No.1

内緒話をする子どもたち
 三兄弟の幼少時代の話。


 屋敷の火事から3ヶ月が経った。
 どんよりとした曇り空の多いロンドンの街も、日中は蒸し暑い日が増えてきた。焼け出された三兄弟が身を寄せたロックウェル伯爵家の応接室も、今は窓が開け放たれている。
 往診にやってきた医者の手で頬からガーゼが丁寧に剥がされたとき、真新しい皮膚に外気がひやりと感じられた。
 年老いた医者は眼鏡と皺の奥に隠されたちいさな目を細めながら「ふむ」とつぶやく。

「だいぶ良くなりました。よく我慢しましたね。もうガーゼはいらないでしょう」

 その言葉に、ルイスはほっと息を吐いた。
 傷口を保護するためとはいえ四六時中ガーゼを顔に貼り付けておくのはやはり不快感があり、本格的に夏に入る前に医者のお墨付きをもらえたことが、内心嬉しかったのだ。

「先生、やはり痕が残りますか?」

 診察を見守っていたアルバートが気遣わしげに尋ねた。その目線は弟の頬に注がれている。
 痛々しい火傷はあの日から徐々に回復を見せ、今はみずみずしいピンク色の皮膚になっていたが、ひきつれた様な歪な質感を残したままだ。

「えぇ。時間が経てば肌の色も多少は馴染みましょうが、痕が消えはしないでしょう」
「そうですか……」
「皮膚を移植するという手もありますが」
「いいえ、必要ありません」

 内気な彼にしては珍しく、ルイスがきっぱりとした口調で言い切った。

「こんなに丁寧に診察していただけて、先生にもロックウェル伯爵にも心から感謝しています。僕なんかの為にこれ以上をのことをしていただく訳にはいきません」
「ルイス……」
「痕が残っても僕は気にしません、アルバート兄様」

 あの夜、ルイスは自らの手で焼けた木片を頬に押し付けた。この火傷は兄たちへの報酬であり、ルイスにとっての勲章だ。
 さすがに部外者のいる前でそう口に出すことは出来なかったが、共犯者たる兄には伝わったらしい。アルバートは眉を下げながら微笑んでみせた。もちろん、内心ではこの可愛らしくまろい頬に痛々しい傷痕が残ることに胸が痛む。
 しかし、年端も行かぬ弟が見せた覚悟の証を無かったことにする訳にはいかなかった。

「あぁ、ルイス様は……。とても仲がよろしいのですね」

 医者はそのやり取りを聞いて、ルイスが伯爵家に拾われた孤児であったことを思い出したらしい。しかしそこに彼の出自を蔑む気配はなく、ただ義兄弟の仲睦まじい様を微笑ましく感じているようだった。
 ルイスはアルバートの顔を見上げ、はにかんだように頬を緩めた。

 それから医者は、剥がしたガーゼの処分を看護婦に任せながら、いくつかの注意事項を述べた。
 もうしばらくは日に一度、軟膏を塗るのを続けること。これから汗ばむ季節になるが、傷口は清潔に保つこと。寝ている間にうっかり引っかいたりしてしまわないよう気を付けること。
 椅子にちょんと腰掛けたルイスは、その言葉のひとつひとつに神妙に頷いていた。
 と、そこにノックの音が響いた。

「ルイス、終わったかい?」
「ウィリアム兄さん」

 扉の向こうから、ひょこりともう一人の兄─ウィリアムが顔を覗かせた。
 イートン校への入学に向けて、最近は家庭教師による集中講義が課せられている。といっても、彼の頭脳にかかれば何の心配もいらないことは現役生にして首席のアルバートも認めるところだ。おそらくはルイスの診察に立ち会うため、家庭教師を言いくるめて無理やり時間を繰り上げたのだろう。
 入室の許可を出す前にドアを開けてしまうウィリアムにアルバートは苦笑したが、多少の不作法には目をつぶることにした。

「もうガーゼをつけなくてもいいそうです」
「そう、よかったね」

 ウィリアムは心から嬉しそうに破顔して、弟のおそろいの金髪にキスを落とした。
 その愛らしい仕草に、年配の看護婦は「まぁ」と顔を綻ばせる。

「よく似たお兄さんね」

 そう呟いた看護婦は、しかしすぐさま少しだけ眉をしかめる。自分の言葉に違和感を覚えているようだった。ルイスは心臓の底がひやりと冷えるのを感じた。
 実の兄弟なのだから、自分たちの容姿が似通っていることに何ら不思議はない。しかし先の火事以降、ルイスの兄はそれまでの人生と名前を捨てて伯爵家次男の『ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ』に成り代わった。表向きには血の繋がらぬ元孤児のルイスが、ウィリアムと似ていることなどありえない。
 けれど今目の前にいる医者と看護婦は、ウィリアムとルイスの顔立ちからはっきりと血の繋がりを感じてしまっているようだ。
 ロックウェル家での生活もようやく落ち着いてきたというのに、ここまできて事実を露見させるわけにはいかない。
 どう出るべきか、緊張で冷え切った手のひらを握りしめた。兄の計画をより完璧にするために、周囲の人間に疑問を抱かせないために、ルイスは顔まで焼いたのだから。
 数瞬の静寂の後、真っ先に動いたのはウィリアムだった。

