構いなく」
青年ははにかみながら椅子に腰を下ろした。
ハドソン夫人はにこりと微笑み返して、一階のキッチンへ下りていった。お湯が沸くのを待つ間、何かお菓子でも出してあげようかと戸棚を探っていると、また呼び鈴が鳴った。
今度こそ帰ってきたかと玄関へ急いだが、訪ねてきたのは郵便配達人だった。
「ミス・ハドソン。電報です」「どうもありがとう。遅くまでご苦労様です」
受け取った紙片に目を通して、ハドソン夫人は「あらやだ」と声を上げた。
それは、例によってシャーロックとともに事件の調査に出かけていた私からの電報だった。事件を無事解決させたところ依頼人がいたく喜び、夕食会へ招待されることになったため今夜は戻らない……といった内容だった。
事件解決の報にハドソン夫人は安堵したが、同時に二階で待たせているソーンダーズ青年のことが気にかかった。仕方がないので今日のところは帰ってもらって、明日以降に出直してもらうしかないだろう。
「ソーンダーズさん。今電報が届きまして、すみませんが今夜は……あら?」
ハドソン夫人はドアの前で立ち尽くした。クリス・ソーンダーズの姿がどこにもなかったからだ。
家主不在のリビングルームを、石油ランプの明かりが侘しげに照らしている。ソファの上にも、本棚の前にも、隣の寝室にさえ、ソーンダーズはいなかった。 夜風がひゅうと吹き込んできて、ハドソン夫人は窓が開け放たれていることに気がついた。
*
私たちが帰宅したのは、その翌日の昼近くになってからだった。
キングスクロス駅で待ち構えていたベイカー街非正規隊のウィギンズ少年から事の次第を聞かされ、私とホームズは辻馬車を飛ばして二二一Bへ帰り着いた。
ハドソン夫人は青い顔で私たちを出迎えた。
「二人ともごめんなさい、私……」
「馬車の中でウィギンズくんから聞きましたよ。怖かったでしょう。ハドソンさんが無事でよかったですよ」
玄関口で話していると、奥からレストレード警部が顔を出した。
「お、帰ってきたか」
「お前も来てたのか、レストレード」「私が来てもらったの。非番なのにごめんなさい」
「いえいえ、お安い御用ですよ」
「ちゃっかり朝飯まで食ってるんだから、タダ働きってわけでもねぇだろ」
レストレード警部のシャツの襟についたトーストのくずを見やりながら、シャーロックが呟いた
「ゴホン。……部下たちにざっと周囲で聞き込みをさせたが、不審な人物は目撃されていない。ともかく、盗まれているものでも無いか、上で確認してくれ。調書を取るのはそれからだ」
私たちは二階へ上がった。
ハドソンさんが目を離した隙に依頼人が忽然と姿を消したというが、ぱっと見た感じ、室内に荒らされた形跡はない。もちろん、普段からシャーロックが散らかし放題にしているから、見た目だけでは何とも言い難かったが。
私は手早く自分の持ち物を調べた。だが現金や懐中時計といった貴重品はおろか、書きかけの新作原稿に至っても手を付けられた痕跡はない。
「シャーロック。僕の方は大丈夫そうだ。そっちはどうだい?」
返事はない。シャーロックはキャビネットの前で固まっていた。
「どうした? やっぱり何か盗まれてたのか?」
「ジョン、あの本はどこにある?」
「え? あの本?」
「お前が書いた小説だよ! 緋色の……」
私が自分の書棚から『緋色の研究』を取ってくると、シャーロックはひったくるように奪ってページをめくり始めた。
「やっぱりだ! お前、書いたんだな!」
シャーロックは私の鼻先に開いた本を突きつけた。二人の男が握手を交わしている挿絵がある。私とホームズが初めて出会うシーンだった。
「そ、そりゃあ書くさ。あれほど印象深い出会いもなかったから……」
「だからって血液試薬のことまで書く必要なかったろ!」
「試薬?」
「一度血が付着すれば、それが何ヶ月前のものであろうと血の痕を浮かび上がらせる試薬だよ。くそっ、そのクリス・ソーンダーズって野郎の目的は血液試薬だったんだ」
シャーロックはがしがしと髪をかきむしった。
キャビネットには無数の小瓶がひしめいていたが、確かによく見ると一本分の空きがある。
私とシャーロックが初めて出会ったあの日、彼は牛の血を使った実験をしていた。あの時開発された薬が盗まれたとシャーロックは言う。
だが、何のために?
私とシャーロックは部屋中をもう一度探し直してみたが、血液試薬の瓶はどこにも見当たらなかった。
私たちが一階に下りて事情を説明すると、ハドソン夫人はますます困惑した様子だった。
「えっと、血の痕を調べる薬……が盗まれたの? どうして?」
「それは分かりません。でも、他になくなった物も無さそうで……」
「本人に聞きに行けばいい」と警部。
「その男は、マーカム男爵家のクリス・ソーンダーズと名乗ったのですよね?」
「ええ……」
「マーカム男爵の屋敷はメイフェア通りにある。警察官の俺が同行すれば、話くらい聞かせてもらえるだろう。それで構わないよな、ホームズ? ……ホームズ?」
シャーロックは両手の指の先を突き合わせて、考えに耽っていた。私たち三人の視線が集まっていることに気がついて、ようやく顔を上げる。
「……ん? ああ、それでいい。行こう」
シャーロックはさっさと歩き始めた。
「あ、待てよシャーロック! ……すみません、ハドソンさん。行ってきます」
「え、ええ。行ってらっしゃい。気をつけてね」
「部下に見回りをさせていますので、何かあればすぐに呼んでください」
私と警部はばたばたと慌ただしくシャーロックの後を追った。
*
「犯罪卿だ。奴の仕業に違いない」
ベイカー街で辻馬車を捕まえて乗り込むなり、シャーロックは確信を込めた声でそう断言した。
私とレストレード警部は顔を見合わせる。警部はあからさまに「またそれか」と言いたげな表情を浮かべていた。
「シャーロック。いくらなんでも判断を下すのが早すぎるんじゃないか?」
「いいや。この周到さは間違いなく奴だ」
「周到さ?」
私が声を上げると、シャーロックは呆れたようにため息をついた。
「気づかなかったのか? 俺たちがこの馬車に乗るのと入れ違いに、二二一Bの前に工具を抱えた修理人が来てただろ。昨日の夜、二二一B前のガス燈だけが壊れてたんだ。そうだろ、レストレード?」
「む……確かに」
「二二一B前のガス燈だけが何故か壊れていて、辺りはいつも以上に薄暗かったはずだ。そしてまだ人通りの多い夜八時に、窓から逃げ出したはずのソーンダーズの姿を誰も見ていない。偶然のはずがないだろ?」
「だが……それだけで犯罪卿の仕業だとは断定できないんじゃないか? 例えば、ソーンダーズは何か重大な事件の犯人で、シャーロックが発明した血液試薬が捜査に使われると有罪判決を下されてしまうような立場にあったから、自分の罪を隠すために盗みを……」
「それなら、製法ごと盗んだ上で俺を殺さなきゃ意味ないだろ。試薬の瓶ひとつ盗んで何になるって言うんだ」
「う。まぁそうなんだが……だとしたら、何故奴は血液試薬を盗んだんだ?」
「試薬そのものに用があったとしか考えられないが、現時点では断定できない」
「だよな。男爵家で本人に直接話を聞けるといいんだが……」
「それもだ」とシャーロック。
「奴は何故、わざわざマーカム男爵家の使用人だと名乗った? ハドソンさんを騙したかったなら適当な会社や団体をでっち上げるだけでよかったはずだ。あえて実在する貴族の名を使うなんて『ここに訪ねてこい』と言っているようなものだ」「まさか、俺たちは今まさに誘い出されているのか?」
「どうだ? これでもまだ、裏で糸を引いている奴はいないと思うか?」
「…………」
私と警部はもう一度顔を見合わせた。
御者が手綱を引き、私たちの乗る馬車はメイフェア通りのマーカム男爵家に到着した。
*
呼び鈴を鳴らすと、すぐに生真面目そうな執事が出てきて応対した。
「このお宅にクリス・ソーンダーズさんはいらっしゃいますか?」
レストレード警部が身分証を提示しながらそう尋ねると、執事は怪訝そうに眉根を寄せた。
「く、クリスですか? ここには……おりません」
「クリスさんのことはご存じのようですね。彼は今どこに?」
「あの、どのようなご用件でしょう?」
「彼が昨夜、ここにいる二人の家で盗みを働いた疑いがあります。その件でお話を伺いに」
「盗みですって? クリスが、昨夜?」
「彼はどこに?」
執事の受け答えが要領を得ないので、レストレード警部が口調を強くした。執事はしどろもどろになりながら答える。
「彼は……死にました。三ヶ月も前に」
「なんだって!?」
今度は私たちが困惑する番だった。
クリス・ソーンダーズがすでに死んでいたのなら、昨夜二二一Bを訪ねてきたのは一体誰だったのだ?
唯一、シャーロックだけは驚いた様子も見せずに険しい顔で考え込んでいる。
「あの。ですから、その件は何かの間違いかと思われますので……」
執事がやんわりと私たちを帰らせようとした時、どこかで何かが割れる音がした。見計らったようなタイミングだった。
「何だ?」
ぱたぱたと室内を駆ける足音がした。
使用人の誰かが皿でも割ったのかと思われたが、続いて上がった甲高い悲鳴に、そうではないことを悟った。
すかさず、シャーロックが執事の脇をすり抜けて屋敷の中へ飛び込んだ。尋常でない事態が起こっている。私たちもその後に続いた。
広々とした玄関ホールを抜けて、シャーロックが階段を一段飛ばしで駆け上がる。二階の廊下に、年老いたメイドが腰を抜かして座り込んでいた。彼女はわなわなと震えながら、開いたドアの向こうを指さしている。
「あ、だ、旦那様が……!」
部屋へ駆け込んで私たちが見たものは、暖炉に頭を突っ込むようにして倒れ込んだ男の姿だった。
ゆったりとしたスモーキング・ガウンを羽織り、床に投げ出された左手には豪奢な指輪が輝いている。間違いなく、彼がこの屋敷の主であるマーカム男爵だろう。
暖炉に火は入っていないものの、煤と灰に塗れた男爵はぴくりとも動かない。その頭部には大きな穴が空いていて、鮮血がとめどなく溢れていた。
「ジョン!」
シャーロックが叫んで、私の腕を引いた。私は無意識のうちに、倒れている男爵のもとに駆け寄ろうとしていたのだ。
何故止めるのかと怪訝に思うより先に、シャーロックは部屋に入ろうとしていたレストレード警部に向かって怒鳴った。
「死体に近づくな! 狙撃だ!」
廊下に座り込んでいたメイドがもう一度悲鳴を上げた。
倒れた男爵から部屋の反対側へと視線を移すと、砕け散った窓ガラスが床に散乱していた。さらに窓の向こうには、遠くに教会の鐘楼と思しき建物が見える。
暖炉と窓と鐘楼。この三つが頭の中で一本の直線によって結ばれ、私は慌てて後ずさった。
暖炉の前で倒れ伏した男爵は明らかに事切れている。彼はロンドン市内からそう遠くないこの屋敷で、白昼堂々狙撃されたというのか?
「どうしたの? 何かあったの?」
不意に、場違いな甲高い声が響いた。
子供が一人、階段を上がってくるところだった。まだ十歳にもならないような可愛らしい男の子だ。おそらくは男爵の息子なのだろう。
腰を抜かしていた老メイドが我を取り戻し、恐ろしい死体が目に入らぬよう少年をその場に押し留めた。
「あの鐘楼に狙撃手がいる。レストレード、ヤードに連絡して応援を……」
「いや、この距離なら直接行った方が早い。執事さん、馬か自転車を貸してください。あと通報も頼みます!」
「は、はいっ」
レストレード警部は猛然とした勢いで屋敷を飛び出していった。非番の日に我々に付き合ってくれただけの彼は拳銃も所持していないはずだったが、止める暇もなかった。
やがて異常事態を察した使用人たちが、不安げな顔をしながら集まってきた。シャーロックは執事に指示をして、警察が到着するまで誰も屋敷から出ないよう厳命した。
動転した執事は私たちが警察関係者ではないことをすっかり忘れてしまっているようだった。おかげで、シャーロックは大手を振って現場検証を始めることができた。
彼は壁伝いに窓辺へ近づくと、さっとカーテンを閉めた。
「そ、それだけで大丈夫なのかシャーロック? せめて鉄板でも立てないと……」
この距離で、それも窓ガラス越しの狙撃を成功させたのだ。相手が狙撃手としてかなりの手練れであることは私でも分かった。
「見えない的を狙うほど馬鹿じゃないだろ。それに、まだあの鐘楼の上でモタモタしてくれてるならレストレードがふん縛ってくれる。願ったり叶ったりだ」
シャーロックは平気な顔で死体を検分し始めた。カーテン一枚が盾とは何とも心許ないが、私もおっかなびっくり、彼に続く。
男爵の死体は、暖炉の中に突っ伏すように倒れていた。ここしばらくは暖かい日が続いていたから、暖炉に火が入っていなかったのは不幸中の幸いだ。
遺体にはまだ温かさが残っていた。傷口から溢れた血は乾いてすらいない。後頭部から飛び込んだ弾丸は、男爵の頭の中をめちゃくちゃに破壊したらしかった。
シャーロックは、男爵の足の位置と暖炉との距離を確かめた。
「もしこの位置に立っていて狙撃されたなら、倒れた拍子にマントルピースに頭をぶつけていただろう。だが頭部には銃創以外の傷跡はない」
「つまり?」
「男爵は撃たれる直前、暖炉の前に屈み込んでたってことだ。寒くて暖炉に薪を焚べようとしたわけじゃなさそうだが……」
死体のそばに屈み込んだシャーロックは、すぐに奇妙なものを見つけた。
「ジョン、ちょっとそっちを持って、こいつの体を持ち上げてくれ」
「えっ、冗談だろ」
「いいから、早くしろ」
シャーロックの指図で、私は恐る恐る男爵の肩を掴んで、床から少しだけ浮かせた。その隙間に、シャーロックが素早く手を突っ込む。
「何だこれは?」
シャーロックが引っ張り出したのは、紅い布だった。男爵の身体の下敷きになっていたらしい。
焼け焦げて大きな穴がそこら中に空いているが、案外しっかりとした生地だったようで、床に広げてみてもばらばらにはならなかった。
元は大きな布の一部だったらしい。布の中央の辺りには、いくつかの小さな穴と黒っぽい染みが広がっている。
「何だろう。焼けているということは、男爵はこれを暖炉で燃やしていたのか?」
「いや。暖炉にはしばらく使われた形跡がない。むしろこれから燃やそうとして、暖炉の前に屈み込んだんじゃないか?」
「だが焦げ跡がついてるぞ。一度燃やそうとして、やっぱり止めて、もう一度燃やそうとしたって言うのか?」
「…………」
シャーロックは答えなかった。彼の視線は、焼け焦げた緋色の布に釘付けになっている。
その時私はようやく、シャーロックが指先でなぞっている箇所の異変に気がついた。
「何だろう? この部分だけ、染みが青っぽく変色しているな」
「ああ……」
生返事をして数秒黙り込んだ後、シャーロックはぐるりと廊下の方を振り返った。先ほどから、使用人たちが怯えた様子で室内を伺っていたのだ。
「最後にこの部屋に入ったのは誰だ? もちろん、男爵本人を抜きにして」
問われて、使用人たちにかすかな動揺が走る。だが即座に、若いメイドが手を挙げた。
「私です。朝食の後に掃除をしました」
「その時、この布はあったか?」
「いいえ、ありませんでした。暖炉の中までは見なかったので断言はできませんが」
「カーテンは?」
「私が開けました」
「部屋を出る時も、閉めなかったか?」
「はい。今日はお天気も良かったので」
シャーロックから投げられる問いに、メイドは淀みなく回答した。
その淀みのなさに、私は少し違和感を覚える。
たいていの人間は、殺人事件の現場で探偵に質問を投げかけられると多少なりとも動揺するはずだ。記憶違いが無かっただろうか、まずい答え方をして自分が疑われたりしないだろうか、と不安になるのだ。
しかし目の前の若い娘は、挑みかかるような目つきでシャーロックの顔をまっすぐに見据えている。
私が気づいた違和感に、シャーロックが気づかないはずがない。彼は何か確信を得た鋭い目つきで、彼女に向かって問いかけた。
「……あんたの名前は?」
「マリアです。マリア・ソーンダーズ」
「ソーンダーズだって?」
私は驚きの声を上げた。
「あなたは、クリス・ソーンダーズさんの?」
「ええ、妹です。それが何か?」
彼女は堂々とした態度で頷いた。勝利宣言のような、どこか攻撃的な口調だった。
兄妹で同じ屋敷に仕えていることなど、別段珍しくもない。だが、三ヶ月も前に死んだはずの兄の方が昨晩二二一Bに現れたことと、目の前の彼女が無関係だとは思えなかった。
戸惑っているうちに、階下から人の話し声が聞こえてきた。スコットランド・ヤードから応援の警察官たちが到着したらしい。
シャーロックは深いため息をつきながら立ち上がった。
「戻るぞ、ジョン。あとはヤードに任せよう」
「シャーロック……だが、」
「何が起こったかは明白だ。ここに解くべき謎はない」
私たちは駆けつけた警察官にひと通りの説明を済ませてから、屋敷を去った。その間あの若いメイドは一言も口を挟まなかったが、頬を紅潮させ、どこか興奮した様子だった。
馬車の中で、シャーロックは終始無言であった。
*
二二一Bに帰り着くなり、シャーロックは古新聞の山を漁り始めた。何を探しているのかと私が問いかけるより早く、彼は目当ての記事を見つけ出したようだった。
「……あった。日付もちょうど三ヶ月前だ。読んでみろジョン」
それだけ言われると、私にも何となく予測がついた。クリス・ソーンダーズが死亡した事故を報じた記事だった。
「ハンティングの最中に、か……」
三ヶ月前、マーカム男爵領の森で鹿撃ちが催された。幾人かのゲストも招かれ狩りに参加したが、使用人のクリス・ソーンダーズは随伴せず、同僚たちとともに別荘に残って仕事をこなしていた。
だが、正午近くなった頃、九歳になる男爵の一人息子の姿が見えないと騒ぎになった。彼は前夜、夫人や他の女性たちとともに別荘で留守番をすることを不満がっていたという。
もしや、父親たちの後を追ってこっそりと森に行ったのではないか。
最悪の事態が頭を過ったクリス・ソーンダーズは大慌てで別荘を飛び出し、少年を探しに行った。
「『そうして森に入ったクリスは、誤って猟銃で撃たれ、即死した。事故発生時、彼は地味な焦げ茶色のジャケットを着用しており、男爵は視界の悪い木立の中で彼を鹿と誤認して発砲してしまった』……ああ、『男爵の息子は屋根裏部屋に隠れて遊んでいただけだった』とある。なんて不運な……」
「『不運』? 不運なもんか。そんな言葉で片付けていい話じゃない」
シャーロックが低い声で唸った。
私は昨晩から今日にかけて起こったことをもう一度振り返ってみた。
三ヶ月前に死んだはずの男が二二一Bに現れ、血液試薬の小瓶を盗んで消えた。彼を追って訪れた男爵家で、男爵本人が何者かにより狙撃され、死亡した。暖炉からは焼け焦げた紅い布が発見され、その朝現場を掃除したメイドは、死亡した男の妹だった。
「シャーロック。お前には何が見えている?」
「…………」
シャーロックは長い間黙り込んでいた。
私を部屋から追い出さないということは、話す気が無くはないようだ。私は彼の向かいに腰掛けて、辛抱強く待った。
やがて、シャーロックは髪を掻きむしりながら呻いた。
「……ああくそっ、ダメだ! ジョン、とにかく俺の推理を聞いてくれ」
「わかった。何でも聴くよ」
「結論から言う。三ヶ月前、マーカム男爵がクリス・ソーンダーズを撃ち殺したのは不幸な事故じゃねぇ。明確な悪意のある殺人だった。そして事実に気づいた被害者の妹……マリア・ソーンダーズは、犯罪卿に報復を依頼した」
「いささか飛躍しすぎているように思えるが……そう考える根拠は何だ?」
「順を追って説明する。まずは三ヶ月前、クリス・ソーンダーズが死んだ件だ。彼は男爵の息子を探して、まさにハンティングが行われている最中の森に入った。そして、男爵に誤って射殺された。原因はクリスが目立たない地味な上着を着ていて、男爵が彼を鹿と見間違えたからだ、と新聞にはある」
実際、ハンティング中の事故は少なくない。
原則として、狩りの参加者や勢子たちはお互いに射線に入らないように移動することが徹底される。だからこそ、そこから外れて動くものがあれば、獲物が飛び出してきたに違いないと反射的に銃を構えてしまう。人間でなくとも、猟犬が誤射されることもある。
「事実はそうではなかったと?」
「暖炉から出てきた、あの紅い布だよ。カーテンだかテーブルクロスだかわからないが、あれは元は一枚の大きな布だった。クリスはおそらく別荘を飛び出す直前にあの布に目をつけたんだろう。人並みの分別があれば、猟銃を持った連中がうろついている森に目立たない格好で入っていくのがどれだけ危険かは分かっていたはずだ。だから、あの真っ赤な布をマントみたいに羽織って森へ入った」
「それが事実だとしたら……」
「ああ。いくら視界が悪かろうが、野生動物と見間違えるはずがない。男爵は故意にクリスを射殺した。そして、警察にその事を疑われないように紅い布だけを回収した」
私は、暖炉から見つかった紅い布にべったりと染みた黒い染みを思い出して身震いした。あれは気の毒なクリスの血だったのだ。
「じゃあ、布についた染みの一部が青く変色していたのは……?」
「それはこれから説明する」
シャーロックは落ち着かなさそうに椅子に座り直した。
「事件の後、男爵は密かにあの紅い布を燃やして処分しようとしたんだろう。だがそれをマリアが見つけて回収したんだ。彼女も、兄の死が不幸な事故だったと一度は納得したのかもしれない。だが、男爵が血のついた紅い布をコソコソと燃やそうとしていたのなら話は別だ。彼女は真実に気がついた。兄は故意に撃ち殺されたのだと」
シャーロックはそこで一度言葉を切って唇を舐めた。話が核心に迫ろうとしているのだ。
「だが、布を回収したところでマリアに打てる手はなかった。クリスの死は事故として処理された後だったし、布に残された黒い染みが血痕である証拠はない。『ワインをこぼしてしまった』とか、言い逃れはいくらでもできる。警察に訴え出たところで再調査すらしてもらえないだろう」
「……だから彼女は犯罪卿を頼った、と?」
「そうだ。マリアが犯罪卿とどうやって接触したかは分からねぇ。ともかくマリアは奴に会って、兄の死の真実を訴えた。だが犯罪卿にとっても、マリアの話が事実であるという確証はなかった。不幸な事故で家族を亡くした人間が、事実を受け入れられず妄想を膨らませているだけとも考えられる。そこで奴が思い出したのが、俺が作った血液試薬だ」
「じゃあ、昨夜ハドソンさんの前に現れたクリスは……」
「おそらくは犯罪卿の手下の一人だろう。ホープの事件の時、老婆に化けてた男か……今度は大胆にも俺たちの留守を狙って上がり込んできたわけだ」
背筋が寒くなった。それでは私たちは、これから出会うすべての人を疑わなければならないではないか。
「じゃ、じゃあ、犯罪卿は紅い布に残された染みが血痕であることを確かめるために、血液試薬を盗んだって言うのか?」
「ああ。お前の言いたいことは分かるぜジョン。あの染みが血痕だったからといって、男爵が殺意を持ってクリスを撃った証拠にはならない、だろ?」
「その通りだ。確かに状況からしていかにも怪しいが、たったそれだけで断定することはできない。あの日のハンティングの最中に仕留めた鹿の血だったかもしれないし、それこそ、クリスに応急処置をしようとして付着した血かもしれないだろ」
「そうだな……だから、犯罪卿は二つ目のチェックポイントを用意したんだ」
「チェックポイント?」
「犯罪卿はマリアに紅い布を返却し、彼女にこう指示した。『これを男爵の部屋の暖炉の前に落とせ』と。ジョン。もし自分の部屋の暖炉の前に薄汚い布がばら撒かれてたら、どうする?」
「もちろん、拾って片付けるが……」
「お前が貴族だったとしたら?」
「……そうだな、もし俺が貴族だったなら、自分で掃除をしたりしない。使用人を呼んで片付けてもらうだろう」
「そうだ。マーカム男爵も当然そうするはずだった。だが男爵にとってあの紅い布は、三ヶ月前に焼き捨てたはずの罪の証に他ならなかった。だからあえて人を呼ばず、自らの手で片付けようと暖炉の前に屈み込んだんだ。数百ヤード離れた鐘楼の上から、狙撃手に狙われているとも知らずに」
「それが、二つ目のチェックポイント……」
「ああ。俺の推理は以上だ」
シャーロックはもう一度大きくため息をついて、背もたれにだらりと背を預けた。
私はシャーロックの推理を頭の中で反芻した。
シャーロックは、「犯罪卿は義賊である」と言う。奴はホワイトチャペルの殺人鬼たちを皆殺しにし、冤罪事件を解決させるため暗躍していた。
そして今回は、身勝手に兄を殺された女性の復讐を代行したというのか?
紅い布に残された血痕と、それを隠蔽しようとした男爵の行動。この二つが揃った時点で、犯罪卿は男爵を『有罪』と見なし、即座に死刑を執行したというのか。
「……こんなやり方は、間違ってる」
私の口から言葉が漏れた。
「確かに、正攻法で男爵を裁くのは難しかったかもしれない。これは僕が当事者でないから言えるだけなのかもしれない。だけど……男爵にだって言い分はあったかもしれないだろう。もしかしたら、本物の鹿を撃とうとした瞬間にクリスが飛び出してきたのかもしれないじゃないか」
シャーロックは姿勢を直して、真剣な表情でまっすぐに私の目を見ている。
「あれは本当に不幸な事故で、だけど故意に撃ったのではないかと疑われることを恐れて、クリスが身に着けていた、目立つ紅い布を隠してしまったのかもしれない。男爵には小さな息子もいたんだ。もちろん、だからと言って許されることではないが……でも、本当のところは誰にも分からない。貴族だって人間だ。嘘や隠し事だってするだろう。犯罪卿は、その間違いを正す機会を奪った。それもまた、許されることじゃない」
「……お前もそう思うか、ジョン」
「ああ」と私は頷き返した。
「そうだよな。……お前も、そう思うよな」
シャーロックが深く頷いたとき、控えめなノックの音がした。ハドソンさんだ。
「シャーロック。電報よ」
「……ああ、ありがとう」
小さな紙片に書かれた文字をシャーロックが読んでいる間、ハドソンさんはどこか落ち着かない様子だった。彼女には何の落ち度もないが、物盗りを部屋に通してしまった負い目があるのだろう。
「もしかして、昨日の泥棒のこと……?」
「……ああ。あんなもん盗んだってどうにもならねぇのに、馬鹿なやつだよ。ま、じきにレストレードが捕まえるだろ」
ごく軽い調子で、シャーロックは答えた。
あからさまな嘘だったが、ハドソンさんはそれをころりと信じた。「そう? なら良かったわ」と表情を明るくして、ようやく肩の荷が下りたといった様子で胸を撫で下ろしている。
「レストレードに用が出来た。ちょっと出てくる」
シャーロックは電報を胸ポケットにしまうと、手にしていた古新聞を無造作に――だがハドソンさんがうっかり読んでしまわないように、書類の山に押し込んだ。
「さっき帰ってきたばかりなのに、また出ていくの? 忙しないわね」
「夕食までには戻るよ。いくぞ、ジョン」
私たちは二二一Bを後にして、再びベイカー街へと繰り出した。
*
シャーロックは辻馬車を捕まえるでもなく、すたすたと通りを歩いていった。二二一Bを十分離れた辺りで、私は思い切ってその背中に声をかけた。
「シャーロック……」
「電報はレストレードからだ。鐘楼に駆けつけた時には狙撃手の姿は無かったと。だが、狙撃地点と思われる場所に真新しい煙草の吸い殻が捨ててあったそうだ。あの場に何者かがいたのは間違いない」
シャーロックは電報の紙切れをひらひらと振ってみせた。
「お前なら、その煙草の灰から犯人を特定できるんじゃないか?」
「どうだかな。一応後でヤードに行って見せてもらうが、どこの店でも取り扱ってる安煙草だそうだ」
「望み薄か……。だが、犯罪卿は結局何がしたかったんだろう。奴なら、誰にも見つからない方法で男爵を殺すことだってできたはずだろう?」
前を歩くシャーロックは、苦い顔で頷いた。
「……犯罪卿は二二一Bに手下を送り込んで、わざわざ『クリス・ソーンダーズ』と名乗らせた。ハドソンさんの話を覚えてるか? 奴は『ホームズさんにお伝えしたい事件がありまして』と言ったそうだ。おかしいだろ? 普通の依頼人なら『解決してほしい事件が』とか『解いてほしい謎が』とか言うはずだ」「確かに……。つまり、犯罪卿の目的は、この事件を俺たちに伝えることだったのか?」
「奴は、俺たちに正義を問うている。法で裁けない悪に直面した時どうするか、を」
「正義……」
言われてみれば、私たちは今、三ヶ月前のマリアとよく似た状況にあるのかもしれない。
目の前に罪を犯した者が確かにいるのに、手元にあるのは状況証拠ばかりで、相手を告発するには材料が足りない。
マリアには確かに男爵を殺す動機があるが、狙撃犯を手引きした確たる証拠は今のところ無い。昨夜二二一Bに現れた偽クリスだって、事件とは無関係なイタズラであった可能性は否定しきれない。
そもそも、犯罪卿が実在するかどうかさえ疑わしいのだ。犯罪界の王が裏で糸を引いているというシャーロックの推理さえ、事情を知らぬ者が聞けば一笑に付されるだけだろう。
「奴は……犯罪卿は、俺たちを翻弄して嘲笑っているということか? いくら犯罪卿のやり方が間違っていると主張したところでできる事なんてないだろう、と」
「……証拠を探そう。結局、俺たちにできるのはそれしかねぇ」
そう言ったシャーロックの目には、強い決意が籠もっているように感じられた。普段、謎を追う彼の目は常に未知への探求心に輝いているはずなのに。
「狙撃手が残していった痕跡が他にもあるかもしれねぇし、クリスに化けた男の足取りが掴めるかもしれねぇ。一番望みがあるのは、マリアがボロを出すことだ。もっとも、犯罪卿もそれを見越して余計な情報は与えていないだろうが……。貴族が白昼堂々狙撃されたとなりゃ、スコットランド・ヤードも黙っちゃいない。証拠が出るまで地面を這いつくばってでも調べ尽くして、必ず奴らの尻尾を掴む。それが俺たちの回答だ。そうだろ?」
目の前に光明が差した気がした。
状況が好転したわけではないのだから、もちろんそれは錯覚だ。だがシャーロックには、常に光の射す道を選び取る才覚と勇気がある。少なくとも私はそう考えていた。
「そうだな、俺ももっと頑張るよ」
「あ? ジョンは別に……」
「お前の相棒としての仕事ももちろんだが、作家コナン・ドイルとして。お前の活躍をたくさん小説にして、もっともっと多くの人に読んでもらう。マリアさんのように追い詰められてしまった人が、犯罪卿なんかじゃなく、名探偵を頼ってみようと思える世の中になるように」
シャーロックは豆鉄砲をくらった鳩のように、目を丸くして私の方を見返した。だがすぐに、片頬を上げて皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「デカい口叩きやがる。来週の締切、伸ばしてもらったばっかのくせに」
「う。タイプライターでも買ってみようかな……」
「やめとけ。持て余すだけだ」
普段と変わらない軽口を叩き合いながら、私たちは歩いていく。
事件の解決が常に劇的で華麗であるとは限らない。長い戦いになりそうだった。
***
「今日も陸軍省にスコットランド・ヤードの刑事が尋ねてきたそうだ。狙撃手のリストを渡せと」
アルバートがそう報告したのは、マーカム男爵を葬ってから一ヶ月が経過したある日、夕食を終えて、居間で談話を楽しんでいる時のことだった。
ウィリアムは目を通していた新聞から顔を上げる。
「男爵殺しの容疑者探しですか?」
「ああ。軍属の狙撃手をしらみ潰しに当たるのは悪くない手だが……まったく、ご苦労なことだ」
アルバートの口ぶりからは余裕が感じられた。
例え陸軍省がヤードに狙撃手リストを渡したとしても、真犯人へたどり着くことは難しいだろう。何しろ、その名はもはや戦死者リストにしか載っていないのだから。
「フレッドの方も、問題なく?」
「はい。ベイカー街の人の流れは、今や彼が誰よりもよく知悉していますから。二二一Bの窓から抜け出した彼を目撃した者は一人もいませんよ」
「お前の計画はいつも完璧だ」
「優秀な彼らが、手足となって働いてくれるお陰です」
謙遜しながらも、ウィリアムは心持ち頬を染めた。最初のクライアントたるこの人からの称賛は、いつだって心地良い。
「だが、ホームズはまだ諦めていないようだね」
「ええ。ですがそれも想定通りです」
シャーロック・ホームズは、いまだ警察と協力してこの事件の捜査に当たっている。
「……マリア・ソーンダーズに捜査の手が及ぶのも、時間の問題でしょう」
「ウィル」とアルバートが労るように名を呼んだ。
「その点については彼女自身が望んだことだろう。彼女が法廷に引き出されることになれば、クリスの死にまつわる疑惑が必ず争点となるからね」
「それは、そうなのですが……」
「お前のせいではないよ」
遮るアルバートの声はこの上なく優しい。
この人だけが、僕の罪悪感を知っている。
その事実に心が安らぐのと同時に、それを利用して優しい言葉を引き出すような振る舞いをしてしまったことへの自己嫌悪が湧いた。
ウィリアムは新聞をテーブルに戻し、立ち上がった。
「もう休みますね。昨夜も夜更かししてルイスに心配をかけてしまいましたから」
アルバートはまだ何か言いたげだったが、すぐに物憂げな表情を引っ込めて「ああ、お休み」と微笑んでくれた。
部屋に戻って一人になると、ウィリアムはデスクの引き出しを開けた。
中に、液体の入った小瓶がある。フレッドに指示して二二一Bから盗み出させた、血液試薬の小瓶だ。
ウィリアムは小瓶を手の中で転がしたり、光に透かして眺めたりしながら、しばらくぼんやりと物思いに耽っていた。
科学薬品に関して彼ほどの知識を持ってはいないから、これがどんな成分でできているのかは分からない。だがこの小瓶の中の液体を振りかけると、真っ赤な血はたちまち青く変色し、くっきりと浮かび上がった。
その青を目にした時、ウィリアムはそばにいる仲間の存在も忘れてしまうほど高揚した。
もしこの液体を、自らの指先に振りかけたらどうなるだろう。
両手が真っ青に染まる光景を夢想して、ウィリアムは知らず知らずのうちに恍惚のため息をついた。
何度拭い落としても消えない血の跡。彼の作った薬品が、この罪を白日のもとに晒してくれる。そうなったら、どんなにいいだろう。
「Catch me if you can……」
呟いたのは、いつかの列車で彼に向かって投げかけた言葉だった。
早く、この罪を証明してみせて。
ひんやりと冷たい小瓶の中の、無色透明な液体を、ウィリアムは飽きることなくいつまでも眺めていた。
初出:Pixiv 2025.02.16
彼だけがいない街
記憶あり転生現パロ。前に書いたものとはまた別軸です。
屋外に出ると、冬の空気がキンと頬を冷やした。フレッドは顎の上までマフラーを引き上げる。寒いのはあまり得意ではないけれど、温かいものに包まれている感覚は嫌いじゃない。
ピピ、と電子音がして、鉄製のドア奥で錠が回転した。その音を合図に、フレッドは「お疲れ様でした」と頭を下げる。
「はーいお疲れぇ」
同じく遅番だった先輩バイトが軽く答えた。彼はポケットからスマートフォンを取り出しながら、さっさと駅の方へ歩きはじめる。
二十一時を過ぎてなお、駅前の通りには行き交う人が多かった。仕事帰りの会社員や、大声で笑い合う学生、キャリーケースを引いて歩く若い女性。その人波の中に、コーヒーショップのアルバイト店員の姿も紛れて消えた。
フレッドは踵を返し、店の裏に停めておいた自転車の元に向かった。カゴにリュックサックを放り込み、手袋を持ってくればよかった、と少し後悔しながらサドルにまたがる。
夕食はすでに終えていた。フレッドが学校帰りにアルバイトをしているコーヒーショップは、まかないと称して消費期限の近いパンやサンドイッチを提供してくれるのだ。今日は食べ応えのあるベーグルが二つも残っていたからラッキーだった。
ペダルを左右交互に踏み込み、駅から少し離れた大型書店の駐輪場に滑り込む。
この辺りでは一番遅くまで営業している店で、就業時間に制限のある身とはいえアルバイトで遅くなることが多いフレッドも重宝していた。時計を確認すると、まだ閉店まで三十分はある。
店内には重苦しくない程度に静かな音楽が流れていた。すでに客はあまり多くなく、店員は退屈そうにチラシの整理をしている。
雑誌もコミック本も素通りして、フレッドは文芸書のコーナーへと足を運んだ。
お目当ての本は、「話題の新刊」の台に平積みされていた。今日発売の新刊で、書影はネットで確認済みだ。台の一番端っこだったけれど、隣の本との高低差からして一冊二冊は売れたに違いない。
その事実に満足感を覚えながら、けれどその本を手には取らず、フレッドは手ぶらのまま引き返してレジへと向かう。
「これ、お願いします」
ポケットから伝票を取り出して店員に手渡すと、メガネの店員は無言のまま頷いた。伝票とカウンターの中の棚に並んだ本を見比べながら、やがてフレッドが予約していた一冊を引き抜いた。
先ほど「話題の新刊」コーナーに並んでいた、まさにその本だ。
わざわざ予約しなくても購入できることは分かっていたが、予約をした方が書店側に「この本には需要がある」と認識してもらえる、と人に聞いたことがある。だからフレッドは、面倒でもこの作者の本だけは予約することにしていた。
「袋は?」
「お願いします」
店員がカウンターの下から茶色い紙袋を取り出した。大きなリュックサックがあるから持ち運びには困らないが、他の荷物と一緒に詰め込んだりして、真新しい装丁が傷んでしまったら悲しい。
黒を基調とした表紙には、意匠を凝らした切り絵ふうのイラストが描かれている。十九世紀のロンドンを舞台にした物語らしい、光と影がくっきりと二分された街並みだ。
著者の名は、L・J・モリアーティ。
*
再び自転車を漕いでアパートに帰ると、階段の下にフィーがいた。この辺りで暮らしている野良猫だ。
彼女はフレッドの姿を見つけるなり、親しげに鳴きながらすり寄ってきた。
「こんばんは、フィー」
喉の下をくすぐってやると、嬉しそうに目を細めて、もっと撫でろと言わんばかりに頭を押し付けてくる。毛並みは短い方なのにふわふわで温かい。
SNSに投稿する写真を撮ろうかとポケットに手を伸ばしかけて、やめた。暗すぎるからあまりいい写真は撮れないだろう。
ひとしきり戯れると、彼女はフレッドへの興味をなくして階段下の寝床に戻っていった。
このアパートは室内で動物を飼うのが禁止されているのに、大家の老婦人が猫好きで、フィーをはじめとする野良猫が数匹居着いているのだ。フレッドの入居の決め手でもある。
フィーを驚かせないように静かに階段を登って、二階の廊下の奥にある自分の部屋へと帰り着いた。ドアの横の小窓から明かりが漏れていたから、おやと思ったが、案の定、室内には人の気配があった。
「ルイスさん、来てたんですか」
「……あ、フレッド」
フレッドのデスクでノートパソコンに齧りついていたルイスはハッとして顔を上げた。
「もうこんな時間……すみません、長居しすぎました。おかえりなさい」
「た……ただいま、帰りました」
ぎこちなく挨拶を返す。
ルイスはノートパソコンを操作して、打ち込んだ文章を保存しているようだった。何を書いているかまでは読み取れなかったが、次回作の原稿なのだろう。
今日新刊が書店に並んだばかりだというのにまた新しい話を書いているのだから、作家という職業もなかなか大変そうだ。
「捗りました?」
「まぁ、おかげさまで」
「新刊、お店に並んでましたよ」
リュックサックから紙袋を取り出すと、ルイスは肩を竦めた。
「わざわざ買わなくても、献本をあげたのに」
「僕が買いたかったんです」
「なら、サインでもしましょうか?」
そう冗談を飛ばす姿に、フレッドは密かに安心する。筆が思うように進まず行き詰まったルイスは迂闊に声もかけられない状態になるからだ。
フレッドが買ってきた新刊も、今でこそ立派な装丁に包まれ売り出されてはいるが、中身を書き上げるまでは本当に大変だったのだ。こんな駄作は一冊も売れないに違いないだとか、Amazonのレビューでこき下ろされるに決まってるだとか、執筆期間中の彼はほとんど被害妄想と言っていいほどの不安に押しつぶされかけていた。横で見ていたフレッドも、そんなに苦しいなら一度お休みすれば……という言葉を何度飲み込んだかわからない。
ともかくその本はこうして無事刊行された訳だし、次回作の進行もまだそう深刻な状況ではないようだ。今日の執筆はここで切り上げることにしたようで、ルイスはノートパソコンを自分のトートバッグにしまっている。
「夕食はもう?」
「はい。バイト先で……て、ルイスさん何も食べてないんですか?」
「君が帰ってくる前に切り上げて、簡単に何か作っておこうと思ったんですけど、つい筆がのってしまって」
「アルバートさんが心配しますよ」
海外出張中の義理の兄の名前を出されて、ルイスは口を尖らせた。
普段は会社勤めの兄に合わせて几帳面で規則正しい生活を送っているルイスだが、その兄がいなくなってしまうと途端に生活リズムを崩してしまうのだ。作家という職業柄か、部屋に引きこもって昼夜ぶっ通しでパソコンと向き合っていることも多い。
フレッドが不在の時間帯にアパートを執筆部屋として利用しているのも、そうしないと本当に陽の光を浴びない生活を送ってしまうからだ。幸い、駅からも幹線道路からも遠く離れた平日昼間の安アパートの周囲は閑散としていて、集中するにはもってこいの環境らしかった。
ルイスが慣れた様子でかぱりと冷蔵庫を開けると、フレッドが買った覚えのない食材が詰まっている。
「キッチン借りますね。お風呂どうぞ」
シャワーを浴びて戻ると、室内にはすでにえも言われぬいい匂いで満ちていた。夕方にベーグル二つを平らげておきながら、腹の虫がくぅと鳴く。
鍋をかき混ぜるルイスの肩越しに覗き込むと、ミネストローネがことことと煮立っていた。具材をたっぷり入れすぎて、かき混ぜるのが少し大変そうなほどだ。
「くつ下をはかないと冷えますよ。せっかく暖まったのに」
「はぁい」
フレッドは踵を返して、箪笥の中から厚手のくつ下を引っ張り出した。
貧乏学生の部屋には当然、来客用の食器や椅子などない。一つしかないチェアにはルイスが座り、フレッドはベッドに腰を下ろした。
トマト色の真っ赤なスープがよく映えるように意識して写真を一枚撮ってから、いそいそとスプーンを手に取る。部屋を貸す代わりとして、ルイスはよくこうして何かしら手料理を作ってくれるのだ。
マグカップについだミネストローネを啜りながら、ルイスが呟く。
「昼間にエージェントから連絡があって、インタビューを受けることになりました。雑誌の」
ひときわ大きなじゃがいもとベーコンを咀嚼していたフレッドは、反応が遅れた。
「……えっ、すごいじゃないですか」
「小さいけど、写真も載るそうです。出版社の公式サイトにも記事が出るとか」
「何て雑誌ですか?」
食べかけのミネストローネの器をサイドテーブルに置いてスマホを取り出すと、ルイスは慌てて首を振った。
「そんな、大したものじゃないですよ。売り出し中の若手作家を何人か集めた特集で、そのうちの一人というだけで」
「でも、そのうちの一人に選ばれたんですよね。すごいですよ」
「うん……」
「……もしかして、あんまり乗り気じゃないです?」
ルイスがとある新人賞を獲って作家としてデビューした当初、出版社やメディアは、その作品よりもルイス自身をネタに彼を売り出そうとした。容姿端麗な若い小説家、となれば否が応でも大衆の注目を集められる。幼い頃に大きな火事に遭い天涯孤独の身になった、というバックボーンまであれば尚さらだ。
「僕らの目的のためには、もっと積極的にメディアの仕事も受けた方がいいんだろうけど」
「だとしても、ルイスさんが嫌だと思うことまでする必要ありませんよ。今回の新作だって、通販サイトの予約ランキングに入ってますし、知名度は着実に上がってます」
「下の方だけどね」
「来週からは口コミでもっと売れますよ。それに、アルバートさんやモランの方で何か動きがあるかもしれません」
「……モランさんといえば、君、まだあの人の仕事を手伝ってるんですか?」
「えっ。まぁ、バイトがない日に、ちょっとだけ」
「あまり危ないことまで手伝っちゃだめですよ。一応、まだ高校生なんですから」
「や、やってませんって」
「……まぁ、それならいいですけど」
ルイスはあえて深く追及しなかった。モランの仕事を手伝うことは、フレッドにとって生計を立てる手段の一つでもある。それを理解してくれているのだろう。
「インタビューは受けます。伝統のある文芸誌だから、そう浮ついた記事にはならないはずです。何より……ウィリアム兄さんの目に留まるかもしれない、またとない機会ですから」
「分かりました。でも、無理はしないでください」
「うん……ありがとう」
そう言いながら、ルイスは頬に手をやった。彼の右頬には、大きな火傷の痕がある。彼が写真を嫌う理由の一つでもあった。
現代の医療技術なら完全には消せなくとも目立たないようにする方法が無くもないそうだが、彼はその傷痕を残したままにしていた。
ため息をひとつついて、ルイスはデスクの上の新刊に目をやった。
「……こんな事を続けても、意味なんか無いんじゃないかと思いませんか?」
「ルイスさん」
「すみません、言ってみただけです」
力なく笑って、ルイスはカップの底に残ったスープを飲み干した。
「今日はもうお暇しますね。食器、お願いしても?」
「はい。流しに置いておいてください。ごちそうさまです」
「こちらこそ、お邪魔しました」
ノートパソコンをしまったトートバッグを肩から提げて、ルイスは帰っていった。駅までは少し歩く必要があるから送っていくと申し出ても、いつも断られてしまう。
ドアを開けた拍子に入り込んできた冷たい空気に身震いして、フレッドは温かい室内に引き上げた。
*
食器を片付け終えたフレッドは、ベッドに寝転がって、SNSに先ほどのミネストローネの写真をアップした。『夜食』の一語にナイフとフォークの絵文字だけを添えたシンプルな投稿だったが、すぐにひとつふたつといいねが飛んでくる。
このアカウントはフレッド自身のものではなく、作家『L・J・モリアーティ』名義のアカウントだった。
ルイスが作家としてデビューした直後に出版社のすすめで開設したアカウントだったが、彼が投稿するのは簡潔な告知ばかりで、当初はまったくフォロワーが増えなかった。もっと人の関心を惹くような投稿をした方がいいと思うのだが何を書けばいいのかわからない、とこぼすルイスに、フレッドは自分が撮った猫の写真を投稿するよう勧めてみた。これなら彼がプライベートを切り売りする必要はなく、誰かの反感を買う危険も少なく、何よりかわいいからだ。
初めは半信半疑だったルイスも、数ヶ月でフォロワーが二桁増えたことによって考えを改めた。もちろん彼の本が売れ始めたことも要因の一つではあったが、今ではフレッドは作家『L・J・モリアーティ』のSNSアカウントの共同管理を任されている。
通知欄をスワイプして、直近の投稿についたコメントをひと通りチェックする。ルイスのファンからの他愛のない応援コメントばかりで、めぼしいものは見当たらない。
スマホを放り出して、今度は買ってきたばかりの小説に手を伸ばした。
草稿の段階で意見を求められたこともあったので内容はおおよそ把握していたが、フレッドは冒頭からゆっくりと読み始めた。
十九世紀末の大英帝国を舞台とした犯罪小説だ。繁栄を極める大都市の裏側で、主人公は差別と貧困に喘ぐ人々のために立ち上がり、腐敗した権力者たちに一矢報いるべく策略を巡らせる……という筋書きだった。
ルイスはこれまでに数冊の本を発表しているが、どの作品も大筋は共通している。十九世紀の英国が舞台で、主人公は悪を以て悪に立ち向かう。
フレッドには、前世の記憶がある。
今は何処にでもいる高校生でしかなかったが、かつては大英帝国の路地裏に生まれて大貴族モリアーティ家に拾われ……と、なかなかに数奇な人生を歩んでいた。
そしてこの記憶がフレッド個人の妄想ではないという証拠に、ルイスを始めとするかつての仲間たちと再び巡り会った。お互いの記憶や現代に残る記録を照合した結果、この記憶は間違いなく『前世』のものである、と結論づけた。
彼らと再会を喜びあったことは紛れもない事実だ。だが一つ、そこには大きな問題が横たわっていた。
ウィリアムが、どこにもいないのだ。
かつて忠誠を誓った主であり、家族。かつての自分たちは、間違いなく彼を中心に結束していた。
にも関わらず、肝心要のウィリアムだけが現代に見当たらない。フレッドたちが彼を探して動き出したのは、至極当然の流れだった。
ルイスが小説なんてものを書いているのも、その活動の一環だった。おそらくはコナン・ドイル――ワトソン博士に倣ったのだろう。
大衆向けのエンターテインメントとして焼き直されてはいるが、読む人が読めば、彼の作品は実際にあった出来事を下敷きに書かれた物語であることが一目で分かるようになっている。
いつかきっと、ウィリアムが見つけてくれる。
そう信じて、ルイスはあの頃の事件を題材にした物語を書き続けていた。
数十ページ読んだところで、瞼が重くなってきた。時刻はすでに零時前だ。そろそろ眠らないと、明日の授業中に居眠りしてしまう。
フレッドは本を閉じて、電気を消した。
夢うつつの頭の中に、前世の記憶とも、ついさっきまで読んでいた物語の一場面ともつかない光景が浮かんでは消える。
フレッドは寂れた路地裏で膝を抱えて座っている。寒くて、お腹が空いていた。穴の開いたズボンのポケットには小銭の一枚も入っていない。通行人たちが迷惑そうにこちらを睨むが、他に行く場所がなかった。感情はとうの昔に擦り切れて、ただ自分のつま先だけに視線を落としている。
彼がフレッドを見つけてくれたのは、そんな時だった。
彼は、フレッドがそれまでの人生で受け取れなかった多くのものを与えてくれた。そしてフレッド自身もまた、他者に分け与えることができるのだと教えてくれた。
彼にもう一度会いたかった。
もし、今の彼がかつてのフレッドと同じように一人で迷っているのなら。どこにも行くあてが無くて困っているのなら、彼の力になりたかった。
今のフレッドは法や制度に守られた子どもでしかないけれど、それでも、かつての彼が与えてくれたものの半分だけでも返したかった。
自分に何ができるだろう。取り留めのない考えに耽りながら、フレッドは眠りに落ちていく。
[newpage]
冬の雨というのは厄介で、いっそ雪に変わってくれた方がマシなのではないかと思ってしまうほど陰鬱で冷たい。
モランが愛車のベントレーで空港の立体駐車場に滑り込んでから、一時間以上が経過していた。どうやらこの雨のせいで飛行機が遅れているらしい。到着予定時刻はとっくに過ぎているというのに、アルバートからはまだ何の連絡もなかった。
モランがいるのは車内とはいえ、エンジンを切っているから屋外よりいくらか温かい程度だ。耐えられない気温ではないが、寒いものは寒い。
空港内のカフェにでも移動しようかと何度も考えた。だがエレベーターを使い連絡通路を通って、立体駐車場の向かいにそびえる建物まではるばる歩いていくのも面倒だ。
あの男のことだから、モランがコーヒーを受け取って席に腰を落ち着けた途端に「待たせたね。車を回してくれるかい?」なんて電話を寄越してくるに決まっている。そうすればまた来た道を逆戻りだ。
何本目かになる煙草に火をつけ、助手席に放りだしていた本を手に取る。先日発売された、ルイスが書いた小説だ。
彼が作家だなんて前世では想像もつかなかったが、凝り性で妥協せずこつこつと地道に仕事をこなすという点ではまぁ向いていたらしい。何かしらの賞を獲ってデビューした作家がその一作きりで消えていくことの多い中、ルイスは安定したペースで作品を書き上げ、着実に実績を積んでいた。フレッドの話では、熱心な読者もつき始めているらしい。
本文にはざっと目を通してある。かつての自分たちが経験した事件に大幅な脚色を加え、登場人物を置き換え、現代人にウケるように上手く再構成してあった。
何も知らない読者であれば、あっという間に整然とした物語の世界に引き込まれることだろう。うめき声を上げながらキーボードを叩きまくっている作者の姿など想像もつかないはずだ。
ぱらぱらとページをめくっていると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。待ちに待った到着の報せだ。
モランは小説をダッシュボードにしまい、差しっぱなしだったキーを回してエンジンを始動した。
*
空港前の車寄せレーンは、悪天候の影響もあってか、平日だというのに混み合っていた。遅れていた便の乗客がいっせいに空港を脱出しているのだろう。
列の隙間を縫って車を停車させると、少し離れた屋根の下から、こちらに向かって歩いてくる人影があった。
アルバートだ。疲れた顔で大きなスーツケースを引いている。
「遅い」
開口一番、これだ。
「こっちの台詞だ。二時間も待たせやがって」
「飛行機が遅れたんだ、仕方ないだろう」
トランクを開けて、一週間分の着替えは余裕で入りそうなスーツケースを中へ押し込む。その間に、アルバートはさっさと後部座席に収まっていた。
「あとで駐車場代払えよ」
「分かっているさ。あちらで手に入れたウィスキーを進呈しよう。標高の高い土地で造られたものだから、我が国のウィスキーとは味わいがまったく違うらしい」
「お前、今回はスイスだっけか。ウィスキーの醸造は禁止されてたんじゃなかったか?」
アルバートは呆れたように鼻を鳴らした。
「いつの話をしているんだね。とっくの昔に解禁されているよ」
「そりゃあそうか」
モランは確か、『前世』でその報せを新聞で目にしたのだ。言われてみれば、大戦下の食糧難に備えて穀物を確保するためだとか書いてあった気がする。解禁されていて当然か。
二人の乗るベントレーはゆっくりと滑り出した。
鈍色の空は重く頭上にのしかかり、雨粒がひっきりなしにフロントガラスを叩いていた。モランはワイパーの速度を一段階上げる。
「ったく厭な天気だな」
「あぁ、ロンドンに帰ってきたという気がするよ」
後部座席のアルバートが皮肉っぽく呟いた。頭が痛いのか、こめかみの辺りを抑えている。
モランはスイスには行ったことがなかったが、その名前から連想する高い山々と澄んだ青空は、確かにロンドンとはほど遠いものだろう。ラジオから流れる天気予報によると、明日の朝まで降り続けるらしい。
「その様子だと、今回も空振りみてぇだな」
「分かっているなら聞かないでくれ」
「……」
あまりご機嫌がよくないようだ。モランは黙って、運転手としての役割に徹することにした。
アルバートは小さな貿易商社を経営している。裏では政府の秘密機関として活動しているようなペーパーカンパニーではなく、れっきとした一般企業だ。どういう手品を使っているのか分からないが、規模の割には利益を上げている。
だが当の社長は事業規模拡大にはあまり興味がないらしい。買い付けやら商談やら、何かしらの理由をつけては社長自ら国内外を渡り歩いていた。
そのお陰で、社員や取引先の大半は『金持ちの御曹司が道楽で会社経営をやっている』と認識しているようだった。実際のアルバートは永らく実家とは連絡を絶っていて、家族と呼べる存在は義弟のルイスくらいだというのに。
ともかく、そうして誰にも干渉されない地位と居場所を確保したアルバートの本当の目的は、言うまでもなくウィリアムの捜索だ。出張先で暇を見つけては人通りの多い場所を練り歩いたり、地元のイベントに参加してみたり。
アルバートは子供の頃、慈善団体が主催するチャリティバザーへ連れて行かれ、そこでたまたまルイスを見つけたらしい。モランがフレッドと再会した経緯も似たようなものだ。
ウィリアムとの再会を期待してひたすらに足を使う方法は、決して無意味とはいい切れなかった。今のところ、徒労でしかなくとも。
後部座席のアルバートは、俯いて目を閉じている。二時間足らずの搭乗時間ではまともに眠れなかっただろう。モランは手元のつまみを回して、ラジオのボリュームを抑えた。
*
車は静かに走り続けた。霧が出ていないだけましだが、それでも雨の日の運転は気を配ることが多くて面倒だ。
途中、ポケットの中の携帯が何度か震えたが、おおかた、アルバートの帰りを待っているルイスかフレッドだろう。どうせすぐに会えるのだから、放っておいた。
後部座席のアルバートはすっかり寝入っていたが、高速道路を下りて市街地に入るとむくりと身体を起こした。
ミラー越しに見やると、彼はスマートフォンの通知を手早くチェックしてからは、一心に窓の外を見ていた。
道行く人々の顔を一つずつ、確認している。まるで誰かを探しているかのように。
これは何もこの男だけに限った話ではない。モラン自身もそうだったし、ルイスやフレッドだって同じだ。
例えば、初めて入ったカフェやレストランで。混み合った地下鉄駅で。賑わうショッピングモールで。どこかに彼がいるのではないかと期待して、つい視線を彷徨わせる。
着くまで寝ていればいいのに、と思ったが、彼の気持ちはよく分かるので好きにさせておく。
「停めてくれ」
突如後部座席から声が飛んで、モランは慌ててブレーキを踏んだ。
「なんだよ、何か……」
「すぐ戻る」
路肩に車を寄せると、アルバートは雨も気にせず後部座席のドアを開けた。
モランはアルバートの視線の先を追う。
もしやと緊張が走ったが、アルバートが入っていったのは通りに面した書店だった。肩から力が抜けていく。
窓を細く開けて煙草を蒸していると、アルバートは十分足らずで戻ってきた。雨避けのビニール袋に包まれた、一冊の本を抱えている。
「ありがとう、出してくれ」
「何買ってきたんだよ……って、聞くまでもないか」
「ルイスの新作だよ。もちろん買っただろうな?」
「あー、まぁ一応」
普段行きもしない書店へわざわざ発売日に買いに行ったとは、何となく言いづらかった。
「帰国したらすぐに買おうと思っていたんだが、空港の書店には置いていなくてね」
「だろうな」
空港内の書店といえば売り場の面積も限られているから、駆け出しの作家が入り込む隙は無いだろう。
アルバートは袋から取り出した本の表紙を満足気に撫でていた。モランはウィンカーを点けて、再び車道へと滑り出す。うっとうしい雨はいまだに降り続けていた。
「ルイスのSNS、見てるか?」
「もちろん」
「フォロワーがもうじき三万人だとよ」
「それは多い方なのか?」
「デビューして二、三年の作家にしちゃ上々だろ」
「そうなのか。フレッドも手伝ってくれているお陰だね」
「……いつまで続けさせるつもりだ?」
「何を?」
分かっているくせに、アルバートはわざと問い返した。モランは苛立って指でハンドルを叩く。折悪く、信号は赤だ。
「ルイスだよ。世間に名を売ってウィリアムからのコンタクトを待つっていうのは、確かに手としちゃ悪くない。だがあいつを見つけるのがウィリアムだけとは限らないだろ」
「……」
ルイスの書いた本は誰でも買って読む事ができる。電子書籍化もされているし、今の時代、ネットを通じればそれこそ世界中の人間が作品にアクセスできるだろう。
そして前世の記憶を持っている者が読めば、そこに書かれている内容は実際にあった出来事だと確実に理解できる構成になっている。
「俺たちはかなり悪どいことをやってきて、それなりに恨みも買った。もし『前』の記憶を持って現代に生きてるのが俺たちだけじゃなかったらどうする? 万が一そいつがモリアーティと因縁のある相手だった日には……」
「わかっている」
アルバートはぴしゃりと遮った。
彼自身、当然理解しているだろう。だが兄を探そうとするルイスを止められないのも事実だ。
内気なようでいて、ルイスは一度思い切るとどこまでも大胆に行動する。焼けた木片を自らの顔に押し付けた時然り、Mを継ぐと決めた時然り。
彼が作家としてデビューすることをモランやアルバートが知ったのも、すでに出版社と話がついた後だった。
「恨みの記憶を抱えた者が、今生では満ち足りた生活を送っていることを祈るしかない」
「馬鹿言え。いくら満ち足りてようが、頭のネジが外れた野郎には関係ない。それこそミルヴァートンみてぇな……」
「わかっている。だが、私たちがこれまでにどんな成果を挙げられた? あの子に繋がる手がかりを何か一つでも掴んだか?」
「っ、それは……」
黙るしかなかった。
アルバートは国内外の主要都市を休みなしに飛び回る一方で、モランはモランで非合法な手段に手を染めてでもウィリアムの情報を探し続けた。
闇に流れた公的機関の個人情報リストを片っ端から買い漁ったり、あるいは警備会社が保管している各地の防犯カメラのデータを盗み出したり。アルバート達には話していないが、そのいくつかはフレッドにも手伝わせていた。
気の遠くなるような作業を何年と続けて、だが現在に至るまで、収穫はない。
「信じよう。あの子だって子供じゃない」
「……まぁ、そうなんだが」
「少なくとも、自宅を特定されて襲撃される、なんて事にはならないだろう」
それはモランも同感だった。
悪意ある者がルイスの正体に気づいたとして、彼のもとにたどり着くには、作家としてのルイスのSNSアカウントから情報を得るしかない。
だがルイス自身はプライベートな内容は一切投稿していないし、写真はすべてフレッドが撮影したものだ。投稿のタイミングも意図的にずらしている。あの投稿内容からルイスの生活圏を割り出すことは不可能と言っていいだろう。
「もう一度ウィリアムに会いたい。その気持ちは、皆同じだろう」
「…………」
アルバート自身も『気鋭の若手実業家』だとかでその手の雑誌に何度か取り上げられたことがあった。ウィリアムからの接触がない代わりに、前世の記憶を持つ者からの連絡もない。
かつて生きた時代からは想像もつかないほど世界が変わっていたとしても、相変わらず、世の中は案外広いのだ。ウィリアムを探してアンテナを高くしているつもりでも、際限なく広がる情報の海から拾い上げられるのはごくわずか。その大半は一瞥することすらなく消えていく。
いるかどうかも分からない相手を恐れて手を拱いているのは愚かだと、そう言いたいのだろう。
「……俺には何とも言えねぇ。ウィリアムの考えが分からねぇと」
「それはそうだ。今どこで何をしているのか……私たちと同じように記憶を引き継いで生まれているのかどうかすら分からないからな」
「悪くすりゃ、赤ん坊や老人の可能性だってある」
これまで何度も議論したことだった。
これだけ探しても見つからないということは、ウィリアムは現代に転生していないのではないか? していたとしても、自力でこちらに接触することができないような、老人や子供である可能性はないか?
どちらも確たる証拠はない。だがあり得ない話でもなかった。今すでに再会を果たした四人の中にも、年齢のずれがあるからだ。
モランは今年で三十五歳になる。アルバートは二十七、ルイスは二十三。ここまではいい。しかし、フレッドはまだ十七歳だった。他の三人に比べて、『前』より二歳若い計算になる。
この事から、モランたち三人がたまたま同じ間隔で生まれてきただけで、転生するタイミングがずれることもあり得るのではないか、という推論が成り立つ。
しかしこの年齢のずれがフレッドにだけ発生しているのがまた厄介だった。何せ、前世の彼の正確な年齢は、彼自身にも分からなかったからだ。
前世で「これくらいだろう」と考えられていた年齢が誤っていただけで、フレッドもまた以前と同じタイミングで生まれてきている可能性も大いにある。であれば、現代に生まれたウィリアムもまた、今は二十四歳前後なはずだ。
推測に推測を重ねるような話ではあるが、これはウィリアムを探すうえでかなり重大な問題だった。何しろ、もし転生するタイミングに法則性が無いのであれば、捜索対象は天文学的数字にまで膨れ上がることになってしまうからだ。
この話題が持ち上がるたび、四人は堂々巡りを繰り返していた。その点では、自らの手や目を使ってウィリアムを『探す』方法ではなく、自らを人目に晒すことでウィリアムに『見つけてもらう』策を取ったルイスは利口だった。問題は、彼があまり目立ちたがりではなかったことであるが。
「ウィリアムじゃなくても、せめて他の連中が見つかればなぁ。ボンドとかパターソンとか」
「その希望も持てなくはないね。もしボンドが現代に生まれていたとすれば、案外すぐにルイスのSNSを見つけてくれるんじゃないか?」
「あぁ、そういう事には目も耳も敏い奴だったな」
ルイスのSNSアカウントは、誰からでもメッセージを送れるようオープンにしてある。執筆が差し迫ってくると何日もSNSを開かないこともあるそうだが、彼に代わってフレッドが逐一チェックしているそうだから見落とす心配はないだろう。
「俺たちのやることは変わらない、か」
「そうだな。いつだって運命はあちらからやって来るものだ。だが、それを掴み取る努力だけは絶やしてはならない」
「大げさだな。今さら止めにするわけにもいかねぇって話だろ?」
モランはハンドルを切り、テムズ川を臨むマンションの地下駐車場へ入った。
雨の音が少しだけ遠のき、代わりにヘッドライトが自動的に点灯される。今日のように運転手役をさせられることも一度や二度ではなかったから、指定の駐車スペースの場所はすっかり覚えていた。
「誰かさんが待たせるから腹が減った」
「航空会社へ苦情を入れるといい」
トランクを開けながら嫌味を言うと、すかさず切り返される。そんなやり取りが今は心地いい。
チン、と軽い音がして、エレベーターが降りてきた。「早くしたまえ」とエレベーターのドアを抑えているアルバートの声が打ちっぱなしのコンクリートにこだまする。
モランは大きなスーツケースを引きなから、足早に駆けていく。車内の暖房で身体はいくらか暖まっていたが、相変わらず腹は減っていた。
最上階のアルバートたちの住まいでは、ルイスが遅い昼食を用意して待ちかねていることだろう。フレッドも来ているはずだから、今日の食事は賑やかになりそうだ。
早く来ないと無くなるぞ。
モランは、誰にともなく呟いた。
初出:Pixiv 2024.11.20
記憶あり転生現パロ。前に書いたものとはまた別軸です。
屋外に出ると、冬の空気がキンと頬を冷やした。フレッドは顎の上までマフラーを引き上げる。寒いのはあまり得意ではないけれど、温かいものに包まれている感覚は嫌いじゃない。
ピピ、と電子音がして、鉄製のドア奥で錠が回転した。その音を合図に、フレッドは「お疲れ様でした」と頭を下げる。
「はーいお疲れぇ」
同じく遅番だった先輩バイトが軽く答えた。彼はポケットからスマートフォンを取り出しながら、さっさと駅の方へ歩きはじめる。
二十一時を過ぎてなお、駅前の通りには行き交う人が多かった。仕事帰りの会社員や、大声で笑い合う学生、キャリーケースを引いて歩く若い女性。その人波の中に、コーヒーショップのアルバイト店員の姿も紛れて消えた。
フレッドは踵を返し、店の裏に停めておいた自転車の元に向かった。カゴにリュックサックを放り込み、手袋を持ってくればよかった、と少し後悔しながらサドルにまたがる。
夕食はすでに終えていた。フレッドが学校帰りにアルバイトをしているコーヒーショップは、まかないと称して消費期限の近いパンやサンドイッチを提供してくれるのだ。今日は食べ応えのあるベーグルが二つも残っていたからラッキーだった。
ペダルを左右交互に踏み込み、駅から少し離れた大型書店の駐輪場に滑り込む。
この辺りでは一番遅くまで営業している店で、就業時間に制限のある身とはいえアルバイトで遅くなることが多いフレッドも重宝していた。時計を確認すると、まだ閉店まで三十分はある。
店内には重苦しくない程度に静かな音楽が流れていた。すでに客はあまり多くなく、店員は退屈そうにチラシの整理をしている。
雑誌もコミック本も素通りして、フレッドは文芸書のコーナーへと足を運んだ。
お目当ての本は、「話題の新刊」の台に平積みされていた。今日発売の新刊で、書影はネットで確認済みだ。台の一番端っこだったけれど、隣の本との高低差からして一冊二冊は売れたに違いない。
その事実に満足感を覚えながら、けれどその本を手には取らず、フレッドは手ぶらのまま引き返してレジへと向かう。
「これ、お願いします」
ポケットから伝票を取り出して店員に手渡すと、メガネの店員は無言のまま頷いた。伝票とカウンターの中の棚に並んだ本を見比べながら、やがてフレッドが予約していた一冊を引き抜いた。
先ほど「話題の新刊」コーナーに並んでいた、まさにその本だ。
わざわざ予約しなくても購入できることは分かっていたが、予約をした方が書店側に「この本には需要がある」と認識してもらえる、と人に聞いたことがある。だからフレッドは、面倒でもこの作者の本だけは予約することにしていた。
「袋は?」
「お願いします」
店員がカウンターの下から茶色い紙袋を取り出した。大きなリュックサックがあるから持ち運びには困らないが、他の荷物と一緒に詰め込んだりして、真新しい装丁が傷んでしまったら悲しい。
黒を基調とした表紙には、意匠を凝らした切り絵ふうのイラストが描かれている。十九世紀のロンドンを舞台にした物語らしい、光と影がくっきりと二分された街並みだ。
著者の名は、L・J・モリアーティ。
*
再び自転車を漕いでアパートに帰ると、階段の下にフィーがいた。この辺りで暮らしている野良猫だ。
彼女はフレッドの姿を見つけるなり、親しげに鳴きながらすり寄ってきた。
「こんばんは、フィー」
喉の下をくすぐってやると、嬉しそうに目を細めて、もっと撫でろと言わんばかりに頭を押し付けてくる。毛並みは短い方なのにふわふわで温かい。
SNSに投稿する写真を撮ろうかとポケットに手を伸ばしかけて、やめた。暗すぎるからあまりいい写真は撮れないだろう。
ひとしきり戯れると、彼女はフレッドへの興味をなくして階段下の寝床に戻っていった。
このアパートは室内で動物を飼うのが禁止されているのに、大家の老婦人が猫好きで、フィーをはじめとする野良猫が数匹居着いているのだ。フレッドの入居の決め手でもある。
フィーを驚かせないように静かに階段を登って、二階の廊下の奥にある自分の部屋へと帰り着いた。ドアの横の小窓から明かりが漏れていたから、おやと思ったが、案の定、室内には人の気配があった。
「ルイスさん、来てたんですか」
「……あ、フレッド」
フレッドのデスクでノートパソコンに齧りついていたルイスはハッとして顔を上げた。
「もうこんな時間……すみません、長居しすぎました。おかえりなさい」
「た……ただいま、帰りました」
ぎこちなく挨拶を返す。
ルイスはノートパソコンを操作して、打ち込んだ文章を保存しているようだった。何を書いているかまでは読み取れなかったが、次回作の原稿なのだろう。
今日新刊が書店に並んだばかりだというのにまた新しい話を書いているのだから、作家という職業もなかなか大変そうだ。
「捗りました?」
「まぁ、おかげさまで」
「新刊、お店に並んでましたよ」
リュックサックから紙袋を取り出すと、ルイスは肩を竦めた。
「わざわざ買わなくても、献本をあげたのに」
「僕が買いたかったんです」
「なら、サインでもしましょうか?」
そう冗談を飛ばす姿に、フレッドは密かに安心する。筆が思うように進まず行き詰まったルイスは迂闊に声もかけられない状態になるからだ。
フレッドが買ってきた新刊も、今でこそ立派な装丁に包まれ売り出されてはいるが、中身を書き上げるまでは本当に大変だったのだ。こんな駄作は一冊も売れないに違いないだとか、Amazonのレビューでこき下ろされるに決まってるだとか、執筆期間中の彼はほとんど被害妄想と言っていいほどの不安に押しつぶされかけていた。横で見ていたフレッドも、そんなに苦しいなら一度お休みすれば……という言葉を何度飲み込んだかわからない。
ともかくその本はこうして無事刊行された訳だし、次回作の進行もまだそう深刻な状況ではないようだ。今日の執筆はここで切り上げることにしたようで、ルイスはノートパソコンを自分のトートバッグにしまっている。
「夕食はもう?」
「はい。バイト先で……て、ルイスさん何も食べてないんですか?」
「君が帰ってくる前に切り上げて、簡単に何か作っておこうと思ったんですけど、つい筆がのってしまって」
「アルバートさんが心配しますよ」
海外出張中の義理の兄の名前を出されて、ルイスは口を尖らせた。
普段は会社勤めの兄に合わせて几帳面で規則正しい生活を送っているルイスだが、その兄がいなくなってしまうと途端に生活リズムを崩してしまうのだ。作家という職業柄か、部屋に引きこもって昼夜ぶっ通しでパソコンと向き合っていることも多い。
フレッドが不在の時間帯にアパートを執筆部屋として利用しているのも、そうしないと本当に陽の光を浴びない生活を送ってしまうからだ。幸い、駅からも幹線道路からも遠く離れた平日昼間の安アパートの周囲は閑散としていて、集中するにはもってこいの環境らしかった。
ルイスが慣れた様子でかぱりと冷蔵庫を開けると、フレッドが買った覚えのない食材が詰まっている。
「キッチン借りますね。お風呂どうぞ」
シャワーを浴びて戻ると、室内にはすでにえも言われぬいい匂いで満ちていた。夕方にベーグル二つを平らげておきながら、腹の虫がくぅと鳴く。
鍋をかき混ぜるルイスの肩越しに覗き込むと、ミネストローネがことことと煮立っていた。具材をたっぷり入れすぎて、かき混ぜるのが少し大変そうなほどだ。
「くつ下をはかないと冷えますよ。せっかく暖まったのに」
「はぁい」
フレッドは踵を返して、箪笥の中から厚手のくつ下を引っ張り出した。
貧乏学生の部屋には当然、来客用の食器や椅子などない。一つしかないチェアにはルイスが座り、フレッドはベッドに腰を下ろした。
トマト色の真っ赤なスープがよく映えるように意識して写真を一枚撮ってから、いそいそとスプーンを手に取る。部屋を貸す代わりとして、ルイスはよくこうして何かしら手料理を作ってくれるのだ。
マグカップについだミネストローネを啜りながら、ルイスが呟く。
「昼間にエージェントから連絡があって、インタビューを受けることになりました。雑誌の」
ひときわ大きなじゃがいもとベーコンを咀嚼していたフレッドは、反応が遅れた。
「……えっ、すごいじゃないですか」
「小さいけど、写真も載るそうです。出版社の公式サイトにも記事が出るとか」
「何て雑誌ですか?」
食べかけのミネストローネの器をサイドテーブルに置いてスマホを取り出すと、ルイスは慌てて首を振った。
「そんな、大したものじゃないですよ。売り出し中の若手作家を何人か集めた特集で、そのうちの一人というだけで」
「でも、そのうちの一人に選ばれたんですよね。すごいですよ」
「うん……」
「……もしかして、あんまり乗り気じゃないです?」
ルイスがとある新人賞を獲って作家としてデビューした当初、出版社やメディアは、その作品よりもルイス自身をネタに彼を売り出そうとした。容姿端麗な若い小説家、となれば否が応でも大衆の注目を集められる。幼い頃に大きな火事に遭い天涯孤独の身になった、というバックボーンまであれば尚さらだ。
「僕らの目的のためには、もっと積極的にメディアの仕事も受けた方がいいんだろうけど」
「だとしても、ルイスさんが嫌だと思うことまでする必要ありませんよ。今回の新作だって、通販サイトの予約ランキングに入ってますし、知名度は着実に上がってます」
「下の方だけどね」
「来週からは口コミでもっと売れますよ。それに、アルバートさんやモランの方で何か動きがあるかもしれません」
「……モランさんといえば、君、まだあの人の仕事を手伝ってるんですか?」
「えっ。まぁ、バイトがない日に、ちょっとだけ」
「あまり危ないことまで手伝っちゃだめですよ。一応、まだ高校生なんですから」
「や、やってませんって」
「……まぁ、それならいいですけど」
ルイスはあえて深く追及しなかった。モランの仕事を手伝うことは、フレッドにとって生計を立てる手段の一つでもある。それを理解してくれているのだろう。
「インタビューは受けます。伝統のある文芸誌だから、そう浮ついた記事にはならないはずです。何より……ウィリアム兄さんの目に留まるかもしれない、またとない機会ですから」
「分かりました。でも、無理はしないでください」
「うん……ありがとう」
そう言いながら、ルイスは頬に手をやった。彼の右頬には、大きな火傷の痕がある。彼が写真を嫌う理由の一つでもあった。
現代の医療技術なら完全には消せなくとも目立たないようにする方法が無くもないそうだが、彼はその傷痕を残したままにしていた。
ため息をひとつついて、ルイスはデスクの上の新刊に目をやった。
「……こんな事を続けても、意味なんか無いんじゃないかと思いませんか?」
「ルイスさん」
「すみません、言ってみただけです」
力なく笑って、ルイスはカップの底に残ったスープを飲み干した。
「今日はもうお暇しますね。食器、お願いしても?」
「はい。流しに置いておいてください。ごちそうさまです」
「こちらこそ、お邪魔しました」
ノートパソコンをしまったトートバッグを肩から提げて、ルイスは帰っていった。駅までは少し歩く必要があるから送っていくと申し出ても、いつも断られてしまう。
ドアを開けた拍子に入り込んできた冷たい空気に身震いして、フレッドは温かい室内に引き上げた。
*
食器を片付け終えたフレッドは、ベッドに寝転がって、SNSに先ほどのミネストローネの写真をアップした。『夜食』の一語にナイフとフォークの絵文字だけを添えたシンプルな投稿だったが、すぐにひとつふたつといいねが飛んでくる。
このアカウントはフレッド自身のものではなく、作家『L・J・モリアーティ』名義のアカウントだった。
ルイスが作家としてデビューした直後に出版社のすすめで開設したアカウントだったが、彼が投稿するのは簡潔な告知ばかりで、当初はまったくフォロワーが増えなかった。もっと人の関心を惹くような投稿をした方がいいと思うのだが何を書けばいいのかわからない、とこぼすルイスに、フレッドは自分が撮った猫の写真を投稿するよう勧めてみた。これなら彼がプライベートを切り売りする必要はなく、誰かの反感を買う危険も少なく、何よりかわいいからだ。
初めは半信半疑だったルイスも、数ヶ月でフォロワーが二桁増えたことによって考えを改めた。もちろん彼の本が売れ始めたことも要因の一つではあったが、今ではフレッドは作家『L・J・モリアーティ』のSNSアカウントの共同管理を任されている。
通知欄をスワイプして、直近の投稿についたコメントをひと通りチェックする。ルイスのファンからの他愛のない応援コメントばかりで、めぼしいものは見当たらない。
スマホを放り出して、今度は買ってきたばかりの小説に手を伸ばした。
草稿の段階で意見を求められたこともあったので内容はおおよそ把握していたが、フレッドは冒頭からゆっくりと読み始めた。
十九世紀末の大英帝国を舞台とした犯罪小説だ。繁栄を極める大都市の裏側で、主人公は差別と貧困に喘ぐ人々のために立ち上がり、腐敗した権力者たちに一矢報いるべく策略を巡らせる……という筋書きだった。
ルイスはこれまでに数冊の本を発表しているが、どの作品も大筋は共通している。十九世紀の英国が舞台で、主人公は悪を以て悪に立ち向かう。
フレッドには、前世の記憶がある。
今は何処にでもいる高校生でしかなかったが、かつては大英帝国の路地裏に生まれて大貴族モリアーティ家に拾われ……と、なかなかに数奇な人生を歩んでいた。
そしてこの記憶がフレッド個人の妄想ではないという証拠に、ルイスを始めとするかつての仲間たちと再び巡り会った。お互いの記憶や現代に残る記録を照合した結果、この記憶は間違いなく『前世』のものである、と結論づけた。
彼らと再会を喜びあったことは紛れもない事実だ。だが一つ、そこには大きな問題が横たわっていた。
ウィリアムが、どこにもいないのだ。
かつて忠誠を誓った主であり、家族。かつての自分たちは、間違いなく彼を中心に結束していた。
にも関わらず、肝心要のウィリアムだけが現代に見当たらない。フレッドたちが彼を探して動き出したのは、至極当然の流れだった。
ルイスが小説なんてものを書いているのも、その活動の一環だった。おそらくはコナン・ドイル――ワトソン博士に倣ったのだろう。
大衆向けのエンターテインメントとして焼き直されてはいるが、読む人が読めば、彼の作品は実際にあった出来事を下敷きに書かれた物語であることが一目で分かるようになっている。
いつかきっと、ウィリアムが見つけてくれる。
そう信じて、ルイスはあの頃の事件を題材にした物語を書き続けていた。
数十ページ読んだところで、瞼が重くなってきた。時刻はすでに零時前だ。そろそろ眠らないと、明日の授業中に居眠りしてしまう。
フレッドは本を閉じて、電気を消した。
夢うつつの頭の中に、前世の記憶とも、ついさっきまで読んでいた物語の一場面ともつかない光景が浮かんでは消える。
フレッドは寂れた路地裏で膝を抱えて座っている。寒くて、お腹が空いていた。穴の開いたズボンのポケットには小銭の一枚も入っていない。通行人たちが迷惑そうにこちらを睨むが、他に行く場所がなかった。感情はとうの昔に擦り切れて、ただ自分のつま先だけに視線を落としている。
彼がフレッドを見つけてくれたのは、そんな時だった。
彼は、フレッドがそれまでの人生で受け取れなかった多くのものを与えてくれた。そしてフレッド自身もまた、他者に分け与えることができるのだと教えてくれた。
彼にもう一度会いたかった。
もし、今の彼がかつてのフレッドと同じように一人で迷っているのなら。どこにも行くあてが無くて困っているのなら、彼の力になりたかった。
今のフレッドは法や制度に守られた子どもでしかないけれど、それでも、かつての彼が与えてくれたものの半分だけでも返したかった。
自分に何ができるだろう。取り留めのない考えに耽りながら、フレッドは眠りに落ちていく。
[newpage]
冬の雨というのは厄介で、いっそ雪に変わってくれた方がマシなのではないかと思ってしまうほど陰鬱で冷たい。
モランが愛車のベントレーで空港の立体駐車場に滑り込んでから、一時間以上が経過していた。どうやらこの雨のせいで飛行機が遅れているらしい。到着予定時刻はとっくに過ぎているというのに、アルバートからはまだ何の連絡もなかった。
モランがいるのは車内とはいえ、エンジンを切っているから屋外よりいくらか温かい程度だ。耐えられない気温ではないが、寒いものは寒い。
空港内のカフェにでも移動しようかと何度も考えた。だがエレベーターを使い連絡通路を通って、立体駐車場の向かいにそびえる建物まではるばる歩いていくのも面倒だ。
あの男のことだから、モランがコーヒーを受け取って席に腰を落ち着けた途端に「待たせたね。車を回してくれるかい?」なんて電話を寄越してくるに決まっている。そうすればまた来た道を逆戻りだ。
何本目かになる煙草に火をつけ、助手席に放りだしていた本を手に取る。先日発売された、ルイスが書いた小説だ。
彼が作家だなんて前世では想像もつかなかったが、凝り性で妥協せずこつこつと地道に仕事をこなすという点ではまぁ向いていたらしい。何かしらの賞を獲ってデビューした作家がその一作きりで消えていくことの多い中、ルイスは安定したペースで作品を書き上げ、着実に実績を積んでいた。フレッドの話では、熱心な読者もつき始めているらしい。
本文にはざっと目を通してある。かつての自分たちが経験した事件に大幅な脚色を加え、登場人物を置き換え、現代人にウケるように上手く再構成してあった。
何も知らない読者であれば、あっという間に整然とした物語の世界に引き込まれることだろう。うめき声を上げながらキーボードを叩きまくっている作者の姿など想像もつかないはずだ。
ぱらぱらとページをめくっていると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。待ちに待った到着の報せだ。
モランは小説をダッシュボードにしまい、差しっぱなしだったキーを回してエンジンを始動した。
*
空港前の車寄せレーンは、悪天候の影響もあってか、平日だというのに混み合っていた。遅れていた便の乗客がいっせいに空港を脱出しているのだろう。
列の隙間を縫って車を停車させると、少し離れた屋根の下から、こちらに向かって歩いてくる人影があった。
アルバートだ。疲れた顔で大きなスーツケースを引いている。
「遅い」
開口一番、これだ。
「こっちの台詞だ。二時間も待たせやがって」
「飛行機が遅れたんだ、仕方ないだろう」
トランクを開けて、一週間分の着替えは余裕で入りそうなスーツケースを中へ押し込む。その間に、アルバートはさっさと後部座席に収まっていた。
「あとで駐車場代払えよ」
「分かっているさ。あちらで手に入れたウィスキーを進呈しよう。標高の高い土地で造られたものだから、我が国のウィスキーとは味わいがまったく違うらしい」
「お前、今回はスイスだっけか。ウィスキーの醸造は禁止されてたんじゃなかったか?」
アルバートは呆れたように鼻を鳴らした。
「いつの話をしているんだね。とっくの昔に解禁されているよ」
「そりゃあそうか」
モランは確か、『前世』でその報せを新聞で目にしたのだ。言われてみれば、大戦下の食糧難に備えて穀物を確保するためだとか書いてあった気がする。解禁されていて当然か。
二人の乗るベントレーはゆっくりと滑り出した。
鈍色の空は重く頭上にのしかかり、雨粒がひっきりなしにフロントガラスを叩いていた。モランはワイパーの速度を一段階上げる。
「ったく厭な天気だな」
「あぁ、ロンドンに帰ってきたという気がするよ」
後部座席のアルバートが皮肉っぽく呟いた。頭が痛いのか、こめかみの辺りを抑えている。
モランはスイスには行ったことがなかったが、その名前から連想する高い山々と澄んだ青空は、確かにロンドンとはほど遠いものだろう。ラジオから流れる天気予報によると、明日の朝まで降り続けるらしい。
「その様子だと、今回も空振りみてぇだな」
「分かっているなら聞かないでくれ」
「……」
あまりご機嫌がよくないようだ。モランは黙って、運転手としての役割に徹することにした。
アルバートは小さな貿易商社を経営している。裏では政府の秘密機関として活動しているようなペーパーカンパニーではなく、れっきとした一般企業だ。どういう手品を使っているのか分からないが、規模の割には利益を上げている。
だが当の社長は事業規模拡大にはあまり興味がないらしい。買い付けやら商談やら、何かしらの理由をつけては社長自ら国内外を渡り歩いていた。
そのお陰で、社員や取引先の大半は『金持ちの御曹司が道楽で会社経営をやっている』と認識しているようだった。実際のアルバートは永らく実家とは連絡を絶っていて、家族と呼べる存在は義弟のルイスくらいだというのに。
ともかく、そうして誰にも干渉されない地位と居場所を確保したアルバートの本当の目的は、言うまでもなくウィリアムの捜索だ。出張先で暇を見つけては人通りの多い場所を練り歩いたり、地元のイベントに参加してみたり。
アルバートは子供の頃、慈善団体が主催するチャリティバザーへ連れて行かれ、そこでたまたまルイスを見つけたらしい。モランがフレッドと再会した経緯も似たようなものだ。
ウィリアムとの再会を期待してひたすらに足を使う方法は、決して無意味とはいい切れなかった。今のところ、徒労でしかなくとも。
後部座席のアルバートは、俯いて目を閉じている。二時間足らずの搭乗時間ではまともに眠れなかっただろう。モランは手元のつまみを回して、ラジオのボリュームを抑えた。
*
車は静かに走り続けた。霧が出ていないだけましだが、それでも雨の日の運転は気を配ることが多くて面倒だ。
途中、ポケットの中の携帯が何度か震えたが、おおかた、アルバートの帰りを待っているルイスかフレッドだろう。どうせすぐに会えるのだから、放っておいた。
後部座席のアルバートはすっかり寝入っていたが、高速道路を下りて市街地に入るとむくりと身体を起こした。
ミラー越しに見やると、彼はスマートフォンの通知を手早くチェックしてからは、一心に窓の外を見ていた。
道行く人々の顔を一つずつ、確認している。まるで誰かを探しているかのように。
これは何もこの男だけに限った話ではない。モラン自身もそうだったし、ルイスやフレッドだって同じだ。
例えば、初めて入ったカフェやレストランで。混み合った地下鉄駅で。賑わうショッピングモールで。どこかに彼がいるのではないかと期待して、つい視線を彷徨わせる。
着くまで寝ていればいいのに、と思ったが、彼の気持ちはよく分かるので好きにさせておく。
「停めてくれ」
突如後部座席から声が飛んで、モランは慌ててブレーキを踏んだ。
「なんだよ、何か……」
「すぐ戻る」
路肩に車を寄せると、アルバートは雨も気にせず後部座席のドアを開けた。
モランはアルバートの視線の先を追う。
もしやと緊張が走ったが、アルバートが入っていったのは通りに面した書店だった。肩から力が抜けていく。
窓を細く開けて煙草を蒸していると、アルバートは十分足らずで戻ってきた。雨避けのビニール袋に包まれた、一冊の本を抱えている。
「ありがとう、出してくれ」
「何買ってきたんだよ……って、聞くまでもないか」
「ルイスの新作だよ。もちろん買っただろうな?」
「あー、まぁ一応」
普段行きもしない書店へわざわざ発売日に買いに行ったとは、何となく言いづらかった。
「帰国したらすぐに買おうと思っていたんだが、空港の書店には置いていなくてね」
「だろうな」
空港内の書店といえば売り場の面積も限られているから、駆け出しの作家が入り込む隙は無いだろう。
アルバートは袋から取り出した本の表紙を満足気に撫でていた。モランはウィンカーを点けて、再び車道へと滑り出す。うっとうしい雨はいまだに降り続けていた。
「ルイスのSNS、見てるか?」
「もちろん」
「フォロワーがもうじき三万人だとよ」
「それは多い方なのか?」
「デビューして二、三年の作家にしちゃ上々だろ」
「そうなのか。フレッドも手伝ってくれているお陰だね」
「……いつまで続けさせるつもりだ?」
「何を?」
分かっているくせに、アルバートはわざと問い返した。モランは苛立って指でハンドルを叩く。折悪く、信号は赤だ。
「ルイスだよ。世間に名を売ってウィリアムからのコンタクトを待つっていうのは、確かに手としちゃ悪くない。だがあいつを見つけるのがウィリアムだけとは限らないだろ」
「……」
ルイスの書いた本は誰でも買って読む事ができる。電子書籍化もされているし、今の時代、ネットを通じればそれこそ世界中の人間が作品にアクセスできるだろう。
そして前世の記憶を持っている者が読めば、そこに書かれている内容は実際にあった出来事だと確実に理解できる構成になっている。
「俺たちはかなり悪どいことをやってきて、それなりに恨みも買った。もし『前』の記憶を持って現代に生きてるのが俺たちだけじゃなかったらどうする? 万が一そいつがモリアーティと因縁のある相手だった日には……」
「わかっている」
アルバートはぴしゃりと遮った。
彼自身、当然理解しているだろう。だが兄を探そうとするルイスを止められないのも事実だ。
内気なようでいて、ルイスは一度思い切るとどこまでも大胆に行動する。焼けた木片を自らの顔に押し付けた時然り、Mを継ぐと決めた時然り。
彼が作家としてデビューすることをモランやアルバートが知ったのも、すでに出版社と話がついた後だった。
「恨みの記憶を抱えた者が、今生では満ち足りた生活を送っていることを祈るしかない」
「馬鹿言え。いくら満ち足りてようが、頭のネジが外れた野郎には関係ない。それこそミルヴァートンみてぇな……」
「わかっている。だが、私たちがこれまでにどんな成果を挙げられた? あの子に繋がる手がかりを何か一つでも掴んだか?」
「っ、それは……」
黙るしかなかった。
アルバートは国内外の主要都市を休みなしに飛び回る一方で、モランはモランで非合法な手段に手を染めてでもウィリアムの情報を探し続けた。
闇に流れた公的機関の個人情報リストを片っ端から買い漁ったり、あるいは警備会社が保管している各地の防犯カメラのデータを盗み出したり。アルバート達には話していないが、そのいくつかはフレッドにも手伝わせていた。
気の遠くなるような作業を何年と続けて、だが現在に至るまで、収穫はない。
「信じよう。あの子だって子供じゃない」
「……まぁ、そうなんだが」
「少なくとも、自宅を特定されて襲撃される、なんて事にはならないだろう」
それはモランも同感だった。
悪意ある者がルイスの正体に気づいたとして、彼のもとにたどり着くには、作家としてのルイスのSNSアカウントから情報を得るしかない。
だがルイス自身はプライベートな内容は一切投稿していないし、写真はすべてフレッドが撮影したものだ。投稿のタイミングも意図的にずらしている。あの投稿内容からルイスの生活圏を割り出すことは不可能と言っていいだろう。
「もう一度ウィリアムに会いたい。その気持ちは、皆同じだろう」
「…………」
アルバート自身も『気鋭の若手実業家』だとかでその手の雑誌に何度か取り上げられたことがあった。ウィリアムからの接触がない代わりに、前世の記憶を持つ者からの連絡もない。
かつて生きた時代からは想像もつかないほど世界が変わっていたとしても、相変わらず、世の中は案外広いのだ。ウィリアムを探してアンテナを高くしているつもりでも、際限なく広がる情報の海から拾い上げられるのはごくわずか。その大半は一瞥することすらなく消えていく。
いるかどうかも分からない相手を恐れて手を拱いているのは愚かだと、そう言いたいのだろう。
「……俺には何とも言えねぇ。ウィリアムの考えが分からねぇと」
「それはそうだ。今どこで何をしているのか……私たちと同じように記憶を引き継いで生まれているのかどうかすら分からないからな」
「悪くすりゃ、赤ん坊や老人の可能性だってある」
これまで何度も議論したことだった。
これだけ探しても見つからないということは、ウィリアムは現代に転生していないのではないか? していたとしても、自力でこちらに接触することができないような、老人や子供である可能性はないか?
