とある兄弟の話 後編
 イートン校時代、ウィリアムが安楽椅子探偵っぽいことをする話。

 翌週の水曜日、ウィリアムは昼食もそこそこに講堂の渡り廊下を外れて、校舎の裏手に回った。
 待ち合わせ場所に着くと、間もなくアルバートもやって来た。

「付き合わせてしまってごめんなさい、アルバート兄さん」
「いいさ、私も気分転換がしたかったところだからね。それに、お前のことだから、ただの散歩の誘いというわけではないんだろう?」
「歩きながら話しましょうか」

 ウィリアムは、先日のルイスからの『依頼』についてかいつまんで説明した。彼の友人とその兄と、一冊のスケッチブックにまつわる話だ。アルバートは興味深そうに相槌を打っていた。

「なるほど……そんな事が」
「はい。ですが、この依頼はまだ終わりではありません」
「というと?」
「ルイスと別れたあと、美術室の使用スケジュールを調べました。水曜日の午後、ジョセフの兄――フィンレー・ナッシュビルのクラスは美術室を使わないんです」

 アルバートは考え込むように顎に手を当てた。

「ということは、そもそもフィンレーが水曜日に美術室で弟のスケッチブックを見つけるのは不可能で……メッセージを書いていたのはフィンレーではなかったということかい?」
「そこはルイスに確かめてもらいました。ジョセフに『これを書いたの、君のお兄さんじゃないですか』と」
「結果は?」
「ふふ。彼はメッセージを二度見三度見したあと……『そうかも』と」

 ジョセフとは面識はなかったが、そのきょとんとした顔を想像してアルバートは思わず苦笑した。
 同居して、同じ学校に通う兄弟同士となれば、手紙をやり取りすることもそうないだろう(モリアーティ家の三兄弟はもちろん例外である)。すぐに筆跡に思い当たらなくても不思議はない。

「メッセージを書いたのがフィンレーで間違いないのなら……。もう一人、『何らかの理由』で備品棚に紛れ込んだスケッチブックがジョセフのものだと判断できる人物がいたわけか。そしてその人物は何故かジョセフ本人ではなく、兄のフィンレーにスケッチブックを渡した」
「流石はアルバート兄さん」

 ウィリアムは満足そうに頷いた。即座に同じ結論に辿り着いてくれる兄との会話は楽しい。

「けれど、それが誰で、どうしてわざわざそんな事をしたのかが私には見当もつかないよ」

 肩をすくめるアルバートに、ウィリアムは微笑みかけた。

「僕は実際にジョセフのスケッチブックを見せてもらいましたから」
「順を追って聞かせてもらおうか」
「はい。ええと、そのもう一人の人物のことを、仮に『協力者』と呼びましょうか。まずは、協力者が備品棚に紛れ込んだスケッチブックがジョセフのものであると断定できた理由ですね。一緒に授業を受けていたクラスメイトたちは除外してもいいでしょう。もしも彼らが気づいていたら、その場ですぐにジョセフに声をかけていたはずですから。わざわざ上級生であるお兄さんの方にスケッチブックを渡すのは不自然です。であれば、協力者はそれ以降の時間帯に美術室を利用した者――と言いたいところですが、もっと確実な候補がいます」
「ジョセフに備品の片付けをさせた教員、だね?」
「その通りです。ルイスたちが教室を出た後、次の授業の準備をしていた教員がスケッチブックを見つけた、と仮定しましょう。彼は誰が備品棚に教本を片付けたかを知っていますし、生徒たちの絵の技量も把握しています。スケッチブックの持ち主を特定するのはそう難しくなかったはずです」
「そして、教員であればナッシュビル家の事情を把握していてもおかしくはない。彼はあえて兄であるフィンレーにコンタクトを取ったというわけか」

 ウィリアムは頷いた。

「教員の誰かがこの件に関わっていたとすると、今度は『何故フィンレーにスケッチブックを渡したのか?』『何故フィンレーが毎週絵のリクエストを出すように仕向けたのか?』という謎が出てきます。ここから先は、実際にジョセフのスケッチブックを見た僕の想像ですが……」

 話をしながらぶらぶらと歩いていると、裏庭の端に行き当たった。
 この一角はゴミ捨て場に当たる。
 塀沿いには、木箱や使われなくなった長机が積み上げられていた。ウィリアムは木箱のひとつを覗き込み、中に空き瓶や割れた食器の類が乱雑に詰め込まれているのを確認して満足そうに頷いた。

「学内にもごみ処理用の焼却施設はありますが、こういう不燃物や粗大ごみまでは処理できません。契約を交わした業者が決まった日に回収に来ることになってるんです。それがちょうど水曜日の昼休憩の時間帯なんです」
「フィンレーが、スケッチブックを持ってくるよう指定してきた時間だね」

 アルバートはポケットから懐中時計を取り出して、時間を確認した。昼休憩が終わるまで、まだ三十分ほど時間がある。
 ウィリアムは施錠された木戸を指差した。

「ジョセフのスケッチブックに、ここで立ち話をしている二人の男が描かれているページがありました」
「どうしてわざわざこんな場所を? ……ああ、なるほど」

 怪訝そうな顔をしたものの、辺りを見回したアルバートはすぐに得心がいったように頷いた。
 ここはちょうど学生寮の裏手にあたる。

「部屋の窓から見た風景というわけか」
「はい。角度からして二階のどこかだと思われます。下級生用の大部屋が並んでいるあたりです」

 アルバートは頷いた。
 入学当初から『王の学徒』として個室を与えられていた彼らは大部屋には縁が無かったが、建物の構造は把握している。

「ジョセフは、例のリクエストを受けるようになるまでは寮の自室で絵を描いていたようです。あのスケッチブックに描かれているのは部屋の中で用意できるものばかりでしたし、彼は自分の趣味をあまり大っぴらにしたがらなかったそうですから。昼休憩の時間は、大抵は自室に戻って、窓際の机に座って好きな絵を描いていた。例えば、この裏庭で何か悪事を働いている者がいたとして、窓際に座って頻繁にこちらを見下ろしているジョセフに気付いたとしたらどうするでしょう? 悪事の現場を目撃されることを恐れ、彼の目を裏庭から引き離す策を練るはずです」
「そのためにフィンレーを誘導して、スケッチブックにあのメッセージを書かせたと?」
「僕はそう推測しています。ある教員が偶然、備品棚からスケッチブックを見つける。開いてみると、自分たちの悪事の現場が克明にスケッチされているのを発見します。絵を描いた生徒自身はそのことに気づいてはいないかもしれませんが、いずれ勘づく時がくるかもしれない。だから彼はスケッチブックの持ち主ではなく、その兄に声をかけたのです。そして、ナッシュビル兄弟の微妙な心理的距離を利用し、弟の特技を応援してみてはどうか、と言葉巧みにフィンレーを誘導した。自分の本当の目的は隠したまま……」

 一通りの推理を聞き終えたアルバートが、改めて寮の建物を見上げた。
 美術教室は寮の反対側の棟の三階にある。 どれだけ急いでも、行って戻ってくるのに二十分はかかるだろう。その道中でクラスメイトに食堂へ誘われるかもしれないし、上級生に雑用を言いつけられるかもしれない。
『毎週水曜日の昼休みに、美術教室の備品棚にスケッチブックを入れる』よう約束を取り付けさせれば、確実にこの時間帯はジョセフを寮の窓から引き離すことができる。 事実、今は寮の窓に人の気配は無かった。ジョセフは今頃、ルイスの似顔絵を描いたスケッチブックを持って美術教室へ向かっているのだから。

「けれど、その『悪事』とは一体?」

 ウィリアムはその質問には答えず、アルバートの腕を引いて植え込みの影に滑り込んだ。
 ちょうど、男がひとり、向こうから歩いてくるところだった。生徒ではない。教員だ。
 背が高く体つきは頑丈そうだが、眉は垂れ下がりくたびれた印象を受ける。あの絵の男に間違いない、とウィリアムはジョセフの画力に妙に感心してしまった。
 彼がちらりと学生寮の方に視線をやったことで、二人はよいいっそう確信を強めた。彼の注意は二階の窓に向いていて、植え込みの影に隠れているウィリアムとアルバートには気づいていない。

「不要品の回収に際して、裏門の鍵を開けて作業に立ち会う教員が必ずいます。補助教員、ネヴィル・ハザリー。彼がフィンレーの協力者です。美術科も担当していたので、間違いないでしょう」

 ウィリアムが囁くと、示し合わせたようなタイミングで、ハザリーが懐から鍵の束を取り出した。
 彼が錆びかかった錠前を開けると、戸の外にはすでに回収屋の男が待っていた。二人は片手を上げて気安い様子で挨拶をしている。
 回収屋の男が、茶色い紙袋をハザリーに差し出した。受け取ったハザリーは、ポケットから紙幣を何枚か取り出して渡した。
 廃品の処理のため学校側は業者に金を支払っているのは間違いないが、作業員と補助教員の間で直接やり取りをするはずがない。

「どうする、ウィル?」

 アルバートが短く尋ねた。
 今すぐ彼らを問い質すこともできなくはないが、言い逃れの仕方はいくらでもある。「友人にちょっとした買い物を頼んでいた」とでも言われてしまえばそれまでだ。
 かと言って、多少後ろめたいことがなければこんなにも回りくどい真似をするとも思えなかった。
 ウィリアムは簡潔に回答した。

「ルイスから話が伝わったとばれてしまうのは困ります」
「フ……そう言うだろうと思ったよ」

 ルイスがこの件に関わっていることをハザリーに知られる可能性がある。今週のリクエストは人物画で、そこに描かれているのはルイスなのだから。
 ここでモリアーティ家の兄ふたりが登場して事態を暴き立てれば、どこからどう話が伝わったのかは子供でも分かることだろう。
 あの荷物の中身が何なのか分からない以上、下手に出しゃばって報復の矛先がルイスに向くことは避けなければならない。

「であれば、それとなく他の監督生と教員を動かしてみよう」

 アルバートからの期待通りの返答に、ウィリアムはにっこりと微笑んだ。





 数日後、アルバートが職員室を後にして自室に戻ると、すでに弟たちが待っていた。
 ウィリアムは読んでいた本を閉じるとアルバートにソファへ座るようすすめ、ルイスはすかさず淹れたての紅茶をサーブしてくれる。彼は早く結果を聞きたくてうずうずしているようだったが、ウィリアムが切り出すまでぐっと堪えて待っていた。

「首尾はいかがでしたか?」
「ああ。補助教員ネヴィル・ハザリー。フィンレーを唆かしたのはやはり彼だった」

 アルバートはウィリアムの向かいに腰を下ろしながら答えた。

「ウィルの推理通り、毎週水曜日に廃品回収にやってくる男から『校則で禁止されている嗜好品』を仕入れて、それを不良どもに売りさばいて小銭を稼いでいたそうだ。匿名の情報提供があったことにして教員を動かしたらすぐに白状したよ」
「『禁止されている嗜好品』というと……」
「お酒や煙草じゃないかな」

 ルイスの疑問を、ウィリアムがすかさずフォローした。
 実際は酒、煙草のほかに持ち込み禁止の菓子類、大衆娯楽雑誌など押収された品は様々だ。中には猥褻本の類も含まれていて、何となく弟たちの耳には入れたくない話だったのでアルバートはあえて婉曲的な表現を使ったのだ。
 この様子だとウィリアムには察しがついてしまっているようだが、ルイスは兄の言葉を素直に受け取って「そんなものの為に」とぷりぷり怒っている。
 阿片など違法な薬物が学内に持ち込まれている可能性も考慮して出来る限り慎重に行動していたため、アルバートも拍子抜けしたことは否めない。
 ハザリーが数日中に自主的に退職することになったと伝えると、ルイスはさらに不満そうに顔をしかめた。

「教員の立場でこんなことをしておいて、解雇ではなくて退職扱いなのですか?」
「ああ……そうなんだけどね」
「アルバート兄さん」とウィリアムが口を挟んだ。「そもそも、ハザリーさんは何故こんなことを? 回収屋の男に代金といくらかの手間賃を渡したら、もう彼の手元にはほとんど残らなかったはずです。お金以外の目的があったということですか?」
「いや。そのわずかな金額こそが、目的だったそうだ」

 ネヴィル・ハザリーは補助教員だ。正式な教員と違って、教員免許を持っていない。大学を卒業した(そして、その多くが貴族出身者である)教員たちとはその仕事内容や待遇は大きく異なっていた。
 教員や生徒の中には平民出の彼らを「使用人」として捉えるものも多くなかった。
 昨年の夏にハザリーの娘婿が急死し、娘とまだ幼い孫たちの生活を助けるために金が必要になった。しかし学校にほとんど住み込みで働く補助教員の給料では満足な援助はできなかった。そんな折に隠れて酒盛りをしている学生たちを見つけ、この副業を思いついたそうだ。
 毎週廃品の回収に立ち会ううちにいつしか親しくなった業者の男に協力を持ちかけると、快く引き受けてくれたという。この方法ならば、週末ごとに大量の煙草や酒や菓子を買い込むよりも他の教員たちの目につきにくい。
 品物をすべて捌いたところでハザリーの手元に残る儲けは僅かだった。しかしその金があれば大黒柱を失った娘や孫たちはパンを一つ、着替えを一枚買える。雪の降る夜にガスストーブを使うのを我慢せずにすむ。「お金なんかの為に」と彼を批判できるのは、何も知らない、本当に金に困ったことのない人間だけだ。
 残飯を漁って食いつないだ経験のあるウィリアムとルイスはその辛さを痛いほど分かっていたし、生まれてこの方食事に困ったことのないアルバートにもそれは察せられた。

「補助教員が忙しく働いているのは知っているつもりだったが、ここまで待遇が悪いとは思ってなかったよ」
「貴族の子弟にとってはお小遣い程度の金額でも、ハザリーさんにとっては喉から手が出るほどほしいお金だったというわけですね」
「そう思うと、仕事を無くしてしまったのは、何だかお気の毒ですね……」

 ルイスが顔を曇らせた。
 アルバートはこの数日のうちに、ハザリーの『顧客』だった生徒を何人か捕まえて証言を集めた。中には彼の事情を知っていて、カンパのつもりで品物を買っていた生徒もいたのだ。

「先生方には、寛大な処分をなさるようお願いしてはみたのだけれど……。問題を起こしてしまった以上このまま雇い続けるのは難しい、というのが結論だった」

 肩を落とすアルバートに、ウィリアムは「大丈夫です」と微笑んだ。

「ハザリーさんは、ここの下宿を引き払った後、一人の男に出会うでしょう」
「男?」
「はい。まだ若いけれどどこか疲れ切った顔をした、片手のない傷痍軍人です。路地に力なく座り込んだ彼はハザリーさんに頼みごとをます。『煙草を一本もらえないか』と。もしハザリーさんが親切な対応をするのであれば、喜んだその男が意外なツテを使って彼に仕事を紹介してくれるでしょう」

 アルバートとルイスは顔を見合わせた。片手のない元軍人、と言われれば、それが誰かは聞くまでもない。

「……あの人は、煙草をもらえるまで付きまといそうだな」

 少しの沈黙の後、しつこく煙草をねだる大男の姿を想像して三人はくすくすと笑い声をあげた。
 根は人情に厚いモランのことだから、きっとハザリーがこのささやかなテストを合格するまで粘るだろう。もし彼が煙草を持っていなければ、代わりに小銭や飴玉を要求するかもしれない。

「とある画廊で、ちょうど雑用係を探しているそうだったので。もちろん雑用係と言っても、芸術を見る目があるに越したことはありません。ハザリーさんにとっても申し分ない再就職先でしょう」
「まったく、手回しのいいことだね」

 アルバートが肩を竦めてみせると、ウィリアムは控えめに、けれど誇らしそうに笑った。

「さて、ナッシュビル兄弟の件もハザリーさんの件も丸く収まったことだし……僕らの相談役に報酬をお支払いしないといけないね」

 いたずらっぽく笑いながら、アルバートは懐から折りたたまれた紙切れを取り出した。
 両手で恭しく差し出すと、ウィリアムはそれが何なのか予想がついたらしくにこにこと笑いながら受け取った。紙切れを丁寧に広げてみて、ますます笑みを深くする。
 すると当然、ルイスもその紙に何が書かれているのか気になったようだ。
 その紙切れは分厚くざらついていて、片側に小さな丸い穴が並んでいて、ちょうどスケッチブックから破り取ったページに似ている。何かを勘づいたらしいルイスは、身を乗り出して兄の持つ紙切れを横からのぞき込んだ。

「なっ……どうして兄様がこれを持っているのですか!?」

 彼の予想通り、アルバートがウィリアムに渡したのは先日ジョセフがルイスをモデルに描いた絵だった。
 絵の中のルイスは描き手の方をまっすぐ見つめ返すのを恥ずかしがったのか、頬の火傷を描かれるのを嫌ったのか、心持ち右を向いて椅子に腰掛けている。『王の学徒』の証たる黒いローブは彼の身体にはまだ少しだけ大きく、首筋や手首は頼りないほどほっそりして見えた。
 顔を真っ赤にするルイスが可笑しくて、アルバートはくすくすと笑った。

「フィンレーの部屋を訪ねて、弟に名乗り出るよう話してみたんだ。もちろん、ハザリーさんの件は伏せてね。『どうしてそれを知っているんだ』と慌てていたけれど、この絵に描かれているのが誰なのかを教えてあげると納得してくれたよ」

 快く、とまではいかなかったが、経緯を説明するとフィンレーは絵を譲ってくれた。「弟に謝っておくよ。君の弟にもよろしく」と眉を下げて笑いながら。

「フフ、そっけない表情のルイスは何だか懐かしいな」
「ほんとうに良く描けていますね。少し緊張して顔が強張っているのが伝わってきます。兄さん、額縁を買いに行きましょう」
「それはいい。肖像画なんて見栄のためだけのものだと思っていたが……彼にカンバスと画材一式を進呈して本格的に描いてもらうのもいいかもしれないな」
「兄さん! 兄様まで!」

 ルイスが珍しく慌てるので、二人の兄はますます可笑しくなった。
 額に入れて飾るアイデアはルイスによって阻止されたが、この絵は今でもウィリアムの手帳に挟まれている。折り畳まれたぶ厚い紙は少しばかり嵩張ったが、今のところ手放す気は無い様だった。

初出:Pixiv 2023.08.20

とある兄弟の話 前編
 イートン校時代、ウィリアムが安楽椅子探偵っぽいことをする話。

 終業時間を告げる鐘が鳴った。
 授業を終えたアルバートは、声を掛けてくる級友たちを振り切って、急ぎ足で寮の部屋に戻った。貴族の子弟が集うここイートン・パブリックにおいて、次期伯爵家当主が人付き合いを疎かにするわけにはいかなかったが、今日の彼には何よりも優先すべき先約がある。
 下級生の一団が、黒いガウンをひらめかせながら颯爽と歩くアルバートの姿を畏敬の念を込めた眼差しで見送った。模範的な優等生である彼が階段を一段飛ばしで駆け上がりたい衝動をぐっと堪えているとは、つゆとも思っていないだろう。
 ようやく寮の自室にたどり着くと、すでにルイスが待っていた。

「兄様、おかえりなさい」
「早かったね、ルイス。待たせてしまったかな」
「いいえ。まだお茶の準備も終わっていません」

 ちょうど茶葉を蒸らし始めたところだったらしい。砂時計をひっくり返しながら、ルイスは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
 弟に召使いのような真似をさせるつもりはアルバートにはさらさら無かったが、アルバートは「ありがとう」と礼だけ言って微笑んだ。何かにつけて兄二人の役に立ちたがる、一生懸命なその様子はとても好ましい。

「兄様にお時間を取っていただくのですから、この位当たり前です」
「ふふ、今日は史学の小論文だったかな」

 テーブルの端には、ルイスが持ってきたと思しきテキストと紙束が積まれていた。兄たちと同じく入学試験を首席で突破し『王の学徒』に選ばれたルイスであったが、まとまった文章を組み立てることは少々苦手としていた。入学以前から作文の添削をしてやっていた名残りで、今もこうしてアルバートを頼ってやってくるのだ。
 ルイスは淹れたての紅茶を恭しく差し出すと、アルバートの向かいに腰を下ろして「よろしくお願いします」とお辞儀した。

 小一時間ほどで、弟の論文は申し分ない出来に仕上がった。ルイスはでき上がった文章を読み返して、「ありがとうございます」と満足気に顔を綻ばせる。
 アルバートに言わせれば、骨子はすでに組み上げられていたのだから、自分は体裁を整えるのを手伝っただけだ。

「学校にはもう慣れたかい?」
「はい、お陰様で」
「それはよかった。何か困ったことがあったら、すぐに私かウィリアムに言うんだよ」

 そう口にしてから、過保護すぎたかと思ったが、当のルイスは頬を赤らめてはにかみながら頷いた。その様子にアルバートも少し安心する。

「あ、アルバート兄様。あの……」

 ルイスは視線を彷徨わせ、体の前で組んだ指をもじもじと動かした。単に照れているというより、何か迷っているような動きだった。
 アルバートは急かさずに、弟の顔をまっすぐに見返しながら言葉の続きを待った。

「あの、アルバート兄様にお聞きしたいことがあります」
「何だい? 話してごらん」

 アルバートは柔らかい声で促した。
 ウィリアムと違って、末のルイスはまだアルバートに対してどこか遠慮している節がある。こうして勉強をみてほしいと頼んでくることはままあるけれど、実の兄弟ゆえの気易さからか、何かあったときはまずウィリアムを頼ることの方が多い。
 そんなルイスがもう一人の兄として自分を頼ってくれている状況に、アルバートは知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。「ええっと」ルイスは揃えた膝の上で拳を握った。

「アルバート兄様は、何故、僕に優しくしてくださるのでしょうか?」

 弟の口から飛び出した質問に、アルバートは思わず眉間にしわを寄せた。

「……誰かに何か言われたのかい?」

 伯爵家の人間とはいえ、血の繋がりのない養子の末弟となれば好奇の目は避けられない。加えて、非の打ち所のない優等生のアルバートと、飛び級ですでに卒業目前と噂されているウィリアムは学内で有名すぎた。 ルイスが不当な扱いを受けないよう、彼が入学するまでに摘める芽は摘んで(もしくは潰して)おいた。こうしてなるべく一緒に過ごす時間を作っているのも、牽制という目的も少なからずあった。この子に手を出せば承知しないぞ、と。
 そうした兄たちの暗躍もあってか、ルイスは周囲から多少遠巻きにされながらも穏やかに学生生活を送っているように見えた。
 それなのに、彼の口からこんな質問が飛び出したのは、一体どういうことか。近頃は教師の目を盗んでギャンブルの真似事に興じたり、どうやって持ち込んだのか隠れて酒を飲む輩がいるとの噂もある。もしそういった連中にルイスが絡まれているのだとしたら、どうしてくれよう……。
 一瞬のうちに様々な考えが頭の中を巡り、自分が思っていた以上に硬い表情をしてしまっていたようだ。ぱっと顔を上げて兄の顔を見たルイスは慌てたようにぶんぶんと首を横に振った。

「い、いえ、陰口を叩かれたとか、そういう訳ではありません」
「ならどうして?」
「その……クラスメイトに、僕と同じ養子の立場である人がいるのです」
「あぁ……」

 アルバートには一人思い当たる人物がいた。
 ジョセフ・ナッシュビル。
 ナッシュビル子爵家現当主の妹夫婦が馬車の事故で亡くなったとかで、本家へ引き取られたという生徒だ。ジョセフの従兄であり嫡子であるフィンレー・ナッシュビルがアルバートと同学年であるため、その話を小耳に挟んだことがあった。
 従兄――兄の方は主張の少ない温和な性格であったと記憶しているが、数えるほどにしか口を利いたことが無かったので、アルバートは何も言わずルイスの言葉の続きを待った。

「彼に訊かれたんです。血の繋がらない兄様たちとどうやって仲良くなったのか、と。数年前に子爵家に迎えてもらったものの、新しい家にうまく馴染めなくて悩んでいるようです。それで僕に相談を」

 心無い言葉を投げつけられたわけではないことがわかり、アルバートは少し肩の力を抜いた。もう一度、努めて優しい声を出す。

「それで、ルイスは何と答えたんだい?」
「何も……答えられませんでした」

 ルイスはますます顔を曇らせた。

「僕はウィリアム兄さんと違って何も特別なことはできません。僕が良くしていただいているのは、ただ兄様がお優しかったからです」
「……そう」

 その答えが、アルバートは少しだけ寂しかった。
 確かにウィリアムの類稀な頭脳に惹かれたことは事実であったが、アルバートは能力の多寡に関係なく、弟として彼とルイスを愛している。同じ想いを分かち合って、互いを尊重しあいながら側にいられる存在はアルバートにとって充分『特別』なのだ。

「……この件について、ルイスが彼にしてあげられることは何も無いよ」

 率直な意見を述べると、ルイスはわかりやすく眉を下げた。

「アルバート兄様でも、難しいですか?」
「私?」
「兄様は、人と親しく付き合うのがお上手ですから」
「ありがとう。でも、表面上上手く付き合うことと、家族として打ち解けることはまるで別物だよ」

 言いながら、アルバートは内心で自嘲した。これではまるで、最後まで肉親と分かりあえなかった自分自身への皮肉だ。

「こればかりは当人同士の問題だからね。他人がお節介を焼いて良い結果が得られるとは限らない」
「そう、ですね……」
「ただ、彼と彼のお兄さんの仲を取り持つのは難しくても、ルイスにできることが無いわけじゃない」
「本当ですか?」
「あぁ」とアルバートは頷いた。「彼の話を聞いて、仲良くしておやり。彼はきっと、よく似た立場にあるルイスになら自分の気持ちを分かってもらえると考えて、相談してくれたんだろう? ルイスが話を聞いて共感を示してあげればそれだけで気持ちがとても楽になるはずだし、前向きに行動するきっかけを与えられるかもしれないよ」

 他人の思考や行動を思い通りに操ることは、普通の人間にはできない。たとえできたとしても、いずれ何処かで綻びが生じてしまうだろう。
 けれど、その心に寄り添うだけであれば、ほんの少しの想像力と思いやりさえ持ち合わせていれば、そう難しくはないはずだ。
 ルイスは兄の言葉をゆっくりと反芻して、やがて表情を明るくしながら頷いた。
 その表情に、アルバートは密かに胸をなで下ろす。心の距離を一足飛びに縮めてしまう魔法の言葉があるのなら、アルバート自身が知りたいくらいだ。
 しかしまぁ、他ならぬルイスの友人であるのなら、気に留めておいて然るべきだろう。二杯目の紅茶をすすりながら、アルバートは思案した。





 それから数日後の、昼休憩の時間だった。
 昼食を終えたウィリアムは、午後の授業が始まる前に図書室にでも行こうか、と考えながら廊下をぶらぶらと歩いていた。
 と、そこに、背後から声がかかる。

「ウィリアム兄さん」

 振り返ると、教員に見咎められない程度の速度でルイスがこちらに駆け寄ってくるところだった。

「ああ、よかった。食堂にもいらっしゃらなかったから」
「ごめんね、探してくれていたの?」
「いえ、僕の勝手な用事でお探ししていただけで……。あの、少しお時間をいただけますか?」
「もちろん、構わないよ。ジョセフ・ナッシュビルの件かな?」

 どうやら当たりだったようで、ルイスは「えっ」と声を上げた。

「どうして、そのことを……」
「簡単なことだよ。そのスケッチブックはルイスのものじゃないだろう? それなら、絵の得意な君の友だちのものかなって」

 胸に抱えたスケッチブックを指さされ、ルイスの瞳が驚きと尊敬の色に輝く。今よりずっと幼い頃から変わらないその眼差しに、ウィリアムはほんの少し得意になって胸を反らした。

「……あれ? 僕、兄さんにジョセフのことを話しましたっけ」

 尋ねられて、ウィリアムは内心でほんの少し焦った。

「あぁ……彼のご両親のことを、前に新聞で読んで覚えていたんだ。だから、ルイスと同じクラスになったことは知っていたよ」
「兄さんの記憶力はすごいですね」

 何食わぬ顔で答えるとルイスは納得したようだったが、実際は先日アルバートから話を聞いていたのだ。どうやらルイスに友達ができたらしい、と。
 それなら僕にも話してほしかった、という子供っぽい焼きもちのせいで、つい先走ってしまった。らしくない失敗にウィリアムはこっそりと自嘲した。

 二人は中庭の隅のベンチに場所を移した。
 人に聞かれたくない話であるならどちらかの部屋に移動すれば良かったのだが、ルイスは寮までの移動時間を惜しんだ。聞けば、友人が教師に用事を言いつけられたタイミングを見計らってスケッチブックを拝借してウィリアムのもとにやって来たらしい。
 寒さは徐々にやわらぎ始めたとはいえ、まだまだ冷えることには変わりない。

「寒くない? ルイス」
「大丈夫です。……まずは、これを見てください」

 ベンチに腰を落ち着けると、ルイスはスケッチブックをウィリアムに手渡した。何気なくページをめくって、ウィリアムは目を瞬かせた。

「これもそのジョセフが描いたのかい? ずいぶん上手だね」
「はい、美術の成績もとても良いんです」

 ウィリアムは芸術にさほど興味があるわけではない。それでも、学生が描いたにしては申し分ない絵だと素直に感心した。黒々とした鉛筆画ながら、林檎のみずみずしい張りや、磨かれた陶器のつやが伝わってくるような生き生きとしたスケッチだった。

「彼は美術クラブにでも入っているのかな」
「いいえ。クラブには入っていませんし、授業以外では指導を受けたことも無いそうです」
「じゃあ全くの趣味なんだね。それはますますすごいな。きちんとした先生のもとで教われば、もっと上手くなれるだろうに」
「兄さんもご存知の通り、ジョセフは子爵家の傍系で……子爵家に引き取られたのですが、義理の両親や兄さんに迷惑をかけないように、卒業したら早く仕事に就いて独立しなければならないといつも言っています。だから絵を描くのはあくまで遊びだと」
「そう、もったいないな……で、ルイスは彼に絵のモデルを頼まれでもしたのかい?」
「えっ」

 またしても言いたかった事をピタリと言い当てられ、ルイスは瞳が零れ落ちそうなほど目を見開いた。

「どうしてわかったんですか?」
「ふふ、だって僕に相談事があったんでしょ? ジョセフが絵を描くことに関係していて、ルイスが困るようなことといったらそれくらいしか思いつかないよ」
「うう……確かに、僕はジョセフに絵のモデルを頼まれました。でも、事情はもっと複雑なんです。だから、兄さんのお知恵をお借りしたくて」
「へぇ、それはどんなふうに?」

 ルイスの説明はこうだ。
 クリスマス休暇が明けた最初の美術の授業のときだった。
 ジョセフは授業用のスケッチブックと間違えて、今ウィリアムが眺めている私用のスケッチブックを持ってきてしまった。幸いその日は講義だけで終わったのでスケッチブックを使わずに済んだが、迂闊なことに彼はそれを美術教室に忘れてきてしまった。授業で使った画集の片付けを教員に命じられた際、一緒に備品棚に入れてしまったのだ。
 ジョセフは教室を出てすぐ忘れ物に気付いたが、次の授業があったので取りに戻ることができなかった。放課後も美術クラブの活動があって何となく立ち入りづらく、結局彼がスケッチブックを回収できたのは翌朝のことだった。

「そして、部屋に戻ってスケッチブックを開くとこんな書き込みがあったんです」

 ルイスは横から手を伸ばして、スケッチブックをめくった。 ジョセフは右利きらしく、右側のページにだけ絵が描かれている。見開きの両側に鉛筆で絵を描けば、スケッチブックを閉じた際にページ同士が擦れて汚れてしまうからだろう。
 しかし空白だったはずの左側のとあるページに、文字が書き込まれていた。

『とても上手だね』

 青黒いインクで書かれた、流れるような筆記体だった。

「これは……誰かが備品棚に紛れ込んだスケッチブックを見つけて書き込んだのかな?」
「はい、おそらく。ジョセフは気になって、翌々日の授業の折に、もう一度教室の備品棚にスケッチブックを滑り込ませました。この下の、『どうもありがとう。あなたは誰ですか?』というのはジョセフが書いたものです」
「で、さらにその下が相手からの返事か」

 鉛筆書きのジョセフの文字の下に、同じ筆跡で書き込みがある。

『それは秘密です。それより、ジョセフ、もっと君の絵を見せてくれませんか? 水曜日の昼休み、誰にも見つからないように、またこの棚にスケッチブックを入れてください。その時間であれば、美術室には誰もいません。僕は君が描いた礼拝堂の天使像が見てみたいです』

 ウィリアムがそのメッセージを読んだことを確認して、ルイスが黙って次のページを捲る。
 予想通り、天使像のスケッチが描かれていた。左側のページには、さらにメッセージのやり取りが続いている。

「こんな調子で、週に1度、正体不明の人物が絵のリクエストを出してくるようになって……。彼は毎週水曜日の昼休みになると、美術室へスケッチブックを持っていくようになりました」
「昼休みに、ね」
「はい。授業のついでに隠すと他の生徒や教員に見咎められる可能性があるので。休み時間に特別教室に立ち入ることは原則禁止されていますが、ここに書かれている通り、水曜日の昼休みは担当の教員が外しているので、美術室は無人になるんです」
「なるほど。となると、相手はそれ以降の時間帯にスケッチブックを回収しているのかな」
「おそらく。木曜日の朝一番に備品棚を覗くと、必ずスケッチブックに返事が書き込まれているそうです」
「そして、今週のリクエストは人物画だったわけだね」
「そうなんです」
「これは確かに妙だね」

 ルイスはこくこくと一生懸命に頷いた。

「ジョセフにもそう言ったのですが、絵を褒めてくれる人が現れたことに舞い上がってしまっているようで、ちっとも聞いてくれないんです」
「それでルイスは断りきれずにいるんだね」
「友人は大切にしなさいと、兄様も仰っていましたし……」

 ルイスは困り果てたように俯いてしまった。
 ただの絵のモデルであれば彼も引き受けただろうが、その絵がどこの誰とも分からない者に見られるというのは何となく座りが悪い。

「つまりこれは『メッセージの送り主を特定してほしい』という、ルイスから僕への依頼だね?」

『依頼』という単語を強調しながら尋ねると、ルイスは目を輝かせてこくこくと頷いた。
 であれば、完璧に解決せねばなるまい。
 ウィリアムは一度スケッチブックを閉じると、表紙と裏表紙を改めた。兄が何を確かめようとしているのか、ルイスにはすぐに察しがついたようだった。

「おかしいでしょう? このスケッチブックにはどこにもジョセフの名前が書かれていないのに、向こうは二回目のメッセージの時点でこのスケッチブックが誰のものか分かっていたんです」

 ウィリアムは頷いて同意を示した。
 このスケッチブックはジョセフが個人的に使っていたものだから、どこにも持ち主の名前が書かれていない。絵の下はそれを書いたらしい日付だけは記されているが、サインは見当たらない。
 それなのに、メッセージの送り主は二回目のメッセージでジョセフの名を呼んでいる。

「彼は美術の授業の時にこのスケッチブックを棚に隠していたんだよね。クラスの誰かに見られていた可能性は?」
「それはおそらくありません」

 ルイスはきっぱりと断言した。

「どうしてそう思うの?」
「僕も同じように考えて、メッセージの筆跡を調べてみましたから。少なくとも僕らのクラスの生徒には、同じ筆跡の者がいないことが確認できました」
「そこまでやったのかい、ルイス?」
「当番が回ってきたときにクラス全員分のレポートを集めましたので、その時に」
「なるほど。じゃあ、ジョセフがスケッチブックを忘れていった場面を、一緒に授業を受けていたクラスの誰かが見ていた線は消えたわけだね」
「はい。ですが、さすがに他の学年の生徒の筆跡までは調べられなくて……」
「『同じクラスの誰かではなかった』という可能性さえ排除できれば十分だよ、ルイス。ヒントはすべてここにある」

 ウィリアムはスケッチブックを丁寧に、今度は後ろから前へ逆上るようにめくっていった。

「ところでルイス、さっき僕が『このスケッチブックはルイスのものじゃない』って、どうしてわかったと思う?」
「え? それは……僕が持っているスケッチブックを兄さんが知っていたからでは? 僕の入学前に、兄様と一緒に学用品を買い揃えるのに付き合って下さいましたから」
「そうだね。家族だからね」
「……?」

 首を傾げるルイスを横目に見ながら、ウィリアムはさらにページをさかのぼり、初めてメッセージが書かれたページを通り過ぎてから手を止めた。
 瓶の中に閉じ込められた帆船の絵が描かれている。

「これはボトルシップだね」
「ええ、クリスマスのプレゼントにご両親からもらったと聞きました」

 さらにもう一ページさかのぼる。

「こっちはティーセットだ。細かい絵柄までよく描けてるね」
「はい……」

 相槌を打ちながら疑問符を浮かべるルイス。「この絵がどうかしたのですか」とその顔に書かれているようで、ウィリアムは小さく微笑んだ。

「この二枚の絵が描かれた日付を見てごらん」
「ええっと……ティーセットの絵が十二月二十三日。ボトルシップの絵が、その二日後の二十五日ですね」

 そう答えてから、ルイスは「あっ」と声を上げた。

「気づいたかな。この二枚はクリスマス休暇中に、おそらくは彼の実家で描かれた絵なんだ。彼もクリスマスは実家で過ごしたんだろう? となれば、これがジョセフのスケッチブックだと断定することができた者がこの学校内に一人だけいた事になるね」
「家族なら同じティーセットを使うのは当たり前で、クリスマスプレゼントに何を貰ったのかも当然知っている……」
「そう。『家族だから』ね。つまりメッセージの送り主はジョセフの兄、フィンレー・ナッシュビルだ」
「絵そのものがヒントだったんですね。こんなに簡単に当ててしまうなんてさすがです、兄さん」
「ルイスが、僕がほしい情報を用意してくれていたお陰だよ」

 兄の推理に感心しながらも、けれどルイスにはまだ腑に落ちない事があるようだった。

「でも、ジョセフのお兄さんはどうしてこんな回りくどいことをしたのでしょう? 絵を褒めたいなら本人に直接言えばいいのに」
「さぁ。それは本人に聞いてみないとわからないね。……でも、このスケッチブックを見れば分かることもある」

 ウィリアムは、兄弟のやり取りが書かれたページを指先でなぞった。

「ジョセフのお兄さんからのメッセージは、すべてインクで書かれているね。文字が灰色がかっているのは吸い取り紙を使ったからだ。鉛筆だと擦れて隣のページの絵を汚してしまうこともあるけれど、インクなら一度乾いてしまえばその心配もない。それにほら、ここ」

 ウィリアムがとあるページの隅を指差した。爪の先ほどの短い斜線が何本か走っている。

「インクが裏抜けしないか、確かめた跡……?」

 ルイスの推理に、ウィリアムは微笑みながら頷いた。

「そう。彼はジョセフの絵を汚してしまわないように、最大限の配慮をしてくれていた。つまり、少なくとも悪戯としてこんなことをしたわけじゃない。ジョセフの絵が好きだという言葉は本物だと思うよ」
「そうですね。僕、ジョセフに話してみます。……あ、もしかして、ジョセフも薄々気が付いていたのでしょうか?」
「そうかもしれないね。ともあれ、これをきっかけに仲良くできるといいね」

 ウィリアムはスケッチブックを閉じて、ルイスに返した。

「モデルの件、受けてあげる気になったかい?」
「うーん、そう……ですね」

 まだどこか恥ずかしそうだったけれど、ルイスは頷いた。
 弟に気のおけない友だちができれば、兄は喜ぶものだ。

「ところでルイス、もう一つ聞いていい?」

 もうすぐ休憩時間の終わりを告げる鐘が鳴る。
 礼を言って教室に戻ろうとするルイスを、ウィリアムは呼び止めた。

「ジョセフの部屋は、寮の東側の二階かな?」

初出:Pixiv 2023.08.20

幸せをはこぶ
 三年後、フレッドのお手伝いをする兄様の話。

「報告、以上です」
「ご苦労さま」

 ルイスが机の上でとんとんと書類を整えながら、ちらりと柱時計を確認した。時刻は昼過ぎだ。

「今日はもう休むといい。昨日から働き通しだっただろう」
「はい。ありがとうございます」

 素直に頭を下げると、ルイスは片眉を上げた。

「やけに聞き分けがいいな」
「休むように言ったの、ルイスさんじゃないですか。……薔薇の植え替えをしようと思って」
「休む気、無いな」
「僕なりの余暇の使い方です」

 仕方ない、というふうにルイスが肩を竦めた。三年前からは考えられない、砕けたやり取りだった。
 そのまま下がろうとするフレッドに、後ろから声がかかった。

「それなら、私が手伝おうか」

 アルバートだった。にこにこと屈託のない表情で微笑んでいる。
 固まっているフレッドを尻目に、彼は手に持っていた書類の束をルイスに差し出した。

「はい、ルイス。私が扱った過去の事件資料だ」
「ありがとうございます、アルバート兄さん」
「……で、どうかな。フレッド? 私はこの通り手すきだし、二人でやればその分早く終わると思うんだ」
「……っ」

 アルバートに雑用を手伝わせるのか? ビルでの共同生活に関わる家事ですらない、個人の用事を?
 判断に迷ってルイスに目配せしたが、彼は苦笑しながら書類に目を通している。自分で判断しろ、ということらしい。
 執務室のドアがノックされた。

「ルイスくん、電話だよー」
「今行く」

 扉の向こうからボンドのくぐもった声がした。呼ばれたルイスはさっと席を立って部屋を出ていってしまった。
 残された二人に沈黙が下りる。

「…………」
「私では、役に立てないだろうか?」
「あ、いえ、あの……よろしくお願いします」

 フレッドより頭ひとつ分は背の高い彼が子どものようにしおしおと項垂れてしまうものだから、つい承諾してしまった。


 二人はまず倉庫へ向かった。
 資材や備蓄に紛れて、園芸用品を置かせてもらっている一角がある。フレッドはそこから園芸用の土が入った袋と、鉢をふたつ引っ張り出した。鉢の中には、小さなシャベルと軍手、ビニールシート、肥料の入った袋を放り込んだ。

「えっと、今日は薔薇の植え替えをします。大きくなったから、ひと回り大きい鉢に移すんです」
「なるほど」
「薔薇の鉢は屋上に置いていますので……すみませんが、アルバート様、鉢の方をお願いします」

 よいしょ、と声をかけながらフレッドが土の詰まった袋を持ち上げると、アルバートが気遣わしげな顔をした。

「大丈夫かい? 私がそっちを持とうか?」
「平気です。鉢も結構重たいので、気をつけてください」
「どれ。……本当だ」

 二つ重ねた陶器の鉢を持ち上げてみて、アルバートは困ったように微笑んだ。
 三年もの間、幽閉されていたのだ。当然筋力も衰えているだろう。少しだけ不安に思ったけれど、アルバートは存外しっかりとした足取りで立ち上がった。
 とはいえ、荷物を抱えながら屋上までの階段を上るのはつらい。二人は踊り場で何度か休憩しつつ、アルバートのペースに合わせて階段を上った。

「……逞しくなったね、フレッド」
「いえ……」
「三年間、ルイスを支えてくれてありがとう」
「…………」

 気恥ずかしくてどう答えていいか迷っているうちに、階段の一番上までたどり着いてしまった。フレッドは踊り場に一旦袋を下ろして、屋上に続くドアを開ける。

「どうぞ、アルバート様」
「それはもう止めてもらってもいいかな」
「え」
「私はもう、ただの『アルバート』だ」

 鉢を抱えたアルバートが、薄暗い階段から陽の光が降り注ぐ屋上へ出る。一瞬だけ視界が眩んだ。
 フレッドが土の袋を抱え直す間、今度はアルバートはドアを抑えて待ってくれていた。

「君とも対等……いや、ここでは君のほうが先輩だね。ボンドのように『アルくん』と呼んでくれても構わないよ」
「いえ……じゃあ、アルバート……さん、で」

 しどろもどろに答えると、アルバートは満足そうに頷いた。
 彼は今年で三十歳になると聞くが、その容色は少しも衰える様子がない。むしろ何の含みもなく微笑む姿には、あの頃にはない眩しさがあった。
 身分とか血筋とかを抜きにしても、この人を前にして気後れせずにいられる人間なんているのだろうか。


 屋上の一番日当たりの良い場所には、フレッドが管理している鉢植えが並べられている。直ぐそばに煙草の吸い殻が落ちているのを見つけて、アルバートは眉をしかめた。

「大佐だな? まったく……」

 腹を立ててくれているアルバートには悪いが、その様子がフレッドには少し嬉しかった。
 植え替えを行う薔薇は、皆でこのビルに移り住んでしばらくしてから植えたものだ。前の屋敷の薔薇は全滅だったから、花屋で新しく苗を買ってきた。それが今は、鉢が窮屈になるほど大きく育ったのだ。
 そう思うと何だか感慨深い気がする。どうやってモランを懲らしめてやろうか思案しているアルバートが隣りにいることも。
 周りを汚さないように、地面にビニールシートを広げた。
 今日はまだ水やりはしていないから、土は乾いている。
 薔薇の株はしっかりと育っている分、棘も固く鋭かった。手を傷つけてしまうかもしれないから、作業には軍手が必要だ。でも、爵位を返上したとはいえ生粋の貴族であるアルバートはこんなに粗い生地の手袋をはめたことはないだろう。肌がかぶれたりしないだろうか……。
 そんなことを考えながらちらりとアルバートの方を見やると、彼は指先でそっと棘をつついていた。

「アルバート様!」
「大丈夫だよ。血は出ていない」

 ほら、と差し出された指先には、赤い痕があるだけで確かに血は滲んでいない。とはいえ危なっかしい。怪我でもさせてしまったらルイスに何と申し開きしたらよいのだろう。

「すまないね。珍しくて、つい」
「珍しいって……」
「私の手元に届く薔薇は、いつも君や誰かが棘を取り除いてくれていたから」
「アルバート様……」
「『さん』だ。フレッド」
「アルバート……さん」
「心配してくれてありがとう、フレッド。君は本当に優しい子だね」

 彼はまたおっとりとした調子で微笑んだ。それから手渡された軍手をはめて、ざらざらとした触感すら物珍しそうに手を擦り合わせている。

「……僕が優しいのなら……それは、アルバートさんたちのお陰です」

 物心ついたときから一人だった。
 親も兄弟もなく、自分以外は誰も信用できなかった。その日食べるもののことだけを考えて過して、誰にも見つかりませんようにと祈りながらごみ捨て場に隠れて眠った。自分のことだけを考えて生きていた。
 モリアーティ家に拾われて初めて、誰かに優しくできる自分を知った。花を美しいと思い、猫を可愛いと感じた。

「僕が優しい人でいられるのは、ただ皆さんにしてもらったことを返しているからです」
「……そうか」

 フレッドは黙ったまま頷き返して、鉢植えをそっとビニールシートの上に倒した。葉や茎を傷めないように手で抑えながら、土ごと鉢の中から抜き出す。
 アルバートも丁寧な手つきでそれに倣った。
 それから大きい鉢の底に石を敷いて、新しい土をつぎ足して、薔薇の株を中心に植える。新しく広々とした鉢に引っ越した薔薇は、下ろしたてのドレスにいそいそと袖を通したご令嬢のように、どこか誇らしげに見えた。どこからか「お水はまだ?」という声が聞こえてきそうだ。
 フレッドは葉についていた土を払った。

「ありがとうございました、アルバートさん。あとはシートと溢れた土を片付けて、水やりをして、肥料を……」
「フレッド、フレッド」

 アルバートが遮るようにフレッドを呼んだ。
 滅多に聞かない早口で、二回も。今度こそ棘で手を刺してしまったかと思って、片付けの手を一旦止めて急いで彼の方へ寄った。

「どうされました?」
「テントウムシだ」
「は」

 アルバートが指し示す先に、ころんと丸いちいさな虫がいた。植え替えたばかりの薔薇の白い花びらの上で、特徴的な赤と黒の水玉模様が鮮やかな存在感を放っている。

「……テントウムシ、ですね」

 少し脱力しながら繰り返すと、アルバートはテントウムシをじっと見つめながら顔を綻ばせた。

「生きているのは初めて見たよ」
「そうなんですか?」
「ああ」

 頷いた横顔は、新しい発見に胸を躍らせるちいさな子どものようだった。
 かつて社交界の花と呼ばれ、裏では女王陛下直属の諜報部隊を束ねたほどの人物が、今は地べたに膝をつき、軍手をはめたままちいさな虫一匹に目を輝かせている。

「こんなに小さいんだね」

 ため息のような呟きだった。テントウムシを驚かせてしまわないように気遣っているのだろうか?

「……テントウムシは、花や作物につく悪い虫を食べてくれるんです。幸せを運ぶ虫とも言われていますね」
「そうなのか」とアルバートはテントウムシから目を離さないまま頷いた。「昔、母がテントウムシのブローチを付けていたよ。お守りでもあったんだね」

 そう話してから、アルバートは目を見開いた。彼の口から『家族』の話を聞くのは、フレッドには初めてのことだった。
 彼自身、言うつもりもなかったのだろう。口をついて出てしまった昔話に自分でも驚いているようだった。
 フレッドは軍手を外して、花びらの上のテントウムシへそっと手を伸ばした。ちょいちょいと花びらを揺らしてやると、慌てたテントウムシはフレッドの指先へと移動した。

「アルバートさん、手を」

 呼びかけると、彼はフレッドの意図を察して軍手を外した。おずおずと、彼の手が差し出される。
 フレッドの指先からアルバートの指先へ、テントウムシはちょこちょこと前進していった。普段取り澄ましたアルバートが「わ」と小さく声を上げたので、フレッドはなんだか可笑しくなった。

「指を立ててみて下さい」

 こう、と人差し指を立ててみせると、彼は素直にそれにならった。するとどうだろう。テントウムシはくるりと方向転換して、爪の先を目指してアルバートの人差し指をよじ登っていく。二人はそれを息を潜めて見守っていた。
 てっぺんにたどり着くと同時に、テントウムシは小さな羽を広げて飛び立った。
 アルバートが今度は「あっ」と小さく声を上げた。
 羽音は小さすぎて聞き取れなかった。赤と黒のちいさな虫は、青空に吸い込まれるように高く高く飛び上がって、すぐに見えなくなった。

「……飛んでいってしまった」
「幸せを届けにいったんですよ」

 そう言うと、アルバートはやっと表情を緩めた。

「ブローチのこと、ずっと忘れていた。……いや、覚えていたはずなのに、思い出そうともしなかった……」

 彼の母親がどんな人物だったのかは知らない。
 おおよその顛末はずいぶん前に聞かされていたから、彼にとってあまり良い母親ではなかったことはみなし子のフレッドにも察せられた。
 それでも今は、まだ幼いアルバートが母親の膝に抱かれている光景が目に浮かぶようだった。彼は母の胸元を飾るブローチを指さして「これは何?」と緑の瞳を無邪気に輝かせるのだ。

「思い出せて、よかったですか?」
「どうだろう。…………いや、そうだね。思い出せてよかったよ」

 晴れ晴れとした、それでいてどこか苦い表情だった。彼は出しっぱなしのシャベルと、土に汚れた空っぽの鉢に手を伸ばした。

「さぁ、片付けようか。早く君を休ませないとルイスに叱られてしまう」

初出:Pixiv 2023.04.09

死んでも、言わない
 ルイスがフレッドにちょっと薄暗い感情を抱いている話。

 その夜遅く、明け方が近い時間になってようやく帰ってきた二人からは血と硝煙の匂いがした。
 裏口を開けると同時に霧をまとった冷たい空気が流れ込んできて、ルイスは顔をしかめた。寒い中を追っ手を撒きながら歩いてきたのだろう。二人の髪はびしょびしょに濡れていて、フレッドの唇は真っ白だった。

「居間で火にあたっていてください。温かいものを持ってきますから」
「茶よりブランデーの方が有り難いんだが……その前にこいつの手当て頼む」

 肩を軽く叩かれたフレッドは痛みに顔をしかめて、モランをじとりと睨んだ。

「……平気」
「馬鹿。そんな青い顔で何言ってんだ」

 改めて彼の方をよく見ると、黒いジャケットの左肩のあたりが裂けてぐっしょりと濡れていた。雨ではない。
 ルイスは驚愕に目を見開いた。

「撃たれたんですか!?」
「……」
「掠っただけだ。あの間合いでよく躱した方だよ」

 黙り込むフレッドに代わって、モランが答えた。
 彼は一瞬浮かべた笑みをすぐに消した。廊下の奥から、ウィリアムとアルバートが連れ立って歩いてきたからだ。

「おかえり。フレッド、怪我を?」
「すみません、大丈夫です。もう、事切れていると思って……」

 フレッドが青い顔で弁解した。

「……大事なくてよかったよ。ご苦労さま」

 ウィリアムは柔らかい笑みを浮かべながら、労るようにフレッドの傷ついていない方の肩に手を置いた。フレッドがほっと表情を緩める。
 モランであれば倒れた相手であろうと容赦なくもう一発撃ち込むところであるが、彼はそれをしないだろう。――甘すぎる。

「ウィリアム、報告する」
「うん、お願い。上で聞こうか」

 後を追おうとしたルイスだったが、ウィリアムが階段の半ばで立ち止まって、こちらを振り返った。

「ルイス、フレッドのことよろしくね」
「…………はい」

 ルイスは二階へ上がっていく兄たちの姿を、取り残されたような気持ちで見送った。
 ――また、自分だけ爪弾きだ。
 同じ部屋で報告と手当を行えばいいはずなのにわざわざそう釘を刺したということは、暗についてこないようにという意思表示だ。ウィリアムはルイスが手を汚すことはおろか、血なまぐさい会話を耳に入れることさえも忌避しているようだった。アルバートもモランも、それがウィリアムの意向であれば異を唱えることはない。
 兄のためにすべてを捧げる覚悟はとうにある。もう一度この顔を焼いてみせたって構わない。
 アルバートが、モランが、フレッドが、そして誰よりもウィリアムが、身と心を削りながら戦っているというのに。
 彼らの姿が見えなくなってから、フレッドが気遣わしげな視線を向けてくるのを振り払って居間へと足を向けた。

「あの、自分でできます。ルイスさんも、上に……」
「できないでしょう。いいから脱いで」

 赤々と燃えている暖炉の前にスツールを置いて、そこに座るよう指で示した。

「すみません」と消え入りそうな声で呟いて、フレッドはぎこちない動作で上着を脱いで傷口を晒した。抉られた肩に、ルイスは眉をひそめた。弾は残っていないし、傷はそう深くない。それでも、あとほんの少し弾が逸れていたら頭か胸を直撃していたはずだ。

「縫う必要は……なさそうですね」
「はい。あの、ほんとうに大したことないので……」
「いいから。じっとして」

 早口にそう言うと、フレッドが小さく肩を竦めた。
 自身のきつい口調やぞんざいな態度が、苛立ちを加速させる。フレッドが申し訳なさそうにすることさえ気に食わなかった。

(僕を行かせてくれていれば――)

 濡らしたガーゼでフレッドの傷口を拭いながら、頭をよぎるのはそんなことだった。
 体格の良いモランと比べるまでもなく、薄い肩をしている。これだけ小柄で、正確な年齢は分からないと言えど確実にルイスよりは年下だ。それなのに、ウィリアムは彼を信頼して計画に関わるいくつもの『仕事』を任せている。

(僕と彼とでは、何が違う?)