「そんなに似ていますか?」

 彼はソファに腰掛けたルイスの背後に回り込み、少し屈んでそのよく似た相貌を並べてみせた。
 ルイスの髪が、ウィリアムの頬に触れるほどの距離。凍りついた表情のルイスとは対照的に、ウィリアムは完璧に計算された柔らかな笑みを浮かべている。彼は弟の動揺に気付かないふりをして続けた。

「確かに、赤の他人にしては僕とルイスは似ていますよね。……もしかすると、赤の他人ではないのかもしれません」

 ルイスは声を上げそうになるのをすんでのところで堪えた。ウィリアムはルイスの肩に手を置くと、ふと表情を陰らせ、声のトーンを落とす。

「父はこの子を「慈善活動の一環だ」と言って我が家に連れてきました。でも、もしかすると」
「よさないか、ウィリアム」

 アルバートが硬い声で遮った。
 その表情はつい先刻まで末の弟を見守っていたときとは別人のように険しい。ウィリアムは「ごめんなさい、兄さん」と小さく謝罪するとばつが悪そうに顔を伏せた。
 そこでようやく、ルイスはウィリアムの発言の意図に気付いた。
 ウィリアムは『疑惑』に『より真実らしい別の疑惑』を被せることで、彼らの疑いの目を逸らそうとしているのだ。
 『長男であるアルバートさえも結託した上で、火事の騒ぎに乗じてモリアーティ家の次男と養子の三男がすり替わった』という荒唐無稽な真実より、『先代伯爵が下層階級の女に産ませた子供を、慈善活動の名目で引き取った』というありえそうな筋書きを人は信じるだろう。事実、医者と看護婦は驚いたようにウィリアムとルイスの顔を見比べている。
 そしてアルバートはその意図を素早く汲んで、『弟の軽率な発言を咎める兄』として芝居をうってみせた。彼が硬い表情のままに視線をやると、看護婦はそそくさと診察道具の片付けに取りかかり、年老いた医者は心得ましたと言わんばかりに瞑目した。
 まだ幼さが残る年齢とはいえ、ゆくゆくは伯爵位を継ぐ人間だ。彼の翡翠色の双眸にはどこか少年らしからぬ、人を従わせる凄みのようなものがあった。

「とにかく、どんな事情があれ、ルイスはルイスです。僕とアルバート兄さんの弟ですよ」

 ウィリアムはぼすん、と弾みをつけてルイスの隣に座った。普段の彼をよく知る兄弟たちにとってはわざとらしく感じられてしまうほど子供っぽい振る舞いだったが、たまに顔を合わせる程度の医者と看護婦にはそうは感じられなかったらしい。
 アルバートが呆れたように苦笑しながら肩を竦めると、室内に漂っていた緊張感が幾分か和らいだようだった。
 しかしルイスは、ウィリアムの無邪気な笑みの奥にどこか苦い感情があるのを見逃さなかった。二人の兄ほど他人の機微を読み取ることが得意ではなかったが、生まれた時から常にウィリアムの側にいたルイスにはわかった。

(ほんとうの弟じゃないなんて言って、ごめんね)

 兄の緋色の瞳は、確かにそうルイスに語りかけていた。
 血の繋がらぬ他人として振る舞わねばならないことは、ルイスとて承知していることだというのに。自分はほんとうの名前すら捨ててしまったというのに。
 湧き上がるこの感情が伝わるように、ルイスは精一杯の愛しさを込めて、ウィリアムに微笑み返した。


 *


「うまくかわしたね、ウィル」

 部屋に戻って3人だけになった途端、堪えきれなくなったアルバートは、いたずらに成功した子供のようにくすくすと笑った。ウィリアムも兄につられて照れくさそうに頭を傾けた。

「話を合わせてくれてありがとうございました、アルバート兄さん」
「僕は何も言っていないよ。彼らが勝手に解釈しただけだ」
「語られなかった空白にこそ、人は複雑な背景を想像してしまうものです。あれくらいがちょうどいいですよ。もっとも、僕自身が『お父様』に似ている訳ではないので深く突っ込まれるとボロが出てしまいますが……」
「問題ないさ」