どちらも確たる証拠はない。だがあり得ない話でもなかった。今すでに再会を果たした四人の中にも、年齢のずれがあるからだ。
モランは今年で三十五歳になる。アルバートは二十七、ルイスは二十三。ここまではいい。しかし、フレッドはまだ十七歳だった。他の三人に比べて、『前』より二歳若い計算になる。
この事から、モランたち三人がたまたま同じ間隔で生まれてきただけで、転生するタイミングがずれることもあり得るのではないか、という推論が成り立つ。
しかしこの年齢のずれがフレッドにだけ発生しているのがまた厄介だった。何せ、前世の彼の正確な年齢は、彼自身にも分からなかったからだ。
前世で「これくらいだろう」と考えられていた年齢が誤っていただけで、フレッドもまた以前と同じタイミングで生まれてきている可能性も大いにある。であれば、現代に生まれたウィリアムもまた、今は二十四歳前後なはずだ。
推測に推測を重ねるような話ではあるが、これはウィリアムを探すうえでかなり重大な問題だった。何しろ、もし転生するタイミングに法則性が無いのであれば、捜索対象は天文学的数字にまで膨れ上がることになってしまうからだ。
この話題が持ち上がるたび、四人は堂々巡りを繰り返していた。その点では、自らの手や目を使ってウィリアムを『探す』方法ではなく、自らを人目に晒すことでウィリアムに『見つけてもらう』策を取ったルイスは利口だった。問題は、彼があまり目立ちたがりではなかったことであるが。
「ウィリアムじゃなくても、せめて他の連中が見つかればなぁ。ボンドとかパターソンとか」
「その希望も持てなくはないね。もしボンドが現代に生まれていたとすれば、案外すぐにルイスのSNSを見つけてくれるんじゃないか?」
「あぁ、そういう事には目も耳も敏い奴だったな」
ルイスのSNSアカウントは、誰からでもメッセージを送れるようオープンにしてある。執筆が差し迫ってくると何日もSNSを開かないこともあるそうだが、彼に代わってフレッドが逐一チェックしているそうだから見落とす心配はないだろう。
「俺たちのやることは変わらない、か」
「そうだな。いつだって運命はあちらからやって来るものだ。だが、それを掴み取る努力だけは絶やしてはならない」
「大げさだな。今さら止めにするわけにもいかねぇって話だろ?」
モランはハンドルを切り、テムズ川を臨むマンションの地下駐車場へ入った。
雨の音が少しだけ遠のき、代わりにヘッドライトが自動的に点灯される。今日のように運転手役をさせられることも一度や二度ではなかったから、指定の駐車スペースの場所はすっかり覚えていた。
「誰かさんが待たせるから腹が減った」
「航空会社へ苦情を入れるといい」
トランクを開けながら嫌味を言うと、すかさず切り返される。そんなやり取りが今は心地いい。
チン、と軽い音がして、エレベーターが降りてきた。「早くしたまえ」とエレベーターのドアを抑えているアルバートの声が打ちっぱなしのコンクリートにこだまする。
モランは大きなスーツケースを引きなから、足早に駆けていく。車内の暖房で身体はいくらか暖まっていたが、相変わらず腹は減っていた。
最上階のアルバートたちの住まいでは、ルイスが遅い昼食を用意して待ちかねていることだろう。フレッドも来ているはずだから、今日の食事は賑やかになりそうだ。
早く来ないと無くなるぞ。
モランは、誰にともなく呟いた。
初出:Pixiv 2024.11.20
オリーブの枝
アルバートとフレッドがちょっと気まずかった時のことを思い出す、三年間の話。
マイクロフト・ホームズが予定通りの時刻にディオゲネス・クラブへ立ち寄ると、カウンターの奥のボードに青いピンが立っていた。
青いピンは、主に仕事絡みでの来客を示す。場所は三階の談話室。私語厳禁をモットーとするこのクラブで、マイクロフトが利用するためだけに会話が許された一室だ。もちろん、話し声がクラブの静寂を乱さないように防音対策は抜かり無い。
彼がロビーを通り抜けるとき、受付係は目礼だけを返した。
厚めの絨毯が敷かれた階段を上がって、まっすぐに目的の部屋の扉を開ける。
来客――フレッド・ポーロックはすでに室内で待機していた。と言っても、マイクロフトが予期していたように所在なさげに直立していたわけではなかった。
彼は部屋の隅にしゃがみ込んで、コンソールテーブルの上の鳥籠を一心に覗き込んでいた。何やらぶつぶつと呟いていて、マイクロフトが入室しても気がついた様子がない。
「何をしている?」
「……っ!」
背後から声を掛けると、フレッドはばね仕掛けのおもちゃのような勢いで立ち上がった。籠の中にいたチャーリーが、驚いてバサバサと羽根を鳴らす。
本来ならば情報を盗もうとしているのではないかと疑うべきところだが、フレッドに関してはその心配は無用だろう。その証拠に、立ち上がった拍子に彼の手のひらから小さな黄色っぽい粒が転げ落ちた。
フレッドは凍りついたように動かない。マイクロフトはつかつかと歩み寄り、絨毯の上に落ちたそれを拾い上げた。
乾燥させたトウモロコシの粒だった。
チャーリーが籠の隙間からくちばしを突き出し、ねだるようにくるくると喉を鳴らした。
「なんだ、チャーリー。おやつをもらっていたのか」
「……も、申し訳ありません」
マイクロフトが拾ったトウモロコシを格子の前に持っていくと、チャーリーが素早い動作でついばんだ。こころなしか、普段与えている飼料よりも食いつきがいい。
鳩に好き嫌いがあるなどとは考えたこともなかったが、もしかすると、彼はすり潰した麦の粒よりトウモロコシの方が好みなのかもしれない。
「構わないよ。これから仕事に出るところだったから、いい腹ごしらえになっただろう。ただ、次からは報告してくれ。君が来るときは餌の量を調整しておこう」
「あ、ありがとうございます……」
フレッドは小さく頭を下げた。
「君は無類の猫好きだとルイスから聞いていたが……鳥も好きなのか?」
「え……はい。あの、よく人に慣れていて可愛いなと思ったので……すみませんでした」
今日彼がここを訪れた目的は、街で仕入れた情報の定期報告だ。たまたまポケットにトウモロコシが入っていた訳ではないはずだから、チャーリーにやるチャンスを窺って密かに用意していたのだろう。
前回ここに来てもらったときも、確かにチャーリーの鳥籠をここに置いていた。鳥籠をちらちらと気にしていることには気がついていたが、まさか彼のためのトウモロコシを持参していたとは。
「少し待っていてくれ」
そう断ると、フレッドは小さく頷いて部屋の隅に下がった。机についたマイクロフトの手元が見えない位置だ。
よく教育が行き届いていることに満足を覚えながらマイクロフトは引き出しから小さく切った紙片を取り出した。数秒考えて、短い文章を書きつける。
鳥籠の扉を開けてやると、チャーリーは小さく羽根を動かしてマイクロフトの腕に飛び乗った。足にくくりつけられた筒に、丸めた紙片が押し込まれるのを大人しく待っている。
伝書鳩を使うところを見るのは初めてなのか、フレッドはわずかに首を伸ばしてその様子を観察していた。
今日はよく晴れていて、風も穏やかだから飛行にも支障なさそうだ。窓を開け放つと、表通りのざわめきが心地よく耳に届いた。
マイクロフトは窓の外に腕を伸ばす。
フレッドがあまりに物珍しそうに見つめるものだから、その姿にまだ小さかった頃の弟を連想して、どこか得意な気持ちになると同時に胸の奥がチクリと痛んだ。
チャーリーがマイクロフトの腕を蹴って飛び上がる。小さくも力強い風が巻き起こり、彼はまっすぐに東へ飛んでいった。
だんだんと小さくなっていく白い翼を見送りながら、フレッドは彼の目的地について訊ねようとはしなかった。
一諜報員として、その態度は正しい。正しいのだが、もしそのことについてフレッドに尋ねられたのならマイクロフトは何と答えるべきだろうか。ふとそんなことを考えた。
「さて、仕事の話をしようか」
窓を閉めながら振り返ると、フレッドは表情を引き締めて頷いた。
フレッドから街での出来事について報告を受けるのはいつも面白い。彼は特別話上手という訳では決して無いが、淡々と語られる市井の出来事に耳を傾けるのはマイクロフトにとって良い息抜きだった。
それに、彼が仕入れた他愛のない噂話が当時ロンドンを騒がせていた金庫破りのアジトを特定する材料になったこともあるのだから、軽視はできない。
だが同時に、噂話がそうした具体的な成果につながる例は稀だ。どんなに些細な内容であってもこつこつと拾い集めてくる根気は見上げたものだった。
報告が一段落したところで、マイクロフトは唐突を装って切り出した。
「君は何か、アルバートに言ってやりたいことはあるか?」
フレッドは丸い目をぱちくりと瞬かせた。
「お会いできるのですか?」
「まさか。何度尋ねても門前払いだ」
「……そうですか」
フレッドはどこかほっとした顔で頷いた。
アルバートは末弟であるルイスの面会さえも断っている。それなのにもしマイクロフトが立場にものを言わせてアルバートと面会していたとなれば、彼にとってあまりいい気はしないのだろう。
「僕からお伝えすることはありません。ずっとお待ちしています、とだけ……皆と同じ気持ちです」
「そうか」
「でも、個人的に一つ……」
「何だね?」
「アルバート様に、謝りたいことがあります」
「ほう」
彼と本格的に仕事を共にするようになってしばらく経つが、彼が『個人的』な話をしてくれたことはまだ一度もない。
マイクロフトはほんの少し椅子を引いた。なるべくリラックスして見えるように座り直して、フレッドの言葉の続きを待つ。
「モリアーティ家にお世話になり始めたばかりの頃、ティーカップを割ってしまいました」
彼があまりに神妙な表情でそう告げるから、思わず笑ってしまいそうになった。しかし彼はこちらの反応など気にもとめず続けた。
「あんなに綺麗な茶器を運ぶのは初めてで、緊張して手元ばかりに注意していたから、絨毯の縁に躓いてしまって……カップが床で砕けた瞬間、何よりもまず、近くに立っていたモランが破片で怪我をしていないか確かめるべきでした。それなのに、僕は咄嗟にアルバート様の方を見てしまったんです」
フレッドは床に視線を落とした。カップの残骸がまだそこに散らばっているかのように。
「僕の視線に気がついた瞬間、アルバート様はとても傷ついた顔をなさいました」
「……」
「アルバート様が僕のことを怒鳴りつけたり鞭で打ったりするはずがないと、わかっていたはずなのに……咄嗟に、顔色を窺ってしまって……。カップを割ってしまったことはその場で謝って、アルバート様も、他の皆さんも許してくれました。でも、その瞬間のことだけは、どんなふうに言葉にすればよいのか分からなくて、どうしても言い出せなくて……」
フレッドはそこで話しすぎたことに気がついて、「すみません」と小さく呟いて言葉を切った。
その気持ちはわかる気がした。不意の出来事だったから尚更、お互いに取り繕うことができなかったのだろう。
アルバートは目下の者や年少者に慕われこそすれ、怯えた目を向けられることはほとんど無かったはずだ。それは彼が横柄な貴族を嫌悪し、ああはなるまいと自身に言い聞かせ、その矜持に違わぬ振る舞いをし続けてきたからだ。
「それは何年くらい前のことだね?」
「ええと……七、八年くらい前かと」
「そんなに昔のことなら、と言いたいところだが……覚えているだろうな、アルバートなら」
フレッドは黙って頷いた。
気まずい空気のままうやむやになってしまった出来事ほど、その後何年もふとした瞬間に思い出してしまうものだ。ましてや、彼はアルバートの中で最も根深いコンプレックスを刺激してしまったのだ。
「アルバート様、その後、冗談を言って笑わせようとしてくれましたけど……うまく反応できなくて。それがますます申し訳なくて……」
「そうか……直接会って話ができる日まで、温めておくといい」
「はい」
フレッドは小さく頭を下げて、退出していった。
一人になった部屋の中で、マイクロフトは椅子の背もたれに身を預けながら考える。
あの事件に関わった者は誰しも、伝えたい言葉を無数に抱えている。あの寡黙なフレッドさえ、思わずマイクロフト相手に漏らしてしまうほど。
チャーリーの翼に託せる手紙はごくささやかなものでしかない。けれど、彼の遠い祖先が方舟に持ち帰ったオリーブの枝のように、アルバートの元にも限りない希望を運ぶことができると信じたかった。
*
ロンドン塔でアルバートに与えられた部屋には、書物も絵画も何も無い。椅子に腰掛けて物思いに沈む間は、冷たい石壁か小さな窓を眺める他なかった。
高い塔の周囲には遮るものが無く、窓からはタワーブリッジを一望することができる。その光景は常にアルバートを苛んでやまなかった。夜ごと、橋の上から真っ逆さまに落ちていく弟たちの姿を幻視しては心をかき乱された。
この日もアルバートは、幽鬼のように青白い顔で窓辺の椅子に腰掛けていた。昨夜もほとんど一睡もせず、二度と戻らない過去を顧みてはどうにもならない後悔に苦悶していた。
外はよく晴れていて、曇った窓ガラス越しに差し込む僅かな日差しが、暗闇に慣れた目を刺した。そびえ立つタワーブリッジの影が網膜に焼き付くようだった。
しばらくの間まんじりともせず窓の外を眺めていたアルバートだったが、ふいに立ち上がった。
少し前に、塔を守る看守の一人が食事を持ってきてくれたのだ。つい数分前だったかもしれないし、数時間前だったかもしれない。ともかくそのことを思い出したアルバートは機械的な動作で立ち上がり、扉の横に置かれた小さなテーブルから食事の載ったトレイを取ってきた。
自らここに閉じこもるようになって以来、アルバートは与えられる食事を残したことはない。無理に押し込んで吐き戻してしまうことも度々あったが、食事を断って緩やかに自殺することなど許されるはずもないと考えていた。
パンひと欠片を、冷めたスープで何とか流し込んだ。
もしこの塔の看守か炊事係の中に自分を恨む者がいたのなら、この食事に毒でも仕込んではもらえないだろうか――そんなふと妄想が頭を過ったが、すぐに首を振って打ち消した。
自分はここで少しでも長く苦しまなくてはならない。何より、こんな考えは誠実に職務をまっとうしてくれている彼らに対して無礼極まりない。
同じく冷めた紅茶を飲んで食事を終えてしまおうとカップを傾けたとき、カップの縁が欠けていることに気がついた。
持ち手の部分の直ぐそばで、うっかり口をつけて唇を切ってしまうような位置ではないから、まだ使用できると判断されたのだろう。
白い断面をぼんやり眺めているうちに、ふと、脳裏に過る出来事があった。
ずいぶん前の話になるが、懐かしいモリアーティの屋敷で、フレッドがカップを落として割ってしまったことがあった。
カップは特に思い入れのある品ではなかったし、熱い紅茶ごとぶちまけてしまったわけでもない。しかし真っ青になって謝るフレッドが気の毒になって、アルバートは冗談のつもりで言ったのだ。
『大丈夫だよ、モラン大佐に弁償してもらうから』と。
あれは我ながら最悪だった、とアルバートは振り返る。
本当に冗談のつもりだったのだ。事実、モラン本人とて真に受けたりはしないだろう。しかし、顔を上げた時の、フレッドの絶望した瞳が忘れられなかった。
あれは特別な由緒があるわけでもない、モリアーティ家の食器棚に無数にひしめいていたティーカップのうちの一つに過ぎなかった。アルバートにとっては割れてしまっても少しも惜しくない品だった。
だが、それは幼かった彼にとっては知る由もないことだ。自分のせいでモランが莫大な負債を背負うことになってしまった。純真なフレッドはアルバートの冗談を真剣に受け止めて、強いショックを受けていた。
『も、モランは悪くないです』
フレッドが震える声で、絞り出すように言った。そこでようやく、アルバートは自分の失敗を悟った。
すぐに気まずい空気を察知したモランが飛んできて『そうだそうだ、俺関係ねぇだろうが。下らねぇ冗談言ってないで、ほら、片付けるぞ』とフレッドの背中を叩いた。冗談、という言葉をあえて強調しながら。
我に返ったフレッドは、慌てて踵を返すと、箒とちり取りを持ってきたルイスの方へと駆け寄っていった。
身を焦がす程の後悔とはまた異なるが、苦い思い出の一つであることには違いなかった。謝る機会を逃してしまったことも含めて。
縁の欠けたカップを揺らしながらそんなことを思い返していると、コツコツと、小さく窓を叩く音がした。
振り返ると、窓枠の外側に鳩が止まっていた。真っ白い翼が、昼間の日差しの中で輝いて見える。
「やあ、チャーリー。よく来たね」
窓を細く開けてやると、彼は待ち切れないといった様子で室内に身を滑り込ませてアルバートの肩に飛び乗った。くるくると喉を鳴らすのが、甘えられているようでくすぐったい。
アルバートはチャーリーを肩に乗せたままテーブルまで戻ると、皿の上に取っておいたパンの欠片を彼に与えた。が、今日はいつもほど勢いが良くない。すぐに食べずに、欠片をつついて遊んでいる様子さえ見受けられた。
「お腹が空いていないのかな?」
ふわふわとした背中を撫でると、チャーリーの興味はすぐさまパンの欠片からアルバートの方へと移った。
アルバートは左手でチャーリーの相手をしながら、右手でそっと彼の足の筒から書簡を抜き取った。
チャーリーはぴょこぴょこと飛び跳ねてアルバートの腕へとよじ登る。忙しなく首を動かしてアルバートの顔を覗き込んだり、白い翼を見せつけるように羽根を広げてみたり、その仕草の一つ一つが可愛らしくて、アルバートは思わず頬を緩めた。
しばらくの間そうして戯れていたが、やがてチャーリーがちらちらと窓の方を気にするようになった。
「もう、帰る時間かい?」
本音を言えばもう少しだけいてほしかったが、この狭い部屋にいつまでも閉じ込めておくのは可哀想だろう。彼には彼の帰る場所があり、仕事があるのだ。
アルバートは腰を上げ、窓を開けた。
「またおいで」
そう言葉をかけると、チャーリーはコトリと首を傾げた。また笑みが漏れる。
チャーリーはアルバートの腕を蹴って飛び上がった。翼を大きくはためかせた拍子に白い羽根が一枚抜け落ち、ひらひらと風に舞いながら落ちていく。それに気を取られた一瞬のうちに、チャーリーはあっという間に飛び去ってしまった。
後にはテムズ川の向こうにタワーブリッジがそびえ立つ、元の景色だけが残された。一抹の寂しさが過るが、先ほどとは比べ物にならないほど胸が軽くなっているのも確かだ。
丸められた書簡を手の中で転がしながら、アルバートは椅子へ戻った。
チャーリーの飛行に支障を来さない大きさの紙片に綴られる文章は、そう長いものではない。精々新聞記事の見出し程度だ。しかしマイクロフトが選ぶ話題は、どれも明るいものばかりだった。
誰でも無償で通える学校が開かれたとか、参政権の拡大を謳った法案が可決目前だとか。そしてそうしたニュースの隙間に、残してきたルイスたちの話題も挟まれる。
チャーリーがもたらす報せは間違いなく暗い幽閉生活に投げかけられた光で、アルバートは辛うじて世界と繋がりを保っていられた。タワーブリッジが佇む窓の向こうに、幾らかの希望を見出すことができた。
こちらから返事を書いたことは一度もない。看守に頼めば紙と筆記具くらいは用意してもらえるはずだが、用意してもらったところで何を書けばいいのかアルバートには分からなかった。
そっと指を滑らせて、紙片を開く。
書簡を開く瞬間は、いつも少し緊張する。
マイクロフトがあえて明るいニュースばかりを選んでいることは分かっていたが、つい身構えてしまう。もしルイスたちの身に何かあれば……とつい考えてしまうのだ。
恐る恐る小さな紙切れに詰め込まれた文字に目を通して、アルバートはふっと吹き出した。
「そうか、チャーリー。今日はおやつをもらっていたんだね」
皿の上には、チャーリーがつついたパンくずが疎らに残っている。いつもは喜んで食べるのに、今日はあまり気が進まない様子だったことに得心がいった。
フレッドは以前からあちこちで野良猫に餌をやっているようだったが、ついにチャーリーにまで。そしてそのことをマイクロフトがわざわざ書いて寄越したと思うと、可笑しくてたまらなかった。
久しぶりに声を立てて笑うと、自身の声が石壁に反響して思ったより大きく響いた。空虚な部屋にいることをまざまざと突きつけられ、不意に身を刺すような孤独感がアルバートを襲った。
チャーリーの来訪に少しだけ上向いたかと思われた心がまた冷え込んで、目の奥がじわりと熱くなる。
小さな紙片を強く握り締め、アルバートは椅子の上で項垂れた。窓の向こうに佇むタワーブリッジの影だけが、その姿を見下ろしていた。
初出:Pixiv 2024.05.09
アルバートとフレッドがちょっと気まずかった時のことを思い出す、三年間の話。
マイクロフト・ホームズが予定通りの時刻にディオゲネス・クラブへ立ち寄ると、カウンターの奥のボードに青いピンが立っていた。
青いピンは、主に仕事絡みでの来客を示す。場所は三階の談話室。私語厳禁をモットーとするこのクラブで、マイクロフトが利用するためだけに会話が許された一室だ。もちろん、話し声がクラブの静寂を乱さないように防音対策は抜かり無い。
彼がロビーを通り抜けるとき、受付係は目礼だけを返した。
厚めの絨毯が敷かれた階段を上がって、まっすぐに目的の部屋の扉を開ける。
来客――フレッド・ポーロックはすでに室内で待機していた。と言っても、マイクロフトが予期していたように所在なさげに直立していたわけではなかった。
彼は部屋の隅にしゃがみ込んで、コンソールテーブルの上の鳥籠を一心に覗き込んでいた。何やらぶつぶつと呟いていて、マイクロフトが入室しても気がついた様子がない。
「何をしている?」
「……っ!」
背後から声を掛けると、フレッドはばね仕掛けのおもちゃのような勢いで立ち上がった。籠の中にいたチャーリーが、驚いてバサバサと羽根を鳴らす。
本来ならば情報を盗もうとしているのではないかと疑うべきところだが、フレッドに関してはその心配は無用だろう。その証拠に、立ち上がった拍子に彼の手のひらから小さな黄色っぽい粒が転げ落ちた。
フレッドは凍りついたように動かない。マイクロフトはつかつかと歩み寄り、絨毯の上に落ちたそれを拾い上げた。
乾燥させたトウモロコシの粒だった。
チャーリーが籠の隙間からくちばしを突き出し、ねだるようにくるくると喉を鳴らした。
「なんだ、チャーリー。おやつをもらっていたのか」
「……も、申し訳ありません」
マイクロフトが拾ったトウモロコシを格子の前に持っていくと、チャーリーが素早い動作でついばんだ。こころなしか、普段与えている飼料よりも食いつきがいい。
鳩に好き嫌いがあるなどとは考えたこともなかったが、もしかすると、彼はすり潰した麦の粒よりトウモロコシの方が好みなのかもしれない。
「構わないよ。これから仕事に出るところだったから、いい腹ごしらえになっただろう。ただ、次からは報告してくれ。君が来るときは餌の量を調整しておこう」
「あ、ありがとうございます……」
フレッドは小さく頭を下げた。
「君は無類の猫好きだとルイスから聞いていたが……鳥も好きなのか?」
「え……はい。あの、よく人に慣れていて可愛いなと思ったので……すみませんでした」
今日彼がここを訪れた目的は、街で仕入れた情報の定期報告だ。たまたまポケットにトウモロコシが入っていた訳ではないはずだから、チャーリーにやるチャンスを窺って密かに用意していたのだろう。
前回ここに来てもらったときも、確かにチャーリーの鳥籠をここに置いていた。鳥籠をちらちらと気にしていることには気がついていたが、まさか彼のためのトウモロコシを持参していたとは。
「少し待っていてくれ」
そう断ると、フレッドは小さく頷いて部屋の隅に下がった。机についたマイクロフトの手元が見えない位置だ。
よく教育が行き届いていることに満足を覚えながらマイクロフトは引き出しから小さく切った紙片を取り出した。数秒考えて、短い文章を書きつける。
鳥籠の扉を開けてやると、チャーリーは小さく羽根を動かしてマイクロフトの腕に飛び乗った。足にくくりつけられた筒に、丸めた紙片が押し込まれるのを大人しく待っている。
伝書鳩を使うところを見るのは初めてなのか、フレッドはわずかに首を伸ばしてその様子を観察していた。
今日はよく晴れていて、風も穏やかだから飛行にも支障なさそうだ。窓を開け放つと、表通りのざわめきが心地よく耳に届いた。
マイクロフトは窓の外に腕を伸ばす。
フレッドがあまりに物珍しそうに見つめるものだから、その姿にまだ小さかった頃の弟を連想して、どこか得意な気持ちになると同時に胸の奥がチクリと痛んだ。
チャーリーがマイクロフトの腕を蹴って飛び上がる。小さくも力強い風が巻き起こり、彼はまっすぐに東へ飛んでいった。
だんだんと小さくなっていく白い翼を見送りながら、フレッドは彼の目的地について訊ねようとはしなかった。
一諜報員として、その態度は正しい。正しいのだが、もしそのことについてフレッドに尋ねられたのならマイクロフトは何と答えるべきだろうか。ふとそんなことを考えた。
「さて、仕事の話をしようか」
窓を閉めながら振り返ると、フレッドは表情を引き締めて頷いた。
フレッドから街での出来事について報告を受けるのはいつも面白い。彼は特別話上手という訳では決して無いが、淡々と語られる市井の出来事に耳を傾けるのはマイクロフトにとって良い息抜きだった。
それに、彼が仕入れた他愛のない噂話が当時ロンドンを騒がせていた金庫破りのアジトを特定する材料になったこともあるのだから、軽視はできない。
だが同時に、噂話がそうした具体的な成果につながる例は稀だ。どんなに些細な内容であってもこつこつと拾い集めてくる根気は見上げたものだった。
報告が一段落したところで、マイクロフトは唐突を装って切り出した。
「君は何か、アルバートに言ってやりたいことはあるか?」
フレッドは丸い目をぱちくりと瞬かせた。
「お会いできるのですか?」
「まさか。何度尋ねても門前払いだ」
「……そうですか」
フレッドはどこかほっとした顔で頷いた。
アルバートは末弟であるルイスの面会さえも断っている。それなのにもしマイクロフトが立場にものを言わせてアルバートと面会していたとなれば、彼にとってあまりいい気はしないのだろう。
「僕からお伝えすることはありません。ずっとお待ちしています、とだけ……皆と同じ気持ちです」
「そうか」
「でも、個人的に一つ……」
「何だね?」
「アルバート様に、謝りたいことがあります」
「ほう」
彼と本格的に仕事を共にするようになってしばらく経つが、彼が『個人的』な話をしてくれたことはまだ一度もない。
マイクロフトはほんの少し椅子を引いた。なるべくリラックスして見えるように座り直して、フレッドの言葉の続きを待つ。
「モリアーティ家にお世話になり始めたばかりの頃、ティーカップを割ってしまいました」
彼があまりに神妙な表情でそう告げるから、思わず笑ってしまいそうになった。しかし彼はこちらの反応など気にもとめず続けた。
「あんなに綺麗な茶器を運ぶのは初めてで、緊張して手元ばかりに注意していたから、絨毯の縁に躓いてしまって……カップが床で砕けた瞬間、何よりもまず、近くに立っていたモランが破片で怪我をしていないか確かめるべきでした。それなのに、僕は咄嗟にアルバート様の方を見てしまったんです」
フレッドは床に視線を落とした。カップの残骸がまだそこに散らばっているかのように。
「僕の視線に気がついた瞬間、アルバート様はとても傷ついた顔をなさいました」
「……」
「アルバート様が僕のことを怒鳴りつけたり鞭で打ったりするはずがないと、わかっていたはずなのに……咄嗟に、顔色を窺ってしまって……。カップを割ってしまったことはその場で謝って、アルバート様も、他の皆さんも許してくれました。でも、その瞬間のことだけは、どんなふうに言葉にすればよいのか分からなくて、どうしても言い出せなくて……」
フレッドはそこで話しすぎたことに気がついて、「すみません」と小さく呟いて言葉を切った。
その気持ちはわかる気がした。不意の出来事だったから尚更、お互いに取り繕うことができなかったのだろう。
アルバートは目下の者や年少者に慕われこそすれ、怯えた目を向けられることはほとんど無かったはずだ。それは彼が横柄な貴族を嫌悪し、ああはなるまいと自身に言い聞かせ、その矜持に違わぬ振る舞いをし続けてきたからだ。
「それは何年くらい前のことだね?」
「ええと……七、八年くらい前かと」
「そんなに昔のことなら、と言いたいところだが……覚えているだろうな、アルバートなら」
フレッドは黙って頷いた。
気まずい空気のままうやむやになってしまった出来事ほど、その後何年もふとした瞬間に思い出してしまうものだ。ましてや、彼はアルバートの中で最も根深いコンプレックスを刺激してしまったのだ。
「アルバート様、その後、冗談を言って笑わせようとしてくれましたけど……うまく反応できなくて。それがますます申し訳なくて……」
「そうか……直接会って話ができる日まで、温めておくといい」
「はい」
フレッドは小さく頭を下げて、退出していった。
一人になった部屋の中で、マイクロフトは椅子の背もたれに身を預けながら考える。
あの事件に関わった者は誰しも、伝えたい言葉を無数に抱えている。あの寡黙なフレッドさえ、思わずマイクロフト相手に漏らしてしまうほど。
チャーリーの翼に託せる手紙はごくささやかなものでしかない。けれど、彼の遠い祖先が方舟に持ち帰ったオリーブの枝のように、アルバートの元にも限りない希望を運ぶことができると信じたかった。
*
ロンドン塔でアルバートに与えられた部屋には、書物も絵画も何も無い。椅子に腰掛けて物思いに沈む間は、冷たい石壁か小さな窓を眺める他なかった。
高い塔の周囲には遮るものが無く、窓からはタワーブリッジを一望することができる。その光景は常にアルバートを苛んでやまなかった。夜ごと、橋の上から真っ逆さまに落ちていく弟たちの姿を幻視しては心をかき乱された。
この日もアルバートは、幽鬼のように青白い顔で窓辺の椅子に腰掛けていた。昨夜もほとんど一睡もせず、二度と戻らない過去を顧みてはどうにもならない後悔に苦悶していた。
外はよく晴れていて、曇った窓ガラス越しに差し込む僅かな日差しが、暗闇に慣れた目を刺した。そびえ立つタワーブリッジの影が網膜に焼き付くようだった。
しばらくの間まんじりともせず窓の外を眺めていたアルバートだったが、ふいに立ち上がった。
少し前に、塔を守る看守の一人が食事を持ってきてくれたのだ。つい数分前だったかもしれないし、数時間前だったかもしれない。ともかくそのことを思い出したアルバートは機械的な動作で立ち上がり、扉の横に置かれた小さなテーブルから食事の載ったトレイを取ってきた。
自らここに閉じこもるようになって以来、アルバートは与えられる食事を残したことはない。無理に押し込んで吐き戻してしまうことも度々あったが、食事を断って緩やかに自殺することなど許されるはずもないと考えていた。
パンひと欠片を、冷めたスープで何とか流し込んだ。
もしこの塔の看守か炊事係の中に自分を恨む者がいたのなら、この食事に毒でも仕込んではもらえないだろうか――そんなふと妄想が頭を過ったが、すぐに首を振って打ち消した。
自分はここで少しでも長く苦しまなくてはならない。何より、こんな考えは誠実に職務をまっとうしてくれている彼らに対して無礼極まりない。
同じく冷めた紅茶を飲んで食事を終えてしまおうとカップを傾けたとき、カップの縁が欠けていることに気がついた。
持ち手の部分の直ぐそばで、うっかり口をつけて唇を切ってしまうような位置ではないから、まだ使用できると判断されたのだろう。
白い断面をぼんやり眺めているうちに、ふと、脳裏に過る出来事があった。
ずいぶん前の話になるが、懐かしいモリアーティの屋敷で、フレッドがカップを落として割ってしまったことがあった。
カップは特に思い入れのある品ではなかったし、熱い紅茶ごとぶちまけてしまったわけでもない。しかし真っ青になって謝るフレッドが気の毒になって、アルバートは冗談のつもりで言ったのだ。
『大丈夫だよ、モラン大佐に弁償してもらうから』と。
あれは我ながら最悪だった、とアルバートは振り返る。
本当に冗談のつもりだったのだ。事実、モラン本人とて真に受けたりはしないだろう。しかし、顔を上げた時の、フレッドの絶望した瞳が忘れられなかった。
あれは特別な由緒があるわけでもない、モリアーティ家の食器棚に無数にひしめいていたティーカップのうちの一つに過ぎなかった。アルバートにとっては割れてしまっても少しも惜しくない品だった。
だが、それは幼かった彼にとっては知る由もないことだ。自分のせいでモランが莫大な負債を背負うことになってしまった。純真なフレッドはアルバートの冗談を真剣に受け止めて、強いショックを受けていた。
『も、モランは悪くないです』
フレッドが震える声で、絞り出すように言った。そこでようやく、アルバートは自分の失敗を悟った。
すぐに気まずい空気を察知したモランが飛んできて『そうだそうだ、俺関係ねぇだろうが。下らねぇ冗談言ってないで、ほら、片付けるぞ』とフレッドの背中を叩いた。冗談、という言葉をあえて強調しながら。
我に返ったフレッドは、慌てて踵を返すと、箒とちり取りを持ってきたルイスの方へと駆け寄っていった。
身を焦がす程の後悔とはまた異なるが、苦い思い出の一つであることには違いなかった。謝る機会を逃してしまったことも含めて。
縁の欠けたカップを揺らしながらそんなことを思い返していると、コツコツと、小さく窓を叩く音がした。
振り返ると、窓枠の外側に鳩が止まっていた。真っ白い翼が、昼間の日差しの中で輝いて見える。
「やあ、チャーリー。よく来たね」
窓を細く開けてやると、彼は待ち切れないといった様子で室内に身を滑り込ませてアルバートの肩に飛び乗った。くるくると喉を鳴らすのが、甘えられているようでくすぐったい。
アルバートはチャーリーを肩に乗せたままテーブルまで戻ると、皿の上に取っておいたパンの欠片を彼に与えた。が、今日はいつもほど勢いが良くない。すぐに食べずに、欠片をつついて遊んでいる様子さえ見受けられた。
「お腹が空いていないのかな?」
ふわふわとした背中を撫でると、チャーリーの興味はすぐさまパンの欠片からアルバートの方へと移った。
アルバートは左手でチャーリーの相手をしながら、右手でそっと彼の足の筒から書簡を抜き取った。
チャーリーはぴょこぴょこと飛び跳ねてアルバートの腕へとよじ登る。忙しなく首を動かしてアルバートの顔を覗き込んだり、白い翼を見せつけるように羽根を広げてみたり、その仕草の一つ一つが可愛らしくて、アルバートは思わず頬を緩めた。
しばらくの間そうして戯れていたが、やがてチャーリーがちらちらと窓の方を気にするようになった。
「もう、帰る時間かい?」
本音を言えばもう少しだけいてほしかったが、この狭い部屋にいつまでも閉じ込めておくのは可哀想だろう。彼には彼の帰る場所があり、仕事があるのだ。
アルバートは腰を上げ、窓を開けた。
「またおいで」
そう言葉をかけると、チャーリーはコトリと首を傾げた。また笑みが漏れる。
チャーリーはアルバートの腕を蹴って飛び上がった。翼を大きくはためかせた拍子に白い羽根が一枚抜け落ち、ひらひらと風に舞いながら落ちていく。それに気を取られた一瞬のうちに、チャーリーはあっという間に飛び去ってしまった。
後にはテムズ川の向こうにタワーブリッジがそびえ立つ、元の景色だけが残された。一抹の寂しさが過るが、先ほどとは比べ物にならないほど胸が軽くなっているのも確かだ。
丸められた書簡を手の中で転がしながら、アルバートは椅子へ戻った。
チャーリーの飛行に支障を来さない大きさの紙片に綴られる文章は、そう長いものではない。精々新聞記事の見出し程度だ。しかしマイクロフトが選ぶ話題は、どれも明るいものばかりだった。
誰でも無償で通える学校が開かれたとか、参政権の拡大を謳った法案が可決目前だとか。そしてそうしたニュースの隙間に、残してきたルイスたちの話題も挟まれる。
チャーリーがもたらす報せは間違いなく暗い幽閉生活に投げかけられた光で、アルバートは辛うじて世界と繋がりを保っていられた。タワーブリッジが佇む窓の向こうに、幾らかの希望を見出すことができた。
こちらから返事を書いたことは一度もない。看守に頼めば紙と筆記具くらいは用意してもらえるはずだが、用意してもらったところで何を書けばいいのかアルバートには分からなかった。
そっと指を滑らせて、紙片を開く。
書簡を開く瞬間は、いつも少し緊張する。
マイクロフトがあえて明るいニュースばかりを選んでいることは分かっていたが、つい身構えてしまう。もしルイスたちの身に何かあれば……とつい考えてしまうのだ。
恐る恐る小さな紙切れに詰め込まれた文字に目を通して、アルバートはふっと吹き出した。
「そうか、チャーリー。今日はおやつをもらっていたんだね」
皿の上には、チャーリーがつついたパンくずが疎らに残っている。いつもは喜んで食べるのに、今日はあまり気が進まない様子だったことに得心がいった。
フレッドは以前からあちこちで野良猫に餌をやっているようだったが、ついにチャーリーにまで。そしてそのことをマイクロフトがわざわざ書いて寄越したと思うと、可笑しくてたまらなかった。
久しぶりに声を立てて笑うと、自身の声が石壁に反響して思ったより大きく響いた。空虚な部屋にいることをまざまざと突きつけられ、不意に身を刺すような孤独感がアルバートを襲った。
チャーリーの来訪に少しだけ上向いたかと思われた心がまた冷え込んで、目の奥がじわりと熱くなる。
小さな紙片を強く握り締め、アルバートは椅子の上で項垂れた。窓の向こうに佇むタワーブリッジの影だけが、その姿を見下ろしていた。
初出:Pixiv 2024.05.09
にじむ遠景
ルイフレ、記憶あり、転生現パロ。フレッドが死んだときの描写を捏造してます。
ルイスのポケットの中で、スマートフォンがぶぶ、と小さな音を立てて震えた。
おそらくは電話ではなく、SMSかメッセージアプリの着信だ。少し前を歩くルイスはスマートフォンを何度かタップして、すぐにコートのポケットにしまった。
「誰から……ですか?」
フレッドは恐る恐る質問した。
不躾な質問だと思ったが、尋ねずにはいられなかった。送信者が誰か、何となく想像がついたからだ。
ルイスは「んー」と少しだけ考え込む仕草をしたが、すぐに悪戯っぽく口角を上げた。
「内緒」
その表情は、遠い記憶の中の彼が見せたことのない類のものだった。彼も自分も、記憶こそ引き継いではいるものの、あの時とはもう違う人間になったのだ。
その事実に、少しの寂しさを覚えた。しかし同時に、目の前にいる懐かしくも新しい彼の存在に、確かに胸が躍った。
*
彼と百数十年ぶりの再会を果たしたのは、つい数十分前。
現在は平凡な高校生をしているフレッドは、一日の授業を終えてアルバイト先へと向かっていた。冬も深まってきたその日、駅前の通りは既に日が傾き始めている。型落ちのスマートフォンで時刻を確認しながら足早に歩いていると、突然誰かに腕を掴まれた。
驚いて振り返って、そしてさらに驚かされた。
「ルイスさん」
意識するより早く、口をついて出た。その名前を口にするのは随分久しぶりだった。
「……フレッド」
ルイスが泣きそうに眦を歪めた。自分を呼ぶ彼の声も、あの頃と変わりないように思えた。
年齢は今のフレッドよりも少し上だろうか。フレッドは彼の頭の先からつま先までをまじまじと見つめた。ダッフルコートにトートバッグを提げているあたり、勤め人には見えない。せいぜい大学生くらいだろう。ふちの太い眼鏡が意外とよく似合っている。
さらりとした金髪はあの頃と変わらなかった。しかし何よりフレッドの目を引いたのは、彼の頬にあの火傷痕が無かったことだ。
フレッドにまじまじと見つめられて、ルイスは居心地悪そうに、照れくさそうに顔をしかめた。
「少し……話せますか?」
フレッドは一も二もなく頷いた。
バイト先にはその場で欠勤する旨を伝えた。後ろめたかったけれど正直それどころではなかったし、普段から真面目に働いていたお陰で仮病はすんなりと信じてもらえた。
二人は疎らな人混みの中を、どこへ向かうでもなくゆっくりとした足取りで歩いた。
「ルイスさん、こんなに近くに住んでたんですね」
何から話せばいいのかわからなくて、そんなどうでもいいことを口にしていた。もっと話すべきことがたくさんあるはずなのに。
「近く……というわけでもありません。今日は大学の講義が急に休みになって時間が空いてしまったから、本当にたまたま、途中で電車を降りてみたんです」
「寄り道ですか?」
少し意外だった。学生が息抜きに遊び歩くこと自体は何もおかしくなかったが、あのルイスが。
それに、寄り道をするにしても小さな商店街しかないこの駅でわざわざ下車したのは少し不思議だった。もう数駅先に行けば大きなショッピングモールがある。時間をつぶすなら、断然そちらの方がいいはずだ。
フレッドが首を傾げているのに、ルイスも気がついたようだ。
彼は立ち止まって、「あそこ」と建物の隙間から覗く小高い丘を指さした。そこには、今ではあまりお目にかかれなくなった古い洋館が建っている。
「電車の窓からいつも見えていて……気になっていたから、寄ってみようかなとふと思いついたんです」
「そうなんですか」
「こんなことなら、もう少し早く来ていればよかった」
ルイスは残念そうに言った。
しかしフレッドには、今日この時間に彼が気まぐれにこの町に立ち寄ってくれたことが、何かの導きに思えてならなかった。
「行ってみましょうか」
そう提案すると、彼はぱっと顔を綻ばせた。
*
ルイスのスマートフォンが音を立てて震えたのは、そこへ向かう道すがらのことだった。
誰からなのかと尋ねてみても、はぐらかされてしまった。けれどその意味ありげな微笑み方を見れば、フレッドにもおおよその見当はついた。
「しゃ、写真とかないんですか」
食い下がると、ルイスは「ふふふ」と楽しそうに笑った。
「実際に会いに来ればいいでしょう」
「行きます! 次の日曜に……」
今の身分では、平日は学校に行かなければならないのがもどかしかった。
「君、家はこの辺りですか?」
「はい」
「でしたら、車で迎えに来ますよ。少し遠いから」
「ルイスさん、免許持ってるんですか?」
「一応。車は兄さんのを借りないといけませんが……」
そこでルイスは慌てて口を噤んだ。
会ってからのお楽しみにしておくつもりが、あっさり口を滑らせてしまったようだ。フレッドが思わず噴き出すと、ルイスもつられて笑った。
取り留めのないことを話しているうちにあっという間に小さな町を横断して、二人は目的地に到着した。
洋館の周囲はちょっとした公園になっている。日が暮れかけていたけれど、園内には犬を連れて散歩をする人や、散策を楽しむ利用者の姿が見てとれた。
しかし時期が時期だけに、さすがに人影は疎らだ。温かい季節には色とりどりの花が咲き誇る花壇も、今はがらんとしていて物寂しい。
誰もいない歩道に、二人分の影が長く伸びていた。
「向こうは植物園になってます」
「よく来るんですか?」
「うーん、たまに」
洋館を見学するには入場料が必要だった。門をくぐった先にある小屋の中に、受付係の老人が退屈そうに座っていた。
高校生までなら、学生証を見せれば割引が受けられる。自由に使えるお金には限りがあるのだから、利用しない手はなかった。
フレッドは小銭と一緒に学生証を取り出して、受付係の老人に提示した。
老人は皺に埋もれた小さな目で学生証を一瞥すると、入場チケットに日付入りのスタンプを押してくれた。先にチケットを購入してそのやり取りを横で見ていたルイスは、フレッドの肩を掴んでぐいと引いた。
「フレッド」
「はい」
「学生証、見てください」
「え」
突然そんなことを言われて、フレッドはちょっと戸惑った。別に見られて困るものではないけれど、写りの悪い証明写真をわざわざ見せるのはちょっと恥ずかしい。
まごついているうちに痺れを切らしたルイスが、フレッドの手から学生証を掠め取った。
「あっ」
ルイスは真面目な顔つきで、数秒の間、フレッドの身分証明書に見入っていた。
そんなに珍しそうに眺めるほどのものだろうか。そわそわと落ち着かない気持ちで待っていると、やがてルイスは満足したらしい。
フレッドに向かって学生証を差し出した。
「誕生日、覚えましたから」
「……あっ」
フレッドは思わず声を上げた。
写真にばかり気を取られていたが、そういえば学生証には生年月日の記載もある。そして、以前のフレッド・ポーロックは自分の誕生日を知らなかったのだった。
「お祝いしますからね」
「い、いいです、別に……」
照れくさくて、口の中でもごもご呟いた。ルイスは気にした様子もなく、機嫌良さそうに夕暮れの前庭を歩いていった。
館の扉は開け放たれていた。
もう夕方も遅い時間だったから、見物に訪れているのは自分達だけのようだ。
屋内に一歩足を踏み入れると、古い木の匂いがした。
短い廊下の先に、食堂へ繋がる扉と二階への階段が並んでいる。薄暗い室内にぽつりぽつりと明かりを落としている燭台やシャンデリアは、どれもそれらしく装った電灯だった。
食堂を覗いてみると、マントルピースの脇に背の高い女性の彫像が取ってつけたように置かれている。この屋敷に縁のあるものではなく、地元出身の芸術家の作品らしい。
分かりきってはいたが、モリアーティ家の屋敷とは似ても似つかなかった。
辛うじて空気感らしきものを残してはいるものの、実際にあの時代を生きた記憶を持っているフレッドたちにしてみれば、改装に改装を重ねられたこの館は抜け殻も同然だった。
入り口脇には、見学者のための簡単な見取り図と屋敷の来歴を記した案内板まで掛けられている。ルイスはその細々とした紹介文を真面目に読み込みながら、呟いた。
「あまり懐かしい感じはしないですね」
彼も同じことを考えていたようだ。
「そうですね。エアコンもついてますよ」
「wi-fiまで飛んでる」
くだらないことでくすくすと笑いあいながら、二人は二階へ上がった。無数の見物人が昇り降りしてきたであろう木の階段は、中央のところがすり減って少しだけ窪んでいた。
古い建物だけあって、階段は狭くて急だ。一番上の段まで登って廊下に出ると、視界がぱっと開けた気がした。
突き当りの窓から夕陽が差し込んで、色褪せた壁紙が鮮やかに照っていた。
二人はどちらともなくその窓の方へ歩み寄っていた。小高い場所に立っているだけあって、景観はなかなか悪くない。
「あ、あの電車」
フレッドが窓の向こうを指さした。
おもちゃのように小さく見える街の中に、オレンジ色の夕陽を反射しながら、これまたよくできた模型のような電車がカタコトと走っているのが見える。
「ルイスさんがいつも乗ってる路線ですか?」
「そうですね。いつもあそこから、この窓を眺めていたんですね……」
ルイスはしみじみとした口調で呟いた。
「フレッドの家はどの辺りですか?」
「うーん、ここからじゃ見えないです。あ、学校なら見えますよ」
「どれ?」
「あの、川の向こうの白い建物です」
しばらくの間、二人は肩を寄せ合って外の景色を眺めていた。
やがて、フレッドの方が先に窓枠から身体を引いた。
「そろそろ出ないと。ここ、確か十七時までですから」
閉園の時間までまだいくらか余裕はあったが、窓の外はすでに暗くなり始めていた。この洋館は公園の中でも奥まった場所にあったので、門まで歩く時間を考えればそろそろ出ないといけないだろう。
廊下を引き返そうとしたフレッドの腕を、ルイスが掴んだ。
「……ルイスさん?」
彼は何も答えない。
振り返ってみても、夕陽を背にして立つ彼の表情はよく見えなかった。
ぱち、と瞬きすると同時に、フレッドの頭の中で小さな火花が閃いた。
前にも、こんなことがあった気がする。
いつのことだっただろう。今より少し背が高くて、厳しい顔つきをしたルイスが、真剣な表情でこちらを見下ろしている。あれも、冬の夕暮れ時のことだった。こうして、廊下に立って二人で話をした。
そうだ。サウサンプトンから大陸行の船に乗る、前の日だった。
「ごめんなさい」
思い出した途端、そう口走っていた。
その言葉に、ルイスの張りつめていた表情がぐしゃりと歪んだ。右目の端から、ぽろりと涙の粒が転がり落ちたのが、逆光の中でも分かった。
濡れた目元を拭う素振りすら見せず、フレッドの腕を掴んだまま、ルイスは口を開いた。
「僕、待ってたんですよ」
「はい」
「必ず帰ってくるように言いました」
「……はい」
何も言えなくて、フレッドはその場で項垂れた。親に叱られた子供のように。
ひとつ前の人生で、二人は大英帝国の諜報機関に所属していた。理想のためにありとあらゆる罪を犯し、その計画が幕を引いた後も、国とそこに生きる人々のために身を捧げて戦った――と言えば聞こえはいいが、その終わりはあまり劇的なものではなかった。
とある任務でロンドンを離れたフレッドは、そのまま帰って来られなかったのだ。
「ごめんなさい」
フレッドはもう一度謝った。
あの後世界がどうなったのか、図書館の本や歴史の教科書でおおよそ把握していた。もちろんそこに仲間達の名前は見当たらなかったけれど、自分が死んだ後、遺された彼らに課せられた苦難は想像に難くなかった。
フレッドはちらりとルイスの方を見上げた。
彼はいまや隠そうともせず、ぐすぐすと鼻を鳴らしていた。前世では彼が泣くところなどついぞ見たことがなかったが、今の彼はちゃんと人前でも泣けるようで、そのことに少しだけ安心する。
「大変だったんですからね、あの後。君からの連絡が急に途絶えて、行方が分からなくなって、皆どれだけ心配したか。モランさんなんて現地まで探しに行くって大騒ぎして、でもすぐに渡航するのも難しい情勢になってしまって……」
「……」
「まったく、信じられない。現地の子供を庇って死ぬなんて……」
「え、何で知ってるんですか」
「探したからに決まってるじゃないですか!」
思わず尋ねると、ルイスが噛みつくように答えた。
「探しに行くことができたのは、ずいぶん経ってからでしたけど……現地の住人たちに聞いて回って、子どもの頃、過激派のごたごたに巻き込まれて危なくなったところを白人の青年に助けられたという方を見つけて……」
「あ、あの子、無事だったんですか」
ほっとしたのが顔に出てしまったのか、ルイスに「ばかっ」と怒鳴られた。
全くもって、彼には似つかわしくない罵り文句だった。
「僕が見つけたときにはもういいおじさんでしたよ! 奥さんも子どももいました!」
「そ、そうなんですか」
「結局その白人の身元は判らなかったから、地元の墓地に葬られたって……『遅くなってしまったけど家族が来てくれて良かった』って、異国の墓石の前に案内された僕の気持ちが分かりますか」
「…………」
何も言えなかった。
あの時、市街地で突然銃撃戦が始まった。
近くにある英国人居留地に紛れ込んで隠密行動をしていたフレッドは、速やかにその場を離れるべきだったのだろう。けれど騒然とする往来の真ん中で呆然と立ち尽くす小さな男の子の姿を目にした途端、任務とか、贖罪とか、待っている仲間たちのこととかが、一瞬だけ頭から吹き飛んでしまった。
飛び出した先に銃弾の雨が降ってきた、のだと思う。
少年が足をもつれさせながら建物の方へ逃げていくのが、何とか視認できた。フレッドは彼の無事に安堵しつつ、これはまずいことになったなぁ、とぼんやり考えた。
もう指の一本も動かせなくなっていた。ここはフレッドの故郷よりもはるかに温暖な土地であるはずだったのに、寒くてたまらなかった。視線だけを動かすと、ロンドンではちょっとお目にかかれないほど眩しい青空が広がっている。
帰りたい。
フレッド・ポーロックが最期に思ったのは、ただそれだけだった。
そこにはきっと、後悔とか無念とかいった感情が多分に含まれていただろう。こんな遠い異国の地で、誰にも知られず死にたくない。まだやらなければならないことが残っている。せめてもう一度だけみんなに会いたい――。
しかし、彼の中にあったのは悲嘆の情だけではなかった、と今のフレッドは思うのだった。
最期の瞬間に出てくる言葉が「帰りたい」だなんて、自分にとっては上出来の締めくくりなのではないだろうか。家も家族もないところからスタートした人生だったのだから。
抜けるように青い空を見上げながら、フレッドの意識は懐かしいロンドンの街へと飛んでいた。
苦しいことも多かった人生の中で、それでも手に入れた自分だけの居場所。巡り合った家族。
「帰れなかったこと、僕は……フレッド・ポーロックは、ずっと後悔してました。でも、ルイスさんが迎えに来てくれていたんですね」
腕を掴んだままだったルイスの手に、フレッドはそっと自分の手を重ねた。
あの時助けた少年がすっかり大人になっていたというのだから、五年や十年ではきかないだろう。その時、ルイスは何歳くらいだったのだろう。あの遠い街まで一人で来てくれたのだろうか。それとも、誰か一緒にいてくれたのだろうか。
「……ルイスさんは、長生きできました?」
「しましたよ。……したくもなかった」
ルイスは拗ねたように、口を尖らせながら答えた。涙に濡れた目で、こちらを恨みがましく睨めつけている。
彼が少しでも長く生きられたならよかった。それはきっと彼の兄たちが何より願ったことに違いないし、いつの間にかフレッドもまたそう願うようになっていたからだ。
しかしそれを口にすると彼をますます怒らせてしまうのは目に見えているから、黙っていた。
何となく手をつないだまま、二人は洋館を後にした。
受付係の老人は、小屋の中でぼんやりとラジオか何かを聴いているようだった。二人が出ていくのを横目でちらりと見やって、やれやれやっと戸締りができる、といった様子で腰を上げた。
空気がだんだんと冷えてきた。小高く開けた場所にいるせいか、日暮れはいつもより遅い気がした。
ルイスはフレッドの後ろを大人しくついてくる。
もう少し温かくなったらまた一緒に来たいな、と寂しい花壇を眺めながら考えた。シーズンになると、ここの薔薇園は毎年ちょっとした行楽スポットになるのだ。
「帰りたくない……」
公園の門が見えてきたところで、ルイスがぽつりと呟いた。これもまた、あまり彼らしくない発言に思えた。
「遅くなると、ウィリアムさん達が心配されるんじゃないですか?」
「今日は留守なんです。アルバート兄様は週末まで帰って来られないし……」
ルイスはもう秘密にするつもりもないようだった。フレッドは「そうなんですね」と相槌をうちながら、だから今日は寄り道する気になったんだな、と内心で納得していた。
「どこかで、もう少し話しましょうか」
そう提案してみたが、ルイスはきっぱりと首を横に振った。
「いえ。やっぱり高校生を遅くまで連れ回すわけにはいきません」
「僕は別に構わないですよ」
「君がよくても……」
言いかけて、ルイスは語尾を濁した。彼が言おうとしたことを察して、フレッドは小さく微笑んでみせた。
「少しくらい帰りが遅くなっても、怒る人はいません」
「……一人、なんですか?」
「まぁ、色々あって」
生まれたときの状況も、前世と似るものなのだろうか。ルイスとウィリアムがまた兄弟として生まれたのであれば、その可能性は高いだろう。フレッドは今回の人生でも、家族というものと縁が薄かった。
気づかわしげな視線を向けるルイスに、フレッドは努めて明るく言った。
「お互い、話したいことも聞きたいことも、たくさんありますね」
「……送っていきます」
「え、大丈夫ですよ。駅から反対方向ですし」
「週末、迎えに来ますから。場所を覚えておかないと」
彼があまりにも真剣な顔でそう言うから、フレッドもつい「そういうことなら」と頷いていた。
今日は何曜日だっけ。早く週末になればいい、と思った。
それと同時に、彼と並んで歩くこの時間がもう少し長く続けばいいとも思った。
初出:Pixiv 2024.03.03
ルイフレ、記憶あり、転生現パロ。フレッドが死んだときの描写を捏造してます。
ルイスのポケットの中で、スマートフォンがぶぶ、と小さな音を立てて震えた。
おそらくは電話ではなく、SMSかメッセージアプリの着信だ。少し前を歩くルイスはスマートフォンを何度かタップして、すぐにコートのポケットにしまった。
「誰から……ですか?」
フレッドは恐る恐る質問した。
不躾な質問だと思ったが、尋ねずにはいられなかった。送信者が誰か、何となく想像がついたからだ。
ルイスは「んー」と少しだけ考え込む仕草をしたが、すぐに悪戯っぽく口角を上げた。
「内緒」
その表情は、遠い記憶の中の彼が見せたことのない類のものだった。彼も自分も、記憶こそ引き継いではいるものの、あの時とはもう違う人間になったのだ。
その事実に、少しの寂しさを覚えた。しかし同時に、目の前にいる懐かしくも新しい彼の存在に、確かに胸が躍った。
*
彼と百数十年ぶりの再会を果たしたのは、つい数十分前。
現在は平凡な高校生をしているフレッドは、一日の授業を終えてアルバイト先へと向かっていた。冬も深まってきたその日、駅前の通りは既に日が傾き始めている。型落ちのスマートフォンで時刻を確認しながら足早に歩いていると、突然誰かに腕を掴まれた。
驚いて振り返って、そしてさらに驚かされた。
「ルイスさん」
意識するより早く、口をついて出た。その名前を口にするのは随分久しぶりだった。
「……フレッド」
ルイスが泣きそうに眦を歪めた。自分を呼ぶ彼の声も、あの頃と変わりないように思えた。
年齢は今のフレッドよりも少し上だろうか。フレッドは彼の頭の先からつま先までをまじまじと見つめた。ダッフルコートにトートバッグを提げているあたり、勤め人には見えない。せいぜい大学生くらいだろう。ふちの太い眼鏡が意外とよく似合っている。
さらりとした金髪はあの頃と変わらなかった。しかし何よりフレッドの目を引いたのは、彼の頬にあの火傷痕が無かったことだ。
フレッドにまじまじと見つめられて、ルイスは居心地悪そうに、照れくさそうに顔をしかめた。
「少し……話せますか?」
フレッドは一も二もなく頷いた。
バイト先にはその場で欠勤する旨を伝えた。後ろめたかったけれど正直それどころではなかったし、普段から真面目に働いていたお陰で仮病はすんなりと信じてもらえた。
二人は疎らな人混みの中を、どこへ向かうでもなくゆっくりとした足取りで歩いた。
「ルイスさん、こんなに近くに住んでたんですね」
何から話せばいいのかわからなくて、そんなどうでもいいことを口にしていた。もっと話すべきことがたくさんあるはずなのに。
「近く……というわけでもありません。今日は大学の講義が急に休みになって時間が空いてしまったから、本当にたまたま、途中で電車を降りてみたんです」
「寄り道ですか?」
少し意外だった。学生が息抜きに遊び歩くこと自体は何もおかしくなかったが、あのルイスが。
それに、寄り道をするにしても小さな商店街しかないこの駅でわざわざ下車したのは少し不思議だった。もう数駅先に行けば大きなショッピングモールがある。時間をつぶすなら、断然そちらの方がいいはずだ。
フレッドが首を傾げているのに、ルイスも気がついたようだ。
彼は立ち止まって、「あそこ」と建物の隙間から覗く小高い丘を指さした。そこには、今ではあまりお目にかかれなくなった古い洋館が建っている。
「電車の窓からいつも見えていて……気になっていたから、寄ってみようかなとふと思いついたんです」
「そうなんですか」
「こんなことなら、もう少し早く来ていればよかった」
ルイスは残念そうに言った。
しかしフレッドには、今日この時間に彼が気まぐれにこの町に立ち寄ってくれたことが、何かの導きに思えてならなかった。
「行ってみましょうか」
そう提案すると、彼はぱっと顔を綻ばせた。
*
ルイスのスマートフォンが音を立てて震えたのは、そこへ向かう道すがらのことだった。
誰からなのかと尋ねてみても、はぐらかされてしまった。けれどその意味ありげな微笑み方を見れば、フレッドにもおおよその見当はついた。
「しゃ、写真とかないんですか」
食い下がると、ルイスは「ふふふ」と楽しそうに笑った。
「実際に会いに来ればいいでしょう」
「行きます! 次の日曜に……」
今の身分では、平日は学校に行かなければならないのがもどかしかった。
「君、家はこの辺りですか?」
「はい」
「でしたら、車で迎えに来ますよ。少し遠いから」
「ルイスさん、免許持ってるんですか?」
「一応。車は兄さんのを借りないといけませんが……」
そこでルイスは慌てて口を噤んだ。
会ってからのお楽しみにしておくつもりが、あっさり口を滑らせてしまったようだ。フレッドが思わず噴き出すと、ルイスもつられて笑った。
取り留めのないことを話しているうちにあっという間に小さな町を横断して、二人は目的地に到着した。
洋館の周囲はちょっとした公園になっている。日が暮れかけていたけれど、園内には犬を連れて散歩をする人や、散策を楽しむ利用者の姿が見てとれた。
しかし時期が時期だけに、さすがに人影は疎らだ。温かい季節には色とりどりの花が咲き誇る花壇も、今はがらんとしていて物寂しい。
誰もいない歩道に、二人分の影が長く伸びていた。
「向こうは植物園になってます」
「よく来るんですか?」
「うーん、たまに」
洋館を見学するには入場料が必要だった。門をくぐった先にある小屋の中に、受付係の老人が退屈そうに座っていた。
高校生までなら、学生証を見せれば割引が受けられる。自由に使えるお金には限りがあるのだから、利用しない手はなかった。
フレッドは小銭と一緒に学生証を取り出して、受付係の老人に提示した。
老人は皺に埋もれた小さな目で学生証を一瞥すると、入場チケットに日付入りのスタンプを押してくれた。先にチケットを購入してそのやり取りを横で見ていたルイスは、フレッドの肩を掴んでぐいと引いた。
「フレッド」
「はい」
「学生証、見てください」
「え」
突然そんなことを言われて、フレッドはちょっと戸惑った。別に見られて困るものではないけれど、写りの悪い証明写真をわざわざ見せるのはちょっと恥ずかしい。
まごついているうちに痺れを切らしたルイスが、フレッドの手から学生証を掠め取った。
「あっ」
ルイスは真面目な顔つきで、数秒の間、フレッドの身分証明書に見入っていた。
そんなに珍しそうに眺めるほどのものだろうか。そわそわと落ち着かない気持ちで待っていると、やがてルイスは満足したらしい。
フレッドに向かって学生証を差し出した。
「誕生日、覚えましたから」
「……あっ」
フレッドは思わず声を上げた。
写真にばかり気を取られていたが、そういえば学生証には生年月日の記載もある。そして、以前のフレッド・ポーロックは自分の誕生日を知らなかったのだった。
「お祝いしますからね」
「い、いいです、別に……」
照れくさくて、口の中でもごもご呟いた。ルイスは気にした様子もなく、機嫌良さそうに夕暮れの前庭を歩いていった。
館の扉は開け放たれていた。
もう夕方も遅い時間だったから、見物に訪れているのは自分達だけのようだ。
屋内に一歩足を踏み入れると、古い木の匂いがした。
短い廊下の先に、食堂へ繋がる扉と二階への階段が並んでいる。薄暗い室内にぽつりぽつりと明かりを落としている燭台やシャンデリアは、どれもそれらしく装った電灯だった。
食堂を覗いてみると、マントルピースの脇に背の高い女性の彫像が取ってつけたように置かれている。この屋敷に縁のあるものではなく、地元出身の芸術家の作品らしい。
分かりきってはいたが、モリアーティ家の屋敷とは似ても似つかなかった。
辛うじて空気感らしきものを残してはいるものの、実際にあの時代を生きた記憶を持っているフレッドたちにしてみれば、改装に改装を重ねられたこの館は抜け殻も同然だった。
入り口脇には、見学者のための簡単な見取り図と屋敷の来歴を記した案内板まで掛けられている。ルイスはその細々とした紹介文を真面目に読み込みながら、呟いた。
「あまり懐かしい感じはしないですね」
彼も同じことを考えていたようだ。
「そうですね。エアコンもついてますよ」
「wi-fiまで飛んでる」
くだらないことでくすくすと笑いあいながら、二人は二階へ上がった。無数の見物人が昇り降りしてきたであろう木の階段は、中央のところがすり減って少しだけ窪んでいた。
古い建物だけあって、階段は狭くて急だ。一番上の段まで登って廊下に出ると、視界がぱっと開けた気がした。
突き当りの窓から夕陽が差し込んで、色褪せた壁紙が鮮やかに照っていた。
二人はどちらともなくその窓の方へ歩み寄っていた。小高い場所に立っているだけあって、景観はなかなか悪くない。
「あ、あの電車」
フレッドが窓の向こうを指さした。
おもちゃのように小さく見える街の中に、オレンジ色の夕陽を反射しながら、これまたよくできた模型のような電車がカタコトと走っているのが見える。
「ルイスさんがいつも乗ってる路線ですか?」
「そうですね。いつもあそこから、この窓を眺めていたんですね……」
ルイスはしみじみとした口調で呟いた。
「フレッドの家はどの辺りですか?」
「うーん、ここからじゃ見えないです。あ、学校なら見えますよ」
「どれ?」
「あの、川の向こうの白い建物です」
しばらくの間、二人は肩を寄せ合って外の景色を眺めていた。
やがて、フレッドの方が先に窓枠から身体を引いた。
「そろそろ出ないと。ここ、確か十七時までですから」
閉園の時間までまだいくらか余裕はあったが、窓の外はすでに暗くなり始めていた。この洋館は公園の中でも奥まった場所にあったので、門まで歩く時間を考えればそろそろ出ないといけないだろう。
廊下を引き返そうとしたフレッドの腕を、ルイスが掴んだ。
「……ルイスさん?」
彼は何も答えない。
振り返ってみても、夕陽を背にして立つ彼の表情はよく見えなかった。
ぱち、と瞬きすると同時に、フレッドの頭の中で小さな火花が閃いた。
前にも、こんなことがあった気がする。
いつのことだっただろう。今より少し背が高くて、厳しい顔つきをしたルイスが、真剣な表情でこちらを見下ろしている。あれも、冬の夕暮れ時のことだった。こうして、廊下に立って二人で話をした。
そうだ。サウサンプトンから大陸行の船に乗る、前の日だった。
「ごめんなさい」
思い出した途端、そう口走っていた。
その言葉に、ルイスの張りつめていた表情がぐしゃりと歪んだ。右目の端から、ぽろりと涙の粒が転がり落ちたのが、逆光の中でも分かった。
濡れた目元を拭う素振りすら見せず、フレッドの腕を掴んだまま、ルイスは口を開いた。
「僕、待ってたんですよ」
「はい」
「必ず帰ってくるように言いました」
「……はい」
何も言えなくて、フレッドはその場で項垂れた。親に叱られた子供のように。
ひとつ前の人生で、二人は大英帝国の諜報機関に所属していた。理想のためにありとあらゆる罪を犯し、その計画が幕を引いた後も、国とそこに生きる人々のために身を捧げて戦った――と言えば聞こえはいいが、その終わりはあまり劇的なものではなかった。
とある任務でロンドンを離れたフレッドは、そのまま帰って来られなかったのだ。
「ごめんなさい」
フレッドはもう一度謝った。
あの後世界がどうなったのか、図書館の本や歴史の教科書でおおよそ把握していた。もちろんそこに仲間達の名前は見当たらなかったけれど、自分が死んだ後、遺された彼らに課せられた苦難は想像に難くなかった。
フレッドはちらりとルイスの方を見上げた。
彼はいまや隠そうともせず、ぐすぐすと鼻を鳴らしていた。前世では彼が泣くところなどついぞ見たことがなかったが、今の彼はちゃんと人前でも泣けるようで、そのことに少しだけ安心する。
「大変だったんですからね、あの後。君からの連絡が急に途絶えて、行方が分からなくなって、皆どれだけ心配したか。モランさんなんて現地まで探しに行くって大騒ぎして、でもすぐに渡航するのも難しい情勢になってしまって……」
「……」
「まったく、信じられない。現地の子供を庇って死ぬなんて……」
「え、何で知ってるんですか」
「探したからに決まってるじゃないですか!」
思わず尋ねると、ルイスが噛みつくように答えた。
「探しに行くことができたのは、ずいぶん経ってからでしたけど……現地の住人たちに聞いて回って、子どもの頃、過激派のごたごたに巻き込まれて危なくなったところを白人の青年に助けられたという方を見つけて……」
「あ、あの子、無事だったんですか」
ほっとしたのが顔に出てしまったのか、ルイスに「ばかっ」と怒鳴られた。
全くもって、彼には似つかわしくない罵り文句だった。
「僕が見つけたときにはもういいおじさんでしたよ! 奥さんも子どももいました!」
「そ、そうなんですか」
「結局その白人の身元は判らなかったから、地元の墓地に葬られたって……『遅くなってしまったけど家族が来てくれて良かった』って、異国の墓石の前に案内された僕の気持ちが分かりますか」
「…………」
何も言えなかった。
あの時、市街地で突然銃撃戦が始まった。
近くにある英国人居留地に紛れ込んで隠密行動をしていたフレッドは、速やかにその場を離れるべきだったのだろう。けれど騒然とする往来の真ん中で呆然と立ち尽くす小さな男の子の姿を目にした途端、任務とか、贖罪とか、待っている仲間たちのこととかが、一瞬だけ頭から吹き飛んでしまった。
飛び出した先に銃弾の雨が降ってきた、のだと思う。
少年が足をもつれさせながら建物の方へ逃げていくのが、何とか視認できた。フレッドは彼の無事に安堵しつつ、これはまずいことになったなぁ、とぼんやり考えた。
もう指の一本も動かせなくなっていた。ここはフレッドの故郷よりもはるかに温暖な土地であるはずだったのに、寒くてたまらなかった。視線だけを動かすと、ロンドンではちょっとお目にかかれないほど眩しい青空が広がっている。
帰りたい。
フレッド・ポーロックが最期に思ったのは、ただそれだけだった。
そこにはきっと、後悔とか無念とかいった感情が多分に含まれていただろう。こんな遠い異国の地で、誰にも知られず死にたくない。まだやらなければならないことが残っている。せめてもう一度だけみんなに会いたい――。
しかし、彼の中にあったのは悲嘆の情だけではなかった、と今のフレッドは思うのだった。
最期の瞬間に出てくる言葉が「帰りたい」だなんて、自分にとっては上出来の締めくくりなのではないだろうか。家も家族もないところからスタートした人生だったのだから。
抜けるように青い空を見上げながら、フレッドの意識は懐かしいロンドンの街へと飛んでいた。
苦しいことも多かった人生の中で、それでも手に入れた自分だけの居場所。巡り合った家族。
「帰れなかったこと、僕は……フレッド・ポーロックは、ずっと後悔してました。でも、ルイスさんが迎えに来てくれていたんですね」
腕を掴んだままだったルイスの手に、フレッドはそっと自分の手を重ねた。
あの時助けた少年がすっかり大人になっていたというのだから、五年や十年ではきかないだろう。その時、ルイスは何歳くらいだったのだろう。あの遠い街まで一人で来てくれたのだろうか。それとも、誰か一緒にいてくれたのだろうか。
「……ルイスさんは、長生きできました?」
「しましたよ。……したくもなかった」
ルイスは拗ねたように、口を尖らせながら答えた。涙に濡れた目で、こちらを恨みがましく睨めつけている。
彼が少しでも長く生きられたならよかった。それはきっと彼の兄たちが何より願ったことに違いないし、いつの間にかフレッドもまたそう願うようになっていたからだ。
しかしそれを口にすると彼をますます怒らせてしまうのは目に見えているから、黙っていた。
何となく手をつないだまま、二人は洋館を後にした。
受付係の老人は、小屋の中でぼんやりとラジオか何かを聴いているようだった。二人が出ていくのを横目でちらりと見やって、やれやれやっと戸締りができる、といった様子で腰を上げた。
空気がだんだんと冷えてきた。小高く開けた場所にいるせいか、日暮れはいつもより遅い気がした。
ルイスはフレッドの後ろを大人しくついてくる。
もう少し温かくなったらまた一緒に来たいな、と寂しい花壇を眺めながら考えた。シーズンになると、ここの薔薇園は毎年ちょっとした行楽スポットになるのだ。
「帰りたくない……」
公園の門が見えてきたところで、ルイスがぽつりと呟いた。これもまた、あまり彼らしくない発言に思えた。
「遅くなると、ウィリアムさん達が心配されるんじゃないですか?」
「今日は留守なんです。アルバート兄様は週末まで帰って来られないし……」
ルイスはもう秘密にするつもりもないようだった。フレッドは「そうなんですね」と相槌をうちながら、だから今日は寄り道する気になったんだな、と内心で納得していた。
「どこかで、もう少し話しましょうか」
そう提案してみたが、ルイスはきっぱりと首を横に振った。
「いえ。やっぱり高校生を遅くまで連れ回すわけにはいきません」
「僕は別に構わないですよ」
「君がよくても……」
言いかけて、ルイスは語尾を濁した。彼が言おうとしたことを察して、フレッドは小さく微笑んでみせた。
「少しくらい帰りが遅くなっても、怒る人はいません」
「……一人、なんですか?」
「まぁ、色々あって」
生まれたときの状況も、前世と似るものなのだろうか。ルイスとウィリアムがまた兄弟として生まれたのであれば、その可能性は高いだろう。フレッドは今回の人生でも、家族というものと縁が薄かった。
気づかわしげな視線を向けるルイスに、フレッドは努めて明るく言った。
「お互い、話したいことも聞きたいことも、たくさんありますね」
「……送っていきます」
「え、大丈夫ですよ。駅から反対方向ですし」
「週末、迎えに来ますから。場所を覚えておかないと」
彼があまりにも真剣な顔でそう言うから、フレッドもつい「そういうことなら」と頷いていた。
今日は何曜日だっけ。早く週末になればいい、と思った。
それと同時に、彼と並んで歩くこの時間がもう少し長く続けばいいとも思った。
初出:Pixiv 2024.03.03
ディオゲネス・クラブ殺人事件 後編
タイトル通り。
六
この新しい事実に、一同は騒然となった。グレッグソン警部補はホームズに先に発見されてしまったことに悔しげに顔を歪ませながらも、吸い殻を調べるよう部下たちに指示を飛ばしている。
狼狽える男たちを尻目に、オルコット女史が冷静に口を開いた。
「毒が仕込まれていたのは彼の煙草だった……であれば、私たちの容疑も晴れたと考えてよろしいかしら」
「確かに。彼の屋敷の使用人ならいくらでも毒入りの煙草を仕込めたはずですよ」
ウェルティ氏もこの意見に同意した。
カーライル氏のテーブルの上には、ヒナギクの意匠をあしらった銀のシガレットケースが放り出されている。煙草が十二本入るケースの中に、残されているのは十本。そして灰皿には二本の吸い殻があった。見たところ、他の煙草には毒を注入した痕跡は無いようだった。
もし彼の執事が毒入りの煙草をシガレットケースに仕込んだのなら、主人が『当たり』を引くまで犯行の発覚を遅らせ、容疑者を絞り込みにくくすることができるだろう。
しかしホームズはすかさずこの考えを否定した。
「そうなるとマホーニーさんのポケットから毒の小瓶が出てきたことの説明がつかなくなる。第一、使用人がやったのなら家の中で吸うよう仕向けるはずだ。警察が来る前に灰皿を片付けちまえば、吸い殻を調べられるリスクを回避できるからな」
「それは、確かに……」
再び容疑者候補へと引きずり戻されて、三人の会員は不安げに顔を見合わせた。
「儂がここに来たのは十七時十分だ。カーライルが死んだのが十七時三十分以降なら、儂には煙草に毒を仕込む時間は殆どなかった」
「あら。ここに来た時間なんて関係あるのでしょうか」
「どういう意味かね?」
「ウェルティさん、貴方、廊下でカーライルさんと睨み合っていたじゃありませんか。何かトラブルでもあったのではなくて?」
「本当ですか、ウェルティさん? 何のお話を……あ、ここでは会話ができませんでしたねぇ」
「いや、それは……。そ、そんなことより、オルコットくん。私達のことを盗み見していたのかね?」
「盗み見なんて。たまたまお手洗いに立ったとき、廊下で貴方がたをお見かけしただけです」
「ふむ。しかしオルコットくんもラウンジを出ていたということは、すなわち……」
「あ。な、何ですかその目は? まさか私を疑っておいでか?」
「あー待て待て、三人で勝手に喋らないでくれ」
ホームズが手を叩いて会員たちを制した。
「事件前後のあんたたちの行動を、時系列に沿って説明してくれ」
七
三人の会員たちの証言を総括すると、こうだ。
この日、一番最初にディオゲネス・クラブにやってきたのはレストン医師だった。
時刻は十六時を少し過ぎた頃。彼はラウンジに入って左手の壁沿いの席に掛けて、パイプをふかしたり医学誌を読んだりして一人の時間を楽しんだ。
十六時半ごろになると、後に待ち受ける運命などつゆ知らず、カーライル氏がやって来た。彼は入り口近くのテーブルについた。暖炉の前の暖かい場所で、彼が好んでよく使っていた席だという。
その次にオルコット女史、最後にウェルティ氏が十分と間隔を開けずやって来た。オルコット女史は表通りの景色を楽しめる窓際の席に、ウェルティ氏は壁に飾られた風景画を眺められる一番奥の席にそれぞれ座った。
四人の会員はラウンジの中で菱形を描くように、それぞれ離れたテーブルを使っていたわけだ。そして椅子はすべて入り口に背を向ける格好で配置されている。ラウンジに入ってきた人間がいちいち視界に写ったり、他の利用者と目が合ったりするのを防ぐための、徹底した配慮だった。
「ウェイターが紅茶を持ってくる前だったから、あれは十七時二十分頃だったと思う。カーライルが席を立ったんだ」
ウェルティ氏が顎髭を引っ張りながら語った。
彼はカーライル氏に金を貸していた。一週間ほど前、酒場でトランプに興じた際、負けが込んで手持ちが足りなくなったカーライル氏のために支払いの一部を肩代わりをしてやったそうだ。
金額はさほど大きくなかった。しかし特別高給取りというわけでもないウェルティ氏にとっては少々惜しい金額でもあった。
だから彼は席を立ったカーライル氏の後を追いかけ、『忘れていないだろうな?』という意味も込めて彼の肩を叩いたのだ。カーライル氏は『わかっている』と言いたげな顔で頷き返した。クラブハウス内で会話をすることはできなかったので、ウェルティ氏もその場は納得して引き下がった。
彼らに続いてトイレに向かったオルコット女史が目撃したのは、まさにその場面だったようだ。
用を済ませたウェルティ氏はそのままラウンジに引き返し、カーライル氏とオルコット女史はそれぞれトイレに寄ってから席に戻った。
「という事は、その時レストン医師はラウンジに一人きりだったわけですね?」
「えっ、いや、確かにそうでしたが……」
「その時、カーライルのシガレットケースはどこにあったんだ?」
「テーブルの上に置いてあった!」
ウェルティ氏が力強く断言した。
「カーライルくんはもともと、持ち物をテーブルに置いたまま席を立つことが多かった。ついさっきも、彼の後を追って入り口の方に向かいながら『会員制のクラブとはいえ不用心な』と思ったのを覚えているから間違いない」
「それでは、ラウンジに一人きりだったレストン医師には、テーブルに放置されたシガレットケースに細工をするチャンスがあったわけですね?」
グレッグソン警部補に睨まれて、レストン医師は可哀想なほど慌てはじめた。
「えっまさか、私が犯人だと!?」
「そもそも貴方は医者ですよね。毒薬も注射器も、簡単に用意できるはずだ」
「そ、そんな、待ってください! 確かに私はラウンジで一人になった時間がありました。けど、いつ誰が入ってくるかも分からない状況で彼のテーブルに近付いて、シガレットケースを開けて、煙草に注射器で毒を注入する……そんな細工ができたでしょうか? それに、細工をするチャンスがあったのはオルコット嬢も同じではありませんか?」
「え、なぜ私が?」
「私はカーライルさんのテーブルに背を向けて座っていたんです。トイレに行くふりをして、私が気づかないうちに細工を施すチャンスがあったはずでしょう?」
「言いがかりです。貴方が振り返りでもしたら、あっという間に見つかってしまうじゃありませんか」
オルコット女史は話にならない、といった顔で首を振った。しかしこのままでは犯人にされかねないレストン医師は必死に抗弁する。
「それに……毒を仕込んだ注射器! 私はこのラウンジから一歩も出ていませんが、オルコット嬢はトイレに行っている。そこでこの決定的な証拠品を隠滅したのではありませんか?」
「確かに……このラウンジは一通り調べたが、トイレまではまだ調べていない。すぐに調べさせましょう」
グレッグソン警部補は大きく頷いて、部下に指示を出した。「どうぞお好きに」とオルコット女史がうんざりした様子でため息をついた。
八
三十分後。
トイレの調査に向かった警官たちはすごすごと引き上げてきた。
「注射器とか毒薬の瓶とか、犯行を裏付けるような物証は何も出ませんでした。男子トイレからも」
オルコット女史が、そら見たことかと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「外部に共犯者がいて、窓越しに凶器を受け渡したりしたなら別ですが」
「周辺で聞き込みだけでもしておくか。ターナーたちの班で……」
「いや、その必要はない」
部下に新たな指示を出そうとするグレッグソン警部補を、ホームズが遮った。名探偵がしばらく振りに口を開いたことで、室内に緊張とも期待ともつかないぴりりとした空気が走る。
彼はいつもの考え事をするときの癖で、両手の指先を突き合わせていた。兄が腕組みしながら興味深げに見守っていることももはや気にならない様子だった。
「あんた方が探して見つからないって言うんなら、注射器はそもそもこのクラブハウスに持ち込まれてないんだろ」
「どういうことだ、シャーロック? 注射器が無ければ、どうやって煙草に毒を仕込むんだ」
「その方法を一つ思いついた。……グレッグソン、ここに来たとき、全員の持ち物検査はしたんだろう」
「当たり前だ」と警部補は鼻を鳴らした。
「シガレットケースは全員持ってただろ?」
「ん? ああ。確かに全員……あっ!」
グレッグソン警部補が唐突に声を上げた。何か思い当たるところがあるようだった。その反応に、ホームズは獲物を追い詰める狩人さながらの、どこか高揚した表情で三人の会員たちの方を振り返った。
「そういうことだ。御三方、もう一度シガレットケースを出してみてくれ」
ウェルティ氏とレストン医師はこの指示に素直に従った。もっとも、レストン医師が所持していたのはパイプ入れだったが。
二人にやや遅れて、オルコット女史がハンドバッグを開けてシガレットケースを取り出した。
彼女が取り出したそれを見て、私は思わず声を上げていた。
「あれ? これは……」
表面にヒナギクの浅浮き彫りを施した、銀のシガレットケース。殺害されたカーライル氏のテーブルに置かれていたものと、全く同じデザインだった。
「あらかじめ毒煙草を仕込んだシガレットケースを、そっくりそのまま入れ替える。この方法ならテーブルの横でごそごそと小細工をする必要はない、だろ?」
「っくぅうう……」
悔しげにうめき声を上げたのは、オルコット女史ではなくグレッグソン警部補だった。
彼らが持ち物検査をした時点では、まだ煙草に毒が仕込まれていた事実は判明していなかったのだ。被害者のものと全く同じシガレットケースを持っている者より、毒の小瓶を持っていた者の方が怪しく見えてしまっても不思議はないだろう。
私はちらりと視線を上げて、オルコット女史の表情を伺った。彼女は冷たい無表情でホームズを睨みつけた。
「あの。まさか私がカーライルさんを殺害したと仰っているのですか? たまたま同じシガレットケースを持っていただけで?」
「えっ」
私はつい驚きの声を上げてしまった。まさかこの期に及んで反論してくるとは思っていなかったからだ。
彼女は今度は私の方に噛みついた。
「私、何かおかしなことを言いまして? 毒の小瓶を持っていたからといって、それが毒を盛った証拠にはならないと仰ったのはあちらの探偵さんではありませんか」
「え……それは……」
私は言葉に詰まった。
確かに、彼女は『たまたま』被害者と同じデザインのシガレットケースを持っていただけだ。見たところ、中に入っている煙草も被害者のものと同じ銘柄だ。
偶然にしては出来すぎている。だが、あり得ないとは言い切れないのも事実だった。
九
オルコット女史のシガレットケースを検分していたグレッグソン警部補が歯噛みしながら首を横に振った。
毒が注入されていた煙草は、カーライル氏が吸ってしまったあの一本のみ。彼女がシガレットケースのすり替えを行った証拠を示さなければ、彼女の犯行を証明することはできない。
私はレストン医師の腕を叩いて耳打ちした。
「れ、レストンさん。彼女が席を立ったとき、何か気がついたことはありませんでしたか? 彼女がシガレットケースを入れ替えたとしたら、トイレに立った時しかあり得ないはずだ。その時、貴方は同じラウンジ内にいたんですから」
「……な、何も、見ておりません。だって、入り口に背を向けて座っておりましたし……」
彼はもごもごと答えるだけだった。
分かってはいたが、私はその答えに落胆した。彼もまさか自分がのんびりと寛いでいる背後でそんな恐ろしい企みが行われていたとは夢にも思っていなかっただろうから、大した注意も払っていなかったはずだ。
しかし状況からして、犯人は彼女以外にありえない。私とレストン医師は縋るようにホームズの方を見た。ホームズはどこからか取り出した拡大鏡で、テーブルの上の灰皿を覗き込んでいる。
やがて一つの結論を出したらしい彼は、オルコット女史の方を振り返った。
「……あんた、普段煙草なんて吸わないんだろう」
「だったら何だと言うんです?」
彼女の強気な返答を無視して、ホームズはレストン医師の方を見やった。
「レストンさん。あんた前に、カーライルさんに『甘いものと煙草は控えるように』って言ったんだよな」
「え? えぇ……」
「彼はあんたの忠告に多少は耳を貸してたわけだ。……煙草の銘柄を、いつも吸ってるものより軽いのに変えてたんだからな」
「は?」
声を上げたのはオルコット女史だった。
「灰皿に残された吸い殻をよく見てみろ。灰の形と大きさが、二種類あるのがわかるはずだ」
「た、確かに……粒の大きいものと小さいものがある」
身を乗り出して灰皿を覗き込んだグレッグソン警部補が、信じられないと言った様子で答えた。
ホームズは二つのシガレットケースからそれぞれ一本ずつ煙草を取り出して、彼に渡した。
「切って、中身を比べてみりゃ一目瞭然だ。同じメーカーが作ったものだから巻紙もチップペーパーもよく似ているが、間違いなく別種の煙草だよ」
「それは、つまり……」
「別々のシガレットケースに入っていたはずの二種類の煙草の灰が、被害者の灰皿に残ってる。となれば、答えは明白だ。あのご婦人がシガレットケースのすり替えを行った動かぬ証拠だろ?」
「お、おい。これを鑑識に……」
「その必要はありませんよ」
部下に指示を飛ばそうとする警部補を遮ったのは、他ならぬオルコット女史だった。
彼女は深々とため息をつくと、レストン医師を軽く睨んだ。
「先生、余計なことを言って下さいましたね」
「お、オルコットさん。それはつまり……」
「ええ、私がやりました」
毒殺魔はあっさりと自白した。
衝撃を受ける私たちを尻目に、彼女は部屋の隅に佇んでいたウェイターの方を向いた。例の、ケーキを運んだ背の高い方のウェイターだ。
「ごめんなさいね、ゴレッジさん。でもあなたの方はそう重い罪にはならないでしょう。私に頼まれて、そこの料理人さんのポケットに小瓶を入れただけなんだから。お金のことは、父に頼んでおきますから心配しないで。……あなたが受け取れるかどうかはともかく」
また一つ爆弾を落とされて、ウェイターは大いに狼狽えた。マイクロフト氏は眉をしかめて額に手を当てている。クラブの使用人が犯罪に関わっていたという結末は、とうとう避けられなかったわけだ。
「何故……何故こんなことを」
レストン医師がわなわなしながら声を漏らした。彼も医者として多くの人の死に立ち会ってきたが、知人が知人を殺してしまった場面に出くわしたのは初めてなのではないだろうか。
オルコット女史は「別に」とそっけなく答えたが、すぐに堪えきれなくなったように呟いた。
「……私の友人が、あそこで死体になってる男に手ひどく捨てられた挙げ句死んでしまった、ただそれだけの理由です。彼に言わせると、爵位もない成り上がりの娘には価値がないそうですよ。彼のと全く同じシガレットケースを用意するのは簡単でした。だって、彼女がショーケースの前で真剣に頭を悩ませているのを、私、隣で見ていましたもの」
オルコット女史は何も無い壁の方を睨みつけていた。人前で涙を零すまいと眦に力を込めているのだ。
私の脳裏に、連れ立って買い物に出かける二人の女性の姿がありありと浮かんだ。賑わう百貨店の売り場で、どんな贈り物なら想い人に喜んでもらえるかあれこれ吟味する友人と、その様子に呆れながらも時折アドバイスをしてやるオルコット女史――。
その結末がこんなにも虚しいものだとは信じたくなくて、私は必死に言葉を探した。
「しかし、それでも……カーライル氏は貴女のお友達からの贈り物を、今も大切に使っていた。彼女への愛情が、多少なりともあったということではありませんか?」
「だったら尚更、毒入り煙草を吸う前に気がついているはずでしょう。私がつい先日購入したばかりの新品のケースにすり替えられていたんですから。手元にちょうどいい道具があったから、何の愛着もなく利用していただけですよ」
オルコット女史はぴしゃりと言い返すと、ヒールを鳴らしながらラウンジを出ていった。グレッグソン警部補と制服の警官たちが慌ててその後を追う。もちろん、あの背の高いウェイターも引っ張られていった。
こうして、ディオゲネス・クラブでの殺人事件は幕を閉じた。
十
後始末にはもう少し時間が掛かりそうだったが、いい加減夜も更けてきたので、ホームズと私は一足先に二二一Bへ引き上げさせてもらうことにした。表通りへ一歩出たところで、見送りに来てくれたマイクロフト氏が珍しく喉を鳴らして笑いながら言った。
「いいハッタリだったな、シャーリー」
「うるせーよ」
ホームズは無愛想にそう答えると、さっさと歩きだしてしまった。いつものことであるが、彼が兄に対して向ける態度は生意気盛りの少年のようだ。
私はマイクロフト氏に一礼してから、早足でホームズの後を追いかけた。
「ハッタリって、何のことだ、シャーロック?」
「……被害者は煙草の銘柄なんて変えてなかった。あれはもともと二種類の葉をブレンドした煙草なんだよ」
「えっ」
「オルコットにその知識があれば、反論されて逃げられてたかもしれねぇ。とはいえ彼女に喫煙の習慣がないのは一目瞭然だったし、うまく引っかかってくれて助かったよ」
「そ、そうだったのか……」
ホームズは歩きながら器用にマッチを擦って、煙草に火をつけた。すっかり遅い時間になってしまったので、往来を歩いているのは私たち二人だけだ。
「何だか、やるせないな。もちろん、彼女が許されないことをしたのは分かっているが……」
「そう感じるのは、ジョンが作家だからだ」
夜空に向かって紫煙を吐きながら、ホームズは飄々とした足取りで私の少し前を歩いている。
ふいにホームズが立ち止まって、こちらを振り返った。
「吸うか?」
彼は私の方にシガレットケースを突き出した。
気むずかし屋の友人にしては珍しいことだったが、そんな気分にもなれなくて私は首を横に振った。その心遣いだけ、受け取っておこうと思う。
***
「事件は解決しましたか?」
マイクロフトが部屋に入るなり、楽しげな声が飛んできた。
窓辺のティーテーブルに腰掛けて、アルバートがにこりと微笑んでいる。石油ランプの明かりに浮かび上がるその端正な相貌は、微妙な色彩の加減でますます作りものめいて見えた。
「噂に名高いホームズ卿のクラブにせっかくお邪魔したというのに……まったく、とんだ足止めです」
少しも残念そうには見えない顔でそう嘯くと、彼は窓の外に目をやって、表通りを見下ろした。ちょうど、オルコットを乗せたスコットランド・ヤードの馬車が出ていくところなのだろう。
その芝居がかった仕草と台詞に、マイクロフトはやや辟易してため息をついた。
「どの口が言うんだね。私の名前を騙って弟をここに呼んだのは君だろう」
「おや。どうせ貴方もそうされるだろうと思ったので、気を利かせたつもりでしたが」
少しも悪びれない態度に、マイクロフトはまたため息をつきそうになるのを何とか押し留めた。うんざりした態度を表に出すと、アルバートに余計に面白がられるのは目に見えている。
VIPルームには誰もいない、と有能な受付係が咄嗟に口裏を合わせてくれたのは幸いだった。
弟であるシャーロックをアルバートに会わせるわけにはいかない。つい先日のアイリーン・アドラーの一件で、アルバートはまさに『犯罪卿』として彼と言葉を交わしたばかりだったからだ。
「それで、今回の一件も君たちの『計画』の一環かね?」
向かいの席に腰掛けながら、マイクロフトはやや皮肉を込めて訊ねた。
クラブの沈黙を破った不可解な死、発見された毒の小瓶。混迷を極める現場に名探偵シャーロック・ホームズが登場し、鮮やかな推理で真犯人を暴き出す――。
アルバートが突然マイクロフトを訪ねてやってきたのは、事件が起こるほんの数時間前だ。間もなくカーライルが死んでいるのが発見され、スコットランド・ヤードが駆けつけてから、彼は一歩もこのVIPルームの外には出ていない。
今日に限ってこのクラブを訪れたアルバートが、この一連の騒動に関わっていないとは到底思えなかった。
しかし、アルバートは機嫌を損ねたようにぷいと顔を背けた。
「私の弟が、無実の人間に罪を着せるような計画を立てるとお思いですか?」
「それは確かに、君たちの掲げる理想とそれを実現するためのプランには反するだろう。……しかし、カーライルには人身売買の斡旋に関わっていた疑惑があり、私が彼を泳がせていたのも事実だ」
マイクロフトが正攻法で尻尾をつかむ前に、カーライルが『彼ら』の手に掛かったのだとしても何ら不思議ではない。そのために奴に恨みを持つオルコットに目をつけたことも――。
アルバートがちらりと柱時計の針を確認した。
「紅茶を淹れ直させよう」
「いえ、お気持ちだけで。弟たちが心配しておりますので、そろそろお暇いたしましょう」
引き止めるつもりで口を開いたが、するりとかわされてしまう。
窓の外に目をやると、ちょうど黒塗りの馬車が一台、クラブの前に横付けされたところだった。この角度から御者の顔は確認できないが、おそらくはモリアーティ家の使用人なのだろう。アルバートは音もなく立ち上がるとコートに袖を通し、ハットを手に取った。
納得していない表情をしているのが伝わったのか、立ち去り際、アルバートはこちらを振り返ってくすりと微笑んだ。
「まぁ……つまらない即興(アドリブ)で素晴らしい脚本を台無しにしてしまうような役者には、ご退場願うのが一番……とだけ、申しておきましょうか」
初出:Pixiv 2024.02.12
タイトル通り。
六
この新しい事実に、一同は騒然となった。グレッグソン警部補はホームズに先に発見されてしまったことに悔しげに顔を歪ませながらも、吸い殻を調べるよう部下たちに指示を飛ばしている。
狼狽える男たちを尻目に、オルコット女史が冷静に口を開いた。
「毒が仕込まれていたのは彼の煙草だった……であれば、私たちの容疑も晴れたと考えてよろしいかしら」
「確かに。彼の屋敷の使用人ならいくらでも毒入りの煙草を仕込めたはずですよ」
ウェルティ氏もこの意見に同意した。
カーライル氏のテーブルの上には、ヒナギクの意匠をあしらった銀のシガレットケースが放り出されている。煙草が十二本入るケースの中に、残されているのは十本。そして灰皿には二本の吸い殻があった。見たところ、他の煙草には毒を注入した痕跡は無いようだった。
もし彼の執事が毒入りの煙草をシガレットケースに仕込んだのなら、主人が『当たり』を引くまで犯行の発覚を遅らせ、容疑者を絞り込みにくくすることができるだろう。
しかしホームズはすかさずこの考えを否定した。
「そうなるとマホーニーさんのポケットから毒の小瓶が出てきたことの説明がつかなくなる。第一、使用人がやったのなら家の中で吸うよう仕向けるはずだ。警察が来る前に灰皿を片付けちまえば、吸い殻を調べられるリスクを回避できるからな」
「それは、確かに……」
再び容疑者候補へと引きずり戻されて、三人の会員は不安げに顔を見合わせた。
「儂がここに来たのは十七時十分だ。カーライルが死んだのが十七時三十分以降なら、儂には煙草に毒を仕込む時間は殆どなかった」
「あら。ここに来た時間なんて関係あるのでしょうか」
「どういう意味かね?」
「ウェルティさん、貴方、廊下でカーライルさんと睨み合っていたじゃありませんか。何かトラブルでもあったのではなくて?」
「本当ですか、ウェルティさん? 何のお話を……あ、ここでは会話ができませんでしたねぇ」
「いや、それは……。そ、そんなことより、オルコットくん。私達のことを盗み見していたのかね?」
「盗み見なんて。たまたまお手洗いに立ったとき、廊下で貴方がたをお見かけしただけです」
「ふむ。しかしオルコットくんもラウンジを出ていたということは、すなわち……」
「あ。な、何ですかその目は? まさか私を疑っておいでか?」
「あー待て待て、三人で勝手に喋らないでくれ」
ホームズが手を叩いて会員たちを制した。
「事件前後のあんたたちの行動を、時系列に沿って説明してくれ」
七
三人の会員たちの証言を総括すると、こうだ。
この日、一番最初にディオゲネス・クラブにやってきたのはレストン医師だった。
時刻は十六時を少し過ぎた頃。彼はラウンジに入って左手の壁沿いの席に掛けて、パイプをふかしたり医学誌を読んだりして一人の時間を楽しんだ。
十六時半ごろになると、後に待ち受ける運命などつゆ知らず、カーライル氏がやって来た。彼は入り口近くのテーブルについた。暖炉の前の暖かい場所で、彼が好んでよく使っていた席だという。
その次にオルコット女史、最後にウェルティ氏が十分と間隔を開けずやって来た。オルコット女史は表通りの景色を楽しめる窓際の席に、ウェルティ氏は壁に飾られた風景画を眺められる一番奥の席にそれぞれ座った。
四人の会員はラウンジの中で菱形を描くように、それぞれ離れたテーブルを使っていたわけだ。そして椅子はすべて入り口に背を向ける格好で配置されている。ラウンジに入ってきた人間がいちいち視界に写ったり、他の利用者と目が合ったりするのを防ぐための、徹底した配慮だった。
「ウェイターが紅茶を持ってくる前だったから、あれは十七時二十分頃だったと思う。カーライルが席を立ったんだ」
ウェルティ氏が顎髭を引っ張りながら語った。
彼はカーライル氏に金を貸していた。一週間ほど前、酒場でトランプに興じた際、負けが込んで手持ちが足りなくなったカーライル氏のために支払いの一部を肩代わりをしてやったそうだ。
金額はさほど大きくなかった。しかし特別高給取りというわけでもないウェルティ氏にとっては少々惜しい金額でもあった。
だから彼は席を立ったカーライル氏の後を追いかけ、『忘れていないだろうな?』という意味も込めて彼の肩を叩いたのだ。カーライル氏は『わかっている』と言いたげな顔で頷き返した。クラブハウス内で会話をすることはできなかったので、ウェルティ氏もその場は納得して引き下がった。
彼らに続いてトイレに向かったオルコット女史が目撃したのは、まさにその場面だったようだ。
用を済ませたウェルティ氏はそのままラウンジに引き返し、カーライル氏とオルコット女史はそれぞれトイレに寄ってから席に戻った。
「という事は、その時レストン医師はラウンジに一人きりだったわけですね?」
「えっ、いや、確かにそうでしたが……」
「その時、カーライルのシガレットケースはどこにあったんだ?」
「テーブルの上に置いてあった!」
ウェルティ氏が力強く断言した。
「カーライルくんはもともと、持ち物をテーブルに置いたまま席を立つことが多かった。ついさっきも、彼の後を追って入り口の方に向かいながら『会員制のクラブとはいえ不用心な』と思ったのを覚えているから間違いない」
「それでは、ラウンジに一人きりだったレストン医師には、テーブルに放置されたシガレットケースに細工をするチャンスがあったわけですね?」
グレッグソン警部補に睨まれて、レストン医師は可哀想なほど慌てはじめた。
「えっまさか、私が犯人だと!?」
「そもそも貴方は医者ですよね。毒薬も注射器も、簡単に用意できるはずだ」
「そ、そんな、待ってください! 確かに私はラウンジで一人になった時間がありました。けど、いつ誰が入ってくるかも分からない状況で彼のテーブルに近付いて、シガレットケースを開けて、煙草に注射器で毒を注入する……そんな細工ができたでしょうか? それに、細工をするチャンスがあったのはオルコット嬢も同じではありませんか?」
「え、なぜ私が?」
「私はカーライルさんのテーブルに背を向けて座っていたんです。トイレに行くふりをして、私が気づかないうちに細工を施すチャンスがあったはずでしょう?」
「言いがかりです。貴方が振り返りでもしたら、あっという間に見つかってしまうじゃありませんか」
オルコット女史は話にならない、といった顔で首を振った。しかしこのままでは犯人にされかねないレストン医師は必死に抗弁する。
「それに……毒を仕込んだ注射器! 私はこのラウンジから一歩も出ていませんが、オルコット嬢はトイレに行っている。そこでこの決定的な証拠品を隠滅したのではありませんか?」
「確かに……このラウンジは一通り調べたが、トイレまではまだ調べていない。すぐに調べさせましょう」
グレッグソン警部補は大きく頷いて、部下に指示を出した。「どうぞお好きに」とオルコット女史がうんざりした様子でため息をついた。
八
三十分後。
トイレの調査に向かった警官たちはすごすごと引き上げてきた。
「注射器とか毒薬の瓶とか、犯行を裏付けるような物証は何も出ませんでした。男子トイレからも」
オルコット女史が、そら見たことかと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「外部に共犯者がいて、窓越しに凶器を受け渡したりしたなら別ですが」
「周辺で聞き込みだけでもしておくか。ターナーたちの班で……」
「いや、その必要はない」
部下に新たな指示を出そうとするグレッグソン警部補を、ホームズが遮った。名探偵がしばらく振りに口を開いたことで、室内に緊張とも期待ともつかないぴりりとした空気が走る。
彼はいつもの考え事をするときの癖で、両手の指先を突き合わせていた。兄が腕組みしながら興味深げに見守っていることももはや気にならない様子だった。
「あんた方が探して見つからないって言うんなら、注射器はそもそもこのクラブハウスに持ち込まれてないんだろ」
「どういうことだ、シャーロック? 注射器が無ければ、どうやって煙草に毒を仕込むんだ」
「その方法を一つ思いついた。……グレッグソン、ここに来たとき、全員の持ち物検査はしたんだろう」
「当たり前だ」と警部補は鼻を鳴らした。
「シガレットケースは全員持ってただろ?」
「ん? ああ。確かに全員……あっ!」
グレッグソン警部補が唐突に声を上げた。何か思い当たるところがあるようだった。その反応に、ホームズは獲物を追い詰める狩人さながらの、どこか高揚した表情で三人の会員たちの方を振り返った。
「そういうことだ。御三方、もう一度シガレットケースを出してみてくれ」
ウェルティ氏とレストン医師はこの指示に素直に従った。もっとも、レストン医師が所持していたのはパイプ入れだったが。
二人にやや遅れて、オルコット女史がハンドバッグを開けてシガレットケースを取り出した。
彼女が取り出したそれを見て、私は思わず声を上げていた。
「あれ? これは……」
表面にヒナギクの浅浮き彫りを施した、銀のシガレットケース。殺害されたカーライル氏のテーブルに置かれていたものと、全く同じデザインだった。
「あらかじめ毒煙草を仕込んだシガレットケースを、そっくりそのまま入れ替える。この方法ならテーブルの横でごそごそと小細工をする必要はない、だろ?」
「っくぅうう……」
悔しげにうめき声を上げたのは、オルコット女史ではなくグレッグソン警部補だった。
彼らが持ち物検査をした時点では、まだ煙草に毒が仕込まれていた事実は判明していなかったのだ。被害者のものと全く同じシガレットケースを持っている者より、毒の小瓶を持っていた者の方が怪しく見えてしまっても不思議はないだろう。
私はちらりと視線を上げて、オルコット女史の表情を伺った。彼女は冷たい無表情でホームズを睨みつけた。
「あの。まさか私がカーライルさんを殺害したと仰っているのですか? たまたま同じシガレットケースを持っていただけで?」
「えっ」
私はつい驚きの声を上げてしまった。まさかこの期に及んで反論してくるとは思っていなかったからだ。
彼女は今度は私の方に噛みついた。
「私、何かおかしなことを言いまして? 毒の小瓶を持っていたからといって、それが毒を盛った証拠にはならないと仰ったのはあちらの探偵さんではありませんか」
「え……それは……」
私は言葉に詰まった。
確かに、彼女は『たまたま』被害者と同じデザインのシガレットケースを持っていただけだ。見たところ、中に入っている煙草も被害者のものと同じ銘柄だ。
偶然にしては出来すぎている。だが、あり得ないとは言い切れないのも事実だった。
九
オルコット女史のシガレットケースを検分していたグレッグソン警部補が歯噛みしながら首を横に振った。
毒が注入されていた煙草は、カーライル氏が吸ってしまったあの一本のみ。彼女がシガレットケースのすり替えを行った証拠を示さなければ、彼女の犯行を証明することはできない。
私はレストン医師の腕を叩いて耳打ちした。
「れ、レストンさん。彼女が席を立ったとき、何か気がついたことはありませんでしたか? 彼女がシガレットケースを入れ替えたとしたら、トイレに立った時しかあり得ないはずだ。その時、貴方は同じラウンジ内にいたんですから」
「……な、何も、見ておりません。だって、入り口に背を向けて座っておりましたし……」
彼はもごもごと答えるだけだった。
分かってはいたが、私はその答えに落胆した。彼もまさか自分がのんびりと寛いでいる背後でそんな恐ろしい企みが行われていたとは夢にも思っていなかっただろうから、大した注意も払っていなかったはずだ。
しかし状況からして、犯人は彼女以外にありえない。私とレストン医師は縋るようにホームズの方を見た。ホームズはどこからか取り出した拡大鏡で、テーブルの上の灰皿を覗き込んでいる。
やがて一つの結論を出したらしい彼は、オルコット女史の方を振り返った。
「……あんた、普段煙草なんて吸わないんだろう」
「だったら何だと言うんです?」
彼女の強気な返答を無視して、ホームズはレストン医師の方を見やった。
「レストンさん。あんた前に、カーライルさんに『甘いものと煙草は控えるように』って言ったんだよな」
「え? えぇ……」
「彼はあんたの忠告に多少は耳を貸してたわけだ。……煙草の銘柄を、いつも吸ってるものより軽いのに変えてたんだからな」
「は?」
声を上げたのはオルコット女史だった。
「灰皿に残された吸い殻をよく見てみろ。灰の形と大きさが、二種類あるのがわかるはずだ」
「た、確かに……粒の大きいものと小さいものがある」
身を乗り出して灰皿を覗き込んだグレッグソン警部補が、信じられないと言った様子で答えた。
ホームズは二つのシガレットケースからそれぞれ一本ずつ煙草を取り出して、彼に渡した。
「切って、中身を比べてみりゃ一目瞭然だ。同じメーカーが作ったものだから巻紙もチップペーパーもよく似ているが、間違いなく別種の煙草だよ」
「それは、つまり……」
「別々のシガレットケースに入っていたはずの二種類の煙草の灰が、被害者の灰皿に残ってる。となれば、答えは明白だ。あのご婦人がシガレットケースのすり替えを行った動かぬ証拠だろ?」
「お、おい。これを鑑識に……」
「その必要はありませんよ」
部下に指示を飛ばそうとする警部補を遮ったのは、他ならぬオルコット女史だった。
彼女は深々とため息をつくと、レストン医師を軽く睨んだ。
「先生、余計なことを言って下さいましたね」
「お、オルコットさん。それはつまり……」
「ええ、私がやりました」
毒殺魔はあっさりと自白した。
衝撃を受ける私たちを尻目に、彼女は部屋の隅に佇んでいたウェイターの方を向いた。例の、ケーキを運んだ背の高い方のウェイターだ。
「ごめんなさいね、ゴレッジさん。でもあなたの方はそう重い罪にはならないでしょう。私に頼まれて、そこの料理人さんのポケットに小瓶を入れただけなんだから。お金のことは、父に頼んでおきますから心配しないで。……あなたが受け取れるかどうかはともかく」
また一つ爆弾を落とされて、ウェイターは大いに狼狽えた。マイクロフト氏は眉をしかめて額に手を当てている。クラブの使用人が犯罪に関わっていたという結末は、とうとう避けられなかったわけだ。
「何故……何故こんなことを」
レストン医師がわなわなしながら声を漏らした。彼も医者として多くの人の死に立ち会ってきたが、知人が知人を殺してしまった場面に出くわしたのは初めてなのではないだろうか。
オルコット女史は「別に」とそっけなく答えたが、すぐに堪えきれなくなったように呟いた。
「……私の友人が、あそこで死体になってる男に手ひどく捨てられた挙げ句死んでしまった、ただそれだけの理由です。彼に言わせると、爵位もない成り上がりの娘には価値がないそうですよ。彼のと全く同じシガレットケースを用意するのは簡単でした。だって、彼女がショーケースの前で真剣に頭を悩ませているのを、私、隣で見ていましたもの」
オルコット女史は何も無い壁の方を睨みつけていた。人前で涙を零すまいと眦に力を込めているのだ。
私の脳裏に、連れ立って買い物に出かける二人の女性の姿がありありと浮かんだ。賑わう百貨店の売り場で、どんな贈り物なら想い人に喜んでもらえるかあれこれ吟味する友人と、その様子に呆れながらも時折アドバイスをしてやるオルコット女史――。
その結末がこんなにも虚しいものだとは信じたくなくて、私は必死に言葉を探した。
「しかし、それでも……カーライル氏は貴女のお友達からの贈り物を、今も大切に使っていた。彼女への愛情が、多少なりともあったということではありませんか?」
「だったら尚更、毒入り煙草を吸う前に気がついているはずでしょう。私がつい先日購入したばかりの新品のケースにすり替えられていたんですから。手元にちょうどいい道具があったから、何の愛着もなく利用していただけですよ」
オルコット女史はぴしゃりと言い返すと、ヒールを鳴らしながらラウンジを出ていった。グレッグソン警部補と制服の警官たちが慌ててその後を追う。もちろん、あの背の高いウェイターも引っ張られていった。
こうして、ディオゲネス・クラブでの殺人事件は幕を閉じた。
十
後始末にはもう少し時間が掛かりそうだったが、いい加減夜も更けてきたので、ホームズと私は一足先に二二一Bへ引き上げさせてもらうことにした。表通りへ一歩出たところで、見送りに来てくれたマイクロフト氏が珍しく喉を鳴らして笑いながら言った。
「いいハッタリだったな、シャーリー」
「うるせーよ」
ホームズは無愛想にそう答えると、さっさと歩きだしてしまった。いつものことであるが、彼が兄に対して向ける態度は生意気盛りの少年のようだ。
私はマイクロフト氏に一礼してから、早足でホームズの後を追いかけた。
「ハッタリって、何のことだ、シャーロック?」
「……被害者は煙草の銘柄なんて変えてなかった。あれはもともと二種類の葉をブレンドした煙草なんだよ」
「えっ」
「オルコットにその知識があれば、反論されて逃げられてたかもしれねぇ。とはいえ彼女に喫煙の習慣がないのは一目瞭然だったし、うまく引っかかってくれて助かったよ」
「そ、そうだったのか……」
ホームズは歩きながら器用にマッチを擦って、煙草に火をつけた。すっかり遅い時間になってしまったので、往来を歩いているのは私たち二人だけだ。
「何だか、やるせないな。もちろん、彼女が許されないことをしたのは分かっているが……」
「そう感じるのは、ジョンが作家だからだ」
夜空に向かって紫煙を吐きながら、ホームズは飄々とした足取りで私の少し前を歩いている。
ふいにホームズが立ち止まって、こちらを振り返った。
「吸うか?」
彼は私の方にシガレットケースを突き出した。
気むずかし屋の友人にしては珍しいことだったが、そんな気分にもなれなくて私は首を横に振った。その心遣いだけ、受け取っておこうと思う。
***
「事件は解決しましたか?」
マイクロフトが部屋に入るなり、楽しげな声が飛んできた。
窓辺のティーテーブルに腰掛けて、アルバートがにこりと微笑んでいる。石油ランプの明かりに浮かび上がるその端正な相貌は、微妙な色彩の加減でますます作りものめいて見えた。
「噂に名高いホームズ卿のクラブにせっかくお邪魔したというのに……まったく、とんだ足止めです」
少しも残念そうには見えない顔でそう嘯くと、彼は窓の外に目をやって、表通りを見下ろした。ちょうど、オルコットを乗せたスコットランド・ヤードの馬車が出ていくところなのだろう。
その芝居がかった仕草と台詞に、マイクロフトはやや辟易してため息をついた。
「どの口が言うんだね。私の名前を騙って弟をここに呼んだのは君だろう」
「おや。どうせ貴方もそうされるだろうと思ったので、気を利かせたつもりでしたが」
少しも悪びれない態度に、マイクロフトはまたため息をつきそうになるのを何とか押し留めた。うんざりした態度を表に出すと、アルバートに余計に面白がられるのは目に見えている。
VIPルームには誰もいない、と有能な受付係が咄嗟に口裏を合わせてくれたのは幸いだった。
弟であるシャーロックをアルバートに会わせるわけにはいかない。つい先日のアイリーン・アドラーの一件で、アルバートはまさに『犯罪卿』として彼と言葉を交わしたばかりだったからだ。
「それで、今回の一件も君たちの『計画』の一環かね?」
向かいの席に腰掛けながら、マイクロフトはやや皮肉を込めて訊ねた。
クラブの沈黙を破った不可解な死、発見された毒の小瓶。混迷を極める現場に名探偵シャーロック・ホームズが登場し、鮮やかな推理で真犯人を暴き出す――。
アルバートが突然マイクロフトを訪ねてやってきたのは、事件が起こるほんの数時間前だ。間もなくカーライルが死んでいるのが発見され、スコットランド・ヤードが駆けつけてから、彼は一歩もこのVIPルームの外には出ていない。
今日に限ってこのクラブを訪れたアルバートが、この一連の騒動に関わっていないとは到底思えなかった。
しかし、アルバートは機嫌を損ねたようにぷいと顔を背けた。
「私の弟が、無実の人間に罪を着せるような計画を立てるとお思いですか?」
「それは確かに、君たちの掲げる理想とそれを実現するためのプランには反するだろう。……しかし、カーライルには人身売買の斡旋に関わっていた疑惑があり、私が彼を泳がせていたのも事実だ」
マイクロフトが正攻法で尻尾をつかむ前に、カーライルが『彼ら』の手に掛かったのだとしても何ら不思議ではない。そのために奴に恨みを持つオルコットに目をつけたことも――。
アルバートがちらりと柱時計の針を確認した。
「紅茶を淹れ直させよう」
「いえ、お気持ちだけで。弟たちが心配しておりますので、そろそろお暇いたしましょう」
引き止めるつもりで口を開いたが、するりとかわされてしまう。
窓の外に目をやると、ちょうど黒塗りの馬車が一台、クラブの前に横付けされたところだった。この角度から御者の顔は確認できないが、おそらくはモリアーティ家の使用人なのだろう。アルバートは音もなく立ち上がるとコートに袖を通し、ハットを手に取った。
納得していない表情をしているのが伝わったのか、立ち去り際、アルバートはこちらを振り返ってくすりと微笑んだ。
「まぁ……つまらない即興(アドリブ)で素晴らしい脚本を台無しにしてしまうような役者には、ご退場願うのが一番……とだけ、申しておきましょうか」
初出:Pixiv 2024.02.12
ディオゲネス・クラブ殺人事件 前編
タイトル通り。
一
「めんどくせぇ……」
我らが名探偵シャーロック・ホームズは、届いた電報をちらりと見るなりそう吐き捨てて天井を仰いだ。
夕食を終えて二二一Bの共同リビングで寛ぎながら、頭の中でぼんやりと次回作の構想を練っていた時のことだった。
「どうした、シャーロック? マイクロフトさんからの電報なんだろう?」
訊ねると、ホームズは「読んでみろ」と言うようにテーブルの上に広げられた紙片を指し示した。持ち主の許可が出たので、好奇心に駆られた私は遠慮なくその紙片をつまみ上げた。
「『ディオゲネス・クラブで毒殺事件発生。すぐに来い』……!?」
何気なく読み上げて、私は飛び上がるほど驚いた。ディオゲネス・クラブといえば、ホームズの兄であるマイクロフト・ホームズ氏が運営する会員制クラブのことだ。
「大変だ、シャーロック! すぐに行かないと!」
「ヤだよ、めんっどくせぇ……」
ホームズは気怠そうな仕草で煙草に火をつけると、天井に向かって煙を吹きつけた。
「何を言ってるんだ、人が殺されてるんだぞ。マイクロフトさんがこうして電報を寄越してきたということは、お前の頭脳を頼らなくちゃならない難解な事件ということだろう?」
「……俺が見抜ける真相をあいつが見抜けないはずがない。それなのにわざわざ俺を呼びつけるってことは、厄介事に巻き込みたいか俺に難題をふっかけて面白がりたいか、どっちかに決まってんだろ……」
「まさか。いくらマイクロフトさんでも殺人事件をそんなふうに利用するわけないだろう。ほら、早く立って身支度しろ」
私は自分の帽子とステッキを用意しながら、ポールハンガーに引っ掛けたままのホームズの上着を手に取った。それを彼に向けて突き出すと、ホームズは観念したようにしぶしぶと椅子から立ち上がる。
大きなため息をつく彼の背中を叩きながら、私たちは連れ立って二二一Bを後にした。
二
私たちの乗る馬車がクラブハウス前に到着した時には、すでにスコットランド・ヤードが駆けつけた後だった。このクラブには『何人たりともクラブ内で口を開いてはならない』という一風変わった規則があると聞いていたが、今日この時ばかりはそのルールも解禁されているらしい。制服を着た警官たちが忙しそうに行ったり来たりしている。
ホームズが勝手知ってる様子で入口を抜けると、受付ロビーのところでさっそくマイクロフト氏に出くわした。殺人事件が起きたばかりのクラブの主とは思えないほど、彼はいつもの超然とした態度を崩していなかった。
彼は私達の姿を見るなりぴくりと片眉を上げた。が、すぐに唇の端を吊り上げて不敵に微笑んでみせた。
「遅かったな、シャーリー。大方、行きたくないと駄々をこねてワトソン先生を困らせたんだろう」
学校に行くのを渋っている子どもにでもするような物言いに私は思わず苦笑し、ホームズは舌打ちをした。
我々の登場に慌てたのは、マイクロフト氏と話し込んでいた警察官の方だった。小柄で、髪を左右にぴっちりと撫でつけた出で立ちには見覚えがある。
「お前が担当かよ、グレッグソン」
「ホームズ卿、彼を呼ばれたのですか?」
憎まれ口を無視して、グレッグソン警部補はマイクロフト氏に向かって訊ねた。
「ええ」
マイクロフト氏は短く、それ以上何も付け加えることなど無いといった態度で頷く。
対する警部補は言いたいことが山程ありそうだったが、さすがにこの政府高官に直接苦情を述べる勇敢さは持ち合わせていなかったらしい。「現場は?」と遠慮なしに訊ねるホームズに青筋を立てながらも、我々を二階へと案内してくれた。
三
二階に上がると、すぐ目の前にドアが一つ現れた。普段は締め切られているであろう両開きの扉は今は開け放たれて、脇に厳しい顔をした制服警官が仁王立ちしている。
どうやら中はラウンジらしい。
広々とした室内にテーブルと椅子がぽつぽつと並べられている。平時であれば、変わり者の会員たちが私語厳禁のルールの下、思い思いの時間を過ごすのだろう。
しかし今、部屋の中央には警官たちとともに数人の男女の姿が見えた。
「私ではありません! ケーキに毒を仕込むなんて……」
部屋に足を踏み入れるなり、女性の悲鳴のような泣き声のような痛々しい金切り声が響いた。見ると、エプロン姿の中年女性が泣き腫らした顔で髪を振り乱している。
「見ての通り、厨房係に容疑がかかっている」
マイクロフト氏が私たちに耳打ちした。
「ケーキに毒を盛って、あの男を毒殺したわけか」
ホームズの指し示す方を見やって、私は思わず後ずさりした。
入り口近くのテーブルに、三十代半ばと思しき男性が座っている。肘掛けからだらりと両手を投げ出して首を傾げた姿勢は居眠りをしているかのようだったが、瞬きもせず見開かれた虚ろな目を見れば、彼が間違いなく息絶えていることがわかった。
「テーブルには残り半分の紅茶のカップ、空っぽの皿、煙草の吸殻……毒を盛られたのがケーキだと断定する根拠は何だ?」
ホームズは死体や証拠品に触れないように注意しながら、いそいそと検分を始めた。
すると、部屋の中にいた者たちも私たちの存在に気がついたようだった。初老の男性が声を上げる。
「何ですか、彼らは? 警察の人間ではないようですが……」
「おや、もしかして……ワトソン先生?」
「えっ?」
いきなり名前を呼ばれて、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。その場で正体を見破られるほどの有名人といえば、どう考えてもしがない作家の私ではなく有名な名探偵の方だとばかり思っていたからだ。
しかし相手の顔を見返して、私は思わず額に手をやった。
「あ、レストン先生!」
「あぁ、やっぱり。お久しぶりです。まさかこんなところで再会しようとは」
「シャーロック、彼は……」
「見りゃわかる。病院勤めしてた頃の元同僚だろ」
紹介しようとする私を、ホームズはいつもの調子で先回りした。私はいくらかむっとしながら意地悪く言ってみせた。
「『先生』としか言ってないんだ。医者ではなく、作家仲間かもしれないぞ?」
「へぇ。消毒液の匂いをぷんぷんさせて、向こうのテーブルで医学雑誌を読むような医者兼作家がお前以外にもいるんだな。立てかけてあるステッキや靴底のすり減り具合からして、てっきり往診鞄を抱えてあちこち歩き回る開業医かと思ったんだが。袖口のシミは薬品の類じゃなければ珍しい色のインクか何かか?」
「……分かった、もういい。正解だよ、シャーロック。彼は私が聖トーマス病院にいた頃の知り合いで、今は独立して自分の診療所を持っている」
私がやれやれと首を横に振ると、横で聞いていた面々から驚きの声が上がった。
「シャーロック? もしかして、シャーロック・ホームズ?」
「いかにも。かの有名な、シャーロック・ホームズですよ」
本人に代わって、グレッグソン警部補が皮肉っぽく答えた。一同は軽くどよめいたが、そもそもここはマイクロフト氏が運営するクラブなのだ。彼の弟が現れたところで、何ら不思議はないだろう。犯人にとっては気の毒なことであるが。
四
警部補が説明してくれた事件のあらましは次の通りだ。
殺されたのはカーライル子爵。三十歳独身。
このクラブの会員で、普段は貴族らしく社交的な男ではあるが、週に一度はここを訪れて羽休めをしていたという。
死因は何らかの毒を服用してしまったことによる中毒死と思われる。毒の種類はヤードが解析している最中だが、カーライル氏には大きな持病もなく、その見解には私もレストン医師も賛成した。
事件当時、同じラウンジにいた会員は三名。
一人は私の元同僚、レストン医師。
基本的に人当たりのいい男だが、思い返せば一人でぼんやりと思索にふける姿を病院内で何度か見かけたことがある。彼がこのクラブに所属していたことを、私はさして意外には思わなかった。
もう一人は大学で講師をしているというウェルティ氏。
論文を執筆するためにこのクラブを利用することが間々あるらしい。髭面の気難しそうな男で、私たちに自己紹介をしている間もすぱすぱと煙草をふかしていた。
そして意外なことに、利用客の中には女性もいた。クレア・オルコット女史。
父親が金融業で成功を収めたいわゆるジェントリ階級で、元々会員であった父にせがんでこのクラブに出入りしているらしい。ディオゲネス・クラブであれば下心を持った男に声をかけられる心配もないのだから、ある意味では女性も安心して利用できるに違いなかった。
この三名の会員の他に、クラブハウス内にはさらに数名の裏方がいた。
今日勤務していたのは、今まさに容疑をかけられている厨房係のマホーニーさん。それからウェイターが二名、受付係が一名。
「上は?」
ホームズが短く、兄であるマイクロフト氏に向かって訊ねた。
この建物の三階にはマイクロフト氏が個人的に利用する書斎と、特別に会話が許された談話室――いわゆるVIPルームがあるらしい。
「いや。今日は私以外の利用者はいない」
氏が短く答えながら目配せをすると、受付係も無言で頷いた。
「カーライル氏が死亡していることが発覚したのはつい二時間ほど前――ちょうど午後六時頃だった」
グレッグソン警部補が手帳をめくりながら説明を開始した。
「紅茶をサーブしに来たウェイターが、微動だにしないカーライル氏を不審に思って顔を覗き込んだことで、彼が死んでいるのに気がついた。ここでは、三十分おきにウェイターが紅茶のおかわりを持ってテーブルを回ることになっているのだが……五時三十分の巡回では氏はまだ生きていたんだな?」
「はい、確かに」
背の高い方のウェイターが答えた。こういったクラブで給仕をするにふさわしい、ハンサムな青年だった。
「もちろん、ここの規則にのっとって言葉は交わしていませんが……おかわりを注いでくれ、と手振りでカップを示してくださいましたので、間違いありません」
「つまり、死亡推定時刻は五時半から六時の間というわけだ。……そして、その時サーブしたのは、紅茶だけか?」
「いえ。ワゴンでチョコレート・ケーキもお持ちしていました。カーライル様が『それも』と指を差されましたので、ケーキもお出ししています」
グレッグソン警部補はこの答えに満足げな様子で頷いた。
「紅茶は、他の三名の会員たちも同じポットから注がれたものを飲んでいる。しかしケーキを食べたのはカーライル氏だけだ。そこで毒が盛られていたのはこのチョコレート・ケーキに違いないと目星を付けたところ……」
「マホーニーさんのエプロンのポケットから、これが」
制服の警官が、布切れで包んだ小瓶を取り出した。親指ほどの大きさの小さな茶色の瓶だったが、ご丁寧に毒薬であることを示すラベルが貼ってある。
「これは私のものではありません、誰かが私のポケットに入れたとしか……!」
マホーニーと呼ばれた厨房係が、わっと声を上げた。
「あぁ、カーライルさん。甘いものと煙草は控えるようにと忠告申し上げたのに……」
レストン医師が小さく呟いた。どうやら二人はクラブの外でも親交があったらしい。
マイクロフト氏が肩を竦めながら弟の方を見やった。クラブの使用人が毒殺事件を起こしたとなれば、彼としても困ったことになるだろう。
五
「どう思う、シャーロック? 毒薬の瓶を持っていたなんて、いささかマホーニーさんに不利な状況だが……」
「『毒薬の瓶をポケットに入れてた』ってだけだろ? ケーキに毒を盛って被害者を殺害した証拠にはならない」
「それはそうだが……」
「通報を受けてここに駆けつけてすぐ、ここにいる者全員に持ち物検査を実施した。その結果、毒の容器を持っていたのは彼女だけだったのだ!」
グレッグソン警部補が噛みついた。が、ホームズは平気な顔だ。
「ワゴンに残ったケーキから毒は検出されたのか?」
「そ、それは鋭意調査中だ!」
「ケーキをラウンジに運んだのはウェイターで、被害者がケーキを注文したのはたまたまだろ? そこの医者先生の口ぶりじゃ被害者は甘いもの好きで、ケーキを注文する可能性は高かった。とはいえ、被害者が確実にケーキを食べる保証はなかったわけだし、他の会員が注文してしまう可能性も大いにあった。殺害方法としては不確実この上ない。まぁ、マホーニーさんが『誰でもいいからとりあえず毒殺したかった』っつー快楽殺人鬼なら話は別だが」
私はちらりとマホーニーさんの方を見やったが、顔を真っ赤にしてエプロンで鼻をすすっている小肥りの中年女性が恐ろしいシリアル・キラーだとは到底思えなかった。それに、もし彼女がそのようなおぞましい動機を持っていたのなら、ケーキを口にした被害者の死にゆく様子を見たがったはずではないだろうか?
「貴様、この小瓶は真犯人が彼女に濡れ衣を着せるためにポケットに滑り込ませたと主張するのか?」
「説得力がないって言ってるんだよ、お前らの仮説は」
「ならば、これ以上に説得力のある仮説を提示してもらいたいものだな」
「今考えてる」
ホームズはうるさそうに手を振って、カーライル氏のテーブルを調べ始めた。
ホームズの考えが正しければ……ウェイターが怪しいのではないだろうか? 私はカーライル氏にケーキを出した、背の高い方のウェイターの顔を盗み見た。
ティーワゴンを押して厨房からラウンジに向かう間、ケーキに毒を盛る機会はいくらでもあったはずだ。同じ裏方である彼なら、マホーニーさんにそっと近づいてポケットに毒の小瓶を仕込むこともできただろう。
このクラブの規則上、カーライル氏がラウンジで他の会員とおしゃべりを楽しむ可能性はまず無い。気の毒な被害者の死亡が発覚するまで、毒の小瓶を処理するための猶予はたっぷり三十分はあったわけだ。
そんなふうに頭の中で自分なりの推理をしていると、ふいに、ホームズが弾んだ声を上げた。
「あった、こいつだ」
私たちは恐ろしい死体の存在も忘れ、身を乗り出してテーブルを覗き込んだ。彼は灰皿から煙草の吸殻を一つつまみ上げた。
「ジョン、見てみろ。注射器の痕だ」
紙巻き煙草の吸口の近く――ホームズの指し示す先に、指摘されなければ気が付かないほどのごく小さな穴が開いていた。
「カーライル氏を殺した毒はケーキじゃない。注射器で煙草に注入されていたんだ」
初出:Pixiv 2024.02.12
タイトル通り。
一
「めんどくせぇ……」
我らが名探偵シャーロック・ホームズは、届いた電報をちらりと見るなりそう吐き捨てて天井を仰いだ。
夕食を終えて二二一Bの共同リビングで寛ぎながら、頭の中でぼんやりと次回作の構想を練っていた時のことだった。
「どうした、シャーロック? マイクロフトさんからの電報なんだろう?」
訊ねると、ホームズは「読んでみろ」と言うようにテーブルの上に広げられた紙片を指し示した。持ち主の許可が出たので、好奇心に駆られた私は遠慮なくその紙片をつまみ上げた。
「『ディオゲネス・クラブで毒殺事件発生。すぐに来い』……!?」
何気なく読み上げて、私は飛び上がるほど驚いた。ディオゲネス・クラブといえば、ホームズの兄であるマイクロフト・ホームズ氏が運営する会員制クラブのことだ。
「大変だ、シャーロック! すぐに行かないと!」
「ヤだよ、めんっどくせぇ……」
ホームズは気怠そうな仕草で煙草に火をつけると、天井に向かって煙を吹きつけた。
「何を言ってるんだ、人が殺されてるんだぞ。マイクロフトさんがこうして電報を寄越してきたということは、お前の頭脳を頼らなくちゃならない難解な事件ということだろう?」
「……俺が見抜ける真相をあいつが見抜けないはずがない。それなのにわざわざ俺を呼びつけるってことは、厄介事に巻き込みたいか俺に難題をふっかけて面白がりたいか、どっちかに決まってんだろ……」
「まさか。いくらマイクロフトさんでも殺人事件をそんなふうに利用するわけないだろう。ほら、早く立って身支度しろ」
私は自分の帽子とステッキを用意しながら、ポールハンガーに引っ掛けたままのホームズの上着を手に取った。それを彼に向けて突き出すと、ホームズは観念したようにしぶしぶと椅子から立ち上がる。
大きなため息をつく彼の背中を叩きながら、私たちは連れ立って二二一Bを後にした。
二
私たちの乗る馬車がクラブハウス前に到着した時には、すでにスコットランド・ヤードが駆けつけた後だった。このクラブには『何人たりともクラブ内で口を開いてはならない』という一風変わった規則があると聞いていたが、今日この時ばかりはそのルールも解禁されているらしい。制服を着た警官たちが忙しそうに行ったり来たりしている。
ホームズが勝手知ってる様子で入口を抜けると、受付ロビーのところでさっそくマイクロフト氏に出くわした。殺人事件が起きたばかりのクラブの主とは思えないほど、彼はいつもの超然とした態度を崩していなかった。
彼は私達の姿を見るなりぴくりと片眉を上げた。が、すぐに唇の端を吊り上げて不敵に微笑んでみせた。
「遅かったな、シャーリー。大方、行きたくないと駄々をこねてワトソン先生を困らせたんだろう」
学校に行くのを渋っている子どもにでもするような物言いに私は思わず苦笑し、ホームズは舌打ちをした。
我々の登場に慌てたのは、マイクロフト氏と話し込んでいた警察官の方だった。小柄で、髪を左右にぴっちりと撫でつけた出で立ちには見覚えがある。
「お前が担当かよ、グレッグソン」
「ホームズ卿、彼を呼ばれたのですか?」
憎まれ口を無視して、グレッグソン警部補はマイクロフト氏に向かって訊ねた。
「ええ」
マイクロフト氏は短く、それ以上何も付け加えることなど無いといった態度で頷く。
対する警部補は言いたいことが山程ありそうだったが、さすがにこの政府高官に直接苦情を述べる勇敢さは持ち合わせていなかったらしい。「現場は?」と遠慮なしに訊ねるホームズに青筋を立てながらも、我々を二階へと案内してくれた。
三
二階に上がると、すぐ目の前にドアが一つ現れた。普段は締め切られているであろう両開きの扉は今は開け放たれて、脇に厳しい顔をした制服警官が仁王立ちしている。
どうやら中はラウンジらしい。
広々とした室内にテーブルと椅子がぽつぽつと並べられている。平時であれば、変わり者の会員たちが私語厳禁のルールの下、思い思いの時間を過ごすのだろう。
しかし今、部屋の中央には警官たちとともに数人の男女の姿が見えた。
「私ではありません! ケーキに毒を仕込むなんて……」
部屋に足を踏み入れるなり、女性の悲鳴のような泣き声のような痛々しい金切り声が響いた。見ると、エプロン姿の中年女性が泣き腫らした顔で髪を振り乱している。
「見ての通り、厨房係に容疑がかかっている」
マイクロフト氏が私たちに耳打ちした。
「ケーキに毒を盛って、あの男を毒殺したわけか」
ホームズの指し示す方を見やって、私は思わず後ずさりした。
入り口近くのテーブルに、三十代半ばと思しき男性が座っている。肘掛けからだらりと両手を投げ出して首を傾げた姿勢は居眠りをしているかのようだったが、瞬きもせず見開かれた虚ろな目を見れば、彼が間違いなく息絶えていることがわかった。
「テーブルには残り半分の紅茶のカップ、空っぽの皿、煙草の吸殻……毒を盛られたのがケーキだと断定する根拠は何だ?」
ホームズは死体や証拠品に触れないように注意しながら、いそいそと検分を始めた。
すると、部屋の中にいた者たちも私たちの存在に気がついたようだった。初老の男性が声を上げる。
「何ですか、彼らは? 警察の人間ではないようですが……」
「おや、もしかして……ワトソン先生?」
「えっ?」
いきなり名前を呼ばれて、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。その場で正体を見破られるほどの有名人といえば、どう考えてもしがない作家の私ではなく有名な名探偵の方だとばかり思っていたからだ。
しかし相手の顔を見返して、私は思わず額に手をやった。
「あ、レストン先生!」
「あぁ、やっぱり。お久しぶりです。まさかこんなところで再会しようとは」
「シャーロック、彼は……」
「見りゃわかる。病院勤めしてた頃の元同僚だろ」
紹介しようとする私を、ホームズはいつもの調子で先回りした。私はいくらかむっとしながら意地悪く言ってみせた。
「『先生』としか言ってないんだ。医者ではなく、作家仲間かもしれないぞ?」
「へぇ。消毒液の匂いをぷんぷんさせて、向こうのテーブルで医学雑誌を読むような医者兼作家がお前以外にもいるんだな。立てかけてあるステッキや靴底のすり減り具合からして、てっきり往診鞄を抱えてあちこち歩き回る開業医かと思ったんだが。袖口のシミは薬品の類じゃなければ珍しい色のインクか何かか?」
「……分かった、もういい。正解だよ、シャーロック。彼は私が聖トーマス病院にいた頃の知り合いで、今は独立して自分の診療所を持っている」
私がやれやれと首を横に振ると、横で聞いていた面々から驚きの声が上がった。
「シャーロック? もしかして、シャーロック・ホームズ?」
「いかにも。かの有名な、シャーロック・ホームズですよ」
本人に代わって、グレッグソン警部補が皮肉っぽく答えた。一同は軽くどよめいたが、そもそもここはマイクロフト氏が運営するクラブなのだ。彼の弟が現れたところで、何ら不思議はないだろう。犯人にとっては気の毒なことであるが。
四
警部補が説明してくれた事件のあらましは次の通りだ。
殺されたのはカーライル子爵。三十歳独身。
このクラブの会員で、普段は貴族らしく社交的な男ではあるが、週に一度はここを訪れて羽休めをしていたという。
死因は何らかの毒を服用してしまったことによる中毒死と思われる。毒の種類はヤードが解析している最中だが、カーライル氏には大きな持病もなく、その見解には私もレストン医師も賛成した。
事件当時、同じラウンジにいた会員は三名。
一人は私の元同僚、レストン医師。
基本的に人当たりのいい男だが、思い返せば一人でぼんやりと思索にふける姿を病院内で何度か見かけたことがある。彼がこのクラブに所属していたことを、私はさして意外には思わなかった。
もう一人は大学で講師をしているというウェルティ氏。
論文を執筆するためにこのクラブを利用することが間々あるらしい。髭面の気難しそうな男で、私たちに自己紹介をしている間もすぱすぱと煙草をふかしていた。
そして意外なことに、利用客の中には女性もいた。クレア・オルコット女史。
父親が金融業で成功を収めたいわゆるジェントリ階級で、元々会員であった父にせがんでこのクラブに出入りしているらしい。ディオゲネス・クラブであれば下心を持った男に声をかけられる心配もないのだから、ある意味では女性も安心して利用できるに違いなかった。
この三名の会員の他に、クラブハウス内にはさらに数名の裏方がいた。
今日勤務していたのは、今まさに容疑をかけられている厨房係のマホーニーさん。それからウェイターが二名、受付係が一名。
「上は?」
ホームズが短く、兄であるマイクロフト氏に向かって訊ねた。
この建物の三階にはマイクロフト氏が個人的に利用する書斎と、特別に会話が許された談話室――いわゆるVIPルームがあるらしい。
「いや。今日は私以外の利用者はいない」
氏が短く答えながら目配せをすると、受付係も無言で頷いた。
「カーライル氏が死亡していることが発覚したのはつい二時間ほど前――ちょうど午後六時頃だった」
グレッグソン警部補が手帳をめくりながら説明を開始した。
「紅茶をサーブしに来たウェイターが、微動だにしないカーライル氏を不審に思って顔を覗き込んだことで、彼が死んでいるのに気がついた。ここでは、三十分おきにウェイターが紅茶のおかわりを持ってテーブルを回ることになっているのだが……五時三十分の巡回では氏はまだ生きていたんだな?」
「はい、確かに」
背の高い方のウェイターが答えた。こういったクラブで給仕をするにふさわしい、ハンサムな青年だった。
「もちろん、ここの規則にのっとって言葉は交わしていませんが……おかわりを注いでくれ、と手振りでカップを示してくださいましたので、間違いありません」
「つまり、死亡推定時刻は五時半から六時の間というわけだ。……そして、その時サーブしたのは、紅茶だけか?」
「いえ。ワゴンでチョコレート・ケーキもお持ちしていました。カーライル様が『それも』と指を差されましたので、ケーキもお出ししています」
グレッグソン警部補はこの答えに満足げな様子で頷いた。
「紅茶は、他の三名の会員たちも同じポットから注がれたものを飲んでいる。しかしケーキを食べたのはカーライル氏だけだ。そこで毒が盛られていたのはこのチョコレート・ケーキに違いないと目星を付けたところ……」
「マホーニーさんのエプロンのポケットから、これが」
制服の警官が、布切れで包んだ小瓶を取り出した。親指ほどの大きさの小さな茶色の瓶だったが、ご丁寧に毒薬であることを示すラベルが貼ってある。
「これは私のものではありません、誰かが私のポケットに入れたとしか……!」
マホーニーと呼ばれた厨房係が、わっと声を上げた。
「あぁ、カーライルさん。甘いものと煙草は控えるようにと忠告申し上げたのに……」
レストン医師が小さく呟いた。どうやら二人はクラブの外でも親交があったらしい。
マイクロフト氏が肩を竦めながら弟の方を見やった。クラブの使用人が毒殺事件を起こしたとなれば、彼としても困ったことになるだろう。
五
「どう思う、シャーロック? 毒薬の瓶を持っていたなんて、いささかマホーニーさんに不利な状況だが……」
「『毒薬の瓶をポケットに入れてた』ってだけだろ? ケーキに毒を盛って被害者を殺害した証拠にはならない」
「それはそうだが……」
「通報を受けてここに駆けつけてすぐ、ここにいる者全員に持ち物検査を実施した。その結果、毒の容器を持っていたのは彼女だけだったのだ!」
グレッグソン警部補が噛みついた。が、ホームズは平気な顔だ。
「ワゴンに残ったケーキから毒は検出されたのか?」
「そ、それは鋭意調査中だ!」
「ケーキをラウンジに運んだのはウェイターで、被害者がケーキを注文したのはたまたまだろ? そこの医者先生の口ぶりじゃ被害者は甘いもの好きで、ケーキを注文する可能性は高かった。とはいえ、被害者が確実にケーキを食べる保証はなかったわけだし、他の会員が注文してしまう可能性も大いにあった。殺害方法としては不確実この上ない。まぁ、マホーニーさんが『誰でもいいからとりあえず毒殺したかった』っつー快楽殺人鬼なら話は別だが」
私はちらりとマホーニーさんの方を見やったが、顔を真っ赤にしてエプロンで鼻をすすっている小肥りの中年女性が恐ろしいシリアル・キラーだとは到底思えなかった。それに、もし彼女がそのようなおぞましい動機を持っていたのなら、ケーキを口にした被害者の死にゆく様子を見たがったはずではないだろうか?