 ここ数ヶ月、自分だけ計画に参加させてもらえないことへの焦りと不安がずっと胸の中に渦巻いていた。けれどそれらの感情をウィリアムに吐露することが、ルイスにはどうしてもできなかった。無理やりせき止めてきた暗い感情は、もはや溢れ出す一歩手前のところまで来ていた。
 救急箱の中に、ガーゼや包帯を切るための鋏がある。
 ルイスはそれをそっと手に取ると、刃の強度と長さを指先で確かめた。薄く短く、おおよそ刃物とは呼べないほど小さな鋏ではあるが、ルイスはすでにこれで人を殺す方法を知っている。
 フレッドは相変わらず傷口を晒したままこちらに背を向けて、ルイスの準備ができるのを待っていた。

(今、なら――)

 志を共にする仲間として、お互いの実力はある程度把握しているつもりだ。だが、ルイスはフレッドの本気を知らない。
 ジャックのように、全く強さの底を見せてもらえないほどの実力差があるとは思わない。何度か手合わせをしたことはあったが、フレッドは『ウィリアムの弟』であるルイスの相手をするときはいつもどこか手を抜いていた。
 ここで力を示せば。彼よりも、自分の方が有用であることをウィリアムに示せば――。

「っくし、」

 その時、フレッドが小さくくしゃみをした。
 ルイスは弾かれたように鋏を救急箱の中へ押し込んだ。代わりにソファに掛けてあったブランケットをひっ掴んで、暖炉に向かって座る彼の前に回り込んだ。

「すぐ……すぐ、手当をするので、もう少し我慢してくださいね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「終わったら、温かい紅茶を淹れますね。ブランデーも垂らして、あと、何か甘いものも……」

 フレッドの膝にブランケットを掛けながら、彼の顔をまともに見ることができなかった。それでも、何も知らない彼はきっと嬉しそうに、ほんの僅かに口角をあげていたのだろう。





 あ、と思った次の瞬間には、世界が反転していた。
 辛うじて受け身はとったが、背中を地面にしたたかに打ちつけて、一瞬だけ息が詰まった。

「……っ、僕の勝ち、ですね」

 フレッドは肩で息をしながらそう言った。
 仕事の合間の息抜きだった。他の『社員』たちの不在をいいことに、社屋の屋上に出て組手を始めた。始めのうちはデスクワークで凝り固まった体を少しでも動かせたら程度にしか考えていなかったが、いつの間にかずいぶんと白熱してしまったようだ。
 繰り出されるナイフ(もちろん訓練用の摸造ナイフだ)に気を取られて、足元への警戒が疎かになった。その瞬間に見事に軸足を取られた。
 もともと体格で不利を取ることが多かった彼は、相手の力をうまく流して反撃する戦法を得意としていた。加えて、同じく男性に力で劣るボンドやマネーペニーと訓練をする機会が増えたここ数年は、その技にさらに磨きがかかったように思える。

「……ルイスさん?」

 地面に倒れ込んだ姿勢のまま彼の方を見上げていると、フレッドの顔に不安の色が過ぎった。まさか打ちどころが悪くて起き上がれないのでは、と心配してくれているのだろう。

「……いや、大丈夫。昔の自分を恥ずかしく思っていた」
「昔?」

 起き上がって、地べたにあぐらをかいて座ると、フレッドも隣に腰を下ろした。
 ルイスが何か話をするつもりだと思ったのだろう。主人の命令を待つ犬のように、じっとこちらを見上げている。もちろん、口が裂けても言うつもりはなかった。
 しばらく黙ったまま、並んで腰を下ろしていた。
 今日はよく晴れていて、雲がゆっくりと頭上を横切っていく。
 不意に、フレッドが「あ」と声を上げて立ち上がった。そうして、小走りに屋上の縁へと駆けていく。

「マネーペニーさん、帰ってきましたよ」

 手すり越しに、社屋の前の通りを見下ろしながら、彼が言った。
 おそらく、その視線の先にはマネーペニーの乗る馬車があるのだろう。彼の腰ほどの高さしかない手すりから、上半身を乗り出している。よく晴れた空に、同じ色のストールが透けるようだった。
 ルイスはそっと歩み寄って、彼の背中に手を添える。

「ルイスさん?」

 こちらを見上げる丸い瞳には、何の疑いも浮かんでいない。ただ純真に真っ直ぐに、あどけなさすら湛えてルイスの姿を映している。このまま突き飛ばされるかもしれない、なんて夢にも思っていない顔だ。
 ルイスは彼の肩をつかんで、自分の方へ引き寄せた。

「……危ないよ、身を乗り出したら」
「落ちても、着地してみせます」

 彼は自信ありげに言うものだから、ルイスは思わず笑みを漏らした。

「……戻ろうか」
「はい」

 彼は手すりから手を離すと、くるりと踵を返した。
 その背中を見送って、ルイスはもう一度、屋上をぐるりと取り囲む手すりの方を振り返った。暖かい日差しとは裏腹に、ひやりとした風が吹き抜けていく。
「ルイスさん」と階段の下からフレッドの声がした。今行く、と短く答えて、ルイスは屋上を後にした。

初出:Pixiv 2023.04.09

消えたひと欠片 前編
 『悪徳貴族を成敗してその謎をホームズに解かせる』話。

〇 ある男が廃屋で出会った人物

 男は、足を引きずりながら、往来の隅をとぼとぼと歩いていた。
 今日のような寒い曇り空の日には、左膝が軋むように痛んで憂鬱な気分になった。また一人、通行人が迷惑そうな顔をしながら男を追い越していく。本来であれば、こんな日には誰かと顔を合わせることすら嫌だった。
 しかし、今日だけは。
 男は沈む心を奮い立たせ、痛む足を叱咤してロンドンの雑踏を進んだ。

「サンズ・ティー・ハウス! 寄って行ってね!」

 喧騒の中、一際よく通る声がした。
 思わず立ち止まって声のした方を見ると、カフェの呼び込みだろう。若いハンサムな青年が、道行く人々ににこやかに声を掛けながらチラシを配っていた。
 花の隙間を縫って飛ぶ蝶のように軽やかな足取りだった。彼に微笑みかけられた女たちは、頬を染めながらチラシを受け取っている。
 足を止めてこちらを見ている男に気がついて、青年がすっとこちらに近づいてきた。

「お兄さんもどうぞ。このチラシを持ってきてくれたら、お茶を一杯サービスするよ」

 青年は、女たちにしてみせたのと変わらない眩しい笑顔を男にも向けた。
 サンズ・ティー・ハウスがどんな店だか知らないが、少なくともこのうだつの上がらない男には不釣り合いな洒落たカフェなのだろう。それなのにこうしてチラシを差し出されて、何だか小馬鹿にされているような気分になった。青年にはもちろん全くそんなつもりはないのだろう。ただ自分が卑屈になっているだけだ。そのことがかえって腹立たしい。
 男は引ったくるようにチラシを受け取って、広い通りから脇道に逸れた。
 
 うらぶれた路地を進むうちに、男は貧民街に足を踏み入れた。
 常にどこか陰鬱な空気が漂う、華やかなロンドンの街のもう一つの顔。すれ違うのは浮浪者や宿無し子ばかりで、この辺りでは自分が一番上等な人間にさえ思える。男はどこか安堵した。
 しかし自分もいずれはここの住民になるのだろうかと考えると、知らず知らずのうちにため息が漏れた。どのみちこの足を抱えて、家族もない身としては安定した暮らしなど望めない。
 自身をこんな境遇に貶めた悪魔への復讐心がさらに募るのを感じた。
 指定された路地で、道端に座り込んでいる老婆を発見した。
 男が立ち止まると、老婆はゆっくりと顔を上げる。
 顔は土気色で生気がまるで感じられない。瞳はどろりと濁っていて、もしかしたら目が見えていないのではないだろうか。
 男が気圧されていると、彼女は黙って手のひらを差し出した。ミイラのように干からびた手だった。男はポケットの中に押し込んでいたチラシを取り出し、老婆の手に押し付けた。

「…………」

 老婆は何も言わず、斜向かいの家の扉を指差した。
 扉の横には『FOR RENT』と書かれた板が打ち付けてある。窓ガラスはひびが入ったまま放置されているから、管理会社からも忘れ去られた空き家だろう。

「あそこに行けってのか……」

 そう尋ねながら振り返ると、老婆の姿はすでになかった。
 男は慌てて辺りを見回したが、路地には人影の一つも見当たらない。老婆は魔法のように姿を消してしまった。その事実が、いよいよ「これは本物だ」という確信を男に抱かせた。
 老婆が指し示した扉を開けて、埃っぽい空き家に踏み込むと、中は存外すっきりと片付いていた。
 空っぽの食器棚に、椅子とテーブルが一組。
 テーブルの上に何か置いてある。
 足を引きずりながら薄暗い室内を進むと、ティーカップだった。注がれた紅茶はまだ湯気を立てていて、傍らにはクッキーが盛られた皿が添えられている。

「ご足労いただき申し訳ありません」

 突然、間近で人の声がして、男は飛び上がるほど驚いた。
 部屋の隅に衝立が立っている。決して華美なものではないが、この空き家には不釣り合いなほど品のあるデザインで、どうやらつい最近持ち込まれたばかりのもののようだった。
 その裏に、誰かがいる。

「寒い中、大変だったでしょう。私からお伺いできればよかったのですが、仕事柄、大っぴらに外を出歩くわけにはいきませんのでご容赦ください」

 若い男の声だった。
 物腰は柔らかくとも、こちらにへりくだるような気配は微塵も感じられない。

「お詫びと言ってはなんですが、お茶を一杯サービスしましょう。よろしければ、どうぞ」
「あ、あんたが……」
「ええ。あなたがお考えの通りですよ」

 短く、簡潔な答えだった。

 本当にいたのか、というのが率直な感想だった。
 立ち寄った酒場で聞いた、眉唾ものの噂ではあった。おまけに『窓口』だと名乗る男は拍子抜けするほどの若造で、担がれているのではないかと疑心暗鬼になりながら、男は身の上を語ったのだ。
 ――犯罪相談役。
 衝立一枚隔てた向こう側に、このロンドンで起こる犯罪の半分に加担していると噂される大悪人がいるのだ。
 お茶を一杯サービス、と言うからには、あのチラシ配りの青年も彼の手下だったのだろうか? この路地にいる老婆に持ち物を何か一つ渡す、というのが先方の指定してきた接触方法だった。特に指定はなかったので千切れたボタンを渡すつもりでポケットに入れてきたのだが。
 男は椅子に腰掛けて、紅茶に手を伸ばした。
 毒かもしれない、という考えも頭の中にはあったが、そんな猜疑心は温かい紅茶を一口啜った途端に吹き飛んだ。男はすぐにクッキーにも手を伸ばした。
 小麦粉とバターの豊かな風味に頭の奥が痺れた。紅茶で流し込むと腹の底から体全体がじんわりと温まってくるようだ。あっという間に食べ終えてしまって、そういえば、甘いものを口にするのはずいぶん久しぶりのことだったと気が付いた。温かいお茶でもてなしてもらうことも。
 男は知らず知らずのうちに涙をこぼしていた。

「ずいぶんお辛い思いをなさったのですね」
「いや……俺は……」

 恥ずかしくなって弁解しようとすると、衝立の向こうの声はやんわりと遮った。

「私のもとに相談に来られる方は、一人の例外もなく、胸の内にわだかまりを抱えておられますよ。話してみてはもらえませんか?」
「俺は……俺はいいんだ。そりゃあ暮らしは楽じゃないさ。俺の足をこんなふうにしてこんな暮らしに追い込んだあいつらは憎い。だが、俺は逃げられた。何とか新しい仕事にもありついて食いつないでる。時々あの頃の夢を見ることもあるが、まぁ何とかやっていってる。許せないのは、今もあいつらがのうのうと暮らして、他の誰かを痛めつけてるってことだ……」

 胸のつかえが取れたように、口から言葉が流れ出た。
 口にして初めて、男は自分の腹の中に渦巻いていた怒りがどこに向いていたのかに気がついた。この未知の相手に対して、自分を良く見せようという考えは少しもなかった。つまらない虚栄心が溶けて、あとに残ったのは紛れもない本心だった。
 奴らの悪行を告発する。そして、今も虐げられている弱いものを救う。そのために自分はここに招かれたのだ。

「その悪魔の名前は?」

 どこまでも穏やかで、透き通った声だった。この声の前ではきっといかなる隠し事も通用しない。この衝立の向こうにいるのは天使でもあり、悪魔でもあった。
 男はいつの間にか、左膝を強く握りしめていた。ぎゅっと目を瞑ると、奴の姿がはっきりと脳裏に浮かんだ。冷たい床に這いつくばって許しを請う自分を嘲笑っている。
 男は小さく息を吸い込んで、その名を告げた。
「イーサン・セリグマン男爵――」





一 私の同居人

 私の同居人、シャーロック・ホームズは――。
 この書き出しに続くふさわしい文句を考えながら、私はベイカー街の下宿に帰ってきた。
 時刻はちょうど昼下がり。
 私の手の中には、ちょっとした偶然から手に入れた有名店のクッキー缶があった。ハドソン夫人も誘って、三人でお茶でも楽しもう。
 十七段の階段を登って、ドアを開いた。

「災難だったな、ジョン。サウス・ストリートの工事現場か」

 帰ってきた私を一目見るなり、ホームズは唇の片側を持ち上げて皮肉っぽく笑った。
 私は入り口のところで突っ立ったまま、『またか』という気持ちでため息をついた。もちろん、本気で不快な気分になったわけではない。
 私の同居人、シャーロック・ホームズにはよくあることであった。

「一応聞くけど、どうしてわかった?」
「払ったつもりだろうが、コートの裾に黒土が付いてるぞ。手のひらと顎の下も擦りむいてる。お前が真昼間から喧嘩してきたとは思えないから、大方、派手にすっ転びでもしたんだろう。『書店に顔を出してくる』つって出ていったお前が通ってきたであろうルートの中で、土がむき出しになってるのはサウス・ストリートの工事現場くらいだ。それはお前が、普段自分で買いもしないサウス・ストリートの店のクッキー缶を抱えてることからも明らかだ。人とぶつかってすっ転んで、相手がお詫びとして渡してきたってところだろ?」

 私は肩を竦めた。

「当たりだよ。飛び出してきた子どもをかわそうとしてバランスを崩して、補修工事中の路面で派手に転倒してしまった。真っ青になって駆けつけてきたその子の親が、この焼き菓子屋の主人だったわけだ」
「ははっ、怪我の功名じゃないか」
「こら! ハドソンさんも呼んでからだ!」

 缶を勝手に開けてクッキーを摘むホームズを制しながら、私は帽子とコートを脱いだ。
 その時、階下で呼び鈴が鳴った。
 ハドソン夫人が誰何する間もなく勢いよく扉が開いて、「お邪魔します!」という声とともにパタパタと元気の良い足音が階段を駆け上がってくる。我らが名探偵でなくとも、誰が訪ねてきたのかは明白だった。

「よう、ホームズ!」

 予想通り。
 飛び込んできたのは、ウィギンズ少年だった。後ろには肩をいからせるハドソン夫人の姿も見える。
 ホームズが『ベイカー街非正規隊』と称する情報通の宿なし子たちの中でも、大人顔負けの利発さと機転を備えたウィギンズ少年は隊長的存在だ。その彼が意気揚々と部屋に飛び込んできたのだから、私もホームズも、思わず奇怪な事件の報せを期待してしまう。

「よう。その様子じゃ、とっておきのネタが入ったみたいだな」
「ああ、お待ちかねの貴族殺しだ!」

 ホームズの目がぎらりと光った。
 ウィギンズ少年は小さい手のひらをいっぱいに広げてホームズの前にずいと突き出した。
 ホームズはよれた背広のポケットを探ったが、出てきたのはマッチの箱とくしゃくしゃの紙切れ数枚だけだった。焦れた彼は椅子から立ち上がる手間すら惜しんで、私に向かって叫んだ。

「ジョン!」
「えっ僕が払うのか?」
「後で返す。いいから早く!」

 私はしぶしぶ、自分の財布から数枚のコインを取り出した。ウィギンズ少年は「毎度!」と弾んだ声を上げると、つい数時間前に起こったばかりだと言うその『貴族殺し』について語りはじめた。

「殺されたのはイーサン・セリグマン男爵。刃物で喉をかっ切られた上に腹や胸を何か所も刺されてたって話だ。犯人は男爵に相当恨みを持ってたんだろうな。昼飯に男爵を呼びに行った執事が第一発見者だ。現場は血まみれで、男爵夫人は卒倒しちまったってよ」
「シャーロック、こんな小さな子に何てこと調べさせてるの……!」
「真っ昼間に夫人や使用人たちもいる屋敷の中で殺されたってのか? 内部犯か?」

 ハドソン夫人の非難の声を無視して、シャーロックが尋ねた。ウィギンズ少年は少しばかり顔をしかめながら答えた。

「……多分。男爵が殺されてるのが見つかってから、使用人が一人、行方知れずになってる」
「何だよ、犯人もう分かってんじゃねぇか」

 シャーロックがため息とともに紫煙を天井に向かって吐き出した。

「貴族殺しが起こったら何でもいいから情報持ってこいって言ったのはあんただろ! 新聞社より早く聞きつけてきてやったのに!」
「別に金返せなんて言ってねぇだろ。ご苦労さん」

 我らが名探偵はもはや完全に興味をなくした様子で、そばにあった論文の束をめくり始めた。
 私は悔しがるウィギンズ少年に、例の缶入りクッキーをすすめた。すると彼はころりと機嫌を直して、クッキーを二、三枚まとめて口の中に放り込む。ハドソン夫人は苦笑しながらも、戸棚からカップをひとつ取り出して彼のために紅茶を注いでくれた。

「ウィギンズくん、こんな男の言うこと聞いてあんまり危ないことに首突っ込んじゃダメよ。それにしても、犯人が逃げたままなんて怖いわね。早くレストレード警部たちに捕まえてもらわないと……」

 その時、もう一度階下で呼び鈴が鳴った。
 噂をすれば何とやら、やって来たのはレストレード警部だった。応対に出たハドソン夫人も驚いた様子だった。

「ホームズ、お待ちかねの『貴族殺し』だ」

 警部はやや皮肉っぽい含みを持たせながらそう切り出した。けれどホームズは視線を論文に落としたままだ。

「知ってる。セリグマン男爵だろ?」
「何故それを?」
「名探偵には凄腕の情報屋がついてるんだぜ!」

 ウィギンズ少年が得意満面で口を挟んだ。
 私は、彼から聞いた事件の話をレストレード警部に説明した。

「なるほど。実は私がホームズに相談したかったのも、同じ事件なのです。ワトソン先生」
「でも、犯人ははっきりしているのでしょう?」
「ええ。フレドリック・パーシーという青年が、男爵の遺体が発見されて以降行方を眩ませています。奴が犯人であることには疑いの余地はないでしょう」
「それでは何故ここに? この広いロンドンで逃亡犯を探し出すなら、あなた方スコットランド・ヤードの組織力の見せどころでしょう」
「それが、少々面倒なことになっていまして……」

 レストレード警部は頬を掻きながら、ホームズの方を横目でちらりと伺った。彼が変わらず煙草をふかしながら論文を読んでいるので、警部は幾分むっとした様子で、私に向かって事件のあらましを説明しはじめた。

「男爵の遺体が発見されたのは今日の午後十二時を少し回ったところでした。昼食の時間になっても男爵が書斎から出てこなかったので、執事が呼びに行ったそうです。書斎は一階にあり、ドアの鍵は掛かっていなかった。また、中庭に面した窓にはカーテンが引かれていましたが、窓自体は開いていました」
「屋敷内からも中庭からも出入りが可能だったということですね」

 レストレード警部はひとつ頷いて、続けた。

「遺体は、書斎の机のそばに倒れていました。机の上にあった陶器製のランプが落ちて割れ、本や書類が床に散乱していて、殺される前に犯人と争ったものと思われます」
「犯人……その、行方不明の使用人と?」
「おそらく。つい一週間ほど前に下男として雇われたばかりの青年です。詳しいことは現在調査中ですが、書斎に置いてあった現金や切手類がなくなっています。おそらく、書斎に忍び込んで盗みを働いていたところを男爵に見つかり、揉み合いになった末に殺害に及んだのではないかと……」
「取っ組み合いになった拍子にうっかり殺しちまったんなら、普通はさっさとずらかるだろ。こいつからは、男爵は腹や胸を何か所も刺されてたって聞いたが?」

 いつの間にか論文の束から顔を上げて話を聞いていたホームズが口を挟んだ。もっともな指摘に、レストレード警部は「ああ、そこなんだ」と困り果てた表情で頷いた。

「あの現場を見れば、お前でなくてもはっきりと分かるだろう。殺害現場はおそらく書斎ではない。誰かが男爵の遺体を移動させている」
「どういうことだ?」
「……書斎に残された血痕が少なすぎるんだ。致命傷は間違いなく首の傷だが、本棚にも壁紙にも血が飛んでいない。おそらく別の場所で喉を裂かれて殺害されてから、書斎に運ばれたのではないかと推測される」
「嘘だ! 現場は血の海だったんだろ?」
 ウィギンズ少年が声を上げると、警部は大きくため息をついた。
「君みたいな子どもが殺人現場の周りを嗅ぎ回っていたら、俺もそう言うだろうな」

 彼は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐにその意味を理解して顔を真っ赤にした。
 要はただ脅かされただけなのだろう。殺人現場は血みどろで恐ろしいことになっているから、こんなところにいないで早くおうちに帰りなさい、と。

「ちくしょう……あの野郎、馬鹿にしやがって」
「その話は誰から聞いた?」

「知らない。野次馬の中にいた奴だよ。警官たちが話してるのを聞いたって言ってたのに、とんでもない嘘つき野郎だ」
 ウィギンズ少年は悔しそうにそう吐き捨てて紅茶を煽った。缶の中のクッキーはいつの間にかほとんどなくなってしまっていたが、私もハドソン夫人も手を伸ばす気にはなれなかった。
 ホームズが重ねて問うた。

「そいつは他に何か言ってたか?」
「えーと、セリグマン男爵の屋敷は、もともと使用人がしょっちゅう入れ替わってたらしい。男爵が威張って使用人をいじめるから、恨みを買って殺されたんだろうって……」
「それは事実か、レストレード?」

 ホームズに問われて、レストレード警部は考え込むように自分の顎を撫でた。

「いや、確認は取れていない。……だが確かに、使用人の入れ替わりは激しかったんだろうな。パーシーの名前を覚えていなかったメイドもいたくらいだ」
「……………」

 ホームズは、何かを考えるようにしばらくの間黙り込んでいた。彼が再び口を開くのを、部屋に集まった全員がどことなく緊張しながら待っていた。

「……話を戻すか。つまりお前は、俺に本当の殺害現場を特定してほしいんだな?」
「ああ、その通りだ。何しろ男爵夫人も第一発見者の執事も、死体が移動されたことを認めないんだ」
「認めない?」
「ああ。通報を受けたヤードが駆けつけるまで誰も遺体に手を触れていないと言い張っている。使用人たちの証言もそれを裏付けるようなものばかり……。十二時少し前に何かが割れるような物音を聞いたが、呼び鈴が鳴らなかったので誰も書斎に近づいていないと。屋敷内の捜査も制限された挙げ句、夫人が『私たちを疑っているのか』と逆上する始末だ」
「パーシーがトンズラする前にわざわざ遺体を書斎へ運んだとは考えにくい。奴が男爵を殺して逃げた後、屋敷に残ったうちの誰かがやったに違いないが、誰もそれを認めないし捜査を邪魔されて特定する材料が見つからない、と。それで打つ手が無くなってここに来たってわけだ」
「面目ない」

 レストレード警部はばりばりと頭をかいた。
 状況からしてパーシーが犯人である可能性は極めて高いし、相手が貴族である以上、強引に家宅捜索をするわけにもいかないのだろう。
 私は自分なりに考えをまとめてから、口を開いた。

「今の話を聞いた限りでは……何だか男爵夫人が怪しいような気がしますね。彼女が男爵を殺してしまい、それを隠蔽するために執事が現場を偽装し、使用人たちも口裏を合わせている、という線はどうでしょう。逆に、夫人以外の誰かが犯人だったなら、庇う理由も見当たりません」
「まぁ……、いやな話ね」
「もし本当に男爵夫人が犯人なら、行方不明のパーシーは? 罪をなすりつけるためにそいつも殺されちゃったとか?」

 ウィギンズ少年の物騒な推測に、ハドソン夫人はとうとうホームズを睨みつけた。まだ十代半ばの少年からこんな発想が飛び出すのは間違いなく彼の影響だからだ。
 当のホームズは彼女からの圧力などどこ吹く風と言わんばかりの様子で、椅子の上に両膝を立てて座り何やらぶつぶつと呟いている。やがて瞑想状態を脱した彼の瞳には、生き生きとした輝きがあった。

「面白れぇ。やってやるよ」
「できるのか?」
「お前の見立てが正しけりゃ、屋敷の人間のうちの誰かが――下手すりゃ全員が、確実に嘘をついてるってことだろ。突破口は必ずあるさ」
「相手は貴族だぞ。あまり派手にやると……」
「わかってるって。行くぞ、ジョン」

 ホームズは椅子から勢いよく立ち上がると、肩にジャケットを引っ掛けて颯爽と出ていってしまった。私とレストレード警部は慌てて彼のあとを追った。
 ウィギンズ少年から話を聞いた段階では実に単純な事件に思われたが、裏には複雑な謎が潜んでいそうだ。
 これはきっと、彼を主人公とした小説の題材にふさわしい事件になるのではないだろうか。そんな予感を抱きながら、私は表で待っていたスコットランド・ヤードの馬車に乗り込んだ。





二 セリグマン男爵邸

私たちが馬車に揺られてセリグマン男爵邸に到着したのは、もう日も傾きかけた時間だった。
 街中から比較的近い、当世風の瀟洒な屋敷だった。意匠を凝らした金細工の門を潜り、屋敷前の車止めで馬車を降りると、立っていた警官がびしりと敬礼をした。
 私とホームズは、レストレード警部の後に続いて真っ直ぐに犯行現場――もとい、遺体発見現場――である書斎へと通された。
 一歩足を踏み込んで、私は思わず顔をしかめた。
 ヤードの現場検証がちょうど一段落したところらしく、男爵の遺体は部屋の隅で布を被せられていた。しかし、遺体がどこに横たわっていたのかは絨毯に染み込んだ血のおかげで一目瞭然だ。
 元軍医として、私は一般市民よりはるかに多くの遺体を見てきた。けれどそれは病院内や戦場に限った話であり、落ち着いた雰囲気の書斎に広がる血痕というのはあまり気持ちのいいものではない。

「遺体が発見されたのはちょうどその辺り……デスクの影に、うつ伏せの状態で倒れていた」

 レストレード警部の説明を聞きながら、ホームズは迷いのない足取りでデスクの方へ向かった。彼の革靴のつま先が、絨毯の血をたっぷり含んだ部分を踏んづけたが気にする様子もない。
 床には血痕の他に、陶器の破片が散らばっている。犯人と男爵が揉み合った際に落ちて割れたというランプだろう。破片と残った台座から見ても、私にはとても手が出せないような値打ちものだったことが見て取れた。
 ホームズは破片の一つをつまみ上げた。

「ランプが置いてあったのは……ここか」

 デスクの上に、よく見ると丸い跡が残っていた。
 レストレード警部が頷いた。

「そうだ。それから、デスクの引き出しから紙幣や切手、腕時計……とにかく換金できそうなものが根こそぎがなくなっている」
「パーシーが盗んでいったのですか?」
「おそらく」

 ホームズは次に窓辺に歩み寄った。

「遺体が見つかった時、この窓は開いてたんだな」
「ああ。だがカーテンは引かれていた」

 シャッと音を立ててカーテンを開けると、外には中庭が広がっていた。四方を屋敷の白い壁に囲まれてはいるが、木々に遮られて見通しは意外と良くない。
 こっそりと書斎に侵入するなら、廊下を通ってドアから入るより安全なルートかもしれなかった。
 その発見を伝えようと隣を見やると、ホームズは私とは対照的に、窓のすぐ下の地面を注視していた。その様子に、レストレード警部がうんうんと頷く。

「お前も気づいたか、ホームズ」
「ああ。誰か花壇に入ったな」

 下を見ると、この窓の真下だけ、花壇の土が踏み荒らされていた。植えられたスイセンの茎も数本折れている。

「足跡の照合は?」
「やってみてはいるが、難しいだろうな。見ての通り、足跡をつけてしまったことに気がついてその場で足踏みしたんだろう。すっかり潰されてしまって誰の靴か分からない。あとは花壇を跨いで、芝生の上を歩いて行ったようだ」
「狡猾な奴ですね……」

 私がつぶやくと、ホームズがちらりとこちらを見た。

「そいつは誰のことだ、ジョン?」
「え? 誰って……」

 パーシーではないのか? そう答えようとして、私は「あっ」と声を上げた。

「そうか……屋敷から逃げ出したパーシーには足跡を偽装する必要もないのか」
「その通りだ」
「書斎から脱出するときではなく、書斎に入り込む前に付けた足跡では?」
「これだけ花壇を踏み荒らせば、必ず靴に土がつく。だが窓枠にも絨毯にも土の跡はない。したがって、これが書斎に入る前に付けられた跡であることはありえない」

 ホームズの理論は明解だった。

「つまりこいつは、男爵とパーシー以外の第三者がこの書斎からこっそり出ていったことを示す動かぬ証拠ってわけだ」

 彼は両手をすり合わせながら、うきうきとした様子を隠そうともせず振り返った。

「さて、いよいよ死体を見せてもらおうか。レストレード」

 セリグマン男爵は、いかめしい鷲鼻をした、五十歳そこそこの紳士であった。
 レストレード警部が遺体に掛けられた布をめくると、真っ先に目に飛び込んできたのは赤黒い血の色だった。警部やウィギンズ少年の話通り、男爵は首筋を裂かれ、胸から腹部にかけては無数の刺し傷があった。有り体に言えば『めった刺し』だ。

「どうだ、ジョン?」

 ホームズの声に、私は自分の仕事を思いだした。

「ああ……確かに、首の傷が致命傷だろう。頸動脈を綺麗に切り裂かれている。腹や胸の刺し傷は、傷口の状態からして、おそらくは死後につけられたものだ」
「監察医も同じ見解です」

 レストレード警部が頷いた。

「遺体のそばに、包丁が落ちていました。この屋敷の調理場から持ち出されたもので、これが凶器で間違いないかと」
 私は凄惨な遺体から顔を上げて、室内を見回した。
「ほんとうに、壁に血痕が一つもない……」
「ああ。誰だか知らねぇが、まったく雑な偽装だ」

 ホームズはため息をついた。
 これだけすっぱりと首を裂かれれば、必ず血が噴き出す。それなのに、部屋中探してみても壁紙や本棚にはしみ一つ見当たらなかった。
 被害者に布を被せれば、とも考えたが、布越しに頸動脈の場所を探り当てて正確に切り裂くなんて芸当は我々医者にも難しそうだ。

「ジョン、これは生前についた傷だな?」

 ホームズが男爵の右手を持ち上げながら、私に尋ねた。確かに、手の甲に小さな引っかき傷がある。

「そうだな。血が固まりかけているから、生前に負った傷のはずだ。もっとも、事件に関係があるかどうかは……」

 私は最後まで話すことができなかった。
 書斎のドアがノックの直後に勢いよく開いて、大柄な初老の男性が飛び込んで来たからだ。

「警部! 勝手なことをされては困ります!」

 男は部屋に入るなりそう声を上げて、男爵の遺体を検分する私たちを睨みつけた。

「誰ですか、彼らは? 部外者を屋敷に入れるなんて……」
「失礼しました。彼らは我々ヤードの捜査協力者で、私立探偵をしている者です」
「探偵?」
「ええ、独自の情報網を持っていまして、人探しにかけてはこのロンドンで右に出る者はいないほどです。パーシーの足取りを追うためには彼らの協力が不可欠と考えて、ここに呼んだのです。……こちら、執事のニコルソンさん」

 最後の一言は私とホームズに向けたものだった。
 なるほど、レストレード警部は『人探し専門の私立探偵』という名目でホームズを呼んだらしかった。話を合わせてくれ、と言わんばかりに警部からウインクが送られたが、ホームズはまるで気がついていない。

「あんたが第一発見者か?」

 遺体から目を話すことなく、ホームズがぞんざいな口調で尋ねた。

「男爵の姿を最後に見たのは何時ごろだ?」
「それはもう刑事さん方に散々話しましたよ」
「俺はまだ聞いてない」
「……今朝の十時過ぎです。ここで書き物をなさっていた旦那様にお茶をお出ししました」
「そいつは変だ。ティーセットはどこに消えた?」

 ホームズは机の上を指し示した。ティーセットはおろか、書類の一枚も広げられていない。
 執事に疑いの目を向けようとする私たちに、レストレード警部が慌てて口を挟んだ。

「その一時間後にメイドが書斎に入ってティーセットを下げている。彼女が、生きている男爵の姿を最後に見た人間だ」
「ほー、じゃあ、犯行時刻がだいぶ絞られるな。そのメイドと話せるか?」

 ホームズはまるで自分の部下にでも話しかけるようなぞんざいな口調で執事に問うた。人に仕えることを生業とする彼も、さすがに初対面の男にこうも気安い態度で接せられるのは我慢ならないようだった。

「一体何なんですか、あんたたちは」
「だから探偵だって」
「人探し専門の探偵なら、これ以上ここに用もないでしょう。さっさとパーシーの奴を探しにいったらどうなんです?」
「ああ、もう結構。参考になったぜ」

 ホームズは執事の居丈高な態度もどこ吹く風といった様子で応じた。

「じゃあ、『捜索』の糸口を得るために、奥様や使用人の皆さんからお話を聞かせてもらおうか。もちろんあんたにも」

 私達は半ば書斎を追い出される形で、隣の客間に追いやられた。





三 男爵夫人と執事の証言

 ソファに腰かけてしばらくしないうちに、メイドが一人、お茶を持ってきてくれた。
 ごく大人しそうな若いお嬢さんで、椅子に膝を立てて座り何事かぶつぶつと呟いているホームズに怯えているようだった。そのおどおどとした態度も、仕えている屋敷の主人が殺されたばかりなのだから無理からぬ話だ。

「どうもありがとう」

 私はなるべく丁寧にお礼を言った。
 メイドは小さく頭を下げた。そのまま私と目を合わせぬように引き下がろうとして、「あ」と小さく声を上げた。

「あの、お怪我を……」
「あ、大丈夫ですよ。今朝少し転んでしまって」

 彼女は私が顎をすりむいているのに気が付いたらしかった。

「血がにじんでいますよ。何か、消毒とか……」
「お気遣いありがとうございます。ですが、心配無用ですよ。私はこれでも医者の端くれでね。処置は済んでいますので、あとは自然治癒あるのみです」

 冗談めかして笑いかけると、彼女はどう反応していいのかわからないといった顔で曖昧に頷いた。よく気の付く親切な女性であったが、どうやら少し人見知りをするタイプに見えたので、そこで会話を切り上げるつもりだった。私は。

「なぁ、あんたはパーシーのこと知ってるのか?」

 唐突に立ち上がったホームズが、メイドの肩を叩いた。
 彼女は飛び上がるほど驚いて、持っていた盆を盾のように掲げた。

「シャーロック!」私は思わず声を上げた。
「何やってるんだ、急に。初対面の女性に馴れ馴れしすぎるぞ!」
「ああ、悪い悪い。で、パーシーはどんな奴だった?」
「はい?」
「同僚なんだから、話したことくらいあるだろ。なぁ、どんな奴だった? あ、もしかして、あんたが最後に書斎に入ったメイドか?」

 ホームズは悪びれもせず彼女に質問を浴びせかけた。聞いている事自体は何もおかしくはないが、手順を完璧に間違えている。私は彼のジャケットを掴んで引っ張った。

「いいから、一回座れ!」
「何の騒ぎです?」

 部屋のドアがガチャリと開いて、先ほどの執事が入ってきた。
 背後にはレストレード警部と、年配の婦人の姿も見える。大きな耳飾りをつけた彼女が、おそらくセリグマン男爵夫人なのだろう。痩せた体に目だけが妙に鋭く、その表情は不安そうにも苛立たしげにも見える。
 メイドが慌ててホームズと距離を取って顔を伏せた。

「用が済んだなら下がりなさい、リネット」

 執事の言葉に、メイドはこくこくと頷いてさっと部屋を出ていった。
 老婦人はやはり、セリグマン男爵夫人であった。

「こちら、私立探偵をしている、我々の協力者です」

 レストレード警部は私たちのことをごく簡単に紹介した。幸い、男爵夫人は興味なさそうに首を傾げて見せただけで、私とホームズが名乗っても大した反応を見せなかった。

「あなた方があの恩知らずの人殺しを見つけてくださるんですの?」
「ええ、もちろん。この度はご愁傷様です」

 ホームズが黙っているので、私はなるべく愛想よく挨拶をした。

「早速お話を伺いたいのですが」
「ヤードだろうと探偵だろうと構いませんから、とにかく早くあの男を捕まえてくださいな。ああ、かわいそうなヘンリー!」

 セリグマン夫人は扇で口元を覆いながら嘆いた。
 私はざっと記憶をひっくり返してみたが、たしか殺された男爵はヘンリーなんていう名前ではなかった。

「失礼ですが、ヘンリーさんというのは?」
「息子です。まだ学生ですの。エディンバラの大学に通っておりまして・・・・・・先ほどニコルソンに言って電報を打たせましたわ。今頃列車に飛び乗っている頃でしょうけど、あの子が今どんな気持ちでいるのか想像しただけで、胸が張り裂けそうで……」
「それは、ご愁傷様です……」

 私は同じ言葉を繰り返した。
 ここに来る前の私は男爵夫人をなんとなく怪しんでいたが、いざ実物に相対してみるとこの小柄な老婦人に犯行は難しい気がしてきた。床に横たわった状態だったから定かではないが男爵の身長は私と変わらないくらいだったように思う。
 私はホームズの方をちらりと盗み見た。
 彼は夫人をじろじろと値踏みするように観察している。今のところ会話をする気がないのは明らかで、彼女の注意を引く意味でも、私が場を繋ぐ必要があるようだった。
 会話の取っ掛かりとして、私は夫人が先ほどから指先を何度もこすり合わせる仕草をしているのに目をとめた。

「失礼ですが、神経痛を患っていらっしゃるのですね」
「え。ええ、よくおわかりになりましたね」
「観察するのが私の仕事ですから」

 レストレード警部の機転を無駄にしないためにも、私はあえて医者であることをぼかして答えた。我が親友の台詞を真似て少々格好をつけてみると、夫人の態度が少しばかり和らいだ。

「最近どうもひどくって・・・・・・。今日はお天気もいいからマシな方ですけど」
「いい薬茶がありますので、後でお渡ししましょう。私も古傷が痛むときに飲むのですが、気持ちが落ちついて痛みが和らぎますよ」
「まあ、それはご親切に」
「ところで、奥様がパーシーについてご存じのことを教えていただけないでしょうか。彼の行方を追うために、少しでも手がかりがほしいのです」
「手がかり、と言われましても・・・・・・使用人の差配はすべてニコルソンに任せていますの。長く仕えている者ならまだしも、あんな無教養な労働者階級のこと、知ってどうするんですの?」

 なぜそんなことを聞くのか、と言いたげな口ぶりに私は少しばかりの戸惑いを覚えた。

「でも、同じ屋根の下で一緒に暮らしている人間でしょう?」
「まあ、なんてことおっしゃるの。一緒に暮らしているだなんて・・・・・・私どもは彼らに仕事を与えて屋根を貸してやっているだけですよ、ワトソンさん!」

 夫人は私を追い払うように扇を振った。私がこの老婦人にとってとんでもなく無礼で非常識な発言をしたかのように。彼女の目には純粋な不快感と侮蔑しか浮かんでいなくて、私は少し途方に暮れた。この国で暮らしていると度々ぶつかる壁だった。

「お気持ちはお察ししますよ、奥様。彼らの英語は汚くて、仕事じゃなければ話をするのもお断りしたいくらいだ」

 ホームズが口を開いた。普段のコックニーからは想像もつかないほど美しいクイーンズ・イングリッシュだった。

「この部屋に来る途中、廊下の絨毯に大きなシミがありましたね。スープか何かをこぼしたのでしょうか?」
「ええ、のろまなメイドがおりましてね」
「それはお気の毒に・・・・・・」

 ホームズは慇懃に手のひらを擦り合わせた。

「それでは、ニコルソンさんにお尋ねしましょうか。パーシーはどういった経緯でこの屋敷で働くことになったんです?」

 執事が、ホームズが先ほどとは打って変わって非常に丁寧な言葉遣いをするのに面食らっているのが感じ取れた。だが女主人の手前、そのような態度はおくびにも出さず答えた。

「リージェントの職業斡旋所からの紹介です」

 後ろでレストレード警部が小さく頷くのが見えた。すでに手は回しているのだろう。

「健康面に問題もなく、よその屋敷にしばらく勤めていたので若くとも経験があるという話だったのですが……」
「少々手癖の悪い青年だった、というわけですか」
「ええ、我々は何も聞かされていませんでしたがね!」

 執事は苛立たしげに首を振った。

「以前に勤めていたという屋敷はどちらに?」
「さあ、私どももそこまでは……出身はサセックスかどこか、南の方だとは聞いていましたが。それは今、警察の方で調査してくださっているんでしょう?」
「ええ、もちろん」

 レストレード警部が請け負った。
 であれば、遅かれ早かれパーシーがいざというときに頼りそうな逃亡先――かつての同僚や、地元の家族――が見つかるだろう。
 ホームズは少し考えたのち、椅子からすっくと立ち上がった。

「貴重なお話をありがとうございました。それではさっそく仕事に取り掛かりたいと思いますので、これで失礼します」

 そう言い残して、彼はさっさと玄関に向かって歩き始めた。
 気の毒なレストレード警部は顎が外れそうなほどあんぐりと口を開けていたが、すぐに気を取り直してホームズの後を追った。男爵夫人と執事に会釈して、私も二人の後に続いた。





四 ホームズの宿題

「ホームズ! お前、ここまで来ておいて興味が失せたなんて言わないよな!?」

 屋敷の前で待っていた辻馬車に乗り込もうとするホームズに、警部は必死の形相で詰め寄った。

「バカ、そんな無責任なことしねぇよ」
「だったら……」
「いいか、レストレード。宿題を出す。一つは、明日の昼までこの屋敷に警官を配置しておくこと。殺人事件が起こってその犯人が逃亡中となりゃ、そう難しい話でもないだろ。もう一つは、あのランプの破片を拾い集めて元通りに繋ぎなおすことだ」
「一つ目はともかく……二つ目は何のために?」
「いいから。それさえやってくれれば後はこっちで何とかしてやるよ。夫人を刺激しすぎるなよ。あ、パーシーの身元も、何かわかったら報告してくれ」

 彼はそれだけ言うと馬車の座席の奥に詰めて、私が座るためのスペースを空けた。レストレード警部は戸惑いながら引き下がり、私もまた戸惑いながら辻馬車に乗り込んだ。
 御者が馬に鞭をくれて、馬車がゆっくりと走り出す。
 辺りはすでに夕闇に包まれ始めていた。屋敷と警部を後ろに見送りながら、私はがたがたと揺れる座席に身を預けた。

「……シャーロック、よかったのか?」
「何が?」
「何がって……こんなにあっさり出てきてしまったことだよ。もっと詳細な調査や聞き込みをしなくてよかったのか? まだ使用人たちにもちっとも話を聞いていないじゃないか」
「見るべきもんはだいたい見たさ」
「でも、レストレード警部からの頼み事も果たせていないじゃないか。男爵が本当に殺された場所を特定するっていう……」
「アタリはつけた。が、あの場じゃ難しそうだったからな」

 ホームズはいつも通りの自信ありげな態度だった。

「なぁジョン、煙草吸っていいか?」
「……勝手にしろ」

 私はため息をついて、馬車のガラス窓を開けた。
 ホームズも私に倣って反対側の窓を開けると、マッチを擦って煙草に火をつけた。彼が愛用しているきつい銘柄だ。窓を開けているからといって煙がすべて外へ流れ出てくれるはずもなく、車内はたちまち紫煙で煙たくなった。しかし勝手にしろと言った手前、今さら吸うのをやめろとは言えない。私は気を逸らせるためにも、この奇妙な事件のことを頭の中で反芻した。
 書斎に横たわる男爵の死体。綺麗なままの壁紙に、粉々に砕けたランプ。花壇に残された痕跡。わが子の心配をする男爵夫人の言葉と、軽蔑に満ちた表情……。

「……パーシーは、何のために男爵を殺したのだろう」
「気になるか?」

 独り言のつもりで漏らした呟きに、思いがけずホームズが反応した。

「当然気になるさ。パーシーの動機によっては、事件の性質が全く変わってくるだろう。あんな風に遺体をめった刺しにしていたら『盗みを働いていたところを見つかって、揉み合ううちにうっかり殺してしまった』では、もう説明がつかないじゃないか」
「そうだな」
「それに、書斎の壁に血痕が残っていなかった件についてもだ。遺体を移動させたにしろ、何らかの偽装を行ったにしろ、どうしてそのことを男爵夫人と執事に尋ねなかった?」
「あいつらは確実に何か知ってるだろう。でも、だからって直接聞けばいいってもんじゃねぇよ」
「じゃあ誰に聞くんだ?」

 しかし、ホームズはまたしても私の質問には答えなかった。

「その薬茶ってのは、すぐに用意できるのか?」
「はぁ?」

 脈絡のない質問に思わす声を上げても、彼は窓枠に肘をついたままこちらを見ようともしない。私の質問に答える気はないし考えのすべてを話すつもりはない、という意思表示だろう。
 その勝手気ままな態度に私はいくらかの不満を覚えたが、こうなってしまった彼に話しかけるのは得策ではない。私と彼との付き合いはまだそう長くなかったが、『謎』に取り組んでいるときの彼の取り扱いは心得ているつもりだ。
 私たちを乗せた馬車が二二一Bに到着しても、ホームズは黙ったままだった。
 彼は夕食の後、無言で暖炉の前に座っていた。
 微動だにしないホームズの顔が赤々とした炎に照らされて、彫刻のような陰影を描いている。眉間の皺は彫り込まれたように深く、苦悩しているようにも見えたが、瞳はらんらんと輝いている。
 私は彼の邪魔をしないように自分の書き物机に向かっていたが、何も手に付かず、結局はただ座っていただけだった。

「乗りかかった船だ。最後までやるさ」

 時計の鐘が深夜十二時を打つ頃、ホームズがぽつりと呟いた。
 その晩はそれきりだった。

初出:Pixiv 2023.02.19

消えたひと欠片 後編
 『悪徳貴族を成敗してその謎をホームズに解かせる』話。

五 早朝の来訪者

 翌朝、私はいつもより少し早い時間にベッドから這い出した。
 体が重く、どこかだるい。
 重厚な雰囲気の書斎で物言わぬ姿になっていたセリグマン男爵が、奇怪な夢に形を変えて私の眠りを脅かしたのだ。気怠さを振り払って何とか身支度をし、共用スペースのティーテーブルについた。
 私の同居人、シャーロック・ホームズは、すでにいつものよれたスーツに身を包んで、ハドソン夫人が入れてくれたであろうコーヒーを飲んでいた。事件を抱えているときの彼は、普段のものぐさな彼とは打って変わって活動的になる。しかし、添えられたトーストやゆで卵に手をつける気配はない。砂糖たっぷりのコーヒーが注がれたカップを傾けながら、彼の心は思考の海をさまよっているようだった。

「おはよう、シャーロック」
「おう」

 私が挨拶しても、彼は短くそう答えただけだった。
 昨日の事件について切り出す前に、階下で呼び鈴が鳴った。

「時間通り。勤め人ってのは立派なもんだな」

 やって来たのは、やはりレストレード警部だった。
 私たちが帰ったあとも徹夜で捜査に打ち込んでいたのだろう。スーツもネクタイも昨日と同じものだったし、口の周りには無精ひげが見られた。それでも彼にくたびれたような様子はなく、目は鋭く輝いている。
 テーブルに私たちの分のコーヒーと軽食を並べるハドソン夫人に軽く頭を下げて、警部はきびきびとして口調で切り出した。

「現時点での調査結果を報告する」
「ああ、頼む」
「まずは、事件後のフレドリック・パーシーの足取りだ。昨日の昼十二時頃――男爵が殺された直後に、奴が裏口から出て行ったのを庭師の爺さんが目撃している。一番若くて新入りのパーシーが使い走りに出されることは多かったらしいから、特に気に留めなかったそうだ。大きな持ち物もなく、手ぶらだった。その後サウス・ストリート方面に向かうパーシーらしき人物を見たとの情報もあったが……やや小柄な以外は取り立てて特徴のない男だ。雇われたばかりで近所の人間もまだ顔をろくに覚えていなかったし、聞き込みでの成果は今のところない」

 警部の話を聞きながら、私は少し背筋が寒くなった。昨日、ちょうど私がサウス・ストリートの工事現場で転んでいたとき、心配げにこちらを振り返る通行人たちの中に殺人犯が混ざっていたかもしれなかったわけだ。

「次にパーシーの身元だ。ホーシャム出身の二十歳。職業斡旋所の紹介でセリグマン男爵家の下男として雇われた、という話は昨日執事からも聞いた通りだが……以前の職場に問い合わせてみても、『そんな人間が在籍していた記録はない』という回答だった。今、部下たちに追加の調査をさせてはいるが……」
「名前も経歴もでたらめか」
「おそらく。奴の友人だとか、知り合いだという人間がまだ一人も見つからない。男爵家に住み込みで働き始める前にどこに住んでいたのかもわからない。奴が雇われたのはたった一週間前だというのに、街のどこにも奴の痕跡が残っていない!」

 レストレード警部はお手上げだ、という顔でため息をついた。
 私は言葉を失くした。そんな人間がこのロンドンに存在するのか?
 これだけ大勢の人間の行きかう街で、誰の記憶にも、何の記録にも残らず生活をするのはほぼ不可能と言っていいだろう。私立探偵として、人々よりも一段高い視点から世間を眺める生活を送っているホームズでさえ、私とともに街を歩き、たまには店屋で買い物をし、滞りがちながらもハドソン夫人に家賃を支払っているのだ。
 真っ先に思い浮かべたのは、パーシーが街の裏側とも呼ぶべき場所――例えばホワイトチャペルのような浮浪者が溢れかえる裏通り――からやって来た人間である可能性だ。レストレード警部は私の考えに、ううんと唸った。

「どうでしょう。他の使用人たちの話では、パーシーは読み書きもできて、物静かで勤勉な青年だったようです」
「しかし、彼は実際に書斎に忍び込んで金品を盗んでいたわけでしょう」
「俺なら、真昼間に主人の書斎に忍び込んだりしないがね」

 ホームズが口を挟んだ。

「雇われて一週間じゃ、まだ屋敷の人間たちの行動パターンも掴めてなかったはずだ。仮に見つからなかったとしても、外部から侵入された形跡もなく屋敷内で金目のものが消えたとなりゃ、真っ先に疑われるのはまず間違いなく新入りの使用人。そんな状況で盗みを働くならよほどの馬鹿だが……」
「奴はそう馬鹿ではなかった」とレストレード警部が引き継いだ。「何ともちぐはぐだ。これだけ派手に場当たり的な殺人を犯して逃亡したにも関わらず、いざ追跡しようとすると足跡がふっつりと消えてしまった」

 その言葉に、私の脳裏にひらめくものがあった。

「そうか、やはりパーシーには共犯がいたんだ!」
「共犯?」
「あのニコルソンという執事だよ、シャーロック! 使用人の採用は彼に一任されていたんだから、彼が経歴をでっちあげてパーシーを屋敷に引き入れたのなら説明がつくだろう」
「確かに!」

 レストレード警部が大きく頷いてくれたので、私はますます調子づいた。

「パーシーは執事の協力を得て盗みを働いたが、偶然男爵に現場を抑えられ、彼を殺してしまった。現場の不自然な状況も、屋敷に残った執事が何らかの目的で工作を行ったのなら一応の筋は通る」
「何らかの目的ってなんだよ?」

 ホームズが訊いた。完全に面白がっている口調だ。

「何のためにって、それは……」
「本当に執事がグルなら、パーシーももっと上手いことやっただろ。盗みの最中に男爵と出くわすなんて間抜けな失敗はありえねぇ」
「じゃ、じゃあ、彼らの本当の目的は男爵を殺害することだったんだ!」

 少しばかりむきになってそう叫び返したとき、ホームズの顔から意地の悪いにやにや笑いが消えた。その反応は私にとっても意外であった。苦し紛れに口から飛び出した説だったが、めった刺しにされた遺体の状況を考えるとありえない話ではないだろう。
 しかしホームズはそれについて深く掘り下げようとはせず、レストレード警部の方を向いた。

「で、俺からの『宿題』はどうだった?」
「あ、ああ……割れたランプの復元だな。こっちはすぐに片付いたよ。かさの部分に絵柄が入っていたからな」

 警部は懐から手帳を取り出した。

「部屋中いくら探しても、破片の一つが見つからなかった。ここの黒い部分だ」

 差し出された手帳には、簡単なランプのスケッチが描かれていた。かさの一部分が黒く塗りつぶされている。一つの破片とするならば、私の人差し指くらいの大きさだろうか。片側が、矢じりのように鋭くとがった形をしている。

「まさか、男爵の首筋を裂いた凶器は……」

 私の言葉に、ホームズは目だけで頷いた。
 その確信をもった顔に、私は混乱した。
 しかしその疑問を頭の中で整理するより先に、またしても呼び鈴が鳴った。

「こっちも時間通りだ。ハドソンさん、悪いが通してくれ」

 階下に向かってホームズが大声を出すと、やがて階段を上る足音が聞こえてきた。





六 二人目の客人

 やって来たのは、見覚えのある若い女性だった。
 昨日ホームズが不躾にも肩に触れた、あのメイドだ。確か名前は、リネットといっただろうか。
 すっきりと通った鼻筋と榛色の瞳から、ぱっと見たときは聡明そうな印象を受けるが、背を丸めてどこか自信なさそうに周囲をうかがう仕草が何とももったいない。おまけに私と同じく昨夜はあまりよく眠れなかったと見えて、昨日に比べるといっそう顔色が暗い。慌てて身支度をしてきたのかまとめ髪からは細い毛束がぴょこぴょこと飛び出していた。
 ハドソン夫人に案内されて部屋に通された彼女は、室内にレストレード警部の姿を見つけてぎょっと目を見開いた。

「ど、どうして刑事さんがいらっしゃるんです、ワトソン先生!」
「え?」

 彼女に睨みつけられて、私は心底驚いた。

「先生が私を呼び出したのでしょう、奥様のリウマチに効く薬茶を用意したからすぐに取りに来るようにって、電報で……」
「ま、待ってください、一体何の話を……」
「まぁまぁ、座ってコーヒーでもどうぞ。リネット嬢」

 部屋のドアをばたんと閉めながら、ホームズが割り込んだ。その芝居がかった口調と椅子を勧めるなめらかな手付きに、私はすべてを理解した。

「シャーロック! 君、まさか僕の名前を騙って彼女を呼び出したのか?」
「彼女は重要参考人だからな」

 ホームズは少しも悪びれずに肩を竦めてみせた。
『重要参考人』という言葉にレストレード警部は片眉を上げ、リネット嬢と呼ばれた彼女は真っ青になった。ハドソン夫人が駆け寄って、彼女の肩を抱く。

「ちょっと、シャーロック。どういうつもりなの?」
「別に若いお嬢さんを男三人で取り囲んで尋問しようだなんて俺だって考えてねぇよ。ついでだしハドソンさんも同席してくれ」

 ホームズは暖炉の前の指定席へ腰掛けた。
 ハドソン夫人は彼に訝しげな顔を向けながらも、リネット嬢とともに長椅子へ腰を下ろした。私とレストレード警部も、彼女らにつづいてそれぞれの場所に腰を落ち着ける。
 全員が話を聞ける態勢に入ったことを確認してから、ホームズは口を開いた。

「単刀直入に聞くぞ。昨日、書斎でランプを割ったのはあんただな」
「は?」

 声を出したのは私だった。
 何を言っているのだ? というのが私の率直な感想だった。だが、リネット嬢の方を振り返ると、彼女は今にも泣きだしそうな顔で肩を震わせていた。

「ど、どうして……」
「花壇に残した足跡を消したのは利口だったな。その後、ヤードが駆けつける前に靴についた土も払っておいたんだろう。だが足元ばかりに注意が向いて、肩を汚していたのには気がつかなかったようだ」
「肩?」
「昨日、あんたのブラウスの肩のあたりには白い砂のようなものが付着していた。中庭の白塗りの壁にもたれたんだろう?」

 私は思わず膝を叩いていた。
 昨日彼が馴れ馴れしくリネット嬢の肩に触れたのは、彼女の白いブラウスに付いた砂の存在を確かめるためだったのだ。普段の彼はむやみに女性の身体に触れたりしない人間ではあったが、それは彼が紳士であるというよりは女性というものに全く興味関心がないからだ。そんな彼のあの突飛な行動に意味がないはずがなかった。
 リネット嬢はしばらくの間、椅子の上で背中を丸めて小さくなっていたが、やがて観念したように頷いた。

「はい……。おっしゃる通り、ランプを割ったのは私です。窓を通って書斎から抜け出したのも」

 レストレード警部が、私の隣で小さく息をのんだのがわかった。たった今、ランプの破片がセリグマン男爵の命を奪った本当の凶器である可能性が浮上したからだ。
 彼女の絶望ぶりはほとんど死刑判決を言い渡された被告人のようだった。膝の上で握りしめられた彼女の手の上にぱたぱたと涙の粒が落ちたのを見て、ハドソン夫人が彼女の背中をさすった。その優しい手つきに励まされて、リネット嬢は何とか勇気を振り絞って続きを話す。

「でも、私、旦那様を殺してなんていません。それは本当です……」
「ああ。あんたにできる犯行とは思えねぇ。第一、男爵が殺されたのはあの書斎じゃない。そうだろ?」
「…………」

 言おうか、言うまいか。
 リネット嬢の目に動揺が浮かんだ。彼女は明らかに何かを知っていて、迷っている。不安になった時の癖なのだろう、右手で自分の左手首をしきりにさすっていた。
 口を開きかけたレストレード警部を、ホームズが目で制した。ここで詰め方を誤れば、彼女はもう自発的には口を開いてくれなくなる。そんな緊張が、私たちの間を走った。
 ホームズがどのように出るのか固唾をのんで見守っていた私たちだったが、口を開いたのはハドソン夫人だった。彼女はリネット嬢の背中を優しく撫でながら、言った。

「リネットさん、あなたが犯人でないのなら、この男も刑事さんも悪いようにはしないわよ。ゆっくりでいいから、話してみてちょうだい」

 他者に寄り添う、という点においてやはり女性というのは優秀だ。事件とも警察とも何の関係もないハドソン夫人に背中を押されて、リネット嬢の肩からわずかに力が抜けた。

「さぁ、もう泣かないで。顔を拭いて、しゃんとしなきゃ」

 ハドソン夫人は明るく笑って、ポケットから取り出したハンカチでリネット嬢の濡れた頬を拭った。母親が幼い娘にするような、ほほえましい光景だった。
 そうして涙が落ち着いてから、彼女は次のように語った。

「……あの美しい陶器のランプを割ってしまったのは私です。昨日、ティーセットを下げに書斎に伺ったとき、旦那様に書斎の掃除を言いつけられたのです。旦那様はそのまま書斎を出て行ってしまったので、私一人で掃除をしていました。でも私、昔から、粗相をしてはいけないと思えば思うほど、緊張して失敗してしまうんです。昨日も、棚の上の埃を払って、後ろに一歩下がった拍子にデスクにぶつかってしまって……。しまったと思った次の瞬間には、ランプは大きな音を立てて床の上で砕け散りました。
 やってしまったと気づいたときには、手の震えが止まりませんでした。決してわざとやったわけではありません。それでも取り返しのつかない失敗に、目の前が真っ暗になって、しばらくその場から動けませんでした。
 その時、背後でドアが開く音がして、私は小さく悲鳴を上げました。部屋に入ってきたのは、旦那様ではなくパーシーでした。たまたま廊下を通りかかって、物音を聞きつけたのでしょう。割れたランプに気づいて、彼の丸い目が大きく見開かれました。彼は後ろ手で素早くドアを閉めると、座り込んで呆然とする私に音もなく駆け寄りました。

『大丈夫。行ってください』

 彼はそう言いました。勇気づけるように、私の背中に手を添えて。

『そこの窓から庭へ出て。誰にも見つからないように、裏口から自分の部屋に戻るんです』

 当然私はためらいました。逃げたとしても、私が書斎の掃除をしていたことを旦那様は知っているのですから誤魔化しようがありません。よりいっそう旦那様の怒りを買うことになるでしょう。それでも、パーシーは私のその考えもわかっている、と言いたげに微笑みました。

『大丈夫です。……誰か来る、急いで』

 大丈夫、と彼は繰り返しました。戸惑う私の手を引いて立ち上がらせると、開いていた窓から庭へと半ば無理やり押し出したのです。そして私に続いて庭へ出るものとばかり思っていた彼は『行って』ともう一度囁いてから、カーテンを閉めてしまいました。
 え、と私が間の抜けた声を出すのとほとんど同時に、部屋の中でドアが開いて怒号が響きました。

『貴様、何をしている!』

 旦那様の声です。
 私はカーテンが閉まっていることも忘れてその場にしゃがみこみ、窓枠の下に身を隠しました。おそらくその時、白塗りの壁に肩を擦りつけてしまったのでしょう。ですがそんなことにも気づかないほど、私は震えあがっていました。心臓が破れそうなほど激しく脈打って、部屋の中の旦那様に聞こえるのではないかと思ったくらい。

『申し訳ありません。旦那さ、』

 パーシーの言葉が中途半端に途切れ、鈍い音がカーテン越しでもしっかりと聞こえました。旦那様が彼を殴りつけたのです。私の代わりに。すぐに部屋の中に戻って、旦那様に説明しなければならないと思いました。ランプを落として壊したのは彼ではありません、悪いのは私です、と。それなのに、身体が動きませんでした。喉が引きつって声も上げられなくて……。
 きっと、屋敷に来て間もない彼は、まだ旦那様の恐ろしさを知らなかったのでしょう。今すぐ名乗り出なければ、あの子が殺されてしまう。でも名乗り出れば私が殺されるかもしれないと思うと……。立て、立て、と頭でいくら命令しても、私は地面に膝をついたまま立ち上がれませんでした。乱暴にドアが閉まる音がして、彼が部屋の外に引きずられていくのがわかりました。私はしばらくその場から動けずにいたのですが、何とか気を持ち直して、彼に言われた通りに中庭から自室に戻ったんです。花壇に付けてしまった足跡も消して。それがまさか、こんなことになってしまうなんて……」

 しゃべり終えたリネット嬢はまたしくしくと泣き始めた。





七 男爵家の秘密

「ちょ……ちょっとまって、リネットさん」

 ようやく口を開いたのは、ハドソン夫人だった。

「『殺されるかもしれない』ってどういうこと? 貴族のお屋敷のランプなんてそりゃあ、私たち庶民には想像もつかないくらい高価なものでしょうけど」
「……リネットさん、その左の袖、めくって見せてみてくれないか」

 ホームズが低い声でそう口にすると、彼女はびくりと肩を震わせた。動こうとしない彼女に焦れたハドソン夫人が、半ば無理やり手を引き剥がして、彼女のブラウスの袖をめくった。

「これは……!」

 思わずそう漏らしたのは、レストレード警部だった。彼はすぐにしまった、という顔で口をつぐんだ。
 リネット嬢の左の手首には、痛々しい火傷の跡があった。
 ハドソン夫人はすぐに袖をもとの形に戻して、俯くリネット嬢を抱きしめた。

「男爵か?」

 ホームズの問いに、彼女は小さく頷いた。

「前に、旦那様にお出しする紅茶をこぼしてしまって……」
「なんてことを……」

 そんなささいな失敗への罰として、腕に熱湯をかけられたというのか。ハドソン夫人が怒りに顔をゆがめたが、リネット嬢は気づかない。

「あの、パーシーは悪くないんです。そもそも私が旦那様のランプを割ってしまったのが原因で……彼は私を庇ってくれただけで。きっと、殺されそうになって、抵抗しようとして旦那様を……」
「ああ、そんなところだろうな」

 ホームズは煙草に火をつけながら、苦虫を嚙みつぶした顔をした。

「これでだいたいわかったろ。男爵を殺したのはパーシーだ。だが奴は男爵の首を――おそらくはあのランプの欠片で――かっ切って殺害しただけ。死体はおそらく、男爵夫人の指示で執事が移動させたんだろ。使用人を虐待した挙句、返り討ちにあって殺されたとなりゃ醜聞もいいところだからな」
「じゃあ、胸や腹の刺し傷は……」
「書斎を殺害現場に見せかけるための偽装だろう。死体は運べても、床に流れた血までは動かせないからな。現場を血で汚しておく必要があると考えて、調理場から持ってきたナイフで死体を刺した。だが男爵の心臓はとっくに止まってるんだから出血もしない。刺しちまってからそのことに気づいて、苦肉の策として死体をうつ伏せにしたってところだろう。傷口を下に向けさえすれば血も多少は流れ出るからな。まったく、素人丸出しの偽装だよ。
 あ、そうそう。廊下にこぼれてたスープも、絨毯にうっかり落としちまった血痕を誤魔化すためにわざとこぼしたんだろうな。それからパーシーが盗みを働こうとしていたと見せかけるために、書斎の引き出しから金目のものを抜き取った、と」

 ホームズは淡々と推理を述べたが、私はなんだか気分が悪くなってきた。医者のくせに情けないと思われるかもしれないが、命を救うための神聖な医療行為とは対極の、想像するのもおぞましい所業だ。ハドソン夫人も、ついさっき朝食をとったことを後悔しているようだった。
 レストレード警部は眉間のしわを抑えながら、苦々しげに口を開いた。

「リネットさん。一応お尋ねしますが……その、今ホームズが言ったことは事実なのでしょうか?」
「え、いえ……わかりません。昨日の昼食の後は、私たち使用人は全員部屋に戻されて、警察の方が来られるまで一歩も外に出ないように指示されていましたので……」

 つまり、それらの工作を行う時間は十分あったわけだ。

「まったく、従順すぎるってもの考えもんだな」

 ホームズは背中を反らし、天井に向かって煙を吐き出した。
 当のリネット嬢はそれが自分のことを指しているとわかっているのかいないのか、どこかぼんやりした顔で我々の顔を見回している。

「何故……何故、昨日その話をしなかったのですか!」

 とうとう、レストレード警部が声を上げた。
 が、リネット嬢はおどおどと肩を縮こまらせるだけだ。

「だ、だって……余計なことを言ったら奥様に叱られてしまう……」
「人が殺されているんですよ!?」
「言っても無駄だ、レストレード」

 ホームズが遮った。

「虐待に関しては男爵夫人も、それからあの執事もグルだったんだろ。こいつも他の使用人たちも日常的に虐待されて、反抗しようって考えがそもそも浮かばないところまで洗脳されちまってるんだろうよ。それこそ、男爵自身が死のうとな」

 私たちは言葉に詰まった。
 そのような非道な行いを知らん顔できるところまで、彼女も他の使用人たちも追い込まれていた。自分たちの身を守ることで頭がいっぱいだったのだ。彼女らの置かれた状況がどれほどひどいものだったのか、それは当事者である彼女らにしか分からないだろう。