 アルバートは窓の側に歩み寄り、庭を見下ろす。ちょうど診察カバンを提げた医者と看護婦が、執事長に見送られながら門を出て行くところだった。

「彼らは父と面識が無いし、写真も肖像画も屋敷と一緒に焼いてしまった。それに何より、彼らだって貴族相手に仕事をしている人間だ。こちら側の事情に首を突っ込むような馬鹿な真似はしないよ」

 弟たちの方を振り返って、アルバートは部屋に入ってからルイスが黙り込んだままであったことに気付いた。
 先ほどの芝居でとっさに兄二人に合わせられなかったことを気にしているのかもしれないと考えたが、どうやらそうではないらしい。遠くを見つめるような、考え込むような顔をしていた。

「ルイス、どうかしたのかい?」
「いえ……ほんとうに誰も気づかないものなのだな、と思いまして。ウィリアム様……死んだあの方もそうでした。お友達をたくさん呼んでお誕生日のお祝いをされると聞いていましたが、火事の後『ウィリアム様』に直接お見舞いに来られたら方は一人もいません。手紙の一通も届きませんでした。僕たちにとってはその方が都合が良かったのですが……」

 二人の兄の視線に気付いて、ルイスはぱっと頬を赤らめ「ごめんなさい」と早口に言った。

「同情しているわけではありません。あの人は罰されるべき人間でした。……それでも、少しだけ、哀れだなと思ったんです。死んでも、誰にも気付いてもらえないなんて……」

 ルイスは服の上から左胸を抑えた。病が癒えてもなお、心臓を庇うようなこの仕草はルイスの癖だった。
 ウィリアムが優しくその手を握った。

「ルイスは優しいね」
「優しい、わけではありません」

 俯くルイスに、ウィリアムは「そんなことないよ、ルイスは世界いち優しいいい子だ」となお言い募った。
 美しい金髪を持つ彼らが額を寄せて囁きあう様を、天使のようだとアルバートは思った。情け深く純真な心を持つ弟と、そんな弟を守りたいと願う兄。
 美しい兄弟の姿に心が満たされると同時に、ひどくざわめいた。おそらくは、かつての『ウィリアム』との関係を思い出して。

「誰も『ウィリアム』の誕生日を祝いたくてパーティの招待を受けたわけじゃなかった……それだけだよ」

 気付けば、吐き捨てるようにそう言っていた。
 誰のことも省みなかったかわりに、誰からも、実の兄であるアルバートにさえも省みられなかった弟。
 遺体は『養子の三男』のものとして処理されたため、父母とは離され、今は共同墓地の片隅に一人ぼっちで葬られている。なるほど、確かに「哀れ」としか言いようがないだろう。この歪んだ世界に生まれ落ちさえしなければ、自分たちも互いを慈しみあえる兄弟になることができたのだろうか。
 実弟への情などとうの昔に消え失せたと思っていたアルバートだったが、ルイスに感化されたのか、そう自問せずにはいられなかった。

「アルバート兄様のお誕生日はいつなのですか?」

 もの思いに沈むアルバートにどう声を掛けるべきかウィリアムが逡巡していると、先にルイスが無邪気に尋ねた。

「え?」
「あっ……ごめんなさい、その、お祝いをしたいな、と思ったので……。大した贈り物は用意できないのですが……」

 アルバートが目を瞬かせていると、「あぁ、そうか」とウィリアムが手を叩いた。

「去年のアルバート兄さんの誕生日は、ちょうどルイスが手術で入院していた時期だったね」
「えっ、そうだったのですか? 兄さんは兄様のお祝いをされたのですか?」
「まさか。邪魔だから一日部屋から出るなと言われていたよ。夜に兄さんがこっそり余ったケーキを持ってきてくださったけど……病院には持ち込めなかったから黙ってたんだ。ごめんね」
「け、ケーキが食べたかったわけではありません!」
「ふふ、わかってるよ。今年は三人でお祝いしようね」
「はい!」

 声を弾ませながら誕生日パーティの相談をする彼らの姿は、ごくありふれた兄弟のそれだった。 ウィリアムは静かに微笑みながら、ルイスは期待に満ちた表情を浮べながらアルバートを振り返る。
 二人の顔を見た途端、アルバートは何故だか目の奥がツキンと痛んだ。あの日、孤児院の礼拝堂で理想の世界を語る彼を見たときに湧き上がった鮮烈な感動とはまた異なる、あたたかい歓喜だった。

「ありがとう。誕生日がこんなに楽しみなのは生まれて初めてだよ」

 理想の世界ともうひとつ、自分が何を欲していたのか、アルバートは知った。


初出:Pixiv 2021.05.05

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