「貴様、この小瓶は真犯人が彼女に濡れ衣を着せるためにポケットに滑り込ませたと主張するのか?」
「説得力がないって言ってるんだよ、お前らの仮説は」
「ならば、これ以上に説得力のある仮説を提示してもらいたいものだな」
「今考えてる」
ホームズはうるさそうに手を振って、カーライル氏のテーブルを調べ始めた。
ホームズの考えが正しければ……ウェイターが怪しいのではないだろうか? 私はカーライル氏にケーキを出した、背の高い方のウェイターの顔を盗み見た。
ティーワゴンを押して厨房からラウンジに向かう間、ケーキに毒を盛る機会はいくらでもあったはずだ。同じ裏方である彼なら、マホーニーさんにそっと近づいてポケットに毒の小瓶を仕込むこともできただろう。
このクラブの規則上、カーライル氏がラウンジで他の会員とおしゃべりを楽しむ可能性はまず無い。気の毒な被害者の死亡が発覚するまで、毒の小瓶を処理するための猶予はたっぷり三十分はあったわけだ。
そんなふうに頭の中で自分なりの推理をしていると、ふいに、ホームズが弾んだ声を上げた。
「あった、こいつだ」
私たちは恐ろしい死体の存在も忘れ、身を乗り出してテーブルを覗き込んだ。彼は灰皿から煙草の吸殻を一つつまみ上げた。
「ジョン、見てみろ。注射器の痕だ」
紙巻き煙草の吸口の近く――ホームズの指し示す先に、指摘されなければ気が付かないほどのごく小さな穴が開いていた。
「カーライル氏を殺した毒はケーキじゃない。注射器で煙草に注入されていたんだ」
初出:Pixiv 2024.02.12
とある兄弟の話 後編
イートン校時代、ウィリアムが安楽椅子探偵っぽいことをする話。
翌週の水曜日、ウィリアムは昼食もそこそこに講堂の渡り廊下を外れて、校舎の裏手に回った。
待ち合わせ場所に着くと、間もなくアルバートもやって来た。
「付き合わせてしまってごめんなさい、アルバート兄さん」
「いいさ、私も気分転換がしたかったところだからね。それに、お前のことだから、ただの散歩の誘いというわけではないんだろう?」
「歩きながら話しましょうか」
ウィリアムは、先日のルイスからの『依頼』についてかいつまんで説明した。彼の友人とその兄と、一冊のスケッチブックにまつわる話だ。アルバートは興味深そうに相槌を打っていた。
「なるほど……そんな事が」
「はい。ですが、この依頼はまだ終わりではありません」
「というと?」
「ルイスと別れたあと、美術室の使用スケジュールを調べました。水曜日の午後、ジョセフの兄――フィンレー・ナッシュビルのクラスは美術室を使わないんです」
アルバートは考え込むように顎に手を当てた。
「ということは、そもそもフィンレーが水曜日に美術室で弟のスケッチブックを見つけるのは不可能で……メッセージを書いていたのはフィンレーではなかったということかい?」
「そこはルイスに確かめてもらいました。ジョセフに『これを書いたの、君のお兄さんじゃないですか』と」
「結果は?」
「ふふ。彼はメッセージを二度見三度見したあと……『そうかも』と」
ジョセフとは面識はなかったが、そのきょとんとした顔を想像してアルバートは思わず苦笑した。
同居して、同じ学校に通う兄弟同士となれば、手紙をやり取りすることもそうないだろう(モリアーティ家の三兄弟はもちろん例外である)。すぐに筆跡に思い当たらなくても不思議はない。
「メッセージを書いたのがフィンレーで間違いないのなら……。もう一人、『何らかの理由』で備品棚に紛れ込んだスケッチブックがジョセフのものだと判断できる人物がいたわけか。そしてその人物は何故かジョセフ本人ではなく、兄のフィンレーにスケッチブックを渡した」
「流石はアルバート兄さん」
ウィリアムは満足そうに頷いた。即座に同じ結論に辿り着いてくれる兄との会話は楽しい。
「けれど、それが誰で、どうしてわざわざそんな事をしたのかが私には見当もつかないよ」
肩をすくめるアルバートに、ウィリアムは微笑みかけた。
「僕は実際にジョセフのスケッチブックを見せてもらいましたから」
「順を追って聞かせてもらおうか」
「はい。ええと、そのもう一人の人物のことを、仮に『協力者』と呼びましょうか。まずは、協力者が備品棚に紛れ込んだスケッチブックがジョセフのものであると断定できた理由ですね。一緒に授業を受けていたクラスメイトたちは除外してもいいでしょう。もしも彼らが気づいていたら、その場ですぐにジョセフに声をかけていたはずですから。わざわざ上級生であるお兄さんの方にスケッチブックを渡すのは不自然です。であれば、協力者はそれ以降の時間帯に美術室を利用した者――と言いたいところですが、もっと確実な候補がいます」
「ジョセフに備品の片付けをさせた教員、だね?」
「その通りです。ルイスたちが教室を出た後、次の授業の準備をしていた教員がスケッチブックを見つけた、と仮定しましょう。彼は誰が備品棚に教本を片付けたかを知っていますし、生徒たちの絵の技量も把握しています。スケッチブックの持ち主を特定するのはそう難しくなかったはずです」
「そして、教員であればナッシュビル家の事情を把握していてもおかしくはない。彼はあえて兄であるフィンレーにコンタクトを取ったというわけか」
ウィリアムは頷いた。
「教員の誰かがこの件に関わっていたとすると、今度は『何故フィンレーにスケッチブックを渡したのか?』『何故フィンレーが毎週絵のリクエストを出すように仕向けたのか?』という謎が出てきます。ここから先は、実際にジョセフのスケッチブックを見た僕の想像ですが……」
話をしながらぶらぶらと歩いていると、裏庭の端に行き当たった。
この一角はゴミ捨て場に当たる。
塀沿いには、木箱や使われなくなった長机が積み上げられていた。ウィリアムは木箱のひとつを覗き込み、中に空き瓶や割れた食器の類が乱雑に詰め込まれているのを確認して満足そうに頷いた。
「学内にもごみ処理用の焼却施設はありますが、こういう不燃物や粗大ごみまでは処理できません。契約を交わした業者が決まった日に回収に来ることになってるんです。それがちょうど水曜日の昼休憩の時間帯なんです」
「フィンレーが、スケッチブックを持ってくるよう指定してきた時間だね」
アルバートはポケットから懐中時計を取り出して、時間を確認した。昼休憩が終わるまで、まだ三十分ほど時間がある。
ウィリアムは施錠された木戸を指差した。
「ジョセフのスケッチブックに、ここで立ち話をしている二人の男が描かれているページがありました」
「どうしてわざわざこんな場所を? ……ああ、なるほど」
怪訝そうな顔をしたものの、辺りを見回したアルバートはすぐに得心がいったように頷いた。
ここはちょうど学生寮の裏手にあたる。
「部屋の窓から見た風景というわけか」
「はい。角度からして二階のどこかだと思われます。下級生用の大部屋が並んでいるあたりです」
アルバートは頷いた。
入学当初から『王の学徒』として個室を与えられていた彼らは大部屋には縁が無かったが、建物の構造は把握している。
「ジョセフは、例のリクエストを受けるようになるまでは寮の自室で絵を描いていたようです。あのスケッチブックに描かれているのは部屋の中で用意できるものばかりでしたし、彼は自分の趣味をあまり大っぴらにしたがらなかったそうですから。昼休憩の時間は、大抵は自室に戻って、窓際の机に座って好きな絵を描いていた。例えば、この裏庭で何か悪事を働いている者がいたとして、窓際に座って頻繁にこちらを見下ろしているジョセフに気付いたとしたらどうするでしょう? 悪事の現場を目撃されることを恐れ、彼の目を裏庭から引き離す策を練るはずです」
「そのためにフィンレーを誘導して、スケッチブックにあのメッセージを書かせたと?」
「僕はそう推測しています。ある教員が偶然、備品棚からスケッチブックを見つける。開いてみると、自分たちの悪事の現場が克明にスケッチされているのを発見します。絵を描いた生徒自身はそのことに気づいてはいないかもしれませんが、いずれ勘づく時がくるかもしれない。だから彼はスケッチブックの持ち主ではなく、その兄に声をかけたのです。そして、ナッシュビル兄弟の微妙な心理的距離を利用し、弟の特技を応援してみてはどうか、と言葉巧みにフィンレーを誘導した。自分の本当の目的は隠したまま……」
一通りの推理を聞き終えたアルバートが、改めて寮の建物を見上げた。
美術教室は寮の反対側の棟の三階にある。 どれだけ急いでも、行って戻ってくるのに二十分はかかるだろう。その道中でクラスメイトに食堂へ誘われるかもしれないし、上級生に雑用を言いつけられるかもしれない。
『毎週水曜日の昼休みに、美術教室の備品棚にスケッチブックを入れる』よう約束を取り付けさせれば、確実にこの時間帯はジョセフを寮の窓から引き離すことができる。 事実、今は寮の窓に人の気配は無かった。ジョセフは今頃、ルイスの似顔絵を描いたスケッチブックを持って美術教室へ向かっているのだから。
「けれど、その『悪事』とは一体?」
ウィリアムはその質問には答えず、アルバートの腕を引いて植え込みの影に滑り込んだ。
ちょうど、男がひとり、向こうから歩いてくるところだった。生徒ではない。教員だ。
背が高く体つきは頑丈そうだが、眉は垂れ下がりくたびれた印象を受ける。あの絵の男に間違いない、とウィリアムはジョセフの画力に妙に感心してしまった。
彼がちらりと学生寮の方に視線をやったことで、二人はよいいっそう確信を強めた。彼の注意は二階の窓に向いていて、植え込みの影に隠れているウィリアムとアルバートには気づいていない。
「不要品の回収に際して、裏門の鍵を開けて作業に立ち会う教員が必ずいます。補助教員、ネヴィル・ハザリー。彼がフィンレーの協力者です。美術科も担当していたので、間違いないでしょう」
ウィリアムが囁くと、示し合わせたようなタイミングで、ハザリーが懐から鍵の束を取り出した。
彼が錆びかかった錠前を開けると、戸の外にはすでに回収屋の男が待っていた。二人は片手を上げて気安い様子で挨拶をしている。
回収屋の男が、茶色い紙袋をハザリーに差し出した。受け取ったハザリーは、ポケットから紙幣を何枚か取り出して渡した。
廃品の処理のため学校側は業者に金を支払っているのは間違いないが、作業員と補助教員の間で直接やり取りをするはずがない。
「どうする、ウィル?」
アルバートが短く尋ねた。
今すぐ彼らを問い質すこともできなくはないが、言い逃れの仕方はいくらでもある。「友人にちょっとした買い物を頼んでいた」とでも言われてしまえばそれまでだ。
かと言って、多少後ろめたいことがなければこんなにも回りくどい真似をするとも思えなかった。
ウィリアムは簡潔に回答した。
「ルイスから話が伝わったとばれてしまうのは困ります」
「フ……そう言うだろうと思ったよ」
ルイスがこの件に関わっていることをハザリーに知られる可能性がある。今週のリクエストは人物画で、そこに描かれているのはルイスなのだから。
ここでモリアーティ家の兄ふたりが登場して事態を暴き立てれば、どこからどう話が伝わったのかは子供でも分かることだろう。
あの荷物の中身が何なのか分からない以上、下手に出しゃばって報復の矛先がルイスに向くことは避けなければならない。
「であれば、それとなく他の監督生と教員を動かしてみよう」
アルバートからの期待通りの返答に、ウィリアムはにっこりと微笑んだ。
*
数日後、アルバートが職員室を後にして自室に戻ると、すでに弟たちが待っていた。
ウィリアムは読んでいた本を閉じるとアルバートにソファへ座るようすすめ、ルイスはすかさず淹れたての紅茶をサーブしてくれる。彼は早く結果を聞きたくてうずうずしているようだったが、ウィリアムが切り出すまでぐっと堪えて待っていた。
「首尾はいかがでしたか?」
「ああ。補助教員ネヴィル・ハザリー。フィンレーを唆かしたのはやはり彼だった」
アルバートはウィリアムの向かいに腰を下ろしながら答えた。
「ウィルの推理通り、毎週水曜日に廃品回収にやってくる男から『校則で禁止されている嗜好品』を仕入れて、それを不良どもに売りさばいて小銭を稼いでいたそうだ。匿名の情報提供があったことにして教員を動かしたらすぐに白状したよ」
「『禁止されている嗜好品』というと……」
「お酒や煙草じゃないかな」
ルイスの疑問を、ウィリアムがすかさずフォローした。
実際は酒、煙草のほかに持ち込み禁止の菓子類、大衆娯楽雑誌など押収された品は様々だ。中には猥褻本の類も含まれていて、何となく弟たちの耳には入れたくない話だったのでアルバートはあえて婉曲的な表現を使ったのだ。
この様子だとウィリアムには察しがついてしまっているようだが、ルイスは兄の言葉を素直に受け取って「そんなものの為に」とぷりぷり怒っている。
阿片など違法な薬物が学内に持ち込まれている可能性も考慮して出来る限り慎重に行動していたため、アルバートも拍子抜けしたことは否めない。
ハザリーが数日中に自主的に退職することになったと伝えると、ルイスはさらに不満そうに顔をしかめた。
「教員の立場でこんなことをしておいて、解雇ではなくて退職扱いなのですか?」
「ああ……そうなんだけどね」
「アルバート兄さん」とウィリアムが口を挟んだ。「そもそも、ハザリーさんは何故こんなことを? 回収屋の男に代金といくらかの手間賃を渡したら、もう彼の手元にはほとんど残らなかったはずです。お金以外の目的があったということですか?」
「いや。そのわずかな金額こそが、目的だったそうだ」
ネヴィル・ハザリーは補助教員だ。正式な教員と違って、教員免許を持っていない。大学を卒業した(そして、その多くが貴族出身者である)教員たちとはその仕事内容や待遇は大きく異なっていた。
教員や生徒の中には平民出の彼らを「使用人」として捉えるものも多くなかった。
昨年の夏にハザリーの娘婿が急死し、娘とまだ幼い孫たちの生活を助けるために金が必要になった。しかし学校にほとんど住み込みで働く補助教員の給料では満足な援助はできなかった。そんな折に隠れて酒盛りをしている学生たちを見つけ、この副業を思いついたそうだ。
毎週廃品の回収に立ち会ううちにいつしか親しくなった業者の男に協力を持ちかけると、快く引き受けてくれたという。この方法ならば、週末ごとに大量の煙草や酒や菓子を買い込むよりも他の教員たちの目につきにくい。
品物をすべて捌いたところでハザリーの手元に残る儲けは僅かだった。しかしその金があれば大黒柱を失った娘や孫たちはパンを一つ、着替えを一枚買える。雪の降る夜にガスストーブを使うのを我慢せずにすむ。「お金なんかの為に」と彼を批判できるのは、何も知らない、本当に金に困ったことのない人間だけだ。
残飯を漁って食いつないだ経験のあるウィリアムとルイスはその辛さを痛いほど分かっていたし、生まれてこの方食事に困ったことのないアルバートにもそれは察せられた。
「補助教員が忙しく働いているのは知っているつもりだったが、ここまで待遇が悪いとは思ってなかったよ」
「貴族の子弟にとってはお小遣い程度の金額でも、ハザリーさんにとっては喉から手が出るほどほしいお金だったというわけですね」
「そう思うと、仕事を無くしてしまったのは、何だかお気の毒ですね……」
ルイスが顔を曇らせた。
アルバートはこの数日のうちに、ハザリーの『顧客』だった生徒を何人か捕まえて証言を集めた。中には彼の事情を知っていて、カンパのつもりで品物を買っていた生徒もいたのだ。
「先生方には、寛大な処分をなさるようお願いしてはみたのだけれど……。問題を起こしてしまった以上このまま雇い続けるのは難しい、というのが結論だった」
肩を落とすアルバートに、ウィリアムは「大丈夫です」と微笑んだ。
「ハザリーさんは、ここの下宿を引き払った後、一人の男に出会うでしょう」
「男?」
「はい。まだ若いけれどどこか疲れ切った顔をした、片手のない傷痍軍人です。路地に力なく座り込んだ彼はハザリーさんに頼みごとをます。『煙草を一本もらえないか』と。もしハザリーさんが親切な対応をするのであれば、喜んだその男が意外なツテを使って彼に仕事を紹介してくれるでしょう」
アルバートとルイスは顔を見合わせた。片手のない元軍人、と言われれば、それが誰かは聞くまでもない。
「……あの人は、煙草をもらえるまで付きまといそうだな」
少しの沈黙の後、しつこく煙草をねだる大男の姿を想像して三人はくすくすと笑い声をあげた。
根は人情に厚いモランのことだから、きっとハザリーがこのささやかなテストを合格するまで粘るだろう。もし彼が煙草を持っていなければ、代わりに小銭や飴玉を要求するかもしれない。
「とある画廊で、ちょうど雑用係を探しているそうだったので。もちろん雑用係と言っても、芸術を見る目があるに越したことはありません。ハザリーさんにとっても申し分ない再就職先でしょう」
「まったく、手回しのいいことだね」
アルバートが肩を竦めてみせると、ウィリアムは控えめに、けれど誇らしそうに笑った。
「さて、ナッシュビル兄弟の件もハザリーさんの件も丸く収まったことだし……僕らの相談役に報酬をお支払いしないといけないね」
いたずらっぽく笑いながら、アルバートは懐から折りたたまれた紙切れを取り出した。
両手で恭しく差し出すと、ウィリアムはそれが何なのか予想がついたらしくにこにこと笑いながら受け取った。紙切れを丁寧に広げてみて、ますます笑みを深くする。
すると当然、ルイスもその紙に何が書かれているのか気になったようだ。
その紙切れは分厚くざらついていて、片側に小さな丸い穴が並んでいて、ちょうどスケッチブックから破り取ったページに似ている。何かを勘づいたらしいルイスは、身を乗り出して兄の持つ紙切れを横からのぞき込んだ。
「なっ……どうして兄様がこれを持っているのですか!?」
彼の予想通り、アルバートがウィリアムに渡したのは先日ジョセフがルイスをモデルに描いた絵だった。
絵の中のルイスは描き手の方をまっすぐ見つめ返すのを恥ずかしがったのか、頬の火傷を描かれるのを嫌ったのか、心持ち右を向いて椅子に腰掛けている。『王の学徒』の証たる黒いローブは彼の身体にはまだ少しだけ大きく、首筋や手首は頼りないほどほっそりして見えた。
顔を真っ赤にするルイスが可笑しくて、アルバートはくすくすと笑った。
「フィンレーの部屋を訪ねて、弟に名乗り出るよう話してみたんだ。もちろん、ハザリーさんの件は伏せてね。『どうしてそれを知っているんだ』と慌てていたけれど、この絵に描かれているのが誰なのかを教えてあげると納得してくれたよ」
快く、とまではいかなかったが、経緯を説明するとフィンレーは絵を譲ってくれた。「弟に謝っておくよ。君の弟にもよろしく」と眉を下げて笑いながら。
「フフ、そっけない表情のルイスは何だか懐かしいな」
「ほんとうに良く描けていますね。少し緊張して顔が強張っているのが伝わってきます。兄さん、額縁を買いに行きましょう」
「それはいい。肖像画なんて見栄のためだけのものだと思っていたが……彼にカンバスと画材一式を進呈して本格的に描いてもらうのもいいかもしれないな」
「兄さん! 兄様まで!」
ルイスが珍しく慌てるので、二人の兄はますます可笑しくなった。
額に入れて飾るアイデアはルイスによって阻止されたが、この絵は今でもウィリアムの手帳に挟まれている。折り畳まれたぶ厚い紙は少しばかり嵩張ったが、今のところ手放す気は無い様だった。
初出:Pixiv 2023.08.20
イートン校時代、ウィリアムが安楽椅子探偵っぽいことをする話。
翌週の水曜日、ウィリアムは昼食もそこそこに講堂の渡り廊下を外れて、校舎の裏手に回った。
待ち合わせ場所に着くと、間もなくアルバートもやって来た。
「付き合わせてしまってごめんなさい、アルバート兄さん」
「いいさ、私も気分転換がしたかったところだからね。それに、お前のことだから、ただの散歩の誘いというわけではないんだろう?」
「歩きながら話しましょうか」
ウィリアムは、先日のルイスからの『依頼』についてかいつまんで説明した。彼の友人とその兄と、一冊のスケッチブックにまつわる話だ。アルバートは興味深そうに相槌を打っていた。
「なるほど……そんな事が」
「はい。ですが、この依頼はまだ終わりではありません」
「というと?」
「ルイスと別れたあと、美術室の使用スケジュールを調べました。水曜日の午後、ジョセフの兄――フィンレー・ナッシュビルのクラスは美術室を使わないんです」
アルバートは考え込むように顎に手を当てた。
「ということは、そもそもフィンレーが水曜日に美術室で弟のスケッチブックを見つけるのは不可能で……メッセージを書いていたのはフィンレーではなかったということかい?」
「そこはルイスに確かめてもらいました。ジョセフに『これを書いたの、君のお兄さんじゃないですか』と」
「結果は?」
「ふふ。彼はメッセージを二度見三度見したあと……『そうかも』と」
ジョセフとは面識はなかったが、そのきょとんとした顔を想像してアルバートは思わず苦笑した。
同居して、同じ学校に通う兄弟同士となれば、手紙をやり取りすることもそうないだろう(モリアーティ家の三兄弟はもちろん例外である)。すぐに筆跡に思い当たらなくても不思議はない。
「メッセージを書いたのがフィンレーで間違いないのなら……。もう一人、『何らかの理由』で備品棚に紛れ込んだスケッチブックがジョセフのものだと判断できる人物がいたわけか。そしてその人物は何故かジョセフ本人ではなく、兄のフィンレーにスケッチブックを渡した」
「流石はアルバート兄さん」
ウィリアムは満足そうに頷いた。即座に同じ結論に辿り着いてくれる兄との会話は楽しい。
「けれど、それが誰で、どうしてわざわざそんな事をしたのかが私には見当もつかないよ」
肩をすくめるアルバートに、ウィリアムは微笑みかけた。
「僕は実際にジョセフのスケッチブックを見せてもらいましたから」
「順を追って聞かせてもらおうか」
「はい。ええと、そのもう一人の人物のことを、仮に『協力者』と呼びましょうか。まずは、協力者が備品棚に紛れ込んだスケッチブックがジョセフのものであると断定できた理由ですね。一緒に授業を受けていたクラスメイトたちは除外してもいいでしょう。もしも彼らが気づいていたら、その場ですぐにジョセフに声をかけていたはずですから。わざわざ上級生であるお兄さんの方にスケッチブックを渡すのは不自然です。であれば、協力者はそれ以降の時間帯に美術室を利用した者――と言いたいところですが、もっと確実な候補がいます」
「ジョセフに備品の片付けをさせた教員、だね?」
「その通りです。ルイスたちが教室を出た後、次の授業の準備をしていた教員がスケッチブックを見つけた、と仮定しましょう。彼は誰が備品棚に教本を片付けたかを知っていますし、生徒たちの絵の技量も把握しています。スケッチブックの持ち主を特定するのはそう難しくなかったはずです」
「そして、教員であればナッシュビル家の事情を把握していてもおかしくはない。彼はあえて兄であるフィンレーにコンタクトを取ったというわけか」
ウィリアムは頷いた。
「教員の誰かがこの件に関わっていたとすると、今度は『何故フィンレーにスケッチブックを渡したのか?』『何故フィンレーが毎週絵のリクエストを出すように仕向けたのか?』という謎が出てきます。ここから先は、実際にジョセフのスケッチブックを見た僕の想像ですが……」
話をしながらぶらぶらと歩いていると、裏庭の端に行き当たった。
この一角はゴミ捨て場に当たる。
塀沿いには、木箱や使われなくなった長机が積み上げられていた。ウィリアムは木箱のひとつを覗き込み、中に空き瓶や割れた食器の類が乱雑に詰め込まれているのを確認して満足そうに頷いた。
「学内にもごみ処理用の焼却施設はありますが、こういう不燃物や粗大ごみまでは処理できません。契約を交わした業者が決まった日に回収に来ることになってるんです。それがちょうど水曜日の昼休憩の時間帯なんです」
「フィンレーが、スケッチブックを持ってくるよう指定してきた時間だね」
アルバートはポケットから懐中時計を取り出して、時間を確認した。昼休憩が終わるまで、まだ三十分ほど時間がある。
ウィリアムは施錠された木戸を指差した。
「ジョセフのスケッチブックに、ここで立ち話をしている二人の男が描かれているページがありました」
「どうしてわざわざこんな場所を? ……ああ、なるほど」
怪訝そうな顔をしたものの、辺りを見回したアルバートはすぐに得心がいったように頷いた。
ここはちょうど学生寮の裏手にあたる。
「部屋の窓から見た風景というわけか」
「はい。角度からして二階のどこかだと思われます。下級生用の大部屋が並んでいるあたりです」
アルバートは頷いた。
入学当初から『王の学徒』として個室を与えられていた彼らは大部屋には縁が無かったが、建物の構造は把握している。
「ジョセフは、例のリクエストを受けるようになるまでは寮の自室で絵を描いていたようです。あのスケッチブックに描かれているのは部屋の中で用意できるものばかりでしたし、彼は自分の趣味をあまり大っぴらにしたがらなかったそうですから。昼休憩の時間は、大抵は自室に戻って、窓際の机に座って好きな絵を描いていた。例えば、この裏庭で何か悪事を働いている者がいたとして、窓際に座って頻繁にこちらを見下ろしているジョセフに気付いたとしたらどうするでしょう? 悪事の現場を目撃されることを恐れ、彼の目を裏庭から引き離す策を練るはずです」
「そのためにフィンレーを誘導して、スケッチブックにあのメッセージを書かせたと?」
「僕はそう推測しています。ある教員が偶然、備品棚からスケッチブックを見つける。開いてみると、自分たちの悪事の現場が克明にスケッチされているのを発見します。絵を描いた生徒自身はそのことに気づいてはいないかもしれませんが、いずれ勘づく時がくるかもしれない。だから彼はスケッチブックの持ち主ではなく、その兄に声をかけたのです。そして、ナッシュビル兄弟の微妙な心理的距離を利用し、弟の特技を応援してみてはどうか、と言葉巧みにフィンレーを誘導した。自分の本当の目的は隠したまま……」
一通りの推理を聞き終えたアルバートが、改めて寮の建物を見上げた。
美術教室は寮の反対側の棟の三階にある。 どれだけ急いでも、行って戻ってくるのに二十分はかかるだろう。その道中でクラスメイトに食堂へ誘われるかもしれないし、上級生に雑用を言いつけられるかもしれない。
『毎週水曜日の昼休みに、美術教室の備品棚にスケッチブックを入れる』よう約束を取り付けさせれば、確実にこの時間帯はジョセフを寮の窓から引き離すことができる。 事実、今は寮の窓に人の気配は無かった。ジョセフは今頃、ルイスの似顔絵を描いたスケッチブックを持って美術教室へ向かっているのだから。
「けれど、その『悪事』とは一体?」
ウィリアムはその質問には答えず、アルバートの腕を引いて植え込みの影に滑り込んだ。
ちょうど、男がひとり、向こうから歩いてくるところだった。生徒ではない。教員だ。
背が高く体つきは頑丈そうだが、眉は垂れ下がりくたびれた印象を受ける。あの絵の男に間違いない、とウィリアムはジョセフの画力に妙に感心してしまった。
彼がちらりと学生寮の方に視線をやったことで、二人はよいいっそう確信を強めた。彼の注意は二階の窓に向いていて、植え込みの影に隠れているウィリアムとアルバートには気づいていない。
「不要品の回収に際して、裏門の鍵を開けて作業に立ち会う教員が必ずいます。補助教員、ネヴィル・ハザリー。彼がフィンレーの協力者です。美術科も担当していたので、間違いないでしょう」
ウィリアムが囁くと、示し合わせたようなタイミングで、ハザリーが懐から鍵の束を取り出した。
彼が錆びかかった錠前を開けると、戸の外にはすでに回収屋の男が待っていた。二人は片手を上げて気安い様子で挨拶をしている。
回収屋の男が、茶色い紙袋をハザリーに差し出した。受け取ったハザリーは、ポケットから紙幣を何枚か取り出して渡した。
廃品の処理のため学校側は業者に金を支払っているのは間違いないが、作業員と補助教員の間で直接やり取りをするはずがない。
「どうする、ウィル?」
アルバートが短く尋ねた。
今すぐ彼らを問い質すこともできなくはないが、言い逃れの仕方はいくらでもある。「友人にちょっとした買い物を頼んでいた」とでも言われてしまえばそれまでだ。
かと言って、多少後ろめたいことがなければこんなにも回りくどい真似をするとも思えなかった。
ウィリアムは簡潔に回答した。
「ルイスから話が伝わったとばれてしまうのは困ります」
「フ……そう言うだろうと思ったよ」
ルイスがこの件に関わっていることをハザリーに知られる可能性がある。今週のリクエストは人物画で、そこに描かれているのはルイスなのだから。
ここでモリアーティ家の兄ふたりが登場して事態を暴き立てれば、どこからどう話が伝わったのかは子供でも分かることだろう。
あの荷物の中身が何なのか分からない以上、下手に出しゃばって報復の矛先がルイスに向くことは避けなければならない。
「であれば、それとなく他の監督生と教員を動かしてみよう」
アルバートからの期待通りの返答に、ウィリアムはにっこりと微笑んだ。
*
数日後、アルバートが職員室を後にして自室に戻ると、すでに弟たちが待っていた。
ウィリアムは読んでいた本を閉じるとアルバートにソファへ座るようすすめ、ルイスはすかさず淹れたての紅茶をサーブしてくれる。彼は早く結果を聞きたくてうずうずしているようだったが、ウィリアムが切り出すまでぐっと堪えて待っていた。
「首尾はいかがでしたか?」
「ああ。補助教員ネヴィル・ハザリー。フィンレーを唆かしたのはやはり彼だった」
アルバートはウィリアムの向かいに腰を下ろしながら答えた。
「ウィルの推理通り、毎週水曜日に廃品回収にやってくる男から『校則で禁止されている嗜好品』を仕入れて、それを不良どもに売りさばいて小銭を稼いでいたそうだ。匿名の情報提供があったことにして教員を動かしたらすぐに白状したよ」
「『禁止されている嗜好品』というと……」
「お酒や煙草じゃないかな」
ルイスの疑問を、ウィリアムがすかさずフォローした。
実際は酒、煙草のほかに持ち込み禁止の菓子類、大衆娯楽雑誌など押収された品は様々だ。中には猥褻本の類も含まれていて、何となく弟たちの耳には入れたくない話だったのでアルバートはあえて婉曲的な表現を使ったのだ。
この様子だとウィリアムには察しがついてしまっているようだが、ルイスは兄の言葉を素直に受け取って「そんなものの為に」とぷりぷり怒っている。
阿片など違法な薬物が学内に持ち込まれている可能性も考慮して出来る限り慎重に行動していたため、アルバートも拍子抜けしたことは否めない。
ハザリーが数日中に自主的に退職することになったと伝えると、ルイスはさらに不満そうに顔をしかめた。
「教員の立場でこんなことをしておいて、解雇ではなくて退職扱いなのですか?」
「ああ……そうなんだけどね」
「アルバート兄さん」とウィリアムが口を挟んだ。「そもそも、ハザリーさんは何故こんなことを? 回収屋の男に代金といくらかの手間賃を渡したら、もう彼の手元にはほとんど残らなかったはずです。お金以外の目的があったということですか?」
「いや。そのわずかな金額こそが、目的だったそうだ」
ネヴィル・ハザリーは補助教員だ。正式な教員と違って、教員免許を持っていない。大学を卒業した(そして、その多くが貴族出身者である)教員たちとはその仕事内容や待遇は大きく異なっていた。
教員や生徒の中には平民出の彼らを「使用人」として捉えるものも多くなかった。
昨年の夏にハザリーの娘婿が急死し、娘とまだ幼い孫たちの生活を助けるために金が必要になった。しかし学校にほとんど住み込みで働く補助教員の給料では満足な援助はできなかった。そんな折に隠れて酒盛りをしている学生たちを見つけ、この副業を思いついたそうだ。
毎週廃品の回収に立ち会ううちにいつしか親しくなった業者の男に協力を持ちかけると、快く引き受けてくれたという。この方法ならば、週末ごとに大量の煙草や酒や菓子を買い込むよりも他の教員たちの目につきにくい。
品物をすべて捌いたところでハザリーの手元に残る儲けは僅かだった。しかしその金があれば大黒柱を失った娘や孫たちはパンを一つ、着替えを一枚買える。雪の降る夜にガスストーブを使うのを我慢せずにすむ。「お金なんかの為に」と彼を批判できるのは、何も知らない、本当に金に困ったことのない人間だけだ。
残飯を漁って食いつないだ経験のあるウィリアムとルイスはその辛さを痛いほど分かっていたし、生まれてこの方食事に困ったことのないアルバートにもそれは察せられた。
「補助教員が忙しく働いているのは知っているつもりだったが、ここまで待遇が悪いとは思ってなかったよ」
「貴族の子弟にとってはお小遣い程度の金額でも、ハザリーさんにとっては喉から手が出るほどほしいお金だったというわけですね」
「そう思うと、仕事を無くしてしまったのは、何だかお気の毒ですね……」
ルイスが顔を曇らせた。
アルバートはこの数日のうちに、ハザリーの『顧客』だった生徒を何人か捕まえて証言を集めた。中には彼の事情を知っていて、カンパのつもりで品物を買っていた生徒もいたのだ。
「先生方には、寛大な処分をなさるようお願いしてはみたのだけれど……。問題を起こしてしまった以上このまま雇い続けるのは難しい、というのが結論だった」
肩を落とすアルバートに、ウィリアムは「大丈夫です」と微笑んだ。
「ハザリーさんは、ここの下宿を引き払った後、一人の男に出会うでしょう」
「男?」
「はい。まだ若いけれどどこか疲れ切った顔をした、片手のない傷痍軍人です。路地に力なく座り込んだ彼はハザリーさんに頼みごとをます。『煙草を一本もらえないか』と。もしハザリーさんが親切な対応をするのであれば、喜んだその男が意外なツテを使って彼に仕事を紹介してくれるでしょう」
アルバートとルイスは顔を見合わせた。片手のない元軍人、と言われれば、それが誰かは聞くまでもない。
「……あの人は、煙草をもらえるまで付きまといそうだな」
少しの沈黙の後、しつこく煙草をねだる大男の姿を想像して三人はくすくすと笑い声をあげた。
根は人情に厚いモランのことだから、きっとハザリーがこのささやかなテストを合格するまで粘るだろう。もし彼が煙草を持っていなければ、代わりに小銭や飴玉を要求するかもしれない。
「とある画廊で、ちょうど雑用係を探しているそうだったので。もちろん雑用係と言っても、芸術を見る目があるに越したことはありません。ハザリーさんにとっても申し分ない再就職先でしょう」
「まったく、手回しのいいことだね」
アルバートが肩を竦めてみせると、ウィリアムは控えめに、けれど誇らしそうに笑った。
「さて、ナッシュビル兄弟の件もハザリーさんの件も丸く収まったことだし……僕らの相談役に報酬をお支払いしないといけないね」
いたずらっぽく笑いながら、アルバートは懐から折りたたまれた紙切れを取り出した。
両手で恭しく差し出すと、ウィリアムはそれが何なのか予想がついたらしくにこにこと笑いながら受け取った。紙切れを丁寧に広げてみて、ますます笑みを深くする。
すると当然、ルイスもその紙に何が書かれているのか気になったようだ。
その紙切れは分厚くざらついていて、片側に小さな丸い穴が並んでいて、ちょうどスケッチブックから破り取ったページに似ている。何かを勘づいたらしいルイスは、身を乗り出して兄の持つ紙切れを横からのぞき込んだ。
「なっ……どうして兄様がこれを持っているのですか!?」
彼の予想通り、アルバートがウィリアムに渡したのは先日ジョセフがルイスをモデルに描いた絵だった。
絵の中のルイスは描き手の方をまっすぐ見つめ返すのを恥ずかしがったのか、頬の火傷を描かれるのを嫌ったのか、心持ち右を向いて椅子に腰掛けている。『王の学徒』の証たる黒いローブは彼の身体にはまだ少しだけ大きく、首筋や手首は頼りないほどほっそりして見えた。
顔を真っ赤にするルイスが可笑しくて、アルバートはくすくすと笑った。
「フィンレーの部屋を訪ねて、弟に名乗り出るよう話してみたんだ。もちろん、ハザリーさんの件は伏せてね。『どうしてそれを知っているんだ』と慌てていたけれど、この絵に描かれているのが誰なのかを教えてあげると納得してくれたよ」
快く、とまではいかなかったが、経緯を説明するとフィンレーは絵を譲ってくれた。「弟に謝っておくよ。君の弟にもよろしく」と眉を下げて笑いながら。
「フフ、そっけない表情のルイスは何だか懐かしいな」
「ほんとうに良く描けていますね。少し緊張して顔が強張っているのが伝わってきます。兄さん、額縁を買いに行きましょう」
「それはいい。肖像画なんて見栄のためだけのものだと思っていたが……彼にカンバスと画材一式を進呈して本格的に描いてもらうのもいいかもしれないな」
「兄さん! 兄様まで!」
ルイスが珍しく慌てるので、二人の兄はますます可笑しくなった。
額に入れて飾るアイデアはルイスによって阻止されたが、この絵は今でもウィリアムの手帳に挟まれている。折り畳まれたぶ厚い紙は少しばかり嵩張ったが、今のところ手放す気は無い様だった。
初出:Pixiv 2023.08.20
とある兄弟の話 前編
イートン校時代、ウィリアムが安楽椅子探偵っぽいことをする話。
終業時間を告げる鐘が鳴った。
授業を終えたアルバートは、声を掛けてくる級友たちを振り切って、急ぎ足で寮の部屋に戻った。貴族の子弟が集うここイートン・パブリックにおいて、次期伯爵家当主が人付き合いを疎かにするわけにはいかなかったが、今日の彼には何よりも優先すべき先約がある。
下級生の一団が、黒いガウンをひらめかせながら颯爽と歩くアルバートの姿を畏敬の念を込めた眼差しで見送った。模範的な優等生である彼が階段を一段飛ばしで駆け上がりたい衝動をぐっと堪えているとは、つゆとも思っていないだろう。
ようやく寮の自室にたどり着くと、すでにルイスが待っていた。
「兄様、おかえりなさい」
「早かったね、ルイス。待たせてしまったかな」
「いいえ。まだお茶の準備も終わっていません」
ちょうど茶葉を蒸らし始めたところだったらしい。砂時計をひっくり返しながら、ルイスは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
弟に召使いのような真似をさせるつもりはアルバートにはさらさら無かったが、アルバートは「ありがとう」と礼だけ言って微笑んだ。何かにつけて兄二人の役に立ちたがる、一生懸命なその様子はとても好ましい。
「兄様にお時間を取っていただくのですから、この位当たり前です」
「ふふ、今日は史学の小論文だったかな」
テーブルの端には、ルイスが持ってきたと思しきテキストと紙束が積まれていた。兄たちと同じく入学試験を首席で突破し『王の学徒』に選ばれたルイスであったが、まとまった文章を組み立てることは少々苦手としていた。入学以前から作文の添削をしてやっていた名残りで、今もこうしてアルバートを頼ってやってくるのだ。
ルイスは淹れたての紅茶を恭しく差し出すと、アルバートの向かいに腰を下ろして「よろしくお願いします」とお辞儀した。
小一時間ほどで、弟の論文は申し分ない出来に仕上がった。ルイスはでき上がった文章を読み返して、「ありがとうございます」と満足気に顔を綻ばせる。
アルバートに言わせれば、骨子はすでに組み上げられていたのだから、自分は体裁を整えるのを手伝っただけだ。
「学校にはもう慣れたかい?」
「はい、お陰様で」
「それはよかった。何か困ったことがあったら、すぐに私かウィリアムに言うんだよ」
そう口にしてから、過保護すぎたかと思ったが、当のルイスは頬を赤らめてはにかみながら頷いた。その様子にアルバートも少し安心する。
「あ、アルバート兄様。あの……」
ルイスは視線を彷徨わせ、体の前で組んだ指をもじもじと動かした。単に照れているというより、何か迷っているような動きだった。
アルバートは急かさずに、弟の顔をまっすぐに見返しながら言葉の続きを待った。
「あの、アルバート兄様にお聞きしたいことがあります」
「何だい? 話してごらん」
アルバートは柔らかい声で促した。
ウィリアムと違って、末のルイスはまだアルバートに対してどこか遠慮している節がある。こうして勉強をみてほしいと頼んでくることはままあるけれど、実の兄弟ゆえの気易さからか、何かあったときはまずウィリアムを頼ることの方が多い。
そんなルイスがもう一人の兄として自分を頼ってくれている状況に、アルバートは知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。「ええっと」ルイスは揃えた膝の上で拳を握った。
「アルバート兄様は、何故、僕に優しくしてくださるのでしょうか?」
弟の口から飛び出した質問に、アルバートは思わず眉間にしわを寄せた。
「……誰かに何か言われたのかい?」
伯爵家の人間とはいえ、血の繋がりのない養子の末弟となれば好奇の目は避けられない。加えて、非の打ち所のない優等生のアルバートと、飛び級ですでに卒業目前と噂されているウィリアムは学内で有名すぎた。 ルイスが不当な扱いを受けないよう、彼が入学するまでに摘める芽は摘んで(もしくは潰して)おいた。こうしてなるべく一緒に過ごす時間を作っているのも、牽制という目的も少なからずあった。この子に手を出せば承知しないぞ、と。
そうした兄たちの暗躍もあってか、ルイスは周囲から多少遠巻きにされながらも穏やかに学生生活を送っているように見えた。
それなのに、彼の口からこんな質問が飛び出したのは、一体どういうことか。近頃は教師の目を盗んでギャンブルの真似事に興じたり、どうやって持ち込んだのか隠れて酒を飲む輩がいるとの噂もある。もしそういった連中にルイスが絡まれているのだとしたら、どうしてくれよう……。
一瞬のうちに様々な考えが頭の中を巡り、自分が思っていた以上に硬い表情をしてしまっていたようだ。ぱっと顔を上げて兄の顔を見たルイスは慌てたようにぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ、陰口を叩かれたとか、そういう訳ではありません」
「ならどうして?」
「その……クラスメイトに、僕と同じ養子の立場である人がいるのです」
「あぁ……」
アルバートには一人思い当たる人物がいた。
ジョセフ・ナッシュビル。
ナッシュビル子爵家現当主の妹夫婦が馬車の事故で亡くなったとかで、本家へ引き取られたという生徒だ。ジョセフの従兄であり嫡子であるフィンレー・ナッシュビルがアルバートと同学年であるため、その話を小耳に挟んだことがあった。
従兄――兄の方は主張の少ない温和な性格であったと記憶しているが、数えるほどにしか口を利いたことが無かったので、アルバートは何も言わずルイスの言葉の続きを待った。
「彼に訊かれたんです。血の繋がらない兄様たちとどうやって仲良くなったのか、と。数年前に子爵家に迎えてもらったものの、新しい家にうまく馴染めなくて悩んでいるようです。それで僕に相談を」
心無い言葉を投げつけられたわけではないことがわかり、アルバートは少し肩の力を抜いた。もう一度、努めて優しい声を出す。
「それで、ルイスは何と答えたんだい?」
「何も……答えられませんでした」
ルイスはますます顔を曇らせた。
「僕はウィリアム兄さんと違って何も特別なことはできません。僕が良くしていただいているのは、ただ兄様がお優しかったからです」
「……そう」
その答えが、アルバートは少しだけ寂しかった。
確かにウィリアムの類稀な頭脳に惹かれたことは事実であったが、アルバートは能力の多寡に関係なく、弟として彼とルイスを愛している。同じ想いを分かち合って、互いを尊重しあいながら側にいられる存在はアルバートにとって充分『特別』なのだ。
「……この件について、ルイスが彼にしてあげられることは何も無いよ」
率直な意見を述べると、ルイスはわかりやすく眉を下げた。
「アルバート兄様でも、難しいですか?」
「私?」
「兄様は、人と親しく付き合うのがお上手ですから」
「ありがとう。でも、表面上上手く付き合うことと、家族として打ち解けることはまるで別物だよ」
言いながら、アルバートは内心で自嘲した。これではまるで、最後まで肉親と分かりあえなかった自分自身への皮肉だ。
「こればかりは当人同士の問題だからね。他人がお節介を焼いて良い結果が得られるとは限らない」
「そう、ですね……」
「ただ、彼と彼のお兄さんの仲を取り持つのは難しくても、ルイスにできることが無いわけじゃない」
「本当ですか?」
「あぁ」とアルバートは頷いた。「彼の話を聞いて、仲良くしておやり。彼はきっと、よく似た立場にあるルイスになら自分の気持ちを分かってもらえると考えて、相談してくれたんだろう? ルイスが話を聞いて共感を示してあげればそれだけで気持ちがとても楽になるはずだし、前向きに行動するきっかけを与えられるかもしれないよ」
他人の思考や行動を思い通りに操ることは、普通の人間にはできない。たとえできたとしても、いずれ何処かで綻びが生じてしまうだろう。
けれど、その心に寄り添うだけであれば、ほんの少しの想像力と思いやりさえ持ち合わせていれば、そう難しくはないはずだ。
ルイスは兄の言葉をゆっくりと反芻して、やがて表情を明るくしながら頷いた。
その表情に、アルバートは密かに胸をなで下ろす。心の距離を一足飛びに縮めてしまう魔法の言葉があるのなら、アルバート自身が知りたいくらいだ。
しかしまぁ、他ならぬルイスの友人であるのなら、気に留めておいて然るべきだろう。二杯目の紅茶をすすりながら、アルバートは思案した。
*
それから数日後の、昼休憩の時間だった。
昼食を終えたウィリアムは、午後の授業が始まる前に図書室にでも行こうか、と考えながら廊下をぶらぶらと歩いていた。
と、そこに、背後から声がかかる。
「ウィリアム兄さん」
振り返ると、教員に見咎められない程度の速度でルイスがこちらに駆け寄ってくるところだった。
「ああ、よかった。食堂にもいらっしゃらなかったから」
「ごめんね、探してくれていたの?」
「いえ、僕の勝手な用事でお探ししていただけで……。あの、少しお時間をいただけますか?」
「もちろん、構わないよ。ジョセフ・ナッシュビルの件かな?」
どうやら当たりだったようで、ルイスは「えっ」と声を上げた。
「どうして、そのことを……」
「簡単なことだよ。そのスケッチブックはルイスのものじゃないだろう? それなら、絵の得意な君の友だちのものかなって」
胸に抱えたスケッチブックを指さされ、ルイスの瞳が驚きと尊敬の色に輝く。今よりずっと幼い頃から変わらないその眼差しに、ウィリアムはほんの少し得意になって胸を反らした。
「……あれ? 僕、兄さんにジョセフのことを話しましたっけ」
尋ねられて、ウィリアムは内心でほんの少し焦った。
「あぁ……彼のご両親のことを、前に新聞で読んで覚えていたんだ。だから、ルイスと同じクラスになったことは知っていたよ」
「兄さんの記憶力はすごいですね」
何食わぬ顔で答えるとルイスは納得したようだったが、実際は先日アルバートから話を聞いていたのだ。どうやらルイスに友達ができたらしい、と。
それなら僕にも話してほしかった、という子供っぽい焼きもちのせいで、つい先走ってしまった。らしくない失敗にウィリアムはこっそりと自嘲した。
二人は中庭の隅のベンチに場所を移した。
人に聞かれたくない話であるならどちらかの部屋に移動すれば良かったのだが、ルイスは寮までの移動時間を惜しんだ。聞けば、友人が教師に用事を言いつけられたタイミングを見計らってスケッチブックを拝借してウィリアムのもとにやって来たらしい。
寒さは徐々にやわらぎ始めたとはいえ、まだまだ冷えることには変わりない。
「寒くない? ルイス」
「大丈夫です。……まずは、これを見てください」
ベンチに腰を落ち着けると、ルイスはスケッチブックをウィリアムに手渡した。何気なくページをめくって、ウィリアムは目を瞬かせた。
「これもそのジョセフが描いたのかい? ずいぶん上手だね」
「はい、美術の成績もとても良いんです」
ウィリアムは芸術にさほど興味があるわけではない。それでも、学生が描いたにしては申し分ない絵だと素直に感心した。黒々とした鉛筆画ながら、林檎のみずみずしい張りや、磨かれた陶器のつやが伝わってくるような生き生きとしたスケッチだった。
「彼は美術クラブにでも入っているのかな」
「いいえ。クラブには入っていませんし、授業以外では指導を受けたことも無いそうです」
「じゃあ全くの趣味なんだね。それはますますすごいな。きちんとした先生のもとで教われば、もっと上手くなれるだろうに」
「兄さんもご存知の通り、ジョセフは子爵家の傍系で……子爵家に引き取られたのですが、義理の両親や兄さんに迷惑をかけないように、卒業したら早く仕事に就いて独立しなければならないといつも言っています。だから絵を描くのはあくまで遊びだと」
「そう、もったいないな……で、ルイスは彼に絵のモデルを頼まれでもしたのかい?」
「えっ」
またしても言いたかった事をピタリと言い当てられ、ルイスは瞳が零れ落ちそうなほど目を見開いた。
「どうしてわかったんですか?」
「ふふ、だって僕に相談事があったんでしょ? ジョセフが絵を描くことに関係していて、ルイスが困るようなことといったらそれくらいしか思いつかないよ」
「うう……確かに、僕はジョセフに絵のモデルを頼まれました。でも、事情はもっと複雑なんです。だから、兄さんのお知恵をお借りしたくて」
「へぇ、それはどんなふうに?」
ルイスの説明はこうだ。
クリスマス休暇が明けた最初の美術の授業のときだった。
ジョセフは授業用のスケッチブックと間違えて、今ウィリアムが眺めている私用のスケッチブックを持ってきてしまった。幸いその日は講義だけで終わったのでスケッチブックを使わずに済んだが、迂闊なことに彼はそれを美術教室に忘れてきてしまった。授業で使った画集の片付けを教員に命じられた際、一緒に備品棚に入れてしまったのだ。
ジョセフは教室を出てすぐ忘れ物に気付いたが、次の授業があったので取りに戻ることができなかった。放課後も美術クラブの活動があって何となく立ち入りづらく、結局彼がスケッチブックを回収できたのは翌朝のことだった。
「そして、部屋に戻ってスケッチブックを開くとこんな書き込みがあったんです」
ルイスは横から手を伸ばして、スケッチブックをめくった。 ジョセフは右利きらしく、右側のページにだけ絵が描かれている。見開きの両側に鉛筆で絵を描けば、スケッチブックを閉じた際にページ同士が擦れて汚れてしまうからだろう。
しかし空白だったはずの左側のとあるページに、文字が書き込まれていた。
『とても上手だね』
青黒いインクで書かれた、流れるような筆記体だった。
「これは……誰かが備品棚に紛れ込んだスケッチブックを見つけて書き込んだのかな?」
「はい、おそらく。ジョセフは気になって、翌々日の授業の折に、もう一度教室の備品棚にスケッチブックを滑り込ませました。この下の、『どうもありがとう。あなたは誰ですか?』というのはジョセフが書いたものです」
「で、さらにその下が相手からの返事か」
鉛筆書きのジョセフの文字の下に、同じ筆跡で書き込みがある。
『それは秘密です。それより、ジョセフ、もっと君の絵を見せてくれませんか? 水曜日の昼休み、誰にも見つからないように、またこの棚にスケッチブックを入れてください。その時間であれば、美術室には誰もいません。僕は君が描いた礼拝堂の天使像が見てみたいです』
ウィリアムがそのメッセージを読んだことを確認して、ルイスが黙って次のページを捲る。
予想通り、天使像のスケッチが描かれていた。左側のページには、さらにメッセージのやり取りが続いている。
「こんな調子で、週に1度、正体不明の人物が絵のリクエストを出してくるようになって……。彼は毎週水曜日の昼休みになると、美術室へスケッチブックを持っていくようになりました」
「昼休みに、ね」
「はい。授業のついでに隠すと他の生徒や教員に見咎められる可能性があるので。休み時間に特別教室に立ち入ることは原則禁止されていますが、ここに書かれている通り、水曜日の昼休みは担当の教員が外しているので、美術室は無人になるんです」
「なるほど。となると、相手はそれ以降の時間帯にスケッチブックを回収しているのかな」
「おそらく。木曜日の朝一番に備品棚を覗くと、必ずスケッチブックに返事が書き込まれているそうです」
「そして、今週のリクエストは人物画だったわけだね」
「そうなんです」
「これは確かに妙だね」
ルイスはこくこくと一生懸命に頷いた。
「ジョセフにもそう言ったのですが、絵を褒めてくれる人が現れたことに舞い上がってしまっているようで、ちっとも聞いてくれないんです」
「それでルイスは断りきれずにいるんだね」
「友人は大切にしなさいと、兄様も仰っていましたし……」
ルイスは困り果てたように俯いてしまった。
ただの絵のモデルであれば彼も引き受けただろうが、その絵がどこの誰とも分からない者に見られるというのは何となく座りが悪い。
「つまりこれは『メッセージの送り主を特定してほしい』という、ルイスから僕への依頼だね?」
『依頼』という単語を強調しながら尋ねると、ルイスは目を輝かせてこくこくと頷いた。
であれば、完璧に解決せねばなるまい。
ウィリアムは一度スケッチブックを閉じると、表紙と裏表紙を改めた。兄が何を確かめようとしているのか、ルイスにはすぐに察しがついたようだった。
「おかしいでしょう? このスケッチブックにはどこにもジョセフの名前が書かれていないのに、向こうは二回目のメッセージの時点でこのスケッチブックが誰のものか分かっていたんです」
ウィリアムは頷いて同意を示した。
このスケッチブックはジョセフが個人的に使っていたものだから、どこにも持ち主の名前が書かれていない。絵の下はそれを書いたらしい日付だけは記されているが、サインは見当たらない。
それなのに、メッセージの送り主は二回目のメッセージでジョセフの名を呼んでいる。
「彼は美術の授業の時にこのスケッチブックを棚に隠していたんだよね。クラスの誰かに見られていた可能性は?」
「それはおそらくありません」
ルイスはきっぱりと断言した。
「どうしてそう思うの?」
「僕も同じように考えて、メッセージの筆跡を調べてみましたから。少なくとも僕らのクラスの生徒には、同じ筆跡の者がいないことが確認できました」
「そこまでやったのかい、ルイス?」
「当番が回ってきたときにクラス全員分のレポートを集めましたので、その時に」
「なるほど。じゃあ、ジョセフがスケッチブックを忘れていった場面を、一緒に授業を受けていたクラスの誰かが見ていた線は消えたわけだね」
「はい。ですが、さすがに他の学年の生徒の筆跡までは調べられなくて……」
「『同じクラスの誰かではなかった』という可能性さえ排除できれば十分だよ、ルイス。ヒントはすべてここにある」
ウィリアムはスケッチブックを丁寧に、今度は後ろから前へ逆上るようにめくっていった。
「ところでルイス、さっき僕が『このスケッチブックはルイスのものじゃない』って、どうしてわかったと思う?」
「え? それは……僕が持っているスケッチブックを兄さんが知っていたからでは? 僕の入学前に、兄様と一緒に学用品を買い揃えるのに付き合って下さいましたから」
「そうだね。家族だからね」
「……?」
首を傾げるルイスを横目に見ながら、ウィリアムはさらにページをさかのぼり、初めてメッセージが書かれたページを通り過ぎてから手を止めた。
瓶の中に閉じ込められた帆船の絵が描かれている。
「これはボトルシップだね」
「ええ、クリスマスのプレゼントにご両親からもらったと聞きました」
さらにもう一ページさかのぼる。
「こっちはティーセットだ。細かい絵柄までよく描けてるね」
「はい……」
相槌を打ちながら疑問符を浮かべるルイス。「この絵がどうかしたのですか」とその顔に書かれているようで、ウィリアムは小さく微笑んだ。
「この二枚の絵が描かれた日付を見てごらん」
「ええっと……ティーセットの絵が十二月二十三日。ボトルシップの絵が、その二日後の二十五日ですね」
そう答えてから、ルイスは「あっ」と声を上げた。
「気づいたかな。この二枚はクリスマス休暇中に、おそらくは彼の実家で描かれた絵なんだ。彼もクリスマスは実家で過ごしたんだろう? となれば、これがジョセフのスケッチブックだと断定することができた者がこの学校内に一人だけいた事になるね」
「家族なら同じティーセットを使うのは当たり前で、クリスマスプレゼントに何を貰ったのかも当然知っている……」
「そう。『家族だから』ね。つまりメッセージの送り主はジョセフの兄、フィンレー・ナッシュビルだ」
「絵そのものがヒントだったんですね。こんなに簡単に当ててしまうなんてさすがです、兄さん」
「ルイスが、僕がほしい情報を用意してくれていたお陰だよ」
兄の推理に感心しながらも、けれどルイスにはまだ腑に落ちない事があるようだった。
「でも、ジョセフのお兄さんはどうしてこんな回りくどいことをしたのでしょう? 絵を褒めたいなら本人に直接言えばいいのに」
「さぁ。それは本人に聞いてみないとわからないね。……でも、このスケッチブックを見れば分かることもある」
ウィリアムは、兄弟のやり取りが書かれたページを指先でなぞった。
「ジョセフのお兄さんからのメッセージは、すべてインクで書かれているね。文字が灰色がかっているのは吸い取り紙を使ったからだ。鉛筆だと擦れて隣のページの絵を汚してしまうこともあるけれど、インクなら一度乾いてしまえばその心配もない。それにほら、ここ」
ウィリアムがとあるページの隅を指差した。爪の先ほどの短い斜線が何本か走っている。
「インクが裏抜けしないか、確かめた跡……?」
ルイスの推理に、ウィリアムは微笑みながら頷いた。
「そう。彼はジョセフの絵を汚してしまわないように、最大限の配慮をしてくれていた。つまり、少なくとも悪戯としてこんなことをしたわけじゃない。ジョセフの絵が好きだという言葉は本物だと思うよ」
「そうですね。僕、ジョセフに話してみます。……あ、もしかして、ジョセフも薄々気が付いていたのでしょうか?」
「そうかもしれないね。ともあれ、これをきっかけに仲良くできるといいね」
ウィリアムはスケッチブックを閉じて、ルイスに返した。
「モデルの件、受けてあげる気になったかい?」
「うーん、そう……ですね」
まだどこか恥ずかしそうだったけれど、ルイスは頷いた。
弟に気のおけない友だちができれば、兄は喜ぶものだ。
「ところでルイス、もう一つ聞いていい?」
もうすぐ休憩時間の終わりを告げる鐘が鳴る。
礼を言って教室に戻ろうとするルイスを、ウィリアムは呼び止めた。
「ジョセフの部屋は、寮の東側の二階かな?」
初出:Pixiv 2023.08.20
イートン校時代、ウィリアムが安楽椅子探偵っぽいことをする話。
終業時間を告げる鐘が鳴った。
授業を終えたアルバートは、声を掛けてくる級友たちを振り切って、急ぎ足で寮の部屋に戻った。貴族の子弟が集うここイートン・パブリックにおいて、次期伯爵家当主が人付き合いを疎かにするわけにはいかなかったが、今日の彼には何よりも優先すべき先約がある。
下級生の一団が、黒いガウンをひらめかせながら颯爽と歩くアルバートの姿を畏敬の念を込めた眼差しで見送った。模範的な優等生である彼が階段を一段飛ばしで駆け上がりたい衝動をぐっと堪えているとは、つゆとも思っていないだろう。
ようやく寮の自室にたどり着くと、すでにルイスが待っていた。
「兄様、おかえりなさい」
「早かったね、ルイス。待たせてしまったかな」
「いいえ。まだお茶の準備も終わっていません」
ちょうど茶葉を蒸らし始めたところだったらしい。砂時計をひっくり返しながら、ルイスは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
弟に召使いのような真似をさせるつもりはアルバートにはさらさら無かったが、アルバートは「ありがとう」と礼だけ言って微笑んだ。何かにつけて兄二人の役に立ちたがる、一生懸命なその様子はとても好ましい。
「兄様にお時間を取っていただくのですから、この位当たり前です」
「ふふ、今日は史学の小論文だったかな」
テーブルの端には、ルイスが持ってきたと思しきテキストと紙束が積まれていた。兄たちと同じく入学試験を首席で突破し『王の学徒』に選ばれたルイスであったが、まとまった文章を組み立てることは少々苦手としていた。入学以前から作文の添削をしてやっていた名残りで、今もこうしてアルバートを頼ってやってくるのだ。
ルイスは淹れたての紅茶を恭しく差し出すと、アルバートの向かいに腰を下ろして「よろしくお願いします」とお辞儀した。
小一時間ほどで、弟の論文は申し分ない出来に仕上がった。ルイスはでき上がった文章を読み返して、「ありがとうございます」と満足気に顔を綻ばせる。
アルバートに言わせれば、骨子はすでに組み上げられていたのだから、自分は体裁を整えるのを手伝っただけだ。
「学校にはもう慣れたかい?」
「はい、お陰様で」
「それはよかった。何か困ったことがあったら、すぐに私かウィリアムに言うんだよ」
そう口にしてから、過保護すぎたかと思ったが、当のルイスは頬を赤らめてはにかみながら頷いた。その様子にアルバートも少し安心する。
「あ、アルバート兄様。あの……」
ルイスは視線を彷徨わせ、体の前で組んだ指をもじもじと動かした。単に照れているというより、何か迷っているような動きだった。
アルバートは急かさずに、弟の顔をまっすぐに見返しながら言葉の続きを待った。
「あの、アルバート兄様にお聞きしたいことがあります」
「何だい? 話してごらん」
アルバートは柔らかい声で促した。
ウィリアムと違って、末のルイスはまだアルバートに対してどこか遠慮している節がある。こうして勉強をみてほしいと頼んでくることはままあるけれど、実の兄弟ゆえの気易さからか、何かあったときはまずウィリアムを頼ることの方が多い。
そんなルイスがもう一人の兄として自分を頼ってくれている状況に、アルバートは知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。「ええっと」ルイスは揃えた膝の上で拳を握った。
「アルバート兄様は、何故、僕に優しくしてくださるのでしょうか?」
弟の口から飛び出した質問に、アルバートは思わず眉間にしわを寄せた。
「……誰かに何か言われたのかい?」
伯爵家の人間とはいえ、血の繋がりのない養子の末弟となれば好奇の目は避けられない。加えて、非の打ち所のない優等生のアルバートと、飛び級ですでに卒業目前と噂されているウィリアムは学内で有名すぎた。 ルイスが不当な扱いを受けないよう、彼が入学するまでに摘める芽は摘んで(もしくは潰して)おいた。こうしてなるべく一緒に過ごす時間を作っているのも、牽制という目的も少なからずあった。この子に手を出せば承知しないぞ、と。
そうした兄たちの暗躍もあってか、ルイスは周囲から多少遠巻きにされながらも穏やかに学生生活を送っているように見えた。
それなのに、彼の口からこんな質問が飛び出したのは、一体どういうことか。近頃は教師の目を盗んでギャンブルの真似事に興じたり、どうやって持ち込んだのか隠れて酒を飲む輩がいるとの噂もある。もしそういった連中にルイスが絡まれているのだとしたら、どうしてくれよう……。
一瞬のうちに様々な考えが頭の中を巡り、自分が思っていた以上に硬い表情をしてしまっていたようだ。ぱっと顔を上げて兄の顔を見たルイスは慌てたようにぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ、陰口を叩かれたとか、そういう訳ではありません」
「ならどうして?」
「その……クラスメイトに、僕と同じ養子の立場である人がいるのです」
「あぁ……」
アルバートには一人思い当たる人物がいた。
ジョセフ・ナッシュビル。
ナッシュビル子爵家現当主の妹夫婦が馬車の事故で亡くなったとかで、本家へ引き取られたという生徒だ。ジョセフの従兄であり嫡子であるフィンレー・ナッシュビルがアルバートと同学年であるため、その話を小耳に挟んだことがあった。
従兄――兄の方は主張の少ない温和な性格であったと記憶しているが、数えるほどにしか口を利いたことが無かったので、アルバートは何も言わずルイスの言葉の続きを待った。
「彼に訊かれたんです。血の繋がらない兄様たちとどうやって仲良くなったのか、と。数年前に子爵家に迎えてもらったものの、新しい家にうまく馴染めなくて悩んでいるようです。それで僕に相談を」
心無い言葉を投げつけられたわけではないことがわかり、アルバートは少し肩の力を抜いた。もう一度、努めて優しい声を出す。
「それで、ルイスは何と答えたんだい?」
「何も……答えられませんでした」
ルイスはますます顔を曇らせた。
「僕はウィリアム兄さんと違って何も特別なことはできません。僕が良くしていただいているのは、ただ兄様がお優しかったからです」
「……そう」
その答えが、アルバートは少しだけ寂しかった。
確かにウィリアムの類稀な頭脳に惹かれたことは事実であったが、アルバートは能力の多寡に関係なく、弟として彼とルイスを愛している。同じ想いを分かち合って、互いを尊重しあいながら側にいられる存在はアルバートにとって充分『特別』なのだ。
「……この件について、ルイスが彼にしてあげられることは何も無いよ」
率直な意見を述べると、ルイスはわかりやすく眉を下げた。
「アルバート兄様でも、難しいですか?」
「私?」
「兄様は、人と親しく付き合うのがお上手ですから」
「ありがとう。でも、表面上上手く付き合うことと、家族として打ち解けることはまるで別物だよ」
言いながら、アルバートは内心で自嘲した。これではまるで、最後まで肉親と分かりあえなかった自分自身への皮肉だ。
「こればかりは当人同士の問題だからね。他人がお節介を焼いて良い結果が得られるとは限らない」
「そう、ですね……」
「ただ、彼と彼のお兄さんの仲を取り持つのは難しくても、ルイスにできることが無いわけじゃない」
「本当ですか?」
「あぁ」とアルバートは頷いた。「彼の話を聞いて、仲良くしておやり。彼はきっと、よく似た立場にあるルイスになら自分の気持ちを分かってもらえると考えて、相談してくれたんだろう? ルイスが話を聞いて共感を示してあげればそれだけで気持ちがとても楽になるはずだし、前向きに行動するきっかけを与えられるかもしれないよ」
他人の思考や行動を思い通りに操ることは、普通の人間にはできない。たとえできたとしても、いずれ何処かで綻びが生じてしまうだろう。
けれど、その心に寄り添うだけであれば、ほんの少しの想像力と思いやりさえ持ち合わせていれば、そう難しくはないはずだ。
ルイスは兄の言葉をゆっくりと反芻して、やがて表情を明るくしながら頷いた。
その表情に、アルバートは密かに胸をなで下ろす。心の距離を一足飛びに縮めてしまう魔法の言葉があるのなら、アルバート自身が知りたいくらいだ。
しかしまぁ、他ならぬルイスの友人であるのなら、気に留めておいて然るべきだろう。二杯目の紅茶をすすりながら、アルバートは思案した。
*
それから数日後の、昼休憩の時間だった。
昼食を終えたウィリアムは、午後の授業が始まる前に図書室にでも行こうか、と考えながら廊下をぶらぶらと歩いていた。
と、そこに、背後から声がかかる。
「ウィリアム兄さん」
振り返ると、教員に見咎められない程度の速度でルイスがこちらに駆け寄ってくるところだった。
「ああ、よかった。食堂にもいらっしゃらなかったから」
「ごめんね、探してくれていたの?」
「いえ、僕の勝手な用事でお探ししていただけで……。あの、少しお時間をいただけますか?」
「もちろん、構わないよ。ジョセフ・ナッシュビルの件かな?」
どうやら当たりだったようで、ルイスは「えっ」と声を上げた。
「どうして、そのことを……」
「簡単なことだよ。そのスケッチブックはルイスのものじゃないだろう? それなら、絵の得意な君の友だちのものかなって」
胸に抱えたスケッチブックを指さされ、ルイスの瞳が驚きと尊敬の色に輝く。今よりずっと幼い頃から変わらないその眼差しに、ウィリアムはほんの少し得意になって胸を反らした。
「……あれ? 僕、兄さんにジョセフのことを話しましたっけ」
尋ねられて、ウィリアムは内心でほんの少し焦った。
「あぁ……彼のご両親のことを、前に新聞で読んで覚えていたんだ。だから、ルイスと同じクラスになったことは知っていたよ」
「兄さんの記憶力はすごいですね」
何食わぬ顔で答えるとルイスは納得したようだったが、実際は先日アルバートから話を聞いていたのだ。どうやらルイスに友達ができたらしい、と。
それなら僕にも話してほしかった、という子供っぽい焼きもちのせいで、つい先走ってしまった。らしくない失敗にウィリアムはこっそりと自嘲した。
二人は中庭の隅のベンチに場所を移した。
人に聞かれたくない話であるならどちらかの部屋に移動すれば良かったのだが、ルイスは寮までの移動時間を惜しんだ。聞けば、友人が教師に用事を言いつけられたタイミングを見計らってスケッチブックを拝借してウィリアムのもとにやって来たらしい。
寒さは徐々にやわらぎ始めたとはいえ、まだまだ冷えることには変わりない。
「寒くない? ルイス」
「大丈夫です。……まずは、これを見てください」
ベンチに腰を落ち着けると、ルイスはスケッチブックをウィリアムに手渡した。何気なくページをめくって、ウィリアムは目を瞬かせた。
「これもそのジョセフが描いたのかい? ずいぶん上手だね」
「はい、美術の成績もとても良いんです」
ウィリアムは芸術にさほど興味があるわけではない。それでも、学生が描いたにしては申し分ない絵だと素直に感心した。黒々とした鉛筆画ながら、林檎のみずみずしい張りや、磨かれた陶器のつやが伝わってくるような生き生きとしたスケッチだった。
「彼は美術クラブにでも入っているのかな」
「いいえ。クラブには入っていませんし、授業以外では指導を受けたことも無いそうです」
「じゃあ全くの趣味なんだね。それはますますすごいな。きちんとした先生のもとで教われば、もっと上手くなれるだろうに」
「兄さんもご存知の通り、ジョセフは子爵家の傍系で……子爵家に引き取られたのですが、義理の両親や兄さんに迷惑をかけないように、卒業したら早く仕事に就いて独立しなければならないといつも言っています。だから絵を描くのはあくまで遊びだと」
「そう、もったいないな……で、ルイスは彼に絵のモデルを頼まれでもしたのかい?」
「えっ」
またしても言いたかった事をピタリと言い当てられ、ルイスは瞳が零れ落ちそうなほど目を見開いた。
「どうしてわかったんですか?」
「ふふ、だって僕に相談事があったんでしょ? ジョセフが絵を描くことに関係していて、ルイスが困るようなことといったらそれくらいしか思いつかないよ」
「うう……確かに、僕はジョセフに絵のモデルを頼まれました。でも、事情はもっと複雑なんです。だから、兄さんのお知恵をお借りしたくて」
「へぇ、それはどんなふうに?」
ルイスの説明はこうだ。
クリスマス休暇が明けた最初の美術の授業のときだった。
ジョセフは授業用のスケッチブックと間違えて、今ウィリアムが眺めている私用のスケッチブックを持ってきてしまった。幸いその日は講義だけで終わったのでスケッチブックを使わずに済んだが、迂闊なことに彼はそれを美術教室に忘れてきてしまった。授業で使った画集の片付けを教員に命じられた際、一緒に備品棚に入れてしまったのだ。
ジョセフは教室を出てすぐ忘れ物に気付いたが、次の授業があったので取りに戻ることができなかった。放課後も美術クラブの活動があって何となく立ち入りづらく、結局彼がスケッチブックを回収できたのは翌朝のことだった。
「そして、部屋に戻ってスケッチブックを開くとこんな書き込みがあったんです」
ルイスは横から手を伸ばして、スケッチブックをめくった。 ジョセフは右利きらしく、右側のページにだけ絵が描かれている。見開きの両側に鉛筆で絵を描けば、スケッチブックを閉じた際にページ同士が擦れて汚れてしまうからだろう。
しかし空白だったはずの左側のとあるページに、文字が書き込まれていた。
『とても上手だね』
青黒いインクで書かれた、流れるような筆記体だった。
「これは……誰かが備品棚に紛れ込んだスケッチブックを見つけて書き込んだのかな?」
「はい、おそらく。ジョセフは気になって、翌々日の授業の折に、もう一度教室の備品棚にスケッチブックを滑り込ませました。この下の、『どうもありがとう。あなたは誰ですか?』というのはジョセフが書いたものです」
「で、さらにその下が相手からの返事か」
鉛筆書きのジョセフの文字の下に、同じ筆跡で書き込みがある。
『それは秘密です。それより、ジョセフ、もっと君の絵を見せてくれませんか? 水曜日の昼休み、誰にも見つからないように、またこの棚にスケッチブックを入れてください。その時間であれば、美術室には誰もいません。僕は君が描いた礼拝堂の天使像が見てみたいです』
ウィリアムがそのメッセージを読んだことを確認して、ルイスが黙って次のページを捲る。
予想通り、天使像のスケッチが描かれていた。左側のページには、さらにメッセージのやり取りが続いている。
「こんな調子で、週に1度、正体不明の人物が絵のリクエストを出してくるようになって……。彼は毎週水曜日の昼休みになると、美術室へスケッチブックを持っていくようになりました」
「昼休みに、ね」
「はい。授業のついでに隠すと他の生徒や教員に見咎められる可能性があるので。休み時間に特別教室に立ち入ることは原則禁止されていますが、ここに書かれている通り、水曜日の昼休みは担当の教員が外しているので、美術室は無人になるんです」
「なるほど。となると、相手はそれ以降の時間帯にスケッチブックを回収しているのかな」
「おそらく。木曜日の朝一番に備品棚を覗くと、必ずスケッチブックに返事が書き込まれているそうです」
「そして、今週のリクエストは人物画だったわけだね」
「そうなんです」
「これは確かに妙だね」
ルイスはこくこくと一生懸命に頷いた。
「ジョセフにもそう言ったのですが、絵を褒めてくれる人が現れたことに舞い上がってしまっているようで、ちっとも聞いてくれないんです」
「それでルイスは断りきれずにいるんだね」
「友人は大切にしなさいと、兄様も仰っていましたし……」
ルイスは困り果てたように俯いてしまった。
ただの絵のモデルであれば彼も引き受けただろうが、その絵がどこの誰とも分からない者に見られるというのは何となく座りが悪い。
「つまりこれは『メッセージの送り主を特定してほしい』という、ルイスから僕への依頼だね?」
『依頼』という単語を強調しながら尋ねると、ルイスは目を輝かせてこくこくと頷いた。
であれば、完璧に解決せねばなるまい。
ウィリアムは一度スケッチブックを閉じると、表紙と裏表紙を改めた。兄が何を確かめようとしているのか、ルイスにはすぐに察しがついたようだった。
「おかしいでしょう? このスケッチブックにはどこにもジョセフの名前が書かれていないのに、向こうは二回目のメッセージの時点でこのスケッチブックが誰のものか分かっていたんです」
ウィリアムは頷いて同意を示した。
このスケッチブックはジョセフが個人的に使っていたものだから、どこにも持ち主の名前が書かれていない。絵の下はそれを書いたらしい日付だけは記されているが、サインは見当たらない。
それなのに、メッセージの送り主は二回目のメッセージでジョセフの名を呼んでいる。
「彼は美術の授業の時にこのスケッチブックを棚に隠していたんだよね。クラスの誰かに見られていた可能性は?」
「それはおそらくありません」
ルイスはきっぱりと断言した。
「どうしてそう思うの?」
「僕も同じように考えて、メッセージの筆跡を調べてみましたから。少なくとも僕らのクラスの生徒には、同じ筆跡の者がいないことが確認できました」
「そこまでやったのかい、ルイス?」
「当番が回ってきたときにクラス全員分のレポートを集めましたので、その時に」
「なるほど。じゃあ、ジョセフがスケッチブックを忘れていった場面を、一緒に授業を受けていたクラスの誰かが見ていた線は消えたわけだね」
「はい。ですが、さすがに他の学年の生徒の筆跡までは調べられなくて……」
「『同じクラスの誰かではなかった』という可能性さえ排除できれば十分だよ、ルイス。ヒントはすべてここにある」
ウィリアムはスケッチブックを丁寧に、今度は後ろから前へ逆上るようにめくっていった。
「ところでルイス、さっき僕が『このスケッチブックはルイスのものじゃない』って、どうしてわかったと思う?」
「え? それは……僕が持っているスケッチブックを兄さんが知っていたからでは? 僕の入学前に、兄様と一緒に学用品を買い揃えるのに付き合って下さいましたから」
「そうだね。家族だからね」
「……?」
首を傾げるルイスを横目に見ながら、ウィリアムはさらにページをさかのぼり、初めてメッセージが書かれたページを通り過ぎてから手を止めた。
瓶の中に閉じ込められた帆船の絵が描かれている。
「これはボトルシップだね」
「ええ、クリスマスのプレゼントにご両親からもらったと聞きました」
さらにもう一ページさかのぼる。
「こっちはティーセットだ。細かい絵柄までよく描けてるね」
「はい……」
相槌を打ちながら疑問符を浮かべるルイス。「この絵がどうかしたのですか」とその顔に書かれているようで、ウィリアムは小さく微笑んだ。
「この二枚の絵が描かれた日付を見てごらん」
「ええっと……ティーセットの絵が十二月二十三日。ボトルシップの絵が、その二日後の二十五日ですね」
そう答えてから、ルイスは「あっ」と声を上げた。
「気づいたかな。この二枚はクリスマス休暇中に、おそらくは彼の実家で描かれた絵なんだ。彼もクリスマスは実家で過ごしたんだろう? となれば、これがジョセフのスケッチブックだと断定することができた者がこの学校内に一人だけいた事になるね」
「家族なら同じティーセットを使うのは当たり前で、クリスマスプレゼントに何を貰ったのかも当然知っている……」
「そう。『家族だから』ね。つまりメッセージの送り主はジョセフの兄、フィンレー・ナッシュビルだ」
「絵そのものがヒントだったんですね。こんなに簡単に当ててしまうなんてさすがです、兄さん」
「ルイスが、僕がほしい情報を用意してくれていたお陰だよ」
兄の推理に感心しながらも、けれどルイスにはまだ腑に落ちない事があるようだった。
「でも、ジョセフのお兄さんはどうしてこんな回りくどいことをしたのでしょう? 絵を褒めたいなら本人に直接言えばいいのに」
「さぁ。それは本人に聞いてみないとわからないね。……でも、このスケッチブックを見れば分かることもある」
ウィリアムは、兄弟のやり取りが書かれたページを指先でなぞった。
「ジョセフのお兄さんからのメッセージは、すべてインクで書かれているね。文字が灰色がかっているのは吸い取り紙を使ったからだ。鉛筆だと擦れて隣のページの絵を汚してしまうこともあるけれど、インクなら一度乾いてしまえばその心配もない。それにほら、ここ」
ウィリアムがとあるページの隅を指差した。爪の先ほどの短い斜線が何本か走っている。
「インクが裏抜けしないか、確かめた跡……?」
ルイスの推理に、ウィリアムは微笑みながら頷いた。
「そう。彼はジョセフの絵を汚してしまわないように、最大限の配慮をしてくれていた。つまり、少なくとも悪戯としてこんなことをしたわけじゃない。ジョセフの絵が好きだという言葉は本物だと思うよ」
「そうですね。僕、ジョセフに話してみます。……あ、もしかして、ジョセフも薄々気が付いていたのでしょうか?」
「そうかもしれないね。ともあれ、これをきっかけに仲良くできるといいね」
ウィリアムはスケッチブックを閉じて、ルイスに返した。
「モデルの件、受けてあげる気になったかい?」
「うーん、そう……ですね」
まだどこか恥ずかしそうだったけれど、ルイスは頷いた。
弟に気のおけない友だちができれば、兄は喜ぶものだ。
「ところでルイス、もう一つ聞いていい?」
もうすぐ休憩時間の終わりを告げる鐘が鳴る。
礼を言って教室に戻ろうとするルイスを、ウィリアムは呼び止めた。
「ジョセフの部屋は、寮の東側の二階かな?」
初出:Pixiv 2023.08.20
幸せをはこぶ
三年後、フレッドのお手伝いをする兄様の話。
「報告、以上です」
「ご苦労さま」
ルイスが机の上でとんとんと書類を整えながら、ちらりと柱時計を確認した。時刻は昼過ぎだ。
「今日はもう休むといい。昨日から働き通しだっただろう」
「はい。ありがとうございます」
素直に頭を下げると、ルイスは片眉を上げた。
「やけに聞き分けがいいな」
「休むように言ったの、ルイスさんじゃないですか。……薔薇の植え替えをしようと思って」
「休む気、無いな」
「僕なりの余暇の使い方です」
仕方ない、というふうにルイスが肩を竦めた。三年前からは考えられない、砕けたやり取りだった。
そのまま下がろうとするフレッドに、後ろから声がかかった。
「それなら、私が手伝おうか」
アルバートだった。にこにこと屈託のない表情で微笑んでいる。
固まっているフレッドを尻目に、彼は手に持っていた書類の束をルイスに差し出した。
「はい、ルイス。私が扱った過去の事件資料だ」
「ありがとうございます、アルバート兄さん」
「……で、どうかな。フレッド? 私はこの通り手すきだし、二人でやればその分早く終わると思うんだ」
「……っ」
アルバートに雑用を手伝わせるのか? ビルでの共同生活に関わる家事ですらない、個人の用事を?
判断に迷ってルイスに目配せしたが、彼は苦笑しながら書類に目を通している。自分で判断しろ、ということらしい。
執務室のドアがノックされた。
「ルイスくん、電話だよー」
「今行く」
扉の向こうからボンドのくぐもった声がした。呼ばれたルイスはさっと席を立って部屋を出ていってしまった。
残された二人に沈黙が下りる。
「…………」
「私では、役に立てないだろうか?」
「あ、いえ、あの……よろしくお願いします」
フレッドより頭ひとつ分は背の高い彼が子どものようにしおしおと項垂れてしまうものだから、つい承諾してしまった。
二人はまず倉庫へ向かった。
資材や備蓄に紛れて、園芸用品を置かせてもらっている一角がある。フレッドはそこから園芸用の土が入った袋と、鉢をふたつ引っ張り出した。鉢の中には、小さなシャベルと軍手、ビニールシート、肥料の入った袋を放り込んだ。
「えっと、今日は薔薇の植え替えをします。大きくなったから、ひと回り大きい鉢に移すんです」
「なるほど」
「薔薇の鉢は屋上に置いていますので……すみませんが、アルバート様、鉢の方をお願いします」
よいしょ、と声をかけながらフレッドが土の詰まった袋を持ち上げると、アルバートが気遣わしげな顔をした。
「大丈夫かい? 私がそっちを持とうか?」
「平気です。鉢も結構重たいので、気をつけてください」
「どれ。……本当だ」
二つ重ねた陶器の鉢を持ち上げてみて、アルバートは困ったように微笑んだ。
三年もの間、幽閉されていたのだ。当然筋力も衰えているだろう。少しだけ不安に思ったけれど、アルバートは存外しっかりとした足取りで立ち上がった。
とはいえ、荷物を抱えながら屋上までの階段を上るのはつらい。二人は踊り場で何度か休憩しつつ、アルバートのペースに合わせて階段を上った。
「……逞しくなったね、フレッド」
「いえ……」
「三年間、ルイスを支えてくれてありがとう」
「…………」
気恥ずかしくてどう答えていいか迷っているうちに、階段の一番上までたどり着いてしまった。フレッドは踊り場に一旦袋を下ろして、屋上に続くドアを開ける。
「どうぞ、アルバート様」
「それはもう止めてもらってもいいかな」
「え」
「私はもう、ただの『アルバート』だ」
鉢を抱えたアルバートが、薄暗い階段から陽の光が降り注ぐ屋上へ出る。一瞬だけ視界が眩んだ。
フレッドが土の袋を抱え直す間、今度はアルバートはドアを抑えて待ってくれていた。
「君とも対等……いや、ここでは君のほうが先輩だね。ボンドのように『アルくん』と呼んでくれても構わないよ」
「いえ……じゃあ、アルバート……さん、で」
しどろもどろに答えると、アルバートは満足そうに頷いた。
彼は今年で三十歳になると聞くが、その容色は少しも衰える様子がない。むしろ何の含みもなく微笑む姿には、あの頃にはない眩しさがあった。
身分とか血筋とかを抜きにしても、この人を前にして気後れせずにいられる人間なんているのだろうか。
屋上の一番日当たりの良い場所には、フレッドが管理している鉢植えが並べられている。直ぐそばに煙草の吸い殻が落ちているのを見つけて、アルバートは眉をしかめた。
「大佐だな? まったく……」
腹を立ててくれているアルバートには悪いが、その様子がフレッドには少し嬉しかった。
植え替えを行う薔薇は、皆でこのビルに移り住んでしばらくしてから植えたものだ。前の屋敷の薔薇は全滅だったから、花屋で新しく苗を買ってきた。それが今は、鉢が窮屈になるほど大きく育ったのだ。
そう思うと何だか感慨深い気がする。どうやってモランを懲らしめてやろうか思案しているアルバートが隣りにいることも。
周りを汚さないように、地面にビニールシートを広げた。
今日はまだ水やりはしていないから、土は乾いている。
薔薇の株はしっかりと育っている分、棘も固く鋭かった。手を傷つけてしまうかもしれないから、作業には軍手が必要だ。でも、爵位を返上したとはいえ生粋の貴族であるアルバートはこんなに粗い生地の手袋をはめたことはないだろう。肌がかぶれたりしないだろうか……。
そんなことを考えながらちらりとアルバートの方を見やると、彼は指先でそっと棘をつついていた。
「アルバート様!」
「大丈夫だよ。血は出ていない」
ほら、と差し出された指先には、赤い痕があるだけで確かに血は滲んでいない。とはいえ危なっかしい。怪我でもさせてしまったらルイスに何と申し開きしたらよいのだろう。
「すまないね。珍しくて、つい」
「珍しいって……」
「私の手元に届く薔薇は、いつも君や誰かが棘を取り除いてくれていたから」
「アルバート様……」
「『さん』だ。フレッド」
「アルバート……さん」
「心配してくれてありがとう、フレッド。君は本当に優しい子だね」
彼はまたおっとりとした調子で微笑んだ。それから手渡された軍手をはめて、ざらざらとした触感すら物珍しそうに手を擦り合わせている。
「……僕が優しいのなら……それは、アルバートさんたちのお陰です」
物心ついたときから一人だった。
親も兄弟もなく、自分以外は誰も信用できなかった。その日食べるもののことだけを考えて過して、誰にも見つかりませんようにと祈りながらごみ捨て場に隠れて眠った。自分のことだけを考えて生きていた。
モリアーティ家に拾われて初めて、誰かに優しくできる自分を知った。花を美しいと思い、猫を可愛いと感じた。
「僕が優しい人でいられるのは、ただ皆さんにしてもらったことを返しているからです」
「……そうか」
フレッドは黙ったまま頷き返して、鉢植えをそっとビニールシートの上に倒した。葉や茎を傷めないように手で抑えながら、土ごと鉢の中から抜き出す。
アルバートも丁寧な手つきでそれに倣った。
それから大きい鉢の底に石を敷いて、新しい土をつぎ足して、薔薇の株を中心に植える。新しく広々とした鉢に引っ越した薔薇は、下ろしたてのドレスにいそいそと袖を通したご令嬢のように、どこか誇らしげに見えた。どこからか「お水はまだ?」という声が聞こえてきそうだ。
フレッドは葉についていた土を払った。
「ありがとうございました、アルバートさん。あとはシートと溢れた土を片付けて、水やりをして、肥料を……」
「フレッド、フレッド」
アルバートが遮るようにフレッドを呼んだ。
滅多に聞かない早口で、二回も。今度こそ棘で手を刺してしまったかと思って、片付けの手を一旦止めて急いで彼の方へ寄った。
「どうされました?」
「テントウムシだ」
「は」
アルバートが指し示す先に、ころんと丸いちいさな虫がいた。植え替えたばかりの薔薇の白い花びらの上で、特徴的な赤と黒の水玉模様が鮮やかな存在感を放っている。
「……テントウムシ、ですね」
少し脱力しながら繰り返すと、アルバートはテントウムシをじっと見つめながら顔を綻ばせた。
「生きているのは初めて見たよ」
「そうなんですか?」
「ああ」
頷いた横顔は、新しい発見に胸を躍らせるちいさな子どものようだった。
かつて社交界の花と呼ばれ、裏では女王陛下直属の諜報部隊を束ねたほどの人物が、今は地べたに膝をつき、軍手をはめたままちいさな虫一匹に目を輝かせている。
「こんなに小さいんだね」
ため息のような呟きだった。テントウムシを驚かせてしまわないように気遣っているのだろうか?
「……テントウムシは、花や作物につく悪い虫を食べてくれるんです。幸せを運ぶ虫とも言われていますね」
「そうなのか」とアルバートはテントウムシから目を離さないまま頷いた。「昔、母がテントウムシのブローチを付けていたよ。お守りでもあったんだね」
そう話してから、アルバートは目を見開いた。彼の口から『家族』の話を聞くのは、フレッドには初めてのことだった。
彼自身、言うつもりもなかったのだろう。口をついて出てしまった昔話に自分でも驚いているようだった。
フレッドは軍手を外して、花びらの上のテントウムシへそっと手を伸ばした。ちょいちょいと花びらを揺らしてやると、慌てたテントウムシはフレッドの指先へと移動した。
「アルバートさん、手を」
呼びかけると、彼はフレッドの意図を察して軍手を外した。おずおずと、彼の手が差し出される。
フレッドの指先からアルバートの指先へ、テントウムシはちょこちょこと前進していった。普段取り澄ましたアルバートが「わ」と小さく声を上げたので、フレッドはなんだか可笑しくなった。
「指を立ててみて下さい」
こう、と人差し指を立ててみせると、彼は素直にそれにならった。するとどうだろう。テントウムシはくるりと方向転換して、爪の先を目指してアルバートの人差し指をよじ登っていく。二人はそれを息を潜めて見守っていた。
てっぺんにたどり着くと同時に、テントウムシは小さな羽を広げて飛び立った。
アルバートが今度は「あっ」と小さく声を上げた。
羽音は小さすぎて聞き取れなかった。赤と黒のちいさな虫は、青空に吸い込まれるように高く高く飛び上がって、すぐに見えなくなった。
「……飛んでいってしまった」
「幸せを届けにいったんですよ」
そう言うと、アルバートはやっと表情を緩めた。
「ブローチのこと、ずっと忘れていた。……いや、覚えていたはずなのに、思い出そうともしなかった……」
彼の母親がどんな人物だったのかは知らない。
おおよその顛末はずいぶん前に聞かされていたから、彼にとってあまり良い母親ではなかったことはみなし子のフレッドにも察せられた。
それでも今は、まだ幼いアルバートが母親の膝に抱かれている光景が目に浮かぶようだった。彼は母の胸元を飾るブローチを指さして「これは何?」と緑の瞳を無邪気に輝かせるのだ。
「思い出せて、よかったですか?」
「どうだろう。…………いや、そうだね。思い出せてよかったよ」
晴れ晴れとした、それでいてどこか苦い表情だった。彼は出しっぱなしのシャベルと、土に汚れた空っぽの鉢に手を伸ばした。
「さぁ、片付けようか。早く君を休ませないとルイスに叱られてしまう」
初出:Pixiv 2023.04.09
三年後、フレッドのお手伝いをする兄様の話。
「報告、以上です」
「ご苦労さま」
ルイスが机の上でとんとんと書類を整えながら、ちらりと柱時計を確認した。時刻は昼過ぎだ。
「今日はもう休むといい。昨日から働き通しだっただろう」
「はい。ありがとうございます」
素直に頭を下げると、ルイスは片眉を上げた。
「やけに聞き分けがいいな」
「休むように言ったの、ルイスさんじゃないですか。……薔薇の植え替えをしようと思って」
「休む気、無いな」
「僕なりの余暇の使い方です」
仕方ない、というふうにルイスが肩を竦めた。三年前からは考えられない、砕けたやり取りだった。
そのまま下がろうとするフレッドに、後ろから声がかかった。
「それなら、私が手伝おうか」
アルバートだった。にこにこと屈託のない表情で微笑んでいる。
固まっているフレッドを尻目に、彼は手に持っていた書類の束をルイスに差し出した。
「はい、ルイス。私が扱った過去の事件資料だ」
「ありがとうございます、アルバート兄さん」
「……で、どうかな。フレッド? 私はこの通り手すきだし、二人でやればその分早く終わると思うんだ」
「……っ」
アルバートに雑用を手伝わせるのか? ビルでの共同生活に関わる家事ですらない、個人の用事を?
判断に迷ってルイスに目配せしたが、彼は苦笑しながら書類に目を通している。自分で判断しろ、ということらしい。
執務室のドアがノックされた。
「ルイスくん、電話だよー」
「今行く」
扉の向こうからボンドのくぐもった声がした。呼ばれたルイスはさっと席を立って部屋を出ていってしまった。
残された二人に沈黙が下りる。
「…………」
「私では、役に立てないだろうか?」
「あ、いえ、あの……よろしくお願いします」
フレッドより頭ひとつ分は背の高い彼が子どものようにしおしおと項垂れてしまうものだから、つい承諾してしまった。
二人はまず倉庫へ向かった。
資材や備蓄に紛れて、園芸用品を置かせてもらっている一角がある。フレッドはそこから園芸用の土が入った袋と、鉢をふたつ引っ張り出した。鉢の中には、小さなシャベルと軍手、ビニールシート、肥料の入った袋を放り込んだ。
「えっと、今日は薔薇の植え替えをします。大きくなったから、ひと回り大きい鉢に移すんです」
「なるほど」
「薔薇の鉢は屋上に置いていますので……すみませんが、アルバート様、鉢の方をお願いします」
よいしょ、と声をかけながらフレッドが土の詰まった袋を持ち上げると、アルバートが気遣わしげな顔をした。
「大丈夫かい? 私がそっちを持とうか?」
「平気です。鉢も結構重たいので、気をつけてください」
「どれ。……本当だ」
二つ重ねた陶器の鉢を持ち上げてみて、アルバートは困ったように微笑んだ。
三年もの間、幽閉されていたのだ。当然筋力も衰えているだろう。少しだけ不安に思ったけれど、アルバートは存外しっかりとした足取りで立ち上がった。
とはいえ、荷物を抱えながら屋上までの階段を上るのはつらい。二人は踊り場で何度か休憩しつつ、アルバートのペースに合わせて階段を上った。
「……逞しくなったね、フレッド」
「いえ……」
「三年間、ルイスを支えてくれてありがとう」
「…………」
気恥ずかしくてどう答えていいか迷っているうちに、階段の一番上までたどり着いてしまった。フレッドは踊り場に一旦袋を下ろして、屋上に続くドアを開ける。
「どうぞ、アルバート様」
「それはもう止めてもらってもいいかな」
「え」
「私はもう、ただの『アルバート』だ」
鉢を抱えたアルバートが、薄暗い階段から陽の光が降り注ぐ屋上へ出る。一瞬だけ視界が眩んだ。
フレッドが土の袋を抱え直す間、今度はアルバートはドアを抑えて待ってくれていた。
「君とも対等……いや、ここでは君のほうが先輩だね。ボンドのように『アルくん』と呼んでくれても構わないよ」
「いえ……じゃあ、アルバート……さん、で」
しどろもどろに答えると、アルバートは満足そうに頷いた。
彼は今年で三十歳になると聞くが、その容色は少しも衰える様子がない。むしろ何の含みもなく微笑む姿には、あの頃にはない眩しさがあった。
身分とか血筋とかを抜きにしても、この人を前にして気後れせずにいられる人間なんているのだろうか。
屋上の一番日当たりの良い場所には、フレッドが管理している鉢植えが並べられている。直ぐそばに煙草の吸い殻が落ちているのを見つけて、アルバートは眉をしかめた。
「大佐だな? まったく……」
腹を立ててくれているアルバートには悪いが、その様子がフレッドには少し嬉しかった。
植え替えを行う薔薇は、皆でこのビルに移り住んでしばらくしてから植えたものだ。前の屋敷の薔薇は全滅だったから、花屋で新しく苗を買ってきた。それが今は、鉢が窮屈になるほど大きく育ったのだ。
そう思うと何だか感慨深い気がする。どうやってモランを懲らしめてやろうか思案しているアルバートが隣りにいることも。
周りを汚さないように、地面にビニールシートを広げた。
今日はまだ水やりはしていないから、土は乾いている。
薔薇の株はしっかりと育っている分、棘も固く鋭かった。手を傷つけてしまうかもしれないから、作業には軍手が必要だ。でも、爵位を返上したとはいえ生粋の貴族であるアルバートはこんなに粗い生地の手袋をはめたことはないだろう。肌がかぶれたりしないだろうか……。
そんなことを考えながらちらりとアルバートの方を見やると、彼は指先でそっと棘をつついていた。
「アルバート様!」
「大丈夫だよ。血は出ていない」
ほら、と差し出された指先には、赤い痕があるだけで確かに血は滲んでいない。とはいえ危なっかしい。怪我でもさせてしまったらルイスに何と申し開きしたらよいのだろう。
「すまないね。珍しくて、つい」
「珍しいって……」
「私の手元に届く薔薇は、いつも君や誰かが棘を取り除いてくれていたから」
「アルバート様……」
「『さん』だ。フレッド」
「アルバート……さん」
「心配してくれてありがとう、フレッド。君は本当に優しい子だね」
彼はまたおっとりとした調子で微笑んだ。それから手渡された軍手をはめて、ざらざらとした触感すら物珍しそうに手を擦り合わせている。
「……僕が優しいのなら……それは、アルバートさんたちのお陰です」
物心ついたときから一人だった。
親も兄弟もなく、自分以外は誰も信用できなかった。その日食べるもののことだけを考えて過して、誰にも見つかりませんようにと祈りながらごみ捨て場に隠れて眠った。自分のことだけを考えて生きていた。
モリアーティ家に拾われて初めて、誰かに優しくできる自分を知った。花を美しいと思い、猫を可愛いと感じた。
「僕が優しい人でいられるのは、ただ皆さんにしてもらったことを返しているからです」
「……そうか」
フレッドは黙ったまま頷き返して、鉢植えをそっとビニールシートの上に倒した。葉や茎を傷めないように手で抑えながら、土ごと鉢の中から抜き出す。
アルバートも丁寧な手つきでそれに倣った。
それから大きい鉢の底に石を敷いて、新しい土をつぎ足して、薔薇の株を中心に植える。新しく広々とした鉢に引っ越した薔薇は、下ろしたてのドレスにいそいそと袖を通したご令嬢のように、どこか誇らしげに見えた。どこからか「お水はまだ?」という声が聞こえてきそうだ。
フレッドは葉についていた土を払った。
「ありがとうございました、アルバートさん。あとはシートと溢れた土を片付けて、水やりをして、肥料を……」
「フレッド、フレッド」
アルバートが遮るようにフレッドを呼んだ。
滅多に聞かない早口で、二回も。今度こそ棘で手を刺してしまったかと思って、片付けの手を一旦止めて急いで彼の方へ寄った。
「どうされました?」
「テントウムシだ」
「は」
アルバートが指し示す先に、ころんと丸いちいさな虫がいた。植え替えたばかりの薔薇の白い花びらの上で、特徴的な赤と黒の水玉模様が鮮やかな存在感を放っている。
「……テントウムシ、ですね」
少し脱力しながら繰り返すと、アルバートはテントウムシをじっと見つめながら顔を綻ばせた。
「生きているのは初めて見たよ」
「そうなんですか?」
「ああ」
頷いた横顔は、新しい発見に胸を躍らせるちいさな子どものようだった。
かつて社交界の花と呼ばれ、裏では女王陛下直属の諜報部隊を束ねたほどの人物が、今は地べたに膝をつき、軍手をはめたままちいさな虫一匹に目を輝かせている。
「こんなに小さいんだね」
ため息のような呟きだった。テントウムシを驚かせてしまわないように気遣っているのだろうか?
「……テントウムシは、花や作物につく悪い虫を食べてくれるんです。幸せを運ぶ虫とも言われていますね」
「そうなのか」とアルバートはテントウムシから目を離さないまま頷いた。「昔、母がテントウムシのブローチを付けていたよ。お守りでもあったんだね」
そう話してから、アルバートは目を見開いた。彼の口から『家族』の話を聞くのは、フレッドには初めてのことだった。
彼自身、言うつもりもなかったのだろう。口をついて出てしまった昔話に自分でも驚いているようだった。
フレッドは軍手を外して、花びらの上のテントウムシへそっと手を伸ばした。ちょいちょいと花びらを揺らしてやると、慌てたテントウムシはフレッドの指先へと移動した。
「アルバートさん、手を」
呼びかけると、彼はフレッドの意図を察して軍手を外した。おずおずと、彼の手が差し出される。
フレッドの指先からアルバートの指先へ、テントウムシはちょこちょこと前進していった。普段取り澄ましたアルバートが「わ」と小さく声を上げたので、フレッドはなんだか可笑しくなった。
「指を立ててみて下さい」
こう、と人差し指を立ててみせると、彼は素直にそれにならった。するとどうだろう。テントウムシはくるりと方向転換して、爪の先を目指してアルバートの人差し指をよじ登っていく。二人はそれを息を潜めて見守っていた。
てっぺんにたどり着くと同時に、テントウムシは小さな羽を広げて飛び立った。
アルバートが今度は「あっ」と小さく声を上げた。
羽音は小さすぎて聞き取れなかった。赤と黒のちいさな虫は、青空に吸い込まれるように高く高く飛び上がって、すぐに見えなくなった。
「……飛んでいってしまった」
「幸せを届けにいったんですよ」
そう言うと、アルバートはやっと表情を緩めた。
「ブローチのこと、ずっと忘れていた。……いや、覚えていたはずなのに、思い出そうともしなかった……」
彼の母親がどんな人物だったのかは知らない。
おおよその顛末はずいぶん前に聞かされていたから、彼にとってあまり良い母親ではなかったことはみなし子のフレッドにも察せられた。
それでも今は、まだ幼いアルバートが母親の膝に抱かれている光景が目に浮かぶようだった。彼は母の胸元を飾るブローチを指さして「これは何?」と緑の瞳を無邪気に輝かせるのだ。
「思い出せて、よかったですか?」
「どうだろう。…………いや、そうだね。思い出せてよかったよ」
晴れ晴れとした、それでいてどこか苦い表情だった。彼は出しっぱなしのシャベルと、土に汚れた空っぽの鉢に手を伸ばした。
「さぁ、片付けようか。早く君を休ませないとルイスに叱られてしまう」
初出:Pixiv 2023.04.09
死んでも、言わない
ルイスがフレッドにちょっと薄暗い感情を抱いている話。
その夜遅く、明け方が近い時間になってようやく帰ってきた二人からは血と硝煙の匂いがした。
裏口を開けると同時に霧をまとった冷たい空気が流れ込んできて、ルイスは顔をしかめた。寒い中を追っ手を撒きながら歩いてきたのだろう。二人の髪はびしょびしょに濡れていて、フレッドの唇は真っ白だった。
「居間で火にあたっていてください。温かいものを持ってきますから」
「茶よりブランデーの方が有り難いんだが……その前にこいつの手当て頼む」
肩を軽く叩かれたフレッドは痛みに顔をしかめて、モランをじとりと睨んだ。
「……平気」
「馬鹿。そんな青い顔で何言ってんだ」
改めて彼の方をよく見ると、黒いジャケットの左肩のあたりが裂けてぐっしょりと濡れていた。雨ではない。
ルイスは驚愕に目を見開いた。
「撃たれたんですか!?」
「……」
「掠っただけだ。あの間合いでよく躱した方だよ」
黙り込むフレッドに代わって、モランが答えた。
彼は一瞬浮かべた笑みをすぐに消した。廊下の奥から、ウィリアムとアルバートが連れ立って歩いてきたからだ。
「おかえり。フレッド、怪我を?」
「すみません、大丈夫です。もう、事切れていると思って……」
フレッドが青い顔で弁解した。
「……大事なくてよかったよ。ご苦労さま」
ウィリアムは柔らかい笑みを浮かべながら、労るようにフレッドの傷ついていない方の肩に手を置いた。フレッドがほっと表情を緩める。
モランであれば倒れた相手であろうと容赦なくもう一発撃ち込むところであるが、彼はそれをしないだろう。――甘すぎる。
「ウィリアム、報告する」
「うん、お願い。上で聞こうか」
後を追おうとしたルイスだったが、ウィリアムが階段の半ばで立ち止まって、こちらを振り返った。
「ルイス、フレッドのことよろしくね」
「…………はい」
ルイスは二階へ上がっていく兄たちの姿を、取り残されたような気持ちで見送った。
――また、自分だけ爪弾きだ。
同じ部屋で報告と手当を行えばいいはずなのにわざわざそう釘を刺したということは、暗についてこないようにという意思表示だ。ウィリアムはルイスが手を汚すことはおろか、血なまぐさい会話を耳に入れることさえも忌避しているようだった。アルバートもモランも、それがウィリアムの意向であれば異を唱えることはない。
兄のためにすべてを捧げる覚悟はとうにある。もう一度この顔を焼いてみせたって構わない。
アルバートが、モランが、フレッドが、そして誰よりもウィリアムが、身と心を削りながら戦っているというのに。
彼らの姿が見えなくなってから、フレッドが気遣わしげな視線を向けてくるのを振り払って居間へと足を向けた。
「あの、自分でできます。ルイスさんも、上に……」
「できないでしょう。いいから脱いで」
赤々と燃えている暖炉の前にスツールを置いて、そこに座るよう指で示した。
「すみません」と消え入りそうな声で呟いて、フレッドはぎこちない動作で上着を脱いで傷口を晒した。抉られた肩に、ルイスは眉をひそめた。弾は残っていないし、傷はそう深くない。それでも、あとほんの少し弾が逸れていたら頭か胸を直撃していたはずだ。
「縫う必要は……なさそうですね」
「はい。あの、ほんとうに大したことないので……」
「いいから。じっとして」
早口にそう言うと、フレッドが小さく肩を竦めた。
自身のきつい口調やぞんざいな態度が、苛立ちを加速させる。フレッドが申し訳なさそうにすることさえ気に食わなかった。
(僕を行かせてくれていれば――)
濡らしたガーゼでフレッドの傷口を拭いながら、頭をよぎるのはそんなことだった。
体格の良いモランと比べるまでもなく、薄い肩をしている。これだけ小柄で、正確な年齢は分からないと言えど確実にルイスよりは年下だ。それなのに、ウィリアムは彼を信頼して計画に関わるいくつもの『仕事』を任せている。
(僕と彼とでは、何が違う?)
ここ数ヶ月、自分だけ計画に参加させてもらえないことへの焦りと不安がずっと胸の中に渦巻いていた。けれどそれらの感情をウィリアムに吐露することが、ルイスにはどうしてもできなかった。無理やりせき止めてきた暗い感情は、もはや溢れ出す一歩手前のところまで来ていた。
救急箱の中に、ガーゼや包帯を切るための鋏がある。
ルイスはそれをそっと手に取ると、刃の強度と長さを指先で確かめた。薄く短く、おおよそ刃物とは呼べないほど小さな鋏ではあるが、ルイスはすでにこれで人を殺す方法を知っている。
フレッドは相変わらず傷口を晒したままこちらに背を向けて、ルイスの準備ができるのを待っていた。
(今、なら――)
志を共にする仲間として、お互いの実力はある程度把握しているつもりだ。だが、ルイスはフレッドの本気を知らない。
ジャックのように、全く強さの底を見せてもらえないほどの実力差があるとは思わない。何度か手合わせをしたことはあったが、フレッドは『ウィリアムの弟』であるルイスの相手をするときはいつもどこか手を抜いていた。
ここで力を示せば。彼よりも、自分の方が有用であることをウィリアムに示せば――。
「っくし、」
その時、フレッドが小さくくしゃみをした。
ルイスは弾かれたように鋏を救急箱の中へ押し込んだ。代わりにソファに掛けてあったブランケットをひっ掴んで、暖炉に向かって座る彼の前に回り込んだ。
「すぐ……すぐ、手当をするので、もう少し我慢してくださいね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「終わったら、温かい紅茶を淹れますね。ブランデーも垂らして、あと、何か甘いものも……」
フレッドの膝にブランケットを掛けながら、彼の顔をまともに見ることができなかった。それでも、何も知らない彼はきっと嬉しそうに、ほんの僅かに口角をあげていたのだろう。
*
あ、と思った次の瞬間には、世界が反転していた。
辛うじて受け身はとったが、背中を地面にしたたかに打ちつけて、一瞬だけ息が詰まった。
「……っ、僕の勝ち、ですね」
フレッドは肩で息をしながらそう言った。
仕事の合間の息抜きだった。他の『社員』たちの不在をいいことに、社屋の屋上に出て組手を始めた。始めのうちはデスクワークで凝り固まった体を少しでも動かせたら程度にしか考えていなかったが、いつの間にかずいぶんと白熱してしまったようだ。
繰り出されるナイフ(もちろん訓練用の摸造ナイフだ)に気を取られて、足元への警戒が疎かになった。その瞬間に見事に軸足を取られた。
もともと体格で不利を取ることが多かった彼は、相手の力をうまく流して反撃する戦法を得意としていた。加えて、同じく男性に力で劣るボンドやマネーペニーと訓練をする機会が増えたここ数年は、その技にさらに磨きがかかったように思える。
「……ルイスさん?」
地面に倒れ込んだ姿勢のまま彼の方を見上げていると、フレッドの顔に不安の色が過ぎった。まさか打ちどころが悪くて起き上がれないのでは、と心配してくれているのだろう。
「……いや、大丈夫。昔の自分を恥ずかしく思っていた」
「昔?」
起き上がって、地べたにあぐらをかいて座ると、フレッドも隣に腰を下ろした。
ルイスが何か話をするつもりだと思ったのだろう。主人の命令を待つ犬のように、じっとこちらを見上げている。もちろん、口が裂けても言うつもりはなかった。
しばらく黙ったまま、並んで腰を下ろしていた。
今日はよく晴れていて、雲がゆっくりと頭上を横切っていく。
不意に、フレッドが「あ」と声を上げて立ち上がった。そうして、小走りに屋上の縁へと駆けていく。
「マネーペニーさん、帰ってきましたよ」
手すり越しに、社屋の前の通りを見下ろしながら、彼が言った。
おそらく、その視線の先にはマネーペニーの乗る馬車があるのだろう。彼の腰ほどの高さしかない手すりから、上半身を乗り出している。よく晴れた空に、同じ色のストールが透けるようだった。
ルイスはそっと歩み寄って、彼の背中に手を添える。
「ルイスさん?」
こちらを見上げる丸い瞳には、何の疑いも浮かんでいない。ただ純真に真っ直ぐに、あどけなさすら湛えてルイスの姿を映している。このまま突き飛ばされるかもしれない、なんて夢にも思っていない顔だ。
ルイスは彼の肩をつかんで、自分の方へ引き寄せた。
「……危ないよ、身を乗り出したら」
「落ちても、着地してみせます」
彼は自信ありげに言うものだから、ルイスは思わず笑みを漏らした。
「……戻ろうか」
「はい」
彼は手すりから手を離すと、くるりと踵を返した。
その背中を見送って、ルイスはもう一度、屋上をぐるりと取り囲む手すりの方を振り返った。暖かい日差しとは裏腹に、ひやりとした風が吹き抜けていく。
「ルイスさん」と階段の下からフレッドの声がした。今行く、と短く答えて、ルイスは屋上を後にした。
初出:Pixiv 2023.04.09
ルイスがフレッドにちょっと薄暗い感情を抱いている話。
その夜遅く、明け方が近い時間になってようやく帰ってきた二人からは血と硝煙の匂いがした。
裏口を開けると同時に霧をまとった冷たい空気が流れ込んできて、ルイスは顔をしかめた。寒い中を追っ手を撒きながら歩いてきたのだろう。二人の髪はびしょびしょに濡れていて、フレッドの唇は真っ白だった。
「居間で火にあたっていてください。温かいものを持ってきますから」
「茶よりブランデーの方が有り難いんだが……その前にこいつの手当て頼む」
肩を軽く叩かれたフレッドは痛みに顔をしかめて、モランをじとりと睨んだ。
「……平気」
「馬鹿。そんな青い顔で何言ってんだ」
改めて彼の方をよく見ると、黒いジャケットの左肩のあたりが裂けてぐっしょりと濡れていた。雨ではない。
ルイスは驚愕に目を見開いた。
「撃たれたんですか!?」
「……」
「掠っただけだ。あの間合いでよく躱した方だよ」
黙り込むフレッドに代わって、モランが答えた。
彼は一瞬浮かべた笑みをすぐに消した。廊下の奥から、ウィリアムとアルバートが連れ立って歩いてきたからだ。
「おかえり。フレッド、怪我を?」
「すみません、大丈夫です。もう、事切れていると思って……」
フレッドが青い顔で弁解した。
「……大事なくてよかったよ。ご苦労さま」
ウィリアムは柔らかい笑みを浮かべながら、労るようにフレッドの傷ついていない方の肩に手を置いた。フレッドがほっと表情を緩める。
モランであれば倒れた相手であろうと容赦なくもう一発撃ち込むところであるが、彼はそれをしないだろう。――甘すぎる。
「ウィリアム、報告する」
「うん、お願い。上で聞こうか」
後を追おうとしたルイスだったが、ウィリアムが階段の半ばで立ち止まって、こちらを振り返った。
「ルイス、フレッドのことよろしくね」
「…………はい」
ルイスは二階へ上がっていく兄たちの姿を、取り残されたような気持ちで見送った。
――また、自分だけ爪弾きだ。
同じ部屋で報告と手当を行えばいいはずなのにわざわざそう釘を刺したということは、暗についてこないようにという意思表示だ。ウィリアムはルイスが手を汚すことはおろか、血なまぐさい会話を耳に入れることさえも忌避しているようだった。アルバートもモランも、それがウィリアムの意向であれば異を唱えることはない。
兄のためにすべてを捧げる覚悟はとうにある。もう一度この顔を焼いてみせたって構わない。
アルバートが、モランが、フレッドが、そして誰よりもウィリアムが、身と心を削りながら戦っているというのに。
彼らの姿が見えなくなってから、フレッドが気遣わしげな視線を向けてくるのを振り払って居間へと足を向けた。
「あの、自分でできます。ルイスさんも、上に……」
「できないでしょう。いいから脱いで」
赤々と燃えている暖炉の前にスツールを置いて、そこに座るよう指で示した。
「すみません」と消え入りそうな声で呟いて、フレッドはぎこちない動作で上着を脱いで傷口を晒した。抉られた肩に、ルイスは眉をひそめた。弾は残っていないし、傷はそう深くない。それでも、あとほんの少し弾が逸れていたら頭か胸を直撃していたはずだ。
「縫う必要は……なさそうですね」
「はい。あの、ほんとうに大したことないので……」
「いいから。じっとして」
早口にそう言うと、フレッドが小さく肩を竦めた。
自身のきつい口調やぞんざいな態度が、苛立ちを加速させる。フレッドが申し訳なさそうにすることさえ気に食わなかった。
(僕を行かせてくれていれば――)
濡らしたガーゼでフレッドの傷口を拭いながら、頭をよぎるのはそんなことだった。
体格の良いモランと比べるまでもなく、薄い肩をしている。これだけ小柄で、正確な年齢は分からないと言えど確実にルイスよりは年下だ。それなのに、ウィリアムは彼を信頼して計画に関わるいくつもの『仕事』を任せている。
(僕と彼とでは、何が違う?)
ここ数ヶ月、自分だけ計画に参加させてもらえないことへの焦りと不安がずっと胸の中に渦巻いていた。けれどそれらの感情をウィリアムに吐露することが、ルイスにはどうしてもできなかった。無理やりせき止めてきた暗い感情は、もはや溢れ出す一歩手前のところまで来ていた。
救急箱の中に、ガーゼや包帯を切るための鋏がある。
ルイスはそれをそっと手に取ると、刃の強度と長さを指先で確かめた。薄く短く、おおよそ刃物とは呼べないほど小さな鋏ではあるが、ルイスはすでにこれで人を殺す方法を知っている。
フレッドは相変わらず傷口を晒したままこちらに背を向けて、ルイスの準備ができるのを待っていた。
(今、なら――)
志を共にする仲間として、お互いの実力はある程度把握しているつもりだ。だが、ルイスはフレッドの本気を知らない。
ジャックのように、全く強さの底を見せてもらえないほどの実力差があるとは思わない。何度か手合わせをしたことはあったが、フレッドは『ウィリアムの弟』であるルイスの相手をするときはいつもどこか手を抜いていた。
ここで力を示せば。彼よりも、自分の方が有用であることをウィリアムに示せば――。
「っくし、」
その時、フレッドが小さくくしゃみをした。
ルイスは弾かれたように鋏を救急箱の中へ押し込んだ。代わりにソファに掛けてあったブランケットをひっ掴んで、暖炉に向かって座る彼の前に回り込んだ。
「すぐ……すぐ、手当をするので、もう少し我慢してくださいね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「終わったら、温かい紅茶を淹れますね。ブランデーも垂らして、あと、何か甘いものも……」
フレッドの膝にブランケットを掛けながら、彼の顔をまともに見ることができなかった。それでも、何も知らない彼はきっと嬉しそうに、ほんの僅かに口角をあげていたのだろう。
*
あ、と思った次の瞬間には、世界が反転していた。
辛うじて受け身はとったが、背中を地面にしたたかに打ちつけて、一瞬だけ息が詰まった。
「……っ、僕の勝ち、ですね」
フレッドは肩で息をしながらそう言った。
仕事の合間の息抜きだった。他の『社員』たちの不在をいいことに、社屋の屋上に出て組手を始めた。始めのうちはデスクワークで凝り固まった体を少しでも動かせたら程度にしか考えていなかったが、いつの間にかずいぶんと白熱してしまったようだ。
繰り出されるナイフ(もちろん訓練用の摸造ナイフだ)に気を取られて、足元への警戒が疎かになった。その瞬間に見事に軸足を取られた。
もともと体格で不利を取ることが多かった彼は、相手の力をうまく流して反撃する戦法を得意としていた。加えて、同じく男性に力で劣るボンドやマネーペニーと訓練をする機会が増えたここ数年は、その技にさらに磨きがかかったように思える。
「……ルイスさん?」
地面に倒れ込んだ姿勢のまま彼の方を見上げていると、フレッドの顔に不安の色が過ぎった。まさか打ちどころが悪くて起き上がれないのでは、と心配してくれているのだろう。
「……いや、大丈夫。昔の自分を恥ずかしく思っていた」
「昔?」
起き上がって、地べたにあぐらをかいて座ると、フレッドも隣に腰を下ろした。
ルイスが何か話をするつもりだと思ったのだろう。主人の命令を待つ犬のように、じっとこちらを見上げている。もちろん、口が裂けても言うつもりはなかった。
しばらく黙ったまま、並んで腰を下ろしていた。
今日はよく晴れていて、雲がゆっくりと頭上を横切っていく。
不意に、フレッドが「あ」と声を上げて立ち上がった。そうして、小走りに屋上の縁へと駆けていく。
「マネーペニーさん、帰ってきましたよ」
手すり越しに、社屋の前の通りを見下ろしながら、彼が言った。
おそらく、その視線の先にはマネーペニーの乗る馬車があるのだろう。彼の腰ほどの高さしかない手すりから、上半身を乗り出している。よく晴れた空に、同じ色のストールが透けるようだった。
ルイスはそっと歩み寄って、彼の背中に手を添える。
「ルイスさん?」
こちらを見上げる丸い瞳には、何の疑いも浮かんでいない。ただ純真に真っ直ぐに、あどけなさすら湛えてルイスの姿を映している。このまま突き飛ばされるかもしれない、なんて夢にも思っていない顔だ。
ルイスは彼の肩をつかんで、自分の方へ引き寄せた。
「……危ないよ、身を乗り出したら」
「落ちても、着地してみせます」
彼は自信ありげに言うものだから、ルイスは思わず笑みを漏らした。
「……戻ろうか」
「はい」
彼は手すりから手を離すと、くるりと踵を返した。
その背中を見送って、ルイスはもう一度、屋上をぐるりと取り囲む手すりの方を振り返った。暖かい日差しとは裏腹に、ひやりとした風が吹き抜けていく。
「ルイスさん」と階段の下からフレッドの声がした。今行く、と短く答えて、ルイスは屋上を後にした。
初出:Pixiv 2023.04.09
消えたひと欠片 前編
『悪徳貴族を成敗してその謎をホームズに解かせる』話。
〇 ある男が廃屋で出会った人物
男は、足を引きずりながら、往来の隅をとぼとぼと歩いていた。
今日のような寒い曇り空の日には、左膝が軋むように痛んで憂鬱な気分になった。また一人、通行人が迷惑そうな顔をしながら男を追い越していく。本来であれば、こんな日には誰かと顔を合わせることすら嫌だった。
しかし、今日だけは。
男は沈む心を奮い立たせ、痛む足を叱咤してロンドンの雑踏を進んだ。
「サンズ・ティー・ハウス! 寄って行ってね!」
喧騒の中、一際よく通る声がした。
思わず立ち止まって声のした方を見ると、カフェの呼び込みだろう。若いハンサムな青年が、道行く人々ににこやかに声を掛けながらチラシを配っていた。
花の隙間を縫って飛ぶ蝶のように軽やかな足取りだった。彼に微笑みかけられた女たちは、頬を染めながらチラシを受け取っている。
足を止めてこちらを見ている男に気がついて、青年がすっとこちらに近づいてきた。
「お兄さんもどうぞ。このチラシを持ってきてくれたら、お茶を一杯サービスするよ」
青年は、女たちにしてみせたのと変わらない眩しい笑顔を男にも向けた。
サンズ・ティー・ハウスがどんな店だか知らないが、少なくともこのうだつの上がらない男には不釣り合いな洒落たカフェなのだろう。それなのにこうしてチラシを差し出されて、何だか小馬鹿にされているような気分になった。青年にはもちろん全くそんなつもりはないのだろう。ただ自分が卑屈になっているだけだ。そのことがかえって腹立たしい。
男は引ったくるようにチラシを受け取って、広い通りから脇道に逸れた。
うらぶれた路地を進むうちに、男は貧民街に足を踏み入れた。
常にどこか陰鬱な空気が漂う、華やかなロンドンの街のもう一つの顔。すれ違うのは浮浪者や宿無し子ばかりで、この辺りでは自分が一番上等な人間にさえ思える。男はどこか安堵した。
しかし自分もいずれはここの住民になるのだろうかと考えると、知らず知らずのうちにため息が漏れた。どのみちこの足を抱えて、家族もない身としては安定した暮らしなど望めない。
自身をこんな境遇に貶めた悪魔への復讐心がさらに募るのを感じた。
指定された路地で、道端に座り込んでいる老婆を発見した。
男が立ち止まると、老婆はゆっくりと顔を上げる。
顔は土気色で生気がまるで感じられない。瞳はどろりと濁っていて、もしかしたら目が見えていないのではないだろうか。
男が気圧されていると、彼女は黙って手のひらを差し出した。ミイラのように干からびた手だった。男はポケットの中に押し込んでいたチラシを取り出し、老婆の手に押し付けた。
「…………」
老婆は何も言わず、斜向かいの家の扉を指差した。
扉の横には『FOR RENT』と書かれた板が打ち付けてある。窓ガラスはひびが入ったまま放置されているから、管理会社からも忘れ去られた空き家だろう。
「あそこに行けってのか……」
そう尋ねながら振り返ると、老婆の姿はすでになかった。
男は慌てて辺りを見回したが、路地には人影の一つも見当たらない。老婆は魔法のように姿を消してしまった。その事実が、いよいよ「これは本物だ」という確信を男に抱かせた。
老婆が指し示した扉を開けて、埃っぽい空き家に踏み込むと、中は存外すっきりと片付いていた。
空っぽの食器棚に、椅子とテーブルが一組。
テーブルの上に何か置いてある。
足を引きずりながら薄暗い室内を進むと、ティーカップだった。注がれた紅茶はまだ湯気を立てていて、傍らにはクッキーが盛られた皿が添えられている。
「ご足労いただき申し訳ありません」
突然、間近で人の声がして、男は飛び上がるほど驚いた。
部屋の隅に衝立が立っている。決して華美なものではないが、この空き家には不釣り合いなほど品のあるデザインで、どうやらつい最近持ち込まれたばかりのもののようだった。
その裏に、誰かがいる。
「寒い中、大変だったでしょう。私からお伺いできればよかったのですが、仕事柄、大っぴらに外を出歩くわけにはいきませんのでご容赦ください」
若い男の声だった。
物腰は柔らかくとも、こちらにへりくだるような気配は微塵も感じられない。
「お詫びと言ってはなんですが、お茶を一杯サービスしましょう。よろしければ、どうぞ」
「あ、あんたが……」
「ええ。あなたがお考えの通りですよ」
短く、簡潔な答えだった。
本当にいたのか、というのが率直な感想だった。
立ち寄った酒場で聞いた、眉唾ものの噂ではあった。おまけに『窓口』だと名乗る男は拍子抜けするほどの若造で、担がれているのではないかと疑心暗鬼になりながら、男は身の上を語ったのだ。
――犯罪相談役。
衝立一枚隔てた向こう側に、このロンドンで起こる犯罪の半分に加担していると噂される大悪人がいるのだ。
お茶を一杯サービス、と言うからには、あのチラシ配りの青年も彼の手下だったのだろうか? この路地にいる老婆に持ち物を何か一つ渡す、というのが先方の指定してきた接触方法だった。特に指定はなかったので千切れたボタンを渡すつもりでポケットに入れてきたのだが。
男は椅子に腰掛けて、紅茶に手を伸ばした。
毒かもしれない、という考えも頭の中にはあったが、そんな猜疑心は温かい紅茶を一口啜った途端に吹き飛んだ。男はすぐにクッキーにも手を伸ばした。
小麦粉とバターの豊かな風味に頭の奥が痺れた。紅茶で流し込むと腹の底から体全体がじんわりと温まってくるようだ。あっという間に食べ終えてしまって、そういえば、甘いものを口にするのはずいぶん久しぶりのことだったと気が付いた。温かいお茶でもてなしてもらうことも。
男は知らず知らずのうちに涙をこぼしていた。
「ずいぶんお辛い思いをなさったのですね」
「いや……俺は……」
恥ずかしくなって弁解しようとすると、衝立の向こうの声はやんわりと遮った。
「私のもとに相談に来られる方は、一人の例外もなく、胸の内にわだかまりを抱えておられますよ。話してみてはもらえませんか?」
「俺は……俺はいいんだ。そりゃあ暮らしは楽じゃないさ。俺の足をこんなふうにしてこんな暮らしに追い込んだあいつらは憎い。だが、俺は逃げられた。何とか新しい仕事にもありついて食いつないでる。時々あの頃の夢を見ることもあるが、まぁ何とかやっていってる。許せないのは、今もあいつらがのうのうと暮らして、他の誰かを痛めつけてるってことだ……」
胸のつかえが取れたように、口から言葉が流れ出た。
口にして初めて、男は自分の腹の中に渦巻いていた怒りがどこに向いていたのかに気がついた。この未知の相手に対して、自分を良く見せようという考えは少しもなかった。つまらない虚栄心が溶けて、あとに残ったのは紛れもない本心だった。
奴らの悪行を告発する。そして、今も虐げられている弱いものを救う。そのために自分はここに招かれたのだ。
「その悪魔の名前は?」
どこまでも穏やかで、透き通った声だった。この声の前ではきっといかなる隠し事も通用しない。この衝立の向こうにいるのは天使でもあり、悪魔でもあった。
男はいつの間にか、左膝を強く握りしめていた。ぎゅっと目を瞑ると、奴の姿がはっきりと脳裏に浮かんだ。冷たい床に這いつくばって許しを請う自分を嘲笑っている。
男は小さく息を吸い込んで、その名を告げた。
「イーサン・セリグマン男爵――」
*
一 私の同居人
私の同居人、シャーロック・ホームズは――。
この書き出しに続くふさわしい文句を考えながら、私はベイカー街の下宿に帰ってきた。
時刻はちょうど昼下がり。
私の手の中には、ちょっとした偶然から手に入れた有名店のクッキー缶があった。ハドソン夫人も誘って、三人でお茶でも楽しもう。
十七段の階段を登って、ドアを開いた。
「災難だったな、ジョン。サウス・ストリートの工事現場か」
帰ってきた私を一目見るなり、ホームズは唇の片側を持ち上げて皮肉っぽく笑った。
私は入り口のところで突っ立ったまま、『またか』という気持ちでため息をついた。もちろん、本気で不快な気分になったわけではない。
私の同居人、シャーロック・ホームズにはよくあることであった。
「一応聞くけど、どうしてわかった?」
「払ったつもりだろうが、コートの裾に黒土が付いてるぞ。手のひらと顎の下も擦りむいてる。お前が真昼間から喧嘩してきたとは思えないから、大方、派手にすっ転びでもしたんだろう。『書店に顔を出してくる』つって出ていったお前が通ってきたであろうルートの中で、土がむき出しになってるのはサウス・ストリートの工事現場くらいだ。それはお前が、普段自分で買いもしないサウス・ストリートの店のクッキー缶を抱えてることからも明らかだ。人とぶつかってすっ転んで、相手がお詫びとして渡してきたってところだろ?」
私は肩を竦めた。
「当たりだよ。飛び出してきた子どもをかわそうとしてバランスを崩して、補修工事中の路面で派手に転倒してしまった。真っ青になって駆けつけてきたその子の親が、この焼き菓子屋の主人だったわけだ」
「ははっ、怪我の功名じゃないか」
「こら! ハドソンさんも呼んでからだ!」
缶を勝手に開けてクッキーを摘むホームズを制しながら、私は帽子とコートを脱いだ。
その時、階下で呼び鈴が鳴った。
ハドソン夫人が誰何する間もなく勢いよく扉が開いて、「お邪魔します!」という声とともにパタパタと元気の良い足音が階段を駆け上がってくる。我らが名探偵でなくとも、誰が訪ねてきたのかは明白だった。
「よう、ホームズ!」
予想通り。
飛び込んできたのは、ウィギンズ少年だった。後ろには肩をいからせるハドソン夫人の姿も見える。
ホームズが『ベイカー街非正規隊』と称する情報通の宿なし子たちの中でも、大人顔負けの利発さと機転を備えたウィギンズ少年は隊長的存在だ。その彼が意気揚々と部屋に飛び込んできたのだから、私もホームズも、思わず奇怪な事件の報せを期待してしまう。
「よう。その様子じゃ、とっておきのネタが入ったみたいだな」
「ああ、お待ちかねの貴族殺しだ!」
ホームズの目がぎらりと光った。
ウィギンズ少年は小さい手のひらをいっぱいに広げてホームズの前にずいと突き出した。
ホームズはよれた背広のポケットを探ったが、出てきたのはマッチの箱とくしゃくしゃの紙切れ数枚だけだった。焦れた彼は椅子から立ち上がる手間すら惜しんで、私に向かって叫んだ。
「ジョン!」
「えっ僕が払うのか?」
「後で返す。いいから早く!」
私はしぶしぶ、自分の財布から数枚のコインを取り出した。ウィギンズ少年は「毎度!」と弾んだ声を上げると、つい数時間前に起こったばかりだと言うその『貴族殺し』について語りはじめた。
「殺されたのはイーサン・セリグマン男爵。刃物で喉をかっ切られた上に腹や胸を何か所も刺されてたって話だ。犯人は男爵に相当恨みを持ってたんだろうな。昼飯に男爵を呼びに行った執事が第一発見者だ。現場は血まみれで、男爵夫人は卒倒しちまったってよ」
「シャーロック、こんな小さな子に何てこと調べさせてるの……!」
「真っ昼間に夫人や使用人たちもいる屋敷の中で殺されたってのか? 内部犯か?」
ハドソン夫人の非難の声を無視して、シャーロックが尋ねた。ウィギンズ少年は少しばかり顔をしかめながら答えた。
「……多分。男爵が殺されてるのが見つかってから、使用人が一人、行方知れずになってる」
「何だよ、犯人もう分かってんじゃねぇか」
シャーロックがため息とともに紫煙を天井に向かって吐き出した。
「貴族殺しが起こったら何でもいいから情報持ってこいって言ったのはあんただろ! 新聞社より早く聞きつけてきてやったのに!」
「別に金返せなんて言ってねぇだろ。ご苦労さん」
我らが名探偵はもはや完全に興味をなくした様子で、そばにあった論文の束をめくり始めた。
私は悔しがるウィギンズ少年に、例の缶入りクッキーをすすめた。すると彼はころりと機嫌を直して、クッキーを二、三枚まとめて口の中に放り込む。ハドソン夫人は苦笑しながらも、戸棚からカップをひとつ取り出して彼のために紅茶を注いでくれた。
「ウィギンズくん、こんな男の言うこと聞いてあんまり危ないことに首突っ込んじゃダメよ。それにしても、犯人が逃げたままなんて怖いわね。早くレストレード警部たちに捕まえてもらわないと……」
その時、もう一度階下で呼び鈴が鳴った。
噂をすれば何とやら、やって来たのはレストレード警部だった。応対に出たハドソン夫人も驚いた様子だった。
「ホームズ、お待ちかねの『貴族殺し』だ」
警部はやや皮肉っぽい含みを持たせながらそう切り出した。けれどホームズは視線を論文に落としたままだ。
「知ってる。セリグマン男爵だろ?」
「何故それを?」
「名探偵には凄腕の情報屋がついてるんだぜ!」
ウィギンズ少年が得意満面で口を挟んだ。
私は、彼から聞いた事件の話をレストレード警部に説明した。
「なるほど。実は私がホームズに相談したかったのも、同じ事件なのです。ワトソン先生」
「でも、犯人ははっきりしているのでしょう?」
「ええ。フレドリック・パーシーという青年が、男爵の遺体が発見されて以降行方を眩ませています。奴が犯人であることには疑いの余地はないでしょう」
「それでは何故ここに? この広いロンドンで逃亡犯を探し出すなら、あなた方スコットランド・ヤードの組織力の見せどころでしょう」
「それが、少々面倒なことになっていまして……」
レストレード警部は頬を掻きながら、ホームズの方を横目でちらりと伺った。彼が変わらず煙草をふかしながら論文を読んでいるので、警部は幾分むっとした様子で、私に向かって事件のあらましを説明しはじめた。
「男爵の遺体が発見されたのは今日の午後十二時を少し回ったところでした。昼食の時間になっても男爵が書斎から出てこなかったので、執事が呼びに行ったそうです。書斎は一階にあり、ドアの鍵は掛かっていなかった。また、中庭に面した窓にはカーテンが引かれていましたが、窓自体は開いていました」
「屋敷内からも中庭からも出入りが可能だったということですね」
レストレード警部はひとつ頷いて、続けた。
「遺体は、書斎の机のそばに倒れていました。机の上にあった陶器製のランプが落ちて割れ、本や書類が床に散乱していて、殺される前に犯人と争ったものと思われます」
「犯人……その、行方不明の使用人と?」
「おそらく。つい一週間ほど前に下男として雇われたばかりの青年です。詳しいことは現在調査中ですが、書斎に置いてあった現金や切手類がなくなっています。おそらく、書斎に忍び込んで盗みを働いていたところを男爵に見つかり、揉み合いになった末に殺害に及んだのではないかと……」
「取っ組み合いになった拍子にうっかり殺しちまったんなら、普通はさっさとずらかるだろ。こいつからは、男爵は腹や胸を何か所も刺されてたって聞いたが?」
いつの間にか論文の束から顔を上げて話を聞いていたホームズが口を挟んだ。もっともな指摘に、レストレード警部は「ああ、そこなんだ」と困り果てた表情で頷いた。
「あの現場を見れば、お前でなくてもはっきりと分かるだろう。殺害現場はおそらく書斎ではない。誰かが男爵の遺体を移動させている」
「どういうことだ?」
「……書斎に残された血痕が少なすぎるんだ。致命傷は間違いなく首の傷だが、本棚にも壁紙にも血が飛んでいない。おそらく別の場所で喉を裂かれて殺害されてから、書斎に運ばれたのではないかと推測される」
「嘘だ! 現場は血の海だったんだろ?」
ウィギンズ少年が声を上げると、警部は大きくため息をついた。
「君みたいな子どもが殺人現場の周りを嗅ぎ回っていたら、俺もそう言うだろうな」
彼は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐにその意味を理解して顔を真っ赤にした。
要はただ脅かされただけなのだろう。殺人現場は血みどろで恐ろしいことになっているから、こんなところにいないで早くおうちに帰りなさい、と。
「ちくしょう……あの野郎、馬鹿にしやがって」
「その話は誰から聞いた?」
「知らない。野次馬の中にいた奴だよ。警官たちが話してるのを聞いたって言ってたのに、とんでもない嘘つき野郎だ」
ウィギンズ少年は悔しそうにそう吐き捨てて紅茶を煽った。缶の中のクッキーはいつの間にかほとんどなくなってしまっていたが、私もハドソン夫人も手を伸ばす気にはなれなかった。
ホームズが重ねて問うた。
「そいつは他に何か言ってたか?」
「えーと、セリグマン男爵の屋敷は、もともと使用人がしょっちゅう入れ替わってたらしい。男爵が威張って使用人をいじめるから、恨みを買って殺されたんだろうって……」
「それは事実か、レストレード?」
ホームズに問われて、レストレード警部は考え込むように自分の顎を撫でた。