「リネットさん。私は以前、軍医をしていたんですがね」

 彼女の胸に届くように、言葉を選びながら私は切り出した。

「戦場はそれはひどいところです。銃弾一つ、砲弾一つで人がばたばたと死んでいく。同時に、人を殺す役目を課せられる。普通の神経ではまず耐えられない過酷な環境です。でも人間の心とは不思議なもので、戦場に身を置き続けるうちに、いつしか慣れてしまうんです」

 室内はしんと静まり返っている。表の通りをゆく馬車の車輪の音だけが、がたがたとやけに響いて聞こえた。

「今のあなたも、そうなのではありませんか。自分の心を守るために、自分の良心を曲げてしまってはいませんか。あなたが本当はとても親切な方だということを、私は知っています。だって、昨日あなたは、私の怪我に気がついて心配してくれたではありませんか」
「…………」
「……関係ねぇよ、ジョン」

 ホームズがどこか苛立たしげに首を振った。

「そもそもこいつが自分から真実を話すメリットなんか皆無だろ。このままパーシーが男爵殺しの罪でお尋ね者になってくれれば、ランプを割っちまった自分のドジについても奴になすりつけられる。現にレストレード達も、犯人と被害者が揉みあった拍子に割れた程度にしか考えてなかったんだからな。殺人罪に比べりゃ大した罪でもねぇから、パーシーも別に気にしやしない。厄介な雇い主が死んで、自分の失敗はうやむやのままお咎めなし。一石二鳥じゃねぇか」
「シャーロック!」

 私は思わず声を上げた。
 リネット嬢は目を丸く見開いて固まっている。私もレストレード警部もハドソン夫人も、また彼女の心にいらぬ傷を増やしてしまったのではないかと冷や冷やした。しかしどうやら彼女には、優しい言葉よりもホームズのきつい物言いの方が効いたらしい。
 彼女は胸に手を当てて考え込んだのち、決然と顔を上げた。

「そう……そうですね。ホームズさんのおっしゃる通り、卑怯な振る舞いでした」
「別に卑怯だなんて一言も言ってねぇだろ」
「シャーロック……」
「だが、もうだんまりを決め込まないって言うんなら、本当のところを教えてもらおうか」
「ええ、お話します。私の証言で正当防衛だったことが証明できれば、パーシーの罪も軽くなりますよね?」

 先ほどまでとは打って変わって、リネット嬢は積極的な姿勢を見せた。目には溌溂とした光が宿り、しゃべり方にも淀みがない。おそらくは、ようやく本来の彼女が顔を出したのだろう。
 しかし、パーシーの減刑、という点は法律家ではない私にもいささか難しいことのように思われた。雇われたばかりだったとはいえ自分の主人を、それも貴族を殺害したのだ。どれだけうまく転んだとしても絞首刑が終身刑になるかどうか、といったところではないだろうか。こればかりはレストレード警部も難しげな顔で首をひねっている。
 ホームズは短くなってきた煙草を灰皿に押し付けた。

「ま、あんたを庇った上での正当防衛となれば、多少の情状酌量はあるかもな。それじゃあ、さっきの話について詳しく聞かせてもらおうか」
「はい、何でも」
「あんた確か『ドアが閉まる音がして、彼が部屋の外に引きずられていった』って言ってたな。具体的に、パーシーがどこに連れていかれて、どこで男爵を殺したのか分かるか?」

 その質問に、リネット嬢はやや勢いを失くしてまたブラウスの腕から左の手首をさすり始めた。

「……おそらく、地下室ではないかと」
「地下室?」
「はい。私たち使用人が罰を受けるのは大抵がそこです。どれだけ悲鳴を上げても外へは聞こえないから……」

 ホームズは素早くレストレード警部へ視線をやった。

「地下室には、まだ立ち入らせてもらっていない。地下にはワインセラーがあるだけで事件とは関係ないし、温度管理のためにもむやみに人を入れたくないと言って……」
「それは嘘です。旦那様も奥様もお酒を召し上がらないから、ワインセラーはもう何年も使っていません」
「なら、その地下室とやらにまだ男爵殺害の痕跡が残っていると見ていいだろうな。でなきゃ、立ち入りを拒む理由もない」

 私はマントルピースの上の置時計で現在時刻を確認した。すでに九時を回っているから、事件発生から二十時間以上が経過しているはずだ。

「今こうしている間にも、痕跡を隠滅されてしまっているのでは?」
「それは大丈夫です」とレストレード警部が請け負った。「ホームズの指示通り、男爵邸には警官を数名残してきています。パーシーが確保されるまでの警護という名目でね。特に男爵夫人と執事には必ず誰か一人が張り付く手筈になっているので、彼らも下手な動きはできないでしょう」
「リネットさん、その地下室は水道が通ってるか?」
「え? いいえ……」
「好都合だ。地下室に大量に残されているであろう血痕を処理するためには、バケツとモップを抱えて何往復かする必要がある。ヤードを地下室に近づけさせないようにやり過ごして、あとでゆっくり片づければいいとタカをくくっていたんだろう」

 ホームズの言葉に、ハドソン夫人がちいさく呻いた。おそらくは血に汚れた床をせっせとモップで拭う様子を想像してしまったのだろう。

「それで、どうやって男爵夫人たちを丸め込んで地下室に踏み込む? 部下たちをいつまでも男爵邸に置いておくわけにはいかないぞ」
「方法がないことはない」

 即答して、ホームズは引き出しの中をガサゴソと漁った。しばらくしてようやく、無造作に詰め込まれたガラクタの奥から筒状の何かを引っ張り出した。手のひらに収まるくらいの握りやすそうな長さで、片側の先端からは短い紐が飛び出している――。
 私と二人の女性はそれが何かとっさに理解できず固まっていたが、レストレード警部はさすがの機敏さで飛び上がるように椅子から立ち上がった。

「お前! 男爵邸を爆破する気か!」
「ちげぇよ、発煙筒だ!」

 ホームズが迷惑千万、とでも言いたげに顔をしかめた。
 同居人の私としては、ダイナマイトにしろ発煙筒にしろ、そんなふうに適当な保管をしないでほしいものなのだが。この事件が片付いたら、今一度ホームズの荷物を検めよう。私とハドソン夫人は無言のうちに頷きあった。

「こいつでニセの火事騒ぎを起こせば、男爵夫人や執事を強制的に屋敷から引き剥がすことができる。ただ、今回はお前らヤードの目の前でやらなきゃなんねぇからな。この方法で地下室に踏み込めたとしても後がめんどくせぇ。別の方法を考えなきゃならねぇが……」

 発煙筒を手の中でもてあそびながら、ホームズは部屋中をうろうろと歩き回った。
 真の犯行現場が地下室であることは確定した。地下室に残された犯行の痕跡をおさえることができれば、男爵夫人と執事が現場を偽装し虚偽の証言をしていたことを証明できる。
 あとは、いかにして二人を言いくるめて地下室へ踏み込むかだ。
 ホームズが言ったような強引な手法も取れなくはないが……。
 私たちがうんうんと頭をひねっていると、窓辺で通りを見下ろしていたホームズが鋭く声を上げた。

「ヤードの馬車だ。レストレード!」

 警部が素早く反応して、階段の方へ駆け出した。しかし彼が玄関から飛び出すより早く、窓から顔をのぞかせたホームズに気づいた警官が声を張り上げた。

「レストレード警部はいらっしゃいますか! 至急、お戻りください!」
「何があった!」

 ホームズが叫び返した。
 ベイカー街の住民たちが何事かと軒先から顔を出し、通行人たちは足を止めて振り返る。やって来た警官は、さすがにその場で事態を大声で叫ぶほど無分別ではなかった。
 ホームズと私も、大急ぎでレストレード警部に続いて階段を駆け下りた。
 セリグマン男爵邸が、パーシーによって襲撃されたのだった。





八 事件の終幕

 私たちはヤードの馬車にぎゅうぎゅう詰めになってセリグマン男爵邸に到着した。レストレード警部とホームズと私、そしてリネット嬢まで乗り込んできたからだ。
 危険だからと警部は待機しているように言ったのだが、彼女は承知しなかった。パーシーがその場で逮捕されようものなら警官の足にしがみついてでも止めてやろうという決意がその顔には見え隠れしていたが、結局は警部も押し負けて彼女の同乗を許した。
 馬車が屋敷の前に着くと、待機していた警官が駆け寄ってきた。

「警部!」
「状況は?」
「つい数十分前です。まだ若い男が刃物を持って押し入ってきました。屋敷の前を通りがかった馬車の屋根の上に潜んでいたようで、塀に直接飛び移って来たんです」
「その馬車は?」
「そのまま走り去りました。侵入してきた男に気を取られて、とても追う余裕がなかったので。黒塗りで紋章もなにもない二頭立てだったことだけ……。ですが、侵入者については使用人数名が顔を見ています。パーシーで間違いありません」

 我々の後ろでリネット嬢が息をのんだのが分かった。

「そいつは今どこにいる?」
「それが……」

 警官は急に勢いをなくした。
 同時に、玄関扉が開かれた。広々としたホールの隅に、不安そうな顔をした使用人たちが肩を寄せ合っている。壁際には来客が腰を掛けるためのカウチが備えられていたのだが、そこには執事のニコルソンがうめき声を上げながら横たわっていた。

「奴は屋敷の中を逃げ回って、数人がかりで追ったのですが、恐ろしくすばしっこい奴で、その……」
「まさかとり逃がしたのか!?」
「いえ、あの、実はついさっき、奴はニコルソンさんを突き飛ばして階段から落としたのです。それに我々が気を取られた一瞬のうちに、見失ってしまって……」
「何をやっている!」
「も、もうしわけありません」

 警官は腰を直角に曲げて頭を下げた。

「ですが、正門も裏口も、サンソンたちが固めています。先ほどは馬車に乗っていたから塀を越えられたものの、塀の内側から脱出するにはロープでもないと普通の人間には難しいでしょう」

 面目がつぶれるのを何とか回避しようとしているのか、警官はそこだけは自信ありげに頷いた。
 しかし彼は、いったい何のために舞い戻ってきたのだ?
 例えば証拠を隠滅するといった目的で、犯人が殺人現場に後からこっそりと戻ってくるケースは少なくない。ホームズが見事その現場を抑えて解決した事件を私はいくつか知っている。けれど、この事件に関してはパーシーが犯人であることは誰の目にも明らかだ。このまま逃げていればいいところを、リスクを冒して屋敷に舞い戻る目的とは――。

「……つまり、まだ奴が屋敷から逃げ出したところを誰も見てないんだな?」

 ホームズが大きなため息とともに、そう尋ねた。
 警官たちがお互いに顔を見合わせる。誰からも返事はなかった。
 ホームズはもう一度大きく息を吐くと、意を決したように顎を引いて胸を張った。次の瞬間には、別人のように朗々とした声が、ホール中に響き渡った。

「容疑者フレドリック・パーシーはまだ屋敷内に潜伏してる! 屋敷中を"くまなく"捜索しろ!」

 ホームズはそう叫ぶと、稲妻のような速さで駆け出した。
 一呼吸遅れて、レストレード警部がはっと息をのんで彼の意図を汲み取った。部下たちに短く鋭い指示が飛ばされる。すぐに警官たちが各々行動を開始した。
 ホームズがまっすぐに向かうのは、当然、例の地下室だ。
 私はすぐさま彼の後を追って駆け出しそうになった。もちろん、普段であればそうしていただろう。しかし今回は、私には私にしかできない役割があった。

「動いてはいけません!」

 私はホールに引き返し、カウチから身を起こそうとしていた執事を座面へ押し戻した。そして、患者を安心させるためによく使う、めいっぱいの誠意と温かみを込めた表情と声でこう告げた。

「どうぞご安心ください。ここはホームズと優秀な刑事さんたちにお任せしましょう」
「し、しかし……」
「ご心配でしょうが、ここは堪えてください。あなたに執事としての責任があるように、私にも医師としての責任があります。階段から転げ落ちたのですから安静にしなければなりません。頭を打った直後は何ともなくても、後から状態が急変した症例はいくつもあります。脳へのダメージはとても恐ろしいものなのですよ」

 もちろん、この言葉はでたらめではない。私は思いつく限りの症例を次から次へと並べ立てた。
 見たところ彼は意識もはっきりしているようだし、そう深刻なことにはならないだろう。それでも、地下室へ踏み込む絶好の大義名分を得たホームズたちの邪魔をさせるわけにはいかなかった。
 執事がカウチに釘付けにされたのを見て、男爵夫人自らが腰を上げようとした。だが、そこに頼もしい増援が駆けつけた。リネット嬢だ。

「奥様、ワトソン先生は軍医をなさっていたこともあるんですって。もしパーシーが戻ってきても、先生の側にいれば安心ですよ」

 彼女は立ち上がろうとする男爵夫人の肩を、安心させるようにやんわりと、しかし有無を言わせぬ強さで押さえつけた。その瞳に恐れの色はなかったし、指先はちっとも震えていなかった。
 そう言われてしまえば、さしもの男爵夫人も、このメイドを振り払う口実を咄嗟に思いつかないようだった。事実、ここを一人で離れれば物陰に潜んだパーシーに不意打ちをくらわされる可能性は決して低くない。
 他のメイドたちもおろおろと顔を見合わせながらも、羊飼いの周りに寄り集まる羊のように、私たちのそばを離れようとしなかった。
 間もなく、廊下の向こうから警官たちのざわめきが聞こえてきた。
 おそらく、あちらに地下へと続く階段があるのだろう。ホームズの後を追った警官が大慌てでホールへ引き返してきて、そのまま玄関から飛び出していった。おそらく、スコットランド・ヤード本庁へ応援を呼びに行ったのだろう。
 カウチに身を沈めた執事は痛みによるものではないうめき声を上げ、男爵夫人はへなへなとその場に崩折れて顔を覆った。

 この後の顛末は連日新聞で報じられた通りである。
 読者諸賢もよくご存知のことだろうから、ここでくどくどと説明はしない。
 まっすぐに地下室に踏み込んだホームズは、そこにおびただしい量の血痕と、血に汚れたランプの破片を発見した。リネット嬢の証言の通り、男爵が殺害されたのは書斎ではなく、彼が日々使用人たちを痛めつけていた地下室だったのである。
 男爵夫人は遺体を偽装し虚偽の証言をしたかどで、ヤードへ連行された。執事はいったん病院に送られたが、すぐに夫人の従犯として身柄を移された。
 しかし結局、パーシー青年は見つからなかった。彼は煙のように屋敷から姿を消してしまった。彼が危険を冒して屋敷に舞い戻った真の目的は未だにわからない。ホームズがそれについて何も語ろうとしないのだから、私にもレストレード警部もお手上げだった。
 スコットランド・ヤードによる捜索はまだ続いているが、私がこの原稿をしたためている今日に至るまで、彼の行方は杳として知れない。
 そのことを憂うべきか喜ぶべきか、私はいまだに判断しかねている。


***


 ストランド・マガジンの最新号をぱたりと閉じたアルバートは、ふぅと息をついて紅茶のカップに手を伸ばした。

「結末を知っていても、なかなか面白いものだね」
「ええ。売り切れ続出ですぐさま増刷がかかったらしいですよ」

 ウィリアムが微笑みながら頷いた。この一冊も、彼が懇意にしている書店に頼んで取り置いてもらったものだった。
 アルバートがこうした大衆向けの軽い読み物を手にするのは普段あまり無いことであったが、気づけば夢中になって物語の世界に没頭してしまっていた。居間に集まっていた屋敷の面々をそっちのけで読みふけっていたから、少しバツが悪い。と言っても、他のメンバーはアルバートが貿易会社の仕事に出ている間に一通り回し読みした後らしかった。
 ウィリアムは雑誌の表紙をどこか嬉しそうに撫でている。

「コナン・ドイル氏の小説が掲載される号はいつも飛ぶように売れるとはいえ、今回は『緋色の研究』事件に次ぐ売れ行きだそうです」
「そりゃあそうだ。何てったって、裁判の真っ最中だからな」

 モランは新聞の束をばさばさと鳴らした。
 セリグマン男爵夫人の裁判に関する記事がその一面を飾っている。
 使用人が貴族を殺害しただけでも十分センセーショナルな事件だが、その原因が使用人への度重なる虐待であったとなれば否が応にも市民たちの関心が集まる。さらには虐待に加担していた夫人が、その醜聞を隠すために夫の死体をめった刺しにさせた上に警察に虚偽の証言をし、それをホームズに暴かれたとなっては、もうお祭り騒ぎだった。
 憶測、批判、擁護、とにかく様々な立場から様々な意見が飛び交った。

「ほんっと、どこに行ってもこの話で持ちきりだよ。このタイミングで作品を出すなんて、ドイル先生も思い切ったよね」
「議論が持ち上がるのはいいことだよ、ボンド。誰か一人を叩く流れになるのいただけないけどね」
「ホームズは、事件の背後に我々の存在があったことに気づいているのでしょうか?」

 ウィリアムのティーカップに目を配りながら、ルイスが呟いた。
「きっとね」とウィリアム。
 長椅子に行儀悪く足を組んで腰かけたモランが、得意そうにふんと鼻を鳴らした。

「ホワイトチャペルの時と同じだ。いくら天下の名探偵様だろうと、いもしない人間をとっ捕まえるのは無理な相談だろうよ。なぁ、フレドリック・パーシー?」
「……勝手をして、すみませんでした」

 モランからのからかいの言葉を受けて、部屋の隅に立っていたフレッドが神妙な面持ちで頭を下げた。
 小説の最後にワトソンが記していた通り、男爵を殺害し逃亡した『フレドリック・パーシー』はいまだ見つかっていない。それもそのはず、彼の正体は変装したフレッドだったからだ。左膝に傷を負った元使用人からの依頼を受け、ウィリアムの命でセリグマン男爵家に潜入していたのだ。
 当初の予定ではもう少し時間をかけて調査しその罪状を見極めるはずであったが、メイドの一人が高価なランプを割るというとんでもない失敗をやらかしたため、優しい性分の彼は庇わずにはいられなかった。
 多少の体罰であれば甘んじて受け入れるつもりだった。虐待があったという事実に裏を取ることもできる。しかし地下室に引きずり込まれて首を絞められそうになった時点で、手を振りほどき隠し持っていたランプの破片で反撃してしまったのだ。

「放っておけば彼女がどんな目に合わされたかわからない。いいアドリブだったよ、フレッド」
「まったく、お前が前倒しで殺っちまった時は焦ったぜ」
「冒頭に出てくる、ウィギンズくんに情報渡した野次馬ってモランくんのことだよね? シャーロックにちょっと怪しまれちゃってない?」
「そうでしょうね。警部とワトソン博士が都合よく解釈してくれたから良かったものの……」
「うるせぇ、まさか連中が死体動かしてるなんて思わねぇだろ」

 ボンドとルイスに指摘されて、モランは顔をしかめた。
 セリグマン男爵への『裁き』が早まってしまったとはいえ、潜入前の下準備に抜かりはなかった。ホームズを事件に引き込んで派手に解決させるために野次馬を装ってイレギュラーズの少年に情報を渡したのであるが、慌ただしく動いたためウィリアムの指示が間に合わなかった。「男爵が殺されたのは地下室」とまでは口にしなかったため何とか難を逃れた形だ。

「ともかく、この一件はもう我々の手を離れたと見ていいかな?」
「あの、それが、もうひとつ……」

 アルバートの言葉に、フレッドがおずおずと手を上げた。

「セリグマン男爵夫人が、リネットさんにランプを弁償するよう請求書を回しているようで……」
「マジかよ、懲りてねぇなぁ」

 モランが乾いた笑い声をあげた。
 作中でホームズが言っていた通り、ランプの件については彼女の過失であることは変えられないだろう。しかし裁判の真っ最中に、よくも臆面もなく請求書など回せたものだ。

「リネットさんの経済状況ではとても払える額ではありません。せっかく……」
「大丈夫だよ、フレッド」

 我らが相談役は、彼を安心させるように微笑んだ。

「まずはその事実を噂として街に広めてほしい。この小説の売れ行きを考えればそう難しいことじゃないだろう」
「世間の話題にして、訴えを取り下げるよう圧力をかけるということですか?」
「それでもいいけど、もっといい方法がある。出版社に、匿名でリネット嬢宛の寄付金を送るんだ」
「え」とフレッドは声を上げた。「いいのですか?」
「もちろん。ただし、全額肩代わりするわけじゃないよ。僕らが出すのはほんの少しだ」

 その意味するところをいち早く汲み取って、アルバートは思わず口角を上げた。

「なるほど、市民たちに自ら動いてもらおうというわけか」
「ええ。この小説や報道を読んだ市民たちの中には、彼女の助けになればと後に続く者たちがきっと現れるでしょう。金銭という形ではありますが、声を上げ、隣人を救う――そのための一歩を、彼ら自身に踏み出してもらいましょう」

 コナン・ドイル氏によるホームズの冒険譚は、すでにこのロンドンの市民たちにとって愛すべき娯楽としてその地位を確立している。ホームズの手がける事件に間接的にでも関わることができるのなら、――その動機が義憤にしろ野次馬根性にしろ――リネット嬢への寄付に協力したいと考える者は少なくないだろう。

「そりゃあいい。この過熱ぶりなら一週間とかからずに集まるだろ」
「えー、そうかなぁ。あの男爵、骨董品集めが趣味だったみたいだし意外と値打ちものかもよ?」
「どうなんだ、フレッド?」
「え、わかんないよ……」

 上流階級の好みそうな調度品の類にも詳しいボンドの頭の中では、すでに目標金額の見積もりが始まっているようだった。彼とモランの間で、どれくらいの期間でランプを賄えるだけの金額が集まるのか賭けをするつもりらしい。

「ふむ。私も個人的に一口乗ろうかな」
「お前はやめろ!」
「アルくんそれ一気に金額読めなくなるから!」
「皆さん、不謹慎ですよ……」

 ルイスが呆れたようにため息をついた。

「なんじゃ、賑やかだな」

 ジャックががらがらとワゴンを押しながら居間に入ってきた。
 ワゴンに乗せられた皿の上には焼きたてのクッキーやマドレーヌやクラフティが山と盛られていた。甘く香ばしい匂いが部屋中に広がる。アフタヌーンティーのお茶うけにしては、ずいぶんと気合の入った量だった。
 ボンドが顔を輝かせて駆け寄り、フレッドも控えめにその後に続いた。

「わぁ、すごい!」
「はっは、好きなだけ食え。若いもんがいると張り合いがあってつい作りすぎてしもうたわ」
「さすが先生、どれも美味しそうですね」

 ルイスが手際よく皿の準備を手伝いながら、言った。
 アルバートやウィリアムに言わせればルイスの作るスコーンも絶品だったが、意外に甘党なジャックが菓子作りに注ぐ情熱は人一倍強い。ジャックの手ほどきを受けて一通りの料理をマスターしているルイスも、ジャックの作る菓子には一目も二目も置いているようだった。

「兄さん、どうぞ」

 ウィリアムが皿をこちらに回してくれた。
 アルバートは彼に礼を言って、四角い形のクッキーを一枚摘まんだ。まだ温かい。歯を立てればさくりと簡単に崩れて、口の中に甘みが広がった。よく味わうようにゆっくりと咀嚼して、今度は紅茶のカップに手を伸ばす。
 モランとボンドは賭けの話を再開したようだ。ジャックは、小説に登場するメイドが美人だったのかどうか尋ねてフレッドを困らせている。ルイスはどちらから先に止めに入るだろうか。アルバートはウィリアムと顔を見合わせて笑った。
 仲間たちの笑いさざめく声が、耳に心地よかった。

初出:Pixiv 2023.02.26

ダラムの幽霊屋敷 Returns
 ダラムのお屋敷が幽霊屋敷だったら……という話。三年後編。



 月もない真夜中のことだった。
 人々はとうに寝静まり、町外れの暗い道の先に一軒の屋敷が建っていた。生きている人間は誰も住まわず、長らく打ち捨てられている屋敷だ。
 近づく者などいないその屋敷に、コソコソと鼠のように二人の男が忍び込んだ。彼らは音を立てないように気をつけながら窓ガラスを割り、錆びかけた錠をそっと外す。

「兄貴、ほんとに忍び込んだりして大丈夫なのかよぉ?」

 怖怖と室内の様子を伺いながら、覆い付きのランタンを持った一人が言った。もう一人の、帽子を被った男が答える。

「馬鹿。俺たちから取り立てた地代で、今まで散々贅沢してたんだ。おっ死んだなら還元してもらわねぇと」
「でもよぉ……」
「おい、つべこべ言ってないで早く明かりを持って来い。窓の方には向けるなよ。近所の連中に見つかっちまう」

 口ぶりからして、帽子を被った男の方が兄貴分らしい。彼はずかずかと階段を上がり、我が物顔で書斎に入り込むと躊躇いもせず引き出しを下から順に開けていった。

「くそっ、ひと通り漁られた後だな。大したものは残っちゃいねぇ」

 毒づきながら、帽子の男が引き出しから掴みだした小物を床に放り投げる。残っているのは木軸のペンや新聞の切り抜き、ごく少額の切手ばかりで、換金できそうなものはどこにもない。
 引き出しを乱暴に閉めた拍子に、机の上に置いてあったインク壺が転がり落ちた。蓋が外れて、黒いインクが絨毯の上に飛び散る。
 ランタンを持った男が慌てて後ろに飛び退いた。

「兄貴! まずいって、あんまり荒らしちゃ」
「うるさいな。無駄口叩いてる暇があったら、お前も向こうのキャビネットを調べてこいよ」
「ここはヤバいんだって。昔っから何かがいるって、死んだばあちゃんがいつも言ってたんだよ」
「ふん、モリアーティ家の連中は平気な顔で暮らしてたじゃないか」
「それは、あいつらが同じ悪魔だったからさ! 怪物同士で気が合ったんだろうよ。だから……」

 その時、引き出しを漁っていた帽子の男がすっと右手を上げた。ランタンの男が慌てて口をつぐむ。

「……何か聞こえないか?」

 そう問いかけられて、男は耳をそばだてた。
 言われてみると、遠くからかすかに鈴の音が聞こえる。
 二人はそっと天井を見上げた。どうやら上の部屋からだ。

「よ、呼び鈴じゃないですか? 使用人部屋なんかにある……」
「ああ、確かにそんな音だ。金持ちの家によくあるやつだな。主人が自分の部屋の紐を引っ張ると、壁を伝って使用人部屋の鈴が鳴るっていう……」
「…………」

 二人は無言のまま顔を見合わせて、それから隣の部屋に続くドアの方を見た。
 もし上階で鳴っているのが使用人を呼び出すための呼び鈴であるのなら、誰かが紐を引いているということだ。そう、例えばあのドアの向こうの主寝室で……。
 ばんっ。
 何者かがドアを内側から叩いた。
 息を潜めていた二人は飛び上がるほど驚いた。ランタンの男は逃げ出そうとしたが、帽子の男は気丈にも声を荒げてみせた。

「馬鹿野郎、これくらいでビビるんじゃねぇ。俺達より先に潜り込んだやつがいるんだろう。つまらねぇいたずらで人を驚かそうたって、そうはいかねぇぞ! 出てきやがれ!」

 二人は口の中をカラカラにしながら、相手の出方を待った。やがて蝶番が軋んだ音を立てて、ゆっくりとドアが開く。
 ランタンを高く掲げて明かりをドアの方へ向けながら、二人は固唾を呑んで見守った。
 開いたドアの向こうには、誰もいない。
 ランタンの男が悲鳴を上げた。

「うわぁ、出た!」
「な、何が『出た』だ。どうせ隠れてやがるんだろ。俺がとっちめて……」

 帽子の男は強がりながらも果敢に主寝室に乗り込もうとした。が、背後で連れが再び悲鳴を上げたので、慌てて振り返る。

「あ、開かない! 閉じ込められた!」

 ランタンの男は半狂乱になって、廊下に続くドアをガチャガチャと揺らしている。これにはさすがに帽子の男も泡をくって駆けつけた。

「ど、どうしよう、兄貴……閉じ込められちまったよぉ!」
「落ち着け馬鹿野郎。見ろ、ドアノブは動くぞ」

 帽子の男の言う通り、ドアノブは途中までは動く。だが途中で何かに引っかかってそれ以上は動かない。鍵を掛けられたわけではないようだった。
 二人はえいやっと掛け声の後、同時にドアへ体当たりをした。
 ガタンと大きな音を立てて、つかえが外れたような手応えがあった。間髪入れずにドアが勢いよく開く。 二人は勢い余って転がるように廊下へ飛び出した。

「はぁっ、た、助かった……」
「見てみろ。こいつがドアノブに引っかかってたんだ」

 帽子の男が指差す先に、一脚の椅子が倒れていた。おそらく、背もたれのところをドアノブに噛ませていたのだろう。

「でも俺たち、このドアから忍び込んだんですよ? 一体誰が椅子を?」
「ふん、寝室に隠れてる奴だろうよ。捕まえてぶん殴ってやれ、ば……」

 言葉が中途半端に途切れた。
 二人の眼の前で、床に倒れていた椅子がひとりでに立ち上がったのだ。さらに、開けっ放しだったドアが大きな音を立てて勢いよく閉まった。
 男たちはぎゃっと悲鳴を上げ、後ろに飛び退った。ランタンを持った方の男が、バランスを崩して壁に激突する。

「いてっ」
「おい、何やってる!」
「あれ? 兄貴、ここの壁、何か書いて……」
「そんなのどうだっていいだろうが! さっさとずらかるぞ!」

 帽子の男が、連れの襟首を引っ掴んだ。二人は大慌てで廊下を駆け抜け、階段を駆け下りていく。
 振り返ると、椅子がすーっと床を滑って追いかけてくる。二人はもう一度悲鳴を上げた。
 正面玄関には鍵が掛かっている。
 二人は我先にと居間へ駆け込んで、大きな窓から庭へと飛び出した。割れたガラスで引っかき傷を作ったが、構ってはいられなかった。
 冷たい夜風が頬をなで、ほっと一息ついた矢先、今度は帽子の男がうわっと声を上げて地面に倒れた。

「だ、大丈夫ですか!?」
「ああ、悪い。大丈夫だ。ちくしょう、靴紐が解けてて踏んづけちまった」
「はは……、兄貴にしちゃ珍しい。ま、あんなもの見ちまったら仕方ないですよ」

 ランタンの男はいまだ飛び跳ねる心臓を押さえつけながら、帽子の男へ手を差しのべた。
 帽子の男は悪態をつきながら連れの手を掴もうとして、ふと彼の背後にある屋敷を見上げた。その表情がみるみるうちに凍りつく。

「? どうしたんですか?」

 ランタンを持った男が怪訝な顔で首をかしげる。
 帽子の男はそれには答えず、再び尻もちをつくと脇目も振らず逃げ出した。不思議に思って背後を振り返ったランタンの男も、ぎゃっと悲鳴を上げて後を追った。
 二階の窓に、彼らをじっと見下ろす女の顔が見えたのだ。





 数年ぶりに訪れたダラムの墓所は、あの頃と変わらずしんと静まり返っていて、時間の経過を感じさせなかった。
 フレッドがフリーダの墓標の前に膝をついて、花を供えた。つい先程、駅前で花売から買い求めたものだ。
 彼が「ダラムの屋敷に向かう前に寄り道したい」と言い出したとき、どこへ寄るつもりなのか俺には見当もつかなかった。ひょっとして、計画の最中も時折こうして花を添えに訪れていたのだろうか。だとすると律儀な彼らしかった。
 あのルシアンとかいう学生はとっくに大学を出て実家へ戻っているはずだ。けれど墓石の周囲は綺麗に掃き清められ、定期的に手入れがされている様子が窺えた。
 三人の中で唯一当時の経緯を知らないボンドは、刻まれた碑文に目を通してぽつりと呟いた。

「若いね」
「若かった、だ」
「うん……」

 三人でしばらくの間、黙祷を捧げた。
 頃合いを見て、俺は煙草を取り出して火をつけた。

「さて、そろそろ行くぞ。あいつらも着いてる頃だ」

 墓前を離れようとしたとき、向こうから腰の曲がった老婆が歩いてきた。ボンドが愛想よく会釈して通り過ぎようとすると、老婆は俺たちの顔を見上げながら歯の抜けた口を開いた。

「あんたら、この辺りのもんじゃないね? いや……だがどこか見覚えが……」

 老婆の視線が記憶を探るようにふらふらと彷徨う。俺は煙を吐き出しながら、何食わぬ顔で答えた。

「ここに来るのは初めてだよ」
「だがそこの墓に花を供えてただろう」
「人に頼まれてな」
「ああ」老婆は納得したように頷いた。「アトウッド家の使用人かい。あの坊っちゃん、自分が来られない時はたまに人をやって墓の掃除をさせているからね」
「そうだな」と、適当に相槌を打っておく。
「おたくの坊っちゃんは何度かここで見かけたことがあるが、身分を鼻にかけないいい子だね。数年前までここら一帯を治めてた男爵様とは大違いさ……もちろん、モリアーティ家ともね」

 背後でフレッドが小さく息を呑んだのが聞こえた。その反応に気を良くした老婆はさらに喋り続ける。

 「犯罪卿がダラムの大学で教壇に立ってたのはあんたらも知ってるだろ? ルシアンの坊っちゃんだって、何も知らずに奴の講義を受けてたって話じゃないか。恐ろしい話さね。領民の中にはあの家を称える者もいるにはいるけどね、あたしはずっと胡散臭い連中だと思ってたよ」
「へえ」

 俺ははあくまで興味がなさそうなふりをした。後ろの二人も、黙って老婆の話に耳を傾けている。
 当時はモリアーティ家がこの地を治めることになったのを有り難がっていたくせに、調子のいい連中だ。しかしモリアーティ家への非難の声が上がるということは、今の領主がそれなりにうまくやっているという証拠でもある。それで良しとするしかないだろう。

「かつてモリアーティ家が所有していた屋敷は、ここらじゃ『悪魔の屋敷』ってもっぱらの噂だよ。夜な夜な、犯罪卿に惨たらしく殺された連中だか犯罪卿本人だかの亡霊がうろつき回ってるのさ」
「『亡霊』ね……」

 呟きながら、俺は短くなった煙草を足元で踏み消した。
 以前から幽霊屋敷の噂はあったが、あの事件を経てそういうふうに話が捻じ曲がってしまっていても不思議はないだろう。
 犯罪卿の亡霊。つい数ヶ月前の自分が聞けば、亡霊の存在を信じるかどうかは別としても、狂おしいほどの衝動に駆られて屋敷へと忍び込んでいただろう。
 だがウィリアムに再会した今となっては、鼻で笑い飛ばせるだけの余裕があった。





 屋敷へたどり着いた時、すでに正面玄関の鍵は開いていた。先に馬車で向かったウィリアムたちが開けたのだろう。
 世間的には死んだはずのウィリアムは念を入れて女装までしたが、屋敷にモリアーティ家の人間が戻ったとなれば人目を引くのは間違いない。不測の事態に備えて、(説得するのにかなり骨を折ったが)俺たちも随行することにしたのだ。
 屋敷は、不在の間に随分好き勝手されたようだった。ポーチにはゴミが散乱し、マホガニー材の重厚な扉には赤い塗料で罵詈雑言が書き殴られていた。

「庭、見てくる」

 フレッドはそれだけ告げると、玄関には入らず屋敷の西側に回っていった。
 俺とボンドは玄関ホールへと足を踏み入れた。
 長らく閉め切られていたためか、空気は埃っぽく冷えていた。だが年月による荒廃など問題にならないほど、屋敷の内部は荒らされていた。本来であれば手を触れることすら躊躇うはずの調度品の数々を蹴倒し壁に叩きつけるのは、さぞ胸がスッとしたことだろう。

「あーあ、ひどいね」

 ボンドが軽い調子で声を上げた。
 ホールの大鏡はひび割れてはいたが、奇跡的に踏みとどまっていた。今は煤けた鏡面に写るのは、暗い室内に佇む俺とボンドの姿だけだ。
 俺たち以外の人影は、無い。その事実を確かめた俺は内心でほっとすると同時に、どこか物足りない気持ちになった。

 一階をひと通り見回った俺とボンドは、連れ立って階段を上がった。
 ウィリアムたち三兄弟はかつてのルイスの部屋で何やら話し込んでいる。どうやら思い出話に花を咲かせているらしかった。邪魔をするのも悪いかと思い、俺たちはドアの隙間からひと声だけ掛けてその場を後にした。
 廊下の窓ガラスは所々割れて、ガラス片と石ころが床に散らばっている。
 拳ほどの大きさのある石ころを、ボンドが廊下の端に向かって蹴飛ばした。割れたガラスを踏みつけるたび、靴底がジャリジャリと鳴った。
 顔にかかる蜘蛛の巣を払いながら、ため息が漏れた。

「人様の屋敷の窓で、的あてゲームでもしやがったのかよ」
「ははっ。最上階の窓と主寝室の窓、どっちが高得点だったと思う?」
「知るか」

 そんな軽口を叩きながら、俺たちは三階へと上がった。ボンドはあの頃の習慣をなぞるように、まっすぐに自分の部屋へと向かっていく。
 俺は別段自室に用はないので、廊下で煙草をふかしていた。あの当時は屋敷内で喫煙してはルイスに叱責を受けていたが、今さら灰を落としたところで彼も気にはしないだろう。
 しばらくして、廊下の端の部屋からボンドが顔を覗かせた。おいでおいでと手招きをしている。

「何だよ?」

 近寄っていって訊ねると、ボンドは部屋のドアを大きく開いた。

「僕の部屋、綺麗すぎない?」
「はぁ?」

 そう言われて室内を覗き込んでみると、確かに彼の部屋は廊下とは比べ物にならないほど整然としている。
 窓が一枚割れて風雨が吹き込んではいるようだったが、床にはガラス片や石ころの一つも見当たらない。その違和感を無視しつつ、俺は言った。

「ゴロツキどもも、ここまで上がって来なかったんだろ。荒らすなら、金目のものが置いてある二階だ」
「じゃあ、誰がベッドメイクしたの?」
「え?」
「最後の計画が動き始めた時期さ、こっちに来るのはもうこれが最後になるかもしれないからって、ロンドンに戻る時にベッドメイクしなかったはずなんだ。それなのに……」
「お前がやらなくても、ルイス辺りがやったんだろ」

 そう口にしてから、モランは「いや」と思い直した。
 ボンドが仲間に加わったばかりの頃、ルイスが彼に「洗濯から返ってきたシャツやシーツは部屋に届けたほうが良いか」と訊ねたことがあった。ボンドは確か「自分で取りに行くから大丈夫」と答えたはずだ。
 ボンドを男性として扱うことに決めたとはいえ、部屋に勝手に立ち入るのは遠慮した方が良いかルイスなりに遠回しに確認したのだ。(彼はモランやフレッドの部屋には勝手に入って洗濯物を置いていくし、そのついでにベッドメイクや掃除も済ませてくれる)
 あの真面目なルイスがそれを無視してボンドの部屋に立ち入ったとは思えない。
 であれば、一体誰が?
 それからボンドに引っ張られて他の部屋も確かめてみたが、結局、綺麗に整えられていたのはボンドの部屋だけだった。

「ほら見ろ。どうせ忘れてるだけで、お前が自分でベッドメイクしたんだろ? で、たまたまお前の部屋だけは荒らされなかった」
「えー、そんなぁ」
「何が『そんなぁ』だ。他の可能性なんてあるわけ無いだろ」
「あるかもしれないじゃん! モランくんこそ、何でそんなムキになって否定するわけ?」
「ぐ……」

 言い合いながら、俺たちは再び階段を降りた。
 と、そこでボンドがふいに足を止めた。彼は割れた窓とは反対側の、壁の方を見ている。
 先程は割れた窓と足元のガラスに気を取られて気がつかなかったが、そこには滴る血のような赤色で文字が綴られていた。玄関ドアにあったような殴り書きとは違う、きちきちとした文字だった。

「ね、これなんて書いてあるの? ラテン語っぽいけど……」

 ボンドの視線に促され、俺はイートンでテキストとにらめっこしていた頃の古い記憶を引っ張り出した。

「あー、"Eramus quod estis. Sumus quod eritis."……『かつての我々が今日のお前であり、今日の我々が明日のお前だ』ってところか?」
「わぁ、さすがインテリ! で、どういう意味?」
「そりゃあお前……」

 改めてその意味を咀嚼してみて、俺たちは顔を見合わせた。

「……不法侵入したゴロツキの中に、たまたま教養のある奴がいたんだろ」
「えー、まっさかぁ」

 ボンドは声を上げて笑い、そしてすぐに青い瞳をいたずらっぽく光らせた。

「ね。もしかしてさ、ウィリアムくんの書斎に出るっていうインテリお爺さんのユウレイが書いたんじゃない? ゴロツキへの脅し文句にしてはちょっと洒落すぎてるけど」
「そんな訳ないだろ」

 俺は早口に言い切った。
 霊だの魂だの、くだらない。人間なんて所詮、血と肉と骨の塊だ。壊れて機能を失えばそこで終わり、続きなど存在しない。 はっきりとそう言い切ってしまいたかったが、残念ながら頭ごなしに否定できない事象が世の中には存在することを俺は知っている。特にこの、ダラムの幽霊屋敷では。
 俺はちらりとルイスの部屋の様子を窺った。ウィリアムたちはまだ、楽しそうに談笑を続けている。

「ボンド。お前、ここにいろ」
「え、何? どうしたの?」

 呼び止める声を無視して、俺は階段を駆け下りた。





 階段を下りて、俺は居間へと駆け込んだ。
 大きな掃き出し窓のガラスが派手に割られていて、錠が外されている。ゴロツキどもはここから屋敷に入り込んだのだろう。
 割れた破片に注意しながら窓枠を押し開けて、庭へと出る。美しかった花壇は長らく放置されて見る影もなく、芝生は所々剥がれて雑草が繁茂していた。
 地面には薔薇園まで続くタイルの小道が敷かれている。
 その途中に、フレッドがしゃがみ込んでいた。寛いでいるという様子ではなく、必要があればすぐにでも立ち上がれるよう片膝を立てた姿勢だ。

「フレッド……」

 背後から呼びかけると、フレッドは片手を上げた。「静かに」と促すような仕草だった。
 俺は素早く周囲に目を走らせた。が、荒れ果てた庭で動くものといえば風に揺れてざわざわと鳴る木の葉くらいなもので、人の気配は感じられない。植え込みの陰に野良猫が潜んでいるというわけでもなさそうだ。

「どうしたんだよ?」
「静かにして」

 フレッドは短く答えた。
 またしても俺は黙り込む。フレッドの背中は小さく丸まっているようでいて、ピンと張りつめた緊張感を纏っていた。
 すぐにでも彼の腕を引いてこの場を離れたかったが、その真剣な様子を目のあたりにすると声がかけられなくなってしまった。仕方がないので邪魔をしないようになるべく気配を消して待っていると、しばらくしてフレッドは諦めたようにため息をついた。

「……何か用?」
「いやお前こそ何やってるんだよ、こんなところに座り込んで。ウィリアムたちの用事が済んだらすぐに出るぞ。もう中に入れ」
「迎えの馬車はまだでしょ? それまで、ここで待ってるから」
「待ってるって……」

 言いかけて、俺は口を噤んだ。
 フレッドは花壇の真ん中に設えられた小さな天使像の方を見ている。可愛らしく微笑んでいたはずの天使は、煉瓦を打ち付けられたのか、鼻が砕けて翼がぽっきりと折れていた。花壇の中には投げ込まれた空の酒瓶やゴミが散乱している。

「こんなにされる間、ずっと我慢してたのかな」

 フレッドがぽつりと呟いた。

「知らない人たちが自分たちの場所に入り込んできて、好き勝手暴れて、怖かったんじゃないかなって……驚かせて追い払うことだってできたはずなのに……」
「……誰の話をしてるんだ?」
「ここにいた男の子だよ」
「は? 近所の子供か?」

 フレッドは首を横に振った。

「違うよ、『ここ』にいたんだ。いつからかは分からないけど。男の子……だと思う。多分。いたずら好きな子で、僕が庭で仕事をしてるとそばで眺めたり、僕の手袋やはさみを隠したりするんだ。でも、ある時に僕が『生き物にはいたずらしちゃ駄目だ』って言ったんだ。だから、屋敷をめちゃくちゃにされても反撃せずにずっと我慢してたのかもしれない。僕のせいで、三年間ずっと……」
「待て。お前何を言ってる? そんな子ども、いるはず無いだろう」
「いるよ。いたんだ、ここに……」

 フレッドはきっぱりと言い切った。言っていることは支離滅裂だがその目は真剣そのもので、かえってぞっとさせられた。

「謝りたかったんだ。僕らを憎む人たちが屋敷を荒らすのは仕方のないことかもしれないけど、あの子達は何も関係なかったのに」
「馬鹿言うな。そんな子どもいない。いもしない奴に何を謝るって言うんだ」
「いるよ。モランだって、何回も見たんだろ」

 フレッドはむっとした顔をした。
 彼が言っているのは、三年前たびたびモランを悩ませたあの幽霊嬢のことだろう。だがその実在を信じたくない気持ちと、フレッドの頑なな態度に俺もいくらか苛立ってきた。

「いいや、いない。実際俺は今日一度もあの女を見てない。最初からいなかったんだよ、そんな連中」
「嘘だ。そんなこと……」

 フレッドは俺に言い返そうと口を開きかけて、ふいに黙り込んだ。
 不意にひやりとした風が吹き抜けて、ぺた、と湿った音がした。
 座り込んだフレッドのすぐそば、タイルの上に小さな手形が現れていた。
 俺たちは口をぽかんと開けたままそれを凝視した。
 小さな右手だ。フレッドのものではないだろう。ちょうど、子供が泥の中に突っ込んだ手を乾いたタイルに押し付けたような。
 そんなはず無い。俺は無意識のうちに首を横に振っていた。
 見落としていただけで、この手形はさっきからずっとそこにあったのだ。近所の子供が度胸試しに潜り込んで、記念の手形を残していったに違いない。
 濡れてつやつや光る手形の表面に気づかないふりをしながら、そう自分に言い聞かせた。
 俺はフレッドの腕を引いて立たせようとしたが、彼は頑としてその場を動かない。

「まだ、いるの?」

 フレッドが震える声で問いかけた。
 話しかけている相手は俺ではない。
 答えるように、ぺた、ともう一つ手形が現れた。
 今度こそ疑いようもなく突きつけられた事実に、俺は震え上がった。

「来るんじゃねぇ!」

 叫びながら、俺は無理やりフレッドを抱え上げた。驚いたフレッドが「うわっ」と悲鳴を上げる。

「俺たちはまだ生きてるんだ。お前らとは違う!」
「モランやめて! 大きい声出さないで!」
「冗談じゃねぇ、連れてなんて行かせねぇぞ! 恨むなら勝手に恨んどけ。呪うなら勝手に呪っとけ! こいつは連れて行かせねぇぞ! 絶対……絶対……」

 俺は自分でも何を言っているのか分からなくなりながら、虚空に向かって吠えた。
 フレッドの体を抱え直して荒れ果てた庭を見渡してみても、敵の姿はどこにも見えない。半分砕けた天使像だけがじっとこちらを見上げていた。
 背後に人の気配を感じて飛び退ると、そこにはボンドがいた。彼は怪訝な顔で首を傾げている。

「大声出して、どうしたの? なんでフレッドくんのこと抱っこしてるの?」
「ボンド、すぐにここを出るぞ。ウィリアムたちは……」

 その時、側頭部にぽこ、と軽い衝撃が走った。
 俺は再びフレッドを抱えたまま飛び上がる。腹に回した腕を急に締めてしまって、フレッドが「ぐぇ」と声を漏らした。
 恐る恐る足元に視線を落とすと、丸めた布の塊が落ちていた。それが飛んできたと思われる先には、当然ながら誰もいない。
 ボンドが回り込んで、ひょいとその塊を拾い上げた。広げてみると、それは薄汚れた白い手袋だった。

「あれ、これモランくんの手袋じゃない?」
「は?」
「だって、ほら。こんな大きな手袋、君以外に使わないでしょ。しかも片手だけ」

 ボンドは躊躇う様子も見せずにその手袋を右手にはめてみせた。確かに彼の手にはかなり大きく、指先が余っている。 その瞬間、俺の脳裏にある夜の出来事が過った。
 ルイスの目を逃れて、この庭の隅で煙草をふかしていた時のことだ。そろそろ義手のメンテナンスに行くべきかと考えながら、俺は何気なく手袋を外して傍らに置いたのだ。
 だがその数分後、義手の検分を終えて再び手袋をはめ直そうとすると、それは忽然と姿を消していた。
 風のない夜で、遠くに飛ばされたとも思えない。俺はしばらく辺りをきょろきょろと見回したが、どこにも見当たらない。仕方がないので、夜が明けたら探そうと部屋に引き上げて、それきり忘れていたのだ。
 あの時、姿の見えない少年が俺の背後に忍び寄って、手袋をくすねていたのか?
 その場面を想像するとぞっと怖気が走った。

「返してくれるの?」

 フレッドが虚空に向かって問いかけた。当然ながら、返事はない。だが彼はちょっとだけ微笑んで「ありがとう」と続けた。

「ば、馬鹿、礼なんて言うな。人の手袋盗みやがって」
「盗んでなんかいないよ。きっとモランと遊びたかっただけだ。宝探しだよ。モラン、植木鉢の下とか花壇の奥まで、ちゃんと探さなかったでしょ?」
「それは……」
「返そうと思って、ずっと持っててくれたんだよ」

 フレッドが確信を込めてそう言うので、つい納得してしまいそうになった。





 庭を引き上げてホールで待っていると、程なくして三兄弟たちも二階から降りてきた。

「ごめんね。付き合ってもらって」
「全然! お目当てのものは見つかった?」

 ボンドがにこやかに応じる。

「モランさんどうしたんですか? 幽霊でも見たような顔をして」
「……別に」

 ルイスの言葉にどこかおちょくられているような気がするのは、考えすぎだろうか。庭で起こったことを思うと、あながち見当違いな比喩でもないのだからたちが悪い。
 ちらりとフレッドの方へ視線をやってみても、彼は何の異常にも遭遇しなかったとでも言うようにけろりとした顔をしている。適応力の高いボンドは言うまでもなく。

「アルバート様、大丈夫ですか?」

 俺の葛藤を無視して、フレッドが心配そうに尋ねた。言われてみると、アルバートはどこか疲れた顔で、一人だけ椅子に腰掛けている。

「ああ、ありがとう。大丈夫だよ。久しぶりに遠出をしたから、疲れてしまってね」
「お前、その椅子、どこから持ってきたんだ?」
「ん? 降りてきた時にはここにあったよ」

 アルバートは事もなげに答えた。

「……誰がここに置いたんだ?」

 尋ねてみても、誰からも答えは返ってこない。
 ホールのど真ん中に、馬車を待つ間ひと休みするのにちょうどいい椅子など置いていなかったはずだ。そもそも、三年間放置された屋敷のどこに、潔癖症のアルバートが腰を下ろせるくらい綺麗な椅子があるというのだ?
 アルバートは、考え込む俺の顔からつま先までをしげしげと眺めて呆れたように顔をしかめた。

「それよりも大佐、いい年をしてどろんこ遊びかい?」
「は? うわっ」

 自分の足元を見て、俺は声を上げた。
 スラックスの裾にべったりと泥がこびりついていた。同じく庭にいて、しかも地べたに座り込んでいたはずのフレッドは何ともない。
 となると、もう心当たりは一つしかなかった。
 ボンドがおかしそうにケラケラと笑う。

「あーあ、モランくん、やられたね」
「畜生、あのクソガキいつの間に……」
「え? 子どもがいたんですか?」
「あっ、いや……」
「わ。モラン、背中も泥だらけだよ」

 俺の背中を覗き込んだウィリアムが言った。

「なんだって? くそっ……」

 俺は身をよじりながら、反射的に大鏡の方を見た。煤けた鏡面にちょうど俺の背中が写っている。確かに、腰のあたりに泥で汚れた手を擦り付けたような跡があった。

「誰かにいたずらされたの? モラン」

 ウィリアムが笑いを含んだ声で尋ねた。
 笑い事じゃないと抗議をしてやりたかった。
 だがその時、視線を自分の背中から外して初めて、俺は大鏡に写ったものの全体像をちゃんと見た。
 鏡に背を向けて立った俺の後ろ姿。椅子に腰掛けたアルバート。そして、俺を取り囲んで立つウィリアム、フレッド、ボンド、ルイス……。
 ルイスの隣、鏡に写る俺のすぐそばに、深緑色のドレスを来た娘が立っていた。さらに彼女のそばにはよく似た顔立ちの少年が立っている。
 鏡越しに目が合うと、二人はこちらに向かってにっこりと微笑んだ。
 心臓が止まるかと思ったが、何とか悲鳴はあげずに持ちこたえた。俺は他の面々に悟られないように、深く、ゆっくりと息を吐き出す。
 唇の片端を持ち上げて不格好に笑い返して見せると、姉弟の姿は煙のようにかき消えた。





おまけ ダラムの屋敷の幽霊たち

■書斎の旦那様
屋敷の幽霊の中ででいちばん偉いけど、物質に干渉できるほど強くない。壁の文字もメイドに頼んで書いてもらったが、誰も読んでくれなくてちょっと落ち込んでいる。
話し好きで、ウィリアムが寝落ちしたらまた夢に出て話し相手になってほしいと思っている。

■手だけのメイド
ものを自由に動かせるので、家具を揺らしたりドアを開け閉めしたりして侵入者たちを驚かせる係。掃除だけは「幽霊屋敷らしくなくなるから」という理由で旦那様に禁じられていたが、自分の部屋(現ボンドの部屋)だけはこっそり綺麗にしていた。
ウィリアムたちが急に屋敷を訪れたので「こんな荒れた屋敷でお迎えするなんて…」と内心悔しく思っている。

■深緑色のドレスのお嬢さん
気に入った男性の前にしか姿を現さない。相手が驚き慌てる姿を見るのが好きだったが、屋敷に入り込んだゴロツキたちにはいまいちピンと来なかったので放置していた。
しかし侵入者たちが庭に向かった時だけは弟が心配で窓から顔を覗かせ、彼らを震え上がらせていた。

■庭の男の子
いつも庭で遊んでいる。「生き物にいたずらしちゃ駄目」と言われたことを覚えてはいたが、根がいたずらっ子なので庭を荒らす侵入者たちの靴紐を解いたりポケットに泥団子を詰め込んだりしていた。
三年前、見たことないくらい大きなモランの手袋が珍しくてつい手を伸ばしてしまった。



初出:Pixiv 2024.04.14

ダラムの幽霊屋敷
 ダラムのお屋敷が幽霊屋敷だったら……という話。

「なあ。あんた、モリアーティ家の?」

 そう声をかけられたのは、ルイスの使いでダラムの街に出ていたときだった。
 振り返ると、通りで立ち話をしていた街の男たちがこちらを見ている。その視線に宿っているのは、屈託のない興味と好奇心だった。

「はい。……先日から、お世話になっています」

 特に嘘をつく理由もないので、フレッドはそう答えた。
 男たちは顔を見合わせ、リーダー格らしき男が進み出てにこやかに挨拶をした。

「俺たちはここらで商売やってるもんだ。互いに世話になる機会もあるだろうから、そん時はよろしくな」
「あ、はい……こちらこそ、よろしくお願いします」

 フレッドはぺこりと頭を下げた。

「ところであんた、モリアーティ様のお屋敷に住み込みで働いてるんだろう」
「ええ」
「幸せ者だな。若先生はそこらの貴族様と違って偉ぶったりしないし、良い方だろう」
「はい、それはもう」
「……で、あの屋敷、どうだい?」
「どう?」

 フレッドが首を傾げると、男はこちらに顔を寄せながら声を潜めた。

「……『出る』って、ほんとうかい?」

 何が、と言われずとも、おおよそ検討はついた。
 モリアーティ家が買い取った家具付きの由緒ある――率直に言うと、中古の――屋敷には、『幽霊が出る』と地元の人間たちの間では昔から噂になっていたらしい。つい数年前に先代の所有者がダブリン男爵に追い落とされて悲劇的な末路を辿ったことも、真偽不明の噂話に箔をつけていた。
 いかにウィリアムが気さくで街の人間たちとも距離が近いとはいえ、貴族相手に『おたくの屋敷、幽霊が出るってほんとうですか?』とはさすがに聞きづらい。だから、あえて年若い使用人の自分に声をかけてきたのだろう。

「何もおかしなところはありませんよ」

 フレッドは首を振った。

「ウィリアム様もその噂を小耳に挟んでいたそうですが『引っ越し以来何も起こらない』とがっかりされているようです。……あ、これは弟のルイスさんから聞いた話で……内緒にしてくださいね」

 適当に話を作ってそう付け足すと、男たちは「なんだぁ」と大げさに残念がった。

「俺、確かに見たんだけどなぁ。あの屋敷が無人だった頃、窓辺に女の影があったんだ」
「見間違いじゃないか?」
「あの立派な学者先生の前じゃ、幽霊もさぞや肩身が狭いだろうよ」
「俺はむしろホッとしたな。幽霊騒ぎが起こってモリアーティ様がダラムを離れちまった日にゃ、それこそ俺たち全員化けてでるハメになっちまう」
「違いねぇ!」

 フレッドは陽気に笑う男たちの輪から、そっと抜け出した。


 それからほどなくして、フレッドは用事を済ませて屋敷に戻った。
 門の前で一度立ち止まって、生け垣と塀に囲まれて静かに立つ屋敷を改めて見上げてみた。
 時代遅れの外観は、言われてみれば確かに幽霊屋敷らしい鬱々とした雰囲気をまとっているようにも見える。しかしそれは比較の対象が、ロンドン郊外に構える新築のモリアーティ邸だからではないだろうか。町の人々が噂するような不吉な因縁のある場所だとは到底思えない。
 もっとも、あと何年か経ってここが稀代の大犯罪者たちの拠点の一つだと知れ渡ったら、もう絶対に買い手はつかないだろうな、ともフレッドは思うのであった。
 玄関を抜けて広間に入った。
 今日はロンドンからアルバートがやってくる予定だから、ウィリアムが駅まで迎えに行く手筈になっていた。彼はもう出て行ってしまった後だろうか。
 ホールはひっそりと静まり返っている。

「うわぁっ!!」

 突如、その静寂を破る悲鳴が響いた。
 フレッドは特に驚くこともなく、洗面所の方へ顔を覗かせた。

「モランどうしたの?」
「ちっくしょう、またあの女だ!」

 悔しそうに悪態をつくモランの顔と手は水で濡れている。おおかた、ついさっき起きたばかりで顔でも洗っていたのだろう。
 フレッドは洗面台の横に引っかけられていたタオルを取って、彼に差し出した。ついでにちらりと鏡を覗き込んでみたけれど、そこには無愛想なフレッドの顔が映り込んでいるだけだ。

「ちょっと、モランさんうるさいですよ!」

 廊下の向こう、キッチンの方からルイスが出てきた。おつかいを思い出したフレッドは、彼のもとへ駆け寄った。

「お砂糖、買ってきました」
「ああ、ありがとうございます」

 紙袋を開けて中身を確かめながら、ルイスが耳打ちした。

「モランさん、またですか?」
「……みたいですね」

 ルイスははぁ、とため息をついた。

「まったく……こんな時間まで寝ているからですよ。アルバート兄様が着く前に窓を磨いておいてほしかったのに」
「僕、手伝います」
「ええ、すみませんがお願いします」

 ルイスはせかせかとした足取りでキッチンへ引き上げていった。


 小一時間後、ウィリアムとともに屋敷にやって来たアルバートは、モランの話を聞くなり声を上げて笑った。

「大佐の背後を取るとは、たいした『お嬢さん』じゃないか」
「笑いごとじゃねぇぞ、アルバート! よりによもよってこんな幽霊屋敷を買いやがって!」

 モランは苛立たしげに頭を掻きむしった。
 街の人々が噂していた通り、モリアーティ家が買い取ったこのダラムの屋敷はいわゆる『幽霊屋敷』だった。
 それらしい逸話は色々あったが、特に頻繁に姿を見せるのは深緑色の格子柄のドレスを着た女性の幽霊だ。モリアーティ家ではとりあえず、彼女のことを『お嬢さん』とあだ名している。
 ふとした瞬間――例えば、顔を洗ってタオルを取ろうと視線を上げた時や、深夜に暗い廊下を歩いていた時なんかに――鏡や窓ガラスに映り込んでいるのだという。
 ちなみに、主に被害を受けているのはモランだ。フレッドはまだ一度も見たことがない。
 アルバートがわざわざこちらの屋敷にやって来た目的も、言ってしまえば物見遊山だった。ロンドンに戻るたびモランが大騒ぎで苦情を並べ立てるので、それなら私も見てみたい、と。

「いつも同じ女性なのかい?」
「何人もいてたまるかっつの」
「大佐に何か恨みがあるとか?」
「んなわけあるか! そんな知り合いいねぇし、そもそもこのダラムの屋敷にしか出ないんだぞ」
「アルバート兄さん、その『お嬢さん』なら僕も見たことがあるんですよ」

 ウィリアムが助け舟を出した。

「そうなのかい?」
「ええ。ここに越してきて数日経った頃でしょうか。ロンドンへ戻られる兄さんを見送った夜だったと思います」
「その時は僕も一緒でした。兄さんが突然『今、女の子がいなかった?』と言い出されるから驚きました」
「そうそう、鏡に写った僕の後ろに女の子が立っていたから驚いてしまって。でもそれからは見かけなかったから見間違いだったのかと思っていたんだけど……」