「いや、確認は取れていない。……だが確かに、使用人の入れ替わりは激しかったんだろうな。パーシーの名前を覚えていなかったメイドもいたくらいだ」
「……………」
ホームズは、何かを考えるようにしばらくの間黙り込んでいた。彼が再び口を開くのを、部屋に集まった全員がどことなく緊張しながら待っていた。
「……話を戻すか。つまりお前は、俺に本当の殺害現場を特定してほしいんだな?」
「ああ、その通りだ。何しろ男爵夫人も第一発見者の執事も、死体が移動されたことを認めないんだ」
「認めない?」
「ああ。通報を受けたヤードが駆けつけるまで誰も遺体に手を触れていないと言い張っている。使用人たちの証言もそれを裏付けるようなものばかり……。十二時少し前に何かが割れるような物音を聞いたが、呼び鈴が鳴らなかったので誰も書斎に近づいていないと。屋敷内の捜査も制限された挙げ句、夫人が『私たちを疑っているのか』と逆上する始末だ」
「パーシーがトンズラする前にわざわざ遺体を書斎へ運んだとは考えにくい。奴が男爵を殺して逃げた後、屋敷に残ったうちの誰かがやったに違いないが、誰もそれを認めないし捜査を邪魔されて特定する材料が見つからない、と。それで打つ手が無くなってここに来たってわけだ」
「面目ない」
レストレード警部はばりばりと頭をかいた。
状況からしてパーシーが犯人である可能性は極めて高いし、相手が貴族である以上、強引に家宅捜索をするわけにもいかないのだろう。
私は自分なりに考えをまとめてから、口を開いた。
「今の話を聞いた限りでは……何だか男爵夫人が怪しいような気がしますね。彼女が男爵を殺してしまい、それを隠蔽するために執事が現場を偽装し、使用人たちも口裏を合わせている、という線はどうでしょう。逆に、夫人以外の誰かが犯人だったなら、庇う理由も見当たりません」
「まぁ……、いやな話ね」
「もし本当に男爵夫人が犯人なら、行方不明のパーシーは? 罪をなすりつけるためにそいつも殺されちゃったとか?」
ウィギンズ少年の物騒な推測に、ハドソン夫人はとうとうホームズを睨みつけた。まだ十代半ばの少年からこんな発想が飛び出すのは間違いなく彼の影響だからだ。
当のホームズは彼女からの圧力などどこ吹く風と言わんばかりの様子で、椅子の上に両膝を立てて座り何やらぶつぶつと呟いている。やがて瞑想状態を脱した彼の瞳には、生き生きとした輝きがあった。
「面白れぇ。やってやるよ」
「できるのか?」
「お前の見立てが正しけりゃ、屋敷の人間のうちの誰かが――下手すりゃ全員が、確実に嘘をついてるってことだろ。突破口は必ずあるさ」
「相手は貴族だぞ。あまり派手にやると……」
「わかってるって。行くぞ、ジョン」
ホームズは椅子から勢いよく立ち上がると、肩にジャケットを引っ掛けて颯爽と出ていってしまった。私とレストレード警部は慌てて彼のあとを追った。
ウィギンズ少年から話を聞いた段階では実に単純な事件に思われたが、裏には複雑な謎が潜んでいそうだ。
これはきっと、彼を主人公とした小説の題材にふさわしい事件になるのではないだろうか。そんな予感を抱きながら、私は表で待っていたスコットランド・ヤードの馬車に乗り込んだ。
*
二 セリグマン男爵邸
私たちが馬車に揺られてセリグマン男爵邸に到着したのは、もう日も傾きかけた時間だった。
街中から比較的近い、当世風の瀟洒な屋敷だった。意匠を凝らした金細工の門を潜り、屋敷前の車止めで馬車を降りると、立っていた警官がびしりと敬礼をした。
私とホームズは、レストレード警部の後に続いて真っ直ぐに犯行現場――もとい、遺体発見現場――である書斎へと通された。
一歩足を踏み込んで、私は思わず顔をしかめた。
ヤードの現場検証がちょうど一段落したところらしく、男爵の遺体は部屋の隅で布を被せられていた。しかし、遺体がどこに横たわっていたのかは絨毯に染み込んだ血のおかげで一目瞭然だ。
元軍医として、私は一般市民よりはるかに多くの遺体を見てきた。けれどそれは病院内や戦場に限った話であり、落ち着いた雰囲気の書斎に広がる血痕というのはあまり気持ちのいいものではない。
「遺体が発見されたのはちょうどその辺り……デスクの影に、うつ伏せの状態で倒れていた」
レストレード警部の説明を聞きながら、ホームズは迷いのない足取りでデスクの方へ向かった。彼の革靴のつま先が、絨毯の血をたっぷり含んだ部分を踏んづけたが気にする様子もない。
床には血痕の他に、陶器の破片が散らばっている。犯人と男爵が揉み合った際に落ちて割れたというランプだろう。破片と残った台座から見ても、私にはとても手が出せないような値打ちものだったことが見て取れた。
ホームズは破片の一つをつまみ上げた。
「ランプが置いてあったのは……ここか」
デスクの上に、よく見ると丸い跡が残っていた。
レストレード警部が頷いた。
「そうだ。それから、デスクの引き出しから紙幣や切手、腕時計……とにかく換金できそうなものが根こそぎがなくなっている」
「パーシーが盗んでいったのですか?」
「おそらく」
ホームズは次に窓辺に歩み寄った。
「遺体が見つかった時、この窓は開いてたんだな」
「ああ。だがカーテンは引かれていた」
シャッと音を立ててカーテンを開けると、外には中庭が広がっていた。四方を屋敷の白い壁に囲まれてはいるが、木々に遮られて見通しは意外と良くない。
こっそりと書斎に侵入するなら、廊下を通ってドアから入るより安全なルートかもしれなかった。
その発見を伝えようと隣を見やると、ホームズは私とは対照的に、窓のすぐ下の地面を注視していた。その様子に、レストレード警部がうんうんと頷く。
「お前も気づいたか、ホームズ」
「ああ。誰か花壇に入ったな」
下を見ると、この窓の真下だけ、花壇の土が踏み荒らされていた。植えられたスイセンの茎も数本折れている。
「足跡の照合は?」
「やってみてはいるが、難しいだろうな。見ての通り、足跡をつけてしまったことに気がついてその場で足踏みしたんだろう。すっかり潰されてしまって誰の靴か分からない。あとは花壇を跨いで、芝生の上を歩いて行ったようだ」
「狡猾な奴ですね……」
私がつぶやくと、ホームズがちらりとこちらを見た。
「そいつは誰のことだ、ジョン?」
「え? 誰って……」
パーシーではないのか? そう答えようとして、私は「あっ」と声を上げた。
「そうか……屋敷から逃げ出したパーシーには足跡を偽装する必要もないのか」
「その通りだ」
「書斎から脱出するときではなく、書斎に入り込む前に付けた足跡では?」
「これだけ花壇を踏み荒らせば、必ず靴に土がつく。だが窓枠にも絨毯にも土の跡はない。したがって、これが書斎に入る前に付けられた跡であることはありえない」
ホームズの理論は明解だった。
「つまりこいつは、男爵とパーシー以外の第三者がこの書斎からこっそり出ていったことを示す動かぬ証拠ってわけだ」
彼は両手をすり合わせながら、うきうきとした様子を隠そうともせず振り返った。
「さて、いよいよ死体を見せてもらおうか。レストレード」
セリグマン男爵は、いかめしい鷲鼻をした、五十歳そこそこの紳士であった。
レストレード警部が遺体に掛けられた布をめくると、真っ先に目に飛び込んできたのは赤黒い血の色だった。警部やウィギンズ少年の話通り、男爵は首筋を裂かれ、胸から腹部にかけては無数の刺し傷があった。有り体に言えば『めった刺し』だ。
「どうだ、ジョン?」
ホームズの声に、私は自分の仕事を思いだした。
「ああ……確かに、首の傷が致命傷だろう。頸動脈を綺麗に切り裂かれている。腹や胸の刺し傷は、傷口の状態からして、おそらくは死後につけられたものだ」
「監察医も同じ見解です」
レストレード警部が頷いた。
「遺体のそばに、包丁が落ちていました。この屋敷の調理場から持ち出されたもので、これが凶器で間違いないかと」
私は凄惨な遺体から顔を上げて、室内を見回した。
「ほんとうに、壁に血痕が一つもない……」
「ああ。誰だか知らねぇが、まったく雑な偽装だ」
ホームズはため息をついた。
これだけすっぱりと首を裂かれれば、必ず血が噴き出す。それなのに、部屋中探してみても壁紙や本棚にはしみ一つ見当たらなかった。
被害者に布を被せれば、とも考えたが、布越しに頸動脈の場所を探り当てて正確に切り裂くなんて芸当は我々医者にも難しそうだ。
「ジョン、これは生前についた傷だな?」
ホームズが男爵の右手を持ち上げながら、私に尋ねた。確かに、手の甲に小さな引っかき傷がある。
「そうだな。血が固まりかけているから、生前に負った傷のはずだ。もっとも、事件に関係があるかどうかは……」
私は最後まで話すことができなかった。
書斎のドアがノックの直後に勢いよく開いて、大柄な初老の男性が飛び込んで来たからだ。
「警部! 勝手なことをされては困ります!」
男は部屋に入るなりそう声を上げて、男爵の遺体を検分する私たちを睨みつけた。
「誰ですか、彼らは? 部外者を屋敷に入れるなんて……」
「失礼しました。彼らは我々ヤードの捜査協力者で、私立探偵をしている者です」
「探偵?」
「ええ、独自の情報網を持っていまして、人探しにかけてはこのロンドンで右に出る者はいないほどです。パーシーの足取りを追うためには彼らの協力が不可欠と考えて、ここに呼んだのです。……こちら、執事のニコルソンさん」
最後の一言は私とホームズに向けたものだった。
なるほど、レストレード警部は『人探し専門の私立探偵』という名目でホームズを呼んだらしかった。話を合わせてくれ、と言わんばかりに警部からウインクが送られたが、ホームズはまるで気がついていない。
「あんたが第一発見者か?」
遺体から目を話すことなく、ホームズがぞんざいな口調で尋ねた。
「男爵の姿を最後に見たのは何時ごろだ?」
「それはもう刑事さん方に散々話しましたよ」
「俺はまだ聞いてない」
「……今朝の十時過ぎです。ここで書き物をなさっていた旦那様にお茶をお出ししました」
「そいつは変だ。ティーセットはどこに消えた?」
ホームズは机の上を指し示した。ティーセットはおろか、書類の一枚も広げられていない。
執事に疑いの目を向けようとする私たちに、レストレード警部が慌てて口を挟んだ。
「その一時間後にメイドが書斎に入ってティーセットを下げている。彼女が、生きている男爵の姿を最後に見た人間だ」
「ほー、じゃあ、犯行時刻がだいぶ絞られるな。そのメイドと話せるか?」
ホームズはまるで自分の部下にでも話しかけるようなぞんざいな口調で執事に問うた。人に仕えることを生業とする彼も、さすがに初対面の男にこうも気安い態度で接せられるのは我慢ならないようだった。
「一体何なんですか、あんたたちは」
「だから探偵だって」
「人探し専門の探偵なら、これ以上ここに用もないでしょう。さっさとパーシーの奴を探しにいったらどうなんです?」
「ああ、もう結構。参考になったぜ」
ホームズは執事の居丈高な態度もどこ吹く風といった様子で応じた。
「じゃあ、『捜索』の糸口を得るために、奥様や使用人の皆さんからお話を聞かせてもらおうか。もちろんあんたにも」
私達は半ば書斎を追い出される形で、隣の客間に追いやられた。
*
三 男爵夫人と執事の証言
ソファに腰かけてしばらくしないうちに、メイドが一人、お茶を持ってきてくれた。
ごく大人しそうな若いお嬢さんで、椅子に膝を立てて座り何事かぶつぶつと呟いているホームズに怯えているようだった。そのおどおどとした態度も、仕えている屋敷の主人が殺されたばかりなのだから無理からぬ話だ。
「どうもありがとう」
私はなるべく丁寧にお礼を言った。
メイドは小さく頭を下げた。そのまま私と目を合わせぬように引き下がろうとして、「あ」と小さく声を上げた。
「あの、お怪我を……」
「あ、大丈夫ですよ。今朝少し転んでしまって」
彼女は私が顎をすりむいているのに気が付いたらしかった。
「血がにじんでいますよ。何か、消毒とか……」
「お気遣いありがとうございます。ですが、心配無用ですよ。私はこれでも医者の端くれでね。処置は済んでいますので、あとは自然治癒あるのみです」
冗談めかして笑いかけると、彼女はどう反応していいのかわからないといった顔で曖昧に頷いた。よく気の付く親切な女性であったが、どうやら少し人見知りをするタイプに見えたので、そこで会話を切り上げるつもりだった。私は。
「なぁ、あんたはパーシーのこと知ってるのか?」
唐突に立ち上がったホームズが、メイドの肩を叩いた。
彼女は飛び上がるほど驚いて、持っていた盆を盾のように掲げた。
「シャーロック!」私は思わず声を上げた。
「何やってるんだ、急に。初対面の女性に馴れ馴れしすぎるぞ!」
「ああ、悪い悪い。で、パーシーはどんな奴だった?」
「はい?」
「同僚なんだから、話したことくらいあるだろ。なぁ、どんな奴だった? あ、もしかして、あんたが最後に書斎に入ったメイドか?」
ホームズは悪びれもせず彼女に質問を浴びせかけた。聞いている事自体は何もおかしくはないが、手順を完璧に間違えている。私は彼のジャケットを掴んで引っ張った。
「いいから、一回座れ!」
「何の騒ぎです?」
部屋のドアがガチャリと開いて、先ほどの執事が入ってきた。
背後にはレストレード警部と、年配の婦人の姿も見える。大きな耳飾りをつけた彼女が、おそらくセリグマン男爵夫人なのだろう。痩せた体に目だけが妙に鋭く、その表情は不安そうにも苛立たしげにも見える。
メイドが慌ててホームズと距離を取って顔を伏せた。
「用が済んだなら下がりなさい、リネット」
執事の言葉に、メイドはこくこくと頷いてさっと部屋を出ていった。
老婦人はやはり、セリグマン男爵夫人であった。
「こちら、私立探偵をしている、我々の協力者です」
レストレード警部は私たちのことをごく簡単に紹介した。幸い、男爵夫人は興味なさそうに首を傾げて見せただけで、私とホームズが名乗っても大した反応を見せなかった。
「あなた方があの恩知らずの人殺しを見つけてくださるんですの?」
「ええ、もちろん。この度はご愁傷様です」
ホームズが黙っているので、私はなるべく愛想よく挨拶をした。
「早速お話を伺いたいのですが」
「ヤードだろうと探偵だろうと構いませんから、とにかく早くあの男を捕まえてくださいな。ああ、かわいそうなヘンリー!」
セリグマン夫人は扇で口元を覆いながら嘆いた。
私はざっと記憶をひっくり返してみたが、たしか殺された男爵はヘンリーなんていう名前ではなかった。
「失礼ですが、ヘンリーさんというのは?」
「息子です。まだ学生ですの。エディンバラの大学に通っておりまして・・・・・・先ほどニコルソンに言って電報を打たせましたわ。今頃列車に飛び乗っている頃でしょうけど、あの子が今どんな気持ちでいるのか想像しただけで、胸が張り裂けそうで……」
「それは、ご愁傷様です……」
私は同じ言葉を繰り返した。
ここに来る前の私は男爵夫人をなんとなく怪しんでいたが、いざ実物に相対してみるとこの小柄な老婦人に犯行は難しい気がしてきた。床に横たわった状態だったから定かではないが男爵の身長は私と変わらないくらいだったように思う。
私はホームズの方をちらりと盗み見た。
彼は夫人をじろじろと値踏みするように観察している。今のところ会話をする気がないのは明らかで、彼女の注意を引く意味でも、私が場を繋ぐ必要があるようだった。
会話の取っ掛かりとして、私は夫人が先ほどから指先を何度もこすり合わせる仕草をしているのに目をとめた。
「失礼ですが、神経痛を患っていらっしゃるのですね」
「え。ええ、よくおわかりになりましたね」
「観察するのが私の仕事ですから」
レストレード警部の機転を無駄にしないためにも、私はあえて医者であることをぼかして答えた。我が親友の台詞を真似て少々格好をつけてみると、夫人の態度が少しばかり和らいだ。
「最近どうもひどくって・・・・・・。今日はお天気もいいからマシな方ですけど」
「いい薬茶がありますので、後でお渡ししましょう。私も古傷が痛むときに飲むのですが、気持ちが落ちついて痛みが和らぎますよ」
「まあ、それはご親切に」
「ところで、奥様がパーシーについてご存じのことを教えていただけないでしょうか。彼の行方を追うために、少しでも手がかりがほしいのです」
「手がかり、と言われましても・・・・・・使用人の差配はすべてニコルソンに任せていますの。長く仕えている者ならまだしも、あんな無教養な労働者階級のこと、知ってどうするんですの?」
なぜそんなことを聞くのか、と言いたげな口ぶりに私は少しばかりの戸惑いを覚えた。
「でも、同じ屋根の下で一緒に暮らしている人間でしょう?」
「まあ、なんてことおっしゃるの。一緒に暮らしているだなんて・・・・・・私どもは彼らに仕事を与えて屋根を貸してやっているだけですよ、ワトソンさん!」
夫人は私を追い払うように扇を振った。私がこの老婦人にとってとんでもなく無礼で非常識な発言をしたかのように。彼女の目には純粋な不快感と侮蔑しか浮かんでいなくて、私は少し途方に暮れた。この国で暮らしていると度々ぶつかる壁だった。
「お気持ちはお察ししますよ、奥様。彼らの英語は汚くて、仕事じゃなければ話をするのもお断りしたいくらいだ」
ホームズが口を開いた。普段のコックニーからは想像もつかないほど美しいクイーンズ・イングリッシュだった。
「この部屋に来る途中、廊下の絨毯に大きなシミがありましたね。スープか何かをこぼしたのでしょうか?」
「ええ、のろまなメイドがおりましてね」
「それはお気の毒に・・・・・・」
ホームズは慇懃に手のひらを擦り合わせた。
「それでは、ニコルソンさんにお尋ねしましょうか。パーシーはどういった経緯でこの屋敷で働くことになったんです?」
執事が、ホームズが先ほどとは打って変わって非常に丁寧な言葉遣いをするのに面食らっているのが感じ取れた。だが女主人の手前、そのような態度はおくびにも出さず答えた。
「リージェントの職業斡旋所からの紹介です」
後ろでレストレード警部が小さく頷くのが見えた。すでに手は回しているのだろう。
「健康面に問題もなく、よその屋敷にしばらく勤めていたので若くとも経験があるという話だったのですが……」
「少々手癖の悪い青年だった、というわけですか」
「ええ、我々は何も聞かされていませんでしたがね!」
執事は苛立たしげに首を振った。
「以前に勤めていたという屋敷はどちらに?」
「さあ、私どももそこまでは……出身はサセックスかどこか、南の方だとは聞いていましたが。それは今、警察の方で調査してくださっているんでしょう?」
「ええ、もちろん」
レストレード警部が請け負った。
であれば、遅かれ早かれパーシーがいざというときに頼りそうな逃亡先――かつての同僚や、地元の家族――が見つかるだろう。
ホームズは少し考えたのち、椅子からすっくと立ち上がった。
「貴重なお話をありがとうございました。それではさっそく仕事に取り掛かりたいと思いますので、これで失礼します」
そう言い残して、彼はさっさと玄関に向かって歩き始めた。
気の毒なレストレード警部は顎が外れそうなほどあんぐりと口を開けていたが、すぐに気を取り直してホームズの後を追った。男爵夫人と執事に会釈して、私も二人の後に続いた。
*
四 ホームズの宿題
「ホームズ! お前、ここまで来ておいて興味が失せたなんて言わないよな!?」
屋敷の前で待っていた辻馬車に乗り込もうとするホームズに、警部は必死の形相で詰め寄った。
「バカ、そんな無責任なことしねぇよ」
「だったら……」
「いいか、レストレード。宿題を出す。一つは、明日の昼までこの屋敷に警官を配置しておくこと。殺人事件が起こってその犯人が逃亡中となりゃ、そう難しい話でもないだろ。もう一つは、あのランプの破片を拾い集めて元通りに繋ぎなおすことだ」
「一つ目はともかく……二つ目は何のために?」
「いいから。それさえやってくれれば後はこっちで何とかしてやるよ。夫人を刺激しすぎるなよ。あ、パーシーの身元も、何かわかったら報告してくれ」
彼はそれだけ言うと馬車の座席の奥に詰めて、私が座るためのスペースを空けた。レストレード警部は戸惑いながら引き下がり、私もまた戸惑いながら辻馬車に乗り込んだ。
御者が馬に鞭をくれて、馬車がゆっくりと走り出す。
辺りはすでに夕闇に包まれ始めていた。屋敷と警部を後ろに見送りながら、私はがたがたと揺れる座席に身を預けた。
「……シャーロック、よかったのか?」
「何が?」
「何がって……こんなにあっさり出てきてしまったことだよ。もっと詳細な調査や聞き込みをしなくてよかったのか? まだ使用人たちにもちっとも話を聞いていないじゃないか」
「見るべきもんはだいたい見たさ」
「でも、レストレード警部からの頼み事も果たせていないじゃないか。男爵が本当に殺された場所を特定するっていう……」
「アタリはつけた。が、あの場じゃ難しそうだったからな」
ホームズはいつも通りの自信ありげな態度だった。
「なぁジョン、煙草吸っていいか?」
「……勝手にしろ」
私はため息をついて、馬車のガラス窓を開けた。
ホームズも私に倣って反対側の窓を開けると、マッチを擦って煙草に火をつけた。彼が愛用しているきつい銘柄だ。窓を開けているからといって煙がすべて外へ流れ出てくれるはずもなく、車内はたちまち紫煙で煙たくなった。しかし勝手にしろと言った手前、今さら吸うのをやめろとは言えない。私は気を逸らせるためにも、この奇妙な事件のことを頭の中で反芻した。
書斎に横たわる男爵の死体。綺麗なままの壁紙に、粉々に砕けたランプ。花壇に残された痕跡。わが子の心配をする男爵夫人の言葉と、軽蔑に満ちた表情……。
「……パーシーは、何のために男爵を殺したのだろう」
「気になるか?」
独り言のつもりで漏らした呟きに、思いがけずホームズが反応した。
「当然気になるさ。パーシーの動機によっては、事件の性質が全く変わってくるだろう。あんな風に遺体をめった刺しにしていたら『盗みを働いていたところを見つかって、揉み合ううちにうっかり殺してしまった』では、もう説明がつかないじゃないか」
「そうだな」
「それに、書斎の壁に血痕が残っていなかった件についてもだ。遺体を移動させたにしろ、何らかの偽装を行ったにしろ、どうしてそのことを男爵夫人と執事に尋ねなかった?」
「あいつらは確実に何か知ってるだろう。でも、だからって直接聞けばいいってもんじゃねぇよ」
「じゃあ誰に聞くんだ?」
しかし、ホームズはまたしても私の質問には答えなかった。
「その薬茶ってのは、すぐに用意できるのか?」
「はぁ?」
脈絡のない質問に思わす声を上げても、彼は窓枠に肘をついたままこちらを見ようともしない。私の質問に答える気はないし考えのすべてを話すつもりはない、という意思表示だろう。
その勝手気ままな態度に私はいくらかの不満を覚えたが、こうなってしまった彼に話しかけるのは得策ではない。私と彼との付き合いはまだそう長くなかったが、『謎』に取り組んでいるときの彼の取り扱いは心得ているつもりだ。
私たちを乗せた馬車が二二一Bに到着しても、ホームズは黙ったままだった。
彼は夕食の後、無言で暖炉の前に座っていた。
微動だにしないホームズの顔が赤々とした炎に照らされて、彫刻のような陰影を描いている。眉間の皺は彫り込まれたように深く、苦悩しているようにも見えたが、瞳はらんらんと輝いている。
私は彼の邪魔をしないように自分の書き物机に向かっていたが、何も手に付かず、結局はただ座っていただけだった。
「乗りかかった船だ。最後までやるさ」
時計の鐘が深夜十二時を打つ頃、ホームズがぽつりと呟いた。
その晩はそれきりだった。
初出:Pixiv 2023.02.19
『悪徳貴族を成敗してその謎をホームズに解かせる』話。
〇 ある男が廃屋で出会った人物
男は、足を引きずりながら、往来の隅をとぼとぼと歩いていた。
今日のような寒い曇り空の日には、左膝が軋むように痛んで憂鬱な気分になった。また一人、通行人が迷惑そうな顔をしながら男を追い越していく。本来であれば、こんな日には誰かと顔を合わせることすら嫌だった。
しかし、今日だけは。
男は沈む心を奮い立たせ、痛む足を叱咤してロンドンの雑踏を進んだ。
「サンズ・ティー・ハウス! 寄って行ってね!」
喧騒の中、一際よく通る声がした。
思わず立ち止まって声のした方を見ると、カフェの呼び込みだろう。若いハンサムな青年が、道行く人々ににこやかに声を掛けながらチラシを配っていた。
花の隙間を縫って飛ぶ蝶のように軽やかな足取りだった。彼に微笑みかけられた女たちは、頬を染めながらチラシを受け取っている。
足を止めてこちらを見ている男に気がついて、青年がすっとこちらに近づいてきた。
「お兄さんもどうぞ。このチラシを持ってきてくれたら、お茶を一杯サービスするよ」
青年は、女たちにしてみせたのと変わらない眩しい笑顔を男にも向けた。
サンズ・ティー・ハウスがどんな店だか知らないが、少なくともこのうだつの上がらない男には不釣り合いな洒落たカフェなのだろう。それなのにこうしてチラシを差し出されて、何だか小馬鹿にされているような気分になった。青年にはもちろん全くそんなつもりはないのだろう。ただ自分が卑屈になっているだけだ。そのことがかえって腹立たしい。
男は引ったくるようにチラシを受け取って、広い通りから脇道に逸れた。
うらぶれた路地を進むうちに、男は貧民街に足を踏み入れた。
常にどこか陰鬱な空気が漂う、華やかなロンドンの街のもう一つの顔。すれ違うのは浮浪者や宿無し子ばかりで、この辺りでは自分が一番上等な人間にさえ思える。男はどこか安堵した。
しかし自分もいずれはここの住民になるのだろうかと考えると、知らず知らずのうちにため息が漏れた。どのみちこの足を抱えて、家族もない身としては安定した暮らしなど望めない。
自身をこんな境遇に貶めた悪魔への復讐心がさらに募るのを感じた。
指定された路地で、道端に座り込んでいる老婆を発見した。
男が立ち止まると、老婆はゆっくりと顔を上げる。
顔は土気色で生気がまるで感じられない。瞳はどろりと濁っていて、もしかしたら目が見えていないのではないだろうか。
男が気圧されていると、彼女は黙って手のひらを差し出した。ミイラのように干からびた手だった。男はポケットの中に押し込んでいたチラシを取り出し、老婆の手に押し付けた。
「…………」
老婆は何も言わず、斜向かいの家の扉を指差した。
扉の横には『FOR RENT』と書かれた板が打ち付けてある。窓ガラスはひびが入ったまま放置されているから、管理会社からも忘れ去られた空き家だろう。
「あそこに行けってのか……」
そう尋ねながら振り返ると、老婆の姿はすでになかった。
男は慌てて辺りを見回したが、路地には人影の一つも見当たらない。老婆は魔法のように姿を消してしまった。その事実が、いよいよ「これは本物だ」という確信を男に抱かせた。
老婆が指し示した扉を開けて、埃っぽい空き家に踏み込むと、中は存外すっきりと片付いていた。
空っぽの食器棚に、椅子とテーブルが一組。
テーブルの上に何か置いてある。
足を引きずりながら薄暗い室内を進むと、ティーカップだった。注がれた紅茶はまだ湯気を立てていて、傍らにはクッキーが盛られた皿が添えられている。
「ご足労いただき申し訳ありません」
突然、間近で人の声がして、男は飛び上がるほど驚いた。
部屋の隅に衝立が立っている。決して華美なものではないが、この空き家には不釣り合いなほど品のあるデザインで、どうやらつい最近持ち込まれたばかりのもののようだった。
その裏に、誰かがいる。
「寒い中、大変だったでしょう。私からお伺いできればよかったのですが、仕事柄、大っぴらに外を出歩くわけにはいきませんのでご容赦ください」
若い男の声だった。
物腰は柔らかくとも、こちらにへりくだるような気配は微塵も感じられない。
「お詫びと言ってはなんですが、お茶を一杯サービスしましょう。よろしければ、どうぞ」
「あ、あんたが……」
「ええ。あなたがお考えの通りですよ」
短く、簡潔な答えだった。
本当にいたのか、というのが率直な感想だった。
立ち寄った酒場で聞いた、眉唾ものの噂ではあった。おまけに『窓口』だと名乗る男は拍子抜けするほどの若造で、担がれているのではないかと疑心暗鬼になりながら、男は身の上を語ったのだ。
――犯罪相談役。
衝立一枚隔てた向こう側に、このロンドンで起こる犯罪の半分に加担していると噂される大悪人がいるのだ。
お茶を一杯サービス、と言うからには、あのチラシ配りの青年も彼の手下だったのだろうか? この路地にいる老婆に持ち物を何か一つ渡す、というのが先方の指定してきた接触方法だった。特に指定はなかったので千切れたボタンを渡すつもりでポケットに入れてきたのだが。
男は椅子に腰掛けて、紅茶に手を伸ばした。
毒かもしれない、という考えも頭の中にはあったが、そんな猜疑心は温かい紅茶を一口啜った途端に吹き飛んだ。男はすぐにクッキーにも手を伸ばした。
小麦粉とバターの豊かな風味に頭の奥が痺れた。紅茶で流し込むと腹の底から体全体がじんわりと温まってくるようだ。あっという間に食べ終えてしまって、そういえば、甘いものを口にするのはずいぶん久しぶりのことだったと気が付いた。温かいお茶でもてなしてもらうことも。
男は知らず知らずのうちに涙をこぼしていた。
「ずいぶんお辛い思いをなさったのですね」
「いや……俺は……」
恥ずかしくなって弁解しようとすると、衝立の向こうの声はやんわりと遮った。
「私のもとに相談に来られる方は、一人の例外もなく、胸の内にわだかまりを抱えておられますよ。話してみてはもらえませんか?」
「俺は……俺はいいんだ。そりゃあ暮らしは楽じゃないさ。俺の足をこんなふうにしてこんな暮らしに追い込んだあいつらは憎い。だが、俺は逃げられた。何とか新しい仕事にもありついて食いつないでる。時々あの頃の夢を見ることもあるが、まぁ何とかやっていってる。許せないのは、今もあいつらがのうのうと暮らして、他の誰かを痛めつけてるってことだ……」
胸のつかえが取れたように、口から言葉が流れ出た。
口にして初めて、男は自分の腹の中に渦巻いていた怒りがどこに向いていたのかに気がついた。この未知の相手に対して、自分を良く見せようという考えは少しもなかった。つまらない虚栄心が溶けて、あとに残ったのは紛れもない本心だった。
奴らの悪行を告発する。そして、今も虐げられている弱いものを救う。そのために自分はここに招かれたのだ。
「その悪魔の名前は?」
どこまでも穏やかで、透き通った声だった。この声の前ではきっといかなる隠し事も通用しない。この衝立の向こうにいるのは天使でもあり、悪魔でもあった。
男はいつの間にか、左膝を強く握りしめていた。ぎゅっと目を瞑ると、奴の姿がはっきりと脳裏に浮かんだ。冷たい床に這いつくばって許しを請う自分を嘲笑っている。
男は小さく息を吸い込んで、その名を告げた。
「イーサン・セリグマン男爵――」
*
一 私の同居人
私の同居人、シャーロック・ホームズは――。
この書き出しに続くふさわしい文句を考えながら、私はベイカー街の下宿に帰ってきた。
時刻はちょうど昼下がり。
私の手の中には、ちょっとした偶然から手に入れた有名店のクッキー缶があった。ハドソン夫人も誘って、三人でお茶でも楽しもう。
十七段の階段を登って、ドアを開いた。
「災難だったな、ジョン。サウス・ストリートの工事現場か」
帰ってきた私を一目見るなり、ホームズは唇の片側を持ち上げて皮肉っぽく笑った。
私は入り口のところで突っ立ったまま、『またか』という気持ちでため息をついた。もちろん、本気で不快な気分になったわけではない。
私の同居人、シャーロック・ホームズにはよくあることであった。
「一応聞くけど、どうしてわかった?」
「払ったつもりだろうが、コートの裾に黒土が付いてるぞ。手のひらと顎の下も擦りむいてる。お前が真昼間から喧嘩してきたとは思えないから、大方、派手にすっ転びでもしたんだろう。『書店に顔を出してくる』つって出ていったお前が通ってきたであろうルートの中で、土がむき出しになってるのはサウス・ストリートの工事現場くらいだ。それはお前が、普段自分で買いもしないサウス・ストリートの店のクッキー缶を抱えてることからも明らかだ。人とぶつかってすっ転んで、相手がお詫びとして渡してきたってところだろ?」
私は肩を竦めた。
「当たりだよ。飛び出してきた子どもをかわそうとしてバランスを崩して、補修工事中の路面で派手に転倒してしまった。真っ青になって駆けつけてきたその子の親が、この焼き菓子屋の主人だったわけだ」
「ははっ、怪我の功名じゃないか」
「こら! ハドソンさんも呼んでからだ!」
缶を勝手に開けてクッキーを摘むホームズを制しながら、私は帽子とコートを脱いだ。
その時、階下で呼び鈴が鳴った。
ハドソン夫人が誰何する間もなく勢いよく扉が開いて、「お邪魔します!」という声とともにパタパタと元気の良い足音が階段を駆け上がってくる。我らが名探偵でなくとも、誰が訪ねてきたのかは明白だった。
「よう、ホームズ!」
予想通り。
飛び込んできたのは、ウィギンズ少年だった。後ろには肩をいからせるハドソン夫人の姿も見える。
ホームズが『ベイカー街非正規隊』と称する情報通の宿なし子たちの中でも、大人顔負けの利発さと機転を備えたウィギンズ少年は隊長的存在だ。その彼が意気揚々と部屋に飛び込んできたのだから、私もホームズも、思わず奇怪な事件の報せを期待してしまう。
「よう。その様子じゃ、とっておきのネタが入ったみたいだな」
「ああ、お待ちかねの貴族殺しだ!」
ホームズの目がぎらりと光った。
ウィギンズ少年は小さい手のひらをいっぱいに広げてホームズの前にずいと突き出した。
ホームズはよれた背広のポケットを探ったが、出てきたのはマッチの箱とくしゃくしゃの紙切れ数枚だけだった。焦れた彼は椅子から立ち上がる手間すら惜しんで、私に向かって叫んだ。
「ジョン!」
「えっ僕が払うのか?」
「後で返す。いいから早く!」
私はしぶしぶ、自分の財布から数枚のコインを取り出した。ウィギンズ少年は「毎度!」と弾んだ声を上げると、つい数時間前に起こったばかりだと言うその『貴族殺し』について語りはじめた。
「殺されたのはイーサン・セリグマン男爵。刃物で喉をかっ切られた上に腹や胸を何か所も刺されてたって話だ。犯人は男爵に相当恨みを持ってたんだろうな。昼飯に男爵を呼びに行った執事が第一発見者だ。現場は血まみれで、男爵夫人は卒倒しちまったってよ」
「シャーロック、こんな小さな子に何てこと調べさせてるの……!」
「真っ昼間に夫人や使用人たちもいる屋敷の中で殺されたってのか? 内部犯か?」
ハドソン夫人の非難の声を無視して、シャーロックが尋ねた。ウィギンズ少年は少しばかり顔をしかめながら答えた。
「……多分。男爵が殺されてるのが見つかってから、使用人が一人、行方知れずになってる」
「何だよ、犯人もう分かってんじゃねぇか」
シャーロックがため息とともに紫煙を天井に向かって吐き出した。
「貴族殺しが起こったら何でもいいから情報持ってこいって言ったのはあんただろ! 新聞社より早く聞きつけてきてやったのに!」
「別に金返せなんて言ってねぇだろ。ご苦労さん」
我らが名探偵はもはや完全に興味をなくした様子で、そばにあった論文の束をめくり始めた。
私は悔しがるウィギンズ少年に、例の缶入りクッキーをすすめた。すると彼はころりと機嫌を直して、クッキーを二、三枚まとめて口の中に放り込む。ハドソン夫人は苦笑しながらも、戸棚からカップをひとつ取り出して彼のために紅茶を注いでくれた。
「ウィギンズくん、こんな男の言うこと聞いてあんまり危ないことに首突っ込んじゃダメよ。それにしても、犯人が逃げたままなんて怖いわね。早くレストレード警部たちに捕まえてもらわないと……」
その時、もう一度階下で呼び鈴が鳴った。
噂をすれば何とやら、やって来たのはレストレード警部だった。応対に出たハドソン夫人も驚いた様子だった。
「ホームズ、お待ちかねの『貴族殺し』だ」
警部はやや皮肉っぽい含みを持たせながらそう切り出した。けれどホームズは視線を論文に落としたままだ。
「知ってる。セリグマン男爵だろ?」
「何故それを?」
「名探偵には凄腕の情報屋がついてるんだぜ!」
ウィギンズ少年が得意満面で口を挟んだ。
私は、彼から聞いた事件の話をレストレード警部に説明した。
「なるほど。実は私がホームズに相談したかったのも、同じ事件なのです。ワトソン先生」
「でも、犯人ははっきりしているのでしょう?」
「ええ。フレドリック・パーシーという青年が、男爵の遺体が発見されて以降行方を眩ませています。奴が犯人であることには疑いの余地はないでしょう」
「それでは何故ここに? この広いロンドンで逃亡犯を探し出すなら、あなた方スコットランド・ヤードの組織力の見せどころでしょう」
「それが、少々面倒なことになっていまして……」
レストレード警部は頬を掻きながら、ホームズの方を横目でちらりと伺った。彼が変わらず煙草をふかしながら論文を読んでいるので、警部は幾分むっとした様子で、私に向かって事件のあらましを説明しはじめた。
「男爵の遺体が発見されたのは今日の午後十二時を少し回ったところでした。昼食の時間になっても男爵が書斎から出てこなかったので、執事が呼びに行ったそうです。書斎は一階にあり、ドアの鍵は掛かっていなかった。また、中庭に面した窓にはカーテンが引かれていましたが、窓自体は開いていました」
「屋敷内からも中庭からも出入りが可能だったということですね」
レストレード警部はひとつ頷いて、続けた。
「遺体は、書斎の机のそばに倒れていました。机の上にあった陶器製のランプが落ちて割れ、本や書類が床に散乱していて、殺される前に犯人と争ったものと思われます」
「犯人……その、行方不明の使用人と?」
「おそらく。つい一週間ほど前に下男として雇われたばかりの青年です。詳しいことは現在調査中ですが、書斎に置いてあった現金や切手類がなくなっています。おそらく、書斎に忍び込んで盗みを働いていたところを男爵に見つかり、揉み合いになった末に殺害に及んだのではないかと……」
「取っ組み合いになった拍子にうっかり殺しちまったんなら、普通はさっさとずらかるだろ。こいつからは、男爵は腹や胸を何か所も刺されてたって聞いたが?」
いつの間にか論文の束から顔を上げて話を聞いていたホームズが口を挟んだ。もっともな指摘に、レストレード警部は「ああ、そこなんだ」と困り果てた表情で頷いた。
「あの現場を見れば、お前でなくてもはっきりと分かるだろう。殺害現場はおそらく書斎ではない。誰かが男爵の遺体を移動させている」
「どういうことだ?」
「……書斎に残された血痕が少なすぎるんだ。致命傷は間違いなく首の傷だが、本棚にも壁紙にも血が飛んでいない。おそらく別の場所で喉を裂かれて殺害されてから、書斎に運ばれたのではないかと推測される」
「嘘だ! 現場は血の海だったんだろ?」
ウィギンズ少年が声を上げると、警部は大きくため息をついた。
「君みたいな子どもが殺人現場の周りを嗅ぎ回っていたら、俺もそう言うだろうな」
彼は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐにその意味を理解して顔を真っ赤にした。
要はただ脅かされただけなのだろう。殺人現場は血みどろで恐ろしいことになっているから、こんなところにいないで早くおうちに帰りなさい、と。
「ちくしょう……あの野郎、馬鹿にしやがって」
「その話は誰から聞いた?」
「知らない。野次馬の中にいた奴だよ。警官たちが話してるのを聞いたって言ってたのに、とんでもない嘘つき野郎だ」
ウィギンズ少年は悔しそうにそう吐き捨てて紅茶を煽った。缶の中のクッキーはいつの間にかほとんどなくなってしまっていたが、私もハドソン夫人も手を伸ばす気にはなれなかった。
ホームズが重ねて問うた。
「そいつは他に何か言ってたか?」
「えーと、セリグマン男爵の屋敷は、もともと使用人がしょっちゅう入れ替わってたらしい。男爵が威張って使用人をいじめるから、恨みを買って殺されたんだろうって……」
「それは事実か、レストレード?」
ホームズに問われて、レストレード警部は考え込むように自分の顎を撫でた。
「いや、確認は取れていない。……だが確かに、使用人の入れ替わりは激しかったんだろうな。パーシーの名前を覚えていなかったメイドもいたくらいだ」
「……………」
ホームズは、何かを考えるようにしばらくの間黙り込んでいた。彼が再び口を開くのを、部屋に集まった全員がどことなく緊張しながら待っていた。
「……話を戻すか。つまりお前は、俺に本当の殺害現場を特定してほしいんだな?」
「ああ、その通りだ。何しろ男爵夫人も第一発見者の執事も、死体が移動されたことを認めないんだ」
「認めない?」
「ああ。通報を受けたヤードが駆けつけるまで誰も遺体に手を触れていないと言い張っている。使用人たちの証言もそれを裏付けるようなものばかり……。十二時少し前に何かが割れるような物音を聞いたが、呼び鈴が鳴らなかったので誰も書斎に近づいていないと。屋敷内の捜査も制限された挙げ句、夫人が『私たちを疑っているのか』と逆上する始末だ」
「パーシーがトンズラする前にわざわざ遺体を書斎へ運んだとは考えにくい。奴が男爵を殺して逃げた後、屋敷に残ったうちの誰かがやったに違いないが、誰もそれを認めないし捜査を邪魔されて特定する材料が見つからない、と。それで打つ手が無くなってここに来たってわけだ」
「面目ない」
レストレード警部はばりばりと頭をかいた。
状況からしてパーシーが犯人である可能性は極めて高いし、相手が貴族である以上、強引に家宅捜索をするわけにもいかないのだろう。
私は自分なりに考えをまとめてから、口を開いた。
「今の話を聞いた限りでは……何だか男爵夫人が怪しいような気がしますね。彼女が男爵を殺してしまい、それを隠蔽するために執事が現場を偽装し、使用人たちも口裏を合わせている、という線はどうでしょう。逆に、夫人以外の誰かが犯人だったなら、庇う理由も見当たりません」
「まぁ……、いやな話ね」
「もし本当に男爵夫人が犯人なら、行方不明のパーシーは? 罪をなすりつけるためにそいつも殺されちゃったとか?」
ウィギンズ少年の物騒な推測に、ハドソン夫人はとうとうホームズを睨みつけた。まだ十代半ばの少年からこんな発想が飛び出すのは間違いなく彼の影響だからだ。
当のホームズは彼女からの圧力などどこ吹く風と言わんばかりの様子で、椅子の上に両膝を立てて座り何やらぶつぶつと呟いている。やがて瞑想状態を脱した彼の瞳には、生き生きとした輝きがあった。
「面白れぇ。やってやるよ」
「できるのか?」
「お前の見立てが正しけりゃ、屋敷の人間のうちの誰かが――下手すりゃ全員が、確実に嘘をついてるってことだろ。突破口は必ずあるさ」
「相手は貴族だぞ。あまり派手にやると……」
「わかってるって。行くぞ、ジョン」
ホームズは椅子から勢いよく立ち上がると、肩にジャケットを引っ掛けて颯爽と出ていってしまった。私とレストレード警部は慌てて彼のあとを追った。
ウィギンズ少年から話を聞いた段階では実に単純な事件に思われたが、裏には複雑な謎が潜んでいそうだ。
これはきっと、彼を主人公とした小説の題材にふさわしい事件になるのではないだろうか。そんな予感を抱きながら、私は表で待っていたスコットランド・ヤードの馬車に乗り込んだ。
*
二 セリグマン男爵邸
私たちが馬車に揺られてセリグマン男爵邸に到着したのは、もう日も傾きかけた時間だった。
街中から比較的近い、当世風の瀟洒な屋敷だった。意匠を凝らした金細工の門を潜り、屋敷前の車止めで馬車を降りると、立っていた警官がびしりと敬礼をした。
私とホームズは、レストレード警部の後に続いて真っ直ぐに犯行現場――もとい、遺体発見現場――である書斎へと通された。
一歩足を踏み込んで、私は思わず顔をしかめた。
ヤードの現場検証がちょうど一段落したところらしく、男爵の遺体は部屋の隅で布を被せられていた。しかし、遺体がどこに横たわっていたのかは絨毯に染み込んだ血のおかげで一目瞭然だ。
元軍医として、私は一般市民よりはるかに多くの遺体を見てきた。けれどそれは病院内や戦場に限った話であり、落ち着いた雰囲気の書斎に広がる血痕というのはあまり気持ちのいいものではない。
「遺体が発見されたのはちょうどその辺り……デスクの影に、うつ伏せの状態で倒れていた」
レストレード警部の説明を聞きながら、ホームズは迷いのない足取りでデスクの方へ向かった。彼の革靴のつま先が、絨毯の血をたっぷり含んだ部分を踏んづけたが気にする様子もない。
床には血痕の他に、陶器の破片が散らばっている。犯人と男爵が揉み合った際に落ちて割れたというランプだろう。破片と残った台座から見ても、私にはとても手が出せないような値打ちものだったことが見て取れた。
ホームズは破片の一つをつまみ上げた。
「ランプが置いてあったのは……ここか」
デスクの上に、よく見ると丸い跡が残っていた。
レストレード警部が頷いた。
「そうだ。それから、デスクの引き出しから紙幣や切手、腕時計……とにかく換金できそうなものが根こそぎがなくなっている」
「パーシーが盗んでいったのですか?」
「おそらく」
ホームズは次に窓辺に歩み寄った。
「遺体が見つかった時、この窓は開いてたんだな」
「ああ。だがカーテンは引かれていた」
シャッと音を立ててカーテンを開けると、外には中庭が広がっていた。四方を屋敷の白い壁に囲まれてはいるが、木々に遮られて見通しは意外と良くない。
こっそりと書斎に侵入するなら、廊下を通ってドアから入るより安全なルートかもしれなかった。
その発見を伝えようと隣を見やると、ホームズは私とは対照的に、窓のすぐ下の地面を注視していた。その様子に、レストレード警部がうんうんと頷く。
「お前も気づいたか、ホームズ」
「ああ。誰か花壇に入ったな」
下を見ると、この窓の真下だけ、花壇の土が踏み荒らされていた。植えられたスイセンの茎も数本折れている。
「足跡の照合は?」
「やってみてはいるが、難しいだろうな。見ての通り、足跡をつけてしまったことに気がついてその場で足踏みしたんだろう。すっかり潰されてしまって誰の靴か分からない。あとは花壇を跨いで、芝生の上を歩いて行ったようだ」
「狡猾な奴ですね……」
私がつぶやくと、ホームズがちらりとこちらを見た。
「そいつは誰のことだ、ジョン?」
「え? 誰って……」
パーシーではないのか? そう答えようとして、私は「あっ」と声を上げた。
「そうか……屋敷から逃げ出したパーシーには足跡を偽装する必要もないのか」
「その通りだ」
「書斎から脱出するときではなく、書斎に入り込む前に付けた足跡では?」
「これだけ花壇を踏み荒らせば、必ず靴に土がつく。だが窓枠にも絨毯にも土の跡はない。したがって、これが書斎に入る前に付けられた跡であることはありえない」
ホームズの理論は明解だった。
「つまりこいつは、男爵とパーシー以外の第三者がこの書斎からこっそり出ていったことを示す動かぬ証拠ってわけだ」
彼は両手をすり合わせながら、うきうきとした様子を隠そうともせず振り返った。
「さて、いよいよ死体を見せてもらおうか。レストレード」
セリグマン男爵は、いかめしい鷲鼻をした、五十歳そこそこの紳士であった。
レストレード警部が遺体に掛けられた布をめくると、真っ先に目に飛び込んできたのは赤黒い血の色だった。警部やウィギンズ少年の話通り、男爵は首筋を裂かれ、胸から腹部にかけては無数の刺し傷があった。有り体に言えば『めった刺し』だ。
「どうだ、ジョン?」
ホームズの声に、私は自分の仕事を思いだした。
「ああ……確かに、首の傷が致命傷だろう。頸動脈を綺麗に切り裂かれている。腹や胸の刺し傷は、傷口の状態からして、おそらくは死後につけられたものだ」
「監察医も同じ見解です」
レストレード警部が頷いた。
「遺体のそばに、包丁が落ちていました。この屋敷の調理場から持ち出されたもので、これが凶器で間違いないかと」
私は凄惨な遺体から顔を上げて、室内を見回した。
「ほんとうに、壁に血痕が一つもない……」
「ああ。誰だか知らねぇが、まったく雑な偽装だ」
ホームズはため息をついた。
これだけすっぱりと首を裂かれれば、必ず血が噴き出す。それなのに、部屋中探してみても壁紙や本棚にはしみ一つ見当たらなかった。
被害者に布を被せれば、とも考えたが、布越しに頸動脈の場所を探り当てて正確に切り裂くなんて芸当は我々医者にも難しそうだ。
「ジョン、これは生前についた傷だな?」
ホームズが男爵の右手を持ち上げながら、私に尋ねた。確かに、手の甲に小さな引っかき傷がある。
「そうだな。血が固まりかけているから、生前に負った傷のはずだ。もっとも、事件に関係があるかどうかは……」
私は最後まで話すことができなかった。
書斎のドアがノックの直後に勢いよく開いて、大柄な初老の男性が飛び込んで来たからだ。
「警部! 勝手なことをされては困ります!」
男は部屋に入るなりそう声を上げて、男爵の遺体を検分する私たちを睨みつけた。
「誰ですか、彼らは? 部外者を屋敷に入れるなんて……」
「失礼しました。彼らは我々ヤードの捜査協力者で、私立探偵をしている者です」
「探偵?」
「ええ、独自の情報網を持っていまして、人探しにかけてはこのロンドンで右に出る者はいないほどです。パーシーの足取りを追うためには彼らの協力が不可欠と考えて、ここに呼んだのです。……こちら、執事のニコルソンさん」
最後の一言は私とホームズに向けたものだった。
なるほど、レストレード警部は『人探し専門の私立探偵』という名目でホームズを呼んだらしかった。話を合わせてくれ、と言わんばかりに警部からウインクが送られたが、ホームズはまるで気がついていない。
「あんたが第一発見者か?」
遺体から目を話すことなく、ホームズがぞんざいな口調で尋ねた。
「男爵の姿を最後に見たのは何時ごろだ?」
「それはもう刑事さん方に散々話しましたよ」
「俺はまだ聞いてない」
「……今朝の十時過ぎです。ここで書き物をなさっていた旦那様にお茶をお出ししました」
「そいつは変だ。ティーセットはどこに消えた?」
ホームズは机の上を指し示した。ティーセットはおろか、書類の一枚も広げられていない。
執事に疑いの目を向けようとする私たちに、レストレード警部が慌てて口を挟んだ。
「その一時間後にメイドが書斎に入ってティーセットを下げている。彼女が、生きている男爵の姿を最後に見た人間だ」
「ほー、じゃあ、犯行時刻がだいぶ絞られるな。そのメイドと話せるか?」
ホームズはまるで自分の部下にでも話しかけるようなぞんざいな口調で執事に問うた。人に仕えることを生業とする彼も、さすがに初対面の男にこうも気安い態度で接せられるのは我慢ならないようだった。
「一体何なんですか、あんたたちは」
「だから探偵だって」
「人探し専門の探偵なら、これ以上ここに用もないでしょう。さっさとパーシーの奴を探しにいったらどうなんです?」
「ああ、もう結構。参考になったぜ」
ホームズは執事の居丈高な態度もどこ吹く風といった様子で応じた。
「じゃあ、『捜索』の糸口を得るために、奥様や使用人の皆さんからお話を聞かせてもらおうか。もちろんあんたにも」
私達は半ば書斎を追い出される形で、隣の客間に追いやられた。
*
三 男爵夫人と執事の証言
ソファに腰かけてしばらくしないうちに、メイドが一人、お茶を持ってきてくれた。
ごく大人しそうな若いお嬢さんで、椅子に膝を立てて座り何事かぶつぶつと呟いているホームズに怯えているようだった。そのおどおどとした態度も、仕えている屋敷の主人が殺されたばかりなのだから無理からぬ話だ。
「どうもありがとう」
私はなるべく丁寧にお礼を言った。
メイドは小さく頭を下げた。そのまま私と目を合わせぬように引き下がろうとして、「あ」と小さく声を上げた。
「あの、お怪我を……」
「あ、大丈夫ですよ。今朝少し転んでしまって」
彼女は私が顎をすりむいているのに気が付いたらしかった。
「血がにじんでいますよ。何か、消毒とか……」
「お気遣いありがとうございます。ですが、心配無用ですよ。私はこれでも医者の端くれでね。処置は済んでいますので、あとは自然治癒あるのみです」
冗談めかして笑いかけると、彼女はどう反応していいのかわからないといった顔で曖昧に頷いた。よく気の付く親切な女性であったが、どうやら少し人見知りをするタイプに見えたので、そこで会話を切り上げるつもりだった。私は。
「なぁ、あんたはパーシーのこと知ってるのか?」
唐突に立ち上がったホームズが、メイドの肩を叩いた。
彼女は飛び上がるほど驚いて、持っていた盆を盾のように掲げた。
「シャーロック!」私は思わず声を上げた。
「何やってるんだ、急に。初対面の女性に馴れ馴れしすぎるぞ!」
「ああ、悪い悪い。で、パーシーはどんな奴だった?」
「はい?」
「同僚なんだから、話したことくらいあるだろ。なぁ、どんな奴だった? あ、もしかして、あんたが最後に書斎に入ったメイドか?」
ホームズは悪びれもせず彼女に質問を浴びせかけた。聞いている事自体は何もおかしくはないが、手順を完璧に間違えている。私は彼のジャケットを掴んで引っ張った。
「いいから、一回座れ!」
「何の騒ぎです?」
部屋のドアがガチャリと開いて、先ほどの執事が入ってきた。
背後にはレストレード警部と、年配の婦人の姿も見える。大きな耳飾りをつけた彼女が、おそらくセリグマン男爵夫人なのだろう。痩せた体に目だけが妙に鋭く、その表情は不安そうにも苛立たしげにも見える。
メイドが慌ててホームズと距離を取って顔を伏せた。
「用が済んだなら下がりなさい、リネット」
執事の言葉に、メイドはこくこくと頷いてさっと部屋を出ていった。
老婦人はやはり、セリグマン男爵夫人であった。
「こちら、私立探偵をしている、我々の協力者です」
レストレード警部は私たちのことをごく簡単に紹介した。幸い、男爵夫人は興味なさそうに首を傾げて見せただけで、私とホームズが名乗っても大した反応を見せなかった。
「あなた方があの恩知らずの人殺しを見つけてくださるんですの?」
「ええ、もちろん。この度はご愁傷様です」
ホームズが黙っているので、私はなるべく愛想よく挨拶をした。
「早速お話を伺いたいのですが」
「ヤードだろうと探偵だろうと構いませんから、とにかく早くあの男を捕まえてくださいな。ああ、かわいそうなヘンリー!」
セリグマン夫人は扇で口元を覆いながら嘆いた。
私はざっと記憶をひっくり返してみたが、たしか殺された男爵はヘンリーなんていう名前ではなかった。
「失礼ですが、ヘンリーさんというのは?」
「息子です。まだ学生ですの。エディンバラの大学に通っておりまして・・・・・・先ほどニコルソンに言って電報を打たせましたわ。今頃列車に飛び乗っている頃でしょうけど、あの子が今どんな気持ちでいるのか想像しただけで、胸が張り裂けそうで……」
「それは、ご愁傷様です……」
私は同じ言葉を繰り返した。
ここに来る前の私は男爵夫人をなんとなく怪しんでいたが、いざ実物に相対してみるとこの小柄な老婦人に犯行は難しい気がしてきた。床に横たわった状態だったから定かではないが男爵の身長は私と変わらないくらいだったように思う。
私はホームズの方をちらりと盗み見た。
彼は夫人をじろじろと値踏みするように観察している。今のところ会話をする気がないのは明らかで、彼女の注意を引く意味でも、私が場を繋ぐ必要があるようだった。
会話の取っ掛かりとして、私は夫人が先ほどから指先を何度もこすり合わせる仕草をしているのに目をとめた。
「失礼ですが、神経痛を患っていらっしゃるのですね」
「え。ええ、よくおわかりになりましたね」
「観察するのが私の仕事ですから」
レストレード警部の機転を無駄にしないためにも、私はあえて医者であることをぼかして答えた。我が親友の台詞を真似て少々格好をつけてみると、夫人の態度が少しばかり和らいだ。
「最近どうもひどくって・・・・・・。今日はお天気もいいからマシな方ですけど」
「いい薬茶がありますので、後でお渡ししましょう。私も古傷が痛むときに飲むのですが、気持ちが落ちついて痛みが和らぎますよ」
「まあ、それはご親切に」
「ところで、奥様がパーシーについてご存じのことを教えていただけないでしょうか。彼の行方を追うために、少しでも手がかりがほしいのです」
「手がかり、と言われましても・・・・・・使用人の差配はすべてニコルソンに任せていますの。長く仕えている者ならまだしも、あんな無教養な労働者階級のこと、知ってどうするんですの?」
なぜそんなことを聞くのか、と言いたげな口ぶりに私は少しばかりの戸惑いを覚えた。
「でも、同じ屋根の下で一緒に暮らしている人間でしょう?」
「まあ、なんてことおっしゃるの。一緒に暮らしているだなんて・・・・・・私どもは彼らに仕事を与えて屋根を貸してやっているだけですよ、ワトソンさん!」
夫人は私を追い払うように扇を振った。私がこの老婦人にとってとんでもなく無礼で非常識な発言をしたかのように。彼女の目には純粋な不快感と侮蔑しか浮かんでいなくて、私は少し途方に暮れた。この国で暮らしていると度々ぶつかる壁だった。
「お気持ちはお察ししますよ、奥様。彼らの英語は汚くて、仕事じゃなければ話をするのもお断りしたいくらいだ」
ホームズが口を開いた。普段のコックニーからは想像もつかないほど美しいクイーンズ・イングリッシュだった。
「この部屋に来る途中、廊下の絨毯に大きなシミがありましたね。スープか何かをこぼしたのでしょうか?」
「ええ、のろまなメイドがおりましてね」
「それはお気の毒に・・・・・・」
ホームズは慇懃に手のひらを擦り合わせた。
「それでは、ニコルソンさんにお尋ねしましょうか。パーシーはどういった経緯でこの屋敷で働くことになったんです?」
執事が、ホームズが先ほどとは打って変わって非常に丁寧な言葉遣いをするのに面食らっているのが感じ取れた。だが女主人の手前、そのような態度はおくびにも出さず答えた。
「リージェントの職業斡旋所からの紹介です」
後ろでレストレード警部が小さく頷くのが見えた。すでに手は回しているのだろう。
「健康面に問題もなく、よその屋敷にしばらく勤めていたので若くとも経験があるという話だったのですが……」
「少々手癖の悪い青年だった、というわけですか」
「ええ、我々は何も聞かされていませんでしたがね!」
執事は苛立たしげに首を振った。
「以前に勤めていたという屋敷はどちらに?」
「さあ、私どももそこまでは……出身はサセックスかどこか、南の方だとは聞いていましたが。それは今、警察の方で調査してくださっているんでしょう?」
「ええ、もちろん」
レストレード警部が請け負った。
であれば、遅かれ早かれパーシーがいざというときに頼りそうな逃亡先――かつての同僚や、地元の家族――が見つかるだろう。
ホームズは少し考えたのち、椅子からすっくと立ち上がった。
「貴重なお話をありがとうございました。それではさっそく仕事に取り掛かりたいと思いますので、これで失礼します」
そう言い残して、彼はさっさと玄関に向かって歩き始めた。
気の毒なレストレード警部は顎が外れそうなほどあんぐりと口を開けていたが、すぐに気を取り直してホームズの後を追った。男爵夫人と執事に会釈して、私も二人の後に続いた。
*
四 ホームズの宿題
「ホームズ! お前、ここまで来ておいて興味が失せたなんて言わないよな!?」
屋敷の前で待っていた辻馬車に乗り込もうとするホームズに、警部は必死の形相で詰め寄った。
「バカ、そんな無責任なことしねぇよ」
「だったら……」
「いいか、レストレード。宿題を出す。一つは、明日の昼までこの屋敷に警官を配置しておくこと。殺人事件が起こってその犯人が逃亡中となりゃ、そう難しい話でもないだろ。もう一つは、あのランプの破片を拾い集めて元通りに繋ぎなおすことだ」
「一つ目はともかく……二つ目は何のために?」
「いいから。それさえやってくれれば後はこっちで何とかしてやるよ。夫人を刺激しすぎるなよ。あ、パーシーの身元も、何かわかったら報告してくれ」
彼はそれだけ言うと馬車の座席の奥に詰めて、私が座るためのスペースを空けた。レストレード警部は戸惑いながら引き下がり、私もまた戸惑いながら辻馬車に乗り込んだ。
御者が馬に鞭をくれて、馬車がゆっくりと走り出す。
辺りはすでに夕闇に包まれ始めていた。屋敷と警部を後ろに見送りながら、私はがたがたと揺れる座席に身を預けた。
「……シャーロック、よかったのか?」
「何が?」
「何がって……こんなにあっさり出てきてしまったことだよ。もっと詳細な調査や聞き込みをしなくてよかったのか? まだ使用人たちにもちっとも話を聞いていないじゃないか」
「見るべきもんはだいたい見たさ」
「でも、レストレード警部からの頼み事も果たせていないじゃないか。男爵が本当に殺された場所を特定するっていう……」
「アタリはつけた。が、あの場じゃ難しそうだったからな」
ホームズはいつも通りの自信ありげな態度だった。
「なぁジョン、煙草吸っていいか?」
「……勝手にしろ」
私はため息をついて、馬車のガラス窓を開けた。
ホームズも私に倣って反対側の窓を開けると、マッチを擦って煙草に火をつけた。彼が愛用しているきつい銘柄だ。窓を開けているからといって煙がすべて外へ流れ出てくれるはずもなく、車内はたちまち紫煙で煙たくなった。しかし勝手にしろと言った手前、今さら吸うのをやめろとは言えない。私は気を逸らせるためにも、この奇妙な事件のことを頭の中で反芻した。
書斎に横たわる男爵の死体。綺麗なままの壁紙に、粉々に砕けたランプ。花壇に残された痕跡。わが子の心配をする男爵夫人の言葉と、軽蔑に満ちた表情……。
「……パーシーは、何のために男爵を殺したのだろう」
「気になるか?」
独り言のつもりで漏らした呟きに、思いがけずホームズが反応した。
「当然気になるさ。パーシーの動機によっては、事件の性質が全く変わってくるだろう。あんな風に遺体をめった刺しにしていたら『盗みを働いていたところを見つかって、揉み合ううちにうっかり殺してしまった』では、もう説明がつかないじゃないか」
「そうだな」
「それに、書斎の壁に血痕が残っていなかった件についてもだ。遺体を移動させたにしろ、何らかの偽装を行ったにしろ、どうしてそのことを男爵夫人と執事に尋ねなかった?」
「あいつらは確実に何か知ってるだろう。でも、だからって直接聞けばいいってもんじゃねぇよ」
「じゃあ誰に聞くんだ?」
しかし、ホームズはまたしても私の質問には答えなかった。
「その薬茶ってのは、すぐに用意できるのか?」
「はぁ?」
脈絡のない質問に思わす声を上げても、彼は窓枠に肘をついたままこちらを見ようともしない。私の質問に答える気はないし考えのすべてを話すつもりはない、という意思表示だろう。
その勝手気ままな態度に私はいくらかの不満を覚えたが、こうなってしまった彼に話しかけるのは得策ではない。私と彼との付き合いはまだそう長くなかったが、『謎』に取り組んでいるときの彼の取り扱いは心得ているつもりだ。
私たちを乗せた馬車が二二一Bに到着しても、ホームズは黙ったままだった。
彼は夕食の後、無言で暖炉の前に座っていた。
微動だにしないホームズの顔が赤々とした炎に照らされて、彫刻のような陰影を描いている。眉間の皺は彫り込まれたように深く、苦悩しているようにも見えたが、瞳はらんらんと輝いている。
私は彼の邪魔をしないように自分の書き物机に向かっていたが、何も手に付かず、結局はただ座っていただけだった。
「乗りかかった船だ。最後までやるさ」
時計の鐘が深夜十二時を打つ頃、ホームズがぽつりと呟いた。
その晩はそれきりだった。
初出:Pixiv 2023.02.19
消えたひと欠片 後編
『悪徳貴族を成敗してその謎をホームズに解かせる』話。
五 早朝の来訪者
翌朝、私はいつもより少し早い時間にベッドから這い出した。
体が重く、どこかだるい。
重厚な雰囲気の書斎で物言わぬ姿になっていたセリグマン男爵が、奇怪な夢に形を変えて私の眠りを脅かしたのだ。気怠さを振り払って何とか身支度をし、共用スペースのティーテーブルについた。
私の同居人、シャーロック・ホームズは、すでにいつものよれたスーツに身を包んで、ハドソン夫人が入れてくれたであろうコーヒーを飲んでいた。事件を抱えているときの彼は、普段のものぐさな彼とは打って変わって活動的になる。しかし、添えられたトーストやゆで卵に手をつける気配はない。砂糖たっぷりのコーヒーが注がれたカップを傾けながら、彼の心は思考の海をさまよっているようだった。
「おはよう、シャーロック」
「おう」
私が挨拶しても、彼は短くそう答えただけだった。
昨日の事件について切り出す前に、階下で呼び鈴が鳴った。
「時間通り。勤め人ってのは立派なもんだな」
やって来たのは、やはりレストレード警部だった。
私たちが帰ったあとも徹夜で捜査に打ち込んでいたのだろう。スーツもネクタイも昨日と同じものだったし、口の周りには無精ひげが見られた。それでも彼にくたびれたような様子はなく、目は鋭く輝いている。
テーブルに私たちの分のコーヒーと軽食を並べるハドソン夫人に軽く頭を下げて、警部はきびきびとして口調で切り出した。
「現時点での調査結果を報告する」
「ああ、頼む」
「まずは、事件後のフレドリック・パーシーの足取りだ。昨日の昼十二時頃――男爵が殺された直後に、奴が裏口から出て行ったのを庭師の爺さんが目撃している。一番若くて新入りのパーシーが使い走りに出されることは多かったらしいから、特に気に留めなかったそうだ。大きな持ち物もなく、手ぶらだった。その後サウス・ストリート方面に向かうパーシーらしき人物を見たとの情報もあったが……やや小柄な以外は取り立てて特徴のない男だ。雇われたばかりで近所の人間もまだ顔をろくに覚えていなかったし、聞き込みでの成果は今のところない」
警部の話を聞きながら、私は少し背筋が寒くなった。昨日、ちょうど私がサウス・ストリートの工事現場で転んでいたとき、心配げにこちらを振り返る通行人たちの中に殺人犯が混ざっていたかもしれなかったわけだ。
「次にパーシーの身元だ。ホーシャム出身の二十歳。職業斡旋所の紹介でセリグマン男爵家の下男として雇われた、という話は昨日執事からも聞いた通りだが……以前の職場に問い合わせてみても、『そんな人間が在籍していた記録はない』という回答だった。今、部下たちに追加の調査をさせてはいるが……」
「名前も経歴もでたらめか」
「おそらく。奴の友人だとか、知り合いだという人間がまだ一人も見つからない。男爵家に住み込みで働き始める前にどこに住んでいたのかもわからない。奴が雇われたのはたった一週間前だというのに、街のどこにも奴の痕跡が残っていない!」
レストレード警部はお手上げだ、という顔でため息をついた。
私は言葉を失くした。そんな人間がこのロンドンに存在するのか?
これだけ大勢の人間の行きかう街で、誰の記憶にも、何の記録にも残らず生活をするのはほぼ不可能と言っていいだろう。私立探偵として、人々よりも一段高い視点から世間を眺める生活を送っているホームズでさえ、私とともに街を歩き、たまには店屋で買い物をし、滞りがちながらもハドソン夫人に家賃を支払っているのだ。
真っ先に思い浮かべたのは、パーシーが街の裏側とも呼ぶべき場所――例えばホワイトチャペルのような浮浪者が溢れかえる裏通り――からやって来た人間である可能性だ。レストレード警部は私の考えに、ううんと唸った。
「どうでしょう。他の使用人たちの話では、パーシーは読み書きもできて、物静かで勤勉な青年だったようです」
「しかし、彼は実際に書斎に忍び込んで金品を盗んでいたわけでしょう」
「俺なら、真昼間に主人の書斎に忍び込んだりしないがね」
ホームズが口を挟んだ。
「雇われて一週間じゃ、まだ屋敷の人間たちの行動パターンも掴めてなかったはずだ。仮に見つからなかったとしても、外部から侵入された形跡もなく屋敷内で金目のものが消えたとなりゃ、真っ先に疑われるのはまず間違いなく新入りの使用人。そんな状況で盗みを働くならよほどの馬鹿だが……」
「奴はそう馬鹿ではなかった」とレストレード警部が引き継いだ。「何ともちぐはぐだ。これだけ派手に場当たり的な殺人を犯して逃亡したにも関わらず、いざ追跡しようとすると足跡がふっつりと消えてしまった」
その言葉に、私の脳裏にひらめくものがあった。
「そうか、やはりパーシーには共犯がいたんだ!」
「共犯?」
「あのニコルソンという執事だよ、シャーロック! 使用人の採用は彼に一任されていたんだから、彼が経歴をでっちあげてパーシーを屋敷に引き入れたのなら説明がつくだろう」
「確かに!」
レストレード警部が大きく頷いてくれたので、私はますます調子づいた。
「パーシーは執事の協力を得て盗みを働いたが、偶然男爵に現場を抑えられ、彼を殺してしまった。現場の不自然な状況も、屋敷に残った執事が何らかの目的で工作を行ったのなら一応の筋は通る」
「何らかの目的ってなんだよ?」
ホームズが訊いた。完全に面白がっている口調だ。
「何のためにって、それは……」
「本当に執事がグルなら、パーシーももっと上手いことやっただろ。盗みの最中に男爵と出くわすなんて間抜けな失敗はありえねぇ」
「じゃ、じゃあ、彼らの本当の目的は男爵を殺害することだったんだ!」
少しばかりむきになってそう叫び返したとき、ホームズの顔から意地の悪いにやにや笑いが消えた。その反応は私にとっても意外であった。苦し紛れに口から飛び出した説だったが、めった刺しにされた遺体の状況を考えるとありえない話ではないだろう。
しかしホームズはそれについて深く掘り下げようとはせず、レストレード警部の方を向いた。
「で、俺からの『宿題』はどうだった?」
「あ、ああ……割れたランプの復元だな。こっちはすぐに片付いたよ。かさの部分に絵柄が入っていたからな」
警部は懐から手帳を取り出した。
「部屋中いくら探しても、破片の一つが見つからなかった。ここの黒い部分だ」
差し出された手帳には、簡単なランプのスケッチが描かれていた。かさの一部分が黒く塗りつぶされている。一つの破片とするならば、私の人差し指くらいの大きさだろうか。片側が、矢じりのように鋭くとがった形をしている。
「まさか、男爵の首筋を裂いた凶器は……」
私の言葉に、ホームズは目だけで頷いた。
その確信をもった顔に、私は混乱した。
しかしその疑問を頭の中で整理するより先に、またしても呼び鈴が鳴った。
「こっちも時間通りだ。ハドソンさん、悪いが通してくれ」
階下に向かってホームズが大声を出すと、やがて階段を上る足音が聞こえてきた。
*
六 二人目の客人
やって来たのは、見覚えのある若い女性だった。
昨日ホームズが不躾にも肩に触れた、あのメイドだ。確か名前は、リネットといっただろうか。
すっきりと通った鼻筋と榛色の瞳から、ぱっと見たときは聡明そうな印象を受けるが、背を丸めてどこか自信なさそうに周囲をうかがう仕草が何とももったいない。おまけに私と同じく昨夜はあまりよく眠れなかったと見えて、昨日に比べるといっそう顔色が暗い。慌てて身支度をしてきたのかまとめ髪からは細い毛束がぴょこぴょこと飛び出していた。
ハドソン夫人に案内されて部屋に通された彼女は、室内にレストレード警部の姿を見つけてぎょっと目を見開いた。
「ど、どうして刑事さんがいらっしゃるんです、ワトソン先生!」
「え?」
彼女に睨みつけられて、私は心底驚いた。
「先生が私を呼び出したのでしょう、奥様のリウマチに効く薬茶を用意したからすぐに取りに来るようにって、電報で……」
「ま、待ってください、一体何の話を……」
「まぁまぁ、座ってコーヒーでもどうぞ。リネット嬢」
部屋のドアをばたんと閉めながら、ホームズが割り込んだ。その芝居がかった口調と椅子を勧めるなめらかな手付きに、私はすべてを理解した。
「シャーロック! 君、まさか僕の名前を騙って彼女を呼び出したのか?」
「彼女は重要参考人だからな」
ホームズは少しも悪びれずに肩を竦めてみせた。
『重要参考人』という言葉にレストレード警部は片眉を上げ、リネット嬢と呼ばれた彼女は真っ青になった。ハドソン夫人が駆け寄って、彼女の肩を抱く。
「ちょっと、シャーロック。どういうつもりなの?」
「別に若いお嬢さんを男三人で取り囲んで尋問しようだなんて俺だって考えてねぇよ。ついでだしハドソンさんも同席してくれ」
ホームズは暖炉の前の指定席へ腰掛けた。
ハドソン夫人は彼に訝しげな顔を向けながらも、リネット嬢とともに長椅子へ腰を下ろした。私とレストレード警部も、彼女らにつづいてそれぞれの場所に腰を落ち着ける。
全員が話を聞ける態勢に入ったことを確認してから、ホームズは口を開いた。
「単刀直入に聞くぞ。昨日、書斎でランプを割ったのはあんただな」
「は?」
声を出したのは私だった。
何を言っているのだ? というのが私の率直な感想だった。だが、リネット嬢の方を振り返ると、彼女は今にも泣きだしそうな顔で肩を震わせていた。
「ど、どうして……」
「花壇に残した足跡を消したのは利口だったな。その後、ヤードが駆けつける前に靴についた土も払っておいたんだろう。だが足元ばかりに注意が向いて、肩を汚していたのには気がつかなかったようだ」
「肩?」
「昨日、あんたのブラウスの肩のあたりには白い砂のようなものが付着していた。中庭の白塗りの壁にもたれたんだろう?」
私は思わず膝を叩いていた。
昨日彼が馴れ馴れしくリネット嬢の肩に触れたのは、彼女の白いブラウスに付いた砂の存在を確かめるためだったのだ。普段の彼はむやみに女性の身体に触れたりしない人間ではあったが、それは彼が紳士であるというよりは女性というものに全く興味関心がないからだ。そんな彼のあの突飛な行動に意味がないはずがなかった。
リネット嬢はしばらくの間、椅子の上で背中を丸めて小さくなっていたが、やがて観念したように頷いた。
「はい……。おっしゃる通り、ランプを割ったのは私です。窓を通って書斎から抜け出したのも」
レストレード警部が、私の隣で小さく息をのんだのがわかった。たった今、ランプの破片がセリグマン男爵の命を奪った本当の凶器である可能性が浮上したからだ。
彼女の絶望ぶりはほとんど死刑判決を言い渡された被告人のようだった。膝の上で握りしめられた彼女の手の上にぱたぱたと涙の粒が落ちたのを見て、ハドソン夫人が彼女の背中をさすった。その優しい手つきに励まされて、リネット嬢は何とか勇気を振り絞って続きを話す。
「でも、私、旦那様を殺してなんていません。それは本当です……」
「ああ。あんたにできる犯行とは思えねぇ。第一、男爵が殺されたのはあの書斎じゃない。そうだろ?」
「…………」
言おうか、言うまいか。
リネット嬢の目に動揺が浮かんだ。彼女は明らかに何かを知っていて、迷っている。不安になった時の癖なのだろう、右手で自分の左手首をしきりにさすっていた。
口を開きかけたレストレード警部を、ホームズが目で制した。ここで詰め方を誤れば、彼女はもう自発的には口を開いてくれなくなる。そんな緊張が、私たちの間を走った。
ホームズがどのように出るのか固唾をのんで見守っていた私たちだったが、口を開いたのはハドソン夫人だった。彼女はリネット嬢の背中を優しく撫でながら、言った。
「リネットさん、あなたが犯人でないのなら、この男も刑事さんも悪いようにはしないわよ。ゆっくりでいいから、話してみてちょうだい」
他者に寄り添う、という点においてやはり女性というのは優秀だ。事件とも警察とも何の関係もないハドソン夫人に背中を押されて、リネット嬢の肩からわずかに力が抜けた。
「さぁ、もう泣かないで。顔を拭いて、しゃんとしなきゃ」
ハドソン夫人は明るく笑って、ポケットから取り出したハンカチでリネット嬢の濡れた頬を拭った。母親が幼い娘にするような、ほほえましい光景だった。
そうして涙が落ち着いてから、彼女は次のように語った。
「……あの美しい陶器のランプを割ってしまったのは私です。昨日、ティーセットを下げに書斎に伺ったとき、旦那様に書斎の掃除を言いつけられたのです。旦那様はそのまま書斎を出て行ってしまったので、私一人で掃除をしていました。でも私、昔から、粗相をしてはいけないと思えば思うほど、緊張して失敗してしまうんです。昨日も、棚の上の埃を払って、後ろに一歩下がった拍子にデスクにぶつかってしまって……。しまったと思った次の瞬間には、ランプは大きな音を立てて床の上で砕け散りました。
やってしまったと気づいたときには、手の震えが止まりませんでした。決してわざとやったわけではありません。それでも取り返しのつかない失敗に、目の前が真っ暗になって、しばらくその場から動けませんでした。
その時、背後でドアが開く音がして、私は小さく悲鳴を上げました。部屋に入ってきたのは、旦那様ではなくパーシーでした。たまたま廊下を通りかかって、物音を聞きつけたのでしょう。割れたランプに気づいて、彼の丸い目が大きく見開かれました。彼は後ろ手で素早くドアを閉めると、座り込んで呆然とする私に音もなく駆け寄りました。
『大丈夫。行ってください』
彼はそう言いました。勇気づけるように、私の背中に手を添えて。
『そこの窓から庭へ出て。誰にも見つからないように、裏口から自分の部屋に戻るんです』
当然私はためらいました。逃げたとしても、私が書斎の掃除をしていたことを旦那様は知っているのですから誤魔化しようがありません。よりいっそう旦那様の怒りを買うことになるでしょう。それでも、パーシーは私のその考えもわかっている、と言いたげに微笑みました。
『大丈夫です。……誰か来る、急いで』
大丈夫、と彼は繰り返しました。戸惑う私の手を引いて立ち上がらせると、開いていた窓から庭へと半ば無理やり押し出したのです。そして私に続いて庭へ出るものとばかり思っていた彼は『行って』ともう一度囁いてから、カーテンを閉めてしまいました。
え、と私が間の抜けた声を出すのとほとんど同時に、部屋の中でドアが開いて怒号が響きました。
『貴様、何をしている!』
旦那様の声です。
私はカーテンが閉まっていることも忘れてその場にしゃがみこみ、窓枠の下に身を隠しました。おそらくその時、白塗りの壁に肩を擦りつけてしまったのでしょう。ですがそんなことにも気づかないほど、私は震えあがっていました。心臓が破れそうなほど激しく脈打って、部屋の中の旦那様に聞こえるのではないかと思ったくらい。
『申し訳ありません。旦那さ、』
パーシーの言葉が中途半端に途切れ、鈍い音がカーテン越しでもしっかりと聞こえました。旦那様が彼を殴りつけたのです。私の代わりに。すぐに部屋の中に戻って、旦那様に説明しなければならないと思いました。ランプを落として壊したのは彼ではありません、悪いのは私です、と。それなのに、身体が動きませんでした。喉が引きつって声も上げられなくて……。
きっと、屋敷に来て間もない彼は、まだ旦那様の恐ろしさを知らなかったのでしょう。今すぐ名乗り出なければ、あの子が殺されてしまう。でも名乗り出れば私が殺されるかもしれないと思うと……。立て、立て、と頭でいくら命令しても、私は地面に膝をついたまま立ち上がれませんでした。乱暴にドアが閉まる音がして、彼が部屋の外に引きずられていくのがわかりました。私はしばらくその場から動けずにいたのですが、何とか気を持ち直して、彼に言われた通りに中庭から自室に戻ったんです。花壇に付けてしまった足跡も消して。それがまさか、こんなことになってしまうなんて……」
しゃべり終えたリネット嬢はまたしくしくと泣き始めた。
*
七 男爵家の秘密
「ちょ……ちょっとまって、リネットさん」
ようやく口を開いたのは、ハドソン夫人だった。
「『殺されるかもしれない』ってどういうこと? 貴族のお屋敷のランプなんてそりゃあ、私たち庶民には想像もつかないくらい高価なものでしょうけど」
「……リネットさん、その左の袖、めくって見せてみてくれないか」
ホームズが低い声でそう口にすると、彼女はびくりと肩を震わせた。動こうとしない彼女に焦れたハドソン夫人が、半ば無理やり手を引き剥がして、彼女のブラウスの袖をめくった。
「これは……!」
思わずそう漏らしたのは、レストレード警部だった。彼はすぐにしまった、という顔で口をつぐんだ。
リネット嬢の左の手首には、痛々しい火傷の跡があった。
ハドソン夫人はすぐに袖をもとの形に戻して、俯くリネット嬢を抱きしめた。
「男爵か?」
ホームズの問いに、彼女は小さく頷いた。
「前に、旦那様にお出しする紅茶をこぼしてしまって……」
「なんてことを……」
そんなささいな失敗への罰として、腕に熱湯をかけられたというのか。ハドソン夫人が怒りに顔をゆがめたが、リネット嬢は気づかない。
「あの、パーシーは悪くないんです。そもそも私が旦那様のランプを割ってしまったのが原因で……彼は私を庇ってくれただけで。きっと、殺されそうになって、抵抗しようとして旦那様を……」
「ああ、そんなところだろうな」
ホームズは煙草に火をつけながら、苦虫を嚙みつぶした顔をした。
「これでだいたいわかったろ。男爵を殺したのはパーシーだ。だが奴は男爵の首を――おそらくはあのランプの欠片で――かっ切って殺害しただけ。死体はおそらく、男爵夫人の指示で執事が移動させたんだろ。使用人を虐待した挙句、返り討ちにあって殺されたとなりゃ醜聞もいいところだからな」
「じゃあ、胸や腹の刺し傷は……」
「書斎を殺害現場に見せかけるための偽装だろう。死体は運べても、床に流れた血までは動かせないからな。現場を血で汚しておく必要があると考えて、調理場から持ってきたナイフで死体を刺した。だが男爵の心臓はとっくに止まってるんだから出血もしない。刺しちまってからそのことに気づいて、苦肉の策として死体をうつ伏せにしたってところだろう。傷口を下に向けさえすれば血も多少は流れ出るからな。まったく、素人丸出しの偽装だよ。
あ、そうそう。廊下にこぼれてたスープも、絨毯にうっかり落としちまった血痕を誤魔化すためにわざとこぼしたんだろうな。それからパーシーが盗みを働こうとしていたと見せかけるために、書斎の引き出しから金目のものを抜き取った、と」
ホームズは淡々と推理を述べたが、私はなんだか気分が悪くなってきた。医者のくせに情けないと思われるかもしれないが、命を救うための神聖な医療行為とは対極の、想像するのもおぞましい所業だ。ハドソン夫人も、ついさっき朝食をとったことを後悔しているようだった。
レストレード警部は眉間のしわを抑えながら、苦々しげに口を開いた。
「リネットさん。一応お尋ねしますが……その、今ホームズが言ったことは事実なのでしょうか?」
「え、いえ……わかりません。昨日の昼食の後は、私たち使用人は全員部屋に戻されて、警察の方が来られるまで一歩も外に出ないように指示されていましたので……」
つまり、それらの工作を行う時間は十分あったわけだ。
「まったく、従順すぎるってもの考えもんだな」
ホームズは背中を反らし、天井に向かって煙を吐き出した。
当のリネット嬢はそれが自分のことを指しているとわかっているのかいないのか、どこかぼんやりした顔で我々の顔を見回している。
「何故……何故、昨日その話をしなかったのですか!」
とうとう、レストレード警部が声を上げた。
が、リネット嬢はおどおどと肩を縮こまらせるだけだ。
「だ、だって……余計なことを言ったら奥様に叱られてしまう……」
「人が殺されているんですよ!?」
「言っても無駄だ、レストレード」
ホームズが遮った。
「虐待に関しては男爵夫人も、それからあの執事もグルだったんだろ。こいつも他の使用人たちも日常的に虐待されて、反抗しようって考えがそもそも浮かばないところまで洗脳されちまってるんだろうよ。それこそ、男爵自身が死のうとな」
私たちは言葉に詰まった。
そのような非道な行いを知らん顔できるところまで、彼女も他の使用人たちも追い込まれていた。自分たちの身を守ることで頭がいっぱいだったのだ。彼女らの置かれた状況がどれほどひどいものだったのか、それは当事者である彼女らにしか分からないだろう。
「リネットさん。私は以前、軍医をしていたんですがね」
彼女の胸に届くように、言葉を選びながら私は切り出した。
「戦場はそれはひどいところです。銃弾一つ、砲弾一つで人がばたばたと死んでいく。同時に、人を殺す役目を課せられる。普通の神経ではまず耐えられない過酷な環境です。でも人間の心とは不思議なもので、戦場に身を置き続けるうちに、いつしか慣れてしまうんです」
室内はしんと静まり返っている。表の通りをゆく馬車の車輪の音だけが、がたがたとやけに響いて聞こえた。
「今のあなたも、そうなのではありませんか。自分の心を守るために、自分の良心を曲げてしまってはいませんか。あなたが本当はとても親切な方だということを、私は知っています。だって、昨日あなたは、私の怪我に気がついて心配してくれたではありませんか」
「…………」
「……関係ねぇよ、ジョン」
ホームズがどこか苛立たしげに首を振った。
「そもそもこいつが自分から真実を話すメリットなんか皆無だろ。このままパーシーが男爵殺しの罪でお尋ね者になってくれれば、ランプを割っちまった自分のドジについても奴になすりつけられる。現にレストレード達も、犯人と被害者が揉みあった拍子に割れた程度にしか考えてなかったんだからな。殺人罪に比べりゃ大した罪でもねぇから、パーシーも別に気にしやしない。厄介な雇い主が死んで、自分の失敗はうやむやのままお咎めなし。一石二鳥じゃねぇか」
「シャーロック!」
私は思わず声を上げた。
リネット嬢は目を丸く見開いて固まっている。私もレストレード警部もハドソン夫人も、また彼女の心にいらぬ傷を増やしてしまったのではないかと冷や冷やした。しかしどうやら彼女には、優しい言葉よりもホームズのきつい物言いの方が効いたらしい。
彼女は胸に手を当てて考え込んだのち、決然と顔を上げた。
「そう……そうですね。ホームズさんのおっしゃる通り、卑怯な振る舞いでした」
「別に卑怯だなんて一言も言ってねぇだろ」
「シャーロック……」
「だが、もうだんまりを決め込まないって言うんなら、本当のところを教えてもらおうか」
「ええ、お話します。私の証言で正当防衛だったことが証明できれば、パーシーの罪も軽くなりますよね?」
先ほどまでとは打って変わって、リネット嬢は積極的な姿勢を見せた。目には溌溂とした光が宿り、しゃべり方にも淀みがない。おそらくは、ようやく本来の彼女が顔を出したのだろう。
しかし、パーシーの減刑、という点は法律家ではない私にもいささか難しいことのように思われた。雇われたばかりだったとはいえ自分の主人を、それも貴族を殺害したのだ。どれだけうまく転んだとしても絞首刑が終身刑になるかどうか、といったところではないだろうか。こればかりはレストレード警部も難しげな顔で首をひねっている。
ホームズは短くなってきた煙草を灰皿に押し付けた。
「ま、あんたを庇った上での正当防衛となれば、多少の情状酌量はあるかもな。それじゃあ、さっきの話について詳しく聞かせてもらおうか」
「はい、何でも」
「あんた確か『ドアが閉まる音がして、彼が部屋の外に引きずられていった』って言ってたな。具体的に、パーシーがどこに連れていかれて、どこで男爵を殺したのか分かるか?」
その質問に、リネット嬢はやや勢いを失くしてまたブラウスの腕から左の手首をさすり始めた。
「……おそらく、地下室ではないかと」
「地下室?」
「はい。私たち使用人が罰を受けるのは大抵がそこです。どれだけ悲鳴を上げても外へは聞こえないから……」
ホームズは素早くレストレード警部へ視線をやった。
「地下室には、まだ立ち入らせてもらっていない。地下にはワインセラーがあるだけで事件とは関係ないし、温度管理のためにもむやみに人を入れたくないと言って……」
「それは嘘です。旦那様も奥様もお酒を召し上がらないから、ワインセラーはもう何年も使っていません」
「なら、その地下室とやらにまだ男爵殺害の痕跡が残っていると見ていいだろうな。でなきゃ、立ち入りを拒む理由もない」
私はマントルピースの上の置時計で現在時刻を確認した。すでに九時を回っているから、事件発生から二十時間以上が経過しているはずだ。
「今こうしている間にも、痕跡を隠滅されてしまっているのでは?」
「それは大丈夫です」とレストレード警部が請け負った。「ホームズの指示通り、男爵邸には警官を数名残してきています。パーシーが確保されるまでの警護という名目でね。特に男爵夫人と執事には必ず誰か一人が張り付く手筈になっているので、彼らも下手な動きはできないでしょう」
「リネットさん、その地下室は水道が通ってるか?」
「え? いいえ……」
「好都合だ。地下室に大量に残されているであろう血痕を処理するためには、バケツとモップを抱えて何往復かする必要がある。ヤードを地下室に近づけさせないようにやり過ごして、あとでゆっくり片づければいいとタカをくくっていたんだろう」
ホームズの言葉に、ハドソン夫人がちいさく呻いた。おそらくは血に汚れた床をせっせとモップで拭う様子を想像してしまったのだろう。
「それで、どうやって男爵夫人たちを丸め込んで地下室に踏み込む? 部下たちをいつまでも男爵邸に置いておくわけにはいかないぞ」
「方法がないことはない」
即答して、ホームズは引き出しの中をガサゴソと漁った。しばらくしてようやく、無造作に詰め込まれたガラクタの奥から筒状の何かを引っ張り出した。手のひらに収まるくらいの握りやすそうな長さで、片側の先端からは短い紐が飛び出している――。
私と二人の女性はそれが何かとっさに理解できず固まっていたが、レストレード警部はさすがの機敏さで飛び上がるように椅子から立ち上がった。
「お前! 男爵邸を爆破する気か!」
「ちげぇよ、発煙筒だ!」
ホームズが迷惑千万、とでも言いたげに顔をしかめた。
同居人の私としては、ダイナマイトにしろ発煙筒にしろ、そんなふうに適当な保管をしないでほしいものなのだが。この事件が片付いたら、今一度ホームズの荷物を検めよう。私とハドソン夫人は無言のうちに頷きあった。
「こいつでニセの火事騒ぎを起こせば、男爵夫人や執事を強制的に屋敷から引き剥がすことができる。ただ、今回はお前らヤードの目の前でやらなきゃなんねぇからな。この方法で地下室に踏み込めたとしても後がめんどくせぇ。別の方法を考えなきゃならねぇが……」
発煙筒を手の中でもてあそびながら、ホームズは部屋中をうろうろと歩き回った。
真の犯行現場が地下室であることは確定した。地下室に残された犯行の痕跡をおさえることができれば、男爵夫人と執事が現場を偽装し虚偽の証言をしていたことを証明できる。
あとは、いかにして二人を言いくるめて地下室へ踏み込むかだ。
ホームズが言ったような強引な手法も取れなくはないが……。
私たちがうんうんと頭をひねっていると、窓辺で通りを見下ろしていたホームズが鋭く声を上げた。
「ヤードの馬車だ。レストレード!」
警部が素早く反応して、階段の方へ駆け出した。しかし彼が玄関から飛び出すより早く、窓から顔をのぞかせたホームズに気づいた警官が声を張り上げた。
「レストレード警部はいらっしゃいますか! 至急、お戻りください!」
「何があった!」
ホームズが叫び返した。
ベイカー街の住民たちが何事かと軒先から顔を出し、通行人たちは足を止めて振り返る。やって来た警官は、さすがにその場で事態を大声で叫ぶほど無分別ではなかった。
ホームズと私も、大急ぎでレストレード警部に続いて階段を駆け下りた。
セリグマン男爵邸が、パーシーによって襲撃されたのだった。
*
八 事件の終幕
私たちはヤードの馬車にぎゅうぎゅう詰めになってセリグマン男爵邸に到着した。レストレード警部とホームズと私、そしてリネット嬢まで乗り込んできたからだ。
危険だからと警部は待機しているように言ったのだが、彼女は承知しなかった。パーシーがその場で逮捕されようものなら警官の足にしがみついてでも止めてやろうという決意がその顔には見え隠れしていたが、結局は警部も押し負けて彼女の同乗を許した。
馬車が屋敷の前に着くと、待機していた警官が駆け寄ってきた。
「警部!」
「状況は?」
「つい数十分前です。まだ若い男が刃物を持って押し入ってきました。屋敷の前を通りがかった馬車の屋根の上に潜んでいたようで、塀に直接飛び移って来たんです」
「その馬車は?」
「そのまま走り去りました。侵入してきた男に気を取られて、とても追う余裕がなかったので。黒塗りで紋章もなにもない二頭立てだったことだけ……。ですが、侵入者については使用人数名が顔を見ています。パーシーで間違いありません」
我々の後ろでリネット嬢が息をのんだのが分かった。
「そいつは今どこにいる?」
「それが……」
警官は急に勢いをなくした。
同時に、玄関扉が開かれた。広々としたホールの隅に、不安そうな顔をした使用人たちが肩を寄せ合っている。壁際には来客が腰を掛けるためのカウチが備えられていたのだが、そこには執事のニコルソンがうめき声を上げながら横たわっていた。
「奴は屋敷の中を逃げ回って、数人がかりで追ったのですが、恐ろしくすばしっこい奴で、その……」
「まさかとり逃がしたのか!?」
「いえ、あの、実はついさっき、奴はニコルソンさんを突き飛ばして階段から落としたのです。それに我々が気を取られた一瞬のうちに、見失ってしまって……」
「何をやっている!」
「も、もうしわけありません」
警官は腰を直角に曲げて頭を下げた。
「ですが、正門も裏口も、サンソンたちが固めています。先ほどは馬車に乗っていたから塀を越えられたものの、塀の内側から脱出するにはロープでもないと普通の人間には難しいでしょう」
面目がつぶれるのを何とか回避しようとしているのか、警官はそこだけは自信ありげに頷いた。
しかし彼は、いったい何のために舞い戻ってきたのだ?
例えば証拠を隠滅するといった目的で、犯人が殺人現場に後からこっそりと戻ってくるケースは少なくない。ホームズが見事その現場を抑えて解決した事件を私はいくつか知っている。けれど、この事件に関してはパーシーが犯人であることは誰の目にも明らかだ。このまま逃げていればいいところを、リスクを冒して屋敷に舞い戻る目的とは――。
「……つまり、まだ奴が屋敷から逃げ出したところを誰も見てないんだな?」
ホームズが大きなため息とともに、そう尋ねた。
警官たちがお互いに顔を見合わせる。誰からも返事はなかった。
ホームズはもう一度大きく息を吐くと、意を決したように顎を引いて胸を張った。次の瞬間には、別人のように朗々とした声が、ホール中に響き渡った。
「容疑者フレドリック・パーシーはまだ屋敷内に潜伏してる! 屋敷中を"くまなく"捜索しろ!」
ホームズはそう叫ぶと、稲妻のような速さで駆け出した。
一呼吸遅れて、レストレード警部がはっと息をのんで彼の意図を汲み取った。部下たちに短く鋭い指示が飛ばされる。すぐに警官たちが各々行動を開始した。
ホームズがまっすぐに向かうのは、当然、例の地下室だ。
私はすぐさま彼の後を追って駆け出しそうになった。もちろん、普段であればそうしていただろう。しかし今回は、私には私にしかできない役割があった。
「動いてはいけません!」
私はホールに引き返し、カウチから身を起こそうとしていた執事を座面へ押し戻した。そして、患者を安心させるためによく使う、めいっぱいの誠意と温かみを込めた表情と声でこう告げた。
「どうぞご安心ください。ここはホームズと優秀な刑事さんたちにお任せしましょう」
「し、しかし……」
「ご心配でしょうが、ここは堪えてください。あなたに執事としての責任があるように、私にも医師としての責任があります。階段から転げ落ちたのですから安静にしなければなりません。頭を打った直後は何ともなくても、後から状態が急変した症例はいくつもあります。脳へのダメージはとても恐ろしいものなのですよ」
もちろん、この言葉はでたらめではない。私は思いつく限りの症例を次から次へと並べ立てた。
見たところ彼は意識もはっきりしているようだし、そう深刻なことにはならないだろう。それでも、地下室へ踏み込む絶好の大義名分を得たホームズたちの邪魔をさせるわけにはいかなかった。
執事がカウチに釘付けにされたのを見て、男爵夫人自らが腰を上げようとした。だが、そこに頼もしい増援が駆けつけた。リネット嬢だ。
「奥様、ワトソン先生は軍医をなさっていたこともあるんですって。もしパーシーが戻ってきても、先生の側にいれば安心ですよ」
彼女は立ち上がろうとする男爵夫人の肩を、安心させるようにやんわりと、しかし有無を言わせぬ強さで押さえつけた。その瞳に恐れの色はなかったし、指先はちっとも震えていなかった。
そう言われてしまえば、さしもの男爵夫人も、このメイドを振り払う口実を咄嗟に思いつかないようだった。事実、ここを一人で離れれば物陰に潜んだパーシーに不意打ちをくらわされる可能性は決して低くない。
他のメイドたちもおろおろと顔を見合わせながらも、羊飼いの周りに寄り集まる羊のように、私たちのそばを離れようとしなかった。
間もなく、廊下の向こうから警官たちのざわめきが聞こえてきた。
おそらく、あちらに地下へと続く階段があるのだろう。ホームズの後を追った警官が大慌てでホールへ引き返してきて、そのまま玄関から飛び出していった。おそらく、スコットランド・ヤード本庁へ応援を呼びに行ったのだろう。
カウチに身を沈めた執事は痛みによるものではないうめき声を上げ、男爵夫人はへなへなとその場に崩折れて顔を覆った。
この後の顛末は連日新聞で報じられた通りである。
読者諸賢もよくご存知のことだろうから、ここでくどくどと説明はしない。
まっすぐに地下室に踏み込んだホームズは、そこにおびただしい量の血痕と、血に汚れたランプの破片を発見した。リネット嬢の証言の通り、男爵が殺害されたのは書斎ではなく、彼が日々使用人たちを痛めつけていた地下室だったのである。
男爵夫人は遺体を偽装し虚偽の証言をしたかどで、ヤードへ連行された。執事はいったん病院に送られたが、すぐに夫人の従犯として身柄を移された。
しかし結局、パーシー青年は見つからなかった。彼は煙のように屋敷から姿を消してしまった。彼が危険を冒して屋敷に舞い戻った真の目的は未だにわからない。ホームズがそれについて何も語ろうとしないのだから、私にもレストレード警部もお手上げだった。
スコットランド・ヤードによる捜索はまだ続いているが、私がこの原稿をしたためている今日に至るまで、彼の行方は杳として知れない。
そのことを憂うべきか喜ぶべきか、私はいまだに判断しかねている。
***
ストランド・マガジンの最新号をぱたりと閉じたアルバートは、ふぅと息をついて紅茶のカップに手を伸ばした。
「結末を知っていても、なかなか面白いものだね」
「ええ。売り切れ続出ですぐさま増刷がかかったらしいですよ」
ウィリアムが微笑みながら頷いた。この一冊も、彼が懇意にしている書店に頼んで取り置いてもらったものだった。
アルバートがこうした大衆向けの軽い読み物を手にするのは普段あまり無いことであったが、気づけば夢中になって物語の世界に没頭してしまっていた。居間に集まっていた屋敷の面々をそっちのけで読みふけっていたから、少しバツが悪い。と言っても、他のメンバーはアルバートが貿易会社の仕事に出ている間に一通り回し読みした後らしかった。
ウィリアムは雑誌の表紙をどこか嬉しそうに撫でている。
「コナン・ドイル氏の小説が掲載される号はいつも飛ぶように売れるとはいえ、今回は『緋色の研究』事件に次ぐ売れ行きだそうです」
「そりゃあそうだ。何てったって、裁判の真っ最中だからな」
モランは新聞の束をばさばさと鳴らした。
セリグマン男爵夫人の裁判に関する記事がその一面を飾っている。
使用人が貴族を殺害しただけでも十分センセーショナルな事件だが、その原因が使用人への度重なる虐待であったとなれば否が応にも市民たちの関心が集まる。さらには虐待に加担していた夫人が、その醜聞を隠すために夫の死体をめった刺しにさせた上に警察に虚偽の証言をし、それをホームズに暴かれたとなっては、もうお祭り騒ぎだった。
憶測、批判、擁護、とにかく様々な立場から様々な意見が飛び交った。
「ほんっと、どこに行ってもこの話で持ちきりだよ。このタイミングで作品を出すなんて、ドイル先生も思い切ったよね」
「議論が持ち上がるのはいいことだよ、ボンド。誰か一人を叩く流れになるのいただけないけどね」
「ホームズは、事件の背後に我々の存在があったことに気づいているのでしょうか?」
ウィリアムのティーカップに目を配りながら、ルイスが呟いた。
「きっとね」とウィリアム。
長椅子に行儀悪く足を組んで腰かけたモランが、得意そうにふんと鼻を鳴らした。
「ホワイトチャペルの時と同じだ。いくら天下の名探偵様だろうと、いもしない人間をとっ捕まえるのは無理な相談だろうよ。なぁ、フレドリック・パーシー?」
「……勝手をして、すみませんでした」
モランからのからかいの言葉を受けて、部屋の隅に立っていたフレッドが神妙な面持ちで頭を下げた。
小説の最後にワトソンが記していた通り、男爵を殺害し逃亡した『フレドリック・パーシー』はいまだ見つかっていない。それもそのはず、彼の正体は変装したフレッドだったからだ。左膝に傷を負った元使用人からの依頼を受け、ウィリアムの命でセリグマン男爵家に潜入していたのだ。
当初の予定ではもう少し時間をかけて調査しその罪状を見極めるはずであったが、メイドの一人が高価なランプを割るというとんでもない失敗をやらかしたため、優しい性分の彼は庇わずにはいられなかった。
多少の体罰であれば甘んじて受け入れるつもりだった。虐待があったという事実に裏を取ることもできる。しかし地下室に引きずり込まれて首を絞められそうになった時点で、手を振りほどき隠し持っていたランプの破片で反撃してしまったのだ。
「放っておけば彼女がどんな目に合わされたかわからない。いいアドリブだったよ、フレッド」
「まったく、お前が前倒しで殺っちまった時は焦ったぜ」
「冒頭に出てくる、ウィギンズくんに情報渡した野次馬ってモランくんのことだよね? シャーロックにちょっと怪しまれちゃってない?」
「そうでしょうね。警部とワトソン博士が都合よく解釈してくれたから良かったものの……」
「うるせぇ、まさか連中が死体動かしてるなんて思わねぇだろ」
ボンドとルイスに指摘されて、モランは顔をしかめた。
セリグマン男爵への『裁き』が早まってしまったとはいえ、潜入前の下準備に抜かりはなかった。ホームズを事件に引き込んで派手に解決させるために野次馬を装ってイレギュラーズの少年に情報を渡したのであるが、慌ただしく動いたためウィリアムの指示が間に合わなかった。「男爵が殺されたのは地下室」とまでは口にしなかったため何とか難を逃れた形だ。
「ともかく、この一件はもう我々の手を離れたと見ていいかな?」
「あの、それが、もうひとつ……」
アルバートの言葉に、フレッドがおずおずと手を上げた。
「セリグマン男爵夫人が、リネットさんにランプを弁償するよう請求書を回しているようで……」
「マジかよ、懲りてねぇなぁ」
モランが乾いた笑い声をあげた。
作中でホームズが言っていた通り、ランプの件については彼女の過失であることは変えられないだろう。しかし裁判の真っ最中に、よくも臆面もなく請求書など回せたものだ。
「リネットさんの経済状況ではとても払える額ではありません。せっかく……」
「大丈夫だよ、フレッド」
我らが相談役は、彼を安心させるように微笑んだ。
「まずはその事実を噂として街に広めてほしい。この小説の売れ行きを考えればそう難しいことじゃないだろう」
「世間の話題にして、訴えを取り下げるよう圧力をかけるということですか?」
「それでもいいけど、もっといい方法がある。出版社に、匿名でリネット嬢宛の寄付金を送るんだ」
「え」とフレッドは声を上げた。「いいのですか?」
「もちろん。ただし、全額肩代わりするわけじゃないよ。僕らが出すのはほんの少しだ」
その意味するところをいち早く汲み取って、アルバートは思わず口角を上げた。
「なるほど、市民たちに自ら動いてもらおうというわけか」
「ええ。この小説や報道を読んだ市民たちの中には、彼女の助けになればと後に続く者たちがきっと現れるでしょう。金銭という形ではありますが、声を上げ、隣人を救う――そのための一歩を、彼ら自身に踏み出してもらいましょう」
コナン・ドイル氏によるホームズの冒険譚は、すでにこのロンドンの市民たちにとって愛すべき娯楽としてその地位を確立している。ホームズの手がける事件に間接的にでも関わることができるのなら、――その動機が義憤にしろ野次馬根性にしろ――リネット嬢への寄付に協力したいと考える者は少なくないだろう。
「そりゃあいい。この過熱ぶりなら一週間とかからずに集まるだろ」
「えー、そうかなぁ。あの男爵、骨董品集めが趣味だったみたいだし意外と値打ちものかもよ?」
「どうなんだ、フレッド?」
「え、わかんないよ……」
上流階級の好みそうな調度品の類にも詳しいボンドの頭の中では、すでに目標金額の見積もりが始まっているようだった。彼とモランの間で、どれくらいの期間でランプを賄えるだけの金額が集まるのか賭けをするつもりらしい。
「ふむ。私も個人的に一口乗ろうかな」
「お前はやめろ!」
「アルくんそれ一気に金額読めなくなるから!」
「皆さん、不謹慎ですよ……」
ルイスが呆れたようにため息をついた。
「なんじゃ、賑やかだな」
ジャックががらがらとワゴンを押しながら居間に入ってきた。
ワゴンに乗せられた皿の上には焼きたてのクッキーやマドレーヌやクラフティが山と盛られていた。甘く香ばしい匂いが部屋中に広がる。アフタヌーンティーのお茶うけにしては、ずいぶんと気合の入った量だった。
ボンドが顔を輝かせて駆け寄り、フレッドも控えめにその後に続いた。
「わぁ、すごい!」
「はっは、好きなだけ食え。若いもんがいると張り合いがあってつい作りすぎてしもうたわ」
「さすが先生、どれも美味しそうですね」
ルイスが手際よく皿の準備を手伝いながら、言った。
アルバートやウィリアムに言わせればルイスの作るスコーンも絶品だったが、意外に甘党なジャックが菓子作りに注ぐ情熱は人一倍強い。ジャックの手ほどきを受けて一通りの料理をマスターしているルイスも、ジャックの作る菓子には一目も二目も置いているようだった。
「兄さん、どうぞ」
ウィリアムが皿をこちらに回してくれた。
アルバートは彼に礼を言って、四角い形のクッキーを一枚摘まんだ。まだ温かい。歯を立てればさくりと簡単に崩れて、口の中に甘みが広がった。よく味わうようにゆっくりと咀嚼して、今度は紅茶のカップに手を伸ばす。
モランとボンドは賭けの話を再開したようだ。ジャックは、小説に登場するメイドが美人だったのかどうか尋ねてフレッドを困らせている。ルイスはどちらから先に止めに入るだろうか。アルバートはウィリアムと顔を見合わせて笑った。
仲間たちの笑いさざめく声が、耳に心地よかった。
初出:Pixiv 2023.02.26
『悪徳貴族を成敗してその謎をホームズに解かせる』話。
五 早朝の来訪者
翌朝、私はいつもより少し早い時間にベッドから這い出した。
体が重く、どこかだるい。
重厚な雰囲気の書斎で物言わぬ姿になっていたセリグマン男爵が、奇怪な夢に形を変えて私の眠りを脅かしたのだ。気怠さを振り払って何とか身支度をし、共用スペースのティーテーブルについた。
私の同居人、シャーロック・ホームズは、すでにいつものよれたスーツに身を包んで、ハドソン夫人が入れてくれたであろうコーヒーを飲んでいた。事件を抱えているときの彼は、普段のものぐさな彼とは打って変わって活動的になる。しかし、添えられたトーストやゆで卵に手をつける気配はない。砂糖たっぷりのコーヒーが注がれたカップを傾けながら、彼の心は思考の海をさまよっているようだった。
「おはよう、シャーロック」
「おう」
私が挨拶しても、彼は短くそう答えただけだった。
昨日の事件について切り出す前に、階下で呼び鈴が鳴った。
「時間通り。勤め人ってのは立派なもんだな」
やって来たのは、やはりレストレード警部だった。
私たちが帰ったあとも徹夜で捜査に打ち込んでいたのだろう。スーツもネクタイも昨日と同じものだったし、口の周りには無精ひげが見られた。それでも彼にくたびれたような様子はなく、目は鋭く輝いている。
テーブルに私たちの分のコーヒーと軽食を並べるハドソン夫人に軽く頭を下げて、警部はきびきびとして口調で切り出した。
「現時点での調査結果を報告する」
「ああ、頼む」
「まずは、事件後のフレドリック・パーシーの足取りだ。昨日の昼十二時頃――男爵が殺された直後に、奴が裏口から出て行ったのを庭師の爺さんが目撃している。一番若くて新入りのパーシーが使い走りに出されることは多かったらしいから、特に気に留めなかったそうだ。大きな持ち物もなく、手ぶらだった。その後サウス・ストリート方面に向かうパーシーらしき人物を見たとの情報もあったが……やや小柄な以外は取り立てて特徴のない男だ。雇われたばかりで近所の人間もまだ顔をろくに覚えていなかったし、聞き込みでの成果は今のところない」
警部の話を聞きながら、私は少し背筋が寒くなった。昨日、ちょうど私がサウス・ストリートの工事現場で転んでいたとき、心配げにこちらを振り返る通行人たちの中に殺人犯が混ざっていたかもしれなかったわけだ。
「次にパーシーの身元だ。ホーシャム出身の二十歳。職業斡旋所の紹介でセリグマン男爵家の下男として雇われた、という話は昨日執事からも聞いた通りだが……以前の職場に問い合わせてみても、『そんな人間が在籍していた記録はない』という回答だった。今、部下たちに追加の調査をさせてはいるが……」
「名前も経歴もでたらめか」
「おそらく。奴の友人だとか、知り合いだという人間がまだ一人も見つからない。男爵家に住み込みで働き始める前にどこに住んでいたのかもわからない。奴が雇われたのはたった一週間前だというのに、街のどこにも奴の痕跡が残っていない!」
レストレード警部はお手上げだ、という顔でため息をついた。
私は言葉を失くした。そんな人間がこのロンドンに存在するのか?
これだけ大勢の人間の行きかう街で、誰の記憶にも、何の記録にも残らず生活をするのはほぼ不可能と言っていいだろう。私立探偵として、人々よりも一段高い視点から世間を眺める生活を送っているホームズでさえ、私とともに街を歩き、たまには店屋で買い物をし、滞りがちながらもハドソン夫人に家賃を支払っているのだ。
真っ先に思い浮かべたのは、パーシーが街の裏側とも呼ぶべき場所――例えばホワイトチャペルのような浮浪者が溢れかえる裏通り――からやって来た人間である可能性だ。レストレード警部は私の考えに、ううんと唸った。
「どうでしょう。他の使用人たちの話では、パーシーは読み書きもできて、物静かで勤勉な青年だったようです」
「しかし、彼は実際に書斎に忍び込んで金品を盗んでいたわけでしょう」
「俺なら、真昼間に主人の書斎に忍び込んだりしないがね」
ホームズが口を挟んだ。
「雇われて一週間じゃ、まだ屋敷の人間たちの行動パターンも掴めてなかったはずだ。仮に見つからなかったとしても、外部から侵入された形跡もなく屋敷内で金目のものが消えたとなりゃ、真っ先に疑われるのはまず間違いなく新入りの使用人。そんな状況で盗みを働くならよほどの馬鹿だが……」
「奴はそう馬鹿ではなかった」とレストレード警部が引き継いだ。「何ともちぐはぐだ。これだけ派手に場当たり的な殺人を犯して逃亡したにも関わらず、いざ追跡しようとすると足跡がふっつりと消えてしまった」
その言葉に、私の脳裏にひらめくものがあった。
「そうか、やはりパーシーには共犯がいたんだ!」
「共犯?」
「あのニコルソンという執事だよ、シャーロック! 使用人の採用は彼に一任されていたんだから、彼が経歴をでっちあげてパーシーを屋敷に引き入れたのなら説明がつくだろう」
「確かに!」
レストレード警部が大きく頷いてくれたので、私はますます調子づいた。
「パーシーは執事の協力を得て盗みを働いたが、偶然男爵に現場を抑えられ、彼を殺してしまった。現場の不自然な状況も、屋敷に残った執事が何らかの目的で工作を行ったのなら一応の筋は通る」
「何らかの目的ってなんだよ?」
ホームズが訊いた。完全に面白がっている口調だ。
「何のためにって、それは……」
「本当に執事がグルなら、パーシーももっと上手いことやっただろ。盗みの最中に男爵と出くわすなんて間抜けな失敗はありえねぇ」
「じゃ、じゃあ、彼らの本当の目的は男爵を殺害することだったんだ!」
少しばかりむきになってそう叫び返したとき、ホームズの顔から意地の悪いにやにや笑いが消えた。その反応は私にとっても意外であった。苦し紛れに口から飛び出した説だったが、めった刺しにされた遺体の状況を考えるとありえない話ではないだろう。
しかしホームズはそれについて深く掘り下げようとはせず、レストレード警部の方を向いた。
「で、俺からの『宿題』はどうだった?」
「あ、ああ……割れたランプの復元だな。こっちはすぐに片付いたよ。かさの部分に絵柄が入っていたからな」
警部は懐から手帳を取り出した。
「部屋中いくら探しても、破片の一つが見つからなかった。ここの黒い部分だ」
差し出された手帳には、簡単なランプのスケッチが描かれていた。かさの一部分が黒く塗りつぶされている。一つの破片とするならば、私の人差し指くらいの大きさだろうか。片側が、矢じりのように鋭くとがった形をしている。
「まさか、男爵の首筋を裂いた凶器は……」
私の言葉に、ホームズは目だけで頷いた。
その確信をもった顔に、私は混乱した。
しかしその疑問を頭の中で整理するより先に、またしても呼び鈴が鳴った。
「こっちも時間通りだ。ハドソンさん、悪いが通してくれ」
階下に向かってホームズが大声を出すと、やがて階段を上る足音が聞こえてきた。
*
六 二人目の客人
やって来たのは、見覚えのある若い女性だった。
昨日ホームズが不躾にも肩に触れた、あのメイドだ。確か名前は、リネットといっただろうか。
すっきりと通った鼻筋と榛色の瞳から、ぱっと見たときは聡明そうな印象を受けるが、背を丸めてどこか自信なさそうに周囲をうかがう仕草が何とももったいない。おまけに私と同じく昨夜はあまりよく眠れなかったと見えて、昨日に比べるといっそう顔色が暗い。慌てて身支度をしてきたのかまとめ髪からは細い毛束がぴょこぴょこと飛び出していた。
ハドソン夫人に案内されて部屋に通された彼女は、室内にレストレード警部の姿を見つけてぎょっと目を見開いた。
「ど、どうして刑事さんがいらっしゃるんです、ワトソン先生!」
「え?」
彼女に睨みつけられて、私は心底驚いた。
「先生が私を呼び出したのでしょう、奥様のリウマチに効く薬茶を用意したからすぐに取りに来るようにって、電報で……」
「ま、待ってください、一体何の話を……」
「まぁまぁ、座ってコーヒーでもどうぞ。リネット嬢」
部屋のドアをばたんと閉めながら、ホームズが割り込んだ。その芝居がかった口調と椅子を勧めるなめらかな手付きに、私はすべてを理解した。
「シャーロック! 君、まさか僕の名前を騙って彼女を呼び出したのか?」
「彼女は重要参考人だからな」
ホームズは少しも悪びれずに肩を竦めてみせた。
『重要参考人』という言葉にレストレード警部は片眉を上げ、リネット嬢と呼ばれた彼女は真っ青になった。ハドソン夫人が駆け寄って、彼女の肩を抱く。
「ちょっと、シャーロック。どういうつもりなの?」
「別に若いお嬢さんを男三人で取り囲んで尋問しようだなんて俺だって考えてねぇよ。ついでだしハドソンさんも同席してくれ」
ホームズは暖炉の前の指定席へ腰掛けた。
ハドソン夫人は彼に訝しげな顔を向けながらも、リネット嬢とともに長椅子へ腰を下ろした。私とレストレード警部も、彼女らにつづいてそれぞれの場所に腰を落ち着ける。
全員が話を聞ける態勢に入ったことを確認してから、ホームズは口を開いた。
「単刀直入に聞くぞ。昨日、書斎でランプを割ったのはあんただな」
「は?」
声を出したのは私だった。
何を言っているのだ? というのが私の率直な感想だった。だが、リネット嬢の方を振り返ると、彼女は今にも泣きだしそうな顔で肩を震わせていた。
「ど、どうして……」
「花壇に残した足跡を消したのは利口だったな。その後、ヤードが駆けつける前に靴についた土も払っておいたんだろう。だが足元ばかりに注意が向いて、肩を汚していたのには気がつかなかったようだ」
「肩?」
「昨日、あんたのブラウスの肩のあたりには白い砂のようなものが付着していた。中庭の白塗りの壁にもたれたんだろう?」
私は思わず膝を叩いていた。
昨日彼が馴れ馴れしくリネット嬢の肩に触れたのは、彼女の白いブラウスに付いた砂の存在を確かめるためだったのだ。普段の彼はむやみに女性の身体に触れたりしない人間ではあったが、それは彼が紳士であるというよりは女性というものに全く興味関心がないからだ。そんな彼のあの突飛な行動に意味がないはずがなかった。
リネット嬢はしばらくの間、椅子の上で背中を丸めて小さくなっていたが、やがて観念したように頷いた。
「はい……。おっしゃる通り、ランプを割ったのは私です。窓を通って書斎から抜け出したのも」
レストレード警部が、私の隣で小さく息をのんだのがわかった。たった今、ランプの破片がセリグマン男爵の命を奪った本当の凶器である可能性が浮上したからだ。
彼女の絶望ぶりはほとんど死刑判決を言い渡された被告人のようだった。膝の上で握りしめられた彼女の手の上にぱたぱたと涙の粒が落ちたのを見て、ハドソン夫人が彼女の背中をさすった。その優しい手つきに励まされて、リネット嬢は何とか勇気を振り絞って続きを話す。
「でも、私、旦那様を殺してなんていません。それは本当です……」
「ああ。あんたにできる犯行とは思えねぇ。第一、男爵が殺されたのはあの書斎じゃない。そうだろ?」
「…………」
言おうか、言うまいか。
リネット嬢の目に動揺が浮かんだ。彼女は明らかに何かを知っていて、迷っている。不安になった時の癖なのだろう、右手で自分の左手首をしきりにさすっていた。
口を開きかけたレストレード警部を、ホームズが目で制した。ここで詰め方を誤れば、彼女はもう自発的には口を開いてくれなくなる。そんな緊張が、私たちの間を走った。
ホームズがどのように出るのか固唾をのんで見守っていた私たちだったが、口を開いたのはハドソン夫人だった。彼女はリネット嬢の背中を優しく撫でながら、言った。
「リネットさん、あなたが犯人でないのなら、この男も刑事さんも悪いようにはしないわよ。ゆっくりでいいから、話してみてちょうだい」
他者に寄り添う、という点においてやはり女性というのは優秀だ。事件とも警察とも何の関係もないハドソン夫人に背中を押されて、リネット嬢の肩からわずかに力が抜けた。
「さぁ、もう泣かないで。顔を拭いて、しゃんとしなきゃ」
ハドソン夫人は明るく笑って、ポケットから取り出したハンカチでリネット嬢の濡れた頬を拭った。母親が幼い娘にするような、ほほえましい光景だった。
そうして涙が落ち着いてから、彼女は次のように語った。
「……あの美しい陶器のランプを割ってしまったのは私です。昨日、ティーセットを下げに書斎に伺ったとき、旦那様に書斎の掃除を言いつけられたのです。旦那様はそのまま書斎を出て行ってしまったので、私一人で掃除をしていました。でも私、昔から、粗相をしてはいけないと思えば思うほど、緊張して失敗してしまうんです。昨日も、棚の上の埃を払って、後ろに一歩下がった拍子にデスクにぶつかってしまって……。しまったと思った次の瞬間には、ランプは大きな音を立てて床の上で砕け散りました。
やってしまったと気づいたときには、手の震えが止まりませんでした。決してわざとやったわけではありません。それでも取り返しのつかない失敗に、目の前が真っ暗になって、しばらくその場から動けませんでした。
その時、背後でドアが開く音がして、私は小さく悲鳴を上げました。部屋に入ってきたのは、旦那様ではなくパーシーでした。たまたま廊下を通りかかって、物音を聞きつけたのでしょう。割れたランプに気づいて、彼の丸い目が大きく見開かれました。彼は後ろ手で素早くドアを閉めると、座り込んで呆然とする私に音もなく駆け寄りました。
『大丈夫。行ってください』
彼はそう言いました。勇気づけるように、私の背中に手を添えて。
『そこの窓から庭へ出て。誰にも見つからないように、裏口から自分の部屋に戻るんです』
当然私はためらいました。逃げたとしても、私が書斎の掃除をしていたことを旦那様は知っているのですから誤魔化しようがありません。よりいっそう旦那様の怒りを買うことになるでしょう。それでも、パーシーは私のその考えもわかっている、と言いたげに微笑みました。
『大丈夫です。……誰か来る、急いで』
大丈夫、と彼は繰り返しました。戸惑う私の手を引いて立ち上がらせると、開いていた窓から庭へと半ば無理やり押し出したのです。そして私に続いて庭へ出るものとばかり思っていた彼は『行って』ともう一度囁いてから、カーテンを閉めてしまいました。
え、と私が間の抜けた声を出すのとほとんど同時に、部屋の中でドアが開いて怒号が響きました。
『貴様、何をしている!』
旦那様の声です。
私はカーテンが閉まっていることも忘れてその場にしゃがみこみ、窓枠の下に身を隠しました。おそらくその時、白塗りの壁に肩を擦りつけてしまったのでしょう。ですがそんなことにも気づかないほど、私は震えあがっていました。心臓が破れそうなほど激しく脈打って、部屋の中の旦那様に聞こえるのではないかと思ったくらい。
『申し訳ありません。旦那さ、』
パーシーの言葉が中途半端に途切れ、鈍い音がカーテン越しでもしっかりと聞こえました。旦那様が彼を殴りつけたのです。私の代わりに。すぐに部屋の中に戻って、旦那様に説明しなければならないと思いました。ランプを落として壊したのは彼ではありません、悪いのは私です、と。それなのに、身体が動きませんでした。喉が引きつって声も上げられなくて……。
きっと、屋敷に来て間もない彼は、まだ旦那様の恐ろしさを知らなかったのでしょう。今すぐ名乗り出なければ、あの子が殺されてしまう。でも名乗り出れば私が殺されるかもしれないと思うと……。立て、立て、と頭でいくら命令しても、私は地面に膝をついたまま立ち上がれませんでした。乱暴にドアが閉まる音がして、彼が部屋の外に引きずられていくのがわかりました。私はしばらくその場から動けずにいたのですが、何とか気を持ち直して、彼に言われた通りに中庭から自室に戻ったんです。花壇に付けてしまった足跡も消して。それがまさか、こんなことになってしまうなんて……」
しゃべり終えたリネット嬢はまたしくしくと泣き始めた。
*
七 男爵家の秘密
「ちょ……ちょっとまって、リネットさん」
ようやく口を開いたのは、ハドソン夫人だった。
「『殺されるかもしれない』ってどういうこと? 貴族のお屋敷のランプなんてそりゃあ、私たち庶民には想像もつかないくらい高価なものでしょうけど」
「……リネットさん、その左の袖、めくって見せてみてくれないか」
ホームズが低い声でそう口にすると、彼女はびくりと肩を震わせた。動こうとしない彼女に焦れたハドソン夫人が、半ば無理やり手を引き剥がして、彼女のブラウスの袖をめくった。
「これは……!」
思わずそう漏らしたのは、レストレード警部だった。彼はすぐにしまった、という顔で口をつぐんだ。
リネット嬢の左の手首には、痛々しい火傷の跡があった。
ハドソン夫人はすぐに袖をもとの形に戻して、俯くリネット嬢を抱きしめた。
「男爵か?」
ホームズの問いに、彼女は小さく頷いた。
「前に、旦那様にお出しする紅茶をこぼしてしまって……」
「なんてことを……」
そんなささいな失敗への罰として、腕に熱湯をかけられたというのか。ハドソン夫人が怒りに顔をゆがめたが、リネット嬢は気づかない。
「あの、パーシーは悪くないんです。そもそも私が旦那様のランプを割ってしまったのが原因で……彼は私を庇ってくれただけで。きっと、殺されそうになって、抵抗しようとして旦那様を……」
「ああ、そんなところだろうな」
ホームズは煙草に火をつけながら、苦虫を嚙みつぶした顔をした。
「これでだいたいわかったろ。男爵を殺したのはパーシーだ。だが奴は男爵の首を――おそらくはあのランプの欠片で――かっ切って殺害しただけ。死体はおそらく、男爵夫人の指示で執事が移動させたんだろ。使用人を虐待した挙句、返り討ちにあって殺されたとなりゃ醜聞もいいところだからな」
「じゃあ、胸や腹の刺し傷は……」
「書斎を殺害現場に見せかけるための偽装だろう。死体は運べても、床に流れた血までは動かせないからな。現場を血で汚しておく必要があると考えて、調理場から持ってきたナイフで死体を刺した。だが男爵の心臓はとっくに止まってるんだから出血もしない。刺しちまってからそのことに気づいて、苦肉の策として死体をうつ伏せにしたってところだろう。傷口を下に向けさえすれば血も多少は流れ出るからな。まったく、素人丸出しの偽装だよ。
あ、そうそう。廊下にこぼれてたスープも、絨毯にうっかり落としちまった血痕を誤魔化すためにわざとこぼしたんだろうな。それからパーシーが盗みを働こうとしていたと見せかけるために、書斎の引き出しから金目のものを抜き取った、と」
ホームズは淡々と推理を述べたが、私はなんだか気分が悪くなってきた。医者のくせに情けないと思われるかもしれないが、命を救うための神聖な医療行為とは対極の、想像するのもおぞましい所業だ。ハドソン夫人も、ついさっき朝食をとったことを後悔しているようだった。
レストレード警部は眉間のしわを抑えながら、苦々しげに口を開いた。
「リネットさん。一応お尋ねしますが……その、今ホームズが言ったことは事実なのでしょうか?」
「え、いえ……わかりません。昨日の昼食の後は、私たち使用人は全員部屋に戻されて、警察の方が来られるまで一歩も外に出ないように指示されていましたので……」
つまり、それらの工作を行う時間は十分あったわけだ。
「まったく、従順すぎるってもの考えもんだな」
ホームズは背中を反らし、天井に向かって煙を吐き出した。
当のリネット嬢はそれが自分のことを指しているとわかっているのかいないのか、どこかぼんやりした顔で我々の顔を見回している。
「何故……何故、昨日その話をしなかったのですか!」
とうとう、レストレード警部が声を上げた。
が、リネット嬢はおどおどと肩を縮こまらせるだけだ。
「だ、だって……余計なことを言ったら奥様に叱られてしまう……」
「人が殺されているんですよ!?」
「言っても無駄だ、レストレード」
ホームズが遮った。
「虐待に関しては男爵夫人も、それからあの執事もグルだったんだろ。こいつも他の使用人たちも日常的に虐待されて、反抗しようって考えがそもそも浮かばないところまで洗脳されちまってるんだろうよ。それこそ、男爵自身が死のうとな」
私たちは言葉に詰まった。
そのような非道な行いを知らん顔できるところまで、彼女も他の使用人たちも追い込まれていた。自分たちの身を守ることで頭がいっぱいだったのだ。彼女らの置かれた状況がどれほどひどいものだったのか、それは当事者である彼女らにしか分からないだろう。
「リネットさん。私は以前、軍医をしていたんですがね」
彼女の胸に届くように、言葉を選びながら私は切り出した。
「戦場はそれはひどいところです。銃弾一つ、砲弾一つで人がばたばたと死んでいく。同時に、人を殺す役目を課せられる。普通の神経ではまず耐えられない過酷な環境です。でも人間の心とは不思議なもので、戦場に身を置き続けるうちに、いつしか慣れてしまうんです」
室内はしんと静まり返っている。表の通りをゆく馬車の車輪の音だけが、がたがたとやけに響いて聞こえた。
「今のあなたも、そうなのではありませんか。自分の心を守るために、自分の良心を曲げてしまってはいませんか。あなたが本当はとても親切な方だということを、私は知っています。だって、昨日あなたは、私の怪我に気がついて心配してくれたではありませんか」
「…………」
「……関係ねぇよ、ジョン」
ホームズがどこか苛立たしげに首を振った。
「そもそもこいつが自分から真実を話すメリットなんか皆無だろ。このままパーシーが男爵殺しの罪でお尋ね者になってくれれば、ランプを割っちまった自分のドジについても奴になすりつけられる。現にレストレード達も、犯人と被害者が揉みあった拍子に割れた程度にしか考えてなかったんだからな。殺人罪に比べりゃ大した罪でもねぇから、パーシーも別に気にしやしない。厄介な雇い主が死んで、自分の失敗はうやむやのままお咎めなし。一石二鳥じゃねぇか」
「シャーロック!」
私は思わず声を上げた。
リネット嬢は目を丸く見開いて固まっている。私もレストレード警部もハドソン夫人も、また彼女の心にいらぬ傷を増やしてしまったのではないかと冷や冷やした。しかしどうやら彼女には、優しい言葉よりもホームズのきつい物言いの方が効いたらしい。
彼女は胸に手を当てて考え込んだのち、決然と顔を上げた。
「そう……そうですね。ホームズさんのおっしゃる通り、卑怯な振る舞いでした」
「別に卑怯だなんて一言も言ってねぇだろ」
「シャーロック……」
「だが、もうだんまりを決め込まないって言うんなら、本当のところを教えてもらおうか」
「ええ、お話します。私の証言で正当防衛だったことが証明できれば、パーシーの罪も軽くなりますよね?」
先ほどまでとは打って変わって、リネット嬢は積極的な姿勢を見せた。目には溌溂とした光が宿り、しゃべり方にも淀みがない。おそらくは、ようやく本来の彼女が顔を出したのだろう。
しかし、パーシーの減刑、という点は法律家ではない私にもいささか難しいことのように思われた。雇われたばかりだったとはいえ自分の主人を、それも貴族を殺害したのだ。どれだけうまく転んだとしても絞首刑が終身刑になるかどうか、といったところではないだろうか。こればかりはレストレード警部も難しげな顔で首をひねっている。
ホームズは短くなってきた煙草を灰皿に押し付けた。
「ま、あんたを庇った上での正当防衛となれば、多少の情状酌量はあるかもな。それじゃあ、さっきの話について詳しく聞かせてもらおうか」
「はい、何でも」
「あんた確か『ドアが閉まる音がして、彼が部屋の外に引きずられていった』って言ってたな。具体的に、パーシーがどこに連れていかれて、どこで男爵を殺したのか分かるか?」
その質問に、リネット嬢はやや勢いを失くしてまたブラウスの腕から左の手首をさすり始めた。
「……おそらく、地下室ではないかと」
「地下室?」
「はい。私たち使用人が罰を受けるのは大抵がそこです。どれだけ悲鳴を上げても外へは聞こえないから……」
ホームズは素早くレストレード警部へ視線をやった。
「地下室には、まだ立ち入らせてもらっていない。地下にはワインセラーがあるだけで事件とは関係ないし、温度管理のためにもむやみに人を入れたくないと言って……」
「それは嘘です。旦那様も奥様もお酒を召し上がらないから、ワインセラーはもう何年も使っていません」
「なら、その地下室とやらにまだ男爵殺害の痕跡が残っていると見ていいだろうな。でなきゃ、立ち入りを拒む理由もない」
私はマントルピースの上の置時計で現在時刻を確認した。すでに九時を回っているから、事件発生から二十時間以上が経過しているはずだ。
「今こうしている間にも、痕跡を隠滅されてしまっているのでは?」
「それは大丈夫です」とレストレード警部が請け負った。「ホームズの指示通り、男爵邸には警官を数名残してきています。パーシーが確保されるまでの警護という名目でね。特に男爵夫人と執事には必ず誰か一人が張り付く手筈になっているので、彼らも下手な動きはできないでしょう」
「リネットさん、その地下室は水道が通ってるか?」
「え? いいえ……」
「好都合だ。地下室に大量に残されているであろう血痕を処理するためには、バケツとモップを抱えて何往復かする必要がある。ヤードを地下室に近づけさせないようにやり過ごして、あとでゆっくり片づければいいとタカをくくっていたんだろう」
ホームズの言葉に、ハドソン夫人がちいさく呻いた。おそらくは血に汚れた床をせっせとモップで拭う様子を想像してしまったのだろう。
「それで、どうやって男爵夫人たちを丸め込んで地下室に踏み込む? 部下たちをいつまでも男爵邸に置いておくわけにはいかないぞ」
「方法がないことはない」
即答して、ホームズは引き出しの中をガサゴソと漁った。しばらくしてようやく、無造作に詰め込まれたガラクタの奥から筒状の何かを引っ張り出した。手のひらに収まるくらいの握りやすそうな長さで、片側の先端からは短い紐が飛び出している――。
私と二人の女性はそれが何かとっさに理解できず固まっていたが、レストレード警部はさすがの機敏さで飛び上がるように椅子から立ち上がった。
「お前! 男爵邸を爆破する気か!」
「ちげぇよ、発煙筒だ!」
ホームズが迷惑千万、とでも言いたげに顔をしかめた。
同居人の私としては、ダイナマイトにしろ発煙筒にしろ、そんなふうに適当な保管をしないでほしいものなのだが。この事件が片付いたら、今一度ホームズの荷物を検めよう。私とハドソン夫人は無言のうちに頷きあった。
「こいつでニセの火事騒ぎを起こせば、男爵夫人や執事を強制的に屋敷から引き剥がすことができる。ただ、今回はお前らヤードの目の前でやらなきゃなんねぇからな。この方法で地下室に踏み込めたとしても後がめんどくせぇ。別の方法を考えなきゃならねぇが……」
発煙筒を手の中でもてあそびながら、ホームズは部屋中をうろうろと歩き回った。
真の犯行現場が地下室であることは確定した。地下室に残された犯行の痕跡をおさえることができれば、男爵夫人と執事が現場を偽装し虚偽の証言をしていたことを証明できる。
あとは、いかにして二人を言いくるめて地下室へ踏み込むかだ。
ホームズが言ったような強引な手法も取れなくはないが……。
私たちがうんうんと頭をひねっていると、窓辺で通りを見下ろしていたホームズが鋭く声を上げた。
「ヤードの馬車だ。レストレード!」
警部が素早く反応して、階段の方へ駆け出した。しかし彼が玄関から飛び出すより早く、窓から顔をのぞかせたホームズに気づいた警官が声を張り上げた。
「レストレード警部はいらっしゃいますか! 至急、お戻りください!」
「何があった!」
ホームズが叫び返した。
ベイカー街の住民たちが何事かと軒先から顔を出し、通行人たちは足を止めて振り返る。やって来た警官は、さすがにその場で事態を大声で叫ぶほど無分別ではなかった。
ホームズと私も、大急ぎでレストレード警部に続いて階段を駆け下りた。
セリグマン男爵邸が、パーシーによって襲撃されたのだった。
*
八 事件の終幕
私たちはヤードの馬車にぎゅうぎゅう詰めになってセリグマン男爵邸に到着した。レストレード警部とホームズと私、そしてリネット嬢まで乗り込んできたからだ。
危険だからと警部は待機しているように言ったのだが、彼女は承知しなかった。パーシーがその場で逮捕されようものなら警官の足にしがみついてでも止めてやろうという決意がその顔には見え隠れしていたが、結局は警部も押し負けて彼女の同乗を許した。
馬車が屋敷の前に着くと、待機していた警官が駆け寄ってきた。
「警部!」
「状況は?」
「つい数十分前です。まだ若い男が刃物を持って押し入ってきました。屋敷の前を通りがかった馬車の屋根の上に潜んでいたようで、塀に直接飛び移って来たんです」
「その馬車は?」
「そのまま走り去りました。侵入してきた男に気を取られて、とても追う余裕がなかったので。黒塗りで紋章もなにもない二頭立てだったことだけ……。ですが、侵入者については使用人数名が顔を見ています。パーシーで間違いありません」
我々の後ろでリネット嬢が息をのんだのが分かった。
「そいつは今どこにいる?」
「それが……」
警官は急に勢いをなくした。
同時に、玄関扉が開かれた。広々としたホールの隅に、不安そうな顔をした使用人たちが肩を寄せ合っている。壁際には来客が腰を掛けるためのカウチが備えられていたのだが、そこには執事のニコルソンがうめき声を上げながら横たわっていた。
「奴は屋敷の中を逃げ回って、数人がかりで追ったのですが、恐ろしくすばしっこい奴で、その……」
「まさかとり逃がしたのか!?」
「いえ、あの、実はついさっき、奴はニコルソンさんを突き飛ばして階段から落としたのです。それに我々が気を取られた一瞬のうちに、見失ってしまって……」
「何をやっている!」
「も、もうしわけありません」
警官は腰を直角に曲げて頭を下げた。
「ですが、正門も裏口も、サンソンたちが固めています。先ほどは馬車に乗っていたから塀を越えられたものの、塀の内側から脱出するにはロープでもないと普通の人間には難しいでしょう」
面目がつぶれるのを何とか回避しようとしているのか、警官はそこだけは自信ありげに頷いた。
しかし彼は、いったい何のために舞い戻ってきたのだ?
例えば証拠を隠滅するといった目的で、犯人が殺人現場に後からこっそりと戻ってくるケースは少なくない。ホームズが見事その現場を抑えて解決した事件を私はいくつか知っている。けれど、この事件に関してはパーシーが犯人であることは誰の目にも明らかだ。このまま逃げていればいいところを、リスクを冒して屋敷に舞い戻る目的とは――。
「……つまり、まだ奴が屋敷から逃げ出したところを誰も見てないんだな?」
ホームズが大きなため息とともに、そう尋ねた。
警官たちがお互いに顔を見合わせる。誰からも返事はなかった。
ホームズはもう一度大きく息を吐くと、意を決したように顎を引いて胸を張った。次の瞬間には、別人のように朗々とした声が、ホール中に響き渡った。
「容疑者フレドリック・パーシーはまだ屋敷内に潜伏してる! 屋敷中を"くまなく"捜索しろ!」
ホームズはそう叫ぶと、稲妻のような速さで駆け出した。
一呼吸遅れて、レストレード警部がはっと息をのんで彼の意図を汲み取った。部下たちに短く鋭い指示が飛ばされる。すぐに警官たちが各々行動を開始した。
ホームズがまっすぐに向かうのは、当然、例の地下室だ。
私はすぐさま彼の後を追って駆け出しそうになった。もちろん、普段であればそうしていただろう。しかし今回は、私には私にしかできない役割があった。
「動いてはいけません!」
私はホールに引き返し、カウチから身を起こそうとしていた執事を座面へ押し戻した。そして、患者を安心させるためによく使う、めいっぱいの誠意と温かみを込めた表情と声でこう告げた。
「どうぞご安心ください。ここはホームズと優秀な刑事さんたちにお任せしましょう」
「し、しかし……」
「ご心配でしょうが、ここは堪えてください。あなたに執事としての責任があるように、私にも医師としての責任があります。階段から転げ落ちたのですから安静にしなければなりません。頭を打った直後は何ともなくても、後から状態が急変した症例はいくつもあります。脳へのダメージはとても恐ろしいものなのですよ」
もちろん、この言葉はでたらめではない。私は思いつく限りの症例を次から次へと並べ立てた。
見たところ彼は意識もはっきりしているようだし、そう深刻なことにはならないだろう。それでも、地下室へ踏み込む絶好の大義名分を得たホームズたちの邪魔をさせるわけにはいかなかった。
執事がカウチに釘付けにされたのを見て、男爵夫人自らが腰を上げようとした。だが、そこに頼もしい増援が駆けつけた。リネット嬢だ。
「奥様、ワトソン先生は軍医をなさっていたこともあるんですって。もしパーシーが戻ってきても、先生の側にいれば安心ですよ」
彼女は立ち上がろうとする男爵夫人の肩を、安心させるようにやんわりと、しかし有無を言わせぬ強さで押さえつけた。その瞳に恐れの色はなかったし、指先はちっとも震えていなかった。
そう言われてしまえば、さしもの男爵夫人も、このメイドを振り払う口実を咄嗟に思いつかないようだった。事実、ここを一人で離れれば物陰に潜んだパーシーに不意打ちをくらわされる可能性は決して低くない。
他のメイドたちもおろおろと顔を見合わせながらも、羊飼いの周りに寄り集まる羊のように、私たちのそばを離れようとしなかった。
間もなく、廊下の向こうから警官たちのざわめきが聞こえてきた。
おそらく、あちらに地下へと続く階段があるのだろう。ホームズの後を追った警官が大慌てでホールへ引き返してきて、そのまま玄関から飛び出していった。おそらく、スコットランド・ヤード本庁へ応援を呼びに行ったのだろう。
カウチに身を沈めた執事は痛みによるものではないうめき声を上げ、男爵夫人はへなへなとその場に崩折れて顔を覆った。
この後の顛末は連日新聞で報じられた通りである。
読者諸賢もよくご存知のことだろうから、ここでくどくどと説明はしない。
まっすぐに地下室に踏み込んだホームズは、そこにおびただしい量の血痕と、血に汚れたランプの破片を発見した。リネット嬢の証言の通り、男爵が殺害されたのは書斎ではなく、彼が日々使用人たちを痛めつけていた地下室だったのである。
男爵夫人は遺体を偽装し虚偽の証言をしたかどで、ヤードへ連行された。執事はいったん病院に送られたが、すぐに夫人の従犯として身柄を移された。
しかし結局、パーシー青年は見つからなかった。彼は煙のように屋敷から姿を消してしまった。彼が危険を冒して屋敷に舞い戻った真の目的は未だにわからない。ホームズがそれについて何も語ろうとしないのだから、私にもレストレード警部もお手上げだった。
スコットランド・ヤードによる捜索はまだ続いているが、私がこの原稿をしたためている今日に至るまで、彼の行方は杳として知れない。
そのことを憂うべきか喜ぶべきか、私はいまだに判断しかねている。
***
ストランド・マガジンの最新号をぱたりと閉じたアルバートは、ふぅと息をついて紅茶のカップに手を伸ばした。
「結末を知っていても、なかなか面白いものだね」
「ええ。売り切れ続出ですぐさま増刷がかかったらしいですよ」
ウィリアムが微笑みながら頷いた。この一冊も、彼が懇意にしている書店に頼んで取り置いてもらったものだった。
アルバートがこうした大衆向けの軽い読み物を手にするのは普段あまり無いことであったが、気づけば夢中になって物語の世界に没頭してしまっていた。居間に集まっていた屋敷の面々をそっちのけで読みふけっていたから、少しバツが悪い。と言っても、他のメンバーはアルバートが貿易会社の仕事に出ている間に一通り回し読みした後らしかった。
ウィリアムは雑誌の表紙をどこか嬉しそうに撫でている。
「コナン・ドイル氏の小説が掲載される号はいつも飛ぶように売れるとはいえ、今回は『緋色の研究』事件に次ぐ売れ行きだそうです」
「そりゃあそうだ。何てったって、裁判の真っ最中だからな」
モランは新聞の束をばさばさと鳴らした。
セリグマン男爵夫人の裁判に関する記事がその一面を飾っている。
使用人が貴族を殺害しただけでも十分センセーショナルな事件だが、その原因が使用人への度重なる虐待であったとなれば否が応にも市民たちの関心が集まる。さらには虐待に加担していた夫人が、その醜聞を隠すために夫の死体をめった刺しにさせた上に警察に虚偽の証言をし、それをホームズに暴かれたとなっては、もうお祭り騒ぎだった。
憶測、批判、擁護、とにかく様々な立場から様々な意見が飛び交った。
「ほんっと、どこに行ってもこの話で持ちきりだよ。このタイミングで作品を出すなんて、ドイル先生も思い切ったよね」
「議論が持ち上がるのはいいことだよ、ボンド。誰か一人を叩く流れになるのいただけないけどね」
「ホームズは、事件の背後に我々の存在があったことに気づいているのでしょうか?」
ウィリアムのティーカップに目を配りながら、ルイスが呟いた。
「きっとね」とウィリアム。
長椅子に行儀悪く足を組んで腰かけたモランが、得意そうにふんと鼻を鳴らした。
「ホワイトチャペルの時と同じだ。いくら天下の名探偵様だろうと、いもしない人間をとっ捕まえるのは無理な相談だろうよ。なぁ、フレドリック・パーシー?」
「……勝手をして、すみませんでした」
モランからのからかいの言葉を受けて、部屋の隅に立っていたフレッドが神妙な面持ちで頭を下げた。
小説の最後にワトソンが記していた通り、男爵を殺害し逃亡した『フレドリック・パーシー』はいまだ見つかっていない。それもそのはず、彼の正体は変装したフレッドだったからだ。左膝に傷を負った元使用人からの依頼を受け、ウィリアムの命でセリグマン男爵家に潜入していたのだ。
当初の予定ではもう少し時間をかけて調査しその罪状を見極めるはずであったが、メイドの一人が高価なランプを割るというとんでもない失敗をやらかしたため、優しい性分の彼は庇わずにはいられなかった。
多少の体罰であれば甘んじて受け入れるつもりだった。虐待があったという事実に裏を取ることもできる。しかし地下室に引きずり込まれて首を絞められそうになった時点で、手を振りほどき隠し持っていたランプの破片で反撃してしまったのだ。
「放っておけば彼女がどんな目に合わされたかわからない。いいアドリブだったよ、フレッド」
「まったく、お前が前倒しで殺っちまった時は焦ったぜ」
「冒頭に出てくる、ウィギンズくんに情報渡した野次馬ってモランくんのことだよね? シャーロックにちょっと怪しまれちゃってない?」
「そうでしょうね。警部とワトソン博士が都合よく解釈してくれたから良かったものの……」
「うるせぇ、まさか連中が死体動かしてるなんて思わねぇだろ」
ボンドとルイスに指摘されて、モランは顔をしかめた。
セリグマン男爵への『裁き』が早まってしまったとはいえ、潜入前の下準備に抜かりはなかった。ホームズを事件に引き込んで派手に解決させるために野次馬を装ってイレギュラーズの少年に情報を渡したのであるが、慌ただしく動いたためウィリアムの指示が間に合わなかった。「男爵が殺されたのは地下室」とまでは口にしなかったため何とか難を逃れた形だ。
「ともかく、この一件はもう我々の手を離れたと見ていいかな?」
「あの、それが、もうひとつ……」
アルバートの言葉に、フレッドがおずおずと手を上げた。
「セリグマン男爵夫人が、リネットさんにランプを弁償するよう請求書を回しているようで……」
「マジかよ、懲りてねぇなぁ」
モランが乾いた笑い声をあげた。
作中でホームズが言っていた通り、ランプの件については彼女の過失であることは変えられないだろう。しかし裁判の真っ最中に、よくも臆面もなく請求書など回せたものだ。
「リネットさんの経済状況ではとても払える額ではありません。せっかく……」
「大丈夫だよ、フレッド」
我らが相談役は、彼を安心させるように微笑んだ。
「まずはその事実を噂として街に広めてほしい。この小説の売れ行きを考えればそう難しいことじゃないだろう」
「世間の話題にして、訴えを取り下げるよう圧力をかけるということですか?」
「それでもいいけど、もっといい方法がある。出版社に、匿名でリネット嬢宛の寄付金を送るんだ」
「え」とフレッドは声を上げた。「いいのですか?」
「もちろん。ただし、全額肩代わりするわけじゃないよ。僕らが出すのはほんの少しだ」
その意味するところをいち早く汲み取って、アルバートは思わず口角を上げた。
「なるほど、市民たちに自ら動いてもらおうというわけか」
「ええ。この小説や報道を読んだ市民たちの中には、彼女の助けになればと後に続く者たちがきっと現れるでしょう。金銭という形ではありますが、声を上げ、隣人を救う――そのための一歩を、彼ら自身に踏み出してもらいましょう」
コナン・ドイル氏によるホームズの冒険譚は、すでにこのロンドンの市民たちにとって愛すべき娯楽としてその地位を確立している。ホームズの手がける事件に間接的にでも関わることができるのなら、――その動機が義憤にしろ野次馬根性にしろ――リネット嬢への寄付に協力したいと考える者は少なくないだろう。
「そりゃあいい。この過熱ぶりなら一週間とかからずに集まるだろ」
「えー、そうかなぁ。あの男爵、骨董品集めが趣味だったみたいだし意外と値打ちものかもよ?」
「どうなんだ、フレッド?」
「え、わかんないよ……」
上流階級の好みそうな調度品の類にも詳しいボンドの頭の中では、すでに目標金額の見積もりが始まっているようだった。彼とモランの間で、どれくらいの期間でランプを賄えるだけの金額が集まるのか賭けをするつもりらしい。
「ふむ。私も個人的に一口乗ろうかな」
「お前はやめろ!」
「アルくんそれ一気に金額読めなくなるから!」
「皆さん、不謹慎ですよ……」
ルイスが呆れたようにため息をついた。
「なんじゃ、賑やかだな」
ジャックががらがらとワゴンを押しながら居間に入ってきた。
ワゴンに乗せられた皿の上には焼きたてのクッキーやマドレーヌやクラフティが山と盛られていた。甘く香ばしい匂いが部屋中に広がる。アフタヌーンティーのお茶うけにしては、ずいぶんと気合の入った量だった。
ボンドが顔を輝かせて駆け寄り、フレッドも控えめにその後に続いた。
「わぁ、すごい!」
「はっは、好きなだけ食え。若いもんがいると張り合いがあってつい作りすぎてしもうたわ」
「さすが先生、どれも美味しそうですね」
ルイスが手際よく皿の準備を手伝いながら、言った。
アルバートやウィリアムに言わせればルイスの作るスコーンも絶品だったが、意外に甘党なジャックが菓子作りに注ぐ情熱は人一倍強い。ジャックの手ほどきを受けて一通りの料理をマスターしているルイスも、ジャックの作る菓子には一目も二目も置いているようだった。
「兄さん、どうぞ」
ウィリアムが皿をこちらに回してくれた。
アルバートは彼に礼を言って、四角い形のクッキーを一枚摘まんだ。まだ温かい。歯を立てればさくりと簡単に崩れて、口の中に甘みが広がった。よく味わうようにゆっくりと咀嚼して、今度は紅茶のカップに手を伸ばす。
モランとボンドは賭けの話を再開したようだ。ジャックは、小説に登場するメイドが美人だったのかどうか尋ねてフレッドを困らせている。ルイスはどちらから先に止めに入るだろうか。アルバートはウィリアムと顔を見合わせて笑った。
仲間たちの笑いさざめく声が、耳に心地よかった。
初出:Pixiv 2023.02.26
ダラムの幽霊屋敷 Returns
ダラムのお屋敷が幽霊屋敷だったら……という話。三年後編。
■
月もない真夜中のことだった。
人々はとうに寝静まり、町外れの暗い道の先に一軒の屋敷が建っていた。生きている人間は誰も住まわず、長らく打ち捨てられている屋敷だ。
近づく者などいないその屋敷に、コソコソと鼠のように二人の男が忍び込んだ。彼らは音を立てないように気をつけながら窓ガラスを割り、錆びかけた錠をそっと外す。
「兄貴、ほんとに忍び込んだりして大丈夫なのかよぉ?」
怖怖と室内の様子を伺いながら、覆い付きのランタンを持った一人が言った。もう一人の、帽子を被った男が答える。
「馬鹿。俺たちから取り立てた地代で、今まで散々贅沢してたんだ。おっ死んだなら還元してもらわねぇと」
「でもよぉ……」
「おい、つべこべ言ってないで早く明かりを持って来い。窓の方には向けるなよ。近所の連中に見つかっちまう」
口ぶりからして、帽子を被った男の方が兄貴分らしい。彼はずかずかと階段を上がり、我が物顔で書斎に入り込むと躊躇いもせず引き出しを下から順に開けていった。
「くそっ、ひと通り漁られた後だな。大したものは残っちゃいねぇ」
毒づきながら、帽子の男が引き出しから掴みだした小物を床に放り投げる。残っているのは木軸のペンや新聞の切り抜き、ごく少額の切手ばかりで、換金できそうなものはどこにもない。
引き出しを乱暴に閉めた拍子に、机の上に置いてあったインク壺が転がり落ちた。蓋が外れて、黒いインクが絨毯の上に飛び散る。
ランタンを持った男が慌てて後ろに飛び退いた。
「兄貴! まずいって、あんまり荒らしちゃ」
「うるさいな。無駄口叩いてる暇があったら、お前も向こうのキャビネットを調べてこいよ」
「ここはヤバいんだって。昔っから何かがいるって、死んだばあちゃんがいつも言ってたんだよ」
「ふん、モリアーティ家の連中は平気な顔で暮らしてたじゃないか」
「それは、あいつらが同じ悪魔だったからさ! 怪物同士で気が合ったんだろうよ。だから……」
その時、引き出しを漁っていた帽子の男がすっと右手を上げた。ランタンの男が慌てて口をつぐむ。
「……何か聞こえないか?」
そう問いかけられて、男は耳をそばだてた。
言われてみると、遠くからかすかに鈴の音が聞こえる。
二人はそっと天井を見上げた。どうやら上の部屋からだ。
「よ、呼び鈴じゃないですか? 使用人部屋なんかにある……」
「ああ、確かにそんな音だ。金持ちの家によくあるやつだな。主人が自分の部屋の紐を引っ張ると、壁を伝って使用人部屋の鈴が鳴るっていう……」
「…………」
二人は無言のまま顔を見合わせて、それから隣の部屋に続くドアの方を見た。
もし上階で鳴っているのが使用人を呼び出すための呼び鈴であるのなら、誰かが紐を引いているということだ。そう、例えばあのドアの向こうの主寝室で……。
ばんっ。
何者かがドアを内側から叩いた。
息を潜めていた二人は飛び上がるほど驚いた。ランタンの男は逃げ出そうとしたが、帽子の男は気丈にも声を荒げてみせた。
「馬鹿野郎、これくらいでビビるんじゃねぇ。俺達より先に潜り込んだやつがいるんだろう。つまらねぇいたずらで人を驚かそうたって、そうはいかねぇぞ! 出てきやがれ!」
二人は口の中をカラカラにしながら、相手の出方を待った。やがて蝶番が軋んだ音を立てて、ゆっくりとドアが開く。
ランタンを高く掲げて明かりをドアの方へ向けながら、二人は固唾を呑んで見守った。
開いたドアの向こうには、誰もいない。
ランタンの男が悲鳴を上げた。
「うわぁ、出た!」
「な、何が『出た』だ。どうせ隠れてやがるんだろ。俺がとっちめて……」
帽子の男は強がりながらも果敢に主寝室に乗り込もうとした。が、背後で連れが再び悲鳴を上げたので、慌てて振り返る。
「あ、開かない! 閉じ込められた!」
ランタンの男は半狂乱になって、廊下に続くドアをガチャガチャと揺らしている。これにはさすがに帽子の男も泡をくって駆けつけた。
「ど、どうしよう、兄貴……閉じ込められちまったよぉ!」
「落ち着け馬鹿野郎。見ろ、ドアノブは動くぞ」
帽子の男の言う通り、ドアノブは途中までは動く。だが途中で何かに引っかかってそれ以上は動かない。鍵を掛けられたわけではないようだった。
二人はえいやっと掛け声の後、同時にドアへ体当たりをした。
ガタンと大きな音を立てて、つかえが外れたような手応えがあった。間髪入れずにドアが勢いよく開く。 二人は勢い余って転がるように廊下へ飛び出した。
「はぁっ、た、助かった……」
「見てみろ。こいつがドアノブに引っかかってたんだ」
帽子の男が指差す先に、一脚の椅子が倒れていた。おそらく、背もたれのところをドアノブに噛ませていたのだろう。
「でも俺たち、このドアから忍び込んだんですよ? 一体誰が椅子を?」
「ふん、寝室に隠れてる奴だろうよ。捕まえてぶん殴ってやれ、ば……」
言葉が中途半端に途切れた。
二人の眼の前で、床に倒れていた椅子がひとりでに立ち上がったのだ。さらに、開けっ放しだったドアが大きな音を立てて勢いよく閉まった。
男たちはぎゃっと悲鳴を上げ、後ろに飛び退った。ランタンを持った方の男が、バランスを崩して壁に激突する。
「いてっ」
「おい、何やってる!」
「あれ? 兄貴、ここの壁、何か書いて……」
「そんなのどうだっていいだろうが! さっさとずらかるぞ!」
帽子の男が、連れの襟首を引っ掴んだ。二人は大慌てで廊下を駆け抜け、階段を駆け下りていく。
振り返ると、椅子がすーっと床を滑って追いかけてくる。二人はもう一度悲鳴を上げた。
正面玄関には鍵が掛かっている。
二人は我先にと居間へ駆け込んで、大きな窓から庭へと飛び出した。割れたガラスで引っかき傷を作ったが、構ってはいられなかった。
冷たい夜風が頬をなで、ほっと一息ついた矢先、今度は帽子の男がうわっと声を上げて地面に倒れた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ああ、悪い。大丈夫だ。ちくしょう、靴紐が解けてて踏んづけちまった」
「はは……、兄貴にしちゃ珍しい。ま、あんなもの見ちまったら仕方ないですよ」
ランタンの男はいまだ飛び跳ねる心臓を押さえつけながら、帽子の男へ手を差しのべた。
帽子の男は悪態をつきながら連れの手を掴もうとして、ふと彼の背後にある屋敷を見上げた。その表情がみるみるうちに凍りつく。
「? どうしたんですか?」
ランタンを持った男が怪訝な顔で首をかしげる。
帽子の男はそれには答えず、再び尻もちをつくと脇目も振らず逃げ出した。不思議に思って背後を振り返ったランタンの男も、ぎゃっと悲鳴を上げて後を追った。
二階の窓に、彼らをじっと見下ろす女の顔が見えたのだ。
■
数年ぶりに訪れたダラムの墓所は、あの頃と変わらずしんと静まり返っていて、時間の経過を感じさせなかった。
フレッドがフリーダの墓標の前に膝をついて、花を供えた。つい先程、駅前で花売から買い求めたものだ。
彼が「ダラムの屋敷に向かう前に寄り道したい」と言い出したとき、どこへ寄るつもりなのか俺には見当もつかなかった。ひょっとして、計画の最中も時折こうして花を添えに訪れていたのだろうか。だとすると律儀な彼らしかった。
あのルシアンとかいう学生はとっくに大学を出て実家へ戻っているはずだ。けれど墓石の周囲は綺麗に掃き清められ、定期的に手入れがされている様子が窺えた。
三人の中で唯一当時の経緯を知らないボンドは、刻まれた碑文に目を通してぽつりと呟いた。
「若いね」
「若かった、だ」
「うん……」
三人でしばらくの間、黙祷を捧げた。
頃合いを見て、俺は煙草を取り出して火をつけた。
「さて、そろそろ行くぞ。あいつらも着いてる頃だ」
墓前を離れようとしたとき、向こうから腰の曲がった老婆が歩いてきた。ボンドが愛想よく会釈して通り過ぎようとすると、老婆は俺たちの顔を見上げながら歯の抜けた口を開いた。
「あんたら、この辺りのもんじゃないね? いや……だがどこか見覚えが……」
老婆の視線が記憶を探るようにふらふらと彷徨う。俺は煙を吐き出しながら、何食わぬ顔で答えた。
「ここに来るのは初めてだよ」
「だがそこの墓に花を供えてただろう」
「人に頼まれてな」
「ああ」老婆は納得したように頷いた。「アトウッド家の使用人かい。あの坊っちゃん、自分が来られない時はたまに人をやって墓の掃除をさせているからね」
「そうだな」と、適当に相槌を打っておく。
「おたくの坊っちゃんは何度かここで見かけたことがあるが、身分を鼻にかけないいい子だね。数年前までここら一帯を治めてた男爵様とは大違いさ……もちろん、モリアーティ家ともね」
背後でフレッドが小さく息を呑んだのが聞こえた。その反応に気を良くした老婆はさらに喋り続ける。
「犯罪卿がダラムの大学で教壇に立ってたのはあんたらも知ってるだろ? ルシアンの坊っちゃんだって、何も知らずに奴の講義を受けてたって話じゃないか。恐ろしい話さね。領民の中にはあの家を称える者もいるにはいるけどね、あたしはずっと胡散臭い連中だと思ってたよ」
「へえ」
俺ははあくまで興味がなさそうなふりをした。後ろの二人も、黙って老婆の話に耳を傾けている。
当時はモリアーティ家がこの地を治めることになったのを有り難がっていたくせに、調子のいい連中だ。しかしモリアーティ家への非難の声が上がるということは、今の領主がそれなりにうまくやっているという証拠でもある。それで良しとするしかないだろう。
「かつてモリアーティ家が所有していた屋敷は、ここらじゃ『悪魔の屋敷』ってもっぱらの噂だよ。夜な夜な、犯罪卿に惨たらしく殺された連中だか犯罪卿本人だかの亡霊がうろつき回ってるのさ」
「『亡霊』ね……」
呟きながら、俺は短くなった煙草を足元で踏み消した。
以前から幽霊屋敷の噂はあったが、あの事件を経てそういうふうに話が捻じ曲がってしまっていても不思議はないだろう。
犯罪卿の亡霊。つい数ヶ月前の自分が聞けば、亡霊の存在を信じるかどうかは別としても、狂おしいほどの衝動に駆られて屋敷へと忍び込んでいただろう。
だがウィリアムに再会した今となっては、鼻で笑い飛ばせるだけの余裕があった。
*
屋敷へたどり着いた時、すでに正面玄関の鍵は開いていた。先に馬車で向かったウィリアムたちが開けたのだろう。
世間的には死んだはずのウィリアムは念を入れて女装までしたが、屋敷にモリアーティ家の人間が戻ったとなれば人目を引くのは間違いない。不測の事態に備えて、(説得するのにかなり骨を折ったが)俺たちも随行することにしたのだ。
屋敷は、不在の間に随分好き勝手されたようだった。ポーチにはゴミが散乱し、マホガニー材の重厚な扉には赤い塗料で罵詈雑言が書き殴られていた。
「庭、見てくる」
フレッドはそれだけ告げると、玄関には入らず屋敷の西側に回っていった。
俺とボンドは玄関ホールへと足を踏み入れた。
長らく閉め切られていたためか、空気は埃っぽく冷えていた。だが年月による荒廃など問題にならないほど、屋敷の内部は荒らされていた。本来であれば手を触れることすら躊躇うはずの調度品の数々を蹴倒し壁に叩きつけるのは、さぞ胸がスッとしたことだろう。
「あーあ、ひどいね」
ボンドが軽い調子で声を上げた。
ホールの大鏡はひび割れてはいたが、奇跡的に踏みとどまっていた。今は煤けた鏡面に写るのは、暗い室内に佇む俺とボンドの姿だけだ。
俺たち以外の人影は、無い。その事実を確かめた俺は内心でほっとすると同時に、どこか物足りない気持ちになった。
一階をひと通り見回った俺とボンドは、連れ立って階段を上がった。
ウィリアムたち三兄弟はかつてのルイスの部屋で何やら話し込んでいる。どうやら思い出話に花を咲かせているらしかった。邪魔をするのも悪いかと思い、俺たちはドアの隙間からひと声だけ掛けてその場を後にした。
廊下の窓ガラスは所々割れて、ガラス片と石ころが床に散らばっている。
拳ほどの大きさのある石ころを、ボンドが廊下の端に向かって蹴飛ばした。割れたガラスを踏みつけるたび、靴底がジャリジャリと鳴った。
顔にかかる蜘蛛の巣を払いながら、ため息が漏れた。
「人様の屋敷の窓で、的あてゲームでもしやがったのかよ」
「ははっ。最上階の窓と主寝室の窓、どっちが高得点だったと思う?」
「知るか」
そんな軽口を叩きながら、俺たちは三階へと上がった。ボンドはあの頃の習慣をなぞるように、まっすぐに自分の部屋へと向かっていく。
俺は別段自室に用はないので、廊下で煙草をふかしていた。あの当時は屋敷内で喫煙してはルイスに叱責を受けていたが、今さら灰を落としたところで彼も気にはしないだろう。
しばらくして、廊下の端の部屋からボンドが顔を覗かせた。おいでおいでと手招きをしている。
「何だよ?」
近寄っていって訊ねると、ボンドは部屋のドアを大きく開いた。
「僕の部屋、綺麗すぎない?」
「はぁ?」
そう言われて室内を覗き込んでみると、確かに彼の部屋は廊下とは比べ物にならないほど整然としている。
窓が一枚割れて風雨が吹き込んではいるようだったが、床にはガラス片や石ころの一つも見当たらない。その違和感を無視しつつ、俺は言った。
「ゴロツキどもも、ここまで上がって来なかったんだろ。荒らすなら、金目のものが置いてある二階だ」
「じゃあ、誰がベッドメイクしたの?」
「え?」
「最後の計画が動き始めた時期さ、こっちに来るのはもうこれが最後になるかもしれないからって、ロンドンに戻る時にベッドメイクしなかったはずなんだ。それなのに……」
「お前がやらなくても、ルイス辺りがやったんだろ」
そう口にしてから、モランは「いや」と思い直した。
ボンドが仲間に加わったばかりの頃、ルイスが彼に「洗濯から返ってきたシャツやシーツは部屋に届けたほうが良いか」と訊ねたことがあった。ボンドは確か「自分で取りに行くから大丈夫」と答えたはずだ。
ボンドを男性として扱うことに決めたとはいえ、部屋に勝手に立ち入るのは遠慮した方が良いかルイスなりに遠回しに確認したのだ。(彼はモランやフレッドの部屋には勝手に入って洗濯物を置いていくし、そのついでにベッドメイクや掃除も済ませてくれる)
あの真面目なルイスがそれを無視してボンドの部屋に立ち入ったとは思えない。
であれば、一体誰が?
それからボンドに引っ張られて他の部屋も確かめてみたが、結局、綺麗に整えられていたのはボンドの部屋だけだった。
「ほら見ろ。どうせ忘れてるだけで、お前が自分でベッドメイクしたんだろ? で、たまたまお前の部屋だけは荒らされなかった」
「えー、そんなぁ」
「何が『そんなぁ』だ。他の可能性なんてあるわけ無いだろ」
「あるかもしれないじゃん! モランくんこそ、何でそんなムキになって否定するわけ?」
「ぐ……」
言い合いながら、俺たちは再び階段を降りた。
と、そこでボンドがふいに足を止めた。彼は割れた窓とは反対側の、壁の方を見ている。
先程は割れた窓と足元のガラスに気を取られて気がつかなかったが、そこには滴る血のような赤色で文字が綴られていた。玄関ドアにあったような殴り書きとは違う、きちきちとした文字だった。
「ね、これなんて書いてあるの? ラテン語っぽいけど……」
ボンドの視線に促され、俺はイートンでテキストとにらめっこしていた頃の古い記憶を引っ張り出した。
「あー、"Eramus quod estis. Sumus quod eritis."……『かつての我々が今日のお前であり、今日の我々が明日のお前だ』ってところか?」
「わぁ、さすがインテリ! で、どういう意味?」
「そりゃあお前……」
改めてその意味を咀嚼してみて、俺たちは顔を見合わせた。
「……不法侵入したゴロツキの中に、たまたま教養のある奴がいたんだろ」
「えー、まっさかぁ」
ボンドは声を上げて笑い、そしてすぐに青い瞳をいたずらっぽく光らせた。
「ね。もしかしてさ、ウィリアムくんの書斎に出るっていうインテリお爺さんのユウレイが書いたんじゃない? ゴロツキへの脅し文句にしてはちょっと洒落すぎてるけど」
「そんな訳ないだろ」
俺は早口に言い切った。
霊だの魂だの、くだらない。人間なんて所詮、血と肉と骨の塊だ。壊れて機能を失えばそこで終わり、続きなど存在しない。 はっきりとそう言い切ってしまいたかったが、残念ながら頭ごなしに否定できない事象が世の中には存在することを俺は知っている。特にこの、ダラムの幽霊屋敷では。
俺はちらりとルイスの部屋の様子を窺った。ウィリアムたちはまだ、楽しそうに談笑を続けている。
「ボンド。お前、ここにいろ」
「え、何? どうしたの?」
呼び止める声を無視して、俺は階段を駆け下りた。
*
階段を下りて、俺は居間へと駆け込んだ。
大きな掃き出し窓のガラスが派手に割られていて、錠が外されている。ゴロツキどもはここから屋敷に入り込んだのだろう。
割れた破片に注意しながら窓枠を押し開けて、庭へと出る。美しかった花壇は長らく放置されて見る影もなく、芝生は所々剥がれて雑草が繁茂していた。
地面には薔薇園まで続くタイルの小道が敷かれている。
その途中に、フレッドがしゃがみ込んでいた。寛いでいるという様子ではなく、必要があればすぐにでも立ち上がれるよう片膝を立てた姿勢だ。
「フレッド……」
背後から呼びかけると、フレッドは片手を上げた。「静かに」と促すような仕草だった。
俺は素早く周囲に目を走らせた。が、荒れ果てた庭で動くものといえば風に揺れてざわざわと鳴る木の葉くらいなもので、人の気配は感じられない。植え込みの陰に野良猫が潜んでいるというわけでもなさそうだ。
「どうしたんだよ?」
「静かにして」
フレッドは短く答えた。
またしても俺は黙り込む。フレッドの背中は小さく丸まっているようでいて、ピンと張りつめた緊張感を纏っていた。
すぐにでも彼の腕を引いてこの場を離れたかったが、その真剣な様子を目のあたりにすると声がかけられなくなってしまった。仕方がないので邪魔をしないようになるべく気配を消して待っていると、しばらくしてフレッドは諦めたようにため息をついた。
「……何か用?」
「いやお前こそ何やってるんだよ、こんなところに座り込んで。ウィリアムたちの用事が済んだらすぐに出るぞ。もう中に入れ」
「迎えの馬車はまだでしょ? それまで、ここで待ってるから」
「待ってるって……」
言いかけて、俺は口を噤んだ。
フレッドは花壇の真ん中に設えられた小さな天使像の方を見ている。可愛らしく微笑んでいたはずの天使は、煉瓦を打ち付けられたのか、鼻が砕けて翼がぽっきりと折れていた。花壇の中には投げ込まれた空の酒瓶やゴミが散乱している。
「こんなにされる間、ずっと我慢してたのかな」
フレッドがぽつりと呟いた。
「知らない人たちが自分たちの場所に入り込んできて、好き勝手暴れて、怖かったんじゃないかなって……驚かせて追い払うことだってできたはずなのに……」
「……誰の話をしてるんだ?」
「ここにいた男の子だよ」
「は? 近所の子供か?」
フレッドは首を横に振った。
「違うよ、『ここ』にいたんだ。いつからかは分からないけど。男の子……だと思う。多分。いたずら好きな子で、僕が庭で仕事をしてるとそばで眺めたり、僕の手袋やはさみを隠したりするんだ。でも、ある時に僕が『生き物にはいたずらしちゃ駄目だ』って言ったんだ。だから、屋敷をめちゃくちゃにされても反撃せずにずっと我慢してたのかもしれない。僕のせいで、三年間ずっと……」
「待て。お前何を言ってる? そんな子ども、いるはず無いだろう」
「いるよ。いたんだ、ここに……」
フレッドはきっぱりと言い切った。言っていることは支離滅裂だがその目は真剣そのもので、かえってぞっとさせられた。
「謝りたかったんだ。僕らを憎む人たちが屋敷を荒らすのは仕方のないことかもしれないけど、あの子達は何も関係なかったのに」
「馬鹿言うな。そんな子どもいない。いもしない奴に何を謝るって言うんだ」
「いるよ。モランだって、何回も見たんだろ」
フレッドはむっとした顔をした。
彼が言っているのは、三年前たびたびモランを悩ませたあの幽霊嬢のことだろう。だがその実在を信じたくない気持ちと、フレッドの頑なな態度に俺もいくらか苛立ってきた。
「いいや、いない。実際俺は今日一度もあの女を見てない。最初からいなかったんだよ、そんな連中」
「嘘だ。そんなこと……」
フレッドは俺に言い返そうと口を開きかけて、ふいに黙り込んだ。
不意にひやりとした風が吹き抜けて、ぺた、と湿った音がした。
座り込んだフレッドのすぐそば、タイルの上に小さな手形が現れていた。
俺たちは口をぽかんと開けたままそれを凝視した。
小さな右手だ。フレッドのものではないだろう。ちょうど、子供が泥の中に突っ込んだ手を乾いたタイルに押し付けたような。
そんなはず無い。俺は無意識のうちに首を横に振っていた。
見落としていただけで、この手形はさっきからずっとそこにあったのだ。近所の子供が度胸試しに潜り込んで、記念の手形を残していったに違いない。
濡れてつやつや光る手形の表面に気づかないふりをしながら、そう自分に言い聞かせた。
俺はフレッドの腕を引いて立たせようとしたが、彼は頑としてその場を動かない。
「まだ、いるの?」
フレッドが震える声で問いかけた。
話しかけている相手は俺ではない。
答えるように、ぺた、ともう一つ手形が現れた。
今度こそ疑いようもなく突きつけられた事実に、俺は震え上がった。
「来るんじゃねぇ!」
叫びながら、俺は無理やりフレッドを抱え上げた。驚いたフレッドが「うわっ」と悲鳴を上げる。
「俺たちはまだ生きてるんだ。お前らとは違う!」
「モランやめて! 大きい声出さないで!」
「冗談じゃねぇ、連れてなんて行かせねぇぞ! 恨むなら勝手に恨んどけ。呪うなら勝手に呪っとけ! こいつは連れて行かせねぇぞ! 絶対……絶対……」
俺は自分でも何を言っているのか分からなくなりながら、虚空に向かって吠えた。
フレッドの体を抱え直して荒れ果てた庭を見渡してみても、敵の姿はどこにも見えない。半分砕けた天使像だけがじっとこちらを見上げていた。
背後に人の気配を感じて飛び退ると、そこにはボンドがいた。彼は怪訝な顔で首を傾げている。
「大声出して、どうしたの? なんでフレッドくんのこと抱っこしてるの?」
「ボンド、すぐにここを出るぞ。ウィリアムたちは……」
その時、側頭部にぽこ、と軽い衝撃が走った。
俺は再びフレッドを抱えたまま飛び上がる。腹に回した腕を急に締めてしまって、フレッドが「ぐぇ」と声を漏らした。
恐る恐る足元に視線を落とすと、丸めた布の塊が落ちていた。それが飛んできたと思われる先には、当然ながら誰もいない。
ボンドが回り込んで、ひょいとその塊を拾い上げた。広げてみると、それは薄汚れた白い手袋だった。
「あれ、これモランくんの手袋じゃない?」
「は?」
「だって、ほら。こんな大きな手袋、君以外に使わないでしょ。しかも片手だけ」
ボンドは躊躇う様子も見せずにその手袋を右手にはめてみせた。確かに彼の手にはかなり大きく、指先が余っている。 その瞬間、俺の脳裏にある夜の出来事が過った。
ルイスの目を逃れて、この庭の隅で煙草をふかしていた時のことだ。そろそろ義手のメンテナンスに行くべきかと考えながら、俺は何気なく手袋を外して傍らに置いたのだ。
だがその数分後、義手の検分を終えて再び手袋をはめ直そうとすると、それは忽然と姿を消していた。
風のない夜で、遠くに飛ばされたとも思えない。俺はしばらく辺りをきょろきょろと見回したが、どこにも見当たらない。仕方がないので、夜が明けたら探そうと部屋に引き上げて、それきり忘れていたのだ。
あの時、姿の見えない少年が俺の背後に忍び寄って、手袋をくすねていたのか?
その場面を想像するとぞっと怖気が走った。
「返してくれるの?」
フレッドが虚空に向かって問いかけた。当然ながら、返事はない。だが彼はちょっとだけ微笑んで「ありがとう」と続けた。
「ば、馬鹿、礼なんて言うな。人の手袋盗みやがって」
「盗んでなんかいないよ。きっとモランと遊びたかっただけだ。宝探しだよ。モラン、植木鉢の下とか花壇の奥まで、ちゃんと探さなかったでしょ?」
「それは……」
「返そうと思って、ずっと持っててくれたんだよ」
フレッドが確信を込めてそう言うので、つい納得してしまいそうになった。
*
庭を引き上げてホールで待っていると、程なくして三兄弟たちも二階から降りてきた。
「ごめんね。付き合ってもらって」
「全然! お目当てのものは見つかった?」
ボンドがにこやかに応じる。
「モランさんどうしたんですか? 幽霊でも見たような顔をして」
「……別に」
ルイスの言葉にどこかおちょくられているような気がするのは、考えすぎだろうか。庭で起こったことを思うと、あながち見当違いな比喩でもないのだからたちが悪い。
ちらりとフレッドの方へ視線をやってみても、彼は何の異常にも遭遇しなかったとでも言うようにけろりとした顔をしている。適応力の高いボンドは言うまでもなく。
「アルバート様、大丈夫ですか?」
俺の葛藤を無視して、フレッドが心配そうに尋ねた。言われてみると、アルバートはどこか疲れた顔で、一人だけ椅子に腰掛けている。
「ああ、ありがとう。大丈夫だよ。久しぶりに遠出をしたから、疲れてしまってね」
「お前、その椅子、どこから持ってきたんだ?」
「ん? 降りてきた時にはここにあったよ」
アルバートは事もなげに答えた。
「……誰がここに置いたんだ?」
尋ねてみても、誰からも答えは返ってこない。
ホールのど真ん中に、馬車を待つ間ひと休みするのにちょうどいい椅子など置いていなかったはずだ。そもそも、三年間放置された屋敷のどこに、潔癖症のアルバートが腰を下ろせるくらい綺麗な椅子があるというのだ?
アルバートは、考え込む俺の顔からつま先までをしげしげと眺めて呆れたように顔をしかめた。
「それよりも大佐、いい年をしてどろんこ遊びかい?」
「は? うわっ」
自分の足元を見て、俺は声を上げた。
スラックスの裾にべったりと泥がこびりついていた。同じく庭にいて、しかも地べたに座り込んでいたはずのフレッドは何ともない。
となると、もう心当たりは一つしかなかった。
ボンドがおかしそうにケラケラと笑う。
「あーあ、モランくん、やられたね」
「畜生、あのクソガキいつの間に……」
「え? 子どもがいたんですか?」
「あっ、いや……」
「わ。モラン、背中も泥だらけだよ」
俺の背中を覗き込んだウィリアムが言った。
「なんだって? くそっ……」
俺は身をよじりながら、反射的に大鏡の方を見た。煤けた鏡面にちょうど俺の背中が写っている。確かに、腰のあたりに泥で汚れた手を擦り付けたような跡があった。
「誰かにいたずらされたの? モラン」
ウィリアムが笑いを含んだ声で尋ねた。
笑い事じゃないと抗議をしてやりたかった。
だがその時、視線を自分の背中から外して初めて、俺は大鏡に写ったものの全体像をちゃんと見た。
鏡に背を向けて立った俺の後ろ姿。椅子に腰掛けたアルバート。そして、俺を取り囲んで立つウィリアム、フレッド、ボンド、ルイス……。
ルイスの隣、鏡に写る俺のすぐそばに、深緑色のドレスを来た娘が立っていた。さらに彼女のそばにはよく似た顔立ちの少年が立っている。
鏡越しに目が合うと、二人はこちらに向かってにっこりと微笑んだ。
心臓が止まるかと思ったが、何とか悲鳴はあげずに持ちこたえた。俺は他の面々に悟られないように、深く、ゆっくりと息を吐き出す。
唇の片端を持ち上げて不格好に笑い返して見せると、姉弟の姿は煙のようにかき消えた。
*
おまけ ダラムの屋敷の幽霊たち
■書斎の旦那様
屋敷の幽霊の中ででいちばん偉いけど、物質に干渉できるほど強くない。壁の文字もメイドに頼んで書いてもらったが、誰も読んでくれなくてちょっと落ち込んでいる。
話し好きで、ウィリアムが寝落ちしたらまた夢に出て話し相手になってほしいと思っている。
■手だけのメイド
ものを自由に動かせるので、家具を揺らしたりドアを開け閉めしたりして侵入者たちを驚かせる係。掃除だけは「幽霊屋敷らしくなくなるから」という理由で旦那様に禁じられていたが、自分の部屋(現ボンドの部屋)だけはこっそり綺麗にしていた。
ウィリアムたちが急に屋敷を訪れたので「こんな荒れた屋敷でお迎えするなんて…」と内心悔しく思っている。
■深緑色のドレスのお嬢さん
気に入った男性の前にしか姿を現さない。相手が驚き慌てる姿を見るのが好きだったが、屋敷に入り込んだゴロツキたちにはいまいちピンと来なかったので放置していた。
しかし侵入者たちが庭に向かった時だけは弟が心配で窓から顔を覗かせ、彼らを震え上がらせていた。
■庭の男の子
いつも庭で遊んでいる。「生き物にいたずらしちゃ駄目」と言われたことを覚えてはいたが、根がいたずらっ子なので庭を荒らす侵入者たちの靴紐を解いたりポケットに泥団子を詰め込んだりしていた。
三年前、見たことないくらい大きなモランの手袋が珍しくてつい手を伸ばしてしまった。
初出:Pixiv 2024.04.14
ダラムのお屋敷が幽霊屋敷だったら……という話。三年後編。
■
月もない真夜中のことだった。
人々はとうに寝静まり、町外れの暗い道の先に一軒の屋敷が建っていた。生きている人間は誰も住まわず、長らく打ち捨てられている屋敷だ。
近づく者などいないその屋敷に、コソコソと鼠のように二人の男が忍び込んだ。彼らは音を立てないように気をつけながら窓ガラスを割り、錆びかけた錠をそっと外す。
「兄貴、ほんとに忍び込んだりして大丈夫なのかよぉ?」
怖怖と室内の様子を伺いながら、覆い付きのランタンを持った一人が言った。もう一人の、帽子を被った男が答える。
「馬鹿。俺たちから取り立てた地代で、今まで散々贅沢してたんだ。おっ死んだなら還元してもらわねぇと」
「でもよぉ……」
「おい、つべこべ言ってないで早く明かりを持って来い。窓の方には向けるなよ。近所の連中に見つかっちまう」
口ぶりからして、帽子を被った男の方が兄貴分らしい。彼はずかずかと階段を上がり、我が物顔で書斎に入り込むと躊躇いもせず引き出しを下から順に開けていった。
「くそっ、ひと通り漁られた後だな。大したものは残っちゃいねぇ」
毒づきながら、帽子の男が引き出しから掴みだした小物を床に放り投げる。残っているのは木軸のペンや新聞の切り抜き、ごく少額の切手ばかりで、換金できそうなものはどこにもない。
引き出しを乱暴に閉めた拍子に、机の上に置いてあったインク壺が転がり落ちた。蓋が外れて、黒いインクが絨毯の上に飛び散る。
ランタンを持った男が慌てて後ろに飛び退いた。
「兄貴! まずいって、あんまり荒らしちゃ」
「うるさいな。無駄口叩いてる暇があったら、お前も向こうのキャビネットを調べてこいよ」
「ここはヤバいんだって。昔っから何かがいるって、死んだばあちゃんがいつも言ってたんだよ」
「ふん、モリアーティ家の連中は平気な顔で暮らしてたじゃないか」
「それは、あいつらが同じ悪魔だったからさ! 怪物同士で気が合ったんだろうよ。だから……」
その時、引き出しを漁っていた帽子の男がすっと右手を上げた。ランタンの男が慌てて口をつぐむ。
「……何か聞こえないか?」
そう問いかけられて、男は耳をそばだてた。
言われてみると、遠くからかすかに鈴の音が聞こえる。
二人はそっと天井を見上げた。どうやら上の部屋からだ。
「よ、呼び鈴じゃないですか? 使用人部屋なんかにある……」
「ああ、確かにそんな音だ。金持ちの家によくあるやつだな。主人が自分の部屋の紐を引っ張ると、壁を伝って使用人部屋の鈴が鳴るっていう……」
「…………」
二人は無言のまま顔を見合わせて、それから隣の部屋に続くドアの方を見た。
もし上階で鳴っているのが使用人を呼び出すための呼び鈴であるのなら、誰かが紐を引いているということだ。そう、例えばあのドアの向こうの主寝室で……。
ばんっ。
何者かがドアを内側から叩いた。
息を潜めていた二人は飛び上がるほど驚いた。ランタンの男は逃げ出そうとしたが、帽子の男は気丈にも声を荒げてみせた。
「馬鹿野郎、これくらいでビビるんじゃねぇ。俺達より先に潜り込んだやつがいるんだろう。つまらねぇいたずらで人を驚かそうたって、そうはいかねぇぞ! 出てきやがれ!」
二人は口の中をカラカラにしながら、相手の出方を待った。やがて蝶番が軋んだ音を立てて、ゆっくりとドアが開く。
ランタンを高く掲げて明かりをドアの方へ向けながら、二人は固唾を呑んで見守った。
開いたドアの向こうには、誰もいない。
ランタンの男が悲鳴を上げた。
「うわぁ、出た!」
「な、何が『出た』だ。どうせ隠れてやがるんだろ。俺がとっちめて……」
帽子の男は強がりながらも果敢に主寝室に乗り込もうとした。が、背後で連れが再び悲鳴を上げたので、慌てて振り返る。
「あ、開かない! 閉じ込められた!」
ランタンの男は半狂乱になって、廊下に続くドアをガチャガチャと揺らしている。これにはさすがに帽子の男も泡をくって駆けつけた。
「ど、どうしよう、兄貴……閉じ込められちまったよぉ!」
「落ち着け馬鹿野郎。見ろ、ドアノブは動くぞ」
帽子の男の言う通り、ドアノブは途中までは動く。だが途中で何かに引っかかってそれ以上は動かない。鍵を掛けられたわけではないようだった。
二人はえいやっと掛け声の後、同時にドアへ体当たりをした。
ガタンと大きな音を立てて、つかえが外れたような手応えがあった。間髪入れずにドアが勢いよく開く。 二人は勢い余って転がるように廊下へ飛び出した。
「はぁっ、た、助かった……」
「見てみろ。こいつがドアノブに引っかかってたんだ」
帽子の男が指差す先に、一脚の椅子が倒れていた。おそらく、背もたれのところをドアノブに噛ませていたのだろう。
「でも俺たち、このドアから忍び込んだんですよ? 一体誰が椅子を?」
「ふん、寝室に隠れてる奴だろうよ。捕まえてぶん殴ってやれ、ば……」
言葉が中途半端に途切れた。
二人の眼の前で、床に倒れていた椅子がひとりでに立ち上がったのだ。さらに、開けっ放しだったドアが大きな音を立てて勢いよく閉まった。
男たちはぎゃっと悲鳴を上げ、後ろに飛び退った。ランタンを持った方の男が、バランスを崩して壁に激突する。
「いてっ」
「おい、何やってる!」
「あれ? 兄貴、ここの壁、何か書いて……」
「そんなのどうだっていいだろうが! さっさとずらかるぞ!」
帽子の男が、連れの襟首を引っ掴んだ。二人は大慌てで廊下を駆け抜け、階段を駆け下りていく。
振り返ると、椅子がすーっと床を滑って追いかけてくる。二人はもう一度悲鳴を上げた。
正面玄関には鍵が掛かっている。
二人は我先にと居間へ駆け込んで、大きな窓から庭へと飛び出した。割れたガラスで引っかき傷を作ったが、構ってはいられなかった。
冷たい夜風が頬をなで、ほっと一息ついた矢先、今度は帽子の男がうわっと声を上げて地面に倒れた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ああ、悪い。大丈夫だ。ちくしょう、靴紐が解けてて踏んづけちまった」
「はは……、兄貴にしちゃ珍しい。ま、あんなもの見ちまったら仕方ないですよ」
ランタンの男はいまだ飛び跳ねる心臓を押さえつけながら、帽子の男へ手を差しのべた。
帽子の男は悪態をつきながら連れの手を掴もうとして、ふと彼の背後にある屋敷を見上げた。その表情がみるみるうちに凍りつく。
「? どうしたんですか?」
ランタンを持った男が怪訝な顔で首をかしげる。
帽子の男はそれには答えず、再び尻もちをつくと脇目も振らず逃げ出した。不思議に思って背後を振り返ったランタンの男も、ぎゃっと悲鳴を上げて後を追った。
二階の窓に、彼らをじっと見下ろす女の顔が見えたのだ。
■
数年ぶりに訪れたダラムの墓所は、あの頃と変わらずしんと静まり返っていて、時間の経過を感じさせなかった。
フレッドがフリーダの墓標の前に膝をついて、花を供えた。つい先程、駅前で花売から買い求めたものだ。
彼が「ダラムの屋敷に向かう前に寄り道したい」と言い出したとき、どこへ寄るつもりなのか俺には見当もつかなかった。ひょっとして、計画の最中も時折こうして花を添えに訪れていたのだろうか。だとすると律儀な彼らしかった。
あのルシアンとかいう学生はとっくに大学を出て実家へ戻っているはずだ。けれど墓石の周囲は綺麗に掃き清められ、定期的に手入れがされている様子が窺えた。
三人の中で唯一当時の経緯を知らないボンドは、刻まれた碑文に目を通してぽつりと呟いた。
「若いね」
「若かった、だ」
「うん……」
三人でしばらくの間、黙祷を捧げた。
頃合いを見て、俺は煙草を取り出して火をつけた。
「さて、そろそろ行くぞ。あいつらも着いてる頃だ」
墓前を離れようとしたとき、向こうから腰の曲がった老婆が歩いてきた。ボンドが愛想よく会釈して通り過ぎようとすると、老婆は俺たちの顔を見上げながら歯の抜けた口を開いた。
「あんたら、この辺りのもんじゃないね? いや……だがどこか見覚えが……」
老婆の視線が記憶を探るようにふらふらと彷徨う。俺は煙を吐き出しながら、何食わぬ顔で答えた。
「ここに来るのは初めてだよ」
「だがそこの墓に花を供えてただろう」
「人に頼まれてな」
「ああ」老婆は納得したように頷いた。「アトウッド家の使用人かい。あの坊っちゃん、自分が来られない時はたまに人をやって墓の掃除をさせているからね」
「そうだな」と、適当に相槌を打っておく。
「おたくの坊っちゃんは何度かここで見かけたことがあるが、身分を鼻にかけないいい子だね。数年前までここら一帯を治めてた男爵様とは大違いさ……もちろん、モリアーティ家ともね」
背後でフレッドが小さく息を呑んだのが聞こえた。その反応に気を良くした老婆はさらに喋り続ける。
「犯罪卿がダラムの大学で教壇に立ってたのはあんたらも知ってるだろ? ルシアンの坊っちゃんだって、何も知らずに奴の講義を受けてたって話じゃないか。恐ろしい話さね。領民の中にはあの家を称える者もいるにはいるけどね、あたしはずっと胡散臭い連中だと思ってたよ」
「へえ」
俺ははあくまで興味がなさそうなふりをした。後ろの二人も、黙って老婆の話に耳を傾けている。
当時はモリアーティ家がこの地を治めることになったのを有り難がっていたくせに、調子のいい連中だ。しかしモリアーティ家への非難の声が上がるということは、今の領主がそれなりにうまくやっているという証拠でもある。それで良しとするしかないだろう。
「かつてモリアーティ家が所有していた屋敷は、ここらじゃ『悪魔の屋敷』ってもっぱらの噂だよ。夜な夜な、犯罪卿に惨たらしく殺された連中だか犯罪卿本人だかの亡霊がうろつき回ってるのさ」
「『亡霊』ね……」
呟きながら、俺は短くなった煙草を足元で踏み消した。
以前から幽霊屋敷の噂はあったが、あの事件を経てそういうふうに話が捻じ曲がってしまっていても不思議はないだろう。
犯罪卿の亡霊。つい数ヶ月前の自分が聞けば、亡霊の存在を信じるかどうかは別としても、狂おしいほどの衝動に駆られて屋敷へと忍び込んでいただろう。
だがウィリアムに再会した今となっては、鼻で笑い飛ばせるだけの余裕があった。
*
屋敷へたどり着いた時、すでに正面玄関の鍵は開いていた。先に馬車で向かったウィリアムたちが開けたのだろう。
世間的には死んだはずのウィリアムは念を入れて女装までしたが、屋敷にモリアーティ家の人間が戻ったとなれば人目を引くのは間違いない。不測の事態に備えて、(説得するのにかなり骨を折ったが)俺たちも随行することにしたのだ。
屋敷は、不在の間に随分好き勝手されたようだった。ポーチにはゴミが散乱し、マホガニー材の重厚な扉には赤い塗料で罵詈雑言が書き殴られていた。
「庭、見てくる」
フレッドはそれだけ告げると、玄関には入らず屋敷の西側に回っていった。
俺とボンドは玄関ホールへと足を踏み入れた。
長らく閉め切られていたためか、空気は埃っぽく冷えていた。だが年月による荒廃など問題にならないほど、屋敷の内部は荒らされていた。本来であれば手を触れることすら躊躇うはずの調度品の数々を蹴倒し壁に叩きつけるのは、さぞ胸がスッとしたことだろう。
「あーあ、ひどいね」
ボンドが軽い調子で声を上げた。
ホールの大鏡はひび割れてはいたが、奇跡的に踏みとどまっていた。今は煤けた鏡面に写るのは、暗い室内に佇む俺とボンドの姿だけだ。
俺たち以外の人影は、無い。その事実を確かめた俺は内心でほっとすると同時に、どこか物足りない気持ちになった。
一階をひと通り見回った俺とボンドは、連れ立って階段を上がった。
ウィリアムたち三兄弟はかつてのルイスの部屋で何やら話し込んでいる。どうやら思い出話に花を咲かせているらしかった。邪魔をするのも悪いかと思い、俺たちはドアの隙間からひと声だけ掛けてその場を後にした。
廊下の窓ガラスは所々割れて、ガラス片と石ころが床に散らばっている。
拳ほどの大きさのある石ころを、ボンドが廊下の端に向かって蹴飛ばした。割れたガラスを踏みつけるたび、靴底がジャリジャリと鳴った。
顔にかかる蜘蛛の巣を払いながら、ため息が漏れた。
「人様の屋敷の窓で、的あてゲームでもしやがったのかよ」
「ははっ。最上階の窓と主寝室の窓、どっちが高得点だったと思う?」
「知るか」
そんな軽口を叩きながら、俺たちは三階へと上がった。ボンドはあの頃の習慣をなぞるように、まっすぐに自分の部屋へと向かっていく。
俺は別段自室に用はないので、廊下で煙草をふかしていた。あの当時は屋敷内で喫煙してはルイスに叱責を受けていたが、今さら灰を落としたところで彼も気にはしないだろう。
しばらくして、廊下の端の部屋からボンドが顔を覗かせた。おいでおいでと手招きをしている。
「何だよ?」
近寄っていって訊ねると、ボンドは部屋のドアを大きく開いた。
「僕の部屋、綺麗すぎない?」
「はぁ?」
そう言われて室内を覗き込んでみると、確かに彼の部屋は廊下とは比べ物にならないほど整然としている。
窓が一枚割れて風雨が吹き込んではいるようだったが、床にはガラス片や石ころの一つも見当たらない。その違和感を無視しつつ、俺は言った。
「ゴロツキどもも、ここまで上がって来なかったんだろ。荒らすなら、金目のものが置いてある二階だ」
「じゃあ、誰がベッドメイクしたの?」
「え?」
「最後の計画が動き始めた時期さ、こっちに来るのはもうこれが最後になるかもしれないからって、ロンドンに戻る時にベッドメイクしなかったはずなんだ。それなのに……」
「お前がやらなくても、ルイス辺りがやったんだろ」
そう口にしてから、モランは「いや」と思い直した。
ボンドが仲間に加わったばかりの頃、ルイスが彼に「洗濯から返ってきたシャツやシーツは部屋に届けたほうが良いか」と訊ねたことがあった。ボンドは確か「自分で取りに行くから大丈夫」と答えたはずだ。
ボンドを男性として扱うことに決めたとはいえ、部屋に勝手に立ち入るのは遠慮した方が良いかルイスなりに遠回しに確認したのだ。(彼はモランやフレッドの部屋には勝手に入って洗濯物を置いていくし、そのついでにベッドメイクや掃除も済ませてくれる)
あの真面目なルイスがそれを無視してボンドの部屋に立ち入ったとは思えない。
であれば、一体誰が?
それからボンドに引っ張られて他の部屋も確かめてみたが、結局、綺麗に整えられていたのはボンドの部屋だけだった。
「ほら見ろ。どうせ忘れてるだけで、お前が自分でベッドメイクしたんだろ? で、たまたまお前の部屋だけは荒らされなかった」
「えー、そんなぁ」
「何が『そんなぁ』だ。他の可能性なんてあるわけ無いだろ」
「あるかもしれないじゃん! モランくんこそ、何でそんなムキになって否定するわけ?」
「ぐ……」
言い合いながら、俺たちは再び階段を降りた。
と、そこでボンドがふいに足を止めた。彼は割れた窓とは反対側の、壁の方を見ている。
先程は割れた窓と足元のガラスに気を取られて気がつかなかったが、そこには滴る血のような赤色で文字が綴られていた。玄関ドアにあったような殴り書きとは違う、きちきちとした文字だった。
「ね、これなんて書いてあるの? ラテン語っぽいけど……」
ボンドの視線に促され、俺はイートンでテキストとにらめっこしていた頃の古い記憶を引っ張り出した。
「あー、"Eramus quod estis. Sumus quod eritis."……『かつての我々が今日のお前であり、今日の我々が明日のお前だ』ってところか?」
「わぁ、さすがインテリ! で、どういう意味?」
「そりゃあお前……」
改めてその意味を咀嚼してみて、俺たちは顔を見合わせた。
「……不法侵入したゴロツキの中に、たまたま教養のある奴がいたんだろ」
「えー、まっさかぁ」
ボンドは声を上げて笑い、そしてすぐに青い瞳をいたずらっぽく光らせた。
「ね。もしかしてさ、ウィリアムくんの書斎に出るっていうインテリお爺さんのユウレイが書いたんじゃない? ゴロツキへの脅し文句にしてはちょっと洒落すぎてるけど」
「そんな訳ないだろ」
俺は早口に言い切った。
霊だの魂だの、くだらない。人間なんて所詮、血と肉と骨の塊だ。壊れて機能を失えばそこで終わり、続きなど存在しない。 はっきりとそう言い切ってしまいたかったが、残念ながら頭ごなしに否定できない事象が世の中には存在することを俺は知っている。特にこの、ダラムの幽霊屋敷では。
俺はちらりとルイスの部屋の様子を窺った。ウィリアムたちはまだ、楽しそうに談笑を続けている。
「ボンド。お前、ここにいろ」
「え、何? どうしたの?」
呼び止める声を無視して、俺は階段を駆け下りた。
*
階段を下りて、俺は居間へと駆け込んだ。
大きな掃き出し窓のガラスが派手に割られていて、錠が外されている。ゴロツキどもはここから屋敷に入り込んだのだろう。
割れた破片に注意しながら窓枠を押し開けて、庭へと出る。美しかった花壇は長らく放置されて見る影もなく、芝生は所々剥がれて雑草が繁茂していた。
地面には薔薇園まで続くタイルの小道が敷かれている。
その途中に、フレッドがしゃがみ込んでいた。寛いでいるという様子ではなく、必要があればすぐにでも立ち上がれるよう片膝を立てた姿勢だ。
「フレッド……」
背後から呼びかけると、フレッドは片手を上げた。「静かに」と促すような仕草だった。
俺は素早く周囲に目を走らせた。が、荒れ果てた庭で動くものといえば風に揺れてざわざわと鳴る木の葉くらいなもので、人の気配は感じられない。植え込みの陰に野良猫が潜んでいるというわけでもなさそうだ。
「どうしたんだよ?」
「静かにして」
フレッドは短く答えた。
またしても俺は黙り込む。フレッドの背中は小さく丸まっているようでいて、ピンと張りつめた緊張感を纏っていた。
すぐにでも彼の腕を引いてこの場を離れたかったが、その真剣な様子を目のあたりにすると声がかけられなくなってしまった。仕方がないので邪魔をしないようになるべく気配を消して待っていると、しばらくしてフレッドは諦めたようにため息をついた。
「……何か用?」
「いやお前こそ何やってるんだよ、こんなところに座り込んで。ウィリアムたちの用事が済んだらすぐに出るぞ。もう中に入れ」
「迎えの馬車はまだでしょ? それまで、ここで待ってるから」
「待ってるって……」
言いかけて、俺は口を噤んだ。
フレッドは花壇の真ん中に設えられた小さな天使像の方を見ている。可愛らしく微笑んでいたはずの天使は、煉瓦を打ち付けられたのか、鼻が砕けて翼がぽっきりと折れていた。花壇の中には投げ込まれた空の酒瓶やゴミが散乱している。
「こんなにされる間、ずっと我慢してたのかな」
フレッドがぽつりと呟いた。
「知らない人たちが自分たちの場所に入り込んできて、好き勝手暴れて、怖かったんじゃないかなって……驚かせて追い払うことだってできたはずなのに……」
「……誰の話をしてるんだ?」
「ここにいた男の子だよ」
「は? 近所の子供か?」
フレッドは首を横に振った。
「違うよ、『ここ』にいたんだ。いつからかは分からないけど。男の子……だと思う。多分。いたずら好きな子で、僕が庭で仕事をしてるとそばで眺めたり、僕の手袋やはさみを隠したりするんだ。でも、ある時に僕が『生き物にはいたずらしちゃ駄目だ』って言ったんだ。だから、屋敷をめちゃくちゃにされても反撃せずにずっと我慢してたのかもしれない。僕のせいで、三年間ずっと……」
「待て。お前何を言ってる? そんな子ども、いるはず無いだろう」
「いるよ。いたんだ、ここに……」
フレッドはきっぱりと言い切った。言っていることは支離滅裂だがその目は真剣そのもので、かえってぞっとさせられた。
「謝りたかったんだ。僕らを憎む人たちが屋敷を荒らすのは仕方のないことかもしれないけど、あの子達は何も関係なかったのに」
「馬鹿言うな。そんな子どもいない。いもしない奴に何を謝るって言うんだ」
「いるよ。モランだって、何回も見たんだろ」
フレッドはむっとした顔をした。
彼が言っているのは、三年前たびたびモランを悩ませたあの幽霊嬢のことだろう。だがその実在を信じたくない気持ちと、フレッドの頑なな態度に俺もいくらか苛立ってきた。
「いいや、いない。実際俺は今日一度もあの女を見てない。最初からいなかったんだよ、そんな連中」
「嘘だ。そんなこと……」
フレッドは俺に言い返そうと口を開きかけて、ふいに黙り込んだ。
不意にひやりとした風が吹き抜けて、ぺた、と湿った音がした。
座り込んだフレッドのすぐそば、タイルの上に小さな手形が現れていた。
俺たちは口をぽかんと開けたままそれを凝視した。
小さな右手だ。フレッドのものではないだろう。ちょうど、子供が泥の中に突っ込んだ手を乾いたタイルに押し付けたような。
そんなはず無い。俺は無意識のうちに首を横に振っていた。
見落としていただけで、この手形はさっきからずっとそこにあったのだ。近所の子供が度胸試しに潜り込んで、記念の手形を残していったに違いない。
濡れてつやつや光る手形の表面に気づかないふりをしながら、そう自分に言い聞かせた。
俺はフレッドの腕を引いて立たせようとしたが、彼は頑としてその場を動かない。
「まだ、いるの?」
フレッドが震える声で問いかけた。
話しかけている相手は俺ではない。
答えるように、ぺた、ともう一つ手形が現れた。
今度こそ疑いようもなく突きつけられた事実に、俺は震え上がった。
「来るんじゃねぇ!」
叫びながら、俺は無理やりフレッドを抱え上げた。驚いたフレッドが「うわっ」と悲鳴を上げる。
「俺たちはまだ生きてるんだ。お前らとは違う!」
「モランやめて! 大きい声出さないで!」
「冗談じゃねぇ、連れてなんて行かせねぇぞ! 恨むなら勝手に恨んどけ。呪うなら勝手に呪っとけ! こいつは連れて行かせねぇぞ! 絶対……絶対……」
俺は自分でも何を言っているのか分からなくなりながら、虚空に向かって吠えた。
フレッドの体を抱え直して荒れ果てた庭を見渡してみても、敵の姿はどこにも見えない。半分砕けた天使像だけがじっとこちらを見上げていた。
背後に人の気配を感じて飛び退ると、そこにはボンドがいた。彼は怪訝な顔で首を傾げている。
「大声出して、どうしたの? なんでフレッドくんのこと抱っこしてるの?」
「ボンド、すぐにここを出るぞ。ウィリアムたちは……」
その時、側頭部にぽこ、と軽い衝撃が走った。
俺は再びフレッドを抱えたまま飛び上がる。腹に回した腕を急に締めてしまって、フレッドが「ぐぇ」と声を漏らした。
恐る恐る足元に視線を落とすと、丸めた布の塊が落ちていた。それが飛んできたと思われる先には、当然ながら誰もいない。
ボンドが回り込んで、ひょいとその塊を拾い上げた。広げてみると、それは薄汚れた白い手袋だった。
「あれ、これモランくんの手袋じゃない?」
「は?」
「だって、ほら。こんな大きな手袋、君以外に使わないでしょ。しかも片手だけ」
ボンドは躊躇う様子も見せずにその手袋を右手にはめてみせた。確かに彼の手にはかなり大きく、指先が余っている。 その瞬間、俺の脳裏にある夜の出来事が過った。
ルイスの目を逃れて、この庭の隅で煙草をふかしていた時のことだ。そろそろ義手のメンテナンスに行くべきかと考えながら、俺は何気なく手袋を外して傍らに置いたのだ。
だがその数分後、義手の検分を終えて再び手袋をはめ直そうとすると、それは忽然と姿を消していた。
風のない夜で、遠くに飛ばされたとも思えない。俺はしばらく辺りをきょろきょろと見回したが、どこにも見当たらない。仕方がないので、夜が明けたら探そうと部屋に引き上げて、それきり忘れていたのだ。
あの時、姿の見えない少年が俺の背後に忍び寄って、手袋をくすねていたのか?
その場面を想像するとぞっと怖気が走った。
「返してくれるの?」
フレッドが虚空に向かって問いかけた。当然ながら、返事はない。だが彼はちょっとだけ微笑んで「ありがとう」と続けた。
「ば、馬鹿、礼なんて言うな。人の手袋盗みやがって」
「盗んでなんかいないよ。きっとモランと遊びたかっただけだ。宝探しだよ。モラン、植木鉢の下とか花壇の奥まで、ちゃんと探さなかったでしょ?」
「それは……」
「返そうと思って、ずっと持っててくれたんだよ」
フレッドが確信を込めてそう言うので、つい納得してしまいそうになった。
*
庭を引き上げてホールで待っていると、程なくして三兄弟たちも二階から降りてきた。
「ごめんね。付き合ってもらって」
「全然! お目当てのものは見つかった?」
ボンドがにこやかに応じる。
「モランさんどうしたんですか? 幽霊でも見たような顔をして」
「……別に」
ルイスの言葉にどこかおちょくられているような気がするのは、考えすぎだろうか。庭で起こったことを思うと、あながち見当違いな比喩でもないのだからたちが悪い。
ちらりとフレッドの方へ視線をやってみても、彼は何の異常にも遭遇しなかったとでも言うようにけろりとした顔をしている。適応力の高いボンドは言うまでもなく。
「アルバート様、大丈夫ですか?」
俺の葛藤を無視して、フレッドが心配そうに尋ねた。言われてみると、アルバートはどこか疲れた顔で、一人だけ椅子に腰掛けている。
「ああ、ありがとう。大丈夫だよ。久しぶりに遠出をしたから、疲れてしまってね」
「お前、その椅子、どこから持ってきたんだ?」
「ん? 降りてきた時にはここにあったよ」
アルバートは事もなげに答えた。
「……誰がここに置いたんだ?」
尋ねてみても、誰からも答えは返ってこない。
ホールのど真ん中に、馬車を待つ間ひと休みするのにちょうどいい椅子など置いていなかったはずだ。そもそも、三年間放置された屋敷のどこに、潔癖症のアルバートが腰を下ろせるくらい綺麗な椅子があるというのだ?
アルバートは、考え込む俺の顔からつま先までをしげしげと眺めて呆れたように顔をしかめた。
「それよりも大佐、いい年をしてどろんこ遊びかい?」
「は? うわっ」
自分の足元を見て、俺は声を上げた。
スラックスの裾にべったりと泥がこびりついていた。同じく庭にいて、しかも地べたに座り込んでいたはずのフレッドは何ともない。
となると、もう心当たりは一つしかなかった。
ボンドがおかしそうにケラケラと笑う。
「あーあ、モランくん、やられたね」
「畜生、あのクソガキいつの間に……」
「え? 子どもがいたんですか?」
「あっ、いや……」
「わ。モラン、背中も泥だらけだよ」
俺の背中を覗き込んだウィリアムが言った。
「なんだって? くそっ……」
俺は身をよじりながら、反射的に大鏡の方を見た。煤けた鏡面にちょうど俺の背中が写っている。確かに、腰のあたりに泥で汚れた手を擦り付けたような跡があった。
「誰かにいたずらされたの? モラン」
ウィリアムが笑いを含んだ声で尋ねた。
笑い事じゃないと抗議をしてやりたかった。
だがその時、視線を自分の背中から外して初めて、俺は大鏡に写ったものの全体像をちゃんと見た。
鏡に背を向けて立った俺の後ろ姿。椅子に腰掛けたアルバート。そして、俺を取り囲んで立つウィリアム、フレッド、ボンド、ルイス……。
ルイスの隣、鏡に写る俺のすぐそばに、深緑色のドレスを来た娘が立っていた。さらに彼女のそばにはよく似た顔立ちの少年が立っている。
鏡越しに目が合うと、二人はこちらに向かってにっこりと微笑んだ。
心臓が止まるかと思ったが、何とか悲鳴はあげずに持ちこたえた。俺は他の面々に悟られないように、深く、ゆっくりと息を吐き出す。
唇の片端を持ち上げて不格好に笑い返して見せると、姉弟の姿は煙のようにかき消えた。
*
おまけ ダラムの屋敷の幽霊たち
■書斎の旦那様
屋敷の幽霊の中ででいちばん偉いけど、物質に干渉できるほど強くない。壁の文字もメイドに頼んで書いてもらったが、誰も読んでくれなくてちょっと落ち込んでいる。
話し好きで、ウィリアムが寝落ちしたらまた夢に出て話し相手になってほしいと思っている。
■手だけのメイド
ものを自由に動かせるので、家具を揺らしたりドアを開け閉めしたりして侵入者たちを驚かせる係。掃除だけは「幽霊屋敷らしくなくなるから」という理由で旦那様に禁じられていたが、自分の部屋(現ボンドの部屋)だけはこっそり綺麗にしていた。
ウィリアムたちが急に屋敷を訪れたので「こんな荒れた屋敷でお迎えするなんて…」と内心悔しく思っている。
■深緑色のドレスのお嬢さん
気に入った男性の前にしか姿を現さない。相手が驚き慌てる姿を見るのが好きだったが、屋敷に入り込んだゴロツキたちにはいまいちピンと来なかったので放置していた。
しかし侵入者たちが庭に向かった時だけは弟が心配で窓から顔を覗かせ、彼らを震え上がらせていた。
■庭の男の子
いつも庭で遊んでいる。「生き物にいたずらしちゃ駄目」と言われたことを覚えてはいたが、根がいたずらっ子なので庭を荒らす侵入者たちの靴紐を解いたりポケットに泥団子を詰め込んだりしていた。
三年前、見たことないくらい大きなモランの手袋が珍しくてつい手を伸ばしてしまった。
初出:Pixiv 2024.04.14
ダラムの幽霊屋敷
ダラムのお屋敷が幽霊屋敷だったら……という話。
「なあ。あんた、モリアーティ家の?」
そう声をかけられたのは、ルイスの使いでダラムの街に出ていたときだった。
振り返ると、通りで立ち話をしていた街の男たちがこちらを見ている。その視線に宿っているのは、屈託のない興味と好奇心だった。
「はい。……先日から、お世話になっています」
特に嘘をつく理由もないので、フレッドはそう答えた。
男たちは顔を見合わせ、リーダー格らしき男が進み出てにこやかに挨拶をした。
「俺たちはここらで商売やってるもんだ。互いに世話になる機会もあるだろうから、そん時はよろしくな」
「あ、はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
フレッドはぺこりと頭を下げた。
「ところであんた、モリアーティ様のお屋敷に住み込みで働いてるんだろう」
「ええ」
「幸せ者だな。若先生はそこらの貴族様と違って偉ぶったりしないし、良い方だろう」
「はい、それはもう」
「……で、あの屋敷、どうだい?」
「どう?」
フレッドが首を傾げると、男はこちらに顔を寄せながら声を潜めた。
「……『出る』って、ほんとうかい?」
何が、と言われずとも、おおよそ検討はついた。
モリアーティ家が買い取った家具付きの由緒ある――率直に言うと、中古の――屋敷には、『幽霊が出る』と地元の人間たちの間では昔から噂になっていたらしい。つい数年前に先代の所有者がダブリン男爵に追い落とされて悲劇的な末路を辿ったことも、真偽不明の噂話に箔をつけていた。
いかにウィリアムが気さくで街の人間たちとも距離が近いとはいえ、貴族相手に『おたくの屋敷、幽霊が出るってほんとうですか?』とはさすがに聞きづらい。だから、あえて年若い使用人の自分に声をかけてきたのだろう。
「何もおかしなところはありませんよ」
フレッドは首を振った。
「ウィリアム様もその噂を小耳に挟んでいたそうですが『引っ越し以来何も起こらない』とがっかりされているようです。……あ、これは弟のルイスさんから聞いた話で……内緒にしてくださいね」
適当に話を作ってそう付け足すと、男たちは「なんだぁ」と大げさに残念がった。
「俺、確かに見たんだけどなぁ。あの屋敷が無人だった頃、窓辺に女の影があったんだ」
「見間違いじゃないか?」
「あの立派な学者先生の前じゃ、幽霊もさぞや肩身が狭いだろうよ」
「俺はむしろホッとしたな。幽霊騒ぎが起こってモリアーティ様がダラムを離れちまった日にゃ、それこそ俺たち全員化けてでるハメになっちまう」
「違いねぇ!」
フレッドは陽気に笑う男たちの輪から、そっと抜け出した。
それからほどなくして、フレッドは用事を済ませて屋敷に戻った。
門の前で一度立ち止まって、生け垣と塀に囲まれて静かに立つ屋敷を改めて見上げてみた。
時代遅れの外観は、言われてみれば確かに幽霊屋敷らしい鬱々とした雰囲気をまとっているようにも見える。しかしそれは比較の対象が、ロンドン郊外に構える新築のモリアーティ邸だからではないだろうか。町の人々が噂するような不吉な因縁のある場所だとは到底思えない。
もっとも、あと何年か経ってここが稀代の大犯罪者たちの拠点の一つだと知れ渡ったら、もう絶対に買い手はつかないだろうな、ともフレッドは思うのであった。
玄関を抜けて広間に入った。
今日はロンドンからアルバートがやってくる予定だから、ウィリアムが駅まで迎えに行く手筈になっていた。彼はもう出て行ってしまった後だろうか。
ホールはひっそりと静まり返っている。
「うわぁっ!!」
突如、その静寂を破る悲鳴が響いた。
フレッドは特に驚くこともなく、洗面所の方へ顔を覗かせた。
「モランどうしたの?」
「ちっくしょう、またあの女だ!」
悔しそうに悪態をつくモランの顔と手は水で濡れている。おおかた、ついさっき起きたばかりで顔でも洗っていたのだろう。
フレッドは洗面台の横に引っかけられていたタオルを取って、彼に差し出した。ついでにちらりと鏡を覗き込んでみたけれど、そこには無愛想なフレッドの顔が映り込んでいるだけだ。
「ちょっと、モランさんうるさいですよ!」
廊下の向こう、キッチンの方からルイスが出てきた。おつかいを思い出したフレッドは、彼のもとへ駆け寄った。
「お砂糖、買ってきました」
「ああ、ありがとうございます」
紙袋を開けて中身を確かめながら、ルイスが耳打ちした。
「モランさん、またですか?」
「……みたいですね」
ルイスははぁ、とため息をついた。
「まったく……こんな時間まで寝ているからですよ。アルバート兄様が着く前に窓を磨いておいてほしかったのに」
「僕、手伝います」
「ええ、すみませんがお願いします」
ルイスはせかせかとした足取りでキッチンへ引き上げていった。
小一時間後、ウィリアムとともに屋敷にやって来たアルバートは、モランの話を聞くなり声を上げて笑った。
「大佐の背後を取るとは、たいした『お嬢さん』じゃないか」
「笑いごとじゃねぇぞ、アルバート! よりによもよってこんな幽霊屋敷を買いやがって!」
モランは苛立たしげに頭を掻きむしった。
街の人々が噂していた通り、モリアーティ家が買い取ったこのダラムの屋敷はいわゆる『幽霊屋敷』だった。
それらしい逸話は色々あったが、特に頻繁に姿を見せるのは深緑色の格子柄のドレスを着た女性の幽霊だ。モリアーティ家ではとりあえず、彼女のことを『お嬢さん』とあだ名している。
ふとした瞬間――例えば、顔を洗ってタオルを取ろうと視線を上げた時や、深夜に暗い廊下を歩いていた時なんかに――鏡や窓ガラスに映り込んでいるのだという。
ちなみに、主に被害を受けているのはモランだ。フレッドはまだ一度も見たことがない。
アルバートがわざわざこちらの屋敷にやって来た目的も、言ってしまえば物見遊山だった。ロンドンに戻るたびモランが大騒ぎで苦情を並べ立てるので、それなら私も見てみたい、と。
「いつも同じ女性なのかい?」
「何人もいてたまるかっつの」
「大佐に何か恨みがあるとか?」
「んなわけあるか! そんな知り合いいねぇし、そもそもこのダラムの屋敷にしか出ないんだぞ」
「アルバート兄さん、その『お嬢さん』なら僕も見たことがあるんですよ」
ウィリアムが助け舟を出した。
「そうなのかい?」
「ええ。ここに越してきて数日経った頃でしょうか。ロンドンへ戻られる兄さんを見送った夜だったと思います」
「その時は僕も一緒でした。兄さんが突然『今、女の子がいなかった?』と言い出されるから驚きました」
「そうそう、鏡に写った僕の後ろに女の子が立っていたから驚いてしまって。でもそれからは見かけなかったから見間違いだったのかと思っていたんだけど……」
その数週間後にモランとフレッドが屋敷に招かれ、再び姿を見せるようになったというわけだ。
「何で俺のとこにばっかり出るんだよ……。お前らが鈍すぎて気づいてねぇだけだろ、絶対」
「モランさん、気に入られたんじゃないですか?」
「やめろ!」
「ほんの一瞬しか見てないけど、にこにこしてて可愛らしい人だったよ?」
「笑ってんのが逆に怖えよ!! それにどんな美女でもいきなり背後に立たれてたら普通に驚くだろ、殴って追い払える相手じゃないからどうしようもねぇし!!」
モランは自分の膝を拳で打ちながら熱弁した。
毎度これだけ良いリアクションをしてくれたら幽霊も喜ぶのではないだろうか。気に入られたという説もあながち間違っていないように思える。
「ルイスとフレッドは、彼女を見たことはないのかい?」
アルバートの問いに、二人は揃って頷いた。
「あ、でも、僕は彼女でなければ見たことがありますよ」
「はぁ!?」
「ほう。それはどんな?」
「ほんの数日前の、深夜です。兄さんがお休みになられたのを見届けて僕も部屋に下がったのですが、ティーセットを流しに置いたまま、片付けるのを忘れていたことを思い出したんです」
モランが「それくらい次の日でいいじゃねぇか」と茶々を入れたが、ルイスは無視して話を続ける。
「自分の部屋を出て一階に下りると、キッチンの方から人の気配がしました。食器が触れあうような物音も……。てっきり、モランさんがまた盗み食いでもしているのかと思って、現場を抑えようと足音を殺してキッチンへ向かいました。
廊下からそっとキッチンを覗き込むと、そこに人影は無く……、かわりに、一対の白い手が浮かんでいました」
「手?」
「はい。暗闇の中に、真っ白い、女性の手だけが。水道の蛇口をひねって、僕がしまい忘れていたティーセットを洗ってくれていたんです」
アルバートが興味深げに、ほぅ、と顎に手を当てた。
「それで、どうなったんだい?」
「それだけです。食器を洗い終えて、蛇口を締めて水が止まると同時に白い手もふっと消えてしまいました」
「へぇ、不思議な話だね」
「ちなみに、今お使いいただいているのがそのときのティーセットです」
「そういうオチはいらねぇんだよ!!」
がちゃんと音を立てて、モランが叩きつけるようにカップをソーサーに戻した。ルイスが眉を吊り上げる前にフレッドはふきんを手にとって駆け寄った。大丈夫、割れてはいない。
「不思議だけど、なんだが心温まる話だね」
「ああ、ルイスの紅茶がますます味わい深くなったようだよ。この屋敷のメイドだったのかな?」
「正気かお前ら……」
モランが頭を抱えながら呻いた。
「ふむ。となると、この屋敷には少なくとも二人の先住者がいるのかな?」
「あ、兄さん。『旦那様』のお話はされなくてもよいのですか?」
「『旦那様』?」
モランとアルバートが声を揃えて問い返した。どうやら、初耳なのはフレッドだけではなかったらしい。
ウィリアムはうーん、と首を捻っている。
「僕、別に幽霊だとは思ってないんだけどなぁ」
「まだいんのかよ!? 勘弁してくれ……」
「聞かせてくれないか、ウィル」
「はい。ええと……このダラムに来てから、二階にある僕の書斎で夜更かししていると、よく同じ夢を見るんです」
「夢?」
「はい。僕は書斎で論文を書いたり、本を読んだりしています。すると、誰かが部屋をノックします。僕はてっきりルイスだろうと思って『どうぞ』と返事をするのですが、入ってくるのは口ひげを生やした紳士なんです。
何というか、色褪せた肖像画から飛び出してきたような……威厳があるけれどどこか古めかしい雰囲気の方でした。服装や髪型がそう思わせるのかもしれません。彼は暖炉の前のソファに腰掛けて、僕に話しかけてきます。内容はよく覚えていないのですが……歴史や文学に造形が深くて、僕の数学の話も面白そうに聞いてくれたとおぼろげに記憶しています。とにかく博学な方で、気がつけばつい話し込んでしまうんです」
「ほう」
「だけど最後はいつも同じで、誰かがまたドアをノックするんです。そして、部屋の外から『旦那様、お時間ですよ』と年配の女性の声がして、そこでいつも目が覚めます」
「………」
これといった何かが起こっているわけでもないのに、なんだか不気味な後味だ。さすがのアルバートも、静かに紅茶を啜っている。
しかし当のウィリアムは、犯罪相談役として見せる怜悧さを欠片も感じさせないほど、のんびりとした仕草で首をひねっていた。
「その声だけは何故かはっきり耳に残るんですよね。『旦那様』の話はほとんど覚えていないのに」
「これで少なくとも四人か。なかなか賑やかだね」
「いやいやいや。ウィリアムが聞いたその『声』ってのが、ルイスの見た『手だけのメイド』と同じやつかもしれないだろ。少なくとも三人、だ」
四人も三人も変わらないように思えるが、モランは一応抵抗した。
「フレッドは?」
「え」
「フレッドはどうだい? そういう不思議なものを見たことがあるかな?」
「……いえ。僕は何も、見ていません」
フレッドは首を振った。
「そうなのか。幼い子供や動物のほうが、霊的な存在には敏感だとよく聞くのだが」
「アルバート兄さん、フレッドだってもうそう幼くはありませんよ」
「ぼーっとしてるから気づいてないだけだろ」
「しかし、我が家が本物の幽霊屋敷だと広まってしまうのはあまり都合が良くないのではないでしょうか」
ルイスの言葉に、一同は深く頷いた。
「街でも、少し噂になっているようでした。その場では否定しましたが……」
「悪ガキどもが肝試しに潜り込んできたら厄介だな。機密資料の大半はロンドンの屋敷とはいえ、こっちにも見られちゃマズいもんはある」
「それならちょうどいい。僕にプランがあるんだ」
「と、言うと?」
「新しい心霊スポットをでっち上げるんだよ」
ウィリアムは人差し指をぴっと立てながら、言った。その表情は新しい悪戯を提案する少年のようで、皆も自然と彼の話に惹きつけられる。
「学生たちの間でも、フリーダさんが身投げした橋で似たような噂が持ち上がってるみたいでね。面白半分に騒がれるのは彼女にとっても本意ではないだろうし、何とかしたいと思っていたんだ」
「それは面白そうなプランだね」
「同感だ。ついでにここの連中もそっちに引越していってくれたらいいんだが……」
犯罪卿とその仲間たちは、普段とは打って変わってどこか和やかな雰囲気で『計画』を練り始めた。
*
その夜、フレッドが屋敷に戻ったのは深夜に近い時間帯だった。情報収集のため街に出ていたらすっかり遅くなってしまったのだ。偽心霊スポットに仕立て上げられそうな候補地の情報もいくつか仕入れられたから、明日さっそくウィリアムに報告しよう。
三階の使用人フロアに上がると、廊下に人影があった。明かりも持たずに突っ立っていたから、自分と同じく三階で寝起きしているモランかと思ったが、違っていた。
「アルバート様?」
「ご苦労様、フレッド。早かったね」
「え?」
「ああ、庭にいる君の影が見えてね。上がってくるのが早かったね、という意味だよ。遅くまで大変だったね」
「……どうかされましたか? こんな所で……」
「いや、なに。こうしていれば例の『お嬢さん』に会えないものかと思ったんだがね。まさか私が女性に待ちぼうけを食らわされる日が来るとは」
アルバートは冗談めかして笑ったが、彼に秋波を送るご令嬢たちが耳にしたらさぞ悔しがるだろう。
「……おそらくですが、『お嬢さん』は三階には姿を見せませんよ」
「おや、そうなのかい?」
「えぇ。モランから聞いた限りでは、三階に出たことは一度もありません。ウィリアムさんが彼女を見たのも、広間の大鏡だったそうです」
「そうだったのか」
「服装からして身分のある女性だったようですし、使用人フロアには上がってこないのではないでしょうか」
「なるほど、生前の行動範囲か」
アルバートがぽんと手を叩いた。
モランが文句を言いつつこの屋敷での暮らしに何とか耐えているのも、寝室の周りに彼女が現れないことが大きいだろう。幽霊といえど異性の寝室にまでは入り込まないあたり、彼女はやはり立派な淑女であった。
「あくまで推測なのですが……」
「いや、大佐にばかり顔を見せると聞いたから、彼の部屋のそばの方が可能性があると思い込んでいたよ。ありがとう、フレッド」
「いえ……」
「となると、『お嬢さん』にお目通りするのは諦めて、ウィルの部屋で『旦那様』を待ってみようかな。『手だけのメイド』を探そうにも、わざと食器を出しっぱなしにしておくのは忍びないからね」
「……そんなに、会ってみたいものですか?」
フレッドの質問に、アルバートは「信じてはいないよ」と唇の端を上げながら答えた。
「もし本当に幽霊なんてものがいるとしたら、真っ先に私のところにやって来るだろうからね。……だからこそ、本当にいるのなら見てみたいと思ったんだ」
アルバートはそう言って、踵を返した。
「じゃあ、おやすみ、フレッド。君の熱心さには庭の花たちも喜んでいるだろうけど、あまり無理はしないようにね」
「……はい、おやすみなさい。アルバート様」
*
あくる朝、フレッドは日の出とともにベッドを出た。
身支度を整えて一階へ降りると、ルイスもすでに起きているらしい。キッチンの方から温かい空気とパンの焼けるいい匂いが流れてくる。
フレッドはまっすぐに庭へ出た。
ウィリアムたちが起きてくる前に、花瓶の花を入れ替えておきたかったからだ。芝生はまだ夜露に湿っていて、朝のしんと冷えた空気を吸い込むと、すっきりと気分が良くなる。
このダラムの屋敷の温室は、ロンドンの本邸のそれに比べると小さく、まだ花も疎らであった。それでも、気のいい住民たちに株ごと分けてもらった薔薇たちが少しずつ元気を出し始めたところだ。
フレッドは特に美しく咲いた薔薇の幾本かを切り取り、温室の隅の小さな作業台に運んだ。花瓶にさす前に、棘を落としておかなければならなかった。
ハサミを茎に滑らせる。軽く力を込めると、小さな棘がぷちぷちと落ちていった。葉の影に落とし忘れがないか確認し、次の一輪へ手を伸ばす。
その時、ちゃぷん、と水の跳ねる音がした。
フレッドは思わず振り返る。
蛇口を締め忘れただろうか?
しかし水道は温室の外だ。水が漏れていたとしてもここまで水音が聞こえるはずがない。そもそも今朝はまだ水やりはしていないので水道に触れてもいなかった。
訝しんでいると、またちゃぷりと水が跳ねた。
息を潜めていたから、今度は音の発生源がわかった。すぐ足元だ。フレッドは作業台の下を覗き込んだ。
「……あ」
足元に置いてあったじょうろに水が並々と注がれていて、その中を魚が泳いでいた。二、三匹はいる。フレッドの親指ほどの大きさしかない魚とはいえ、じょうろの中に押し込められて窮屈そうだ。
魚たちが飛び出さないように注ぎ口を手で抑えながら、小走りに温室を出た。
屋敷の裏庭には、石を組んで作られた小さな溜め池がある。水の中にじょうろごと浸けこむと、魚たちはすいすいと泳いで出ていった。その姿は濁った水の中に紛れてすぐに見えなくなる。
じょうろが空になったのを確かめてほっと息をつくと、背後からくすくすと忍び笑いが聞こえた。
「……もう。駄目だよ、生き物にいたずらしちゃ」
指先から適当に水気を払って、フレッドは温室に戻った。さくさくと芝生を踏む足音が、後ろからもうひとつ付いてくる。
「じょうろみたいに狭いところに押し込められると、魚でも息ができなくなって死んじゃうんだよ」
口にしてから、無神経な言葉だっただろうかと少し後悔した。
この庭にも、幽霊と呼ばれるべき存在はいた。
庭仕事をしているといつの間にか後ろをついてきて、フレッドの手袋やハサミを隠したり、タイルの上に泥の手形を残したりと、時折かわいい悪戯をしかけてくる。おそらくはまだ小さな男の子だ。姿を見たことはなかったから、「何も見ていない」という言葉は嘘ではない。
昨夜アルバートに姿を見られていたことを教えてあげた方がいいだろうかと逡巡したが、結局やめにしておいた。アルバートは彼の影をフレッドと勘違いしていたし、自分の胸のうちにしまっておけば問題ないだろう。恥ずかしがりの彼が、この庭にまで居づらくなってしまったら可哀想だ。
作業台に戻ったフレッドは、棘取りを再開した。
斜め後ろに、気配を感じる。姿は見えなくてもそこにいるのがわかる。フレッドの背中越しに作業台を覗き込んで、熱心に見学しているようだった。
彼が――彼らが、何を思ってこの場所に留まって、何のために自分たちにその存在をアピールするのかはわからない。それでも、フレッドは別段彼らのことを恐ろしいとは思わなかった。
フレッドは池には魚が泳いでいたほうが嬉しいし、花壇には花がないと寂しいと思う。きっと彼らも、空き家よりも人が住んでる家のほうが好きなのだろう。
「きれいに咲いたよ」
呟くと、背後の彼が笑みを漏らすのがわかった。
温室を出て扉を閉めると、作業台の上に一輪だけ残された薔薇が、風もないのにころりと転がった。
さて、アルバートは幽霊に会えただろうか。
フレッドはまだ朝露に濡れた薔薇を腕に抱えて、朝食の席に向かった。
初出:Pixiv 2023.01.30
ダラムのお屋敷が幽霊屋敷だったら……という話。
「なあ。あんた、モリアーティ家の?」
そう声をかけられたのは、ルイスの使いでダラムの街に出ていたときだった。
振り返ると、通りで立ち話をしていた街の男たちがこちらを見ている。その視線に宿っているのは、屈託のない興味と好奇心だった。
「はい。……先日から、お世話になっています」
特に嘘をつく理由もないので、フレッドはそう答えた。
男たちは顔を見合わせ、リーダー格らしき男が進み出てにこやかに挨拶をした。
「俺たちはここらで商売やってるもんだ。互いに世話になる機会もあるだろうから、そん時はよろしくな」
「あ、はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
フレッドはぺこりと頭を下げた。
「ところであんた、モリアーティ様のお屋敷に住み込みで働いてるんだろう」
「ええ」
「幸せ者だな。若先生はそこらの貴族様と違って偉ぶったりしないし、良い方だろう」
「はい、それはもう」
「……で、あの屋敷、どうだい?」
「どう?」
フレッドが首を傾げると、男はこちらに顔を寄せながら声を潜めた。
「……『出る』って、ほんとうかい?」
何が、と言われずとも、おおよそ検討はついた。
モリアーティ家が買い取った家具付きの由緒ある――率直に言うと、中古の――屋敷には、『幽霊が出る』と地元の人間たちの間では昔から噂になっていたらしい。つい数年前に先代の所有者がダブリン男爵に追い落とされて悲劇的な末路を辿ったことも、真偽不明の噂話に箔をつけていた。
いかにウィリアムが気さくで街の人間たちとも距離が近いとはいえ、貴族相手に『おたくの屋敷、幽霊が出るってほんとうですか?』とはさすがに聞きづらい。だから、あえて年若い使用人の自分に声をかけてきたのだろう。
「何もおかしなところはありませんよ」
フレッドは首を振った。
「ウィリアム様もその噂を小耳に挟んでいたそうですが『引っ越し以来何も起こらない』とがっかりされているようです。……あ、これは弟のルイスさんから聞いた話で……内緒にしてくださいね」
適当に話を作ってそう付け足すと、男たちは「なんだぁ」と大げさに残念がった。
「俺、確かに見たんだけどなぁ。あの屋敷が無人だった頃、窓辺に女の影があったんだ」
「見間違いじゃないか?」
「あの立派な学者先生の前じゃ、幽霊もさぞや肩身が狭いだろうよ」
「俺はむしろホッとしたな。幽霊騒ぎが起こってモリアーティ様がダラムを離れちまった日にゃ、それこそ俺たち全員化けてでるハメになっちまう」
「違いねぇ!」
フレッドは陽気に笑う男たちの輪から、そっと抜け出した。
それからほどなくして、フレッドは用事を済ませて屋敷に戻った。
門の前で一度立ち止まって、生け垣と塀に囲まれて静かに立つ屋敷を改めて見上げてみた。
時代遅れの外観は、言われてみれば確かに幽霊屋敷らしい鬱々とした雰囲気をまとっているようにも見える。しかしそれは比較の対象が、ロンドン郊外に構える新築のモリアーティ邸だからではないだろうか。町の人々が噂するような不吉な因縁のある場所だとは到底思えない。
もっとも、あと何年か経ってここが稀代の大犯罪者たちの拠点の一つだと知れ渡ったら、もう絶対に買い手はつかないだろうな、ともフレッドは思うのであった。
玄関を抜けて広間に入った。
今日はロンドンからアルバートがやってくる予定だから、ウィリアムが駅まで迎えに行く手筈になっていた。彼はもう出て行ってしまった後だろうか。
ホールはひっそりと静まり返っている。
「うわぁっ!!」
突如、その静寂を破る悲鳴が響いた。
フレッドは特に驚くこともなく、洗面所の方へ顔を覗かせた。
「モランどうしたの?」
「ちっくしょう、またあの女だ!」
悔しそうに悪態をつくモランの顔と手は水で濡れている。おおかた、ついさっき起きたばかりで顔でも洗っていたのだろう。
フレッドは洗面台の横に引っかけられていたタオルを取って、彼に差し出した。ついでにちらりと鏡を覗き込んでみたけれど、そこには無愛想なフレッドの顔が映り込んでいるだけだ。
「ちょっと、モランさんうるさいですよ!」
廊下の向こう、キッチンの方からルイスが出てきた。おつかいを思い出したフレッドは、彼のもとへ駆け寄った。
「お砂糖、買ってきました」
「ああ、ありがとうございます」
紙袋を開けて中身を確かめながら、ルイスが耳打ちした。
「モランさん、またですか?」
「……みたいですね」
ルイスははぁ、とため息をついた。
「まったく……こんな時間まで寝ているからですよ。アルバート兄様が着く前に窓を磨いておいてほしかったのに」
「僕、手伝います」
「ええ、すみませんがお願いします」
ルイスはせかせかとした足取りでキッチンへ引き上げていった。
小一時間後、ウィリアムとともに屋敷にやって来たアルバートは、モランの話を聞くなり声を上げて笑った。
「大佐の背後を取るとは、たいした『お嬢さん』じゃないか」
「笑いごとじゃねぇぞ、アルバート! よりによもよってこんな幽霊屋敷を買いやがって!」
モランは苛立たしげに頭を掻きむしった。
街の人々が噂していた通り、モリアーティ家が買い取ったこのダラムの屋敷はいわゆる『幽霊屋敷』だった。
それらしい逸話は色々あったが、特に頻繁に姿を見せるのは深緑色の格子柄のドレスを着た女性の幽霊だ。モリアーティ家ではとりあえず、彼女のことを『お嬢さん』とあだ名している。
ふとした瞬間――例えば、顔を洗ってタオルを取ろうと視線を上げた時や、深夜に暗い廊下を歩いていた時なんかに――鏡や窓ガラスに映り込んでいるのだという。
ちなみに、主に被害を受けているのはモランだ。フレッドはまだ一度も見たことがない。
アルバートがわざわざこちらの屋敷にやって来た目的も、言ってしまえば物見遊山だった。ロンドンに戻るたびモランが大騒ぎで苦情を並べ立てるので、それなら私も見てみたい、と。
「いつも同じ女性なのかい?」
「何人もいてたまるかっつの」
「大佐に何か恨みがあるとか?」
「んなわけあるか! そんな知り合いいねぇし、そもそもこのダラムの屋敷にしか出ないんだぞ」
「アルバート兄さん、その『お嬢さん』なら僕も見たことがあるんですよ」
ウィリアムが助け舟を出した。
「そうなのかい?」
「ええ。ここに越してきて数日経った頃でしょうか。ロンドンへ戻られる兄さんを見送った夜だったと思います」
「その時は僕も一緒でした。兄さんが突然『今、女の子がいなかった?』と言い出されるから驚きました」
「そうそう、鏡に写った僕の後ろに女の子が立っていたから驚いてしまって。でもそれからは見かけなかったから見間違いだったのかと思っていたんだけど……」
その数週間後にモランとフレッドが屋敷に招かれ、再び姿を見せるようになったというわけだ。
「何で俺のとこにばっかり出るんだよ……。お前らが鈍すぎて気づいてねぇだけだろ、絶対」
「モランさん、気に入られたんじゃないですか?」
「やめろ!」
「ほんの一瞬しか見てないけど、にこにこしてて可愛らしい人だったよ?」
「笑ってんのが逆に怖えよ!! それにどんな美女でもいきなり背後に立たれてたら普通に驚くだろ、殴って追い払える相手じゃないからどうしようもねぇし!!」
モランは自分の膝を拳で打ちながら熱弁した。
毎度これだけ良いリアクションをしてくれたら幽霊も喜ぶのではないだろうか。気に入られたという説もあながち間違っていないように思える。
「ルイスとフレッドは、彼女を見たことはないのかい?」
アルバートの問いに、二人は揃って頷いた。
「あ、でも、僕は彼女でなければ見たことがありますよ」
「はぁ!?」
「ほう。それはどんな?」
「ほんの数日前の、深夜です。兄さんがお休みになられたのを見届けて僕も部屋に下がったのですが、ティーセットを流しに置いたまま、片付けるのを忘れていたことを思い出したんです」
モランが「それくらい次の日でいいじゃねぇか」と茶々を入れたが、ルイスは無視して話を続ける。
「自分の部屋を出て一階に下りると、キッチンの方から人の気配がしました。食器が触れあうような物音も……。てっきり、モランさんがまた盗み食いでもしているのかと思って、現場を抑えようと足音を殺してキッチンへ向かいました。
廊下からそっとキッチンを覗き込むと、そこに人影は無く……、かわりに、一対の白い手が浮かんでいました」
「手?」
「はい。暗闇の中に、真っ白い、女性の手だけが。水道の蛇口をひねって、僕がしまい忘れていたティーセットを洗ってくれていたんです」
アルバートが興味深げに、ほぅ、と顎に手を当てた。
「それで、どうなったんだい?」
「それだけです。食器を洗い終えて、蛇口を締めて水が止まると同時に白い手もふっと消えてしまいました」
「へぇ、不思議な話だね」
「ちなみに、今お使いいただいているのがそのときのティーセットです」
「そういうオチはいらねぇんだよ!!」
がちゃんと音を立てて、モランが叩きつけるようにカップをソーサーに戻した。ルイスが眉を吊り上げる前にフレッドはふきんを手にとって駆け寄った。大丈夫、割れてはいない。
「不思議だけど、なんだが心温まる話だね」
「ああ、ルイスの紅茶がますます味わい深くなったようだよ。この屋敷のメイドだったのかな?」
「正気かお前ら……」
モランが頭を抱えながら呻いた。
「ふむ。となると、この屋敷には少なくとも二人の先住者がいるのかな?」
「あ、兄さん。『旦那様』のお話はされなくてもよいのですか?」
「『旦那様』?」
モランとアルバートが声を揃えて問い返した。どうやら、初耳なのはフレッドだけではなかったらしい。
ウィリアムはうーん、と首を捻っている。
「僕、別に幽霊だとは思ってないんだけどなぁ」
「まだいんのかよ!? 勘弁してくれ……」
「聞かせてくれないか、ウィル」
「はい。ええと……このダラムに来てから、二階にある僕の書斎で夜更かししていると、よく同じ夢を見るんです」
「夢?」
「はい。僕は書斎で論文を書いたり、本を読んだりしています。すると、誰かが部屋をノックします。僕はてっきりルイスだろうと思って『どうぞ』と返事をするのですが、入ってくるのは口ひげを生やした紳士なんです。
何というか、色褪せた肖像画から飛び出してきたような……威厳があるけれどどこか古めかしい雰囲気の方でした。服装や髪型がそう思わせるのかもしれません。彼は暖炉の前のソファに腰掛けて、僕に話しかけてきます。内容はよく覚えていないのですが……歴史や文学に造形が深くて、僕の数学の話も面白そうに聞いてくれたとおぼろげに記憶しています。とにかく博学な方で、気がつけばつい話し込んでしまうんです」
「ほう」
「だけど最後はいつも同じで、誰かがまたドアをノックするんです。そして、部屋の外から『旦那様、お時間ですよ』と年配の女性の声がして、そこでいつも目が覚めます」
「………」
これといった何かが起こっているわけでもないのに、なんだか不気味な後味だ。さすがのアルバートも、静かに紅茶を啜っている。
しかし当のウィリアムは、犯罪相談役として見せる怜悧さを欠片も感じさせないほど、のんびりとした仕草で首をひねっていた。
「その声だけは何故かはっきり耳に残るんですよね。『旦那様』の話はほとんど覚えていないのに」
「これで少なくとも四人か。なかなか賑やかだね」
「いやいやいや。ウィリアムが聞いたその『声』ってのが、ルイスの見た『手だけのメイド』と同じやつかもしれないだろ。少なくとも三人、だ」
四人も三人も変わらないように思えるが、モランは一応抵抗した。
「フレッドは?」
「え」
「フレッドはどうだい? そういう不思議なものを見たことがあるかな?」
「……いえ。僕は何も、見ていません」
フレッドは首を振った。
「そうなのか。幼い子供や動物のほうが、霊的な存在には敏感だとよく聞くのだが」
「アルバート兄さん、フレッドだってもうそう幼くはありませんよ」
「ぼーっとしてるから気づいてないだけだろ」
「しかし、我が家が本物の幽霊屋敷だと広まってしまうのはあまり都合が良くないのではないでしょうか」
ルイスの言葉に、一同は深く頷いた。
「街でも、少し噂になっているようでした。その場では否定しましたが……」
「悪ガキどもが肝試しに潜り込んできたら厄介だな。機密資料の大半はロンドンの屋敷とはいえ、こっちにも見られちゃマズいもんはある」
「それならちょうどいい。僕にプランがあるんだ」
「と、言うと?」
「新しい心霊スポットをでっち上げるんだよ」
ウィリアムは人差し指をぴっと立てながら、言った。その表情は新しい悪戯を提案する少年のようで、皆も自然と彼の話に惹きつけられる。
「学生たちの間でも、フリーダさんが身投げした橋で似たような噂が持ち上がってるみたいでね。面白半分に騒がれるのは彼女にとっても本意ではないだろうし、何とかしたいと思っていたんだ」
「それは面白そうなプランだね」
「同感だ。ついでにここの連中もそっちに引越していってくれたらいいんだが……」
犯罪卿とその仲間たちは、普段とは打って変わってどこか和やかな雰囲気で『計画』を練り始めた。
*
その夜、フレッドが屋敷に戻ったのは深夜に近い時間帯だった。情報収集のため街に出ていたらすっかり遅くなってしまったのだ。偽心霊スポットに仕立て上げられそうな候補地の情報もいくつか仕入れられたから、明日さっそくウィリアムに報告しよう。
三階の使用人フロアに上がると、廊下に人影があった。明かりも持たずに突っ立っていたから、自分と同じく三階で寝起きしているモランかと思ったが、違っていた。
「アルバート様?」
「ご苦労様、フレッド。早かったね」
「え?」
「ああ、庭にいる君の影が見えてね。上がってくるのが早かったね、という意味だよ。遅くまで大変だったね」
「……どうかされましたか? こんな所で……」
「いや、なに。こうしていれば例の『お嬢さん』に会えないものかと思ったんだがね。まさか私が女性に待ちぼうけを食らわされる日が来るとは」
アルバートは冗談めかして笑ったが、彼に秋波を送るご令嬢たちが耳にしたらさぞ悔しがるだろう。
「……おそらくですが、『お嬢さん』は三階には姿を見せませんよ」
「おや、そうなのかい?」
「えぇ。モランから聞いた限りでは、三階に出たことは一度もありません。ウィリアムさんが彼女を見たのも、広間の大鏡だったそうです」
「そうだったのか」
「服装からして身分のある女性だったようですし、使用人フロアには上がってこないのではないでしょうか」
「なるほど、生前の行動範囲か」
アルバートがぽんと手を叩いた。
モランが文句を言いつつこの屋敷での暮らしに何とか耐えているのも、寝室の周りに彼女が現れないことが大きいだろう。幽霊といえど異性の寝室にまでは入り込まないあたり、彼女はやはり立派な淑女であった。
「あくまで推測なのですが……」
「いや、大佐にばかり顔を見せると聞いたから、彼の部屋のそばの方が可能性があると思い込んでいたよ。ありがとう、フレッド」
「いえ……」
「となると、『お嬢さん』にお目通りするのは諦めて、ウィルの部屋で『旦那様』を待ってみようかな。『手だけのメイド』を探そうにも、わざと食器を出しっぱなしにしておくのは忍びないからね」
「……そんなに、会ってみたいものですか?」
フレッドの質問に、アルバートは「信じてはいないよ」と唇の端を上げながら答えた。
「もし本当に幽霊なんてものがいるとしたら、真っ先に私のところにやって来るだろうからね。……だからこそ、本当にいるのなら見てみたいと思ったんだ」
アルバートはそう言って、踵を返した。
「じゃあ、おやすみ、フレッド。君の熱心さには庭の花たちも喜んでいるだろうけど、あまり無理はしないようにね」
「……はい、おやすみなさい。アルバート様」
*
あくる朝、フレッドは日の出とともにベッドを出た。
身支度を整えて一階へ降りると、ルイスもすでに起きているらしい。キッチンの方から温かい空気とパンの焼けるいい匂いが流れてくる。
フレッドはまっすぐに庭へ出た。
ウィリアムたちが起きてくる前に、花瓶の花を入れ替えておきたかったからだ。芝生はまだ夜露に湿っていて、朝のしんと冷えた空気を吸い込むと、すっきりと気分が良くなる。
このダラムの屋敷の温室は、ロンドンの本邸のそれに比べると小さく、まだ花も疎らであった。それでも、気のいい住民たちに株ごと分けてもらった薔薇たちが少しずつ元気を出し始めたところだ。
フレッドは特に美しく咲いた薔薇の幾本かを切り取り、温室の隅の小さな作業台に運んだ。花瓶にさす前に、棘を落としておかなければならなかった。
ハサミを茎に滑らせる。軽く力を込めると、小さな棘がぷちぷちと落ちていった。葉の影に落とし忘れがないか確認し、次の一輪へ手を伸ばす。
その時、ちゃぷん、と水の跳ねる音がした。
フレッドは思わず振り返る。
蛇口を締め忘れただろうか?