 その数週間後にモランとフレッドが屋敷に招かれ、再び姿を見せるようになったというわけだ。

「何で俺のとこにばっかり出るんだよ……。お前らが鈍すぎて気づいてねぇだけだろ、絶対」
「モランさん、気に入られたんじゃないですか?」
「やめろ!」
「ほんの一瞬しか見てないけど、にこにこしてて可愛らしい人だったよ?」
「笑ってんのが逆に怖えよ!! それにどんな美女でもいきなり背後に立たれてたら普通に驚くだろ、殴って追い払える相手じゃないからどうしようもねぇし!!」

 モランは自分の膝を拳で打ちながら熱弁した。
 毎度これだけ良いリアクションをしてくれたら幽霊も喜ぶのではないだろうか。気に入られたという説もあながち間違っていないように思える。

「ルイスとフレッドは、彼女を見たことはないのかい?」 

 アルバートの問いに、二人は揃って頷いた。

「あ、でも、僕は彼女でなければ見たことがありますよ」
「はぁ!?」
「ほう。それはどんな?」
「ほんの数日前の、深夜です。兄さんがお休みになられたのを見届けて僕も部屋に下がったのですが、ティーセットを流しに置いたまま、片付けるのを忘れていたことを思い出したんです」

 モランが「それくらい次の日でいいじゃねぇか」と茶々を入れたが、ルイスは無視して話を続ける。

「自分の部屋を出て一階に下りると、キッチンの方から人の気配がしました。食器が触れあうような物音も……。てっきり、モランさんがまた盗み食いでもしているのかと思って、現場を抑えようと足音を殺してキッチンへ向かいました。
 廊下からそっとキッチンを覗き込むと、そこに人影は無く……、かわりに、一対の白い手が浮かんでいました」
「手?」
「はい。暗闇の中に、真っ白い、女性の手だけが。水道の蛇口をひねって、僕がしまい忘れていたティーセットを洗ってくれていたんです」

 アルバートが興味深げに、ほぅ、と顎に手を当てた。

「それで、どうなったんだい?」
「それだけです。食器を洗い終えて、蛇口を締めて水が止まると同時に白い手もふっと消えてしまいました」
「へぇ、不思議な話だね」
「ちなみに、今お使いいただいているのがそのときのティーセットです」
「そういうオチはいらねぇんだよ!!」

 がちゃんと音を立てて、モランが叩きつけるようにカップをソーサーに戻した。ルイスが眉を吊り上げる前にフレッドはふきんを手にとって駆け寄った。大丈夫、割れてはいない。

「不思議だけど、なんだが心温まる話だね」
「ああ、ルイスの紅茶がますます味わい深くなったようだよ。この屋敷のメイドだったのかな?」
「正気かお前ら……」

 モランが頭を抱えながら呻いた。

「ふむ。となると、この屋敷には少なくとも二人の先住者がいるのかな?」
「あ、兄さん。『旦那様』のお話はされなくてもよいのですか?」
「『旦那様』?」

 モランとアルバートが声を揃えて問い返した。どうやら、初耳なのはフレッドだけではなかったらしい。
 ウィリアムはうーん、と首を捻っている。

「僕、別に幽霊だとは思ってないんだけどなぁ」
「まだいんのかよ!? 勘弁してくれ……」
「聞かせてくれないか、ウィル」
「はい。ええと……このダラムに来てから、二階にある僕の書斎で夜更かししていると、よく同じ夢を見るんです」
「夢?」
「はい。僕は書斎で論文を書いたり、本を読んだりしています。すると、誰かが部屋をノックします。僕はてっきりルイスだろうと思って『どうぞ』と返事をするのですが、入ってくるのは口ひげを生やした紳士なんです。
 何というか、色褪せた肖像画から飛び出してきたような……威厳があるけれどどこか古めかしい雰囲気の方でした。服装や髪型がそう思わせるのかもしれません。彼は暖炉の前のソファに腰掛けて、僕に話しかけてきます。内容はよく覚えていないのですが……歴史や文学に造形が深くて、僕の数学の話も面白そうに聞いてくれたとおぼろげに記憶しています。とにかく博学な方で、気がつけばつい話し込んでしまうんです」
「ほう」
「だけど最後はいつも同じで、誰かがまたドアをノックするんです。そして、部屋の外から『旦那様、お時間ですよ』と年配の女性の声がして、そこでいつも目が覚めます」
「………」

 これといった何かが起こっているわけでもないのに、なんだか不気味な後味だ。さすがのアルバートも、静かに紅茶を啜っている。
 しかし当のウィリアムは、犯罪相談役として見せる怜悧さを欠片も感じさせないほど、のんびりとした仕草で首をひねっていた。

「その声だけは何故かはっきり耳に残るんですよね。『旦那様』の話はほとんど覚えていないのに」
「これで少なくとも四人か。なかなか賑やかだね」
「いやいやいや。ウィリアムが聞いたその『声』ってのが、ルイスの見た『手だけのメイド』と同じやつかもしれないだろ。少なくとも三人、だ」

 四人も三人も変わらないように思えるが、モランは一応抵抗した。

「フレッドは?」
「え」
「フレッドはどうだい? そういう不思議なものを見たことがあるかな?」
「……いえ。僕は何も、見ていません」

 フレッドは首を振った。

「そうなのか。幼い子供や動物のほうが、霊的な存在には敏感だとよく聞くのだが」
「アルバート兄さん、フレッドだってもうそう幼くはありませんよ」
「ぼーっとしてるから気づいてないだけだろ」
「しかし、我が家が本物の幽霊屋敷だと広まってしまうのはあまり都合が良くないのではないでしょうか」

 ルイスの言葉に、一同は深く頷いた。

「街でも、少し噂になっているようでした。その場では否定しましたが……」
「悪ガキどもが肝試しに潜り込んできたら厄介だな。機密資料の大半はロンドンの屋敷とはいえ、こっちにも見られちゃマズいもんはある」
「それならちょうどいい。僕にプランがあるんだ」
「と、言うと?」
「新しい心霊スポットをでっち上げるんだよ」

 ウィリアムは人差し指をぴっと立てながら、言った。その表情は新しい悪戯を提案する少年のようで、皆も自然と彼の話に惹きつけられる。

「学生たちの間でも、フリーダさんが身投げした橋で似たような噂が持ち上がってるみたいでね。面白半分に騒がれるのは彼女にとっても本意ではないだろうし、何とかしたいと思っていたんだ」
「それは面白そうなプランだね」
「同感だ。ついでにここの連中もそっちに引越していってくれたらいいんだが……」

 犯罪卿とその仲間たちは、普段とは打って変わってどこか和やかな雰囲気で『計画』を練り始めた。





 その夜、フレッドが屋敷に戻ったのは深夜に近い時間帯だった。情報収集のため街に出ていたらすっかり遅くなってしまったのだ。偽心霊スポットに仕立て上げられそうな候補地の情報もいくつか仕入れられたから、明日さっそくウィリアムに報告しよう。
 三階の使用人フロアに上がると、廊下に人影があった。明かりも持たずに突っ立っていたから、自分と同じく三階で寝起きしているモランかと思ったが、違っていた。

「アルバート様?」
「ご苦労様、フレッド。早かったね」
「え?」
「ああ、庭にいる君の影が見えてね。上がってくるのが早かったね、という意味だよ。遅くまで大変だったね」
「……どうかされましたか? こんな所で……」
「いや、なに。こうしていれば例の『お嬢さん』に会えないものかと思ったんだがね。まさか私が女性に待ちぼうけを食らわされる日が来るとは」

 アルバートは冗談めかして笑ったが、彼に秋波を送るご令嬢たちが耳にしたらさぞ悔しがるだろう。

「……おそらくですが、『お嬢さん』は三階には姿を見せませんよ」
「おや、そうなのかい?」
「えぇ。モランから聞いた限りでは、三階に出たことは一度もありません。ウィリアムさんが彼女を見たのも、広間の大鏡だったそうです」
「そうだったのか」
「服装からして身分のある女性だったようですし、使用人フロアには上がってこないのではないでしょうか」
「なるほど、生前の行動範囲か」

 アルバートがぽんと手を叩いた。
 モランが文句を言いつつこの屋敷での暮らしに何とか耐えているのも、寝室の周りに彼女が現れないことが大きいだろう。幽霊といえど異性の寝室にまでは入り込まないあたり、彼女はやはり立派な淑女であった。

「あくまで推測なのですが……」
「いや、大佐にばかり顔を見せると聞いたから、彼の部屋のそばの方が可能性があると思い込んでいたよ。ありがとう、フレッド」
「いえ……」
「となると、『お嬢さん』にお目通りするのは諦めて、ウィルの部屋で『旦那様』を待ってみようかな。『手だけのメイド』を探そうにも、わざと食器を出しっぱなしにしておくのは忍びないからね」
「……そんなに、会ってみたいものですか?」

 フレッドの質問に、アルバートは「信じてはいないよ」と唇の端を上げながら答えた。

「もし本当に幽霊なんてものがいるとしたら、真っ先に私のところにやって来るだろうからね。……だからこそ、本当にいるのなら見てみたいと思ったんだ」

 アルバートはそう言って、踵を返した。

「じゃあ、おやすみ、フレッド。君の熱心さには庭の花たちも喜んでいるだろうけど、あまり無理はしないようにね」
「……はい、おやすみなさい。アルバート様」





 あくる朝、フレッドは日の出とともにベッドを出た。
 身支度を整えて一階へ降りると、ルイスもすでに起きているらしい。キッチンの方から温かい空気とパンの焼けるいい匂いが流れてくる。
 フレッドはまっすぐに庭へ出た。
 ウィリアムたちが起きてくる前に、花瓶の花を入れ替えておきたかったからだ。芝生はまだ夜露に湿っていて、朝のしんと冷えた空気を吸い込むと、すっきりと気分が良くなる。
 このダラムの屋敷の温室は、ロンドンの本邸のそれに比べると小さく、まだ花も疎らであった。それでも、気のいい住民たちに株ごと分けてもらった薔薇たちが少しずつ元気を出し始めたところだ。
 フレッドは特に美しく咲いた薔薇の幾本かを切り取り、温室の隅の小さな作業台に運んだ。花瓶にさす前に、棘を落としておかなければならなかった。
 ハサミを茎に滑らせる。軽く力を込めると、小さな棘がぷちぷちと落ちていった。葉の影に落とし忘れがないか確認し、次の一輪へ手を伸ばす。
 その時、ちゃぷん、と水の跳ねる音がした。
 フレッドは思わず振り返る。
 蛇口を締め忘れただろうか?
 しかし水道は温室の外だ。水が漏れていたとしてもここまで水音が聞こえるはずがない。そもそも今朝はまだ水やりはしていないので水道に触れてもいなかった。
 訝しんでいると、またちゃぷりと水が跳ねた。
 息を潜めていたから、今度は音の発生源がわかった。すぐ足元だ。フレッドは作業台の下を覗き込んだ。

「……あ」

 足元に置いてあったじょうろに水が並々と注がれていて、その中を魚が泳いでいた。二、三匹はいる。フレッドの親指ほどの大きさしかない魚とはいえ、じょうろの中に押し込められて窮屈そうだ。
 魚たちが飛び出さないように注ぎ口を手で抑えながら、小走りに温室を出た。
 屋敷の裏庭には、石を組んで作られた小さな溜め池がある。水の中にじょうろごと浸けこむと、魚たちはすいすいと泳いで出ていった。その姿は濁った水の中に紛れてすぐに見えなくなる。
 じょうろが空になったのを確かめてほっと息をつくと、背後からくすくすと忍び笑いが聞こえた。

「……もう。駄目だよ、生き物にいたずらしちゃ」

 指先から適当に水気を払って、フレッドは温室に戻った。さくさくと芝生を踏む足音が、後ろからもうひとつ付いてくる。

「じょうろみたいに狭いところに押し込められると、魚でも息ができなくなって死んじゃうんだよ」

 口にしてから、無神経な言葉だっただろうかと少し後悔した。
 この庭にも、幽霊と呼ばれるべき存在はいた。
 庭仕事をしているといつの間にか後ろをついてきて、フレッドの手袋やハサミを隠したり、タイルの上に泥の手形を残したりと、時折かわいい悪戯をしかけてくる。おそらくはまだ小さな男の子だ。姿を見たことはなかったから、「何も見ていない」という言葉は嘘ではない。
 昨夜アルバートに姿を見られていたことを教えてあげた方がいいだろうかと逡巡したが、結局やめにしておいた。アルバートは彼の影をフレッドと勘違いしていたし、自分の胸のうちにしまっておけば問題ないだろう。恥ずかしがりの彼が、この庭にまで居づらくなってしまったら可哀想だ。
 作業台に戻ったフレッドは、棘取りを再開した。
 斜め後ろに、気配を感じる。姿は見えなくてもそこにいるのがわかる。フレッドの背中越しに作業台を覗き込んで、熱心に見学しているようだった。
 彼が――彼らが、何を思ってこの場所に留まって、何のために自分たちにその存在をアピールするのかはわからない。それでも、フレッドは別段彼らのことを恐ろしいとは思わなかった。
 フレッドは池には魚が泳いでいたほうが嬉しいし、花壇には花がないと寂しいと思う。きっと彼らも、空き家よりも人が住んでる家のほうが好きなのだろう。

「きれいに咲いたよ」

 呟くと、背後の彼が笑みを漏らすのがわかった。
 温室を出て扉を閉めると、作業台の上に一輪だけ残された薔薇が、風もないのにころりと転がった。
 さて、アルバートは幽霊に会えただろうか。
 フレッドはまだ朝露に濡れた薔薇を腕に抱えて、朝食の席に向かった。

初出:Pixiv 2023.01.30

また朝が来たら
 人狼パロ本編①と②の間のお話。

 小さな寝息が聞こえてきて、フレッドはそっと身体を起こした。
 椅子の上で、ブランケットで首元まですっぽり覆い隠して、ルイスが寝息を立てている。足音を立てないようにそっと近づいて、首を伸ばしてその顔を覗き見る。
 記憶の中の彼より背が伸びて、頬の丸みが取れて、声が低くなっている。撫でてくれた手のひらも、あの頃とは違って指先がすらりと伸びた大きな手のひらに変わっていた。
 それでも、彼は変わらず優しかった。
 フレッドは左の前足に巻いてもらった包帯に鼻先を寄せた。
 モランにも怪我の手当をしてもらったことはある。ウィリアムやアルバートだって、夜にこの姿で会うと必ずと言っていいほど頭を撫でてくれた。もちろん、そのどれもが嬉しかった。
 けれどこんなふうに、走り出したいほどの衝動に襲われることがあっただろうか。
 彼が息をしているのが聞こえる。
 間に合って良かった。
 狼たちがざわつく気配に嫌な予感がして、様子を見に行ってみたのは偶然だった。彼が追われていると分かったときは心臓が止まるかと思った。
 この姿でよかった、と思ったのは生まれて初めてかもしれない。フレッドは声を立てないように注意しながら、しばらく彼の足元にうずくまっていた。


 やがてフレッドは静かに立ち上がって、ドアの脇の小さな板戸をくぐった。
 小屋の外に出ると、研ぎ澄まされた感覚が瞬時に周囲の状況を把握する。木立の向こう、真っ黒に塗りつぶされた闇の中から、微かな足音と息遣いを感じた。

(いる……)

 先ほど追い払った群れの狼たちだ。
 フレッドは注意深く小屋の前に腰を据えた。
 攻撃の気配はない。が、じっとこちらを窺っている。
 怒っているだろうか。それも無理はない話だ。
 彼らからすれば、自分たちの領域に踏み込んできた人間に思い知らせてやろうとしただけにすぎない。フレッドはそこにしゃしゃり出てきて噛みついたのだ。
 森の中でのフレッドの立場は微妙だった。
 狼たちと何回か対話を試みたことはある。けれど――やはりと言うべきか、彼らはフレッドを異物として認識した。中途半端に姿形が似ている分、よりいっそう強い忌避感を抱いているようだった。
 結局彼らと歩み寄ることは叶わず、フレッドはおそらく『人間側に属する何か』として認識されている。数年間モランのもとで暮らしていたことも大きいのだろう。
 実際には人間たちともそこまで深く関わっているわけではないのだけれど、それは彼らにとってはどうでもいいことだ。
 そういうわけで、フレッドと狼たちはお互いに干渉せず、ほどほどの距離を保って暮らしてきた。
 今回の一件を彼らはどう捉えるだろう。
 もし彼らが獲物を奪い返しにフレッドの縄張りに踏み込んでくるのであれば、戦うつもりだ。この扉は朝まで守り抜く。
 フレッドはじっと小屋の前に伏せていた。
 怯えも緊張もない、ただ静かな気持ちだった。
 どれくらいの間そうしていただろう。木陰から様子をうかがっていた一頭がくるりとこちらに背を向けた。彼に続いて、小屋を取り囲んでいた他の狼たちもゆっくりと去っていく。
 気配が完全に消えたのを見届けて、フレッドは立ち上がった。そしてようやく、小さく安堵する。
 争わずに済むならそれに越したことはない。ここでフレッドたちに手を出せば、銃を手にした森番や街の人間たちが動くだろう。人間を敵に回すことは彼らも避けたいはずだ。
 フレッドはその場で伸びをして、思考を人間の世界へと切り替える。
 今、何時だろう。
 狼の姿になると時間の感覚がいくらか鈍るが、零時は確実に回っているはずだ。
 フレッドは板戸に頭だけを突っ込んで、小屋の中を覗いた。ルイスは先程と同じ姿勢で眠っている。もし目を覚ましたとしても、夜が明ける前にわざわざ小屋の外に出たりはしないだろう。
 彼のそばに戻りたい気持ちをぐっとこらえて、フレッドは一気に駆け出した。
 今この姿のフレッドには、夜の闇は関係ない。地面を蹴る度、立ち並んだ木々がぐんぐんと後ろに流れていった。


 木立を抜け、高台に辿り着いた。坂道を一息に駆け上がったから、少しだけ息が上がっていた。
 足元に気を配りながら、首を伸ばして身を乗り出すと、遠くに街の明かりが見える。

(あ、やっぱりウィリアムさん達、起きてる……)

 ひときわ大きなお屋敷の窓から、煌々と明かりが漏れているのがわかった。ルイスが戻らないから、きっと心配しているのだろう。
 さて、どうしようか。
 フレッドは尻尾をゆらゆら揺らしながら考えた。
 ルイスが無事でいることをすぐに知らせに行くべきだろうが、今街まで下りていくのはリスクが大きい。ウィリアムたち以外にも起きている人間がいるかもしれないからだ。狼の姿で彼らに見つかってしまうと大騒ぎになる。
 人目につかずに屋敷まで行くルートはいくつか知っていたが、人間たちがルイスを探して普段通らない道をうろついている可能性は十分にあった。
 となると、やはりモランを頼るのが無難だろう。
 フレッドはもう一度森の中を走った。


 モランの森番小屋には、明かりが灯っていなかった。切り株に刺さったままの薪割り用の手斧がなんだかもの寂しい。
 裏手に回って、ひっそりと取り付けられたフレッド用の板戸に身を潜り込ませた。
 また酒場に出かけて留守だろうかという不安は、部屋の中に残る香ばしい匂いを嗅いだ瞬間に消え去った。彼が数時間以内にここで食事を摂った証拠だ。
 台所を抜けて暗い廊下を進むと、ぐぅぐぅとモランのいびきが聞こえてくる。
 モランは寝室のドアを閉めない。
 それはおそらく、フレッドと暮らしていた頃の習慣の名残だ。おかげでドアノブに煩わされることもなく、すんなりと彼の枕元までやって来ることができた。
 どうやって起こそうかと逡巡したが、彼はフレッドがベッドに近づくとすぐさま身を起こした。まだ開ききっていない目が、フレッドの姿を捉える。

「……何だ、お前か」

 寝起きとは思えない、明瞭な発音だった。
 お酒にも女性にもだらしないようで、いざという時は目をみはるほど機敏に動く。フレッドはモランのこういうところを信頼していた。

「狼に寝室に潜り込まれるって心臓に悪ぃな……で、どうかしたか? 火事か?」
(ちがう)フレッドは首を振った。

 何の用事もなく、フレッドが夜中にわざわざ訪ねてくることはない。そのことを分かっているから、モランは眠い目を擦りながら明かりを点けた。

「じゃあ怪我人か」
(ちがう)
「密猟者?」
(ちがう)
「遭難者」
(おしい)
「遭難か? 場所は?」

 モランは壁に貼りつけてあった地図を剥がして、床に広げた。フレッドは前足で位置を指し示す。

「お前んちじゃねーか」
(そう)
「危険な状況ってわけでもなさそうだな」

 頷くと、モランは姿勢を崩して床に胡座をかいた。ふぁあ、とひとつ大あくび。

「道に迷ったやつに居座られてんのか? こんな時間に森に入り込むなんて、密猟者じゃねーのか」
(ちがう)
「街の人間? 知ってる奴か?」

 フレッドは頷いた。
 それがルイスであることをどう伝えようかと迷った時、アルコールの匂いが鼻をついた。窓辺のテーブルの上に、ワインボトルと空のグラスがある。寝る前に飲んだまま、出しっぱなしなのだろう。
 モランは普段ワインをあまり飲まない。おそらく誰かにもらったもののはずだ。そしてボトルの中の赤い液体がグラス一杯分だけ減っているところを見るに、どうやら開けたばかりらしい。
 フレッドはテーブルに駆け寄って、ワインボトルを指し示した。
 モランは眉根を寄せる。

「ワイン? アルバート……いや、ルイスか!」

 肯定するように一声吠えた。
 この時間帯、狼の姿のフレッドは当然喋れない。不便ではないかと心配されることもあったけれど、普段から無口なフレッドが夜の間だけ喋れなくなったところで思ったより意思疎通には困らなかった。今ではもう慣れたもので、昔アルバートにもらったアルファベット表は、折り畳まれて棚の隅で埃を被っていた。
 モランがため息をつきながらがしがしと頭を掻く。

「はーっ、何やってんだあいつ。後でウィリアム達にどやされるな……やっぱり送っていくんだった……」

 重い腰を上げて、モランは身支度を始めた。

「それで、お前とうとうバレたのか」
(バレてはない……一応)フレッドは首を振った。
「まぁ時間の問題だろ。いい機会だし、もう名乗りでちまえよ……あー、わかったわかった。黙っとくから噛むなって」

 モランは手にしていたベルトを軽く振って、フレッドを追い払った。

「ったく……うわ、もう三時過ぎてるのか。先にルイス迎えに行った方がいいな」

 コートのポケットに入れっぱなしの懐中時計を取り出して、モランがつぶやいた。

「お前、ウィリアムたちのとこに知らせに行けるか?」
(多分無理)

 今は街に近づかない方が得策だろう。フレッドが首を振ると、モランも理由に思い当たったようだった。
 ウィリアムもアルバートも、帰らない弟を心配して街中探し回っているだろう。昼間にモランのところを訪ねていたことは知っているはずだから、今頃は街の人たちが、彼らが夜の森に踏み込まないように必死に宥めているはずだ。

「わかった、俺がルイスを迎えに行く。あいつにはうまく言っとくから、お前は後でウィリアムたちに説明しとけよ」

 外に出た途端モランが煙草に火を点けたので、フレッドはさり気なく風上に移動する。彼と暮らすうちに多少匂いには慣れたけれど、やはり苦手なものは苦手だ。この姿のうちはなおさら。

「ったく、あいつ何でまっすぐ帰らなかったんだ……」

 紫煙を吐きながら、モランがつぶやいた。
 そういえば。
 フレッドはその理由について思い当たることがあった。ルイスはきっと、万年筆を探していたのだ。眠る前にそんなことを話していた。
 夜明けまでまだ時間はある。今のフレッドなら、ルイスが昼間に通ってきた道が何となく分かった。夜目も利くから、落とし物探しもお手の物だ。
 先を行くモランは用心として、きっちりと整備された猟銃を背負っていた。彼のことは心配ないだろう。

「おい、どこ行くんだ」

 道を外れると、モランが声を上げた。
 フレッドは立てた尻尾をくるりと回して応える。二人で決めた、「大丈夫」や「問題なし」の合図だ。
 モランがため息をつきながら片手を上げたので、フレッドは振り返らず駆け出した。
 万年筆の一本くらい、朝になってからゆっくり探すこともできただろう。それでも、彼ががっかりしながら家に帰らずに済むように、なるべく早く見つけて渡してあげたかった。
 あと一時間と少しで夜が明ける。
 夜の森を吹き抜ける風のように、音もなく、フレッドは走った。

初出:Pixiv 2023.06.11

また朝が来たら
 人狼パロ本編の前日譚。

 僕は部屋の隅の木箱の中で目を覚ました。
 窓の外から明るい日差しが差し込んで、その中を小さな埃がきらきらと光りながら舞っている。美しく晴れた朝だった。
 毛布をかき分けてのろのろと木箱から這い出すと、ちょうどモランもベッドの上で伸びをしていた。

「おはよう」
「おう」

 朝の挨拶をすると、モランは大あくびをしながら答えた。僕もつられて、ふぁ、とあくびをした。

「……お前、やっぱりベッドあった方がいいんじゃないか?」
「? 別に平気だけど……」
「うーん、まぁ、夜は……犬っころの姿のうちは別に何とも思わないんだけどなぁ。こっちの姿だとガキを床で寝かせてる罪悪感が……」

 ぶつぶつと何か呟いているモランを尻目に、用意しておいた服を着た。
 僕の寝床はモランが用意してくれた木箱だ。狼の姿でも出入りがしやすいくらいの高さに切ってくれて、やわらかい毛布が敷いてある。この中で丸くなると木のいい匂いがしてとてもよく眠れた。
 人間用のベッドは爪でマットレスを傷つけてしまいそうだし、地面から離れているのが落ち着かない。僕はこの寝床の方がよっぽど好きだった。
 寝室を出て、流し台で顔を洗った。
 朝、炉に火を入れるのは僕の仕事だ。
 背中にモランの視線を感じながら、マッチを擦った。ぱっと燃え上がる炎に怯まないように肩に力を込めながら、薪の上の新聞紙に火を移した。火は瞬く間に燃え広がって、やがて薪がぱちぱちと音を立て始める。僕は慌てて手を引っ込めた。
 炎に包まれた薪が、夕焼け空の太陽のように真っ赤になった。木片ではない、違う何かになったみたいだ。
 鼻先と頬にじんわりと熱を感じる。

「前髪焦がすぞ」

 いつの間にかすぐ後ろに来ていたモランが、僕のシャツの襟首を掴んで下がらせる。
 彼は薪の上に五徳を被せると、その上にやかんを乗せて「カップと皿、出してこい」とぶっきらぼうに僕に指示した。
 沸かしたお湯でお茶を淹れ、次にフライパンで卵とパンを焼いた。それらに森でとってきた木の実や果物を添えて、僕らの朝ごはんになる。
 パンをかじるモランを見るたび、大きな口だと感心した。
 誰かと同じテーブルについて食事をするのは不思議な気持ちだ。これまでは昼も夜もずっと一人で、手に入れた僅かな食べ物を口に詰め込むだけだったから。
 あの嵐の夜が明けて、僕は僕を助けてくれた男の子(ルイスさん、というらしい)のお兄さんたちに拾われた。彼らは人でも狼でもない中途半端な僕の身の上話を親身になって聞いてくれて、そして、僕をモランに預けた。
 モランは最初こそ、朝と夜とが入れ替わるたびに姿を変える僕に目を白黒させていたが、半年も経てばもうすっかり慣れてしまったようだった。
 前に、僕のことが怖くないのかと聞いたとき、モランは大笑いした挙げ句「お前なんかより虎のほうがよっぽど怖い」と答えた。

『トラって何』
『何って……うーん、猛獣だよ。オレンジと黒の縞模様で、噛みつかれたら牛だってひとたまりもない。腕はお前の胴体ぐらい太いな』

 僕は自分のお腹のあたりを見下ろした。
 トラは知らないけど牛は見たことがある。大きくて、爪も牙もない大人しい生き物だ。寒い夜は彼らの寝床に入れてもらうことも度々あったけど、前にうっかり踏み潰されそうになって以来あまり近寄らないようにしている。あの山のような巨体を倒してしまうのならそれは強くて恐ろしい生き物なのだろう。

『この森にはトラ、いる?』
『いねぇよ。ずっと南の、暑いところに住んでるんだ』
『モランは見たことある?』
『あるさ。こいつで仕留めて絨毯にしてやった』

 モランは壁にかけてあった猟銃を顎で示した。
 モランは牛よりも強いトラをやっつけたことがあると言う。僕は多分、牛にだって敵わない。だからモランが僕を怖がる理由もない、ということなのだろうか。何かがズレている気がしたけれど、そのときはそれでつい納得してしまった。

「おら、食い終わったなら皿洗え」

 モランに肩を叩かれた。
 ぼぅっと考え事をしていた僕は、カップに残った冷めたお茶を慌てて飲み干して、テーブルの上の食器をかき集めた。
 踏み台に乗り、流しに溜めた水で汚れた食器をじゃぶじゃぶと洗う。多少汚れが残っていてもモランは気にしないけれど、僕は何となく嫌だったので、皿にくっついた目玉焼きの黄身まで綺麗に洗い流した。

「今日は何するの」

 濡れた手をタオルで拭いながら、ブーツの手入れをしているモランに尋ねた。
 モランは森番だ。
 この森の持ち主であるアルバート様に代わって、木々の手入れをしたり道の維持管理をしたりして生活している。時には獣たちが街の近くへ出ていかないように脅かして追い払ったり、道に迷った人間を助けたりすることもあった。
 置いてもらう礼として、僕もその仕事を手伝っている。昼間はともかく、狼の姿になった夜の僕は人間よりもできることが多いので多少は役に立っていた。
 けれどモランの答えは、それらの仕事とはなんの関係もないものだった。

「今日は買い出しだ」

 僕は内心で落胆した。
 卵がもう最後の二つだったしお茶の葉も缶の底が見えるほど少なくなっていたから、そんな気はしていた。

「……いってらっしゃい」
「バカ、お前も来るんだよ。荷物持て」

 ぴかぴかに磨いたブーツに足を通しながら、モランが呆れたように笑った。




 人間の街に出るのはいつも緊張する。
 モランの小屋で安定した暮らしをさせてもらえるようになってから、その緊張感はかえって増した。僕の正体がばれたら、モランにも、ウィリアムさんやアルバート様にも、迷惑がかかってしまうからだ。
 森の出口が近づいてきて、僕は首に巻いていたストールを頭からかぶった。頭上から、モランの声が降ってくる。

「何ビクビクしてんだ。太陽もまだあんな高いところにあるんだから平気だろ」
「でも、僕のこと知ってる人がいるかも」
「んなわけあるか。人間はお前が思ってるよりずっとたくさんいるんだぞ」
「……そうなの?」
「そうだ。この街だけで何万人と住んでるんだ。皆いちいちお前の顔なんて覚えてねぇよ。もし言いがかりつけられたら『俺の甥におかしなこと言うんじゃねえ』って言ってやるよ」
「うん……」

 僕はしぶしぶ、ストールを首に巻き直した。

 モランはそう言ったけれど、街の入り口で僕らはすぐによく知った人間に出くわした。

「やぁ、モラン、フレッド」

 ウィリアムさんだった。
 彼は丸い帽子をちょっと持ち上げて、にこやかに挨拶してみせた。モランも「おう」と片手を上げて応じる。どうやら待ち合わせをしていたらしい。
 慌てて周囲を見回す僕に、ウィリアムさんは言った。

「大丈夫、ルイスは今日は学校に行っているよ」

 その言葉に、僕はほっと息をついた。
 ルイスさんは僕の正体を知らない。あの夜、ずぶ濡れで凍えかけていた僕を助けてくれたきりだ。
 今この姿であればもし顔を合わせてしまっても大丈夫だと思う反面、ばれてしまった時のことを思うと恐ろしかった。

「ウィリアムさんは、行かなくていいんですか?」
「学校? 僕とルイスは学年が違うからね。今日学校で行事があるのは、ルイスの学年だけなんだ。僕はお休み」
「ルイスさん、だけ……」
「ああ、もちろん他の生徒たちもいるから、ルイス一人で学校にいるわけではないよ。心配してくれてありがとう」
「……」

 僕は黙って首を振った。
 そうだ、人間はたくさんいるのだ。
 僕はウィリアムさんの背後の大通りを見やった。
 大人も子どもも年寄りも、すでに数えきれないくらいたくさんの人たちが行き来している。通りに軒を連ねる建物のひとつひとつがみんな誰かの家だとしたら、この街にはどれくらいの人が住んでいるのだろう。
 学校には同じ年頃の子どもたちが集められるそうだから、そこにはルイスさんの友だちもきっとたくさんいるのだろう。

「フレッド、ここでの生活は慣れたかい?」
「え……ええと、はい」
「朝ごはんは何を食べた?」
「パンと目玉焼き……」

 僕の答えに、ウィリアムさんはにっこりと笑った。「心配しなくてもちゃんと食わせてるよ」とモランが口を尖らせた。
 それからも彼は、森番小屋での生活についてあれこれと質問をした。普段は何をして過ごしているか。一番気に入っている食べ物は何か。モランはお酒を飲みすぎていないか。困っていることはないか。
 たびたび答えに詰まる僕を、ウィリアムさんもモランも急かさなかった。
 歩きながら話していると、やがて何度か訪れたことがある店に到着した。石鹸とかオイルとか、食べ物以外ならたいていのものが揃っている店だ。
 モランは品物と引き換えに、店主にコインを幾枚か渡した。僕もそのうち一人でできるようにならないといけないから、そのやり取りをじっと見ていた。

「フレッド、お会計は六シリングです」

 ウィリアムさんが僕に耳打ちした。
 彼が広げた手のひらの上に、形も大きさのばらばらのコインが数枚乗っている。僕は教えてもらったことを思い出しながら、コインを指さした。

「これと……これ?」
「正解。じゃあ十シリングは?」
「え。ええと……」

 聞かれて、僕は少し焦った。
 ウィリアムさんの手の上にあるコインをどう足してみても、十シリングにならなかったからだ。見落としはないかと僕が頭をひねっていると、ウィリアムさんはくすくす笑った。

「ごめんごめん、意地悪な問題だったね。ここにあるコインでは十シリングちょうどになる組み合わせは作れないから、多めに出してお釣りをもらうんだよ」
「お釣り……」
「そう。もらいすぎても少なすぎてもいけないから、しっかり計算しようね」

 僕がうなずくと「終わったか?」とモランの声がした。いつの間にか支払いも済んだようで、店主までもがカウンターの向こうでにこにこしながらこちらを見ている。恥ずかしくなってウィリアムさんの後ろに隠れた。

「モランさんに似てなくってかわいいねえ。ぼく、いくつだい?」
「フレッドは今年で九つになります」

 僕のかわりにウィリアムさんがはきはきと答えた。

「じゃあ、ルイス坊っちゃんの四つ下ですかい」

 店主はあごひげを撫でながら目を細めた。
 モリアーティ家の三兄弟がこの街の人たちからとても慕われているのは知っていたけれど、ルイスさんの名前が出てきて僕は少しどきりとした。

「昔、二人でうちに買い物にきてくれたときのことを思い出しましたよ。そうやってちっちゃい手のひらを突き合わせて、ルイス坊っちゃんにお釣りの計算を教えてあげていたでしょう」
「ふふ、そうでしたね」

 それはいくつくらいの頃の話なのか、二人で何を買ったのか、聞きたかったけど、言い出せなかった。

「ぼく、そこのブリキの馬、かっこいいだろう。そいつは一シリング七ペンスだよ。ぴったり出せるかな?」
「余計なもの買わせようとすんな!」

 店主の軽口に、モランがカウンターを拳で叩いた。彼はさっさと荷物を受け取ると「ほら、お前も持て」と、僕に小さい方の袋を押し付けた。





 それからも三人で街をぐるぐると歩いた。
 街には色んな種類の店がある。
 一軒目の店のように雑多な品物が棚という棚に詰め込まれたところもあれば、魚しか売ってない店、野菜しか売ってない店もあった。道端に敷物をしいて品物を並べただけの店もある。ウィリアムさんは天井近くまで本がぎっしり詰まった店に入っていったきりしばらく出てこなかったし、彼を待っている間モランの足元には吸い殻の山ができていた。
 くたびれてきた頃、屋台でサンドイッチを買って食べた。
 天気が良かったので広場のベンチに座ったのだが、大きな口であっという間に食べ終えてしまったモランは「煙草吸ってくる」と向こうに行ってしまった。
 次にウィリアムさんが食べ終わったのだけれど、僕の方がまだ時間がかかりそうだと見るや「慌てなくていいからね」と言って、買ったばかりの本を開いて読み始めた。しばらくして僕がようやく食べ終えても、全く気がついていない。
 退屈になって椅子の上で足をぶらぶらさせていると、鉢に植えられた花が目についた。読書に没頭しているウィリアムさんの邪魔をしないように、僕はそっと椅子から飛び降りた。
 その鉢植えは、広場の隅の店先にそっと置かれていた。新聞や煙草や飴を売っている店のようだから、誰も花には見向きしない。
 しゃがみこんで顔を寄せると、甘いような重たいような、不思議な匂いがした。
 この匂いを知っている。
 ルイスさんに出会ったあの夜に咲いていた花だ。
 ピンク色の薄い花びらが何枚も重なって、花弁はころんとまん丸い。茎には小さな棘があった。明るい場所で見るのはほとんど初めてだったけれど、とても可愛い花だった。

「綺麗でしょう? 最近の生きがいなのよ」

 店先の椅子に腰掛けていたおばあさんが、にこにこしながら僕に話しかけてきた。

「あなたが育てたんですか?」
「そうよ」
「すごいですね」
「あら、ありがとう。昔っから大好きなの」

 おばあさんは顔をしわくちゃにして笑った。

「若い頃は花壇や温室を作ってたんだけど、この歳になると庭に出るのも大変でね……。坊やにはまだ分からないでしょうけど。鉢植えなら、こうしてすぐそばに置いておけるでしょう?」

 僕はしばらくの間、おばあさんのガーデニング談議兼思い出話を聞かせてもらった。背中が曲がって髪も真っ白なのに、楽しそうに話す姿は小さな女の子みたいだった。
 話しているうちに、次のお客さんがやってきた。
 おばあさんは「はいはい」と明るい声で答えながら、杖をついて大儀そうに立ち上がった。

「また見に来てちょうだいね」

 彼女が覚束ない足取りでお客さんの方へ向かうのを見送っていると、大きな手でわしっと頭を掴まれた。

「わ」
「わ、じゃねぇよ。一人でふらふらするな」
「ごめんね、フレッド。ほったらかしにしちゃって」

 いつの間にかモランとウィリアムさんが荷物を抱えて後ろに立っていた。
 買い物をひと通り済ませて森番小屋へ帰ろうとする僕らを、ウィリアムさんは「あ、待って」と呼び止めた。彼は抱え持った本の中から、ひときわ薄い一冊を抜き取った。

「はい、これ。僕からフレッドに」

 おそらく、子供向けの本だ。
 あまり詳しくはなかったけれど、ウィリアムさんがよく読んでいるような、分厚くて文字の小さな本とは明らかに違う。
 表紙には人間の男の子の絵が描かれていた。木の下に腰掛けて、ひと休みしているところらしい。

「そろそろ読み書きもできるようにならなきゃね。僕も時間を見つけて教えてあげるけど、ひとまずはモランに教わるといい」
「……よみかき」

 僕は彼の言葉をオウム返しした。

「そう。できるに越したことはないと思うから」
「…………」

 差し出された本を見つめながら、僕は小さく首を傾げた。
 読み書きとは――文字とは、人間たちが情報を伝え合うための道具ではないのだろうか。少なくとも僕はそう理解している。モランの小屋に住まわせてもらってから、彼が新聞を読んで外の世界の情報を仕入れたり、遠くに住んでいる人と手紙でやり取りしているのを見てきた。
 僕はモランに一人で生きていく術を教わって、もう誰にも迷惑をかけないように静かに暮らすのだ。人間たちの間で何が起こっているのかを知る必要はないし、手紙を送りあう相手もいない。
 文字を覚えたところで、何の意味もない。

「フレッド、聞いて」

 ウィリアムさんの赤い瞳が、僕の目をまっすぐに覗き込んだ。僕は思わず背筋を伸ばす。

「読むことも書くことも、孤独と戦うためには欠かせない武器だ」
「……こどくと、戦う」
「そう。少なくとも僕はそう考えている。この先どんな人生を選ぶかは君の自由だけど、一人で生きていくことを選ぶなら、読み書きはできたほうがいい。きっと君の助けになってくれるから」
「……?」

 逆ではないだろうか、と思った。
 一人で生きていくのだから、文字なんか読めなくても困らない。
 それなのに。

「これ、小さかった頃ルイスが好きだった本なんだよ」
「…………」

 ウィリアムさんがそんなことを言うものだから、僕はついその本を受け取ってしまった。





 ウィリアムさんと別れて、僕とモランは家路についた。
 日暮れまではまだ時間がある。
 小道の脇に、ペンキで塗られた小さな看板が立っていた。『街まで二百ヤード』と書かれている。
 ヤードは距離を表す単位で、板の尖っている方が街の方角を示しているのだ。モランに教えてもらった。
 もっと奥の方へ行けば、『この先立ち入り禁止』とか『蛇に注意』とか書かれた看板もある。
 確かに文字が読めないと、道に迷ったり蛇に襲われたりして困ることもあるかもしれない。一人で生きていくのなら、誰かに尋ねるわけにもいかない。
 ウィリアムさんが言っていたのは、そういうことなのだろうか。
 小屋に帰って、買ったものをあるべき場所に片付けてから、僕はその本を開いた。
 ほとんどのページに表紙と同じ男の子が描かれていたから、これはきっとこの男の子に関する話なのだろう。並んだ文字はほとんど読めなかったので、とりあえず絵だけを見てみることにした。
 モランがこちらを気にしているようだったけど、僕が自分から声をかけないので彼も放っておいてくれた。
 はじめのうちは「絵が上手だな」と思って眺めていたはずなのに、いつしかそんなことは気にならなくなっていた。紙の上に描かれた絵にすぎないはずの男の子や動物たちが、実際に僕の目の前で生きて動いているような気がしてきた。
 狐にいじめられて泣いていたうさぎが、次のページではなぜか楽しそうにしていて少しほっとした。この小屋ほどもありそうな大きなトカゲ(に似た生き物)に男の子たちが食べられてしまうのではないかとはらはらした。
 こんな生き物がほんとうにいるのだろうか。この森にも住んでいないか、後でモランに聞かないといけない。男の子の足元に咲いている、この花の名前はなんだろう……。

「……あっ」

 僕は小さく声を上げた。
 本に夢中になるうちに、いつの間にか窓の外は暗くなっていたようだ。ページをめくっていた手にみるみる間に短い毛皮に覆われていく。そのうち椅子にも座っていられなくなって、床の上に這いつくばった。

「お、もうそんな時間か」

 猟銃の手入れをしていたモランが窓の外を見た。
 人を時計代わりにしないでほしい。僕は不満の声を上げたようとしたが、もう「ウゥ」という唸り声にしかならなかった。
 獣の体には合わなくなった人間用の服をその場に脱ぎ捨てて、落ちた拍子にページが閉じてしまった絵本を眺めた。

(……まだ、続きがあったのに)

 名残惜しいけれど、今の僕の手ではページをめくれない。爪で紙を傷つけてしまうのは嫌だ。続きは明日、日が昇ってからにしよう。
 モランが手を伸ばして、床に落ちた本を拾い上げた。その表紙を一瞥した彼は「お」と声を上げた。

「懐かしいな。まだ読まれてるのか、これ」

 モランは椅子に腰掛けて、一ページずつゆっくりと絵本をめくり始めた。足元で見上げている僕に気がつくと、彼は僕の頭をくしゃりと撫でた。

「俺も子供の頃読んでたよ。あぁ、そういえばこんなだったな。ルイスの好きそうな話だ。確か……」

 話の続きを聞きたくなくて、僕は部屋の外へ飛び出した。「おい、どこ行くんだ」とモランの声が追いかけてきたけれど、構わず廊下を走り抜けて僕専用の小さなドアから外へ出た。


 木々に囲まれた森番小屋の周囲は、すでに真っ暗だった。
 モランはただ話をしようとしてくれただけなのに、嫌な態度を取ってしまった。謝りたかったけれど、飛び出した手前すぐに戻るのも気が引けた。少しの間だけ散歩でもすることにして、僕はぶらぶらと森の中を歩いた。
 ルイスさんが好きだったというあの本のことを、モランは知っているらしい。僕は知らない。
 歩きながら考えた。
 ルイスさんには学校に大勢の友だちがいて、ウィリアムさんやアルバート様と数え切れないほどの思い出がある。誰が悪いわけでもないのに、そのことがむしょうに悲しかった。
 僕は彼の友だちでも何でもないし、彼と共有できるものを何も持っていない。
 あるとすれば、あの夜だけだ。
 すっかり日の落ちた森の中を歩き続けるうちに、小さな廃屋に行き当たった。
 モランの前の森番が使っていた小屋らしい。
 森のかなり深いところにあって街への行き来が不便なので、もう何年も前に捨てられた建物だ。
 一人で身の周りのことができるようになったら、僕はここに移り住むと決めていた。モランは「ずっとここにいればいい」と遠回しに言ってくれたけれど、それだけは譲れなかった。
 僕は自分の正体を人に知られるのが怖い。
 そして他の誰よりも、ルイスさんにだけは知られたくなかった。
 凍えながら一人で死ぬところだった僕を助けてくれた。膝の上に乗せて、頭を撫でてくれて嬉しかった。僕のせいで風邪をひいて苦しい思いをさせてしまった。
 お礼を言って、謝りに行かなければならないと何度も何度も考えたけれど、彼に何と説明すればいい。人でも狼でもない怪物であることを告白して、それで何になるだろう。
 僕を普通の子犬だと思い込んでいた彼は、僕のことを飼いたがっていた。友だちになれたかもしれなかった。彼に正体を知られて拒絶されない限り、あの言葉はいつまでも嘘にはならないと思いたかった。
 廃屋の周りをぐるぐる歩いているうちに、大きめのカップのようなものが地面に転がっているのに気がついた。
 ぼろぼろになってひび割れた植木鉢だった。
 鼻先でつついて転がすと、下から小さな虫が這い出した。長い間放置されるうちに植えられていた植物は朽ちてしまったらしい。底の方に干からびた土だけが残っている。

「…………」

 汚れた植木鉢を眺めながら、昼間に会ったおばあさんのことを思い出した。
 花というものは自然の恵みか、僕には想像もつかないような魔法の産物だと思いこんでいた。けれど、あの小さなおばあさんはそれをやってのけたと言う。
 それなら、僕にだってできないだろうか。
 小屋の周りには狭くとも開けた土地がある。ここを均して、花を植えるのだ。あの可愛い花がたくさん咲けば、この寂しい空き地もきっと素敵な庭になるだろう。花の香りを胸いっぱいに吸い込めば、あの夜の嬉しかった出来事をいつでも思い出せる。
 想像してみただけで、自然としっぽがゆらゆらと揺れた。
 遠くから近づいてくる足音があった。
 よく知っている音だったから、隠れたりしない。
 木立の隙間に揺れていた明かりがゆっくり近づいてきて、やがてモランが顔を覗かせた。彼は空き地に座り込んだ僕を見て、呆れたようにため息をつく。

「何やってんだ、いっちょ前に家出か?」

 モランが僕の首の後ろを掴んで持ち上げた。
 足が地面から浮いて、思わずばたばたともがく。モランはそんな僕を宥めながら軽々と片腕で抱えた。

「……お前、やっぱりここに移るのか」

 廃屋を見上げて、彼が言った。

「無理にコソコソ生きることないと思うぞ。今日だってお前、街のばあさんと普通に話せてたじゃないか。ヤバくなったら俺たちだってフォローする。ルイスだって……」

 モランは口ごもって、ぼりぼりと頭をかいた。

「ま、一人でメシの支度ができるようになってからだな」

 そう言って、くるりと踵を返した。
 モランの顔を見上げると、彼の頭上に夜空が見えた。ちらちらと星が瞬いている。
 前にモランは、星は道標だと言った。
 星さえ見えれば海の上でも砂漠の真ん中でも方角を見失うことはないと。
 ウィリアムさんは、あの星は人が一生かけてもたどり着けないほど遠く暗い空の彼方に浮かんでいるのだと言った。アルバート様は、あの光は天に昇った人たちの魂だとも言っていた。
 皆違うことを言うから最初は混乱したけど、きっとどの考えも正しいのだろう。今はどの考えも好きだった。
 あの人なら、何と言うのだろう。
 確かめることはできない。けれどそのことについて考えて、想像していたいと思った。
 あの本を好きだと思った理由を尋ねることはできなくても、自分で読むことができればその理由を考えることができる。彼の好きだったものを、僕も好きになれたら嬉しい。
 今日だけでやりたいことが二つもできた。
 モランに話せば、むなしいだけだと顔をしかめるだろうか。それでも、彼が頭ごなしに「駄目だ」と言うことはないともう知っている。
 昼間の外出もあって歩き疲れていた僕は、大人しく小脇に抱えられたまま、うとうとと舟を漕いだ。

初出:Pixiv 2023.01.13

The Heavenly Dispensing
 フレッド人狼パロ④

 その日は、いつもより少し早く大学の授業が終わる曜日だった。ウィリアムが馬車も使わずのんびりと歩いて屋敷に戻る頃には、日も傾きかけていた。
 屋敷の門をくぐって玄関でルイスの顔を見たとき、おや、と思った。いつもと同じように出迎えてくれたはずなのに、どこか緊張した面持ちだったからだ。

(何かあったかな)

 前を歩く弟の後ろ姿を眺めながら、ウィリアムは思案した。
 そして、居心地よく整えられた居間へ一歩足を踏み入れたとき、その違和感は確信に変わる。ソファにはすでに帰宅していたアルバートがくつろいだ様子で掛けていたのだが、テーブルの上には水色のストールが畳んで置かれていた。目の粗い生地のそれは、間違いなく彼のものではない。
 アルバートはこちらを見て、困ったように微笑んだ。顔を見合わせた兄たちの表情を見て、ルイスもまた、一つの確信を得たようだった。

「……やっぱり、兄さんも兄様も、ご存知だったのですね、彼のこと」

 彼、というのが誰のことか、もはや尋ねるまでもない。先日、彼がいるときにルイスが森番小屋へやって来たとモランから報告を受けたばかりだった。「もうまどろっこしいから会わせた」と開き直るモランに思わず苦笑いが溢れたことは記憶に新しい。
 もう一度アルバートと顔を見合わせてから、ウィリアムが口を開く。

「どうしてそう思ったの?」
「あの字は、ウィリアム兄さんのものでした」
「あの字?」
「詩の書き取りです。このストールの持ち主の小屋で、たまたまノートが開いているのを見てしまいました」
「……ああ、なるほど」

 ウィリアムは、確かに彼に字を教えていた。
 あの森の奥に閉じ籠もって暮らすなら必要のない知識だと彼は考えていたようだけど、素直な子だからちゃんと勉強を続けてくれていたのだろう。

「ランタンの明かりの中で、見えたのはほんの一瞬だけでしたけど……僕は間違えたりしません」

 ウィリアムは小さく頷いた。
 それはもちろんそうだろう。ルイスに字を教えたのも、ウィリアムなのだから。

「聞こうか聞くまいかずっと迷っていましたが……お二人とも、最初からご存知だったのですね」
「……うん」
「アルバート兄様も?」
「ああ。すまなかったね」

 謝罪の言葉に、ルイスは首を振った。

「モランさんが、兄さんたちには黙っていてほしいとおっしゃった時点で何となく察しはついていました。モランさんはいい加減な方ですが、森番としての信用に関わるような違反や隠し事を兄様たちになさるはずがありません。……兄さんと兄様が僕に余計な嘘を重ねずにすむように、ああおっしゃったのでしょう」
「さすがだね、ルイス」
「どうして、僕に黙っていたのですか?」

 ルイスは少しだけ眉を下げながら、そう尋ねた。読書に夢中になって夜ふかししているウィリアムを見つけたときと同じ顔だ。

「……怒ってないの?」
「怒ってはいません。でも、どうして僕にだけ……」
「あの子がそう望んだからだよ」

 その言葉を聞いた瞬間の、ルイスの可愛らしかったこと!
 怒ってない、と口にしたばかりなのに彼はむっとしたように顔をしかめた。
 フレッドがルイスに会いたくないと望んだこと。ウィリアムが彼の希望を優先して、ルイスに隠し事をするのを選んだこと。ウィリアムが彼を「あの子」と親しげに呼んだこと。
 ルイスがウィリアムと接する他者に焼きもちをやくことは幼い頃から幾度となくあったけれど、今回ばかりは少し様子が違っていた。彼は、ウィリアムに対してもいくらか嫉妬に近い感情を抱いている。そして、そのことに戸惑っているのだ。
 ウィリアムはにっこりと笑って、弟の手を取った。

「でも、こうなったなら僕も兄さんもルイスの味方だよ。知りたいのなら、彼に聞いておいで。今すぐに」
「え、今からですか?」

 ルイスは戸惑ったようにウィリアムの顔と窓の外を見比べた。暮れかかった大きな夕陽が、山の向こうからうるんだ光を投げかけている。じきに夜が訪れるだろう。

「もう日が暮れてしまいますし、それに、兄さんたちの夕食が……」
「ウィル、たまには二人で外に食べに行こうか」

 いつものようにおっとりと、しかし有無を言わさぬ口調でアルバートが割って入った。ウィリアムも「ええ、是非」と微笑み返す。

「だから、いってらっしゃい。ルイス」

 兄たちは笑って、ルイスの背中を押した。





 わけも分からないまま送り出されて、ルイスは屋敷から森へ続く道を走っていた。
 急がないと日が暮れてしまう。何より、フレッドの小屋へはあの夜一度訪れたきりで道がよく分からなかった。まず森番小屋へ行って、モランに道案内を頼むべきだろう。闇雲に歩きまわってまた道に迷ってしまったら笑い話にもならない。
 頭ではそう理解しているのに、ルイスは記憶を辿りながら森番小屋へ向かう道を外れていた。夕陽に背を向けて、暗い方へ。 

「……フレッド、フレッド! いませんか?」

 ルイスはあらん限りの声で叫んだ。
 木々に囲まれた森の中はすでに薄暗い。明かりも持たずに来てしまったから、これ以上もたもたしていると一歩も動けなくなってしまう。早く彼を見つけて、話をしなくてはならない。
 ぱきり、とどこかで枝を踏むちいさな音がした。慌てて周囲を見回すと、少し離れた木の陰からフレッドが姿を現した。
 ルイスは安堵のため息をついた。

「フレッド、」
「モランの小屋は、こっちではありませんよ」

 フレッドは硬い声で言った。

「わかっています。君を探しにきたんですから。……忘れ物ですよ」

 ルイスはストールを差し出した。けれどフレッドはその場から一歩も動こうとしない。縋るように木の幹に爪を立てていた。

「……今すぐ、引き返してください」

 彼の声は強張ったままだ。

「もうすぐ日が暮れます。また、狼が出ますよ」
「……それも、モランさんから聞いたのですか?」

 フレッドはもどかしげにかぶりを振った。

「そうじゃなくて……」

 泣き出しそうな声だった。彼は苦しげに眉根を寄せ、自身のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。

「お願いします、帰ってください。もう二度と、絶対に、人前に出たりしません。……だから、」
「そんなことを聞きにきたのではありません」

 ルイスが一歩踏み出すと、フレッドは怯えたように一歩後ずさる。顔を上げてこちらを見た彼の口から「あ……っ」と悲鳴に似た声が漏れた。
 彼はルイスの肩越しに何かを見ている。
 反射的に振り返ったが、ルイスの背後には何もない。木立の向こうから夕陽の名残が僅かに射し込んでいるだけだ。

「……フレッド? どうし……」

 もう一度彼の方へ向き直ったとき、フレッドの身体がぐらりと傾いだ。
 咄嗟に手を伸ばしたが、掴み損ねた。フレッドはそのまま地面に倒れ込む。助け起こそうとしたルイスの手を、彼は身体を捩りながら強く払った。
 そのことにショックを受ける暇もなく、ルイスは息を呑んだ。
 フレッドの顔を、首筋からざわざわとせり上がるように灰色の毛皮が覆い始めていた。

「見ないで……!!」

 彼は悲痛な声で叫びながら、手で顔を覆った。
 しかしその手も、みるみるうちに形を変えていく。短い毛に覆われ、鋭い爪を備えた手。いや、『手』と呼べるようなものではない。前足、と表現したほうが正確だろう。
 ルイスが身動き出来ずにいるうちに、彼は一匹の獣に姿を変えていた。しばらく地面でばたばたともがいた後、彼は用をなさなくなった衣服の中から抜け出した。

「フレディ……?」

 あの夜ルイスを守ってくれた、狼犬。
 左手首にしっかりと巻かれた包帯だけが、ついさっきまで目の前にいたフレッドと同じだった。彼は尻尾を丸め、ルイスに背を向けた。悲しげに鼻を鳴らすかすかな声を残して、森の奥へと消えていく。
 コインの裏表、というモランの言葉が蘇った。
 ルイスは立ち上がり、迷わず追いかけた。
 不思議と恐ろしいとは思わなかった。ああやっぱり、という想いのほうが強かった。

「フレッド、待って……!」

 狼としての姿ならば、ルイスを振り切って走り去ることくらい容易いだろう。今ここで見失ってしまったらもう二度と会えなくなる気がした。足元が悪く全力で走れないことがもどかしい。

「フレッド!」

 ルイスの声に応えるように、木々の隙間から、細く、けれど耳の奥に刺さる声が響いた。
 前を走るフレッドではない。狼たちの遠吠えだ。
 ルイスは思わず身を竦ませたが、より顕著に反応したのはフレッドの方だった。彼は明らかに走る速度を落として、ちらちらとこちらを振り返るようになった。
 ――ルイスを置き去りにできないのだ。
 彼は木立の隙間を縫うように、ルイスの少し前を隠れたり現れたりしながら進んでいった。追いつかれては困る、けれどルイスを一人で置いてはいけない。そんな迷いが見て取れるようだった。
 姿が変わっても、彼は彼のままだった。
 二人は近づいたり離れたりしながら、森の中を走った。フレッドを見失った、と思ったら、目の前には最初の夜に訪れたあの小屋が現れた。
 きっと今夜も、鍵は掛かっていない。
 けれどルイスは小屋には入らず、裏手へ回った。
 温室のガラス戸は半分開いたままになっている。

「……フレッド?」

 中に入ると同時に、がさりと薔薇の茂みが揺れた気がした。
 ルイスはそちらへ歩み寄る。
 屋敷の温室でさえ、日が暮れてから入ったことなど殆どないはずなのに、何だかとても懐かしい。ガラス張りの狭い空間の中に取り残された温かい昼間の空気と、濃い緑の匂い。自分は、この感覚を知っている。
 膝をついて花壇を奥を覗き込むと、薔薇の茂みの向こうに一対の瞳が光っていた。
 彼はルイスに見つかったと気付くと、怯えたように鼻を鳴らしながらさらに奥へ隠れようとした。

「出てきてください。隠れないで……」

 茨を押しのけて茂みの中に腕を伸ばすと、鋭い棘が手の甲を引っ掻いた。痛みに、思わず顔をしかめる。奥へ逃げ込もうとしていたフレッドは慌ててこちらへ身を乗り出してきた。
 厚い毛皮に覆われた身体は薔薇の棘では傷つかないらしい。彼は盾になるように茨とルイスの手の間に身体を割り込ませた。
 ルイスが後ろに下がって促すと、優しい狼犬は大人しく花壇から下りて血の滲んだルイスの手の甲をぺろぺろと舐めた。
 彼は主人に叱られるのを待つ犬のように、耳と尻尾を垂らして地面に身を伏せた。ルイスもまた、スラックスが汚れるのも構わず座り込む。
 ――やっぱり、知っている。
 ルイスは彼の首を抱き寄せて、ふさふさとした手触りを堪能した。温かい。厚い毛皮の下に、血が通っているのがわかる。

「……すっかり大きくなっていたからわかりませんでした。フレッド、君だったんですね」

 もう十年以上前の、ひどい嵐の夜。
 一匹の子犬が庭に迷い込んできた。
 眠れなくて窓の外を眺めていたルイスはそっと部屋を抜け出して、兄たちに内緒でその子犬を抱き上げて庭の温室に隠れた。

「親切な人に貰われていったと聞いていたのに、こんなに近くにいたなんて。僕にだけ黙っているなんてひどいです。どうして会いに来てくれなかったんですか?」

 真っ暗な温室の中は、薔薇の香りに混じって土と緑の匂いがした。当時のルイスは夜に一人で部屋の外に出るのが苦手だったが、ちいさなぬくもりを感じていると不思議と怖くはなかった。
 薔薇の花の中に隠れて、かわいい子犬をお供にして、兄たちにさえも秘密の冒険をしている気分だった。あの夜の出来事は一枚の美しい絵のように、ルイスの記憶に焼き付いていた。
 身体を離して、フレッドの目を真正面から見つめた。
 彼が顔を伏せようとするのを、両手で頬を挟んで押し止める。そして彼の額に自分の額を押し当てた。人間の姿だったら少し恥ずかしくなってしまうくらい親密な触れ方かもしれない。今の彼の姿なら、許してもらえるだろうか。

「……狼から守ってくれた君も、一緒にタルトを食べた君も、どちらも僕の友だちですよ」

 そう告げると、フレッドがクゥ、クゥンと鼻を鳴らした。言っていることはわからないけれど、言いたいことはわかる気がした。
 あまりに切なそうな声だったので、ルイスは彼の首を抱き直した。

「……朝になったら、全部聞かせてくださいね。会いに来てくれなかった理由も、こんな素敵な薔薇園を作ってしまった理由も全部。君のこと、教えて……」
 視界の端で、彼の尻尾がぱたぱたと揺れた。



◇◇◇◇◇◇


 てっきり僕はもう死ぬものだとばかり思っていたから、次に暖かくて静かな場所で気がついたとき、天国に来たのかと思った。
 見たことないくらい綺麗な花がたくさん咲いていて、辺りにはうっとりするほど心地よい匂いが満ちていた。建物の中らしかったけれど、壁も天井もガラスでできているので空がまだ暗いことがわかった。雨粒がガラスを叩く音は聞こえなかったから、嵐はほとんど通り過ぎてしまったようだ。
 泥だらけだった僕の身体をたっぷりとした布に包み込んで、誰かがさすってくれている。冷えて固まっていた手足は、いつの間にかすっかり温かくほどけていた。
 身体の向きを変えてそっちの方を見ると、僕を抱えているのは人間の男の子だった。紫がかった紅い瞳と金の髪は暗闇の中でも輝いて見えて、いつか教会で見た天使の絵を思い出させた。

「あ、よかった」

 僕と目が合うと、彼は小さく微笑んだ。

「首輪がないから、野良犬でしょうか。まだ小さいのに大変でしたね」

 小さくて柔らかい手が僕の頭を撫でてくれた。
 神様はひどい。
 人間とは一緒にいられない僕を、優しい人間にばかり会わせてくれる。人間がもっと乱暴で意地悪で怖い存在なら、こんな思いをしなくてすんだのに。
 狼の姿では涙が出ない。代わりに、僕はクゥクゥと鼻を鳴らした。男の子はこちらの気持ちを知ってか知らずか、僕の肉球をぷにぷにと押して遊んでいる。

「お風呂に入れてあげたいけど、絨毯を汚してしまうとアルバート兄様に申し訳ないから……。ここで我慢してくださいね」

 我慢? こんなに素敵なところなのに。
 僕らの頭上でゆっくりと雲が流れて、隙間から月明かりが射しこんだ。彼が顔を上げた拍子に金色の髪もさらりと流れた。彼の顔に大きな傷があることに、その時はじめて気がついた。

「わっ、こら」

 身を乗り出して頬を舐めると、彼は声を上げて笑った。
 しばらくくすぐったそうに笑っていた彼だったが、やがて僕が頬の傷を舐めているのに気がついたらしかった。ちょっと驚いたように目を丸くして、それから泣きそうに顔を歪めた。

「……ありがとう、もう痛くないですよ」

 彼は膝に抱えた僕をぎゅうと抱きしめてくれた。
 たしかに彼の言う通り、傷口はすでに乾いていた。怪我をしてからしばらく経っているのだろう。それでも、こんなに大きな傷なのだから痛かったに違いない。
 労る気持ちをこめてもう一度頬をぺろりと舐めると、彼も僕の背中を撫でてくれた。

「優しい、いい子ですね。お利口そうだし、芸を覚えたら兄さんたちも飼っていいって言ってくれるかな……」

 彼が僕の顎の下をくすぐりながら、呟いた。
 もしも僕が普通の犬だったなら、彼の友だちになれただろうか。それはとても素敵な空想だった。

「新聞受けから新聞を取ってきたり、泥棒を追い払ったりするんですよ。できますか?」

 できる、と答える代わりに、僕はクゥと鳴いた。
 シンブンもドロボウもその時の僕にはよく分からなかったけれど、あなたの探しものは僕が見つけてみせる。危ない目にあっていたら必ず助けに行く。
 張り切って尻尾を振る僕に、彼は満足そうに頷いた。

「朝になったら、兄さんたちにお願いしてみましょうね」

 朝になったら。
 その言葉で、僕は現実に引き戻された。
 じきに東の空が白みはじめるだろう。つい数時間前に驚かせてしまったお婆さんのことを思い出した。一日に二度も同じ失敗をしたくはないし、何より、この優しい男の子を怖がらせたくない。
 もう行かなくてはならなかった。
 僕がいなくなったら、彼は少しでも残念がってくれるだろうか。申し訳ないけれど、そうだったら嬉しい。この夜の思い出があれば、僕はまたしばらくの間一人で生きていけるだろう。
 彼の腕の中から抜け出そうと身をよじったとき、彼が小さくくしゃみをした。ぶるりと身を震わせて、僕の身体を抱え直す。いつの間にか、彼の手や頬がとても熱くなっていた。
 寒い、と呟いて彼が目を閉じてしまったので、僕は動けなくなってしまった。


◇◇◇◇◇◇



 夜明け前、一日の中で最も暗い時間だった。
 ねぐらに戻っていく梟の声を聞きながら、ウィリアムはアルバート、モランとともに森の奥のちいさな小屋を訪れた。明かりがついていなかったのでおやと思ったが、裏手に回ったモランがランタンを振って合図した。

「こっちだ。……ったく、こんなところで寝てやがる」
「おやおや」

 アルバートがくすくすと笑った。
 温室の中で、ルイスとフレッドが眠っていた。
 フレッドは狼の姿のまま、地べたに座り込んだルイスの膝に頭をのせている。彼が呼吸するたびに、背中に添えられたルイスの手もゆっくりと上下していた。

「まったく、人騒がせな奴らだな」
「あの日とおんなじですね」

 モランはぶつぶつと言っていたが、ウィリアムは懐かしい気持ちになった。
 十年と少し前。ひどい嵐が通り過ぎた後だった。
 夜中にルイスが部屋にいないことに気がついたウィリアムとアルバートは、屋敷の庭の温室で同じ光景を目にしたのだ。もっとも、あの時のルイスは雨に濡れて熱を出してしまっていたし、子犬同然だったフレッドはおろおろと不安そうに鼻を鳴らしていたが。

「話、できたかな」
「どうだかな。十年分の話なんか、たった一晩でできるもんでもないだろ。こいつは日が暮れちまうとこの通りだし」
「それもそうだね、これからゆっくり話していけるといいな」

 熱で朦朧としていたルイスは、あの朝のことを覚えていなかった。ウィリアムとアルバートの目の前で人間の子どもに姿を変えたフレッドは、ごめんなさい、ごめんなさいと泣きながら繰り返した。彼が弟に何かしたわけではないことは明らかで、驚きこそしたものの、彼を責める気にはならなかった。
 ルイスが寝込んでいるうちに彼の話を聞いて、当時森番の仕事に就いたばかりだったモランに彼を預けることにした。「あの子犬は親切な人に引き取られていった」とルイスには嘘をついて。
「うちで飼いたかったのに」ととても残念がっていたことを伝えたとき、フレッドはわずかに微笑んだ。けれど、ルイスに会いたいとはただの一度も言わなかった。

「……おや、夜が明けるようだよ」

 アルバートが呟いた。
 つられて振り返ると、木立の向こうに薄っすらと光が射しはじめている。
 すると、ルイスに寄り添っていた狼の身体に異変が起こった。それは音もなく緩やかな変化だった。
 灰色の毛皮がつるりとした肌に変わり、鋭い獣の爪は短く整えられた楕円形の爪になった。特徴的な鼻先と尖った耳はしゅるしゅると小さくなり、やがてごくありふれた、幼さの残る青年の横顔に変わった。
 瞬きほんの数回分の時間のうちに、灰色の狼は人間の青年に姿を変えていた。
 ウィリアムがほう、とため息をつく。

「何回見ても不思議ですね。どういう原理なんだろう」
「ウィル、それより何か羽織るものを……」
「こいつはそうそう風邪なんかひかねぇよ」

 と言いつつ、モランは自分のコートを脱いで裸のフレッドにかけてやった。
 分厚いコートの重みに「うぅん」とフレッドが呻いた。包帯を巻かれた彼の左手が、ごそごそと何かを探すように動く。やがて地面に投げ出されていた方のルイスの手を見つけて、ぎゅうと握った。反射なのか、眠っているはずのルイスの手もゆるく握り返したように見えた。
 モランがはぁーっと深くため息をついた。

「……なぁ、もう起こしちまってもよくないか? じれったいったらありゃしねぇ。最初っから会いに行ってりゃよかったのに」
「そういうところが可愛いじゃない」
「フフ、ウィルの言う通りだ。それに、ちょうど我が家も新しい庭師を探していたところだからね。なるべくしてこうなった――まさに天の配剤、といったところかな」

 アルバートは薔薇の花を引き寄せ、ワイングラスを揺らすような優雅な仕草でその香りを楽しんでいた。
 黄金色の柔らかな光が、少しずつ森の空気を温めていく。また新しい一日が始まるのだ。二人は大切そうにお互いの手を握りあったまま、朝焼けの中で微睡んでいた。

初出:Pixiv 2022.11.22

The Heavenly Dispensing
 フレッド人狼パロ③

 翌日、ルイスは一人で銀食器を磨いていた。
 気を抜くと、あの青年のことばかり考えていた。
 助けてもらって、お礼を言って、それで終わりのはずだ。少なくとも、今までのルイスの人付き合いはそうだった。
 もしまたモランの家やどこかの街角で顔を合わせる機会があっても、軽く挨拶をするだけ。そう思うと、なんだかとても残念な気がした。なぜそう感じるのと聞かれると、うまく言葉にできなかったが。

(そうだ、そもそも助けてくれたのはフレッドさんではなくてフレディだ)

 またあの子を撫でたい。首の周りのもふもふとした毛皮を堪能して、あの時はありがとう、と改めてお礼を言って、そして彼がいかに勇敢に闘ったかをフレッドさんに……。
 ルイスはため息をついた。
 結局自分は、フレディをもう一度撫でたいのか、それともフレッドと話がしたいのか。
 ぴかぴかに磨かれた銀のスプーンの表面には、ルイスの顔が写っている。スプーンの形状に合わせて歪んだ影ではあったが、頬に大きな傷があることは嫌でもわかった。
 昔から、人付き合いは苦手だった。
 兄たちとの接点を持とうとして自分に近付いてくる人間はすぐにそれとわかった。地位があり立派な仕事に就いていることを抜きにしても、彼らほど素晴らしい人間はそういないのだから、そうした下心を抱くのは仕方のないことだ。ルイス自身、それが兄たちにとって有益な相手であれば親しく接するよう努力した。
 けれど、兄たちの存在を抜きにして、ルイス個人として人と関わった経験は皆無と言ってよかった。  
 学生時代には友人がいないでもなかったが、卒業して以降は誰とも連絡を取っていない。モランだって、もとはウィリアムが連れてきて、今はアルバートから森番としての職務を拝命している人間なのだからノーカウントだ。
 フレッドに対してどう接すればよいのか、ルイスには分からなかった。こういう時、普通の友人ならどうするのだろう――。
 そしてルイスははたと気がつく。
 自分は、彼と友人になりたいのか? どうして。
 昨日顔を合わせたばかりの相手と?
 思考は堂々巡りを繰り返すばかりだった。
 一人でうんうん唸っていると、テラスに続く掃き出し窓から庭師のクリントがひょっこりと顔を出した。

「今日のお庭の手入れ、終わりましたので」
「あ、はい……。ありがとうございます、お疲れ様でした」

 ルイスは慌てて立ち上がった。
 そのまま帰ると思われたクリントはしばし躊躇った後、「あの」と切り出した。帽子を脱いで、いつになく改まった様子だ。

「ルイスさん、お願いがありまして」
「はい、何でしょう?」
「アルバート様に少しお時間をいただけないか、頼んでいただけないでしょうか」
「それはもちろん構いませんけど……どうかなさいましたか?」
「実は、息子が結婚することになりまして」
「え、そうなんですか。おめでとうございます」

 クリントの息子といえば、地元の学校を出て大きな街で役人になったと聞いている。ルイスとはいくらか年が離れているのであまり交流したことはなかったが、大らかでとても気のいい男だったことは印象に残っていた。
 クリントは誇らしげに胸を反らしたが、けれどすぐに浮かない顔に戻った。

「それで、その……これを機にあちらで一緒に暮らさないかと言われているんです。相手方も是非にと言ってくれているようで、こんな年寄りには願ってもない話です。ですので、お暇をいただきたくて……」
「そうでしたか……」
「先代の頃から良くしていただいたのに、申し訳ありません」
「いえ、謝ることではありませんよ。アルバート兄様も、すぐにお祝いを準備するようおっしゃるはずです」
「そんな、とんでもない」
「直接お話ができるように伝えておきますね。明日の夜でいかがです? 夕方には戻られる予定なので」
「はぁ、よろしくお願いします」

 クリントは恐縮しながら出て行った。





 それから数日が過ぎた。
 クリントは無事アルバートと話をつけて、引っ越しの支度に取りかかっていた。村では親しかった者たちが寄り集まってささやかな宴が催され、モリアーティ家も長年勤めてくれた彼と彼の息子へ心づくしの祝いの品を贈った。
 近いうちに代わりの庭師を探さなければならなかったが、この田舎町ではすぐに代わりが見つかるとは思えない。当面の間はルイスがカバーできるよう、多少なりともが仕事を覚えておく必要があった。
 その日、クリントは新しく住む街へ引越し前の下見に出かけていたので、ルイスは午後から庭に出ていた。
 草木に水をやり、目立つ雑草を引き抜いて、芝生の手入れを行うつもりだったが、芝刈り機は案外重い。慣れないルイスが一人で広い屋敷の庭を刈り込むのは結構な重労働だった。
 だから裏口の外に人の気配を感じたとき、やっと来た、と思った。
 ルイスは裏口の木戸を勢いよく開け放った。

「遅いですよモランさん! ………あ」

 そこにいたのは、モランではなくあの青年だった。フレッドはいきなり戸が開いたこととルイスの勢いにひどく驚いた様子だった。
 ルイスは慌てて弁解した。

「あ、あの、すみません。てっきりモランさんかと……」
「……大丈夫です、びっくりしただけで。あの、これを……」

 彼はバスケットを差し出した。
 すっかり忘れていたが、先日ローストビーフを入れて渡した例のバスケットだった。
 中には綺麗に洗われた皿と、やはり薔薇の花が入っている。今回は小ぶりな白い薔薇が五本、簡単なブーケになっていた。
 ルイスは思わず顔を綻ばせた。

「ありがとうございます。綺麗ですね」

 居間や玄関の大きな花瓶に生けるよりは、小さなガラス瓶に挿して窓辺に飾っておきたくなるような花束だった。慎ましやかでとても可愛らしい。
 褒められたフレッドはわずかに頬を赤らめて、くすぐったそうに首をすくめた。

「こちらこそありがとうございました。お肉、美味しかったです。…………フレディも、喜んでました」
「よかった。ところで、モランさんは一緒じゃないんですか?」
「え? いえ……」

 フレッドは目を瞬かせた後、ふるふると首を振った。

「モランは、用事があるみたいでした。ここへ来る途中に寄ったんですが、『今日は忙しい』と……」
「そう、ですか…………」
「どうかしたんですか?」
「いえ、モランさんに庭仕事の手伝いをお願いしていたので……」

 逃げたな、と思ったが、さすがにフレッドの前では口に出せなかった。

「あの、僕でよければお手伝いします」
「え」
「モランは今日は来られませんし、ルイスさん一人でするのも大変だと思うので……」

 目は心の窓とはよく言ったものだが、彼の目に浮かんでいるのは間違いなく、眩しいまでの善意だった。
 ……もしかして、モランは彼がこう言うであろうことを見越していたのではないだろうか。ルイスはそう勘繰らずにはいられなかった。
 フレッドの申し出は正直ありがたい。しかし普段からこうやって仕事や雑用を彼に押し付けていないか、あとでモランを問い詰めておく必要があるだろう。

「では……お願いしてもいいですか」
「はい」
「無理はしないでくださいね。腕、怪我していたでしょう」

 フレッドは少し驚いたような顔をしてから、はにかんだように小さく頷いた。




 
 それから二人で交代しながら芝刈り機を動かした。最初はおっかなびっくりだったフレッドも、すぐにコツを掴んですいすいと調子良く芝を刈ってくれた。
 あまりこき使うのも申し訳なかったので芝刈りまでで終わりにするつもりだったのに、彼が庭の花壇にも興味を示したので、結局花の世話まで手伝ってもらった。
 普段からあの温室の管理をしているだけあって、フレッドの手際は素晴らしかった。葉を傷つけないように虫を取る方法や摘み取るべき芽の選び方など、ルイスの方が教わることが多かったくらいだ。
 おそらく、モランと二人ではこうは行かなかっただろう。普段彼に「お前は細かすぎる」と散々不満を言われるルイスの目から見ても、黙々と作業に打ち込むフレッドの手つきはとても丁寧で細やかだった。本当に、花が好きなのだろう。
 花壇の手入れを終えたところで、ルイスは庭の掃き掃除を彼に頼んだ。

「すみません、少しの間外します。すぐに戻りますが、何かあったら呼んでください」

 彼が小さく頷いて作業に取りかかったのを見届けてから、ルイスは屋敷の中に引っ込んだ。
 しばらくして庭に戻ると、ちょうど彼は落ち葉や枝切れを一箇所に集め終えたところだった。

「お疲れ様です。ありがとうございました」
「いえ」
「あの、よければお茶にしませんか。タルトを焼きましたので」

 そう告げると、フレッドは「え」と小さく声を上げた。

「もともとモランさんにお出しするつもりで用意していたんです。食べていってください」

 そう言ってしまえば、彼は断わらないだろうという予感があった。用事があったとはいえ彼の方から訪ねてきてくれたこと、手伝いを申し出てくれたことが嬉しくて、もう少しだけ、彼を引き止めていたかった。
 フレッドはどこか落ち着かない様子でテラスのテーブルに腰掛けた。カスタードクリームをたっぷり使った木苺のタルトにナイフを入れるのを、固唾を飲んで見守っている。おかげで、ルイスの方まで何となく緊張してしまった。
 切り分けて皿に移し、フレッドの前に差し出す。「どうぞ」と促すと、彼は恐る恐るフォークを手に取った。

「あったかい」

 ひとくち食べて、彼はそう呟いた。
 そのちいさな子どものような感想に、ルイスはほっと息をついた。

「焼きたてですから」
「美味しいです。宝石みたいなのに、甘くてあったかい」

 つやつやと輝く真っ赤な木苺のことを言っているのだろうか。彼が口にすると気取った比喩にも聞こえないから不思議だ。
 まっすぐな褒め言葉がくすぐったくて、ルイスは表情が緩みそうになるのを口をきゅっと引き結んで堪えた。あまり表情に起伏のない彼もどことなく嬉しげに見えるのは気のせいだろうか。
 例えば自分に弟ができたら、きっとこんな感じなのだろうか。自分のタルトをつつきながら、ルイスは考えた。

「……もう一つ、食べますか?」

 気づけばそう口にしていた。小さくなってきたタルトを、名残惜しそうにゆっくりと食べているのが可愛らしかった。

「え、でも……」
「この家には兄二人と、僕だけです。どちらにせよ余ってしまうので、良ければ」
「……いえ、僕は一ついただけただけで満足です。モランの分、取っておいてあげてください」

 遠慮する上にそんなことを言うので、ルイスは思わず頬を膨らませた。

「手伝いを放り出した人の分はありません」
「うっかり忘れてしまっただけだと思います。今日、何か用事があるって言ってましたし……」
「まだ信じてるんですか、それ」
「え?」
「……ふふ」

 ルイスが笑うと、彼はなぜ笑われているのかわからない、といった顔で不思議そうに首を傾げた。

「モランさんとは……仲がいいんですね」

 どう話を振ったものか悩んで、結局は『共通の知人』という無難な話題に落ち着く。
 フレッドは首をひねった。

「仲がいい……んでしょうか。面倒は、見てもらっています」
「確かに、面倒くさがりなようで人の世話を焼くのが好きな方ですからね」
「はい。色んなことを教えてもらいました」
「あんな森の奥で暮らすのは大変でしょう」

 フレッドは黙って曖昧に頷いた。
 詮索しているように取られたかもしれない。ルイスは自分の話に舵を切った。

「実は、この間は森で落とし物をしてしまったんです。それで引き返したところを、道に迷ってしまって……」
「そうだったんですか」
「森は昼と夜では景色が変わると言い聞かされてはいましたが、改めてそのことを実感しました。どこでいつもの道から外れてしまったのかもわからないんです」
「昼間は見落とすはずがないと思っていた小道や目印も、日が落ちると途端に見えなくなってしまいますからね」
「そうなんです。そんな真っ暗な中でも君の家まで連れて行ってくれたんですから、フレディはほんとうにお利口ですね」
「…………」

 フレッドは少しうつむいて、残り少ないタルトをつついた。しかしその沈黙は決して気まずいものではなく、どこか誇らしげな空気さえ見て取れた。

「あ、それに、その落とし物は朝になったら君の家の前に落ちていたんです。そんなところで落としたはずがないのに。フレディが見つけて、拾ってきてくれたのでしょうか」

 フレッドは「どうでしょう」と首を傾げた。

「でも見つかってよかったですね。大事な万年筆だったんでしょう」
「ええ、それはもう」

 ルイスは彼の言葉に頷いてから、ふと違和感を覚えた。

「……どうして、僕が落としたのが万年筆だと?」

 純粋に疑問に思ってそう尋ねると、彼は表情を凍りつかせた。

「も、モランから……」
「……モランさんにも、話していません。兄さんたちにも、街の人達にも、『道に迷った』としか説明していません。知っているのは……」

 その続きを口にするより早く、フレッドが弾かれたように立ち上がった。皿の上に放り出されたフォークがカチャンと耳障りな音を立てる。

「ごめんなさい、帰ります。ごちそうさまでした」

 彼は早口にそれだけ言うと、逃げるように裏口の方へ走っていった。呼び止める暇もなかった。
 ルイスはどこか途方に暮れた気持ちで、彼が出ていった後も暫くの間、裏の木戸を眺めていた。
 花壇のレンガの上に水色の布のかたまりがあるのに気がついた。彼が巻いていたストールだ。
 作業中に外して、そのまま忘れていったのだろうか。そういえば途中から付けていなかった気がする。
 ルイスはストールを拾い上げた。
 今から追いかければ、おそらく、間に合う。
 それでも、足が動かなかった。
 これをこのまま持っていれば、また明日、彼が訪ねてきてくれるかもしれない。そんなずるい期待が頭を過ぎったが、ルイスはため息をついてストールを丁寧に畳み直した。

(……明日、モランさんに渡そう)

 彼はなぜ、ルイスが万年筆を落としたことを知っていたのだろう。森に落ちていたのを拾ってくれたのがフレッドだったとしても、誰のものかは分からなかったはずだ。
 そして、ルイスが万年筆のことを話したのはあの狼犬だけだ。彼はどこかであの独り言ともつかない言葉を聞いていたのだろうか? 盗み聞きをしていたことがばれてきまりが悪くなったから、逃げるように帰っていってしまったのか? そもそも、彼はあの夜どこにいたのだろう?
 分かりそうで、分からない。
 しかし、一つだけ、たしかな糸口があった。
 冷めきったお茶と皿に残されたタルトを片付けながら、ルイスはその糸を手繰ることを心に決めた。

初出:Pixiv 2022.11.17

The Heavenly Dispensing
 フレッド人狼パロ②

 翌朝目を覚ますと、狼犬の姿はなかった。
 あの小さいドアから朝の散歩にでも行ってしまったのだろうか。
 ブランケットのおかけで冷えることはなかったが、椅子で寝たせいで少し身体が痛い。伸びをしながら、そういえばこの部屋にはベッドがないな、とぼんやりと考えた。
 ルイスは小屋の外に出た。日はすでに登っているようだが、森の奥はまだ薄暗くて夜気の冷ややかさが残っている。
 あの狼犬か、でなければこの小屋の主人が戻ってきてはいないだろうか。ウィリアムとアルバートが心配しているだろうがこのまま黙って出ていくのも不作法に思えて、ルイスは小屋の周りを歩いてみた。
 昨夜は気が付かなかったが、小屋のすぐ裏手にもう一つ、ガラス張りの小屋があった。

「温室……?」

 好奇心からそっとガラス戸を押し開けて中をのぞき込み、ルイスは息を呑んだ。
 温室の中には、こんな森の奥とは思えないほど色とりどりの薔薇がところ狭しと咲き乱れていた。一歩中に足を踏み入れた途端、豊かな芳香が鼻先をくすぐる。
 屋敷の庭にも薔薇園はあったが、こちらの温室のほうが小さい分だけ花に包まれている心地がした。思いがけず出くわした色鮮やかな光景は、どこか夢を見ているようだった。

 初めて来る場所なのに、どこか懐かしいような――
「ルイス」
「わ……、モランさん」

 背後から声をかけられて、ルイスは小さく飛び上がった。
 温室の入り口でいくらか身を屈めながら、モランがこちらをのぞき込んでいる。彼はルイスの顔を見るなり大きなため息をついた。

「こんなところにいやがった。大丈夫か?」
「あ、はい……」
「怪我もないな」
「してません。……僕は」
「帰るぞ、ウィリアムたちが大騒ぎしてる」

 彼がさっさと出ていってしまったので、慌てて後を追った。小屋の正面の小道に出たところで、ルイスは「あっ」と声を上げた。

「どうした?」
「僕の万年筆……」

 小道の真ん中に、昨夜なくしたはずの万年筆が落ちていた。
 万年筆がなくなったことに気がついたのは森の入り口近くだったから、ここに落としたはずがない。先ほど小屋を出たときにも落ちてはいなかったはずだら、誰かがここに置いたとしか考えられなかった。
 ルイスは少し先で待っていたモランの方へ駆け寄った。

「モランさん、あの小屋には誰が住んでいるのですか? 兄様たちはご存知なのですか?」
「…………」
「モランさん?」
「あー、何つうか……。ちょっと訳アリなんだ」
「……どういうことですか?」

 ルイスの声が険しくなったので、モランは苦笑しながらひらひらと手を振った。歩調は緩めないまま、彼はまっすぐに街の方へ進んでいく。大柄な彼の歩幅に合わせなくてはならないので、ついていく方は必死だった。
 ルイスは肩越しにちらりと背後を振り返った。三角屋根の小屋は、木立に隠れてもう見えない。

「別にお尋ね者を匿ってるわけじゃねぇよ。ただ事情があって、俺がある奴に貸してる小屋なんだ。悪いようにはしねぇから他の連中には……アルバートとウィリアムにも黙っといてくれねぇか」
「兄様にも内緒で、領主の森に人を住まわせているのですか?」
「頼む」

 モランがいつになく真剣な顔でそう言うので、ルイスはぐっと気圧された。「悪いようにはしない」といいながら否定も肯定もしないところに少し引っかかるものを覚えたが、ルイスは頷いた。

「……わかりました、黙っておきます。その代わり、あそこに住んでいる方のこと、教えてください。あの犬のことも」
「あー……」
「昨夜、道に迷って狼に襲われたんです。あの子が助けにきてくれなかったら噛み殺されるところでした。お礼がしたいんです。それに、僕のせいで怪我を……。飼い主の方にも勝手に小屋を使わせてもらったお詫びをしないと」
「……わかった。あのフィッシュパイ、分けておいてやるよ」
「もう! ごまかさないでください!」

 声を上げるルイスを無視して、モランは前方に向けて手を振った。
 見ると、森の入り口あたりに数人の人だかりが出来ている。近づいて来るモランに気がついて、その中心にいた人物が一目散に駆け寄ってきた。

「ルイス!」
「兄さん」
「あぁ、ルイス……。よかった、本当によかった。怪我はない? 一晩どこに行ってたの?」

 ルイスをぎゅうぎゅう抱きしめながら、一つ年上の兄は「よかった、よかった」としきりに繰り返した。
 ウィリアムに続いて、アルバートも早足に歩み寄ってきた。領民たちの前である以上平静を保ってはいたが、表情には隠しきれない安堵の色が浮かんでいる。

「ルイス、お前が戻らないから心配したよ」
「ごめんなさい。兄さん、兄様」

 ウィリアムとアルバートの後ろには、朝早い時間にも関わらず街の人間が何人かいた。森に入ってルイスの捜索をするつもりで集まってくれたのだろう。ルイスが姿を見せたことで、皆一様にほっとした顔をして朗らかに微笑んでいる。

「モランのところにいたのかい?」
「えっと……」
「森で道に迷ったそうだが、運良く使ってない物置小屋を見つけてな。そこで一晩明かしたんだとよ」

 モランがすかさず補足した。ルイスが小さく頷くとウィリアムとアルバートも納得したようで、それ以上は追及されなかった。
 集まってくれた者たちに心配をかけてしまったことを詫びて、その場は解散となった。





 翌日、買い出しから帰ってくると、屋敷の庭で通いの庭師が植え込みの剪定作業をしていた。彼はルイスの姿を見るなり、帽子を取って軽く頭を下げた。

「ルイスさん、おかえりなさい」
「ただいま戻りました、クリントさん」

 もう何年も前から庭の手入れをしてくれている気心の知れた者なので、ルイスも気軽に応えた。

「あ、ついさっきモランさんがいらしていましたよ。バスケットを返しに」

 彼が指差したガーデンテーブルの上に、先日彼に渡したバスケットが置かれていた。フィッシュパイを入れていたものだ。クリントに礼を言いながらバスケットを取り上げると、中には綺麗に洗われた皿と、薔薇が一輪入っていた。

「見事な薔薇ですねぇ。わざわざ買ってこられたんでしょうか」

 クリントは首を傾げていたが、ルイスはそれがモランからの贈り物ではないことがすぐにわかった。
 あの温室に咲いていた薔薇だった。





 一輪挿しの花瓶を探し出してきて、キッチンの窓辺に飾った。夕食用のパイが焼けるのを待ちながら、ルイスはスツールに腰掛けてぼんやりとその花を眺めていた。
 紫がかった濃い赤の薔薇だった。
 偶然にも、ルイスの瞳に似た色をしていた。
 モランがルイス宛にわざわざ花を用意するとは思えないから、やはりあの温室に咲いていたもので間違いない。花びらには優雅な厚みがあり、棘は丁寧に取り除かれていた。
 モランは言った通りに、あの狼犬の飼い主にフィッシュパイを分けてくれたのだろう。そしてその人物はささやかなお礼のしるしとして、あの温室の薔薇を添えてくれたに違いない。
 どんな人物なのだろう。
 あんな森の奥で隠れて暮らすなんて、よほどの事情があるように思えた。少なくとも、街で暮らしていけないような犯罪者ではないことは分かる。モランが否定していたし、あの利口な狼犬と共に花を育てて暮らしている人間が悪人とは思えなかった。
 であれば、彼――あるいは彼女――が森の奥に隠れ住む理由とはなんだろう?
 ルイスは無意識のうちに自分の頬に触れていた。

(人前に出られないほど醜い傷がある、とか……)

 ルイスの頬には、子どもの頃別荘の火事で負った火傷の痕があった。その時のことはあまりよく覚えていない。髪や服に燃え移らなかっただけ幸運と言えたが、右頬の皮膚は十年以上経った今でも歪に引き攣れたままだった。
 年若い娘ならまだしも、ルイスは自分の美醜に対する執着はさほど持ち合わせていなかった。けれど、あまり人前に顔を晒したくないという気持ちはよくわかる。美しい兄たちを褒めそやしていた人間がルイスからは気まずそうにそっと目を逸らす、そんな場面がこれまで幾度となくあった。

「…………」

 根拠なくあれこれと考えたところで仕方のないことだ。今はモランと、自分の受けた印象を信じよう。
 そこで一旦思考を打ち切ったが、しかしルイスにはもうひとつ気がかりがあった。

(フィッシュパイ、玉ねぎが入っていたから、あの子は食べられなかっただろうな……)

 狼をはじめとする犬科の動物にとって、玉ねぎは猛毒だ。彼がありつけたのはせいぜいイワシの頭くらいで、パイはほとんどモランと飼い主の胃袋に収まってしまっただろう。
 怪我は大丈夫だろうか。
 思えば、いくら人に飼い慣らされているからといって、狼の群れにたった一匹で立ち向かうとはなんて勇敢な犬だろう。勝ち目なしと判断してルイスを見捨てたとしても仕方ない状況だったはずだ。 
 モランから黙っていろと言われたということはそれがあの犬の飼い主の意向でもあるはずなのだが、勇戦したご褒美がイワシの頭だけというのはあまりに可哀想だった。
 考えた結果、ルイスは財布を手に奮然と立ち上がった。





 ノッカーを掴んで森番小屋の扉を叩くと、モランはすぐに出てきた。彼はルイスを見るなりぎょっとした顔をした。

「おまっ……昨日の今日で来たのかよ。一人か?」
「はい。約束通り、兄さんにも兄様にも話していません。すぐに帰りますよ」
「あ? じゃあ何しに……」

 来たのか、と言いかけたところで、モランはルイスがまた同じバスケットを下げていることに気がついたようだった。

「モランさんのじゃありませんよ。あの森の奥の小屋の持ち主に渡してください」

 ルイスは念を押しながら、それを彼の鼻先に突きつけた。
 中にはずっしりとしたローストビーフがひとかたまり入っている。肉屋で買ってきた一番いいもも肉を、低温でじっくりと焼いたものだ。香草で臭み取りこそしてあるが、あの犬がそのまま食べられるように味付けはしていない。人間用のソースは一応小瓶に詰めて添えてあった。
 ルイスがそのことを説明しようとすると、モランはガシガシと頭をかいた。

「あー、そうだよなぁ……」
「モランさん?」
「……ちょっと待ってろ。おい、フレッド!」

 モランが急に部屋の奥に向かって大声で怒鳴ったので、ルイスは目を丸くした。

「誰かいたのですか? 来客中にすみません」
「いや、いい。待ってろ。おぉい、フレッド! ちょっと来い! …………ったく。おい、ルイスあがれ」
「え? ちょ、モランさん?」

 焦れたモランに腕を掴まれ、ルイスは小屋の中に引っ張り込まれた。短い廊下を二、三歩で通り越して、客間を兼ねた居間へ踏み込んだ。

「…………っ!」

 部屋の窓の前に、一人の青年が立っていた。
 ルイスよりはいくつか年下だろうか。短くて黒い髪はモランに似ていたが、それ以外は彼とは正反対だ。小柄で、頬の輪郭にはまだ幼げな丸みが残っている。
 彼はルイスと目が合わないようにぱっと顔を背けて、首に巻いた水色のストールを口元まで引き上げた。

「玄関はこっちだ。窓から出るなよ」
「…………」

 モランがからかうと、彼は何も言わずにじとりと睨み返した。本気で怒っているようには見えない。気心知れた相手に対する目つきに見えた。

「ほら、ルイスがお前にって」

 モランがずいとバスケットを突き出したので、ルイスと青年は同時に「えっ」と声を上げた。

「モラン……!!」
「彼が、あの小屋の?」
「おう、フレッドだ。いいタイミングだったな」

 ルイスはもう一度、まじまじと彼を観察した。
 醜い傷があるわけでもない、ごく普通の青年だ。もちろん凶悪な犯罪者にも見えない。ルイスの視線に居心地悪そうにしながらも、かといって今から逃げるのも背中を向けるのも失礼だし……と戸惑う様子がありありと見て取れた。 

「フレッドさん、あの、ルイスといいます。勝手に家に上がってしまってすみませんでした。それから、あの子にも怪我をさせてしまって……。これ、ささやかですがそのお礼です」
「…………」
「ほんとうに、ありがとうございました」

 ルイスは深々と頭を下げた。

「あの子の怪我の具合はいかがですか?」
「あの子……?」
「あのワンちゃんです」
「わ、ワンちゃん」
「ぶっ」

 横で聞いていたモランが何故か吹き出した。
 他所様の飼い犬を「あの犬」呼ばわりするのも気が引けたのだが、そんなにおかしな言葉だっただろうか。ルイスは少し口を尖らせながら尋ねた。

「あの子、何という名前なんですか?」
「え……っと、あの」
「フレディ、な」

 口ごもるフレッドに、モランが横から助け舟を出した。
 フレッドに、フレッドの飼い犬のフレディ?
 偉人や物語の登場人物の名前を飼い犬につけることはよくあるらしいが、自分の愛称をつけるのはあまり聞いたことがない。ルイスは首を傾げた。

「コインの裏表みたいなもんだからな」
「……」

 フレッドが無言でモランの背中を殴った。
 それくらい仲がいい、ということだろうか。

「……もう帰る」

 フレッドはモランに短くそう告げると、ルイスに黙礼してそそくさと出ていこうとした。

「あっ、待って……」
「痛っ……!」

 とっさに腕を掴むと、彼が短く悲鳴を上げた。

「あ……、ごめんなさい! 怪我してたんですね」

 ルイスは慌てて手を離した。よく見ると、左の袖口から包帯が覗いている。

「大丈夫ですか? すみません、気が付かずに……」
「いえ……、平気です」

 フレッドは気まずそうに袖を隠した。
 足早に玄関に向かおうとする彼を、今度はモランが捕まえた。

「おいフレッド、帰るならちょうどよかった。ルイスを送ってやってくれ」
「えっ」
「また一人で森に入ったって知ったらこいつの兄貴たちが心配するだろ」
「……モランが行けば……」
「なんだよ、ルイスと二人は嫌か?」
「…………」

 なんだか妙な流れになってきた。初対面の相手を無理に付き合わせるのも申し訳ない。ルイスは辞去しようとしたが、それよりも早くフレッドがこちらを向いた。

「……ご一緒します」





 結局モランに押し負けて、彼に送っていってもらうことになってしまった。前を歩く、頭一つ分背の低い彼に話しかける。

「あの、すみません、モランさんが……。この間はたまたま迷ってしまっただけで、道はわかります。途中までで結構ですよ」
「いえ、出口までは……」

 それだけ答えて、また彼は黙ってしまった。
 口数が少なく表情にあまり変化が見られないが、ルイスとの会話を拒んでいるようには見えない。むしろ、彼の方が賢明に言葉を探してくれているように思えた。
 ルイスとてお喋りな方ではなかったが、もう少し、彼と話がしてみたかった。

「薔薇、ありがとうございました。君が育てたんですか?」
「あ……はい」
「すごいですね。あの温室もとても綺麗でした。あ、勝手に入ってごめんなさい」
「いえ、それは全然。……ありがとう、ございます」
「また見に行ってもいいですか? フレディにも会いたいので」
「…………」

 しばしの沈黙の後、フレッドは口を開いた。

「……フレディ、は……いつも昼の間はどこかに行って、いないんです」
「そうなんですか。夜には帰ってくるのなら、自分のうちだとちゃんと理解しているんでしょうね」

 そういえば、この青年はあの夜どこにいたのだろう。ふとそんな疑問が頭を過ぎった。

「じゃあ、僕はここで。……これ、ありがとうございます」

 そのことについて尋ねる前に、いつの間にか森の出口に着いていたようだ。フレッドはバスケットを胸のあたりまで持ち上げてぺこりと頭を下げた。

「お礼ですから。フレディと一緒に食べてください」
「……はい。フィッシュパイも、おいしかったです」
「それはよかった」

 もう一度頭を下げると、彼は足早に来た道を引き返していった。
 いつの間にか太陽は傾いて、その色を徐々に濃くしながら山の向こうに消えようとしている。じきにウィリアムが大学から帰ってくる時間だ。早く屋敷に戻って夕飯の支度をしなくては。
 温室を見に行ってもいいか、という問いに対して彼は「いい」とも「駄目だ」とも答えなかった。そのことが少しだけ寂しかった。

初出:Pixiv 2022.11.05

The Heavenly Dispensing
 フレッド人狼パロ(CP要素あり)。原作とは何も関係ない。


 自分がいつ、どこで生まれたのかもわからない。
 気がついたときには僕は『いた』。
 太陽が沈み月が昇ると、僕の身体は獣に変わる。そして太陽が昇ると、今度は人間になる。この法則が乱れたことは一度もなく、どちらが本当の姿なのかは僕自身も知らなかった。
 人間でも、狼でもなかった。当然、どちらの群れにも属することができなかった。

 子どもの頃の僕は弱かった。
 牙も爪も貧弱で獲物を狩るのに苦労したし、昼の間はそれすらも失われる。人間の子どもの姿では森の中を歩くことさえままならなかった。狼や鷹のような、他の強い動物たちは最初から僕のことを相手にしなかったから、何とか殺されずに済んだだけだ。
 人間の中には優しくしてくれる人もいた。哀れな子ども、みすぼらしい野良犬だとお金や食べ物を分けてくれるのだ。
 けれど、それは彼らが僕の正体を知らないからだった。
 親切にしてもらえたことに舞い上がって、僕はたびたび失敗をした。時間が経つのを忘れて、昼と夜が入れ替わり姿が転じる瞬間をうっかり人前に晒してしまった。
 化け物、と誰かが言った。
 石を投げられて、箒でぶたれた。
 悲しかったし痛かったけれど、何よりも辛かったのは彼らの怯えた目を見ることだった。
 そうして惨めな思いをするたびに人間にはもう二度と関わるまいと心に決めるのに、時間はあっという間に僕の決意をなかったことにしてしまう。木の洞や路地裏でじっと息を潜めていると、数少ない嬉しかった出来事をくり返しくり返し思い出してしまうのだ。
 教会で温かいスープを食べさせてもらったこと。同じくらいの歳の子どもが「一緒に遊ぼう」と言ってくれたこと。通りがかった男の人がぴかぴか光るコインをくれたこと。
 寒いのも暗いのも、一人では耐えられなかった。人間が恋しくてたまらなかった。ほんのひと時でも彼らの輪の中に混ざっていたくて、ひどい目にあうとわかっていながら僕は街に下りていくのをやめられなかった。

 その日も僕は懲りずに同じ失敗を繰り返した。
 ぼろを纏って裸足で歩く僕を気の毒がって、通りがかったお婆さんがパンをくれた。その上「もうすぐひどい嵐になるから」と僕を家に入れてくれさえした。暖かい家の中で暖炉の前に座らせてもらうと、頭がぼうっとして涙がこぼれてきた。お婆さんは「辛かったんだね」と頭を撫でてくれた。僕は声を上げて泣いた。
 そこで止めにしておくべきだったのだろう。隙を見て、彼女の親切に感謝しながらそっと家から抜け出すべきだった。
 お婆さんの腕に抱かれて、僕はうとうとと居眠りをしてしまった。心地よいまどろみは、彼女のけたたましい悲鳴によって破られた。外ではいつの間にか日が暮れて、僕は灰色の獣の姿になっていた。
 お婆さんは半狂乱になって、暖炉のそばに立てかけてあった火かき棒を手に取るとめちゃくちゃに振り回した。僕は必死で部屋の中を逃げ回った。しばらく格闘した後、お婆さんの手からすっぽ抜けた火かき棒が窓ガラスを割ったので、そこから何とか逃げ出すことができた。
 お婆さんの言った通りひどい嵐になったから、追いかけてくる人間はいなかった。僕は後ろを振り返らずに走った。激しい風と大きな雨粒が顔に吹きつけて前も見えなかった。
 僕のせいで窓ガラスが割れてしまったから、あのお婆さんは今夜困るかもしれない。怖い思いをさせて、彼女の優しさに最悪の形で報いてしまった。自分という存在が申し訳なくて、恥ずかしくて、僕は無我夢中で逃げた。

 走って、走って、次第に足が動かなくなった。
 たくさん走ったはずなのに、寒くてたまらなかった。どこか雨に濡れない場所に隠れなければならないと思ったけれど、横殴りの雨は木陰や軒下ではしのげそうにない。
 僕にとって安全な場所はどこにもなかった。
 ついに一歩も動けなくなって、僕は柔らかい草の上に倒れ込んだ。雨と風の音が遠のいて、いつしか寒さも感じなくなっていた。不思議と悲しくも怖くもなかった。ただ「もう死ぬのかな」と思っただけだった。
 どうせ怪物に生まれたのなら、ひとりぼっちで生きていけるくらい強ければよかった。



◇◇◇◇◇◇


 モリアーティ領内にある森は、オークやブナの木が生い茂る自然豊かな森だった。
 かつては森の恵みを狙った密猟者が跡を絶たなかったそうだが、現領主であるアルバートに代替わりしてからはそういった話は聞いたことがない。
 街が穏やかになれば、それを取り囲む森の中も長閑なものだった。木々の隙間から明るい日差しが降り注ぎ、そこかしこから小鳥のさえずりが響いている。時折木の上をちょこまかと走るリスの影が見えて、ルイスはその度足を止めて頭上を見上げた。
 通い慣れた小道をたどって着いた先は、森番小屋だ。
 扉をノックすると、森番を務めるモランが出迎えた。彼はルイスの顔を見るなり「おう」と気安い態度で片手を上げた。兄の遣いで訪れることも多かったから、彼もルイスも慣れたものだった。

「こんにちは、モランさん」
「美味そうな匂いだな……なんだ?」
「フィッシュパイです。イワシをたくさん頂いたのでおすそ分けしようかと」

 持っていたバスケットを掲げてみせると、モランは「げ」と顔をしかめた。

「またそれか……。せめて塩漬けにしてくれよ」
「なんですかその言い草は! じゃあこれも必要ありませんね」

 アルバートから預かっていた赤ワインのボトルをちらつかせると、モランは慌てたように手を振った。

「おいおい冗談だって。ありがたく頂戴するよ」
「まったくもう……」

 ルイスは鼻を鳴らしながらボトルとバスケットを渡した。
 それからしばらくの間、他愛のない世間話をした。話題は主に、付近一帯を治めるアルバートの近況であったり、近くの大学で数学を教えているウィリアムのことだ。

「じゃあ、僕はこれで。また夕食を食べにいらしてください」
「おう、あいつらにもよろしくな。送ってくか?」
「大丈夫です」
「わかった、じゃあ気をつけてな」


 しばらく歩いて、森の出口近くまで差しかかったところだった。街に寄って買い物をするつもりだったので、ルイスは買い物のメモを確かめようとポケットの中を探った。

「あれ?」

 メモはすぐに見つかった。けれど、一緒に胸ポケットに入れていたはずの万年筆がなくなっていた。すぐに他のポケットも探ってみたが、やはり無い。
 家を出る前にメモを書いて、メモとあわせてポケットにしまったことは覚えている。けれど、家を出てからは万年筆をポケットから取り出した覚えはない。
 歩いている途中にどこかに落としてしまったのだろうか。ルイスは急激に不安に襲われた。あの万年筆は兄たちが誕生日に送ってくれた大切なものだ。モランの家に置き忘れてしまったのならまだしも、どこか森の小道に落としてしまっていたとしたら……。
 ルイスは辺りを見回した。
 日が傾きはじめてはいるが、日没まではまだ時間がある。万年筆を探しながら来た道を引き返そう。もし途中で日が暮れてしまったら、モランに泊めてもらえばいい。以前にも、ウィリアムが彼の家で寝落ちてしまってそのまま泊めてもらったことがある。その時は屋敷で待っていたアルバートにはずいぶん心配をさせてしまったけれど、ルイスだってもう大人だ。モランの家に行くことは事前に伝えてある。万が一帰れなくなっても大丈夫なはずだ。
 ルイスは踵を返して、歩いてきた道を引き返した。

 草木や石ころの陰に万年筆が落ちていないか、注意深く探しながら歩いた。
 はたと気づいて顔をあげると、辺りはずいぶん暗くなっていた。夕陽は立ち並ぶ木々に遮られて、もうほとんど消えかかっている。けれど、かなり歩いたから体感的にはそろそろモランの小屋に着くはずだ。

「あれ、ここは……?」

 ルイスは、いつの間にか自分が見覚えのない場所に立っていることに気がついた。明るい昼間の森しか知らないから、夕暮れ時の光の加減で違った景色に見えているだけだと思いたかった。
 森の出入り口から森番小屋までは、行き来する人も多いからある程度踏み固められた道がある。けれど今ルイスの足元に伸びている道は、見慣れたものよりかなり細く頼りなく見えた。
 そもそも、これは本当に道なのだろうか?
 小屋は森の出入り口から東に位置する。夕陽を背にして、暗い方に向かって歩けば辿り着けるはず。ルイスは万年筆を探すことを一旦諦め、モランの小屋を目指して歩調を早めた。
 と、その時、木立の隙間に黒い影が見えた。
 こんな森の中にいるのだからてっきりモランかと思ったが、違う。
 人間の影ではない。
 狼だ。
 そう理解した瞬間、背筋に悪寒が走った。
 狼は人の出入りの多い場所には現れない。ルイスは自分がいつの間にか森のずいぶん深くまで入り込んでしまっていたことを悟った。松明でもあればたいていの獣は怖がって近づいてこないはずだが、今のルイスはマッチすら持っていない。
 小屋があると思われる方向に向けてひた走った。
 狼はもう足音が聞こえるほどの距離まで迫っている。木立が邪魔をして何頭いるのか把握できないが、一頭や二頭ではないはずだ。
 木の上に逃げようにも、周囲の木はどれもまっすぐに幹を伸ばしていて足掛かりにできそうな枝が見当たらなかった。それに、狼たちは先ほどから適度な距離を保ちながらじわじわとルイスを包囲しようと動いている。きっと足を止めた瞬間に飛びかかってくるだろう。手頃な木を見極めている余裕はなかった。
 大人しく明日出直すべきだった、と後悔してももう遅い。

「……あっ!」

 木の根に足を取られた。
 夢中で走っていたため受け身を取る余裕もなく、ルイスは地面に倒れ込んだ。転んだ拍子に眼鏡が外れて草むらへ落ちたが、拾っている余裕はない。
 周囲の暗闇から、獣の低い唸り声と息づかいが聞こえる。目前まで迫っているであろう狼たちの姿を直視できなくて、ルイスは思わず身を固くして顔を伏せた。
 無数の牙に噛み殺される自分の姿を想像して、血の気が引いた。単純な死の恐怖ももちろんある。しかしそれ以上に、ずたずたに引き裂かれた死体をウィリアムやアルバートの前に晒したくはなかった。
 昔、別荘の火事でルイスが火傷を負ったときも、彼らはひどく悲しんでくれた。きっとあの時よりももっと惨い姿を見せることになってしまう。
 優しい兄たちに心の中で詫びながら、ルイスは迫りくる時を待った。
 その時、真っ黒い影が狼たちの前に躍りでた。
 別の群れの狼だろうか。銀色に近い明るい灰色の毛並みが月明かりにきらめいた。
 彼は目にも留まらぬ速さでルイスを取り囲んでいた先頭の一匹に襲いかかった。
 ぎゃん、と悲鳴が上がる。
 灰色の狼は周りの狼たちよりも一回りほど小さかったが、そのすばしこさで彼らを圧倒していた。数の不利などものともせず、次々と飛びかかってくる狼たちを撃退していく。
 群れのリーダーと思しき一際大きな狼を下すと、やがて敵わないと悟った狼たちが一匹、また一匹と逃げ去っていった。文字通り、しっぽを巻いて。
 ルイスはその光景を信じられない思いで呆然と眺めていた。
 狼たちが去り、その灰色の狼はルイスの方を振り返った。一瞬身体が竦んだが、たった今まで歯をむき出しにして唸り声を上げていたのが嘘のように大人しかった。
 彼は怪我が無いか確かめるように、座り込んだルイスの周りをぐるりと一周すると、地面に身を伏せた。こちらを見上げる黒目がちの目に敵意は感じられない。

「…………ありがとう」

 どうやら獲物を横取りしに来たわけではないらしい。狼かと思ったが、こうして見ると犬に近いのかもしれない。そんな話は聞いてはいなかったが、モランが飼っている猟犬だろうか。
 恐る恐る手を伸ばすと、彼の耳がぺたりと倒れた。頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を閉じる。小さく尻尾を振る姿は、人に慣れた飼い犬と同じだ。
 つい先ほどまで狼に噛み殺される寸前だったのに、今は別の狼に助けられてその頭を撫でている。そのあまりの落差に戸惑いながらも、もふもふとした毛皮に手を滑らせているうちに緊張で強ばっていた心身が解けていくのがわかった。
 ルイスがふぅと息を吐いたのをきっかけに、狼犬はすっくと立ち上がった。数歩歩いて立ち止まり、こちらを振り返る。ついてこい、とでも言いたげな仕草だった。
 ぼんやりしていて先ほどの狼たちが戻ってきてはたまらない。ルイスは慌てて彼の後を追った。

 この不思議な狼犬の先導で、五分と歩かないうちに、ルイスは小さな小屋を発見した。
 モランが使っている倉庫か何かだろうか。彼が自宅にしている森番小屋の半分ほどの大きさしかない、こぢんまりとした小屋だった。三角屋根が可愛らしい。

「案内してくれたんですね、ありがとう」

 もう一度頭を撫でてやると、彼はいっそう嬉しそうに尻尾を振った。
 ここなら一晩安全に過ごせるだろう。ルイスは救われた気持ちで小屋へ駆け寄った。
 窓にカーテンは引かれていないが、明かりも灯っておらず、中に人の気配は無い。けれど一応の礼儀として、ルイスはドアをノックした。

「ごめんください……モランさん? どなたかいませんか?」

 反応はない。
 狼犬がするりとルイスの脇を抜けて、ドアの横にあった小さな板戸から中に入り込んだ。
 この狼犬のために造り付けられたものなのだろうか。身体で板を押せば彼でも簡単に出入りできる、専用のドアだった。彼はその小さな戸口から頭だけ出して、入らないの?と言うようにこちらを見上げてきた。
 ドアノブに手をかけると、あっさりと回った。鍵はかかっていない。

「お邪魔します……」

 室内にはやはり誰もいなかった。
 窓から辛うじて差し込む月明かりで、おぼろげながらこの小屋の内部がほとんど正方形の箱と同じ構造をしていることがわかった。
 中の状態は暗くてよくわからないが、埃や蜘蛛の巣が顔に掛かる感覚はない。少なくとも定期的に人が出入りしているようだ。ひとまず安心しながら壁伝いに移動しようと足を踏み出したとき、またしても狼犬がルイスの脇をすり抜けて暗い部屋の中を進んでいった。その足取りに少しの迷いもないことが、固い爪が床板を弾く軽い音でわかった。
 たいていの動物は人間よりも目が悪い代わりに、他のあらゆる感覚が人間よりも遥かに優れていると聞く。明かりが無いだけでまともに歩くこともできない自分に苦笑していると、狼犬が軽い足取りで戻ってきた。口に何かをくわえている。
 ランタンだった。
 輪っかになった持ち手の部分を器用にくわえ、顎を上げてルイスへ差し出している。
 暗い場所ではこれが必要だと知っているのだ。
 驚きながらそれを受け取ると、彼はまた部屋の中に戻っていって、今度はマッチ箱を持ってきてくれた。
 外から帰ってきたときはランタンとマッチを持ってくるように躾けられているのだろうか。どちらにせよ、舌を巻くほど利口な犬だった。潰れないようにきちんと加減してくわえたらしく、マッチの外箱は少しも痛んでいない。
 だから、ルイスが椅子に腰を落ち着けたとき、彼がブランケットをずるずると引っ張ってきてくれたことにはもう驚かなかった。

「ありがとう」

 ブランケットを受け取ったついでに顎の下をくすぐってやると彼は気持ちよさそうに目を閉じた。さっきから彼にはお礼を言ってばかりで、なんだかおかしくなってきた。

「お利口でお行儀も良くて……いい子ですね、君は」

 狼の血が濃い猟犬は忠実で仲間意識が強い分、群れの外の相手に対しては攻撃的な態度を取りやすいと聞いたことがある。しかしこの狼犬は突然現れたルイスにもここまで尽くしてくれる。
 普段よほど人に可愛がられているのか、元来優しい性格なのか。むやみに吠えたりじゃれついたりしないのに、構ってやると控えめにぱたぱたと尻尾を振るのがいじらしくて可愛かった。
 ルイスは改めて室内を見渡した。
 古びたランタンのぼんやりとした明かりではあったが、この小さな部屋には十分な明るさだろう。
 キャビネットがひとつと、小さな薪ストーブ、タイル張りの簡素な流し台。脱ぎっぱなしの服や開いたままの本も見受けられる。生活感のある空間だったが、おそらくここを使っているのはモランではない。煙草や、猟銃に使う火薬の匂いが全くしないからだ。
 この小屋の持ち主は、一体何者なのだろう。
 少し不審に思いながらブランケットを引き上げたとき、左手にぬるりとした感触があった。何気なく手元を見やると、柔らかい布地の一部が赤黒い液体で汚れていた。
 ルイスは慌てて立ち上がった。自分はどこも怪我をしていない。ということは――。

「君、怪我を……!」

 部屋の隅の自分の寝床に引っ込もうとしていた狼犬に駆け寄った。
 よく見ると、左の前足が血に濡れていた。
 先ほど狼たちと格闘したとき、噛まれていたのだ。そんな素振りを少しも見せなかったから気がつかなかった。
 人間であれば、野生動物に噛みつかれれば感染症の危険がある。同じ動物の場合はどうなのだろう。とにかく傷口を洗って消毒するに越したことはないはずだ。
 ルイスはざっと部屋の中を見回して、窓際の書き物机の方へ向かった。そばに小さな棚があったので、そこに薬や消毒液がないかと考えたのだ。手にしたランタンを机の上に置いたとき、広げっぱなしのノートに目が止まった。

「…………」

 詩か何かの、書き取りだった。流れるような筆跡の美しい文字と、子供のような辿々しい文字が交互に並んでいる。ちょうど、教師が書いたお手本を真似て生徒が字の練習をしたような――。

「わ、こら。じっとしてないとダメですよ」

 いつの間にかそばに寄ってきた狼犬が、ルイスの腰のあたりにぐりぐりと頭を押しつけてきた。

「早く傷口を消毒しないと……。それから、包帯とかどこかにないでしょうか」

 半分ひとり言をつぶやきながら、ポケットの中を探った。ハンカチ一枚で間に合うだろうか。できれば、洗った傷口を拭う布と包帯は別にしたい。
 狼犬はとてとてと部屋の隅へ歩いていって、キャビネットをかりかりと引っかいた。もしやと思って開けてみると、中に救急箱が入っていた。包帯もちゃんとある。

「……君、僕の言っていることが分かるんですか?」

 狼犬の方を振り向くと、彼は数回ぱちぱちと瞬きしてからこてんと首を傾げた。

「…………」

 誤魔化されている気がする。
 一人と一匹はしばらくじっと睨みあっていたが、やがてルイスの方が折れた。

「……犬相手に何を言ってるんでしょうね、僕は」

 流し台で濡らしたハンカチを絞りながら、ひとりごちた。傷の手当をする間、狼犬は嫌がる素振りを見せるどころかひと声も上げなかった。
 左前足にしっかりと包帯を巻いてふと顔をあげると、狼犬と真正面から目があった。と思ったら、あちらがぱっと顔を伏せて目をそらす。恥ずかしがりな人間の相手をしている気分になって、ルイスはふふふと笑みを漏らした。

「……今日は本当にありがとう」

 呟いてから、ルイスはもう一度、狼犬のもふもふを堪能した。首の周りは特に毛量が多くて、手を差し入れると撫でている側も気持ちいい。

「……万年筆、明日見つかるといいんですが」

 ひとしきり毛皮の手触りを楽しんでから、ルイスは椅子に戻って目を閉じた。

初出:Pixiv 2022.10.28

目には目を!
 ふんわりした年齢操作現パロその2

 その日、いくらか仕事が立て込んでいて、自宅に帰り着く頃には日も暮れてから随分経ってしまっていた。
 モランは「あー、疲れた疲れた」と独り言ちながら、ネクタイを解いた。
 居間に入ると、フレッドは小さめのダイニングテーブルに向かっていた。彼の背丈にはやや高いチェアの上で足をぷらぷらさせながら、宿題をしているようだった。

「おかえり」
「もう飯食ったか?」
「ん」

 冷蔵庫から冷たい缶ビールを取り出してプルタブを引く。ぷしゅっと空気の抜ける小気味よい音を聞きつけて、フレッドが顔を上げた。

「……先にごはん」
「わーってるって」

 週明けの労働を終えたご褒美だ。この美味さはお子様には分かるまい。
 しばらくじとりとした目でモランを睨めつけていたフレッドは、やがて諦めて宿題に戻った。向かいの席に腰を下ろして覗き込んでみると、算数のドリルのようだった。低学年向けのドリルには、ページの隅に可愛らしいキャラクターのイラストまで添えられていて、何だか懐かしい気分になる。

「分かんねぇところあったら教えてやるぞ」
「ウィリアムさんに教えてもらう」
「あっそ……」

 素っ気無い返事だった。確かに、たまに指を使ったりしてはいるが、順調に解答を書き込んでいる。モランからうるさく言わなくてもちゃんと宿題をするのだから、偉いものだ。
 ビールをちびちびやりながらその様子を眺めていると、ふと、ドリルに取り組むフレッドの顔がほとんど見えないことに気がついた。

「お前、髪伸びたな……」

 フレッドが算数ドリルから顔を上げた。
 本人はきょとんとしているが、いつの間にか前髪が目にかかるほど伸びている。
 しまったな、とモランは内心でつぶやいた。
 週末のうちに床屋に連れて行くべきだった。まだ一週間は始まったばかりなうえに、この週末はウィリアムたちと遊びに出かける予定があるから、連れて行ってやる暇がない。
 かと言って、散髪代だけ渡しておいて、平日の放課後に一人で床屋に行かせるのは少々心配だ。再来週までこのまま過ごすしかないだろうか……。
 思案していたモランは、もっと簡単な解決策を思いついて指を弾いた。