しかし水道は温室の外だ。水が漏れていたとしてもここまで水音が聞こえるはずがない。そもそも今朝はまだ水やりはしていないので水道に触れてもいなかった。
訝しんでいると、またちゃぷりと水が跳ねた。
息を潜めていたから、今度は音の発生源がわかった。すぐ足元だ。フレッドは作業台の下を覗き込んだ。
「……あ」
足元に置いてあったじょうろに水が並々と注がれていて、その中を魚が泳いでいた。二、三匹はいる。フレッドの親指ほどの大きさしかない魚とはいえ、じょうろの中に押し込められて窮屈そうだ。
魚たちが飛び出さないように注ぎ口を手で抑えながら、小走りに温室を出た。
屋敷の裏庭には、石を組んで作られた小さな溜め池がある。水の中にじょうろごと浸けこむと、魚たちはすいすいと泳いで出ていった。その姿は濁った水の中に紛れてすぐに見えなくなる。
じょうろが空になったのを確かめてほっと息をつくと、背後からくすくすと忍び笑いが聞こえた。
「……もう。駄目だよ、生き物にいたずらしちゃ」
指先から適当に水気を払って、フレッドは温室に戻った。さくさくと芝生を踏む足音が、後ろからもうひとつ付いてくる。
「じょうろみたいに狭いところに押し込められると、魚でも息ができなくなって死んじゃうんだよ」
口にしてから、無神経な言葉だっただろうかと少し後悔した。
この庭にも、幽霊と呼ばれるべき存在はいた。
庭仕事をしているといつの間にか後ろをついてきて、フレッドの手袋やハサミを隠したり、タイルの上に泥の手形を残したりと、時折かわいい悪戯をしかけてくる。おそらくはまだ小さな男の子だ。姿を見たことはなかったから、「何も見ていない」という言葉は嘘ではない。
昨夜アルバートに姿を見られていたことを教えてあげた方がいいだろうかと逡巡したが、結局やめにしておいた。アルバートは彼の影をフレッドと勘違いしていたし、自分の胸のうちにしまっておけば問題ないだろう。恥ずかしがりの彼が、この庭にまで居づらくなってしまったら可哀想だ。
作業台に戻ったフレッドは、棘取りを再開した。
斜め後ろに、気配を感じる。姿は見えなくてもそこにいるのがわかる。フレッドの背中越しに作業台を覗き込んで、熱心に見学しているようだった。
彼が――彼らが、何を思ってこの場所に留まって、何のために自分たちにその存在をアピールするのかはわからない。それでも、フレッドは別段彼らのことを恐ろしいとは思わなかった。
フレッドは池には魚が泳いでいたほうが嬉しいし、花壇には花がないと寂しいと思う。きっと彼らも、空き家よりも人が住んでる家のほうが好きなのだろう。
「きれいに咲いたよ」
呟くと、背後の彼が笑みを漏らすのがわかった。
温室を出て扉を閉めると、作業台の上に一輪だけ残された薔薇が、風もないのにころりと転がった。
さて、アルバートは幽霊に会えただろうか。
フレッドはまだ朝露に濡れた薔薇を腕に抱えて、朝食の席に向かった。
初出:Pixiv 2023.01.30
また朝が来たら
人狼パロ本編①と②の間のお話。
小さな寝息が聞こえてきて、フレッドはそっと身体を起こした。
椅子の上で、ブランケットで首元まですっぽり覆い隠して、ルイスが寝息を立てている。足音を立てないようにそっと近づいて、首を伸ばしてその顔を覗き見る。
記憶の中の彼より背が伸びて、頬の丸みが取れて、声が低くなっている。撫でてくれた手のひらも、あの頃とは違って指先がすらりと伸びた大きな手のひらに変わっていた。
それでも、彼は変わらず優しかった。
フレッドは左の前足に巻いてもらった包帯に鼻先を寄せた。
モランにも怪我の手当をしてもらったことはある。ウィリアムやアルバートだって、夜にこの姿で会うと必ずと言っていいほど頭を撫でてくれた。もちろん、そのどれもが嬉しかった。
けれどこんなふうに、走り出したいほどの衝動に襲われることがあっただろうか。
彼が息をしているのが聞こえる。
間に合って良かった。
狼たちがざわつく気配に嫌な予感がして、様子を見に行ってみたのは偶然だった。彼が追われていると分かったときは心臓が止まるかと思った。
この姿でよかった、と思ったのは生まれて初めてかもしれない。フレッドは声を立てないように注意しながら、しばらく彼の足元にうずくまっていた。
やがてフレッドは静かに立ち上がって、ドアの脇の小さな板戸をくぐった。
小屋の外に出ると、研ぎ澄まされた感覚が瞬時に周囲の状況を把握する。木立の向こう、真っ黒に塗りつぶされた闇の中から、微かな足音と息遣いを感じた。
(いる……)
先ほど追い払った群れの狼たちだ。
フレッドは注意深く小屋の前に腰を据えた。
攻撃の気配はない。が、じっとこちらを窺っている。
怒っているだろうか。それも無理はない話だ。
彼らからすれば、自分たちの領域に踏み込んできた人間に思い知らせてやろうとしただけにすぎない。フレッドはそこにしゃしゃり出てきて噛みついたのだ。
森の中でのフレッドの立場は微妙だった。
狼たちと何回か対話を試みたことはある。けれど――やはりと言うべきか、彼らはフレッドを異物として認識した。中途半端に姿形が似ている分、よりいっそう強い忌避感を抱いているようだった。
結局彼らと歩み寄ることは叶わず、フレッドはおそらく『人間側に属する何か』として認識されている。数年間モランのもとで暮らしていたことも大きいのだろう。
実際には人間たちともそこまで深く関わっているわけではないのだけれど、それは彼らにとってはどうでもいいことだ。
そういうわけで、フレッドと狼たちはお互いに干渉せず、ほどほどの距離を保って暮らしてきた。
今回の一件を彼らはどう捉えるだろう。
もし彼らが獲物を奪い返しにフレッドの縄張りに踏み込んでくるのであれば、戦うつもりだ。この扉は朝まで守り抜く。
フレッドはじっと小屋の前に伏せていた。
怯えも緊張もない、ただ静かな気持ちだった。
どれくらいの間そうしていただろう。木陰から様子をうかがっていた一頭がくるりとこちらに背を向けた。彼に続いて、小屋を取り囲んでいた他の狼たちもゆっくりと去っていく。
気配が完全に消えたのを見届けて、フレッドは立ち上がった。そしてようやく、小さく安堵する。
争わずに済むならそれに越したことはない。ここでフレッドたちに手を出せば、銃を手にした森番や街の人間たちが動くだろう。人間を敵に回すことは彼らも避けたいはずだ。
フレッドはその場で伸びをして、思考を人間の世界へと切り替える。
今、何時だろう。
狼の姿になると時間の感覚がいくらか鈍るが、零時は確実に回っているはずだ。
フレッドは板戸に頭だけを突っ込んで、小屋の中を覗いた。ルイスは先程と同じ姿勢で眠っている。もし目を覚ましたとしても、夜が明ける前にわざわざ小屋の外に出たりはしないだろう。
彼のそばに戻りたい気持ちをぐっとこらえて、フレッドは一気に駆け出した。
今この姿のフレッドには、夜の闇は関係ない。地面を蹴る度、立ち並んだ木々がぐんぐんと後ろに流れていった。
木立を抜け、高台に辿り着いた。坂道を一息に駆け上がったから、少しだけ息が上がっていた。
足元に気を配りながら、首を伸ばして身を乗り出すと、遠くに街の明かりが見える。
(あ、やっぱりウィリアムさん達、起きてる……)
ひときわ大きなお屋敷の窓から、煌々と明かりが漏れているのがわかった。ルイスが戻らないから、きっと心配しているのだろう。
さて、どうしようか。
フレッドは尻尾をゆらゆら揺らしながら考えた。
ルイスが無事でいることをすぐに知らせに行くべきだろうが、今街まで下りていくのはリスクが大きい。ウィリアムたち以外にも起きている人間がいるかもしれないからだ。狼の姿で彼らに見つかってしまうと大騒ぎになる。
人目につかずに屋敷まで行くルートはいくつか知っていたが、人間たちがルイスを探して普段通らない道をうろついている可能性は十分にあった。
となると、やはりモランを頼るのが無難だろう。
フレッドはもう一度森の中を走った。
モランの森番小屋には、明かりが灯っていなかった。切り株に刺さったままの薪割り用の手斧がなんだかもの寂しい。
裏手に回って、ひっそりと取り付けられたフレッド用の板戸に身を潜り込ませた。
また酒場に出かけて留守だろうかという不安は、部屋の中に残る香ばしい匂いを嗅いだ瞬間に消え去った。彼が数時間以内にここで食事を摂った証拠だ。
台所を抜けて暗い廊下を進むと、ぐぅぐぅとモランのいびきが聞こえてくる。
モランは寝室のドアを閉めない。
それはおそらく、フレッドと暮らしていた頃の習慣の名残だ。おかげでドアノブに煩わされることもなく、すんなりと彼の枕元までやって来ることができた。
どうやって起こそうかと逡巡したが、彼はフレッドがベッドに近づくとすぐさま身を起こした。まだ開ききっていない目が、フレッドの姿を捉える。
「……何だ、お前か」
寝起きとは思えない、明瞭な発音だった。
お酒にも女性にもだらしないようで、いざという時は目をみはるほど機敏に動く。フレッドはモランのこういうところを信頼していた。
「狼に寝室に潜り込まれるって心臓に悪ぃな……で、どうかしたか? 火事か?」
(ちがう)フレッドは首を振った。
何の用事もなく、フレッドが夜中にわざわざ訪ねてくることはない。そのことを分かっているから、モランは眠い目を擦りながら明かりを点けた。
「じゃあ怪我人か」
(ちがう)
「密猟者?」
(ちがう)
「遭難者」
(おしい)
「遭難か? 場所は?」
モランは壁に貼りつけてあった地図を剥がして、床に広げた。フレッドは前足で位置を指し示す。
「お前んちじゃねーか」
(そう)
「危険な状況ってわけでもなさそうだな」
頷くと、モランは姿勢を崩して床に胡座をかいた。ふぁあ、とひとつ大あくび。
「道に迷ったやつに居座られてんのか? こんな時間に森に入り込むなんて、密猟者じゃねーのか」
(ちがう)
「街の人間? 知ってる奴か?」
フレッドは頷いた。
それがルイスであることをどう伝えようかと迷った時、アルコールの匂いが鼻をついた。窓辺のテーブルの上に、ワインボトルと空のグラスがある。寝る前に飲んだまま、出しっぱなしなのだろう。
モランは普段ワインをあまり飲まない。おそらく誰かにもらったもののはずだ。そしてボトルの中の赤い液体がグラス一杯分だけ減っているところを見るに、どうやら開けたばかりらしい。
フレッドはテーブルに駆け寄って、ワインボトルを指し示した。
モランは眉根を寄せる。
「ワイン? アルバート……いや、ルイスか!」
肯定するように一声吠えた。
この時間帯、狼の姿のフレッドは当然喋れない。不便ではないかと心配されることもあったけれど、普段から無口なフレッドが夜の間だけ喋れなくなったところで思ったより意思疎通には困らなかった。今ではもう慣れたもので、昔アルバートにもらったアルファベット表は、折り畳まれて棚の隅で埃を被っていた。
モランがため息をつきながらがしがしと頭を掻く。
「はーっ、何やってんだあいつ。後でウィリアム達にどやされるな……やっぱり送っていくんだった……」
重い腰を上げて、モランは身支度を始めた。
「それで、お前とうとうバレたのか」
(バレてはない……一応)フレッドは首を振った。
「まぁ時間の問題だろ。いい機会だし、もう名乗りでちまえよ……あー、わかったわかった。黙っとくから噛むなって」
モランは手にしていたベルトを軽く振って、フレッドを追い払った。
「ったく……うわ、もう三時過ぎてるのか。先にルイス迎えに行った方がいいな」
コートのポケットに入れっぱなしの懐中時計を取り出して、モランがつぶやいた。
「お前、ウィリアムたちのとこに知らせに行けるか?」
(多分無理)
今は街に近づかない方が得策だろう。フレッドが首を振ると、モランも理由に思い当たったようだった。
ウィリアムもアルバートも、帰らない弟を心配して街中探し回っているだろう。昼間にモランのところを訪ねていたことは知っているはずだから、今頃は街の人たちが、彼らが夜の森に踏み込まないように必死に宥めているはずだ。
「わかった、俺がルイスを迎えに行く。あいつにはうまく言っとくから、お前は後でウィリアムたちに説明しとけよ」
外に出た途端モランが煙草に火を点けたので、フレッドはさり気なく風上に移動する。彼と暮らすうちに多少匂いには慣れたけれど、やはり苦手なものは苦手だ。この姿のうちはなおさら。
「ったく、あいつ何でまっすぐ帰らなかったんだ……」
紫煙を吐きながら、モランがつぶやいた。
そういえば。
フレッドはその理由について思い当たることがあった。ルイスはきっと、万年筆を探していたのだ。眠る前にそんなことを話していた。
夜明けまでまだ時間はある。今のフレッドなら、ルイスが昼間に通ってきた道が何となく分かった。夜目も利くから、落とし物探しもお手の物だ。
先を行くモランは用心として、きっちりと整備された猟銃を背負っていた。彼のことは心配ないだろう。
「おい、どこ行くんだ」
道を外れると、モランが声を上げた。
フレッドは立てた尻尾をくるりと回して応える。二人で決めた、「大丈夫」や「問題なし」の合図だ。
モランがため息をつきながら片手を上げたので、フレッドは振り返らず駆け出した。
万年筆の一本くらい、朝になってからゆっくり探すこともできただろう。それでも、彼ががっかりしながら家に帰らずに済むように、なるべく早く見つけて渡してあげたかった。
あと一時間と少しで夜が明ける。
夜の森を吹き抜ける風のように、音もなく、フレッドは走った。
初出:Pixiv 2023.06.11
人狼パロ本編①と②の間のお話。
小さな寝息が聞こえてきて、フレッドはそっと身体を起こした。
椅子の上で、ブランケットで首元まですっぽり覆い隠して、ルイスが寝息を立てている。足音を立てないようにそっと近づいて、首を伸ばしてその顔を覗き見る。
記憶の中の彼より背が伸びて、頬の丸みが取れて、声が低くなっている。撫でてくれた手のひらも、あの頃とは違って指先がすらりと伸びた大きな手のひらに変わっていた。
それでも、彼は変わらず優しかった。
フレッドは左の前足に巻いてもらった包帯に鼻先を寄せた。
モランにも怪我の手当をしてもらったことはある。ウィリアムやアルバートだって、夜にこの姿で会うと必ずと言っていいほど頭を撫でてくれた。もちろん、そのどれもが嬉しかった。
けれどこんなふうに、走り出したいほどの衝動に襲われることがあっただろうか。
彼が息をしているのが聞こえる。
間に合って良かった。
狼たちがざわつく気配に嫌な予感がして、様子を見に行ってみたのは偶然だった。彼が追われていると分かったときは心臓が止まるかと思った。
この姿でよかった、と思ったのは生まれて初めてかもしれない。フレッドは声を立てないように注意しながら、しばらく彼の足元にうずくまっていた。
やがてフレッドは静かに立ち上がって、ドアの脇の小さな板戸をくぐった。
小屋の外に出ると、研ぎ澄まされた感覚が瞬時に周囲の状況を把握する。木立の向こう、真っ黒に塗りつぶされた闇の中から、微かな足音と息遣いを感じた。
(いる……)
先ほど追い払った群れの狼たちだ。
フレッドは注意深く小屋の前に腰を据えた。
攻撃の気配はない。が、じっとこちらを窺っている。
怒っているだろうか。それも無理はない話だ。
彼らからすれば、自分たちの領域に踏み込んできた人間に思い知らせてやろうとしただけにすぎない。フレッドはそこにしゃしゃり出てきて噛みついたのだ。
森の中でのフレッドの立場は微妙だった。
狼たちと何回か対話を試みたことはある。けれど――やはりと言うべきか、彼らはフレッドを異物として認識した。中途半端に姿形が似ている分、よりいっそう強い忌避感を抱いているようだった。
結局彼らと歩み寄ることは叶わず、フレッドはおそらく『人間側に属する何か』として認識されている。数年間モランのもとで暮らしていたことも大きいのだろう。
実際には人間たちともそこまで深く関わっているわけではないのだけれど、それは彼らにとってはどうでもいいことだ。
そういうわけで、フレッドと狼たちはお互いに干渉せず、ほどほどの距離を保って暮らしてきた。
今回の一件を彼らはどう捉えるだろう。
もし彼らが獲物を奪い返しにフレッドの縄張りに踏み込んでくるのであれば、戦うつもりだ。この扉は朝まで守り抜く。
フレッドはじっと小屋の前に伏せていた。
怯えも緊張もない、ただ静かな気持ちだった。
どれくらいの間そうしていただろう。木陰から様子をうかがっていた一頭がくるりとこちらに背を向けた。彼に続いて、小屋を取り囲んでいた他の狼たちもゆっくりと去っていく。
気配が完全に消えたのを見届けて、フレッドは立ち上がった。そしてようやく、小さく安堵する。
争わずに済むならそれに越したことはない。ここでフレッドたちに手を出せば、銃を手にした森番や街の人間たちが動くだろう。人間を敵に回すことは彼らも避けたいはずだ。
フレッドはその場で伸びをして、思考を人間の世界へと切り替える。
今、何時だろう。
狼の姿になると時間の感覚がいくらか鈍るが、零時は確実に回っているはずだ。
フレッドは板戸に頭だけを突っ込んで、小屋の中を覗いた。ルイスは先程と同じ姿勢で眠っている。もし目を覚ましたとしても、夜が明ける前にわざわざ小屋の外に出たりはしないだろう。
彼のそばに戻りたい気持ちをぐっとこらえて、フレッドは一気に駆け出した。
今この姿のフレッドには、夜の闇は関係ない。地面を蹴る度、立ち並んだ木々がぐんぐんと後ろに流れていった。
木立を抜け、高台に辿り着いた。坂道を一息に駆け上がったから、少しだけ息が上がっていた。
足元に気を配りながら、首を伸ばして身を乗り出すと、遠くに街の明かりが見える。
(あ、やっぱりウィリアムさん達、起きてる……)
ひときわ大きなお屋敷の窓から、煌々と明かりが漏れているのがわかった。ルイスが戻らないから、きっと心配しているのだろう。
さて、どうしようか。
フレッドは尻尾をゆらゆら揺らしながら考えた。
ルイスが無事でいることをすぐに知らせに行くべきだろうが、今街まで下りていくのはリスクが大きい。ウィリアムたち以外にも起きている人間がいるかもしれないからだ。狼の姿で彼らに見つかってしまうと大騒ぎになる。
人目につかずに屋敷まで行くルートはいくつか知っていたが、人間たちがルイスを探して普段通らない道をうろついている可能性は十分にあった。
となると、やはりモランを頼るのが無難だろう。
フレッドはもう一度森の中を走った。
モランの森番小屋には、明かりが灯っていなかった。切り株に刺さったままの薪割り用の手斧がなんだかもの寂しい。
裏手に回って、ひっそりと取り付けられたフレッド用の板戸に身を潜り込ませた。
また酒場に出かけて留守だろうかという不安は、部屋の中に残る香ばしい匂いを嗅いだ瞬間に消え去った。彼が数時間以内にここで食事を摂った証拠だ。
台所を抜けて暗い廊下を進むと、ぐぅぐぅとモランのいびきが聞こえてくる。
モランは寝室のドアを閉めない。
それはおそらく、フレッドと暮らしていた頃の習慣の名残だ。おかげでドアノブに煩わされることもなく、すんなりと彼の枕元までやって来ることができた。
どうやって起こそうかと逡巡したが、彼はフレッドがベッドに近づくとすぐさま身を起こした。まだ開ききっていない目が、フレッドの姿を捉える。
「……何だ、お前か」
寝起きとは思えない、明瞭な発音だった。
お酒にも女性にもだらしないようで、いざという時は目をみはるほど機敏に動く。フレッドはモランのこういうところを信頼していた。
「狼に寝室に潜り込まれるって心臓に悪ぃな……で、どうかしたか? 火事か?」
(ちがう)フレッドは首を振った。
何の用事もなく、フレッドが夜中にわざわざ訪ねてくることはない。そのことを分かっているから、モランは眠い目を擦りながら明かりを点けた。
「じゃあ怪我人か」
(ちがう)
「密猟者?」
(ちがう)
「遭難者」
(おしい)
「遭難か? 場所は?」
モランは壁に貼りつけてあった地図を剥がして、床に広げた。フレッドは前足で位置を指し示す。
「お前んちじゃねーか」
(そう)
「危険な状況ってわけでもなさそうだな」
頷くと、モランは姿勢を崩して床に胡座をかいた。ふぁあ、とひとつ大あくび。
「道に迷ったやつに居座られてんのか? こんな時間に森に入り込むなんて、密猟者じゃねーのか」
(ちがう)
「街の人間? 知ってる奴か?」
フレッドは頷いた。
それがルイスであることをどう伝えようかと迷った時、アルコールの匂いが鼻をついた。窓辺のテーブルの上に、ワインボトルと空のグラスがある。寝る前に飲んだまま、出しっぱなしなのだろう。
モランは普段ワインをあまり飲まない。おそらく誰かにもらったもののはずだ。そしてボトルの中の赤い液体がグラス一杯分だけ減っているところを見るに、どうやら開けたばかりらしい。
フレッドはテーブルに駆け寄って、ワインボトルを指し示した。
モランは眉根を寄せる。
「ワイン? アルバート……いや、ルイスか!」
肯定するように一声吠えた。
この時間帯、狼の姿のフレッドは当然喋れない。不便ではないかと心配されることもあったけれど、普段から無口なフレッドが夜の間だけ喋れなくなったところで思ったより意思疎通には困らなかった。今ではもう慣れたもので、昔アルバートにもらったアルファベット表は、折り畳まれて棚の隅で埃を被っていた。
モランがため息をつきながらがしがしと頭を掻く。
「はーっ、何やってんだあいつ。後でウィリアム達にどやされるな……やっぱり送っていくんだった……」
重い腰を上げて、モランは身支度を始めた。
「それで、お前とうとうバレたのか」
(バレてはない……一応)フレッドは首を振った。
「まぁ時間の問題だろ。いい機会だし、もう名乗りでちまえよ……あー、わかったわかった。黙っとくから噛むなって」
モランは手にしていたベルトを軽く振って、フレッドを追い払った。
「ったく……うわ、もう三時過ぎてるのか。先にルイス迎えに行った方がいいな」
コートのポケットに入れっぱなしの懐中時計を取り出して、モランがつぶやいた。
「お前、ウィリアムたちのとこに知らせに行けるか?」
(多分無理)
今は街に近づかない方が得策だろう。フレッドが首を振ると、モランも理由に思い当たったようだった。
ウィリアムもアルバートも、帰らない弟を心配して街中探し回っているだろう。昼間にモランのところを訪ねていたことは知っているはずだから、今頃は街の人たちが、彼らが夜の森に踏み込まないように必死に宥めているはずだ。
「わかった、俺がルイスを迎えに行く。あいつにはうまく言っとくから、お前は後でウィリアムたちに説明しとけよ」
外に出た途端モランが煙草に火を点けたので、フレッドはさり気なく風上に移動する。彼と暮らすうちに多少匂いには慣れたけれど、やはり苦手なものは苦手だ。この姿のうちはなおさら。
「ったく、あいつ何でまっすぐ帰らなかったんだ……」
紫煙を吐きながら、モランがつぶやいた。
そういえば。
フレッドはその理由について思い当たることがあった。ルイスはきっと、万年筆を探していたのだ。眠る前にそんなことを話していた。
夜明けまでまだ時間はある。今のフレッドなら、ルイスが昼間に通ってきた道が何となく分かった。夜目も利くから、落とし物探しもお手の物だ。
先を行くモランは用心として、きっちりと整備された猟銃を背負っていた。彼のことは心配ないだろう。
「おい、どこ行くんだ」
道を外れると、モランが声を上げた。
フレッドは立てた尻尾をくるりと回して応える。二人で決めた、「大丈夫」や「問題なし」の合図だ。
モランがため息をつきながら片手を上げたので、フレッドは振り返らず駆け出した。
万年筆の一本くらい、朝になってからゆっくり探すこともできただろう。それでも、彼ががっかりしながら家に帰らずに済むように、なるべく早く見つけて渡してあげたかった。
あと一時間と少しで夜が明ける。
夜の森を吹き抜ける風のように、音もなく、フレッドは走った。
初出:Pixiv 2023.06.11
また朝が来たら
人狼パロ本編の前日譚。
僕は部屋の隅の木箱の中で目を覚ました。
窓の外から明るい日差しが差し込んで、その中を小さな埃がきらきらと光りながら舞っている。美しく晴れた朝だった。
毛布をかき分けてのろのろと木箱から這い出すと、ちょうどモランもベッドの上で伸びをしていた。
「おはよう」
「おう」
朝の挨拶をすると、モランは大あくびをしながら答えた。僕もつられて、ふぁ、とあくびをした。
「……お前、やっぱりベッドあった方がいいんじゃないか?」
「? 別に平気だけど……」
「うーん、まぁ、夜は……犬っころの姿のうちは別に何とも思わないんだけどなぁ。こっちの姿だとガキを床で寝かせてる罪悪感が……」
ぶつぶつと何か呟いているモランを尻目に、用意しておいた服を着た。
僕の寝床はモランが用意してくれた木箱だ。狼の姿でも出入りがしやすいくらいの高さに切ってくれて、やわらかい毛布が敷いてある。この中で丸くなると木のいい匂いがしてとてもよく眠れた。
人間用のベッドは爪でマットレスを傷つけてしまいそうだし、地面から離れているのが落ち着かない。僕はこの寝床の方がよっぽど好きだった。
寝室を出て、流し台で顔を洗った。
朝、炉に火を入れるのは僕の仕事だ。
背中にモランの視線を感じながら、マッチを擦った。ぱっと燃え上がる炎に怯まないように肩に力を込めながら、薪の上の新聞紙に火を移した。火は瞬く間に燃え広がって、やがて薪がぱちぱちと音を立て始める。僕は慌てて手を引っ込めた。
炎に包まれた薪が、夕焼け空の太陽のように真っ赤になった。木片ではない、違う何かになったみたいだ。
鼻先と頬にじんわりと熱を感じる。
「前髪焦がすぞ」
いつの間にかすぐ後ろに来ていたモランが、僕のシャツの襟首を掴んで下がらせる。
彼は薪の上に五徳を被せると、その上にやかんを乗せて「カップと皿、出してこい」とぶっきらぼうに僕に指示した。
沸かしたお湯でお茶を淹れ、次にフライパンで卵とパンを焼いた。それらに森でとってきた木の実や果物を添えて、僕らの朝ごはんになる。
パンをかじるモランを見るたび、大きな口だと感心した。
誰かと同じテーブルについて食事をするのは不思議な気持ちだ。これまでは昼も夜もずっと一人で、手に入れた僅かな食べ物を口に詰め込むだけだったから。
あの嵐の夜が明けて、僕は僕を助けてくれた男の子(ルイスさん、というらしい)のお兄さんたちに拾われた。彼らは人でも狼でもない中途半端な僕の身の上話を親身になって聞いてくれて、そして、僕をモランに預けた。
モランは最初こそ、朝と夜とが入れ替わるたびに姿を変える僕に目を白黒させていたが、半年も経てばもうすっかり慣れてしまったようだった。
前に、僕のことが怖くないのかと聞いたとき、モランは大笑いした挙げ句「お前なんかより虎のほうがよっぽど怖い」と答えた。
『トラって何』
『何って……うーん、猛獣だよ。オレンジと黒の縞模様で、噛みつかれたら牛だってひとたまりもない。腕はお前の胴体ぐらい太いな』
僕は自分のお腹のあたりを見下ろした。
トラは知らないけど牛は見たことがある。大きくて、爪も牙もない大人しい生き物だ。寒い夜は彼らの寝床に入れてもらうことも度々あったけど、前にうっかり踏み潰されそうになって以来あまり近寄らないようにしている。あの山のような巨体を倒してしまうのならそれは強くて恐ろしい生き物なのだろう。
『この森にはトラ、いる?』
『いねぇよ。ずっと南の、暑いところに住んでるんだ』
『モランは見たことある?』
『あるさ。こいつで仕留めて絨毯にしてやった』
モランは壁にかけてあった猟銃を顎で示した。
モランは牛よりも強いトラをやっつけたことがあると言う。僕は多分、牛にだって敵わない。だからモランが僕を怖がる理由もない、ということなのだろうか。何かがズレている気がしたけれど、そのときはそれでつい納得してしまった。
「おら、食い終わったなら皿洗え」
モランに肩を叩かれた。
ぼぅっと考え事をしていた僕は、カップに残った冷めたお茶を慌てて飲み干して、テーブルの上の食器をかき集めた。
踏み台に乗り、流しに溜めた水で汚れた食器をじゃぶじゃぶと洗う。多少汚れが残っていてもモランは気にしないけれど、僕は何となく嫌だったので、皿にくっついた目玉焼きの黄身まで綺麗に洗い流した。
「今日は何するの」
濡れた手をタオルで拭いながら、ブーツの手入れをしているモランに尋ねた。
モランは森番だ。
この森の持ち主であるアルバート様に代わって、木々の手入れをしたり道の維持管理をしたりして生活している。時には獣たちが街の近くへ出ていかないように脅かして追い払ったり、道に迷った人間を助けたりすることもあった。
置いてもらう礼として、僕もその仕事を手伝っている。昼間はともかく、狼の姿になった夜の僕は人間よりもできることが多いので多少は役に立っていた。
けれどモランの答えは、それらの仕事とはなんの関係もないものだった。
「今日は買い出しだ」
僕は内心で落胆した。
卵がもう最後の二つだったしお茶の葉も缶の底が見えるほど少なくなっていたから、そんな気はしていた。
「……いってらっしゃい」
「バカ、お前も来るんだよ。荷物持て」
ぴかぴかに磨いたブーツに足を通しながら、モランが呆れたように笑った。
*
人間の街に出るのはいつも緊張する。
モランの小屋で安定した暮らしをさせてもらえるようになってから、その緊張感はかえって増した。僕の正体がばれたら、モランにも、ウィリアムさんやアルバート様にも、迷惑がかかってしまうからだ。
森の出口が近づいてきて、僕は首に巻いていたストールを頭からかぶった。頭上から、モランの声が降ってくる。
「何ビクビクしてんだ。太陽もまだあんな高いところにあるんだから平気だろ」
「でも、僕のこと知ってる人がいるかも」
「んなわけあるか。人間はお前が思ってるよりずっとたくさんいるんだぞ」
「……そうなの?」
「そうだ。この街だけで何万人と住んでるんだ。皆いちいちお前の顔なんて覚えてねぇよ。もし言いがかりつけられたら『俺の甥におかしなこと言うんじゃねえ』って言ってやるよ」
「うん……」
僕はしぶしぶ、ストールを首に巻き直した。
モランはそう言ったけれど、街の入り口で僕らはすぐによく知った人間に出くわした。
「やぁ、モラン、フレッド」
ウィリアムさんだった。
彼は丸い帽子をちょっと持ち上げて、にこやかに挨拶してみせた。モランも「おう」と片手を上げて応じる。どうやら待ち合わせをしていたらしい。
慌てて周囲を見回す僕に、ウィリアムさんは言った。
「大丈夫、ルイスは今日は学校に行っているよ」
その言葉に、僕はほっと息をついた。
ルイスさんは僕の正体を知らない。あの夜、ずぶ濡れで凍えかけていた僕を助けてくれたきりだ。
今この姿であればもし顔を合わせてしまっても大丈夫だと思う反面、ばれてしまった時のことを思うと恐ろしかった。
「ウィリアムさんは、行かなくていいんですか?」
「学校? 僕とルイスは学年が違うからね。今日学校で行事があるのは、ルイスの学年だけなんだ。僕はお休み」
「ルイスさん、だけ……」
「ああ、もちろん他の生徒たちもいるから、ルイス一人で学校にいるわけではないよ。心配してくれてありがとう」
「……」
僕は黙って首を振った。
そうだ、人間はたくさんいるのだ。
僕はウィリアムさんの背後の大通りを見やった。
大人も子どもも年寄りも、すでに数えきれないくらいたくさんの人たちが行き来している。通りに軒を連ねる建物のひとつひとつがみんな誰かの家だとしたら、この街にはどれくらいの人が住んでいるのだろう。
学校には同じ年頃の子どもたちが集められるそうだから、そこにはルイスさんの友だちもきっとたくさんいるのだろう。
「フレッド、ここでの生活は慣れたかい?」
「え……ええと、はい」
「朝ごはんは何を食べた?」
「パンと目玉焼き……」
僕の答えに、ウィリアムさんはにっこりと笑った。「心配しなくてもちゃんと食わせてるよ」とモランが口を尖らせた。
それからも彼は、森番小屋での生活についてあれこれと質問をした。普段は何をして過ごしているか。一番気に入っている食べ物は何か。モランはお酒を飲みすぎていないか。困っていることはないか。
たびたび答えに詰まる僕を、ウィリアムさんもモランも急かさなかった。
歩きながら話していると、やがて何度か訪れたことがある店に到着した。石鹸とかオイルとか、食べ物以外ならたいていのものが揃っている店だ。
モランは品物と引き換えに、店主にコインを幾枚か渡した。僕もそのうち一人でできるようにならないといけないから、そのやり取りをじっと見ていた。
「フレッド、お会計は六シリングです」
ウィリアムさんが僕に耳打ちした。
彼が広げた手のひらの上に、形も大きさのばらばらのコインが数枚乗っている。僕は教えてもらったことを思い出しながら、コインを指さした。
「これと……これ?」
「正解。じゃあ十シリングは?」
「え。ええと……」
聞かれて、僕は少し焦った。
ウィリアムさんの手の上にあるコインをどう足してみても、十シリングにならなかったからだ。見落としはないかと僕が頭をひねっていると、ウィリアムさんはくすくす笑った。
「ごめんごめん、意地悪な問題だったね。ここにあるコインでは十シリングちょうどになる組み合わせは作れないから、多めに出してお釣りをもらうんだよ」
「お釣り……」
「そう。もらいすぎても少なすぎてもいけないから、しっかり計算しようね」
僕がうなずくと「終わったか?」とモランの声がした。いつの間にか支払いも済んだようで、店主までもがカウンターの向こうでにこにこしながらこちらを見ている。恥ずかしくなってウィリアムさんの後ろに隠れた。
「モランさんに似てなくってかわいいねえ。ぼく、いくつだい?」
「フレッドは今年で九つになります」
僕のかわりにウィリアムさんがはきはきと答えた。
「じゃあ、ルイス坊っちゃんの四つ下ですかい」
店主はあごひげを撫でながら目を細めた。
モリアーティ家の三兄弟がこの街の人たちからとても慕われているのは知っていたけれど、ルイスさんの名前が出てきて僕は少しどきりとした。
「昔、二人でうちに買い物にきてくれたときのことを思い出しましたよ。そうやってちっちゃい手のひらを突き合わせて、ルイス坊っちゃんにお釣りの計算を教えてあげていたでしょう」
「ふふ、そうでしたね」
それはいくつくらいの頃の話なのか、二人で何を買ったのか、聞きたかったけど、言い出せなかった。
「ぼく、そこのブリキの馬、かっこいいだろう。そいつは一シリング七ペンスだよ。ぴったり出せるかな?」
「余計なもの買わせようとすんな!」
店主の軽口に、モランがカウンターを拳で叩いた。彼はさっさと荷物を受け取ると「ほら、お前も持て」と、僕に小さい方の袋を押し付けた。
*
それからも三人で街をぐるぐると歩いた。
街には色んな種類の店がある。
一軒目の店のように雑多な品物が棚という棚に詰め込まれたところもあれば、魚しか売ってない店、野菜しか売ってない店もあった。道端に敷物をしいて品物を並べただけの店もある。ウィリアムさんは天井近くまで本がぎっしり詰まった店に入っていったきりしばらく出てこなかったし、彼を待っている間モランの足元には吸い殻の山ができていた。
くたびれてきた頃、屋台でサンドイッチを買って食べた。
天気が良かったので広場のベンチに座ったのだが、大きな口であっという間に食べ終えてしまったモランは「煙草吸ってくる」と向こうに行ってしまった。
次にウィリアムさんが食べ終わったのだけれど、僕の方がまだ時間がかかりそうだと見るや「慌てなくていいからね」と言って、買ったばかりの本を開いて読み始めた。しばらくして僕がようやく食べ終えても、全く気がついていない。
退屈になって椅子の上で足をぶらぶらさせていると、鉢に植えられた花が目についた。読書に没頭しているウィリアムさんの邪魔をしないように、僕はそっと椅子から飛び降りた。
その鉢植えは、広場の隅の店先にそっと置かれていた。新聞や煙草や飴を売っている店のようだから、誰も花には見向きしない。
しゃがみこんで顔を寄せると、甘いような重たいような、不思議な匂いがした。
この匂いを知っている。
ルイスさんに出会ったあの夜に咲いていた花だ。
ピンク色の薄い花びらが何枚も重なって、花弁はころんとまん丸い。茎には小さな棘があった。明るい場所で見るのはほとんど初めてだったけれど、とても可愛い花だった。
「綺麗でしょう? 最近の生きがいなのよ」
店先の椅子に腰掛けていたおばあさんが、にこにこしながら僕に話しかけてきた。
「あなたが育てたんですか?」
「そうよ」
「すごいですね」
「あら、ありがとう。昔っから大好きなの」
おばあさんは顔をしわくちゃにして笑った。
「若い頃は花壇や温室を作ってたんだけど、この歳になると庭に出るのも大変でね……。坊やにはまだ分からないでしょうけど。鉢植えなら、こうしてすぐそばに置いておけるでしょう?」
僕はしばらくの間、おばあさんのガーデニング談議兼思い出話を聞かせてもらった。背中が曲がって髪も真っ白なのに、楽しそうに話す姿は小さな女の子みたいだった。
話しているうちに、次のお客さんがやってきた。
おばあさんは「はいはい」と明るい声で答えながら、杖をついて大儀そうに立ち上がった。
「また見に来てちょうだいね」
彼女が覚束ない足取りでお客さんの方へ向かうのを見送っていると、大きな手でわしっと頭を掴まれた。
「わ」
「わ、じゃねぇよ。一人でふらふらするな」
「ごめんね、フレッド。ほったらかしにしちゃって」
いつの間にかモランとウィリアムさんが荷物を抱えて後ろに立っていた。
買い物をひと通り済ませて森番小屋へ帰ろうとする僕らを、ウィリアムさんは「あ、待って」と呼び止めた。彼は抱え持った本の中から、ひときわ薄い一冊を抜き取った。
「はい、これ。僕からフレッドに」
おそらく、子供向けの本だ。
あまり詳しくはなかったけれど、ウィリアムさんがよく読んでいるような、分厚くて文字の小さな本とは明らかに違う。
表紙には人間の男の子の絵が描かれていた。木の下に腰掛けて、ひと休みしているところらしい。
「そろそろ読み書きもできるようにならなきゃね。僕も時間を見つけて教えてあげるけど、ひとまずはモランに教わるといい」
「……よみかき」
僕は彼の言葉をオウム返しした。
「そう。できるに越したことはないと思うから」
「…………」
差し出された本を見つめながら、僕は小さく首を傾げた。
読み書きとは――文字とは、人間たちが情報を伝え合うための道具ではないのだろうか。少なくとも僕はそう理解している。モランの小屋に住まわせてもらってから、彼が新聞を読んで外の世界の情報を仕入れたり、遠くに住んでいる人と手紙でやり取りしているのを見てきた。
僕はモランに一人で生きていく術を教わって、もう誰にも迷惑をかけないように静かに暮らすのだ。人間たちの間で何が起こっているのかを知る必要はないし、手紙を送りあう相手もいない。
文字を覚えたところで、何の意味もない。
「フレッド、聞いて」
ウィリアムさんの赤い瞳が、僕の目をまっすぐに覗き込んだ。僕は思わず背筋を伸ばす。
「読むことも書くことも、孤独と戦うためには欠かせない武器だ」
「……こどくと、戦う」
「そう。少なくとも僕はそう考えている。この先どんな人生を選ぶかは君の自由だけど、一人で生きていくことを選ぶなら、読み書きはできたほうがいい。きっと君の助けになってくれるから」
「……?」
逆ではないだろうか、と思った。
一人で生きていくのだから、文字なんか読めなくても困らない。
それなのに。
「これ、小さかった頃ルイスが好きだった本なんだよ」
「…………」
ウィリアムさんがそんなことを言うものだから、僕はついその本を受け取ってしまった。
*
ウィリアムさんと別れて、僕とモランは家路についた。
日暮れまではまだ時間がある。
小道の脇に、ペンキで塗られた小さな看板が立っていた。『街まで二百ヤード』と書かれている。
ヤードは距離を表す単位で、板の尖っている方が街の方角を示しているのだ。モランに教えてもらった。
もっと奥の方へ行けば、『この先立ち入り禁止』とか『蛇に注意』とか書かれた看板もある。
確かに文字が読めないと、道に迷ったり蛇に襲われたりして困ることもあるかもしれない。一人で生きていくのなら、誰かに尋ねるわけにもいかない。
ウィリアムさんが言っていたのは、そういうことなのだろうか。
小屋に帰って、買ったものをあるべき場所に片付けてから、僕はその本を開いた。
ほとんどのページに表紙と同じ男の子が描かれていたから、これはきっとこの男の子に関する話なのだろう。並んだ文字はほとんど読めなかったので、とりあえず絵だけを見てみることにした。
モランがこちらを気にしているようだったけど、僕が自分から声をかけないので彼も放っておいてくれた。
はじめのうちは「絵が上手だな」と思って眺めていたはずなのに、いつしかそんなことは気にならなくなっていた。紙の上に描かれた絵にすぎないはずの男の子や動物たちが、実際に僕の目の前で生きて動いているような気がしてきた。
狐にいじめられて泣いていたうさぎが、次のページではなぜか楽しそうにしていて少しほっとした。この小屋ほどもありそうな大きなトカゲ(に似た生き物)に男の子たちが食べられてしまうのではないかとはらはらした。
こんな生き物がほんとうにいるのだろうか。この森にも住んでいないか、後でモランに聞かないといけない。男の子の足元に咲いている、この花の名前はなんだろう……。
「……あっ」
僕は小さく声を上げた。
本に夢中になるうちに、いつの間にか窓の外は暗くなっていたようだ。ページをめくっていた手にみるみる間に短い毛皮に覆われていく。そのうち椅子にも座っていられなくなって、床の上に這いつくばった。
「お、もうそんな時間か」
猟銃の手入れをしていたモランが窓の外を見た。
人を時計代わりにしないでほしい。僕は不満の声を上げたようとしたが、もう「ウゥ」という唸り声にしかならなかった。
獣の体には合わなくなった人間用の服をその場に脱ぎ捨てて、落ちた拍子にページが閉じてしまった絵本を眺めた。
(……まだ、続きがあったのに)
名残惜しいけれど、今の僕の手ではページをめくれない。爪で紙を傷つけてしまうのは嫌だ。続きは明日、日が昇ってからにしよう。
モランが手を伸ばして、床に落ちた本を拾い上げた。その表紙を一瞥した彼は「お」と声を上げた。
「懐かしいな。まだ読まれてるのか、これ」
モランは椅子に腰掛けて、一ページずつゆっくりと絵本をめくり始めた。足元で見上げている僕に気がつくと、彼は僕の頭をくしゃりと撫でた。
「俺も子供の頃読んでたよ。あぁ、そういえばこんなだったな。ルイスの好きそうな話だ。確か……」
話の続きを聞きたくなくて、僕は部屋の外へ飛び出した。「おい、どこ行くんだ」とモランの声が追いかけてきたけれど、構わず廊下を走り抜けて僕専用の小さなドアから外へ出た。
木々に囲まれた森番小屋の周囲は、すでに真っ暗だった。
モランはただ話をしようとしてくれただけなのに、嫌な態度を取ってしまった。謝りたかったけれど、飛び出した手前すぐに戻るのも気が引けた。少しの間だけ散歩でもすることにして、僕はぶらぶらと森の中を歩いた。
ルイスさんが好きだったというあの本のことを、モランは知っているらしい。僕は知らない。
歩きながら考えた。
ルイスさんには学校に大勢の友だちがいて、ウィリアムさんやアルバート様と数え切れないほどの思い出がある。誰が悪いわけでもないのに、そのことがむしょうに悲しかった。
僕は彼の友だちでも何でもないし、彼と共有できるものを何も持っていない。
あるとすれば、あの夜だけだ。
すっかり日の落ちた森の中を歩き続けるうちに、小さな廃屋に行き当たった。
モランの前の森番が使っていた小屋らしい。
森のかなり深いところにあって街への行き来が不便なので、もう何年も前に捨てられた建物だ。
一人で身の周りのことができるようになったら、僕はここに移り住むと決めていた。モランは「ずっとここにいればいい」と遠回しに言ってくれたけれど、それだけは譲れなかった。
僕は自分の正体を人に知られるのが怖い。
そして他の誰よりも、ルイスさんにだけは知られたくなかった。
凍えながら一人で死ぬところだった僕を助けてくれた。膝の上に乗せて、頭を撫でてくれて嬉しかった。僕のせいで風邪をひいて苦しい思いをさせてしまった。
お礼を言って、謝りに行かなければならないと何度も何度も考えたけれど、彼に何と説明すればいい。人でも狼でもない怪物であることを告白して、それで何になるだろう。
僕を普通の子犬だと思い込んでいた彼は、僕のことを飼いたがっていた。友だちになれたかもしれなかった。彼に正体を知られて拒絶されない限り、あの言葉はいつまでも嘘にはならないと思いたかった。
廃屋の周りをぐるぐる歩いているうちに、大きめのカップのようなものが地面に転がっているのに気がついた。
ぼろぼろになってひび割れた植木鉢だった。
鼻先でつついて転がすと、下から小さな虫が這い出した。長い間放置されるうちに植えられていた植物は朽ちてしまったらしい。底の方に干からびた土だけが残っている。
「…………」
汚れた植木鉢を眺めながら、昼間に会ったおばあさんのことを思い出した。
花というものは自然の恵みか、僕には想像もつかないような魔法の産物だと思いこんでいた。けれど、あの小さなおばあさんはそれをやってのけたと言う。
それなら、僕にだってできないだろうか。
小屋の周りには狭くとも開けた土地がある。ここを均して、花を植えるのだ。あの可愛い花がたくさん咲けば、この寂しい空き地もきっと素敵な庭になるだろう。花の香りを胸いっぱいに吸い込めば、あの夜の嬉しかった出来事をいつでも思い出せる。
想像してみただけで、自然としっぽがゆらゆらと揺れた。
遠くから近づいてくる足音があった。
よく知っている音だったから、隠れたりしない。
木立の隙間に揺れていた明かりがゆっくり近づいてきて、やがてモランが顔を覗かせた。彼は空き地に座り込んだ僕を見て、呆れたようにため息をつく。
「何やってんだ、いっちょ前に家出か?」
モランが僕の首の後ろを掴んで持ち上げた。
足が地面から浮いて、思わずばたばたともがく。モランはそんな僕を宥めながら軽々と片腕で抱えた。
「……お前、やっぱりここに移るのか」
廃屋を見上げて、彼が言った。
「無理にコソコソ生きることないと思うぞ。今日だってお前、街のばあさんと普通に話せてたじゃないか。ヤバくなったら俺たちだってフォローする。ルイスだって……」
モランは口ごもって、ぼりぼりと頭をかいた。
「ま、一人でメシの支度ができるようになってからだな」
そう言って、くるりと踵を返した。
モランの顔を見上げると、彼の頭上に夜空が見えた。ちらちらと星が瞬いている。
前にモランは、星は道標だと言った。
星さえ見えれば海の上でも砂漠の真ん中でも方角を見失うことはないと。
ウィリアムさんは、あの星は人が一生かけてもたどり着けないほど遠く暗い空の彼方に浮かんでいるのだと言った。アルバート様は、あの光は天に昇った人たちの魂だとも言っていた。
皆違うことを言うから最初は混乱したけど、きっとどの考えも正しいのだろう。今はどの考えも好きだった。
あの人なら、何と言うのだろう。
確かめることはできない。けれどそのことについて考えて、想像していたいと思った。
あの本を好きだと思った理由を尋ねることはできなくても、自分で読むことができればその理由を考えることができる。彼の好きだったものを、僕も好きになれたら嬉しい。
今日だけでやりたいことが二つもできた。
モランに話せば、むなしいだけだと顔をしかめるだろうか。それでも、彼が頭ごなしに「駄目だ」と言うことはないともう知っている。
昼間の外出もあって歩き疲れていた僕は、大人しく小脇に抱えられたまま、うとうとと舟を漕いだ。
初出:Pixiv 2023.01.13
人狼パロ本編の前日譚。
僕は部屋の隅の木箱の中で目を覚ました。
窓の外から明るい日差しが差し込んで、その中を小さな埃がきらきらと光りながら舞っている。美しく晴れた朝だった。
毛布をかき分けてのろのろと木箱から這い出すと、ちょうどモランもベッドの上で伸びをしていた。
「おはよう」
「おう」
朝の挨拶をすると、モランは大あくびをしながら答えた。僕もつられて、ふぁ、とあくびをした。
「……お前、やっぱりベッドあった方がいいんじゃないか?」
「? 別に平気だけど……」
「うーん、まぁ、夜は……犬っころの姿のうちは別に何とも思わないんだけどなぁ。こっちの姿だとガキを床で寝かせてる罪悪感が……」
ぶつぶつと何か呟いているモランを尻目に、用意しておいた服を着た。
僕の寝床はモランが用意してくれた木箱だ。狼の姿でも出入りがしやすいくらいの高さに切ってくれて、やわらかい毛布が敷いてある。この中で丸くなると木のいい匂いがしてとてもよく眠れた。
人間用のベッドは爪でマットレスを傷つけてしまいそうだし、地面から離れているのが落ち着かない。僕はこの寝床の方がよっぽど好きだった。
寝室を出て、流し台で顔を洗った。
朝、炉に火を入れるのは僕の仕事だ。
背中にモランの視線を感じながら、マッチを擦った。ぱっと燃え上がる炎に怯まないように肩に力を込めながら、薪の上の新聞紙に火を移した。火は瞬く間に燃え広がって、やがて薪がぱちぱちと音を立て始める。僕は慌てて手を引っ込めた。
炎に包まれた薪が、夕焼け空の太陽のように真っ赤になった。木片ではない、違う何かになったみたいだ。
鼻先と頬にじんわりと熱を感じる。
「前髪焦がすぞ」
いつの間にかすぐ後ろに来ていたモランが、僕のシャツの襟首を掴んで下がらせる。
彼は薪の上に五徳を被せると、その上にやかんを乗せて「カップと皿、出してこい」とぶっきらぼうに僕に指示した。
沸かしたお湯でお茶を淹れ、次にフライパンで卵とパンを焼いた。それらに森でとってきた木の実や果物を添えて、僕らの朝ごはんになる。
パンをかじるモランを見るたび、大きな口だと感心した。
誰かと同じテーブルについて食事をするのは不思議な気持ちだ。これまでは昼も夜もずっと一人で、手に入れた僅かな食べ物を口に詰め込むだけだったから。
あの嵐の夜が明けて、僕は僕を助けてくれた男の子(ルイスさん、というらしい)のお兄さんたちに拾われた。彼らは人でも狼でもない中途半端な僕の身の上話を親身になって聞いてくれて、そして、僕をモランに預けた。
モランは最初こそ、朝と夜とが入れ替わるたびに姿を変える僕に目を白黒させていたが、半年も経てばもうすっかり慣れてしまったようだった。
前に、僕のことが怖くないのかと聞いたとき、モランは大笑いした挙げ句「お前なんかより虎のほうがよっぽど怖い」と答えた。
『トラって何』
『何って……うーん、猛獣だよ。オレンジと黒の縞模様で、噛みつかれたら牛だってひとたまりもない。腕はお前の胴体ぐらい太いな』
僕は自分のお腹のあたりを見下ろした。
トラは知らないけど牛は見たことがある。大きくて、爪も牙もない大人しい生き物だ。寒い夜は彼らの寝床に入れてもらうことも度々あったけど、前にうっかり踏み潰されそうになって以来あまり近寄らないようにしている。あの山のような巨体を倒してしまうのならそれは強くて恐ろしい生き物なのだろう。
『この森にはトラ、いる?』
『いねぇよ。ずっと南の、暑いところに住んでるんだ』
『モランは見たことある?』
『あるさ。こいつで仕留めて絨毯にしてやった』
モランは壁にかけてあった猟銃を顎で示した。
モランは牛よりも強いトラをやっつけたことがあると言う。僕は多分、牛にだって敵わない。だからモランが僕を怖がる理由もない、ということなのだろうか。何かがズレている気がしたけれど、そのときはそれでつい納得してしまった。
「おら、食い終わったなら皿洗え」
モランに肩を叩かれた。
ぼぅっと考え事をしていた僕は、カップに残った冷めたお茶を慌てて飲み干して、テーブルの上の食器をかき集めた。
踏み台に乗り、流しに溜めた水で汚れた食器をじゃぶじゃぶと洗う。多少汚れが残っていてもモランは気にしないけれど、僕は何となく嫌だったので、皿にくっついた目玉焼きの黄身まで綺麗に洗い流した。
「今日は何するの」
濡れた手をタオルで拭いながら、ブーツの手入れをしているモランに尋ねた。
モランは森番だ。
この森の持ち主であるアルバート様に代わって、木々の手入れをしたり道の維持管理をしたりして生活している。時には獣たちが街の近くへ出ていかないように脅かして追い払ったり、道に迷った人間を助けたりすることもあった。
置いてもらう礼として、僕もその仕事を手伝っている。昼間はともかく、狼の姿になった夜の僕は人間よりもできることが多いので多少は役に立っていた。
けれどモランの答えは、それらの仕事とはなんの関係もないものだった。
「今日は買い出しだ」
僕は内心で落胆した。
卵がもう最後の二つだったしお茶の葉も缶の底が見えるほど少なくなっていたから、そんな気はしていた。
「……いってらっしゃい」
「バカ、お前も来るんだよ。荷物持て」
ぴかぴかに磨いたブーツに足を通しながら、モランが呆れたように笑った。
*
人間の街に出るのはいつも緊張する。
モランの小屋で安定した暮らしをさせてもらえるようになってから、その緊張感はかえって増した。僕の正体がばれたら、モランにも、ウィリアムさんやアルバート様にも、迷惑がかかってしまうからだ。
森の出口が近づいてきて、僕は首に巻いていたストールを頭からかぶった。頭上から、モランの声が降ってくる。
「何ビクビクしてんだ。太陽もまだあんな高いところにあるんだから平気だろ」
「でも、僕のこと知ってる人がいるかも」
「んなわけあるか。人間はお前が思ってるよりずっとたくさんいるんだぞ」
「……そうなの?」
「そうだ。この街だけで何万人と住んでるんだ。皆いちいちお前の顔なんて覚えてねぇよ。もし言いがかりつけられたら『俺の甥におかしなこと言うんじゃねえ』って言ってやるよ」
「うん……」
僕はしぶしぶ、ストールを首に巻き直した。
モランはそう言ったけれど、街の入り口で僕らはすぐによく知った人間に出くわした。
「やぁ、モラン、フレッド」
ウィリアムさんだった。
彼は丸い帽子をちょっと持ち上げて、にこやかに挨拶してみせた。モランも「おう」と片手を上げて応じる。どうやら待ち合わせをしていたらしい。
慌てて周囲を見回す僕に、ウィリアムさんは言った。
「大丈夫、ルイスは今日は学校に行っているよ」
その言葉に、僕はほっと息をついた。
ルイスさんは僕の正体を知らない。あの夜、ずぶ濡れで凍えかけていた僕を助けてくれたきりだ。
今この姿であればもし顔を合わせてしまっても大丈夫だと思う反面、ばれてしまった時のことを思うと恐ろしかった。
「ウィリアムさんは、行かなくていいんですか?」
「学校? 僕とルイスは学年が違うからね。今日学校で行事があるのは、ルイスの学年だけなんだ。僕はお休み」
「ルイスさん、だけ……」
「ああ、もちろん他の生徒たちもいるから、ルイス一人で学校にいるわけではないよ。心配してくれてありがとう」
「……」
僕は黙って首を振った。
そうだ、人間はたくさんいるのだ。
僕はウィリアムさんの背後の大通りを見やった。
大人も子どもも年寄りも、すでに数えきれないくらいたくさんの人たちが行き来している。通りに軒を連ねる建物のひとつひとつがみんな誰かの家だとしたら、この街にはどれくらいの人が住んでいるのだろう。
学校には同じ年頃の子どもたちが集められるそうだから、そこにはルイスさんの友だちもきっとたくさんいるのだろう。
「フレッド、ここでの生活は慣れたかい?」
「え……ええと、はい」
「朝ごはんは何を食べた?」
「パンと目玉焼き……」
僕の答えに、ウィリアムさんはにっこりと笑った。「心配しなくてもちゃんと食わせてるよ」とモランが口を尖らせた。
それからも彼は、森番小屋での生活についてあれこれと質問をした。普段は何をして過ごしているか。一番気に入っている食べ物は何か。モランはお酒を飲みすぎていないか。困っていることはないか。
たびたび答えに詰まる僕を、ウィリアムさんもモランも急かさなかった。
歩きながら話していると、やがて何度か訪れたことがある店に到着した。石鹸とかオイルとか、食べ物以外ならたいていのものが揃っている店だ。
モランは品物と引き換えに、店主にコインを幾枚か渡した。僕もそのうち一人でできるようにならないといけないから、そのやり取りをじっと見ていた。
「フレッド、お会計は六シリングです」
ウィリアムさんが僕に耳打ちした。
彼が広げた手のひらの上に、形も大きさのばらばらのコインが数枚乗っている。僕は教えてもらったことを思い出しながら、コインを指さした。
「これと……これ?」
「正解。じゃあ十シリングは?」
「え。ええと……」
聞かれて、僕は少し焦った。
ウィリアムさんの手の上にあるコインをどう足してみても、十シリングにならなかったからだ。見落としはないかと僕が頭をひねっていると、ウィリアムさんはくすくす笑った。
「ごめんごめん、意地悪な問題だったね。ここにあるコインでは十シリングちょうどになる組み合わせは作れないから、多めに出してお釣りをもらうんだよ」
「お釣り……」
「そう。もらいすぎても少なすぎてもいけないから、しっかり計算しようね」
僕がうなずくと「終わったか?」とモランの声がした。いつの間にか支払いも済んだようで、店主までもがカウンターの向こうでにこにこしながらこちらを見ている。恥ずかしくなってウィリアムさんの後ろに隠れた。
「モランさんに似てなくってかわいいねえ。ぼく、いくつだい?」
「フレッドは今年で九つになります」
僕のかわりにウィリアムさんがはきはきと答えた。
「じゃあ、ルイス坊っちゃんの四つ下ですかい」
店主はあごひげを撫でながら目を細めた。
モリアーティ家の三兄弟がこの街の人たちからとても慕われているのは知っていたけれど、ルイスさんの名前が出てきて僕は少しどきりとした。
「昔、二人でうちに買い物にきてくれたときのことを思い出しましたよ。そうやってちっちゃい手のひらを突き合わせて、ルイス坊っちゃんにお釣りの計算を教えてあげていたでしょう」
「ふふ、そうでしたね」
それはいくつくらいの頃の話なのか、二人で何を買ったのか、聞きたかったけど、言い出せなかった。
「ぼく、そこのブリキの馬、かっこいいだろう。そいつは一シリング七ペンスだよ。ぴったり出せるかな?」
「余計なもの買わせようとすんな!」
店主の軽口に、モランがカウンターを拳で叩いた。彼はさっさと荷物を受け取ると「ほら、お前も持て」と、僕に小さい方の袋を押し付けた。
*
それからも三人で街をぐるぐると歩いた。
街には色んな種類の店がある。
一軒目の店のように雑多な品物が棚という棚に詰め込まれたところもあれば、魚しか売ってない店、野菜しか売ってない店もあった。道端に敷物をしいて品物を並べただけの店もある。ウィリアムさんは天井近くまで本がぎっしり詰まった店に入っていったきりしばらく出てこなかったし、彼を待っている間モランの足元には吸い殻の山ができていた。
くたびれてきた頃、屋台でサンドイッチを買って食べた。
天気が良かったので広場のベンチに座ったのだが、大きな口であっという間に食べ終えてしまったモランは「煙草吸ってくる」と向こうに行ってしまった。
次にウィリアムさんが食べ終わったのだけれど、僕の方がまだ時間がかかりそうだと見るや「慌てなくていいからね」と言って、買ったばかりの本を開いて読み始めた。しばらくして僕がようやく食べ終えても、全く気がついていない。
退屈になって椅子の上で足をぶらぶらさせていると、鉢に植えられた花が目についた。読書に没頭しているウィリアムさんの邪魔をしないように、僕はそっと椅子から飛び降りた。
その鉢植えは、広場の隅の店先にそっと置かれていた。新聞や煙草や飴を売っている店のようだから、誰も花には見向きしない。
しゃがみこんで顔を寄せると、甘いような重たいような、不思議な匂いがした。
この匂いを知っている。
ルイスさんに出会ったあの夜に咲いていた花だ。
ピンク色の薄い花びらが何枚も重なって、花弁はころんとまん丸い。茎には小さな棘があった。明るい場所で見るのはほとんど初めてだったけれど、とても可愛い花だった。
「綺麗でしょう? 最近の生きがいなのよ」
店先の椅子に腰掛けていたおばあさんが、にこにこしながら僕に話しかけてきた。
「あなたが育てたんですか?」
「そうよ」
「すごいですね」
「あら、ありがとう。昔っから大好きなの」
おばあさんは顔をしわくちゃにして笑った。
「若い頃は花壇や温室を作ってたんだけど、この歳になると庭に出るのも大変でね……。坊やにはまだ分からないでしょうけど。鉢植えなら、こうしてすぐそばに置いておけるでしょう?」
僕はしばらくの間、おばあさんのガーデニング談議兼思い出話を聞かせてもらった。背中が曲がって髪も真っ白なのに、楽しそうに話す姿は小さな女の子みたいだった。
話しているうちに、次のお客さんがやってきた。
おばあさんは「はいはい」と明るい声で答えながら、杖をついて大儀そうに立ち上がった。
「また見に来てちょうだいね」
彼女が覚束ない足取りでお客さんの方へ向かうのを見送っていると、大きな手でわしっと頭を掴まれた。
「わ」
「わ、じゃねぇよ。一人でふらふらするな」
「ごめんね、フレッド。ほったらかしにしちゃって」
いつの間にかモランとウィリアムさんが荷物を抱えて後ろに立っていた。
買い物をひと通り済ませて森番小屋へ帰ろうとする僕らを、ウィリアムさんは「あ、待って」と呼び止めた。彼は抱え持った本の中から、ひときわ薄い一冊を抜き取った。
「はい、これ。僕からフレッドに」
おそらく、子供向けの本だ。
あまり詳しくはなかったけれど、ウィリアムさんがよく読んでいるような、分厚くて文字の小さな本とは明らかに違う。
表紙には人間の男の子の絵が描かれていた。木の下に腰掛けて、ひと休みしているところらしい。
「そろそろ読み書きもできるようにならなきゃね。僕も時間を見つけて教えてあげるけど、ひとまずはモランに教わるといい」
「……よみかき」
僕は彼の言葉をオウム返しした。
「そう。できるに越したことはないと思うから」
「…………」
差し出された本を見つめながら、僕は小さく首を傾げた。
読み書きとは――文字とは、人間たちが情報を伝え合うための道具ではないのだろうか。少なくとも僕はそう理解している。モランの小屋に住まわせてもらってから、彼が新聞を読んで外の世界の情報を仕入れたり、遠くに住んでいる人と手紙でやり取りしているのを見てきた。
僕はモランに一人で生きていく術を教わって、もう誰にも迷惑をかけないように静かに暮らすのだ。人間たちの間で何が起こっているのかを知る必要はないし、手紙を送りあう相手もいない。
文字を覚えたところで、何の意味もない。
「フレッド、聞いて」
ウィリアムさんの赤い瞳が、僕の目をまっすぐに覗き込んだ。僕は思わず背筋を伸ばす。
「読むことも書くことも、孤独と戦うためには欠かせない武器だ」
「……こどくと、戦う」
「そう。少なくとも僕はそう考えている。この先どんな人生を選ぶかは君の自由だけど、一人で生きていくことを選ぶなら、読み書きはできたほうがいい。きっと君の助けになってくれるから」
「……?」
逆ではないだろうか、と思った。
一人で生きていくのだから、文字なんか読めなくても困らない。
それなのに。
「これ、小さかった頃ルイスが好きだった本なんだよ」
「…………」
ウィリアムさんがそんなことを言うものだから、僕はついその本を受け取ってしまった。
*
ウィリアムさんと別れて、僕とモランは家路についた。
日暮れまではまだ時間がある。
小道の脇に、ペンキで塗られた小さな看板が立っていた。『街まで二百ヤード』と書かれている。
ヤードは距離を表す単位で、板の尖っている方が街の方角を示しているのだ。モランに教えてもらった。
もっと奥の方へ行けば、『この先立ち入り禁止』とか『蛇に注意』とか書かれた看板もある。
確かに文字が読めないと、道に迷ったり蛇に襲われたりして困ることもあるかもしれない。一人で生きていくのなら、誰かに尋ねるわけにもいかない。
ウィリアムさんが言っていたのは、そういうことなのだろうか。
小屋に帰って、買ったものをあるべき場所に片付けてから、僕はその本を開いた。
ほとんどのページに表紙と同じ男の子が描かれていたから、これはきっとこの男の子に関する話なのだろう。並んだ文字はほとんど読めなかったので、とりあえず絵だけを見てみることにした。
モランがこちらを気にしているようだったけど、僕が自分から声をかけないので彼も放っておいてくれた。
はじめのうちは「絵が上手だな」と思って眺めていたはずなのに、いつしかそんなことは気にならなくなっていた。紙の上に描かれた絵にすぎないはずの男の子や動物たちが、実際に僕の目の前で生きて動いているような気がしてきた。
狐にいじめられて泣いていたうさぎが、次のページではなぜか楽しそうにしていて少しほっとした。この小屋ほどもありそうな大きなトカゲ(に似た生き物)に男の子たちが食べられてしまうのではないかとはらはらした。
こんな生き物がほんとうにいるのだろうか。この森にも住んでいないか、後でモランに聞かないといけない。男の子の足元に咲いている、この花の名前はなんだろう……。
「……あっ」
僕は小さく声を上げた。
本に夢中になるうちに、いつの間にか窓の外は暗くなっていたようだ。ページをめくっていた手にみるみる間に短い毛皮に覆われていく。そのうち椅子にも座っていられなくなって、床の上に這いつくばった。
「お、もうそんな時間か」
猟銃の手入れをしていたモランが窓の外を見た。
人を時計代わりにしないでほしい。僕は不満の声を上げたようとしたが、もう「ウゥ」という唸り声にしかならなかった。
獣の体には合わなくなった人間用の服をその場に脱ぎ捨てて、落ちた拍子にページが閉じてしまった絵本を眺めた。
(……まだ、続きがあったのに)
名残惜しいけれど、今の僕の手ではページをめくれない。爪で紙を傷つけてしまうのは嫌だ。続きは明日、日が昇ってからにしよう。
モランが手を伸ばして、床に落ちた本を拾い上げた。その表紙を一瞥した彼は「お」と声を上げた。
「懐かしいな。まだ読まれてるのか、これ」
モランは椅子に腰掛けて、一ページずつゆっくりと絵本をめくり始めた。足元で見上げている僕に気がつくと、彼は僕の頭をくしゃりと撫でた。
「俺も子供の頃読んでたよ。あぁ、そういえばこんなだったな。ルイスの好きそうな話だ。確か……」
話の続きを聞きたくなくて、僕は部屋の外へ飛び出した。「おい、どこ行くんだ」とモランの声が追いかけてきたけれど、構わず廊下を走り抜けて僕専用の小さなドアから外へ出た。
木々に囲まれた森番小屋の周囲は、すでに真っ暗だった。
モランはただ話をしようとしてくれただけなのに、嫌な態度を取ってしまった。謝りたかったけれど、飛び出した手前すぐに戻るのも気が引けた。少しの間だけ散歩でもすることにして、僕はぶらぶらと森の中を歩いた。
ルイスさんが好きだったというあの本のことを、モランは知っているらしい。僕は知らない。
歩きながら考えた。
ルイスさんには学校に大勢の友だちがいて、ウィリアムさんやアルバート様と数え切れないほどの思い出がある。誰が悪いわけでもないのに、そのことがむしょうに悲しかった。
僕は彼の友だちでも何でもないし、彼と共有できるものを何も持っていない。
あるとすれば、あの夜だけだ。
すっかり日の落ちた森の中を歩き続けるうちに、小さな廃屋に行き当たった。
モランの前の森番が使っていた小屋らしい。
森のかなり深いところにあって街への行き来が不便なので、もう何年も前に捨てられた建物だ。
一人で身の周りのことができるようになったら、僕はここに移り住むと決めていた。モランは「ずっとここにいればいい」と遠回しに言ってくれたけれど、それだけは譲れなかった。
僕は自分の正体を人に知られるのが怖い。
そして他の誰よりも、ルイスさんにだけは知られたくなかった。
凍えながら一人で死ぬところだった僕を助けてくれた。膝の上に乗せて、頭を撫でてくれて嬉しかった。僕のせいで風邪をひいて苦しい思いをさせてしまった。
お礼を言って、謝りに行かなければならないと何度も何度も考えたけれど、彼に何と説明すればいい。人でも狼でもない怪物であることを告白して、それで何になるだろう。
僕を普通の子犬だと思い込んでいた彼は、僕のことを飼いたがっていた。友だちになれたかもしれなかった。彼に正体を知られて拒絶されない限り、あの言葉はいつまでも嘘にはならないと思いたかった。
廃屋の周りをぐるぐる歩いているうちに、大きめのカップのようなものが地面に転がっているのに気がついた。
ぼろぼろになってひび割れた植木鉢だった。
鼻先でつついて転がすと、下から小さな虫が這い出した。長い間放置されるうちに植えられていた植物は朽ちてしまったらしい。底の方に干からびた土だけが残っている。
「…………」
汚れた植木鉢を眺めながら、昼間に会ったおばあさんのことを思い出した。
花というものは自然の恵みか、僕には想像もつかないような魔法の産物だと思いこんでいた。けれど、あの小さなおばあさんはそれをやってのけたと言う。
それなら、僕にだってできないだろうか。
小屋の周りには狭くとも開けた土地がある。ここを均して、花を植えるのだ。あの可愛い花がたくさん咲けば、この寂しい空き地もきっと素敵な庭になるだろう。花の香りを胸いっぱいに吸い込めば、あの夜の嬉しかった出来事をいつでも思い出せる。
想像してみただけで、自然としっぽがゆらゆらと揺れた。
遠くから近づいてくる足音があった。
よく知っている音だったから、隠れたりしない。
木立の隙間に揺れていた明かりがゆっくり近づいてきて、やがてモランが顔を覗かせた。彼は空き地に座り込んだ僕を見て、呆れたようにため息をつく。
「何やってんだ、いっちょ前に家出か?」
モランが僕の首の後ろを掴んで持ち上げた。
足が地面から浮いて、思わずばたばたともがく。モランはそんな僕を宥めながら軽々と片腕で抱えた。
「……お前、やっぱりここに移るのか」
廃屋を見上げて、彼が言った。
「無理にコソコソ生きることないと思うぞ。今日だってお前、街のばあさんと普通に話せてたじゃないか。ヤバくなったら俺たちだってフォローする。ルイスだって……」
モランは口ごもって、ぼりぼりと頭をかいた。
「ま、一人でメシの支度ができるようになってからだな」
そう言って、くるりと踵を返した。
モランの顔を見上げると、彼の頭上に夜空が見えた。ちらちらと星が瞬いている。
前にモランは、星は道標だと言った。
星さえ見えれば海の上でも砂漠の真ん中でも方角を見失うことはないと。
ウィリアムさんは、あの星は人が一生かけてもたどり着けないほど遠く暗い空の彼方に浮かんでいるのだと言った。アルバート様は、あの光は天に昇った人たちの魂だとも言っていた。
皆違うことを言うから最初は混乱したけど、きっとどの考えも正しいのだろう。今はどの考えも好きだった。
あの人なら、何と言うのだろう。
確かめることはできない。けれどそのことについて考えて、想像していたいと思った。
あの本を好きだと思った理由を尋ねることはできなくても、自分で読むことができればその理由を考えることができる。彼の好きだったものを、僕も好きになれたら嬉しい。
今日だけでやりたいことが二つもできた。
モランに話せば、むなしいだけだと顔をしかめるだろうか。それでも、彼が頭ごなしに「駄目だ」と言うことはないともう知っている。
昼間の外出もあって歩き疲れていた僕は、大人しく小脇に抱えられたまま、うとうとと舟を漕いだ。
初出:Pixiv 2023.01.13
The Heavenly Dispensing
フレッド人狼パロ④
その日は、いつもより少し早く大学の授業が終わる曜日だった。ウィリアムが馬車も使わずのんびりと歩いて屋敷に戻る頃には、日も傾きかけていた。
屋敷の門をくぐって玄関でルイスの顔を見たとき、おや、と思った。いつもと同じように出迎えてくれたはずなのに、どこか緊張した面持ちだったからだ。
(何かあったかな)
前を歩く弟の後ろ姿を眺めながら、ウィリアムは思案した。
そして、居心地よく整えられた居間へ一歩足を踏み入れたとき、その違和感は確信に変わる。ソファにはすでに帰宅していたアルバートがくつろいだ様子で掛けていたのだが、テーブルの上には水色のストールが畳んで置かれていた。目の粗い生地のそれは、間違いなく彼のものではない。
アルバートはこちらを見て、困ったように微笑んだ。顔を見合わせた兄たちの表情を見て、ルイスもまた、一つの確信を得たようだった。
「……やっぱり、兄さんも兄様も、ご存知だったのですね、彼のこと」
彼、というのが誰のことか、もはや尋ねるまでもない。先日、彼がいるときにルイスが森番小屋へやって来たとモランから報告を受けたばかりだった。「もうまどろっこしいから会わせた」と開き直るモランに思わず苦笑いが溢れたことは記憶に新しい。
もう一度アルバートと顔を見合わせてから、ウィリアムが口を開く。
「どうしてそう思ったの?」
「あの字は、ウィリアム兄さんのものでした」
「あの字?」
「詩の書き取りです。このストールの持ち主の小屋で、たまたまノートが開いているのを見てしまいました」
「……ああ、なるほど」
ウィリアムは、確かに彼に字を教えていた。
あの森の奥に閉じ籠もって暮らすなら必要のない知識だと彼は考えていたようだけど、素直な子だからちゃんと勉強を続けてくれていたのだろう。
「ランタンの明かりの中で、見えたのはほんの一瞬だけでしたけど……僕は間違えたりしません」
ウィリアムは小さく頷いた。
それはもちろんそうだろう。ルイスに字を教えたのも、ウィリアムなのだから。
「聞こうか聞くまいかずっと迷っていましたが……お二人とも、最初からご存知だったのですね」
「……うん」
「アルバート兄様も?」
「ああ。すまなかったね」
謝罪の言葉に、ルイスは首を振った。
「モランさんが、兄さんたちには黙っていてほしいとおっしゃった時点で何となく察しはついていました。モランさんはいい加減な方ですが、森番としての信用に関わるような違反や隠し事を兄様たちになさるはずがありません。……兄さんと兄様が僕に余計な嘘を重ねずにすむように、ああおっしゃったのでしょう」
「さすがだね、ルイス」
「どうして、僕に黙っていたのですか?」
ルイスは少しだけ眉を下げながら、そう尋ねた。読書に夢中になって夜ふかししているウィリアムを見つけたときと同じ顔だ。
「……怒ってないの?」
「怒ってはいません。でも、どうして僕にだけ……」
「あの子がそう望んだからだよ」
その言葉を聞いた瞬間の、ルイスの可愛らしかったこと!
怒ってない、と口にしたばかりなのに彼はむっとしたように顔をしかめた。
フレッドがルイスに会いたくないと望んだこと。ウィリアムが彼の希望を優先して、ルイスに隠し事をするのを選んだこと。ウィリアムが彼を「あの子」と親しげに呼んだこと。
ルイスがウィリアムと接する他者に焼きもちをやくことは幼い頃から幾度となくあったけれど、今回ばかりは少し様子が違っていた。彼は、ウィリアムに対してもいくらか嫉妬に近い感情を抱いている。そして、そのことに戸惑っているのだ。
ウィリアムはにっこりと笑って、弟の手を取った。
「でも、こうなったなら僕も兄さんもルイスの味方だよ。知りたいのなら、彼に聞いておいで。今すぐに」
「え、今からですか?」
ルイスは戸惑ったようにウィリアムの顔と窓の外を見比べた。暮れかかった大きな夕陽が、山の向こうからうるんだ光を投げかけている。じきに夜が訪れるだろう。
「もう日が暮れてしまいますし、それに、兄さんたちの夕食が……」
「ウィル、たまには二人で外に食べに行こうか」
いつものようにおっとりと、しかし有無を言わさぬ口調でアルバートが割って入った。ウィリアムも「ええ、是非」と微笑み返す。
「だから、いってらっしゃい。ルイス」
兄たちは笑って、ルイスの背中を押した。
*
わけも分からないまま送り出されて、ルイスは屋敷から森へ続く道を走っていた。
急がないと日が暮れてしまう。何より、フレッドの小屋へはあの夜一度訪れたきりで道がよく分からなかった。まず森番小屋へ行って、モランに道案内を頼むべきだろう。闇雲に歩きまわってまた道に迷ってしまったら笑い話にもならない。
頭ではそう理解しているのに、ルイスは記憶を辿りながら森番小屋へ向かう道を外れていた。夕陽に背を向けて、暗い方へ。
「……フレッド、フレッド! いませんか?」
ルイスはあらん限りの声で叫んだ。
木々に囲まれた森の中はすでに薄暗い。明かりも持たずに来てしまったから、これ以上もたもたしていると一歩も動けなくなってしまう。早く彼を見つけて、話をしなくてはならない。
ぱきり、とどこかで枝を踏むちいさな音がした。慌てて周囲を見回すと、少し離れた木の陰からフレッドが姿を現した。
ルイスは安堵のため息をついた。
「フレッド、」
「モランの小屋は、こっちではありませんよ」
フレッドは硬い声で言った。
「わかっています。君を探しにきたんですから。……忘れ物ですよ」
ルイスはストールを差し出した。けれどフレッドはその場から一歩も動こうとしない。縋るように木の幹に爪を立てていた。
「……今すぐ、引き返してください」
彼の声は強張ったままだ。
「もうすぐ日が暮れます。また、狼が出ますよ」
「……それも、モランさんから聞いたのですか?」
フレッドはもどかしげにかぶりを振った。
「そうじゃなくて……」
泣き出しそうな声だった。彼は苦しげに眉根を寄せ、自身のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
「お願いします、帰ってください。もう二度と、絶対に、人前に出たりしません。……だから、」
「そんなことを聞きにきたのではありません」
ルイスが一歩踏み出すと、フレッドは怯えたように一歩後ずさる。顔を上げてこちらを見た彼の口から「あ……っ」と悲鳴に似た声が漏れた。
彼はルイスの肩越しに何かを見ている。
反射的に振り返ったが、ルイスの背後には何もない。木立の向こうから夕陽の名残が僅かに射し込んでいるだけだ。
「……フレッド? どうし……」
もう一度彼の方へ向き直ったとき、フレッドの身体がぐらりと傾いだ。
咄嗟に手を伸ばしたが、掴み損ねた。フレッドはそのまま地面に倒れ込む。助け起こそうとしたルイスの手を、彼は身体を捩りながら強く払った。
そのことにショックを受ける暇もなく、ルイスは息を呑んだ。
フレッドの顔を、首筋からざわざわとせり上がるように灰色の毛皮が覆い始めていた。
「見ないで……!!」
彼は悲痛な声で叫びながら、手で顔を覆った。
しかしその手も、みるみるうちに形を変えていく。短い毛に覆われ、鋭い爪を備えた手。いや、『手』と呼べるようなものではない。前足、と表現したほうが正確だろう。
ルイスが身動き出来ずにいるうちに、彼は一匹の獣に姿を変えていた。しばらく地面でばたばたともがいた後、彼は用をなさなくなった衣服の中から抜け出した。
「フレディ……?」
あの夜ルイスを守ってくれた、狼犬。
左手首にしっかりと巻かれた包帯だけが、ついさっきまで目の前にいたフレッドと同じだった。彼は尻尾を丸め、ルイスに背を向けた。悲しげに鼻を鳴らすかすかな声を残して、森の奥へと消えていく。
コインの裏表、というモランの言葉が蘇った。
ルイスは立ち上がり、迷わず追いかけた。
不思議と恐ろしいとは思わなかった。ああやっぱり、という想いのほうが強かった。
「フレッド、待って……!」
狼としての姿ならば、ルイスを振り切って走り去ることくらい容易いだろう。今ここで見失ってしまったらもう二度と会えなくなる気がした。足元が悪く全力で走れないことがもどかしい。
「フレッド!」
ルイスの声に応えるように、木々の隙間から、細く、けれど耳の奥に刺さる声が響いた。
前を走るフレッドではない。狼たちの遠吠えだ。
ルイスは思わず身を竦ませたが、より顕著に反応したのはフレッドの方だった。彼は明らかに走る速度を落として、ちらちらとこちらを振り返るようになった。
――ルイスを置き去りにできないのだ。
彼は木立の隙間を縫うように、ルイスの少し前を隠れたり現れたりしながら進んでいった。追いつかれては困る、けれどルイスを一人で置いてはいけない。そんな迷いが見て取れるようだった。
姿が変わっても、彼は彼のままだった。
二人は近づいたり離れたりしながら、森の中を走った。フレッドを見失った、と思ったら、目の前には最初の夜に訪れたあの小屋が現れた。
きっと今夜も、鍵は掛かっていない。
けれどルイスは小屋には入らず、裏手へ回った。
温室のガラス戸は半分開いたままになっている。
「……フレッド?」
中に入ると同時に、がさりと薔薇の茂みが揺れた気がした。
ルイスはそちらへ歩み寄る。
屋敷の温室でさえ、日が暮れてから入ったことなど殆どないはずなのに、何だかとても懐かしい。ガラス張りの狭い空間の中に取り残された温かい昼間の空気と、濃い緑の匂い。自分は、この感覚を知っている。
膝をついて花壇を奥を覗き込むと、薔薇の茂みの向こうに一対の瞳が光っていた。
彼はルイスに見つかったと気付くと、怯えたように鼻を鳴らしながらさらに奥へ隠れようとした。
「出てきてください。隠れないで……」
茨を押しのけて茂みの中に腕を伸ばすと、鋭い棘が手の甲を引っ掻いた。痛みに、思わず顔をしかめる。奥へ逃げ込もうとしていたフレッドは慌ててこちらへ身を乗り出してきた。
厚い毛皮に覆われた身体は薔薇の棘では傷つかないらしい。彼は盾になるように茨とルイスの手の間に身体を割り込ませた。
ルイスが後ろに下がって促すと、優しい狼犬は大人しく花壇から下りて血の滲んだルイスの手の甲をぺろぺろと舐めた。
彼は主人に叱られるのを待つ犬のように、耳と尻尾を垂らして地面に身を伏せた。ルイスもまた、スラックスが汚れるのも構わず座り込む。
――やっぱり、知っている。
ルイスは彼の首を抱き寄せて、ふさふさとした手触りを堪能した。温かい。厚い毛皮の下に、血が通っているのがわかる。
「……すっかり大きくなっていたからわかりませんでした。フレッド、君だったんですね」
もう十年以上前の、ひどい嵐の夜。
一匹の子犬が庭に迷い込んできた。
眠れなくて窓の外を眺めていたルイスはそっと部屋を抜け出して、兄たちに内緒でその子犬を抱き上げて庭の温室に隠れた。
「親切な人に貰われていったと聞いていたのに、こんなに近くにいたなんて。僕にだけ黙っているなんてひどいです。どうして会いに来てくれなかったんですか?」
真っ暗な温室の中は、薔薇の香りに混じって土と緑の匂いがした。当時のルイスは夜に一人で部屋の外に出るのが苦手だったが、ちいさなぬくもりを感じていると不思議と怖くはなかった。
薔薇の花の中に隠れて、かわいい子犬をお供にして、兄たちにさえも秘密の冒険をしている気分だった。あの夜の出来事は一枚の美しい絵のように、ルイスの記憶に焼き付いていた。
身体を離して、フレッドの目を真正面から見つめた。
彼が顔を伏せようとするのを、両手で頬を挟んで押し止める。そして彼の額に自分の額を押し当てた。人間の姿だったら少し恥ずかしくなってしまうくらい親密な触れ方かもしれない。今の彼の姿なら、許してもらえるだろうか。
「……狼から守ってくれた君も、一緒にタルトを食べた君も、どちらも僕の友だちですよ」
そう告げると、フレッドがクゥ、クゥンと鼻を鳴らした。言っていることはわからないけれど、言いたいことはわかる気がした。
あまりに切なそうな声だったので、ルイスは彼の首を抱き直した。
「……朝になったら、全部聞かせてくださいね。会いに来てくれなかった理由も、こんな素敵な薔薇園を作ってしまった理由も全部。君のこと、教えて……」
視界の端で、彼の尻尾がぱたぱたと揺れた。
◇◇◇◇◇◇
てっきり僕はもう死ぬものだとばかり思っていたから、次に暖かくて静かな場所で気がついたとき、天国に来たのかと思った。
見たことないくらい綺麗な花がたくさん咲いていて、辺りにはうっとりするほど心地よい匂いが満ちていた。建物の中らしかったけれど、壁も天井もガラスでできているので空がまだ暗いことがわかった。雨粒がガラスを叩く音は聞こえなかったから、嵐はほとんど通り過ぎてしまったようだ。
泥だらけだった僕の身体をたっぷりとした布に包み込んで、誰かがさすってくれている。冷えて固まっていた手足は、いつの間にかすっかり温かくほどけていた。
身体の向きを変えてそっちの方を見ると、僕を抱えているのは人間の男の子だった。紫がかった紅い瞳と金の髪は暗闇の中でも輝いて見えて、いつか教会で見た天使の絵を思い出させた。
「あ、よかった」
僕と目が合うと、彼は小さく微笑んだ。
「首輪がないから、野良犬でしょうか。まだ小さいのに大変でしたね」
小さくて柔らかい手が僕の頭を撫でてくれた。
神様はひどい。
人間とは一緒にいられない僕を、優しい人間にばかり会わせてくれる。人間がもっと乱暴で意地悪で怖い存在なら、こんな思いをしなくてすんだのに。
狼の姿では涙が出ない。代わりに、僕はクゥクゥと鼻を鳴らした。男の子はこちらの気持ちを知ってか知らずか、僕の肉球をぷにぷにと押して遊んでいる。
「お風呂に入れてあげたいけど、絨毯を汚してしまうとアルバート兄様に申し訳ないから……。ここで我慢してくださいね」
我慢? こんなに素敵なところなのに。
僕らの頭上でゆっくりと雲が流れて、隙間から月明かりが射しこんだ。彼が顔を上げた拍子に金色の髪もさらりと流れた。彼の顔に大きな傷があることに、その時はじめて気がついた。
「わっ、こら」
身を乗り出して頬を舐めると、彼は声を上げて笑った。
しばらくくすぐったそうに笑っていた彼だったが、やがて僕が頬の傷を舐めているのに気がついたらしかった。ちょっと驚いたように目を丸くして、それから泣きそうに顔を歪めた。
「……ありがとう、もう痛くないですよ」
彼は膝に抱えた僕をぎゅうと抱きしめてくれた。
たしかに彼の言う通り、傷口はすでに乾いていた。怪我をしてからしばらく経っているのだろう。それでも、こんなに大きな傷なのだから痛かったに違いない。
労る気持ちをこめてもう一度頬をぺろりと舐めると、彼も僕の背中を撫でてくれた。
「優しい、いい子ですね。お利口そうだし、芸を覚えたら兄さんたちも飼っていいって言ってくれるかな……」
彼が僕の顎の下をくすぐりながら、呟いた。
もしも僕が普通の犬だったなら、彼の友だちになれただろうか。それはとても素敵な空想だった。
「新聞受けから新聞を取ってきたり、泥棒を追い払ったりするんですよ。できますか?」
できる、と答える代わりに、僕はクゥと鳴いた。
シンブンもドロボウもその時の僕にはよく分からなかったけれど、あなたの探しものは僕が見つけてみせる。危ない目にあっていたら必ず助けに行く。
張り切って尻尾を振る僕に、彼は満足そうに頷いた。
「朝になったら、兄さんたちにお願いしてみましょうね」
朝になったら。
その言葉で、僕は現実に引き戻された。
じきに東の空が白みはじめるだろう。つい数時間前に驚かせてしまったお婆さんのことを思い出した。一日に二度も同じ失敗をしたくはないし、何より、この優しい男の子を怖がらせたくない。
もう行かなくてはならなかった。
僕がいなくなったら、彼は少しでも残念がってくれるだろうか。申し訳ないけれど、そうだったら嬉しい。この夜の思い出があれば、僕はまたしばらくの間一人で生きていけるだろう。
彼の腕の中から抜け出そうと身をよじったとき、彼が小さくくしゃみをした。ぶるりと身を震わせて、僕の身体を抱え直す。いつの間にか、彼の手や頬がとても熱くなっていた。
寒い、と呟いて彼が目を閉じてしまったので、僕は動けなくなってしまった。
◇◇◇◇◇◇
夜明け前、一日の中で最も暗い時間だった。
ねぐらに戻っていく梟の声を聞きながら、ウィリアムはアルバート、モランとともに森の奥のちいさな小屋を訪れた。明かりがついていなかったのでおやと思ったが、裏手に回ったモランがランタンを振って合図した。
「こっちだ。……ったく、こんなところで寝てやがる」
「おやおや」
アルバートがくすくすと笑った。
温室の中で、ルイスとフレッドが眠っていた。
フレッドは狼の姿のまま、地べたに座り込んだルイスの膝に頭をのせている。彼が呼吸するたびに、背中に添えられたルイスの手もゆっくりと上下していた。
「まったく、人騒がせな奴らだな」
「あの日とおんなじですね」
モランはぶつぶつと言っていたが、ウィリアムは懐かしい気持ちになった。
十年と少し前。ひどい嵐が通り過ぎた後だった。
夜中にルイスが部屋にいないことに気がついたウィリアムとアルバートは、屋敷の庭の温室で同じ光景を目にしたのだ。もっとも、あの時のルイスは雨に濡れて熱を出してしまっていたし、子犬同然だったフレッドはおろおろと不安そうに鼻を鳴らしていたが。
「話、できたかな」
「どうだかな。十年分の話なんか、たった一晩でできるもんでもないだろ。こいつは日が暮れちまうとこの通りだし」
「それもそうだね、これからゆっくり話していけるといいな」
熱で朦朧としていたルイスは、あの朝のことを覚えていなかった。ウィリアムとアルバートの目の前で人間の子どもに姿を変えたフレッドは、ごめんなさい、ごめんなさいと泣きながら繰り返した。彼が弟に何かしたわけではないことは明らかで、驚きこそしたものの、彼を責める気にはならなかった。
ルイスが寝込んでいるうちに彼の話を聞いて、当時森番の仕事に就いたばかりだったモランに彼を預けることにした。「あの子犬は親切な人に引き取られていった」とルイスには嘘をついて。
「うちで飼いたかったのに」ととても残念がっていたことを伝えたとき、フレッドはわずかに微笑んだ。けれど、ルイスに会いたいとはただの一度も言わなかった。
「……おや、夜が明けるようだよ」
アルバートが呟いた。
つられて振り返ると、木立の向こうに薄っすらと光が射しはじめている。
すると、ルイスに寄り添っていた狼の身体に異変が起こった。それは音もなく緩やかな変化だった。
灰色の毛皮がつるりとした肌に変わり、鋭い獣の爪は短く整えられた楕円形の爪になった。特徴的な鼻先と尖った耳はしゅるしゅると小さくなり、やがてごくありふれた、幼さの残る青年の横顔に変わった。
瞬きほんの数回分の時間のうちに、灰色の狼は人間の青年に姿を変えていた。
ウィリアムがほう、とため息をつく。
「何回見ても不思議ですね。どういう原理なんだろう」
「ウィル、それより何か羽織るものを……」
「こいつはそうそう風邪なんかひかねぇよ」
と言いつつ、モランは自分のコートを脱いで裸のフレッドにかけてやった。
分厚いコートの重みに「うぅん」とフレッドが呻いた。包帯を巻かれた彼の左手が、ごそごそと何かを探すように動く。やがて地面に投げ出されていた方のルイスの手を見つけて、ぎゅうと握った。反射なのか、眠っているはずのルイスの手もゆるく握り返したように見えた。
モランがはぁーっと深くため息をついた。
「……なぁ、もう起こしちまってもよくないか? じれったいったらありゃしねぇ。最初っから会いに行ってりゃよかったのに」
「そういうところが可愛いじゃない」
「フフ、ウィルの言う通りだ。それに、ちょうど我が家も新しい庭師を探していたところだからね。なるべくしてこうなった――まさに天の配剤、といったところかな」
アルバートは薔薇の花を引き寄せ、ワイングラスを揺らすような優雅な仕草でその香りを楽しんでいた。
黄金色の柔らかな光が、少しずつ森の空気を温めていく。また新しい一日が始まるのだ。二人は大切そうにお互いの手を握りあったまま、朝焼けの中で微睡んでいた。
初出:Pixiv 2022.11.22
フレッド人狼パロ④
その日は、いつもより少し早く大学の授業が終わる曜日だった。ウィリアムが馬車も使わずのんびりと歩いて屋敷に戻る頃には、日も傾きかけていた。
屋敷の門をくぐって玄関でルイスの顔を見たとき、おや、と思った。いつもと同じように出迎えてくれたはずなのに、どこか緊張した面持ちだったからだ。
(何かあったかな)
前を歩く弟の後ろ姿を眺めながら、ウィリアムは思案した。
そして、居心地よく整えられた居間へ一歩足を踏み入れたとき、その違和感は確信に変わる。ソファにはすでに帰宅していたアルバートがくつろいだ様子で掛けていたのだが、テーブルの上には水色のストールが畳んで置かれていた。目の粗い生地のそれは、間違いなく彼のものではない。
アルバートはこちらを見て、困ったように微笑んだ。顔を見合わせた兄たちの表情を見て、ルイスもまた、一つの確信を得たようだった。
「……やっぱり、兄さんも兄様も、ご存知だったのですね、彼のこと」
彼、というのが誰のことか、もはや尋ねるまでもない。先日、彼がいるときにルイスが森番小屋へやって来たとモランから報告を受けたばかりだった。「もうまどろっこしいから会わせた」と開き直るモランに思わず苦笑いが溢れたことは記憶に新しい。
もう一度アルバートと顔を見合わせてから、ウィリアムが口を開く。
「どうしてそう思ったの?」
「あの字は、ウィリアム兄さんのものでした」
「あの字?」
「詩の書き取りです。このストールの持ち主の小屋で、たまたまノートが開いているのを見てしまいました」
「……ああ、なるほど」
ウィリアムは、確かに彼に字を教えていた。
あの森の奥に閉じ籠もって暮らすなら必要のない知識だと彼は考えていたようだけど、素直な子だからちゃんと勉強を続けてくれていたのだろう。
「ランタンの明かりの中で、見えたのはほんの一瞬だけでしたけど……僕は間違えたりしません」
ウィリアムは小さく頷いた。
それはもちろんそうだろう。ルイスに字を教えたのも、ウィリアムなのだから。
「聞こうか聞くまいかずっと迷っていましたが……お二人とも、最初からご存知だったのですね」
「……うん」
「アルバート兄様も?」
「ああ。すまなかったね」
謝罪の言葉に、ルイスは首を振った。
「モランさんが、兄さんたちには黙っていてほしいとおっしゃった時点で何となく察しはついていました。モランさんはいい加減な方ですが、森番としての信用に関わるような違反や隠し事を兄様たちになさるはずがありません。……兄さんと兄様が僕に余計な嘘を重ねずにすむように、ああおっしゃったのでしょう」
「さすがだね、ルイス」
「どうして、僕に黙っていたのですか?」
ルイスは少しだけ眉を下げながら、そう尋ねた。読書に夢中になって夜ふかししているウィリアムを見つけたときと同じ顔だ。
「……怒ってないの?」
「怒ってはいません。でも、どうして僕にだけ……」
「あの子がそう望んだからだよ」
その言葉を聞いた瞬間の、ルイスの可愛らしかったこと!
怒ってない、と口にしたばかりなのに彼はむっとしたように顔をしかめた。
フレッドがルイスに会いたくないと望んだこと。ウィリアムが彼の希望を優先して、ルイスに隠し事をするのを選んだこと。ウィリアムが彼を「あの子」と親しげに呼んだこと。
ルイスがウィリアムと接する他者に焼きもちをやくことは幼い頃から幾度となくあったけれど、今回ばかりは少し様子が違っていた。彼は、ウィリアムに対してもいくらか嫉妬に近い感情を抱いている。そして、そのことに戸惑っているのだ。
ウィリアムはにっこりと笑って、弟の手を取った。
「でも、こうなったなら僕も兄さんもルイスの味方だよ。知りたいのなら、彼に聞いておいで。今すぐに」
「え、今からですか?」
ルイスは戸惑ったようにウィリアムの顔と窓の外を見比べた。暮れかかった大きな夕陽が、山の向こうからうるんだ光を投げかけている。じきに夜が訪れるだろう。
「もう日が暮れてしまいますし、それに、兄さんたちの夕食が……」
「ウィル、たまには二人で外に食べに行こうか」
いつものようにおっとりと、しかし有無を言わさぬ口調でアルバートが割って入った。ウィリアムも「ええ、是非」と微笑み返す。
「だから、いってらっしゃい。ルイス」
兄たちは笑って、ルイスの背中を押した。
*
わけも分からないまま送り出されて、ルイスは屋敷から森へ続く道を走っていた。
急がないと日が暮れてしまう。何より、フレッドの小屋へはあの夜一度訪れたきりで道がよく分からなかった。まず森番小屋へ行って、モランに道案内を頼むべきだろう。闇雲に歩きまわってまた道に迷ってしまったら笑い話にもならない。
頭ではそう理解しているのに、ルイスは記憶を辿りながら森番小屋へ向かう道を外れていた。夕陽に背を向けて、暗い方へ。
「……フレッド、フレッド! いませんか?」
ルイスはあらん限りの声で叫んだ。
木々に囲まれた森の中はすでに薄暗い。明かりも持たずに来てしまったから、これ以上もたもたしていると一歩も動けなくなってしまう。早く彼を見つけて、話をしなくてはならない。
ぱきり、とどこかで枝を踏むちいさな音がした。慌てて周囲を見回すと、少し離れた木の陰からフレッドが姿を現した。
ルイスは安堵のため息をついた。
「フレッド、」
「モランの小屋は、こっちではありませんよ」
フレッドは硬い声で言った。
「わかっています。君を探しにきたんですから。……忘れ物ですよ」
ルイスはストールを差し出した。けれどフレッドはその場から一歩も動こうとしない。縋るように木の幹に爪を立てていた。
「……今すぐ、引き返してください」
彼の声は強張ったままだ。
「もうすぐ日が暮れます。また、狼が出ますよ」
「……それも、モランさんから聞いたのですか?」
フレッドはもどかしげにかぶりを振った。
「そうじゃなくて……」
泣き出しそうな声だった。彼は苦しげに眉根を寄せ、自身のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
「お願いします、帰ってください。もう二度と、絶対に、人前に出たりしません。……だから、」
「そんなことを聞きにきたのではありません」
ルイスが一歩踏み出すと、フレッドは怯えたように一歩後ずさる。顔を上げてこちらを見た彼の口から「あ……っ」と悲鳴に似た声が漏れた。
彼はルイスの肩越しに何かを見ている。
反射的に振り返ったが、ルイスの背後には何もない。木立の向こうから夕陽の名残が僅かに射し込んでいるだけだ。
「……フレッド? どうし……」
もう一度彼の方へ向き直ったとき、フレッドの身体がぐらりと傾いだ。
咄嗟に手を伸ばしたが、掴み損ねた。フレッドはそのまま地面に倒れ込む。助け起こそうとしたルイスの手を、彼は身体を捩りながら強く払った。
そのことにショックを受ける暇もなく、ルイスは息を呑んだ。
フレッドの顔を、首筋からざわざわとせり上がるように灰色の毛皮が覆い始めていた。
「見ないで……!!」
彼は悲痛な声で叫びながら、手で顔を覆った。
しかしその手も、みるみるうちに形を変えていく。短い毛に覆われ、鋭い爪を備えた手。いや、『手』と呼べるようなものではない。前足、と表現したほうが正確だろう。
ルイスが身動き出来ずにいるうちに、彼は一匹の獣に姿を変えていた。しばらく地面でばたばたともがいた後、彼は用をなさなくなった衣服の中から抜け出した。
「フレディ……?」
あの夜ルイスを守ってくれた、狼犬。
左手首にしっかりと巻かれた包帯だけが、ついさっきまで目の前にいたフレッドと同じだった。彼は尻尾を丸め、ルイスに背を向けた。悲しげに鼻を鳴らすかすかな声を残して、森の奥へと消えていく。
コインの裏表、というモランの言葉が蘇った。
ルイスは立ち上がり、迷わず追いかけた。
不思議と恐ろしいとは思わなかった。ああやっぱり、という想いのほうが強かった。
「フレッド、待って……!」
狼としての姿ならば、ルイスを振り切って走り去ることくらい容易いだろう。今ここで見失ってしまったらもう二度と会えなくなる気がした。足元が悪く全力で走れないことがもどかしい。
「フレッド!」
ルイスの声に応えるように、木々の隙間から、細く、けれど耳の奥に刺さる声が響いた。
前を走るフレッドではない。狼たちの遠吠えだ。
ルイスは思わず身を竦ませたが、より顕著に反応したのはフレッドの方だった。彼は明らかに走る速度を落として、ちらちらとこちらを振り返るようになった。
――ルイスを置き去りにできないのだ。
彼は木立の隙間を縫うように、ルイスの少し前を隠れたり現れたりしながら進んでいった。追いつかれては困る、けれどルイスを一人で置いてはいけない。そんな迷いが見て取れるようだった。
姿が変わっても、彼は彼のままだった。
二人は近づいたり離れたりしながら、森の中を走った。フレッドを見失った、と思ったら、目の前には最初の夜に訪れたあの小屋が現れた。
きっと今夜も、鍵は掛かっていない。
けれどルイスは小屋には入らず、裏手へ回った。
温室のガラス戸は半分開いたままになっている。
「……フレッド?」
中に入ると同時に、がさりと薔薇の茂みが揺れた気がした。
ルイスはそちらへ歩み寄る。
屋敷の温室でさえ、日が暮れてから入ったことなど殆どないはずなのに、何だかとても懐かしい。ガラス張りの狭い空間の中に取り残された温かい昼間の空気と、濃い緑の匂い。自分は、この感覚を知っている。
膝をついて花壇を奥を覗き込むと、薔薇の茂みの向こうに一対の瞳が光っていた。
彼はルイスに見つかったと気付くと、怯えたように鼻を鳴らしながらさらに奥へ隠れようとした。
「出てきてください。隠れないで……」
茨を押しのけて茂みの中に腕を伸ばすと、鋭い棘が手の甲を引っ掻いた。痛みに、思わず顔をしかめる。奥へ逃げ込もうとしていたフレッドは慌ててこちらへ身を乗り出してきた。
厚い毛皮に覆われた身体は薔薇の棘では傷つかないらしい。彼は盾になるように茨とルイスの手の間に身体を割り込ませた。
ルイスが後ろに下がって促すと、優しい狼犬は大人しく花壇から下りて血の滲んだルイスの手の甲をぺろぺろと舐めた。
彼は主人に叱られるのを待つ犬のように、耳と尻尾を垂らして地面に身を伏せた。ルイスもまた、スラックスが汚れるのも構わず座り込む。
――やっぱり、知っている。
ルイスは彼の首を抱き寄せて、ふさふさとした手触りを堪能した。温かい。厚い毛皮の下に、血が通っているのがわかる。
「……すっかり大きくなっていたからわかりませんでした。フレッド、君だったんですね」
もう十年以上前の、ひどい嵐の夜。
一匹の子犬が庭に迷い込んできた。
眠れなくて窓の外を眺めていたルイスはそっと部屋を抜け出して、兄たちに内緒でその子犬を抱き上げて庭の温室に隠れた。
「親切な人に貰われていったと聞いていたのに、こんなに近くにいたなんて。僕にだけ黙っているなんてひどいです。どうして会いに来てくれなかったんですか?」
真っ暗な温室の中は、薔薇の香りに混じって土と緑の匂いがした。当時のルイスは夜に一人で部屋の外に出るのが苦手だったが、ちいさなぬくもりを感じていると不思議と怖くはなかった。
薔薇の花の中に隠れて、かわいい子犬をお供にして、兄たちにさえも秘密の冒険をしている気分だった。あの夜の出来事は一枚の美しい絵のように、ルイスの記憶に焼き付いていた。
身体を離して、フレッドの目を真正面から見つめた。
彼が顔を伏せようとするのを、両手で頬を挟んで押し止める。そして彼の額に自分の額を押し当てた。人間の姿だったら少し恥ずかしくなってしまうくらい親密な触れ方かもしれない。今の彼の姿なら、許してもらえるだろうか。
「……狼から守ってくれた君も、一緒にタルトを食べた君も、どちらも僕の友だちですよ」
そう告げると、フレッドがクゥ、クゥンと鼻を鳴らした。言っていることはわからないけれど、言いたいことはわかる気がした。
あまりに切なそうな声だったので、ルイスは彼の首を抱き直した。
「……朝になったら、全部聞かせてくださいね。会いに来てくれなかった理由も、こんな素敵な薔薇園を作ってしまった理由も全部。君のこと、教えて……」
視界の端で、彼の尻尾がぱたぱたと揺れた。
◇◇◇◇◇◇
てっきり僕はもう死ぬものだとばかり思っていたから、次に暖かくて静かな場所で気がついたとき、天国に来たのかと思った。
見たことないくらい綺麗な花がたくさん咲いていて、辺りにはうっとりするほど心地よい匂いが満ちていた。建物の中らしかったけれど、壁も天井もガラスでできているので空がまだ暗いことがわかった。雨粒がガラスを叩く音は聞こえなかったから、嵐はほとんど通り過ぎてしまったようだ。
泥だらけだった僕の身体をたっぷりとした布に包み込んで、誰かがさすってくれている。冷えて固まっていた手足は、いつの間にかすっかり温かくほどけていた。
身体の向きを変えてそっちの方を見ると、僕を抱えているのは人間の男の子だった。紫がかった紅い瞳と金の髪は暗闇の中でも輝いて見えて、いつか教会で見た天使の絵を思い出させた。
「あ、よかった」
僕と目が合うと、彼は小さく微笑んだ。
「首輪がないから、野良犬でしょうか。まだ小さいのに大変でしたね」
小さくて柔らかい手が僕の頭を撫でてくれた。
神様はひどい。
人間とは一緒にいられない僕を、優しい人間にばかり会わせてくれる。人間がもっと乱暴で意地悪で怖い存在なら、こんな思いをしなくてすんだのに。
狼の姿では涙が出ない。代わりに、僕はクゥクゥと鼻を鳴らした。男の子はこちらの気持ちを知ってか知らずか、僕の肉球をぷにぷにと押して遊んでいる。
「お風呂に入れてあげたいけど、絨毯を汚してしまうとアルバート兄様に申し訳ないから……。ここで我慢してくださいね」
我慢? こんなに素敵なところなのに。
僕らの頭上でゆっくりと雲が流れて、隙間から月明かりが射しこんだ。彼が顔を上げた拍子に金色の髪もさらりと流れた。彼の顔に大きな傷があることに、その時はじめて気がついた。
「わっ、こら」
身を乗り出して頬を舐めると、彼は声を上げて笑った。
しばらくくすぐったそうに笑っていた彼だったが、やがて僕が頬の傷を舐めているのに気がついたらしかった。ちょっと驚いたように目を丸くして、それから泣きそうに顔を歪めた。
「……ありがとう、もう痛くないですよ」
彼は膝に抱えた僕をぎゅうと抱きしめてくれた。
たしかに彼の言う通り、傷口はすでに乾いていた。怪我をしてからしばらく経っているのだろう。それでも、こんなに大きな傷なのだから痛かったに違いない。
労る気持ちをこめてもう一度頬をぺろりと舐めると、彼も僕の背中を撫でてくれた。
「優しい、いい子ですね。お利口そうだし、芸を覚えたら兄さんたちも飼っていいって言ってくれるかな……」
彼が僕の顎の下をくすぐりながら、呟いた。
もしも僕が普通の犬だったなら、彼の友だちになれただろうか。それはとても素敵な空想だった。
「新聞受けから新聞を取ってきたり、泥棒を追い払ったりするんですよ。できますか?」
できる、と答える代わりに、僕はクゥと鳴いた。
シンブンもドロボウもその時の僕にはよく分からなかったけれど、あなたの探しものは僕が見つけてみせる。危ない目にあっていたら必ず助けに行く。
張り切って尻尾を振る僕に、彼は満足そうに頷いた。
「朝になったら、兄さんたちにお願いしてみましょうね」
朝になったら。
その言葉で、僕は現実に引き戻された。
じきに東の空が白みはじめるだろう。つい数時間前に驚かせてしまったお婆さんのことを思い出した。一日に二度も同じ失敗をしたくはないし、何より、この優しい男の子を怖がらせたくない。
もう行かなくてはならなかった。
僕がいなくなったら、彼は少しでも残念がってくれるだろうか。申し訳ないけれど、そうだったら嬉しい。この夜の思い出があれば、僕はまたしばらくの間一人で生きていけるだろう。
彼の腕の中から抜け出そうと身をよじったとき、彼が小さくくしゃみをした。ぶるりと身を震わせて、僕の身体を抱え直す。いつの間にか、彼の手や頬がとても熱くなっていた。
寒い、と呟いて彼が目を閉じてしまったので、僕は動けなくなってしまった。
◇◇◇◇◇◇
夜明け前、一日の中で最も暗い時間だった。
ねぐらに戻っていく梟の声を聞きながら、ウィリアムはアルバート、モランとともに森の奥のちいさな小屋を訪れた。明かりがついていなかったのでおやと思ったが、裏手に回ったモランがランタンを振って合図した。
「こっちだ。……ったく、こんなところで寝てやがる」
「おやおや」
アルバートがくすくすと笑った。
温室の中で、ルイスとフレッドが眠っていた。
フレッドは狼の姿のまま、地べたに座り込んだルイスの膝に頭をのせている。彼が呼吸するたびに、背中に添えられたルイスの手もゆっくりと上下していた。
「まったく、人騒がせな奴らだな」
「あの日とおんなじですね」
モランはぶつぶつと言っていたが、ウィリアムは懐かしい気持ちになった。
十年と少し前。ひどい嵐が通り過ぎた後だった。
夜中にルイスが部屋にいないことに気がついたウィリアムとアルバートは、屋敷の庭の温室で同じ光景を目にしたのだ。もっとも、あの時のルイスは雨に濡れて熱を出してしまっていたし、子犬同然だったフレッドはおろおろと不安そうに鼻を鳴らしていたが。
「話、できたかな」
「どうだかな。十年分の話なんか、たった一晩でできるもんでもないだろ。こいつは日が暮れちまうとこの通りだし」
「それもそうだね、これからゆっくり話していけるといいな」
熱で朦朧としていたルイスは、あの朝のことを覚えていなかった。ウィリアムとアルバートの目の前で人間の子どもに姿を変えたフレッドは、ごめんなさい、ごめんなさいと泣きながら繰り返した。彼が弟に何かしたわけではないことは明らかで、驚きこそしたものの、彼を責める気にはならなかった。
ルイスが寝込んでいるうちに彼の話を聞いて、当時森番の仕事に就いたばかりだったモランに彼を預けることにした。「あの子犬は親切な人に引き取られていった」とルイスには嘘をついて。
「うちで飼いたかったのに」ととても残念がっていたことを伝えたとき、フレッドはわずかに微笑んだ。けれど、ルイスに会いたいとはただの一度も言わなかった。
「……おや、夜が明けるようだよ」
アルバートが呟いた。
つられて振り返ると、木立の向こうに薄っすらと光が射しはじめている。
すると、ルイスに寄り添っていた狼の身体に異変が起こった。それは音もなく緩やかな変化だった。
灰色の毛皮がつるりとした肌に変わり、鋭い獣の爪は短く整えられた楕円形の爪になった。特徴的な鼻先と尖った耳はしゅるしゅると小さくなり、やがてごくありふれた、幼さの残る青年の横顔に変わった。
瞬きほんの数回分の時間のうちに、灰色の狼は人間の青年に姿を変えていた。
ウィリアムがほう、とため息をつく。
「何回見ても不思議ですね。どういう原理なんだろう」
「ウィル、それより何か羽織るものを……」
「こいつはそうそう風邪なんかひかねぇよ」
と言いつつ、モランは自分のコートを脱いで裸のフレッドにかけてやった。
分厚いコートの重みに「うぅん」とフレッドが呻いた。包帯を巻かれた彼の左手が、ごそごそと何かを探すように動く。やがて地面に投げ出されていた方のルイスの手を見つけて、ぎゅうと握った。反射なのか、眠っているはずのルイスの手もゆるく握り返したように見えた。
モランがはぁーっと深くため息をついた。
「……なぁ、もう起こしちまってもよくないか? じれったいったらありゃしねぇ。最初っから会いに行ってりゃよかったのに」
「そういうところが可愛いじゃない」
「フフ、ウィルの言う通りだ。それに、ちょうど我が家も新しい庭師を探していたところだからね。なるべくしてこうなった――まさに天の配剤、といったところかな」
アルバートは薔薇の花を引き寄せ、ワイングラスを揺らすような優雅な仕草でその香りを楽しんでいた。
黄金色の柔らかな光が、少しずつ森の空気を温めていく。また新しい一日が始まるのだ。二人は大切そうにお互いの手を握りあったまま、朝焼けの中で微睡んでいた。
初出:Pixiv 2022.11.22
The Heavenly Dispensing
フレッド人狼パロ③
翌日、ルイスは一人で銀食器を磨いていた。
気を抜くと、あの青年のことばかり考えていた。
助けてもらって、お礼を言って、それで終わりのはずだ。少なくとも、今までのルイスの人付き合いはそうだった。
もしまたモランの家やどこかの街角で顔を合わせる機会があっても、軽く挨拶をするだけ。そう思うと、なんだかとても残念な気がした。なぜそう感じるのと聞かれると、うまく言葉にできなかったが。
(そうだ、そもそも助けてくれたのはフレッドさんではなくてフレディだ)
またあの子を撫でたい。首の周りのもふもふとした毛皮を堪能して、あの時はありがとう、と改めてお礼を言って、そして彼がいかに勇敢に闘ったかをフレッドさんに……。
ルイスはため息をついた。
結局自分は、フレディをもう一度撫でたいのか、それともフレッドと話がしたいのか。
ぴかぴかに磨かれた銀のスプーンの表面には、ルイスの顔が写っている。スプーンの形状に合わせて歪んだ影ではあったが、頬に大きな傷があることは嫌でもわかった。
昔から、人付き合いは苦手だった。
兄たちとの接点を持とうとして自分に近付いてくる人間はすぐにそれとわかった。地位があり立派な仕事に就いていることを抜きにしても、彼らほど素晴らしい人間はそういないのだから、そうした下心を抱くのは仕方のないことだ。ルイス自身、それが兄たちにとって有益な相手であれば親しく接するよう努力した。
けれど、兄たちの存在を抜きにして、ルイス個人として人と関わった経験は皆無と言ってよかった。
学生時代には友人がいないでもなかったが、卒業して以降は誰とも連絡を取っていない。モランだって、もとはウィリアムが連れてきて、今はアルバートから森番としての職務を拝命している人間なのだからノーカウントだ。
フレッドに対してどう接すればよいのか、ルイスには分からなかった。こういう時、普通の友人ならどうするのだろう――。
そしてルイスははたと気がつく。
自分は、彼と友人になりたいのか? どうして。
昨日顔を合わせたばかりの相手と?
思考は堂々巡りを繰り返すばかりだった。
一人でうんうん唸っていると、テラスに続く掃き出し窓から庭師のクリントがひょっこりと顔を出した。
「今日のお庭の手入れ、終わりましたので」
「あ、はい……。ありがとうございます、お疲れ様でした」
ルイスは慌てて立ち上がった。
そのまま帰ると思われたクリントはしばし躊躇った後、「あの」と切り出した。帽子を脱いで、いつになく改まった様子だ。
「ルイスさん、お願いがありまして」
「はい、何でしょう?」
「アルバート様に少しお時間をいただけないか、頼んでいただけないでしょうか」
「それはもちろん構いませんけど……どうかなさいましたか?」
「実は、息子が結婚することになりまして」
「え、そうなんですか。おめでとうございます」
クリントの息子といえば、地元の学校を出て大きな街で役人になったと聞いている。ルイスとはいくらか年が離れているのであまり交流したことはなかったが、大らかでとても気のいい男だったことは印象に残っていた。
クリントは誇らしげに胸を反らしたが、けれどすぐに浮かない顔に戻った。
「それで、その……これを機にあちらで一緒に暮らさないかと言われているんです。相手方も是非にと言ってくれているようで、こんな年寄りには願ってもない話です。ですので、お暇をいただきたくて……」
「そうでしたか……」
「先代の頃から良くしていただいたのに、申し訳ありません」
「いえ、謝ることではありませんよ。アルバート兄様も、すぐにお祝いを準備するようおっしゃるはずです」
「そんな、とんでもない」
「直接お話ができるように伝えておきますね。明日の夜でいかがです? 夕方には戻られる予定なので」
「はぁ、よろしくお願いします」
クリントは恐縮しながら出て行った。
*
それから数日が過ぎた。
クリントは無事アルバートと話をつけて、引っ越しの支度に取りかかっていた。村では親しかった者たちが寄り集まってささやかな宴が催され、モリアーティ家も長年勤めてくれた彼と彼の息子へ心づくしの祝いの品を贈った。
近いうちに代わりの庭師を探さなければならなかったが、この田舎町ではすぐに代わりが見つかるとは思えない。当面の間はルイスがカバーできるよう、多少なりともが仕事を覚えておく必要があった。
その日、クリントは新しく住む街へ引越し前の下見に出かけていたので、ルイスは午後から庭に出ていた。
草木に水をやり、目立つ雑草を引き抜いて、芝生の手入れを行うつもりだったが、芝刈り機は案外重い。慣れないルイスが一人で広い屋敷の庭を刈り込むのは結構な重労働だった。
だから裏口の外に人の気配を感じたとき、やっと来た、と思った。
ルイスは裏口の木戸を勢いよく開け放った。
「遅いですよモランさん! ………あ」
そこにいたのは、モランではなくあの青年だった。フレッドはいきなり戸が開いたこととルイスの勢いにひどく驚いた様子だった。
ルイスは慌てて弁解した。
「あ、あの、すみません。てっきりモランさんかと……」
「……大丈夫です、びっくりしただけで。あの、これを……」
彼はバスケットを差し出した。
すっかり忘れていたが、先日ローストビーフを入れて渡した例のバスケットだった。
中には綺麗に洗われた皿と、やはり薔薇の花が入っている。今回は小ぶりな白い薔薇が五本、簡単なブーケになっていた。
ルイスは思わず顔を綻ばせた。
「ありがとうございます。綺麗ですね」
居間や玄関の大きな花瓶に生けるよりは、小さなガラス瓶に挿して窓辺に飾っておきたくなるような花束だった。慎ましやかでとても可愛らしい。
褒められたフレッドはわずかに頬を赤らめて、くすぐったそうに首をすくめた。
「こちらこそありがとうございました。お肉、美味しかったです。…………フレディも、喜んでました」
「よかった。ところで、モランさんは一緒じゃないんですか?」
「え? いえ……」
フレッドは目を瞬かせた後、ふるふると首を振った。
「モランは、用事があるみたいでした。ここへ来る途中に寄ったんですが、『今日は忙しい』と……」
「そう、ですか…………」
「どうかしたんですか?」
「いえ、モランさんに庭仕事の手伝いをお願いしていたので……」
逃げたな、と思ったが、さすがにフレッドの前では口に出せなかった。
「あの、僕でよければお手伝いします」
「え」
「モランは今日は来られませんし、ルイスさん一人でするのも大変だと思うので……」
目は心の窓とはよく言ったものだが、彼の目に浮かんでいるのは間違いなく、眩しいまでの善意だった。
……もしかして、モランは彼がこう言うであろうことを見越していたのではないだろうか。ルイスはそう勘繰らずにはいられなかった。
フレッドの申し出は正直ありがたい。しかし普段からこうやって仕事や雑用を彼に押し付けていないか、あとでモランを問い詰めておく必要があるだろう。
「では……お願いしてもいいですか」
「はい」
「無理はしないでくださいね。腕、怪我していたでしょう」
フレッドは少し驚いたような顔をしてから、はにかんだように小さく頷いた。
*
それから二人で交代しながら芝刈り機を動かした。最初はおっかなびっくりだったフレッドも、すぐにコツを掴んですいすいと調子良く芝を刈ってくれた。
あまりこき使うのも申し訳なかったので芝刈りまでで終わりにするつもりだったのに、彼が庭の花壇にも興味を示したので、結局花の世話まで手伝ってもらった。
普段からあの温室の管理をしているだけあって、フレッドの手際は素晴らしかった。葉を傷つけないように虫を取る方法や摘み取るべき芽の選び方など、ルイスの方が教わることが多かったくらいだ。
おそらく、モランと二人ではこうは行かなかっただろう。普段彼に「お前は細かすぎる」と散々不満を言われるルイスの目から見ても、黙々と作業に打ち込むフレッドの手つきはとても丁寧で細やかだった。本当に、花が好きなのだろう。
花壇の手入れを終えたところで、ルイスは庭の掃き掃除を彼に頼んだ。
「すみません、少しの間外します。すぐに戻りますが、何かあったら呼んでください」
彼が小さく頷いて作業に取りかかったのを見届けてから、ルイスは屋敷の中に引っ込んだ。
しばらくして庭に戻ると、ちょうど彼は落ち葉や枝切れを一箇所に集め終えたところだった。
「お疲れ様です。ありがとうございました」
「いえ」
「あの、よければお茶にしませんか。タルトを焼きましたので」
そう告げると、フレッドは「え」と小さく声を上げた。
「もともとモランさんにお出しするつもりで用意していたんです。食べていってください」
そう言ってしまえば、彼は断わらないだろうという予感があった。用事があったとはいえ彼の方から訪ねてきてくれたこと、手伝いを申し出てくれたことが嬉しくて、もう少しだけ、彼を引き止めていたかった。
フレッドはどこか落ち着かない様子でテラスのテーブルに腰掛けた。カスタードクリームをたっぷり使った木苺のタルトにナイフを入れるのを、固唾を飲んで見守っている。おかげで、ルイスの方まで何となく緊張してしまった。
切り分けて皿に移し、フレッドの前に差し出す。「どうぞ」と促すと、彼は恐る恐るフォークを手に取った。
「あったかい」
ひとくち食べて、彼はそう呟いた。
そのちいさな子どものような感想に、ルイスはほっと息をついた。
「焼きたてですから」
「美味しいです。宝石みたいなのに、甘くてあったかい」
つやつやと輝く真っ赤な木苺のことを言っているのだろうか。彼が口にすると気取った比喩にも聞こえないから不思議だ。
まっすぐな褒め言葉がくすぐったくて、ルイスは表情が緩みそうになるのを口をきゅっと引き結んで堪えた。あまり表情に起伏のない彼もどことなく嬉しげに見えるのは気のせいだろうか。
例えば自分に弟ができたら、きっとこんな感じなのだろうか。自分のタルトをつつきながら、ルイスは考えた。
「……もう一つ、食べますか?」
気づけばそう口にしていた。小さくなってきたタルトを、名残惜しそうにゆっくりと食べているのが可愛らしかった。
「え、でも……」
「この家には兄二人と、僕だけです。どちらにせよ余ってしまうので、良ければ」
「……いえ、僕は一ついただけただけで満足です。モランの分、取っておいてあげてください」
遠慮する上にそんなことを言うので、ルイスは思わず頬を膨らませた。
「手伝いを放り出した人の分はありません」
「うっかり忘れてしまっただけだと思います。今日、何か用事があるって言ってましたし……」
「まだ信じてるんですか、それ」
「え?」
「……ふふ」
ルイスが笑うと、彼はなぜ笑われているのかわからない、といった顔で不思議そうに首を傾げた。
「モランさんとは……仲がいいんですね」
どう話を振ったものか悩んで、結局は『共通の知人』という無難な話題に落ち着く。
フレッドは首をひねった。
「仲がいい……んでしょうか。面倒は、見てもらっています」
「確かに、面倒くさがりなようで人の世話を焼くのが好きな方ですからね」
「はい。色んなことを教えてもらいました」
「あんな森の奥で暮らすのは大変でしょう」
フレッドは黙って曖昧に頷いた。
詮索しているように取られたかもしれない。ルイスは自分の話に舵を切った。
「実は、この間は森で落とし物をしてしまったんです。それで引き返したところを、道に迷ってしまって……」
「そうだったんですか」
「森は昼と夜では景色が変わると言い聞かされてはいましたが、改めてそのことを実感しました。どこでいつもの道から外れてしまったのかもわからないんです」
「昼間は見落とすはずがないと思っていた小道や目印も、日が落ちると途端に見えなくなってしまいますからね」
「そうなんです。そんな真っ暗な中でも君の家まで連れて行ってくれたんですから、フレディはほんとうにお利口ですね」
「…………」
フレッドは少しうつむいて、残り少ないタルトをつついた。しかしその沈黙は決して気まずいものではなく、どこか誇らしげな空気さえ見て取れた。
「あ、それに、その落とし物は朝になったら君の家の前に落ちていたんです。そんなところで落としたはずがないのに。フレディが見つけて、拾ってきてくれたのでしょうか」
フレッドは「どうでしょう」と首を傾げた。
「でも見つかってよかったですね。大事な万年筆だったんでしょう」
「ええ、それはもう」
ルイスは彼の言葉に頷いてから、ふと違和感を覚えた。
「……どうして、僕が落としたのが万年筆だと?」
純粋に疑問に思ってそう尋ねると、彼は表情を凍りつかせた。
「も、モランから……」
「……モランさんにも、話していません。兄さんたちにも、街の人達にも、『道に迷った』としか説明していません。知っているのは……」
その続きを口にするより早く、フレッドが弾かれたように立ち上がった。皿の上に放り出されたフォークがカチャンと耳障りな音を立てる。
「ごめんなさい、帰ります。ごちそうさまでした」
彼は早口にそれだけ言うと、逃げるように裏口の方へ走っていった。呼び止める暇もなかった。
ルイスはどこか途方に暮れた気持ちで、彼が出ていった後も暫くの間、裏の木戸を眺めていた。
花壇のレンガの上に水色の布のかたまりがあるのに気がついた。彼が巻いていたストールだ。
作業中に外して、そのまま忘れていったのだろうか。そういえば途中から付けていなかった気がする。
ルイスはストールを拾い上げた。
今から追いかければ、おそらく、間に合う。
それでも、足が動かなかった。
これをこのまま持っていれば、また明日、彼が訪ねてきてくれるかもしれない。そんなずるい期待が頭を過ぎったが、ルイスはため息をついてストールを丁寧に畳み直した。
(……明日、モランさんに渡そう)
彼はなぜ、ルイスが万年筆を落としたことを知っていたのだろう。森に落ちていたのを拾ってくれたのがフレッドだったとしても、誰のものかは分からなかったはずだ。
そして、ルイスが万年筆のことを話したのはあの狼犬だけだ。彼はどこかであの独り言ともつかない言葉を聞いていたのだろうか? 盗み聞きをしていたことがばれてきまりが悪くなったから、逃げるように帰っていってしまったのか? そもそも、彼はあの夜どこにいたのだろう?
分かりそうで、分からない。
しかし、一つだけ、たしかな糸口があった。
冷めきったお茶と皿に残されたタルトを片付けながら、ルイスはその糸を手繰ることを心に決めた。
初出:Pixiv 2022.11.17
フレッド人狼パロ③
翌日、ルイスは一人で銀食器を磨いていた。
気を抜くと、あの青年のことばかり考えていた。
助けてもらって、お礼を言って、それで終わりのはずだ。少なくとも、今までのルイスの人付き合いはそうだった。
もしまたモランの家やどこかの街角で顔を合わせる機会があっても、軽く挨拶をするだけ。そう思うと、なんだかとても残念な気がした。なぜそう感じるのと聞かれると、うまく言葉にできなかったが。
(そうだ、そもそも助けてくれたのはフレッドさんではなくてフレディだ)
またあの子を撫でたい。首の周りのもふもふとした毛皮を堪能して、あの時はありがとう、と改めてお礼を言って、そして彼がいかに勇敢に闘ったかをフレッドさんに……。
ルイスはため息をついた。
結局自分は、フレディをもう一度撫でたいのか、それともフレッドと話がしたいのか。
ぴかぴかに磨かれた銀のスプーンの表面には、ルイスの顔が写っている。スプーンの形状に合わせて歪んだ影ではあったが、頬に大きな傷があることは嫌でもわかった。
昔から、人付き合いは苦手だった。
兄たちとの接点を持とうとして自分に近付いてくる人間はすぐにそれとわかった。地位があり立派な仕事に就いていることを抜きにしても、彼らほど素晴らしい人間はそういないのだから、そうした下心を抱くのは仕方のないことだ。ルイス自身、それが兄たちにとって有益な相手であれば親しく接するよう努力した。
けれど、兄たちの存在を抜きにして、ルイス個人として人と関わった経験は皆無と言ってよかった。
学生時代には友人がいないでもなかったが、卒業して以降は誰とも連絡を取っていない。モランだって、もとはウィリアムが連れてきて、今はアルバートから森番としての職務を拝命している人間なのだからノーカウントだ。
フレッドに対してどう接すればよいのか、ルイスには分からなかった。こういう時、普通の友人ならどうするのだろう――。
そしてルイスははたと気がつく。
自分は、彼と友人になりたいのか? どうして。
昨日顔を合わせたばかりの相手と?
思考は堂々巡りを繰り返すばかりだった。
一人でうんうん唸っていると、テラスに続く掃き出し窓から庭師のクリントがひょっこりと顔を出した。
「今日のお庭の手入れ、終わりましたので」
「あ、はい……。ありがとうございます、お疲れ様でした」
ルイスは慌てて立ち上がった。
そのまま帰ると思われたクリントはしばし躊躇った後、「あの」と切り出した。帽子を脱いで、いつになく改まった様子だ。
「ルイスさん、お願いがありまして」
「はい、何でしょう?」
「アルバート様に少しお時間をいただけないか、頼んでいただけないでしょうか」
「それはもちろん構いませんけど……どうかなさいましたか?」
「実は、息子が結婚することになりまして」
「え、そうなんですか。おめでとうございます」
クリントの息子といえば、地元の学校を出て大きな街で役人になったと聞いている。ルイスとはいくらか年が離れているのであまり交流したことはなかったが、大らかでとても気のいい男だったことは印象に残っていた。
クリントは誇らしげに胸を反らしたが、けれどすぐに浮かない顔に戻った。
「それで、その……これを機にあちらで一緒に暮らさないかと言われているんです。相手方も是非にと言ってくれているようで、こんな年寄りには願ってもない話です。ですので、お暇をいただきたくて……」
「そうでしたか……」
「先代の頃から良くしていただいたのに、申し訳ありません」
「いえ、謝ることではありませんよ。アルバート兄様も、すぐにお祝いを準備するようおっしゃるはずです」
「そんな、とんでもない」
「直接お話ができるように伝えておきますね。明日の夜でいかがです? 夕方には戻られる予定なので」
「はぁ、よろしくお願いします」
クリントは恐縮しながら出て行った。
*
それから数日が過ぎた。
クリントは無事アルバートと話をつけて、引っ越しの支度に取りかかっていた。村では親しかった者たちが寄り集まってささやかな宴が催され、モリアーティ家も長年勤めてくれた彼と彼の息子へ心づくしの祝いの品を贈った。
近いうちに代わりの庭師を探さなければならなかったが、この田舎町ではすぐに代わりが見つかるとは思えない。当面の間はルイスがカバーできるよう、多少なりともが仕事を覚えておく必要があった。
その日、クリントは新しく住む街へ引越し前の下見に出かけていたので、ルイスは午後から庭に出ていた。
草木に水をやり、目立つ雑草を引き抜いて、芝生の手入れを行うつもりだったが、芝刈り機は案外重い。慣れないルイスが一人で広い屋敷の庭を刈り込むのは結構な重労働だった。
だから裏口の外に人の気配を感じたとき、やっと来た、と思った。
ルイスは裏口の木戸を勢いよく開け放った。
「遅いですよモランさん! ………あ」
そこにいたのは、モランではなくあの青年だった。フレッドはいきなり戸が開いたこととルイスの勢いにひどく驚いた様子だった。
ルイスは慌てて弁解した。
「あ、あの、すみません。てっきりモランさんかと……」
「……大丈夫です、びっくりしただけで。あの、これを……」
彼はバスケットを差し出した。
すっかり忘れていたが、先日ローストビーフを入れて渡した例のバスケットだった。
中には綺麗に洗われた皿と、やはり薔薇の花が入っている。今回は小ぶりな白い薔薇が五本、簡単なブーケになっていた。
ルイスは思わず顔を綻ばせた。
「ありがとうございます。綺麗ですね」
居間や玄関の大きな花瓶に生けるよりは、小さなガラス瓶に挿して窓辺に飾っておきたくなるような花束だった。慎ましやかでとても可愛らしい。
褒められたフレッドはわずかに頬を赤らめて、くすぐったそうに首をすくめた。
「こちらこそありがとうございました。お肉、美味しかったです。…………フレディも、喜んでました」
「よかった。ところで、モランさんは一緒じゃないんですか?」
「え? いえ……」
フレッドは目を瞬かせた後、ふるふると首を振った。
「モランは、用事があるみたいでした。ここへ来る途中に寄ったんですが、『今日は忙しい』と……」
「そう、ですか…………」
「どうかしたんですか?」
「いえ、モランさんに庭仕事の手伝いをお願いしていたので……」
逃げたな、と思ったが、さすがにフレッドの前では口に出せなかった。
「あの、僕でよければお手伝いします」
「え」
「モランは今日は来られませんし、ルイスさん一人でするのも大変だと思うので……」
目は心の窓とはよく言ったものだが、彼の目に浮かんでいるのは間違いなく、眩しいまでの善意だった。
……もしかして、モランは彼がこう言うであろうことを見越していたのではないだろうか。ルイスはそう勘繰らずにはいられなかった。
フレッドの申し出は正直ありがたい。しかし普段からこうやって仕事や雑用を彼に押し付けていないか、あとでモランを問い詰めておく必要があるだろう。
「では……お願いしてもいいですか」
「はい」
「無理はしないでくださいね。腕、怪我していたでしょう」
フレッドは少し驚いたような顔をしてから、はにかんだように小さく頷いた。
*
それから二人で交代しながら芝刈り機を動かした。最初はおっかなびっくりだったフレッドも、すぐにコツを掴んですいすいと調子良く芝を刈ってくれた。
あまりこき使うのも申し訳なかったので芝刈りまでで終わりにするつもりだったのに、彼が庭の花壇にも興味を示したので、結局花の世話まで手伝ってもらった。
普段からあの温室の管理をしているだけあって、フレッドの手際は素晴らしかった。葉を傷つけないように虫を取る方法や摘み取るべき芽の選び方など、ルイスの方が教わることが多かったくらいだ。
おそらく、モランと二人ではこうは行かなかっただろう。普段彼に「お前は細かすぎる」と散々不満を言われるルイスの目から見ても、黙々と作業に打ち込むフレッドの手つきはとても丁寧で細やかだった。本当に、花が好きなのだろう。
花壇の手入れを終えたところで、ルイスは庭の掃き掃除を彼に頼んだ。
「すみません、少しの間外します。すぐに戻りますが、何かあったら呼んでください」
彼が小さく頷いて作業に取りかかったのを見届けてから、ルイスは屋敷の中に引っ込んだ。
しばらくして庭に戻ると、ちょうど彼は落ち葉や枝切れを一箇所に集め終えたところだった。
「お疲れ様です。ありがとうございました」
「いえ」
「あの、よければお茶にしませんか。タルトを焼きましたので」
そう告げると、フレッドは「え」と小さく声を上げた。
「もともとモランさんにお出しするつもりで用意していたんです。食べていってください」
そう言ってしまえば、彼は断わらないだろうという予感があった。用事があったとはいえ彼の方から訪ねてきてくれたこと、手伝いを申し出てくれたことが嬉しくて、もう少しだけ、彼を引き止めていたかった。
フレッドはどこか落ち着かない様子でテラスのテーブルに腰掛けた。カスタードクリームをたっぷり使った木苺のタルトにナイフを入れるのを、固唾を飲んで見守っている。おかげで、ルイスの方まで何となく緊張してしまった。
切り分けて皿に移し、フレッドの前に差し出す。「どうぞ」と促すと、彼は恐る恐るフォークを手に取った。
「あったかい」
ひとくち食べて、彼はそう呟いた。
そのちいさな子どものような感想に、ルイスはほっと息をついた。
「焼きたてですから」
「美味しいです。宝石みたいなのに、甘くてあったかい」
つやつやと輝く真っ赤な木苺のことを言っているのだろうか。彼が口にすると気取った比喩にも聞こえないから不思議だ。
まっすぐな褒め言葉がくすぐったくて、ルイスは表情が緩みそうになるのを口をきゅっと引き結んで堪えた。あまり表情に起伏のない彼もどことなく嬉しげに見えるのは気のせいだろうか。
例えば自分に弟ができたら、きっとこんな感じなのだろうか。自分のタルトをつつきながら、ルイスは考えた。
「……もう一つ、食べますか?」
気づけばそう口にしていた。小さくなってきたタルトを、名残惜しそうにゆっくりと食べているのが可愛らしかった。
「え、でも……」
「この家には兄二人と、僕だけです。どちらにせよ余ってしまうので、良ければ」
「……いえ、僕は一ついただけただけで満足です。モランの分、取っておいてあげてください」
遠慮する上にそんなことを言うので、ルイスは思わず頬を膨らませた。
「手伝いを放り出した人の分はありません」
「うっかり忘れてしまっただけだと思います。今日、何か用事があるって言ってましたし……」
「まだ信じてるんですか、それ」
「え?」
「……ふふ」
ルイスが笑うと、彼はなぜ笑われているのかわからない、といった顔で不思議そうに首を傾げた。
「モランさんとは……仲がいいんですね」
どう話を振ったものか悩んで、結局は『共通の知人』という無難な話題に落ち着く。
フレッドは首をひねった。
「仲がいい……んでしょうか。面倒は、見てもらっています」
「確かに、面倒くさがりなようで人の世話を焼くのが好きな方ですからね」
「はい。色んなことを教えてもらいました」
「あんな森の奥で暮らすのは大変でしょう」
フレッドは黙って曖昧に頷いた。
詮索しているように取られたかもしれない。ルイスは自分の話に舵を切った。
「実は、この間は森で落とし物をしてしまったんです。それで引き返したところを、道に迷ってしまって……」
「そうだったんですか」
「森は昼と夜では景色が変わると言い聞かされてはいましたが、改めてそのことを実感しました。どこでいつもの道から外れてしまったのかもわからないんです」
「昼間は見落とすはずがないと思っていた小道や目印も、日が落ちると途端に見えなくなってしまいますからね」
「そうなんです。そんな真っ暗な中でも君の家まで連れて行ってくれたんですから、フレディはほんとうにお利口ですね」
「…………」
フレッドは少しうつむいて、残り少ないタルトをつついた。しかしその沈黙は決して気まずいものではなく、どこか誇らしげな空気さえ見て取れた。
「あ、それに、その落とし物は朝になったら君の家の前に落ちていたんです。そんなところで落としたはずがないのに。フレディが見つけて、拾ってきてくれたのでしょうか」
フレッドは「どうでしょう」と首を傾げた。
「でも見つかってよかったですね。大事な万年筆だったんでしょう」
「ええ、それはもう」
ルイスは彼の言葉に頷いてから、ふと違和感を覚えた。
「……どうして、僕が落としたのが万年筆だと?」
純粋に疑問に思ってそう尋ねると、彼は表情を凍りつかせた。
「も、モランから……」
「……モランさんにも、話していません。兄さんたちにも、街の人達にも、『道に迷った』としか説明していません。知っているのは……」
その続きを口にするより早く、フレッドが弾かれたように立ち上がった。皿の上に放り出されたフォークがカチャンと耳障りな音を立てる。
「ごめんなさい、帰ります。ごちそうさまでした」
彼は早口にそれだけ言うと、逃げるように裏口の方へ走っていった。呼び止める暇もなかった。
ルイスはどこか途方に暮れた気持ちで、彼が出ていった後も暫くの間、裏の木戸を眺めていた。
花壇のレンガの上に水色の布のかたまりがあるのに気がついた。彼が巻いていたストールだ。
作業中に外して、そのまま忘れていったのだろうか。そういえば途中から付けていなかった気がする。
ルイスはストールを拾い上げた。
今から追いかければ、おそらく、間に合う。
それでも、足が動かなかった。
これをこのまま持っていれば、また明日、彼が訪ねてきてくれるかもしれない。そんなずるい期待が頭を過ぎったが、ルイスはため息をついてストールを丁寧に畳み直した。
(……明日、モランさんに渡そう)
彼はなぜ、ルイスが万年筆を落としたことを知っていたのだろう。森に落ちていたのを拾ってくれたのがフレッドだったとしても、誰のものかは分からなかったはずだ。
そして、ルイスが万年筆のことを話したのはあの狼犬だけだ。彼はどこかであの独り言ともつかない言葉を聞いていたのだろうか? 盗み聞きをしていたことがばれてきまりが悪くなったから、逃げるように帰っていってしまったのか? そもそも、彼はあの夜どこにいたのだろう?
分かりそうで、分からない。
しかし、一つだけ、たしかな糸口があった。
冷めきったお茶と皿に残されたタルトを片付けながら、ルイスはその糸を手繰ることを心に決めた。
初出:Pixiv 2022.11.17
The Heavenly Dispensing
フレッド人狼パロ②
翌朝目を覚ますと、狼犬の姿はなかった。
あの小さいドアから朝の散歩にでも行ってしまったのだろうか。
ブランケットのおかけで冷えることはなかったが、椅子で寝たせいで少し身体が痛い。伸びをしながら、そういえばこの部屋にはベッドがないな、とぼんやりと考えた。
ルイスは小屋の外に出た。日はすでに登っているようだが、森の奥はまだ薄暗くて夜気の冷ややかさが残っている。
あの狼犬か、でなければこの小屋の主人が戻ってきてはいないだろうか。ウィリアムとアルバートが心配しているだろうがこのまま黙って出ていくのも不作法に思えて、ルイスは小屋の周りを歩いてみた。
昨夜は気が付かなかったが、小屋のすぐ裏手にもう一つ、ガラス張りの小屋があった。
「温室……?」
好奇心からそっとガラス戸を押し開けて中をのぞき込み、ルイスは息を呑んだ。
温室の中には、こんな森の奥とは思えないほど色とりどりの薔薇がところ狭しと咲き乱れていた。一歩中に足を踏み入れた途端、豊かな芳香が鼻先をくすぐる。
屋敷の庭にも薔薇園はあったが、こちらの温室のほうが小さい分だけ花に包まれている心地がした。思いがけず出くわした色鮮やかな光景は、どこか夢を見ているようだった。
初めて来る場所なのに、どこか懐かしいような――
「ルイス」
「わ……、モランさん」
背後から声をかけられて、ルイスは小さく飛び上がった。
温室の入り口でいくらか身を屈めながら、モランがこちらをのぞき込んでいる。彼はルイスの顔を見るなり大きなため息をついた。
「こんなところにいやがった。大丈夫か?」
「あ、はい……」
「怪我もないな」
「してません。……僕は」
「帰るぞ、ウィリアムたちが大騒ぎしてる」
彼がさっさと出ていってしまったので、慌てて後を追った。小屋の正面の小道に出たところで、ルイスは「あっ」と声を上げた。
「どうした?」
「僕の万年筆……」
小道の真ん中に、昨夜なくしたはずの万年筆が落ちていた。
万年筆がなくなったことに気がついたのは森の入り口近くだったから、ここに落としたはずがない。先ほど小屋を出たときにも落ちてはいなかったはずだら、誰かがここに置いたとしか考えられなかった。
ルイスは少し先で待っていたモランの方へ駆け寄った。
「モランさん、あの小屋には誰が住んでいるのですか? 兄様たちはご存知なのですか?」
「…………」
「モランさん?」
「あー、何つうか……。ちょっと訳アリなんだ」
「……どういうことですか?」
ルイスの声が険しくなったので、モランは苦笑しながらひらひらと手を振った。歩調は緩めないまま、彼はまっすぐに街の方へ進んでいく。大柄な彼の歩幅に合わせなくてはならないので、ついていく方は必死だった。
ルイスは肩越しにちらりと背後を振り返った。三角屋根の小屋は、木立に隠れてもう見えない。
「別にお尋ね者を匿ってるわけじゃねぇよ。ただ事情があって、俺がある奴に貸してる小屋なんだ。悪いようにはしねぇから他の連中には……アルバートとウィリアムにも黙っといてくれねぇか」
「兄様にも内緒で、領主の森に人を住まわせているのですか?」
「頼む」
モランがいつになく真剣な顔でそう言うので、ルイスはぐっと気圧された。「悪いようにはしない」といいながら否定も肯定もしないところに少し引っかかるものを覚えたが、ルイスは頷いた。
「……わかりました、黙っておきます。その代わり、あそこに住んでいる方のこと、教えてください。あの犬のことも」
「あー……」
「昨夜、道に迷って狼に襲われたんです。あの子が助けにきてくれなかったら噛み殺されるところでした。お礼がしたいんです。それに、僕のせいで怪我を……。飼い主の方にも勝手に小屋を使わせてもらったお詫びをしないと」
「……わかった。あのフィッシュパイ、分けておいてやるよ」
「もう! ごまかさないでください!」
声を上げるルイスを無視して、モランは前方に向けて手を振った。
見ると、森の入り口あたりに数人の人だかりが出来ている。近づいて来るモランに気がついて、その中心にいた人物が一目散に駆け寄ってきた。
「ルイス!」
「兄さん」
「あぁ、ルイス……。よかった、本当によかった。怪我はない? 一晩どこに行ってたの?」
ルイスをぎゅうぎゅう抱きしめながら、一つ年上の兄は「よかった、よかった」としきりに繰り返した。
ウィリアムに続いて、アルバートも早足に歩み寄ってきた。領民たちの前である以上平静を保ってはいたが、表情には隠しきれない安堵の色が浮かんでいる。
「ルイス、お前が戻らないから心配したよ」
「ごめんなさい。兄さん、兄様」
ウィリアムとアルバートの後ろには、朝早い時間にも関わらず街の人間が何人かいた。森に入ってルイスの捜索をするつもりで集まってくれたのだろう。ルイスが姿を見せたことで、皆一様にほっとした顔をして朗らかに微笑んでいる。
「モランのところにいたのかい?」
「えっと……」
「森で道に迷ったそうだが、運良く使ってない物置小屋を見つけてな。そこで一晩明かしたんだとよ」
モランがすかさず補足した。ルイスが小さく頷くとウィリアムとアルバートも納得したようで、それ以上は追及されなかった。
集まってくれた者たちに心配をかけてしまったことを詫びて、その場は解散となった。
*
翌日、買い出しから帰ってくると、屋敷の庭で通いの庭師が植え込みの剪定作業をしていた。彼はルイスの姿を見るなり、帽子を取って軽く頭を下げた。
「ルイスさん、おかえりなさい」
「ただいま戻りました、クリントさん」
もう何年も前から庭の手入れをしてくれている気心の知れた者なので、ルイスも気軽に応えた。
「あ、ついさっきモランさんがいらしていましたよ。バスケットを返しに」
彼が指差したガーデンテーブルの上に、先日彼に渡したバスケットが置かれていた。フィッシュパイを入れていたものだ。クリントに礼を言いながらバスケットを取り上げると、中には綺麗に洗われた皿と、薔薇が一輪入っていた。
「見事な薔薇ですねぇ。わざわざ買ってこられたんでしょうか」
クリントは首を傾げていたが、ルイスはそれがモランからの贈り物ではないことがすぐにわかった。
あの温室に咲いていた薔薇だった。
*
一輪挿しの花瓶を探し出してきて、キッチンの窓辺に飾った。夕食用のパイが焼けるのを待ちながら、ルイスはスツールに腰掛けてぼんやりとその花を眺めていた。
紫がかった濃い赤の薔薇だった。
偶然にも、ルイスの瞳に似た色をしていた。
モランがルイス宛にわざわざ花を用意するとは思えないから、やはりあの温室に咲いていたもので間違いない。花びらには優雅な厚みがあり、棘は丁寧に取り除かれていた。
モランは言った通りに、あの狼犬の飼い主にフィッシュパイを分けてくれたのだろう。そしてその人物はささやかなお礼のしるしとして、あの温室の薔薇を添えてくれたに違いない。
どんな人物なのだろう。
あんな森の奥で隠れて暮らすなんて、よほどの事情があるように思えた。少なくとも、街で暮らしていけないような犯罪者ではないことは分かる。モランが否定していたし、あの利口な狼犬と共に花を育てて暮らしている人間が悪人とは思えなかった。
であれば、彼――あるいは彼女――が森の奥に隠れ住む理由とはなんだろう?
ルイスは無意識のうちに自分の頬に触れていた。
(人前に出られないほど醜い傷がある、とか……)
ルイスの頬には、子どもの頃別荘の火事で負った火傷の痕があった。その時のことはあまりよく覚えていない。髪や服に燃え移らなかっただけ幸運と言えたが、右頬の皮膚は十年以上経った今でも歪に引き攣れたままだった。
年若い娘ならまだしも、ルイスは自分の美醜に対する執着はさほど持ち合わせていなかった。けれど、あまり人前に顔を晒したくないという気持ちはよくわかる。美しい兄たちを褒めそやしていた人間がルイスからは気まずそうにそっと目を逸らす、そんな場面がこれまで幾度となくあった。
「…………」
根拠なくあれこれと考えたところで仕方のないことだ。今はモランと、自分の受けた印象を信じよう。
そこで一旦思考を打ち切ったが、しかしルイスにはもうひとつ気がかりがあった。
(フィッシュパイ、玉ねぎが入っていたから、あの子は食べられなかっただろうな……)
狼をはじめとする犬科の動物にとって、玉ねぎは猛毒だ。彼がありつけたのはせいぜいイワシの頭くらいで、パイはほとんどモランと飼い主の胃袋に収まってしまっただろう。
怪我は大丈夫だろうか。
思えば、いくら人に飼い慣らされているからといって、狼の群れにたった一匹で立ち向かうとはなんて勇敢な犬だろう。勝ち目なしと判断してルイスを見捨てたとしても仕方ない状況だったはずだ。
モランから黙っていろと言われたということはそれがあの犬の飼い主の意向でもあるはずなのだが、勇戦したご褒美がイワシの頭だけというのはあまりに可哀想だった。
考えた結果、ルイスは財布を手に奮然と立ち上がった。
*
ノッカーを掴んで森番小屋の扉を叩くと、モランはすぐに出てきた。彼はルイスを見るなりぎょっとした顔をした。
「おまっ……昨日の今日で来たのかよ。一人か?」
「はい。約束通り、兄さんにも兄様にも話していません。すぐに帰りますよ」
「あ? じゃあ何しに……」
来たのか、と言いかけたところで、モランはルイスがまた同じバスケットを下げていることに気がついたようだった。
「モランさんのじゃありませんよ。あの森の奥の小屋の持ち主に渡してください」
ルイスは念を押しながら、それを彼の鼻先に突きつけた。
中にはずっしりとしたローストビーフがひとかたまり入っている。肉屋で買ってきた一番いいもも肉を、低温でじっくりと焼いたものだ。香草で臭み取りこそしてあるが、あの犬がそのまま食べられるように味付けはしていない。人間用のソースは一応小瓶に詰めて添えてあった。
ルイスがそのことを説明しようとすると、モランはガシガシと頭をかいた。
「あー、そうだよなぁ……」
「モランさん?」
「……ちょっと待ってろ。おい、フレッド!」
モランが急に部屋の奥に向かって大声で怒鳴ったので、ルイスは目を丸くした。
「誰かいたのですか? 来客中にすみません」
「いや、いい。待ってろ。おぉい、フレッド! ちょっと来い! …………ったく。おい、ルイスあがれ」
「え? ちょ、モランさん?」
焦れたモランに腕を掴まれ、ルイスは小屋の中に引っ張り込まれた。短い廊下を二、三歩で通り越して、客間を兼ねた居間へ踏み込んだ。
「…………っ!」
部屋の窓の前に、一人の青年が立っていた。
ルイスよりはいくつか年下だろうか。短くて黒い髪はモランに似ていたが、それ以外は彼とは正反対だ。小柄で、頬の輪郭にはまだ幼げな丸みが残っている。
彼はルイスと目が合わないようにぱっと顔を背けて、首に巻いた水色のストールを口元まで引き上げた。
「玄関はこっちだ。窓から出るなよ」
「…………」
モランがからかうと、彼は何も言わずにじとりと睨み返した。本気で怒っているようには見えない。気心知れた相手に対する目つきに見えた。
「ほら、ルイスがお前にって」
モランがずいとバスケットを突き出したので、ルイスと青年は同時に「えっ」と声を上げた。
「モラン……!!」
「彼が、あの小屋の?」
「おう、フレッドだ。いいタイミングだったな」
ルイスはもう一度、まじまじと彼を観察した。
醜い傷があるわけでもない、ごく普通の青年だ。もちろん凶悪な犯罪者にも見えない。ルイスの視線に居心地悪そうにしながらも、かといって今から逃げるのも背中を向けるのも失礼だし……と戸惑う様子がありありと見て取れた。
「フレッドさん、あの、ルイスといいます。勝手に家に上がってしまってすみませんでした。それから、あの子にも怪我をさせてしまって……。これ、ささやかですがそのお礼です」
「…………」
「ほんとうに、ありがとうございました」
ルイスは深々と頭を下げた。
「あの子の怪我の具合はいかがですか?」
「あの子……?」
「あのワンちゃんです」
「わ、ワンちゃん」
「ぶっ」
横で聞いていたモランが何故か吹き出した。
他所様の飼い犬を「あの犬」呼ばわりするのも気が引けたのだが、そんなにおかしな言葉だっただろうか。ルイスは少し口を尖らせながら尋ねた。
「あの子、何という名前なんですか?」
「え……っと、あの」
「フレディ、な」
口ごもるフレッドに、モランが横から助け舟を出した。
フレッドに、フレッドの飼い犬のフレディ?
偉人や物語の登場人物の名前を飼い犬につけることはよくあるらしいが、自分の愛称をつけるのはあまり聞いたことがない。ルイスは首を傾げた。
「コインの裏表みたいなもんだからな」
「……」
フレッドが無言でモランの背中を殴った。
それくらい仲がいい、ということだろうか。
「……もう帰る」
フレッドはモランに短くそう告げると、ルイスに黙礼してそそくさと出ていこうとした。
「あっ、待って……」
「痛っ……!」
とっさに腕を掴むと、彼が短く悲鳴を上げた。
「あ……、ごめんなさい! 怪我してたんですね」
ルイスは慌てて手を離した。よく見ると、左の袖口から包帯が覗いている。
「大丈夫ですか? すみません、気が付かずに……」
「いえ……、平気です」
フレッドは気まずそうに袖を隠した。
足早に玄関に向かおうとする彼を、今度はモランが捕まえた。
「おいフレッド、帰るならちょうどよかった。ルイスを送ってやってくれ」
「えっ」
「また一人で森に入ったって知ったらこいつの兄貴たちが心配するだろ」
「……モランが行けば……」
「なんだよ、ルイスと二人は嫌か?」
「…………」
なんだか妙な流れになってきた。初対面の相手を無理に付き合わせるのも申し訳ない。ルイスは辞去しようとしたが、それよりも早くフレッドがこちらを向いた。
「……ご一緒します」
*
結局モランに押し負けて、彼に送っていってもらうことになってしまった。前を歩く、頭一つ分背の低い彼に話しかける。
「あの、すみません、モランさんが……。この間はたまたま迷ってしまっただけで、道はわかります。途中までで結構ですよ」
「いえ、出口までは……」
それだけ答えて、また彼は黙ってしまった。
口数が少なく表情にあまり変化が見られないが、ルイスとの会話を拒んでいるようには見えない。むしろ、彼の方が賢明に言葉を探してくれているように思えた。
ルイスとてお喋りな方ではなかったが、もう少し、彼と話がしてみたかった。
「薔薇、ありがとうございました。君が育てたんですか?」
「あ……はい」
「すごいですね。あの温室もとても綺麗でした。あ、勝手に入ってごめんなさい」
「いえ、それは全然。……ありがとう、ございます」
「また見に行ってもいいですか? フレディにも会いたいので」
「…………」
しばしの沈黙の後、フレッドは口を開いた。
「……フレディ、は……いつも昼の間はどこかに行って、いないんです」
「そうなんですか。夜には帰ってくるのなら、自分のうちだとちゃんと理解しているんでしょうね」
そういえば、この青年はあの夜どこにいたのだろう。ふとそんな疑問が頭を過ぎった。
「じゃあ、僕はここで。……これ、ありがとうございます」
そのことについて尋ねる前に、いつの間にか森の出口に着いていたようだ。フレッドはバスケットを胸のあたりまで持ち上げてぺこりと頭を下げた。
「お礼ですから。フレディと一緒に食べてください」
「……はい。フィッシュパイも、おいしかったです」
「それはよかった」
もう一度頭を下げると、彼は足早に来た道を引き返していった。
いつの間にか太陽は傾いて、その色を徐々に濃くしながら山の向こうに消えようとしている。じきにウィリアムが大学から帰ってくる時間だ。早く屋敷に戻って夕飯の支度をしなくては。
温室を見に行ってもいいか、という問いに対して彼は「いい」とも「駄目だ」とも答えなかった。そのことが少しだけ寂しかった。
初出:Pixiv 2022.11.05
フレッド人狼パロ②
翌朝目を覚ますと、狼犬の姿はなかった。
あの小さいドアから朝の散歩にでも行ってしまったのだろうか。
ブランケットのおかけで冷えることはなかったが、椅子で寝たせいで少し身体が痛い。伸びをしながら、そういえばこの部屋にはベッドがないな、とぼんやりと考えた。
ルイスは小屋の外に出た。日はすでに登っているようだが、森の奥はまだ薄暗くて夜気の冷ややかさが残っている。
あの狼犬か、でなければこの小屋の主人が戻ってきてはいないだろうか。ウィリアムとアルバートが心配しているだろうがこのまま黙って出ていくのも不作法に思えて、ルイスは小屋の周りを歩いてみた。
昨夜は気が付かなかったが、小屋のすぐ裏手にもう一つ、ガラス張りの小屋があった。
「温室……?」
好奇心からそっとガラス戸を押し開けて中をのぞき込み、ルイスは息を呑んだ。
温室の中には、こんな森の奥とは思えないほど色とりどりの薔薇がところ狭しと咲き乱れていた。一歩中に足を踏み入れた途端、豊かな芳香が鼻先をくすぐる。
屋敷の庭にも薔薇園はあったが、こちらの温室のほうが小さい分だけ花に包まれている心地がした。思いがけず出くわした色鮮やかな光景は、どこか夢を見ているようだった。
初めて来る場所なのに、どこか懐かしいような――
「ルイス」
「わ……、モランさん」
背後から声をかけられて、ルイスは小さく飛び上がった。
温室の入り口でいくらか身を屈めながら、モランがこちらをのぞき込んでいる。彼はルイスの顔を見るなり大きなため息をついた。
「こんなところにいやがった。大丈夫か?」
「あ、はい……」
「怪我もないな」
「してません。……僕は」
「帰るぞ、ウィリアムたちが大騒ぎしてる」
彼がさっさと出ていってしまったので、慌てて後を追った。小屋の正面の小道に出たところで、ルイスは「あっ」と声を上げた。
「どうした?」
「僕の万年筆……」
小道の真ん中に、昨夜なくしたはずの万年筆が落ちていた。
万年筆がなくなったことに気がついたのは森の入り口近くだったから、ここに落としたはずがない。先ほど小屋を出たときにも落ちてはいなかったはずだら、誰かがここに置いたとしか考えられなかった。
ルイスは少し先で待っていたモランの方へ駆け寄った。
「モランさん、あの小屋には誰が住んでいるのですか? 兄様たちはご存知なのですか?」
「…………」
「モランさん?」
「あー、何つうか……。ちょっと訳アリなんだ」
「……どういうことですか?」
ルイスの声が険しくなったので、モランは苦笑しながらひらひらと手を振った。歩調は緩めないまま、彼はまっすぐに街の方へ進んでいく。大柄な彼の歩幅に合わせなくてはならないので、ついていく方は必死だった。
ルイスは肩越しにちらりと背後を振り返った。三角屋根の小屋は、木立に隠れてもう見えない。
「別にお尋ね者を匿ってるわけじゃねぇよ。ただ事情があって、俺がある奴に貸してる小屋なんだ。悪いようにはしねぇから他の連中には……アルバートとウィリアムにも黙っといてくれねぇか」
「兄様にも内緒で、領主の森に人を住まわせているのですか?」
「頼む」
モランがいつになく真剣な顔でそう言うので、ルイスはぐっと気圧された。「悪いようにはしない」といいながら否定も肯定もしないところに少し引っかかるものを覚えたが、ルイスは頷いた。
「……わかりました、黙っておきます。その代わり、あそこに住んでいる方のこと、教えてください。あの犬のことも」
「あー……」
「昨夜、道に迷って狼に襲われたんです。あの子が助けにきてくれなかったら噛み殺されるところでした。お礼がしたいんです。それに、僕のせいで怪我を……。飼い主の方にも勝手に小屋を使わせてもらったお詫びをしないと」
「……わかった。あのフィッシュパイ、分けておいてやるよ」
「もう! ごまかさないでください!」
声を上げるルイスを無視して、モランは前方に向けて手を振った。
見ると、森の入り口あたりに数人の人だかりが出来ている。近づいて来るモランに気がついて、その中心にいた人物が一目散に駆け寄ってきた。
「ルイス!」
「兄さん」
「あぁ、ルイス……。よかった、本当によかった。怪我はない? 一晩どこに行ってたの?」
ルイスをぎゅうぎゅう抱きしめながら、一つ年上の兄は「よかった、よかった」としきりに繰り返した。
ウィリアムに続いて、アルバートも早足に歩み寄ってきた。領民たちの前である以上平静を保ってはいたが、表情には隠しきれない安堵の色が浮かんでいる。
「ルイス、お前が戻らないから心配したよ」
「ごめんなさい。兄さん、兄様」
ウィリアムとアルバートの後ろには、朝早い時間にも関わらず街の人間が何人かいた。森に入ってルイスの捜索をするつもりで集まってくれたのだろう。ルイスが姿を見せたことで、皆一様にほっとした顔をして朗らかに微笑んでいる。
「モランのところにいたのかい?」
「えっと……」
「森で道に迷ったそうだが、運良く使ってない物置小屋を見つけてな。そこで一晩明かしたんだとよ」
モランがすかさず補足した。ルイスが小さく頷くとウィリアムとアルバートも納得したようで、それ以上は追及されなかった。
集まってくれた者たちに心配をかけてしまったことを詫びて、その場は解散となった。
*
翌日、買い出しから帰ってくると、屋敷の庭で通いの庭師が植え込みの剪定作業をしていた。彼はルイスの姿を見るなり、帽子を取って軽く頭を下げた。
「ルイスさん、おかえりなさい」
「ただいま戻りました、クリントさん」
もう何年も前から庭の手入れをしてくれている気心の知れた者なので、ルイスも気軽に応えた。
「あ、ついさっきモランさんがいらしていましたよ。バスケットを返しに」
彼が指差したガーデンテーブルの上に、先日彼に渡したバスケットが置かれていた。フィッシュパイを入れていたものだ。クリントに礼を言いながらバスケットを取り上げると、中には綺麗に洗われた皿と、薔薇が一輪入っていた。
「見事な薔薇ですねぇ。わざわざ買ってこられたんでしょうか」
クリントは首を傾げていたが、ルイスはそれがモランからの贈り物ではないことがすぐにわかった。
あの温室に咲いていた薔薇だった。
*
一輪挿しの花瓶を探し出してきて、キッチンの窓辺に飾った。夕食用のパイが焼けるのを待ちながら、ルイスはスツールに腰掛けてぼんやりとその花を眺めていた。
紫がかった濃い赤の薔薇だった。
偶然にも、ルイスの瞳に似た色をしていた。
モランがルイス宛にわざわざ花を用意するとは思えないから、やはりあの温室に咲いていたもので間違いない。花びらには優雅な厚みがあり、棘は丁寧に取り除かれていた。
モランは言った通りに、あの狼犬の飼い主にフィッシュパイを分けてくれたのだろう。そしてその人物はささやかなお礼のしるしとして、あの温室の薔薇を添えてくれたに違いない。
どんな人物なのだろう。
あんな森の奥で隠れて暮らすなんて、よほどの事情があるように思えた。少なくとも、街で暮らしていけないような犯罪者ではないことは分かる。モランが否定していたし、あの利口な狼犬と共に花を育てて暮らしている人間が悪人とは思えなかった。
であれば、彼――あるいは彼女――が森の奥に隠れ住む理由とはなんだろう?