「フレッド、ちょっとこっち来い」





 週の真ん中、水曜日のことだった。
 ウィリアムは友人のシャーロックと連れ立って学校を出た。

「十八章まで、読めた?」
「おう。授業中ずっと推理してたぜ!」
「それは期待できそうだ」

 ウィリアムとシャーロックの手には、それぞれ分厚い推理小説が握られている。
 同じ小説を同じページまで読んで、犯人を推理するのが最近二人が凝っている遊びだ。教室でやると先生たちがいい顔をしないから、放課後、歩きながら話すと決めていた。

「……だから俺は、エイドリアンがリチャード殺しの犯人だと推理する」
「うーん、ハウダニットの観点で考えるなら、君の言う通りなんだろうね」
「それ以外に何かあるのかよ?」
「被害者を最後に目撃した近所の住人が『もう遅いのに』って言葉を聞いてるでしょ? まだ夜の八時なのに、おかしくないかな。犯人がエイドリアンだったのなら、なおさら」
「『今更もう遅いのに』とか、そういう意味にも取れるんじゃね?」
「それはそうだけど……あれ、ルイスだ」

 ウィリアムが声を上げた。
 見ると、前方から彼の弟のルイスが歩いてくる。すぐにルイスもこちらに――というか、ウィリアムに、気づいたようだ。ぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってくる。

「兄さん!」
「ルイス。先に帰っていたと思ったんだけど……」
「はい。……フレッドのうちに行っていました。今日、学校をお休みしていたので……」
「あ、そうなの。……ルイス、大丈夫?」

 ウィリアムが心配そうに訊ねた。
 その質問の意図はシャーロックにも理解できた。というのも、ルイスが今にも泣きそうな顔をしていたからだ。

「……」

 ルイスは黙って、握りしめていた紙切れを差し出した。メモ帳の一ページを破り取ったものらしかった。
 ウィリアムとシャーロックは額を寄せ合って、その紙切れをのぞき込む。

『がっこう いきたくないです』

 鉛筆のたどたどしい文字で、そう記されている。

「これ、フレッドが?」

 尋ねると、ルイスはこくこくと頷いた。

 彼から聞き出した話を要約すると、こうだ。
 今日、フレッドは学校を休んだ。彼の担任の先生に理由を訊ねてみたところ『体調不良』とのことだったので、ルイスは放課後に彼の家に立ち寄った。
 フレッドの具合が悪くともモランが出てくるだろうと考えてインターホンを鳴らしたが、しばらく待っても誰も出てこない。留守だろうか。
 仕方がないので、ルイスはマンションの廊下の隅にしゃがみ込んで、その場で手紙を書いた。ノートのページを破いたものに、今日学校であったことや早く元気になってほしいことなどをしたためた。
 ドアのポストに紙切れを押し込んで、今日のところはもう帰ろうとした。
 が、すぐにドアの向こうでカタンと小さな音がした。誰かが手紙を取ったのだ。

「フレッド? いるんですか?」

 ドアの向こうに人の気配がある気はする。だが、呼びかけてみても返事はない。
 もしかして泥棒……と恐ろしくなってきた矢先、またカタンと音がした。ポストの隙間から、紙切れが飛び出している。
 ルイスは急いでその紙切れを引っ張り出した。
 広げてみると、フレッドの字で、この短い文言が書きつけられていたのだ。

 その場で一部始終を聞き終えて、ウィリアムは弟の頭を撫でた。

「……そうだったの。心配だね」
「どうしましょう兄さん。学校で何かあったんでしょうか……」
「聞き込みしよーぜ聞き込み!」
「…………」

 シャーロックをじとりと睨むルイスを宥めつつ、ウィリアムは思案した。
 学校には『体調不良』と届けているにも関わらず、フレッド自身は「学校に行きたくない」と言っている。とは言え、あの子がいじめられたからといって大人しく登校を拒否するタイプだとは思えない。それに、そんな事になればモランだって黙ってはいないだろう。
 だとすれば、もっと別のトラブルか。
 ウィリアムはポケットから子ども用スマートフォンを取り出すと、迷いのない手つきで十桁の番号を入力した。二、三回咳払いをし、呼び出し音の後、いつもよりやや低い声を作って話し始める。

「もしもし、お世話になっております。六課のモラン様はご在席でしょうか? ……はい。はい……あ、いえ結構です。どうもありがとうございます。……はい、失礼します」

 通話が切れたのを見届けてから、シャーロックは恐る恐る訊ねた。

「……どこに掛けたんだ?」
「会社。モランは普通に出勤してるみたいだね」
「おぉ……」

 事も無げに言い放つウィリアムに、シャーロックはそこはかとない恐ろしさを感じた。

「どうしてモランさんに直接掛けないのですか?」

 ルイスが当然の疑問を口にした。二人のスマートフォンには当然、モランの携帯番号も登録してある。
 ウィリアムは人差し指の背で自分の唇を撫でて、考えるときの仕草をした。

「……もしフレッドが病気や怪我で学校に来られなくなったのなら、モランが普通に出勤しているのはおかしい」
「そうですね」

 兄の言葉に、ルイスは頷いた。
 そのような事態になれば、フレッドと二人暮らしのモランは絶対に会社を休む。事情を話せば、雇い主のアルバートがいくらでも融通をきかせてくれるだろう。

「一方で、フレッドが精神的な理由で登校を拒否しているのであれば、放課後のこの時間になってもモランから僕たちに何の連絡もないのはおかしい……」
「あ、確かに……」

 ルイスは以前に起こった『フレッドの水筒消失事件』を思い出した。
 あの時、モランは誰よりもフレッドのことを心配して、学校で何かあったのではないかとアルバートやウィリアムに聞いて回っていた。
 フレッドが突然「学校に行きたくない」と言い出した時、同じ学校に通う自分たちに心当たりを聞いてこないはずがない。

「じゃ、モランはフレッドが学校に行きたがってない理由を知ってるっつーことか?」

 シャーロックがぽん、と道端の小石を蹴飛ばした。

「……ルイスは、昨日フレッドに会った?」
「はい」
「何か変わったこととか、気づいたことはなかったかな?」
「えぇと………あ。そういえば、」

 考え込んでいたルイスが何かを言いかけた時だった。

「あら、いつかの探偵さんたち」

 明るい声が聞こえて立ち止まると、ストライプ柄のエプロンを着た女性がにこやかに手を振っている。
 三人はいつの間にか公園の前に差し掛かっていた。公園の前ということは、つまり『水筒消失事件』の鍵を握っていたアイスクリーム屋の前である。
 あの一件以降、下校の時間帯はこうして店員が店先に立つようになった。地域見守り活動の一環、らしい。
 ウィリアムとルイスが「こんにちは」と礼儀正しく挨拶すると、彼女も「はい、こんにちは」と笑顔で返す。

「試食ねーの?」
「残念、ありません。お家の人と買いに来てね」

 シャーロックの不躾な態度を、ルイスは信じられないという目つきで見ていた。が、店員の女性はやんちゃな子どもへの対応も慣れたもので、すかさず手作りのチラシを差し出した。
 シャーロックは季節限定のフレーバーをチェックするふりをしながら、自然な調子で彼女に訊ねる。

「あんた、昨日もここに立ってたのか?」
「ん? そうだね。昨日もいたよ」
「フレッドに会ったか?」
「あぁ、会ったよ! さっぱりしてて可愛くなってたね」
「……さっぱり?」
 シャーロックが首を傾げ、ウィリアムとルイスは顔を見合わせた。





「……それじゃあ、フレッドが今日学校を休んだのは、モランが前髪を切りすぎちゃったからってことでいいんだね?」
「……返す言葉もねぇ」

 夕方。
 モランが会社を出て私用のスマートフォンを確認すると、アルバートからメッセージが入っていた。内容は、帰りに我が家に寄るように、という簡潔なものだった。
 わざわざこちらのスマートフォンに連絡してきたということは、仕事絡みの内容ではないのだろう。
 モランはうっすらと胸騒ぎを覚えつつ、大人しくモリアーティ邸に向かった。
 するとまぁ案の定と言うべきか、モランがうっかりフレッドの前髪をばっさりと切ってしまった件がバレていた。
 モランは今、広々としたモリアーティ家の居間の絨毯の上で正座をさせられ三兄弟から尋問を受けている。
 こいつら、いつもいつもどうやって嗅ぎつけてくるんだ……と内心で悪態をつきながら。

「……あいつだって最初は別に気にしてなかったんだよ。ちょっと不満そうにはしてたけど、まぁこんなものかって顔で。それが昨日学校から帰ってくるなり、『髪が伸びるまで学校いかない』って言いだしやがって……」
「友達や先生や近所の人達に可愛い可愛いって言われたのが嫌だったんだ?」
「……まぁ、そうみたい、だな」

 一昨日、洗面所の床に新聞紙を敷いて、カットクロス代わりに雨ガッパを着せてフレッドの髪を切ってやった。伸びた部分を切りそろえるくらいなら訳ないだろうと考えていたのだが、実際にやってみると案外難しい。
 特に前髪はまずかった。長く伸びすぎたのを何とかしようと最初にハサミを入れたから、加減が分からずばっさりといき過ぎてしまった。
 内心焦りながらも、何とかバランスを整えた。
 鏡で仕上がりを確認したフレッドは、晒されたおでこに少し不服そうな顔はした。けれど元々服装や見てくれにはあまり拘らない性格だったから、特に何も言わなかった。
 事態が変わっていたのは、翌日の夜だった。
 家に帰ると、フレッドが居間のソファの上でむくれた様子で三角座りしていた。家の中なのに、何故かパーカーのフードを被ったまま。
 そうして、「髪が伸びるまで学校いかない」と宣言したのであった。

「モランが悪い」
「モランさんが悪いです」
「あぁ、モランが悪いね。それで、ケーキでも買って帰って機嫌を取ろうという腹か」
「ぐっ………」

 通勤鞄と一緒に抱えていた白い小箱をアルバートに指摘された。中には近所のパティスリーのチョコレートケーキが入っている。

「『ご機嫌取り』なんて人聞きが悪すぎんだろ……」
「他にどう表現すれば?」
「俺だって別に悪気があって切りすぎたわけじゃねぇよ! 素人が見様見真似でやるべきじゃなかったって言われちまえばそれまでだが、しばらく床屋に連れて行ってやれそうになかったんだから、俺が切ってやるのは別に間違っちゃいないだろ? あのまま放っておけばフレッドだって鬱陶しくなってきただろうし、目を悪くしちまうかもしれないし」
「…………」
「結果として俺は失敗しちまったわけだが、そのことについてはこの通りちゃんと謝る。フレッドがそう何日も学校サボれるような性格じゃないのはお前らもよく知ってるだろ? 一日休んで落ち着いたところで俺が頭下げてやれば、あいつだってもう気が済むはずだ」
「……まぁ、そうですね……」

 一番最初に態度を和らげたのはルイスだった。
 そしてルイスを説得できればアルバートもイケる、とモランは考えた。そもそも彼がモランをここへ呼んだのは、末の弟を安心させるためだろうと踏んでいたからだ。
 モランは、ウィリアムの方へそっと視線を送った。
 彼は腕を組んで、子供らしくない聡明さを湛えた赤い瞳でモランをじっと見つめている。

「モラン。まさかとは思うけど……」

 ウィリアムがそう前置きをしたので、モランは内心でぎくりとした。

「お酒、飲んでたんじゃないの?」
「うっ………!!」
「やっぱり」

 一番突かれたくなかったところを見事に突かれてしまった。
 ウィリアムが呆れたようにため息をつくと、追及の手を緩めかけていたアルバートとルイスが色めき立った。

「酒を飲んだ状態でフレッドの髪を切ったのか?」
「モランさんひどいです!」
「か、缶ビール一本くらいで手元が狂うほど酔ったりしねぇよ!」
「お酒を飲んでいたことは認めるんですね!?」
「事実、手元が狂っているというのに呆れたものだな。それに何より危ないだろう。少しは控えたまえ」
「ぐ……」

 酒を控えろ、なんてアルバートには死んでも言われたくない台詞だったが、この状況では何も言い返せない。

「モラン……確かに君に悪気はなかったのかもしれない。でも、お酒を飲んでさえいなければしなかったかもしれない失敗だよね? フレッドはまだ小さいからお酒の影響というものにピンと来ていないかもしれないけど、いつか必ず気づくよ。あの時モランがお酒を飲んでいたせいで恥ずかしい思いをさせられた、って」

 ぐうの音も出なかった。

「……で、でも、もう切っちまったもんは仕方ないだろ。謝る以外にどうしろって言うんだよ」
「謝り方の問題だよ、モラン。信頼を取り戻すためには、君の誠意を示す必要がある」
「だからこうして、あいつの好きなケーキも買ってきたし……」
「お金は誠意とは言わないよ。大人同士のトラブルならそれで済む場合も多いかもしれないけどね」
「……じゃあ、どうしろってんだよ……」

 少しばかり投げやりな気持ちになりながらそう尋ねると、ウィリアムは「簡単なことだよ」とにっこり微笑んだ。

「ハンムラビ法典の最も有名な一節なら、君も聞いたことがあるだろう?」





 三兄弟から解放されてようやく帰宅すると、リビングには明かりこそ点いていたが、無人だった。
 モランは室内をざっと一回りした。
 用意しておいた食事はちゃんと食べているようだったし、戸棚からお菓子を出して食べた形跡もある。今朝はテーブルの上に置いていたはずのリモコンがソファの上に移動していたから、テレビを見て過ごした時間もあったようだ。
 といっても、ズル休みを満喫できるような性格でもないから、一日も経てば落ち着かなくなってくる頃だろう。
 モランはフレッドの部屋のドアをノックした。

「フレッド、ただいま」
「………………おかえり」

 中からごく小さな声で返事があった。 怒っているというよりは、どんな顔をして出ていけばいいかわからなくてちょっと拗ねてみた、といった声だった。

「ちょっと出てきてくれねぇか。見てほしいモンがあるんだ」
「……何?」
「いいから、ちょっとだけ。出てこいよ」
「…………」

 廊下に正座してしばらく待つと、ドアが小さく開いた。隙間からしぶしぶ顔を覗かせたフレッドは、モランの姿を見て目を丸くした。
 額のあたりに彼の視線が刺さっているのがわかる。
 モランの前髪も、フレッドと同じくらい、短く切りそろえられていた。

「それ、どうしたの……?」
「切った。……お揃いだな」

 モランは苦く笑いながら答えた。
 正確には『切られた』のだが。
 あの後、バルコニーに連行されたモランは、ウィリアムの手によって前髪をざっくりと切り落とされた。もちろん器用な彼のすることだから、人前に出られなくなるような仕上がりではない。
 とはいえ、見慣れた自分の前髪が消え失せて額が晒されているのは確かに気恥ずかしい。ルイスが「フレッドはもうちょっと短かったです」と口を挟んだお陰で前髪の長さはかなり精確に再現された。
 まさに『目には目を、歯には歯を』というわけだ。
 さらに追い打ちをかけるようにアルバートがモランのスマートフォンを奪いとると、その姿を写真に収め同僚数名に一斉送信した。モランが常日頃格好つけたがっている後輩や女子社員たちを的確に選んでいたのだから、まったく悪魔のような男である。
 すぐに全員から返信があった。「似合ってます!」とか「え、どうしたのモランくんかわい〜!」とか、概ね好意的なものばかりであったが恥ずかしくて居た堪れなかった(マネーペニーからのものすごく気を遣った文面が正直一番堪えた)。

「本当に悪かった。前髪を切り過ぎちまったのも、酒を飲んでたのも。完全に俺の失態だ」
「…………」
「それに、お前の気持ちもよーく分かった。『可愛い、可愛い』って言われまくると、男としての沽券に関わるな」
「こけん?」
「プライドとか意地ってやつのことだ。もう、明日どんな顔して会社に行けばいいのかわかんねぇよ」
「……かいしゃ、行きたくない?」
「ああ、行きたくねぇ。お前と一緒に休んで、家でテレビでも見てたいよ」

 冗談めかして言うと、フレッドはようやく笑った。

「それはダメ」
「わかってるって。ちゃんと行くよ」
「うん。……僕も学校行く。恥ずかしいけど」
「おう、えらいぞ」

 モランは立ち上がると、フレッドの手をつかんだ。大人しく部屋を出てきてくれたので、二人は連れ立って居間へと向かった。

「ケーキ買ってきたんだ。チョコのやつ」
「……クリスマスじゃないのに?」
「今日は特別だ。食おうぜ」
「先にごはん」
「生意気言うなっつの」

初出:Pixiv 2023.09.05

晴れた日はアイスクリームを食べに
 フレッドたちが小学生になっているふんわりした年齢操作現パロ。

「ただいまー」

 一日の仕事を終えてアパートのドアを開けた。
 そこにはすでに明かりが灯っていて、三和土には小さな運動靴が揃えられている。

「おかえり」

 短い廊下の向こうから、フレッドが顔を覗かせた。まだ十歳にもならない彼は、モランの年の離れた弟……のようなものだ。人から「全然似てない」と言われることもあれば、「言われてみれば似てるかもしれない」と首を傾げられることもある。確率はちょうど半々くらいだ。
 ともかく、二人は一緒に暮らしていた。

「もう晩飯食べたか」
「うん」
「俺がいなくても暑くなったらエアコンつけろよ」
「……まだ平気」

 フレッドは手のかからない子供だった。
 年齢の割に落ち着いていて、わがままらしいわがままを言ったためしがない。包丁やガスコンロにはまだ触らないように言い聞かせているが、モランが作り置きか出来合いのおかずさえ用意しておけば自分で温めて食べるし、自分で食器を洗う。モランが脱ぎ散らかした服を洗濯機に突っ込んでおいてくれることもあった。
 仕事で夜遅くなることの多いモランには非常に有難いことだった。「おとなしい子なんだから、気を遣わせすぎないようにしたまえよ」というのは、歳の離れた弟たちと3人暮らしをしているアルバートの言葉だ。
 水切りカゴの中には、まだ水気のある食器とランチボックスが伏せられている。自分もバッグから出しておかねば、と考えながらシンクで手を洗った。

「あ、フレッド。水筒出し忘れてるぞ」

 ふと気がついてモランが声をかけると、部屋に引っ込もうとしていたフレッドはびくりと肩を跳ねさせた。

「どうした? ついでに洗ってやるから持ってこいよ」
「……」

 フレッドがこちらの呼びかけに特に返事をしないことはよくある。無視しているわけではない。余計なことを喋らないだけで、必ず何らかのアクションがある。今日のような場合は、答えずともすぐに部屋に戻って水筒を取ってくるだろうとモランは考えていた。
 だから、フレッドがリビングの出口のあたりでもじもじと立ちつくしているのをただ不思議に思った。

「? ……学校にでも忘れてきたのか?」

 思いついたことをそのまま口に出してみた。彼を咎めたり、責めるようなつもりはまったく無かった。
 それなのに、フレッドは一言も発しないまま突然泣き出した。大きな目がみるみるうちに潤んで、堪えきれなくなった涙の粒がぽろりと転げ落ちたのだ。

「えっ、おいどうした」

 突然のことにモランは面くらって、キッチンから飛び出した。フレッドのそばに膝をついてから、両手が濡れたままであるのに気がついて慌ててシャツで拭った。

「どうした、腹痛いのか? どっか怪我してるのか? 友だちと喧嘩でもしたか?」
「…………っ、」

 フレッドは自己主張の少ない子供だ。声を上げて笑うことはほとんど無いけれど、逆に泣き出すことも滅多にない。そんな子供が今、肩を震わせてぐすぐすと泣いている。
 何を尋ねてみても、フレッドは首を横に振るばかりで何も答えない。彼の背中をさすりながら、モランは内心混乱していた。





「というわけなんだが、お前何か知らないか?」
「朝一番に『緊急の案件だ』というから何かと思えば……」
「十分緊急だろ!」

 あくる日、モランは出勤と同時に社長室に飛び込んだ。事前にショートメールを受け取って部屋で待っていたアルバートは、仕事絡みの内容でないことに若干肩の力を抜きながら居住まいを正した。

「ああ、そうだね。緊急事態であることには違いない。それで、今朝はどうしたんだい?」
「学校は普通に行った。休むか、とは一応聞いてみたが」

 アパート前の自販機でお茶のペットボトルを買ってやると、フレッドは少し申し訳なさそうな顔をした。しかし、学校に行くのを嫌がる素振りは見せなかった。
 まだ沈んだ様子ではあったが、学校で友達と会えば少しは気が紛れるだろうか。無理に聞き出そうとして昨夜の二の舞になってはたまらない。モランは不安ながらもそれ以上は何も言わずにフレッドを送り出した。

「結局、水筒はあったのかい?」
「無い。自分の部屋に隠してるなら別だが……」
「理由もなくそんな事をする子じゃないね」

 モランは当然、とばかりに頷いた。

「それでは、やはり単に学校に忘れてきたかどこかで落としてしまったのでは?」
「だとしたらあいつは隠したりしねぇ。ちゃんと俺に言うはずだ」

 以前に、フレッドが卵をうっかり落として割ってしまったことがあった。モランはまだ仕事に出ていて不在だったが、彼は床を綺麗に掃除した上で、帰ってきたモランにわざわざそのことを謝った。大雑把なモランは冷蔵庫に卵がいくつ残っているかなんていちいち覚えていないし、使った覚えのない汚れたキッチンペーパーと卵の残骸がゴミ箱に捨ててあってもおそらく気付かない。
 黙っていればバレないのに、フレッドは正直に申し出たのだ。室内でボール遊びをして母お気に入りの花瓶を粉々にしてしまい、さらに隠蔽工作を図って大目玉を食らった過去を持つモランは素直に感心した。
 もちろん、フレッドのことはそれはもう褒めた。本人が照れて部屋に引きこもってしまうまで褒めちぎった。

「そもそも『水筒どうした』って聞いただけで泣き出すなんて絶対おかしいだろ。ウィリアムやルイスから何か聞いてないか? 意地の悪いクラスメイトにちょっかいかけられてるとか」
「いや、聞いてないな」
「そうかぁ……」

 フレッドとの間に信頼関係がある自負はあった。
 しかし、彼がモランに対して隠し事をする可能性がまったく考えられないわけではない。自分の失敗は正直に申し出るくせに、転んで膝を擦りむいたときは黙って我慢するような子供なのだ。
 今回もフレッド自身に過失があって水筒を紛失したとは思えなかった。いたずら坊主たちの度を越した悪ふざけ、というのがモランの中での最有力候補である。
 学年は違えど、フレッドと同じ学校に通うアルバートの弟たちならば何か知っているのではないかと思ったが、どうやらあてが外れてしまったようだ。
 そばで聞いていた秘書のマネーペニーが口を挟んだ。

「モランさん。もし本当にフレッド君が他の子供から意地悪されていて、それを隠しているのだとしたら、どうするおつもりです?」
「そのガキ締め上げるに決まってんだろ」

 モランが即答すると、「そういうところですよ」とマネーペニーは呆れたように眉を下げた。

「モランさんがすぐオーバーアクションするから、大事にしたくなくて言い出せないんじゃないですか?」
「ぐ……」
「意地悪した子を懲らしめてその場を収めたところで、その後学校で気まずい思いをするのはフレッド君なんですからね。アフターケアもちゃんと考えて対処しないと」
「わかってるよ……」

 モランは苦い顔で頷いた。

「ところで、フレッドが昨日うちに遊びに来ていたことは知っているかい?」

 アルバートに尋ねられて、モランは「え」と声を上げた。

「聞いてねぇ。昨日はそれどころじゃなかったし」
「そうか。学校帰りに、うちの庭の花が見たいと言ってルイスに付いてきたらしい」
「フレッドが?」

 兄同士が親しいこともあって、フレッドとアルバートの弟たちも気の置けない間柄だ。彼が学校帰りに遊びに行く先といえばたいていモリアーティ邸である。数日おきに執事のジャックも顔を出すから、鍵っ子のフレッドが夕飯まで世話になることもよくあった。
 それにしても、事前の約束もなくフレッドの方から遊びに行きたいとねだるのは珍しいことのように思えた。

「どこか元気がなさそうだったらしいからルイスも心配していたよ。『モランさんと喧嘩でもしたのかも』とあの子が言っていたが、その様子では君も心当たりは無いみたいだな」
「ねぇよ」
「そうか。となるとやはり、学校で何かあったか……。改めてウィリアムたちに詳しく聞いておこう」
「あぁ、頼む」

 ちょうどそこで、始業時間を告げるベルが鳴った。モランはマネーペニーに追い立てられながら、社長室を後にした。





 三兄弟揃った、夕食後のお茶の時間だった。
 アルバートがカップを傾けてお茶を一口飲むのを待ってから、ルイスは「兄様」と呼びかけた。

「モランさん、何か言っていましたか?」

 彼の言う「何か」とは、もちろんフレッドのことである。人見知りの強いルイスにとって、家族ぐるみで付き合いのあるフレッドは大事な友だちだった。

「フレッド、今日もうちに来ました。庭のお花が見たいと言って……。今日も元気がなかったです」
「そうか、心配だね」

 その口振りからして、なぜ我が家に来たがったのか、なぜ元気がないのかは聞き出せなかったようだ。
 ともかく、今の段階でルイスに余計な不安を与えるわけにはいかない。アルバートは弟を励ますように微笑んだ。

「モランに直接確認したが、彼と喧嘩をしてしまったわけではないようだよ」
「そうなんですか……」
「ところで、フレッドが水筒を無くしてしまったらしいんだけど、ルイスは知らないかい? うちに忘れていったりしてはいないかな」
「いえ……。あれ、そういえば、昨日うちに来たときから持っていなかったかも……?」

 ルイスが記憶を辿りながら首を傾げた。少し自信なさげな様子であったので、アルバートはもう一人の弟にも尋ねてみた。

「ウィルはどうだい? フレッドは水筒を持っていた?」
「あ、えっと、僕は……」

 ウィリアムが珍しく口ごもるので、ルイスが唇を尖らせながら代わりに答えた。

「兄さんはフレッドとは会っていません。昨日も今日も」
「あぁ、ホームズくんと遊んでいたんだね」
「と、図書館で自習してたんです」
「あまり遅くなってはいけないよ」
「はぁい……」

 ウィリアムは気恥ずかしそうに、間延びした返事をした。その頬の赤さの理由は、弟の前で窘められたからというだけではないだろう。
 ウィリアムは誰とでも親しく交われるたちではあるが、飛び抜けた頭脳を持つ彼が相手のレベルに合わせる必要があることも否めない。対等に話ができる貴重な友人を得て、最近は毎日楽しそうだった。学校の授業があまりに退屈なので飛び級で大学に進みたい、と以前はよくアルバートに零していたが、そういえば近頃はあまり聞かない。
 一方で、まだまだ兄に甘えたいルイスにとってはあまり面白くないらしい。
 ウィリアムは咳払いしながら、弟に尋ねた。

「と、ところでルイス。フレッドとは何して遊んだの?」
「庭のお花を見て、おやつを食べて……一緒に宿題もしました」
「何時くらいに帰っていった?」
「17時にはうちを出ました」
「送っていってあげたんだね。寄り道は?」
「してません。まっすぐフレッドのうちの前まで行って、アパートの階段の下で別れました」
「今日も、昨日も?」

 ウィリアムが念を押すように問を重ねた。ルイスはこくりと頷く。

「何かわかったかな、ウィル」
「はい、兄さん。まだ確かなことはわかりませんが、僕に考えがあります。明日の放課後、フレッドの水筒を見つけて来ますよ」

 自信ありげなその表情に、アルバートは我が弟ながら頼もしさを覚えるのだった。





 翌日の放課後。
 ウィリアムは帰りがけにシャーロックを誘った。「ちょっとした事件があったんだけど」と前置きすると、彼は一も二もなく飛びついてきた。
 歩きながら、昨夜アルバートから聞いた話をした。一昨日、フレッドが突然泣き出したこと。同じ日に彼の水筒が行方不明になっていること。それ以降毎日ウィリアムのうちに遊びに来たがること。

「シャーリーは、どう思う?」

 シャーロックは腕組みをしながら「うーん」と唸った。
 二人の少し前を、小さな影が並んで歩いている。ルイスとフレッドだ。やはり彼は今日もルイスについて行きたがったようで、手を繋いで帰路についていた。
 遠目にも分かるほど俯きがちなフレッドに気を遣って、ルイスはあれこれと話しかけてやっているらしい。自分のあとを一生懸命ついてくるルイスは可愛いけれど、年下の子相手にお兄さんらしく振る舞おうとするルイスも可愛い、とウィリアムは思った。

「あのちっちゃいのがフレッド? 一年生?」
「二年生だよ」

 ウィリアムは笑って訂正した。
 シャーロックはフレッドとはまだ直接の面識がない。しかし、よく知らないからこそ先入観を取り払ってあらゆる可能性を検討できることもある。

「いじめられてるってセンはないのか?」
「んー……」

 多分、モランやアルバートが一番危惧しているのはその可能性だろう。昨夜はモランからウィリアムのスマホへ、直接メッセージが飛んできたくらいだ。

「僕は、あまりその心配はしていない」
「何で? 泣いてたんだろ?」
「たしかに大人しい子だけど、モランに……お兄さんに買ってもらったものを隠されたり壊されたりして、黙っているような子だとは思えないんだ」
「誰にやられたか分からなくて困ってるとか」
「そんな狡猾に立ち回れる子、低学年のクラスにいると思う?」
「いないよなぁ。じゃあ上級生?」
「そこまで考え始めたらキリが無いよ」
「……リアム、お前もう何か掴んでるんだろ」
「さぁ、どうだろうね」
「考えてみりゃ、そもそもお前が俺に声かけたのは放課後になってからだ。水筒は学校には無いって踏んでるんだろ?」

 シャーロックがにやりと笑った。ウィリアムは「当ててごらん」とばかりににっこりと微笑み返す。
 その時、前を歩いていたルイスとフレッドが、ポストのある角に差し掛かった。彼らは少し立ち止まって何ごとか話してから、左に曲がっていった。

「あ、今日もうちに来るみたいだね」

 そうつぶやくと、シャーロックはピンときたようだ。

「フレッドのうちに帰るには、そこを右に曲がるのか?」
「そうだよ。あの先のアパートだ」
「ってことは、これで三日連続、リアムの弟にくっついてあの角を左に曲がってるわけだ……」

 シャーロックは心持ち顔を俯けながら両手の指先をぴたりと合わせた。彼が考えるときの癖だった。
 ウィリアムはわくわくしながら彼の出す答えを待った。

「そうか! フレッドは本当はリアムのうちの花が見たかったんじゃなくて、「普段の通学路を通りたくなかった」」

 後半は、二人の声がぴったり重なった。「やった!」と嬉しそうに声を上げたのはシャーロックだ。

「フレッドはこの先の道で何かトラブルがあって水筒をなくしたってことか!」
「うん、僕もおんなじ考え」
「行ってみようぜ!」

 シャーロックがウィリアムの手を引いて駆け出した。

「やっぱ水筒が鍵だな。下校中に無くしたとしたら、ある程度可能性は絞られる。この先に公園とかあるだろ?」
「あるよ。流石だね」

 ウィリアムが指差す先に、背の低い植え込みに囲まれた広場があった。時間帯も相まって、子どもたちで賑わっている。サッカーボールを抱えた一団が歓声を上げながらウィリアムたちを追い抜いていった。

「フレッドはサッカーとか、するか?」
「しないね。やったらきっと上手だと思うけど、学校帰りに友達と集まって遊ぶようなタイプではないかな」
「じゃあ誰かが間違って持って帰っちまってるってセンもナシか」
「泣きだしてしまったことともつじつまが合わないね。『返して』って言えば済むんだから」
「だよなぁ……。そもそも、フレッドは水筒をなくしたから泣いたのか? それとも何か悲しくなるようなことがあって、水筒がなくなったのはあくまでそのおまけなのか」
「本人が話そうとしないから、彼のお兄さんも困ってるみたいだったよ」
「……あっ」

 不意に、シャーロックがウィリアムを肘でつついた。「あいつ」と彼は前方を顎で示した。
 公園の前にアイスクリーム屋がある。
 その店先に、一人の女性が立っていた。涼し気なストライプ柄のエプロンは、軒先を飾る庇と同じ色合いだ。店員で間違いないだろう。

「何かおかしくねぇ?」

 シャーロックがウィリアムに耳打ちした。ウィリアムも小さくうなずき返す。
 この道はウィリアムの通学路から外れるけれど、家からそう遠く離れてはいない。あのアイスクリーム屋にも、兄やモランに何度か連れて行ってもらったことがある。それでも、店員が店先に出て呼び込みをしているところは見たことがなかった。
 エプロン姿の店員は前を通りかかる人々ににこやかに声をかけてこそいたが、チラシを配っているわけでもない。

「子供の顔を確認してる。誰か探してるんだ」

 シャーロックがまたひそひそ声で囁いた。
 店の前の人通りが途切れるたび、彼女はじっと公園の方を見ていた。出入りする小学生たちを視線で追っている。
 ウィリアムたちの学校では買い食いは原則禁止されているから、彼らがお客になる可能性はあまり高くない。にもかかわらず、ああも熱心に見つめているということは何かあるに違いなかった。

「あの人が、僕らが探してた人みたいだね」
「だな」

 シャーロックは獲物を見つけた猟犬のように、というよりは、ボールを追いかける子犬のようにその女性店員のもとへ駆け寄った。

「あんた、フレッドを探してるんだろ!」
「えっ?」

 開口一番、シャーロックが元気よくそう叫ぶものだから、彼女は目を丸くした。テリアを散歩させていた通行人が、ちらりと彼らのほうを振り向く。
 苦笑しながら後を追ったウィリアムは、礼儀正しく切り出した。

「あの、お仕事中にごめんなさい。僕たち、友達がなくしてしまった水筒を探しているんですが……」

 彼女は合点がいったように「ああ!」と表情を明るくした。

「よかった。なかなか見かけなかったから返せないかと思ってたよ!」





 階段の下からルイスが手を振ってくれているので、フレッドも踊り場に立ち止まって手を振り返した。彼の姿が見えなくなってから、ポケットから鍵を取り出す。
 結局、今日も水筒を探しに行く勇気が出なかった。
 ルイスはフレッドの様子がおかしいことにとっくに気がついているようだったし、モランだって心配してくれている。普段ざっくばらんな性格の彼が、何か言いたげな顔をしながらフレッドを傷つけないよう出方をうかがってくれている。
 気を遣わせてしまっていることが申し訳なかった。フレッドが助けを求めればモランはすぐに応えてくれるとわかっていたが、今回ばかりはそういうわけにもいかない。
 沈んだ気持ちで玄関の扉を開けると、三和土に大きな革靴が揃えられていた。
 フレッドはどきりとして、しばらくドアを開けたまま立ちつくしていたが、慌てて家の中に駆け込んだ。

「おう、おかえり」
「なんで……」

 モランがいた。
 フレッドは思わず壁に掛かった時計を確認した。17時を少し回ったところだ。普段ならまだ会社にいる時間だった。
 しかし、それよりももっと驚くことがあった。ダイニングテーブルの上に、水筒が置かれている。以前モランに買ってもらった、青い水筒だ。

「ついさっきウィリアムたちが持ってきてくれた。入れ違いだったな」

 モランは悪戯に成功した子供のようにニヤニヤと笑っている。

「あいつらから全部聞いた。偉かったな」

 モランがウィリアムたちから聞いた経緯はこうだ。
 一昨日の放課後、帰宅中のフレッドは公園前の通りで、前を歩いていた老人が突然うずくまる場面に遭遇した。後で分かったことだが、どうやら軽い熱中症だったらしい。
 フレッドは慌てて駆け寄った。老人の状態から熱中症だと判断することはまだ小学生の彼にはできなかったが、赤い顔をして息を切らせているのを見てとっさに水筒に残ったお茶を差し出した。
 しかし多少水分を摂ったところでその老人はすぐには回復しなかった。良くない状態であることはフレッドにも見て取れた。彼はパニックを起こしそうになりながらもすぐ近くのアイスクリーム屋に助けを求めた。半泣きの子供が店に飛び込んできたとき、アルバイトの女性店員は変質者でも出たのかと身構えたそうだ。
 歩道にうずくまった老人を見つけて、彼女はすぐさま救急車を呼んだ。そこからはアイスクリーム屋の店長も出てきて老人に水を飲ませたり、アイスクリーム用の保冷剤で首や脇を冷やしたりと対処をしてくれたらしい。
 しかし、駆けつけた救急隊に老人を引き渡して、やれやれとひと息ついたときには、事態を知らせてくれた子供は姿を消していた。

「そのじいさん、一晩入院したけどすぐに元気になったってよ。家族と一緒にアイスクリーム屋にお礼を言いに来たそうだ」

 モランのその言葉に、フレッドは大きく目を見開いて、そしてへなへなと座り込んだ。
 目の前で人が倒れて、救急車まで出動する騒ぎになったのだ。幼いフレッドが受けた衝撃は計り知れなかった。あの老人がどうなったのか、確かめるのが怖かったのだ。
 下校の時間にはアイスクリーム屋が開いている。だから店の前を迂回するための口実として、ルイスのうちに行きたいとせがんだ。一人で帰るのが不安だったというのも、おそらくあっただろう。
 モランが大股でずかずかと近づいてきて、フレッドを勢いよく抱き上げた。頭が天井にぶつかるのではないかと驚いて、フレッドは慌てて首を竦めた。

「お前のおかげで何ともなかったってよ! じいさんもじいさんの家族もみんな、お前に感謝してたそうだ」

 モランのまっ黒な瞳が、まっすぐにフレッドを見上げている。そのいつになく優しげな顔を見ているだけで、この二日間ずっと胸の中でわだかまっていた不安が溶けてなくなっていくようだった。悲しくないのに涙が溢れてきて、フレッドはモランの首にしがみついた。
 彼は「泣くな泣くな」と明るい声で笑いながら、大きな手で背中を撫でてくれた。
 水筒は、患者の持ち物だと勘違いした救急隊員が病院に持っていってしまっていたらしい。回復した老人がアイスクリーム屋を訪れて、水筒の持ち主に是非お礼をしたいと申し出たのだが、困ったことになった。その子供がどこの誰だか、アイスクリーム屋の店員たちも知らなかったのだ。
 唯一の手がかりである水筒には名前が書かれていない。そもそも夕方の出来事だったので、隣の校区から公園へ遊びに来ていた子供の可能性もある。名前もわからないのに近隣の学校へ手あたり次第に問い合わせるわけにもいかなかった。
 苦肉の策として、かろうじて子供の顔を覚えていたアルバイト店員が店先に立って水筒の持ち主を探していたというわけだ。

「お礼したいから、見つかったら連絡くれってアイスクリーム屋に頼んでたそうだ。今週末にでも会いに行くぞ!」

 モランはフレッドを抱き上げたままその場でぐるぐると回った。彼があんまり嬉しそうにはしゃぐので、フレッドはくすぐったい気持ちをごまかすように口を尖らせて答えた。

「いいよ、別に」
「いいわけあるか! 俺の弟分は優しくて勇敢なすっげぇ奴なんだって、じいさん一家にもアイスクリーム屋の全従業員にもアルバートにも自慢しまくってやる!」
「えっ、やめてってば……! 僕、何もしてないし。それに何でアルバートさんまで出てくるの」
「普段自慢されまくってるからに決まってるだろ! あ、アイスクリーム屋にもらった無料券、ウィリアムたちに何枚かやっちまったけどいいよな?」
「それは別にいいけど、もう、下ろしてってば……」

 そう言いながらも、フレッドは暴れたり腕を突っ張ったりして無理に下ろさせようとはしない。
 アイスクリームの券、モランはウィリアムさんに何枚渡したんだろう。ルイスさんの分ももうあげちゃったかな。
 大人しくモランに振り回されながら、フレッドはそんなことを考えていた。

初出:Pixiv 2022.08.28

アイリーン・アドラーは死んだのか?
 ロンドンで悪さしてるモリ家の話。

 墓守の男は、死体安置所へ向かう階段を下りていた。
 後ろをついてくる青年は、靴底にゴムでも仕込んでいるのか、猫のように静かに歩く。つめたい石壁に反響する靴音は男のもの一つきりだった。
 分厚い鉄扉を開くと、冷えた空気と微かな腐臭が鼻をついた。右手側の壁一面には、埋葬を待つ死体をしまっておく大きな引き出しが作りつけられている。男はそのうちの一つを引っ張り出した。

「ご注文通り、金髪に青い目、二十代前半の女だ。身長はちっと低かったかもしれんが、勘弁してくれ」
「これくらいなら。……死因は?」

 聞きながら、青年は死体を覆う布をそっとめくった。状態を確認し、少し躊躇うような仕草を見せてから、瞼をめくって瞳の色を確かめた。

「石段から転げ落ちたらしい。大した高さじゃなかったそうだが、打ちどころが悪くてな。後頭部に傷がある」

 死体をうつ伏せにすると、生々しい傷跡が露わになった。幸か不幸か、病院へ担ぎ込む間もなく即死だったらしい。
 男は向かいに立つ青年をちらりと盗み見た。
 装いは取り立てて特徴のない労働者ふうだ。
 淡青色のストールを顔を隠すように巻いてはいるが、その下からのぞく灰色の瞳はごく大人しげで、他人に警戒心を抱かせる質ではない。おそらくまだ二十歳にもなっていないだろう。
 女も知らなさそうな幼い顔立ちで、冷静に死体を検分しているのが不気味だった。

「……確かに」

 彼は小さく頷いた。
 青ざめた死体を丁寧に布にくるみ直してから、懐から硬貨の詰まった革袋を取り出して男に渡した。男は「毎度」と小さく答えた。袋の重みを確かめても、気持ちが浮き立つことはない。
 青年が棺の中からそっと彼女を抱え上げる。
 涼しい地下に保管していたとはいえ、すでに死後数日経過した死体を相手に顔色一つ変えなかった。自分とほとんど変わらない身の丈の死体を苦もなさそうに抱えて、ただ静かに、淡々とした足取りで階段を登っていった。
 その背中を見送りながら、男はそっとため息をついた。

 一年ほど前、男は妻を殺した。
 些細なことから口論に発展して、カッとなって突き飛ばしたところ運悪く頭をぶつけて死んでしまったのだ。男は露見を恐れて、墓地の片隅に死体を埋めた。
 教会の関係者や近所の人間には、妻は自分に愛想を尽かして田舎に帰ったと嘘をつくことにした。実際はサセックスに住む彼女の両親はとっくに他界していて、兄弟姉妹も親しい友人もいない。
 唯一の身寄りである男が騒ぎ立てさえしなければ、誰も妻の行方を気に留めはしない。墓守夫婦と親しく交わろうなんて人間はそういないのだから。
 死体の処理に関しても、こちらはプロだ。見つかるはずがないとたかを括っていた。
 それなのに、奴らはすぐさま嗅ぎつけた。
 妻を埋めてから3日と経たないうちに、身長6フィートをゆうに超える黒づくめの大男が家に押し入ってきた。強盗か、ヤードの刑事かと震え上がったが、相手はもっと恐ろしい奴だった。彼は開口一番、男が犯した罪を言い当てたのだ。妻を殺した日時も死体を埋めた場所も、奴は全て知っていた。
 番犬のレジーはその晩、ひと声も吠えなかった。翌朝男に蹴飛ばされるまでぐっすりと眠りこけていたところを見るに、おそらく事前に餌に眠り薬でも混ぜられていたのだろう。
 そうして、あれよあれよと言う間に奴らの犯罪の片棒を担がされることになり、今に至っている。きっと、ずいぶん前から目を付けられていたのだろう。
 逆らえば今度こそ本物の刑事がすっ飛んでくる。
 子供もなく、失うものなど無い身ではあったが、だからと言って残りの人生を牢獄で過ごしたいとは思わない。男は彼らに従った。
 課せられた仕事は、注文に応じた死体を用意すること。身寄りのない浮浪者であっても埋葬の際は司祭が立ち会って祈りを捧げる決まりだったので、埋めた後からこっそり掘り返す必要があった。大抵の場合は、あの陰気な青年が窓口役だった。
 初めて彼がやって来た時は、こんな若者まで弱味を握られ従わされているのかと少し気の毒に思ったが、あの落ち着きぶりを見るにどうやらそうではないらしい。
 青年は口数が少ない方ではあったが、一度だけ雑談めいたことを口にしたことがある。「あそこにあったイチイの木、植え替えたんですね」と。
 確かにその日の昼間、男は木の植え替えを行っていた。「景観が悪いから」と気まぐれな司祭に頼まれたものの、処分が面倒だったので墓地の裏手に植え直したのだ。
 その場では適当に相槌を打ったが、彼が帰ってからその意味を考えてぞっとした。
 青年は人目を忍んで夜にしかやって来ない。街灯もない墓地の片隅に植えられていた木がイチイであると分かるはずもなかった。そして彼は「伐った」ではなく「植え替えた」と言った。昼間の動向も監視しているぞと、言外にほのめかしていたのだ。
 妻の死体を移動させてしまえば奴らを煙に巻けるのではないかと思案していた矢先のことだ。
 あの大男とはまた違った意味で、掴みどころのない恐ろしい相手だった。


 女の死体を引き渡してから一週間ほど経ったある日、男は街の食料品店に来ていた。

「卵一ダース、パンと玉ねぎ。紅茶を一ポンド。あと、何でもいいから肉を適当に」
「あいよ。犬にやるやつだね」

 店主は冷蔵ケースから包みを引っ張り出した。売り物にならない切れ端や骨を、レジーのためにこうして取っておいてくれるのだ。
 袋詰を待っている間、男はカウンターの上に放り出されていた新聞を眺めていた。『イーストエンドで娼婦惨殺 姿なき連続殺人鬼の恐怖』、『急死の男爵にまつわる黒い噂』、『シティ・アンド・サバーバン銀行で強盗団確保』といった見出しが躍っている。新聞社は今日も事件の話題に事欠かないようだ。
 ここに自分の名前が並ぶのを想像して、男は暗澹たる気分になった。罪悪感ではない。奴らの気分次第でいつそうなるとも分からない現状が落ち着かなかった。自分の命運を他人に握られている不快感だ。
 苦々しくため息をつく男に、店主が片頬を上げて顔を寄せた。

「おい、あんた知ってるかい」
「あ?」
「アイリーン・アドラーが死んだってよ」
「誰だいそりゃあ」
「知らねぇのか! 米国きっての大女優だよ」

 男は「へぇ」と気のない返事をした。
 オペラ鑑賞など高尚な趣味は持ち合わせていなかったし、それはこのしがない食料品店の店主も同じだろう。
 しかし彼はお構いなしに目を輝かせながら話を続けた。噂話をする者特有の、下卑た笑みだった。

「テムズ川から死体が上がったそうだ。妙だと思わないかい? ついこの間、かの名探偵シャーロック・ホームズとの熱愛が新聞で騒がれたばかりなのによ」
「あぁ、あのゴシップ記事の女優かい」
「そうそう。まだどの新聞も触れちゃいないが、あの名探偵に煮え湯を飲まされた悪党どもが、腹いせにさらって嬲り殺しにしたんじゃねえかって噂だよ。あの金髪碧眼の美女を……」
「何だって?」
「だから、あの名探偵に悪巧みを邪魔された連中が……」
「違う。その後だ。金髪碧眼だって?」
「え? あぁ、俺だって実物を拝んだことがあるわけじゃねぇけどよ。アイリーン・アドラーって言ったら金髪碧眼の絶世の美女で有名だぞ……どうかしたか?」
「いや……」
 
 聞けばそのアイリーン・アドラーとかいう女優は、年齢も背格好も男が用意した死体の特徴にぴたりと一致する。
 奴らが死体を何のために使うのかなど、深く考えることはあえて避けていた。けれど、これは単なる偶然の一致と言えるのだろうか。
 もし先日引き渡したあの死体が、アイリーン・アドラーの死を偽装するために使われたのだとしたら?
 考えられるのは、女の身を案じたホームズが犯罪者どもの目をくらますために身代わりの死体を用意した、という筋書きだ。
 すると、これまでの話ががらりと変わる。あの陰気な青年は恐ろしい犯罪組織の構成員だとばかり思っていたが、実は正義の名探偵の手先だったのか? あの黒づくめの大男も?
 様々な憶測が男の頭の中を駆け巡った。
 逆のパターンもあり得る。
 実際、奴らは悪党だ。ホームズの手先などでなく、反対に彼からあの女を奪うために適当な身代わりを立てたとも考えられる。
 しかしその場合、ヤードとも繋がりのあるホームズが遺体の顔を確認すればあっという間に偽装を見破られてしまうのではないか? そもそも、それなりの器量よしだったとはいえ街の娘と著名な大女優を警察が間違えたりするものだろうか……。
 深入りするのはまずい、と危機感を覚えたが止められなかった。男は暇さえあれば彼らの正体についてあれこれと想像を巡らせるようになっていた。
 そんな矢先、新しい注文が入った。
 『解剖済みの若い女の遺体を3つ』
 暗号で書かれたこの電報を受け取ったとき、男の体に恐怖とも興奮ともつかない震えが走った。
 まさにその朝、男のもとに解剖済みの遺体たちが転がり込んできたからだ。とある大学で医学生の解剖実習に使われた献体らしい。珍しいことに若い女のものばかりだった。
 糸だ、と男は思った。
 見えない糸がこのロンドン中に張り巡らされている。自分はきっとそのささやかな網目のひとつに過ぎないのだろうが、あの青年と大男はおそらく重要な結び目だ。
 編み上げられた糸の先は、どこへ繋がっているのだろう。
 掃除をしてくれる妻がいなくなり荒れた家の中で、男は言い様のない高揚感を覚えていた。


 次の日の夜、約束通りの時間に彼らは来た。
 普段は青年一人であったが、今夜は死体の数が多いためか例の大男も一緒だった。墓地の入口近くには荷車が停めてあって、そばには見覚えのない若い男の姿もあった。
 荷車へ死体を積み込む間、彼らは一言も口をきかなかった。少し多めの報酬を男に手渡して、「じゃあ」と青年が頭を下げた。
 立ち去ろうとする彼に、男は思い切って尋ねた。

「アイリーン・アドラーは死んだのか?」

 渾身の力で切り込んだつもりだったのに、振り返った青年は顔色ひとつ変えていなかった。
 黒づくめの大男も、新顔の若い男も似たようなものだ。ただじっと、無表情にこちらを見ている。その瞳は深い穴のようで、考えがまったく読み取れなかった。
 いつの間にか背中にじっとりと汗をかいていた。まずいことを口走ったのだと即座に理解したが、取り繕おうにも声が出なかった。
 沈黙を破ったのは、にゃお、と場違いなほどのんきな鳴き声だった。
 青年の足元に、小さな黒猫がすり寄っていた。
 耳から爪先まで真っ黒な猫だ。彼はさっと屈んで子猫を抱き上げた。

「……こんなところまでついて来ちゃ駄目だよ。犬もいるんだから。好奇心は猫をも、って言うでしょ」

 彼は猫の喉をくすぐった。その優しげな手付きとは裏腹に、声色はどこまでも冷えていた。
 そばで聞いていた新顔の男がくすりと笑った。

「猫に九生あり、とも言うね」

 男にしては妙に艶のある声だった。
 深く被った鳥打ち帽の下で、青い瞳がランタンの明かりにきらめいている。背筋にぞわりと悪寒が走った。
 地下の遺体安置所に横たわっていた金髪の女。彼女の横顔は美しくも青ざめたまま、二度とその青い目を開くことはないはずなのに。
 アイリーン・アドラーは死んだのか?
 もう一度そう口にしようとした時、黒いコートの大男が舌打ちをした。
 その音で現実に引き戻され、男はひゅっと息を吸い込んだ。思い出したように、心臓がばくばくと音を立てている。
 青い目の男は声を上げて笑った。

「冗談だよ、冗談」

 そう、男だ。
 いつの間にか足が震えていて、立っていられなくなるような心地がした。口の中でおかしな味がする。墓地を取り囲む木々がざわざわと鳴って、男の頭上に迫ってきた。
 「おしまいだ」と頭の中で声がした。
 軽率に口を開いたことを後悔したがもう遅い。おしまいだ、おしまいだ。その言葉が調子外れの歌のようにぐるぐると繰り返された。
 思い出したのは、土の中からうつろな目でこちらを見上げる妻の死に顔だった。





 墓地から離れたところで、ボンドが「どうするの?」と後ろを見やりながら尋ねた。墓守の男はまだ呆然と立ち尽くしたままだ。
 モランは煙草をくわえたまま、つまらなさそうに答えた。

「証拠は揃えてある。電報を一本打てば終わりだ」
「うわ、悪党だね」
「今さらだろ」

 荷台の中で子猫が鳴いた。
 フレッドを慕って足元にまとわりつくので、荷車で轢いてしまわないようにモランが放り込んだのだ。
 ボンドが手を伸ばして撫でてやると、子猫は喉を鳴らした。遊んでもらえて嬉しいのだろう。荷台に折り重なる死体などお構いなしに、無邪気に転げ回っている。
 フレッドがぽつりと呟いた。

「レジーの里親、探さないと」
「は? 誰だって?」

 彼は何も答えず、物憂げに目を伏せていた。


初出:Pixiv 2022.08.13

絵の中のお屋敷
 怖い夢を見るルイスの話。

 ロックウェル伯爵家に身を寄せた日、ルイスは生まれて初めて『自分の部屋』を得た。
 兄たちとは一回りほど小さな部屋で、北向きの薄暗い部屋だった。兄たちはそのことにいくらか不満があるようだったが、他に適当な部屋がないのだから仕方ない。

「ルイス、ちゃんと眠れてるかい?」

 三人だけのお茶の時間、ウィリアムが言った。
 ウィリアムとルイスは貧民街の貸本屋でも孤児院でも、あの屋敷の屋根裏部屋でも、ずっと一緒だった。一枚の毛布を分けあって眠った夜も数え切れないほどある。個室で、一人で眠るのは初めてのことだった
「僕は大丈夫です、兄さん」
「そう? 僕はルイスと別々の部屋で寂しいな」
「もう、そんなこと仰らないでください。…………僕だって、ちょっとだけ、寂しいです」

 カップのふちに唇を押し付けながらそう答えると、ウィリアムはにっこりと笑った。アルバートはその様子を微笑ましげに見つめていた。


 あの場で兄たちには言えなかったが、一人寝が嫌な理由はもう一つあった。
 ルイスに充てがわれた部屋には、壁に一枚の絵が飾られていた。丘の上にある一軒の屋敷を描いた絵だった。
 どうせなら明るい昼間を描けばいいのに、絵の中の景色は真っ暗な夜だった。空には細い三日月が浮かんでいるだけで星もない。
 暗い空と丘の曖昧な境界線の間に、うずくまるように建っている屋敷の影。月明かりのためか辛うじて建物の輪郭が見て取れた。
 中で誰かが明かりを灯しているのだろう、二階の窓の一部だけが薄く発光するように白く塗られている。けれど、その明かりのもとで屋敷の住人が眠る支度を整えていたり、ベッドに入って本を読んでいる姿が、ルイスにはどうしても想像できなかった。

(これは、幽霊屋敷の絵だ)

 そう直感した。
 絵の中のあの屋敷には誰も住んでいない。それなのに、夜になるとつめたい光が窓の向こうを行き来する。何かが、いる。
 全ては単なる印象であり想像であるはずなのに、ルイスはこの絵を見るたびに不安を掻き立てられた。壁から外してしまいたかったが、与えられた個室とはいえ居候している屋敷の調度を勝手にいじるのは気が引けた。
 絵の来歴が分かれば、なんの変哲もないただの風景画であることが確かめられれば、この嫌な気持ちも収まるかもしれない。そう考えて、ジャックに尋ねてみたことがある。けれど、古参の使用人である彼でさえ「さぁ、儂が屋敷に来たときにはもうここに掛かっていたからのぅ」と首を傾げるだけだった。

「ルイス、僕の部屋の絵と交換しようか」

 そう言ってくれたのはウィリアムだった。
 ルイスがこの絵を嫌っていることを察してくれたのだろう。彼の部屋に飾られているのは、淡いタッチの静物画だった。それなりの値打ち物であろうことを含めてもあくまで普通の絵だ。右下には画家のサインも入っている。
 けれど、ルイスはこの申し出を断った。優しい兄に不気味な絵を押し付けるのは嫌だったし、ただの絵を怖がっていると思われたくないという意地もあった。
 昼の間はいい。勉強や秘密の訓練に加えて、ルイスには屋敷の仕事の手伝いもある。空いた時間は兄たちと話をしたり本を読んだりしていれば、自分の部屋で過ごす時間などほとんど無い。
 しかし、夜になると部屋に戻らざるをえなかった。ルイスはその日も、夜ふかしすることなく決まった時間に寝支度を整えて、ベッドに潜り込んだ。
 明かりを消してしまえば、壁の絵は見えなくなる。けれど、子どもじみた不安は胸のうちに小さな染みを作ってなかなか消えてくれなかった。


 次に目を覚ますと、真っ暗な部屋にいた。
 眠りの浅いルイスは、こうして夜中に目を覚ましてしまうことがときどきあった。もう一度寝入ろうと瞼を下ろしかけて、目をぱちりと開いた。何だか油くさいような、不快な匂いがする。
 万が一、ランタンのオイルでも零していたのならいけない。慌てて起き上がって部屋の中を見回したとき、ルイスはどきりと心臓を跳ねさせた。

(僕の部屋じゃない)

 室内は真っ暗だったが、間違えるはずもない。
 壁に掛かっていたはずのあの忌々しい絵がなかったからだ。代わりに、絵のあった場所に小さな窓が開いていた。手の下にあるシーツの感触も何だかざらざらとしている。ルイスの部屋のものではない。
 眠っている間にどこかに連れてこられた?
 室内には他に人の気配はない。
 不安から、兄さん、と声に出そうとして、ルイスは思わず喉を抑えた。

(声が出ない……)

 戸惑ったが、喉がおかしくなったわけではないとすぐに気がついた。
 何の音も聞こえない。
 真夜中とはいえ、風の音も鳥の声も聞こえなかった。ルイスが身動ぎしても、ベッドの木枠が軋むこともシーツが衣擦れの音を立てることもない。
 まだ夢を見ているのだ。
 そう結論付けて、ルイスはベッドから降りた。
 明晰夢、というのだったか。ウィリアムに教えてもらったことがある。普通の夢とは違って、身体を自由に動かすことができるのだ。
 「あ、あ」と声を出してみる。やはり何も聞こえない。壁をこつこつと叩いてみても、その場で飛び跳ねてみても、手応えはあるのに音が響かないのは奇妙な気分だった。
 窓の外は真っ暗だ。枕元を探ってみたけれど、ランプは見当たらない。ルイスはドアを開けて、そっと廊下へ出た。
 廊下には大きな窓がいくつも並んでいる。部屋の中よりはいくらか明るかったが、窓枠にまとわりつくカーテンが重たげで陰鬱な雰囲気だ。
 ルイスは窓ガラスに額がくっつきそうなほど顔を近付けて、外の様子を眺めた。ここは2階のようだ。地面は暗闇の中に沈み込むようで、この建物の周りに何があるかはよく見えない。どうやら少し小高い場所に立っているらしいことが辛うじてわかった。
 空を見上げると、三日月が浮かんでいる。
 星は一つも見えないのに、月だけは冴え冴えとつめたい光を放っていた。絵筆の先でさっと刷いたような、細い細い三日月。
 ルイスはざっと血の気が引くのを感じた。

(あの絵に描かれた月と同じだ)

 夜空には星も雲もなく、月以外はのっぺりとした黒一色。ちょうど、平たい筆で絵の具を塗りたくったような。

(僕、あの絵の中にいる)

 額縁の外から眺めていた月を見上げている。ルイスが今立っているのは、あの絵の中の屋敷に違いなかった。
 そうして、先ほどから何の物音も、自分の声すら聞こえない理由をはっきりと理解した。
 絵の中の世界に、音は存在しない。

(ウィリアム兄さん! アルバート兄様!)