ルイスは無意識のうちに自分の頬に触れていた。
(人前に出られないほど醜い傷がある、とか……)
ルイスの頬には、子どもの頃別荘の火事で負った火傷の痕があった。その時のことはあまりよく覚えていない。髪や服に燃え移らなかっただけ幸運と言えたが、右頬の皮膚は十年以上経った今でも歪に引き攣れたままだった。
年若い娘ならまだしも、ルイスは自分の美醜に対する執着はさほど持ち合わせていなかった。けれど、あまり人前に顔を晒したくないという気持ちはよくわかる。美しい兄たちを褒めそやしていた人間がルイスからは気まずそうにそっと目を逸らす、そんな場面がこれまで幾度となくあった。
「…………」
根拠なくあれこれと考えたところで仕方のないことだ。今はモランと、自分の受けた印象を信じよう。
そこで一旦思考を打ち切ったが、しかしルイスにはもうひとつ気がかりがあった。
(フィッシュパイ、玉ねぎが入っていたから、あの子は食べられなかっただろうな……)
狼をはじめとする犬科の動物にとって、玉ねぎは猛毒だ。彼がありつけたのはせいぜいイワシの頭くらいで、パイはほとんどモランと飼い主の胃袋に収まってしまっただろう。
怪我は大丈夫だろうか。
思えば、いくら人に飼い慣らされているからといって、狼の群れにたった一匹で立ち向かうとはなんて勇敢な犬だろう。勝ち目なしと判断してルイスを見捨てたとしても仕方ない状況だったはずだ。
モランから黙っていろと言われたということはそれがあの犬の飼い主の意向でもあるはずなのだが、勇戦したご褒美がイワシの頭だけというのはあまりに可哀想だった。
考えた結果、ルイスは財布を手に奮然と立ち上がった。
*
ノッカーを掴んで森番小屋の扉を叩くと、モランはすぐに出てきた。彼はルイスを見るなりぎょっとした顔をした。
「おまっ……昨日の今日で来たのかよ。一人か?」
「はい。約束通り、兄さんにも兄様にも話していません。すぐに帰りますよ」
「あ? じゃあ何しに……」
来たのか、と言いかけたところで、モランはルイスがまた同じバスケットを下げていることに気がついたようだった。
「モランさんのじゃありませんよ。あの森の奥の小屋の持ち主に渡してください」
ルイスは念を押しながら、それを彼の鼻先に突きつけた。
中にはずっしりとしたローストビーフがひとかたまり入っている。肉屋で買ってきた一番いいもも肉を、低温でじっくりと焼いたものだ。香草で臭み取りこそしてあるが、あの犬がそのまま食べられるように味付けはしていない。人間用のソースは一応小瓶に詰めて添えてあった。
ルイスがそのことを説明しようとすると、モランはガシガシと頭をかいた。
「あー、そうだよなぁ……」
「モランさん?」
「……ちょっと待ってろ。おい、フレッド!」
モランが急に部屋の奥に向かって大声で怒鳴ったので、ルイスは目を丸くした。
「誰かいたのですか? 来客中にすみません」
「いや、いい。待ってろ。おぉい、フレッド! ちょっと来い! …………ったく。おい、ルイスあがれ」
「え? ちょ、モランさん?」
焦れたモランに腕を掴まれ、ルイスは小屋の中に引っ張り込まれた。短い廊下を二、三歩で通り越して、客間を兼ねた居間へ踏み込んだ。
「…………っ!」
部屋の窓の前に、一人の青年が立っていた。
ルイスよりはいくつか年下だろうか。短くて黒い髪はモランに似ていたが、それ以外は彼とは正反対だ。小柄で、頬の輪郭にはまだ幼げな丸みが残っている。
彼はルイスと目が合わないようにぱっと顔を背けて、首に巻いた水色のストールを口元まで引き上げた。
「玄関はこっちだ。窓から出るなよ」
「…………」
モランがからかうと、彼は何も言わずにじとりと睨み返した。本気で怒っているようには見えない。気心知れた相手に対する目つきに見えた。
「ほら、ルイスがお前にって」
モランがずいとバスケットを突き出したので、ルイスと青年は同時に「えっ」と声を上げた。
「モラン……!!」
「彼が、あの小屋の?」
「おう、フレッドだ。いいタイミングだったな」
ルイスはもう一度、まじまじと彼を観察した。
醜い傷があるわけでもない、ごく普通の青年だ。もちろん凶悪な犯罪者にも見えない。ルイスの視線に居心地悪そうにしながらも、かといって今から逃げるのも背中を向けるのも失礼だし……と戸惑う様子がありありと見て取れた。
「フレッドさん、あの、ルイスといいます。勝手に家に上がってしまってすみませんでした。それから、あの子にも怪我をさせてしまって……。これ、ささやかですがそのお礼です」
「…………」
「ほんとうに、ありがとうございました」
ルイスは深々と頭を下げた。
「あの子の怪我の具合はいかがですか?」
「あの子……?」
「あのワンちゃんです」
「わ、ワンちゃん」
「ぶっ」
横で聞いていたモランが何故か吹き出した。
他所様の飼い犬を「あの犬」呼ばわりするのも気が引けたのだが、そんなにおかしな言葉だっただろうか。ルイスは少し口を尖らせながら尋ねた。
「あの子、何という名前なんですか?」
「え……っと、あの」
「フレディ、な」
口ごもるフレッドに、モランが横から助け舟を出した。
フレッドに、フレッドの飼い犬のフレディ?
偉人や物語の登場人物の名前を飼い犬につけることはよくあるらしいが、自分の愛称をつけるのはあまり聞いたことがない。ルイスは首を傾げた。
「コインの裏表みたいなもんだからな」
「……」
フレッドが無言でモランの背中を殴った。
それくらい仲がいい、ということだろうか。
「……もう帰る」
フレッドはモランに短くそう告げると、ルイスに黙礼してそそくさと出ていこうとした。
「あっ、待って……」
「痛っ……!」
とっさに腕を掴むと、彼が短く悲鳴を上げた。
「あ……、ごめんなさい! 怪我してたんですね」
ルイスは慌てて手を離した。よく見ると、左の袖口から包帯が覗いている。
「大丈夫ですか? すみません、気が付かずに……」
「いえ……、平気です」
フレッドは気まずそうに袖を隠した。
足早に玄関に向かおうとする彼を、今度はモランが捕まえた。
「おいフレッド、帰るならちょうどよかった。ルイスを送ってやってくれ」
「えっ」
「また一人で森に入ったって知ったらこいつの兄貴たちが心配するだろ」
「……モランが行けば……」
「なんだよ、ルイスと二人は嫌か?」
「…………」
なんだか妙な流れになってきた。初対面の相手を無理に付き合わせるのも申し訳ない。ルイスは辞去しようとしたが、それよりも早くフレッドがこちらを向いた。
「……ご一緒します」
*
結局モランに押し負けて、彼に送っていってもらうことになってしまった。前を歩く、頭一つ分背の低い彼に話しかける。
「あの、すみません、モランさんが……。この間はたまたま迷ってしまっただけで、道はわかります。途中までで結構ですよ」
「いえ、出口までは……」
それだけ答えて、また彼は黙ってしまった。
口数が少なく表情にあまり変化が見られないが、ルイスとの会話を拒んでいるようには見えない。むしろ、彼の方が賢明に言葉を探してくれているように思えた。
ルイスとてお喋りな方ではなかったが、もう少し、彼と話がしてみたかった。
「薔薇、ありがとうございました。君が育てたんですか?」
「あ……はい」
「すごいですね。あの温室もとても綺麗でした。あ、勝手に入ってごめんなさい」
「いえ、それは全然。……ありがとう、ございます」
「また見に行ってもいいですか? フレディにも会いたいので」
「…………」
しばしの沈黙の後、フレッドは口を開いた。
「……フレディ、は……いつも昼の間はどこかに行って、いないんです」
「そうなんですか。夜には帰ってくるのなら、自分のうちだとちゃんと理解しているんでしょうね」
そういえば、この青年はあの夜どこにいたのだろう。ふとそんな疑問が頭を過ぎった。
「じゃあ、僕はここで。……これ、ありがとうございます」
そのことについて尋ねる前に、いつの間にか森の出口に着いていたようだ。フレッドはバスケットを胸のあたりまで持ち上げてぺこりと頭を下げた。
「お礼ですから。フレディと一緒に食べてください」
「……はい。フィッシュパイも、おいしかったです」
「それはよかった」
もう一度頭を下げると、彼は足早に来た道を引き返していった。
いつの間にか太陽は傾いて、その色を徐々に濃くしながら山の向こうに消えようとしている。じきにウィリアムが大学から帰ってくる時間だ。早く屋敷に戻って夕飯の支度をしなくては。
温室を見に行ってもいいか、という問いに対して彼は「いい」とも「駄目だ」とも答えなかった。そのことが少しだけ寂しかった。
初出:Pixiv 2022.11.05
The Heavenly Dispensing
フレッド人狼パロ(CP要素あり)。原作とは何も関係ない。
自分がいつ、どこで生まれたのかもわからない。
気がついたときには僕は『いた』。
太陽が沈み月が昇ると、僕の身体は獣に変わる。そして太陽が昇ると、今度は人間になる。この法則が乱れたことは一度もなく、どちらが本当の姿なのかは僕自身も知らなかった。
人間でも、狼でもなかった。当然、どちらの群れにも属することができなかった。
子どもの頃の僕は弱かった。
牙も爪も貧弱で獲物を狩るのに苦労したし、昼の間はそれすらも失われる。人間の子どもの姿では森の中を歩くことさえままならなかった。狼や鷹のような、他の強い動物たちは最初から僕のことを相手にしなかったから、何とか殺されずに済んだだけだ。
人間の中には優しくしてくれる人もいた。哀れな子ども、みすぼらしい野良犬だとお金や食べ物を分けてくれるのだ。
けれど、それは彼らが僕の正体を知らないからだった。
親切にしてもらえたことに舞い上がって、僕はたびたび失敗をした。時間が経つのを忘れて、昼と夜が入れ替わり姿が転じる瞬間をうっかり人前に晒してしまった。
化け物、と誰かが言った。
石を投げられて、箒でぶたれた。
悲しかったし痛かったけれど、何よりも辛かったのは彼らの怯えた目を見ることだった。
そうして惨めな思いをするたびに人間にはもう二度と関わるまいと心に決めるのに、時間はあっという間に僕の決意をなかったことにしてしまう。木の洞や路地裏でじっと息を潜めていると、数少ない嬉しかった出来事をくり返しくり返し思い出してしまうのだ。
教会で温かいスープを食べさせてもらったこと。同じくらいの歳の子どもが「一緒に遊ぼう」と言ってくれたこと。通りがかった男の人がぴかぴか光るコインをくれたこと。
寒いのも暗いのも、一人では耐えられなかった。人間が恋しくてたまらなかった。ほんのひと時でも彼らの輪の中に混ざっていたくて、ひどい目にあうとわかっていながら僕は街に下りていくのをやめられなかった。
その日も僕は懲りずに同じ失敗を繰り返した。
ぼろを纏って裸足で歩く僕を気の毒がって、通りがかったお婆さんがパンをくれた。その上「もうすぐひどい嵐になるから」と僕を家に入れてくれさえした。暖かい家の中で暖炉の前に座らせてもらうと、頭がぼうっとして涙がこぼれてきた。お婆さんは「辛かったんだね」と頭を撫でてくれた。僕は声を上げて泣いた。
そこで止めにしておくべきだったのだろう。隙を見て、彼女の親切に感謝しながらそっと家から抜け出すべきだった。
お婆さんの腕に抱かれて、僕はうとうとと居眠りをしてしまった。心地よいまどろみは、彼女のけたたましい悲鳴によって破られた。外ではいつの間にか日が暮れて、僕は灰色の獣の姿になっていた。
お婆さんは半狂乱になって、暖炉のそばに立てかけてあった火かき棒を手に取るとめちゃくちゃに振り回した。僕は必死で部屋の中を逃げ回った。しばらく格闘した後、お婆さんの手からすっぽ抜けた火かき棒が窓ガラスを割ったので、そこから何とか逃げ出すことができた。
お婆さんの言った通りひどい嵐になったから、追いかけてくる人間はいなかった。僕は後ろを振り返らずに走った。激しい風と大きな雨粒が顔に吹きつけて前も見えなかった。
僕のせいで窓ガラスが割れてしまったから、あのお婆さんは今夜困るかもしれない。怖い思いをさせて、彼女の優しさに最悪の形で報いてしまった。自分という存在が申し訳なくて、恥ずかしくて、僕は無我夢中で逃げた。
走って、走って、次第に足が動かなくなった。
たくさん走ったはずなのに、寒くてたまらなかった。どこか雨に濡れない場所に隠れなければならないと思ったけれど、横殴りの雨は木陰や軒下ではしのげそうにない。
僕にとって安全な場所はどこにもなかった。
ついに一歩も動けなくなって、僕は柔らかい草の上に倒れ込んだ。雨と風の音が遠のいて、いつしか寒さも感じなくなっていた。不思議と悲しくも怖くもなかった。ただ「もう死ぬのかな」と思っただけだった。
どうせ怪物に生まれたのなら、ひとりぼっちで生きていけるくらい強ければよかった。
◇◇◇◇◇◇
モリアーティ領内にある森は、オークやブナの木が生い茂る自然豊かな森だった。
かつては森の恵みを狙った密猟者が跡を絶たなかったそうだが、現領主であるアルバートに代替わりしてからはそういった話は聞いたことがない。
街が穏やかになれば、それを取り囲む森の中も長閑なものだった。木々の隙間から明るい日差しが降り注ぎ、そこかしこから小鳥のさえずりが響いている。時折木の上をちょこまかと走るリスの影が見えて、ルイスはその度足を止めて頭上を見上げた。
通い慣れた小道をたどって着いた先は、森番小屋だ。
扉をノックすると、森番を務めるモランが出迎えた。彼はルイスの顔を見るなり「おう」と気安い態度で片手を上げた。兄の遣いで訪れることも多かったから、彼もルイスも慣れたものだった。
「こんにちは、モランさん」
「美味そうな匂いだな……なんだ?」
「フィッシュパイです。イワシをたくさん頂いたのでおすそ分けしようかと」
持っていたバスケットを掲げてみせると、モランは「げ」と顔をしかめた。
「またそれか……。せめて塩漬けにしてくれよ」
「なんですかその言い草は! じゃあこれも必要ありませんね」
アルバートから預かっていた赤ワインのボトルをちらつかせると、モランは慌てたように手を振った。
「おいおい冗談だって。ありがたく頂戴するよ」
「まったくもう……」
ルイスは鼻を鳴らしながらボトルとバスケットを渡した。
それからしばらくの間、他愛のない世間話をした。話題は主に、付近一帯を治めるアルバートの近況であったり、近くの大学で数学を教えているウィリアムのことだ。
「じゃあ、僕はこれで。また夕食を食べにいらしてください」
「おう、あいつらにもよろしくな。送ってくか?」
「大丈夫です」
「わかった、じゃあ気をつけてな」
しばらく歩いて、森の出口近くまで差しかかったところだった。街に寄って買い物をするつもりだったので、ルイスは買い物のメモを確かめようとポケットの中を探った。
「あれ?」
メモはすぐに見つかった。けれど、一緒に胸ポケットに入れていたはずの万年筆がなくなっていた。すぐに他のポケットも探ってみたが、やはり無い。
家を出る前にメモを書いて、メモとあわせてポケットにしまったことは覚えている。けれど、家を出てからは万年筆をポケットから取り出した覚えはない。
歩いている途中にどこかに落としてしまったのだろうか。ルイスは急激に不安に襲われた。あの万年筆は兄たちが誕生日に送ってくれた大切なものだ。モランの家に置き忘れてしまったのならまだしも、どこか森の小道に落としてしまっていたとしたら……。
ルイスは辺りを見回した。
日が傾きはじめてはいるが、日没まではまだ時間がある。万年筆を探しながら来た道を引き返そう。もし途中で日が暮れてしまったら、モランに泊めてもらえばいい。以前にも、ウィリアムが彼の家で寝落ちてしまってそのまま泊めてもらったことがある。その時は屋敷で待っていたアルバートにはずいぶん心配をさせてしまったけれど、ルイスだってもう大人だ。モランの家に行くことは事前に伝えてある。万が一帰れなくなっても大丈夫なはずだ。
ルイスは踵を返して、歩いてきた道を引き返した。
草木や石ころの陰に万年筆が落ちていないか、注意深く探しながら歩いた。
はたと気づいて顔をあげると、辺りはずいぶん暗くなっていた。夕陽は立ち並ぶ木々に遮られて、もうほとんど消えかかっている。けれど、かなり歩いたから体感的にはそろそろモランの小屋に着くはずだ。
「あれ、ここは……?」
ルイスは、いつの間にか自分が見覚えのない場所に立っていることに気がついた。明るい昼間の森しか知らないから、夕暮れ時の光の加減で違った景色に見えているだけだと思いたかった。
森の出入り口から森番小屋までは、行き来する人も多いからある程度踏み固められた道がある。けれど今ルイスの足元に伸びている道は、見慣れたものよりかなり細く頼りなく見えた。
そもそも、これは本当に道なのだろうか?
小屋は森の出入り口から東に位置する。夕陽を背にして、暗い方に向かって歩けば辿り着けるはず。ルイスは万年筆を探すことを一旦諦め、モランの小屋を目指して歩調を早めた。
と、その時、木立の隙間に黒い影が見えた。
こんな森の中にいるのだからてっきりモランかと思ったが、違う。
人間の影ではない。
狼だ。
そう理解した瞬間、背筋に悪寒が走った。
狼は人の出入りの多い場所には現れない。ルイスは自分がいつの間にか森のずいぶん深くまで入り込んでしまっていたことを悟った。松明でもあればたいていの獣は怖がって近づいてこないはずだが、今のルイスはマッチすら持っていない。
小屋があると思われる方向に向けてひた走った。
狼はもう足音が聞こえるほどの距離まで迫っている。木立が邪魔をして何頭いるのか把握できないが、一頭や二頭ではないはずだ。
木の上に逃げようにも、周囲の木はどれもまっすぐに幹を伸ばしていて足掛かりにできそうな枝が見当たらなかった。それに、狼たちは先ほどから適度な距離を保ちながらじわじわとルイスを包囲しようと動いている。きっと足を止めた瞬間に飛びかかってくるだろう。手頃な木を見極めている余裕はなかった。
大人しく明日出直すべきだった、と後悔してももう遅い。
「……あっ!」
木の根に足を取られた。
夢中で走っていたため受け身を取る余裕もなく、ルイスは地面に倒れ込んだ。転んだ拍子に眼鏡が外れて草むらへ落ちたが、拾っている余裕はない。
周囲の暗闇から、獣の低い唸り声と息づかいが聞こえる。目前まで迫っているであろう狼たちの姿を直視できなくて、ルイスは思わず身を固くして顔を伏せた。
無数の牙に噛み殺される自分の姿を想像して、血の気が引いた。単純な死の恐怖ももちろんある。しかしそれ以上に、ずたずたに引き裂かれた死体をウィリアムやアルバートの前に晒したくはなかった。
昔、別荘の火事でルイスが火傷を負ったときも、彼らはひどく悲しんでくれた。きっとあの時よりももっと惨い姿を見せることになってしまう。
優しい兄たちに心の中で詫びながら、ルイスは迫りくる時を待った。
その時、真っ黒い影が狼たちの前に躍りでた。
別の群れの狼だろうか。銀色に近い明るい灰色の毛並みが月明かりにきらめいた。
彼は目にも留まらぬ速さでルイスを取り囲んでいた先頭の一匹に襲いかかった。
ぎゃん、と悲鳴が上がる。
灰色の狼は周りの狼たちよりも一回りほど小さかったが、そのすばしこさで彼らを圧倒していた。数の不利などものともせず、次々と飛びかかってくる狼たちを撃退していく。
群れのリーダーと思しき一際大きな狼を下すと、やがて敵わないと悟った狼たちが一匹、また一匹と逃げ去っていった。文字通り、しっぽを巻いて。
ルイスはその光景を信じられない思いで呆然と眺めていた。
狼たちが去り、その灰色の狼はルイスの方を振り返った。一瞬身体が竦んだが、たった今まで歯をむき出しにして唸り声を上げていたのが嘘のように大人しかった。
彼は怪我が無いか確かめるように、座り込んだルイスの周りをぐるりと一周すると、地面に身を伏せた。こちらを見上げる黒目がちの目に敵意は感じられない。
「…………ありがとう」
どうやら獲物を横取りしに来たわけではないらしい。狼かと思ったが、こうして見ると犬に近いのかもしれない。そんな話は聞いてはいなかったが、モランが飼っている猟犬だろうか。
恐る恐る手を伸ばすと、彼の耳がぺたりと倒れた。頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を閉じる。小さく尻尾を振る姿は、人に慣れた飼い犬と同じだ。
つい先ほどまで狼に噛み殺される寸前だったのに、今は別の狼に助けられてその頭を撫でている。そのあまりの落差に戸惑いながらも、もふもふとした毛皮に手を滑らせているうちに緊張で強ばっていた心身が解けていくのがわかった。
ルイスがふぅと息を吐いたのをきっかけに、狼犬はすっくと立ち上がった。数歩歩いて立ち止まり、こちらを振り返る。ついてこい、とでも言いたげな仕草だった。
ぼんやりしていて先ほどの狼たちが戻ってきてはたまらない。ルイスは慌てて彼の後を追った。
この不思議な狼犬の先導で、五分と歩かないうちに、ルイスは小さな小屋を発見した。
モランが使っている倉庫か何かだろうか。彼が自宅にしている森番小屋の半分ほどの大きさしかない、こぢんまりとした小屋だった。三角屋根が可愛らしい。
「案内してくれたんですね、ありがとう」
もう一度頭を撫でてやると、彼はいっそう嬉しそうに尻尾を振った。
ここなら一晩安全に過ごせるだろう。ルイスは救われた気持ちで小屋へ駆け寄った。
窓にカーテンは引かれていないが、明かりも灯っておらず、中に人の気配は無い。けれど一応の礼儀として、ルイスはドアをノックした。
「ごめんください……モランさん? どなたかいませんか?」
反応はない。
狼犬がするりとルイスの脇を抜けて、ドアの横にあった小さな板戸から中に入り込んだ。
この狼犬のために造り付けられたものなのだろうか。身体で板を押せば彼でも簡単に出入りできる、専用のドアだった。彼はその小さな戸口から頭だけ出して、入らないの?と言うようにこちらを見上げてきた。
ドアノブに手をかけると、あっさりと回った。鍵はかかっていない。
「お邪魔します……」
室内にはやはり誰もいなかった。
窓から辛うじて差し込む月明かりで、おぼろげながらこの小屋の内部がほとんど正方形の箱と同じ構造をしていることがわかった。
中の状態は暗くてよくわからないが、埃や蜘蛛の巣が顔に掛かる感覚はない。少なくとも定期的に人が出入りしているようだ。ひとまず安心しながら壁伝いに移動しようと足を踏み出したとき、またしても狼犬がルイスの脇をすり抜けて暗い部屋の中を進んでいった。その足取りに少しの迷いもないことが、固い爪が床板を弾く軽い音でわかった。
たいていの動物は人間よりも目が悪い代わりに、他のあらゆる感覚が人間よりも遥かに優れていると聞く。明かりが無いだけでまともに歩くこともできない自分に苦笑していると、狼犬が軽い足取りで戻ってきた。口に何かをくわえている。
ランタンだった。
輪っかになった持ち手の部分を器用にくわえ、顎を上げてルイスへ差し出している。
暗い場所ではこれが必要だと知っているのだ。
驚きながらそれを受け取ると、彼はまた部屋の中に戻っていって、今度はマッチ箱を持ってきてくれた。
外から帰ってきたときはランタンとマッチを持ってくるように躾けられているのだろうか。どちらにせよ、舌を巻くほど利口な犬だった。潰れないようにきちんと加減してくわえたらしく、マッチの外箱は少しも痛んでいない。
だから、ルイスが椅子に腰を落ち着けたとき、彼がブランケットをずるずると引っ張ってきてくれたことにはもう驚かなかった。
「ありがとう」
ブランケットを受け取ったついでに顎の下をくすぐってやると彼は気持ちよさそうに目を閉じた。さっきから彼にはお礼を言ってばかりで、なんだかおかしくなってきた。
「お利口でお行儀も良くて……いい子ですね、君は」
狼の血が濃い猟犬は忠実で仲間意識が強い分、群れの外の相手に対しては攻撃的な態度を取りやすいと聞いたことがある。しかしこの狼犬は突然現れたルイスにもここまで尽くしてくれる。
普段よほど人に可愛がられているのか、元来優しい性格なのか。むやみに吠えたりじゃれついたりしないのに、構ってやると控えめにぱたぱたと尻尾を振るのがいじらしくて可愛かった。
ルイスは改めて室内を見渡した。
古びたランタンのぼんやりとした明かりではあったが、この小さな部屋には十分な明るさだろう。
キャビネットがひとつと、小さな薪ストーブ、タイル張りの簡素な流し台。脱ぎっぱなしの服や開いたままの本も見受けられる。生活感のある空間だったが、おそらくここを使っているのはモランではない。煙草や、猟銃に使う火薬の匂いが全くしないからだ。
この小屋の持ち主は、一体何者なのだろう。
少し不審に思いながらブランケットを引き上げたとき、左手にぬるりとした感触があった。何気なく手元を見やると、柔らかい布地の一部が赤黒い液体で汚れていた。
ルイスは慌てて立ち上がった。自分はどこも怪我をしていない。ということは――。
「君、怪我を……!」
部屋の隅の自分の寝床に引っ込もうとしていた狼犬に駆け寄った。
よく見ると、左の前足が血に濡れていた。
先ほど狼たちと格闘したとき、噛まれていたのだ。そんな素振りを少しも見せなかったから気がつかなかった。
人間であれば、野生動物に噛みつかれれば感染症の危険がある。同じ動物の場合はどうなのだろう。とにかく傷口を洗って消毒するに越したことはないはずだ。
ルイスはざっと部屋の中を見回して、窓際の書き物机の方へ向かった。そばに小さな棚があったので、そこに薬や消毒液がないかと考えたのだ。手にしたランタンを机の上に置いたとき、広げっぱなしのノートに目が止まった。
「…………」
詩か何かの、書き取りだった。流れるような筆跡の美しい文字と、子供のような辿々しい文字が交互に並んでいる。ちょうど、教師が書いたお手本を真似て生徒が字の練習をしたような――。
「わ、こら。じっとしてないとダメですよ」
いつの間にかそばに寄ってきた狼犬が、ルイスの腰のあたりにぐりぐりと頭を押しつけてきた。
「早く傷口を消毒しないと……。それから、包帯とかどこかにないでしょうか」
半分ひとり言をつぶやきながら、ポケットの中を探った。ハンカチ一枚で間に合うだろうか。できれば、洗った傷口を拭う布と包帯は別にしたい。
狼犬はとてとてと部屋の隅へ歩いていって、キャビネットをかりかりと引っかいた。もしやと思って開けてみると、中に救急箱が入っていた。包帯もちゃんとある。
「……君、僕の言っていることが分かるんですか?」
狼犬の方を振り向くと、彼は数回ぱちぱちと瞬きしてからこてんと首を傾げた。
「…………」
誤魔化されている気がする。
一人と一匹はしばらくじっと睨みあっていたが、やがてルイスの方が折れた。
「……犬相手に何を言ってるんでしょうね、僕は」
流し台で濡らしたハンカチを絞りながら、ひとりごちた。傷の手当をする間、狼犬は嫌がる素振りを見せるどころかひと声も上げなかった。
左前足にしっかりと包帯を巻いてふと顔をあげると、狼犬と真正面から目があった。と思ったら、あちらがぱっと顔を伏せて目をそらす。恥ずかしがりな人間の相手をしている気分になって、ルイスはふふふと笑みを漏らした。
「……今日は本当にありがとう」
呟いてから、ルイスはもう一度、狼犬のもふもふを堪能した。首の周りは特に毛量が多くて、手を差し入れると撫でている側も気持ちいい。
「……万年筆、明日見つかるといいんですが」
ひとしきり毛皮の手触りを楽しんでから、ルイスは椅子に戻って目を閉じた。
初出:Pixiv 2022.10.28
フレッド人狼パロ(CP要素あり)。原作とは何も関係ない。
自分がいつ、どこで生まれたのかもわからない。
気がついたときには僕は『いた』。
太陽が沈み月が昇ると、僕の身体は獣に変わる。そして太陽が昇ると、今度は人間になる。この法則が乱れたことは一度もなく、どちらが本当の姿なのかは僕自身も知らなかった。
人間でも、狼でもなかった。当然、どちらの群れにも属することができなかった。
子どもの頃の僕は弱かった。
牙も爪も貧弱で獲物を狩るのに苦労したし、昼の間はそれすらも失われる。人間の子どもの姿では森の中を歩くことさえままならなかった。狼や鷹のような、他の強い動物たちは最初から僕のことを相手にしなかったから、何とか殺されずに済んだだけだ。
人間の中には優しくしてくれる人もいた。哀れな子ども、みすぼらしい野良犬だとお金や食べ物を分けてくれるのだ。
けれど、それは彼らが僕の正体を知らないからだった。
親切にしてもらえたことに舞い上がって、僕はたびたび失敗をした。時間が経つのを忘れて、昼と夜が入れ替わり姿が転じる瞬間をうっかり人前に晒してしまった。
化け物、と誰かが言った。
石を投げられて、箒でぶたれた。
悲しかったし痛かったけれど、何よりも辛かったのは彼らの怯えた目を見ることだった。
そうして惨めな思いをするたびに人間にはもう二度と関わるまいと心に決めるのに、時間はあっという間に僕の決意をなかったことにしてしまう。木の洞や路地裏でじっと息を潜めていると、数少ない嬉しかった出来事をくり返しくり返し思い出してしまうのだ。
教会で温かいスープを食べさせてもらったこと。同じくらいの歳の子どもが「一緒に遊ぼう」と言ってくれたこと。通りがかった男の人がぴかぴか光るコインをくれたこと。
寒いのも暗いのも、一人では耐えられなかった。人間が恋しくてたまらなかった。ほんのひと時でも彼らの輪の中に混ざっていたくて、ひどい目にあうとわかっていながら僕は街に下りていくのをやめられなかった。
その日も僕は懲りずに同じ失敗を繰り返した。
ぼろを纏って裸足で歩く僕を気の毒がって、通りがかったお婆さんがパンをくれた。その上「もうすぐひどい嵐になるから」と僕を家に入れてくれさえした。暖かい家の中で暖炉の前に座らせてもらうと、頭がぼうっとして涙がこぼれてきた。お婆さんは「辛かったんだね」と頭を撫でてくれた。僕は声を上げて泣いた。
そこで止めにしておくべきだったのだろう。隙を見て、彼女の親切に感謝しながらそっと家から抜け出すべきだった。
お婆さんの腕に抱かれて、僕はうとうとと居眠りをしてしまった。心地よいまどろみは、彼女のけたたましい悲鳴によって破られた。外ではいつの間にか日が暮れて、僕は灰色の獣の姿になっていた。
お婆さんは半狂乱になって、暖炉のそばに立てかけてあった火かき棒を手に取るとめちゃくちゃに振り回した。僕は必死で部屋の中を逃げ回った。しばらく格闘した後、お婆さんの手からすっぽ抜けた火かき棒が窓ガラスを割ったので、そこから何とか逃げ出すことができた。
お婆さんの言った通りひどい嵐になったから、追いかけてくる人間はいなかった。僕は後ろを振り返らずに走った。激しい風と大きな雨粒が顔に吹きつけて前も見えなかった。
僕のせいで窓ガラスが割れてしまったから、あのお婆さんは今夜困るかもしれない。怖い思いをさせて、彼女の優しさに最悪の形で報いてしまった。自分という存在が申し訳なくて、恥ずかしくて、僕は無我夢中で逃げた。
走って、走って、次第に足が動かなくなった。
たくさん走ったはずなのに、寒くてたまらなかった。どこか雨に濡れない場所に隠れなければならないと思ったけれど、横殴りの雨は木陰や軒下ではしのげそうにない。
僕にとって安全な場所はどこにもなかった。
ついに一歩も動けなくなって、僕は柔らかい草の上に倒れ込んだ。雨と風の音が遠のいて、いつしか寒さも感じなくなっていた。不思議と悲しくも怖くもなかった。ただ「もう死ぬのかな」と思っただけだった。
どうせ怪物に生まれたのなら、ひとりぼっちで生きていけるくらい強ければよかった。
◇◇◇◇◇◇
モリアーティ領内にある森は、オークやブナの木が生い茂る自然豊かな森だった。
かつては森の恵みを狙った密猟者が跡を絶たなかったそうだが、現領主であるアルバートに代替わりしてからはそういった話は聞いたことがない。
街が穏やかになれば、それを取り囲む森の中も長閑なものだった。木々の隙間から明るい日差しが降り注ぎ、そこかしこから小鳥のさえずりが響いている。時折木の上をちょこまかと走るリスの影が見えて、ルイスはその度足を止めて頭上を見上げた。
通い慣れた小道をたどって着いた先は、森番小屋だ。
扉をノックすると、森番を務めるモランが出迎えた。彼はルイスの顔を見るなり「おう」と気安い態度で片手を上げた。兄の遣いで訪れることも多かったから、彼もルイスも慣れたものだった。
「こんにちは、モランさん」
「美味そうな匂いだな……なんだ?」
「フィッシュパイです。イワシをたくさん頂いたのでおすそ分けしようかと」
持っていたバスケットを掲げてみせると、モランは「げ」と顔をしかめた。
「またそれか……。せめて塩漬けにしてくれよ」
「なんですかその言い草は! じゃあこれも必要ありませんね」
アルバートから預かっていた赤ワインのボトルをちらつかせると、モランは慌てたように手を振った。
「おいおい冗談だって。ありがたく頂戴するよ」
「まったくもう……」
ルイスは鼻を鳴らしながらボトルとバスケットを渡した。
それからしばらくの間、他愛のない世間話をした。話題は主に、付近一帯を治めるアルバートの近況であったり、近くの大学で数学を教えているウィリアムのことだ。
「じゃあ、僕はこれで。また夕食を食べにいらしてください」
「おう、あいつらにもよろしくな。送ってくか?」
「大丈夫です」
「わかった、じゃあ気をつけてな」
しばらく歩いて、森の出口近くまで差しかかったところだった。街に寄って買い物をするつもりだったので、ルイスは買い物のメモを確かめようとポケットの中を探った。
「あれ?」
メモはすぐに見つかった。けれど、一緒に胸ポケットに入れていたはずの万年筆がなくなっていた。すぐに他のポケットも探ってみたが、やはり無い。
家を出る前にメモを書いて、メモとあわせてポケットにしまったことは覚えている。けれど、家を出てからは万年筆をポケットから取り出した覚えはない。
歩いている途中にどこかに落としてしまったのだろうか。ルイスは急激に不安に襲われた。あの万年筆は兄たちが誕生日に送ってくれた大切なものだ。モランの家に置き忘れてしまったのならまだしも、どこか森の小道に落としてしまっていたとしたら……。
ルイスは辺りを見回した。
日が傾きはじめてはいるが、日没まではまだ時間がある。万年筆を探しながら来た道を引き返そう。もし途中で日が暮れてしまったら、モランに泊めてもらえばいい。以前にも、ウィリアムが彼の家で寝落ちてしまってそのまま泊めてもらったことがある。その時は屋敷で待っていたアルバートにはずいぶん心配をさせてしまったけれど、ルイスだってもう大人だ。モランの家に行くことは事前に伝えてある。万が一帰れなくなっても大丈夫なはずだ。
ルイスは踵を返して、歩いてきた道を引き返した。
草木や石ころの陰に万年筆が落ちていないか、注意深く探しながら歩いた。
はたと気づいて顔をあげると、辺りはずいぶん暗くなっていた。夕陽は立ち並ぶ木々に遮られて、もうほとんど消えかかっている。けれど、かなり歩いたから体感的にはそろそろモランの小屋に着くはずだ。
「あれ、ここは……?」
ルイスは、いつの間にか自分が見覚えのない場所に立っていることに気がついた。明るい昼間の森しか知らないから、夕暮れ時の光の加減で違った景色に見えているだけだと思いたかった。
森の出入り口から森番小屋までは、行き来する人も多いからある程度踏み固められた道がある。けれど今ルイスの足元に伸びている道は、見慣れたものよりかなり細く頼りなく見えた。
そもそも、これは本当に道なのだろうか?
小屋は森の出入り口から東に位置する。夕陽を背にして、暗い方に向かって歩けば辿り着けるはず。ルイスは万年筆を探すことを一旦諦め、モランの小屋を目指して歩調を早めた。
と、その時、木立の隙間に黒い影が見えた。
こんな森の中にいるのだからてっきりモランかと思ったが、違う。
人間の影ではない。
狼だ。
そう理解した瞬間、背筋に悪寒が走った。
狼は人の出入りの多い場所には現れない。ルイスは自分がいつの間にか森のずいぶん深くまで入り込んでしまっていたことを悟った。松明でもあればたいていの獣は怖がって近づいてこないはずだが、今のルイスはマッチすら持っていない。
小屋があると思われる方向に向けてひた走った。
狼はもう足音が聞こえるほどの距離まで迫っている。木立が邪魔をして何頭いるのか把握できないが、一頭や二頭ではないはずだ。
木の上に逃げようにも、周囲の木はどれもまっすぐに幹を伸ばしていて足掛かりにできそうな枝が見当たらなかった。それに、狼たちは先ほどから適度な距離を保ちながらじわじわとルイスを包囲しようと動いている。きっと足を止めた瞬間に飛びかかってくるだろう。手頃な木を見極めている余裕はなかった。
大人しく明日出直すべきだった、と後悔してももう遅い。
「……あっ!」
木の根に足を取られた。
夢中で走っていたため受け身を取る余裕もなく、ルイスは地面に倒れ込んだ。転んだ拍子に眼鏡が外れて草むらへ落ちたが、拾っている余裕はない。
周囲の暗闇から、獣の低い唸り声と息づかいが聞こえる。目前まで迫っているであろう狼たちの姿を直視できなくて、ルイスは思わず身を固くして顔を伏せた。
無数の牙に噛み殺される自分の姿を想像して、血の気が引いた。単純な死の恐怖ももちろんある。しかしそれ以上に、ずたずたに引き裂かれた死体をウィリアムやアルバートの前に晒したくはなかった。
昔、別荘の火事でルイスが火傷を負ったときも、彼らはひどく悲しんでくれた。きっとあの時よりももっと惨い姿を見せることになってしまう。
優しい兄たちに心の中で詫びながら、ルイスは迫りくる時を待った。
その時、真っ黒い影が狼たちの前に躍りでた。
別の群れの狼だろうか。銀色に近い明るい灰色の毛並みが月明かりにきらめいた。
彼は目にも留まらぬ速さでルイスを取り囲んでいた先頭の一匹に襲いかかった。
ぎゃん、と悲鳴が上がる。
灰色の狼は周りの狼たちよりも一回りほど小さかったが、そのすばしこさで彼らを圧倒していた。数の不利などものともせず、次々と飛びかかってくる狼たちを撃退していく。
群れのリーダーと思しき一際大きな狼を下すと、やがて敵わないと悟った狼たちが一匹、また一匹と逃げ去っていった。文字通り、しっぽを巻いて。
ルイスはその光景を信じられない思いで呆然と眺めていた。
狼たちが去り、その灰色の狼はルイスの方を振り返った。一瞬身体が竦んだが、たった今まで歯をむき出しにして唸り声を上げていたのが嘘のように大人しかった。
彼は怪我が無いか確かめるように、座り込んだルイスの周りをぐるりと一周すると、地面に身を伏せた。こちらを見上げる黒目がちの目に敵意は感じられない。
「…………ありがとう」
どうやら獲物を横取りしに来たわけではないらしい。狼かと思ったが、こうして見ると犬に近いのかもしれない。そんな話は聞いてはいなかったが、モランが飼っている猟犬だろうか。
恐る恐る手を伸ばすと、彼の耳がぺたりと倒れた。頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を閉じる。小さく尻尾を振る姿は、人に慣れた飼い犬と同じだ。
つい先ほどまで狼に噛み殺される寸前だったのに、今は別の狼に助けられてその頭を撫でている。そのあまりの落差に戸惑いながらも、もふもふとした毛皮に手を滑らせているうちに緊張で強ばっていた心身が解けていくのがわかった。
ルイスがふぅと息を吐いたのをきっかけに、狼犬はすっくと立ち上がった。数歩歩いて立ち止まり、こちらを振り返る。ついてこい、とでも言いたげな仕草だった。
ぼんやりしていて先ほどの狼たちが戻ってきてはたまらない。ルイスは慌てて彼の後を追った。
この不思議な狼犬の先導で、五分と歩かないうちに、ルイスは小さな小屋を発見した。
モランが使っている倉庫か何かだろうか。彼が自宅にしている森番小屋の半分ほどの大きさしかない、こぢんまりとした小屋だった。三角屋根が可愛らしい。
「案内してくれたんですね、ありがとう」
もう一度頭を撫でてやると、彼はいっそう嬉しそうに尻尾を振った。
ここなら一晩安全に過ごせるだろう。ルイスは救われた気持ちで小屋へ駆け寄った。
窓にカーテンは引かれていないが、明かりも灯っておらず、中に人の気配は無い。けれど一応の礼儀として、ルイスはドアをノックした。
「ごめんください……モランさん? どなたかいませんか?」
反応はない。
狼犬がするりとルイスの脇を抜けて、ドアの横にあった小さな板戸から中に入り込んだ。
この狼犬のために造り付けられたものなのだろうか。身体で板を押せば彼でも簡単に出入りできる、専用のドアだった。彼はその小さな戸口から頭だけ出して、入らないの?と言うようにこちらを見上げてきた。
ドアノブに手をかけると、あっさりと回った。鍵はかかっていない。
「お邪魔します……」
室内にはやはり誰もいなかった。
窓から辛うじて差し込む月明かりで、おぼろげながらこの小屋の内部がほとんど正方形の箱と同じ構造をしていることがわかった。
中の状態は暗くてよくわからないが、埃や蜘蛛の巣が顔に掛かる感覚はない。少なくとも定期的に人が出入りしているようだ。ひとまず安心しながら壁伝いに移動しようと足を踏み出したとき、またしても狼犬がルイスの脇をすり抜けて暗い部屋の中を進んでいった。その足取りに少しの迷いもないことが、固い爪が床板を弾く軽い音でわかった。
たいていの動物は人間よりも目が悪い代わりに、他のあらゆる感覚が人間よりも遥かに優れていると聞く。明かりが無いだけでまともに歩くこともできない自分に苦笑していると、狼犬が軽い足取りで戻ってきた。口に何かをくわえている。
ランタンだった。
輪っかになった持ち手の部分を器用にくわえ、顎を上げてルイスへ差し出している。
暗い場所ではこれが必要だと知っているのだ。
驚きながらそれを受け取ると、彼はまた部屋の中に戻っていって、今度はマッチ箱を持ってきてくれた。
外から帰ってきたときはランタンとマッチを持ってくるように躾けられているのだろうか。どちらにせよ、舌を巻くほど利口な犬だった。潰れないようにきちんと加減してくわえたらしく、マッチの外箱は少しも痛んでいない。
だから、ルイスが椅子に腰を落ち着けたとき、彼がブランケットをずるずると引っ張ってきてくれたことにはもう驚かなかった。
「ありがとう」
ブランケットを受け取ったついでに顎の下をくすぐってやると彼は気持ちよさそうに目を閉じた。さっきから彼にはお礼を言ってばかりで、なんだかおかしくなってきた。
「お利口でお行儀も良くて……いい子ですね、君は」
狼の血が濃い猟犬は忠実で仲間意識が強い分、群れの外の相手に対しては攻撃的な態度を取りやすいと聞いたことがある。しかしこの狼犬は突然現れたルイスにもここまで尽くしてくれる。
普段よほど人に可愛がられているのか、元来優しい性格なのか。むやみに吠えたりじゃれついたりしないのに、構ってやると控えめにぱたぱたと尻尾を振るのがいじらしくて可愛かった。
ルイスは改めて室内を見渡した。
古びたランタンのぼんやりとした明かりではあったが、この小さな部屋には十分な明るさだろう。
キャビネットがひとつと、小さな薪ストーブ、タイル張りの簡素な流し台。脱ぎっぱなしの服や開いたままの本も見受けられる。生活感のある空間だったが、おそらくここを使っているのはモランではない。煙草や、猟銃に使う火薬の匂いが全くしないからだ。
この小屋の持ち主は、一体何者なのだろう。
少し不審に思いながらブランケットを引き上げたとき、左手にぬるりとした感触があった。何気なく手元を見やると、柔らかい布地の一部が赤黒い液体で汚れていた。
ルイスは慌てて立ち上がった。自分はどこも怪我をしていない。ということは――。
「君、怪我を……!」
部屋の隅の自分の寝床に引っ込もうとしていた狼犬に駆け寄った。
よく見ると、左の前足が血に濡れていた。
先ほど狼たちと格闘したとき、噛まれていたのだ。そんな素振りを少しも見せなかったから気がつかなかった。
人間であれば、野生動物に噛みつかれれば感染症の危険がある。同じ動物の場合はどうなのだろう。とにかく傷口を洗って消毒するに越したことはないはずだ。
ルイスはざっと部屋の中を見回して、窓際の書き物机の方へ向かった。そばに小さな棚があったので、そこに薬や消毒液がないかと考えたのだ。手にしたランタンを机の上に置いたとき、広げっぱなしのノートに目が止まった。
「…………」
詩か何かの、書き取りだった。流れるような筆跡の美しい文字と、子供のような辿々しい文字が交互に並んでいる。ちょうど、教師が書いたお手本を真似て生徒が字の練習をしたような――。
「わ、こら。じっとしてないとダメですよ」
いつの間にかそばに寄ってきた狼犬が、ルイスの腰のあたりにぐりぐりと頭を押しつけてきた。
「早く傷口を消毒しないと……。それから、包帯とかどこかにないでしょうか」
半分ひとり言をつぶやきながら、ポケットの中を探った。ハンカチ一枚で間に合うだろうか。できれば、洗った傷口を拭う布と包帯は別にしたい。
狼犬はとてとてと部屋の隅へ歩いていって、キャビネットをかりかりと引っかいた。もしやと思って開けてみると、中に救急箱が入っていた。包帯もちゃんとある。
「……君、僕の言っていることが分かるんですか?」
狼犬の方を振り向くと、彼は数回ぱちぱちと瞬きしてからこてんと首を傾げた。
「…………」
誤魔化されている気がする。
一人と一匹はしばらくじっと睨みあっていたが、やがてルイスの方が折れた。
「……犬相手に何を言ってるんでしょうね、僕は」
流し台で濡らしたハンカチを絞りながら、ひとりごちた。傷の手当をする間、狼犬は嫌がる素振りを見せるどころかひと声も上げなかった。
左前足にしっかりと包帯を巻いてふと顔をあげると、狼犬と真正面から目があった。と思ったら、あちらがぱっと顔を伏せて目をそらす。恥ずかしがりな人間の相手をしている気分になって、ルイスはふふふと笑みを漏らした。
「……今日は本当にありがとう」
呟いてから、ルイスはもう一度、狼犬のもふもふを堪能した。首の周りは特に毛量が多くて、手を差し入れると撫でている側も気持ちいい。
「……万年筆、明日見つかるといいんですが」
ひとしきり毛皮の手触りを楽しんでから、ルイスは椅子に戻って目を閉じた。
初出:Pixiv 2022.10.28
目には目を!
ふんわりした年齢操作現パロその2
その日、いくらか仕事が立て込んでいて、自宅に帰り着く頃には日も暮れてから随分経ってしまっていた。
モランは「あー、疲れた疲れた」と独り言ちながら、ネクタイを解いた。
居間に入ると、フレッドは小さめのダイニングテーブルに向かっていた。彼の背丈にはやや高いチェアの上で足をぷらぷらさせながら、宿題をしているようだった。
「おかえり」
「もう飯食ったか?」
「ん」
冷蔵庫から冷たい缶ビールを取り出してプルタブを引く。ぷしゅっと空気の抜ける小気味よい音を聞きつけて、フレッドが顔を上げた。
「……先にごはん」
「わーってるって」
週明けの労働を終えたご褒美だ。この美味さはお子様には分かるまい。
しばらくじとりとした目でモランを睨めつけていたフレッドは、やがて諦めて宿題に戻った。向かいの席に腰を下ろして覗き込んでみると、算数のドリルのようだった。低学年向けのドリルには、ページの隅に可愛らしいキャラクターのイラストまで添えられていて、何だか懐かしい気分になる。
「分かんねぇところあったら教えてやるぞ」
「ウィリアムさんに教えてもらう」
「あっそ……」
素っ気無い返事だった。確かに、たまに指を使ったりしてはいるが、順調に解答を書き込んでいる。モランからうるさく言わなくてもちゃんと宿題をするのだから、偉いものだ。
ビールをちびちびやりながらその様子を眺めていると、ふと、ドリルに取り組むフレッドの顔がほとんど見えないことに気がついた。
「お前、髪伸びたな……」
フレッドが算数ドリルから顔を上げた。
本人はきょとんとしているが、いつの間にか前髪が目にかかるほど伸びている。
しまったな、とモランは内心でつぶやいた。
週末のうちに床屋に連れて行くべきだった。まだ一週間は始まったばかりなうえに、この週末はウィリアムたちと遊びに出かける予定があるから、連れて行ってやる暇がない。
かと言って、散髪代だけ渡しておいて、平日の放課後に一人で床屋に行かせるのは少々心配だ。再来週までこのまま過ごすしかないだろうか……。
思案していたモランは、もっと簡単な解決策を思いついて指を弾いた。
「フレッド、ちょっとこっち来い」
*
週の真ん中、水曜日のことだった。
ウィリアムは友人のシャーロックと連れ立って学校を出た。
「十八章まで、読めた?」
「おう。授業中ずっと推理してたぜ!」
「それは期待できそうだ」
ウィリアムとシャーロックの手には、それぞれ分厚い推理小説が握られている。
同じ小説を同じページまで読んで、犯人を推理するのが最近二人が凝っている遊びだ。教室でやると先生たちがいい顔をしないから、放課後、歩きながら話すと決めていた。
「……だから俺は、エイドリアンがリチャード殺しの犯人だと推理する」
「うーん、ハウダニットの観点で考えるなら、君の言う通りなんだろうね」
「それ以外に何かあるのかよ?」
「被害者を最後に目撃した近所の住人が『もう遅いのに』って言葉を聞いてるでしょ? まだ夜の八時なのに、おかしくないかな。犯人がエイドリアンだったのなら、なおさら」
「『今更もう遅いのに』とか、そういう意味にも取れるんじゃね?」
「それはそうだけど……あれ、ルイスだ」
ウィリアムが声を上げた。
見ると、前方から彼の弟のルイスが歩いてくる。すぐにルイスもこちらに――というか、ウィリアムに、気づいたようだ。ぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってくる。
「兄さん!」
「ルイス。先に帰っていたと思ったんだけど……」
「はい。……フレッドのうちに行っていました。今日、学校をお休みしていたので……」
「あ、そうなの。……ルイス、大丈夫?」
ウィリアムが心配そうに訊ねた。
その質問の意図はシャーロックにも理解できた。というのも、ルイスが今にも泣きそうな顔をしていたからだ。
「……」
ルイスは黙って、握りしめていた紙切れを差し出した。メモ帳の一ページを破り取ったものらしかった。
ウィリアムとシャーロックは額を寄せ合って、その紙切れをのぞき込む。
『がっこう いきたくないです』
鉛筆のたどたどしい文字で、そう記されている。
「これ、フレッドが?」
尋ねると、ルイスはこくこくと頷いた。
彼から聞き出した話を要約すると、こうだ。
今日、フレッドは学校を休んだ。彼の担任の先生に理由を訊ねてみたところ『体調不良』とのことだったので、ルイスは放課後に彼の家に立ち寄った。
フレッドの具合が悪くともモランが出てくるだろうと考えてインターホンを鳴らしたが、しばらく待っても誰も出てこない。留守だろうか。
仕方がないので、ルイスはマンションの廊下の隅にしゃがみ込んで、その場で手紙を書いた。ノートのページを破いたものに、今日学校であったことや早く元気になってほしいことなどをしたためた。
ドアのポストに紙切れを押し込んで、今日のところはもう帰ろうとした。
が、すぐにドアの向こうでカタンと小さな音がした。誰かが手紙を取ったのだ。
「フレッド? いるんですか?」
ドアの向こうに人の気配がある気はする。だが、呼びかけてみても返事はない。
もしかして泥棒……と恐ろしくなってきた矢先、またカタンと音がした。ポストの隙間から、紙切れが飛び出している。
ルイスは急いでその紙切れを引っ張り出した。
広げてみると、フレッドの字で、この短い文言が書きつけられていたのだ。
その場で一部始終を聞き終えて、ウィリアムは弟の頭を撫でた。
「……そうだったの。心配だね」
「どうしましょう兄さん。学校で何かあったんでしょうか……」
「聞き込みしよーぜ聞き込み!」
「…………」
シャーロックをじとりと睨むルイスを宥めつつ、ウィリアムは思案した。
学校には『体調不良』と届けているにも関わらず、フレッド自身は「学校に行きたくない」と言っている。とは言え、あの子がいじめられたからといって大人しく登校を拒否するタイプだとは思えない。それに、そんな事になればモランだって黙ってはいないだろう。
だとすれば、もっと別のトラブルか。
ウィリアムはポケットから子ども用スマートフォンを取り出すと、迷いのない手つきで十桁の番号を入力した。二、三回咳払いをし、呼び出し音の後、いつもよりやや低い声を作って話し始める。
「もしもし、お世話になっております。六課のモラン様はご在席でしょうか? ……はい。はい……あ、いえ結構です。どうもありがとうございます。……はい、失礼します」
通話が切れたのを見届けてから、シャーロックは恐る恐る訊ねた。
「……どこに掛けたんだ?」
「会社。モランは普通に出勤してるみたいだね」
「おぉ……」
事も無げに言い放つウィリアムに、シャーロックはそこはかとない恐ろしさを感じた。
「どうしてモランさんに直接掛けないのですか?」
ルイスが当然の疑問を口にした。二人のスマートフォンには当然、モランの携帯番号も登録してある。
ウィリアムは人差し指の背で自分の唇を撫でて、考えるときの仕草をした。
「……もしフレッドが病気や怪我で学校に来られなくなったのなら、モランが普通に出勤しているのはおかしい」
「そうですね」
兄の言葉に、ルイスは頷いた。
そのような事態になれば、フレッドと二人暮らしのモランは絶対に会社を休む。事情を話せば、雇い主のアルバートがいくらでも融通をきかせてくれるだろう。
「一方で、フレッドが精神的な理由で登校を拒否しているのであれば、放課後のこの時間になってもモランから僕たちに何の連絡もないのはおかしい……」
「あ、確かに……」
ルイスは以前に起こった『フレッドの水筒消失事件』を思い出した。
あの時、モランは誰よりもフレッドのことを心配して、学校で何かあったのではないかとアルバートやウィリアムに聞いて回っていた。
フレッドが突然「学校に行きたくない」と言い出した時、同じ学校に通う自分たちに心当たりを聞いてこないはずがない。
「じゃ、モランはフレッドが学校に行きたがってない理由を知ってるっつーことか?」
シャーロックがぽん、と道端の小石を蹴飛ばした。
「……ルイスは、昨日フレッドに会った?」
「はい」
「何か変わったこととか、気づいたことはなかったかな?」
「えぇと………あ。そういえば、」
考え込んでいたルイスが何かを言いかけた時だった。
「あら、いつかの探偵さんたち」
明るい声が聞こえて立ち止まると、ストライプ柄のエプロンを着た女性がにこやかに手を振っている。
三人はいつの間にか公園の前に差し掛かっていた。公園の前ということは、つまり『水筒消失事件』の鍵を握っていたアイスクリーム屋の前である。
あの一件以降、下校の時間帯はこうして店員が店先に立つようになった。地域見守り活動の一環、らしい。
ウィリアムとルイスが「こんにちは」と礼儀正しく挨拶すると、彼女も「はい、こんにちは」と笑顔で返す。
「試食ねーの?」
「残念、ありません。お家の人と買いに来てね」
シャーロックの不躾な態度を、ルイスは信じられないという目つきで見ていた。が、店員の女性はやんちゃな子どもへの対応も慣れたもので、すかさず手作りのチラシを差し出した。
シャーロックは季節限定のフレーバーをチェックするふりをしながら、自然な調子で彼女に訊ねる。
「あんた、昨日もここに立ってたのか?」
「ん? そうだね。昨日もいたよ」
「フレッドに会ったか?」
「あぁ、会ったよ! さっぱりしてて可愛くなってたね」
「……さっぱり?」
シャーロックが首を傾げ、ウィリアムとルイスは顔を見合わせた。
*
「……それじゃあ、フレッドが今日学校を休んだのは、モランが前髪を切りすぎちゃったからってことでいいんだね?」
「……返す言葉もねぇ」
夕方。
モランが会社を出て私用のスマートフォンを確認すると、アルバートからメッセージが入っていた。内容は、帰りに我が家に寄るように、という簡潔なものだった。
わざわざこちらのスマートフォンに連絡してきたということは、仕事絡みの内容ではないのだろう。
モランはうっすらと胸騒ぎを覚えつつ、大人しくモリアーティ邸に向かった。
するとまぁ案の定と言うべきか、モランがうっかりフレッドの前髪をばっさりと切ってしまった件がバレていた。
モランは今、広々としたモリアーティ家の居間の絨毯の上で正座をさせられ三兄弟から尋問を受けている。
こいつら、いつもいつもどうやって嗅ぎつけてくるんだ……と内心で悪態をつきながら。
「……あいつだって最初は別に気にしてなかったんだよ。ちょっと不満そうにはしてたけど、まぁこんなものかって顔で。それが昨日学校から帰ってくるなり、『髪が伸びるまで学校いかない』って言いだしやがって……」
「友達や先生や近所の人達に可愛い可愛いって言われたのが嫌だったんだ?」
「……まぁ、そうみたい、だな」
一昨日、洗面所の床に新聞紙を敷いて、カットクロス代わりに雨ガッパを着せてフレッドの髪を切ってやった。伸びた部分を切りそろえるくらいなら訳ないだろうと考えていたのだが、実際にやってみると案外難しい。
特に前髪はまずかった。長く伸びすぎたのを何とかしようと最初にハサミを入れたから、加減が分からずばっさりといき過ぎてしまった。
内心焦りながらも、何とかバランスを整えた。
鏡で仕上がりを確認したフレッドは、晒されたおでこに少し不服そうな顔はした。けれど元々服装や見てくれにはあまり拘らない性格だったから、特に何も言わなかった。
事態が変わっていたのは、翌日の夜だった。
家に帰ると、フレッドが居間のソファの上でむくれた様子で三角座りしていた。家の中なのに、何故かパーカーのフードを被ったまま。
そうして、「髪が伸びるまで学校いかない」と宣言したのであった。
「モランが悪い」
「モランさんが悪いです」
「あぁ、モランが悪いね。それで、ケーキでも買って帰って機嫌を取ろうという腹か」
「ぐっ………」
通勤鞄と一緒に抱えていた白い小箱をアルバートに指摘された。中には近所のパティスリーのチョコレートケーキが入っている。
「『ご機嫌取り』なんて人聞きが悪すぎんだろ……」
「他にどう表現すれば?」
「俺だって別に悪気があって切りすぎたわけじゃねぇよ! 素人が見様見真似でやるべきじゃなかったって言われちまえばそれまでだが、しばらく床屋に連れて行ってやれそうになかったんだから、俺が切ってやるのは別に間違っちゃいないだろ? あのまま放っておけばフレッドだって鬱陶しくなってきただろうし、目を悪くしちまうかもしれないし」
「…………」
「結果として俺は失敗しちまったわけだが、そのことについてはこの通りちゃんと謝る。フレッドがそう何日も学校サボれるような性格じゃないのはお前らもよく知ってるだろ? 一日休んで落ち着いたところで俺が頭下げてやれば、あいつだってもう気が済むはずだ」
「……まぁ、そうですね……」
一番最初に態度を和らげたのはルイスだった。
そしてルイスを説得できればアルバートもイケる、とモランは考えた。そもそも彼がモランをここへ呼んだのは、末の弟を安心させるためだろうと踏んでいたからだ。
モランは、ウィリアムの方へそっと視線を送った。
彼は腕を組んで、子供らしくない聡明さを湛えた赤い瞳でモランをじっと見つめている。
「モラン。まさかとは思うけど……」
ウィリアムがそう前置きをしたので、モランは内心でぎくりとした。
「お酒、飲んでたんじゃないの?」
「うっ………!!」
「やっぱり」
一番突かれたくなかったところを見事に突かれてしまった。
ウィリアムが呆れたようにため息をつくと、追及の手を緩めかけていたアルバートとルイスが色めき立った。
「酒を飲んだ状態でフレッドの髪を切ったのか?」
「モランさんひどいです!」
「か、缶ビール一本くらいで手元が狂うほど酔ったりしねぇよ!」
「お酒を飲んでいたことは認めるんですね!?」
「事実、手元が狂っているというのに呆れたものだな。それに何より危ないだろう。少しは控えたまえ」
「ぐ……」
酒を控えろ、なんてアルバートには死んでも言われたくない台詞だったが、この状況では何も言い返せない。
「モラン……確かに君に悪気はなかったのかもしれない。でも、お酒を飲んでさえいなければしなかったかもしれない失敗だよね? フレッドはまだ小さいからお酒の影響というものにピンと来ていないかもしれないけど、いつか必ず気づくよ。あの時モランがお酒を飲んでいたせいで恥ずかしい思いをさせられた、って」
ぐうの音も出なかった。
「……で、でも、もう切っちまったもんは仕方ないだろ。謝る以外にどうしろって言うんだよ」
「謝り方の問題だよ、モラン。信頼を取り戻すためには、君の誠意を示す必要がある」
「だからこうして、あいつの好きなケーキも買ってきたし……」
「お金は誠意とは言わないよ。大人同士のトラブルならそれで済む場合も多いかもしれないけどね」
「……じゃあ、どうしろってんだよ……」
少しばかり投げやりな気持ちになりながらそう尋ねると、ウィリアムは「簡単なことだよ」とにっこり微笑んだ。
「ハンムラビ法典の最も有名な一節なら、君も聞いたことがあるだろう?」
*
三兄弟から解放されてようやく帰宅すると、リビングには明かりこそ点いていたが、無人だった。
モランは室内をざっと一回りした。
用意しておいた食事はちゃんと食べているようだったし、戸棚からお菓子を出して食べた形跡もある。今朝はテーブルの上に置いていたはずのリモコンがソファの上に移動していたから、テレビを見て過ごした時間もあったようだ。
といっても、ズル休みを満喫できるような性格でもないから、一日も経てば落ち着かなくなってくる頃だろう。
モランはフレッドの部屋のドアをノックした。
「フレッド、ただいま」
「………………おかえり」
中からごく小さな声で返事があった。 怒っているというよりは、どんな顔をして出ていけばいいかわからなくてちょっと拗ねてみた、といった声だった。
「ちょっと出てきてくれねぇか。見てほしいモンがあるんだ」
「……何?」
「いいから、ちょっとだけ。出てこいよ」
「…………」
廊下に正座してしばらく待つと、ドアが小さく開いた。隙間からしぶしぶ顔を覗かせたフレッドは、モランの姿を見て目を丸くした。
額のあたりに彼の視線が刺さっているのがわかる。
モランの前髪も、フレッドと同じくらい、短く切りそろえられていた。
「それ、どうしたの……?」
「切った。……お揃いだな」
モランは苦く笑いながら答えた。
正確には『切られた』のだが。
あの後、バルコニーに連行されたモランは、ウィリアムの手によって前髪をざっくりと切り落とされた。もちろん器用な彼のすることだから、人前に出られなくなるような仕上がりではない。
とはいえ、見慣れた自分の前髪が消え失せて額が晒されているのは確かに気恥ずかしい。ルイスが「フレッドはもうちょっと短かったです」と口を挟んだお陰で前髪の長さはかなり精確に再現された。
まさに『目には目を、歯には歯を』というわけだ。
さらに追い打ちをかけるようにアルバートがモランのスマートフォンを奪いとると、その姿を写真に収め同僚数名に一斉送信した。モランが常日頃格好つけたがっている後輩や女子社員たちを的確に選んでいたのだから、まったく悪魔のような男である。
すぐに全員から返信があった。「似合ってます!」とか「え、どうしたのモランくんかわい〜!」とか、概ね好意的なものばかりであったが恥ずかしくて居た堪れなかった(マネーペニーからのものすごく気を遣った文面が正直一番堪えた)。
「本当に悪かった。前髪を切り過ぎちまったのも、酒を飲んでたのも。完全に俺の失態だ」
「…………」
「それに、お前の気持ちもよーく分かった。『可愛い、可愛い』って言われまくると、男としての沽券に関わるな」
「こけん?」
「プライドとか意地ってやつのことだ。もう、明日どんな顔して会社に行けばいいのかわかんねぇよ」
「……かいしゃ、行きたくない?」
「ああ、行きたくねぇ。お前と一緒に休んで、家でテレビでも見てたいよ」
冗談めかして言うと、フレッドはようやく笑った。
「それはダメ」
「わかってるって。ちゃんと行くよ」
「うん。……僕も学校行く。恥ずかしいけど」
「おう、えらいぞ」
モランは立ち上がると、フレッドの手をつかんだ。大人しく部屋を出てきてくれたので、二人は連れ立って居間へと向かった。
「ケーキ買ってきたんだ。チョコのやつ」
「……クリスマスじゃないのに?」
「今日は特別だ。食おうぜ」
「先にごはん」
「生意気言うなっつの」
初出:Pixiv 2023.09.05
ふんわりした年齢操作現パロその2
その日、いくらか仕事が立て込んでいて、自宅に帰り着く頃には日も暮れてから随分経ってしまっていた。
モランは「あー、疲れた疲れた」と独り言ちながら、ネクタイを解いた。
居間に入ると、フレッドは小さめのダイニングテーブルに向かっていた。彼の背丈にはやや高いチェアの上で足をぷらぷらさせながら、宿題をしているようだった。
「おかえり」
「もう飯食ったか?」
「ん」
冷蔵庫から冷たい缶ビールを取り出してプルタブを引く。ぷしゅっと空気の抜ける小気味よい音を聞きつけて、フレッドが顔を上げた。
「……先にごはん」
「わーってるって」
週明けの労働を終えたご褒美だ。この美味さはお子様には分かるまい。
しばらくじとりとした目でモランを睨めつけていたフレッドは、やがて諦めて宿題に戻った。向かいの席に腰を下ろして覗き込んでみると、算数のドリルのようだった。低学年向けのドリルには、ページの隅に可愛らしいキャラクターのイラストまで添えられていて、何だか懐かしい気分になる。
「分かんねぇところあったら教えてやるぞ」
「ウィリアムさんに教えてもらう」
「あっそ……」
素っ気無い返事だった。確かに、たまに指を使ったりしてはいるが、順調に解答を書き込んでいる。モランからうるさく言わなくてもちゃんと宿題をするのだから、偉いものだ。
ビールをちびちびやりながらその様子を眺めていると、ふと、ドリルに取り組むフレッドの顔がほとんど見えないことに気がついた。
「お前、髪伸びたな……」
フレッドが算数ドリルから顔を上げた。
本人はきょとんとしているが、いつの間にか前髪が目にかかるほど伸びている。
しまったな、とモランは内心でつぶやいた。
週末のうちに床屋に連れて行くべきだった。まだ一週間は始まったばかりなうえに、この週末はウィリアムたちと遊びに出かける予定があるから、連れて行ってやる暇がない。
かと言って、散髪代だけ渡しておいて、平日の放課後に一人で床屋に行かせるのは少々心配だ。再来週までこのまま過ごすしかないだろうか……。
思案していたモランは、もっと簡単な解決策を思いついて指を弾いた。
「フレッド、ちょっとこっち来い」
*
週の真ん中、水曜日のことだった。
ウィリアムは友人のシャーロックと連れ立って学校を出た。
「十八章まで、読めた?」
「おう。授業中ずっと推理してたぜ!」
「それは期待できそうだ」
ウィリアムとシャーロックの手には、それぞれ分厚い推理小説が握られている。
同じ小説を同じページまで読んで、犯人を推理するのが最近二人が凝っている遊びだ。教室でやると先生たちがいい顔をしないから、放課後、歩きながら話すと決めていた。
「……だから俺は、エイドリアンがリチャード殺しの犯人だと推理する」
「うーん、ハウダニットの観点で考えるなら、君の言う通りなんだろうね」
「それ以外に何かあるのかよ?」
「被害者を最後に目撃した近所の住人が『もう遅いのに』って言葉を聞いてるでしょ? まだ夜の八時なのに、おかしくないかな。犯人がエイドリアンだったのなら、なおさら」
「『今更もう遅いのに』とか、そういう意味にも取れるんじゃね?」
「それはそうだけど……あれ、ルイスだ」
ウィリアムが声を上げた。
見ると、前方から彼の弟のルイスが歩いてくる。すぐにルイスもこちらに――というか、ウィリアムに、気づいたようだ。ぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってくる。
「兄さん!」
「ルイス。先に帰っていたと思ったんだけど……」
「はい。……フレッドのうちに行っていました。今日、学校をお休みしていたので……」
「あ、そうなの。……ルイス、大丈夫?」
ウィリアムが心配そうに訊ねた。
その質問の意図はシャーロックにも理解できた。というのも、ルイスが今にも泣きそうな顔をしていたからだ。
「……」
ルイスは黙って、握りしめていた紙切れを差し出した。メモ帳の一ページを破り取ったものらしかった。
ウィリアムとシャーロックは額を寄せ合って、その紙切れをのぞき込む。
『がっこう いきたくないです』
鉛筆のたどたどしい文字で、そう記されている。
「これ、フレッドが?」
尋ねると、ルイスはこくこくと頷いた。
彼から聞き出した話を要約すると、こうだ。
今日、フレッドは学校を休んだ。彼の担任の先生に理由を訊ねてみたところ『体調不良』とのことだったので、ルイスは放課後に彼の家に立ち寄った。
フレッドの具合が悪くともモランが出てくるだろうと考えてインターホンを鳴らしたが、しばらく待っても誰も出てこない。留守だろうか。
仕方がないので、ルイスはマンションの廊下の隅にしゃがみ込んで、その場で手紙を書いた。ノートのページを破いたものに、今日学校であったことや早く元気になってほしいことなどをしたためた。
ドアのポストに紙切れを押し込んで、今日のところはもう帰ろうとした。
が、すぐにドアの向こうでカタンと小さな音がした。誰かが手紙を取ったのだ。
「フレッド? いるんですか?」
ドアの向こうに人の気配がある気はする。だが、呼びかけてみても返事はない。
もしかして泥棒……と恐ろしくなってきた矢先、またカタンと音がした。ポストの隙間から、紙切れが飛び出している。
ルイスは急いでその紙切れを引っ張り出した。
広げてみると、フレッドの字で、この短い文言が書きつけられていたのだ。
その場で一部始終を聞き終えて、ウィリアムは弟の頭を撫でた。
「……そうだったの。心配だね」
「どうしましょう兄さん。学校で何かあったんでしょうか……」
「聞き込みしよーぜ聞き込み!」
「…………」
シャーロックをじとりと睨むルイスを宥めつつ、ウィリアムは思案した。
学校には『体調不良』と届けているにも関わらず、フレッド自身は「学校に行きたくない」と言っている。とは言え、あの子がいじめられたからといって大人しく登校を拒否するタイプだとは思えない。それに、そんな事になればモランだって黙ってはいないだろう。
だとすれば、もっと別のトラブルか。
ウィリアムはポケットから子ども用スマートフォンを取り出すと、迷いのない手つきで十桁の番号を入力した。二、三回咳払いをし、呼び出し音の後、いつもよりやや低い声を作って話し始める。
「もしもし、お世話になっております。六課のモラン様はご在席でしょうか? ……はい。はい……あ、いえ結構です。どうもありがとうございます。……はい、失礼します」
通話が切れたのを見届けてから、シャーロックは恐る恐る訊ねた。
「……どこに掛けたんだ?」
「会社。モランは普通に出勤してるみたいだね」
「おぉ……」
事も無げに言い放つウィリアムに、シャーロックはそこはかとない恐ろしさを感じた。
「どうしてモランさんに直接掛けないのですか?」
ルイスが当然の疑問を口にした。二人のスマートフォンには当然、モランの携帯番号も登録してある。
ウィリアムは人差し指の背で自分の唇を撫でて、考えるときの仕草をした。
「……もしフレッドが病気や怪我で学校に来られなくなったのなら、モランが普通に出勤しているのはおかしい」
「そうですね」
兄の言葉に、ルイスは頷いた。
そのような事態になれば、フレッドと二人暮らしのモランは絶対に会社を休む。事情を話せば、雇い主のアルバートがいくらでも融通をきかせてくれるだろう。
「一方で、フレッドが精神的な理由で登校を拒否しているのであれば、放課後のこの時間になってもモランから僕たちに何の連絡もないのはおかしい……」
「あ、確かに……」
ルイスは以前に起こった『フレッドの水筒消失事件』を思い出した。
あの時、モランは誰よりもフレッドのことを心配して、学校で何かあったのではないかとアルバートやウィリアムに聞いて回っていた。
フレッドが突然「学校に行きたくない」と言い出した時、同じ学校に通う自分たちに心当たりを聞いてこないはずがない。
「じゃ、モランはフレッドが学校に行きたがってない理由を知ってるっつーことか?」
シャーロックがぽん、と道端の小石を蹴飛ばした。
「……ルイスは、昨日フレッドに会った?」
「はい」
「何か変わったこととか、気づいたことはなかったかな?」
「えぇと………あ。そういえば、」
考え込んでいたルイスが何かを言いかけた時だった。
「あら、いつかの探偵さんたち」
明るい声が聞こえて立ち止まると、ストライプ柄のエプロンを着た女性がにこやかに手を振っている。
三人はいつの間にか公園の前に差し掛かっていた。公園の前ということは、つまり『水筒消失事件』の鍵を握っていたアイスクリーム屋の前である。
あの一件以降、下校の時間帯はこうして店員が店先に立つようになった。地域見守り活動の一環、らしい。
ウィリアムとルイスが「こんにちは」と礼儀正しく挨拶すると、彼女も「はい、こんにちは」と笑顔で返す。
「試食ねーの?」
「残念、ありません。お家の人と買いに来てね」
シャーロックの不躾な態度を、ルイスは信じられないという目つきで見ていた。が、店員の女性はやんちゃな子どもへの対応も慣れたもので、すかさず手作りのチラシを差し出した。
シャーロックは季節限定のフレーバーをチェックするふりをしながら、自然な調子で彼女に訊ねる。
「あんた、昨日もここに立ってたのか?」
「ん? そうだね。昨日もいたよ」
「フレッドに会ったか?」
「あぁ、会ったよ! さっぱりしてて可愛くなってたね」
「……さっぱり?」
シャーロックが首を傾げ、ウィリアムとルイスは顔を見合わせた。
*
「……それじゃあ、フレッドが今日学校を休んだのは、モランが前髪を切りすぎちゃったからってことでいいんだね?」
「……返す言葉もねぇ」
夕方。
モランが会社を出て私用のスマートフォンを確認すると、アルバートからメッセージが入っていた。内容は、帰りに我が家に寄るように、という簡潔なものだった。
わざわざこちらのスマートフォンに連絡してきたということは、仕事絡みの内容ではないのだろう。
モランはうっすらと胸騒ぎを覚えつつ、大人しくモリアーティ邸に向かった。
するとまぁ案の定と言うべきか、モランがうっかりフレッドの前髪をばっさりと切ってしまった件がバレていた。
モランは今、広々としたモリアーティ家の居間の絨毯の上で正座をさせられ三兄弟から尋問を受けている。
こいつら、いつもいつもどうやって嗅ぎつけてくるんだ……と内心で悪態をつきながら。
「……あいつだって最初は別に気にしてなかったんだよ。ちょっと不満そうにはしてたけど、まぁこんなものかって顔で。それが昨日学校から帰ってくるなり、『髪が伸びるまで学校いかない』って言いだしやがって……」
「友達や先生や近所の人達に可愛い可愛いって言われたのが嫌だったんだ?」
「……まぁ、そうみたい、だな」
一昨日、洗面所の床に新聞紙を敷いて、カットクロス代わりに雨ガッパを着せてフレッドの髪を切ってやった。伸びた部分を切りそろえるくらいなら訳ないだろうと考えていたのだが、実際にやってみると案外難しい。
特に前髪はまずかった。長く伸びすぎたのを何とかしようと最初にハサミを入れたから、加減が分からずばっさりといき過ぎてしまった。
内心焦りながらも、何とかバランスを整えた。
鏡で仕上がりを確認したフレッドは、晒されたおでこに少し不服そうな顔はした。けれど元々服装や見てくれにはあまり拘らない性格だったから、特に何も言わなかった。
事態が変わっていたのは、翌日の夜だった。
家に帰ると、フレッドが居間のソファの上でむくれた様子で三角座りしていた。家の中なのに、何故かパーカーのフードを被ったまま。
そうして、「髪が伸びるまで学校いかない」と宣言したのであった。
「モランが悪い」
「モランさんが悪いです」
「あぁ、モランが悪いね。それで、ケーキでも買って帰って機嫌を取ろうという腹か」
「ぐっ………」
通勤鞄と一緒に抱えていた白い小箱をアルバートに指摘された。中には近所のパティスリーのチョコレートケーキが入っている。
「『ご機嫌取り』なんて人聞きが悪すぎんだろ……」
「他にどう表現すれば?」
「俺だって別に悪気があって切りすぎたわけじゃねぇよ! 素人が見様見真似でやるべきじゃなかったって言われちまえばそれまでだが、しばらく床屋に連れて行ってやれそうになかったんだから、俺が切ってやるのは別に間違っちゃいないだろ? あのまま放っておけばフレッドだって鬱陶しくなってきただろうし、目を悪くしちまうかもしれないし」
「…………」
「結果として俺は失敗しちまったわけだが、そのことについてはこの通りちゃんと謝る。フレッドがそう何日も学校サボれるような性格じゃないのはお前らもよく知ってるだろ? 一日休んで落ち着いたところで俺が頭下げてやれば、あいつだってもう気が済むはずだ」
「……まぁ、そうですね……」
一番最初に態度を和らげたのはルイスだった。
そしてルイスを説得できればアルバートもイケる、とモランは考えた。そもそも彼がモランをここへ呼んだのは、末の弟を安心させるためだろうと踏んでいたからだ。
モランは、ウィリアムの方へそっと視線を送った。
彼は腕を組んで、子供らしくない聡明さを湛えた赤い瞳でモランをじっと見つめている。
「モラン。まさかとは思うけど……」
ウィリアムがそう前置きをしたので、モランは内心でぎくりとした。
「お酒、飲んでたんじゃないの?」
「うっ………!!」
「やっぱり」
一番突かれたくなかったところを見事に突かれてしまった。
ウィリアムが呆れたようにため息をつくと、追及の手を緩めかけていたアルバートとルイスが色めき立った。
「酒を飲んだ状態でフレッドの髪を切ったのか?」
「モランさんひどいです!」
「か、缶ビール一本くらいで手元が狂うほど酔ったりしねぇよ!」
「お酒を飲んでいたことは認めるんですね!?」
「事実、手元が狂っているというのに呆れたものだな。それに何より危ないだろう。少しは控えたまえ」
「ぐ……」
酒を控えろ、なんてアルバートには死んでも言われたくない台詞だったが、この状況では何も言い返せない。
「モラン……確かに君に悪気はなかったのかもしれない。でも、お酒を飲んでさえいなければしなかったかもしれない失敗だよね? フレッドはまだ小さいからお酒の影響というものにピンと来ていないかもしれないけど、いつか必ず気づくよ。あの時モランがお酒を飲んでいたせいで恥ずかしい思いをさせられた、って」
ぐうの音も出なかった。
「……で、でも、もう切っちまったもんは仕方ないだろ。謝る以外にどうしろって言うんだよ」
「謝り方の問題だよ、モラン。信頼を取り戻すためには、君の誠意を示す必要がある」
「だからこうして、あいつの好きなケーキも買ってきたし……」
「お金は誠意とは言わないよ。大人同士のトラブルならそれで済む場合も多いかもしれないけどね」
「……じゃあ、どうしろってんだよ……」
少しばかり投げやりな気持ちになりながらそう尋ねると、ウィリアムは「簡単なことだよ」とにっこり微笑んだ。
「ハンムラビ法典の最も有名な一節なら、君も聞いたことがあるだろう?」
*
三兄弟から解放されてようやく帰宅すると、リビングには明かりこそ点いていたが、無人だった。
モランは室内をざっと一回りした。
用意しておいた食事はちゃんと食べているようだったし、戸棚からお菓子を出して食べた形跡もある。今朝はテーブルの上に置いていたはずのリモコンがソファの上に移動していたから、テレビを見て過ごした時間もあったようだ。
といっても、ズル休みを満喫できるような性格でもないから、一日も経てば落ち着かなくなってくる頃だろう。
モランはフレッドの部屋のドアをノックした。
「フレッド、ただいま」
「………………おかえり」
中からごく小さな声で返事があった。 怒っているというよりは、どんな顔をして出ていけばいいかわからなくてちょっと拗ねてみた、といった声だった。
「ちょっと出てきてくれねぇか。見てほしいモンがあるんだ」
「……何?」
「いいから、ちょっとだけ。出てこいよ」
「…………」
廊下に正座してしばらく待つと、ドアが小さく開いた。隙間からしぶしぶ顔を覗かせたフレッドは、モランの姿を見て目を丸くした。
額のあたりに彼の視線が刺さっているのがわかる。
モランの前髪も、フレッドと同じくらい、短く切りそろえられていた。
「それ、どうしたの……?」
「切った。……お揃いだな」
モランは苦く笑いながら答えた。
正確には『切られた』のだが。
あの後、バルコニーに連行されたモランは、ウィリアムの手によって前髪をざっくりと切り落とされた。もちろん器用な彼のすることだから、人前に出られなくなるような仕上がりではない。
とはいえ、見慣れた自分の前髪が消え失せて額が晒されているのは確かに気恥ずかしい。ルイスが「フレッドはもうちょっと短かったです」と口を挟んだお陰で前髪の長さはかなり精確に再現された。
まさに『目には目を、歯には歯を』というわけだ。
さらに追い打ちをかけるようにアルバートがモランのスマートフォンを奪いとると、その姿を写真に収め同僚数名に一斉送信した。モランが常日頃格好つけたがっている後輩や女子社員たちを的確に選んでいたのだから、まったく悪魔のような男である。
すぐに全員から返信があった。「似合ってます!」とか「え、どうしたのモランくんかわい〜!」とか、概ね好意的なものばかりであったが恥ずかしくて居た堪れなかった(マネーペニーからのものすごく気を遣った文面が正直一番堪えた)。
「本当に悪かった。前髪を切り過ぎちまったのも、酒を飲んでたのも。完全に俺の失態だ」
「…………」
「それに、お前の気持ちもよーく分かった。『可愛い、可愛い』って言われまくると、男としての沽券に関わるな」
「こけん?」
「プライドとか意地ってやつのことだ。もう、明日どんな顔して会社に行けばいいのかわかんねぇよ」
「……かいしゃ、行きたくない?」
「ああ、行きたくねぇ。お前と一緒に休んで、家でテレビでも見てたいよ」
冗談めかして言うと、フレッドはようやく笑った。
「それはダメ」
「わかってるって。ちゃんと行くよ」
「うん。……僕も学校行く。恥ずかしいけど」
「おう、えらいぞ」
モランは立ち上がると、フレッドの手をつかんだ。大人しく部屋を出てきてくれたので、二人は連れ立って居間へと向かった。
「ケーキ買ってきたんだ。チョコのやつ」
「……クリスマスじゃないのに?」
「今日は特別だ。食おうぜ」
「先にごはん」
「生意気言うなっつの」
初出:Pixiv 2023.09.05
晴れた日はアイスクリームを食べに
フレッドたちが小学生になっているふんわりした年齢操作現パロ。
「ただいまー」
一日の仕事を終えてアパートのドアを開けた。
そこにはすでに明かりが灯っていて、三和土には小さな運動靴が揃えられている。
「おかえり」
短い廊下の向こうから、フレッドが顔を覗かせた。まだ十歳にもならない彼は、モランの年の離れた弟……のようなものだ。人から「全然似てない」と言われることもあれば、「言われてみれば似てるかもしれない」と首を傾げられることもある。確率はちょうど半々くらいだ。
ともかく、二人は一緒に暮らしていた。
「もう晩飯食べたか」
「うん」
「俺がいなくても暑くなったらエアコンつけろよ」
「……まだ平気」
フレッドは手のかからない子供だった。
年齢の割に落ち着いていて、わがままらしいわがままを言ったためしがない。包丁やガスコンロにはまだ触らないように言い聞かせているが、モランが作り置きか出来合いのおかずさえ用意しておけば自分で温めて食べるし、自分で食器を洗う。モランが脱ぎ散らかした服を洗濯機に突っ込んでおいてくれることもあった。
仕事で夜遅くなることの多いモランには非常に有難いことだった。「おとなしい子なんだから、気を遣わせすぎないようにしたまえよ」というのは、歳の離れた弟たちと3人暮らしをしているアルバートの言葉だ。
水切りカゴの中には、まだ水気のある食器とランチボックスが伏せられている。自分もバッグから出しておかねば、と考えながらシンクで手を洗った。
「あ、フレッド。水筒出し忘れてるぞ」
ふと気がついてモランが声をかけると、部屋に引っ込もうとしていたフレッドはびくりと肩を跳ねさせた。
「どうした? ついでに洗ってやるから持ってこいよ」
「……」
フレッドがこちらの呼びかけに特に返事をしないことはよくある。無視しているわけではない。余計なことを喋らないだけで、必ず何らかのアクションがある。今日のような場合は、答えずともすぐに部屋に戻って水筒を取ってくるだろうとモランは考えていた。
だから、フレッドがリビングの出口のあたりでもじもじと立ちつくしているのをただ不思議に思った。
「? ……学校にでも忘れてきたのか?」
思いついたことをそのまま口に出してみた。彼を咎めたり、責めるようなつもりはまったく無かった。
それなのに、フレッドは一言も発しないまま突然泣き出した。大きな目がみるみるうちに潤んで、堪えきれなくなった涙の粒がぽろりと転げ落ちたのだ。
「えっ、おいどうした」
突然のことにモランは面くらって、キッチンから飛び出した。フレッドのそばに膝をついてから、両手が濡れたままであるのに気がついて慌ててシャツで拭った。
「どうした、腹痛いのか? どっか怪我してるのか? 友だちと喧嘩でもしたか?」
「…………っ、」
フレッドは自己主張の少ない子供だ。声を上げて笑うことはほとんど無いけれど、逆に泣き出すことも滅多にない。そんな子供が今、肩を震わせてぐすぐすと泣いている。
何を尋ねてみても、フレッドは首を横に振るばかりで何も答えない。彼の背中をさすりながら、モランは内心混乱していた。
*
「というわけなんだが、お前何か知らないか?」
「朝一番に『緊急の案件だ』というから何かと思えば……」
「十分緊急だろ!」
あくる日、モランは出勤と同時に社長室に飛び込んだ。事前にショートメールを受け取って部屋で待っていたアルバートは、仕事絡みの内容でないことに若干肩の力を抜きながら居住まいを正した。
「ああ、そうだね。緊急事態であることには違いない。それで、今朝はどうしたんだい?」
「学校は普通に行った。休むか、とは一応聞いてみたが」
アパート前の自販機でお茶のペットボトルを買ってやると、フレッドは少し申し訳なさそうな顔をした。しかし、学校に行くのを嫌がる素振りは見せなかった。
まだ沈んだ様子ではあったが、学校で友達と会えば少しは気が紛れるだろうか。無理に聞き出そうとして昨夜の二の舞になってはたまらない。モランは不安ながらもそれ以上は何も言わずにフレッドを送り出した。
「結局、水筒はあったのかい?」
「無い。自分の部屋に隠してるなら別だが……」
「理由もなくそんな事をする子じゃないね」
モランは当然、とばかりに頷いた。
「それでは、やはり単に学校に忘れてきたかどこかで落としてしまったのでは?」
「だとしたらあいつは隠したりしねぇ。ちゃんと俺に言うはずだ」
以前に、フレッドが卵をうっかり落として割ってしまったことがあった。モランはまだ仕事に出ていて不在だったが、彼は床を綺麗に掃除した上で、帰ってきたモランにわざわざそのことを謝った。大雑把なモランは冷蔵庫に卵がいくつ残っているかなんていちいち覚えていないし、使った覚えのない汚れたキッチンペーパーと卵の残骸がゴミ箱に捨ててあってもおそらく気付かない。
黙っていればバレないのに、フレッドは正直に申し出たのだ。室内でボール遊びをして母お気に入りの花瓶を粉々にしてしまい、さらに隠蔽工作を図って大目玉を食らった過去を持つモランは素直に感心した。
もちろん、フレッドのことはそれはもう褒めた。本人が照れて部屋に引きこもってしまうまで褒めちぎった。
「そもそも『水筒どうした』って聞いただけで泣き出すなんて絶対おかしいだろ。ウィリアムやルイスから何か聞いてないか? 意地の悪いクラスメイトにちょっかいかけられてるとか」
「いや、聞いてないな」
「そうかぁ……」
フレッドとの間に信頼関係がある自負はあった。
しかし、彼がモランに対して隠し事をする可能性がまったく考えられないわけではない。自分の失敗は正直に申し出るくせに、転んで膝を擦りむいたときは黙って我慢するような子供なのだ。
今回もフレッド自身に過失があって水筒を紛失したとは思えなかった。いたずら坊主たちの度を越した悪ふざけ、というのがモランの中での最有力候補である。
学年は違えど、フレッドと同じ学校に通うアルバートの弟たちならば何か知っているのではないかと思ったが、どうやらあてが外れてしまったようだ。
そばで聞いていた秘書のマネーペニーが口を挟んだ。
「モランさん。もし本当にフレッド君が他の子供から意地悪されていて、それを隠しているのだとしたら、どうするおつもりです?」
「そのガキ締め上げるに決まってんだろ」
モランが即答すると、「そういうところですよ」とマネーペニーは呆れたように眉を下げた。
「モランさんがすぐオーバーアクションするから、大事にしたくなくて言い出せないんじゃないですか?」
「ぐ……」
「意地悪した子を懲らしめてその場を収めたところで、その後学校で気まずい思いをするのはフレッド君なんですからね。アフターケアもちゃんと考えて対処しないと」
「わかってるよ……」
モランは苦い顔で頷いた。
「ところで、フレッドが昨日うちに遊びに来ていたことは知っているかい?」
アルバートに尋ねられて、モランは「え」と声を上げた。
「聞いてねぇ。昨日はそれどころじゃなかったし」
「そうか。学校帰りに、うちの庭の花が見たいと言ってルイスに付いてきたらしい」
「フレッドが?」
兄同士が親しいこともあって、フレッドとアルバートの弟たちも気の置けない間柄だ。彼が学校帰りに遊びに行く先といえばたいていモリアーティ邸である。数日おきに執事のジャックも顔を出すから、鍵っ子のフレッドが夕飯まで世話になることもよくあった。
それにしても、事前の約束もなくフレッドの方から遊びに行きたいとねだるのは珍しいことのように思えた。
「どこか元気がなさそうだったらしいからルイスも心配していたよ。『モランさんと喧嘩でもしたのかも』とあの子が言っていたが、その様子では君も心当たりは無いみたいだな」
「ねぇよ」
「そうか。となるとやはり、学校で何かあったか……。改めてウィリアムたちに詳しく聞いておこう」
「あぁ、頼む」
ちょうどそこで、始業時間を告げるベルが鳴った。モランはマネーペニーに追い立てられながら、社長室を後にした。
*
三兄弟揃った、夕食後のお茶の時間だった。
アルバートがカップを傾けてお茶を一口飲むのを待ってから、ルイスは「兄様」と呼びかけた。
「モランさん、何か言っていましたか?」
彼の言う「何か」とは、もちろんフレッドのことである。人見知りの強いルイスにとって、家族ぐるみで付き合いのあるフレッドは大事な友だちだった。
「フレッド、今日もうちに来ました。庭のお花が見たいと言って……。今日も元気がなかったです」
「そうか、心配だね」
その口振りからして、なぜ我が家に来たがったのか、なぜ元気がないのかは聞き出せなかったようだ。
ともかく、今の段階でルイスに余計な不安を与えるわけにはいかない。アルバートは弟を励ますように微笑んだ。
「モランに直接確認したが、彼と喧嘩をしてしまったわけではないようだよ」
「そうなんですか……」
「ところで、フレッドが水筒を無くしてしまったらしいんだけど、ルイスは知らないかい? うちに忘れていったりしてはいないかな」
「いえ……。あれ、そういえば、昨日うちに来たときから持っていなかったかも……?」
ルイスが記憶を辿りながら首を傾げた。少し自信なさげな様子であったので、アルバートはもう一人の弟にも尋ねてみた。
「ウィルはどうだい? フレッドは水筒を持っていた?」
「あ、えっと、僕は……」
ウィリアムが珍しく口ごもるので、ルイスが唇を尖らせながら代わりに答えた。
「兄さんはフレッドとは会っていません。昨日も今日も」
「あぁ、ホームズくんと遊んでいたんだね」
「と、図書館で自習してたんです」
「あまり遅くなってはいけないよ」
「はぁい……」
ウィリアムは気恥ずかしそうに、間延びした返事をした。その頬の赤さの理由は、弟の前で窘められたからというだけではないだろう。
ウィリアムは誰とでも親しく交われるたちではあるが、飛び抜けた頭脳を持つ彼が相手のレベルに合わせる必要があることも否めない。対等に話ができる貴重な友人を得て、最近は毎日楽しそうだった。学校の授業があまりに退屈なので飛び級で大学に進みたい、と以前はよくアルバートに零していたが、そういえば近頃はあまり聞かない。
一方で、まだまだ兄に甘えたいルイスにとってはあまり面白くないらしい。
ウィリアムは咳払いしながら、弟に尋ねた。
「と、ところでルイス。フレッドとは何して遊んだの?」
「庭のお花を見て、おやつを食べて……一緒に宿題もしました」
「何時くらいに帰っていった?」
「17時にはうちを出ました」
「送っていってあげたんだね。寄り道は?」
「してません。まっすぐフレッドのうちの前まで行って、アパートの階段の下で別れました」
「今日も、昨日も?」
ウィリアムが念を押すように問を重ねた。ルイスはこくりと頷く。
「何かわかったかな、ウィル」
「はい、兄さん。まだ確かなことはわかりませんが、僕に考えがあります。明日の放課後、フレッドの水筒を見つけて来ますよ」
自信ありげなその表情に、アルバートは我が弟ながら頼もしさを覚えるのだった。
*
翌日の放課後。
ウィリアムは帰りがけにシャーロックを誘った。「ちょっとした事件があったんだけど」と前置きすると、彼は一も二もなく飛びついてきた。
歩きながら、昨夜アルバートから聞いた話をした。一昨日、フレッドが突然泣き出したこと。同じ日に彼の水筒が行方不明になっていること。それ以降毎日ウィリアムのうちに遊びに来たがること。
「シャーリーは、どう思う?」
シャーロックは腕組みをしながら「うーん」と唸った。
二人の少し前を、小さな影が並んで歩いている。ルイスとフレッドだ。やはり彼は今日もルイスについて行きたがったようで、手を繋いで帰路についていた。
遠目にも分かるほど俯きがちなフレッドに気を遣って、ルイスはあれこれと話しかけてやっているらしい。自分のあとを一生懸命ついてくるルイスは可愛いけれど、年下の子相手にお兄さんらしく振る舞おうとするルイスも可愛い、とウィリアムは思った。
「あのちっちゃいのがフレッド? 一年生?」
「二年生だよ」
ウィリアムは笑って訂正した。
シャーロックはフレッドとはまだ直接の面識がない。しかし、よく知らないからこそ先入観を取り払ってあらゆる可能性を検討できることもある。
「いじめられてるってセンはないのか?」
「んー……」
多分、モランやアルバートが一番危惧しているのはその可能性だろう。昨夜はモランからウィリアムのスマホへ、直接メッセージが飛んできたくらいだ。
「僕は、あまりその心配はしていない」
「何で? 泣いてたんだろ?」
「たしかに大人しい子だけど、モランに……お兄さんに買ってもらったものを隠されたり壊されたりして、黙っているような子だとは思えないんだ」
「誰にやられたか分からなくて困ってるとか」
「そんな狡猾に立ち回れる子、低学年のクラスにいると思う?」
「いないよなぁ。じゃあ上級生?」
「そこまで考え始めたらキリが無いよ」
「……リアム、お前もう何か掴んでるんだろ」
「さぁ、どうだろうね」
「考えてみりゃ、そもそもお前が俺に声かけたのは放課後になってからだ。水筒は学校には無いって踏んでるんだろ?」
シャーロックがにやりと笑った。ウィリアムは「当ててごらん」とばかりににっこりと微笑み返す。
その時、前を歩いていたルイスとフレッドが、ポストのある角に差し掛かった。彼らは少し立ち止まって何ごとか話してから、左に曲がっていった。
「あ、今日もうちに来るみたいだね」
そうつぶやくと、シャーロックはピンときたようだ。
「フレッドのうちに帰るには、そこを右に曲がるのか?」
「そうだよ。あの先のアパートだ」
「ってことは、これで三日連続、リアムの弟にくっついてあの角を左に曲がってるわけだ……」
シャーロックは心持ち顔を俯けながら両手の指先をぴたりと合わせた。彼が考えるときの癖だった。
ウィリアムはわくわくしながら彼の出す答えを待った。
「そうか! フレッドは本当はリアムのうちの花が見たかったんじゃなくて、「普段の通学路を通りたくなかった」」
後半は、二人の声がぴったり重なった。「やった!」と嬉しそうに声を上げたのはシャーロックだ。
「フレッドはこの先の道で何かトラブルがあって水筒をなくしたってことか!」
「うん、僕もおんなじ考え」
「行ってみようぜ!」
シャーロックがウィリアムの手を引いて駆け出した。
「やっぱ水筒が鍵だな。下校中に無くしたとしたら、ある程度可能性は絞られる。この先に公園とかあるだろ?」
「あるよ。流石だね」
ウィリアムが指差す先に、背の低い植え込みに囲まれた広場があった。時間帯も相まって、子どもたちで賑わっている。サッカーボールを抱えた一団が歓声を上げながらウィリアムたちを追い抜いていった。
「フレッドはサッカーとか、するか?」
「しないね。やったらきっと上手だと思うけど、学校帰りに友達と集まって遊ぶようなタイプではないかな」
「じゃあ誰かが間違って持って帰っちまってるってセンもナシか」
「泣きだしてしまったことともつじつまが合わないね。『返して』って言えば済むんだから」
「だよなぁ……。そもそも、フレッドは水筒をなくしたから泣いたのか? それとも何か悲しくなるようなことがあって、水筒がなくなったのはあくまでそのおまけなのか」
「本人が話そうとしないから、彼のお兄さんも困ってるみたいだったよ」
「……あっ」
不意に、シャーロックがウィリアムを肘でつついた。「あいつ」と彼は前方を顎で示した。
公園の前にアイスクリーム屋がある。
その店先に、一人の女性が立っていた。涼し気なストライプ柄のエプロンは、軒先を飾る庇と同じ色合いだ。店員で間違いないだろう。
「何かおかしくねぇ?」
シャーロックがウィリアムに耳打ちした。ウィリアムも小さくうなずき返す。
この道はウィリアムの通学路から外れるけれど、家からそう遠く離れてはいない。あのアイスクリーム屋にも、兄やモランに何度か連れて行ってもらったことがある。それでも、店員が店先に出て呼び込みをしているところは見たことがなかった。
エプロン姿の店員は前を通りかかる人々ににこやかに声をかけてこそいたが、チラシを配っているわけでもない。
「子供の顔を確認してる。誰か探してるんだ」
シャーロックがまたひそひそ声で囁いた。
店の前の人通りが途切れるたび、彼女はじっと公園の方を見ていた。出入りする小学生たちを視線で追っている。
ウィリアムたちの学校では買い食いは原則禁止されているから、彼らがお客になる可能性はあまり高くない。にもかかわらず、ああも熱心に見つめているということは何かあるに違いなかった。
「あの人が、僕らが探してた人みたいだね」
「だな」
シャーロックは獲物を見つけた猟犬のように、というよりは、ボールを追いかける子犬のようにその女性店員のもとへ駆け寄った。
「あんた、フレッドを探してるんだろ!」
「えっ?」
開口一番、シャーロックが元気よくそう叫ぶものだから、彼女は目を丸くした。テリアを散歩させていた通行人が、ちらりと彼らのほうを振り向く。
苦笑しながら後を追ったウィリアムは、礼儀正しく切り出した。
「あの、お仕事中にごめんなさい。僕たち、友達がなくしてしまった水筒を探しているんですが……」
彼女は合点がいったように「ああ!」と表情を明るくした。
「よかった。なかなか見かけなかったから返せないかと思ってたよ!」
*
階段の下からルイスが手を振ってくれているので、フレッドも踊り場に立ち止まって手を振り返した。彼の姿が見えなくなってから、ポケットから鍵を取り出す。
結局、今日も水筒を探しに行く勇気が出なかった。
ルイスはフレッドの様子がおかしいことにとっくに気がついているようだったし、モランだって心配してくれている。普段ざっくばらんな性格の彼が、何か言いたげな顔をしながらフレッドを傷つけないよう出方をうかがってくれている。
気を遣わせてしまっていることが申し訳なかった。フレッドが助けを求めればモランはすぐに応えてくれるとわかっていたが、今回ばかりはそういうわけにもいかない。
沈んだ気持ちで玄関の扉を開けると、三和土に大きな革靴が揃えられていた。
フレッドはどきりとして、しばらくドアを開けたまま立ちつくしていたが、慌てて家の中に駆け込んだ。
「おう、おかえり」
「なんで……」
モランがいた。
フレッドは思わず壁に掛かった時計を確認した。17時を少し回ったところだ。普段ならまだ会社にいる時間だった。
しかし、それよりももっと驚くことがあった。ダイニングテーブルの上に、水筒が置かれている。以前モランに買ってもらった、青い水筒だ。
「ついさっきウィリアムたちが持ってきてくれた。入れ違いだったな」
モランは悪戯に成功した子供のようにニヤニヤと笑っている。
「あいつらから全部聞いた。偉かったな」
モランがウィリアムたちから聞いた経緯はこうだ。
一昨日の放課後、帰宅中のフレッドは公園前の通りで、前を歩いていた老人が突然うずくまる場面に遭遇した。後で分かったことだが、どうやら軽い熱中症だったらしい。
フレッドは慌てて駆け寄った。老人の状態から熱中症だと判断することはまだ小学生の彼にはできなかったが、赤い顔をして息を切らせているのを見てとっさに水筒に残ったお茶を差し出した。
しかし多少水分を摂ったところでその老人はすぐには回復しなかった。良くない状態であることはフレッドにも見て取れた。彼はパニックを起こしそうになりながらもすぐ近くのアイスクリーム屋に助けを求めた。半泣きの子供が店に飛び込んできたとき、アルバイトの女性店員は変質者でも出たのかと身構えたそうだ。
歩道にうずくまった老人を見つけて、彼女はすぐさま救急車を呼んだ。そこからはアイスクリーム屋の店長も出てきて老人に水を飲ませたり、アイスクリーム用の保冷剤で首や脇を冷やしたりと対処をしてくれたらしい。
しかし、駆けつけた救急隊に老人を引き渡して、やれやれとひと息ついたときには、事態を知らせてくれた子供は姿を消していた。
「そのじいさん、一晩入院したけどすぐに元気になったってよ。家族と一緒にアイスクリーム屋にお礼を言いに来たそうだ」
モランのその言葉に、フレッドは大きく目を見開いて、そしてへなへなと座り込んだ。
目の前で人が倒れて、救急車まで出動する騒ぎになったのだ。幼いフレッドが受けた衝撃は計り知れなかった。あの老人がどうなったのか、確かめるのが怖かったのだ。
下校の時間にはアイスクリーム屋が開いている。だから店の前を迂回するための口実として、ルイスのうちに行きたいとせがんだ。一人で帰るのが不安だったというのも、おそらくあっただろう。
モランが大股でずかずかと近づいてきて、フレッドを勢いよく抱き上げた。頭が天井にぶつかるのではないかと驚いて、フレッドは慌てて首を竦めた。
「お前のおかげで何ともなかったってよ! じいさんもじいさんの家族もみんな、お前に感謝してたそうだ」
モランのまっ黒な瞳が、まっすぐにフレッドを見上げている。そのいつになく優しげな顔を見ているだけで、この二日間ずっと胸の中でわだかまっていた不安が溶けてなくなっていくようだった。悲しくないのに涙が溢れてきて、フレッドはモランの首にしがみついた。
彼は「泣くな泣くな」と明るい声で笑いながら、大きな手で背中を撫でてくれた。
水筒は、患者の持ち物だと勘違いした救急隊員が病院に持っていってしまっていたらしい。回復した老人がアイスクリーム屋を訪れて、水筒の持ち主に是非お礼をしたいと申し出たのだが、困ったことになった。その子供がどこの誰だか、アイスクリーム屋の店員たちも知らなかったのだ。
唯一の手がかりである水筒には名前が書かれていない。そもそも夕方の出来事だったので、隣の校区から公園へ遊びに来ていた子供の可能性もある。名前もわからないのに近隣の学校へ手あたり次第に問い合わせるわけにもいかなかった。
苦肉の策として、かろうじて子供の顔を覚えていたアルバイト店員が店先に立って水筒の持ち主を探していたというわけだ。
「お礼したいから、見つかったら連絡くれってアイスクリーム屋に頼んでたそうだ。今週末にでも会いに行くぞ!」
モランはフレッドを抱き上げたままその場でぐるぐると回った。彼があんまり嬉しそうにはしゃぐので、フレッドはくすぐったい気持ちをごまかすように口を尖らせて答えた。
「いいよ、別に」
「いいわけあるか! 俺の弟分は優しくて勇敢なすっげぇ奴なんだって、じいさん一家にもアイスクリーム屋の全従業員にもアルバートにも自慢しまくってやる!」
「えっ、やめてってば……! 僕、何もしてないし。それに何でアルバートさんまで出てくるの」
「普段自慢されまくってるからに決まってるだろ! あ、アイスクリーム屋にもらった無料券、ウィリアムたちに何枚かやっちまったけどいいよな?」
「それは別にいいけど、もう、下ろしてってば……」
そう言いながらも、フレッドは暴れたり腕を突っ張ったりして無理に下ろさせようとはしない。
アイスクリームの券、モランはウィリアムさんに何枚渡したんだろう。ルイスさんの分ももうあげちゃったかな。
大人しくモランに振り回されながら、フレッドはそんなことを考えていた。
初出:Pixiv 2022.08.28
フレッドたちが小学生になっているふんわりした年齢操作現パロ。
「ただいまー」
一日の仕事を終えてアパートのドアを開けた。
そこにはすでに明かりが灯っていて、三和土には小さな運動靴が揃えられている。
「おかえり」
短い廊下の向こうから、フレッドが顔を覗かせた。まだ十歳にもならない彼は、モランの年の離れた弟……のようなものだ。人から「全然似てない」と言われることもあれば、「言われてみれば似てるかもしれない」と首を傾げられることもある。確率はちょうど半々くらいだ。
ともかく、二人は一緒に暮らしていた。
「もう晩飯食べたか」
「うん」
「俺がいなくても暑くなったらエアコンつけろよ」
「……まだ平気」
フレッドは手のかからない子供だった。
年齢の割に落ち着いていて、わがままらしいわがままを言ったためしがない。包丁やガスコンロにはまだ触らないように言い聞かせているが、モランが作り置きか出来合いのおかずさえ用意しておけば自分で温めて食べるし、自分で食器を洗う。モランが脱ぎ散らかした服を洗濯機に突っ込んでおいてくれることもあった。
仕事で夜遅くなることの多いモランには非常に有難いことだった。「おとなしい子なんだから、気を遣わせすぎないようにしたまえよ」というのは、歳の離れた弟たちと3人暮らしをしているアルバートの言葉だ。
水切りカゴの中には、まだ水気のある食器とランチボックスが伏せられている。自分もバッグから出しておかねば、と考えながらシンクで手を洗った。
「あ、フレッド。水筒出し忘れてるぞ」
ふと気がついてモランが声をかけると、部屋に引っ込もうとしていたフレッドはびくりと肩を跳ねさせた。
「どうした? ついでに洗ってやるから持ってこいよ」
「……」
フレッドがこちらの呼びかけに特に返事をしないことはよくある。無視しているわけではない。余計なことを喋らないだけで、必ず何らかのアクションがある。今日のような場合は、答えずともすぐに部屋に戻って水筒を取ってくるだろうとモランは考えていた。
だから、フレッドがリビングの出口のあたりでもじもじと立ちつくしているのをただ不思議に思った。
「? ……学校にでも忘れてきたのか?」
思いついたことをそのまま口に出してみた。彼を咎めたり、責めるようなつもりはまったく無かった。
それなのに、フレッドは一言も発しないまま突然泣き出した。大きな目がみるみるうちに潤んで、堪えきれなくなった涙の粒がぽろりと転げ落ちたのだ。
「えっ、おいどうした」
突然のことにモランは面くらって、キッチンから飛び出した。フレッドのそばに膝をついてから、両手が濡れたままであるのに気がついて慌ててシャツで拭った。
「どうした、腹痛いのか? どっか怪我してるのか? 友だちと喧嘩でもしたか?」
「…………っ、」
フレッドは自己主張の少ない子供だ。声を上げて笑うことはほとんど無いけれど、逆に泣き出すことも滅多にない。そんな子供が今、肩を震わせてぐすぐすと泣いている。
何を尋ねてみても、フレッドは首を横に振るばかりで何も答えない。彼の背中をさすりながら、モランは内心混乱していた。
*
「というわけなんだが、お前何か知らないか?」
「朝一番に『緊急の案件だ』というから何かと思えば……」
「十分緊急だろ!」
あくる日、モランは出勤と同時に社長室に飛び込んだ。事前にショートメールを受け取って部屋で待っていたアルバートは、仕事絡みの内容でないことに若干肩の力を抜きながら居住まいを正した。
「ああ、そうだね。緊急事態であることには違いない。それで、今朝はどうしたんだい?」
「学校は普通に行った。休むか、とは一応聞いてみたが」
アパート前の自販機でお茶のペットボトルを買ってやると、フレッドは少し申し訳なさそうな顔をした。しかし、学校に行くのを嫌がる素振りは見せなかった。
まだ沈んだ様子ではあったが、学校で友達と会えば少しは気が紛れるだろうか。無理に聞き出そうとして昨夜の二の舞になってはたまらない。モランは不安ながらもそれ以上は何も言わずにフレッドを送り出した。
「結局、水筒はあったのかい?」
「無い。自分の部屋に隠してるなら別だが……」
「理由もなくそんな事をする子じゃないね」
モランは当然、とばかりに頷いた。
「それでは、やはり単に学校に忘れてきたかどこかで落としてしまったのでは?」
「だとしたらあいつは隠したりしねぇ。ちゃんと俺に言うはずだ」
以前に、フレッドが卵をうっかり落として割ってしまったことがあった。モランはまだ仕事に出ていて不在だったが、彼は床を綺麗に掃除した上で、帰ってきたモランにわざわざそのことを謝った。大雑把なモランは冷蔵庫に卵がいくつ残っているかなんていちいち覚えていないし、使った覚えのない汚れたキッチンペーパーと卵の残骸がゴミ箱に捨ててあってもおそらく気付かない。
黙っていればバレないのに、フレッドは正直に申し出たのだ。室内でボール遊びをして母お気に入りの花瓶を粉々にしてしまい、さらに隠蔽工作を図って大目玉を食らった過去を持つモランは素直に感心した。
もちろん、フレッドのことはそれはもう褒めた。本人が照れて部屋に引きこもってしまうまで褒めちぎった。
「そもそも『水筒どうした』って聞いただけで泣き出すなんて絶対おかしいだろ。ウィリアムやルイスから何か聞いてないか? 意地の悪いクラスメイトにちょっかいかけられてるとか」
「いや、聞いてないな」
「そうかぁ……」
フレッドとの間に信頼関係がある自負はあった。
しかし、彼がモランに対して隠し事をする可能性がまったく考えられないわけではない。自分の失敗は正直に申し出るくせに、転んで膝を擦りむいたときは黙って我慢するような子供なのだ。
今回もフレッド自身に過失があって水筒を紛失したとは思えなかった。いたずら坊主たちの度を越した悪ふざけ、というのがモランの中での最有力候補である。
学年は違えど、フレッドと同じ学校に通うアルバートの弟たちならば何か知っているのではないかと思ったが、どうやらあてが外れてしまったようだ。
そばで聞いていた秘書のマネーペニーが口を挟んだ。
「モランさん。もし本当にフレッド君が他の子供から意地悪されていて、それを隠しているのだとしたら、どうするおつもりです?」
「そのガキ締め上げるに決まってんだろ」
モランが即答すると、「そういうところですよ」とマネーペニーは呆れたように眉を下げた。
「モランさんがすぐオーバーアクションするから、大事にしたくなくて言い出せないんじゃないですか?」
「ぐ……」
「意地悪した子を懲らしめてその場を収めたところで、その後学校で気まずい思いをするのはフレッド君なんですからね。アフターケアもちゃんと考えて対処しないと」
「わかってるよ……」
モランは苦い顔で頷いた。
「ところで、フレッドが昨日うちに遊びに来ていたことは知っているかい?」
アルバートに尋ねられて、モランは「え」と声を上げた。
「聞いてねぇ。昨日はそれどころじゃなかったし」
「そうか。学校帰りに、うちの庭の花が見たいと言ってルイスに付いてきたらしい」
「フレッドが?」
兄同士が親しいこともあって、フレッドとアルバートの弟たちも気の置けない間柄だ。彼が学校帰りに遊びに行く先といえばたいていモリアーティ邸である。数日おきに執事のジャックも顔を出すから、鍵っ子のフレッドが夕飯まで世話になることもよくあった。
それにしても、事前の約束もなくフレッドの方から遊びに行きたいとねだるのは珍しいことのように思えた。
「どこか元気がなさそうだったらしいからルイスも心配していたよ。『モランさんと喧嘩でもしたのかも』とあの子が言っていたが、その様子では君も心当たりは無いみたいだな」
「ねぇよ」
「そうか。となるとやはり、学校で何かあったか……。改めてウィリアムたちに詳しく聞いておこう」
「あぁ、頼む」
ちょうどそこで、始業時間を告げるベルが鳴った。モランはマネーペニーに追い立てられながら、社長室を後にした。
*
三兄弟揃った、夕食後のお茶の時間だった。
アルバートがカップを傾けてお茶を一口飲むのを待ってから、ルイスは「兄様」と呼びかけた。
「モランさん、何か言っていましたか?」
彼の言う「何か」とは、もちろんフレッドのことである。人見知りの強いルイスにとって、家族ぐるみで付き合いのあるフレッドは大事な友だちだった。
「フレッド、今日もうちに来ました。庭のお花が見たいと言って……。今日も元気がなかったです」
「そうか、心配だね」
その口振りからして、なぜ我が家に来たがったのか、なぜ元気がないのかは聞き出せなかったようだ。
ともかく、今の段階でルイスに余計な不安を与えるわけにはいかない。アルバートは弟を励ますように微笑んだ。
「モランに直接確認したが、彼と喧嘩をしてしまったわけではないようだよ」
「そうなんですか……」
「ところで、フレッドが水筒を無くしてしまったらしいんだけど、ルイスは知らないかい? うちに忘れていったりしてはいないかな」
「いえ……。あれ、そういえば、昨日うちに来たときから持っていなかったかも……?」
ルイスが記憶を辿りながら首を傾げた。少し自信なさげな様子であったので、アルバートはもう一人の弟にも尋ねてみた。
「ウィルはどうだい? フレッドは水筒を持っていた?」
「あ、えっと、僕は……」
ウィリアムが珍しく口ごもるので、ルイスが唇を尖らせながら代わりに答えた。
「兄さんはフレッドとは会っていません。昨日も今日も」
「あぁ、ホームズくんと遊んでいたんだね」
「と、図書館で自習してたんです」
「あまり遅くなってはいけないよ」
「はぁい……」
ウィリアムは気恥ずかしそうに、間延びした返事をした。その頬の赤さの理由は、弟の前で窘められたからというだけではないだろう。
ウィリアムは誰とでも親しく交われるたちではあるが、飛び抜けた頭脳を持つ彼が相手のレベルに合わせる必要があることも否めない。対等に話ができる貴重な友人を得て、最近は毎日楽しそうだった。学校の授業があまりに退屈なので飛び級で大学に進みたい、と以前はよくアルバートに零していたが、そういえば近頃はあまり聞かない。
一方で、まだまだ兄に甘えたいルイスにとってはあまり面白くないらしい。
ウィリアムは咳払いしながら、弟に尋ねた。
「と、ところでルイス。フレッドとは何して遊んだの?」
「庭のお花を見て、おやつを食べて……一緒に宿題もしました」
「何時くらいに帰っていった?」
「17時にはうちを出ました」
「送っていってあげたんだね。寄り道は?」
「してません。まっすぐフレッドのうちの前まで行って、アパートの階段の下で別れました」
「今日も、昨日も?」
ウィリアムが念を押すように問を重ねた。ルイスはこくりと頷く。
「何かわかったかな、ウィル」
「はい、兄さん。まだ確かなことはわかりませんが、僕に考えがあります。明日の放課後、フレッドの水筒を見つけて来ますよ」
自信ありげなその表情に、アルバートは我が弟ながら頼もしさを覚えるのだった。
*
翌日の放課後。
ウィリアムは帰りがけにシャーロックを誘った。「ちょっとした事件があったんだけど」と前置きすると、彼は一も二もなく飛びついてきた。
歩きながら、昨夜アルバートから聞いた話をした。一昨日、フレッドが突然泣き出したこと。同じ日に彼の水筒が行方不明になっていること。それ以降毎日ウィリアムのうちに遊びに来たがること。
「シャーリーは、どう思う?」
シャーロックは腕組みをしながら「うーん」と唸った。
二人の少し前を、小さな影が並んで歩いている。ルイスとフレッドだ。やはり彼は今日もルイスについて行きたがったようで、手を繋いで帰路についていた。
遠目にも分かるほど俯きがちなフレッドに気を遣って、ルイスはあれこれと話しかけてやっているらしい。自分のあとを一生懸命ついてくるルイスは可愛いけれど、年下の子相手にお兄さんらしく振る舞おうとするルイスも可愛い、とウィリアムは思った。
「あのちっちゃいのがフレッド? 一年生?」
「二年生だよ」
ウィリアムは笑って訂正した。
シャーロックはフレッドとはまだ直接の面識がない。しかし、よく知らないからこそ先入観を取り払ってあらゆる可能性を検討できることもある。
「いじめられてるってセンはないのか?」
「んー……」
多分、モランやアルバートが一番危惧しているのはその可能性だろう。昨夜はモランからウィリアムのスマホへ、直接メッセージが飛んできたくらいだ。
「僕は、あまりその心配はしていない」
「何で? 泣いてたんだろ?」
「たしかに大人しい子だけど、モランに……お兄さんに買ってもらったものを隠されたり壊されたりして、黙っているような子だとは思えないんだ」
「誰にやられたか分からなくて困ってるとか」
「そんな狡猾に立ち回れる子、低学年のクラスにいると思う?」
「いないよなぁ。じゃあ上級生?」
「そこまで考え始めたらキリが無いよ」
「……リアム、お前もう何か掴んでるんだろ」
「さぁ、どうだろうね」
「考えてみりゃ、そもそもお前が俺に声かけたのは放課後になってからだ。水筒は学校には無いって踏んでるんだろ?」
シャーロックがにやりと笑った。ウィリアムは「当ててごらん」とばかりににっこりと微笑み返す。
その時、前を歩いていたルイスとフレッドが、ポストのある角に差し掛かった。彼らは少し立ち止まって何ごとか話してから、左に曲がっていった。
「あ、今日もうちに来るみたいだね」
そうつぶやくと、シャーロックはピンときたようだ。
「フレッドのうちに帰るには、そこを右に曲がるのか?」
「そうだよ。あの先のアパートだ」
「ってことは、これで三日連続、リアムの弟にくっついてあの角を左に曲がってるわけだ……」
シャーロックは心持ち顔を俯けながら両手の指先をぴたりと合わせた。彼が考えるときの癖だった。
ウィリアムはわくわくしながら彼の出す答えを待った。
「そうか! フレッドは本当はリアムのうちの花が見たかったんじゃなくて、「普段の通学路を通りたくなかった」」
後半は、二人の声がぴったり重なった。「やった!」と嬉しそうに声を上げたのはシャーロックだ。
「フレッドはこの先の道で何かトラブルがあって水筒をなくしたってことか!」
「うん、僕もおんなじ考え」
「行ってみようぜ!」
シャーロックがウィリアムの手を引いて駆け出した。
「やっぱ水筒が鍵だな。下校中に無くしたとしたら、ある程度可能性は絞られる。この先に公園とかあるだろ?」
「あるよ。流石だね」
ウィリアムが指差す先に、背の低い植え込みに囲まれた広場があった。時間帯も相まって、子どもたちで賑わっている。サッカーボールを抱えた一団が歓声を上げながらウィリアムたちを追い抜いていった。
「フレッドはサッカーとか、するか?」
「しないね。やったらきっと上手だと思うけど、学校帰りに友達と集まって遊ぶようなタイプではないかな」
「じゃあ誰かが間違って持って帰っちまってるってセンもナシか」
「泣きだしてしまったことともつじつまが合わないね。『返して』って言えば済むんだから」
「だよなぁ……。そもそも、フレッドは水筒をなくしたから泣いたのか? それとも何か悲しくなるようなことがあって、水筒がなくなったのはあくまでそのおまけなのか」
「本人が話そうとしないから、彼のお兄さんも困ってるみたいだったよ」
「……あっ」
不意に、シャーロックがウィリアムを肘でつついた。「あいつ」と彼は前方を顎で示した。
公園の前にアイスクリーム屋がある。
その店先に、一人の女性が立っていた。涼し気なストライプ柄のエプロンは、軒先を飾る庇と同じ色合いだ。店員で間違いないだろう。
「何かおかしくねぇ?」
シャーロックがウィリアムに耳打ちした。ウィリアムも小さくうなずき返す。
この道はウィリアムの通学路から外れるけれど、家からそう遠く離れてはいない。あのアイスクリーム屋にも、兄やモランに何度か連れて行ってもらったことがある。それでも、店員が店先に出て呼び込みをしているところは見たことがなかった。
エプロン姿の店員は前を通りかかる人々ににこやかに声をかけてこそいたが、チラシを配っているわけでもない。
「子供の顔を確認してる。誰か探してるんだ」
シャーロックがまたひそひそ声で囁いた。
店の前の人通りが途切れるたび、彼女はじっと公園の方を見ていた。出入りする小学生たちを視線で追っている。
ウィリアムたちの学校では買い食いは原則禁止されているから、彼らがお客になる可能性はあまり高くない。にもかかわらず、ああも熱心に見つめているということは何かあるに違いなかった。
「あの人が、僕らが探してた人みたいだね」
「だな」
シャーロックは獲物を見つけた猟犬のように、というよりは、ボールを追いかける子犬のようにその女性店員のもとへ駆け寄った。
「あんた、フレッドを探してるんだろ!」
「えっ?」
開口一番、シャーロックが元気よくそう叫ぶものだから、彼女は目を丸くした。テリアを散歩させていた通行人が、ちらりと彼らのほうを振り向く。
苦笑しながら後を追ったウィリアムは、礼儀正しく切り出した。
「あの、お仕事中にごめんなさい。僕たち、友達がなくしてしまった水筒を探しているんですが……」
彼女は合点がいったように「ああ!」と表情を明るくした。
「よかった。なかなか見かけなかったから返せないかと思ってたよ!」
*
階段の下からルイスが手を振ってくれているので、フレッドも踊り場に立ち止まって手を振り返した。彼の姿が見えなくなってから、ポケットから鍵を取り出す。
結局、今日も水筒を探しに行く勇気が出なかった。
ルイスはフレッドの様子がおかしいことにとっくに気がついているようだったし、モランだって心配してくれている。普段ざっくばらんな性格の彼が、何か言いたげな顔をしながらフレッドを傷つけないよう出方をうかがってくれている。
気を遣わせてしまっていることが申し訳なかった。フレッドが助けを求めればモランはすぐに応えてくれるとわかっていたが、今回ばかりはそういうわけにもいかない。
沈んだ気持ちで玄関の扉を開けると、三和土に大きな革靴が揃えられていた。
フレッドはどきりとして、しばらくドアを開けたまま立ちつくしていたが、慌てて家の中に駆け込んだ。
「おう、おかえり」
「なんで……」
モランがいた。
フレッドは思わず壁に掛かった時計を確認した。17時を少し回ったところだ。普段ならまだ会社にいる時間だった。
しかし、それよりももっと驚くことがあった。ダイニングテーブルの上に、水筒が置かれている。以前モランに買ってもらった、青い水筒だ。
「ついさっきウィリアムたちが持ってきてくれた。入れ違いだったな」
モランは悪戯に成功した子供のようにニヤニヤと笑っている。
「あいつらから全部聞いた。偉かったな」
モランがウィリアムたちから聞いた経緯はこうだ。
一昨日の放課後、帰宅中のフレッドは公園前の通りで、前を歩いていた老人が突然うずくまる場面に遭遇した。後で分かったことだが、どうやら軽い熱中症だったらしい。
フレッドは慌てて駆け寄った。老人の状態から熱中症だと判断することはまだ小学生の彼にはできなかったが、赤い顔をして息を切らせているのを見てとっさに水筒に残ったお茶を差し出した。
しかし多少水分を摂ったところでその老人はすぐには回復しなかった。良くない状態であることはフレッドにも見て取れた。彼はパニックを起こしそうになりながらもすぐ近くのアイスクリーム屋に助けを求めた。半泣きの子供が店に飛び込んできたとき、アルバイトの女性店員は変質者でも出たのかと身構えたそうだ。
歩道にうずくまった老人を見つけて、彼女はすぐさま救急車を呼んだ。そこからはアイスクリーム屋の店長も出てきて老人に水を飲ませたり、アイスクリーム用の保冷剤で首や脇を冷やしたりと対処をしてくれたらしい。
しかし、駆けつけた救急隊に老人を引き渡して、やれやれとひと息ついたときには、事態を知らせてくれた子供は姿を消していた。
「そのじいさん、一晩入院したけどすぐに元気になったってよ。家族と一緒にアイスクリーム屋にお礼を言いに来たそうだ」
モランのその言葉に、フレッドは大きく目を見開いて、そしてへなへなと座り込んだ。
目の前で人が倒れて、救急車まで出動する騒ぎになったのだ。幼いフレッドが受けた衝撃は計り知れなかった。あの老人がどうなったのか、確かめるのが怖かったのだ。
下校の時間にはアイスクリーム屋が開いている。だから店の前を迂回するための口実として、ルイスのうちに行きたいとせがんだ。一人で帰るのが不安だったというのも、おそらくあっただろう。
モランが大股でずかずかと近づいてきて、フレッドを勢いよく抱き上げた。頭が天井にぶつかるのではないかと驚いて、フレッドは慌てて首を竦めた。
「お前のおかげで何ともなかったってよ! じいさんもじいさんの家族もみんな、お前に感謝してたそうだ」
モランのまっ黒な瞳が、まっすぐにフレッドを見上げている。そのいつになく優しげな顔を見ているだけで、この二日間ずっと胸の中でわだかまっていた不安が溶けてなくなっていくようだった。悲しくないのに涙が溢れてきて、フレッドはモランの首にしがみついた。
彼は「泣くな泣くな」と明るい声で笑いながら、大きな手で背中を撫でてくれた。
水筒は、患者の持ち物だと勘違いした救急隊員が病院に持っていってしまっていたらしい。回復した老人がアイスクリーム屋を訪れて、水筒の持ち主に是非お礼をしたいと申し出たのだが、困ったことになった。その子供がどこの誰だか、アイスクリーム屋の店員たちも知らなかったのだ。
唯一の手がかりである水筒には名前が書かれていない。そもそも夕方の出来事だったので、隣の校区から公園へ遊びに来ていた子供の可能性もある。名前もわからないのに近隣の学校へ手あたり次第に問い合わせるわけにもいかなかった。
苦肉の策として、かろうじて子供の顔を覚えていたアルバイト店員が店先に立って水筒の持ち主を探していたというわけだ。
「お礼したいから、見つかったら連絡くれってアイスクリーム屋に頼んでたそうだ。今週末にでも会いに行くぞ!」
モランはフレッドを抱き上げたままその場でぐるぐると回った。彼があんまり嬉しそうにはしゃぐので、フレッドはくすぐったい気持ちをごまかすように口を尖らせて答えた。
「いいよ、別に」
「いいわけあるか! 俺の弟分は優しくて勇敢なすっげぇ奴なんだって、じいさん一家にもアイスクリーム屋の全従業員にもアルバートにも自慢しまくってやる!」
「えっ、やめてってば……! 僕、何もしてないし。それに何でアルバートさんまで出てくるの」
「普段自慢されまくってるからに決まってるだろ! あ、アイスクリーム屋にもらった無料券、ウィリアムたちに何枚かやっちまったけどいいよな?」
「それは別にいいけど、もう、下ろしてってば……」
そう言いながらも、フレッドは暴れたり腕を突っ張ったりして無理に下ろさせようとはしない。
アイスクリームの券、モランはウィリアムさんに何枚渡したんだろう。ルイスさんの分ももうあげちゃったかな。
大人しくモランに振り回されながら、フレッドはそんなことを考えていた。
初出:Pixiv 2022.08.28
アイリーン・アドラーは死んだのか?