 力いっぱい叫んだはずの声は、やっぱり音にならなかった。耳が痛いほどの無音。先ほどから鼻をつくこの不快な匂いは、きっと油絵を描くのに使うテレピンの匂いだろう。
 例え夢だとしても、目が覚めるまでこの屋敷に留まっているのは怖気が走るほど嫌だった。
 外に出よう、とルイスは即座にそう決断した。
 まずは階段を探す。一階に下りさえすれば、脱出する方法はいくらでもある。さらに丘を下りて、絵の世界の端っこまで行けば、目が覚めるかもしれない。あの真っ暗な道を行くのは恐ろしいから、できれば明かりがほしい。
 深呼吸して身を翻したとき、取り戻しかけた勇気はいとも簡単に吹き飛ばされた。
 廊下の、曲がり角の向こうから、光が差していた。
 ゆらり、ゆらりと影が揺れている。
 誰かが、ランタンを手にこちらに向かってくる。
 次の瞬間、ルイスは弾かれたように走り出した。
 ここがあの絵に描かれた幽霊屋敷なら。
 誰もいないはずの屋敷に、明かりを灯す者がいる。
 ルイスは明かりとは反対方向に廊下を駆け抜けた。恐ろしいほどの静寂のおかげで足音を殺す必要がないのがせめてもの救いだった。
 角を曲がれば階段に行き当たらないかと期待したが、虚しい結果に終わった。仕方なく手近な部屋のひとつに飛び込んだ。暗闇の中でドアの内側を探る。内鍵は付いていないようだ。ルイスは焦燥に駆られながら、手探りで隠れ場所を探した。粗末なベッドを何とか探り当てて、小さな体をその下に滑り込ませる。
 ベッドの木枠と床板の隙間に潜んで息を殺した。意味がないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。

(早く覚めろ、早く覚めろ)

 ぎゅっと目をつぶって、心の中で何度もそう念じた。
 心臓が早鐘を打っている。呼吸が浅くなって、あの頃の発作を思い出した。手を握っていてくれる兄は、今はいない。
 自分の力で何とかこの場を切り抜けなければならない。けれど、この異様な世界で、おそらく人間ではない存在にどう立ち向かえばいい?
 この世界には音がない。ルイスが廊下を疾走しようと叩きつけるようにドアを閉めようと、敵に気取られる心配はない。けれどそれは、ルイスもまた敵の接近を視覚でしか把握できないことを意味していた。
 今この瞬間にも、ドアの前に立っているかもしれない。
 その恐ろしい考えが浮かんでしまうと、もうベッドの下から這い出ることができなかった。

(兄さん……兄様……)

 どれくらいそうしていただろう。
 室内の暗闇が突然揺らいだ。
 闇の中に沈んでいた床板の木目がはっきりと見えた。明かりを持った何者かが、部屋に入ってきたのだ。ルイスは咄嗟に両手で口を抑えた。
 テレピン油の匂いがいっそう強くなった気がした。
 最初に見えたのは、大きな靴だった。つま先がそり返るように尖った、染みだらけのみすぼらしい革靴。裾が破れたスラックスからのぞく足首は骨が浮いている。まともな人間の足だとは思えなかった。
 奴はすり足でゆっくりと部屋の中を歩き回った。自分を探しているのだ、とルイスは確信した。
 奴の動きにあわせて、明かりがゆらゆらと揺れる。その度に、ルイスはベッドの下で竦み上がった。
 不意に、明かりが一際強くなった。
 ルイスは眩しさに目を細めて、そして息を呑んだ。明かりの向こうで、奴が床に膝をついているのが見えた。
 ベッドの下を覗き込もうとしている。
 そのことに気が付いたとき、冷たい水を全身に浴びせられた心地がした。泣いたりするものかと思っていたのに、いつの間にかぼろぼろと涙が頬を伝っている。狭い隙間を必死に這いずって、少しでも奥に隠れようと足掻いた。
 ランタンの明かりがさらに床に近づく。傷だらけの白い手が見えた。尖った肩が覗いた。
 大きな顔がぬっと突き出された。ランタンの強い光がその相貌に不気味な陰影を描いている。目があった瞬間、奴は顔を歪めて嬉しそうに笑った。

 ルイスは自分の悲鳴で飛び起きた。
 全身がびっしょりと汗をかいていて、心臓がばくばくと嫌な音を立てていた。

「ルイス! ルイス、どうしたの! まさか、また心臓が……」

 普段見せない焦りを顔に浮かべて、ウィリアムがこちらを覗き込んでいた。弟が胸のあたりを抑えるのを見て、心臓の発作が再発したのかと思ったらしい。
 窓からは眩しい陽の光が差し込んでいる。
 あの不快な臭気は消え失せていたし、自分の荒い息づかいも、ウィリアムの優しい声もはっきりと聞こえる。
 兄の身体にしがみついて、ルイスは声を上げて泣いた。


 あの絵はすぐに壁から外された。
 その場に居合わせなかった者たちは「怖い夢でも見たのだろう」と笑ったけれど、奥方様が「私も、あの絵はずっと厭だった」とぽつりと呟いてからは誰も何も言わなかった。
 布でぐるぐる巻きにされた絵を、ジャックがどこかに持っていった。アルバートが伯爵にも口添えしてくれたのだろう。それからあの絵がどうなったのかは知らない。
 ただ、今でもルイスは、絵の飾られた部屋では眠らない。

初出:Pixiv 2022.07.25

On Another's Sorrow
 風邪をひいてめそめそしているフレッドの話。

 違和感に気付いたのは、いつものストールを首に巻いた時だった。何だか、ざらざらとした不快感がある。
 一度、ストールの結び目を解いてみた。
 特に汚れていたり、生地が毛羽立ったりしているわけではないのに、いつもと手触りが違う気がした。首の周りがどこか落ち着かない。
 今日は巻くのをよそうかとも考えたけれど、数日前からロンドンは急に冷え込んでいた。日のあるうちはいいが、僕の仕事は日が暮れてからが本番だ。ストールがないと、おそらく夜になってから寒い思いをする。
 僕は落ち着かない気分を無視して部屋を出た。

「お前、具合悪いのか?」

 モランが出し抜けにそういったのは、昼食の席だった。何を言われているのか咄嗟に理解できなくて、僕はモランの顔を見返した。
 テーブルについていた皆がぴたりと手を止めて、まじまじと僕の顔を見ている。
 隣に座っていたボンドさんが「ちょっとごめんね」と言って、気付いたときには彼の手のひらがぺたりと僕の額に当てられていた。細い指先はひんやりしている。

「あ、ほんとだ。熱あるね」
「え」
「ほら見ろ。あまり食ってねぇと思ったぜ」
「お前さんが珍しい。気温差にやられたか」
「解熱薬ならあるので、すぐに出しますね」
「頼むよ、ルイス。酷くなるようなら医者を呼んでくれ」

 ルイスさんが席を立ったのを皮切りに、皆がてきぱきと動き始めた。
 食べかけの食事が下げられて、背中にブランケットがかけられる。「オートミールか果物ならすぐに出せるが、まだ食べ足りないか」と師匠が尋ねるので慌てて首を振ると、かわりに薬が出された。
 戸惑った僕は、反射的にウィリアムさんへ視線を送った。彼は困ったように眉を下げながら、言った。

「うん、確かにすこし顔色が悪いね。今日はゆっくりお休み、フレッド」

 ウィリアムさんにそう言われてしまうとどうすることもできず、僕はあっという間に自室のベッドに押し込められた。
 あのモランまでもが「お前の仕事は全部俺らがやってやるから、大人しく寝てろ」と言っていた。そんなに具合が悪そうに見えたのだろうか。
 僕は内心首を傾げていたけれど、言われてみれば確かに今日は朝から身体がおかしかった。いつものストールを巻いた首の周りがざらざらと不快で、鉢植えやじょうろがやたらと重たくて、ルイスさんの作った食事がどこか味気なくて……。
 それらが全て体調不良に起因していることを、僕はようやく理解した。いったん理解してしまうと倦怠感がどっと襲ってきて、大人しく横になって目を閉じていることにした。

(そう言えば、寝込むほど体調を崩したの、初めてかもしれない……)

 子供の頃から、身体は丈夫な方だった。
 思い当たる体調不良といえば鼻風邪か、飢えを凌ぐためにちょっとまずいものを食べてしまった時の腹痛くらいなもので、病とは無縁の人生を送ってきた。医者にかかることも難しい、貧しい環境にあったので、そうでなければとっくに死んでしまっていただろう。
 身体が重い。
 熱が上がってきたのか、ついさっきまで(表面上は)普通に過ごしていられたことが嘘のように思えた。身体中の関節が熱を持って痛んで、起き上がれそうにない。
 眠ってしまいたかったけれど、身体の違和感が気になって寝付けなかった。これって、休めば治るものなのだろうか。薬が効くまでどれくらいかかるのだろう。外はまだ明るい時間帯なのに、カーテンを引いた室内は薄暗くてよそよそしい。
 ふいに、ウィリアムさんたちに出会う前のことを思い出した。貧民街の片隅で、熱病にかかってうなされている男を見つけた時のことだ。
 冷たい地べたに横になってうめき声を上げる様は異様で、死んでしまうのではないかと不安に思って恐る恐る近付いた。けれど声をかける前に、男は充血した目を見開いてこちらを睨みつけた。
 小さかった僕はそれで怖気づいてしまって逃げだした。数日経ってから同じ路地に行ってみた時には、男の姿はどこにもなかった。
 親切な人が見つけてくれて、病院へ連れて行ってもらえたならいい。元気になって自分の足でどこかへ行ったならもっといい。
 だけど、そんな都合のいい奇跡は起きなかっただろう。あの男はきっと助からなかった。
 今の僕よりずっと苦しかったはずだ。
 夜露もしのげない石畳の上で、毛布もなくて寒かっただろう。一人きりで心細かっただろう。近寄ってきた子供さえ睨みつけずにはいられないほど、追い込まれていたのだ。
 どうして逃げてしまったんだろう。あの時の僕に何かできたとも思わないけれど、どうして水の一杯でも運んでやらなかったんだろう。どうしてそばにいてやらなかったんだろう。
 取りとめのない後悔が、後から後から押し寄せてきた。
 あの男はきっと一人で死んだのだ。彼がどんな人間だったのかこれっぽっちも知らないけれど、あまりにも報われない。
 目の奥からじんわりと涙が溢れてきて、枕にしみを作った。泣いたってどうにもならないのに、悔しい、やるせない気持ちを抑えることはできなかった。
 不意に、何かを叩くような音がこつこつと響いた。僕が眠っていてもいいように、気遣ってくれたのだろう。ほんとうにささやかな音だったから、すぐにはノックの音だと気がつかなくて反応が遅れた。
 一拍遅れて部屋のドアが開く。泣いている顔を見られたくなくて、僕はあわてて頭から毛布をかぶった。

「フレッド?」

 ルイスさんの訝しげな声がした。
 変に思われただろうか。手にトレイを持っているのが見えたから、水か何かを持ってきてくれたのだ。お礼を言って、大丈夫だと伝えなくてはいけないのに、今はいつも通りの声が出そうになかった。

「嫌な夢でも見ましたか」

 ルイスさんは何でもなさそうに、ひとり言のような調子で呟きながらサイドボードにトレイを置いた。ちいさくガラスがぶつかる音がする。

「身体の具合が悪いと、良くないことばかり考えたり、思い出したりしてしまうものですよ。辛かったことや、恥ずかしい失敗が何倍にもなって」

 僕はおそるおそる、毛布から顔を出した。

「……ルイスさんも、同じですか」
「えぇ、誰だってそうですよ。これだけは、兄さんが言うより僕が言う方が説得力があるでしょう?」

 ルイスさんはそう言って肩をすくめた。
 その言葉で、彼は生まれつき心臓が弱かったと聞いたことを思い出した。大きな手術を受けて完治したものの、子供の頃はずいぶん病弱だったと。
 心臓が悪いって、どういう感覚なんだろう。苦しかっただろうし、心臓が止まれば死んでしまうのだから何より恐ろしかっただろう。
 冷たい石畳の上に横たわる男の姿に、小さなルイスさんの姿が重なった。子供の頃のルイスさんなんて見たこともないはずなのに。
 引っ込んだと思った涙がまた滲んできて、僕は目もとを拭った。ルイスさんが驚いたように目を丸くする。
 あぁ、これじゃあルイスさんがいつまで経っても立ち去れない。屋敷にいるときは誰よりも忙しい人なのに。
 けれど、止めなければと思えば思うほど、涙が溢れて止まらなかった。自分でももう、何が悲しくて泣いているのかよくわからない。
 そうしてぐずぐずと泣き続けていると、ルイスさんが僕の手を掴んだ。

「僕が苦しんでいたとき、兄さんがいつもこうしてくれました」

 ルイスさんは気恥ずかしそうに目を伏せながら、祈るように僕の両手を握った。
 乾いた温かい手だった。
 手のひらに硬い感触があるのは、ナイフを握ってできたまめだろう。僕の手のひらにも同じものがあるからすぐに分かった。
 目を瞬かせると、新しい涙の粒が転げ落ちた。

「……いつも?」
「えぇ、いつも。僕が具合が悪くなったのを隠そうとしても、兄さんはいつもすぐに気がつくんです。孤児院で他の子供たちに本を読んであげている時も、夜眠っている時も。そして、僕が落ち着くまでずっと手を握っていてくれました」

 兄弟のことを語るルイスさんの顔はいつもどこか誇らしげで、それは今この時も例外ではなかった。
 彼が一人きりで心細い思いをすることは、ほんとうにただの一度だってなかったのだろう。あの方は、いつでもどんな苦しみにも寄り添ってくれるから。
 握り込まれた指先から気持ちがほどけていくようで、僕はゆるゆると息を吐いた。

「神さま、みたいですね」
「……えぇ、そうですね」
「ルイスさんに、ウィリアムさんがいてくれてよかった……」

 僕がそう言うと、ルイスさんは少しだけ驚いたような顔をして、それからちいさく笑った。
 眼鏡の向こうの瞳が三日月のように細くなって、その目もとがウィリアムさんに似ていると思った。
 その発見を伝えればきっとルイスさんは喜ぶと思ったけれど、眠気で頭がぼんやりとして言葉が出てこない。視界がだんだんと狭まってきて、僕の手に重ねられた彼の手だけがよく見えた。

「おやすみ、フレッド」

 いつもより低められたルイスさんの声が心地よく鼓膜に響く。熱を持った頭の芯を、ゆっくりと冷やしてくれるようだった。

初出:Pixiv 2022.04.28

『ルイスさん』
 空き家〜恐怖の谷編あたりのお話。

「誰かいるのですか?」

 ヘルダーは虚空に向かって問いかけた。
 その目線はこちらを向いていない。が、こうして声をかけられてしまっては観念するしかないだろう。だんまりを決め込んでみても、彼は人の気配を察知してしまっているのだから不審がらせるだけだ。
 フレッドは諦めて返事をした。

「……僕です」
「おや、フレッドさんでしたか。あなたに気配を消されてしまうと敵いませんねぇ」

 盲目の技師はカラカラと笑った。

「どうかしましたか? こんな夜中に。どうも私特製の電気冷蔵庫に用があったようですが」
「え、えぇと」
「フフフ、隠さなくてもいいんですよ。冷たい空気がここまで流れてきていますからね。おおかた、お腹でも空いたんでしょう。この匂いは、牛乳ですか?」
「よく分かりますね……」
「夜中でも冷たい牛乳を飲めるなんて素晴らしいでしょう。ルイスさんたちに納得いただけるまで小型化省電力化に心血を注いだ甲斐があったというものです。近頃アメリカ製の電気冷蔵庫も流れてきていますがこのヘルダー製の性能とは天と地の開きがあるのですよ。まず第一に冷やすと言っても……」

 はじまってしまった。
 フレッドは内心で臍を噛んだ。
 この冷蔵庫がヘルダーの自信作であることはよく知っている。三年前に電気冷蔵庫を開発したヘルダーは、主人に褒めてもらいたくて仕方のない大型犬のごとく真っ先にウィリアムにそれを売り込んだ。弟思いのウィリアムはこれがあればルイスの抱える台所仕事が楽になるだろうと考え、食べ物を腐らせず保存できるという点でアルバートも大いに興味を示していた。しかし肝心のルイスに「こんなに大きくて電気を消費するものを屋敷に置いておける訳がないでしょう」と一蹴され、導入は見送られたのだった。
 それから足かけ三年、それは様々な苦労があったのだろう。機械いじりに関して知識のないフレッドにも推察できることだ。しかし今はその苦労話を聞いていられる時ではない。
 話の切れ目を捉えきれずフレッドがじりじりしていると、台所の入り口にルイスが顔を覗かせた。

「明かりもつけないで何をしている?」
「あぁルイスさん! 今ちょうどフレッドさんにこの電気冷蔵庫をルイスさんに認めていただくまでのお話をですね……」
「ヘルダー、マネーペニーが探していたぞ」
「あ、そうでしたそうでした! フレッドさん、申し訳ありませんが続きはまた今度で」
「はぁ……」

 ヘルダーが慌ただしく去っていって、沈黙が降りる。ルイスは腕を組みながらフレッドの方へ向き直った。

「それで……フレッド、君は何を?」
「……」

 ヘルダーは流石に気付いていなかったが、フレッドが牛乳を注いでいたのはグラスでもマグカップでもない。平たい陶器の器だった。もっと言うと、その器はここの棚にしまわれている食器でさえない。ただの植木鉢用の受け皿であることは、ルイスならすぐにわかるだろう。
 フレッドは諦めてすべてを白状した。


 その猫は、クッションの上に寝かせられていた。
 見覚えのある水色のストールに身体を包ませて、ぜぇ、ぜぇ、と苦しげな息を漏らしていた。部屋にルイスが入ってきたのを見て慌てて身体を起こそうとしたのを、フレッドが宥めた。

「貧民街でいつも餌をやってる野良猫がいて……そのうちの一匹です。具合が悪いみたいで、今夜は雨も降ってきたので、その……」

 フレッドがしどろもどろに経緯を説明していると、猫がぷし、と小さなくしゃみをした。ルイスは猫を驚かせないように注意しながらそっと床に膝をついて、珍しそうに呟いた。

「猫も風邪を引くんだな」
「はい……あの、絶対にこの部屋からは出しませんので……」
「別に追い出したりはしないよ。でも、君が仕事の間はどうするんだ? 放っておくわけにもいかないだろう」
「それは……」

 フレッドが答える前に、猫が鼻の詰まった声でニィニィと鳴いて彼のズボンを引っかいたので、話はそこで一旦途切れた。器を口元に持っていってやると、猫は嬉しそうに牛乳を舐めた。背中を撫でるフレッドの手に、安心して身を任せている。

「食欲はあるみたいだな」
「ええ」
「名前は何ていうんだ?」
「…………」
「つけていないのか」
「…………ルイスさん」
「何だ?」
「ルイスさん……と、呼んでいます」
「この猫を?」
「あの、名前というか、あだ名というか……その子も頬のところに傷があって、ルイスさんと同じだなって思ったから、僕が勝手に、そう呼んでいて……」

 毛に埋もれて分かりづらいが、この猫は右目の下辺りに小さな古傷があった。おそらく、他の猫と喧嘩をして引っかかれたか何かしたのだろう。白に濃灰色のぶち模様や青みがかったアーモンド型の瞳はルイスとは似ても似つかない。しかしこの猫の右頬に小さな傷跡を見つけたとき、フレッドは確かに彼のことを連想したのだった。
 それからこの『ルイスさん』はフレッドの中で少しだけ特別な猫になった。今夜だって、いつもの路地裏でぐったりと横たわっている彼を放っておけなくて、ジャケットの中に隠してこっそりと屋敷に連れ込んたのだ。
 とはいえ、フレッドは口に出したことを後悔した。いくらルイスが火傷痕のことを気にしていないとはいえ、さすがに失礼だったと思えてきた。
 フレッドは恐る恐る、ルイスの顔色をうかがった。

「そうか、そんな名前を……」

 ルイスは笑っていた。
 ゆるく握った拳が口元に添えられていて、その下から覗いているのは確かにちいさく弧を描いた唇だった。その隙間からふふ、と呼気が漏れた。
 ルイスが気を悪くしていない事にいくらか安堵しつつ、けれどこの反応は怒られるよりもよっぽどいたたまれなかった。ルイスの顔を見ていられなくなって、フレッドは『ルイスさん』の背を撫でるのに集中するふりをした。当の猫は我関せずといった顔で、口の周りを白く汚しながら牛乳を舐めている。あとで拭いてあげなくては。

「さっきの話だけど、この子の世話は兄さんたちにお願いしようか」
「えっ」

 フレッドは耳を疑った。ルイスの言う「兄さんたち」といえば、ウィリアムとアルバートしかいない。

「……いいんでしょうか?」
「お二人とも動物はお嫌いではないから大丈夫だ。何かしていないと落ち着かないと漏らしていらっしゃったが、公的な仕事に参加するにはまだ時間がかかるし、かと言って屋敷の雑用をしていただくのも心苦しい。この子の看病ならうってつけだ。明日さっそくお願いしてみよう」
「それはありがたい、のですが……」
「どうかしたか?」
「いえ……、『ルイスさん』なんて名前をつけてしまうと、ウィリアムさんもアルバート様も愛着が湧いてしまって手放せなくなるのでは、と……」
「まさか。二人とももういい大人なんだから」
「…………」

 ルイスは笑って取り合わなかったが、フレッドのこの予感は的中する。一週間後、回復したルイス(猫)を里親のもとに引き渡すにあたって、ウィリアムとアルバートから非常な抵抗があったが、それはまた別の話。


(アルバート兄さん、ウィリアム兄さん。そろそろその子を離してください)
(考え直そう、ルイス。ルイスはとても賢くていい子だよ。この数日間粗相もしなかったし、Mr.チャールズ・ディケンズに対してもとても紳士的だった)
(賢かろうと紳士的だろうと、先方とは既に話がついているんです。ご心配なさらなくとも、熱心な愛猫家であることは確認済みです)
(フレッドの調査結果を疑ってるわけじゃないよ。でももうルイスはうちの子じゃないか。今さら他所の家に連れて行くなんて可哀想だよ)
(ミャア)
(ほら、ルイスも僕らと離れたくないって言ってる)
(言ってません。いいから早く離してください。モリアーティ家のルイスは僕だけなんですからね)
(うぅ………)

初出:Pixiv 2022.04.11

凍て星
 本編数年前のお話。

 モランが酒場を出ると、猫の鳴き声が聞こえた。
 こんなところに珍しい、と声の方に視線をやると、空き地の草むらの中にフレッドが座り込んでいたのでモランはぎょっとした。

「おい、フレッド」

 モランがずかずかと近づいていくと、フレッドの足元にまとわりついていた猫が逃げ出した。モランが情報収集のために酒場に入り、フレッドと別れたのは二時間ほど前だ。それからずっとこの寒空の下で猫を構っていたのか。
 彼の腕にも、ストールに包まれた黒猫が抱かれている。モランは呆れてため息をついた。

「寒いのに何やってんだ。先に戻ってろっつったろ」
「……」
「そいつももう放してやれ」

 フレッドは反応しない。
 彼の腕の中の猫も、先ほどからぴくりとも動かなかった。眠っているのかと思ったが、野良猫がこんな状況でぐうすか寝ているはずもない。
 フレッドが身動ぎしても、猫は前足を中途半端に上げた格好のまま微動だにしなかった。

「……死んじまってるのか?」

 もしやと思って尋ねると、フレッドは小さくうなずいた。

「寒そうに、してたから……温めようと思ったけど、駄目だった」

 言いながら、それでも諦めきれないようで、フレッドはしきりにストールの上から猫の身体をさすっていた。その指先も、冷えて真っ赤だった。

「ちょっと見せてみろ」

 フレッドの隣にかがみ込んで、猫に手を伸ばす。小さな口を指でこじ開けると、フレッドは驚いてモランの腕を強く引いた。

「何やってるの」
「よく見てみろ。こいつ、歯が欠けてるだろ」
「……病気、だったの?」
「違う。年寄りだったんだ。人間と同じで、猫も年を取ると歯が悪くなるんだよ」

 歯の抜けたじいさん見たことあるだろ、と問いかけると、フレッドはきょとんとしながらうなずいた。

「寿命だったんだ。仕方ない。最期にお前が抱いててくれて、嬉しかったろうよ」

 モランはフレッドの小さい頭に手を載せた。
 髪をわしゃわしゃとかき混ぜてやってようやく、彼は少しだけ表情を歪めた。赤くなった鼻をすんと鳴らして、もう一度猫をぎゅうと抱きしめた。

「埋めてやろうぜ。向こうの公園ならちょうどいいだろ」

 モランの提案に、フレッドは首を横に振った。「ここに埋める」と宣言する声は、消え入りそうに頼りなかった。
 この空き地でも、確かに穴を掘って猫の遺骸を埋めることはできるだろう。しかし空き地は空き地だ。伸び放題の草むらの影にはゴミが散乱している。埋葬するなら静かな公園の木の下の方が……と考えたところで、フレッドがじっと明後日の方向を見つめているのに気がついた。
 その視線の先を追うと、向こうの路地の暗がりに、黄色い光が二つ浮かんでいた。先ほど逃げていった猫が、こちらをうかがっているのだ。
 死んだ猫とよく似た黒猫だった。親子か、兄弟だろうか。

「……そうだな、遠くに埋めたら気の毒だ。野犬がきて掘り返すといけねぇから、そこの酒場の親父にスコップ借りてきてやる。ちょっと待ってろ」

 立ち上がりざまに、モランはコートを脱いで、フレッドの頭からばさりと被せた。「うわ」と小さな声が上がった。

フレッドと猫に関するお話

彼の横顔
 醜聞編の少し後のお話。


「やぁ、フレッドくん。これから仕事かい?」
「あ、いえ……」

 屋敷の廊下で行きあったフレッドくんに片手をあげながら尋ねると、彼は言葉少なに答えた。 
 モリアーティ家に厄介になることはや数カ月。仕事は問題なくこなせているし、銀行強盗事件から皆ともだいぶ打ち解けられた自覚はある。
 フレッドくんのことも、短い受け答えや日々の仕事ぶりから信頼できるいい子だというのはよく分かる。分かるのだけれど、逆に言えばそれ以上のことはまだよく分からなかった。
 思い返せば、僕はこれまでああいう朴訥とした年下の男の子と親しく関わった経験があまりなかったかもしれない。
 さっきの質問にしても仕事なら仕事だとはっきり答えるはずだし、モランくんのように派手に遊び歩くタイプにも見えなかった。友達か、もしかすると女の子と約束でもあるのだろうか。
 その背中を見送りながら何となしに考えこんでいると、ウィルくんがにこにこしながら近寄ってきた。

「気になるかい、ボンド?」
「ウィルくん」
「こっそりついていってごらん。面白いものが見られると思うよ」
「え、いいのかな。君にそう言われると、俄然興味がわいてきちゃったよ」
「フフ、普段着ない服に着替えていくといいよ」
「尾行がバレないように、変装するってこと? OK、わかったよ」

 僕は一度部屋に戻ると、手早く着替えを済ませて尾行を開始した。
 こんな簡単な変装でモリアーティ家の密偵を欺けるとも思っていなかったが、彼は周囲を気にする素振りもなく進んでいく。やはり仕事ではなく個人的な用事のようだ。
 やがて一軒のパン屋に着くと、彼は裏に回り込んで戸を叩いた。もしやここの看板娘と、と淡い期待を抱いてはみたものの、出てきたのは髪の白くなり始めた店主だった。おそらくはパンが詰まっているであろう紙袋を店主から受け取って、フレッドくんはお金を支払っているらしい。
 うーん、パンを抱えて女の子に逢いに行くとも思えないし、これはもうロマンスは期待できそうにない。でも単なるおつかいというわけでもなさそうだし、ウィルくんを信じて調査続行。
 パン屋を後にしたフレッドくんは、大きな通りを外れてどんどん人気のない路地へ入っていく。好奇心と少しの後ろめたさが入りまじって、僕はどこか浮足立った気持ちで尾行を続けた。
 やがて角を曲がった先で不意にフレッドくんが立ち止まったので、僕は慌てて足を止めた。
 塀の影からそっと顔を覗かせると、彼の足元に小さな影がまとわりついている。ミィミィと声を上げているあの生き物は……。

「おや、かわいい」

 僕が声を掛けても、フレッドくんは驚きもしなかった。

「やっぱり付いてきてたんですか、ボンドさん」
「あはは、バレてたか」
「……」
「ごめんって。何の用事か気になってさ。だけど、まさかこんなかわいい子たちとデートだなんて予想もしてなかったよ」

 フレッドくんは特に何も答えなかったけれど気分を害した様子もなく、猫をなでている。このあたりの野良猫たちだろう。大きい子が二匹と、まだ小さい子が一匹。
 家族かなぁ、かわいい。
 フレッドくんによく懐いているようで、野性を忘れてお腹を見せてる子もいた。
 いちばん小さな白猫が僕の方にまで寄ってきて、何かくれるのかと期待に満ちた眼差しでこちらを見上げてくる。顎の下をくすぐってやると、ぐるぐると喉を鳴らして身体を擦り寄せてきた。
 かわいい。けど、これいつものスーツで来てたら毛だらけになってたな……。確かに着替えてきて正解だった。ウィルくん、ありがとう。

「ほら、ごはんだよ」

 フレッドくんがガサガサと音を立てて、抱えていた紙袋の中を探った。猫たちから期待に満ちた鳴き声が上がる。取り出したパンをフレッドくんが細かくちぎって投げてやると、猫たちは一斉に飛びついた。

「うわ、すごい勢い。いつもあげてるの?」
「はい」

 と、その時ミャオウ、と鋭い鳴き声が上がった。
 大きい二匹のうちのどちらかが、仲間のパンを横取りしようとしたのだろう。互いに毛を逆立てて睨みあっている。
 白猫が驚いて身を固くしたのがわかった。

「こら、喧嘩しちゃダメだよ」

 フレッドくんは慣れた手つきで、先に飛びかかろうとしていた猫の首根っこをおさえた。

「仲良くしないともうあげないよ。ほら、爪を引っ込めて」
「ニィ」
「そうそう、いい子だね」

 あ、フレッドくん、猫相手の方がよく喋るんだ。
 普段無口かつ無表情なフレッドくんの口元には僅かながら柔らかい笑みが浮かんでいる。僕は猫を撫でるふりをしつつ彼の横顔を盗み見て、軽い感動を覚えた。
 でもわざわざ指摘したりしたら多分もう二度とこんな顔は見せてくれなくなる。僕はわき上がるいたずら心をぐっと堪えた。
 喧嘩が収まり、猫たちがまたパンを食べ始めたのを見届けてからフレッドくんは立ち上がった。

「おや、もう行くの?」
「はい。他の猫たちのところにも行かないと」
「他にも待ってる子達がいるんだ。やるねぇ」
「今日はあと十か所回ります」
「えっ」

 僕は耳を疑った。

「一応聞くけど、猫に餌をやりに?」
「一か所にあまりたくさん集めるとさっきみたいな喧嘩があちこちではじまって収集がつかなくなりますし、近くの住民に迷惑なので……。猫捕りが来ても困りますし」

 それは確かにそうだろう。
 一匹一匹は可愛くとも、それが何十匹と集まればかわいいを通り越して圧がすごい。野良猫はお世辞にも清潔とは言い難いし、あまり数が増えれば駆除しようと考える者が出ても不思議ではない。不思議ではないのだが……。

「来ますか?」
「いや、遠慮しとこうかな……」
「そうですか。では」

 そう言って頭を下げると、フレッドくんは猫たちがパンに夢中になっている隙に足早に去っていった。
 野良猫の縄張りってどれ位の間隔なんだろう。朝までにすべて回り切ることができるのだろうかと考えて、僕はちょっと途方に暮れた。
 餌代にしたって、顔なじみに売り物にならないパンを安く譲ってもらっているにしても、毎日のこととなると馬鹿にならない金額だろう。
 ただ「猫が可愛くて好きだから」では到底つとまらない大仕事だ。あの家の人達が口を揃えてフレッドくんのことを「優しい」と評する理由を改めて理解した気がする。

「……大したもんだねぇ、あの子も」

 口の周りをパンくずだらけにした猫は、ミャオ、と他人事のような顔で鳴いた。

chapter 7:事件の顛末

 数日後、モランは居間で新聞を読んでいた。
 『贋金づくりの一味逮捕――貧民街での恐るべき犯罪』という見出しで始まる記事だ。

「『廃材を拾いに工場跡地へ行った仲間が戻らないことを不審に思い、貧民街の孤児が巡回中のホワイトチャペル署の警官に訴えでた。ザック・パターソン巡査はこの小さな市民の要請に応じ、足を踏み入れた廃工場で偶然にも贋金づくりの現場を取り押さえるお手柄。』……なんだよ、結局パターソンの奴が手柄総取りかよ」

 廃工場での一件は、じつに呆気ない形で処理された。
 モランたちが廃工場に忍び込んだのと同じ頃、ウィリアムの指示で、ヒルダが警官を呼びに走った。
 もちろん彼女は、パターソンがウィリアムの息のかかった警官であることは知らない。たまたま話のわかる警官に行き当たって、彼が廃工場に潜んでいた犯罪者たちを取り押さえ、メイナードを保護してくれたと信じている。

「事が事だけに、警察で処理してもらうのが一番だったからね。フレッドが撃ってしまった弾については『犯人を取り押さえるため警官が発砲した』ということにしてしまえば、何も問題ないでしょ?」

 ウィリアムはちょっと首を傾げながら、そう言って笑った。
 確かに、贋金づくりの一味のうち一名は抵抗したためやむを得ず射殺されたと報道されている。

「連中が仲間割れした設定はどこ行ったんだよ。パターソンが撃ったことにしなくても、逃がした奴の仕業にしちまえば」
「拳銃を持った殺人犯が逃げたことにしちゃったら、それこそ大騒ぎじゃないか」
「……まぁ、確かに」
「パターソンには面倒をかけてしまったけど、これを機に本庁への栄転の話も上がっているみたいだし、悪くない結果じゃないかな」

 つまり、ウィリアムは二つの筋書きを用意していたというわけだ。
 犯人グループからあえて一人を逃がして仲間割れがあった事にしてしまうプランAと、現場に駆けつけたパターソンが連中を取り押さえた事にするプランB。ウィリアムはプランAで進める方針であったが、結果としてはフレッドの乱入によってその両方を取り入れる形となった。
 細かく調べられれば不自然な点が見つかるかもしれないが、警察や世間の関心は射殺の正当性云々よりも『造られた贋金が街に出回っていないか』の一点だろう。
 モランは記事の続きを読み上げる。
 犯人グループの中から一名、現場から逃げ出した者がいる。スコットランドヤードが全力で捜索にあたっているが、いまだ逮捕には至っていない。
 また、同日深夜、貧民街の一角から火の手が上がった。小火で済んだものの、明らかに放火の痕跡があった事、被害にあったのが贋金事件に関わった孤児たちがねじろにしていた廃屋であった事から、逃げた男が報復として火を放ったのではないかと推測される。

「『幸い子供たちに怪我はなく、現在はスコットランドヤード庁舎にて保護されている。逃げた男の行方は、ヤードが総力を挙げて捜索中。ロンドン市民の皆様はくれぐれも用心を』……とまぁ、こんなところか」

 モランは、横から真剣な面持ちで紙面を覗き込んでいるフレッドを見やった。
 最低限の読み書きはできるようであるが、新聞記事のようなまとまった文章を読むのはまだまだ難しいらしい。読めないくせに、モランが読み上げてやっている内容に嘘偽りがないか確かめようと必死になってわかる単語を拾っているのだ。
 彼は事件以降、モリアーティ家で匿われていた。ガラスで切った傷が治りきらないので手足はまだ包帯だらけだったが、熱が下がったおかげで頬には子供らしい赤みがさしている。
 
「火事って……」
「それもウィリアムの差し金だ」

 もちろん、万が一にも逃げ遅れる者が出ないよう、事前にヒルダには子どもたちを起こしておいてもらっていた。
 普通であれば貧民街での小火など大した騒ぎにはならないが、逃走中の犯罪者による放火の可能性が浮上すれば話は別だ。パターソンと、一足先にヤードに保護されていたメイナードのおかげで二つの事件は結びつき、焼け出された子どもたちは首尾よくスコットランドヤードの保護下に入ったというわけだ。

「後の事も心配しなくていい。もうすぐさる慈善家が、彼ら全員が孤児院に入れるように融通してくれるだろうからね」
「……アルバート、その人の善意につけこむやり口はどうなんだ?」
「さぁ、何のことだか?」

 若き伯爵家当主は、モランの言葉などどこ吹く風といった様子で優雅にカップを傾けた。
 『さる慈善家』とは、少し前まで彼ら兄弟の後見人をつとめていたロックウェル伯爵の事である。
 アルバートは昨夜伯爵のもとを訪ねていって、世間話として、新聞を騒がせているこの事件の話をした。焼け出された孤児、と聞いて、かつて自分たち兄弟に降りかかったあの痛ましい火事を思い出してしまった。彼らを他人とは思えない、不憫でならないので何かしてやれる事はないだろうか……と。
 人のいい伯爵はその言葉に大いに胸を打たれ、それならば寄付をしている孤児院に当てがあるから手配しよう、と請け負ってくれたのだ。

「フレッド。僕らとしては、君にも彼らと同じ孤児院に入ってほしかったんだけど……」

 ウィリアムが言った。
 新聞報道では、フレッドについてはほとんど触れられていない。逮捕された犯人たちですら彼の行方を知らないのだ。これも逃げた一人に疑惑がかかるところではあるが、実際死体が見つかったわけでもないので『行方不明』として処理されている。
 フレッドが今もこうして生きていることは、ヒルダやメイナードすら知らなかった。おかげでパターソンは、子どもたちから「早くフレディを見つけてくれ」と毎日のようにせっつかれて参っているようだった。
 しかし、フレッドは硬い表情で首を振った。

「人を撃ちました。皆と一緒には……」
「それじゃ、ヒルダさんからの依頼が果たせなかったことになってしまうな」
「パターソンから聞いたが、そもそも銀貨を盗んだのはメイナードなんだろ?」

 入り込んだ廃工場の中で、幸か不幸か誰にも出くわすことなく見つけてしまったらしい。これだけあるならバレることもないだろう、と彼は銀貨を一掴み持ち出してしまったのだ。
 
「……僕が、返しに行こうって言った。だからメイナードが捕まって、こんなことになったのは僕のせい」
「廃工場に引き返したのですか?」

 ルイスの問いに、フレッドは頷いた。
 メイナードがポケットに詰め込んだ銀貨を見せてきた時点で、フレッドも贋金とは想像しなかったらしい。しかしそもそも廃墟に大金があること自体が異常である。明らかに普通の金ではないのだから持っていては危険だと、渋るメイナードを説き伏せて廃工場へ引き返したという。
 おそらく二人とも大金を前にして動転していたのだろう。身の安全を最優先するなら、テムズ川にでも投げ捨ててしまえばよかったのだ。

「それでも、君たちの行動がなければ街に贋金が出回っていた。本当にたいへんなことになるところだったんだよ。背後関係は市警が洗っているところだけど、どうやら君が撃った男は英国人ではなさそうだ。治安判事たちも、犯罪者から友達を助けようとした君に同情こそすれ、牢に入れるようなことはまずありえないだろう。ロンドン中の市民がきっと君の味方になる」
「…………」

 ウィリアムが甘い言葉をぶら下げてみても、フレッドは黙ったままだった。

「おい、このまま出ていかなければお前は世間的に死んだも同然だ。それでいいのか?」

 モランは思わず口を出していた。仲間から離れて、人殺しの業だけを背負ったままたった一人で生きていくのはあまりに酷に思えた。しかしフレッドは、透明な無表情のままだった。

「……エディが、煙突の中で焼け死んだとき」

 彼は言葉を慎重に選びながら、ぽつりぽつりと語り始めた。

「煙突掃除屋の親方とその家の住人が、大声で言い争っていました。エディの死体を取り出すには壁を壊さないといけないから、どちらがお金を払うのか、って。僕らはそれを、屋根の上で聞いていました」

 ウィリアムのカップに紅茶のおかわりを注ごうとしていたルイスも、手を止めて耳を澄ませていた。

「ヒルダにも、会ったんですよね。あの子は八歳のときに紡績工場に奉公に出されて、一生懸命働いたけど、機械に腕を巻き込まれてしまいました。それで、あんなふうに……。まともに働けなくなって、工場をくびにされました。
 『家がうんと遠いところにあるから、帰りの列車賃が足りないんだ』って笑ってましたけど、僕は嘘だって知ってました。口減らしで奉公に出されたから、家に帰っても邪魔ものにされるだけだって」

 生きているのに、生きている者として扱ってもらえない。それが彼の見てきた地獄だった。
 フレッドは顔を上げて、一同を見回した。おずおずと控えめな仕草だったが、その幼い相貌にはどこか決然とした表情が浮かんでいる。

「皆が、これから普通に暮らせるなら、僕はそれでいいです」
「…………」
「人を殺したのに、皆と同じようには暮らせません」
「そう」

 ウィリアムは軽く頷いた。そうして、何でもないような調子で、深く切り込む。

「逃げた男の行方を追うつもりなんだね」

 フレッドはハッとしたように目を見開いた。瞳におそれに似た色の影が過ぎる。

「そうだね。奴は、計画を台無しにした君の仲間たちに復讐をしようと考えるかもしれない。特にメイナードははっきりと顔を知られてしまっているからね。市警もその事は当然考慮しているけれど、いつまでも守ってくれるわけじゃない」

 緋色の瞳に射抜くように見つめられて、フレッドが椅子の上で身を縮ませた。隣に座るモランにも、その震えが伝わってくるようだった。
 報復。
 贋金づくりが行われていることを知らなかったとはいえ、『迷い込んだ孤児たち』が廃工場に市警を呼び込むきっかけを作ったことに変わりはない。理不尽な怒りの矛先が彼らに向かないとは言い切れなかった。
 その可能性を、モランも考えなかったわけではない。当然、ウィリアムだって『後始末』の策を練っているに違いない。けれどそれはこちら側の仕事であって、フレッドがこれ以上危険を冒す必要はどこにもない。
 「馬鹿げてる」とモランは呻くように漏らした。

「敵が逃げた一人だけとは限らねぇ。贋金づくりなんて大それた犯罪、それなりの組織が背後についてたはずだ。ガキがのこのこ首突っ込んだところで、あっという間に殺されてテムズ川に沈められるのがオチだ」
「それでも、」
「それでも、やる?」

 ウィリアムの涼しげな声がするりと滑り込む。

「闇に潜った犯罪者たちを見つけ出して、事を起こす前に押さえるなんて、それこそ英国中の犯罪ネットワークに通じでもしない限り到底無理な話だよ。それを、明日食べるパンひと切れを手に入れるのもやっとの君が?」
「…………」

 フレッドは目に涙を溜めて、しかしそれでも否とは言わずに床を睨んだ。その頑なな態度に、モランはまた声を荒げそうになった。が、ちらりとこちらを見上げたウィリアムと目があって、言葉を飲み込んだ。
 厳しい言葉とは裏腹に、ウィリアムはどこか楽しそうな、愛しいものでも見るような笑みを浮かべていた。モランには、その表情に見覚えがあった。

「そうだ、ルイス。あの枝が折れた庭の木はどうしたのかな?」

 ウィリアムが唐突に話題を転換した。話を振られた弟はほんの少し目を泳がせながら、言葉を探しているようだった。

「えっと……そういえば、折れたままでした。すぐに庭木屋に連絡しますね」
「うん、そうだね。お願いするよ。折れたままにしておくのはよくないからね。でも、こんな時すぐに対応してくれる使用人がいると助かると思わないかい?」

 問いかけるように語尾を上げておきながら、ウィリアムの言葉は問いかけではなかった。その意味を測りかねて、ルイスの紫がかった紅い瞳がぱちぱちと瞬いた。
 ウィリアムは「ふふ」と息だけで笑いながら、紅茶のカップに手を伸ばした。そうして気軽な雑談のような調子で、今度は兄に向けて微笑みかけた。

「アルバート兄さん、どうでしょう。庭師をひとり雇ってみるというのは?」

[newpage]

[chapter:新しい使用人]

「モラン」

 裏庭で煙草をふかしていると、植木の影からフレッドがひょっこりと顔を出した。

「おう、どうした」
「これ」

 フレッドが差し出したのは、紙ナプキンに包まれた焼き菓子だった。

「アルバート様にいただいた」
「へぇ、よかったじゃねぇか」

 ウィリアムが彼を新しい使用人として迎え入れたいと言い出した時はアルバートもルイスも驚いていたが、この幼いながら物静かで素直な働き者を二人が気に入らないはずもなかった。フレッドもフレッドで、受けた恩に報いるにはいくら働いても働き足りないといった勢いで屋敷の仕事に精を出している。おかげでモランはここ数日少々肩身が狭かった。
 それにしても、基本的に弟たち以外眼中に無いアルバートがずいぶん打ち解けたものだ、と感心しながら煙草をふかした。

「……」
「……」

 沈黙が流れる。
 フレッドはまだ何か言いたげに紙ナプキンを差し出している。もしやと思って「俺にくれるのか?」と尋ねると、彼はこくりと頷いた。

「ウィリアムさんとルイスさんの分は別に取ってあるって」
「……そうか」

 アルバートはおそらく、「弟たちの分はあるから遠慮せずに食べなさい」と言いたかったのではないだろうか。菓子を配分するにあたって彼がモランを頭数に入れているとは思えないし、モランだって別にその事に腹を立てたりはしない。
 三兄弟と同じテーブルについて食事をする事に、フレッドは毎回ひどく恐縮していた。主人であろうと使用人であろうと、階級に関わらず分け隔てなく扱うことがモリアーティ家の方針だ。当然食事も皆で一緒に取るし、メニューに差を付けられることもない。
 しかし生まれてこの方しみったれた食事にしかありついてこなかったであろうフレッドには、貴族と同じテーブルで食事をするなど気詰まりでしかない。食事の席のフレッドは無作法にならないよう周りの手付きを真似ようと真剣だったし、それに気づかない顔をしながら殊更ゆっくりとした動作でナイフとフォークを使う三兄弟がモランには可笑しかった。
 弟たちと別に菓子を与えたのは、お茶の時間まで同席させるよりも一人で気楽に食べた方がいいだろうというアルバートからの配慮に違いない。おそらくウィリアムやルイスも同じことを考えただろう。
 しかしどうやらフレッドは、アルバートの言葉を「君はモランと分け合って食べなさい」と解釈したか、モランだけがお菓子を貰えないのはかわいそうだと考えたかしたようだった。
 フレッドがこちらを見下ろしながらじっと待っているので、モランは仕方なく焼き菓子をひとつつまんだ。別に欲しくもなかったが、彼の厚意を無碍にすることもない。
 モランが菓子を口に運んだのを見て、フレッドもモランの隣に腰をおろした。丸かったり四角かったり、ココアが練り込まれていたりする焼き菓子をひとつひとつ吟味して、これと決めたものを慎重な手つきでつまみあげる。
 さくさくと菓子をかじる横顔はいつもの無表情ながらもどこか嬉しげだった。
 甘いものを食べる機会などほとんどなかったはずだ。ひとり占めしたって誰も咎めないというのにわざわざモランを探すなど、こんなに気が優しくてよく今まで生きてこられたものだ。
 きっとあのあばら家でもそうだったのだろう。僅かな食べ物を仲間たちと分け合って、最後に自分の分が残っていなくても、じっと黙って耐えているような。

「甘。煙草にはあわねぇな……。俺はもういらないから、後はお前が食ってくれ」
 
 フレッドはぱちくりと目を瞬かせた。

「いらないの?」
「おう。俺はこっちの方が好きだ」
「……美味しいの?」
「吸ってみるか?」
「いらない」

 そっけない。
 もう少し愛想よくしてくれてもいいと思うのだが、大人に甘えられるような環境にいなかったのだから仕方のない話だ。
 フレッドは菓子をかじりながら、庭の隅のトネリコの木を見つめていた。先日、彼が屋敷から脱走する際に足場に使った木だ。
 今は折れた枝には癒合剤が塗られ、麻布が巻かれている。ルイスが呼んだ庭木屋に見守られながら行った、新任庭師の初仕事だった。やはりフレッドは相当に身が軽いらしい。脚立の高さが少々足りなくとも、てっぺんで立ち上がって危なげなく作業をこなしていた。
 
「気にすることないぞ。枝が一本折れただけで木がダメになったりはしない」

 どうやら当たりだったようだ。フレッドはぱっとモランの方を向くと、少しだけばつが悪そうに口をへの字に曲げた。
 ああいう場所で育った子供の例に漏れず表情に乏しいたちであったが、ここ数日で多少なりとも顔色を読めるようになったように思う。

「……元に戻る?」
「そのうち元気になるさ。人間と同じだ」
「人間は元通りにはならないよ」

 フレッドはちらりと横目でモランの右手を見た。
 モランとしては「時間が経てば良くなる」という意味で言ったつもりだったのだが、ずいぶん生々しい捉えられ方をしてしまったようだ。

「……まぁ、そうだな。木だって前と全く同じ枝が生えてくるわけじゃない。でも生きてさえいりゃ、元通りとはいかなくとも、新しい芽が出てくるもんだ」
「……うん」
「ところでお前、怪我はもういいのか」
「うん」
「肩は?」
「動く」

 フレッドは右腕をぐるりと回してみせた。

「ならいい。でも、もっと食って身体作らないとな。銃撃つたびにいちいち後ろにひっくり返ってたら身が保たねぇぞ」

 からかったつもりだったが、フレッドはこくりと頷いた。その真面目くさった表情に思わず苦笑しながら、モランは足元の煉瓦に吸い殻を擦り付けた。
 ウィリアムからは直々に彼の新人教育を言いつけられている。彼に充分な素質があることは先の事件でよく分かっていた。教育を受ける機会に恵まれなかっただけで物覚えは悪くないし、度胸もある。特に運動神経は相当なもので、ジャックに見せるのが今から楽しみなくらいだ。
 戦闘術や銃の扱いは教えてやれる。しかし、彼の目指す英国一の情報屋になるための道筋は、モランにもまださっぱり見当がつかなかった。それについては、これから共に模索していくしかないのだろう。

「あ、そうだ。これも言っとかねぇとな」

 ポケットから新しい煙草を取り出しながら、モランは付け足した。

「今後は困ったらまず俺を頼れ。一人で無茶はするな。こないだみたいなのは絶対にナシだ」
「……こないだ?」

 フレッドは首を傾げたが、ややあって、一人で廃工場に突撃したことを言っているのだと気付いたようだった。

「あの時は、モランが強いことも、ウィリアムさんがあんなにすごいことも知らなかったし。それに……」
「それに?」
「助けて、くれたから……」
「は?」

 助けてくれたから、頼れなかった?
 一瞬言葉の意味を図りかねたが、この少年の優しい性格を考えればすぐに答えは出た。
 巻き込みたくない、と思ったのだろう。危険な連中から自分を救ってくれたモランや、温かい食事とベッドを与えてくれたこの屋敷の兄弟たちを。
 思わず、呆れとも感心ともつかないため息が漏れた。

「わかった。でも、これからはもう変な気ィ回すなよ。お前と俺とは兄弟分なんだからな」
「兄弟……」
「何だよ、文句あるか?」

 フレッドが不思議そうにこちらを見上げる。その頭を軽く小突いてやると、彼は二、三度ゆっくり瞬きした。それから、小さく首を振った。

「……兄弟、いいなって思ってた」
「そうか」

 モランが片頬を上げて笑うと、フレッドはくすぐったそうに目を伏せた。モラン自身は、ウィリアムたちの関係を羨ましいと感じたことはない。それでも何故だか、フレッドの言葉は心の中にストンと落ちてきた。
 さて、何から始めようか。
 黙々と菓子を頬張りはじめた彼の小さい頭を眺めながら、マッチを擦って新しい煙草に火をつけた。

初出:Pixiv 2022.06.11

chapter 6:銃声

 モランとウィリアムは、日没と同時に廃工場へ踏み込むことにした。
 日暮れまでの僅かな時間、ヒルダを始めとする子供たちには、廃工場には近付かないよう言い含めた上でフレッドを捜索させた。彼だけでも抑えられればと考えていたが、とうとう彼は見つからなかった。
 どこかに身を隠しているかもしれなかったし、屋敷からここまで子供の足ではまだ辿り着けないだけという可能性もある。後者であることを祈った。
 問題の廃工場は、まだ辛うじて操業を続けているらしい工場と打ち捨てたれた廃墟とが交互に並んでいるような場所にあった。
 割れっぱなしの窓ガラスからして、明らかに長らく放置されている様子だったが、裏口付近のぬかるんだ地面には真新しい轍がいくつも刻まれていた。車輪の幅は広く、ウィリアムの親指ほどの深さがある。かなり重量がある何かが運び込まれた痕跡だった。

「そろそろ行こうか」

 ウィリアムが腰を上げた。夕食でも食べに行こうとしているような、軽い調子だった。モランはベルトに挿したリボルバーの感触を確かめた。

 門の側を、煙草をふかしながら歩く男がいた。
 フェルトの帽子の下から、伸び放題の髭と髪が顔を覆っている。この工場の従業員、というわけではなさそうだ。
 暗がりの中ではあったが、背中を丸めて足を引きずるような覇気のない歩き方には覚えがあった。昨夜フレッドを追い回していた男の一人だ。
 一人で見張り番をしているのか、たまたま相方が外しているのかはわからない。モランは周囲に人の気配がない事を確かめると、さっと飛び出してリボルバーのグリップで男の後頭部を殴りつけた。
 ウィリアムが「さすが」と小さくつぶやいた。
 昏倒した男は物陰に引きずり込んで縛っておいた。持ち物を簡単に検めてみたが、出てきたのは煙草や小銭くらいで、鍵の類は持っていなかった。
 辺りを探っていたウィリアムがするりと戻ってきて、モランの腕を叩いた。

「あっちから入れそうだ」
 
 ウィリアムの指差す先には通用口があった。錆びた蝶番がきしんで嫌な音を立てた。
 一階の大部分は作業場になっていて、その周りを長い廊下がぐるりと取り囲んでいるようだ。モランとウィリアムはそっと内扉を開けて、作業場に潜り込んだ。廊下をまっすぐ進んだのでは、敵と鉢合わせたとき隠れる場所がないからだ。幸いなことに、作業場は工員たちの働きぶりを監視するためか、ほとんど全面に大きなガラス窓が取り付けられている。
 煤けて曇ったガラス越しに廊下の様子を伺いつつ、大型機械や作業台の影を踏みながら進んでいくと、作業場の奥に薄い光が見えた。廊下を挟んだ反対側にドアがあって、そこから明かりが漏れているのだ。モランはより一層慎重に、明かりの方へにじり寄った。
 部屋の中から、数人の話し声がする。
 そう広くはない部屋だが、机と椅子が何組か揃っていて、壁には黒板とボロボロの羊皮紙が貼り付けられているのが見えた。おそらくは事務室か何かだったのだろう。
 事務長よろしく奥の椅子に腰掛けていた赤ら顔の男が、苛立たしげにコツコツと机を叩いた。

「……まだ見つからないのか?」
「すみません、どうにもはしっこい奴で、昨夜は邪魔も入ったもので」
「あんなガキがヤードに訴えでたところで、何ともありゃしませんよ……」
「ばか野郎!」

 乱暴に机を叩く音が響いた。

「あのガキが金が手に入ったと浮かれてパンでも買いに行ったらどうするんだ!? どんな間抜けでも商売人なら、みすぼらしいガキが銀貨を持って買い物にきたら怪しむに決まってるだろうが。どこから盗んできやがった、そもそも本物か?ってな。それでガキがしょっぴかれて贋金が表に出ちまったらどう始末をつけるつもりだ!」

 リーダーらしき男は尚もわぁわぁと喚いている。
 モランはウィリアムに「まだ聞くか?」と視線を送ってみたが、彼は苦笑して首を振った。ひとつ頷き返して、モランは中途半端に開きっぱなしだった扉を蹴り開けた。
 誰だ、と狼狽えた声が上がる。室内には三人。
 ヒュッと空を切る音が響いて、机の上のランタンが音を立てて割れた。ウィリアムの投げた石が命中したのだ。
 室内は暗闇に包まれたが、明かりが消える一瞬前に男たちの立ち位置と家具の配置は記憶した。モランは一番手前に立っていた一人の鳩尾に拳を叩き込んで、素早く昏倒させた。

「この……!」

 ガチ、と金属音が響いた。部屋の奥に立っていた、リーダーらしき男の方だ。
 僅かな音だったが、聞き間違えるはずもない。撃鉄を起こす音だ。敵味方入りまじった暗闇の中で発砲する馬鹿がいるものかと思いたかったが、そう利口な方ではなかったらしい。
 これにはウィリアムが素早く反応し、音のした方に向けて第二投を放った。
 鈍い音と短い悲鳴。これも命中だ。
 その隙を逃さず、モランは銃を取り落とした男を埃のかぶったソファへ押し倒し、ナイフを振りかぶる。
 鈍い手応えがあった。倒れた男の体がびくりと強張って、やがて弛緩した。力の抜けた手がだらりと床に落ちる。残る一人の男から「ひいっ」と情けない悲鳴が上がった。
 次はお前だ、と言わんばかりに声のした方を睨みつけてやると、彼はウィリアムの脇をすり抜けて、どたどたと大慌てで逃げていった。

「……いいのか、追わなくて?」

 倒れたランタンから燃料が漏れていないことを確認しているウィリアムに尋ねると、彼は首を振った。

「いいよ。全員逮捕させちゃったら、第三者が介入したことが明らかになってしまうからね。一人逃して、仲間割れがあったという事にしてしまおう」
「俺たちは裏切り者が金で雇ったゴロツキってところか」

 モランはソファの座面からナイフを引き抜いた。
 顔の真横に勢いよくナイフを振り下ろされた男は、だらしなく気絶している。先ほど逃げていった男からは、部屋の暗がりも相まって無惨に刺し殺されたようにしか見えなかっただろう。
 持ち込んだランプに明かりを灯して、モランは改めて部屋の中を見回した。男たちはここを詰所にしていたらしい。引き出しが一段抜き出されて、トレイ代わりに机の上に放り出されていた。中には銀貨が無造作に詰められている。

「これ全部贋金か?」
「うん……暗くてよくわからないけど、そうだろう。さっきの作業場を探せば鋳型が見つかるかもね」
「メイナードは……見当たらないな」
「工場なら、鍵の掛かる倉庫があるはずだ。あとは出入り口が限定される地下か上階か……」

 そうウィリアムが口にした直後、頭上で物音がした。ガラスの割れるような音と、どたばたと床を踏み鳴らす音。
 
「上みたいだ」

 モランはウィリアムに先立って廊下へ飛び出した。幸いなことに、二階へ登る階段は事務室のすぐ隣にあった。数段飛ばしで駆け上がると、先ほどの事務室のちょうど真上に部屋があった。

「……この、クソガキが!」

 部屋に踏み込むなり、罵声が響いた。
 男が一人、こちらに背を向けて床にうずくまっている。先ほどの物音は、彼が転倒した際のもののようだった。腰の辺りに手をやって呻いている。
 彼のすぐ側に子供が倒れている。
 フレッドだった。
 窓を割って部屋に飛び込んだらしく、ガラスの散乱した床の上を転がって傷だらけになっている。白いシャツに血が滲んで見るも痛ましい姿だった。
 けれどモランが状況を把握するより早く、フレッドは動物じみた機敏さで体勢を立て直した。
 床に拳銃が落ちている。おそらくは贋金づくりの男のものだろう。
 フレッドはそれを引っ掴むと、胸の前で構えた。

「待て、フレッド!」

 咄嗟に、モランは叫んでいた。
 即座に飛び出して男を伏せさせるか、フレッドを直接抑えるかすれば、あるいは最悪の事態を防げたかもしれない。
 しかしモランの後ろにはウィリアムがいた。モランたちがいる戸口は射線から外れてはいたが、子どもが見様見真似で発砲すればどこに弾が飛ぶかわかったものではない。
 今自分が動けば、背後のウィリアムが被弾するかもしれない。その考えが、モランの足を地面に縫い止めた。
 がん、と轟音が天井を揺らした。
 立ちつくした男の口から、「あ……?」と意味のない呻き声が漏れた。一拍遅れて、その体がぐらりと傾ぐ。モランはすぐさま部屋に飛び込んで、発砲の反動でひっくり返っていたフレッドの手から拳銃を取り上げた。
 弾丸は、男の眼窩に吸い込まれていた。背後の壁には彼の脳漿が散っていて、即死であることがすぐに見てとれた。
 
「……フレッド」

 身を起こそうとした彼は、痛みに顔を歪めた。
 子供の腕で、しっかり構えず発砲したからだろう。銃身が跳ね上がった勢いで右肩を脱臼しているようだった。
 モランはフレッドを助け起こそうとしたが、彼はこちらには目もくれず、部屋の隅に這いずっていく。
 朽ちかけたデスクの裏に、縛り上げられた少年が転がっていた。ひどく殴られたようで、顔は腫れ上がって切れた唇から血が滲んでいる。首の後ろ辺りには、煙草でも押し付けられたのだろう、真新しい火傷の跡がいくつもあった。
 おそらく彼がメイナードなのだろう。

「うぅ……、う、」

 フレッドが、横たわった少年に縋りついて静かに嗚咽を漏らした。モランは一瞬ひやりとしたが、彼の胸はかすかに上下している。
 まだ生きている。
 モランは胸をなで下ろしながらメイナードの拘束を解いた。その間も、フレッドは泣き続けていた。彼の涙が友を失わずに済んだ安堵によるものなのか、人を殺めてしまった後悔によるものなのか、モランにはわからなかった。

「頑張ったね」

 ウィリアムが、フレッドの隣にしゃがみこんだ。
 彼はポケットの中を探って、少しばつの悪そうな顔をした。いつものジャケットでなかったから、ハンカチを持つのを忘れたのだろう。首に巻いていた空色のストールを、泣きじゃくるフレッドを覆い隠すように被せてやった。
 階段を昇ってくる足音が聞こえて、モランは反射的に先ほどフレッドから取り上げた銃を構え直した。まだ敵が残っていたか、先ほど逃がした一人が戻ってきたか。
 子供たちを机の裏に隠れさせて迎え撃つ態勢をとろうとしたが、ウィリアムは片手をあげてモランを制す。
 上がってきたのは、長身の制服警官だった。帽子を被っているにも関わらず左右にぴっちりと撫でつけられた髪が、見る者に神経質そうな印象を与えている。

「パターソンか」

 モランは肩の力を抜いて、構えを解いた。
 彼は、素早く室内の状況を観察した。床に転がる死体を見つけても驚いた様子は見せなかったが、傷だらけの子供たちを認めるとわずかに細い眉を顰めた。

「あの、ウィリアム様……これは、一体?」
「来てくれてありがとう、パターソン。お仕事中に悪いんだけど、ちょっと手伝ってくれるかな、」

chapter 5:廃屋の子供たち

 工房を出て、モランとウィリアムは次にフレッドが書き残したイーストエンドの住所に向かった。
 日暮れまではまだ時間があったが、貧民街の往来は狭く、崩れた土壁や割れた煉瓦がそこかしこに放置されて見通しが悪い。
 薄暗い物陰に痩せた野良犬が寝そべっていた。もう動く気力もないのか、それとも単に大人しいたちなのか、モランたちが横を通りかかる時パタリと片耳を上げただけだった。
 ここは空気が澱んでいる。貧民街で燻っていた時のことが思い出されて、モランは眉を顰めた。通りにたむろする貧しい身なりの子供たちの中に、フレッドの姿はない。

「この辺りは土地勘があるんだ。あの子とは何かと縁があるみたいだ」

 そんなモランの機微を知ってか知らずか、前を行くウィリアムはどこか楽しげにそう言った。
 仕立てのいいスーツに身を包んだ普段のウィリアムならともかく、今日の彼の出で立ちは物乞いまでとは行かずとも、せいぜい店屋の見習いか新聞売りの少年といったところだろう。
 ルイスとともに貧民街で生まれ育ったという過去も、すでに聞かされていた。それでも、理知的な光を宿す瞳とどこか少女めいた面立ちはこの寂れた街とは不釣り合いだった。

 ウィリアムの案内もあって、目的の建物はすぐに見つかった。裏ぶれた通りからさらに奥まった場所にある、半木造の二階建て民家だった。
 外壁には番地を記した真鍮のプレートが打ち付けられている。フレッドの識字能力がどれほどのものかは定かでなかったが、少なくともこのプレートが住所を示すものであることを理解した上で文字列を丸暗記していたのだろう。
 壁はひび割れ、屋根瓦がところどころ剥がれていてひどく雨漏りするであろうことが外から見てもわかる。中の状態も推して知るべし、だ。
 雨風に曝され痛んだ扉にドアノッカーが辛うじてくっついてはいたが、錆びついて動かなかった。仕方なく、モランは拳で直接戸板を叩いた。
 しばらく待ってみたが、返事はない。痺れを切らしてドアノブに手を掛けると、鍵が壊れていたようで扉はあっさりと開いた。
 が、すぐに内側から押し返される。

「入ってこないで!」

 若い女の声がキンキンと響いた。
 室内から様子を伺っていたのだろう。僅かに開いた隙間から、燃えるように赤い髪が覗いた。年の頃はまだ十四、五歳といったところだが、ひょろりと背の高い娘だった。
 扉越しにモランと目があって、彼女は「ひっ」と息を呑んだ。彼女からすると、目つきの悪い大男が家に押し入ろうとしているわけだから、真っ当な反応だ。モランは閉め出されないように戸板を抑えながら、心の中で彼女に侘びた。
 そこにすかさずウィリアムが割り込んだ。

「こんにちは。突然お邪魔してしまってごめんなさい。僕たち、フレッドを探して……」
「ここにフレッドなんていない!」

 にこやかに話しかけるウィリアムに、少女は噛みつくように声を上げた。

「彼にここの住所を教えられたのですが」
「だから……」
「彼に口止めされているのですね」

 断定的な口調に、少女が驚いたように目を見開いた。扉を閉めようとする手から力が抜けたのを見て、モランは主人が挟まれない程度の隙間を確保した。
 ウィリアムは一気に畳みかける。

「昨日の夜、ここにいる彼が、暴漢に襲われているフレッドを保護しました。怪我をしている上に熱まで出していたので我が家で看病していたのですが、突然部屋からいなくなってしまって、ここまで探しに来たのです。僕らは、彼が何らかの『犯罪』に巻き込まれているのではないかと考えています」
「え……っ」

 あえてストレートな言葉を選んだことで、少女はあきらかに動揺を見せた。フレッドのことを知っていると見て間違いないだろう。
 ウィリアムはドアの隙間にするりと肩を入れて、廃屋に半歩踏み込んだ。少女は僅かに身体を反らせて彼を避けたが、もう無理にドアを閉めたりはしなかった。

「……フレディ、メイナード探しに行った」

 不意に、足元から小さな声がした。
 見ると、少女のスカートの影から、モランの膝ほどまでしかない背丈の子供が顔を覗かせている。
 フレディ、というのは彼の愛称でいいだろうか。メイナードというのもアルバートからの報告にあった名前だった。
 子供はそれだけ言うと、顔を引っ込めてしまった。赤髪の少女がため息をつき、観念したように口を開いた。

「……今の話、本当なの?」
「ええ、僕らも心配で探しに来たのです」

 彼女はしばし考え込んだ後、二人を中へ招き入れた。

 モランとウィリアムは、短い廊下を右に折れた先にある居間に通された。前を行く少女とウィリアムは平気な顔をしてすたすたと歩いていくが、モランは腐りかけた床板を踏み抜かないよう慎重に歩かねばならなかった。どこからか染み込んだ雨水で壁紙は見る影もなく変色し、饐えた匂いがする。
 室内には他にも薄汚れた格好の子供たちがいた。同じくこの空き家に入り込んでいる宿無し子なのだろう。彼らは突然の闖入者に敵意と不安が入りまじったような顔をしていた。
 みな十歳になるかならないかといった具合で、どうやらこの赤毛の少女がいちばん年かさらしい。彼女はスカートにまとわりついていた子供を他の仲間に任せて、部屋から追い払った。
 室内にはモランとウィリアム、そして少女の三人だけとなった。彼女は「ヒルダ」と名乗った。
 ダイニングテーブルの周りには、大小様々な椅子が七つ八つ並べられている。部屋の隅にはカビの生えたマットレスが床に直接敷かれていた。おそらくここで寝起きする者もいるのだろう。
 ヒルダはモランたちを座らせてから、こう切り出した。

「フレディ……フレッドは、今はいない。昨日の朝に帰ってきたっきり」
「メイナードさんというのは?」
「……私達と同じ。ここをねじろにしてる孤児よ。北のはずれに廃工場があって、一昨日あの子は、メイナードと一緒にそこに出かけていった」
「廃工場に……廃材集めですか?」

 ウィリアムがすぐにそれを思いついたのが意外だったのか、ヒルダは驚いたような顔をしながら頷いた。

「え、ええ。使えそうな釘とか鉄くずを持っていけば、鍛冶屋がお金に替えてくれるから」
「なるほど」
「でも、二人とも夜になっても帰ってこなかった。明け方になってようやくフレッドだけが帰ってきて、『メイナードは?』って聞くの。まだ帰ってないって答えたら、またすぐに出て行っちゃって……」
「その時、誰かが自分たちを尋ねてきても応じないようにと、フレッドが言ったんですね」

 少女は不安そうにうなずいた。
 モランがまさにその不審者と誤解されていたというわけだ。

「工場で何かあったのかな。探しに行こうと思ったけど、ちびたちを置いてもいけないし、何かあっても私じゃ……。あなたさっき、フレッドが犯罪に巻き込まれてるかもって言ったよね。あれはどういう意味?」

 今度はこちらが尋ねる番、とでも言うように、ヒルダは質問を投げた。一旦落ち着いてしまえば、なかなかしっかりした娘のようだった。
 ウィリアムは「そうですね……」と考え込むようなそぶりを見せたが、ここまで来ればモランにももうおおよその見当はついていた。
 フレッドは二日前、メイナードとともに廃材を拾いに廃工場へ向かった。そこでおそらく、秘密裏に贋金の鋳造が行われていたのだろう。二人は運悪くその現場を目撃してしまった。……もしくは、そうと知らずに銀貨を盗んでしまった。
 もし銀貨が本物であれば、たった一枚でもここにいる孤児たち全員が当分の間食べていけるだろう。廃材を拾って得られる小銭など比較にならない。
 人気のない廃墟の一室、テーブルの上に銀貨がざらりと積まれていたら、飢えた孤児が誘惑に負けて手を伸ばしてしまうのも無理からぬ話だ。
 そして贋金を造っていた者たちに見つかって、追われ、フレッドだけが何とか逃げ延びた。おそらくあの腕の傷は、逃げる際に鉄条網か何かに引っ掛けてしまったんだろう。
 彼はどこかに身を隠して一夜をやり過ごした後このねぐらに戻ったものの、まだメイナードが帰っていないと知って再び廃工場に向かった。友人を救い出すために侵入を試みたが、逆に追い回される羽目になる。一日中逃げ回って力尽きかけたところに、偶々モランが居合わせた、といったところか。
 ウィリアムとモランの間にしばしの沈黙が流れる。それを見て、彼女は何か心当たりがあるに違いないと確信を強めたようだった。

「ねぇ、お願い。知ってる事を教えて。二人を助けられるなら、私なんだってするから」

 ヒルダは頬を紅潮させながら立ち上がって、テーブルの上に身を乗り出した。が、途端にバランスを崩してよろけた。「あっ」と短い悲鳴が上がって、彼女の身体に押されてテーブルがガタリと音を立てた。
 彼女の左腕は、肘から下が欠損していた。
 薄汚れたブラウスの袖は、空っぽのままテーブルの上でくしゃりと丸まっている。ウィリアムが痛ましそうに眉をしかめた。
 ついテーブルに両手をつこうとして、失敗したのだろう。その一連の動作には、モランも覚えがあった。体の一部を失ったことを頭では理解していても、生まれてからずっと当たり前だった感覚は、そう簡単に抜けるものではない。
 ヒルダはきまり悪そうに顔を伏せた。

「フレディはね、行くあてもなかった私をここの仲間に入れてくれたの。あんな優しい子、他に知らない……」

 モランとて右手を失ってはいたが、元軍人である自分と生活のあてもない子供とでは、その意味合いはまるで異なる。ここに至るまで相当な苦労があり、そしてこれからも待ち受けているのだろう。

「分かりました、ヒルダ。僕らに任せてください」

 ウィリアムの柔らかな声が響いた。隣を見やると、彼はすっかりいつもの『相談役』の顔をしていた。
 困っている人間を絶対に見捨てない。
 それはモランの主たる彼の、最も尊ぶべき性質だった。本音を言えば、どんな小さな困り事にも耳を貸さずにはいられないその性分には、感心を通り越して呆れる思いすらある。
 しかし今この時は、その横顔がこの上なく頼もしく感じられた。

「フレッドとメイナードは必ず助けます。その代わり、君にも手伝ってほしいことがあるのだけれど」

 ウィリアムの言葉に、ヒルダは迷わず頷いた。

※※※※

 廃屋を出ると、徐々に日が傾きつつあった。もともと日当たりの悪い路地はすでに薄暗い。
 モランは思い切って、彼に問うた。
 
「……なぁ、ウィリアム。お前本当は気付いてたんじゃないか? 今朝、フレッドが部屋を抜け出して三階にいた理由」
「どういう意味?」

 言わんとするところをわかっているのかいないのか、ウィリアムはこてりと首を傾げてみせた。モランは言葉を選びながら、「お前が気付かない筈がないって意味だ」と切り出した。

「フレッドは昨日の夜、ほとんど気絶した状態で屋敷に連れてこられた。屋敷がロンドンのどの辺りにあるのか、あいつにはわからなかった。そして、一階のゲストルームの窓からは塀に囲まれた庭しか見えない。だからあいつは、俺たちの目を盗んで三階に上がった。テムズ川なり特徴的な教会の尖塔なりが見えればおおよその現在地がつかめるからだ。煙突掃除屋として屋根の上に上がる機会が多かったなら尚更だ。
 つまりあいつは、今朝の時点ですでに一人で屋敷を抜け出す算段を立ててたって事だ。お前はあの時『探検がしたかったんだろう』なんて言ってたが、本当は……あ〜っ、いや、違う!」

 モランは頭をガシガシと掻いた。

「悪い。そういう事が言いたいんじゃないんだ。フレッドが一人で無茶しようとしてるのをお前がわざと見逃したとか、そういう事じゃなくてだな……」
「うん、モラン。わかってるよ」
「俺が馬鹿だったってだけだ。あいつは俺にこの銀貨を渡そうとした。二回もだ。それなのに俺は二回とも、あいつの話をろくに聞こうとしなかった」

 助けられた礼のつもりで、有り金を差し出しているのだと思い込んでいた。
 けれど違った。フレッドは助けを求めていた。
 贋金づくりは重罪だ。単に店屋を騙して損をさせるだけでは済まない。貨幣の価値が揺らげば、回り回って国の経済が大混乱に陥る危険もある。
 それをフレッドがどこまで理解しているかは分からない。ともかく贋金づくりの一味は、逮捕されればただでは済まないだろう。つまり、犯罪を隠し通すためにはたとえ相手が子供であろうと容赦するはずがない。
 フレッドは、彼らが巻き込まれた重大犯罪の証拠品を提示して、友人の危機を伝えようとしていた。しかしモランはその意図を汲み取ることができなかった。
 結果として、彼はモランたちに助けを求めることを諦め、ひとりで戦おうとしている。彼はメイナードを諦めてはいない。ヒルダに口止めして出ていったきりねじろに戻っていない事が、何よりの証拠だった。

「まだ間に合うよ、モラン。フレッドが仕掛けるとすれば日が落ちてからだ。数でも力でも劣る以上、闇に乗じて忍び込むしかない」 
「それにしたって無謀すぎる」
「そうだね。彼の体調が万全だったとしても難しいだろう」
「……メイナードは、まだ無事だと思うか」
「犯人たちは秘密を知ってしまった子供たちを二人まとめて始末する必要がある。メイナードを生かしておけば、フレッドの居場所を吐かせることも、誘い出すための餌にすることもできる。フレッドが捕まらないうちから彼を殺す理由は無いよ」

 連中がそこまで利口だったらいいんだが。
 そう思わずにはいられなかったが、あえて口には出さなかった。理屈としてはウィリアムの言う通りであるが、この国ではみなし子の命の重さなど知れている。
 モランは、フレッドがこの機械式の義手を見て、「どうやって付けたのか」と問うてきた事を思い出した。物珍しさからくる興味本位の質問だとばかり思っていたが、彼はヒルダにも同じものをつけてやりたいと考えていたのではないだろうか。
 あのフレッドという少年は、どうしようもなく優しいやつなのだ。
 自分たちだけで食いつなぐことすらやっとだろうに、身体的なハンデを負ったヒルダや同じような境遇の子供たちを放っておけなかったほどに。わざわざモリアーティ家に書き置きを残していったのだって、あわよくば彼らを助けてもらえたら、という思いがあったのではないだろうか。
 彼も、彼の友人も、銀貨一枚盗んだ罪で殺されていいはずがなかった。

chapter 4:フレッドを探して

 昼食の後はルイスがフレッドのそばに付いていたが、アルバートが帰ってきたのに気付いて部屋を出たらしい。てっきり眠っていると思っていたそうだし、見張り番をしていたわけでもないのだからルイスに非は無い。
 彼はそのままアルバートとともに居間に入ったから、フレッドから目を離していた時間は三十分も無い。
 四人はすぐさま手分けして屋敷内を捜索した。
 ウィリアムは二階を、アルバートは一階を、ルイスは庭を。モランはまた三階に上がっているのではないかと考えて、使用人エリアをぐるりと見回ってみたが、彼はどこにも見当たらなかった。
 諦めて一旦ゲストルームに戻ると、三兄弟も空振りだったらしくすでに戻ってきていた。

「どこ行ったんだ、あのガキ……」
「一階には見当たらなかったな」
「僕やアルバート兄さんの部屋に立ち入った形跡もありませんでした」
「正門も裏の通用口も、内側から施錠したままでした。……ただ、庭木の枝が一本折れていました。塀のそばの、トネリコの木です」

 ルイスが、窓の外を指さす。
 庭の隅に、うす紫色のルピナスに囲まれて小さな木が一本植っている。ここからでは判別しづらいが、確かに梢に近いあたりの枝がぽっかりと欠けているように見える。

「風で折れたんじゃないのかい?」
「今日は特別風が強くありませんし、朝食の後に水やりをしに庭へ出た時は何ともありませんでした」
「……フレッドがあの木を足場にして塀を越えた可能性があるってことか」
「あんな細い木を?」

 普通、背の高い庭木を塀のそばに植えることは防犯の観点からよろしくない。けれどあの木はまだ若く、樹高はモランの背丈より高いくらいだが塀よりは少し低いので、庭師もこの屋敷の住民たちも特に気にしてはいなかったのだ。
 おまけに枝も細くて、あの木を伝って庭を出入りするような輩がいるとすれば、それは野良猫くらいなものだろう。
 モランは昨夜フレッドをおぶった時のことを思い出そうとした。あの小柄さと、煙突掃除人として働いていた経験があれば、素早く木を登って塀に飛び移ることも不可能ではないのだろうか。

「これは?」

 ウィリアムが声を上げた。振り返ると、彼はベッドの枕元に立っていた。
 シーツの上に鉛筆が転がっている。先ほどウィリアムが探していたものだろう。さらに枕の下には、一枚の紙切れが隠すように挟まれていた。

「これ、昨夜アルバート兄さんがモランに渡したメモだよね。医者の住所が書いてある」
「あ、兄さん。裏にも何か書いています」

 ウィリアムが紙切れを裏返すと、アルバートの流麗な文字とは対象的な、たどたどしい鉛筆書きの文字が並んでいた。

「あの子が書いたのでしょうか」
「イーストエンドの住所だね……。モラン、何か聞いてる?」
「いや……」

 モランは曖昧に首を振った。
 昨夜医者を呼んで戻ってきて、用が済んだ紙切れをどこにやったかも覚えていなかった。部屋のどこかに何気なく置いたか落としたかしたのを、フレッドが拾っていたのだろう。

「じゃあ、こっちは?」

 彼は次に、ベッド横のサイドテーブルに置かれていた銀貨をつまみ上げた。女王陛下の横顔が、うららかな昼下がりの陽光を反射して鈍い光を放っている。

「それはフレッドのだ。あいつ、いらねぇって言ったのに置いていったのか」
「そう……」

 ウィリアムはちょっと考え込むような仕草をした。

「じゃあ、忘れ物を届けてあげないといけないね。とりあえず、この住所へ行ってみようか。モラン、ついて来てくれる?」
「あぁ」
「兄さん、僕も行きます」
「ルイスはアルバート兄さんと一緒にここで待っていて。もしかしたら戻って来るかもしれないし」
「ルイスは私ともう少し屋敷内を探してみよう。出ていったと見せかけて、まだどこかに隠れている可能性もあるからね」
「わかりました」

 二人を屋敷に残して、モランとウィリアムは屋敷を出た。
 ウィリアムはいつもの仕立ての良い服を着替えて、いつの間に用意していたのか安っぽい労働者階級ふうの服を身に纏っていた。鮮やかな金髪を隠すようにハンチング帽を被り、粗い生地のストールはどこか垢抜けない印象を与える。
 靴に至っては、泥にまみれて程よく履き潰されている徹底ぶりだ。モランと並ぶと、とても主人と使用人には見えないだろう。

 通りに出て馬車を拾い、ウィリアムの「ちょっと寄り道するね」という一言で到着したのは、町外れにある小さな工房だった。
 錆びついた看板が風に揺られて時折ギィギィと音を立てている。店内は真っ暗で営業しているようには到底見えない。モランも何度か訪れたことがある場所だったが、今この時に一体何の用があるのか、モランには見当もつかなかった。
 ウィリアムは躊躇なく扉を押し開けて中に入っていく。モランも黙って後に続いた。
 カウンターに据え付けられたベルを鳴らすより少し早く、工房の奥からヌッと背の高い男が現れた。

「これはこれは、ウィリアム様!!」
「やぁ、ヘルダー。よく僕が来たってわかったね」
「一度ここへ来られた方であれば、ドアを開いた音で誰だかわかりますとも。モランさんがご一緒ということは、義手のメンテナンスのご用命でしょうか? それとも……」

 彼は機械油に塗れた両手をもみ合わせながら、ウィリアムの顔を覗き込むようにひょろ長い身体を折り曲げた。ウィリアムの来訪が嬉しくて仕方がない、といった様子だ。
 モランはまだ一言も発していないし物音を立てたつもりもないのだが、このドイツ人技師は本当に目が見えていないのだろうか。
 彼が開発した機械式義手には大いに助けられてはいたものの、モランはこの男のテンションに未だ慣れなかった。人のことを言えた立場ではないが、ウィリアムはこうも一風変わった人間ばかりをどこで見つけてくるのだろう。

「今日は別件でね。これを見てほしいんだけど」

 ウィリアムがポケットから取り出したのは、フレッドが置いていった、あの銀貨だった。それを手のひらの上に載せられるなり、ヘルダーは「おやっ」と素っ頓狂な声を上げた。

「これはよくできた贋金ですねぇ」
「……は?」
「やっぱり、そう?」
「ええ、ええ、明白ですよこれは。まず手触りが銀ではありません。錫と……ニッケルか何かで作った合金でしょうか。本物の銀貨よりわずかに軽い。加工も甘いですね。多くの人の手を渡るうちに擦り切れたのではなく鋳型そのものの問題だ。……はぁ、しかしこれはなかなか。贋金としては会心の出来と言っていいでしょう」

 彼は「へえぇ」とか「はあぁ」とか呟きながら、指先で銀貨の表面をなでたり、弾いたりしていた。
 モランもカウンター越しに身を乗り出して彼の手元を覗き込んだが、表面の意匠すら判然とせず舌打ちした。盲人のアトリエゆえに、室内の光源は薄汚れた窓から差し込む光と炉にくべられた火しかなかったからだ。

「ウィリアム様、これをどちらで?」
「うん。ちょっとね」

 ウィリアムは曖昧に濁した。
 そうだ。これはフレッドが持っていたものだった。浮浪児が持っているにしては額面が大きい硬貨だったので妙に引っかかったのを覚えている。彼がたまたま偽物を摑まされただけとは考えにくかった。

「ヘルダー、こういうものを作れそうな場所や人間に心当たりは?」
「いいえ、とんでもない! むしろ、知っていたら教えていただきたいくらいです」
「そう……。じゃあ、次に来る時、そうするよ」

 鳥打帽のつばをちょっと持ち上げて、ウィリアムは紅い瞳を細めた。

chapter 3:ウィリアムの推理

 居間に入ると、ウィリアムが一人で部屋の中をうろうろと歩き回っていた。

「ああ、モラン。あの子は?」
「飯食って寝たよ。お前はさっきから何やってるんだ?」
「うん……鉛筆がどこかに行っちゃって」
「どこにでも置くからだろ」
「モランには言われたくないなぁ」
「前にルイスがぼやいてたぞ」
「うそ」

 ウィリアムは何か思いつく事があるとアイデアやら数式やらを紙に走り書きし始める癖があった。そういう時の彼は思索に沈み込むあまり周りが見えなくなっていて、ついさっきまで手に持っていたはずのペンまでどこかにやってしまうことがままあるそうだ。

「確かここに予備が……ほら」
「わぁ、ありがとうモラン。君もうちの使用人らしくなってきたね」
「やめろって、ガラでもねぇ」

 棚の引き出しからルイスが用意していた鉛筆を出すと、ウィリアムは子供のように顔を綻ばせた。
 彼は今日の新聞に目を通しながら、手帳にさらさらと何か書きつけていた。別にメモを取っているわけではない。新聞を読みながら別の考え事(例えば、小難しい数式をこね回したり)をしているのだから、まったく常人には理解し難い。

「アルバートは?」
「さっき出かけたよ。僕がちょっと調べ物をお願いして」
「調べ物? フレッド絡みか?」
「フレッドって、あの子のこと?」
「あ、悪い。さっきそう聞いたんだ」
「そう。それで……他には何か話してくれた?」
「いや……それ以外のことは話したがらないふうだったな」

 モランは昨夜の経緯と、先ほどの会話をウィリアムに話した。

「なるほど。助けてくれたモランにも話せないようなことがあるみたいだ、と」
「あぁ。ただチンピラに絡まれてたってわけでもなさそうなんだ」
「単に連れ戻されることを恐れてる可能性もある……かな」
「連れ戻される? どういう事だ?」

 聞くと、ウィリアムは話そうかどうしようか、考え込むように鉛筆を頬にあてた。

「うん……これはまだ僕の推測なんだけど」
「聞かせてくれ。俺には推測も何もあったもんじゃない」
「うん。あの子は五年前ほどまでアッシュフィールド地区の孤児院に身を寄せていたけれど、事情があって煙突掃除の仕事をすることになった。そして数ヶ月前にその仕事をクビになったか逃げ出したかした……と思うんだ。もし彼がその煙突掃除屋のもとから逃げ出していた場合、僕らに素性を明かしたがらないのも納得できるな、って」
「……はぁ? えーっと、順を追って説明してくれ。お前はあいつと……フレッドとまだほとんど話してないよな?」
「そうだね。昨夜も熱でぼぅっとしてたみたいだし、今朝はずっとモランと一緒だったでしょ?」
「じゃあ、何でそう推測できる?」
「ええと……そうだね、まずひとつ目。これはほんとうに偶然だったんだけど……」

 ウィリアムは汚れたジャケットを差し出した。あの子供が身に着けていたものだ。昨夜と違っているのは、破れた箇所に丁寧にツギをあてられていることだ。おそらくルイスだろう。
 その仕事の速さには感動すら覚えるが、しかしその程度の処置ではもうどうしようもないほど、衣類としての耐用年数を大きくオーバーしている。いわば襤褸だ。

「内ポケットのところを見てごらん。ネームが刺繍してある」

 ウィリアムはにこにこと笑いながら、そう促した。
 あの子供がネーム入りのジャケットを仕立てられるような経済状況にあるとは到底思えない。つまりこのジャケットは古着で、そこには前の持ち主の名前が縫い付けられているのだろう。
 そこから一体何が分かるというのだろう。モランは明るい窓辺に寄って、すっかり褪色してしまったその刺繍に目を凝らした。
 William J Moriarty
 そこに刺繍されていたのは、他でもないウィリアムの名前だった。

「これは……」
「びっくりしたでしょ。ルイスが見つけてくれたんだ」
「お前のお下がりかよ」
「そう。サイズと仕立てからして、まだロックウェル伯爵のお屋敷でお世話になっていた頃のもので間違いない。慈善団体を通じて、アッシュフィールド地区内の孤児院に古着を寄付した事があったんだ。それが今から五年前の話。フレッドの手に渡る前に何人か経由した可能性はもちろんあるけど、ともかくあの子は地区内の孤児院に在籍していたことがわかる」
「つっても、孤児院なんて地区内にいくつかあるんじゃねぇか?」
「ここ数年で閉鎖されたのは一か所だけだよ」
「閉鎖?」
「あの子は煙突掃除人だ。不運にも孤児院が閉鎖になって、煙突掃除屋へ徒弟に出されることになったんだろう」
「なんでそう言い切れる?」
「あの子の肘と膝を見ればわかるよ。煙突掃除のように、幼い子供が狭い場所で無理な姿勢のまま長時間作業をしていると、骨がちょっと特徴的に歪んでしまうんだ」
「そういう話は聞いたことがあるが……。じゃあクビになったか逃げたか、ってのは?」
「普通、煙突掃除をしている子供は頭を丸刈りにされる。作業の邪魔になるし、煤がこびりついて不衛生だからね。でもあの子の髪は目にかかるほど伸びていたし、煤が絡んでもいなかった。ここ数ヶ月、煙突掃除の仕事から離れている証拠だ」
「なるほど、な……」

 頭の切れる奴だということはとっくにわかっていたつもりだったが、モランは唸るしかなかった。
 フレッド本人に事実を確かめたいと思ったが、彼は結局昼食の時間まで眠ったままだった。食べている最中も頭がはっきりしないようで、スプーンを握ったままうつらうつらとしている。相当疲れが溜まっていたのだろう。
 モランは追及を諦めて、再び彼をベッドに戻した。

※※※※※

 昼過ぎになって、アルバートが帰ってきた。
 居間に入ってきた彼の後ろには、兄を出迎えていたらしいルイスがハットとコートを抱えて付いている。

「やぁ、ウィル。ただいま」
「お帰りなさい、アルバート兄さん。面倒なお願いをしてすみません」
「いいや。どのみち今日は孤児院に顔を出す予定だったしね。何人か知り合いのシスターを当たってみたが、お前の言った通りだったよ」

 アルバートは彼専用の一人がけソファに腰を下ろした。

「それとなく尋ねてみたら、その経営難で閉鎖になった孤児院に勤めていらしたシスターを紹介してもらえたよ。あの子の名前はフレッド・ポーロックで間違い無いだろう。三年前、施設の閉鎖に際して煙突掃除屋の徒弟に出された少年が三人。そのうち黒髪は一人だけだったそうだ」

 アルバートの報告を受けて、ウィリアムは頷いた。

「モランが聞き出してくれた名前とも一致しますね。その後のことは?」
「やはりお前の推測通り、四ヶ月ほど前にその煙突掃除屋の元から行方をくらませているそうだ」
「さすが兄さんです!」
「しかし、その経緯というのが惨いものだった」

 アルバートは顔を曇らせて続けた。

「徒弟に出された三人のうちの一人、エディ・ライランズという少年が亡くなっている。煙突掃除の作業中に、誤って暖炉に火を入れられてしまって焼死したそうだ。いや、この場合は窒息死なのかな……。ともかく、フレッドたちが姿を消したのはその直後だったらしい」
「それはまた……」
「その煙突掃除屋はどうなった?」
「注意義務違反ということで、罰金刑だそうです。今も仕事は続けているらしいですよ」

 よくある話だった。
 子供を守れ、労働者に人権を、と声高に叫ばれ法整備が徐々に進められてはいたが、いまだに罰則は驚くほど軽く過重労働が横行している。
 煙突掃除などはその代表格と言っていいだろう。小柄な子供が重宝される割に、仕事内容は常に命の危険と隣り合わせだ。焼死、転落死といった物理的なリスク以外にも、煤を大量に吸い込んで気管や肺をやられる子供も多いと聞く。
 モランはあの子供がずいぶんと痩せこけていたことを思い出した。煙突掃除をする子供は極端に食事を制限されるというのは事実らしい。身体が大きくなって煙突に入れなくなると困るからだ。
 友人が悲惨な死を遂げて、雇い主が大した咎めも受けずのうのうと過ごしているのであれば、逃げだしたくなるのも無理はないだろう。

「ということは、フレッドは今はそのもう一人の少年と行動を共にしているということでしょうか?」
「ああ、おそらくそうだろう。メイナード・ハマートンという少年だ」
「あの様子を見るに、路上で生活をしているのは明らかです。そのメイナードと共にどこか孤児院に入れるよう手配してあげましょう」
「そうだね。私もそれが良いと思う」
「ルイス、あの子を呼んできてくれるかい? まだ寝ているなら無理に起こさなくてもいいから」
「はい、兄さん」

 ルイスが居間を出て行った後も、モランはじっと考え込んでいた。
 アルバートが裏を取ったことにより、ウィリアムの推理が正しかったことは証明された。しかし、まだ疑問は残っている。
 あの男たちは、結局何者だ?
 彼らは風体からして煙突掃除人とは思えなかったし、煙突掃除屋から頼まれてフレッドたちを探しているようにも見えなかった。何より、いくらでも替えのきく孤児を数ヶ月に渡って追い回すというのはどうもしっくりこない。
 あの男たちは何か別の目的をもってフレッドを追っていたのだ。では、その目的とは何か?

「そう難しく考えなくても、僕らが彼の味方だっていうことを示してあげれば、本当のことを話してくれるんじゃないかな」

 モランの考えを読んだように、ウィリアムが言った。いくら彼が聡明だと分かってはいても十代の子供に見透かされるのは少々決まりが悪く、モランは顔を顰めた。

「……だといいがな」
「確かに、警戒心が強そうな子だから切り出し方は慎重に行かないとね。私は少し怖がられているようだったし、ここは大佐から話してもらおうか」
「何で俺が」
「おや、今朝は懐かれているように見えましたよ。違うのですか?」
「どこがだよ……」

 長男は長男で、こちらをからかっているのか本気で言っているのか分からない。しかし確実に「子供に懐かれるモラン」を面白がっている空気を醸し出している。ムキになって言い返すとさらに遊ばれるのが目に見えているので、モランはそれ以上は何も言わなかった。
 そこへ、ルイスが居間に駆け込んできた。
 普段の彼らしからぬ、どこか慌てた様子だった。彼は室内をさっと見回すと、当惑したように眉を下げた。

「兄さん、またあの子がいません!」

chapter 2:月夜モリアーティ邸

 翌朝、モランは陽が昇る頃にベッドを抜け出して身支度を整えた。
 普段に比べると随分早い時間だったが、少年の様子が気になっていたためだ。昨夜は、医者からもらった薬が効いて彼が眠りに落ちたのを見届けてから、各々自室に引き上げた。
 おそらくルイスあたりがすでに世話を焼いていることだろうが、朝食の前に一度ゲストルームへ様子を見に行こう。そして昨夜はドタバタしているうちにうやむやになってしまったが、ウィリアムとアルバートにきちんと事情を説明せねばなるまい。
 そんなことを考えながら廊下に出た時、視界の端に何かが引っかかった。振り返ると、二階に続く階段の反対側、廊下の行き止まりに小さな人影が見えた。
 使用人をほとんど雇い入れないこの屋敷の中で、使用人フロアを利用する者は今のところモランしかいない。たまにルイスが掃除のため立ち入ることはあったが、その人影は随分と小さかった。懸命に背伸びをしながら、突き当たりの窓を覗いている。

「お前……何やってんだ?」

 背後から声を掛けると、彼は弾かれたようにこちらを振り向いた。昨日の少年だった。
 一階のゲストルームで休んでいたはずなのに、なぜ一人で三階に上がってきているのか。モランは眉間に皺を寄せた。

「部屋を抜け出してきたのか?」
「あ……」

 威圧的な態度に、少年の目に怯えの色が浮かんだ。
 身につけているのはルイスのお下がりだろうか。清潔なシャツとスラックスは彼が着るには随分と大きかったらしく、袖と裾が何回も折り返されていた。そのアンバランスな格好におかしさが込み上げてきたが、顔には出さずにモランは厳しい声色で続けた。

「親切心でお前を助けて、医者まで呼んで手当てして一晩休ませてやったんだ。そんな恩人の家の中を勝手にうろつくのはマナー違反じゃないか?」
「……ご、ごめんなさい」
「分かればいい。部屋戻るぞ」
「あ、あの、これ……」

 少年がおずおずと何かを差し出した。見ると、小さな手のひらの上に銀貨が一枚のっている。
 モランは大きくため息をついた。

「だからいらねぇって。そういう意味で言ったんじゃねぇよ」
「えっと、あの……」
「この屋敷を見ればわかるだろ。お前みたいな痩せっぽちのチビからなけなしの金をむしり取るほど、ここの主人は落ちぶれちゃいないんだよ。もちろん、使用人の俺もな」
「……」
「ほら、まだ熱下がってないだろ。部屋に……」

 と、そこにルイスがパタパタと階段を駆け上がってきた。彼はモランのすぐそばに少年の姿を見つけて、あっと声をあげた。

「こんな所に……部屋にいなかったから探してたんですよ! どうして勝手に抜け出したりしたんですか。まだゆっくり寝ていないと……」

 ルイスの剣幕に驚いて、少年が身を硬くしたのがわかった。
 モランからすればルイスがぷりぷりと怒っている様子は子犬が鳴いているようなものだったが、彼から見れば今年十七になるルイスは十分『大人』に分類されるのだろう。萎縮してしまって小言の内容がずいぶんと優しいことも耳に入っていないようだった。
 さらにルイスの後ろから、ウィリアムとアルバートが何事かと階段を上がってやってきた。ウィリアムは寝起きのガウン姿だったが、アルバートはすでに一分の隙もなくきっちりと身支度を整えている。

「ルイス、どうしたんだい? 大声を出して」
「兄さん、兄様。この子が部屋を抜け出してこんな所に」
「いや、待て。これはな……」

 少年はご当主の登場にすっかり震え上がっていた。さすがに気の毒になってきて助け舟を出そうとしたとき、まだ眠たそうに目を擦っているウィリアムが言った。

「探検がしたかったんだね」
「はい?」
「だから、この子は探検がしたかったんだよ。ほら、僕たちも昔、伯爵のカントリーハウスを探検したじゃないか」
「えぇ、そんなこともありましたけど……」
「うん、そういうこと。じゃあ朝食にしようか。着替えてくるね」

 ウィリアムはそれだけ言い残すと、さっさと階段を降りていった。ルイスも慌ててその後を追いかける。
 アルバートは苦笑をこぼしながら二人の後ろ姿を見送り、「では後は頼みました」とモランに言いつけてその場を去っていった。

 ゲストルームに戻ってしばらくすると、ルイスが二人分の食事を持ってきた。モランもここで朝食をとれということらしい。
 メニューはパンとスープ、プレートにはオムレツやサラダが載っていた。少年の分は食べやすいように、パンが粥に変えられている。

「こっちの皿はお前のだ。全部食っていいからな。……食欲ないか?」

 尋ねると、少年はぶんぶんと首を横に振った。

「ならいい。せっかく作ってくれたんだからな、食える時に食っとけ」

 さっさと先に食べ始めると、彼も慌ててスプーンを手に取った。
 ルイスが帰ってきているタイミングだったのは運がよかったな、とモランは思った。
 まだイートン校に在籍しているルイスは、普段は学生寮で生活している。彼の手料理にありつけるのは、週末か長期休暇の間だけだ。
 ウィリアムとアルバートだけで過ごしている間は外食か出来合いのものだけで済ませているようだし、モランも料理はできなくはないが、「野外で火を起こして煮炊きができる」という次元の話である。明らかに食うに事欠く生活を送っている子供に、まともなものを食べさせられてよかった。
 モランは自分のことを特別子供好きだとは思ったことが無いが、彼の手にはやや大きなカトラリーを使って一生懸命に食事を頬張る姿はなんだか微笑ましかった。

「自己紹介が遅れたが、俺はセバスチャン・モラン。一応ここの使用人だ。お前は?」

 話しかけると、少年はぴたりと手を止めた。上目遣いにモランの顔色を伺いながらこわごわと答えた。

「…………フレッド」
「フレッドか。昨日は何であんなことになってたんだ?」
「…………」
「あいつらから財布でも盗んだのか?」
「…………」

 ややあって、彼はこくりと頷いた。

「そうか。盗った財布はどうしたんだ?」
「えっ、と……」
「逃げてるうちに落としちまったのか」

 フレッドはもう一度頷いた。
 嘘だな、とモランは確信した。
 財布を盗られて腹を立てているだけの男が、通りがかったモランにまでナイフをちらつかせるというのは理屈が通らない。
 下手に言葉を重ねないだけ利口だが、ふらふらと泳ぐ目線が何よりも雄弁に物語っている。普段アルバートやウィリアムの権謀術数を間近で眺めている身からすると、年相応で可愛らしいくらいだ。

「そう、か……。だが証拠が無いんじゃ、お前をヤードに突きだすわけにもいかねぇな。ここのご主人にも黙っといてやるから、もうするんじゃねぇぞ」

 モランがそう告げると、フレッドは明らさまにほっとした表情を浮かべた。
 もう少しつつけばすぐにボロを出すだろうが、別にこの子供を苛めたいわけではない。重要なのは、「盗みを働いた」という嘘をついてまで何かを隠そうとした事実だ。モランの気分次第では、「盗人を屋敷に置いてはおけない」と即座に叩き出される可能性だってあったのだから。
 まだこちらを信用しきっていないのか、何か話せない事情があるのか。
 考え込んでいると、向かいに座った少年がじっとモランの手元を見ているのに気がついた。

「何だよ、パンも食うか?」

 彼は黙って首を横に振った。しかしまだ何か言いたげにしているので、モランはそのまま言葉の続きを待った。

「……それ、どうやってつけたの?」
「は?」
「て」
「て? ……あぁ、義手のことか?」

 フレッドは小さく頷いた。
 昨夜抱きかかえた時の感触を覚えていたのか、食事中も手袋を外さない事に違和感を覚えたか。傍目には義手と分からないほど使いこなせていると自覚していただけに、どちらにせよ目敏いことだと感心した。

「昨日のお医者様?」
「いや……あー、何でもいいだろ」
「……」
「ほら、食い終わったならとっととベッドに戻れ。まだ熱下がってないだろ。絵本でも読んでやろうか?」
「自分で読める。……少しなら」

 冗談で言ったつもりだったが、むっとしたような顔で言い返されてしまって、モランは喉の奥で小さく笑った。
 食事をきれいに平らげて、フレッドはモランに追い立てられながらベッドに潜り込んだ。上等なシーツの肌触りと体が沈み込む感覚が落ち着かないらしく、しばらくもぞもぞと体を動かしていた。ちょうどいい体勢に落ち着いてからも、毛布から顔の上半分だけを出してじっとこちらを見上げてくる。
 曇りのない大きな瞳には、顔立ちの幼さに似つかわしくない沈着さも見て取れて、見つめられている側としては居心地の悪さすら感じる程だった。もう少し頬に肉がつけば、このどこか痛々しい険も取れるだろうか。
 モランはポケットの煙草に手を伸ばしかけて、ここではまずいかと思いとどまった。

「……まだ何かあるのか?」
「ううん。……あの、ありがとう」
「礼なら、ここのご主人たちに言うんだな」

 「うん」と素直で幼げな返事が返ってきた。
 彼がうとうとと目蓋を閉じたのを見届けてから、モランは部屋を後にした。

彼の手には銀貨だけ
 フレッド過去捏造。

 chapter 1:月夜

 八月にしては肌寒い夜だった。
 ひんやりとした空気がアルコールで熱った肌に心地よく、モランは気分良く夜道を歩いていた。
 今夜はカードで調子良く勝ち続け、ひと儲けすることができた。いつもならもう一軒酒場を回るか、女を買うかしたところだったが、何だか今日は歩きたい気分だった。珍しく街の空気が澄んだ夜だったからかもしれない。ウィリアムの勧めで怪しげなドイツ人技師に取り付けてもらった義手がようやく体に馴染み始め、ここのところは体の調子もすこぶる良かった。
 こうして月を眺めながら歩いていると、あの悪夢のような光景が遠い昔の事のように思われた。忘れるつもりはないし到底忘れられるものでもないけれど、それでも今この瞬間モランの心は凪いでいた。こんなにも穏やかな気分になる瞬間などもう一生訪れないと思っていた。
 しかし、軍人として鍛えあげられたモランの五感は、いつ如何なる時でも鋭敏だった。
 煙草を吸おうと外套のポケットに手を入れた時、路地の奥から争うような声と物音が聞こえた。
 はじめは酔っぱらい同士の喧嘩かと思った。しかしどうも様子がおかしい。足を止めて耳をそばだてると、低い話し声が聞こえてきた。

「……こいつで間違いないのか?」
「あぁ。くそっ、手こずらせやがって」

 暗がりに二人の男が立っていた。二人の足元にうずくまる影が随分と小さいものだったので、最初は犬か猫でもいたぶっているのかと思った。男の一人が、足元の何かを踏みつけるように蹴った。ぐぅ、と苦しげな声が聞こえた気がした。続いて、ひび割れた石畳の上に白い手が投げ出されるのが見えた。
 小さな、子供の手だった。

「おい! その辺でいいだろ」

 声をかけると、男たちの背中がぴくりと震えた。彼らはゆっくりとモランの方を振り返る。

「財布でも盗られたか? だからってガキ相手にそこまでするこたぁねェだろ。返すもん返してもらったら手打ちにしようぜ」

 男たちは何も答えない。互いに顔を見合わせて、突然現れたモランに対してどうすべきか迷っているようだった。その表情には怯えのような、焦りのような色が浮かんでいる。男の一人、伸び放題の髭を顔に貼りつけた男はその間も、逃げられないように倒れた子供の足を踏みつけていた。
 しばらくして、背の高い方の男が答えた。

「あんたには関係ない」
「あぁそうかもな。だが俺だってせっかく良い気分だったんだ。子供が痛めつけられてるのを素通りするってのは寝覚めが悪いんだよ」

 モランが路地に踏み込むと、男たちの瞳にちらついていた怯えの色が、怒りの炎に変わった。
 間違いない。こいつらには何かやましい事がある。モランの勘がそう告げた。
 適当にいさめるだけのつもりだったが、こうも様子がおかしいとなるとますます放っておけない。モランは大げさに足を踏み鳴らしながら男たちに歩み寄った。

「来るんじゃねぇ」

 男の一人が、懐から鈍色に光るナイフを取り出した。ごく一般的な市民であれば恐れをなして退散するところであったが、幾度となく死線をかい潜ってきた元軍人相手では脅しにすらならない。
 むしろ相手が刃物を出してくれるのであれば好都合だ。遠慮なくやり返せるのだから。
 モランは男に得物を振るう隙すら与えず、腕を捻り上げて煉瓦造りの壁に叩きつけた。背中と後頭部を強かに打った男は「がっ」と声をあげると、ずるりとその場に崩れ落ちる。

「お前もやるか?」

 顎を上げながら挑発すると、髭づらの男はひっと息を呑んだ。
 仲間がこうもあっけなく昏倒させられ、この目の前の大男には敵わないと悟ったのだろう。彼は仕方なく子供を踏みつけていた足をどかすと、倒れた仲間に駆け寄った。
 慌てて逃げていく男たちの背中を見送って、モランは倒れた子供へ向き直った。
 まだ十歳ほどの少年だった。擦り切れたジャケットに、つぎはぎだらけのズボン。どこかで落としたのか靴は片方しか履いていない。小さな頭に、モランを見上げる瞳だけがやけに大きく見えた。

「大丈夫か?」

 助け起こすと、少年は「いっ」と小さく悲鳴を上げた。見ると、ジャケットの二の腕辺りが大きく裂けていた。
 切りつけられたのかとひやりとしたが、傷は浅く出血もすでに治まっている。刃物による切り傷というよりは、先の尖ったもので引っかいてしまったことでできた傷痕に見えた。
 モランはぼさぼさに絡まった黒髪をかき上げて、彼の額に手を当てた。傷自体は大した事はない。しかしろくに手当せずに放置したために発熱しているようだった。

「おい、わかるか? しっかりしろ」
「ぁ………」 

 少年は数回瞬きすると、緩慢な動作で上着のポケットから何かを取り出した。
 これ、と小さく呟きながらそれをモランに差し出す。右手の義手にのせられたのは、一枚の銀貨だった。助けた礼のつもりだろうか。モランは思わずため息をついた。

「いらねぇよ、取っとけ」

 モランは銀貨を彼のポケットへ押し込んだ。
 腕の傷口に触れないように注意しながら、彼を背負う。何度かこうして寝落ちたウィリアムを運んだ事もあったが、彼とは比べ物にならないほど軽い。外套越しでも骨が当たる感触がわかる程だ。
 街灯もない狭い路地を、モランは早足で駆けていった。しばらく歩くうちに少年は眠ったらしく、モランの背中に身体を預けたまま動かない。
 思ったより面倒なことに首を突っ込んでしまったようだ。
 この子供は見るからに浮浪児だ。てっきり盗みか何かをやらかしたところを捕まって小突き回されているのかと思ったが、そうであればあの男たちがモランにまで襲いかかる理由はない。彼らの暴力にある程度の正当性があったのであれば、モランにそう弁解すればいいのだから。奴らの方にこそ後ろ暗い事情があったから、ナイフを取り出したのだ。
 この後は適当に馴染みの酒場にでもこの子供を預けていけばいいと考えていたが、どうにもきな臭い。
 モランはしばし思案した後、ロンドン郊外へと足を向けた。

※※※※※※

 モリアーティ邸は、長子アルバートの成人に合わせて再建したまだ真新しい屋敷だ。ウィリアムに見出され拾われたモランも、表向きは使用人として厄介になっていた。
 見上げると、二階には明かりが灯っていた。ウィリアムもアルバートもまだ起きている。
 使用人用の通用口からそっと屋敷に入ると、ルイスに出くわした。戸締まりをして回っていたらしい。
 
「モランさん?」

 ルイスはきょとりと大きな目を瞬かせた。人より少し遅いばかり成長期を迎えてようやく体つきが大人びてきたと思っていたが、ふとした瞬間に見せる表情はまだまだ幼なげだ。
 夕食後にモランが屋敷を抜け出していくと、大抵の場合は翌朝まで戻らない。常よりも早い帰宅に訝しげな顔をしていたルイスだったが、モランが背中に子供を背負っているのに気付いてさっと顔色を変えた。

「その子は? 具合が悪そうですがまさかモランさん……」
「俺のせいじゃねぇって! ちょっと面倒な事があって……ウィリアムとアルバートはまだ起きてるな?」
「えぇ、先ほどお部屋に戻られたばかりなので」
「悪いが部屋貸してくれ。使用人部屋のどれかで構わないから……」
「一階のゲストルームの方が近いです。そちらへ運んでください。兄さんと兄様を呼んできます」

 ルイスはてきぱきとモランの手に鍵束を押し付けると、音もなく廊下を駆けていった。

 アルバートのそつのない立ち回りにより、この屋敷に外部の人間が招かれることは皆無と言っていい。このゲストルームが使われることもこれまでほぼ無かったはずであるが、室内は十分に掃除が行き届いていた。
 品の良い調度品には埃の一つもなく、ベッドには糊のきいたシーツがかけられている。働き者の末の弟には感服するばかりだった。
 ベッドに横たえた少年はまだうとうとと眠っているようだった。傷の具合を確認するため、モランは彼のジャケットを脱がせた。と、ポケットから先ほどのコインが転がり出る。モランはそれを拾ってサイドテーブルの上に置いた。
 やはり腕の引っかき傷は深くない。しかしそんな傷でも、あともう少し深ければ骨が見えるのではないかとさえ思えてしまうほどに痩せていた。先ほどの男たちに殴られた際に出来たであろう打撲もいくつがあったが、熱が下がるまで栄養のあるものを取らせて休ませるのが一番だろう。
 そうこうしている間に、ルイスがウィリアムとアルバートを連れて戻った。ウィリアムは救急箱を、ルイスは水差しとコップが載った盆を手にしている。

「お帰りモラン。その子が?」
「あぁ、悪ぃな……」
「大佐が珍しく善行をなそうとしているのだから、我々だって手を貸さないわけにはいきませんよ」
「そりゃどういう意味だアルバート!」

 兄たちが軽口を叩いている間にも、ルイスは段取り良く少年の傷口を検分し、救急箱から清潔なガーゼと消毒液を用意していた。
 すると、人の気配に気づいたのだろうか。少年がうっすらと目を開いた。まだ熱と眠気でぼんやりとしているようで、どこか視線が定まらない。

「……」
「大丈夫? まだ横になっていていいからね」
「熱もあるみたいですね」
「大佐、医者を呼んできてください。当家の名前を出せばすぐに来てくれます」

 アルバートは手帳に住所を書きつけると、そのページを破いてモランに渡した。その言葉を聞いて、少年ははっとしたように目を見開いてふらふらと身を起こした。

「……あの、ごめんなさい。大丈夫です。すぐに出ていきます」
「何言ってるの。寝ていないと」
「もう、平気です。お医者様を呼んでいただいても、お金が払えません。もう行かないと……」
「こんな夜中にどこへ行くんだい。お金の事は気にしなくていいから、休んでいきなさい。君の家には明朝連絡しよう」
「え、あの」
「起き上がる元気があるなら、先に着替えて何か食べた方がいいですね。準備してきます」
「着替えは僕が取ってくるよ、ルイス」
「ありがとうございます、兄さん」

 三兄弟から矢継ぎ早に畳み掛けられて、少年はベッドに押し戻された。彼に毛布を掛けてやりながら、アルバートは「早く行け」と言いたげにモランへ目配せした。
 廊下に出てから、モランは着替えを取りに二階へ上がろうとするウィリアムを呼び止めた。

「悪いな。厄介ごと持ち込んじまって」
「いいよ。モランが僕らを頼ってくれて嬉しい」

 彼が嫌な顔をするとは少しも考えていなかったが、その迷いのない答えにモランは表情を緩めた。

おつかい
 ルイスとフレッドが喧嘩と言えない程度の喧嘩をしてモランが話を聞いてあげる話。
 本編5年前くらい。



「どうして言った通りにしなかったんですか」

 廊下の向こうから咎めるような声がして、モランはぎくりとして足を止めた。
 燭台の明かりの中に、ルイスの姿が見える。
 こちらに背を向けているから、街で酒をひっかけてこっそりと裏口から帰宅したモランへの小言ではなさそうだ。その後も何か二言三言話していたが、内容はよく聞き取れない。
 近づいてみると、話し相手はフレッドだった。ルイスの肩越しにモランと目が合うと、彼はちょっと気まずそうに、ごく親しい間柄の人間にしかわからない程度に顔をしかめた。
 フレッドが自分の後ろを見ている事に気が付いて、ルイスもこちらを振り返る。
 その隙に、フレッドはルイスに黙礼してそそくさと去っていった。呼び止めようと口を開きかけたルイスだったが、結局はその場で小さく足踏みしたきり黙ってしまった。

「どうした、喧嘩でもしたか?」

 そう声を掛けると、ルイスはモランの方を軽く睨めつけながら「してません……」ともごもごと答えた。
 普段の彼であればさっさと屋敷の仕事に戻るところであったが、今は肩を落として立ち尽くしたままだった。彼の手には幾枚かのコインが握られている。

「……フレッドが何かやらかしたのか?」
「フレッドさんは悪くないです!」
 
 あえて踏み込んだ言い方をしてみると、間髪入れずに返事がかえってきた。先ほどのきつい物言いは彼にとっても本意ではなかったらしく、きまり悪そうに眉を下げた。
 これは聞いてやったほうが良さそうだ。そう判断して、モランはまだ明かりの灯っている居間に向けてルイスの背中を押した。

「……昼間、兄様たちの新しいスーツを仕立てるために仕立て屋が採寸をしに来ていたんです。その仕立て屋が帰ってしばらくしてから、結婚指輪を忘れていっているのに気が付いて……」

 場所を移すと、ルイスは堰を切ったように喋りだした。モランは戸棚からブランデーを取り出して、ちびちびと飲みながら彼の話に耳を傾けた。
 曰く、ルイスが床に転がっている指輪を見つけたのは、夕食もとうに終えた夜八時近くの事だった。
 作業の際に外したか、落としたかしたらしい。まだ連絡が無いということは、落としたことに気付いていないか探している最中なのだろう。
 貴重品であるし、夫婦間のいらぬもめ事の種になっては気の毒だ。すぐに届けてやらねばと思ったのだが、あいにくルイスにはまだ屋敷の仕事が残っていた。モランは夕食後から姿が見えなかったし、まさか兄たちにおつかいを頼むわけにもいかない。

「それで、フレッドさんにお願いする事にしたんです」

 つい最近使用人として迎えられたばかりの少年は、柔らかい布に包んだ指輪を受け取りながら「わかりました」と神妙に頷いた。
 フレッドの正確な年齢は、彼自身にも分からない。「十四……くらいです。多分」と本人が申告したので、皆そういうものとして受け入れている。
 けれど、もともとそういう体格であるのと、貧民街育ちで栄養が足りていなかったのとで、フレッドはひどく小柄だった。背伸びしてサバを読むような性格でもないのでおおよそ十四歳である事自体は誰も疑っていないのだが、見た目だけならまだほんの十歳程度なのだ。
 ルイスも子供の頃は小柄な方であったが、病から解放されてからはぐんぐんと順調に背を伸ばしている。使用人とはいえ、つむじが見えるほど小さな子どもを、日が暮れてからおつかいに出すのは少々申し訳ない気持ちになった。

「だから、フレッドさんに多めに馬車賃を渡しました。乗り合い馬車でスリが頻発していると新聞にありましたし、この間はウエスト・エンドの方で強盗騒ぎも……。『物騒なので、辻馬車を使ってくださいね』って言ったんです」
「あー……、何となくわかったぞ。フレッドの奴、歩いて帰ってきたのか」
「そうなんです!」

 ルイスは椅子からぐっと身を乗り出した。
 彼は当然、「夜遅くに一人で出歩くのは危ないから、辻馬車で屋敷から仕立て屋までを往復するように」と伝えたつもりだったのだ。
 しかしフレッドは、ルイスからのこの言葉を「大事な指輪を盗られないように、乗り合い馬車を使うのは避けよ」という意味で了解したのだろう。
 彼は言いつけ通り辻馬車を使って仕立て屋へ向かったが、帰りは盗られるものも持っていないのだから辻馬車を使う必要は無いと考えた。運賃の安い乗り合い馬車の最終便に飛び乗り、あとは道のりの大半を歩いて帰ってきたらしい。

「辻馬車で直行すれば往復で一時間もかからないはずなのに、十時になっても帰ってこなくて……。兄さんたちに報告して探しに行くべきか迷っていたら、ついさっき、やっと帰ってきたんです」
「それで、本人はけろっとした顔で釣り銭を返してくるもんだからついキツい言い方をしちまった、と」
「はい……」

 ルイスはしおしおとうなだれた。

「往復の馬車賃くらい、僕がアルバート兄様から任せてもらっているお金の範囲内です。兄様だって、決して無駄なお金とは考えたりなさらないはずです」

 それはモランも同意見であった。アルバートが使用人のための必要経費を惜しむとは到底思えない。
 しかしそれはこのモリアーティ家が少々特殊だからであって、普通の貴族家であれば、卑しい出自の使用人の扱いなど知れている。夜中であろうと叩き起こされ「今から歩いて行ってこい」と放り出されることもざらにあるだろう。
 自分の正確な年齢すら把握していない子供が、貧民街でろくな生活を送っていなかった事など想像に難くない。未だこの屋敷の生活に慣れないフレッドには、ルイスが馬車賃を多めに持たせてくれた理由など想像もつかないのだった。

「……モランさん、フレッドさんの様子を見てきてくれませんか」

 ルイスがいつになくしおらしくそう頼んできた。
 モランはグラスを傾けながら考える。ルイスとて、貧民街の生まれだ。フレッドのその感覚が理解できてしまうからこそ、もどかしいのだろう。

「フレッドさんがそこまで弱くない事はわかっています。彼の運動能力は素晴らしいと、あのジャック先生も褒めていらっしゃいましたから。きっと強盗にだって負けないでしょう。それでも、自分より年下の子を心配するのは当たり前のことではないですか。何かあってはいけないと思ったから、僕は……」
「ふっ、クク……」
「な、何で笑うんですか」
「いや、それとよく似た言い分をウィリアムやアルバートから散々聞かされたもんだからな。『ルイスにはまだ早い』『一人で行かせるのは心配だ』ってよ」
「う……」
「そういう時、お前の兄貴たちはどうした?」
「僕が納得できるまで、理由を説明してくれました……」
「なら、お前もそうすべきじゃねぇのか?」
「…………」
「なに、あいつだって、お前にちょっと怒られたくらいでしくしく泣いてるようなタマじゃねぇよ。むしろお前と同じで、素直に見えて実は頑固で我が強い。ちゃんと言って聞かせてやれ」
「……そう、ですね。モランさんの言う通りです。行ってきます」
「おう」

 ルイスはすっくと立ち上がった。
 去り際にはいつもの調子を取り戻して、「今日はこれでおしまいですよ」とブランデーの瓶を取り上げて戸棚に戻していった。
 これならば心配することもないだろう。モランはグラスに残ったブランデーを喉の奥に流し込んだ。


※※※※※


「……ってな事があったんだ」

 明くる日、モランは昨夜と同じ居間のソファに腰掛けながら、アルバートとウィリアムに昨晩の出来事を語って聞かせた。
 二人は顔を見合わせて、くすくすと笑いあった。

「そうだったの。ルイスがそんな事を」
「フフ、これであの子も私たちの気持ちをわかってくれたかな」
「朝食の時にはぎくしゃくした様子もありませんでしたし、きっとうまく仲直りできたんでしょう。モラン、取り持ってくれてありがとう」

 ウィリアムからの素直な感謝の言葉に、モランはくすぐったい気持ちになった。彼への個人的な忠誠心とは別としても、こうして彼らの助けになれることは嬉しいのだ。
 モランがテーブルから紅茶のカップを手に取ったタイミングを見計らって、長兄が口を開く。

「……しかし、この話にはもっと根本的な問題があると思わないかね? 大佐」
「ん?」
「ルイスもフレッドも優しいから、あえて何も言わなかったみたいだけど……ね?」
「あ、えーっと……」

 アルバートから不穏な問いが投げかけられる。
 雲行きが怪しくなってきたことを察知してモランは腰を上げかけたが、ウィリアムからすかさず追撃が入り、逃亡のチャンスを逸した。
 アルバートは優雅に脚を組み直し、さらに畳み掛ける。

「そもそも大佐が遅くまで飲み歩いてさえいなければ、フレッドが夜中に一人で出歩く必要も、ルイスが余計な気を揉むこともなかったのだよ。大佐が行ってくれば済む話だったのだから。二人にいらぬ苦労をかけて、年長者として何も思うところはないのかね? これを機に生活態度を改めたまえ」
「僕としても、いざという時に大人のモランがいてくれた方が安心かな」
「ぐっ……わーったよ、しばらくは控える!」
「『しばらく』? まったく反省の色が見えないな。頻度の話をしているのではないのだよ。だいたい……」

 滔々とお説教は続いた。
 さらにはウィリアムが「そうですね」「兄さんの言う通り」と絶妙なタイミングで合いの手を入れるので、モランも逃げるに逃げられない。
 と、そんな居間の様子をドアの隙間から覗き見する人影があるのに、ウィリアムは気がついた。ルイスとフレッドだ。
 モランが自分のせいで主人から叱られているとでも思っているのだろうか、フレッドはおろおろとこちらの様子を伺っている。
 そんな彼の肩を、ルイスがぽんぽんと叩いて何事か囁きかけた。内容まではウィリアムの耳まで届かなかったけれど、その呆れたような表情からして「放っておいて仕事に戻りましょう」とでも言ったのだろう。
 フレッドはもう一度室内に視線をやったが、結局はルイスの後について廊下の向こうへ消えていった。
 これは兄貴分としての威厳が失墜する日もそう遠くないな。ウィリアムは苦笑した。

初出:Pixiv 2022.02.06

expand_less