ロンドンで悪さしてるモリ家の話。
墓守の男は、死体安置所へ向かう階段を下りていた。
後ろをついてくる青年は、靴底にゴムでも仕込んでいるのか、猫のように静かに歩く。つめたい石壁に反響する靴音は男のもの一つきりだった。
分厚い鉄扉を開くと、冷えた空気と微かな腐臭が鼻をついた。右手側の壁一面には、埋葬を待つ死体をしまっておく大きな引き出しが作りつけられている。男はそのうちの一つを引っ張り出した。
「ご注文通り、金髪に青い目、二十代前半の女だ。身長はちっと低かったかもしれんが、勘弁してくれ」
「これくらいなら。……死因は?」
聞きながら、青年は死体を覆う布をそっとめくった。状態を確認し、少し躊躇うような仕草を見せてから、瞼をめくって瞳の色を確かめた。
「石段から転げ落ちたらしい。大した高さじゃなかったそうだが、打ちどころが悪くてな。後頭部に傷がある」
死体をうつ伏せにすると、生々しい傷跡が露わになった。幸か不幸か、病院へ担ぎ込む間もなく即死だったらしい。
男は向かいに立つ青年をちらりと盗み見た。
装いは取り立てて特徴のない労働者ふうだ。
淡青色のストールを顔を隠すように巻いてはいるが、その下からのぞく灰色の瞳はごく大人しげで、他人に警戒心を抱かせる質ではない。おそらくまだ二十歳にもなっていないだろう。
女も知らなさそうな幼い顔立ちで、冷静に死体を検分しているのが不気味だった。
「……確かに」
彼は小さく頷いた。
青ざめた死体を丁寧に布にくるみ直してから、懐から硬貨の詰まった革袋を取り出して男に渡した。男は「毎度」と小さく答えた。袋の重みを確かめても、気持ちが浮き立つことはない。
青年が棺の中からそっと彼女を抱え上げる。
涼しい地下に保管していたとはいえ、すでに死後数日経過した死体を相手に顔色一つ変えなかった。自分とほとんど変わらない身の丈の死体を苦もなさそうに抱えて、ただ静かに、淡々とした足取りで階段を登っていった。
その背中を見送りながら、男はそっとため息をついた。
一年ほど前、男は妻を殺した。
些細なことから口論に発展して、カッとなって突き飛ばしたところ運悪く頭をぶつけて死んでしまったのだ。男は露見を恐れて、墓地の片隅に死体を埋めた。
教会の関係者や近所の人間には、妻は自分に愛想を尽かして田舎に帰ったと嘘をつくことにした。実際はサセックスに住む彼女の両親はとっくに他界していて、兄弟姉妹も親しい友人もいない。
唯一の身寄りである男が騒ぎ立てさえしなければ、誰も妻の行方を気に留めはしない。墓守夫婦と親しく交わろうなんて人間はそういないのだから。
死体の処理に関しても、こちらはプロだ。見つかるはずがないとたかを括っていた。
それなのに、奴らはすぐさま嗅ぎつけた。
妻を埋めてから3日と経たないうちに、身長6フィートをゆうに超える黒づくめの大男が家に押し入ってきた。強盗か、ヤードの刑事かと震え上がったが、相手はもっと恐ろしい奴だった。彼は開口一番、男が犯した罪を言い当てたのだ。妻を殺した日時も死体を埋めた場所も、奴は全て知っていた。
番犬のレジーはその晩、ひと声も吠えなかった。翌朝男に蹴飛ばされるまでぐっすりと眠りこけていたところを見るに、おそらく事前に餌に眠り薬でも混ぜられていたのだろう。
そうして、あれよあれよと言う間に奴らの犯罪の片棒を担がされることになり、今に至っている。きっと、ずいぶん前から目を付けられていたのだろう。
逆らえば今度こそ本物の刑事がすっ飛んでくる。
子供もなく、失うものなど無い身ではあったが、だからと言って残りの人生を牢獄で過ごしたいとは思わない。男は彼らに従った。
課せられた仕事は、注文に応じた死体を用意すること。身寄りのない浮浪者であっても埋葬の際は司祭が立ち会って祈りを捧げる決まりだったので、埋めた後からこっそり掘り返す必要があった。大抵の場合は、あの陰気な青年が窓口役だった。
初めて彼がやって来た時は、こんな若者まで弱味を握られ従わされているのかと少し気の毒に思ったが、あの落ち着きぶりを見るにどうやらそうではないらしい。
青年は口数が少ない方ではあったが、一度だけ雑談めいたことを口にしたことがある。「あそこにあったイチイの木、植え替えたんですね」と。
確かにその日の昼間、男は木の植え替えを行っていた。「景観が悪いから」と気まぐれな司祭に頼まれたものの、処分が面倒だったので墓地の裏手に植え直したのだ。
その場では適当に相槌を打ったが、彼が帰ってからその意味を考えてぞっとした。
青年は人目を忍んで夜にしかやって来ない。街灯もない墓地の片隅に植えられていた木がイチイであると分かるはずもなかった。そして彼は「伐った」ではなく「植え替えた」と言った。昼間の動向も監視しているぞと、言外にほのめかしていたのだ。
妻の死体を移動させてしまえば奴らを煙に巻けるのではないかと思案していた矢先のことだ。
あの大男とはまた違った意味で、掴みどころのない恐ろしい相手だった。
女の死体を引き渡してから一週間ほど経ったある日、男は街の食料品店に来ていた。
「卵一ダース、パンと玉ねぎ。紅茶を一ポンド。あと、何でもいいから肉を適当に」
「あいよ。犬にやるやつだね」
店主は冷蔵ケースから包みを引っ張り出した。売り物にならない切れ端や骨を、レジーのためにこうして取っておいてくれるのだ。
袋詰を待っている間、男はカウンターの上に放り出されていた新聞を眺めていた。『イーストエンドで娼婦惨殺 姿なき連続殺人鬼の恐怖』、『急死の男爵にまつわる黒い噂』、『シティ・アンド・サバーバン銀行で強盗団確保』といった見出しが躍っている。新聞社は今日も事件の話題に事欠かないようだ。
ここに自分の名前が並ぶのを想像して、男は暗澹たる気分になった。罪悪感ではない。奴らの気分次第でいつそうなるとも分からない現状が落ち着かなかった。自分の命運を他人に握られている不快感だ。
苦々しくため息をつく男に、店主が片頬を上げて顔を寄せた。
「おい、あんた知ってるかい」
「あ?」
「アイリーン・アドラーが死んだってよ」
「誰だいそりゃあ」
「知らねぇのか! 米国きっての大女優だよ」
男は「へぇ」と気のない返事をした。
オペラ鑑賞など高尚な趣味は持ち合わせていなかったし、それはこのしがない食料品店の店主も同じだろう。
しかし彼はお構いなしに目を輝かせながら話を続けた。噂話をする者特有の、下卑た笑みだった。
「テムズ川から死体が上がったそうだ。妙だと思わないかい? ついこの間、かの名探偵シャーロック・ホームズとの熱愛が新聞で騒がれたばかりなのによ」
「あぁ、あのゴシップ記事の女優かい」
「そうそう。まだどの新聞も触れちゃいないが、あの名探偵に煮え湯を飲まされた悪党どもが、腹いせにさらって嬲り殺しにしたんじゃねえかって噂だよ。あの金髪碧眼の美女を……」
「何だって?」
「だから、あの名探偵に悪巧みを邪魔された連中が……」
「違う。その後だ。金髪碧眼だって?」
「え? あぁ、俺だって実物を拝んだことがあるわけじゃねぇけどよ。アイリーン・アドラーって言ったら金髪碧眼の絶世の美女で有名だぞ……どうかしたか?」
「いや……」
聞けばそのアイリーン・アドラーとかいう女優は、年齢も背格好も男が用意した死体の特徴にぴたりと一致する。
奴らが死体を何のために使うのかなど、深く考えることはあえて避けていた。けれど、これは単なる偶然の一致と言えるのだろうか。
もし先日引き渡したあの死体が、アイリーン・アドラーの死を偽装するために使われたのだとしたら?
考えられるのは、女の身を案じたホームズが犯罪者どもの目をくらますために身代わりの死体を用意した、という筋書きだ。
すると、これまでの話ががらりと変わる。あの陰気な青年は恐ろしい犯罪組織の構成員だとばかり思っていたが、実は正義の名探偵の手先だったのか? あの黒づくめの大男も?
様々な憶測が男の頭の中を駆け巡った。
逆のパターンもあり得る。
実際、奴らは悪党だ。ホームズの手先などでなく、反対に彼からあの女を奪うために適当な身代わりを立てたとも考えられる。
しかしその場合、ヤードとも繋がりのあるホームズが遺体の顔を確認すればあっという間に偽装を見破られてしまうのではないか? そもそも、それなりの器量よしだったとはいえ街の娘と著名な大女優を警察が間違えたりするものだろうか……。
深入りするのはまずい、と危機感を覚えたが止められなかった。男は暇さえあれば彼らの正体についてあれこれと想像を巡らせるようになっていた。
そんな矢先、新しい注文が入った。
『解剖済みの若い女の遺体を3つ』
暗号で書かれたこの電報を受け取ったとき、男の体に恐怖とも興奮ともつかない震えが走った。
まさにその朝、男のもとに解剖済みの遺体たちが転がり込んできたからだ。とある大学で医学生の解剖実習に使われた献体らしい。珍しいことに若い女のものばかりだった。
糸だ、と男は思った。
見えない糸がこのロンドン中に張り巡らされている。自分はきっとそのささやかな網目のひとつに過ぎないのだろうが、あの青年と大男はおそらく重要な結び目だ。
編み上げられた糸の先は、どこへ繋がっているのだろう。
掃除をしてくれる妻がいなくなり荒れた家の中で、男は言い様のない高揚感を覚えていた。
次の日の夜、約束通りの時間に彼らは来た。
普段は青年一人であったが、今夜は死体の数が多いためか例の大男も一緒だった。墓地の入口近くには荷車が停めてあって、そばには見覚えのない若い男の姿もあった。
荷車へ死体を積み込む間、彼らは一言も口をきかなかった。少し多めの報酬を男に手渡して、「じゃあ」と青年が頭を下げた。
立ち去ろうとする彼に、男は思い切って尋ねた。
「アイリーン・アドラーは死んだのか?」
渾身の力で切り込んだつもりだったのに、振り返った青年は顔色ひとつ変えていなかった。
黒づくめの大男も、新顔の若い男も似たようなものだ。ただじっと、無表情にこちらを見ている。その瞳は深い穴のようで、考えがまったく読み取れなかった。
いつの間にか背中にじっとりと汗をかいていた。まずいことを口走ったのだと即座に理解したが、取り繕おうにも声が出なかった。
沈黙を破ったのは、にゃお、と場違いなほどのんきな鳴き声だった。
青年の足元に、小さな黒猫がすり寄っていた。
耳から爪先まで真っ黒な猫だ。彼はさっと屈んで子猫を抱き上げた。
「……こんなところまでついて来ちゃ駄目だよ。犬もいるんだから。好奇心は猫をも、って言うでしょ」
彼は猫の喉をくすぐった。その優しげな手付きとは裏腹に、声色はどこまでも冷えていた。
そばで聞いていた新顔の男がくすりと笑った。
「猫に九生あり、とも言うね」
男にしては妙に艶のある声だった。
深く被った鳥打ち帽の下で、青い瞳がランタンの明かりにきらめいている。背筋にぞわりと悪寒が走った。
地下の遺体安置所に横たわっていた金髪の女。彼女の横顔は美しくも青ざめたまま、二度とその青い目を開くことはないはずなのに。
アイリーン・アドラーは死んだのか?
もう一度そう口にしようとした時、黒いコートの大男が舌打ちをした。
その音で現実に引き戻され、男はひゅっと息を吸い込んだ。思い出したように、心臓がばくばくと音を立てている。
青い目の男は声を上げて笑った。
「冗談だよ、冗談」
そう、男だ。
いつの間にか足が震えていて、立っていられなくなるような心地がした。口の中でおかしな味がする。墓地を取り囲む木々がざわざわと鳴って、男の頭上に迫ってきた。
「おしまいだ」と頭の中で声がした。
軽率に口を開いたことを後悔したがもう遅い。おしまいだ、おしまいだ。その言葉が調子外れの歌のようにぐるぐると繰り返された。
思い出したのは、土の中からうつろな目でこちらを見上げる妻の死に顔だった。
*
墓地から離れたところで、ボンドが「どうするの?」と後ろを見やりながら尋ねた。墓守の男はまだ呆然と立ち尽くしたままだ。
モランは煙草をくわえたまま、つまらなさそうに答えた。
「証拠は揃えてある。電報を一本打てば終わりだ」
「うわ、悪党だね」
「今さらだろ」
荷台の中で子猫が鳴いた。
フレッドを慕って足元にまとわりつくので、荷車で轢いてしまわないようにモランが放り込んだのだ。
ボンドが手を伸ばして撫でてやると、子猫は喉を鳴らした。遊んでもらえて嬉しいのだろう。荷台に折り重なる死体などお構いなしに、無邪気に転げ回っている。
フレッドがぽつりと呟いた。
「レジーの里親、探さないと」
「は? 誰だって?」
彼は何も答えず、物憂げに目を伏せていた。
初出:Pixiv 2022.08.13
ロンドンで悪さしてるモリ家の話。
墓守の男は、死体安置所へ向かう階段を下りていた。
後ろをついてくる青年は、靴底にゴムでも仕込んでいるのか、猫のように静かに歩く。つめたい石壁に反響する靴音は男のもの一つきりだった。
分厚い鉄扉を開くと、冷えた空気と微かな腐臭が鼻をついた。右手側の壁一面には、埋葬を待つ死体をしまっておく大きな引き出しが作りつけられている。男はそのうちの一つを引っ張り出した。
「ご注文通り、金髪に青い目、二十代前半の女だ。身長はちっと低かったかもしれんが、勘弁してくれ」
「これくらいなら。……死因は?」
聞きながら、青年は死体を覆う布をそっとめくった。状態を確認し、少し躊躇うような仕草を見せてから、瞼をめくって瞳の色を確かめた。
「石段から転げ落ちたらしい。大した高さじゃなかったそうだが、打ちどころが悪くてな。後頭部に傷がある」
死体をうつ伏せにすると、生々しい傷跡が露わになった。幸か不幸か、病院へ担ぎ込む間もなく即死だったらしい。
男は向かいに立つ青年をちらりと盗み見た。
装いは取り立てて特徴のない労働者ふうだ。
淡青色のストールを顔を隠すように巻いてはいるが、その下からのぞく灰色の瞳はごく大人しげで、他人に警戒心を抱かせる質ではない。おそらくまだ二十歳にもなっていないだろう。
女も知らなさそうな幼い顔立ちで、冷静に死体を検分しているのが不気味だった。
「……確かに」
彼は小さく頷いた。
青ざめた死体を丁寧に布にくるみ直してから、懐から硬貨の詰まった革袋を取り出して男に渡した。男は「毎度」と小さく答えた。袋の重みを確かめても、気持ちが浮き立つことはない。
青年が棺の中からそっと彼女を抱え上げる。
涼しい地下に保管していたとはいえ、すでに死後数日経過した死体を相手に顔色一つ変えなかった。自分とほとんど変わらない身の丈の死体を苦もなさそうに抱えて、ただ静かに、淡々とした足取りで階段を登っていった。
その背中を見送りながら、男はそっとため息をついた。
一年ほど前、男は妻を殺した。
些細なことから口論に発展して、カッとなって突き飛ばしたところ運悪く頭をぶつけて死んでしまったのだ。男は露見を恐れて、墓地の片隅に死体を埋めた。
教会の関係者や近所の人間には、妻は自分に愛想を尽かして田舎に帰ったと嘘をつくことにした。実際はサセックスに住む彼女の両親はとっくに他界していて、兄弟姉妹も親しい友人もいない。
唯一の身寄りである男が騒ぎ立てさえしなければ、誰も妻の行方を気に留めはしない。墓守夫婦と親しく交わろうなんて人間はそういないのだから。
死体の処理に関しても、こちらはプロだ。見つかるはずがないとたかを括っていた。
それなのに、奴らはすぐさま嗅ぎつけた。
妻を埋めてから3日と経たないうちに、身長6フィートをゆうに超える黒づくめの大男が家に押し入ってきた。強盗か、ヤードの刑事かと震え上がったが、相手はもっと恐ろしい奴だった。彼は開口一番、男が犯した罪を言い当てたのだ。妻を殺した日時も死体を埋めた場所も、奴は全て知っていた。
番犬のレジーはその晩、ひと声も吠えなかった。翌朝男に蹴飛ばされるまでぐっすりと眠りこけていたところを見るに、おそらく事前に餌に眠り薬でも混ぜられていたのだろう。
そうして、あれよあれよと言う間に奴らの犯罪の片棒を担がされることになり、今に至っている。きっと、ずいぶん前から目を付けられていたのだろう。
逆らえば今度こそ本物の刑事がすっ飛んでくる。
子供もなく、失うものなど無い身ではあったが、だからと言って残りの人生を牢獄で過ごしたいとは思わない。男は彼らに従った。
課せられた仕事は、注文に応じた死体を用意すること。身寄りのない浮浪者であっても埋葬の際は司祭が立ち会って祈りを捧げる決まりだったので、埋めた後からこっそり掘り返す必要があった。大抵の場合は、あの陰気な青年が窓口役だった。
初めて彼がやって来た時は、こんな若者まで弱味を握られ従わされているのかと少し気の毒に思ったが、あの落ち着きぶりを見るにどうやらそうではないらしい。
青年は口数が少ない方ではあったが、一度だけ雑談めいたことを口にしたことがある。「あそこにあったイチイの木、植え替えたんですね」と。
確かにその日の昼間、男は木の植え替えを行っていた。「景観が悪いから」と気まぐれな司祭に頼まれたものの、処分が面倒だったので墓地の裏手に植え直したのだ。
その場では適当に相槌を打ったが、彼が帰ってからその意味を考えてぞっとした。
青年は人目を忍んで夜にしかやって来ない。街灯もない墓地の片隅に植えられていた木がイチイであると分かるはずもなかった。そして彼は「伐った」ではなく「植え替えた」と言った。昼間の動向も監視しているぞと、言外にほのめかしていたのだ。
妻の死体を移動させてしまえば奴らを煙に巻けるのではないかと思案していた矢先のことだ。
あの大男とはまた違った意味で、掴みどころのない恐ろしい相手だった。
女の死体を引き渡してから一週間ほど経ったある日、男は街の食料品店に来ていた。
「卵一ダース、パンと玉ねぎ。紅茶を一ポンド。あと、何でもいいから肉を適当に」
「あいよ。犬にやるやつだね」
店主は冷蔵ケースから包みを引っ張り出した。売り物にならない切れ端や骨を、レジーのためにこうして取っておいてくれるのだ。
袋詰を待っている間、男はカウンターの上に放り出されていた新聞を眺めていた。『イーストエンドで娼婦惨殺 姿なき連続殺人鬼の恐怖』、『急死の男爵にまつわる黒い噂』、『シティ・アンド・サバーバン銀行で強盗団確保』といった見出しが躍っている。新聞社は今日も事件の話題に事欠かないようだ。
ここに自分の名前が並ぶのを想像して、男は暗澹たる気分になった。罪悪感ではない。奴らの気分次第でいつそうなるとも分からない現状が落ち着かなかった。自分の命運を他人に握られている不快感だ。
苦々しくため息をつく男に、店主が片頬を上げて顔を寄せた。
「おい、あんた知ってるかい」
「あ?」
「アイリーン・アドラーが死んだってよ」
「誰だいそりゃあ」
「知らねぇのか! 米国きっての大女優だよ」
男は「へぇ」と気のない返事をした。
オペラ鑑賞など高尚な趣味は持ち合わせていなかったし、それはこのしがない食料品店の店主も同じだろう。
しかし彼はお構いなしに目を輝かせながら話を続けた。噂話をする者特有の、下卑た笑みだった。
「テムズ川から死体が上がったそうだ。妙だと思わないかい? ついこの間、かの名探偵シャーロック・ホームズとの熱愛が新聞で騒がれたばかりなのによ」
「あぁ、あのゴシップ記事の女優かい」
「そうそう。まだどの新聞も触れちゃいないが、あの名探偵に煮え湯を飲まされた悪党どもが、腹いせにさらって嬲り殺しにしたんじゃねえかって噂だよ。あの金髪碧眼の美女を……」
「何だって?」
「だから、あの名探偵に悪巧みを邪魔された連中が……」
「違う。その後だ。金髪碧眼だって?」
「え? あぁ、俺だって実物を拝んだことがあるわけじゃねぇけどよ。アイリーン・アドラーって言ったら金髪碧眼の絶世の美女で有名だぞ……どうかしたか?」
「いや……」
聞けばそのアイリーン・アドラーとかいう女優は、年齢も背格好も男が用意した死体の特徴にぴたりと一致する。
奴らが死体を何のために使うのかなど、深く考えることはあえて避けていた。けれど、これは単なる偶然の一致と言えるのだろうか。
もし先日引き渡したあの死体が、アイリーン・アドラーの死を偽装するために使われたのだとしたら?
考えられるのは、女の身を案じたホームズが犯罪者どもの目をくらますために身代わりの死体を用意した、という筋書きだ。
すると、これまでの話ががらりと変わる。あの陰気な青年は恐ろしい犯罪組織の構成員だとばかり思っていたが、実は正義の名探偵の手先だったのか? あの黒づくめの大男も?
様々な憶測が男の頭の中を駆け巡った。
逆のパターンもあり得る。
実際、奴らは悪党だ。ホームズの手先などでなく、反対に彼からあの女を奪うために適当な身代わりを立てたとも考えられる。
しかしその場合、ヤードとも繋がりのあるホームズが遺体の顔を確認すればあっという間に偽装を見破られてしまうのではないか? そもそも、それなりの器量よしだったとはいえ街の娘と著名な大女優を警察が間違えたりするものだろうか……。
深入りするのはまずい、と危機感を覚えたが止められなかった。男は暇さえあれば彼らの正体についてあれこれと想像を巡らせるようになっていた。
そんな矢先、新しい注文が入った。
『解剖済みの若い女の遺体を3つ』
暗号で書かれたこの電報を受け取ったとき、男の体に恐怖とも興奮ともつかない震えが走った。
まさにその朝、男のもとに解剖済みの遺体たちが転がり込んできたからだ。とある大学で医学生の解剖実習に使われた献体らしい。珍しいことに若い女のものばかりだった。
糸だ、と男は思った。
見えない糸がこのロンドン中に張り巡らされている。自分はきっとそのささやかな網目のひとつに過ぎないのだろうが、あの青年と大男はおそらく重要な結び目だ。
編み上げられた糸の先は、どこへ繋がっているのだろう。
掃除をしてくれる妻がいなくなり荒れた家の中で、男は言い様のない高揚感を覚えていた。
次の日の夜、約束通りの時間に彼らは来た。
普段は青年一人であったが、今夜は死体の数が多いためか例の大男も一緒だった。墓地の入口近くには荷車が停めてあって、そばには見覚えのない若い男の姿もあった。
荷車へ死体を積み込む間、彼らは一言も口をきかなかった。少し多めの報酬を男に手渡して、「じゃあ」と青年が頭を下げた。
立ち去ろうとする彼に、男は思い切って尋ねた。
「アイリーン・アドラーは死んだのか?」
渾身の力で切り込んだつもりだったのに、振り返った青年は顔色ひとつ変えていなかった。
黒づくめの大男も、新顔の若い男も似たようなものだ。ただじっと、無表情にこちらを見ている。その瞳は深い穴のようで、考えがまったく読み取れなかった。
いつの間にか背中にじっとりと汗をかいていた。まずいことを口走ったのだと即座に理解したが、取り繕おうにも声が出なかった。
沈黙を破ったのは、にゃお、と場違いなほどのんきな鳴き声だった。
青年の足元に、小さな黒猫がすり寄っていた。
耳から爪先まで真っ黒な猫だ。彼はさっと屈んで子猫を抱き上げた。
「……こんなところまでついて来ちゃ駄目だよ。犬もいるんだから。好奇心は猫をも、って言うでしょ」
彼は猫の喉をくすぐった。その優しげな手付きとは裏腹に、声色はどこまでも冷えていた。
そばで聞いていた新顔の男がくすりと笑った。
「猫に九生あり、とも言うね」
男にしては妙に艶のある声だった。
深く被った鳥打ち帽の下で、青い瞳がランタンの明かりにきらめいている。背筋にぞわりと悪寒が走った。
地下の遺体安置所に横たわっていた金髪の女。彼女の横顔は美しくも青ざめたまま、二度とその青い目を開くことはないはずなのに。
アイリーン・アドラーは死んだのか?
もう一度そう口にしようとした時、黒いコートの大男が舌打ちをした。
その音で現実に引き戻され、男はひゅっと息を吸い込んだ。思い出したように、心臓がばくばくと音を立てている。
青い目の男は声を上げて笑った。
「冗談だよ、冗談」
そう、男だ。
いつの間にか足が震えていて、立っていられなくなるような心地がした。口の中でおかしな味がする。墓地を取り囲む木々がざわざわと鳴って、男の頭上に迫ってきた。
「おしまいだ」と頭の中で声がした。
軽率に口を開いたことを後悔したがもう遅い。おしまいだ、おしまいだ。その言葉が調子外れの歌のようにぐるぐると繰り返された。
思い出したのは、土の中からうつろな目でこちらを見上げる妻の死に顔だった。
*
墓地から離れたところで、ボンドが「どうするの?」と後ろを見やりながら尋ねた。墓守の男はまだ呆然と立ち尽くしたままだ。
モランは煙草をくわえたまま、つまらなさそうに答えた。
「証拠は揃えてある。電報を一本打てば終わりだ」
「うわ、悪党だね」
「今さらだろ」
荷台の中で子猫が鳴いた。
フレッドを慕って足元にまとわりつくので、荷車で轢いてしまわないようにモランが放り込んだのだ。
ボンドが手を伸ばして撫でてやると、子猫は喉を鳴らした。遊んでもらえて嬉しいのだろう。荷台に折り重なる死体などお構いなしに、無邪気に転げ回っている。
フレッドがぽつりと呟いた。
「レジーの里親、探さないと」
「は? 誰だって?」
彼は何も答えず、物憂げに目を伏せていた。
初出:Pixiv 2022.08.13
絵の中のお屋敷
怖い夢を見るルイスの話。
ロックウェル伯爵家に身を寄せた日、ルイスは生まれて初めて『自分の部屋』を得た。
兄たちとは一回りほど小さな部屋で、北向きの薄暗い部屋だった。兄たちはそのことにいくらか不満があるようだったが、他に適当な部屋がないのだから仕方ない。
「ルイス、ちゃんと眠れてるかい?」
三人だけのお茶の時間、ウィリアムが言った。
ウィリアムとルイスは貧民街の貸本屋でも孤児院でも、あの屋敷の屋根裏部屋でも、ずっと一緒だった。一枚の毛布を分けあって眠った夜も数え切れないほどある。個室で、一人で眠るのは初めてのことだった
「僕は大丈夫です、兄さん」
「そう? 僕はルイスと別々の部屋で寂しいな」
「もう、そんなこと仰らないでください。…………僕だって、ちょっとだけ、寂しいです」
カップのふちに唇を押し付けながらそう答えると、ウィリアムはにっこりと笑った。アルバートはその様子を微笑ましげに見つめていた。
あの場で兄たちには言えなかったが、一人寝が嫌な理由はもう一つあった。
ルイスに充てがわれた部屋には、壁に一枚の絵が飾られていた。丘の上にある一軒の屋敷を描いた絵だった。
どうせなら明るい昼間を描けばいいのに、絵の中の景色は真っ暗な夜だった。空には細い三日月が浮かんでいるだけで星もない。
暗い空と丘の曖昧な境界線の間に、うずくまるように建っている屋敷の影。月明かりのためか辛うじて建物の輪郭が見て取れた。
中で誰かが明かりを灯しているのだろう、二階の窓の一部だけが薄く発光するように白く塗られている。けれど、その明かりのもとで屋敷の住人が眠る支度を整えていたり、ベッドに入って本を読んでいる姿が、ルイスにはどうしても想像できなかった。
(これは、幽霊屋敷の絵だ)
そう直感した。
絵の中のあの屋敷には誰も住んでいない。それなのに、夜になるとつめたい光が窓の向こうを行き来する。何かが、いる。
全ては単なる印象であり想像であるはずなのに、ルイスはこの絵を見るたびに不安を掻き立てられた。壁から外してしまいたかったが、与えられた個室とはいえ居候している屋敷の調度を勝手にいじるのは気が引けた。
絵の来歴が分かれば、なんの変哲もないただの風景画であることが確かめられれば、この嫌な気持ちも収まるかもしれない。そう考えて、ジャックに尋ねてみたことがある。けれど、古参の使用人である彼でさえ「さぁ、儂が屋敷に来たときにはもうここに掛かっていたからのぅ」と首を傾げるだけだった。
「ルイス、僕の部屋の絵と交換しようか」
そう言ってくれたのはウィリアムだった。
ルイスがこの絵を嫌っていることを察してくれたのだろう。彼の部屋に飾られているのは、淡いタッチの静物画だった。それなりの値打ち物であろうことを含めてもあくまで普通の絵だ。右下には画家のサインも入っている。
けれど、ルイスはこの申し出を断った。優しい兄に不気味な絵を押し付けるのは嫌だったし、ただの絵を怖がっていると思われたくないという意地もあった。
昼の間はいい。勉強や秘密の訓練に加えて、ルイスには屋敷の仕事の手伝いもある。空いた時間は兄たちと話をしたり本を読んだりしていれば、自分の部屋で過ごす時間などほとんど無い。
しかし、夜になると部屋に戻らざるをえなかった。ルイスはその日も、夜ふかしすることなく決まった時間に寝支度を整えて、ベッドに潜り込んだ。
明かりを消してしまえば、壁の絵は見えなくなる。けれど、子どもじみた不安は胸のうちに小さな染みを作ってなかなか消えてくれなかった。
次に目を覚ますと、真っ暗な部屋にいた。
眠りの浅いルイスは、こうして夜中に目を覚ましてしまうことがときどきあった。もう一度寝入ろうと瞼を下ろしかけて、目をぱちりと開いた。何だか油くさいような、不快な匂いがする。
万が一、ランタンのオイルでも零していたのならいけない。慌てて起き上がって部屋の中を見回したとき、ルイスはどきりと心臓を跳ねさせた。
(僕の部屋じゃない)
室内は真っ暗だったが、間違えるはずもない。
壁に掛かっていたはずのあの忌々しい絵がなかったからだ。代わりに、絵のあった場所に小さな窓が開いていた。手の下にあるシーツの感触も何だかざらざらとしている。ルイスの部屋のものではない。
眠っている間にどこかに連れてこられた?
室内には他に人の気配はない。
不安から、兄さん、と声に出そうとして、ルイスは思わず喉を抑えた。
(声が出ない……)
戸惑ったが、喉がおかしくなったわけではないとすぐに気がついた。
何の音も聞こえない。
真夜中とはいえ、風の音も鳥の声も聞こえなかった。ルイスが身動ぎしても、ベッドの木枠が軋むこともシーツが衣擦れの音を立てることもない。
まだ夢を見ているのだ。
そう結論付けて、ルイスはベッドから降りた。
明晰夢、というのだったか。ウィリアムに教えてもらったことがある。普通の夢とは違って、身体を自由に動かすことができるのだ。
「あ、あ」と声を出してみる。やはり何も聞こえない。壁をこつこつと叩いてみても、その場で飛び跳ねてみても、手応えはあるのに音が響かないのは奇妙な気分だった。
窓の外は真っ暗だ。枕元を探ってみたけれど、ランプは見当たらない。ルイスはドアを開けて、そっと廊下へ出た。
廊下には大きな窓がいくつも並んでいる。部屋の中よりはいくらか明るかったが、窓枠にまとわりつくカーテンが重たげで陰鬱な雰囲気だ。
ルイスは窓ガラスに額がくっつきそうなほど顔を近付けて、外の様子を眺めた。ここは2階のようだ。地面は暗闇の中に沈み込むようで、この建物の周りに何があるかはよく見えない。どうやら少し小高い場所に立っているらしいことが辛うじてわかった。
空を見上げると、三日月が浮かんでいる。
星は一つも見えないのに、月だけは冴え冴えとつめたい光を放っていた。絵筆の先でさっと刷いたような、細い細い三日月。
ルイスはざっと血の気が引くのを感じた。
(あの絵に描かれた月と同じだ)
夜空には星も雲もなく、月以外はのっぺりとした黒一色。ちょうど、平たい筆で絵の具を塗りたくったような。
(僕、あの絵の中にいる)
額縁の外から眺めていた月を見上げている。ルイスが今立っているのは、あの絵の中の屋敷に違いなかった。
そうして、先ほどから何の物音も、自分の声すら聞こえない理由をはっきりと理解した。
絵の中の世界に、音は存在しない。
(ウィリアム兄さん! アルバート兄様!)
力いっぱい叫んだはずの声は、やっぱり音にならなかった。耳が痛いほどの無音。先ほどから鼻をつくこの不快な匂いは、きっと油絵を描くのに使うテレピンの匂いだろう。
例え夢だとしても、目が覚めるまでこの屋敷に留まっているのは怖気が走るほど嫌だった。
外に出よう、とルイスは即座にそう決断した。
まずは階段を探す。一階に下りさえすれば、脱出する方法はいくらでもある。さらに丘を下りて、絵の世界の端っこまで行けば、目が覚めるかもしれない。あの真っ暗な道を行くのは恐ろしいから、できれば明かりがほしい。
深呼吸して身を翻したとき、取り戻しかけた勇気はいとも簡単に吹き飛ばされた。
廊下の、曲がり角の向こうから、光が差していた。
ゆらり、ゆらりと影が揺れている。
誰かが、ランタンを手にこちらに向かってくる。
次の瞬間、ルイスは弾かれたように走り出した。
ここがあの絵に描かれた幽霊屋敷なら。
誰もいないはずの屋敷に、明かりを灯す者がいる。
ルイスは明かりとは反対方向に廊下を駆け抜けた。恐ろしいほどの静寂のおかげで足音を殺す必要がないのがせめてもの救いだった。
角を曲がれば階段に行き当たらないかと期待したが、虚しい結果に終わった。仕方なく手近な部屋のひとつに飛び込んだ。暗闇の中でドアの内側を探る。内鍵は付いていないようだ。ルイスは焦燥に駆られながら、手探りで隠れ場所を探した。粗末なベッドを何とか探り当てて、小さな体をその下に滑り込ませる。
ベッドの木枠と床板の隙間に潜んで息を殺した。意味がないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
(早く覚めろ、早く覚めろ)
ぎゅっと目をつぶって、心の中で何度もそう念じた。
心臓が早鐘を打っている。呼吸が浅くなって、あの頃の発作を思い出した。手を握っていてくれる兄は、今はいない。
自分の力で何とかこの場を切り抜けなければならない。けれど、この異様な世界で、おそらく人間ではない存在にどう立ち向かえばいい?
この世界には音がない。ルイスが廊下を疾走しようと叩きつけるようにドアを閉めようと、敵に気取られる心配はない。けれどそれは、ルイスもまた敵の接近を視覚でしか把握できないことを意味していた。
今この瞬間にも、ドアの前に立っているかもしれない。
その恐ろしい考えが浮かんでしまうと、もうベッドの下から這い出ることができなかった。
(兄さん……兄様……)
どれくらいそうしていただろう。
室内の暗闇が突然揺らいだ。
闇の中に沈んでいた床板の木目がはっきりと見えた。明かりを持った何者かが、部屋に入ってきたのだ。ルイスは咄嗟に両手で口を抑えた。
テレピン油の匂いがいっそう強くなった気がした。
最初に見えたのは、大きな靴だった。つま先がそり返るように尖った、染みだらけのみすぼらしい革靴。裾が破れたスラックスからのぞく足首は骨が浮いている。まともな人間の足だとは思えなかった。
奴はすり足でゆっくりと部屋の中を歩き回った。自分を探しているのだ、とルイスは確信した。
奴の動きにあわせて、明かりがゆらゆらと揺れる。その度に、ルイスはベッドの下で竦み上がった。
不意に、明かりが一際強くなった。
ルイスは眩しさに目を細めて、そして息を呑んだ。明かりの向こうで、奴が床に膝をついているのが見えた。
ベッドの下を覗き込もうとしている。
そのことに気が付いたとき、冷たい水を全身に浴びせられた心地がした。泣いたりするものかと思っていたのに、いつの間にかぼろぼろと涙が頬を伝っている。狭い隙間を必死に這いずって、少しでも奥に隠れようと足掻いた。
ランタンの明かりがさらに床に近づく。傷だらけの白い手が見えた。尖った肩が覗いた。
大きな顔がぬっと突き出された。ランタンの強い光がその相貌に不気味な陰影を描いている。目があった瞬間、奴は顔を歪めて嬉しそうに笑った。
ルイスは自分の悲鳴で飛び起きた。
全身がびっしょりと汗をかいていて、心臓がばくばくと嫌な音を立てていた。
「ルイス! ルイス、どうしたの! まさか、また心臓が……」
普段見せない焦りを顔に浮かべて、ウィリアムがこちらを覗き込んでいた。弟が胸のあたりを抑えるのを見て、心臓の発作が再発したのかと思ったらしい。
窓からは眩しい陽の光が差し込んでいる。
あの不快な臭気は消え失せていたし、自分の荒い息づかいも、ウィリアムの優しい声もはっきりと聞こえる。
兄の身体にしがみついて、ルイスは声を上げて泣いた。
あの絵はすぐに壁から外された。
その場に居合わせなかった者たちは「怖い夢でも見たのだろう」と笑ったけれど、奥方様が「私も、あの絵はずっと厭だった」とぽつりと呟いてからは誰も何も言わなかった。
布でぐるぐる巻きにされた絵を、ジャックがどこかに持っていった。アルバートが伯爵にも口添えしてくれたのだろう。それからあの絵がどうなったのかは知らない。
ただ、今でもルイスは、絵の飾られた部屋では眠らない。
初出:Pixiv 2022.07.25
怖い夢を見るルイスの話。
ロックウェル伯爵家に身を寄せた日、ルイスは生まれて初めて『自分の部屋』を得た。
兄たちとは一回りほど小さな部屋で、北向きの薄暗い部屋だった。兄たちはそのことにいくらか不満があるようだったが、他に適当な部屋がないのだから仕方ない。
「ルイス、ちゃんと眠れてるかい?」
三人だけのお茶の時間、ウィリアムが言った。
ウィリアムとルイスは貧民街の貸本屋でも孤児院でも、あの屋敷の屋根裏部屋でも、ずっと一緒だった。一枚の毛布を分けあって眠った夜も数え切れないほどある。個室で、一人で眠るのは初めてのことだった
「僕は大丈夫です、兄さん」
「そう? 僕はルイスと別々の部屋で寂しいな」
「もう、そんなこと仰らないでください。…………僕だって、ちょっとだけ、寂しいです」
カップのふちに唇を押し付けながらそう答えると、ウィリアムはにっこりと笑った。アルバートはその様子を微笑ましげに見つめていた。
あの場で兄たちには言えなかったが、一人寝が嫌な理由はもう一つあった。
ルイスに充てがわれた部屋には、壁に一枚の絵が飾られていた。丘の上にある一軒の屋敷を描いた絵だった。
どうせなら明るい昼間を描けばいいのに、絵の中の景色は真っ暗な夜だった。空には細い三日月が浮かんでいるだけで星もない。
暗い空と丘の曖昧な境界線の間に、うずくまるように建っている屋敷の影。月明かりのためか辛うじて建物の輪郭が見て取れた。
中で誰かが明かりを灯しているのだろう、二階の窓の一部だけが薄く発光するように白く塗られている。けれど、その明かりのもとで屋敷の住人が眠る支度を整えていたり、ベッドに入って本を読んでいる姿が、ルイスにはどうしても想像できなかった。
(これは、幽霊屋敷の絵だ)
そう直感した。
絵の中のあの屋敷には誰も住んでいない。それなのに、夜になるとつめたい光が窓の向こうを行き来する。何かが、いる。
全ては単なる印象であり想像であるはずなのに、ルイスはこの絵を見るたびに不安を掻き立てられた。壁から外してしまいたかったが、与えられた個室とはいえ居候している屋敷の調度を勝手にいじるのは気が引けた。
絵の来歴が分かれば、なんの変哲もないただの風景画であることが確かめられれば、この嫌な気持ちも収まるかもしれない。そう考えて、ジャックに尋ねてみたことがある。けれど、古参の使用人である彼でさえ「さぁ、儂が屋敷に来たときにはもうここに掛かっていたからのぅ」と首を傾げるだけだった。
「ルイス、僕の部屋の絵と交換しようか」
そう言ってくれたのはウィリアムだった。
ルイスがこの絵を嫌っていることを察してくれたのだろう。彼の部屋に飾られているのは、淡いタッチの静物画だった。それなりの値打ち物であろうことを含めてもあくまで普通の絵だ。右下には画家のサインも入っている。
けれど、ルイスはこの申し出を断った。優しい兄に不気味な絵を押し付けるのは嫌だったし、ただの絵を怖がっていると思われたくないという意地もあった。
昼の間はいい。勉強や秘密の訓練に加えて、ルイスには屋敷の仕事の手伝いもある。空いた時間は兄たちと話をしたり本を読んだりしていれば、自分の部屋で過ごす時間などほとんど無い。
しかし、夜になると部屋に戻らざるをえなかった。ルイスはその日も、夜ふかしすることなく決まった時間に寝支度を整えて、ベッドに潜り込んだ。
明かりを消してしまえば、壁の絵は見えなくなる。けれど、子どもじみた不安は胸のうちに小さな染みを作ってなかなか消えてくれなかった。
次に目を覚ますと、真っ暗な部屋にいた。
眠りの浅いルイスは、こうして夜中に目を覚ましてしまうことがときどきあった。もう一度寝入ろうと瞼を下ろしかけて、目をぱちりと開いた。何だか油くさいような、不快な匂いがする。
万が一、ランタンのオイルでも零していたのならいけない。慌てて起き上がって部屋の中を見回したとき、ルイスはどきりと心臓を跳ねさせた。
(僕の部屋じゃない)
室内は真っ暗だったが、間違えるはずもない。
壁に掛かっていたはずのあの忌々しい絵がなかったからだ。代わりに、絵のあった場所に小さな窓が開いていた。手の下にあるシーツの感触も何だかざらざらとしている。ルイスの部屋のものではない。
眠っている間にどこかに連れてこられた?
室内には他に人の気配はない。
不安から、兄さん、と声に出そうとして、ルイスは思わず喉を抑えた。
(声が出ない……)
戸惑ったが、喉がおかしくなったわけではないとすぐに気がついた。
何の音も聞こえない。
真夜中とはいえ、風の音も鳥の声も聞こえなかった。ルイスが身動ぎしても、ベッドの木枠が軋むこともシーツが衣擦れの音を立てることもない。
まだ夢を見ているのだ。
そう結論付けて、ルイスはベッドから降りた。
明晰夢、というのだったか。ウィリアムに教えてもらったことがある。普通の夢とは違って、身体を自由に動かすことができるのだ。
「あ、あ」と声を出してみる。やはり何も聞こえない。壁をこつこつと叩いてみても、その場で飛び跳ねてみても、手応えはあるのに音が響かないのは奇妙な気分だった。
窓の外は真っ暗だ。枕元を探ってみたけれど、ランプは見当たらない。ルイスはドアを開けて、そっと廊下へ出た。
廊下には大きな窓がいくつも並んでいる。部屋の中よりはいくらか明るかったが、窓枠にまとわりつくカーテンが重たげで陰鬱な雰囲気だ。
ルイスは窓ガラスに額がくっつきそうなほど顔を近付けて、外の様子を眺めた。ここは2階のようだ。地面は暗闇の中に沈み込むようで、この建物の周りに何があるかはよく見えない。どうやら少し小高い場所に立っているらしいことが辛うじてわかった。
空を見上げると、三日月が浮かんでいる。
星は一つも見えないのに、月だけは冴え冴えとつめたい光を放っていた。絵筆の先でさっと刷いたような、細い細い三日月。
ルイスはざっと血の気が引くのを感じた。
(あの絵に描かれた月と同じだ)
夜空には星も雲もなく、月以外はのっぺりとした黒一色。ちょうど、平たい筆で絵の具を塗りたくったような。
(僕、あの絵の中にいる)
額縁の外から眺めていた月を見上げている。ルイスが今立っているのは、あの絵の中の屋敷に違いなかった。
そうして、先ほどから何の物音も、自分の声すら聞こえない理由をはっきりと理解した。
絵の中の世界に、音は存在しない。
(ウィリアム兄さん! アルバート兄様!)
力いっぱい叫んだはずの声は、やっぱり音にならなかった。耳が痛いほどの無音。先ほどから鼻をつくこの不快な匂いは、きっと油絵を描くのに使うテレピンの匂いだろう。
例え夢だとしても、目が覚めるまでこの屋敷に留まっているのは怖気が走るほど嫌だった。
外に出よう、とルイスは即座にそう決断した。
まずは階段を探す。一階に下りさえすれば、脱出する方法はいくらでもある。さらに丘を下りて、絵の世界の端っこまで行けば、目が覚めるかもしれない。あの真っ暗な道を行くのは恐ろしいから、できれば明かりがほしい。
深呼吸して身を翻したとき、取り戻しかけた勇気はいとも簡単に吹き飛ばされた。
廊下の、曲がり角の向こうから、光が差していた。
ゆらり、ゆらりと影が揺れている。
誰かが、ランタンを手にこちらに向かってくる。
次の瞬間、ルイスは弾かれたように走り出した。
ここがあの絵に描かれた幽霊屋敷なら。
誰もいないはずの屋敷に、明かりを灯す者がいる。
ルイスは明かりとは反対方向に廊下を駆け抜けた。恐ろしいほどの静寂のおかげで足音を殺す必要がないのがせめてもの救いだった。
角を曲がれば階段に行き当たらないかと期待したが、虚しい結果に終わった。仕方なく手近な部屋のひとつに飛び込んだ。暗闇の中でドアの内側を探る。内鍵は付いていないようだ。ルイスは焦燥に駆られながら、手探りで隠れ場所を探した。粗末なベッドを何とか探り当てて、小さな体をその下に滑り込ませる。
ベッドの木枠と床板の隙間に潜んで息を殺した。意味がないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
(早く覚めろ、早く覚めろ)
ぎゅっと目をつぶって、心の中で何度もそう念じた。
心臓が早鐘を打っている。呼吸が浅くなって、あの頃の発作を思い出した。手を握っていてくれる兄は、今はいない。
自分の力で何とかこの場を切り抜けなければならない。けれど、この異様な世界で、おそらく人間ではない存在にどう立ち向かえばいい?
この世界には音がない。ルイスが廊下を疾走しようと叩きつけるようにドアを閉めようと、敵に気取られる心配はない。けれどそれは、ルイスもまた敵の接近を視覚でしか把握できないことを意味していた。
今この瞬間にも、ドアの前に立っているかもしれない。
その恐ろしい考えが浮かんでしまうと、もうベッドの下から這い出ることができなかった。
(兄さん……兄様……)
どれくらいそうしていただろう。
室内の暗闇が突然揺らいだ。
闇の中に沈んでいた床板の木目がはっきりと見えた。明かりを持った何者かが、部屋に入ってきたのだ。ルイスは咄嗟に両手で口を抑えた。
テレピン油の匂いがいっそう強くなった気がした。
最初に見えたのは、大きな靴だった。つま先がそり返るように尖った、染みだらけのみすぼらしい革靴。裾が破れたスラックスからのぞく足首は骨が浮いている。まともな人間の足だとは思えなかった。
奴はすり足でゆっくりと部屋の中を歩き回った。自分を探しているのだ、とルイスは確信した。
奴の動きにあわせて、明かりがゆらゆらと揺れる。その度に、ルイスはベッドの下で竦み上がった。
不意に、明かりが一際強くなった。
ルイスは眩しさに目を細めて、そして息を呑んだ。明かりの向こうで、奴が床に膝をついているのが見えた。
ベッドの下を覗き込もうとしている。
そのことに気が付いたとき、冷たい水を全身に浴びせられた心地がした。泣いたりするものかと思っていたのに、いつの間にかぼろぼろと涙が頬を伝っている。狭い隙間を必死に這いずって、少しでも奥に隠れようと足掻いた。
ランタンの明かりがさらに床に近づく。傷だらけの白い手が見えた。尖った肩が覗いた。
大きな顔がぬっと突き出された。ランタンの強い光がその相貌に不気味な陰影を描いている。目があった瞬間、奴は顔を歪めて嬉しそうに笑った。
ルイスは自分の悲鳴で飛び起きた。
全身がびっしょりと汗をかいていて、心臓がばくばくと嫌な音を立てていた。
「ルイス! ルイス、どうしたの! まさか、また心臓が……」
普段見せない焦りを顔に浮かべて、ウィリアムがこちらを覗き込んでいた。弟が胸のあたりを抑えるのを見て、心臓の発作が再発したのかと思ったらしい。
窓からは眩しい陽の光が差し込んでいる。
あの不快な臭気は消え失せていたし、自分の荒い息づかいも、ウィリアムの優しい声もはっきりと聞こえる。
兄の身体にしがみついて、ルイスは声を上げて泣いた。
あの絵はすぐに壁から外された。
その場に居合わせなかった者たちは「怖い夢でも見たのだろう」と笑ったけれど、奥方様が「私も、あの絵はずっと厭だった」とぽつりと呟いてからは誰も何も言わなかった。
布でぐるぐる巻きにされた絵を、ジャックがどこかに持っていった。アルバートが伯爵にも口添えしてくれたのだろう。それからあの絵がどうなったのかは知らない。
ただ、今でもルイスは、絵の飾られた部屋では眠らない。
初出:Pixiv 2022.07.25
On Another's Sorrow
風邪をひいてめそめそしているフレッドの話。
違和感に気付いたのは、いつものストールを首に巻いた時だった。何だか、ざらざらとした不快感がある。
一度、ストールの結び目を解いてみた。
特に汚れていたり、生地が毛羽立ったりしているわけではないのに、いつもと手触りが違う気がした。首の周りがどこか落ち着かない。
今日は巻くのをよそうかとも考えたけれど、数日前からロンドンは急に冷え込んでいた。日のあるうちはいいが、僕の仕事は日が暮れてからが本番だ。ストールがないと、おそらく夜になってから寒い思いをする。
僕は落ち着かない気分を無視して部屋を出た。
「お前、具合悪いのか?」
モランが出し抜けにそういったのは、昼食の席だった。何を言われているのか咄嗟に理解できなくて、僕はモランの顔を見返した。
テーブルについていた皆がぴたりと手を止めて、まじまじと僕の顔を見ている。
隣に座っていたボンドさんが「ちょっとごめんね」と言って、気付いたときには彼の手のひらがぺたりと僕の額に当てられていた。細い指先はひんやりしている。
「あ、ほんとだ。熱あるね」
「え」
「ほら見ろ。あまり食ってねぇと思ったぜ」
「お前さんが珍しい。気温差にやられたか」
「解熱薬ならあるので、すぐに出しますね」
「頼むよ、ルイス。酷くなるようなら医者を呼んでくれ」
ルイスさんが席を立ったのを皮切りに、皆がてきぱきと動き始めた。
食べかけの食事が下げられて、背中にブランケットがかけられる。「オートミールか果物ならすぐに出せるが、まだ食べ足りないか」と師匠が尋ねるので慌てて首を振ると、かわりに薬が出された。
戸惑った僕は、反射的にウィリアムさんへ視線を送った。彼は困ったように眉を下げながら、言った。
「うん、確かにすこし顔色が悪いね。今日はゆっくりお休み、フレッド」
ウィリアムさんにそう言われてしまうとどうすることもできず、僕はあっという間に自室のベッドに押し込められた。
あのモランまでもが「お前の仕事は全部俺らがやってやるから、大人しく寝てろ」と言っていた。そんなに具合が悪そうに見えたのだろうか。
僕は内心首を傾げていたけれど、言われてみれば確かに今日は朝から身体がおかしかった。いつものストールを巻いた首の周りがざらざらと不快で、鉢植えやじょうろがやたらと重たくて、ルイスさんの作った食事がどこか味気なくて……。
それらが全て体調不良に起因していることを、僕はようやく理解した。いったん理解してしまうと倦怠感がどっと襲ってきて、大人しく横になって目を閉じていることにした。
(そう言えば、寝込むほど体調を崩したの、初めてかもしれない……)
子供の頃から、身体は丈夫な方だった。
思い当たる体調不良といえば鼻風邪か、飢えを凌ぐためにちょっとまずいものを食べてしまった時の腹痛くらいなもので、病とは無縁の人生を送ってきた。医者にかかることも難しい、貧しい環境にあったので、そうでなければとっくに死んでしまっていただろう。
身体が重い。
熱が上がってきたのか、ついさっきまで(表面上は)普通に過ごしていられたことが嘘のように思えた。身体中の関節が熱を持って痛んで、起き上がれそうにない。
眠ってしまいたかったけれど、身体の違和感が気になって寝付けなかった。これって、休めば治るものなのだろうか。薬が効くまでどれくらいかかるのだろう。外はまだ明るい時間帯なのに、カーテンを引いた室内は薄暗くてよそよそしい。
ふいに、ウィリアムさんたちに出会う前のことを思い出した。貧民街の片隅で、熱病にかかってうなされている男を見つけた時のことだ。
冷たい地べたに横になってうめき声を上げる様は異様で、死んでしまうのではないかと不安に思って恐る恐る近付いた。けれど声をかける前に、男は充血した目を見開いてこちらを睨みつけた。
小さかった僕はそれで怖気づいてしまって逃げだした。数日経ってから同じ路地に行ってみた時には、男の姿はどこにもなかった。
親切な人が見つけてくれて、病院へ連れて行ってもらえたならいい。元気になって自分の足でどこかへ行ったならもっといい。
だけど、そんな都合のいい奇跡は起きなかっただろう。あの男はきっと助からなかった。
今の僕よりずっと苦しかったはずだ。
夜露もしのげない石畳の上で、毛布もなくて寒かっただろう。一人きりで心細かっただろう。近寄ってきた子供さえ睨みつけずにはいられないほど、追い込まれていたのだ。
どうして逃げてしまったんだろう。あの時の僕に何かできたとも思わないけれど、どうして水の一杯でも運んでやらなかったんだろう。どうしてそばにいてやらなかったんだろう。
取りとめのない後悔が、後から後から押し寄せてきた。
あの男はきっと一人で死んだのだ。彼がどんな人間だったのかこれっぽっちも知らないけれど、あまりにも報われない。
目の奥からじんわりと涙が溢れてきて、枕にしみを作った。泣いたってどうにもならないのに、悔しい、やるせない気持ちを抑えることはできなかった。
不意に、何かを叩くような音がこつこつと響いた。僕が眠っていてもいいように、気遣ってくれたのだろう。ほんとうにささやかな音だったから、すぐにはノックの音だと気がつかなくて反応が遅れた。
一拍遅れて部屋のドアが開く。泣いている顔を見られたくなくて、僕はあわてて頭から毛布をかぶった。
「フレッド?」
ルイスさんの訝しげな声がした。
変に思われただろうか。手にトレイを持っているのが見えたから、水か何かを持ってきてくれたのだ。お礼を言って、大丈夫だと伝えなくてはいけないのに、今はいつも通りの声が出そうになかった。
「嫌な夢でも見ましたか」
ルイスさんは何でもなさそうに、ひとり言のような調子で呟きながらサイドボードにトレイを置いた。ちいさくガラスがぶつかる音がする。
「身体の具合が悪いと、良くないことばかり考えたり、思い出したりしてしまうものですよ。辛かったことや、恥ずかしい失敗が何倍にもなって」
僕はおそるおそる、毛布から顔を出した。
「……ルイスさんも、同じですか」
「えぇ、誰だってそうですよ。これだけは、兄さんが言うより僕が言う方が説得力があるでしょう?」
ルイスさんはそう言って肩をすくめた。
その言葉で、彼は生まれつき心臓が弱かったと聞いたことを思い出した。大きな手術を受けて完治したものの、子供の頃はずいぶん病弱だったと。
心臓が悪いって、どういう感覚なんだろう。苦しかっただろうし、心臓が止まれば死んでしまうのだから何より恐ろしかっただろう。
冷たい石畳の上に横たわる男の姿に、小さなルイスさんの姿が重なった。子供の頃のルイスさんなんて見たこともないはずなのに。
引っ込んだと思った涙がまた滲んできて、僕は目もとを拭った。ルイスさんが驚いたように目を丸くする。
あぁ、これじゃあルイスさんがいつまで経っても立ち去れない。屋敷にいるときは誰よりも忙しい人なのに。
けれど、止めなければと思えば思うほど、涙が溢れて止まらなかった。自分でももう、何が悲しくて泣いているのかよくわからない。
そうしてぐずぐずと泣き続けていると、ルイスさんが僕の手を掴んだ。
「僕が苦しんでいたとき、兄さんがいつもこうしてくれました」
ルイスさんは気恥ずかしそうに目を伏せながら、祈るように僕の両手を握った。
乾いた温かい手だった。
手のひらに硬い感触があるのは、ナイフを握ってできたまめだろう。僕の手のひらにも同じものがあるからすぐに分かった。
目を瞬かせると、新しい涙の粒が転げ落ちた。
「……いつも?」
「えぇ、いつも。僕が具合が悪くなったのを隠そうとしても、兄さんはいつもすぐに気がつくんです。孤児院で他の子供たちに本を読んであげている時も、夜眠っている時も。そして、僕が落ち着くまでずっと手を握っていてくれました」
兄弟のことを語るルイスさんの顔はいつもどこか誇らしげで、それは今この時も例外ではなかった。
彼が一人きりで心細い思いをすることは、ほんとうにただの一度だってなかったのだろう。あの方は、いつでもどんな苦しみにも寄り添ってくれるから。
握り込まれた指先から気持ちがほどけていくようで、僕はゆるゆると息を吐いた。
「神さま、みたいですね」
「……えぇ、そうですね」
「ルイスさんに、ウィリアムさんがいてくれてよかった……」
僕がそう言うと、ルイスさんは少しだけ驚いたような顔をして、それからちいさく笑った。
眼鏡の向こうの瞳が三日月のように細くなって、その目もとがウィリアムさんに似ていると思った。
その発見を伝えればきっとルイスさんは喜ぶと思ったけれど、眠気で頭がぼんやりとして言葉が出てこない。視界がだんだんと狭まってきて、僕の手に重ねられた彼の手だけがよく見えた。
「おやすみ、フレッド」
いつもより低められたルイスさんの声が心地よく鼓膜に響く。熱を持った頭の芯を、ゆっくりと冷やしてくれるようだった。
初出:Pixiv 2022.04.28
風邪をひいてめそめそしているフレッドの話。
違和感に気付いたのは、いつものストールを首に巻いた時だった。何だか、ざらざらとした不快感がある。
一度、ストールの結び目を解いてみた。
特に汚れていたり、生地が毛羽立ったりしているわけではないのに、いつもと手触りが違う気がした。首の周りがどこか落ち着かない。
今日は巻くのをよそうかとも考えたけれど、数日前からロンドンは急に冷え込んでいた。日のあるうちはいいが、僕の仕事は日が暮れてからが本番だ。ストールがないと、おそらく夜になってから寒い思いをする。
僕は落ち着かない気分を無視して部屋を出た。
「お前、具合悪いのか?」
モランが出し抜けにそういったのは、昼食の席だった。何を言われているのか咄嗟に理解できなくて、僕はモランの顔を見返した。
テーブルについていた皆がぴたりと手を止めて、まじまじと僕の顔を見ている。
隣に座っていたボンドさんが「ちょっとごめんね」と言って、気付いたときには彼の手のひらがぺたりと僕の額に当てられていた。細い指先はひんやりしている。
「あ、ほんとだ。熱あるね」
「え」
「ほら見ろ。あまり食ってねぇと思ったぜ」
「お前さんが珍しい。気温差にやられたか」
「解熱薬ならあるので、すぐに出しますね」
「頼むよ、ルイス。酷くなるようなら医者を呼んでくれ」
ルイスさんが席を立ったのを皮切りに、皆がてきぱきと動き始めた。
食べかけの食事が下げられて、背中にブランケットがかけられる。「オートミールか果物ならすぐに出せるが、まだ食べ足りないか」と師匠が尋ねるので慌てて首を振ると、かわりに薬が出された。
戸惑った僕は、反射的にウィリアムさんへ視線を送った。彼は困ったように眉を下げながら、言った。
「うん、確かにすこし顔色が悪いね。今日はゆっくりお休み、フレッド」
ウィリアムさんにそう言われてしまうとどうすることもできず、僕はあっという間に自室のベッドに押し込められた。
あのモランまでもが「お前の仕事は全部俺らがやってやるから、大人しく寝てろ」と言っていた。そんなに具合が悪そうに見えたのだろうか。
僕は内心首を傾げていたけれど、言われてみれば確かに今日は朝から身体がおかしかった。いつものストールを巻いた首の周りがざらざらと不快で、鉢植えやじょうろがやたらと重たくて、ルイスさんの作った食事がどこか味気なくて……。
それらが全て体調不良に起因していることを、僕はようやく理解した。いったん理解してしまうと倦怠感がどっと襲ってきて、大人しく横になって目を閉じていることにした。
(そう言えば、寝込むほど体調を崩したの、初めてかもしれない……)
子供の頃から、身体は丈夫な方だった。
思い当たる体調不良といえば鼻風邪か、飢えを凌ぐためにちょっとまずいものを食べてしまった時の腹痛くらいなもので、病とは無縁の人生を送ってきた。医者にかかることも難しい、貧しい環境にあったので、そうでなければとっくに死んでしまっていただろう。
身体が重い。
熱が上がってきたのか、ついさっきまで(表面上は)普通に過ごしていられたことが嘘のように思えた。身体中の関節が熱を持って痛んで、起き上がれそうにない。
眠ってしまいたかったけれど、身体の違和感が気になって寝付けなかった。これって、休めば治るものなのだろうか。薬が効くまでどれくらいかかるのだろう。外はまだ明るい時間帯なのに、カーテンを引いた室内は薄暗くてよそよそしい。
ふいに、ウィリアムさんたちに出会う前のことを思い出した。貧民街の片隅で、熱病にかかってうなされている男を見つけた時のことだ。
冷たい地べたに横になってうめき声を上げる様は異様で、死んでしまうのではないかと不安に思って恐る恐る近付いた。けれど声をかける前に、男は充血した目を見開いてこちらを睨みつけた。
小さかった僕はそれで怖気づいてしまって逃げだした。数日経ってから同じ路地に行ってみた時には、男の姿はどこにもなかった。
親切な人が見つけてくれて、病院へ連れて行ってもらえたならいい。元気になって自分の足でどこかへ行ったならもっといい。
だけど、そんな都合のいい奇跡は起きなかっただろう。あの男はきっと助からなかった。
今の僕よりずっと苦しかったはずだ。
夜露もしのげない石畳の上で、毛布もなくて寒かっただろう。一人きりで心細かっただろう。近寄ってきた子供さえ睨みつけずにはいられないほど、追い込まれていたのだ。
どうして逃げてしまったんだろう。あの時の僕に何かできたとも思わないけれど、どうして水の一杯でも運んでやらなかったんだろう。どうしてそばにいてやらなかったんだろう。
取りとめのない後悔が、後から後から押し寄せてきた。
あの男はきっと一人で死んだのだ。彼がどんな人間だったのかこれっぽっちも知らないけれど、あまりにも報われない。
目の奥からじんわりと涙が溢れてきて、枕にしみを作った。泣いたってどうにもならないのに、悔しい、やるせない気持ちを抑えることはできなかった。
不意に、何かを叩くような音がこつこつと響いた。僕が眠っていてもいいように、気遣ってくれたのだろう。ほんとうにささやかな音だったから、すぐにはノックの音だと気がつかなくて反応が遅れた。
一拍遅れて部屋のドアが開く。泣いている顔を見られたくなくて、僕はあわてて頭から毛布をかぶった。
「フレッド?」
ルイスさんの訝しげな声がした。
変に思われただろうか。手にトレイを持っているのが見えたから、水か何かを持ってきてくれたのだ。お礼を言って、大丈夫だと伝えなくてはいけないのに、今はいつも通りの声が出そうになかった。
「嫌な夢でも見ましたか」
ルイスさんは何でもなさそうに、ひとり言のような調子で呟きながらサイドボードにトレイを置いた。ちいさくガラスがぶつかる音がする。
「身体の具合が悪いと、良くないことばかり考えたり、思い出したりしてしまうものですよ。辛かったことや、恥ずかしい失敗が何倍にもなって」
僕はおそるおそる、毛布から顔を出した。
「……ルイスさんも、同じですか」
「えぇ、誰だってそうですよ。これだけは、兄さんが言うより僕が言う方が説得力があるでしょう?」
ルイスさんはそう言って肩をすくめた。
その言葉で、彼は生まれつき心臓が弱かったと聞いたことを思い出した。大きな手術を受けて完治したものの、子供の頃はずいぶん病弱だったと。
心臓が悪いって、どういう感覚なんだろう。苦しかっただろうし、心臓が止まれば死んでしまうのだから何より恐ろしかっただろう。
冷たい石畳の上に横たわる男の姿に、小さなルイスさんの姿が重なった。子供の頃のルイスさんなんて見たこともないはずなのに。
引っ込んだと思った涙がまた滲んできて、僕は目もとを拭った。ルイスさんが驚いたように目を丸くする。
あぁ、これじゃあルイスさんがいつまで経っても立ち去れない。屋敷にいるときは誰よりも忙しい人なのに。
けれど、止めなければと思えば思うほど、涙が溢れて止まらなかった。自分でももう、何が悲しくて泣いているのかよくわからない。
そうしてぐずぐずと泣き続けていると、ルイスさんが僕の手を掴んだ。
「僕が苦しんでいたとき、兄さんがいつもこうしてくれました」
ルイスさんは気恥ずかしそうに目を伏せながら、祈るように僕の両手を握った。
乾いた温かい手だった。
手のひらに硬い感触があるのは、ナイフを握ってできたまめだろう。僕の手のひらにも同じものがあるからすぐに分かった。
目を瞬かせると、新しい涙の粒が転げ落ちた。
「……いつも?」
「えぇ、いつも。僕が具合が悪くなったのを隠そうとしても、兄さんはいつもすぐに気がつくんです。孤児院で他の子供たちに本を読んであげている時も、夜眠っている時も。そして、僕が落ち着くまでずっと手を握っていてくれました」
兄弟のことを語るルイスさんの顔はいつもどこか誇らしげで、それは今この時も例外ではなかった。
彼が一人きりで心細い思いをすることは、ほんとうにただの一度だってなかったのだろう。あの方は、いつでもどんな苦しみにも寄り添ってくれるから。
握り込まれた指先から気持ちがほどけていくようで、僕はゆるゆると息を吐いた。
「神さま、みたいですね」
「……えぇ、そうですね」
「ルイスさんに、ウィリアムさんがいてくれてよかった……」
僕がそう言うと、ルイスさんは少しだけ驚いたような顔をして、それからちいさく笑った。
眼鏡の向こうの瞳が三日月のように細くなって、その目もとがウィリアムさんに似ていると思った。
その発見を伝えればきっとルイスさんは喜ぶと思ったけれど、眠気で頭がぼんやりとして言葉が出てこない。視界がだんだんと狭まってきて、僕の手に重ねられた彼の手だけがよく見えた。
「おやすみ、フレッド」
いつもより低められたルイスさんの声が心地よく鼓膜に響く。熱を持った頭の芯を、ゆっくりと冷やしてくれるようだった。
初出:Pixiv 2022.04.28
『ルイスさん』
空き家〜恐怖の谷編あたりのお話。
「誰かいるのですか?」
ヘルダーは虚空に向かって問いかけた。
その目線はこちらを向いていない。が、こうして声をかけられてしまっては観念するしかないだろう。だんまりを決め込んでみても、彼は人の気配を察知してしまっているのだから不審がらせるだけだ。
フレッドは諦めて返事をした。
「……僕です」
「おや、フレッドさんでしたか。あなたに気配を消されてしまうと敵いませんねぇ」
盲目の技師はカラカラと笑った。
「どうかしましたか? こんな夜中に。どうも私特製の電気冷蔵庫に用があったようですが」
「え、えぇと」
「フフフ、隠さなくてもいいんですよ。冷たい空気がここまで流れてきていますからね。おおかた、お腹でも空いたんでしょう。この匂いは、牛乳ですか?」
「よく分かりますね……」
「夜中でも冷たい牛乳を飲めるなんて素晴らしいでしょう。ルイスさんたちに納得いただけるまで小型化省電力化に心血を注いだ甲斐があったというものです。近頃アメリカ製の電気冷蔵庫も流れてきていますがこのヘルダー製の性能とは天と地の開きがあるのですよ。まず第一に冷やすと言っても……」
はじまってしまった。
フレッドは内心で臍を噛んだ。
この冷蔵庫がヘルダーの自信作であることはよく知っている。三年前に電気冷蔵庫を開発したヘルダーは、主人に褒めてもらいたくて仕方のない大型犬のごとく真っ先にウィリアムにそれを売り込んだ。弟思いのウィリアムはこれがあればルイスの抱える台所仕事が楽になるだろうと考え、食べ物を腐らせず保存できるという点でアルバートも大いに興味を示していた。しかし肝心のルイスに「こんなに大きくて電気を消費するものを屋敷に置いておける訳がないでしょう」と一蹴され、導入は見送られたのだった。
それから足かけ三年、それは様々な苦労があったのだろう。機械いじりに関して知識のないフレッドにも推察できることだ。しかし今はその苦労話を聞いていられる時ではない。
話の切れ目を捉えきれずフレッドがじりじりしていると、台所の入り口にルイスが顔を覗かせた。
「明かりもつけないで何をしている?」
「あぁルイスさん! 今ちょうどフレッドさんにこの電気冷蔵庫をルイスさんに認めていただくまでのお話をですね……」
「ヘルダー、マネーペニーが探していたぞ」
「あ、そうでしたそうでした! フレッドさん、申し訳ありませんが続きはまた今度で」
「はぁ……」
ヘルダーが慌ただしく去っていって、沈黙が降りる。ルイスは腕を組みながらフレッドの方へ向き直った。
「それで……フレッド、君は何を?」
「……」
ヘルダーは流石に気付いていなかったが、フレッドが牛乳を注いでいたのはグラスでもマグカップでもない。平たい陶器の器だった。もっと言うと、その器はここの棚にしまわれている食器でさえない。ただの植木鉢用の受け皿であることは、ルイスならすぐにわかるだろう。
フレッドは諦めてすべてを白状した。
その猫は、クッションの上に寝かせられていた。
見覚えのある水色のストールに身体を包ませて、ぜぇ、ぜぇ、と苦しげな息を漏らしていた。部屋にルイスが入ってきたのを見て慌てて身体を起こそうとしたのを、フレッドが宥めた。
「貧民街でいつも餌をやってる野良猫がいて……そのうちの一匹です。具合が悪いみたいで、今夜は雨も降ってきたので、その……」
フレッドがしどろもどろに経緯を説明していると、猫がぷし、と小さなくしゃみをした。ルイスは猫を驚かせないように注意しながらそっと床に膝をついて、珍しそうに呟いた。
「猫も風邪を引くんだな」
「はい……あの、絶対にこの部屋からは出しませんので……」
「別に追い出したりはしないよ。でも、君が仕事の間はどうするんだ? 放っておくわけにもいかないだろう」
「それは……」
フレッドが答える前に、猫が鼻の詰まった声でニィニィと鳴いて彼のズボンを引っかいたので、話はそこで一旦途切れた。器を口元に持っていってやると、猫は嬉しそうに牛乳を舐めた。背中を撫でるフレッドの手に、安心して身を任せている。
「食欲はあるみたいだな」
「ええ」
「名前は何ていうんだ?」
「…………」
「つけていないのか」
「…………ルイスさん」
「何だ?」
「ルイスさん……と、呼んでいます」
「この猫を?」
「あの、名前というか、あだ名というか……その子も頬のところに傷があって、ルイスさんと同じだなって思ったから、僕が勝手に、そう呼んでいて……」
毛に埋もれて分かりづらいが、この猫は右目の下辺りに小さな古傷があった。おそらく、他の猫と喧嘩をして引っかかれたか何かしたのだろう。白に濃灰色のぶち模様や青みがかったアーモンド型の瞳はルイスとは似ても似つかない。しかしこの猫の右頬に小さな傷跡を見つけたとき、フレッドは確かに彼のことを連想したのだった。
それからこの『ルイスさん』はフレッドの中で少しだけ特別な猫になった。今夜だって、いつもの路地裏でぐったりと横たわっている彼を放っておけなくて、ジャケットの中に隠してこっそりと屋敷に連れ込んたのだ。
とはいえ、フレッドは口に出したことを後悔した。いくらルイスが火傷痕のことを気にしていないとはいえ、さすがに失礼だったと思えてきた。
フレッドは恐る恐る、ルイスの顔色をうかがった。
「そうか、そんな名前を……」
ルイスは笑っていた。
ゆるく握った拳が口元に添えられていて、その下から覗いているのは確かにちいさく弧を描いた唇だった。その隙間からふふ、と呼気が漏れた。
ルイスが気を悪くしていない事にいくらか安堵しつつ、けれどこの反応は怒られるよりもよっぽどいたたまれなかった。ルイスの顔を見ていられなくなって、フレッドは『ルイスさん』の背を撫でるのに集中するふりをした。当の猫は我関せずといった顔で、口の周りを白く汚しながら牛乳を舐めている。あとで拭いてあげなくては。
「さっきの話だけど、この子の世話は兄さんたちにお願いしようか」
「えっ」
フレッドは耳を疑った。ルイスの言う「兄さんたち」といえば、ウィリアムとアルバートしかいない。
「……いいんでしょうか?」
「お二人とも動物はお嫌いではないから大丈夫だ。何かしていないと落ち着かないと漏らしていらっしゃったが、公的な仕事に参加するにはまだ時間がかかるし、かと言って屋敷の雑用をしていただくのも心苦しい。この子の看病ならうってつけだ。明日さっそくお願いしてみよう」
「それはありがたい、のですが……」
「どうかしたか?」
「いえ……、『ルイスさん』なんて名前をつけてしまうと、ウィリアムさんもアルバート様も愛着が湧いてしまって手放せなくなるのでは、と……」
「まさか。二人とももういい大人なんだから」
「…………」
ルイスは笑って取り合わなかったが、フレッドのこの予感は的中する。一週間後、回復したルイス(猫)を里親のもとに引き渡すにあたって、ウィリアムとアルバートから非常な抵抗があったが、それはまた別の話。
(アルバート兄さん、ウィリアム兄さん。そろそろその子を離してください)
(考え直そう、ルイス。ルイスはとても賢くていい子だよ。この数日間粗相もしなかったし、Mr.チャールズ・ディケンズに対してもとても紳士的だった)
(賢かろうと紳士的だろうと、先方とは既に話がついているんです。ご心配なさらなくとも、熱心な愛猫家であることは確認済みです)
(フレッドの調査結果を疑ってるわけじゃないよ。でももうルイスはうちの子じゃないか。今さら他所の家に連れて行くなんて可哀想だよ)
(ミャア)
(ほら、ルイスも僕らと離れたくないって言ってる)
(言ってません。いいから早く離してください。モリアーティ家のルイスは僕だけなんですからね)
(うぅ………)
初出:Pixiv 2022.04.11
空き家〜恐怖の谷編あたりのお話。
「誰かいるのですか?」
ヘルダーは虚空に向かって問いかけた。
その目線はこちらを向いていない。が、こうして声をかけられてしまっては観念するしかないだろう。だんまりを決め込んでみても、彼は人の気配を察知してしまっているのだから不審がらせるだけだ。
フレッドは諦めて返事をした。
「……僕です」
「おや、フレッドさんでしたか。あなたに気配を消されてしまうと敵いませんねぇ」
盲目の技師はカラカラと笑った。
「どうかしましたか? こんな夜中に。どうも私特製の電気冷蔵庫に用があったようですが」
「え、えぇと」
「フフフ、隠さなくてもいいんですよ。冷たい空気がここまで流れてきていますからね。おおかた、お腹でも空いたんでしょう。この匂いは、牛乳ですか?」
「よく分かりますね……」
「夜中でも冷たい牛乳を飲めるなんて素晴らしいでしょう。ルイスさんたちに納得いただけるまで小型化省電力化に心血を注いだ甲斐があったというものです。近頃アメリカ製の電気冷蔵庫も流れてきていますがこのヘルダー製の性能とは天と地の開きがあるのですよ。まず第一に冷やすと言っても……」
はじまってしまった。
フレッドは内心で臍を噛んだ。
この冷蔵庫がヘルダーの自信作であることはよく知っている。三年前に電気冷蔵庫を開発したヘルダーは、主人に褒めてもらいたくて仕方のない大型犬のごとく真っ先にウィリアムにそれを売り込んだ。弟思いのウィリアムはこれがあればルイスの抱える台所仕事が楽になるだろうと考え、食べ物を腐らせず保存できるという点でアルバートも大いに興味を示していた。しかし肝心のルイスに「こんなに大きくて電気を消費するものを屋敷に置いておける訳がないでしょう」と一蹴され、導入は見送られたのだった。
それから足かけ三年、それは様々な苦労があったのだろう。機械いじりに関して知識のないフレッドにも推察できることだ。しかし今はその苦労話を聞いていられる時ではない。
話の切れ目を捉えきれずフレッドがじりじりしていると、台所の入り口にルイスが顔を覗かせた。
「明かりもつけないで何をしている?」
「あぁルイスさん! 今ちょうどフレッドさんにこの電気冷蔵庫をルイスさんに認めていただくまでのお話をですね……」
「ヘルダー、マネーペニーが探していたぞ」
「あ、そうでしたそうでした! フレッドさん、申し訳ありませんが続きはまた今度で」
「はぁ……」
ヘルダーが慌ただしく去っていって、沈黙が降りる。ルイスは腕を組みながらフレッドの方へ向き直った。
「それで……フレッド、君は何を?」
「……」
ヘルダーは流石に気付いていなかったが、フレッドが牛乳を注いでいたのはグラスでもマグカップでもない。平たい陶器の器だった。もっと言うと、その器はここの棚にしまわれている食器でさえない。ただの植木鉢用の受け皿であることは、ルイスならすぐにわかるだろう。
フレッドは諦めてすべてを白状した。
その猫は、クッションの上に寝かせられていた。
見覚えのある水色のストールに身体を包ませて、ぜぇ、ぜぇ、と苦しげな息を漏らしていた。部屋にルイスが入ってきたのを見て慌てて身体を起こそうとしたのを、フレッドが宥めた。
「貧民街でいつも餌をやってる野良猫がいて……そのうちの一匹です。具合が悪いみたいで、今夜は雨も降ってきたので、その……」
フレッドがしどろもどろに経緯を説明していると、猫がぷし、と小さなくしゃみをした。ルイスは猫を驚かせないように注意しながらそっと床に膝をついて、珍しそうに呟いた。
「猫も風邪を引くんだな」
「はい……あの、絶対にこの部屋からは出しませんので……」
「別に追い出したりはしないよ。でも、君が仕事の間はどうするんだ? 放っておくわけにもいかないだろう」
「それは……」
フレッドが答える前に、猫が鼻の詰まった声でニィニィと鳴いて彼のズボンを引っかいたので、話はそこで一旦途切れた。器を口元に持っていってやると、猫は嬉しそうに牛乳を舐めた。背中を撫でるフレッドの手に、安心して身を任せている。
「食欲はあるみたいだな」
「ええ」
「名前は何ていうんだ?」
「…………」
「つけていないのか」
「…………ルイスさん」
「何だ?」
「ルイスさん……と、呼んでいます」
「この猫を?」
「あの、名前というか、あだ名というか……その子も頬のところに傷があって、ルイスさんと同じだなって思ったから、僕が勝手に、そう呼んでいて……」
毛に埋もれて分かりづらいが、この猫は右目の下辺りに小さな古傷があった。おそらく、他の猫と喧嘩をして引っかかれたか何かしたのだろう。白に濃灰色のぶち模様や青みがかったアーモンド型の瞳はルイスとは似ても似つかない。しかしこの猫の右頬に小さな傷跡を見つけたとき、フレッドは確かに彼のことを連想したのだった。
それからこの『ルイスさん』はフレッドの中で少しだけ特別な猫になった。今夜だって、いつもの路地裏でぐったりと横たわっている彼を放っておけなくて、ジャケットの中に隠してこっそりと屋敷に連れ込んたのだ。
とはいえ、フレッドは口に出したことを後悔した。いくらルイスが火傷痕のことを気にしていないとはいえ、さすがに失礼だったと思えてきた。
フレッドは恐る恐る、ルイスの顔色をうかがった。
「そうか、そんな名前を……」
ルイスは笑っていた。
ゆるく握った拳が口元に添えられていて、その下から覗いているのは確かにちいさく弧を描いた唇だった。その隙間からふふ、と呼気が漏れた。
ルイスが気を悪くしていない事にいくらか安堵しつつ、けれどこの反応は怒られるよりもよっぽどいたたまれなかった。ルイスの顔を見ていられなくなって、フレッドは『ルイスさん』の背を撫でるのに集中するふりをした。当の猫は我関せずといった顔で、口の周りを白く汚しながら牛乳を舐めている。あとで拭いてあげなくては。
「さっきの話だけど、この子の世話は兄さんたちにお願いしようか」
「えっ」
フレッドは耳を疑った。ルイスの言う「兄さんたち」といえば、ウィリアムとアルバートしかいない。
「……いいんでしょうか?」
「お二人とも動物はお嫌いではないから大丈夫だ。何かしていないと落ち着かないと漏らしていらっしゃったが、公的な仕事に参加するにはまだ時間がかかるし、かと言って屋敷の雑用をしていただくのも心苦しい。この子の看病ならうってつけだ。明日さっそくお願いしてみよう」
「それはありがたい、のですが……」
「どうかしたか?」
「いえ……、『ルイスさん』なんて名前をつけてしまうと、ウィリアムさんもアルバート様も愛着が湧いてしまって手放せなくなるのでは、と……」
「まさか。二人とももういい大人なんだから」
「…………」
ルイスは笑って取り合わなかったが、フレッドのこの予感は的中する。一週間後、回復したルイス(猫)を里親のもとに引き渡すにあたって、ウィリアムとアルバートから非常な抵抗があったが、それはまた別の話。
(アルバート兄さん、ウィリアム兄さん。そろそろその子を離してください)
(考え直そう、ルイス。ルイスはとても賢くていい子だよ。この数日間粗相もしなかったし、Mr.チャールズ・ディケンズに対してもとても紳士的だった)
(賢かろうと紳士的だろうと、先方とは既に話がついているんです。ご心配なさらなくとも、熱心な愛猫家であることは確認済みです)
(フレッドの調査結果を疑ってるわけじゃないよ。でももうルイスはうちの子じゃないか。今さら他所の家に連れて行くなんて可哀想だよ)
(ミャア)
(ほら、ルイスも僕らと離れたくないって言ってる)
(言ってません。いいから早く離してください。モリアーティ家のルイスは僕だけなんですからね)
(うぅ………)
初出:Pixiv 2022.04.11
凍て星
本編数年前のお話。
モランが酒場を出ると、猫の鳴き声が聞こえた。
こんなところに珍しい、と声の方に視線をやると、空き地の草むらの中にフレッドが座り込んでいたのでモランはぎょっとした。
「おい、フレッド」
モランがずかずかと近づいていくと、フレッドの足元にまとわりついていた猫が逃げ出した。モランが情報収集のために酒場に入り、フレッドと別れたのは二時間ほど前だ。それからずっとこの寒空の下で猫を構っていたのか。
彼の腕にも、ストールに包まれた黒猫が抱かれている。モランは呆れてため息をついた。
「寒いのに何やってんだ。先に戻ってろっつったろ」
「……」
「そいつももう放してやれ」
フレッドは反応しない。
彼の腕の中の猫も、先ほどからぴくりとも動かなかった。眠っているのかと思ったが、野良猫がこんな状況でぐうすか寝ているはずもない。
フレッドが身動ぎしても、猫は前足を中途半端に上げた格好のまま微動だにしなかった。
「……死んじまってるのか?」
もしやと思って尋ねると、フレッドは小さくうなずいた。
「寒そうに、してたから……温めようと思ったけど、駄目だった」
言いながら、それでも諦めきれないようで、フレッドはしきりにストールの上から猫の身体をさすっていた。その指先も、冷えて真っ赤だった。
「ちょっと見せてみろ」
フレッドの隣にかがみ込んで、猫に手を伸ばす。小さな口を指でこじ開けると、フレッドは驚いてモランの腕を強く引いた。
「何やってるの」
「よく見てみろ。こいつ、歯が欠けてるだろ」
「……病気、だったの?」
「違う。年寄りだったんだ。人間と同じで、猫も年を取ると歯が悪くなるんだよ」
歯の抜けたじいさん見たことあるだろ、と問いかけると、フレッドはきょとんとしながらうなずいた。
「寿命だったんだ。仕方ない。最期にお前が抱いててくれて、嬉しかったろうよ」
モランはフレッドの小さい頭に手を載せた。
髪をわしゃわしゃとかき混ぜてやってようやく、彼は少しだけ表情を歪めた。赤くなった鼻をすんと鳴らして、もう一度猫をぎゅうと抱きしめた。
「埋めてやろうぜ。向こうの公園ならちょうどいいだろ」
モランの提案に、フレッドは首を横に振った。「ここに埋める」と宣言する声は、消え入りそうに頼りなかった。
この空き地でも、確かに穴を掘って猫の遺骸を埋めることはできるだろう。しかし空き地は空き地だ。伸び放題の草むらの影にはゴミが散乱している。埋葬するなら静かな公園の木の下の方が……と考えたところで、フレッドがじっと明後日の方向を見つめているのに気がついた。
その視線の先を追うと、向こうの路地の暗がりに、黄色い光が二つ浮かんでいた。先ほど逃げていった猫が、こちらをうかがっているのだ。
死んだ猫とよく似た黒猫だった。親子か、兄弟だろうか。
「……そうだな、遠くに埋めたら気の毒だ。野犬がきて掘り返すといけねぇから、そこの酒場の親父にスコップ借りてきてやる。ちょっと待ってろ」
立ち上がりざまに、モランはコートを脱いで、フレッドの頭からばさりと被せた。「うわ」と小さな声が上がった。
本編数年前のお話。
モランが酒場を出ると、猫の鳴き声が聞こえた。
こんなところに珍しい、と声の方に視線をやると、空き地の草むらの中にフレッドが座り込んでいたのでモランはぎょっとした。
「おい、フレッド」
モランがずかずかと近づいていくと、フレッドの足元にまとわりついていた猫が逃げ出した。モランが情報収集のために酒場に入り、フレッドと別れたのは二時間ほど前だ。それからずっとこの寒空の下で猫を構っていたのか。
彼の腕にも、ストールに包まれた黒猫が抱かれている。モランは呆れてため息をついた。
「寒いのに何やってんだ。先に戻ってろっつったろ」
「……」
「そいつももう放してやれ」
フレッドは反応しない。
彼の腕の中の猫も、先ほどからぴくりとも動かなかった。眠っているのかと思ったが、野良猫がこんな状況でぐうすか寝ているはずもない。
フレッドが身動ぎしても、猫は前足を中途半端に上げた格好のまま微動だにしなかった。
「……死んじまってるのか?」
もしやと思って尋ねると、フレッドは小さくうなずいた。
「寒そうに、してたから……温めようと思ったけど、駄目だった」
言いながら、それでも諦めきれないようで、フレッドはしきりにストールの上から猫の身体をさすっていた。その指先も、冷えて真っ赤だった。
「ちょっと見せてみろ」
フレッドの隣にかがみ込んで、猫に手を伸ばす。小さな口を指でこじ開けると、フレッドは驚いてモランの腕を強く引いた。
「何やってるの」
「よく見てみろ。こいつ、歯が欠けてるだろ」
「……病気、だったの?」
「違う。年寄りだったんだ。人間と同じで、猫も年を取ると歯が悪くなるんだよ」
歯の抜けたじいさん見たことあるだろ、と問いかけると、フレッドはきょとんとしながらうなずいた。
「寿命だったんだ。仕方ない。最期にお前が抱いててくれて、嬉しかったろうよ」
モランはフレッドの小さい頭に手を載せた。
髪をわしゃわしゃとかき混ぜてやってようやく、彼は少しだけ表情を歪めた。赤くなった鼻をすんと鳴らして、もう一度猫をぎゅうと抱きしめた。
「埋めてやろうぜ。向こうの公園ならちょうどいいだろ」
モランの提案に、フレッドは首を横に振った。「ここに埋める」と宣言する声は、消え入りそうに頼りなかった。
この空き地でも、確かに穴を掘って猫の遺骸を埋めることはできるだろう。しかし空き地は空き地だ。伸び放題の草むらの影にはゴミが散乱している。埋葬するなら静かな公園の木の下の方が……と考えたところで、フレッドがじっと明後日の方向を見つめているのに気がついた。
その視線の先を追うと、向こうの路地の暗がりに、黄色い光が二つ浮かんでいた。先ほど逃げていった猫が、こちらをうかがっているのだ。
死んだ猫とよく似た黒猫だった。親子か、兄弟だろうか。
「……そうだな、遠くに埋めたら気の毒だ。野犬がきて掘り返すといけねぇから、そこの酒場の親父にスコップ借りてきてやる。ちょっと待ってろ」
立ち上がりざまに、モランはコートを脱いで、フレッドの頭からばさりと被せた。「うわ」と小さな声が上がった。
フレッドと猫に関するお話
彼の横顔
醜聞編の少し後のお話。
「やぁ、フレッドくん。これから仕事かい?」
「あ、いえ……」
屋敷の廊下で行きあったフレッドくんに片手をあげながら尋ねると、彼は言葉少なに答えた。
モリアーティ家に厄介になることはや数カ月。仕事は問題なくこなせているし、銀行強盗事件から皆ともだいぶ打ち解けられた自覚はある。
フレッドくんのことも、短い受け答えや日々の仕事ぶりから信頼できるいい子だというのはよく分かる。分かるのだけれど、逆に言えばそれ以上のことはまだよく分からなかった。
思い返せば、僕はこれまでああいう朴訥とした年下の男の子と親しく関わった経験があまりなかったかもしれない。
さっきの質問にしても仕事なら仕事だとはっきり答えるはずだし、モランくんのように派手に遊び歩くタイプにも見えなかった。友達か、もしかすると女の子と約束でもあるのだろうか。
その背中を見送りながら何となしに考えこんでいると、ウィルくんがにこにこしながら近寄ってきた。
「気になるかい、ボンド?」
「ウィルくん」
「こっそりついていってごらん。面白いものが見られると思うよ」
「え、いいのかな。君にそう言われると、俄然興味がわいてきちゃったよ」
「フフ、普段着ない服に着替えていくといいよ」
「尾行がバレないように、変装するってこと? OK、わかったよ」
僕は一度部屋に戻ると、手早く着替えを済ませて尾行を開始した。
こんな簡単な変装でモリアーティ家の密偵を欺けるとも思っていなかったが、彼は周囲を気にする素振りもなく進んでいく。やはり仕事ではなく個人的な用事のようだ。
やがて一軒のパン屋に着くと、彼は裏に回り込んで戸を叩いた。もしやここの看板娘と、と淡い期待を抱いてはみたものの、出てきたのは髪の白くなり始めた店主だった。おそらくはパンが詰まっているであろう紙袋を店主から受け取って、フレッドくんはお金を支払っているらしい。
うーん、パンを抱えて女の子に逢いに行くとも思えないし、これはもうロマンスは期待できそうにない。でも単なるおつかいというわけでもなさそうだし、ウィルくんを信じて調査続行。
パン屋を後にしたフレッドくんは、大きな通りを外れてどんどん人気のない路地へ入っていく。好奇心と少しの後ろめたさが入りまじって、僕はどこか浮足立った気持ちで尾行を続けた。
やがて角を曲がった先で不意にフレッドくんが立ち止まったので、僕は慌てて足を止めた。
塀の影からそっと顔を覗かせると、彼の足元に小さな影がまとわりついている。ミィミィと声を上げているあの生き物は……。
「おや、かわいい」
僕が声を掛けても、フレッドくんは驚きもしなかった。
「やっぱり付いてきてたんですか、ボンドさん」
「あはは、バレてたか」
「……」
「ごめんって。何の用事か気になってさ。だけど、まさかこんなかわいい子たちとデートだなんて予想もしてなかったよ」
フレッドくんは特に何も答えなかったけれど気分を害した様子もなく、猫をなでている。このあたりの野良猫たちだろう。大きい子が二匹と、まだ小さい子が一匹。
家族かなぁ、かわいい。
フレッドくんによく懐いているようで、野性を忘れてお腹を見せてる子もいた。
いちばん小さな白猫が僕の方にまで寄ってきて、何かくれるのかと期待に満ちた眼差しでこちらを見上げてくる。顎の下をくすぐってやると、ぐるぐると喉を鳴らして身体を擦り寄せてきた。
かわいい。けど、これいつものスーツで来てたら毛だらけになってたな……。確かに着替えてきて正解だった。ウィルくん、ありがとう。
「ほら、ごはんだよ」
フレッドくんがガサガサと音を立てて、抱えていた紙袋の中を探った。猫たちから期待に満ちた鳴き声が上がる。取り出したパンをフレッドくんが細かくちぎって投げてやると、猫たちは一斉に飛びついた。
「うわ、すごい勢い。いつもあげてるの?」
「はい」
と、その時ミャオウ、と鋭い鳴き声が上がった。
大きい二匹のうちのどちらかが、仲間のパンを横取りしようとしたのだろう。互いに毛を逆立てて睨みあっている。
白猫が驚いて身を固くしたのがわかった。
「こら、喧嘩しちゃダメだよ」
フレッドくんは慣れた手つきで、先に飛びかかろうとしていた猫の首根っこをおさえた。
「仲良くしないともうあげないよ。ほら、爪を引っ込めて」
「ニィ」
「そうそう、いい子だね」
あ、フレッドくん、猫相手の方がよく喋るんだ。
普段無口かつ無表情なフレッドくんの口元には僅かながら柔らかい笑みが浮かんでいる。僕は猫を撫でるふりをしつつ彼の横顔を盗み見て、軽い感動を覚えた。
でもわざわざ指摘したりしたら多分もう二度とこんな顔は見せてくれなくなる。僕はわき上がるいたずら心をぐっと堪えた。
喧嘩が収まり、猫たちがまたパンを食べ始めたのを見届けてからフレッドくんは立ち上がった。
「おや、もう行くの?」
「はい。他の猫たちのところにも行かないと」
「他にも待ってる子達がいるんだ。やるねぇ」
「今日はあと十か所回ります」
「えっ」
僕は耳を疑った。
「一応聞くけど、猫に餌をやりに?」
「一か所にあまりたくさん集めるとさっきみたいな喧嘩があちこちではじまって収集がつかなくなりますし、近くの住民に迷惑なので……。猫捕りが来ても困りますし」
それは確かにそうだろう。
一匹一匹は可愛くとも、それが何十匹と集まればかわいいを通り越して圧がすごい。野良猫はお世辞にも清潔とは言い難いし、あまり数が増えれば駆除しようと考える者が出ても不思議ではない。不思議ではないのだが……。
「来ますか?」
「いや、遠慮しとこうかな……」
「そうですか。では」
そう言って頭を下げると、フレッドくんは猫たちがパンに夢中になっている隙に足早に去っていった。
野良猫の縄張りってどれ位の間隔なんだろう。朝までにすべて回り切ることができるのだろうかと考えて、僕はちょっと途方に暮れた。
餌代にしたって、顔なじみに売り物にならないパンを安く譲ってもらっているにしても、毎日のこととなると馬鹿にならない金額だろう。
ただ「猫が可愛くて好きだから」では到底つとまらない大仕事だ。あの家の人達が口を揃えてフレッドくんのことを「優しい」と評する理由を改めて理解した気がする。
「……大したもんだねぇ、あの子も」
口の周りをパンくずだらけにした猫は、ミャオ、と他人事のような顔で鳴いた。
彼の横顔
醜聞編の少し後のお話。
「やぁ、フレッドくん。これから仕事かい?」
「あ、いえ……」
屋敷の廊下で行きあったフレッドくんに片手をあげながら尋ねると、彼は言葉少なに答えた。
モリアーティ家に厄介になることはや数カ月。仕事は問題なくこなせているし、銀行強盗事件から皆ともだいぶ打ち解けられた自覚はある。
フレッドくんのことも、短い受け答えや日々の仕事ぶりから信頼できるいい子だというのはよく分かる。分かるのだけれど、逆に言えばそれ以上のことはまだよく分からなかった。
思い返せば、僕はこれまでああいう朴訥とした年下の男の子と親しく関わった経験があまりなかったかもしれない。
さっきの質問にしても仕事なら仕事だとはっきり答えるはずだし、モランくんのように派手に遊び歩くタイプにも見えなかった。友達か、もしかすると女の子と約束でもあるのだろうか。
その背中を見送りながら何となしに考えこんでいると、ウィルくんがにこにこしながら近寄ってきた。
「気になるかい、ボンド?」
「ウィルくん」
「こっそりついていってごらん。面白いものが見られると思うよ」
「え、いいのかな。君にそう言われると、俄然興味がわいてきちゃったよ」
「フフ、普段着ない服に着替えていくといいよ」
「尾行がバレないように、変装するってこと? OK、わかったよ」
僕は一度部屋に戻ると、手早く着替えを済ませて尾行を開始した。
こんな簡単な変装でモリアーティ家の密偵を欺けるとも思っていなかったが、彼は周囲を気にする素振りもなく進んでいく。やはり仕事ではなく個人的な用事のようだ。
やがて一軒のパン屋に着くと、彼は裏に回り込んで戸を叩いた。もしやここの看板娘と、と淡い期待を抱いてはみたものの、出てきたのは髪の白くなり始めた店主だった。おそらくはパンが詰まっているであろう紙袋を店主から受け取って、フレッドくんはお金を支払っているらしい。
うーん、パンを抱えて女の子に逢いに行くとも思えないし、これはもうロマンスは期待できそうにない。でも単なるおつかいというわけでもなさそうだし、ウィルくんを信じて調査続行。
パン屋を後にしたフレッドくんは、大きな通りを外れてどんどん人気のない路地へ入っていく。好奇心と少しの後ろめたさが入りまじって、僕はどこか浮足立った気持ちで尾行を続けた。
やがて角を曲がった先で不意にフレッドくんが立ち止まったので、僕は慌てて足を止めた。
塀の影からそっと顔を覗かせると、彼の足元に小さな影がまとわりついている。ミィミィと声を上げているあの生き物は……。
「おや、かわいい」
僕が声を掛けても、フレッドくんは驚きもしなかった。
「やっぱり付いてきてたんですか、ボンドさん」
「あはは、バレてたか」
「……」
「ごめんって。何の用事か気になってさ。だけど、まさかこんなかわいい子たちとデートだなんて予想もしてなかったよ」
フレッドくんは特に何も答えなかったけれど気分を害した様子もなく、猫をなでている。このあたりの野良猫たちだろう。大きい子が二匹と、まだ小さい子が一匹。
家族かなぁ、かわいい。
フレッドくんによく懐いているようで、野性を忘れてお腹を見せてる子もいた。
いちばん小さな白猫が僕の方にまで寄ってきて、何かくれるのかと期待に満ちた眼差しでこちらを見上げてくる。顎の下をくすぐってやると、ぐるぐると喉を鳴らして身体を擦り寄せてきた。
かわいい。けど、これいつものスーツで来てたら毛だらけになってたな……。確かに着替えてきて正解だった。ウィルくん、ありがとう。
「ほら、ごはんだよ」
フレッドくんがガサガサと音を立てて、抱えていた紙袋の中を探った。猫たちから期待に満ちた鳴き声が上がる。取り出したパンをフレッドくんが細かくちぎって投げてやると、猫たちは一斉に飛びついた。
「うわ、すごい勢い。いつもあげてるの?」
「はい」
と、その時ミャオウ、と鋭い鳴き声が上がった。
大きい二匹のうちのどちらかが、仲間のパンを横取りしようとしたのだろう。互いに毛を逆立てて睨みあっている。
白猫が驚いて身を固くしたのがわかった。
「こら、喧嘩しちゃダメだよ」
フレッドくんは慣れた手つきで、先に飛びかかろうとしていた猫の首根っこをおさえた。
「仲良くしないともうあげないよ。ほら、爪を引っ込めて」
「ニィ」
「そうそう、いい子だね」
あ、フレッドくん、猫相手の方がよく喋るんだ。
普段無口かつ無表情なフレッドくんの口元には僅かながら柔らかい笑みが浮かんでいる。僕は猫を撫でるふりをしつつ彼の横顔を盗み見て、軽い感動を覚えた。
でもわざわざ指摘したりしたら多分もう二度とこんな顔は見せてくれなくなる。僕はわき上がるいたずら心をぐっと堪えた。
喧嘩が収まり、猫たちがまたパンを食べ始めたのを見届けてからフレッドくんは立ち上がった。
「おや、もう行くの?」
「はい。他の猫たちのところにも行かないと」
「他にも待ってる子達がいるんだ。やるねぇ」
「今日はあと十か所回ります」
「えっ」
僕は耳を疑った。
「一応聞くけど、猫に餌をやりに?」
「一か所にあまりたくさん集めるとさっきみたいな喧嘩があちこちではじまって収集がつかなくなりますし、近くの住民に迷惑なので……。猫捕りが来ても困りますし」
それは確かにそうだろう。
一匹一匹は可愛くとも、それが何十匹と集まればかわいいを通り越して圧がすごい。野良猫はお世辞にも清潔とは言い難いし、あまり数が増えれば駆除しようと考える者が出ても不思議ではない。不思議ではないのだが……。
「来ますか?」
「いや、遠慮しとこうかな……」
「そうですか。では」
そう言って頭を下げると、フレッドくんは猫たちがパンに夢中になっている隙に足早に去っていった。
野良猫の縄張りってどれ位の間隔なんだろう。朝までにすべて回り切ることができるのだろうかと考えて、僕はちょっと途方に暮れた。
餌代にしたって、顔なじみに売り物にならないパンを安く譲ってもらっているにしても、毎日のこととなると馬鹿にならない金額だろう。
ただ「猫が可愛くて好きだから」では到底つとまらない大仕事だ。あの家の人達が口を揃えてフレッドくんのことを「優しい」と評する理由を改めて理解した気がする。
「……大したもんだねぇ、あの子も」
口の周りをパンくずだらけにした猫は、ミャオ、と他人事のような顔で鳴いた。
ホラー風味のうろんな話。ルイスがダラムの屋敷で埃まみれの人形を見つけます。
埃を被った人形を見つけた。
引っ越してきてわずか数日の、ダラムの屋敷での出来事だった。
各々の荷解きを終えたある日、ウィリアムを大学へ送り出してから、ルイスは階段下の小さな物置の整理に取り掛かった。それぞれの寝室や食堂、バスルームなど、生活するために必要な最低限のスペースはあらかた掃除を終えていたが、こうしたちょっとしたスペースはまだ手つかずのままだったのだ。
薄い板戸を開けると油の足りていない蝶番が音を立てて軋んで、湿っぽい匂いが鼻をついた。
中には、以前ここに暮らしていた者たちの持ち物が残されているようだった。使われなくなって久しい食器セットや履き古されたゴム靴、シミの浮いたテーブルクロスなどといった雑多なガラクタがごちゃごちゃと乱雑に詰め込まれている。
家具付きで買った屋敷とはいえ、こんな不用品まで残しておくなんて。ルイスは心の中で不動産屋に文句を垂れた。
今後この物置部屋も使う機会があるだろうから、片付けておくに越したことはない。不用品は残らず捨ててしまおう。腕まくりをしながらそう覚悟を決めると、ルイスは狭い物置部屋に足を踏み入れた。
埃を吸い込まないように注意しながら、物置に残されたガラクタを一つ一つ検分しては廊下に積み上げた。ウィリアムが大学から戻るまでに済ませてしまわなくてははならない。廃棄するものは裏庭に積んでおいて、明日不用品の回収業者に来てもらう算段だ。
積み上げられた木箱をどけてみると、奥から小さなキャビネットが顔を出した。大方、他のガラクタと同じく使われなくなってここに押し込まれたのだろう。
一人で運び出すのは少々骨が折れそうだ。せめて中身は空にしてしまおう。ルイスは埃っぽい床に屈み込んで、古ぼけたキャビネットの戸棚を開けた。そして、それまでテキパキと動かしていた手をはたと止めた。
がらんとした戸棚の中に、人形が鎮座していた。
そんなものがそこにあるとは思っていなかったし、不意に目が合ってしまったものだからドキリとして思わず呼吸を止めていた。何も見なかったことにしてこのままキャビネットの扉を閉めてしまいたい。そんな衝動に駆られた。
人形の瞳がじっとこちらを見あげる。
人間の少女をそのまま小さくしたような姿形をした存在が、首を不自然に折り曲げ、髪とドレスの裾を乱したまま薄暗い戸棚の中に押し込まれている。その姿を見て見ぬふりすることはルイスの良心をどうしようもなく責め苛んだ。
一分ほどの逡巡の末、結局ルイスはその人形を戸棚から掴みだした。
明るい廊下で改めて眺めてみると、本当によくできた人形だった。
ビスクドールというのだろうか。小さな女の子の遊び相手になるために作られたような、よくある人形だ。
ルイスは絡み合った彼女の金髪を指先で梳いて整えてやった。
大きさは人間の赤ん坊よりやや小さいくらいだが、頭の小ささや手足の長さからして、十代半ばの少女を模して作られているのだろう。ドレスも靴もこの大きさで仕立てるのは骨が折れただろうに、丁寧な手仕事で再現されていた。
青い目はガラス玉でできていて、瞬きをしないのがかえって不自然に思えるほどだ。
「…………」
他のガラクタと同じようにその人形を不用品置き場に積もうとして、ルイスはまた躊躇った。
この人形はどう考えても『不用品』だ。この屋敷に人形を愛でて楽しむような子供が住まう予定は一切ない。
しかしこれを――彼女を、不用品として処理してしまったらどうなるのだろう。
回収業者の人夫が「おや、うちの娘が喜びそうだ」とこっそり持ち帰ってくれれば幸運だ。けれどおそらくは、木片や布切れなんかと同じ扱いを受けて焼却炉に放り込まれることになるのではないか。
その光景を想像すると、また罪悪感を刺激された。こうも人間そっくりに作られてしまうと、捨てるにはそれなりの覚悟と非情さが要求される。以前の住人が、この人形を捨てずに戸棚に押し込んでおいた心境も何となく察せられた。
*
「あれ、この子、どうしたの?」
大学から帰宅したウィリアムが、居間の隅のコンソールテーブルにちょこんと腰掛けた人形に気がついた。
「あ、階段下の物置で見つけて……」
ルイスはもごもごと答えた。
他のガラクタと一緒に捨ててしまうには忍びない。かと言ってまたあの物置部屋に押し込んでしまうのも気分が悪い。迷った末、ルイスは人形を居間に飾ることにした。
もちろん、埃まみれのドレスは丁寧に洗って、ぼさぼさだった髪はコームで梳いた。顔の汚れを布巾で拭い取ってやると薔薇色の頬は艶めき、ますます生き生きとした輝きを放つようになった。
手入れをしている間、いい歳をした男がお人形遊びをしているようで少し虚しい気分になったが、その苦労の甲斐あって人形は戸棚で眠っていた時とは見違えるほど身奇麗になった。やや古めかしいデザインのドレスも相まって、室内の調度によく馴染んでいる。
「ふぅん、可愛いね」
ウィリアムは微笑みながら頷いた。
男所帯の屋敷に可愛らしい人形を飾ることに対して拒否感はないけれど、だからと言って特に興味もなさそうだった。ルイスはその様子に密かに安堵した。
*
ある朝のことだった。
ルイスはいつものように日の出より少し早い時間に起床して、朝食の準備に取り掛かるため階下へ降りた。
今日は天気が良さそうだから、窓を開けて風を通しておこうか。ふとそう思いたって、ルイスは居間へと立ち寄った。
居間と廊下を繋ぐ両開きの扉を押し開くと、早朝の薄暗い室内で真っ先に目についたのはあの人形だった。壁にぴたりとくっつけて配置された半月型のコンソールテーブルの上で、いつも青い瞳を物憂げに伏せている。
それが何故だか今朝は、居間に入ってきたルイスの方をまっすぐに見つめている気がした。
一瞬、背筋にぴりりとした緊張が走る。
が、すぐに違和感の正体に気がついたルイスはその感覚を振り払った。
彼女の傍らに小さな花瓶が置かれていた。ルイスには置いた覚えがなかったが、おそらく花瓶を置く際に動かしたから、いつもと違う姿勢になっていたのだろう。そしてこういうものを用意する人間は、ルイス以外には一人しかいなかった。
「あ、おはようございます」
ちょうど、ドアの隙間からフレッドが顔を覗かせた。
手には玄関に飾る大きな花瓶を抱えている。朝早くから起き出して、花の入れ替えをしてくれていたようだ。
ルイスは挨拶を返すと、コンソールテーブルを指し示した。
「これは君が?」
「あ、はい」
フレッドは花瓶を抱え直しながら頷いた。
「すみません、勝手に」
「いえ。寂しそうだったので、きっと喜んでいますよ」
そう答えると、フレッドが小さく首を傾げた。
「寂しそう……ですか?」
「え?」
「僕には……怒ってるように見えたので」
ぽつりと呟いて、フレッドは仕事に戻っていった。
その言葉は透明な水の中に一滴落とされた黒いインクのように、ルイスの胸に影を落とした。
*
あくる日の午後、モリアーティ家の屋敷の門前には数名の小作人たちがやって来ていた。
領主の屋敷に小作人たちが詰めかけるのは、大抵の場合は地代の交渉や何らかの嘆願を目的としたことが多い。しかしこのダラムの地となれば話は別で、彼らは地代のかわりとして、各々の農地や牧場で取れた作物を持ってきてくれたのだった。
モリアーティ家がこの地に邸宅を構えた当初、地代を大幅に引き下げたことも相まって、彼らの歓迎ぶりは凄まじかった。次から次へと素朴な貢ぎ物を持ってくるものだから、消費しきれなくて「もう止めてくれ」と逆にこちらから頼んだほどだった。
今ではごく常識的な(けれどルイスが街で買い出しする必要がないくらいの)作物が週に一度、納められるのだった。
「ジャガイモが豊作でね、困ってるくらいなんです」
「いつもありがとうございます」
農夫の一人がずっしりとした袋を差し出した。ルイスはそれを受け取りながら、なるべく愛想よくお礼を言う。
「パースニップと一緒にマッシュするといいですよ。家内は何かハーブを入れてましたけど、何だっけなぁ……」
「ああ、モーザーさんとこのパースニップは美味しいですからね。野菜嫌いなうちの娘も、バターで炒めてやるだけで喜んで食べるんです」
「娘さんがいらっしゃるのですか?」
「え? ええ、まぁ」
「お幾つくらいでしょう?」
「はいっ? え、今年で六つになりますが……」
思いがけないところに食いつかれた農夫はちょっと怪訝な顔をした。
「ああ、すみません」
ルイスは慌てて取り繕った。
「実は屋敷の物置から、女の子の喜びそうな人形が出てきまして。前の住人の持ち物だと思うのですが、何分当家は男所帯ですから……もしよろしければお嬢さんに」
「ああ、なるほど」
横で聞いていた一人が、もう一人に耳打ちした。
「人形で遊ぶような女の子、あの屋敷に住んでたか?」
が、娘がいると話した農夫はそれを無視して、ルイスに愛想よく笑いかけた。
「お心遣いは大変有難いですが、私どもの娘にはもったいないですよ。以前に、家内が端切れでぬいぐるみをこしらえてやったんですがね、それを放り投げて犬に取ってこさせて遊んでるようなお転婆なんでさ」
「あ、そう……ですか」
仕事に戻る農夫たちの背中を見送りながら、ルイスは、犬にくわえられた人形の姿を想像してしまった。
得意げに尻尾を振って、むく犬がこちらに駆け寄ってくる。その口からだらんと垂れ下がった作りものの手足。人形の髪の毛は振り回された拍子にぼさぼさに絡まっていて、透明な唾液で濡れている。
もう一回投げてくれ、と言いたげな様子で、犬がルイスの足元に人形を差し出した。ガラス製の青い瞳が、じっとこちらを見上げている。
*
殺すのか。
物騒な言葉が耳に飛び込んできて、ルイスはドアをノックするために上げていた手をぴたりと止めた。モランの声だ。
ドアの向こうから、尚も低い話し声が聞こえてくる。
悪辣な特権階級の始末について話し合っているのだろう。そういえば、今朝ロンドンにいるアルバートから電報が届いていた。何か新しい動きがあったのかもしれない。電報を受け取ったのはフレッドだったから、ルイスはその内容について把握していなかった。
逡巡したのはほんの一秒ほどだった。どのみち、いつまでもドアの前で立ち聞きしているのははしたない。
三回ノックをすると、話し声はぴたりと止んだ。
「どうぞ」とウィリアムの声に入室を許可されてから、ルイスは恭しくドアを開けた。
「お話し中に申し訳ありません。お茶をお持ちしました」
「構わないよ。ありがとう」
「モランさんも、飲まれますか?」
ウィリアムの前にカップとソーサーを差し出しながら、何気ないふうを装って尋ねた。いつものモランなら「じゃあウィスキーで」とか軽口を叩くところだが、彼は無表情に首を振りながらソファに引っ掛けてあったコートを手に取った。
「いや、いい。晩飯も俺抜きで頼む」
「今から出かけられるのですか?」
モランが何か答える前に、ウィリアムが口を開いた。
「ちょっと、おつかいだよ。僕が頼んだんだ」
「そう、ですか」
その短いやり取りの間に、モランは静かに居間を出ていった。
一瞬振り仰いだその横顔は、張り詰めているようにも凪いでいるようにも見える、冷徹な兵士の顔だった。とても、主人の遣いで街へ出る使用人には見えない。
「あ、いい香り。この間アルバート兄さんが取り寄せてくれた茶葉かな?」
「え、ええ。この夏に収穫されたばかりの……」
ウィリアムはにこにこと微笑みながらカップを傾ける。ついさっきまで血なまぐさい相談事をしていたことなど感じさせないほどに、穏やかに。
廊下からまた低い話し声が聞こえてきた。モランが、廊下で行きあったフレッドと何か話しているのだろう。
だがルイスの意識がそちらに引っ張られそうになる前に、ウィリアムは再び口を開く。
「アルバート兄さんが茶葉を選んでくれて、ルイスがお茶を淹れてくれるんだから、僕はとびきり贅沢者だね」
「ありがとうございます……」
微笑む兄の肩越しに、あの人形と目があった。ガラス製の瞳は瞬きすらせず、ルイスの顔をじっと見つめている。心のうちすら見通されているような錯覚を覚えて、ルイスは慌てて目を逸らした。
*
人形の視線にそこはかとない圧迫感を感じる。
例えば昼下がりの居間で一人掃除をしているとき。夕食後の団欒中、兄のための紅茶を注いでふと視線を上げたとき。青い目がじっとこちらを見ている。
もちろん、作り物の人形に意思などない。それはルイスにもよく分かっている。だが人間の想像力というのは厄介なもので、姿形が人間そっくりに作られているというだけでそこに意思があるかのように感じてしまうのだ。
たまに人形が首を傾けてこちらを見ているような気さえした。知らない間にフレッドが動かして、姿勢が変わっただけだろうと考えることにした。
人形の傍らに置かれた花瓶の水を入れ替えるために、ちょっとどかして座り直させたのだ。
本人に確認したことは、ない。
*
その日もルイスは粛々と家事をこなしていた。
手を動かしながら、頭の中では常に次の段取りを考えている。食材のストック。明日の天気。ウィリアムの帰宅予定。ロンドンに帰ってからのスケジュール。
そうした細々としたことに考えを巡らせながら、昼食に使った食器の片付けを終えた。濡れた両手を布巾で拭って、さて次は二階の掃除を、と足早にキッチンを出ようとした。
そこでルイスはぴたりと足を止める。
キッチンを出てすぐ、廊下の突き当たりに置かれたキャビネットの上に、あの人形が座っていた。ルイスがキッチンから出てくるのを待ち構えていたかのように、まっすぐにこちらを見つめている。
どうして、ここに?
ルイスは少し歩調を落としながら人形に近づいた。
居間に置いてあったはずだ。昼食の後片付けの際も、居間の前を通るとき、この厭な視線を感じたのを覚えている。
「あ、その子」
伸ばしかけた手をルイスは慌てて引っ込めた。
廊下の反対側からやって来たフレッドが、キャビネットの上の人形を凝視している。こちらから何か問いかけるより早く、彼は両手で人形を抱き上げた。人間の赤ん坊にでもするような、丁重な手つきだった。
彼は立ち尽くすルイスの脇をすり抜け、廊下をずんずんと突き進むと、普段は出さない大声で兄貴分の名を呼んだ。
「モラン!」
「げ」
人形を抱いたフレッドが居間に飛び込むなり、ソファで寛いでいたモランが顔をしかめた。その表情を見て、ルイスも大方の事情を察することができた。
どうやらモランがあの人形を動かしたらしい。
ルイスは内心でほっと胸をなでおろすと同時に、人形が一人でに歩いて屋敷内を移動したという馬鹿げた妄想を描いていた自分自身を自覚した。
「勝手に動かしちゃ駄目だよ」
「いいじゃねぇか。じーっと見られてるみたいで、酒飲んでても落ち着かないんだよ」
「それはモランがちゃんと自分の仕事をしてないから、そんなふうに感じるだけだろ」
「うるせ」
「怒ってるよ」
「はいはい」
モランはうるさそうに生返事をしながら、部屋を出ていった。対するフレッドはまだ何か言いたげだったが、それ以上は追及せず人形をコンソールテーブルへ戻した。
「怒ってるんですか?」
尋ねると、フレッドがぴたりと手の動きを止める。
先ほどの言葉を、モランはフレッド自身が怒っているという意味に捉えたようだったが、ルイスは先日の彼の言葉を覚えていた。
この人形が、怒っているように見える、と。
フレッドはルイスの顔と人形を交互に見比べて、やがて言いにくそうに口を開いた。
「いえ……僕がそう見えた、というだけです。こういう人形、見慣れてなくて」
フレッドの言う『こういう人形』というのは、何となくわかる。
彼がどういう環境で生まれ育ったのかはまだよく知らなかったが、貧民街育ちの自分とあまり変わらないであろうことは何となく察せられた。そして、そういう場所で生まれ育った子供にとっての『人形』といえば、端切れをかき集めてそれらしい形に整えたぬいぐるみのことだった。
フレッドはちらりと横目で人形の方を見やってから、静かに話し始めた。彼女の機嫌を損ねないよう、様子を伺っているかのような仕草だった。
「服を着て、髪を結って……手足の関節まで人間そっくりに作られてるのに、自分の意思では絶対に動けなくて……とても不自由そうに見えます」
「……」
「ただの作りものだという事は分かっています。でも、あまりに人間そっくりだから、もしかすると……動かせない身体の内側で、僕らと同じように、何か考えているんじゃないかって……そんな気がして、何だか……」
フレッドは最後まで言わなかった。だが、何を言おうとしたのかは、おおよそ察せられた。
怖い、のだ。
*
その夜、夢を見た。
ルイスは床に打ち捨てられている。
倒れている、とは少し違う。四肢をだらりと投げ出して、ぼんやりとした意識で絨毯の毛並みを眺めている。疲れて横になっている訳でも、傷ついて倒れ伏している訳でもない以上、やはり打ち捨てられていると表現するしかないだろう。
やがて、誰かの足が視界に入り込んだ。
見覚えのある靴だ。ウィリアムに違いないとすぐに気がついた。けれどルイスは起き上がることも、視線を上げることもできなかった。
彼はルイスの脇に両手を入れて抱きかかえると、手近な椅子に座らせた。
姿勢が変化したことで、ようやくウィリアムの顔を見ることが出来た。兄はルイスの目を覗き込み、いつものように優しく微笑みかけてくれた。
兄さん。
呼びかけようとして、声が出ないことに気がついた。声帯が震える気配もない。ルイスはそこでようやく、自分が息をしていないことに気がついた。
誰かがルイスの頭を撫でた。
いつの間にか、ウィリアムの隣に別の人物が立っている。服装からして、おそらくはアルバートだ。確かめたかったが、今のルイスは顔を上げることすらできなかった。
やがて、二人はルイスに背を向ける。
待って。兄さん、兄様。
声が出ない。立ち上がって彼らを追いかけたいのに、指一本動かせなかった。ルイスの身体はそういうふうには出来ていないのだ。
遠ざかっていく背中をただ見送るしかないルイスの前に、黒い影が割り込んできた。モランだ。
そこをどいてください。兄さんと兄様が行ってしまう。
必死に叫んだけれど、声なき訴えなど届くはずもない。モランは大きな手をルイスの頭に乗せた。アルバートのように撫でるつもりなのかと思ったが、違った。彼はルイスの頭をぐいと押して下を向かせた。
何をするのですか、という抗議も声にはならない。もうルイスの視界には、床と自分の膝しか見えなかった。
その膝の上に、数本の薔薇の花が置かれた。この手はきっとフレッドだ。
見当違いの気遣いに怒りが湧いた。こんなものはいらない。だから、兄さんたちのところへ。
しかしそう訴えかけようとしたところで、いつの間にかモランとフレッドの影さえ消えていることに気がついた。
ルイスは必死に辺りの気配を探る。しかし、ただ自分ががらんとした部屋の中で、顔を俯けた姿勢のまま椅子に腰掛けていることが分かっただけだった。
身体はぴくりとも動かせない。恐ろしいほど静かだった。
そうしているうちに、膝の上の薔薇が徐々に水分を失いはじめたことに気がついた。真紅の花びらも、瑞々しかった葉と茎も、かさかさに乾いていく。
瞬きすらできないルイスは、その様子から目を離すことができない。フレッドのくれた薔薇が枯れてしまう。
ルイスは疲労も空腹も感じていなかった。それなのに、薔薇はみるみるうちに萎れていく。花弁が茶色く変色してルイスの膝の上からはらりはらりと落ちる。
何が起こっている? 皆はどこに?
動かせない体の奥で、思考だけが目まぐるしく回転していた。
膝の上の薔薇はとうとう完全に干からびてしまった。何故こんなにも急激に枯れてしまったのか。自身が感知できていないだけで、それに見合うだけの時間が経過しているということか? 他に時間を推し量る材料がない。もしそうだとすれば去っていった兄と仲間たちは。もしこのまま身体を動かせなかったら。身体的な感覚や時間の流れから切り離されてただ自意識だけと向き合い続ける孤独。想像しただけでいっそのこと発狂してしまいたかった。だが身体に震えが走ることも、呼吸が浅くなることもない。相変わらず身体はぴくりとも動かなかった。自分の着ている服や絨毯の模様が色あせてきたような気がするそしてすぐにその考えを必死に打ち消す。そんなはずはないそんなはずはない。だが身体は動かせない。皆は。僕はこのままずっとここで。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ兄さん。
兄さん。
*
そこでルイスは跳ね起きた。
まだ真夜中だった。
暗い部屋の中に、荒い呼吸音だけが響いている。それが自分の喉から漏れる音だと気がついてひどく安心した。
背中にびっしょりと汗をかいていた。額に張り付いた髪の毛を払おうとして、手が、身体が動くことに心の底から安堵した。
みっともなく震える指先も、今は心地いい。自分の意志でちゃんと動かせる。
手を握ったり開いたりを繰り返して感覚をひとしきり確かめた後、ルイスはベッドを降りた。こんな夢を見た原因は分かりきっている。
暗い廊下を足早に歩く。慣れた屋敷の中だから支障はない。明かりを用意する時間も惜しかった。
今は何時だろうか。感覚からして、夜明け前というよりは、まだ深夜と呼ぶべき時間帯と思われた。
居間のドアは開いていた。
コンソールテーブルの上には、あの人形が鎮座している。
立ち止まりかけたのは、ほんの一瞬だった。ルイスはコンソールテーブルへ駆け寄ると、できる限りぞんざいで無関心な手つきで人形を掴み上げた。
これはここに在ってはいけない。
玄関へ回る手間すら惜しんで、ルイスは居間の掃き出し窓を開け放った。霧とともに湿ったぬるい空気が流れ込んできて、カーテンがさわさわと揺れた。空はどんよりと曇って、月も星も、空明かりさえない。
そのまま庭に飛び出して、芝生の上を駆けた。靴底に、絨毯とは違う、湿った地面のぐにゃりとした感触が伝わって気持ち悪い。今にも足を取られそうな感覚に陥った。
屋敷の北側に回り込むと、庭の隅に黒い影が蹲っている。よかった、ちゃんとあった。ルイスは何とか自分を奮い立たせて、黒い影へと駆け寄った。
それは古井戸だった。屋敷に水道管が引かれたことで用が済んだのか、それともとっくの昔に枯れ果ててしまったのか。ともかく、モリアーティ家がここに越してきてからは一度も使われていない古い井戸だ。今は石組みの上に、丸い形の蓋が被せてある。
ルイスは人形の胴体を掴んだまま、その蓋に手をかけた。木製の板は分厚く見た目よりも重かったが、片手が塞がっていても動かせない重さではない。力を込めて押しやると、板はがたんと音を立てて横にずれた。
蓋を取り払うと、井戸の底からひんやりとした風が吹いた。どれくらいの間封じられていたのだろう。ようやく呼吸がしやすくなった、とばかりに井戸そのものがほぅと息を吐いたようだった。
冷たい空気が頬を撫でる感覚に身震いしながら、ルイスは人形を持った右手を高く振り上げた。
このまま手を振り下ろせば、指先から力を抜けば、この忌々しい人形は井戸の底の真っ暗闇へと消えて無くなる。少なくとも、居間の片隅から冷え冷えとした視線を投げかけてくることはなくなる。何もかも、何もかもが上手くいくはずだ。
しかしルイスは手を振り上げた姿勢のまま、動けなくなった。
ルイスの両目はまっすぐに、暗い穴を見つめている。頭上に覆いかぶさる夜の闇よりさらに深く、濃く、重たい闇が広がっている穴。
振り上げた手の親指のあたりに、柔らかくまとわりつくような感触がある。きっと人形の髪が触れているのだ。手首のあたりに当たっている硬い感触は、小さな靴のつま先だろうか。人形はだらりと四肢を投げ出している。けれどもたもたしていると、今にも自らの運命を悟って、死物狂いでルイスの手にしがみついて来るのではないか。
そんな想像が頭を過って、焦燥が増す。早く、早く。
しかしルイスは片手を振り上げた姿勢のまま動けない。
「ルイス」
突然背後から声をかけられて、肩が跳ねた。
いつの間にか、すぐそばにウィリアムが立っていた。
「何してるの?」
そう問いかけながらも、真夜中に古井戸を覗き込んでいる弟を不審がっている様子はない。ルイスが何をしようとしていたのか、兄にはすべて分かっているようだった。
ルイスの手から、ウィリアムがそっと人形を取り上げる。伏せられた瞳にかかる睫毛が、繊細で美しかった。
彼は人形のもつれた髪を手ぐしで整えると、それと同じくらい自然な動作で、人形を井戸へと放り込んだ。
「あっ」
ルイスは思わず声を上げた。凍りつくルイスを尻目に、ウィリアムは「よいしょ」と呑気な掛け声とともに井戸の蓋を閉じてしまった。
蓋がぴったりと井戸の口を塞ぐと、あたりの冷気が少しだけ和らいだ気がした。
「ね。これでもう大丈夫」
ウィリアムの手が優しく肩に置かれた。
兄の目を見る。作りもののガラス製ではない、温かい血の色をしていた。全身から力が抜けていく。
「さぁ、もう休もう」
手を引かれて、ルイスはふらふらと歩きだす。
視線を感じて屋敷の方を見上げると、使用人フロアの窓辺にフレッドがいた。一部始終を見ていたのだろうか。子供のように窓ガラスに両手をついて、食い入るようにこちらを見下ろしていた。
ガラスに手の跡が残ってしまう。
思わず顔をしかめると、彼は何故だか悲しそうな顔をして、暗がりに消えていった。
初出:Pixiv 2025.03.06